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上月城

所在 兵庫県作用郡佐用町上月  (地図)
説明   戦国時代の天正5年(1577)から6年かけて、この城を舞台に合戦が行われました。このとき上月城は、全国統一を目指し中国地方へ侵攻する織田勢と、中国の毛利勢との勢力の境に位置し、交通と防衛の要地でした。
天正5年11月、時の上月城主・赤松政範は毛利方についていました。織田方の羽柴秀吉の侵攻に対して、上月城とともに抗戦した福原城は早くに落とされ、備前の宇喜多氏の支援軍も敗退し、上月城は滅ぼされてしまいます。秀吉軍と宇喜多軍との激しい戦いが行われた場所は「戦(たたかい)」の地名が残されています。
この山頂には赤松政範以下の戦死者を供養する250回忌の供養碑がありますが、秀吉は上月方の女・子供を磔・串刺しにして国境にさらすなど残虐なことをしたと伝えられます。秀吉は上月城に尼子勝久・山中鹿之介主従を入れて守らせますが、天正6年4月には、毛利方の小早川・吉川らの軍に包囲されます。
支援に向かった秀吉は高倉山に陣をおきますが、信長からの撤退を命じられたため、2ヶ月以上の籠城の末、尼子勝久は切腹、山中鹿之介は捕らえられ、毛利陣への連行中に殺されてしまいます。
上月城周辺に残る多くの山城跡や史跡は、毛利・織田両軍の一大決戦地あったことを物語っています。
【上月城・案内解説板より】
平成22年3月27日(土)に上月城へ行きました。
写真は上月城の麓にある「上月歴史資料館」です。
資料館の中には上月城の説明のほか、周辺にある城址の説明や、地元早瀬で明治の中頃から約30年にわたって作られていたと言う「早瀬土人形」の展示、皆田(かいた)付近で作られていた和紙の皆田紙(かいたがみ)をすく作業の演出などが行われていました。
上月城へは歴史資料館正面の登城口を登っていきます。
上月城は標高140mの荒神山山頂にあり、東に作用川、北に菖蒲谷、南に荒神谷があり、要害の地にあります。
菖蒲谷の北には旧本城だった大平山城、荒神谷の南には大亀山城があり、この三城を中核としていたようです。
しばらく歩くと本丸に着きます。
本丸跡は東西23m、南北20mで、当時は石垣もあったそうですが、現在では公園の広場のような感じです。
本丸には赤松政範などの供養碑が建っていました。
これはここで討ち死にした大谷義房のご子孫が建てられたものだそうで、三つの碑には132人の戦死者の名前が彫ってあるそうです。
こちらは二の丸跡です。
東西38m、南北13mあります。
上月城から利神城址を俯瞰できます。
この日は遠くが霞んでよく見えませんでしたが、双眼鏡でよくよく覗くと、石垣らしきものがある山が遠くの方に見えました(^^♪
上月城には土塁や堀切などが残っています。
西の端には二重の馬落としも残っています。
下山してくると、逆側の登城口に「山中鹿之介追頌碑」がありました。
また隣には「尼子勝久公四百年遠忌記念碑」もありました。


こちらは大谷総家住宅です。
赤松氏家臣の上月城で討ち死にした、大谷義房のご子孫のおうちなのでしょうか。
訪ねたときは時間が遅くて門が閉まっており、はっきりお聞きすることが出来ませんでした。


上記大谷家の入り口に標柱が二つありました。
一つのほうには「赤松円心公廟所」の文字が彫ってありました。
家の裏山裾野に廟所らしき墓地がありましたがそこに円心廟所もあったのでしょうか。
一方の入り口には、明治維新志士 立石孫一郎生誕之地の標柱がありました。彼の名前は良く知らなかったのですが、立石孫一郎は、大谷恵吉としてこの大谷家で生まれ、倉敷の大商人大橋家の婿となり大橋敬之助を名乗り、その後、立石孫一郎と名を替え、倉敷代官所襲撃事件(倉敷騒動)と浅尾藩陣屋襲撃事件を起こしました。明治維新の先駈けとなる事件とか、過激な尊皇攘夷などと、見解も様々なようです。


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