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      小鹿島の半世紀            

                  シン ジョンファン

                                              訳・文責 山口進一郎  

 訳者まえがき
 


  
目次
    1 まえがき


    2 小鹿島 原島民と地理的背景

    3 定員100名の慈恵病院

    4 日本式生活様式を廃止

    5 膳物を与えるよき慈父

    6 改善された諸制度

    7 原島民の大規模な騒擾

    8 殉職するときまで

    9 慶全争い

 10 全島を買収

11 第1次拡張工事

12 第2次拡張工事

13 第3次拡張工事

14 東風(こち)が吹いた

15 鄭水鳳式逃走

16 松一株よりおとる患者の生命

17 公園の完成

18 女看護員のプロポーズ

19 暗黒期 周防園長の像@

20 周防園長の像A

21 開園25周年記念

22発生した殺害事件

23 周防園長の被殺

24 極まりない宗教弾圧

25 虐殺の修羅場

           

   訳者まえがき

 「小鹿島の半世紀」は韓国のハンセン病啓発刊行誌「セピッ」(新しい光・vision)《1979年廃刊》の1971年1月号から掲載されたものの一部です。小鹿島は韓国全羅南道の南端にある島で、唯一の国立ハンセン病療養所のある所です。「小鹿島の半世紀」は小鹿島で暮らしてきたハンセン病患者の歴史について書かれたもので、作者の沈田黄氏はハンセン病当事者として小鹿島で生活した方です。
 今回紹介するのは、第1回から第14回のもので、小鹿島にハンセン病の病院ができ、1945年韓国の解放までの出来事を紹介します。
 小鹿島にハンセン病の病院がつくられたのは日本の植民地時代の1916年であり、患者の生活は強制労働、断種など人権が踏みにじられた過酷なものでした。ハンセン病者の強制隔離、患者撲滅政策が行われたのは日本だけではなかったことがわかります。
 日本の植民地時代におけるハンセン病政策がいかなるものであったか、入所者の生活はいかなるものであったのかを知る貴重な資料となると思います。第1回が発表されてかたら30年以上になります。文中の語句について、現在では不適切な語句も見うけられますが、なるべく原文を大切にしています。なお、この資料は30年以上前の資料です。その後の資料の発掘や研究により、事実と異なるものや未解明のものもあるようです。また、病気を表す「癩病」は当事者の運動の結果「ハンセン病」が使われるようになりました。
 小鹿島の歴史についてのまとまった論文として滝尾英二著「朝鮮ハンセン病史−日本植民地下の小鹿島−」(未来社)が詳しい。
               
  

目次へ戻る      1 まえがき

 今日の小鹿島を観光する人々は驚嘆せずにはいられない。仙境のような公園、あちこちに通じ清潔に整備されている道路、立ち並ぶ現代式の建物、美しい環境、だれがここに施設し建設したのか。
 半世紀、長いといえば長く短いといえば短い。54周年の間には慈恵医院、中央癩療養所、更正園、小鹿島更正園、国立小鹿島病院、国立癩病院など、6度の改称、20歳代の園長も現れた。禹霊堂に安置された患者の遺骨番号だけでも7,000あまりを数える。その人々の履歴を推測するだけでも余りある。
 十年ひと昔というが、半世紀の変遷はあまりにも多くの悲哀の歴史の積み重ねであった。ローマは一日にして成らず。今日の小鹿島ができるまでには、近海の諸島の埋め立て工事や島内山岳地帯の開拓工事があった。これらの出来事の裏にはこの島で生活した者たちの苦しみと哀しみが隠れていることを忘れてはならない。
 現在の膨大で世界屈指の施設のある癩病院が出来るまでには多くの変遷と荊の道を歩んできたのである。
 小鹿島癩病院の建設は、数百年の間、生活をしてきた原島民を追い出し進められた。当時、日帝(*日本帝国主義)は全国各地から汚物掃除のごとく、患者たちをかき集め強制移送して絶海の孤島に収容した。そして鉄拳の管理のもと奴隷やシベリアの囚人のように使った。重労働と強制労働で建設がすすめられたのである。 当時の日帝時代の日本人は韓国の癩患者を4万人と推算し、40年後には韓国の癩問題は解決するであろうと考えていた。窮乏と強制労働で酷使し、毎日平均3名ずつが死んでいけば、1ヶ月で90名、1年で1,080名、10年で、10,800名が死ぬ。40年後には死亡者の総計は43,200名になり、韓国での癩問題解決すると考えたのである。人の知恵とは思えない癩者撲滅政策の考え方によるものであった。 彼らは癩菌という微生物だけをみて、その菌を内包している人間の生命体を見ることができなかったのである。患者たちも母体から生まれた時から自由を持ち、高度の知性と感情と倫理を所有した社会的存在である。絶海の孤島に監禁され迫害を受けた人間は命がけで小鹿島からの脱出をはかった。
 九死に一生を得て脱出した者によって、暗黒の小鹿島の現実が社会に伝えられ、悪名高い小鹿島になり果てていった。
 暴君のごとく、暴れまわった日本人園長周防は無名の患者により被殺され、日帝の植民地時代は終わりを遂げた。8.15の解放を迎え、またDDSとういう特効薬の福音をもたらした。
 虐待と餓え、人間の尊厳を奪われてきた患者にとって、8.15の植民地からの解放は溢れんばかりの歓喜であった。また、何人かの錯乱した者たちによって鹿洞海岸(*小鹿島船着場)は血で赤く染まった虐殺の修羅場ともなったのである。

 今、国家が志向する祖国の近代化の波は、天然の鉄条網や狭い海峡を利用した強制収容所の方針から脱皮して名実ともに充実したものになってきている。テレビやラジオなどのマスコミを通して“癩病は治る”と宣伝、啓発しており癩患者たちの処遇はとても明るくなってきている。あわせて5.16の軍事革命当時(1961年)、趙昌源院長は軍服姿で赴任して、五馬島干拓工事や癩患者バス乗車運動、蹴球団の結成、全国体育大会参加、無籍者就籍など癩患者の人権の拡大に多大な業績を残した。趙昌源院長が赴任され園生の期待も大きかっただけでなく斬新的に改革がすすめられた。未来への展望がとても明るくなったと信じて疑わない。
 今日の社会は、過去の遺産であり、今日の生活は明日を生み出す母体となる。癩患者たちの社会も同様である。小鹿島の生成過程の紆余曲折をためらうことなく赤裸々に記述して、癩患者の新たなる新生活の座標にしたいと思う。また、救癩事業家たちに役立てもらえれ ば幸いに思う。
  
目次へ        初創期
   小鹿島 原島民と地理的背景 



突山郡に所属していた小鹿島は李朝末葉の高宗32年に地方制度の改革で高興郡錦山面に属するようになり、最近、行政区域変更で、同郡道陽面小鹿里に所属するようになった。本島は国鉄慶全西部線筏橋駅より約5.3kmの距離に当たる高興半島最南端に位置している。



高興半島陸地の終着点に鹿洞港がある。鹿洞は昔から良港で知られ、今でも漁船、旅客船が寄港する所でこの鹿洞と海峡を隔てた600メートル地点に本島はある。

 東経137度、北緯34度に位置する本島は面積約150万坪で島内は松林が、うっそうと生い茂るだけでなく、海岸の屈曲に変化が多く、白砂青松と奇岩が続いている。付近には無数の島が点在し、風光明媚な所である。気候は温和で肥沃な地質で海産資源も豊富であり170余戸の原島民は世襲で農業と水産業を家業として生活していた。
 癩病院設立の必要性に直面した植民地時代の朝鮮総督府当局は候補地を物色中、この島に目をつけた。まず、陸地が近い事が一つ。海のなかにあるため強制隔離に妥当な所であり、環境や気候が温和で療養に最適な条件であった。
 近代医学を土台にして設立された癩病院は韓国では1909年に建設された。アメリカ人の医師でもあり宣教師のウィルスン(禹越淳)が光州鳳仙里に建てたのが最初で、同年にオルビン(魚乙彬)が釜山に建てた。1911年にはマッケンジ(梅見施)がこの病院を受け継ぎ育成した。1913年にはやはり医師の宣教師ブレッチャーが大邱に建てた。
 外国人による一連の癩病院設立に朝鮮総督府は刺激を受けていた。日本では皇室が救癩事業に別段の熱意を持って国内の癩機関に下賜金を出している都合もあったからである。
 癩病院が設立された光州、釜山,大邱の市民の不平がはなはだしく、当局に対する非難が高まってきた。一人の癩患者を見ても嫌がる長い間の因習や伝統があった。病院が出来たため隠れて生活していた患者が全国から病院門前に集まり始めたので病院付近の住民はびっくりしてしまったのである。
 収容能力に限度があり、病院では入院志願者の全てを受け入れる事はできず、入院できなかった患者たちは可能の限りずっと路上で生活をし始めたのである。住民の恐怖の対象である路上生活する癩患者の処遇が急を要する問題となってきた。朝鮮総督府は癩病院の設立が避けて通れない課題となったようである。
 1916年朝鮮総督府の指示を受け、日本人の役人が本島を探しあて、まず西端一角の家屋と土地を買収するかたわら、住民代表と交渉を始めた。先祖伝来の安住地をやすやすと手放すはずはなく、朱致一という人を代表にして住民一同は千万金をくれても売れないと拒絶していた。手まね、漢文筆談の会話で相方は譲歩せず、ただ時は流れた。最後には強権発動で日本人役人に仕方なく21戸中の10棟と土地199,700坪を売り島民は退いた。島内には150余戸と900余名が今も残っている。


 目次へ          3 定員100名の慈恵医院


 1916年7月10日には蟻川亨は朝鮮総督府より初代院長の発令を受け、小鹿島へ赴任した。仮の建物には慈恵病院という仮の看板をかけておき設計図によって建築工事が始められた。治療所、職員官舎、事務本館、礼拝堂、風呂場、炊事場、病舎など竣工させ,1917年5月17日を期して開庁式を挙行した。地方から強制募集されてきた約40名の患者を男女病舎に各々収容し、日本式生活様式で訓練させた。男女を問わず入院時に着てきた韓服などを脱がせて「羽織」「はかま」「帯」「ふんどし」「げた」などを身に付けさせた。床ももちろん畳部屋にした。食事も「おわん」「はし」を使い「たくわん」を食べ「神棚」をまつり、礼拝をしなければならなかった。1人当たり1日3合の雑穀であった。この量は腹は空かない程度であったが、病舎で自由に作って食べるのではなく1ヶ所の給食所へ行き食べなければならず不便であった。韓国式生活習慣に慣れた患者たちは日本式生活様式が何よりも不便であった。
 娯楽設備は囲碁、将棋、横笛、蓄音機などがあった。夜8時になると通行禁止で隣の家にも行くことができず就寝前には人員点呼があった。また全文26条の「療養生活の心得書」を月末に1度ずつ朗読し暗唱しなければならなかった。統制はあまりにも過酷であり楽しめる余暇が少なかった。家族との通信や、家族との面会も少なく帰省などは申し出てもなかなかできず息詰まる療養生活であった。
 治療面においては、毎週3回ずつ1回に5グラムの大楓子油を注射して、随時に診察投薬するなど比較的良いところもあった。精神的に重圧感を感じて生活している患者たちには治療効果があったのだろう。
 あまりにも厳格な統制に我慢できなかった患者たちが少し緩和してくれるよう蟻川院長に重ねて建議したが、院長の一言の下に拒絶され、前にも増して厳しい規則生活が強要された。蟻川院長が退任する1921年頃には患者数も120余名に増えた。患者数が増えていくにつれ統制もますます厳しくなっていき在年11ヶ月をもって彼は転勤して行った。

