|
小さな公民館で開かれた文芸講演会ともいえない、ささやかな集まりが終わった。講師として招かれた蛯原陶子(えびはらとうこ)は、車を用意しますからと言う係員に、歩きますと断って建物を出た。
曇り空だが、まだ夕暮れの気配はない。用意された宿への道をゆっくりとたどる。この道でよかったのかどうか、田畑と樹木に挟まれた道はどれも似ていて自信はないが、宿で開かれる懇親会に間に合えばいいと思っているので焦りはない。
人影の見当たらない道をしばらく行くと、横道にそれるところに小さな立て札が立っていた。昼過ぎに公民館に向かうときには全く気づかなかった。近寄ってみると、「岩甲の浜」とあり、その下に矢印が書かれている。岩甲とは地名のことで、浜とあるからには海に繋がっているのだろう。
陶子は横道に入った。樹木を分けている細い道で徐々に下っている。ぺたんこの靴だが、草を踏んで滑らないように足元に注意しながら歩を進めていく。
道が曲がって樹木が開けたと思ったら、目の前に短い砂浜が見え、その向こうは海だった。潮の匂いが急に意識される。
陶子は注意深く砂浜に片足を踏み入れた。灰色の砂は細かく、湿っているせいか足をしっかりと支えてくれる。陶子は安心して砂浜に立った。
雲の切れ間から光が差し始めた。島が点在する内海のせいなのか、鏡面のような海が光を照り返す。こんな静かな海を今まで見たことはなく、陶子は半ばうっとりとその光景に見入った。
突然、ケーケーいう悲鳴に近い鳴き声が聞こえてきた。見ると、砂浜が途切れて植物と交わる辺りに黒っぽい鳥がいた。鴉(からす)かと思ったが、尾が長くて何かをついばんでいる姿はそのイメージとは少し違う。
その時、砂浜にも光が当たり始め、鳥を照らした。鳥が頭を上げる。とさかの赤が鮮やかに目に映った。同時に胸に虹の煌(きら)めきが見えた。
雉だ。
動物園で見たことはあるが、野生の雉を見たのは初めてだった。陶子はゆっくりと近づいた。雉が頭を動かした。赤の中の黒い点のような瞳がこちらを見据えている。陶子との距離を測っているように動かない。これ以上近づくと逃げるだろうと思いながらも、もっと近づいて見てみたいという気持ちを抑えられなかった。
雉はふっと後ろを向くと、素早い足の動きであっという間に草叢に姿を消してしまった。スマホで写真を撮ればよかったと後悔しても遅かった。
夜の懇親会で陶子の作品の読者だという人たちに囲まれた。みんな筆名の方のライトノベルを読んでいる者ばかりで、本名で書く作品を読んでいる者はいなかった。いつものことなので気にすることなく、読者たちのいろいろな質問に答えたが、頭の片隅にはあの雉の姿があった。砂浜に屹立する美しさは、雌を引き寄せるためだけとは思えなかった。
翌朝、宿からタクシーに乗ったのだが、途中で止めてもらって岩甲の浜に下りてみた。しばらく佇んでみたが、雉は現れなかった。
東京に帰っても雉の姿は頭に残り、いっそのこと、あそこに別荘でも建てようかと思いついたのは、それから数日後のことだった。以前から息の詰まるような東京から離れたいと思いがあって、まずは二拠点生活から始めてもいいかと思った。
あそこなら観光地でもないし、土地の人々も素朴なようだし、何よりあの雉がいる。
陶子はネットで検索してみた。あの辺りの古民家を扱っている不動産屋が一軒だけあり、彼女は「岩甲の浜の近くに別荘を建てたいと思っていますが、そんな物件はありますか。古民家をリノベーションすることも考えています」とメールをした。
翌日、早速返事があり、提案された三件の古民家の画像が送られてきた。
そのうちの一つを見ていると、固定電話が鳴った。緊急に校正をしなければならないとき、ゲラをファックスで送ってもらうために残しているのだが、今はそんな作業はない。また何かのセールスだろうと思いながら、受話器を取った。
