全国の城(愛知3)

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国宝犬山城。別名を白帝城と言います。現存する天守の中で最も古いとされています。犬山城は成瀬家の個人所有でしたが、平成16年4月、財団法人「犬山城白帝文庫」所有となりました。
犬山城(白帝城)

所在
愛知県犬山市大字犬山

歴代城主
織田信康〜織田信清〜池田信輝〜中川定成〜野田信房〜織田信雄(属城)〜石川光吉〜小笠原吉次〜平岩親吉〜成瀬正成(以降、成瀬家が明治まで続く)





『歴史』
犬山城の創築は諸説あるようですが、一般的には天文6年(1537)織田信長の叔父信康が、木曽川南岸の三光寺山(三狐尾寺山)に平山城を築いたのが始まりとされています。尚、これを遡る文明元年(1469)、室町幕府管領・斯波義郷の家臣、織田広近が、木曽川にそった台地上に築城し、信康の時に断崖の丘陵上に本丸を移築したとも言われています。そして信康の子・信清の時、織田信長に攻められて落城しました。
その後、城主は何代か代わり、文禄4年(1595)石川備前守光吉が入り、慶長4年(1599)城を改修し、天守を造りました。しかし光吉は関ヶ原の戦いで西軍に属したため、犬山城は東軍に攻略され、慶長5年(1600)に小笠原和泉守吉次が入城しました。慶長12年(1607)家康の十男義直が清洲に入り、その家臣の平岩親吉が犬山城主となりました。

元和4年(1618)に尾張徳川藩の家老格であった成瀬正成が3万5千石で入封。以降世襲して明治に至りました。
天守南東の切妻付櫓。天守の入口が敵兵に破られそうになった時、側面から攻撃を加える事が出来るように作られています。
『白帝城の由来』
犬山城は別名白帝城と言います。
江戸時代の儒者荻生徂徠(おぎゅう・そらい)が李白の詩
「朝に辞す白帝彩雲の間・千里の江陵一日にして還る。両岸の猿声啼きやまざるに、軽舟すでに過ぐ万重の山」 
から取って命名したと伝えられます。
李白の詩にいう白帝城は、長江の上流四川省の山地にあります。
江陵は洞庭湖の北で、李白は唐の玄宗の時、安禄山の乱の際に反逆罪で死刑を宣告された後、罪を一等減ぜられて重慶の南の蛮地貴州省に流罪となり、三峡をさかのぼり巫山にさしかかった折、恩赦にあずかり帰還する事になりました。
犬山城内部。
『全国で唯一個人所有だった犬山城』
犬山城は、明治4年、九代目成瀬正肥(*)の時、廃藩置県で廃城となり天守を除くほかは殆どが取り壊されました。
明治24年濃尾震災で天守の東・南・西北の付櫓、城門が壊れたので、同28年に犬山藩主正肥に城を修理すると言う条件で譲られ唯一の個人所有となったのです。
平成16年4月に、犬山市との協議の結果、財団法人「犬山白帝文庫」所有となりました。

(*)成瀬正肥は丹波篠山・青山下野守忠良の3男として天保6年(1835)に江戸で生まれました。八代当主の成瀬正住の養子となり、正住のあと犬山城主となりました。
天守から南方を望む。
訪問したのは平成16年6月19日でした。
国宝の犬山城の見所は、何といってもその古風な天守にあると思います。木曽川に沿って歩いていくと、眼前にまるで戦国時代にタイムスリップしたような木造の天守が現れてきます。
天守は三層四階・地下一階で高さは23mあります。
一階に上段の間、二階に武具の間、三階に破風の間などが見学できるようになっています(^^♪
そして最上階の高欄の間からの眺めは最高です。
なお、付櫓と石落しの間は復元されたものです。
石垣と空堀は現存するもので、野面積の天守台はなかなか見応えがあります。
犬山城本丸門(鉄門)。
犬山城を見学したあと、犬山城の入場券で入れる「犬山市文化資料館(白帝文庫歴史文化館)」と三の丸武術稽古場跡にある「からくり展示館」に入りました。
文化資料館には成瀬家に伝わる宝物や、刀剣・甲冑類などが展示されており、ついつい足を止めて見入ってしまいました。
また、からくり展示館は色々なからくり人形や、犬山祭りの山車(やま)の実物が置かれ、提灯には灯りが点くようになっていて、犬山祭りの盛大な様子がテレビ画面に映し出されていました。
帰りに犬山城の目の前の食堂で蕎麦を頼みましたが、追加で頼んだ「鮎の甘露煮」は柔らかくてとても美味しかったです。
木曽川の断崖上に聳える犬山城の遠景。
〜犬山周辺〜
針綱神社
針綱神社
犬山神社
犬山神社
猿田彦神社
猿田彦神社
犬山城三之丸 武術稽古場跡
犬山城三之丸 武術稽古場跡


鵜 沼 城
所在岐阜県各務原市鵜沼南町
歴史
鵜沼城は戦国末期の土豪・大沢氏の居城で「宇留馬城」とも言います。応仁の乱の後、大沢伊豆守清金に7人の男子がいて「大沢七人兄弟」と称されて大いに勢威を振るいました。
永禄年間(1558〜70)、織田信長による美濃攻めの折り、諸城があいついで陥落する中、しぶとく抗戦を続けましたが、永禄10年(1567)正月に木下藤吉郎秀吉斡旋で降伏しました。
この時の城主大沢正重の降伏を疑った信長は、正重を殺そうとしましたが、秀吉が密かに手引きをして逃したと言われています。
山頂には大沢家歴代の碑が立っているとのことです。
鵜沼城址遠望
犬山城の天守から木曽川を見下ろすと、少し上流に犬山橋が架かっていて、対岸の橋詰にゴツゴツした岩山が見えます。ここが鵜沼城址で、岩山全体が旅館になっていましたが、現在は営業を中止し、城址は立入り禁止となっています。
麓で庭の整備をされていたご婦人に中に入れるかお聞きしましたが、案の定、無理との返事が返って来ました(^^ゞ
止む無く鵜沼を諦めて、川向こうにある国宝犬山城へと向かいました。
鵜沼城への登城口?現在は鉄の門扉で閉じられており中には入れません。