目が覚めると、彼は息をする空気が重いと感じた。昨日の天気予報は当たっている。今雨が降っているに違いない。煎餅蒲団の発する臭いも湿り気を帯びている。手を伸ばして充電器からスマホを取ると、5:59が6:00に変わった。目覚ましタイマーが鳴るまで、あと三十分。体が疲れているのに早く目覚めるのは年を取った証拠かと自嘲しながら、彼はタイマーを止め、のろのろと起き上がった。休んでやろうかと毎朝思うが、前日にメールをしておかないとペナルティを取られ、それが二回で通告なしにクビになる。クビになればまたクソ仕事探しに這いずり回ることになる。
彼はスマホのホーム画面に貼ってある〈仕事先〉というアイコンをタップした。電話番号が現れ、接続中ですという言葉の下にある輪っかがくるくる回ってから発信音が聞こえ出すとすぐに電話を切った。出勤二時間前までに派遣会社の現場担当者にワンコールを入れなければならないのだ。それを怠ると担当者から出勤確認の電話が入ってきてペナルティが課され、これも五回溜まるとクビになる。
スウェット姿のまま流しの前に立つと、水を出しっぱなしにして顔を洗う。そして小型冷蔵庫から一リットルの牛乳パックを取り出して、菱形の口から直接飲んだ。水分を腹に入れると、空腹がしばらくは収まる。ジーンズと長袖のTシャツに着替え、リュックにTシャツ、タオル二枚、水道水を入れた五〇〇ミリリットルのペットボトルを放り込んだ。リュックの内ポケットから財布を抜き、札入れのところが空になっていることを確認してから机の抽斗を開け、封筒から最後の千円札を抜き出す。硬貨は六百円あるからあと四回は大丈夫だが、休みのうちに千円札十枚を引き出しておかなくてはと思いながら、彼は千円札を財布に入れて内ポケットに戻した。
左右の尻ポケットにそれぞれスマホとIDカードを差し込み、リュックを背負うと、ドアを開けた。開放廊下に吹き込むように雨が降っている。小雨なら無視して出るつもりだったが、これでは無理っぽい。彼は舌打ちして部屋に戻ると、ドア横に立てかけてあるビニール傘をつかんで表に出た。鉄錆の階段のところで傘を開き、骨が折れてビニールが垂れ下がっている箇所を後ろに回して慎重に下りていく。
いくつかの傘が地下鉄の駅の方向に動いている。途中にあるコンビニに彼は足を踏み入れた。傘立てに畳んだ傘を差し入れる。スニーカーの先が濡れている。防水仕様なのでまだ中まで来ていないが、向こうに着くまでに靴下も濡れるだろうと考えると、うんざりした。替えを持ってくるべきだったと気づいても戻る気にはなれない。とりあえず弁当コーナーに向かい、ツナマヨネーズ、昆布、紅シャケ、それぞれ一個ずつ買う。彼と同年配の店員の、レジ袋はどうされますか、に、首を振りスマホで決済する。彼がベンデロンの配送センターでピッキングの仕事を始めて二ヵ月、この店でおにぎりを買っているのに、未だにレジ袋の有無を聞いてくる。最初の頃は同じことを聞くなと心の中で毒づいていたが、今では何とも思わない。彼は店員の髪に白い毛がちらほら混じっていることに初めて気づいた。こいつは俺より年上だったのか。彼は自分の髪に手を当てた。鏡をじっくり見ることもないので俺にもあるかもしれない。しかしすぐにそれがどうしたという声が聞こえてくる。四十九なら普通のこと、彼はもう一度店員の白髪に目をやった。
今日は時間に余裕があるのでイートインコーナーに腰を下ろし、彼はツナマヨネーズから食べ始めた。目隠しフィルムの貼られた窓越しに、傘を差した人間たちがぼやけながら通り過ぎていくのを眺めていると、自分がこんなところで何をしているのか分からなくなってしまう。このままここに一日いてもまだクビにはならないだろうという思いに引っ張られそうになりながら、彼はおにぎりを食べ終えてペットボトルの水を飲むと、コンビニを出た。
送迎バスを待つところにはすでに四十人ばかりが並んでいた。いつも見る顔の他に何人かの新入りと思われる顔もあったが、どいつも彼と同年配の男たちで、雨の降り続く中、肩に預けた傘の陰でスマホを見ている。最後尾に並ぶと、彼も尻ポケットからスマホを出して電源ボタンを押した。隙間バイトのサイトには、スクロールを続けてもどこまでも求人情報が現れてくる。応募する気は全くないが、いざとなったらと思うだけで、こんな雨の日にも耐えられる気がする。お前らもこのサイトを見てんだろと彼は心の中で叫ぶが、彼らが何を見ているのか彼には分からない。