「蛯原陶子さんですよね」 女性の声で、いきなりフルネームを言われて、陶子は戸惑った。 「……はい、そうですが」
「よかった、電話が通じて。私です、三枝志織です」 「志織さん?」 「そうです。ご無沙汰しております」
こんな声だったのだろうか、三十年ぶりくらいだろうか、と思った途端苦い記憶が甦った。 「実は、原口が亡くなりまして」 「え」
「ずっと膵臓癌の治療をしていましたが、二日前にその甲斐もなく……」 志織の語尾が揺れて小さくなる。
原口は自分より二歳年上だったから六十一になる。還暦を過ぎた彼の容貌は想像できなかった。
「原口が、死んだら伝えるようにと連絡先を書き残しておりまして、こうして電話を差し上げた次第です。固定電話なのでまだ通じるかどうか心配だったのですが、通じてよかったです」
私に連絡しないという選択もあったのに、と陶子は思った。 「葬儀はいつですか」
「原口は葬儀をしなくてもいいと言っていたのですが、私はしようと思いまして」
志織は続けて、葬儀会館の場所と日時を伝え、香典は固辞しますのでと言って電話を切った。葬儀に行かないという選択は初めから頭になかった。連絡先に元妻である自分の名前があった以上、列席するのは義務のような気持ちだった。
受話器を置いて、ノートパソコンの前に戻った。画面に映っている古民家に目をやったとき、ふと、雉を見たのは原口の亡くなった後だったかという思いが浮かんだ。スケジュール帳を開いて、文芸講演会の日付を確認する。志織は二日前だと言っていたので、それが確かなら死ぬ前になる。陶子はほっと胸をなで下ろした。死んだ後なら、原口の生まれ変わりと思ってしまうかもしれない。たとえ思わなくても、雉を見るたびにその思いがちらつくのは純粋な気持ちを阻害してしまうだろう。
陶子は三件の古民家のうちの一つが気に入り、不動産屋に、現地まで見にいきたいので案内してほしい旨のメールをした。
陶子が原口悠(ゆう)と仕事を通じて知り合ったのは、二十五歳の時である。原口はレストランとかカフェ等の、内装から料理の提案に至るまで、今でいうフードコーディネーターのような仕事をしていた。陶子はインテリアデザインの事務所でアシスタントをしていた。
デザイナーに頼まれて壁紙の見本帳を届けたとき、初めて原口に会って、ダビデ像を思わせる均整の取れた顔に魅せられた。陶子はそれまで自分が面食いだとはこれっぽっちも思っていなかったが、煙草を吸う姿も絵のようで、この顔を毎日でも見ていたいと思ってしまったのである。仕事にかこつけて彼に会いに行き、彼の言(げん)によれば〈半ば押しかけるように〉結婚した。押しかける前に陶子は、中学生の頃から小説を書いており、小説家を目指していることを告げた。
「これだけは何があっても手放さないと決めてるの。大丈夫?」 「いいじゃないの。ただし、俺のことをネタにしないでくれよな」
その言い方に引っかかるものはあったが、たとえ書くとしても分からないように書けば問題ないと軽く考えた。
原口のプロデュースしたカフェレストランを借り切って人前結婚式を行った。三十人足らずのこぢんまりとした集まりで、仲人も立てなかった。美男美女という囁きが聞こえる中、白のウエディングドレス姿の陶子は銀色のタキシードを着た原口と腕を組んでバージンロードを模した通路を歩いていった。新婚旅行先は、飲食店の視察も兼ねたいという原口の希望でハワイになった。
