全国の城(静岡1)

山中城
山中城の障子堀

山中城全体図

所在 静岡県三島市山中新田    (地図) 
説明 山中城は小田原の北条氏が、永録年間(1558〜1570)に築城したと伝えられる、戦国末期の山城です。箱根山西麓の標高580mに位置し、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として、極めて重要な役目の城でした。豊臣秀吉と不仲になった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、急遽岱崎(だいさき)出丸や堀を整備・増築しました。しかし、翌天正18年(1590)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は僅か4千で必死の防戦の甲斐なく、鉄砲と圧倒的兵力の豊臣軍の前に、わずか半日で落城したと伝えられています。
岱崎出丸で討死したこの時の城将・松田康長や、副将・間宮康俊、豊臣方の一柳直末ら武将の墓が、三の丸にある宗閑寺境内にあります。
山中城は石垣を使っていない珍しい山城で、堀や土塁が良く残っており、発掘調査を基に、400年前の遺構を忠実に環境整備、現状保存されています。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害すると言う、北条流築城術の特徴を示すものとして注目を浴びています。
戦国期の山城の全貌をここまでしっかり伝えている遺構は他には無い、と言っても過言ではないでしょうね。
小田原駅から小田原城を見る 訪問したのは、平成18年4月9日(日)です。
実は前日8日から箱根湯本に於いて、一泊二日の社内旅行が取り行われ、せっかく箱根まで来たんだからそのついでに山中城に行ってみようと決心し、翌日解散となった後、バスを乗り継ぎ、箱根の山越えをして山中城まで行く事にしました。
【写真は小田原駅ホームから見た小田原城です】
小田急ロマンスカー 小田原から箱根湯元までは、小田急に乗って行きました。途中、小田原蒲鉾で有名な「鈴寅」の店を横目に見ながら登山鉄道は箱根湯本を目指して進んでいきますヽ(^o^)丿
箱根登山バス乗り場 箱根湯本駅に到着すると、宿泊先の「ホテル河鹿荘」までは徒歩5分ほどでした。翌日9日は早々にホテルで朝食をすまし、8時過ぎには旅館のすぐそばにあるバス停から、伊豆観光の箱根登山バスに乗りました。
箱根神社の鳥居 箱根の急坂を登山バスに身体を揺られ、約30分乗って行きますと、「元箱根港バス停」に着きました。
この「元箱根港バス停」で、既に待機していた三島駅行きの路線バスに乗り換えます。
【写真は箱根神社の鳥居】
箱根旧街道の石畳 箱根山の下りカーブを幾つか抜けると20分ほどで「山中城跡バス停」に着きました。時間はまだ午前9時です(^^♪
昨夜の宴会の疲れもあったので(笑)、午前中には城めぐりを済まして、早めに家に帰るつもりで旅館を出たのですが、思ったよりは早く目的地に着いたので先ずは一安心です(^_^)v
…さて、出発するか・・・
おっと、その前にバス停で帰りの時刻表を確かめておきます。バス便は1時間に一本しかありません。帰りの時間は2時間後の11時と決めて出発しました!\(^o^)
城址の真ん中を突き抜けているR 1号線沿いに売店があり、そのすぐそばには箱根旧街道が通っています。
この箱根旧街道の石畳は、延宝8年(1680)に初めて敷かれ、文久2年(1862)に大改修が行われたそうです。
岱崎出丸への最初の曲輪 見学順序としては、上記パンフレットにもある「戦国山城探訪コース(約2時間)とほぼ同じコースとなりました(^^♪
写真は「御馬場曲輪」へと続く曲輪跡と、右奥の森の辺りが南櫓になります。
御馬場曲輪跡 ☆この日の見学コース
バス停(駐車場)箱根旧街道石畳岱崎出丸(御馬場曲輪、畝掘、すり鉢曲輪、武者溜り跡)三ノ丸堀田尻の池箱井戸二ノ丸門二ノ丸二ノ丸橋元西櫓→西ノ丸畝掘・障子堀西櫓西木戸外周道路溜池北ノ丸本丸北橋天守台本丸天然記念物(矢立の杉、駒形諏訪神社の大カシ)兵糧庫本丸西橋二ノ丸箱井戸宗閑寺(北条・豊臣武将の墓)バス停(駐車場)(^_-)-☆
【写真は「岱崎出丸」に繋がる「御馬場曲輪跡」です】
出丸御馬場堀 「御馬場曲輪」と「岱崎出丸」との間にある「出丸御馬場堀」です。
堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西ノ丸堀と同様の畝掘であったと考えられています。畝の高さは堀底から約2m、頂部の幅0.6mで、馬の背のように丸みを帯びています。畝の傾斜度は50〜60度の急峻な造りで、平均の堀底幅は約2m、曲輪までの高さは平均9mにも及びます。
構築途中の曲輪跡 写真は「構築途中の曲輪跡」です。尾根を削り、成形しながら、ここに曲輪を構築しようとした跡が発掘調査により明らかになりました。しかし時間的に間に合わず、工事の途中で戦闘に突入したものと考えられています。その当時の慌しさが思い浮かびます。

