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中道子山城
(ちゅうどうしさん城)

中道子山城 本丸跡

所在  加古川市志方町岡  (地図)
説明 播磨国守護赤松氏範(氏則)によって築かれ、本丸・二の丸・三の丸から構成され、東播磨で最大の約66,000uの広さがあります。
山城跡には、城攻めの時に斜面に竹の皮を敷いたが火をつけられた、鯛をかかげ食料があると見せつけたなどの伝説があります。本丸は標高271mの山頂にあり、土塁囲いが残っています。
本丸入口の米倉跡は、三方を土塁で囲み、内側には石垣を積み上げています。
二の丸には、大手門と櫓門が造られました。大手門は、四脚門の構えをもつ山城跡最大の門です。
櫓門は本丸への通路に二ヵ所あります。三の丸には、搦手となる裏門があります。
山城跡北側は、尾根を二本の堀切で切断しています。
また谷間には井戸を作り、堤を築いて貯水池にしています。今も井戸の水は涸れません。
山城跡は、大永年間(1521〜1527)までに築城され、火災後規模を大きくして再築城しています。これが、現在の中道子山城跡です。この山城跡は、近世城郭へお移り変わる過渡期の姿を残しています。
【現地説明板より】
櫓台跡 城門跡
二の丸の先には「櫓台跡」 往時はどんな城門があったのでしょう。


本丸虎口 米倉跡
いよいよ本丸へと突入 本丸虎口の前面には「米倉跡」があり
土塁囲いの曲輪になっています


井戸跡 搦手門の石積
水の手となる「井戸曲輪」の井戸 下草を刈ると石積が出て来ました

訪問したのは平成19年2月25日(日)。
この城は兵庫県加古川市の北部に位置し、標高271.6mの「城山」の山頂部に築かれました。
城跡からは播磨平野が一望でき、現在は「播磨中部丘陵県立自然公園」になっています。
ここからは「ひょうごの城紀行(下巻)」を参考に少し説明をさせて頂きます。
中道子山城のあるこの山は、元々「中道子(ちゅうどうじ)」と号する古代山岳寺院があったのですが、赤松円心の子供の氏則がここに城を作る際、本尊を東山麓に移したとのことです。
城山の東山麓には「安楽寺」と言うお寺があり、お寺には年中花の絶えない庭があることで知られているそうです。

南北朝の初頭、赤松則祐が白旗城にいた頃、加古川市志方の地は弟の氏範に与えられ、氏範は盆地の北東の岡村背後に聳える中道子山に城を築きました。氏範はその後、至徳3年(1386)に播州清水(きよみず)寺で討死してしまい、中道子山城はしばらくの間廃城となりました。享徳年間(1452〜54)に孝橋繁広が再興し、繁景、政頼、秀光、秀時と相続しました。
孝橋繁広は赤松満政の子赤松繁広の事で、善坊山城主孝橋則繁の養子となって、名前を孝橋繁広と改めました。
嘉吉の乱のあった嘉吉元年(1441)頃には、繁広はすでに中道子山城にいたのではないかと思われます。赤松総領家が断絶した為、一旦は城を失ったと思われますが、享徳年間に再興したのではないかと思います。

孝橋政頼と秀光の時代には管領細川家の内訌に巻き込まれ、政頼は大永7年(1527)京都桂川で討死、秀光は天文18年(1549)摂津三宅城で戦死しました。亡き秀光の子秀時は中道子山城を捨てて、佐用郡上月の浅瀬山城に移り、城代を置いたと思われます。
その後、中道子山城については、天正年間(1573〜1592)に羽柴秀吉に攻撃され落城したと伝えられており、いくつかの落城伝説が残っているそうです。


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