バスがやって来る。傘を畳み、前に続いて乗り込むと、一番後ろの席が空いていた。リュックを背中から下ろして座りスニーカーに目をやると、紺色がすべて黒色に変わっている。途端に靴下の濡れているのが意識され、濡れた靴下のまま動き回ることを思うと、それだけで一日が黒く塗りつぶされる気がして溜息をついた。
前に坐っている連中は相変わらずスマホを見ているが、彼はリュックを抱えるようにして目を閉じた。ちょっとでも眠ることができたらという思いからだが、眠れたためしがない。それでも脳を休めることができるはずとしつこく目を閉じ続ける。とにかく今日一日を乗り切れば、二日間の休みが来る。
三十分ほどでバスが止まった。雨がやんでいなかったが、ほとんどのアルバイトは傘を差さず入り口まで走って行く。余計な体力を使わされると思いながらも彼も走った。しかし庇の中には入れず、傘を差した。入り口には回転式のアームゲートがあり、IDカードをかざしてから押して入るようになっている。順番が来て傘を閉じ、尻ポケットから引き抜いたIDカードをスキャナーにあてアームを押した。
更衣室の前には、傘を差し込めば長いビニール袋に収まる器械が置いてあるが、彼はそれを使わず横の傘立てに入れた。どうせこの傘もコンビニかどこかで勝手に取ってきたものなので、間違って誰かが持っていっても構わない。その時は残った傘を持っていくだけだ。傘立ての手前に長机があり、出勤名簿が貼り付けられている。自分の名前の欄にチェックを入れ、中に入ると、男たちの汗臭いにおいがもわっと鼻腔を覆った。雨の日は特に酷い。彼は口で息をしながら自分のロッカーの前に行き、暗証番号を合わせて開けた。靴を脱いで足を床に下ろすと、濡れた感触が強調され、やはり替えの靴下を取りに戻るべきだったと後悔した。もやもやした気持ちのまま、入れっぱなしになっている作業用のワークパンツに穿き替え、持参したTシャツに着替えた。そして首にタオルを巻いて両端を襟元から中に押し込むと再び靴を履いた。IDカードを支給されたカードホルダーに入れ、首から掛ける。財布も忘れずに尻ポケットに入れた。
入口専用の自動ドアを通って二階に行き、ホワイトボードに貼り付けてある名簿にチェックを入れ、さらにずらっと並んでいるノートパソコンのセンサー部に掌をかざして認証を受ける。四階に上がると、担当者たちの詰所の前にもパソコンがあり、それにIDカードのバーコードを読ませて、ようやく朝礼の部屋に入ることになる。最初の頃は何でこんな面倒くさいことをしなければならないんだと頭にきていたが、今では何も考えずに体が勝手に動く。
大部屋に百人ほどが集まってきて、白いラインを跨ぐように描かれた足形の上に立っていく。彼は端のラインの一番後ろに立った。青いベストを着たリーダーの男がマイクを握って前に立った。大柄の押し出しのいい男で三十代半ばに見える。おはようございますと抑揚のない声で言い、昨日携帯電話の持ち込み事案が発生しましたと続けた。
「本人はうっかりだと主張しましたが、うっかりであろうと何であろうと携帯電話の作業場への持ち込みは即クビになることは何度も申し述べております。皆様もくれぐれもご注意ください」
確かに至る所に張り出されている注意書きには、そのことも明記されている。更衣室の扉にはことさら大きい文字で、〈携帯電話持込禁止〉のポスターが貼られている。
リーダーはそれから、Fエンターキー漏れとかPTGとかセッション率の数字を具体的に挙げて何やら怒鳴っていたが、彼はほとんど聞いていなかった。要するに仕事を正確に素早くやれということなのだ。
訓示がすむとその場で腰を曲げたり回したりする簡単な体操をやり、部屋を出ると男たちは男の係員、女たちは女の係員からパンツのポケットを両手で叩かれる。その儀式がすんで、タブレット型の一〇インチの端末を一人ひとりが受け取った。上半分は液晶画面、下はキーボードになっている。首から掛けたIDカードをセンサーカメラにかざすと担当階が2と表示され、階段で二階に下りた。エレベーターは四階以上の社員専用のやつはあるが、作業場内にはない。
カート置き場からカートを引き出すとタブレットをハンドルの間にある台に置き、近くに積み上げてある緑色のコンテナの一つをカートに載せる。コンテナは折りたたみ式になっており、拡げると箱になる。側面に貼られたバーコードをタブレットで読み取ると、注文の品物が画面に表示された。
