「はやく、はやく」
数字とアルファベットが羅列されたパネルを忙しなく指で弾く。ほっそりした指は連打の速度にヒクヒクと痙攣を時折起こしては綱吉の顔を歪ませる。だが、今はその痛みすら感受しよう。この頑迷な扉を開けられるのならば。
だから、早く開け。奴等に見つかる前に。
本能が指し示すアルファベットと数字を弾きながら、綱吉は背後の気配を探る。背後は冷たいコンクリートに囲まれた通路。付近からの音はなく、不審な空気の揺れもない。例え、今誰かが此処に見回りに来ても、其処彼処に未開封のダンボールがつまれているお陰で長い真っ直ぐな通路であるにも拘らず、綱吉の姿は隠されて見えないはずだ。
大丈夫、まだ誰にも見つかっていない。
何者の気配も感じられない背後に、微かな安堵が生まれる。脳を甘く蝕もうとゆるりと這いだしたそれに、綱吉はヒクリと咽喉を引き攣らせた。
「見つかるのは時間の問題だ。だから、早くっ」
数十桁という膨大なパスワード。これは最早、あの男の嫌がらせだ。
この扉の向こうを支配する清冽な美貌が脳裏に浮かび上がる。あの男に今見つかったらどうなるのだろう、なんて思い綱吉は恐怖に身体を震わせた。答えは自明だった。殺される。
大丈夫、大丈夫。
全く以って根拠のない慰めを心の内繰り返し、パネルを一層強く弾く。
まだ、見つかってない。だから、見つかる前に、此処を潜って行くのだ。
普段の綱吉ならば、こんな数十桁ものパスワード覚えられるはずもなく、この扉を開くことなど出来なかっただろう。だが、生憎、今の綱吉は普段とは違い追い詰められている。お陰で有難い事に、超直感なんて不可思議な能力が発動されている。
本当を言えば、全く以って有難くないモノだけれど。この能力も、この現実も。だが、そんなことを言ってもどうしようもない。わかってはいる。けれど、納得など出来るはずもなく、綱吉は唇を噛み締めた。
「なんで、なんで、―――こんなことに、こんな……ッ」
ほろりと零れ落ちた涙。頬にはうっすらと水路が出来上がる。綱吉はそれを乱暴に手で拭い、嗚咽を上げまいと息を止めた。止まっていた指を握り込み、深くゆっくりと呼吸を繰り返す。
指は震えながら、再びパネルを弾き始めた。
最後の、一つ。パネルを弾く綱吉の顔はぱっと輝いた。
そして、次の瞬間、目の前のコンクリートに白銀色の凶器が突き刺さった。それは、とても、とても、見覚えのあるもので。言うならば、それは恐怖の権化とさえ言える物だった。
綱吉は背に冷たい水が流れていくのを感じた。肌の全体が鳥肌立つ。直ぐ背後、凍てつく気配がある所為だ。それが誰のものかなんて、考えるまでもない。
「やあ、綱吉。此処で何をやっているんだい?」
ひんやりとした手で、綱吉の首を背後から囲う人間なんぞ早々いないのだ。低い美声を甘く、辛辣に、この耳に吹き込む人間なんて。
「ひ、ばり、さん」
ギチギチと鳴りそうな首を戦々恐々と巡らせ、背後を見遣る。其処にはやはり、先の綱吉の脳裏に浮かんだ清冽な美貌があった。
そう、雲雀恭弥が、冷たく微笑んでいた。
「ひ、雲雀さん、放してくださいっ。下ろしてくださいっ」
楽々と肩に担がれ、綱吉は暴れた。暴れたはずなのに、彼には大して通用していない。自分が女性の体格とそう変わらない華奢なものだという事は自覚していたが、此処まで無力を感じると流石にプライドが傷付く。
綱吉は身体から力を抜き、品の良い黒のスーツを握り締めた。逆さに見る男の背は広く、なんだか物悲しくなる。