新婚生活に陰りが兆し始めるのは二年後、陶子がある雑誌の女流新人賞を受賞してからである。受賞作は三角関係に悩む若い女性が主人公で、設定はありきたりだが、心理描写が繊細で独特の輝きを放っていると評価された。原口は登場人物の男について「これは俺じゃないだろうな」と苦い物でも食べたような顔をしたが、「何言ってんの、どこを読んでもあなたらしいところなど、これっぽっちもないじゃない」と陶子は一蹴した。本当は、そこかしこに原口という人間の、嫌なところや逆に、好ましいところを盛り込んでいたのだが。
このチャンスを逃してなるものかと陶子は仕事を辞め、小説に専念することを宣言した。家事さえきちんとこなしてくれたら構わないと原口もしぶしぶ認めた。
そんなある日、書斎として使っている物置部屋に入り、昨日の続きを書こうと机の前に坐ったときだった。書きかけの原稿用紙の真ん中に黒っぽい物がある。鼠かなんかの糞かなと思って鉛筆の先でつつくと、ほわりと崩れた。
まさか。
鼻を近づけると、まさに煙草の臭いがした。背筋を冷気が通り抜ける。いつ灰を落としたのだろう。今朝か、いや夕べだろう。夕食はいらないということで、陶子は風呂に入って早々にベッドに潜り込んだ。隣のベッドに原口が来る気配を何となく覚えている。酔った上での戯れだろうと陶子は思い込もうとした。灰を羽箒でゴミ箱に落とし、2Bの鉛筆を握る。しかし、書きかけの箇所を何度読み返しても、小説の世界に入り込むことができず、文章が浮かんでこなかった。一時間近く粘ってみたが、結局執筆を諦めて掃除をしようと立ち上がった。
その晩も原口の帰りは遅かった。翌朝、朝食の準備をする前に執筆部屋に入ってみた。案の定というべきか、広げられた原稿用紙の真ん中、昨日と寸部も変わらない位置に煙草の灰が落ちている。煙草の臭いも微かに残っている。陶子は唇を噛んだ。
起きてきた原口と朝食を摂るためにテーブルを挟んで向かい合うと、 「どうしてあんなことをするの」
陶子は声が震えないように努めながら言った。 「あんなこと?」 「煙草の灰を原稿用紙の上に落としたでしょう、それも二日続けて」
「知らないなあ」 陶子は立ち上がると原口の腕を取り、強引に執筆部屋に引っ張っていった。 「これでも知らないと言うの?」
「ああ、ホントだ」原口はとぼけた声を出した。「陶子がどんな小説を書いているか読んだんだよな。その時煙草の灰が落ちたんだろう」
「昨日は一行も書いていないわよ」 「そうだっけ」 原口があくまでとぼけるつもりだというのがよく分かった。
「もう一度、こんなことをしたら離婚しますからね」 そう言い放つと、「おお、怖い、怖い」と原口は首をすくめた。
それからは原稿用紙を机の引き出しに仕舞うようにしたから、同じことは起こらなかった。それでもモヤモヤは残り、そんなとき陶子の妊娠が分かった。
彼女はそのことを原口には告げなかった。産むかどうか迷ったからだった。子供を作れば離婚のハードルはぐっと高くなる。小説を書くことにも支障が生じ、小説家を続けていくチャンスを逃すかもしれない。何より原口とこのまま夫婦として続けていくことに自信が持てなかった。
中絶するなら早めに決断すべきだと思いながらも二の足を踏んでいたとき、女性雑誌の紀行エッセイの仕事が舞い込んだ。悪阻もひどくないし、何より冬の北海道を見て回ることに惹かれた。そして、その仕事を受けて三日目、小樽に宿泊していたとき、陶子は流産した。
原口は激怒した。妊娠を告げなかったこと、陶子が母親としての最善の努力を怠ったこと、「知っていたら、絶対に仕事をさせなかった。お前は流産すればいいと思って、わざわざ寒い北海道の仕事を受けたのだろう。俺の子供を返せ」
原口の言葉を聞いて、なるほどと彼女は思った。冬の北海道に惹かれたのは無意識の裡に流産を望んでいたということか。陶子の体を診察した医者は「早期流産の大半は胎児の染色体異常が原因ですから、気に病むことはないですよ」と言っていたのだが。