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その下に〈次のピックまで20秒〉という文字が現れ、さらにその下には緑色の点線様のLEDバーがあり、一秒ごとに短くなっていく。0になれば今度は赤いバーが増えていく。彼は今ではそんな表示に焦らされることなく、普通の歩き方でBゾーンの215番目の棚に行き、下から四番目の330番と札の貼られた間仕切りに手を突っ込んで、小さな箱を取り出し、バーコードを端末にかざして読み込ませる。その瞬間、商品の表示も赤くなっていたバーも消え、
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という表示が現れる。それを見て彼は手にした箱をコンテナに放り込んだ。品物を間違うと、ビープ音と共に〈商品が間違っています〉という赤い表示が点滅する仕掛けになっていて、最初の頃は鼓動が跳ね上がったが、焦ると余計に間違うことを学んだ今では、早さよりもまず確実性を重視している。時間内にどれだけピックできたかを示すPTGという数字はいつも低いままで、通路に張り出されるPTG達成率の上位三十人には入ったためしがない。そんなところに入ろうとして頑張って身体を壊したら元も子もない。朝礼でリーダーがいつもPTGの低い者たちに苦言を呈し、ヒアリングの対象になりますのでご注意くださいと言っているが、今までヒアリングをされたことはない。入れ替わりの激しい職場なので、能力が劣っていても長く勤めている人間を一定数確保しておきたいはずだというのが彼の考えで、そのことは当たっていると思っている。
倉庫は巨大で空調設備があるといってもほとんど効いていない。噴き出た汗を首に巻いたタオルで拭いながら歩き回っているうちに濡れた足の不快を感じなくなっていることに気づいた。慣れだ、すべては慣れだと彼はつぶやいた。
コンテナが満杯になったのでFキーとエンターキーを押し、コンベアに流す。そして次のコンテナに物を放り込み始めたら休憩のチャイムが鳴った。端末にIDカードをかざし、彼はトイレに向かった。ピッキング中はほとんど出会わないアルバイトたちがずらっと並んでいる。彼は横にあるウォータークーラーから水を飲んだ。作業内への飲み物の持込は禁止されているので、水分補給は午前と午後の十五分の休憩時間と昼の四十五分の昼食休憩時間以外にはできない。トイレもその時間以外は原則禁止だが、彼は我慢ができない時は無視してトイレに行く。その間ピッキング時間がどんどん間延びしていくが、そもそも禁止していること自体がおかしいと思っているので気にしない。それで文句を言われたことはまだない。たとえ言われても我慢をするつもりはないのだが。トイレに行って戻ってくると、彼は休憩所には行かずにカートの横に寝そべった。体に溜まった熱が床に接するところから抜けていき、そのまま眠ってしまいそうになる。本当に眠ってしまったのか、端末から流れるビープ音によって起こされた。彼はゆっくり身体を起こすと、IDカードをかざしてビープ音を停止させ、作業を再開した。
昼休み、四階の詰所にタブレット端末を返却し、二階にある食堂に行く。二階で作業している時にわざわざ四階まで行くのは時間の無駄なので、他の休憩時間と同じようにIDカードのタッチで管理すれば十分ではないかと思ってリーダーに聞いたことがあるが、何を言っているんだという顔で、そういうシステムですと返されただけだった。
食堂は広く、百人が来ても密集することなくばらばらに散らばっている。彼は券売機に硬貨を入れ三百五十円のB定食のボタンを押し、出てきた券とお釣りを取ってカウンターに向かう。ここもIDカードで決済できるようにすれば、財布を持ってこなくてもよくなるのだがといつも思うが、こっちの都合など聞く会社ではないことも分かっている。