スンスンと鼻を鳴らしているのに、雲雀は綱吉を担いだままいつものように凛然と歩いている。綱吉が逃げ回っていたボンゴレ日本地下支部の中を。向かう先は綱吉の執務室辺りだろうか。
「雲雀さん」
懇願じみた声音で、戻りたくないと言外に訴えてみるが彼からの返事はない。寧ろ怒っているような風情がヒシヒシと伝わってくる。
綱吉はぐすりと鼻を鳴らし、瞳を潤し始めた。目の前の黒が滲み、額へと水が伝っていく。
「ふ、……っぅー」
無言を貫き通す男の背に額を押し付けたまま、声を押し殺す。
シュン、聞き覚えのある鋭い音がした。
恐らくは自分の逃亡劇のスタート地点に戻ってきた証なのだろう。綱吉は唇を噛み締めた。
ほんの少しでいい、一人で外に出たくて、側近や家庭教師にそれを願ってみた。彼らの答えは何れも同じで、否。理由を聞けば、危ないと言う。生憎、自分一人の身ならば、どうとでも守れるというのに。訴えても、訴えても、答えは決まって否。やんわりとだろうが、きっぱりとだろうが、言い難そうだろうが、申し訳なさそうだろうが、結果は否だ。
彼らは綱吉に妥協する気はないらしい。だったら、自分が勝手に出て行けばいい。そうでなければ、自分の願いは叶わないのだ。さあ、これの何が悪いと言う。
当時の感情が蘇えり、綱吉は自分を荷物のように抱え込んでいる男に文句の一つでもと口を開く。が、丁度タイミングよく綱吉は弾力のある某かへと放り投げられた。
噛みはしなかったが、舌を飲み込むような感覚に陥り、抜け出せず綱吉は悶絶しそうになる。
漸く落ち着き、辺りを見渡せば此処は綱吉の寝室だった。
姿の見えない雲雀はどうやらこの部屋から出て行ってしまったらしい。もしかしなくても、鬼の家庭教師を呼びに行っているのだろう。
綱吉は放り投げられていたベッドから足を下ろした。差して広く間取りを取っているわけではないが、一通り揃う家具が窮屈に配置されない程度の相応の空間はある。最近では年単位でイタリアに在住することもあったが、それでも日本人の習慣が抜けない綱吉は靴を脱ぎ捨て、裸足になり壁際にある机へと寄る。
机上には今日の明け方まで決済を仕上げていた書類の山が五つ並んでいる。そのうちの一枚を手に取り、紙面のイタリア語を眼で追う。そして、書類と共に溜息を一つ落とした。
「怒られる前に、部屋にもどろ」
裸足のまま向かい合った扉を開けば、其処には眼を見張った雲雀がいた。綱吉は遅かったと溜息を付いたが、彼の傍には誰もいないことに気が付いた。内心で首を傾げていると、雲雀は綱吉の腕を引き再びベッドへ放り投げた。
「っ―――なにすんで……」
放り投げられた先がいくら柔らかいとはいえ、乱暴な所作に綱吉は鼻を打つ。雲雀を睨みつければ、彼は眼を眇め此方を冷たく射ていた。
綱吉の言葉は途中から空気に溶ける。そして、綱吉はベッドの上で後退する。雲雀はピリピリした空気を撒き散らしながら、綱吉を追いベッドへ乗り上げてくる。
言うまでもない、理解するまでもない。雲雀恭弥の機嫌は何故か急降下した。元々悪かったのに、何が原因でまた急降下したのか。
わからない、わからない。とにかく、真剣に、本気で怖い。
綱吉は叶う限り急ぎベッドの端へと逃げを図るが、所詮最強最凶のこの人から逃げられるわけもなく。細い足首を力任せに引き寄せられて二度目の逃走劇が終了した。
「僕の許可なく、何処かに行けるとは思わないことだ。沢田綱吉」
眼界一杯に覆い被さる肉食動物の瞳がギラリと不穏に光るのを、草食動物は確かに視認してしまった。
とある一室。其処に一人佇むリボーンは携帯の開閉を繰り返す。