離婚の話し合いは簡単に終わり、陶子は離婚届に署名した。
それからしばらく経った頃だった。原口が女性編集者と事実婚をしているという噂が耳に入ってきた。相手は陶子の最初の担当編集者である三枝志織だった。志織は大学を卒業して出版社に入ると、すぐに陶子の担当になり、次の新人賞受賞者が誕生するとそちらに移った。一年ほどの付き合いだった。控えめだが、作品に対する指摘は鋭く、優秀だった。陶子は担当を変えないでほしいと頼み込んだが、編集長の方針ということで受け付けられなかった。
体の不調からようやく脱しつつあった陶子はその噂にひどく傷つけられることになる。別れた男が誰と一緒になろうがそんなことは知ったことじゃないと頭では思うのだが、感情がそれについていかなかった。あんな女より自分の方がずっといい女なのになぜ、という思いを抑えることができない。恋愛にはそんな比較など何の意味もないと分かっているのに。小説家なら分かりなさいよと自分で突っ込むのだが、それもうまくいかなかった。
原口と志織は離婚する前から付き合っていたのではないかと思いだすと、止まらなくなった。志織が担当編集者になってすぐに、彼女の千葉にある実家のリフォームを原口に任せたことがあって、まさかその頃からではと思うと、疑念が次々と浮かんできた。
仕事で遅くなるというのは嘘で、彼女と密会していたのではないか。自分の担当を外れたのも原口との不倫が編集部に知れたのではないか。いや、志織自身が担当を変えてほしいと頼んだとも考えられる。原口が流産に血相を変えて怒ったのも、離婚するための演技だったのではないか。それにまんまと私ははまって、と考えたところで、陶子はかぶりを振った。あのとき私は離婚してせいせいしていたはずで、そのことに嘘はない。たとえその前から二人が密会していたとしても、そのことを知らなかったのなら、なかったと同じことではないか。
しかし志織に対する嫉妬の感情はこびりついて消えなかった。それと対になっている原口に対する怒りも。新人賞受賞作で書いた主人公の嫉妬など今のそれに比べたら、嫉妬ともいえないお手軽なものだったと陶子は自嘲した。
この感情から逃れるためには、そのことを書くしかない。しかしどう書いていいのか分からない。いっそのこと私小説にしてみようかと取り組んだが、あふれる感情を統御できず形にならなかった。
元いたインテリアデザイン事務所に頼み込んで仕事をしながら、休みの日にはアパートの一室で原稿用紙に向かう日々に戻った。
救いの手が差し伸べられたのは、別の出版社の編集者からだった。ライトノベルを書いてみませんかと言うのだった。書くことがお金に替わるのならと藁にもすがる気持ちで、陶子はその仕事を引き受けた。平沢由佳里という筆名で、編集者の言うとおり、若い読者をいかに楽しませるかを念頭に置いて作品を書いた。それまで自分の中の読者に向けてしか書いてこなかった陶子にとって、それは新鮮な体験だった。二作目の『あなたの隣に魔女がいる』がヒットし、それはシリーズ化され、彼女の生活を支えることになる。
ライトノベルを書くことが心のリハビリになったと今でも陶子は思っている。その後、陶子は何人かの男と付き合ったが、結婚したいと思える相手とは出会わなかった。四十歳に近づく頃、シングルマザーでいいと避妊もしなかったが、妊娠することはなかった。本名で書く小説もぽつりぽつりではあったが、文芸誌に載るようになり、新人賞以来の小さな文学賞を受賞する喜びも味わった。
原口の葬儀は代田橋近くの小さな葬儀会館で行われた。受付に並んだ陶子の前の弔問客が香典を渡そうとして、係の女性にやんわりと拒否されていた。陶子も三万円の香典を袱紗に包んでバッグに入れていたが、それを出さずにすんだ。