目次へ         4  日本式生活様式を廃止

 蟻川院長の後に第2代院長として花井善吉が1921年6月23日に赴任して来た。新しく赴任して来た院長に大きな期待をかけ患者たちは姿が現れるのを待った。顔相の厳しい表情をしていた花井院長を見るや患者たちは首を横に振るばかりで皆々が諦めきった。年齢が60歳を越えたというが険しい眉の下に深くくぼんだ目、両頬につきでた頬骨、刀のような鼻筋など慈悲心の所有者の印象からは程遠い顔つきであった。長い歳月を軍医官として軍服で過ごした経歴者である点からも、前任者より一層厳しく感じられ、患者の生活が改善されるとは思われなかった。
 しばらくすると、当初の印象とは裏腹に患者に対して慈悲心を持って対応することも分かった。患者たちに次のように訓示することがあった。「父は息子の言葉を聞いてやらねばならず、また息子は父の言葉を聞かねばならない。お前たちは私の息子たちだ。父として子女の言葉を良く聞いてやるから、お前たちも父に服従しろ」
 赴任して3ヵ月後、花井院長は光州、釜山、大邱の3箇所の診療所に出張した。帰院後より院内改善に着手し始めた。「まず是正することはお前たちの生活様式だ。日本式生活様式がお前たちにはふさわしくない。不便だということが私にも分かった。これからは自分たちの着物を換えろ、食事も口に合うように病舎別に作って食べろ。」このようにして5年間に及ぶ、言い尽くせない不便な日本式生活様式を患者たちから捨てさせた。食事も給食所へ行き、みんなで食べる必要もなく各自で居住する病舎で自由に口に合うよう調理して食べられるようになった。これだけとっても何とも大きな恵みであった。

目次へ              5   膳物を与えるよき慈父


 本当に外見とは違い無限に温情にあふれた慈愛な人であった。患者たちは親のように悲しいことや、うれしいことなど彼に知らせ、共に泣きも笑いもした。少しであろうとも患者へ恵みを与えてくれるのをうれしく感じたのである。彼は勤勉に院内を見て周りもした。「収容患者を良く着せて、よく食べさせ、そして親切に接すれば患者たちはまたとない従順な羊となる。万一そのようにしなければ生意気な言動をとり、凶暴な品性になり荒々しくなるだけだ。」「患者たちを殴ったり、荒々しく接するものがあれば理由のいかんを問わず罷免処置にする」と部下職員にもこのように訓戒し職員と患者の融和政策に力を注いだ。
 公務で京城(*ソウル)を訪問したときには飴を買ってきて患者たちに配り、このように話す。「私は京城に行きたくさん食べた。お前たちのことが心にひっかかってそのまま帰ることができなかった。だから飴を買って来た。父の土産と思って分けておいしく食べろ」。東京に行って来た時には菊花で飾られた宮廷菓子を下腸され、一人で食べるのを惜しみ、そのまま持ち帰って来た。量は少なく、工夫の末それを粉にして他の材料を混ぜて、多くの菓子を作り変えて患者に分けてやった。
 著名人士が視察に来園して、物品を貰い受けては何であっても記念として患者に分けてやった。国家慶祝日はもちろん韓国名節にも特別配給して、白米6合、大豆2合に牛肉300斤、時によってはもち米も上乗せしてくれた。このように、前任院長と比べ雲泥の差であった。

目次へ         6   改善された諸制度

 日本式生活様式の廃止の他にも従来の制度の中で改善する必要のあるものは思い切り改善した。実家や家族との通信や面会も自由にす出来るように許容した。治療された患者で用事があり実家に行って来たい者があれば帰省を許可した。
 宗教の自由も保障され、キリスト教信者はキリスト教を、仏教信者は仏教を信奉するようにするだけでなく、神棚を祭ってある家をキリスト教礼拝堂として使用することまでも承諾した。
衣服洗濯を従来は各自がしていたのを、男患者の衣服を女患者がしてやれるようにし、1回につき米3合を院から支給することを制度化させた。また、同様に不自由者を別に収容して、健康者患者を付添い人として身辺雑用を助けてやれるようにし、これも制度化させた。付添い人にはもちろん院から適当な報酬を与えるようにした。不自由者と健康患者が同じ病舎、部屋で暮らすことにより生ずるそれぞれの不満をなくすように努めた。
 不自由者は衣服を着るにしろ食事をするにしろ、大小便のことまで健康者が手助けをしなければならない。1日や2日であれば良いが、長い年月になれば健康患者が腹を立ててしまう。わずらわしい荷物と思うようになり、不自由患者を蔑視するようになり、健康患者と争うようになってしまう。このような実情を把握した花井院長は急いで病舎を建設し、不自由者を分離して生活ができるようにした。
 また3年制普通学校を設立して患者の中の知識人を教師にして教育させた。その他にも娯楽施設を増やし、運動場をならし運動道具を整備した。慰安会も組織し互助会を認め院内で営利事業も許した。利益で不自由な重患者を助けた。以上のすべての仕事は赴任して来て3年間の1924年までにしたものである。
そうこうした間に生命の危険を受ける大事件が突発した。1925年の10月のことであった。

目次へ        7   原島民の大規模な騒擾

昼間は原島民の目に付きやすく、見つかれば島民の抵抗を受けるという考え花井院長は月の明るい夜を利用して技師とともに隣接土地を測量していた。病院の拡張計画があったためである。そのため原島民に分からないように秘密裏に行ってきたが原島民が気付き始めたのである。原島民の代表が院長社宅に押し寄せて来て抗議し、測量を即刻中止するよう要求した。
分かってしまったことなら隠す必要はないと考えた院長はその要求を一言で拒絶してしまった。そして「これは国家の方針であり、国家のする仕事を妨害するな」と強く答えた。強制明け渡しさせた開院当初のこともあり、今回の拡張工事で退去させられる原島民の感情はもはや嫌悪となってきたのである。いったんは自分たちの村に引き上げたが原島民はついに凶器を持って決起したのである。
200余名の原島民は夜間に病院鉄条網近くまで迫って来た。院内患者たちも手に手に農具などをもち待機した。院長夫人を船で鹿洞(*島の対岸)へ避難させる一方、高興警察所へ連絡し万一の時のことを考えて院長は十字峰山中深く(現矯導所裏山)へ避難させた。住民たちの動きを高い所から監視していた健康人職員一人が打鐘信号を鳴らし走り出した。事態は一触即発の状況であった。殺気もみなぎり、息を殺して対峙しているところに警察官が緊急出動して来た。原島民と警察との衝突となり、警察官2名が足に負傷し、署長までも指の骨を折るなどの状況のなかでも鎮圧されなかった。緊張状態が夜を徹して続き、夜が明ける頃に検事指揮下の200名の警察部隊が到着し流血の惨事は免れた。誠にヒヤリとする瞬間があった。警察によれば騒擾指導者60名が逮捕され、こん棒などの証拠品60あまりが押収された。その後、法廷公判で4名が最高懲役3年6ヶ月、軽いもので1年の実刑判決を受けた。その他の者は釈放されたという。花井院長が一肌脱ぎ、彼らの救命運動をしたとのことである。

     
目次へ          8  殉職するときまで


1926年の頃には定員を140名ほど超過し、総勢240余名が収容されていた。人が多くなれば分派行為が生ずるようになる。これをかねてより心配していた花井院長は結社の自由だけは許容していなかった。患者たちの中には院長の目を盗み秘密結社を作り始めた。
隣保相助を綱領とし、朴順周が主導した「水星青年会」が組織された。これに刺激を受けた他の一派は「農業振興会」という名称で同志を募り、権鐘熙が主導した。また一方では普通学校を卒業した都炳緑は少年層に呼びかけ「一心同盟会」を組織した。
秘密裏に活動をしていたが院当局に察知された。秘密結社が院内にあることを知った花井院長は3つの組織体の長を呼び出して叱責し即刻解体しろと厳命を下した。慈父と同じような院長の命に逆らう事はできず、結社は解体された。
その後院長は図書を購入し読書を奨励して、演劇、音楽劇、唱劇、映画など演芸団を地方から招へいして、1928年12月には品評会を開催した。患者の意欲を少しでも建設的な面に導こうとしたのであろう。この品評会には患者の出品だけでなく高興郡の住民の出品も多く展示された。式典には全羅南道知事をはじめ郡主、警察署長、その他各界の来賓が参席し盛況であった。製作「義足」の出品で特賞に入選した金連浩をはじめ崔明河、権鐘熙、李彩権、郭愛烈など患者知事表彰を受けた。
一方拡張工事に反対する原島民騒擾事件があったにも関わらず当初の方針通り測量した隣接土地を(現南生里地帯)を買収し、病舎20棟と事務室、治療所、風呂場、礼拝堂、倉庫など完成させ舊病舎(現舊北里)にある患者から200名を移動させた。この頃には患者数は500名と激増していたのである。
品評会の行事があった後に患者間に一つの議論がわき上がった。患者たちを親子のように大事にし、保護してくれる院長の功徳を長く記念するために碑を建立しようという議論であった。患者たちは熱心に話し合い、「慈父」を通称とする院長の彰徳碑建立のため、喜んでふところ銭を出すことに合議した。
花井院長の体は極度に衰弱してきていた。患者の生活保障、病院施設の完備のため、あちこちと走り回り折衝した。また、そのようななかでも患者の診察に自ら当たっていた。老齢の体を持ちこたえるのが難しいのは誰の目にもわかっていた。
1928年暮頃から、部屋で横になっていることもしばしばであった。事務所にも出られない日も多かった。その頃職員は患者たちの石碑建立会議があるのを知らずにいた。その後患者代表から建立計画を聴取した健康人職員も賛意を表し、積極的に協力することになった。事実を知った花井院長は患者代表を呼び、「決して辞退する訳ではないが、碑を建てるならば院を出て行く」とまで言った。患者たちは意を曲げる外はなかった。しかし建立を永久に放棄するのではなく機会が来る日を待つことになった。
いつも病床に横になる慈父の健康回復を願い、皆が心を痛めていた。日ごとに入院患者数は増え約750余名の大きな世帯になっていた。患者の診察、治療という医者としての仕事だけでも大変なのに患者の衣食住まで助けてやらねばならない。このような責務は60歳を越える彼には過務としか言いようがなかった。
1921年当時58歳で赴任し、8年4ヶ月になる1929年10月16日、患者と全職員の願いもむなしく病棟の近くの自宅で脳溢血により殉職した。 この逝去の悲報が病舎地帯に伝わるや患者たちは自他区別なく、院長自宅の門前へ走りよってきた。慟哭の声は静かな島を揺り動かし何日かのあいだ続いた。全院生は自分の父親の喪にあたるがごとく弔旗をかかげ儀式も盛大に行われた。
生前に建てることができなかった碑を1930年には建立推進委員会を組織し本格的に着手し、患者たちから募金された金額総数は80円(当時日貨)までにもなった。全羅南道知事をはじめ地方官、署長、各界機関長たちが参席し除幕式は職員、事務室横(現西生里)で盛大に挙行され、患者代表が編纂して読む追悼の辞に人々は涙を流した。
碑石後面に刻まれた碑文は次のごとくである。

「全羅南道小鹿島慈恵病院大正五年二月以明治天皇御下賜之基金所設立而生爲鮮内唯一癩病院矣始蟻川亨爲院長同十年六月及花井善吉爲第二次院長鋭意華院務其所擧措必丕於慈愛試列擧之則改善衣服食糧其一也興通信面会之自由其二也新設重病症患者室其三也拡張病院二回其四也創慰安會其五也施精神教育設娯楽機関其六也組織互助會其七也是以七百餘人楽生於別世界?然而葉派花井氏昭和四年十月十六日溘然逝去於是患者皆哭泣奮相謀建此脾」

        

目次へ              9  慶全争い   

 花井善吉院長逝去2ヶ月後の1929年12月28日に矢沢俊一郎が第3代院長として就任した。
 この若い紳士タイプの院長は前院長の運営方針をそのまま踏襲していたけれど別に誠実ということでもなかった。
 患者治療は形式的で余暇さえあれば銃を背負い居金岳(錦山面)へ猟に行っていた。だから院生たちは皮肉って「居金岳院長」と呼んだ。
門前乞食をし、野宿生活する患者を強制収容させ、日ごとに患者数は増えていき総収容数は800名にまでなっていた。言うまでもなく、病舎は狭く小さかった。
 患者の密度が高く、家によっては患者僑導と院内秩序維持に神経を使わねばならなかった。全国各地から集められた前歴も思想もそれぞれ違う雑多な者たちを、どのように僑導し欲求不満を最小限にとどめるなどの患者の統制面で難しさが現れてきた。