茶色いハンチング帽にマスクをした女性からトレイにメンチカツとサラダを載せてもらい、セルフサービスの味噌汁とご飯のコーナーに移動してそれぞれを椀によそった。〈おかわり厳禁〉の文字が見えるが、量の指定はないので、彼はいつものように茶碗に山盛りのご飯を詰め込み、窓際の席に腰を下ろした。自分の体臭がにおうのが嫌だし、人のそれも気になるから誰かの近くに坐ることはない。窓の外は相変わらず灰色に煙っている。ご飯を食べ、それを味噌汁で流し込んでいると、隣のテーブルで中年女性が二人、小声で話しているのが聞こえてきた。ほとんどの人間が一人で食べているから食堂で話し声がするのはめったにない。二人は二階から四階まで往復するのに時間が取られて昼休みが短くなることに文句を言っている。誰だってそう思うだろうなと彼はにやにやしながら聞いていた。
「時間だけじゃないわ。階段の上り下りもこたえるのよ」 「あんたはダブルワークだもんね」
「仕方ないじゃん。いい加減ボケた母親をどこかで預かって欲しいんだけど、特養に全然当たんないんだもん」 「当たっても嫌がるかもよ」
「そんなことは言わせない。何が何でも放り込む」
梱包なら一階なので二人ともピッキング作業だと分かる。それでもよくもう一つの仕事ができるものだと彼は感心しながら一方の女の半笑いの顔を眺めていた。もし自分の母親が認知症になったとしても、俺は同居なんぞ絶対にしないし、近くにも住まない。まあ向こうの方からお断りと言ってくるだろう。それが言えないくらいボケてしまったら……考えても仕方がないと頭を振り、彼はメンチカツに箸を刺した。
昼食休憩が終わり、詰所で端末を返却してもらいピッキングを再開する。胃に詰め込んだ飯を消化するつもりで彼は幾分歩行スピードを上げる。この辺りの加減が難しく、ヘタをすると五時の退社時間までに足が棒のようになって動かなくなる。コンテナを一回満杯にし、新しいコンテナをカートに載せ、IDをかざして現れた表示の商品をピックアップするべくJゾーンのある棚の角を曲がったときだった。
商品棚に挟まれた通路のずっと向こうに人が倒れているのが目に入った。傍にはカートがある。初めて目にする光景に足が止まった。彼は後ずさりしてAからJまでのゾーンを見渡せる広い通路に戻り、誰かの姿が見えたら呼ぼうと思ったが、一人の姿も見えない。端末の商品の場所を確認すると、〈P―2 J356 F136〉とあり、倒れている人間の近くまで行かなくてはならない。彼は恐る恐る近づいていった。うつ伏せに倒れており、太った体型と髪の毛の量から女性を思わせる。両手は体に沿い、片方の脚がわずかにくの字になっている。休憩のために寝ているように見えなくもない。大丈夫ですかと声を掛けたが、全く反応はない。体に触れる気はないし、それ以上どうしたらいいのか分からない。こんなときどうすれば良いのか教えてもらっていないし、端末に緊急事態を知らせるキーもない。彼は取りあえず356番の棚の下から六番目の間仕切りに手を突っ込んで〈HP
63XLインクカートリッジ
黒(増量)〉を取り出し、バーコードをスキャンして赤の点滅を止めた。次の商品表示が現れる。Bゾーンにあることを示しており、彼はこの情況を見なかったことにしてBゾーンに向かおうかと思った。誰かがいつかは見つけるだろう。しかしカートを押していく途中で、四階の詰所まで行って情況を伝えることくらいはできると気づいて、カートから手を離し、階段に向かった。だんだん焦る気持ちが湧いてきて小走りになり、階段も二段飛びで上がった。
息を切らしながら詰所のドアを開けると、ノートパソコンのキーボードを叩いていた五、六人の係員が一斉に顔を上げ、珍獣でも入ってきたかのような表情をした。
「どうしましたか」 と奥の椅子に坐っていた青ベストのリーダーが立ち上がった。 「人が倒れています」 リーダーの顔が一瞬歪んだ。
「どこ」 「二階のJゾーン」
林さん、一緒に来てと一人に声を掛けてリーダーがこちらにやって来る。どうしたらいいのか分からないまま突っ立っていると、リーダーがこちらを見て、案内しなさいよという顔をした。仕方なく二人の前に立って、二階に下りていった。
あれは寝ているだけで、実はもう目覚めて作業に戻っているかもしれないと思いながらJゾーンに入ったが、先ほどと同じ場所に倒れている姿が見える。二人が近づくのを彼は少し離れたところから見ていた。林と呼ばれた係員が屈み込み、素早い動作で口に手をかざし、首筋に手を差し入れ、それから手首を指でつかんだ。そしてリーダーを見上げると、首を振った。リーダーが舌打ちをする。
「おい、ちょっと」とリーダーが手招きをした。 え? 「この人、動かすから手伝え」 動かす?