もう一方の手には、白いメモ用紙。其処には十年来見てきた駄目生徒の文字が日本語で綴られている。
『三時間だけ外に行ってくる』
今から三十分前、この紙を駄目生徒の右腕が持ってきた。右腕の男は真っ青な顔で、十代目が、十代目が、と喧しく騒ぎたててこの地下施設に在する部下をたった一人の主のために走らせた。
流石にリボーンも駄目生徒に悪態を吐きながらも探しに行こうとしたとき、あの男と会ったのだ。
うるさいよ、風紀を乱すなんていい度胸じゃない。
そう言って鋼鉄の愛器で手当たり次第にこの施設の唯一絶対の主を探す黒服の男たちを伸していった見慣れた男。
人海戦術を断たれては困るとリボーンが事の次第を話せば、男は一瞬きに満たぬ間何か考え、次にはうっそりと笑い背を向けた。その背に声を掛ければ、あの子を見つけたら又連絡してあげるよ、と言って何処かへと立ち去った。
その十分後、つまりは今、その男から連絡が来た。
『見つけたよ、あの子。暫く邪魔しないでね、赤ん坊。誰か寄越したら、そいつ、殺してやるから。綱吉を悲しませたくないんだったら、ちゃんとしてよね?』
自分が考え付く場所にはいなかった。一体何処にいた、あの馬鹿は。何故、自分には見つけられず、あの男が見つけるのだ。
「俺が、ずっとお前の傍にいたんだぞ」
何故、お前を見つけたのが、結局傍を離れ、違う組織を立ち上げたあの男なのだ。
なぜ、自分ではないのだ。
なぜ。
「お前の幸せを、これほど願っている、俺じゃない……」
どうして。
綱吉は自分の上に覆いかぶさる獣の胸板を押し返す。何度も噛み付いてくる口唇から逃れようと顔を背けば、獣はそのまま小さな耳を舐めた。
「ひぅっ」
ぞわぞわと掻痒感に似た電撃が脳に走る。途端綱吉の口唇からは甲高い声が上がる。獣はそのまま耳朶を嘗め回し、その舌を耳の中へと入れようとする。湿った音を鼓膜が捉えたことで、綱吉はそれがわかった。逃げようと手を伸ばすが、獣に囲われた檻の中ではつかめる物などそうはなく。細い手指はシーツを掻く事しか出来ない。
それでも逃げようとする両手を獣の片手に絡み取られ、綱吉の頭上で縫い付けられる。
「やぁ、あっ」
頭すら押さえつけられ、逃げることも出来ず、思うように動くことも出来ないまま。耳の中は湿った熱いものが侵略してくる。
「ふ、ぅうっん、やぁ、や…」
獣がこんなことをするのは、勿論初めてではない。この獣とは、もう十年はこんなことをしている。それでも、一生慣れることはないと綱吉は断言できる。
耳を犯され、そのまま脳をも犯されたように綱吉の頭は作動しない。口唇だけが痙攣するように震えては甘い音を零す。
前髪を獣の大きな手に掻き上げられ、綱吉は引き寄せられるように其方を見る。
獣は綱吉を見て、うっそりと笑みを零した。
「ひ、ばり、さ……」
その笑みが美しくて、綱吉は獣の名を呼んだ。獣はゆっくりと近付き、柔らかな口唇を食んだ。其処から零れる音を逃がさぬように。
口唇を割り、歯列を舐め、舌を絡める。その仕草はどれも綱吉を気遣い、ゆったりと優しい。こんな関係が始まった頃は、獣の行為は激情任せで怖かったのを綱吉は今でも覚えている。この人は随分と変わった。そして、自分も。
獣の手が頭を離れ、頬を撫で下る。申し訳程度に自己主張する咽喉仏を擽られ、綱吉は獣の口唇の中甘い音と息を零す。クツリと哂う獣は綱吉のシャツのボタンを丁寧に外し、しっとりとした胸板を爪先で微かに掻き下ろす。くすぐったい、と肩を震わせると獣の舌が強く絡まる。そうして解けて、離れていく柔らかな熱に心細さを感じ綱吉はそれを追うように口を小さく開く。けれど、待ち望むものは与えられず、獣のそれは先程擽られたの咽喉仏を吸い上げた。