この時の岱崎出丸への豊臣方攻撃陣は、中村一氏、一柳直末、山内一豊などでした。
一方、城方は間宮康俊率いる120名がすり鉢曲輪に陣取り、ここを先途と奮戦しました。
岱先出丸「一の堀」 写真は岱先出丸「一の堀」です。
この堀は「すり鉢曲輪」から西側の中腹を、箱根旧街道の空堀まで続いています。
堀底から曲輪の土塁まで、斜距離18〜20mに及ぶ急勾配になっています。すごいですね!
すり鉢曲輪見張台跡 「すり鉢曲輪見張台跡」です。出丸の先端に位置するこの見張り台は、土塁の一角を拡げて土塁と見張台が兼用になっています。
ここからの眺めは最高で、三島・沼津方面から、韮崎城まで一望できるそうです。堀底から見張台までの高さは8m以上あるんですよ。
すり鉢曲輪 「すり鉢曲輪」です。山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪です。
中央部が凹型になっていて防戦しやすく、且つ、敵が攻め入った時は高所からの攻撃を可能にしたと思われます。
岱崎出丸 写真は「岱崎出丸」です。
豊臣方の中村隊の先鋒を指揮していた渡辺勘兵衛が、岱先出丸への侵入に成功したのをきっかけに、総攻撃命令が下ります。しかし中村隊の攻勢は一向に進展せず、一柳隊がこれに焦り、大手への突撃を開始したのですが、大将の直末が岱崎出丸で鉄砲により討死してしまいます。
この出丸を守った間宮豊前守康俊以下の将兵も壮絶な戦いを繰り広げ、全員が討死したと伝えられています。
武者溜り跡 写真は「武者溜り跡」です。
武者溜り跡は、すり鉢曲輪の虎口とも繋がっており、防備の為のものだったと考えられます。
すり鉢曲輪内から、見張台を見る すり鉢曲輪内から、見張台を見た所です。

岱崎出丸の戦いで戦死した一柳直末、間宮康俊の墓は、三ノ丸にある宗閑寺に、敵味方関係なく建てられており、今はひっそりと歴史の流れを見守っています。
城址入り口 岱崎出丸を見たあと、一旦国道沿いの城址公園入り口まで戻ってきました。
さて次に行くのは、写真奥方向に見える、三ノ丸、二ノ丸、本丸、北ノ丸、西ノ丸などの主郭部分です♪
加えて、最大の見所である二重の障子堀もこれから見に行く事としましょう(^^♪


ここで・・・ちょっと一服(^^♪

三ノ丸堀 写真は「三ノ丸堀」です。三ノ丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走っています。三ノ丸堀は、自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重掘としています。
この堀の特徴は、中央の畝を境にして、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していました。                                     
田尻の池 写真の「田尻の池」と東側の「箱井戸」とは、一面の湿地帯でしたが、山中城築城時に盛土(土塁)によって区切られました。この「田尻の池」は馬の飲料水などに用いられたものと推測されています。
「元西櫓」下の堀 「元西櫓下の堀」です。
ここは堀底に近いのですが、400年前はローム層が露出し、もっと急斜面だったそうです。
西ノ丸畝掘 写真は「西ノ丸畝掘」です。木の影で畝が見づらいかもしれませんが、5本の畝で仕切られています。
西ノ丸に敵が侵入するのを防ぐ為に造られました。畝の高さは堀底から約2mあります。更に西ノ丸の曲輪に入るには9m近くもよじ登らなければなりません(^_^;)
障子堀 いよいよやって来ました!♪
後北条氏の城の特徴である、「西ノ丸」と「西櫓」の間にある「障子堀」です。山中城最大の見所の一つでもあります。