 当時院当局においては権鐘熙(慶尚南道狭川出身)崔英華(全羅南道)李采権(慶尚南道河東出身)などの患者を部落の指導係長に任命し院内秩序維持に力を注いでいた。また、金昌玉(全羅南道出身)など患者を教師にして、学齢期に達した児童の教育をまかせた。その者たちの報酬は毎月90銭(日貨)ずつ与えた。
 金昌玉は日本人職員たちとの社交術もうまく、院生たちの指導人物として君臨した。患者治療助手(助務員)職になろうとするには賄賂などを使って金昌玉や指導係長の崔英華を通して入るしかなかった。
1931年初秋のある日の事であった。舊北里指導係長の権鐘熙は失ったしまった故郷の情趣や友達の姿を思い出し、また今の自分の寂しい現実を一杯の酒で紛らわしていた。院内規則で厳禁されていた密造酒を作って飲んでいたのである。
これを知った同僚の係長、崔英華(全羅南道出身)のとりまきは日本人職員に密告して、権鐘熙(慶尚南道出身)を強制退院に追い込むと話したのである。
「同じ患者で似たりよったりの仕事をしているのに、日本人職員に密告までして強制退院させるとは」と慶尚南道出身の姜甲壽は不満をはきすてた。姜甲壽は日本の明治大学を卒業した30代の青年であり民族主義思想を持っていた。いつも日本人警察の監視を受けていた人物、入院して来た後も監視の対象となっていた。院生たちは彼の学歴と民族主義者という点で、慶尚南道出身者は彼を尊敬してい。
 姜甲壽は、日本人に媚びへつらう者が多いことや、些細な事まで告げ口することは我々韓国人の不幸であると激怒した。彼は全羅南道出身の崔英華が院内規則を犯す弱みを見つけ、復讐の機会をねらった。
 日が経つにつれ全羅南道出身の崔英華側と慶尚南道出身の姜甲壽側間の神経はピリピリするようになり,相互間の雰囲気は険悪となっていった。
 その時は10月19日の晩であった。金昌玉は自己病舎の崔英華など男女同僚数名を集め夕食を招待した。これを横で見た姜甲壽側の同僚数名が、こん棒を持って金昌玉の号舎を襲撃した。暗い晩、こん棒の襲撃を受けた崔英華側もこれを受けて格闘となった。指導係長の崔英華は頭に大きな傷害を受け、顔もナイフで刺され流血が散乱した。
 喧嘩の理由も分からない隣近号舎の者たちは驚き,真っ青になって山へ逃げ、全病舎は一時修羅場となった。この事実の報告を受けた矢沢院長は全職員を動員して喧嘩を鎮圧させた。慶尚南道出身姜甲壽一派は新病舎に、全羅南道出身者金昌玉一派は舊病舎に分離させた。両派が出入りできないように職員が夜中中監視をした。
 翌日院長は両側代表に和解するよう命令を出し、高興警察署巡警を動員して、事件の真相を調査した。姜甲壽他関係者30余名を釜山へ追放した。院生たちはこの事件の主動人物が全羅南道と慶尚南道出身のため,この事件を「慶全あらそい」と呼んでいる。その後帰省していく院生によって口々に釜山、大邱、木浦、麗水など全国各地の患者団体にまで、この喧嘩のことが伝えられ全羅道と慶尚道出身者に多くの波紋を残した。



目次へ         10  全島を買収

光州の崔興j牧師により朝鮮癩病根絶策研究会が早くから組織され民間の救癩事業体として活躍していたが、1932年12月に発展的解散し財団法人朝鮮癩予防協会が設立された。この協会の後援により大々的に拡張工事が計画された。原島民の反対運動は2度のわたり失敗に終わっており、主謀者は懲役になっていた。元島民はすでに小鹿島に永住する希望者は少なく買収交渉に特に波乱はなかった。土地は時価の3倍を与え、墓一つの移動費35円(日貨)、家屋移転費25円という比較的よい代価であったため、154戸900余名の元島民は協定を締結し履行した。代々に渡って生活をしてきた故郷を出るのは見るに忍びなく、哀惜の気持ちもまた、ひとしおであっただろう。しかし官憲の前にはどうすることもできなかったようだ。
  1933年9月には3ヶ月計画の大拡張工事が着工された。病院運営より射撃や散策に熱心であった若い紳士の矢沢院長は坂口庶務課長といつも不和であったため本格的な工事着工以前の6月には島を出て行ってしまった。


目次へ            11  第一次拡張工事

 矢沢の後を引き継ぎ第4代院長として周防正季が就任した。京都帝大医科出身で朝鮮総督府衛生官、各道技師、京機道衛生課長などを歴任した秀才型だ。
 朝鮮癩予防協会が発足するや常任理事を兼任した。院長の籍が空くや自請発令を受けて来たという説がある。6尺の長身で壮健な体格の所有者、冴えない顔色で鼻が風変わりで、目だけは釣り合いがとれてない、いわば雀の目だ。声色は体格に合わず女の声のように細い。しかし時には牛の声のごとく強く出す。
 この野心的で名誉心が強い医師は就任するや迫力ある推進力を院生たちに見せつけた。彼は就任する前に癩協会の125万円の基金で土地などを買収し、就任するや工事に着手した。
 彼は全員の患者を集合させて施政方針を演説した。第1の目標は拡張工事であると示した。東洋一いや世界一の療養所を作ってみせるという内容であった。その時の収容人員数は1,212名に達しており、周防院長は10名の患者代表を選抜し評議会を組織した。そして、毎週土曜日ごとに礼拝堂で会合をしては工事の必要性と協力を何度も力説した。
 「お前たち患者は、社会からは迫害され、蔑視の眼差しを受けている。流浪生活の何たることかを知っている。お前たちは家族とも生き別れ、家族も故郷で不自由な生活を余儀なくされているではないか。この広い地域に施設を取り揃え楽園を作り、流浪生活する患者や在家患者をみな呼んで、仲睦まじく生きることがどれだけ良いことであろうか。患者たちも幸福になり、家族たちにも災いが及ばなくなる。国家的にも、二重、三重の利になるのではないか。」
 このように周防院長が強調すれば、だれでもが感動をせざるを得ない。患者代表は感動し積極的に協力することを確約した。患者代表を通して一般患者たちも感動し協力することを表明した。
 協力といっても他のことではなく、賃金を受け労役を提供することであったが、感動していたので、そのままでもする気分であった。 就任(1933年9月1日)から1ヶ月余りの10月下旬頃、周防院長は患者代表とともに煉瓦工場地(公園横マリア像前)を探し起工式をおこなった。中国人技術者を呼び寄せ、何日か技術を学び、中国人は帰して自分たちで直接生産を始めた。作り出された煉瓦は病舎建設に使用され始めた。
 舊病舎(現舊北里)南病舎(現南生里)東病舎(現新生里)三部落の労力が出された。健康患者は毎日のように煉瓦工場へ、あるいは病棟新築現場へ出て熱心に仕事をした。賃金は日当(3銭から5銭まで)が出た。自分たちの手で作った煉瓦によって文化住宅が建設されていく。自分の家を自分で作り、俺たちの楽園を作っていくという自信と自負と誇りがあったから仕事をすることが楽しかった。
 患者たちの熱心な労働力提供で工事の進展は順調であった。社会の健康な技術者と労働者たちも数百名が工事現場近くにテントを張り合宿をしながら仕事をしていた。
 1934年年3月から3ヵ年の継続事業で1936年までの第一次拡張工事は成功裏に終わりを遂げた。予定時で4,000名の患者を収容することができた。新しく出来た新病舎は東生里、中央里と命名された。
 中央里病舎垈地は入り江の砂地であったため、建築に多くの時間と人員を費やした。また、連立様式の特異な構造であり大きな通路を中心に左右に病棟が25棟あり、総部屋数は166部屋になる。治療本館にも通路がつながっており、雨中といえども雨に当たることなく行くことができる。共同炊事場や洗濯場もやはり同じだ。
  この病舎には各部落から不自由者患者を出させて収容した。また職員地帯も新しく舎宅を新築した。以前の舊職員地帯(現西生里)を病舎地帯に編入し、舎宅を病舎に使用させた。また精米所、公会堂など公共建物もいくつか建てた。

     

1936年第1次拡張工事で作られた  1930年患者の手によって作られた
 中央病舎                4000名収容できる中央公会堂

一次工事期間は資金も豊富で患者たちの処遇もわりと潤いがあり、食料は1日1人当たり6合(白米3合雑穀3合)に副食として牛肉,豚肉 めんたい太刀魚などを8日分ずつ交代で配給があった。季節によって、たら、さば等も配給された。野菜類は種子を購入し、栽培して食べるようにした。その他、醤油、塩等も不足しない量が特配された。慶祝日,名節の日は生魚、菓子なども特配され、衣服としては冬服2着、春秋服二着,手ぬぐい、ゴム靴2足など、寝具として毛布3枚の配給もあった。
 治療においても主治薬の大楓子油を1週間に2回ずつ、1回に3グラムないし5グラムを注射し、注射不能の衰弱な患者には錠剤で与え服薬させた。
 いろいろな面で不足なく患者たちは院長を褒め、工事が完了するや祝賀をする意味で素人劇を公会堂で公演し院長を招待した。唱劇「長靴紅蓮伝」を観劇した院長はまた,惜しまぬ喝采を送り、費用は負担するからと、唱劇団を組織しようと激励した。これが契機となり、唱劇団が結成され、構成員は本格的に歌の勉強をするようになった。一方青年たちも唱劇団を組織し、院長の後援も受け、二つの劇団は名節、祝日には競って公演するようになった。二つの劇団の主要構成員は次の通りである。

 

 唱劇団

   団長  朴伏

   団員  朴小鶴  黄中伊  崔洪烈  崔一奉

       朴東浩

  新劇団

   団長  尹在勲

   団員  孫在憲  金万K  段熙国  沈達珠

       金孔珍  魚仁雨  その他楽隊員

 

開院以来、男女患者は別居制を実施してきていた。1934年の大拡張工事で患者の大量収容に伴い男女別居問題に対して考慮しなければならなくなっていた。患者たちの多くは以前家庭生活をしており、強制収容によってここに入って来たのである。しかし夫婦患者たちは院内規則により別離生活で面会も自由には出来なかった。男子が女病棟へ行くことはできず、女子が男病棟に行かねばならなかった。夫婦といえども面会するには職員に許可を受けなければならなかったのである。
 不平は日増しに高まり、とうとう院長にまで直接訴えることになった。「夫婦間の情まで強制隔離することは天倫に背く行為である。他の療養所で実施している家庭制度を許容して患者を労うことが協助の気運を高めることになる」と朴順周が訴えた。院長はこの訴えを受け入れた。朴順周は花井院長時代に患者代表として活躍していた人で、一度退院したが再度入院して来た人物である。朴は発病前に中等教育まで受け、日本で長く過ごし日本語がとても流暢ないわば知識人であった。
 周防院長は患者の生活安定の効に目をつけ1936年4月1日付をもって総督府の裁下をあおぎ、許可する旨交付した。
 ただし、次のような条件で許可した。

1.戸籍上の夫婦の者

戸籍上の夫婦でなくても正式結婚をして事実上夫婦の者

3.収容前から内縁関係にある者で一般が認定した者

4.一般が確実に認定しない者でも各病舎の舎長と有力患者が認定して一般の異議を申し出ない者

5.上の各項を備えた者でもそのまま同居させれば別離収容の意義に背く結果になり、同居申請を前もって受け、断種(精管切除)を施した後に同居をさせる。

 以上のような条件付きであった。

許可が公布されるや、夫婦患者は非常に迷った。医学的な面から断種は自然な常態でなく、性的不自由者を作るのではと危惧し、また人体にも害毒になるのではないかと恐れた。渇望して陳情した制度は許可されたが、このような危惧と恐れにより申請者はわずか4組にすぎなかった。その後、まず決行した者から無害であるとの証言を受け、すべての人が申請したのである。夫婦生活希望者たちは、まだ家庭構造の住宅がなかったので独身舎に入居させ部屋の中間に木で仕切りを作り部屋を二つに分け、二組が家庭生活をするという状態であった。

 第2次拡張工事時に1棟6部屋の家庭舎を各病舎,部落ごとに新築して初めて家庭生活が楽になり、家庭生活にあこがれる独身者が日増しに増えていった。      しかし、不当な精管手術があるため、家庭を作らない若い層は家庭舎をあざけり、「はと小屋」と呼んだ。
 院から与えられた配給品を自分たちの舌に合うように料理したり、衣服も清潔になるなど衣食住は良くなった。仲睦まじく生活するインコ夫婦の情景を思い浮かばせた。家庭制度が現れた後、確実に患者たちの生活の安定度はよくなり、院内に活気が見られるようになった。家庭制度が始められた年,すなわち1936年9月には朝鮮総督府癩療養所官制が公布され同年10月10日付けで従前の慈恵医院から「小鹿島更生園」と改称された。