「ん、ぅ」
獣の手は更に下り、口付けだけで緩やかに立ち上がり始めた綱吉の欲望に布越しでそろりと触れた。
獣はうっそりとした笑みを更に深め、綱吉の右耳朶の下に噛み付いた。
そして、低い、腰を砕きそうなその声で。愉悦に満ちた音で、呼んだ。
「綱吉、」
鼓膜が震え、脳が音を感知する。肩は震え、腰は揺らいで、口唇は甘い息を零した。それは期待ゆえに。身体の至る所に熱が篭もるのが分かり、綱吉は瞳をぎゅっと閉ざした。
随分な淫乱だ。十年前とは、本当に、比べ物にならない。けれど、それも、すべてがこの獣の所為だから、好い。嬉しく思う。幸せに思う。
「ひばり、さん……」
綱吉は穏やかに捕食されつつ、温かい涙を零す。獣は上機嫌に目元を舐めあげ、口唇に噛み付いた。
ゆったりと目蓋を開ける。瞳に映ったのは見慣れた自室で、綱吉は重たい目蓋をゆっくりと瞬かせる。
「なんか、だるい」
それに、全身に鈍い痛みがある。
綱吉はぼんやりと、なんでだろう、と頭を傾げる。
「あれだけ抱き潰してやったんだから、当然でしょ?」
背後から耳に声を吹き込まれ、髪を撫でられ、綱吉はびくりと身体を震わせた。声と言葉で相手が誰だか分かりはしても、突然そんな行動に出られたら吃驚するのは仕方がないだろう。だが、雲雀は気に食わないらしく、眼を細めて綱吉を見つめる。背に刺さる痛い視線に綱吉は身体に掛かるシーツをぎゅっと握り締める。
だが、いつまでもこうしている訳にもいかず、綱吉は恐る恐る背後を顧みる。ベッド端に腰掛けた雲雀は無表情で綱吉を一瞥し、溜息を吐いたかと思ったら急に立ち上がった。そのまま部屋の扉の方へと足を進める。
置いていかれる、強迫観念的な強さのその警告に綱吉はベッドから降り立ち雲雀の腰に抱きついた。
「いかない、で、くださ……」
拒絶を恐れ、綱吉はぎゅっと腕に力を込めた。
けれど、腕は直ぐに解かれた。拒絶された。その事実に、絶望に、綱吉は自分の瞳が翳っていくのが分かった。ざっと血が引いていく。クラリと眩暈が起きて、それを押し殺すように目蓋をギュッと閉ざせば目尻から涙が零れた。
暫くしても雲雀は立ち去らず、頭上からは溜息が一つ降ってきた。
呆れられた、捨てられる。未だに健在なマイナス思考が弾き出した答えに、綱吉は泣いた。声を出す泣き方は忘れたから、ただ出てくる涙を腕で拭った。
「ぅ、ぅう」
泣いていると、ぐんと浮上する心地に急に襲われ、綱吉の涙は止まる。ぱっと開いた瞳には、間近にある真っ黒な頭が映る。雲雀の頭だった。
雲雀は綱吉を片腕に抱えたままベッドまで戻り、腕の中のものを宝物のようにそっと其処に下ろした。そして、自分も其処に腰掛け、綱吉の目尻の涙を指の背でそっと拭った。
「マイナス方向への勘違いは相変わらずみたいだね。少し取りに行きたいものがあっただけだよ」
「……ほんとうに?」
「なに、君、僕を疑う気?」
またしても雲雀の視線が痛くなり始め、綱吉は頭を振り必死に弁明した。
「まぁ、いいよ。直ぐに戻るから、君は此処にいなよね。風邪を引いたら厄介だから、ちゃんと布団はかぶってなよ。いいかい、僕が戻るまで絶対に此処にいるんだよ。僕の許可なく、何処かに行ったら噛み殺してやるからね」
そう言って雲雀の手指が妖しく綱吉へ伸びる。それを視線で追ったとき、綱吉は初めて自分が下肢には何も纏っていないことに気が付いた。