「ここに置いておいたら邪魔だろう。だから外に出すんだよ」
触りたくないからためらっていると、ぐずぐずすんなと怒鳴られた。林がにやにやした顔をしている。だから無視すればよかったんだと後悔しながら、しぶしぶ近づいていった。
林が倒れている体を仰向けにすると、女の顔が露わになった。額の赤い瘤から血がにじんでおり、口から舌が覗き、よだれか何かで口元が光っている。半目が自分を見ているようで彼は思わず目をそらした。林がチノパンの左足を取ったので、彼は右足首をつかんだ。持ち上げて引っ張ろうとすると意外に重い。女の顔を見ないように林と力を合わせて広い通路の壁際まで引きずっていった。
「そこでいいだろう」
リーダーの声で手を離した。スニーカーがどすどすと床を打つ音がして、彼は女の顔に目をやった。そのとき、昼休みに話していたダブルワークの中年女ではないかと気づいた。確信は持てないが、パーマヘアの感じからそんな気がする。
「ご苦労さん、作業に戻ってもらってもいいですよ」 Jゾーンに戻りかけると、
「何でもありませんよ」とリーダーが遠くを見て大声を出した。「そのまま作業を続けてください」
見ると、Aあたりにカートが出ていて人影が見えており、わずかな間を置いて棚の列の中に消えた。
「平山課長、エムジェイの柴田です。転倒事案が発生しまして……」とリーダーがスマホで電話をしている。「はい、どうやらそのようで」
リーダーが彼に目をやり、さっさと行けというように顎を動かした。彼はJゾーンに戻った。林が女のカートを外に出す。彼もその後に続くように自分のカートを押しながら通路に出、Bゾーンに向かった。「分かりました。ベンデロン様の指示があるまでここで待機いたします。それから救急車ということで……」
リーダーの話し声がだんだん遠ざかっていく。舌先を出した女の顔が頭から消えない。ダブルワークなんかするからだろと心の中で吐き捨て、彼は首を振った。
作業に追われ、一回だけどうなったかを確認したときはまだリーダーと林が立っているのが遠くに見えたが、三時の休憩時に見に行くと、女の身体もあの二人も消えていた。
五時の終業チャイムが鳴った。コンテナをコンベアに流し、棒のようになった脚を引っ張り上げて階段を上り、四階の詰所にある返却口に端末のタブレットを差し出した。そして行こうとすると、加賀さんと中から声がした。名前を呼ばれるのは、青い襷をつけて研修を受けたとき以来である。ドアが開き、リーダーが姿を現した。
「ちょっと中へ」
あの女を発見したときの情況を聞かれるのだろうと思っていたら、そうではなかった。リーダーは彼のPTGの数字を問題にしているのだった。
「加賀さんはここに来てもうすぐ三ヵ月ですよね。最初の頃は100を超えたこともありましたが、このところすべて100を下回っていますね。最高でも95というところですか」とリーダーは手に持った紙を見ながら言った。これがヒアリングというやつかと思いながら彼は聞いていた。
「今後これが続くようだと私としても退社勧告をせざるを得ません。せっかく長く働いてもらっているので、そんなことはしたくないんですよ。少なくとも週一回は100を超えてもらえませんかね」
週一回くらいなら何とかなると思ったが、それを達成すると二回、三回と上げてくるに違いない。彼は小さな声で「最初の頃は頑張ったんですが、体が持たなくて。もう四十九ですし」と言い訳するように答えた。
「加賀さんが入ったのは夏でしょ。今はもう秋ですよ。夏よりも頑張れるでしょ」
こいつは何も分かっていない、彼は向かっ腹を立てた。秋といったって歩き回ったら汗が噴き出すのだ。そんなに働かせたかったら、もっとエアコンを増やして温度を下げろ。そう言いたかったが、彼は下を向いて黙っていた。
「ところで、加賀さんはSNSとかされていますか」
質問の方向が急に変わったので彼は思わず顔を上げた。リーダーが口元に笑みを浮かべている。一瞬迷ったが、ここは否定した方がいいと感じる。
「……いいえ」 「それは何より」 「あのう」と彼は気になっていたことを口にした。「倒れていた女の人、どうなったんですか」
リーダーがうん? という顔をした。 「脳出血だったみたいで、今病院で治療を受けていますよ」
えっと彼は思った。あの顔は死人の顔だった、林という野郎も確認したはずだ。しかし彼は「そうですか」と答えただけだった。
ヒアリングが終わり、PTGを上げてくださいねというリーダーの声を背中に聞きながら詰所を出、一階に降りた。セキュリティゲートにずらりとアルバイトたちが並んでいる。警備員の一人が、時計、財布、ベルトなどの金属類は籠に入れてコンベアに流してくださいと叫んでいる。順番が来て言われたとおり彼は財布とワークパンツから抜いたベルトをプラスチックの籠に入れて流し、セキュリティゲートを通った。以前一度だけ硬貨をポケットに入れたまま通ってアラームが鳴り、二人の警備員からボディチェックを受けて、その執拗さに腹を立てたことがある。