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   第2次拡張工事

 小鹿島更生園として出発する年に治療本部も完成した。内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科、歯科,皮膚科、X線科,薬局など、各科を置き癩病を治療する所だけでなく総合病院の役割を果たすようになった。
 また、風呂場前には赤い煉瓦で大きな壁を積み監禁室も建てた。両側に鉄条門をめぐり15部屋の監房を作り片隅には便所がついていた。日帝時の刑務所の監房とまったく同じ構造であった。時々全国各地の汚物清掃のごとく強制的に収容し鉄拳の管理で重労働をさせていた。不当な迫害と処遇に反抗しようとしてもできなかった。日帝時代末葉には、この監房で数知れぬ者たちが死んでいった。たとえ死ななくても不自由者になって出てきた人も多い。出獄する時には強制的に精管手術(断種)をさせられた。
 これを原因として患者たちは小鹿島という名詞のなかには永久に忘れることができない監禁室が連想され、悪名高い小鹿島になっていた。
 この年の秋には鐘閣と萬霊堂、(納骨堂)、燈台が建てられた。これに使われた基金は患者の労賃をあてがった。すなわち院当局が設定した「謝恩更生日」に出た患者は、その日の労賃(1日1人当たり3銭)を建築費用として献納させた。鐘閣は南生里の裏山峯に建てた。十尺程度の石築を積み、その上に鐘楼を建てた。梁や禄木には蓮の花や青龍、黄龍などが描かれまるで法堂を思わせる建築様式であった。
 当時の京城(ソウル)円覚寺婦人会から寄贈されたという説がある梵鐘をつるし、正午に患者仏教信者が鐘をならし奥深く鐘の音はすべての島内に鳴り響いた。重さ500貫、直径1m、高さ1.5mにもなる大きな鐘であった。萬霊堂(納骨堂)は公会堂横の新生里の裏山の裾に建てた。日本の長島愛生園にある納骨堂を模倣して建てられ、円筒型の姿は、高さ15メートル、周囲20メートル。内部には段々に棚が作られた。
 遺骨がここに安置されるまでには、死体解剖―葬式―火葬を終え、次に20立方センチメートルの木の箱の中に骨を入れ、名札に姓名、生年月日、本籍、死亡年月日、遺骨番号等が記載されて安置される。毎年7月15日には全園生が萬霊堂の横に集まり慰霊祭が執り行われる。(解放後は陰暦10月15日に定められた)
 日帝末期、重労働で酷使された当時は毎日3、4人が死に、17.65%の死亡率を見た。“小鹿島へ行く道は納骨堂へ通じる”と言われ恐怖の萬霊堂であった。
 燈台は南生里側の丘陵に建てられた。多島海を航行する船舶の道標のために建てられた。
 1936年を境にし、園の経済状況は豊かではなくなり、このような施設も患者の献金に依存する状態であった。しかし、園当局はより多くの患者を収容するために第2次拡張工事を計画し進行していった。第1次拡張工事が始まった頃、患者代表で評議会を構成、積極的に協力を得て順調に工事を進行させた経験のある周防園長は、今度は朴順周と李宗揆の2名の患者を顧問に任命した。この2名の患者顧問を通して患者たちの協賛を得ようとしたのである。そして、効果的な患者統制をすすめるため各部落に健康職員の担当責任者を配置した。看護主任の下、看護士1名、看護婦2名、農事監督1名、備品監督書記1名、助手1名ずつで上官団をつくり、その傘下に部落患者代表を置き、代表の下に備品助手1名、作業助手3名ないし4名、班長2名を置いた。配置された看護主任は前職が刑事、警察署長等恩給のついた警察官と憲兵という経歴を持った日本人であった。任命された患者助務員は日本語に熟達した者たちであった。
 看護主任の佐藤三代治は周防園長の信任を多く受けた側近中の側近として知られていた。
 各部落担当職員の他にも職員地帯と病舎地帯の境界に監視所本部を設置し、巡視10名をおいた。常に園内を巡視監視する一方、監禁室と面会者を掌握した。収容患者が4,000名を大幅に増加し、秩序維持に不可避の管理体制を作ったのである。教育水準が低く、流浪習性とその日暮らしの生活習慣、病的心理からの理由なき反抗をする群集であると考える当局の考えから発する当然の管理体制であったのだろう。
 二次工事期間中、作業に携わる患者たちの態度は明らかに変化していった。以前のような自発的な熱意はなくなり、言われることだけをするだけで作業場に出ない者も出るようになっていた。
 1937年7月7日、中日戦争が勃発した後には、配給量は明らかに少なくなった。作業に出ても賃金が正しく支払われることもなく、何かにつけ職員は怒鳴りつけ、こき使うようになってきた。このような状況で、患者たちは仕事に出る意欲を少しずつ失うようになっていった。
 燃料の配給は火曜日、木曜日に8日分の240本だったのが,180本の減らされ、食事も朝夕の2食になり、飯とたくわんだけになった。昼間に火を使うことは厳禁された。いくら病んでも重湯1杯も食べることもできず洗濯をする意欲さえ出なかった。このようななかで悲しい出来事が起きてしまった。
 ある日、舊北里の女子独身舎で、女患者一人が同じ部屋の患友のために重湯を作っていた。人目をはばかり密かに作っていたが運わるく巡視員に見つかってしまった。金という韓国人巡視員は重湯の入った鍋を蹴飛ばし罵倒したのである。平素日本人の巡視は厳しいが、韓国人巡視は同胞の女患者の善行を見逃すこともできたのを鍋までひっくり返し罵倒したのである。
 この事実を知った舊北里の青年達はこれ以上堪えることはできないと、報復することを画策したのである。金巡視員が外回りの巡視日にねらいをつけ、決行した。熱血青年たちは金炳煥 孫在憲 朴洪柱 金季述等は道端の森の中に潜伏して、通りがかった金巡視をつかまえ。そして官帽を脱がし殴打した。不意の来襲を受け死ぬような思いを受けた金巡視は本当に撲殺されると思い死力をつくして絶壁の下へころがり逃げた。青年達は追撃しながら「奴をつかまえろ」と口々に叫んだ。大声に驚いた部落の人は鹿狩りと思い追って行った。一部の人は本当に鹿狩りと思い部落駐在の看護手に連絡し、看護手らは付近を捜索し、幸運にも金巡視は救出された。
 暴行した青年達は逮捕され傷害罪で小鹿島刑務所に6ヶ月ないし3ヶ月服役させられた。この事件は開園以後最初の事件だった。
 また、この頃から海岸を越え陸地へ脱走する患者も出はじめ、次第に年を重ねるにつれ増加していった。脱走するルートは舊北里十字峯の空を見上げることもできないうっそうとした老松と雑木の生い茂った原生林からが多かった。そこは鹿も生息する程の所で、患者たちが身を隠すには都合の良い所であった。
 海を行き来する船を買収して海峡を越えてしまうのである。また陸地側の人たちも夜陰に島に入り込み木々を盗伐していた。
園当局はこのような事を防止するために海岸線に沿って十字峯、海岸線道路を起工した。険しい断崖と岩石の多いこの地帯の道路開設工事は難工中の難工であった。また、その工事期間が厳冬期であり、土木機械が一つもなくチゲ(*背負子)とくわ、シャベルだけで行われた。謝恩更生日の作業のように、この工事も全園生が総動員され実施された。連日の強行工事によって20日間で総延長4kmの道路が完工された。作業途中に倒れてしまう患者は数え切れなく手足に凍傷を受け不自由者になってしまう患者も相当数出た。
 1938年1月下旬の事である。患者の強制労働動員が始まり、園当局に対する患者の不満は急速に高まっていった。

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第2次拡張工事を終え、小鹿島は様子を一新し視察に来た人々を驚嘆させた。現代式の煉瓦の建物が一面に広がり、道路も整然と整備され天然の風致林とともに、療養所の規模も整い周防園長の力量を高く評価した。しかし、周防園長の野心はこれだけにとどまらず第3次拡張工事を計画していた。もう少し施設を作り、名実ともに世界でも最上規模に発展させることを夢見ていた。その構想を諦めることなく固めていった。その頃5,000名に達していた朝鮮人患者を完全に皇民化政策で訓練していった。
 このような園長の腹心を察して忠誠心を表明していた側近が言うまでもなく佐藤三代治であった。看護長の佐藤はいつのまにか看護主任を統率監督する頭目職の首看護長の地位に成り上がった。佐藤首看護長の側近の患者代表は朴順周顧問であった。何かにつけ患者に関係する案件は二人の議論で決定されるほどであった。上官の信任を得るためにはどんなことでもした。ある日、朴順周は佐藤が差し出したたばこを一服し、「現在、自分たちが受けている配給食糧から1日5勺を減らし国防献金にしたらどうか」と佐藤に案件を耳打ちした
 佐藤首看護長はこの上もなく満足な表情であった。次の代表者会議に正式提議しろと朴に話した。その後看護主任と各部落患者代表者会議が開かれた時、朴順周が立ち上がり正式提議した。「消費節約の現時局に、このうように安穏と療養生活をさせてもらっている。わたしたち患者は国の恩恵の万分の一でも報いるために配給されている食糧から1日1人5勺を減らし、一線の将兵に送ることにしてはどうか・・」と。
 佐藤首看護長の前ではだれも反対意思を表明することはできず、この案件は議決せれてしまった。自分の部落へ帰って行った部落代表者は舎長会議を開き、患者たちはその趣旨を知らされた。国防と将兵慰問献金に捧げる旨の書式を作成し連名押印し、1938年2月11日日本紀元節を期して捧げた。
 園当局はこのことを忠誠心の発露と賞賛し、この快挙を許可し同年2月19日から即刻実施した。このような事情からそれでなくても少ない食料は男患者5合5勺(白米2合7勺半、雑穀2合7勺半)、女患者5合(白米2合2勺半、雑穀2合2尺半)に減らされた。献金という名の下に減らされた食料を金額に換算すると2万円(当時に日貨)であった。このようにして国防献金を納めた。  
 その年の7月に朝鮮総督府南次郎の来園視察があった。1922年花井院長の時に斎藤総督が来園視察した後、今度で2度目の視察であった。貴賓を受ける園は何日も前からものものしい騒ぎであった。病舎、道路にいたるまで清潔に掃除して、塵ひとつ、草ひとつ探しても見つける事も出来ない程きれいに清掃した。園生たちは清潔な衣類に着替えて中央運動会(当時煉瓦乾燥場)に集まった。
 まず前列に組織された消防手たちは征服姿で整列され、その次に学生たちと楽隊が席に着き、一般園生はいちばん後でうろうろと貴賓が現れるのを待った。
 南次郎総督が乗った高級乗用車が運動場横にすべりついた。場内はしーんと静まりかえり静寂となった。乗用車から降りた総督は壇上に登り、第一声に「諸君たちは大日本帝国に赤子である。…」と訓話を繰り広げた。通訳には呉順在が当たった。皇民化の成績が抜群で患者処遇が良好と周防園長は総督から賞賛を受けたのである。名誉欲は高く、勲位を昇っていった人間であり、患者との直接接触はなるべく避け、指示訓令だけを発するだけであった。儀式がある時だけ患者の前に豪華絢爛な礼服姿で現れた。
 正月元旦には消防手の出初め式がある。園内では青年達を総動員して消防手の制服を着せられて閲兵させた。ほとんど代々木練兵場の観兵式を思わせる豪華版であった。このときにも園長が礼服姿で現れるのは無論である。
 1939年4月経費27万円(当時日貨)でついに第3次拡張工事が始められた。最初に着工したのは船艙工事である。数多い物資を職員地帯の船艙から搬出入するために不便であった。病舎地帯までの距離も遠く、物資搬入時に荷役のために患者が職員地帯に入って来るのもふさわしくなかった。東生里沿岸は水深が深く大きな船も入って来ることができる。すぐに病舎地帯で荷役するにも便利で船艙を作るにはおあつらいむきの所であった。立地条件の良いここに築港することを決定した園当局は十字峯迂回道路工事に全ての患者の総動員令を出した。老若男女すべての患者を動員して働かせた。大きな岩石をチゲひとつで運んだ。婦女子もこれらの仕事にも従事した。潮流の関係で明け方まで、時には徹夜で吹きまくる海風のなか仕事をしなければならなかった。


