彼は、いつだって、その眼差しをくれるから。
だから、―――
ビルの谷間に陽が傾き、青空はゆっくりと朱に染まっていく。
黒子は手の中に落としていた視線を上げた。陽が沈み始め、ほんの少し手元が暗くなっていた。時刻を確認しようと視線を動かせば、駅前のこの広場に聳え立つ時計がすぐに見付かった。時刻は、丁度七時。
そろそろ、待ち人が来る頃だ。
黒子は手の中の文庫本を惜しみながらも、鞄に仕舞おうとした。けれど、その前に広場を見渡し、行動を中止した。待ち人の姿はいまだ見えない。ならば、見えるまで気になる続きを読めばいい。そうして、彼が到着して、自分が気付かなかったとしても、彼から声を掛けてくれるはずだ。いつものように。
脳裏に浮かんだ柔和な風貌に、黒子は笑むでもなく、唇を引き結んだ。そうして、思い浮かんだそれを打ち消すように頭を振って、活字の世界へと意識を落とした。
何ページか進み、物語の終盤に差し掛かったその時、視界の端に影が二つ、スッと映った。黒子は引き寄せられるように、視線を上げてそれを追った。
影は、人だった。海常の学生服を身に纏った、男女だった。
仲睦ましげな彼らは、恋人同士だろうか。邪推、と呼ばれるそれは、けれど正鵠を射ているはずだ。黒子はそう確信していた。
胸を刺す痛みを堪えるように、黒子は唇を噛み締める。知らず、手の中の文庫本に力を込めてしまう。
視界から消え去った彼らは、別に黒子の知己ではない。だと言うのに、二人の存在はこの心に傷を与えた。
それは、何故か。黒子はその答えを知っていた。
痛む胸を撫で、黒子は問いかける。
(彼も、やはり、そうなのでしょうか…)
けれど、自問に返る応えはない。
その代わり、答えを持つ待ち人の姿が黒子の双眸に映った。
明るい金茶の髪を弾ませて、此方へと駆けて来る彼を見詰め、黒子は小説を閉じて鞄の中に仕舞いこむ。ページが裂けていることには気付いたけれど、黒子は見ないふりをした。
そのまま立ち上がり、黒子は彼に向って歩きだす。
少しずつ、はっきりと彼の輪郭が掴めるようになると、双眸の色もハッキリとしてくる。
黒子は、そのヘイズルの双眸が嫌いだった。
ツキリ、ツキリと痛み始める黒子の脳裏に、ふと先ほどの光景が蘇る。彼と同じ、海常の制服に身を包んだ、あの男女。二人の双眸に宿った、熱を。
「待たせてごめんね、黒子っち」
そう言っていつものように柔和に微笑む黄瀬を見詰め、黒子は少しだけ視線をずらした。彼の顔は見えるけれど、視線は繋がらない。その事実に安堵した黒子は細く息を吐き、彼への答えとして頭を振った。
そうすると、彼は数回瞬きをして、訊ねてきた。
「今日は、何食べたいっスか?」
いつものように黒子に手を差し出して。
黒子は暫し迷い、呟く。キミが得意なモノを、と。そうして、彼の大きな手を取った。それが、歩き出す合図となる。
黒子は、決して、彼よりも先を歩かない。中学の頃は、そうではなかったけれど。友人から関係が転じた今は、どうしても彼の前を歩きたくなかった。
だって、彼は、慈愛の色を籠めた眼差しを向けて来るから。そんな瞳で見つめられると、心が痛くて堪らなかったから。だから、彼の視界に入るのが黒子は嫌だった。その瞳に宿る慈愛を見るのも、黒子は嫌だった。
黄瀬と黒子は恋人同士だから、熱を孕まない、生温いそんな色は怖いだけだった。
小さな手をやんわりと包み込み、黄瀬は自分のマンションへと心なし急いでいた。
今日あったことを話してみても、黒子は大した反応を見せない。別にそれはいつものことだから、それでもいい。けれど、視線が合わないことが黄瀬を不安にさせた。
黒子はいつだってちゃんと黄瀬の目を見てくれたのに、今日は何故か彼と視線が繋がらない。
何かあったのだろうか。下らない談を口にしながら、黄瀬は思案する。
昨日電話した時は、別に何もなかった筈だ。その時に黒子の明日明後日の土日がオフであることを知った。廻り合せのように、黄瀬も土日がオフだったので、久しぶりに泊まりにおいでと持ち掛けたのだ。拒否の声は一切上がらず、彼は了承した。おかしな様子も、やはりなかった。泊まりは初めてではないから、緊張しているというわけでもないだろう。
