1976年は青焼き、ガリ版刷りから銀色感光紙コピーの時代へ移行しつつあった様に思う。原稿は透かし紙に
濃い鉛筆で書いて青焼きかコピーして配っていた。そしてそれらの会誌は、時が経つにつれて紫外線で感光し
消えていった。
四畳半友の会 会則 の 序
さてさて、凡夫よ!一つの志し遂げんと欲し、何処かよりこの地、河内の国に来たれり。ここで
方丈の庵を構え、ゴキブリと共にす。月下独酌し、一人孤独を楽しむ。一人自由を楽しむ。
一人パチンコを楽しむ。程なく彼の地より此の地に来たる異人どもと相見え、酒食を酌み交わし、
雀卓を構え、朝に夕に遊ぶ。共に狂人たれば何ら異を唱えることもなし。光陰矢のごとく過ぎ去れり。
其の間様々有りて筆舌し難せども、嗚呼!我ら何をか成せし。徒らに時を失いしか。徒らに年旧りしか。
はてさて何をか嘆かむ。我ら此の地、河内に学を志さば、学知らざること減じ、知増ゆることこれ
多かりし。学必ずしも成り難せども、楽しき時を過ごすこと多かりし。此れ真なればなん、其のこと
のみにて良からむ。皆人居直り、短年月楽しき時を過ごせし。斯くて異人ども四年五年余りの月日を
互いに過ごせど、その志必ずしも同じからず。東に去る人あり、西に去る人あり、河内の国に留まる
人ありて、散り散りばらばらになれり。異人どもの一人、此れを嘆いて曰く、『如何せん、年に一、
二度会を開かむ。交通も便なればなん』。他の人曰く、『それは良き思い付き、我、賛す』。
かうして年に一、二度、会を開かむとす。この時ある人、『四畳半友の会とせん』と。皆人どっとぞ
笑いにけり。殊更異を唱える人もあらず、忽ちにして会のしこ名決まれり。やがて第一の正月を過ご
し、第二の正月を迎えんとす。この時までに第三回目の会を開けり。その後、会としての形式を
立てんとし、ここに会則を起草し、発表す。
我ら、時を同じくして共に学び、共に遊びし者。彼の地より来たりて此の地に住み、此の地を去りて
彼の地に住めど、若き日の思い、永久に変わらず。ここに『四畳半友の会』を宣し、嘗て共に学び、
共に遊びし証しを立てむ。
昭和五十一年 霜月 朔 起草
後から読み返してみるとなんと懐かしいことよ!そういえばそんな事もあったなぁ、と思いつつ
少し加筆訂正しているがほとんど当時のまま載せています。
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