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 東風(こち)が吹いた

 

500mにもおよぶ海岸線に沿って石垣を積み新作路を作った。急ピッチで石垣を築くために白昼のように電灯をつけ小潮に合わせて夜間作業をしていたある日のことであった。
 男女をとわず、全病舎園生たちがチゲ、ショベル、くわを持って総動員で働かされていた。一抱えもある大きな岩を運搬する。男はチゲで、女は頭に乗せ息も絶え絶えに運搬するのである。
 いつ頃から、だれの口から言われるようになったか分からないが東風(こち)と言えば佐藤首看護長を指すようになった。「東風が吹いた」と言えば佐藤首看護長が現れることの暗号になり、作業をする真似をして、その他は適当にするようになった。
 この工事に強制動員されながらも、各部落には煉瓦を責任量供出させた。園内建築用として使用するだけでなく,光州、麗水、木浦、高興などから注文を受け1年に180万枚を生産させた。このような園内外の煉瓦需要量を確保するために各部落に煉瓦製造の責任量を課したのであった。
 1年間に新生里、舊北里、南生里は85万枚、中央里、西生里、東生里は95万枚を作り、供出するよう割り当てた。1週間に1回ずつ必ず煉瓦工場まで運搬させた。1人2役、3役、二重、三重の重労働であった。このように割り当て責任量を生産しろと、毎日日本人看護長たちはせきたてた。
 明け方早くから起きて、原土の運搬、成形、乾燥、運搬と毎日の仕事はきつく、ノルマを達成し家路についた。この頃から逃亡者は日増しに増えていった。

目次へ          15  鄭水鳳式逃走


 新生里部落に入園していた鄭水鳳という若い青年はこのような重労働に耐えられずある日の明け方早く起きる園生たちを動員するふりをして「煉瓦運搬に行こう・・」と号舎ごとに走り回わった。寝ている患者を覚ますふりをして日本人監視の目を避けて海辺にチゲを投げ捨てて海を泳ぎ逃走してしまった。このような知能的な方法で逃走する者も日増しに増えていった。
戦時下の非常時局、国策として定められたいわゆる大政翼賛の傘下、銃後の国民として熱心に仕事する事が患者の役割であると、看護主任は口が痛くなるほど患者に話した。しかし腹は空き体は痛む。戦線へ薬品が大量に送られ、患者には薬品は与えられず病は悪化の一途であった。喜んで看護主任の応えて仕事をする者はなかった。看護主任に替わり工事現場で陣頭指揮する佐藤看護長の監督方法は日が経つにつれ粗っぽくなり,残忍性もますます深まっていった。

「お前たちは松の松虫よりも役に立たない害虫だ」「お前らの命は俺の一言でどうにでもなる」と、手にはこん棒と皮鞭を持ち、作業を少しでも怠ける者があれば容赦なく振り下ろしぶん殴った。額に半月型の切り傷があり、恐ろしい容貌であった。馬のような鼻をピクピクさせ、笑うかのようになればもうこん棒や皮鞭が容赦なく飛んでくる兆候だ。仮病で労働に出ない者や、動くことができず横になっている者などにも容赦なく食事を与えないなどの措置が取られた。


目次へ                16    松一株よりおとる患者の生命
 

南生里に入園していた李東という若い青年は篤信なキリスト教信者で多くの園生から尊敬を受けていた。ある日煉瓦の原土場へ出て作業に従事していた。
佐藤首看護長から作業にじゃまになる小さな松の木2株をどこかへ移せというの命令を受けた。しかし李東は急を要する患者に医師の診察を受けさせる為に病舎に帰った。彼は患者を背負って中央里の治療本館の内科室に行ったのである。佐藤の命令を忘れていた李東は、二日後、煉瓦工場に出頭しろという命令を受けて行った。すると佐藤は彼を原土場へ押し倒し、土足で首を踏みつけ「お前のような奴の生命はあの松の木よりおとる」とこん棒で殴打した後、監禁室へ入獄させた。
 出獄した日、彼は外科手術台の上で断腸の詩一編を残し、外科医のメスを受け入れた。

     

その昔、思春期の夢を見ていた

     愛の夢は覚まされ

     25歳の若さの今

     破滅していく手術台の上で

私の青春を慟哭し伏せているとは

     将来 孫を見たいと母の姿

     私の手術台の上で おぼろげに浮かぶ

     精管を遮断する冷たいメスが

     私の局部に触れる

     命の繁栄に逆らう

     神の摂理に逆らうメスを見て

地下のヒポクラテス(Hipocrates)は

今も慟哭する

 

このような二重三重の重労働、そして度重なる処罰のために、患者は佐藤の影さえ見ても、ビクビクし作業に従事した。子どもたちまでも佐藤の影を見れば隠れてしまう状態であった。
諺に「一人の母の子どもも様々」というが、高橋保導課長は別で、彼が部落巡回に出れば子どもたちも出て来て喜んだ。
 築港工事は120日で終わりを見た。延労働人員96,583名、総3,400坪の船艙が出来上がった。苦渋の労役により新しい施設がまたできた
 この年に周防園長は全国癩機関の長を呼び寄せた皇室の召集により東京へ行った。貞明皇后(昭和天皇の母)は園長たちの労苦を祝賀し、なお一層癩患者のために奉仕するよう御歌と3株の藤の苗木を下賜した。だれよりも功績の明らかな事を認定された周防園長は従四位勲四等を受けた。
 帰任して、全園生を集め長時間にわたり感激の報告をした。要旨は以下のようである。「わたしはこの度皇室より招かれ、皇太后と3間の距離から拝礼した。恐れ多くも陛下は諸君らの様子を尋ねられた。哀れと思う慈悲の御心に私は感泣せずにはいられなかった。私はまた身に余る祝賀を受けた。周防は諸君らの徳分を生涯忘れることなく、栄光の地位に立ちこれからも諸君らとなお一層苦楽を共にし一生を終える。」
 周防園長は至極、皇室に対するご恩を賞賛して際限なく時局講演まで長たらしく述べ立てた。渡日中には博士学位までも受けた周防園長は二重三重の喜びであったのか終日の講演でも足りないと見えてか何時間もの間続いた。公会堂の板の間に座り続けた患者たちにとっては苦痛の何ものでもなかった。用便もできずとても苦痛であった。ある患者は堪えきれず席に立ち用便をすませた。監視していた佐藤首看護長に見つかった者は不敬であると殴られた。集会が終わった後の板の間を見ればあちこちが水で濡れていた。
 また、周防園長は貞明皇后から御歌までも受けてきた。恐れ多くも与えてくれた御歌であると園当局は御歌碑を建立し、記念することに着眼した。島内に適当な石がなく四方八方物色したが遠く十字峯(西生里)で発見し運搬してきた岩に御歌を刻んだ。

        

      つれづれの 友となりても

               なぐさめよ

      行くとて かたき

               われにかわりて

                      (日文)

御歌を刻み公会堂正面(現敬天愛人碑の所)に建てた。11月中旬に挙行された序幕式には朝鮮総督府政務総監、全羅南道知事、高興郡守、警察署長、ウィルスン愛養園長、ブレッチャー愛楽園長等も来賓として参席した。
 この工事に次いで患者病舎、職員官舎、倉庫建物が継続増築された。1939年10月26日から11月20日までに8回に及び、各道(*道は韓国の行政区で日本の県にあたる)の浮浪患者1,205名が強制収容されて来て、小鹿島の収容総人員は5,970余名になった。必要な建物の増築工事はいったん終了するが、園長は患者がなお一層滅私奉公するようにと上官に命令し。12月にはまた大工事が計画された。
 例年にない酷寒が来襲していた。園当局は日本の京都より松尾という園芸師を連れて来て工事に着手した。この間にも継続していた労役により大部分の患者は病状が悪化し手足のあちこちが傷だらけであった。それでも強制動員し、労働に従事させた。完全に奴隷状態にされた患者たちは反抗する気力も無くなり機械のように工事現場に通った。山を切り崩し、岩石を担いで十字峯まで運ぶ。巨石巨木を背に担いで運ぶ。倒れると鞭が飛んでくる。鞭でまた立ち上がり気力を出してまた運ぶ。再起することができず死ぬ者もでた。この状況に耐えることができず自らの首をしめ、自殺する者も出た。海へ飛び込み脱出しようとするが渦に巻き込まれ最後を遂げる者も増えていった。
 各種の木々を移植し、公演建設が急ピッチに進められていた1940年1月中旬の極寒の吹雪の日のでき事である。佐藤首看護長はこの日普段より早く作業場に現れた。動員で来るはずの患者たちの大半がまだ現れてなかった。この日、各部落では室内大掃除があり遅くなったのである。遅れた患者はみな公園南側の峯で膝まずかされ殴られた。九死に一生を得た者を見れば全身が雪に覆われ膝は伸ばすことができず同僚患者が迎えに行き、家まで運んだとのことだ。


目次へ         17    公園の完成


 このように公園埋め立て工事は厳寒の真冬に着工され、作業に従事した園生たちは多くの苦難を経験した。佐藤の指揮は日が経つにつれ恐ろしくなり、次々に命令を下した。自分の目で直接見ないと気に入らず岩一つ、木一株を動かすにも指揮監督した。どんな作業でも、佐藤の許可なくして休息もできなかった。
 ある日、十字峯の山裾で大きな石を掘り出し、公園へ移して来るのに園内の人夫40余名を人選しこの作業を任せた。その中にはよろよろと足を引きずって歩く者もいた。90度もあるような断崖絶壁である。落ちれば死んでしまうような所の作業である。後をついてくる佐藤の許可なくしては休むこともできない。死ぬ力を出して人夫たちは峠を越え新生里を通り、石を公園にまで運び終わるや人夫たちはいっせいに歓声をあげた。誰からと言うのではなく、いっせいに声があがったのである。普段の佐藤であれば、皮鞭がとんでくるところであるが佐藤はニャッと笑うのみであった。
 数多くの犠牲者を出しながらも工事は進んだ。遠くの島からも運ばれた奇岩怪石が公園に配置された。また台湾にまで注文した南国植物を植え、公園の隅には池が掘られ各種の魚も放たれた。自然の姿を保ちながらも、人の手によって変えられ美しくなっていく小鹿島を見ることができた。仙境のような情緒の公園が翌年の1940年4月に完成した。
 作業はここで終わるのではなかった。今は労働能力もない不自由患者まで動員され松脂生産、カマス、木炭などの戦争物資生産までさせられた。木炭の原料をとるために高興、浦頭面、錦山面などの険しい山岳地帯にまで原木材料を取りに行った。このような作業に苦しむのは患者たちであった。拡張工事当初には人夫や技術者を島の外で集めて連れて来たが、この頃は大政翼賛体制の国策がすすみ、「自分たちの住む所は自分たちの手で」ということで患者がすべての作業に従事しなければならなくなった。一週間交代で原木伐採に従事するが患者は自分が生きて帰れるか悲壮な決心をして出なければならない危険度の高い作業であった。

目次へ         18   女看護員のプロポーズ

 毎朝作業場に出ると、昨日は誰が監禁室に入れられたとか、佐藤の皮鞭に打たれ病身になったなどの話がだされた。
 ちょうど古代のイスラエル民族がバロの虐政の下,奴隷生活をするようになったのと同じようだった。鉄拳とこん棒による虐待が日常茶飯事となり作業は続けられた。
 当時の癩患者をタブー視する社会風土は厳しく、治療本館に勤務する職員も、作業場に出る職員たちまで、目だけを出して、帽子、マスクにガウン、ゴム手袋の重装備で通って来た。このような状況のなかでも,ほっとするような女健康看護員と患者の間のプラトニックラブの一こまを紹介してみる。
 中央公会堂は観客ぎっしり埋まる超満員だった。舞台の両側の職員席でも看護員などの職員が観席していた。患者たちで構成した新劇団の公演である。「イスイルとシンスンエ」の三幕二場の公演が終わり、バラエティーショーが始まった。主演の段熙国は中折帽をかぶり一方の手にはステッキを持っていた。化粧をした姿でライトが当てられたステージのマイクの前に進み出ると、場内は死んだように静まり返った。

 