ふと、思い出す、先日のこと。映画館で黄瀬が飲食物を買いに彼の元を離れていた、その時のことだ。彼は、ベビーブルーの瞳を一組のカップルに向けていた。どちらか一人に向けていたわけではなく、男女の一組に向けていたのだ。
その事実に黄瀬の心が焦燥に揺れた。
黒子は、黄瀬の恋人だった。告白をしたのは、高校に上がった年の八月の終わりに、黄瀬から。黒子は酷く戸惑い、けれど頷いてくれた。同性からの告白に。
あの反応から見るに、黒子はノーマルだろう。
勿論、黄瀬もノーマルだ。男に性的目的で触るなんて冗談ではない、吐き気がする。けれど、黄瀬は黒子には触りたいと思う。ほっそりとした項も、すっと引かれた鎖骨のラインも、学ランに隠されたその肌も、余すことなく、触りたいし、知りたい。
好きだからこその、当然の欲求だ。
黒子の前に何人もの異性と付き合ったことがある黄瀬なら、ノーマルで初心な彼を思うがままに、淫らに狂わせることが出来る。それは酷く甘美な誘いだったけれど、黄瀬はその手を振り払った。
黄瀬は、黒子が好きだった。そして、大事に想っている。決して、欲望任せに蹂躙したいだけの、易い想いではなかった。
だからこそ、黄瀬は自重する。女は愚か、男との性的接触に慣れていない彼を怖がらせないように。手を繋ぐことならまだしも、抱擁以上は濫りにしないと。
けれど、だからと言って、黄瀬は彼の幸せを絶対的に願うような良心的な男ではない。黒子がノーマルのカップルを見ていたらその心が揺れるのではないかと危惧し、外出は避けるようとする。そうして、二人だけの空間を求めるだろう。その目が異性を求めたりないように。
同性である黄瀬では、普通と呼ばれる幸せを彼の手に差し出すことはできない。だが、かと言って、この手を取ってくれた彼を手放す気もない。それを申し訳ないとも思えない。もしも、彼の手に普通のそれを与えようとする女が現れたなら、必ず良心の呵責と共に消えて貰う。
黄瀬は、本気だった。迷いなどなく、覚悟を決めていた。
彼とずっと、長い時を共にするのは、自分であるのだと、黄瀬は決めていた。
だからこそ、黄瀬は出来る限り黒子を大切にした。彼の意志を疎かにしたりせず、傷付けることもせず、大切にしてきたのだ。
なのに、今、黒子は黄瀬を避けていた。
黄瀬は思案しても一向に出てこない答えに呻きたくなった。
(こういうときは、聞くのが一番なんスけど。さあて、黒子っちが答えてくれるかなあ)
半歩後ろを歩く恋人を黄瀬は肩越しに見遣り、口を開いた。
けれど、それより早く、視界の中の唇が動いた。読唇術なんて高度なモノを持ち合わせていない黄瀬は、けれど違うことなくその唇が模った言葉を読み取った。
黄瀬はその言葉を理解できず、悠然と立ち止まった。黒子も併せて立ち止まる。
訝るベビーブルーの視線とはやはり繋がらず、黄瀬は薄い微笑を張り付けたまま意思共々凍りついた。
ぐるぐると頭の中で回るのは、小さな唇。その唇が動く。何度見ても、同じ言葉を繰り返している。
『きせくんは…黄瀬君は、やっぱり、女の子の方が、好きなんですか……』
「あ、の、あの、黄瀬、くん?」
二人で黙然としていたのは、一体どれ程だったのか。不意の黒子の呼びかけに黄瀬は意思を取り戻した。
目の前で不安げに揺れる瞳を見つめるが、やはり、繋がらない。愕然としながらも黄瀬は小さな手を握り締め、そうして、歩幅など気にも留めずに歩き出した。
目指すのは目の前のマンションの自室。
背に投げかけられる悲鳴など素知らぬ振りで黄瀬は黒子を引き釣りマンションのエントランスを抜けていく。鉄の密室空間が浮上していくのを味わいながら、黄瀬は唇を噛み締めた。
「きせくん、きせくんいたいっ」
手を掴む腕に縋り付く温もりを感じながら、黄瀬は開いた鉄の扉の向こうへと足を踏み入れる。暫く歩けば、自室の玄関扉が見えてきた。
鍵を差し込み、扉を開き、黒子をその中へと押し込む。鍵を締め、チェーンも掛けて、黄瀬は漸く噛み締めた唇を緩めて安堵の息を吐きだした。
これで、ひとまず黒子を取り逃がすことはない。
凍りついたまま微笑を浮かべる唇を歪に綻ばせ、黄瀬は黒子の手を放し、代わりにその細身を抱き上げた。
「きせくんっ」
慌てる声になど耳を貸さず、二足の靴を脱ぎ捨て、黄瀬はリビングを目指した。