かっと赤くなった初心な綱吉を雲雀は笑い、柔らかな素肌の下肢を指先で撫で上げる。指先で柔い素肌を擽りながら、柔らかな色素の薄い茶の髪を舌で別け、こめかみに音を立ててキスをする。睨みつけてくる澄んだ琥珀の瞳。官能を揺す振られ朱に彩られた目尻にも口唇を落とし、雲雀は立ち上がる。
「直ぐに戻るよ―――後でお説教もしなくちゃいけないしね」
それは言うまでもなく、ボンゴレと風紀財団の仕切りとなった扉を、不可侵規定を破り開放しようとしていたことだろう。綱吉は身近にあった枕を抱きしめ、柔らかいそこに顔を埋めた。
「……すみません」
謝罪はするものの、それは雲雀との約束事を破ってしまったことに対してだった。雲雀が求める謝罪とは違ったはずだ。だから、彼は再び溜息を吐く。
「あそこは、ボンゴレと僕の風紀財団を結ぶ場所だ。君があそこを通るときはどんな理由があっても、ボンゴレ十代目としてだ。有事でもないのに、そんな立場で僕の支配域に入ってこないで。―――君は、僕の恋人でしょう?」
「……はい」
恋人でしょう。彼はそう言ってくれているのに、気分が沈んでいくのが分かる。けれど、それを看破されないように、綱吉は笑った。雲雀は暫くそんな綱吉を見つめ、頭を撫でる。そして、直ぐ戻るから、と部屋を出て行ってしまった。
「……ボンゴレ、か。覚悟を決めてそこに立ったけど、少しぐらい……」
その続きは言えず、綱吉は枕を抱きしめたままベッドに横になった。
シーツは情事の後、雲雀が変えてくれたのだろう、清潔なものだった。この身体も体液塗れだったろうに、風呂に入れてくれたのだろう、さらりとしていて不快感なんて微塵もない。雲雀は付き合い始めた頃からそうだった。情事自体は乱暴でも、決して綱吉を捨て置いたりはしない。不器用ゆえに少しばかり理不尽な人だけれど、それでも綱吉には十分に優しい人だった。
そして、それは、雲雀に限ったことではない。このボンゴレ日本地下支部で自分を支えてくれる人間すべてが、そうだった。
だから、これ以上を望んではいけないのかもしれない。
ゆっくりと目蓋を閉ざし、綱吉は枕に顔を埋める。少しばかり息苦しさを覚える。それでも、埋めた顔を上げることはなく。ここにはいない恋人の余韻を感じ、少しだけ安堵する。
(うん、大丈夫)
だから、これ以上を望む必要はない。
自由が欲しいなんて、思ってはいけない。
カツリカツリとコンクリートの床を打ち鳴らながら、雲雀は先程綱吉を連れて来た道順を辿る。
左腕に納まる時計でタイムスケジュールを計算しながら、頭の片隅で部屋に置いて来た恋人のことを思惟する。
あの恋人は、随分と、余裕のない様子だった。
『ひばりさん』
心の臓を引掻くような、懇願するあの子の声。戻りたくない、あの子は声に出さず、そう訴えていた。
元々、綱吉は暴力が嫌いだ。弱者や草食動物を忌んでいた雲雀と同様に、綱吉もまた一方的な暴力を振るう強者を恐れ、頭上から下ろされる力を嫌っていた。そんな子が、マフィアのボスなんて暴力の権化となっているのだ。如何に綱吉が平和的な日常を求めても、日々抗争は起きて周囲で血が流れ、死が蔓延する。蓄積されるストレスは並大抵ではないだろう。それでも、自分と共に付いて来た人間がいる限り、逃げると言う選択肢をあの子は作らない。だから、風紀財団へと続く扉の前で涙ながら必死にパネルを弾いていたのは、決して逃げ出すためではなく、ただ息抜きをしたかったからだろう。自分が忌み嫌う暴力の世界で、自分を見失わないために、壊れないために。
