中道子山城
(ちゅうどうしさん城)
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櫓台跡 | 城門跡 |
二の丸の先には「櫓台跡」 | 往時はどんな城門があったのでしょう。 |
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本丸虎口 | 米倉跡 |
いよいよ本丸へと突入 | 本丸虎口の前面には「米倉跡」があり 土塁囲いの曲輪になっています |
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井戸跡 | 搦手門の石積 |
水の手となる「井戸曲輪」の井戸 | 下草を刈ると石積が出て来ました |
訪問したのは平成19年2月25日(日)。 この城は兵庫県加古川市の北部に位置し、標高271.6mの「城山」の山頂部に築かれました。 城跡からは播磨平野が一望でき、現在は「播磨中部丘陵県立自然公園」になっています。 ここからは「ひょうごの城紀行(下巻)」を参考に少し説明をさせて頂きます。 中道子山城のあるこの山は、元々「中道子(ちゅうどうじ)」と号する古代山岳寺院があったのですが、赤松円心の子供の氏則がここに城を作る際、本尊を東山麓に移したとのことです。 城山の東山麓には「安楽寺」と言うお寺があり、お寺には年中花の絶えない庭があることで知られているそうです。 南北朝の初頭、赤松則祐が白旗城にいた頃、加古川市志方の地は弟の氏範に与えられ、氏範は盆地の北東の岡村背後に聳える中道子山に城を築きました。氏範はその後、至徳3年(1386)に播州清水(きよみず)寺で討死してしまい、中道子山城はしばらくの間廃城となりました。享徳年間(1452〜54)に孝橋繁広が再興し、繁景、政頼、秀光、秀時と相続しました。 孝橋繁広は赤松満政の子赤松繁広の事で、善坊山城主孝橋則繁の養子となって、名前を孝橋繁広と改めました。 嘉吉の乱のあった嘉吉元年(1441)頃には、繁広はすでに中道子山城にいたのではないかと思われます。赤松総領家が断絶した為、一旦は城を失ったと思われますが、享徳年間に再興したのではないかと思います。 孝橋政頼と秀光の時代には管領細川家の内訌に巻き込まれ、政頼は大永7年(1527)京都桂川で討死、秀光は天文18年(1549)摂津三宅城で戦死しました。亡き秀光の子秀時は中道子山城を捨てて、佐用郡上月の浅瀬山城に移り、城代を置いたと思われます。 その後、中道子山城については、天正年間(1573〜1592)に羽柴秀吉に攻撃され落城したと伝えられており、いくつかの落城伝説が残っているそうです。 |