全国の城(岐阜1)
曽根城

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曽根城は、揖斐川の支流平野井川の湾曲部を利用して築かれた平城である。創建は室町時代末期に稲葉通富によってなされ、以降稲葉氏の勢力拡大の拠点であった。なかでも稲葉良通(一鉄)は、西美濃三人衆にも数えられるほどのすぐれた武将で、織田信長、豊臣秀吉に仕えて数々の戦功をたてた。天正16年(1588)西尾光教が、稲葉氏にかわって曽根城主となるが、関ヶ原合戦後、揖斐城に移り廃城となった。享保19年(1734)良通(一鉄)が、生母の菩提を弔うために建てた華渓寺が現在の地(本丸跡)に移建された。(華渓寺にある説明板より) |
![]() 「華渓寺本堂」 |
稲葉氏が郡上八幡に移封された後の西尾光教は、初め氏家卜全の家臣で多芸(たぎ)郡(養老郡)野口郷に住んでいましたが、斎藤氏没落後、信長・秀吉に仕えて曽根城を与えられました。秀吉が卒してのちは、徳川家康に親近し、近衛家とも姻を結びました。関ヶ原の合戦には東軍に属し、大垣城を攻略する武勲をあげ、戦後、功によって1万石を加増され、揖斐城に移されました。 (日本城郭大系より) 西尾光教の先祖は丹波の青鬼? 籾井城のページ→全国の城(兵庫28)籾井城 |
![]() 「華渓寺の鐘楼」 |
西尾氏の揖斐転封により曽根城は廃城となり、城址は開墾されて田園となりましたが、享保19年(1734)には、それまで曽根村堤外にあった臨済宗曹源山華渓寺を旧本丸跡に移しました。したがって現在でも曽根城の大部分は華渓寺の境内となっており、一部は開墾されて田畑となっています。境内が他の土地よりも1mほど高くなっているのは、旧本丸の跡をそのままいかした事を物語っています。 (日本城郭大系より) |
![]() 「曽根城の石垣」 |
平成元年4月の発掘調査の結果、本丸に伴うと思われる石垣と石敷遺構が発見されました。石垣は、赤坂金生山から産する石灰岩の自然石を並べ、石敷遺構とあわせて郭を形成しています。さらにその内側にも主郭を囲んだ土塁と石垣が推測されています。石垣の年代は、出土品などから、稲葉一鉄時代(1525〜1579)と推定でき、岐阜・千畳敷織田信長居館跡に次ぐものとして注目される重要な城館跡で、将来にわたり大切に保存するため埋め戻し、公園整備として地上復元を行いました。大垣市教育委員会 (現地説明板より) |
![]() 梁川星巌と妻・紅蘭の像 |
華渓寺の裏の広場には、幕末の勤皇家梁川星巌の銅像が建っています。 星巌は大垣市の生まれで、維新の勤皇の士もあり詩人でもありました。 |
![]() 曽根城公園にある「大池」 |
大池の畔には毎年6月になると、花菖蒲が咲き乱れます。 |
![]() 曽根城公園の花菖蒲 |
今年(18年)は、6月3日現在まだ蕾のものが多く、見頃は6月中旬になりそうです(^。^) しかし年々花菖蒲の株数は減っているとの事です。 |
![]() 華渓寺(曽根城)にある「庚申像」 |
中国の教えでは、人の体内にいる三戸(さんし)の虫が庚申の日の夜、天帝にその人の罪過を告げるので、寿命が縮むと言います。そのため。庚申の夜には、言行を慎み、健康長寿を祈念しましたが、室町時代以降、仏教的要素が加わり、庚申待ちをする講が流行し、各地に庚申塔(像)あ建立されるようになりました。この庚申像は、寛政12年(1800)梁川星巌(やながわせいがん)が両親を亡くした12歳のおり、曽根村の辻に祀った石像です。 (現地説明案内より) |
![]() ハリヨの池 |
曹源山華渓禅寺のそばにある「ハリヨの池」です。 このハリヨの池には淡水魚のハリヨ(トビウオ科)が棲息しています。ハリヨは水温が13〜18℃の湧水などの美しい水にしか住みません。背びれに3本、腹びれに2本、しりびれに1本の合計6本のとげを持った魚です。オスは「ジグザグダンス」と言う踊りをしてメスを探します。またオスは子供が一人立ち出来るまで一生懸命子供を守り死んでいくそうです。ハリヨの捕獲は条例により禁止されています。 |
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![]() 関ヶ原ウォークランド |
お昼は関ヶ原まで戻り、「関ヶ原ウォークランド」のそばにある店で豪華料理を食べました(笑) 関ヶ原ウォークランドは、関ヶ原の合戦の模様を人形などを使って再現しています。 |
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土産物売り場にあった日本酒「女城主」と「関ヶ原」。 「女城主」とはもちろん岩村城主で、信長の叔母のおつやの事で秋山信友との話は有名ですね。 酒が飲めれば買って帰ったのですが、今回も眺めるだけにしました。(笑) 訪問日:平成18年6月3日 |
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