問題は、そんなことは守護者もあの赤ん坊もわかっていることだ。解っていても、心の内一欠けらで、あの子が自分たちの与り知らぬ平穏なところへと逃げ出すのではないか、という疑心暗鬼が働いてしまうことが、問題なのだ。その疑心暗鬼を晴らすことがいつまで経っても出来ず、誰もが大空のあの子をこんな薄暗い場所に閉じ込めている。あの子が壊れるかもしれない、今でも。
雲雀は足を止め、クツリと哂う。
「可笑しな話だと思わないかい?赤ん坊」
昏い嘲りが向かうのは、真正面。風紀財団への扉に背を預ける漆黒の衣を纏う幼い殺し屋に向けて。
「……」
「あの子は雄大な大空を冠しているのに、ありとあらゆる鎖に雁字搦めだ。おかしいだろう?大空は自由であるべきなのに」
「……」
リボーンは無言のまま、雲雀を睨みつける。殺気を孕むその視線に、嘲笑は酷くなるばかりだ。
「僕が疎ましいのかい?君が、あの子の守護者にと選んだのに?」
「選んだのは、守護者にだ。アイツを喰らう存在に選んだわけじゃねー」
「ワォ、何を今更。こうなることは予期できただろう?君も、僕も、同属なんだ。欲しいものは手に入れる。どんな手段を用いても、望む結果が、この手に堕ちて来ればいいのだから。そうやって君も、あの子を手に入れようとしてきたじゃないか。―――最終的に、僕のほうが、上手だっただけさ」
心の臓を切り刻むように、一言一言丁寧に告げてやれば、幼い円やかな瞳がギラリと光る。雲雀は耐え切れずに哂った。微かなその声はコンクリート造の廊下で木霊する。
キリキリと殺気が充満する中で、雲雀は再度足を進めた。
思い出したことがあったのだ。とても大切なことだ。それを考えれば、こんな場所で負け犬の声なき遠吠えに付き合ってやる時間などない。
「失礼させてもらうよ、大事な用事があってね。綱吉にも直ぐに戻るといっているしね。早くしなくちゃ、あの子啼き疲れているから眠ってしまう」
暗に先程までの情事を匂わせてやれば、負け犬の手が微かに動く。懐の銃にでも手を伸ばそうとしたのだろうか。きっとそうなのだろう。なんと言う愚かしさだろうか。恋に狂うと愚行を犯すとはよく言ったものだ。最強の赤ん坊は既に最強の称号を他者に奪われてしまったと言うのに。奪った当の本人に勝負を持ち込もうとしたのだ。
「そうだ、君には言っておくよ。四日ほどあの子、此処を留守にするから。君達の疑心暗鬼に付き合わせてあの子を壊させるわけにはいかないんだ。暫くどこかで養生させる」
「ッ―――」
「まさか、最強のアルコバレーノを冠していた君ともあろう者が、一定期間のボスの不在如きでボンゴレと言う帝国の一角でも崩すなんてことはないだろう?」
「なにを、勝手なことをッ……!」
雲雀はうっそり哂い、リボーンの耳元で囁く。当然だろう、と。
「だって、あの子は、僕のものだ。君のものでも、ボンゴレのものでも、守護者のものでも、彼の父母のものでも、ない。―――沢田綱吉は、僕のための、存在だ。所有権は、いつだって雲雀恭弥の、この手の中だ」
拳を握り締める幼子から視線を逸らす。視線の先は脇に設置された扉を開くためパネルがある。
先程、あの子が手間取っていた残像が見える気がした。それを穏やかに見つめ、雲雀は掌紋認証専用パネルに掌を当てる。機械音の後、扉は意図も簡単に開く。
「アイツは、お前のものじゃねー」
子どもにしては身の毛も弥立つ声音の低さに雲雀は穏やかな笑みを消した。余りのしつこさに流石に苛立たしさが身の内で暴れだす。だが、ここで手を出すわけにはいかない。守護者の任を解く権利はボスである綱吉にしかないが、理由さえあればリボーンにも守護者を拘束できる。せっかく用意した綱吉との時間を潰されては堪らない。