コンベアに流した物を受け取り、彼は更衣室に行った。十数人の男たちが着替えており、汗の混じった体臭がひどい。手早く着替え、洗濯するためワークパンツもTシャツと一緒にリュックに詰めた。
更衣室の前の傘立てから自分の傘を取ろうとして朝刺した位置を見ると、傘がなかった。大体隅に刺すことが多いので、他の隅を見てみたが、どこにも傘が刺さっていない。仕方がないので残っているビニール傘の一つを取って出口に向かう。外はまだ雨が降っていた。回転ゲートにIDカードをかざし、アームを押して庇の下に出た。ふうっと溜息が出た。監獄からやっと解放された気分になる。しかし重い足を引きずって雨の中アパートまで帰ることを思うと、一瞬にしてそれもしぼんでしまった。彼は手に持った傘を差す。真新しい傘でどこの骨も折れていない。ラッキーと気分が少し上がって彼は雨の中に足を踏み入れた。
地下鉄の駅を下りるといつものスーパーマーケットに立ち寄り、値引きされている弁当の中から五色の野菜弁当を取り、電子マネーで決済してアパートに戻った。
ワークパンツ、Tシャツ、タオル、靴下をベランダの洗濯機に放り込み、彼は敷きっぱなしの蒲団に寝転んだ。ふっと眠りに落ち、かすかに何か鳴っているのに気づいて目を開けると、洗濯終了を告げる音だった。脱水の終わった洗濯物を室内に張ったロープに掛けると服をすべて脱いで、流し台の横に場違いに設置されたユニットバスの扉を押し開けた。バスといってもシャワーとトイレだけの小型のもので湯沸かし器から配管されている。
小便をしてからちょろちょろと流れるシャワーを浴びた。それでも気分はかなり爽快になる。
新しいトランクスを穿き、脱ぎっぱなしになっているパジャマを着、彼は机の前の椅子に腰を掛けた。ノートパソコンの蓋を開け、電源ボタンを押すと、弁当を食べ始めた。
YouTubeの登録チャンネルの一つ〈こいつだけは許せねぇ〉をクリックする。新着があり、それをクリックすると、清純派で人気のある若手女優Y・Tが事務所かどこかで記者会見をしている動画が流れ出す。何日か前にネットニュースでY・Tが男優と不倫していた記事を見たことがある。男優の妻が子宮癌で入院中で、幼い息子二人と男優がベッドの妻を囲んで笑っている写真が掲載されていた。Y・Tが、本当に申し訳ございませんでしたと深々と頭を下げると、長い髪が前に垂れる。そういえば、と彼は思い出した。どこかのCM動画で見たな、シャンプーの宣伝だったか、こいつ。これでCMもパアー、当分仕事もなくなるだろうな、ざまあみろ。
概要欄にY・TのSNSアカウントが出ていたので、それをクリックする。新着は十日前で、青空に向かって両手を挙げている姿をローアングルで撮った写真が貼り付けられてあり、〈撮影が終わりました。すっごく気持ちのいい日で、テンションが上がりました〉とツイートされていた。コメント欄を見ると、最初は〈きれい! 足長!〉〈お仕事、お疲れ様〉〈元気をいただきました〉などの言葉が続いていたが、途中から〈社会の敵、さっさと女優やめろ〉〈人の家庭を壊しておいて、何がテンションが上がる、だ〉〈二度と顔を見たくない〉などと続き、さらに下がっていくと〈死ね、死ね、死ね、死ね〉というコメントがずっと繰り返されていた。同じ言葉だが、アカウントが違っている。偽装アカウントを使う〈MegaRepeater〉というアプリに違いない。彼は自分のアカウントを隠すためにVPNを使っているが、これでは大量のコメントを書き込むことができない。だからあのアプリを使いたいが、闇掲示板の〈MRを愛する会〉というスレッドで警察がこのアプリを使っている大元のアカウントの特定に成功したようだという噂が流れていて、偽装アカウントが偽装にならなければ恐くて使えない。掲示板では、警察は実際には成功していなくて、牽制するため偽情報を流しているという書き込みもあり、どちらが本当かは分からない。一応ダウンロードはしているが、インストールはしていない。MRを使っている連中は、USBポートに刺したスティックSSDにアプリをインストールして、警察がやってきたら、それを抜いて秘密の場所に隠すから大丈夫だと書いているが、ガサ入れをなめているとしか思えない。スティックSSDに関しては、〈KeyProduct
co.〉という怪しい会社のサイトで火薬を仕込んだものが売っていてボタンを押したら一発で中身が焼失するという。〈Exploding
SSD〉という商品名だった。しかし実際に買って使っている者の書き込みはなかったし、買ったけれども品物が届かない、あそこは偽サイトだと書いている者もいた。彼も一ヵ月以上も前にダメ元のつもりで結構高いそれを注文したのだ。やはり届かず、催促のメールにも返信がなかった。クレジットカード会社に電話で事情を話してSSDの支払いを止めてもらおうとしたが、相手方から製造中という連絡が来たので待つしかないと言われた。こちらのメールには返信せず、カード会社には対応するやり方に不信感が募ったが、いずれ届くかもと諦め気味に待つしかなかった。