「錦山 麗水 南方の島 小鹿島

  波は静かで 風は清い

  失った希望と喜びを探し

  今日もまた、更生の峠を越えていく」

患者が作詞作曲した歌を歌った。患者たちは一斉に拍手喝采。アンコールの声が続いた。

  「対のない雁 ただ一羽 チョヨン河をめぐる」…・

今度は哀調せつない声で江原道アリランをしっとり歌い、手でステッキを回し足で調子を取りダンスを踊った。
 舞台の上を熱心に見ていた女看護員は横にいる友達に「段熙国さんにできないことはないわ、人もよく、文章もうまい、芸術にも素質があり、まるで貴公子のようだわ…」と語った。

「美愛さん あなたは段さんに惚れたみたいね…プロポーズしてみては、ホホホ…」
「患者なのにどうするの…・」
「患者だからどうしたの、あなたが真心込めて治療すればできるわ…」
「病気になっているのが本当に惜しいわ。社会に出れば、何でもできる人なのに…」
 二人で並んで座って見物していた女看護人たちが会話をしていた。
盗み聞いた熙国はますます熱心にステップを踏んだ。

この公演をきっかけ女看護員の李美愛と段熙国の間はますます深くなっていった。そして愛の恋文が通わされるようになった。

  「 愛する熙国氏
      

・「 ・・・・・・・・・・・・・・・・・*訳者 略

                      李美愛 拝  」  

  「 美愛さん

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・訳者略

 私はあなたを忘れることはできない

 私はあなたを忘れることはできなかった

 昔も 今も・・・・・・

    

南方の孤島に夜明け来たるその日には、粉々に壊された小鹿の破片 にも、私の愛の火柱は燃えあがる

                  熙国 拝  」

                         

  二人の恋文は何度か交わされたが最後は美愛の恋は悲愛に終わった。

        
目次へ        19    暗黒期
   周防園長の像@

  

一般患者たちは度重なる強制労働に死境をさまよっていた。部落患者代表と顧問患者は同患の苦難を救う方法を探す術もなく、園当局の事業遂行に協力する態度をとっていた。自分たちの保身のためには仕方のない処世術であったのかも知れない。上官たちに効果的な協力方策を考えるために会合を重ねた。会議の席には決まって佐藤委員長は臨席していた。
 ある時上官の信任を得ようとする者から提議が一つ出された。園長の功労を深く褒めたたえる記念頌徳碑を建てようというものである。議論は紆余曲折があったが、佐藤看護長の前では正面きって反対できる者はだれもいなかった。           
この時、朴順周顧問は後世へも永遠の輝きになるよう建立して,自分たちの名前も残す碑にしようという提案をした。朴の提案には異議なく通過してしまった。
 顧問部落代表を先頭にして建立募金が始められ、園生たちは泣きに泣かれず募金に応ぜざるを得なかった。応じない時の結果は自明の理であったからだ。実家から生活補助を受ける患者は送金されてくる金額の相当額を控除して献金した。一般的には作業賃金の3カ月分をそのまま献金するようになった。実家から送金もなく作業賃金ない不自由患者は配給食糧や配給衣料を売り払うように要求された。募金成績が悪い部落の代表には朴順周顧問が責任を追及し、建立に反対する者は不穏な思想者と呼びつけた。「不逞鮮人」の烙印が押されれば日本人から最上級の虐待と強迫を受けた。
 自らすすんで納めたという名の強制募金の総額は4万7千余円(当時日貨)に達した。
 本格的に銅像建立段階に入るや、場所を公園正面の高い丘(現40周年記念碑の所)に定め築台を積んだ。忠尚南道で購入した祭典用黄石を横につけ、花崗岩を18尺ほど積み上げ、花崗岩築台前面には「周防園長之像」と刻み、後面には4方が3尺にもなる銅板を埋め込み、次のように銅像建立者役員名単を彫刻した。

       理事    吉田達美

       発起人   佐藤三代治 呉堂淳治(呉順在)

             入田、永田、山本、遠藤

             保田、唐人原、(六部落看護主任)

       幹事    盧陽春 郭愛烈

             金敏玉 朴達葉

             崔一奉 具在奉

             姜甲洙(六部落代表)

       顧問    朴順周  李宗揆

       製作人   京都 泉林寺内一燈園

             松尾薫

 日本の京都にある一燈園に製作を依頼した銅像が1940年8月18日午後に船便で職員地帯にと到着した。翌日19日には職員300余名が下り、公園まで運搬された。公園までの沿道には園生たちが礼拝し黙想を受けて築台に乗せられた。そして、製作者と石工によって電気架設をし徹夜作業で8尺にもなる銅像が築台の上に完全に立った。
 8月20日には除幕式が行われた。日本の宮城貞明皇后の西川侍医官をはじめ、製作者、僧侶4名、地方有志,地元住民数百名が参席する盛大な式典が開かれた。園長家族の子どもの一人が除幕の紐をつかみ引くや幕は落ちて、立っている周防正季のもう一つの周防像が大衆を威圧して現れた。
 吉崎事務官の経過報告、来賓祝辞などがあった後に周防園長の答辞があった。要旨は次のようであった。
「六千の息子や娘たちが私の銅像を建てた。わたしは更生園初代園長周防であり、銅像は二代として信任した周防である。わたしは今度、上部に辞表を提出したが受理されず又来た。わたしは皆さんたちと共に生きて、ここに骨を埋めることをもう一度決心した。云々…・」とても感激的な話しぶりであった。
 これに続き、患者教師 姜甲洙作詞、神官竹島作曲の「園長の歌」が合唱された。

    国の (きよ)めに ささげ奉るは

    私等の慈父よ 園長閣下

    恵の園に 立てたる 銅像を

    祝ん 祝え めでたき 今日    (日文)

 この日一日は園長の特恵措置により患者たちも自由を楽しむことができた。

目次へ         20   周防園長之像 A 

 
 三次拡張工事竣工祝賀兼銅像除幕式祝賀の重なる慶事により、園当局も統制を少し緩め、祝祭行事に対する経費を惜しみなく使った。患者顧問と部落代表には金一封と洋服を一着ずつ与え、一般人には各種飲食の食券を一人当たり10枚ずつ配布した。模擬店を作り患者が食べたい店を訪れ食券を出して食べさせた。模擬店のサービス店員は園長をはじめとする上官や患者幹部たちであった。担当配役は次の通りであった。

 

  にごり酒店  周防園長

   おでん店   園長夫人

   菓子店    来賓(西田侍医官)

   レモン水店  庶務課長(吉崎達美)

   雑炊店    中央里代表

   うどん店   西生里代表

   クッス店   舊生里代表

   トック店   南生里代表

   小豆粥店   東生里店

   握り飯店   新生里店

 日本風俗の祝祭余興であるが、とにかく,せっかくの寛容な無礼講に患者たちの口にも笑みが広がった。銅銭が入った餅がまかれ、夕方には一燈園の楽団が公会堂で公演して祝祭の最後をかざった。たった一日の楽園は日が明けるや恐怖社会へと戻っていった。
 銅像建立後、負担は一層増えた。毎月20日を報恩感謝日と定め、全園生がこの銅像の前で整列して佐藤看護長の号令につづいて参拝した。家庭を持っている患者夫婦は早朝に銅像前に来て感謝参拝しなければならなかった。
 全園生参拝日は公園守によって人員点呼が行われるため、免れることはできなかった。毎月1日と15日は神社参拝、20日は銅像参拝。毎週月、水曜日には愛国班会議があり、時々時局講演会で召集される。また。煉瓦焼き、かます編み、松脂取り、炭焼きなどの労役はもちろん継続された。神社補修や国防献金で貴金属献納など金品の収奪も同じく施行された。
 年が経つにつれ就学児童が使っていた校舎は狭くなり、新校舎が中央公園運動場横に建てられ1941年春に移動した。また同年皇太后下賜金でやはり運動場横に修道館を建立し文芸事業センターとした。患者を奴隷のごとく取り扱い強制労働をさせて作ったが、文化施設にしても児童教育にもしても抜け目のない奇特な事であった。非人道的な患者処遇をする部下の職員たち実態をもしかすると周防園長は知らないのかもしれない。

目次へ         21   開園25周年記念

 

1941年5月17日は創立25周年記念日だ。事情により,何日か延期され、5月20日に中央運動場で大野政務総監、西亀本部衛生課長、そして武永全羅南道知事、梶川同内務部長、竹内同警察部長、そして厚生大臣金光庸夫など,その他にも多くの来賓を迎え盛大に記念式を挙行した。式順などは次の通りである。

     記念式順

  1.開会辞  (吉崎事務次官)

  2.宮城遥拝 

  3.黙祷

  4.国歌斉唱

 5.式辞(周防園長)

 6.告辞(大野政務総監)

  7.来賓祝辞

  8.職員、患者表彰

  9.被表彰職員代表答辞

 10.被表彰患者代表答辞

 11.閉会辞

 当日表彰を受けた者

1.職員

25年勤続看護手     1名

20年以上勤続看護長   1名

15年以上勤続嘱託    1名

       看護部長  1名

       看護手   4名

10年以上勤続書記    2名

       看護長   1名

       看護手   2名

       巡視    4名

       船夫    2名

       看手    2名

2.患者

入園以来園方針を遵守して鋭意、多数の患者の指導にあたり、六千患友の顧問として常々信頼を受け任務に忠実で功労の特に多い者

       朴順周   李宗揆

入園以来園則を遵守し、部落代表として他の患者を善導し、その功の多い者

    新生里部落代表     郭愛烈

    東生里部落代表     具在鳳

    南生里部落代表     崔一鳳

    西生里部落代表     朴達葉

    舊生里部落代表     金敏玉

    中央里部落代表     盧陽春

患者学園教師として多年に児童の教育力を注ぎ、功の多い者

    学園教師        姜甲壽

本園の治療により眼盲の体から光明を受け国家の恩恵に感謝し、患者売店書記長としてその業に忠実で、功の多いもの

    互助会売店書記長    尹在勳

大正6年開院当時より在園して部落相談役としてその責任に功労の多い者

     新生里相談役      崔永夏

入園以来多年間宗教伝導に力をそそぎ功労の多い者

     西生里相談役      黄中五

入園以来園則を遵守し、多年にわたり、不自由患者の代表として他を善導し功労の多い者

     中央病舎不自由者代表  林宗洽

多年間患者作業に担当して、その業に力を注ぎ、功労の多い者

     中央病舎作業助手長   李彩権

入園以来機関室火夫として精勤して他の模範とされた者

     中央病舎火夫      李敏化

入園後不自由者患者に編入され、ただ食事を受けるのはすまないと自ら部落道路の清掃に従事し3年、他の模範となった者

     西生里不自由患者    金泰坤

数年にわたり各病舎の残飯を集め家畜の飼料に供し、その行為が他の模範となった者

     南生里病舎       崔泰周

昭和7年以来葬儀係りとして寒暑風雨にもめげず勤務して、その行為が他の模範となった者

     中央里病舎       李彩権

昭和7年入園以来作業助手として実践し、他の模範となりまた、病室保全に格別に留意し、他の模範となった者

     舊北里病舎       安順伊(女)