「なら、あの子に訊いてみたらどうだい?沢田綱吉は、僕と同じことを言うよ。だって、これは、あの子が望んだことなんだからね」
支配圏に足を踏み入れれば、間も無く扉が閉まる。同時に幼子が発していた殺気も掻き消えた。
正直、赤ん坊も、他の守護者達も、ボンゴレと言う組織も、あの子に群れる存在で鬱陶しいだけだ。殺してやろう、壊してやろうと思い、それを幾度も実行してきた。その度にあの子が表情だけは鋭く真摯に。けれど瞳は誤魔化しようもなく泣きそうに、止めて下さいと声を震わせて手を差し伸べてくるから、結局はあの大空を繋ぎとめる帝国を破壊できずにいる。そんなこととは知らず、過程だけを見る草食動物は交渉を持ち込んでくる。ボンゴレを共に潰しましょう、と。勿論、馬鹿な草食動物の群れは殺してやった。
そして。
「いつか、全部壊してやるけどね」
沢田綱吉を縛りつける存在は自分だけでいいのだ。雲雀はうっそりと笑う。それでも、あの子の願いが叶うまでは、気に食わない状況も許容しよう。そう、すべては、あの子の為に。
「けれど、気に食わないものは気に食わないからね。―――哲」
上司の帰還に気付き、傍に控え始めた草壁に雲雀は匣と指輪の研究状況を尋ねる。けれど耳に入ってくるのは耳障りな言葉ばかりで、結局は望むほどの成果が見えない。もう少し質のいい研究員を探させようと考え、溜息を一つ吐く。
「ねぇ、例の件はどれくらい進んだ?」
「へい、恭さんと沢田さんが此方に戻られる際には出来上がっているとのことです」
「そう、ならいいや。これ以上掛かるなら、噛み殺してやろうかと思ったけど、許してあげるよ」
胸懐で燻っていた不快感がその言葉で少しばかり沈静されていく。
「ボンゴレ側に気取られないように、と無茶な要求の下です。これでも十分早いほうですよ」
即物的とも取れる上司の様子に草壁は苦笑する。
自分の執務室へと入り、雲雀は目的の忘れ物を手に取る。白い封筒だ。中にはリボーンに言ったとおり、旅立つための足の鍵が入っている。
外に出たがっていたあの子はどんな顔をするのだろうか。きっと喜ぶだろう。もしかしたら、嬉しいと泣くかもしれない。そして、嬉しすぎてこんなの夢だと頬を抓るかも知れない。きっとその後は、イタイイタイと言って又泣くのだ。けれど、最後にはきっと自分に抱きついて、ありがとうございますと満面の笑みを見せてくれる。
そんなことを考えて、雲雀は知らず破顔する。
「秘密事は、楽しそうですね」
背後に控える部下がそう言うので、雲雀は、楽しいよ、と答える。
あの子の鬱屈とした昏い瞳を一瞬で輝かせられるのだ。楽しくないわけがない。嬉しくないわけがない。
「後もう一個、あの秘密をあの子に告げたとき、どんな顔をするのか、とても楽しみだね」
先程言っていた、例の件。ボンゴレではなく、風紀財団ではなく。沢田綱吉と雲雀恭弥の私室を結ぶ通路。二人以外には誰も通れないものだ。それがもう直ぐ完成する。けれど、それは、全面的な自由への扉ではない。
秘密の道の向こうにあるのは。
「箱庭の中の自由だけど、ね」
「それでも、あの方は喜ばれるでしょう。貴方が、その先に居られるのですから」
「ふふ、そうだね。さて、もう行くよ。暫くこっちの事は頼むよ、哲」
「へい、楽しんできてください、恭さん」
雲雀はボンゴレへと扉を潜り、草壁は風紀財団の施設で彼に礼を取る。
白い封筒を口元に当て、雲雀はもう一度破顔する。
目指すは、きっと待ちくたびれ寝付いてしまった愛しいあの子の下。