黒い革張りのソファに、黒子の腰はやけに丁寧に沈められた。細い肩からは通学鞄が取り上げられ、黄瀬の手によってキッチンの方へと放り投げられる。
薄暗い部屋の中に怒号が響かないものの、黄瀬が憤激しているのは明白だった。
常に飄然とし、饒舌な彼が黙然と表情を削ぎ落としているのは、一種の威圧だった。黒子は息苦しさに俯き、身を縮こまらせる。
黄瀬は、あの時の呟きを聞いていたのだろうか。いや、黒子は音にはしなかった。けれど、黄瀬の様子が一変したのは、その呟きの後だ。
『きせくんは…黄瀬君は、やっぱり、女の子の方がいいんですか……』
当たり前のように道端に転がっている、男女の図。その二対の双眸に孕む熱。そして、ヘイズルの瞳に宿る慈愛。そんなモノが、あの時の黒子の頭の中をぐるぐると回っていた。
だから、込み上げる衝動のまま、そう唇が動いた。黙して、心に秘めておくつもりだったのに。黄瀬は、見たのだろうか、その言葉を。
黒子は手を握り締め、息を詰める。
その黒子の大腿に、黄瀬が乗り掛かってくる。体重は掛けられていないが、威圧感は嫌に増す。
「ッ、あ……」
失言であったのだと、謝ろう。そう思い、顔を上げた途端、黒子は咽喉を凍らせた。
熱も、慈愛さえもない氷の眼差しが、そこにあった。
大きな手で両の頬を包まれ、その眼差しがより近くに寄せられる。黄瀬は表情を削ぎ落としたままで、黒子の失言を音にした。
「黄瀬君は女の子の方がいいんですか、ってなんスか、ソレ?」
「………っ」
「オレ、黒子っちのことが、好きって言ったッスよね?」
「……きせ、くん」
「なんで、そんな勘違いしてんスか?」
「……っ、きせく…」
ねえ、答えてよ。
そう問いかけてくる声と冷え冷えとした眼差しが痛くて、黒子は視線を横に逸らした。すると、突然腕を引かれてソファに押し倒された。
驚き目を瞠る黒子の肢体の上に覆い被る黄瀬は、白藍色の頭をソファに押し付ける。
「視線を逸らさないで、黒子っち」
片手で頭を固定し、黄瀬は白い頬を指先で撫でてくる。その仕草はくすぐったく、その言葉は黒子の心を痛ませた。
口を噤んだまま、なにも喋ろうとしない黒子の唇に、不意に熱が触れる。
目と鼻の先に位置する見慣れたヘイズルの瞳に黒子は目を瞬かせ、肩を跳ねつかせた。そんな黒子を宥めるように、黄瀬の舌がゆっくりと愛撫するように唇を撫でていく。
熱が唇を這う度に、ぞくりと背筋が震えた。黒子は初めて体験するそれに身を震わせ、黄瀬の腕に縋り付いた。
黄瀬の唇が、黒子の小さな唇を啄み、その舌が上唇を下唇をと形を辿るようになぞる。ゆっくりと、時間をかけて。
黒子は身体中を震わせて、瞳を閉じた。力が入るところなど、既に瞼にしか残っていなかった。
抗う術を一つとして知らない黒子は、歯列を指に割られて黄瀬の舌の侵入を許してしまう。舌先が触れ合うと腰に響くような掻痒感が走る。ぞくりと腰が震えては黒子の身体には熱が籠り、息が上がっていく。
だが、黄瀬の舌は休むことなく、ゆっくりと蠢き柔らかな口中を味わった。
黒子の目尻に涙が溜まる頃、黄瀬は舌を抜き、唇を解放した。
息が上がる黒子の唇を指先で撫で、黄瀬は問いかけた。
「キスぐらいじゃ、オレの気持ち、信じらんない?もう一回、同じこと言ってみる?でも、そんときは、オレがなにするか、分かるッスよね?」
額に掛かる髪を後ろに流してくれる彼の瞳には、さっきまで宿っていた冷たさはない。慈愛の温もりが宿っていた。
黒子はほろりと涙こぼし、穏やかになる呼吸の合間に彼を呼ぶ。
「きせ、くん…」
「好きっスよ。女の子なんて、どうだっていいっス。黒子っちが、好きっス」
「き、せくん…」
「だから、こんなことさせないで。無理矢理に奪うだけが、恋じゃないっスよ。与えるだけのものでもない。慈しんで、愛しんで、育んでいく恋だって、あるんスよ」
涙で濡れる頬を舐められ、目尻に口付けられる。その唇が、くろこっち、と独特の呼称に動く。
「ねえ、黒子っち。オレは、黒子っちとそういう恋がしたい」
そう言って間近で笑む黄瀬を、黒子は真っ直ぐに見詰める。そうして、細く謝辞を零し、慈愛に満ちる目元に口付けた。彼との恋を、慈しむ為に、愛しむ為に。