園則を遵守し、永年在園し治療に専念した者で

25年以上在園者    崔榮夏   外  8名

     20年以上在園者    薛仁浩   外  9名

     15年以上在園者    具在鳳   外 75名

     10年以上在園者    孫判用   外277名

入園以来10ヵ年以上一度も帰省せずにいた者

                 白永文   外149名

入園以来他に率先して作業に精勤し模範となった者

                 朴洪桂

 当日の園長式辞は原文(日語)で次のようである。

「本日ココニ当園創立二十五周年記念式典ヲ挙行スルニ当リ政務総監閣下ヲ首メ多数官民各位ノゴ臨席ヲ辱フツタルハ淳ニ感激欣快ニ堪ヘザル所ナリ。願ルニ本島ニ癩療養機関ノ創設サレシハ大正5年2月ニシテ当時小鹿島慈恵病院ト称シ島ノ西端僅ニ十九萬九千余坪ヲ敷地トシ患者収容百名ニ過ギズ、其ノ後十数年間ニ渉リ粛粛拡張増員サレシモ尚収容人員ヲ八百名ヲ出デザル状態ニ在リシガ昭和七年十二月財団法人朝鮮癩予防協会設立セラレ、小鹿島全島ヲ買収シ翌八年大拡張ノ工ヲ起シテ以来六年、去ル昭和十四年十月予定ノ全工事ヲ完了シ収容定員一躍五千七百七十名トナリ、現在収容総数六千名ノ多キニ達シ尚モ内容外観共ニ充実シ園内ノ空気新一シテ真ニ理想的楽園ヲ形成スルニ至レリ。患者亦現下時局ノ重大性ヲ克ク認識シ皇軍将兵ノ慰問、国防献金等ヲ始メ時局ノ影響ニ伴イ入手困難ナル物資ノ園生生産、自給自足ノ為活動ヲ続ケシアリ、…・・中略幾多ノ御慈悲ヲ拝ス、特ニ紀元二千六百年祝賀ノ佳辰ニ際シ全国十七私立療養所ニ対シ多額ノ資ヲ御下賜アラセラル陛下ノ御慈悲ノ鴻大無邊ナル洵ニ恐懼感激措ク能ハザル所ナリ。今ヤ半島ニオケル救癩事業ハ既ニ其ノ曙光ヲ見タリト雖モ尚前途遼遠タルモノ在ルヲ想エバ吾吾当路者ノ責務重且ツ大ナルヲ痛感ス、幸ニ各位ノ御垂教ト御鞭撻ヲ得テ職員患者各各其ノ分ヲ守リ愈愈一致団結救癩事業ノ目的達成ニ邁進センコトヲ期ス。聊カ蕪辞ヲ述ベテ式辞トス 

              昭和十六年五月二十日

             小鹿島更正園長 従四位勲四等

                      周防正季

  1941年度患者一人当たりの経費は1年度分予算額は次の通りである。

      患者1人当たりの経費

    薬品治療材料  1人1日当たり  4銭

           計         87,661,30

       食 費     1人1日当たり  23,3

                  計        508,866,72
       被 服 費   1人1日当たり   2,4

                  計               53,115,00

       項目 予算額

    俸 給            102,742,00

       療養所           1,091,979,00

 

    1941年国防献金統計

      国防献金    50   1,404,38
           将兵慰問金   17     439,83

                   

 目次へ         22   発生した殺害事件@


 
1941年6月1日、25周年記念式があった何日か後に、園長から特殊功労表彰をうけている朴順周顧問がついに患者に被殺された。この日神社参拝日であり全園生は神詞堂へ出て病舎地帯は空の状態であった。
 何があっても神社参拝に出て行く朴順周であるが、この日は体が調子悪く自分の家で横になっていた。この機会を狙っていた全羅北道淳昌出身の李吉龍が家を訪ね刺したのである。李吉龍は手指もない不自由者患者であった。殺害用の刃物を手首に包帯でぐるぐる巻きにして侵入し、不意を襲いメッタ刺しにした。そして中央里の事務室に自首したのである。
 彼の動機は私怨からでなく6千患友の怨恨をはらすために決行した義挙であると主張した。また、単独行為であって背後関係はないとも語った。
「朴順周は最初は患者たちの真正な代表としていろいろな有益なことをたくさんした。彼がうしろ盾となり、交渉の結果帰省制度や家庭制度が実施された。わたしたち園生は彼を尊敬し代表者として認めていた。しかし後に患者たちを裏切り、上官たちに媚びへつらい謀略も巡らした。過度の忠誠心を現すだけでなく強制労働や強制収奪などを提議した。彼のために苦しんだ患者がどれだけ多くいたことか。患者たちは死んでも死にきれず慟哭している。彼ひとりが当局からの信任と寵愛を受け贅沢に過ごしている。まさに天下の罪人である。 皇国に忠誠しろという内容を力説し、反対するものがあれば不穏思想者だと脅迫している。これ以上堪えることはできず、私のような体の不自由な者でも6千患友のため、また死んでいった地下で慟哭する者たちのためにも恨みをはらすため死を覚悟して敢行した。」 法官の前でとくとくと陳述したが、まもなく死刑宣告を受け小鹿島刑務所の投獄された。しかし刑務所内で自殺した。この世に別れを告げたが患友たちは彼のため長く涙をながし冥福を祈った。開園以来、初めて発生した殺害事件であった。

目次へ         23   周防園長の被殺
 

この年の12月8日特攻によるアメリカの真珠湾攻撃とともに日本は宣戦布告をし、いわゆる「大東亜戦争」へと突入した。その影響が小鹿島にも及ばざるを得ない状況になってきた。それでなくても窮乏状態にある患者療養費が大幅に減額され、園長25周年記念式辞中の言葉を引けば「時局の影響下に入手困難な物資の園内生産と自給自足のための継続的活動」がなお一層奨励された。
 1942年6月20日の報恩感謝日であった。規定によりこの日も園生は銅像参拝のため起き上がる事ができる者は全員が公園に参集した。患者は銅像前の広場(現救癩塔前)に部落別に整列して、銅像築台より敬礼を受け訓話する予定の周防園長を待った。
 しばらく後に職員地帯から乗用車でが着いた。周防園長が随行員とともに銅像に向かって歩いて来た。園長が中央里の患者の整列した前を通り過ぎた。その時、隊列の中から矢の如く走り出た一つの影があった。驚いた患者たちはうなだれた首を持ち上げて見れば、患者一人が包丁を持って園長の前に立っていた。
「あっ」と立ちすくんだ随行員たち、心が元に戻った時には時はすでに遅かった。「俺の刃を受けろ!」という叫び声とともに鋭い刃物が園長の心臓に突き刺さった。ほんの一瞬の出来事であった。
「佐藤出て来い!」「佐藤はどこへ行った!」一突きで周防園長を射止めた下手人はまた、叫び声を上げた。血をあびた男が刃物をりりしく持っている。その姿に圧倒されて止める職員はなかった。彼の名は李春成であった。
 以前、満州原野だ馬賊生活もしたという慶尚北道の人であった。何らかの思想関係の犯罪で小鹿島刑務所に服役し、1941年に満期出獄してきた患者であった。結局患者の一人が彼に近寄り李春成が持っていた刃物を払い落とし、李春成もおとなしく捕らえられた。李が居住していた中央里部落代表は盧陽春であった。
 絶命した周防園長の遺骸は職員によってすぐさま車に乗せられ運ばれて行った。集合していた園生たちは速やかに解散させられ、当分の間、通行禁止になり外出禁止の厳命が下った。これに続いて包丁はすべて刃を取って出すよう命令が出された。
 何らかの報復があると園生たちは心配し、恐怖におののいていた。一方、李春成はすぐに出動してきた管轄警察署員に取り調べを受けたが警察官では相手にならず、検事の直接尋問にだけ応じ黙秘した。
 上司の殺害により、興奮した一部職員が李を集団殴打したが、吉崎事務官が絶対に手を出すなと引きとめ法官を待った。
 殺人動機に対して検事に尋問に李春成は朴順周を殺害した李吉龍の陳述と同様に、私怨からでなく義憤からの犯行であり、背後関係のない単独の義挙であると主張した。
「事実は佐藤を刺そうとずっと前から計画し、南生里作業場で刃物を作り出て行った。その日は運悪く佐藤は現れず、園長を代わりに刺した。」彼は現れなかった佐藤の代わりに園長を殺害したと真意を明らかにし、勲位の高い高等官を殺害すれば必然的に重大問題になり、それを機会に小鹿島の悲惨さを赤裸々に暴露公開して是正を願いたかったとの事であった。
 彼は職員たちの患者処遇、強制労働、献金という名目の強制収奪など、この数年間に行われていることの真相を一つ一つ指摘した。 犯人取り調べのなかで現れた小鹿島の悲惨な現実、すなわち真相を確認するために患者側の証人尋問も行われた。
 患者側証人として李が居住している南生里部落代表崔一奉が出頭した。崔が出頭する前に、吉崎達美事務次官が彼にあらかじめ耳打ちした。事態を円満に収拾するために李春成の犯行動機を単純に精神錯乱症から行った犯罪であると口合わせをした。
 修道館の中に準備された証人尋問場で法官の討議を受けた崔一奉は職員が事前に用意されていた通りに答えてしまった。
「李春成が陳述したような惨状はなく、患者たちは自ら進んですべての仕事をした。また時局を認識し喜んで耐乏生活に忍苦鍛錬した。李春成は危険な思想の所有者ではないが孤独な生活のなかで精神錯乱をおこし突発的に犯行をしでかしたようだ。」など李春成に不利な証言をした。
 李春成は南生里で居住し、弱者を助ける義侠心から中央里不自由者患者室の付添い人として仕事していた。1ヶ月に70銭の賃金を弱者たちにそのまま与えてしまうような侠客気質の所有者であった。一般患者からも信望を得ていても、事実と違う証言をせざるを得なかった。証言場には課長級の幹部職員たちが座って見つめていたためである。
しばらくして証言した崔一奉は後悔し涙を流し床に伏せてしまった。大邱裁判所で上告公判を受け、結局は極刑にされ刑場の露と消えていった。

父親の殉職の通知を受けてとんで来て、葬礼式に参席した周防園長の長男は「父は皆さんが殺害したのではなく、佐藤が殺したのです。父は皆さんのために仕事をした方であり、皆さんにできる限りの手を差し伸べ努力した人でありました。ここ小鹿島に骨を埋めるつもりでおりました。母もここで葬式をするつもりです。」六千患者にむしろ慰労の言葉をかけ、すべての人が感銘の涙を流した。
周防園長の息子は当時京城帝大(現ソウル大学)に在学中であった。彼の母親すなわち周防夫人も何年か前に病死し、すでに小鹿島で葬式をしていた。息子の言葉通りに周防園長は救癩に熱意を持っていた事は事実で、拡張期にも文化的な現代的施設を作るなど功績は大きかった。園生たちは彼を園長としての「権威」として見ていたが、本当の恐怖の対象は佐藤であった。


目次へ               24   極まりない宗教弾圧

 
 キリスト教が本島に伝えられ教会ができたのは遠く花井院長の時だ。1912年10月8日田中真三郎牧師(聖潔教)が朝鮮総督府から布教許可を受け来島し2日間集会をした事が教会設立のきっかけとなった。西海岸の白砂場と北病舎1号舎と8号舎で礼拝する患者を哀れに思い、花井院長が天照大神の神棚を祭ってある所をキリスト教礼拝堂として使用することを許した。島に伝わってきた福音の種は実を結び信者が増えるにつれ、天照大神の神棚は撤去してキリスト教礼拝堂専用に使うようになった。この時教会を指導した代表者は崔炳洙、朴克順、李鐘順、朴佑錫等であった。
 その後、花井院長は患者の宗教指導をさせるために日本人三井輝一を連れて来た。自ら高等師範学校を卒業した三井は多方面の素質があり、宗教だけでなく文学、美術部門の指導にも献身的に奉仕した。園当局の運営方針に不満を感じ1928年帰国したが、田中真三郎牧師の招請で1929年再度来園した。三井輝一は熱心に患者の指導に力を入れた。彼の指導で文学を研究した弟子の中には後日小説「愛生琴」を著した沈菘などがいる。
 当時三井はプリントで「ラザロ」という月刊文芸誌を発刊し、遠く日本,フィリピンの療養所にまで発送し、患者の交流の仕事をした。
 周防園長が赴任してから始まったキリスト教の弾圧が始まった。園生たちの代表は園当局の強行的な姿勢に抗議した。園当局から三井は露骨に忌避され、結局1935年8月に日本に帰国してしまった。
 1942年8月1日殉職した周防園長に代わって第5代園長として西亀圭三氏が赴任して来た。この頃より園当局はキリスト教を露骨に弾圧してきた。総督府警務部衛生課長として在任し発令を受けた西亀は周防の先輩であった。彼は就任し、最初にすることは民心を抑えることだと考えた。まず問題の佐藤看護長を更迭し転出させ人事を刷新した。職員たちにも患者と接する時、柔軟にするよう指示し、自らも率先した患者たちに一言一句尊敬語を使用した。そして精神的慰安と反抗心を和らげるために効果的と考えて敬神思想の普及に力を注いだ。