〈MegaRepeater〉によるコメントが終わったところで、彼は弁当を脇に置いて、〈お前の居場所はもうこの世にはない。さっさと死ね〉とコメントした。それをコメント欄の最後尾で確認したが、それまでの〈死ね、死ね、死ね、死ね〉という言葉の羅列には明らかに負けていた。それでもひとつ仕事をやったという気持ちよさがあった。
Y・Tのアカウントをフォローして、別のアカウントをクリックする。この女優はW不倫で相手の男優は離婚しているが、彼女は悪びれることなく、恋は盲目っていう言葉をみんな知らないんだなぁと公言して結婚を続けている。そんなことを言うだけあって、ネガティブコメントが何万と連なっても放置していて、彼も何回か罵詈雑言を書き込んだが、今見ると、コメントが閲覧できない設定に変えられ、書き込みも禁止されている。そりゃそうかと思いながら、彼はブックマークから彼女の所属事務所の一つのツィートを画面に出す。女優の記者会見の動画を貼り付け、事務所代表の謝罪の言葉が綴られている。閲覧も書き込みもまだできる。コメントを見ると、やはりMegaRepeaterの〈死ね〉が出ていた。新たにコメントする気が失せたが、ふっと思いついて〈自殺しないでくださいね。あなたをとことん追い詰める楽しみを奪わないで〉と書き込んだ。自分でも気の利いている文句だと彼はほくそ笑んだ。
電話が鳴る。ベンデロンからだと思ってスマホを見ると「加賀ひさ子」とあった。すぐに拒否のアイコンをタップする。パソコン画面に戻ると、また電話が鳴った。また拒否。これでかかってこないだろうと思っていたら、しばらくしてまたかかってきた。彼は仕方なく出た。
「どうして出ないのよ」 キンキン声で、いきなりのダメ出しだった。 「こうして出てるでしょ」
「屁理屈ばっかり言って。お母さんと話すのがそんなに嫌なの?」 「まあ」
「よく言うわ。お父さんが中絶しろと言ったのを私がいやだと拒否したから、あんたが生まれたのよ。そうでなきゃ、あんたはこの世にいなかったのよ。忘れないで。あんたを育てるのにどんなに苦労したか。お父さんがあんなに早く死ぬなんて思ってもみなかったけど、あんたを生んで後悔したことなんか一度もない。それなのに……」
いつもの愚痴が延々と続きそうになったので、「で、何の用?」と口を挟んだ。 「……お母さん、ヘンケイセイヒザカンセツショウになったのよ」
「何て」 「膝の軟骨がすり減って痛くなって歩けなくなる病気」 「ああ」 「それでお医者さんから人工関節の手術を勧められていて」
「金ならないよ」
「高額療養費制度というのがあって、お母さんの場合、十万くらいなのよ。でもそれは一割負担分を払った後に戻ってきて十万になるわけ。だからまず二十万はどうしてもいるの。あんた、二十万貸してくれない?」
「そんな金はない」 「働いてないの?」 「働いているけど貯金はない」 「ゼロということはないでしょ。いくら、あんの」
「五万くらいかな」 「ゴマン? あんた、何してんの。あんなにいい大学出してやったのに、その歳でそれだけ? 一体どんな仕事をしてんの」
「ベンデロンでピックアップ」 「何て。お母さんにも分かるように説明しなさい」 「ベンデロンて知らないか」 「何それ」
「ツウハンは知ってる?」 「通信販売のこと? テレビでよく見る……」 「そう、それ。その倉庫で注文のあったやつを集める仕事」
「それって力仕事?」 「まあ、そうだよ」
「何でそんな仕事してんの。あんたなら、もっと頭を使った仕事があるでしょ。どうしてそういう仕事を探さないの?」
彼はうんざりした。何度同じことを言われたことか。この母親の頭の中は三十年前と変わっていない。 「そんな仕事があるんだったら、探してきてよ」
「……だから私があの時公務員になったらと勧めたのに、あんたが意地を張って民間にこだわるから」
彼は呆れた。民間会社に入って出世して高給を取ってくれと言ったのは自分だということをこの母親はすっかり忘れている。掃除婦の仕事を二つ掛け持ちして苦労した分、その見返りは大きくなければという思いは、口には出さないが彼にもひしひしと伝わってきたから、二百を超える応募をして面接にこぎつけたのは、たった四件という情況にもめげることなく就活を続けたのだ。
ひょっとしたら惚けてきたのかと彼は思った。 「今さらそんなことを言われても後の祭りだからね」
「あんたが仕事のえり好みをするから、そんな誰でもできるつまらない仕事をする羽目になったのよ」
「誰かさんがずっとやってきた掃除婦という仕事も、誰でもできるつまらない仕事ではないんですかね」