会場は五十人くらい入れる規模で、すでに大半の席が埋まっていた。陶子は前の方に坐っているだろう志織を確認しようとしたが、よく分からず最後列の椅子に腰を下ろした。型どおりの進行で、僧侶の読経の続く中、焼香が始まった。数珠を手に列に並び、陶子の番が近づいてくる。すぐ左側に坐っている女性が焼香をする弔問客にその都度頭を下げている。番が来て、陶子はその女性を見た。志織だった。老けてはいるが、意志の強そうな面影は変わらない。敏腕の女性雑誌の編集長としての姿がそこにあった。
志織は陶子を見て、はっと目を見開いた。陶子が会釈をすると、志織は深々と頭を下げた。
遺影には白髪の目立つ初老の男が写っている。原口の年を取った顔だった。こんな顔になったのかと、自分の中に流れた三十年を思った。
焼香が終わって再び志織に頭を下げ、行こうとしたとき、 「陶子さん、お話がありますから帰らないで」
と志織の声がした。陶子は振り向き、小さくうなずいてから席に戻った。何の話があるのだろう。私に連絡したのは原口の意思ではなく志織のそれだったのでは、という気がした。
僧侶が退場して、志織が喪主の挨拶に立った。会葬の御礼を述べた後「わたくし、原口志織として初めて皆様の前に立っております」と続けた。「原口が膵臓癌で余命幾ばくもないと悟ったとき、原口の方から籍を入れることを提案されました。わたくしは一も二もなくそれを受け入れました。原口が亡くなるまでの一年間、濃密な時間を過ごせたことを感謝しております」
それは陶子にとって意外な言葉だった。二人はとうに籍を入れているものだと思っていたから。濃密な時間という言葉に込められた彼女の気持ちを推し量った。
柩が引き出され、献花が始まった。陶子は立ち上がったが、その輪に加わるかどうか迷って、その場にじっとしていた。志織が白菊を手にこちらにやって来る。
「陶子さんも原口とお別れをしていただけませんか」
遺影で十分だと思ったが、陶子は志織の後に続いて柩に近づいていった。急に動悸がしてくる。見たくない、一瞬その思いが兆したが、足は何事もなく進んでいく。
化粧を施されているのか、原口は白い花に囲まれてふっくらとした穏やかな顔で眠っていた。やつれて頬の窪んだ顔を想像していた陶子は、そこに若いときの顔を見出して、胸を衝かれた。そうだったんだわ、私はこの顔がたまらなく好きだったんだわ。若いときの気持ちが甦り、不意に涙ぐみそうになった。
献花を終えると、志織が陶子を会場の隅に誘った。 「原口が亡くなる前に、陶子さんに伝えてほしいと預かった言葉があります」
そう言うと、志織はバッグから紙切れを取り出して広げた。
「いろいろすまなかった。若いときの自分を赦してほしい。陶子が自分の道を貫いて小説家として生きていることを誇りに思っている。自分の狭量さを笑うばかりだ」
読み上げる調子で言うと、志織は紙切れを陶子に手渡した。震える文字が書かれていた。その文字をしばらく見つめてから、陶子は紙切れをバッグに仕舞った。
ふと、彼女は志織に尋ねたいことを思いついた。 「志織さん、ひとつ聞いてもいいかしら」 「何でしょう」
会場にクラシックの音楽が流れる中、陶子は声を潜めて、 「原口と関係を持ったのは、私たちが離婚した後? それとも前?」
志織が眉根を寄せ、困惑しているような笑っているような微妙な顔をした。その表情で答えは自ずと分かった。
「嘘をついても陶子さんには分かってしまうと思いますから、正直に言います。前です。陶子さんが妊娠された頃ですね」
「うん? それ、どういう意味?」 「どういうとは?」 「原口は妊娠を知らなかったのに、どうしてその頃だと」
「原口は知っていました、というか気づいていましたよ。食べ物とかが変わったって言ってて、私が妊娠じゃないですかと伝えましたから」