 このことからキリスト教との軋轢が生じたのである。むしろ宗教の自由を認めどんな宗教でも信仰させたほうが良いのに、西亀は神道に帰依させようとしたのである。
 銅像参拝はなくなったが、神社参拝の規定はより一層厳しくなり神棚を安置するよう奨励した。
 1943年には鐘閣の梵鐘、各部落の礼拝堂の鐘や、はなはだしくは周防園長の銅像までも献納するほどにまでなった。戦争物資を供出し、国策に協力しなければならない状況であった。このような状況のなかでは神道に帰依することの障害を除去しなければと考えたのである。
 キリスト教に対する弾圧、信徒に対する迫害は一般社会においても厳しかった。教会指導者の大量投獄、地下での信仰に対しても壊滅状態になる程であった。小鹿島においても、その旋風の外におかれることはなかった。
 神社参拝は偶像崇拝になり、十戒命を犯すことはできなかった。宮城に向かって東方遥拝もその一つである。日の丸国旗に対する敬礼もそうであった。主日(日曜日)に仕事をすることは神聖な聖日をおかすことになる。この日だけは煉瓦造りをはじめ仕事はできないと抗議するキリスト教信者を西亀園長は目の上のタンコブとして憎んだ。
 西亀体制には一つの特徴があった。どんなに憎いことであっても周防園長のように厳罰で処罰することはしなかった。鞭と厳罰の処遇でその場で苦痛を与えるのではなく陰険で陰性的な方法での懲戒処分をした。
 このような知能的な制裁方法によってキリスト教徒の力は萎縮させられ、殉教精神を最後まで守った人もあったけれど結局は信仰を守るため島の外へ出ざるを得なかった。
 美日戦争(*太平洋戦争)が終わりかけの1944年から45年は食糧難で園生たちの動揺ははなはだしく逃走者が激増した。本土に渡っても同じような状況であったけど、あらゆる手段を使って島から脱出して行った。逃走を防止するために夜8時には通行禁止にして人員点呼をする制度を新たに作った。部落作業助手を従えて巡視が病舎ごとに回ってきて人員点呼をする。人員が足りなければその病舎の連帯責任として食料の減配制度にした。点呼の終わりには必ず皇国臣民の誓詞を暗唱できるまで教育した。
 とうもろこし、大豆粕、こうりゃんなど少量の配給を補うため空き地という空き地を耕してかぼちゃやさつまいもなどを植えて食べた。それでも足らず草根木皮や海草など採取したやっとのことで命をながらえた。
 飛行機の空襲の関係で灯火管制がしかれ、星だけが光を与えてくれるそんな生活が続いた。暗黒と飢餓から救われることがない、そのような状況のなかで8.15の解放を迎えた。


目次へ         25   虐殺の修羅場

園生たちは日本の天皇が降伏放送をした事も終戦になった事も、韓国が解放されたことも知らずに8月15日が過ぎ18日を迎えていた。
朝食後各部落病舎長級以上は全部公会堂へ集合しろという伝達が届き、また時局演説か何かの時局講演であろうと考えて出て行った。集合した患者幹部たちはしばらくして現れた園長を迎えるためにいっせいに立ち上がり敬礼した。西亀園長は丁重に答礼しながら顔面蒼白な面持ちであった。
「皆さんを急に呼び出しのは他でもない戦争が終わったと本部より通報が来た。皆さん方の生活問題について良いニュースを伝える事ができるまで静かに待っているように。また、病舎に帰り園生たちには、他日吉報が来るまで静かにしているよう伝えてください。」との内容で要領を得ず喋りまくった。話を終え日本人職員をつれて出て行った。
 おかしく感じて席を立たず座っていた患者たちに韓国人職員がぶつぶつ言いながら話し始めた。「お前たちに園長があわてて言っていたのは、静かにしていろということだ。お前たちはまだ知らないと思うが、韓国は解放されたというニュースがラジオで放送された。今、外の社会では人々は街頭に出てマンセー(万歳)と叫んで喜んでいるのに皆さんたちだけが何も知らずに夢の中にいるのだ。」
 この話を聞いた患者たちはワアーと喚声をあげ、走り出て行った。またたく間に全病舎に知れ渡り、両親兄弟に会いに行かねばと荷物をまとめる者がいるやら、奴らの神詞堂を打ち壊し手に手に斧やハンマー、つるはし等を持って押しかける群集もあった。一方、歓喜に歌い踊るものもいた。また、部落の掲示板にはどこから知り得たのか、だれが書いたのか分からないが民族独立家の金九や李承晩など名前などが貼り出され黒山の人だかりになっていた。
 いつの間にか,荷物をまとめて出てくる患者は各部落ごとに漁船を取り出して群がり脱出をして行った。
 刑務所ではすでに乱闘状態で罪囚者が看守の着物を剥ぎ取り殴打して、日本人所長はぶるぶる震え、どうすることもできずにいた。金と朴は所長を捕まえ責めたてていた。「このやろうお前も服を脱げ」日本人は頭をうなだれ,しきりに助けてくれと哀願した。懐からお金を出し差し出していた。助けてくれる事に感謝した様子で、着物を脱ぎパンツ一つで山道を職員地帯へ消えていった。その他の看守たちも必死の思いで生命だけは永らえて逃げ出した。
  興奮状態の金と朴は刑務所から着物と靴を持ち出して着用するや,日本刀まで振り回し凱旋将軍のごとく病舎地帯をねり歩いた。
園内の南生里には日本人患者の高林政徹(1961年死亡)や中川達男(現釜山龍湖農場在院)、藤本勇(1968年日本菊地恵楓園へ帰国)等の三人が生活していた。平素より民族的優越感をもって患友を蔑視することもなく和やかに共に生活し、児童教育に従事した善良な性格であった。
 私感がなくても日本人を敵国人であるということで憎いという漠然とした感情で日本人職員をなりふりかまわず殴ることもあった。恐怖におののいた日本人たちは防空壕の中で何日も息をひそめて身を隠したり、学校の教室の床下に身を隠した。敵愾心を持って捜索して回るものもあり、殺してしまおうと竹やりを持っている者もいたが、引き止める患者が多く無事であった。
 過去、職員側について患友を虐待した者は身の危険を感じ、すばやく身を隠し、自分らに下される鞭をさけた。
このように何日かの間、理性を忘れた群衆で騒然として混乱した。このような渦中についに殺傷事件がおきてしまった。
 8月20日、その日も病舎地帯は殺伐とした空気が流れていた。東生里担当の看護手朴珍格が患者一人と口喧嘩になってしまった。険悪な状況のなかであったが職員地帯に知らせず、朴珍格はそのまま職務をとっていた。彼は前から患者たちに不遜な態度で接していた。「今はどんな時だ!日本時代と違うぞ!」不遜な態度に激怒した患者たちが朴を袋だたきにしてしまい、彼はそのまま命をなくしてしまったのである。病舎地帯と同様に職員地帯も騒乱のるつぼと化していた。西亀園長をはじめ日本人幹部たちはいち早く職務を撤収するや、残された韓国人職員間に壮烈な指導権争いが起きていた。
 地方出身の呉順在看護主任と宋四甲看護主任が園運営権を掌握するや咸鏡道出身の医師、石四鶴が異議を申し出たのである。石四鶴医師の言葉によれば「小鹿島更正園は病院であるため歴代園長は医師であるのは当然で,医師が運営責任を持たねばならない。」呉順在は「現在は過渡期であるため医師でなくても運営責任は持つことができる。一切の倉庫の鍵ももらっている。」と主張した。西亀園長が職務を撤収するとき鍵をはじめ印鑑などを医師の石四鶴に引継ぎしたが、呉は鍵を強奪したのである。
 今までも医務系の職員と事務系の職員の軋轢があり、小鹿島の一つのガンであった。周防園長の強制労働時代も医師たちは医師の立場から患者を診断して安静を要する患者や手術を要する患者を選び出して、治療をしようとしたが、反医務系の佐藤などは頑として聞き入れず,すべての患者に作業を強制した。医師系はいつも負けていたのである。
 
石四鶴と呉順在の指導権争いで呉順在が勝利し、残留職員たちだけで選挙をした。呉順在が委員長、宋四甲が副委員長に選出され、新政府が出現するまでの運営することになった。指導権争いで負けた石四鶴は六千患友たちを味方に抱えこみ反撃することを画策、病舎地帯へ出てきた。患者の一人李宗揆を探した。彼は李宗揆に「呉順在一派が倉庫にある生活必需品や食料,薬品をすべて島外に持ち出そうとしている。早くそれをくい止めなければならない」など語った。それでなくても責任者のいない無秩序な状況のなかで患者の補給用の物資を横領するのではないかと憂慮していたので、職員の一人からこのような情報を聞くや間違いない事実であると判断し,緊急に各部落に連絡した。
 もう少し慎重に提供された情報を分析し真偽を把握し綿密に計画した後に行動するのではなく、石四鶴等の偽の情報と煽動にそのまま乗り無分別な連絡をしたことは患者代表の重大な間違いであった。情報を慎重に分析し判断して行動を開始できなかったことは今でも悔やんでやまない。
 雰囲気は無条件に我々によい形成であるとの李宗揆の連絡を受けた六部落の患者たちは手にこん棒やくわを持って治療本館に集まってきた。歩ける者すべてが出て来て大示威行動となって職員地帯へ押しかけて行った。巡視本部(現指導所本部)では患者の動態をうかがっていた。過日の虐待にたいする患者の復暴動が起きるのではないかと警戒していた矢先、殺気だった大衆の怒号が押し寄せ迫ってきたのである。緊急に職員本部に連絡が入り,鎮圧のための空砲が撃ち放たれた。
こんな最中、治療本館の二階では石四鶴が声を張り上げ煽動に余念がなかった。「玉のない空砲だから心配せず、前へ推し進め」この激励に力を得た示威群集は一層気勢を上げて銃の音を気にせず突進して行った。
 実弾はついに発射され、いちばん前にいた三人が血をあびて倒れた。「実弾だ、弾があたり死んだ」前から誰からともなく声があがり、驚いた群集はちりじりに逃げ出した。8月20日の事であった。

 「我々がこのように対立して血を流すのではなく互いに妥協して園運営をしていこう。明日午前9時に巡視本部で協議をする。患者代表者すべて出てくるように」と呉順在側からの提議がなされた。平和協調に応ずることで合議を見た部落代表と幹部たちは大きな期待をもって翌日指定された所へ出て行った。
 出て行くや、待機していた武装職員と鹿洞から応援にきた武装治安隊によっていきなり縛られ、その場で銃殺されてしまった。前もって用意されていた海辺の窪みに処理されてしまった。
 事前に作成された名簿により、職員たちにより患者指導級の人が各部落から引き出されては銃殺された。最後は窪みに薪を積み火をつけ、その上に生きた人を放り込んだ、まことに阿鼻叫喚の生き地獄であった。死ねず苦痛を訴える悲鳴、生火葬を受けながらも泰然と座り自己の霊魂を神に祈る患者幹部の姿もあった。周辺では同患が仏となり、死にいくのを見て精神異常になる者もでた。生きても悲惨の極みであった。動乱を鎮圧するとの口実のもと、事実は反対分子の粛清の手段として無慈悲な虐殺を敢行した呉順在などの行為は天人共怒する過ちである。武器の前に無力な患者に対してもう少し寛容でなければなかったし、銃殺しなければならない事情があったとしても最小限にかぎらなければならないことであった。
 虐殺がここで終わりを告げたのではない。解放直前に園で購入しておいた大豆を積載しに桟橋方面に行った作業助手たちと人夫たちを海上で出迎え銃殺してしまった。多島海海峡が血で赤く染まり大豆だけが船艙にころがった。
 恐ろしい殺戮旋風が園内を吹きまくった。この海上殺戮で朴順岩、李聖基、趙敏吾、全昌述、除永達等5名は九死に一生を得て生き残り日が暮れるのを利用して海へ飛び込んだ。
 職員患者間の流血衝突の契機を作った張本人の石四鶴と患者の李宗揆はデモが失敗した日、身辺の危険を感じ真っ先に高興方面へ逃げた。一時は殺戮を免れたが結局は所在が明らかになり捕まり石四鶴だけは命は救われ、患者李宗揆は園生の見るなかで火葬されたとのことである。
 虐殺された総数84名。李宗揆の死を最後に職員患者間の敵対行為を中止しようという和解が生じ、二度とあってはならない虐殺の修羅場は幕を下ろした。
 1945年9月21日、アメリカ軍政庁から発令を受けた新しい園長が赴任して来た。

            ハンセン病啓発冊子「セピ(新しい光)vision より
                協力  シン ジョンファン氏   
                    セピ社(ソウル)