全国の城(香川2)

高松城

高松城 艮(うしとら)櫓

所在  香川県高松市玉藻町2番1号    (地図)
説明    高松城は、別名「玉藻(たまも)城とも呼ばれています。その由来は万葉集で柿本人麻が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、この辺りの海が玉藻の海と呼ばれていることによるといわれています。
天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、現在地に翌天正16年(1588)から約3年の歳月を費やし完成させました。城の縄張りを行ったのは、当時築城に権威のあった黒田孝高(如水)とも、細川忠興とも言われています。
この高松城は水城の一つで、昔から「讃洲さぬきの高松様の城が見えます波の上」と謡われていました。生駒家が4代54年と、寛永19年(1642)、常陸国下館から松平頼重(水戸光圀の兄)が封ぜられて以来、明治に至るまで松平家11代228年の居城として、讃岐の政治、経済、文化の中心地となりました。
城跡は昭和29年1月16日、松平公益社から高松市が譲り受け、翌30年5月5日、『玉藻公園』として一般市民に開放されました。
また彦根城と姉妹城縁組をしています。これは、井伊大老の次女、千代姫が第11代高松城主松平頼聡の奥方として輿入れしたことから、昭和41年8月15日に結ばれたものです。
(現地説明板/玉藻公園パンフ/名城をゆく)参照

旭橋と旭門
平成19年2月10日、11日の四国の城を巡る旅もいよいよ終盤となりました。
宇和島城を見終え、高松自動車道を使って讃岐の高松へと車を走らせました。
城のすぐ北側は瀬戸内海で、この城が『水城』『海城』であった事が良く分かります。かつてこの辺りの海は、“玉藻の浦”と呼ばれていました。
高松城の別名「玉藻城」も、万葉集に使われていたこのまくら言葉の「たまも」から来ているなんて、なかなか風流ですよね!(^。^)

艮(うしとら)櫓
城の東南方向にある、玉藻公園駐車場に車を停めて旭橋が架かっている東入口から入って行きますと、最初に目に付くのがこの「艮(うしとら)櫓」です。
この「艮櫓」は延宝5年(1677)の完成で、もともと東の丸の北東隅、鬼門の方角である丑寅(北東)にあったものを、昭和42年に旧太鼓櫓跡に移築されました。

桜御門跡
桜の時期には花見の客で賑わう「桜の馬場」を抜けると、「桜御門跡」に出ます。惜しい事に昭和20年の高松空襲により、御門は焼失しました。広島城の石垣と同じように、ここの石垣や礎石にも焼けた跡がみられるそうです。
日本の大切な文化財の多くが、戦争により無残にも失われた事は、本当に残念で仕方ありません。

披雲閣
桜御門を抜けると「披雲閣」と言う建物があります。
披雲閣は、松平時代に藩の政庁及び藩主の住居として使われていたのですが、明治5年(1872)に老朽化のため取り壊され、その後大正6年(1917)に、現在の披雲閣が再建されました。建物の中は、142畳敷の大書院や色々な部屋があり、昭和天皇・皇后両陛下も宿泊されたそうです。
現在は市民への貸会場などに利用されています。
私達は中には入らずに帰りましたが、時間があれば見てみたかったですね(^。^)

三の丸庭園(内苑御庭)
披雲閣の裏手には三の丸庭園(内苑御庭)があります。
大正5年頃に作られた枯山水の庭で、江戸時代の三尊石や重さ11トンの手水鉢などがあり、後の昭和天皇・皇后両陛下が大正時代に植えられた、「お手植えの松」などがあります。
でも、ほとんど素通りしてしまいましたけどね(笑)(^^ゞ

水門
水門は「三の丸庭園」と「二の丸」との間にあり、内堀と瀬戸内海の水位の調整を行っていました。
高松城はかつては直接瀬戸内海に面していましたが、現在は城と海の間に、道路〔水城(みずき)通り〕が走っています。

鞘橋
本丸と二の丸をつないでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋でした。
江戸時代中期末頃にこのような屋根つきの橋になったそうです。
現在本丸跡を発掘調査中で、私が訪ねた時は橋も通行止めとなっていて、橋を渡って本丸へは行けなくなっていました。
現地の立看板によると、石垣発掘工事期間は「平成18年11月1日〜平成19年3月29日」と書いてありました(^^ゞ

月見櫓(右)と水手御門(中央)、渡櫓(左)
「艮櫓」と同じ昭和25年8月に重要文化財に指定されている、「月見櫓」と「水手御門」「渡櫓」です。月見櫓は新曲輪の隅櫓として、延宝4年(1676)頃に完成したと言われています。出入りする船を監視する役割を果たすとともに、藩主が江戸から船で帰ってくるのをこの櫓から望み見ていたので、「着見櫓」とも言われているそうです。
水手御門は「海の大手門」にあたります(^。^)

本丸石垣と鞘橋
最後に本丸と鞘橋の写真を・・・ヽ(^。^)ノ
「二の丸」と「本丸」はこの鞘橋で繋がっているのですが、かつては本丸周辺はすべて堀となっていたので、この橋を切り落とすと本丸は完全な浮城となり、籠城出来るようになっていました。
今回本丸跡に入れなかったのは残念ですが、今後の発掘結果がとても気になりますね(^。^)



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