そうだったのか、と陶子は思った。あの時の激怒はやはり演技だったのか。そういうのも含めて、いろいろすまなかったという言葉だったのか。
葬儀社の係員が来て、柩の釘打ちの儀に移ることを志織に告げた。陶子に会釈して志織は柩の傍に戻り、数珠を手に合掌する。柩の蓋が閉められ、彼女は金槌を手に形ばかりの釘打ちをした。
柩が霊柩車に入れられ、葬儀会館の外に出ていくまで、陶子は合掌して見送った。そして手を下ろしたとき、二人の間に子供はいなかったのだろうかという思いが浮かんだ。葬儀の間、志織に寄り添う大人の姿が見えなかったことが、その答えを暗示していた。
古民家を案内してくれる不動産屋は陶子と同年配の実直そうな男性で、彼女は安心して、任せることに決めた。
古民家は太い柱を中心にいくつかの部屋があり、画面で見たときよりも広々としていた。周りに他の家はなく、鳥のさえずりが聞こえてくる。ここをリノベーションすれば終の棲家になるだろう。
陶子が購入することを伝えると、不動産屋は早速工事業者を連れてくると言い出した。 「今からですか」
「打ち合わせでまた東京からお出でいただくのも大変でしょうから」 それもそうかと思っていると、
「どこか心当たりの業者さんでもおありなんですか」と不動産屋が聞いてくる。 「いいえ」
男は、すぐに戻ってまいりますと軽自動車に乗って去っていった。
原口がまだ元気で生きていて連絡を取り合うほどの仲であったなら、リノベーションを頼んだかも知れないと陶子は思い、彼の張り切る姿を想像すると、ふっと笑みがこぼれた。
陶子は岩甲の浜に行ってみることにした。歩いてすぐのところにあることが、あの古民家を購入する理由でもあった。
海はこの前見たときと同様に静かに広がっていた。この歳になってこの穏やかさに包まれるのは僥倖かもしれないと陶子は思う。
以前雉を目にした草叢の辺りに視線を移す。雉らしき姿は見えない。こっちに滞在することになったら、いつかは会えるだろうと思っていると、緑の中にぽつんと赤が見え、それが動いている。まさかすぐに雉が出てくるとは思いもしなかったので、体が硬くなった。
会いに来てくれたの? そう思った瞬間、悠? と口に出していた。自分でも思いがけなかった。
雉は餌をついばむように頭を上下させながら草叢から姿を現した。陶子はバッグから急いでスマートフォンを取り出すと、カメラモードにした。揺れる画面の中に雉を捕らえ、二倍モードにした。赤いとさかの真ん中に白目に囲まれた黒目がはっきりと見えた。黒い胸に煌めく虹の光沢に目が眩んだ。
雉は羽を広げて大きく羽ばたかせると、ケーケーと鳴いた。陽子はあわてて動画モードに切り替えた。
とそのとき、後ろからついてくるように茶色い鳥が画面に入ってきた。それが真ん中に来るようにスマートフォンをわずかに動かす。鳥は一回り小さい体をしている。最初、子供かと思ったが、地味な姿は雌とすぐに気がついた。
ここで子育てをしているんだわ。
陶子はスマートフォンを下ろした。雄の方は警戒しているのだろう、こちらに向けた目を動かさない。雌はその後ろで無心に何かをついばんでいる。
不意に、小樽のホテルのベッドで苦しんでいる自分の姿がありありと浮かんできた。両膝を抱え込んで横倒しになり、額には脂汗を滲ませている。
原口は本当に子供が欲しかったのかもしれないという思いが天啓のように閃いた。激怒する姿を演技だと思いたいのは自分だったのかも知れない。
下腹が差し込むように痛くなってきた。陶子はその場にしゃがみ込んだ。 いろいろすまなかったのは私の方だわ。でも謝る相手はもうどこにもいない。
陶子は下腹を押さえて痛みに耐えながら、謝る代わりにこのことを作品にしなければと考えていた。
|