いつも思うのですが、どことなくワッフルのように見えませんか?(笑)ヽ(^。^)ノ
西櫓(角馬出) 「西櫓(角馬出)」です。
西ノ丸から障子掘を超えて前方に突き出たこの西櫓を四角に造り、それに沿って土塁と堀を巡らしています。
障子掘2 障子堀を角度を変えてもう一度♪
畝により障子の桟のように区画された堀ですが、中央の区画には水が湧き出していて、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっています。このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造となっています。
障子掘3 岱崎出丸の攻略に手間取っていた中村隊が圧倒的な兵力で突入に成功する少し前、徳川隊はこの「西櫓」と「西ノ丸」の攻略に取り掛かっていました。徳川隊は西側斜面を移動しながら一挙に「西ノ丸」に突入し、「元西櫓」〜「二ノ丸」へと攻め入ったのです。
西木戸の城址碑 西木戸にある城址碑と富士山。
西櫓の周りは今は周辺通路になっている帯曲輪が取巻いています。その途中にこの城址碑があります。
またここからの富士山はとても綺麗に見えます。西木戸から見た富士山
溜池跡 「溜池跡」です。
山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものです。この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、西ノ丸の排水や、元西櫓の排水なども流入する仕組みになっていました。調査で深さ4m以上発掘したそうですが、それでも地底には達しなかったそうです。
ミツバツツジ 途中、ミツバツツジの花に出会いました。
葉が枝先に3枚づつつくのでこの名前はついているそうです。毎年この時期、赤紫色の鮮やかな花を咲かせます。
散策途中のホッとする瞬間です(^_-)
元西櫓 写真は「元西櫓」です。
西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い堀で囲まれています。当初、名称がが伝わらない為に、「無名曲輪」と称しましたが、調査結果から「元西櫓」と命名されました。
本丸堀 「本丸堀」です。
堀の中にわずかですが畝が見えます。竪堀に近い坂になった堀に数ヶ所の畝を作ることによって、用水の確保にも役立てていたのでしょう。
北ノ丸 写真は「北ノ丸」です。結構広い曲輪です。
本丸の北側に位置し、「本丸」及び「天守台」とは、深い堀(本丸堀)で仕切られています。
「架橋」(本丸北橋) 復元された「架橋」(本丸北橋)です。発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになりました。木製の橋は土橋と比べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によっては、橋を破壊し堀を渡れなくして、曲輪の防御につとめました。
本丸 こちらが「本丸」になります。
標高578m、面積1,740u、天守櫓(天守台)とともに山中城の中心となる曲輪です。虎口は南側にあり、北は天守閣と北ノ丸、西は北条丸へと続きます。
天守櫓跡 「天守櫓跡」です。
山中城で一番の高地に位置しています。天守は一段高い基壇(天守台)の上に建てられていました。天守台には、井楼、高櫓が建てられていたものと推測されています。

岱崎出丸を攻略し三ノ丸から攻め寄せてくる中村隊。一方西櫓、西ノ丸、二ノ丸から攻め寄せて来る徳川隊に挟まれ、城将松田康長は、北条氏長を本丸東手から城外へ逃すと、残兵200と本丸に立て籠もり最後の戦いを挑みました。
朝から始まった山中城攻撃は、この日の昼12時頃には松田康長の斬死によりほぼ決着がつきました。
兵糧庫跡 「兵糧庫跡」です。
古くから、「兵糧庫」とか「弾薬庫」と称されていた場所です。
中央に幅50cm、深さ20cmの排水溝があったそうで、東西二つの区画に区切られており、西側の区画からは柱穴や礎石も発見されています。
東側の区画からは不整形な穴が数ヶ所発見され、本丸寄りの穴からは、甲冑片なども出土したそうです。
本丸堀 本丸と二ノ丸との間にある「本丸堀」です。南北に二分された本丸堀の南側に位置する箱掘からは、甲のしころが出土したそうです。この堀は畝により八区画に分けられ、途中屈折して「箱井戸」の堀へ続いています。
本丸西橋 「本丸西橋」です。
本丸から二ノ丸(写真奥)へ架かる橋で、手前半分は土橋、向こう半分は木橋となっています。いざと言うときは向こう半分の木橋を堀に落とし、本丸への侵入を防ぐ事が出来るようになっています。
二ノ丸虎口の架橋 二ノ丸虎口の架橋です。
山中城最大の曲輪二ノ丸への入り口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を登ってこの正面の大土塁に突き当たり、右折して曲輪に入るようになっていました。
二ノ丸虎口から見た大手道 二ノ丸虎口から見た大手道。
このような土塁囲みの屈曲したスロープは、後北条氏後期の築城の特徴だそうです。
箱井戸 「箱井戸」です。隣接した「田尻の池」とは土塁によって分離されていて、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことによって、水の腐敗や鉄分の変色を防いでいました。
これらの事から、箱井戸は飲料水として使われ、田尻の池は洗い場や馬の水飲み場として利用されていたと思われています。
宗閑寺 三ノ丸にある「宗閑寺」です。
東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺です。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女、お久の方と伝えられています。
武将達の墓 ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将達の石碑がひっそりと佇んでいて、城将の松田康長の他、長谷川近秀、朝倉元春、間宮康俊、同信俊、同信冬、同信重、多米長定、迫沼氏雅、一柳直末らの墓があります。
芝切地蔵 「芝切地蔵」
宗閑寺を出た通り(箱根旧街道)沿いに、「芝切地蔵」があります。
その昔、山中新田の旅籠に巡礼姿の旅人が泊まった折、急に腹痛に襲われ世を去りました。この旅人が死ぬ間際に「私を地蔵尊として祀って下さい。そして芝塚を積んで、私の故郷の相撲が見えるようにしてください。そうすれば村人の健康を守ってあげます」と言い残したそうです。そして村人は言われたとおり、地蔵尊を祀り、毎年7月19日を縁日として供養するようになりました。それにあわせて、「小麦まんじゅう」を作り、参拝に来た親戚の者を接待しましたが、その味が大そう良かったので有名になり、一般の参拝者にも売られるようになりました。この祭りには江戸時代、沼津方面からも大勢の参拝人が集まり、さい銭と良く売れた小麦まんじゅうのお陰で、一年間の村の費用がまかなえたと言われています。      ((現地説明板より)                
『参考図書等』
三島市観光協会発行山中城パンフレット
日本城郭大系(静岡、愛知、岐阜)
戦国の堅城・現地説明板 他

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