全国の城(兵庫28)
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籾井城

籾井城登城口案内板

所在 兵庫県篠山市福住
歴史 (現地案内板より)
後ろの山上に籾井氏の城跡があり、福住城・安田城とも呼ばれています。天正年間(1573〜92)の初期に八田城主籾井越中守教業(のりなり)が築いて拠所とした山城です。彼は豪勇の武将で波多野秀治に属し、明智光秀を撃退し続けましたので、「丹波の青鬼」と恐れられました。
しかし、天正5年11月ごろに本明谷川付近での激戦敗れて自害し、落城しました。
本丸は広く「籾城(じんじょう)公園」の碑が建ち、二の丸・三の丸や堀切等もよく残っています。
籾井城遠望 籾井城の麓道
福住の集落の北方、城山・白尾山(390m)に籾井城跡があります。
安田城・福住城とも呼ばれており『籾井家日記』や『織田軍記』によると天正年間(1573〜92)の初めに
籾井越中守教業が築いたと言われています。
籾井家子孫が伝える、『福泉・系図并由緒書』によると、籾井河内守照綱が永正年間(1504〜21)に築城。
嫡男・右近太夫綱重が後を継ぎ、落城時は下野守綱利で25歳であったと言います。
綱重は逃れて、綱利の子を連れ京都に上り、子孫は福泉と称し代々藤堂家に仕えたと言われます。
頂上の本丸跡は約600uで、本郷房太郎大将筆の籾井公園の碑が建っています。
大手は南西の安田から登るところ、搦手は菩提所の本休寺(元・金林寺)あたりです。
〔「丹波篠山 五十三次 ふるさとの探訪」参照〕
籾井城への登城道 ここから登って行きます(^。^)
ちょっと一服…福住の史跡を守る会の説明板より
〜“白馬の半左衛門”の話〜
江戸時代の中頃、福住に白井半左衛門という庄屋さんがおりました。頭もよく気が強く正直な人でした。そのため、自分が良いと思った事は誰にも相談せず。すぐ実行する人でした。その頃、天候が悪く米が出来ず。農民は何度も強訴を起こすほどでした。半左衛門は、枕木川の上流から溝を掘って、福住の家々の前を流す工事を始めました。もしも火事の時は消火の役に立つし、色々便利だと考えたからです。ところがそれを知った大庄屋は上役にも相談せず勝手な事をしたというので、篠山藩へ訴えました。藩では、大庄屋をないがしろにする事は、つまり藩を恐れぬものだと言う事になり、奉行所の判定で半左衛門に死罪を申し渡しました。
刑場に立った半左衛門は、「村人たちのために喜んでもらえると思ってしたことが、こうなれば仕方がない。しかし我が一念は今に見ておれ、災害のあったときに思い知るであろう。」といって享保16年(1731)12月25日に打ち首の刑に処せられました。
半左衛門がいったとおり、それから17年後、寛延元年(1748)7月に大火が起こり、福住の町52軒が次々に焼けていきました。その猛火の中に白馬にまたがった半左衛門を見たと言う人が何人もあり、大騒ぎになりました。そこで町の人たちが相談して、半左衛門の供養塔を建て、その霊を慰めることになりました。
しかし、それから51年後、9軒が焼け、さらに10年後(文化6年)には83軒、町中が全焼するという災害が起こり、明治14年にもまた大火がありました。
町の人々は禅昌寺の境内にある供養塔に四季の花を供え、今もいましめあって火の用心に努めています。
禅昌寺 籾井城跡登山道案内マップ
“遠くは美濃国の西尾氏と、深い繋がりのある籾井氏”
美濃に西尾豊後守光教と言う戦国武将がいました。彼は氏家ト全に率いられ、斉藤利三(または道三とも?)に仕え、さらに織田信長、豊臣秀吉に仕え、美濃の曾根城主となり2万石を領しました。関ヶ原の戦いでは家康に従い、郡上城を攻め、大垣城の福原長堯を追い落とし、揖斐城を築いて3万石を領した武将でした。近衛家とも姻戚関係にあり大坂冬・夏の陣でも功を立てました。
この西尾光教の祖父は籾井兵庫頭光秀と言い、籾井光秀は最初三河に居て美濃に移り、隣国を討ち従え曾根城を築きました。
籾井光秀には男子がなく、丹波国の住人籾井越後守藤原光長の長男を貰いうけ、家を譲りました。
これが籾井信光で、西尾光教の父にあたります。
遠く美濃の国で、この丹波出身の籾井氏の子孫が活躍していたのですね!ヽ(^o^)丿
思わぬ発見にちょっと驚かされました。
「丹波の赤鬼」は黒井城主の赤井直正、そして「丹波の青鬼」と呼ばれているのが籾井城主の籾井越中守教業です。
以前から、この籾井城に行きたくて、平成16年11月13日の土曜日にようやく篠山市福住を訪ねる事が出来ました。
城の大体の場所は分かっていたのですが、果たしてどの山が城跡なのか分からず、福住中学校の正面にある
(昔は造り酒屋かな?と思われる)お家のご主人に、城址への行き方を訊ねる事にしました。
ご主人は、ちょうど採り入れたばかりの黒枝豆を束ねている最中でしたが、ご親切にも道路まで出てきて
籾井城への道順を教えて下さいました。
この日は山上には登らなかったのですが、縄張図を見てみると堀切が6〜7ヶ所あり、土橋も設けられているようです。