「……掃除婦は立派な仕事よ。何しろ清潔にする、キレイにする、そして人に喜んでもらう。キレイになって喜ばない人はいないでしょ」
「分かった、分かった」と彼はおざなりに言うと、 「生活保護をもらいなよ、医療費がただになるから」
「絶対に嫌。膝さえ治れば掃除婦として働けるんだから」 「なんで嫌がるか分からないな。年金で生きていけないなら生活保護に頼ればいいじゃないか」
「あんたは実際に生活保護の申請をしたことがないからそんな口を叩けるのよ。一回、お母さんと一緒に役所に行ってみる?」
また愚痴が始まりそうだったので、「とにかく二十万は出せない。ない袖は振れないから」 「そんな薄情な子だとは思わなかった。死ぬよりつらい……」
母親の声が涙声になる。彼は電話を切った。またかかってきても今度は何度も拒否を押してやろうと思いながら、パソコン画面に目を移した。しかし先ほどの高揚感は全く戻ってこない。死ね、死ね、死ねと呟いて、彼はパソコンの電源を切った。
敷きっぱなしの蒲団に倒れ込む。折角の休日前の夜を台無しにされた気分で、目を閉じていると、深い穴にどんどん沈んでいく下降感から抜けられない。あの時、母親の言うことを聞かず、高校を卒業してすぐに就職をしていれば就職氷河期といわれる不況の波を被らなくてすんだはず。「お前は頭がいいから大学に行くのよ。母子家庭だと馬鹿にしている連中の鼻を明かしてやるのよ。お金のことは心配しなくていい。お母さんが二つでも三つでも仕事をして稼ぐから」しかし、奨学金を目一杯借りて、アルバイトに明け暮れなくてはやっていけなかった。大学を卒業して上場会社に就職すればすべてうまくいくはずだった。それがあの波を被ったばかりに歯車が狂ってしまった。取りあえず派遣で仕事をして、波が収まった頃に正規の仕事を見つけたらいいと思っていたが、波が収まっても正規の仕事は新卒に奪われてこちらには回ってこなかった。母親の言うように、選り好みをしてきたつもりなどさらさらない。奨学金の返済が始まって、それを支払うために収入のいい仕事を探すのは当たり前で、やっと見つけた正規の仕事も、効率のいい仕事の仕方を提案して上司に疎まれて居づらくなったり、成長の見込めるIT会社に何とか潜り込んで、ほっと一息ついたのも束の間、オーナー社長が投資に失敗して会社は倒産、振り出しに戻るなどして、いつの間にかこんな歳になってしまった。ボタンの掛け違いがだんだん大きくなり、終いにはボタンも掛けられないほどボタンと穴の距離が開いてしまった。頭の中で誰かの笑い声が響いてくる。あの声は仕事のやり方を頑として変えないバカ上司か、時代の先端を行っていると思い込んでいるオーナー社長か、ベンデロン様を神のごとく奉り、床に額を擦りつけているあのリーダーか。嘲笑が直接脳内に響いてくる。
はっと目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていた。あわてて手を伸ばしてスマホを取り、時間を見ると6:50を示している。遅刻だと飛び起きたが、すぐに休みであることを思い出し、彼はふうっと息を吐いて、もう一度蒲団に倒れ込んだ。遅刻で冷や汗をかいた自分に腹が立つ。さらには昨夜の母親とのやり取りが甦ってきて寝ておれず、彼は反動をつけて起き上がった。
取りあえず牛乳を飲む。昼食代の現金が足りなくなっていることを思い出し、銀行の窓口の開く九時過ぎに外に出て、ついでに何か食べることにした。それまでの間、昨日の書き込みの反応を見てやろうとパソコンを立ち上げた。Y・TのSNSに書き込んだコメントに何の返信もないのは当然だったが、イイネに2という数字が入っていて彼は小さくガッツポーズをした。次にW不倫の女優の事務所の方を覗くと、そちらの方はコメントもイイネも反応なしだった。こちらの方が気の利いた文句だと思っていた彼は、いささかがっかりした。
〈こいつだけは許せねぇ〉〈芸能界見張り番〉〈水に落ちた犬をさらに叩こう〉にも新着はなく、過去の動画を見ていったが、やはり撮れ立て新鮮のスキャンダルでないとわくわく感が薄くなる。スキャンダル当事者のSNSも閉鎖もしくはコメント禁止の設定がされているのがほとんどで、彼は登録したお笑いチャンネルの一つに切り替え、新着があったのでそれを流した。漫才の相方を罵倒するスタイルで、非常に細かい欠点を突くのが笑わせる。
九時過ぎに彼はキャッシュカードを持って部屋を出た。昨日ほどではないが、小雨が降っていて昨日頂戴したビニール傘を差して外階段を下りた。連休の第一日目の朝食はハンバーガーショップのモーニングセットと決めていて、いつも寄るコンビニを横目に見ながら、地下鉄の駅方向に歩いていく。
ハンバーガーショップも適度に空席があり、彼はチーズバーガーセットを選んで窓側の席に腰を下ろした。通勤客の姿がぽつぽつ通り過ぎるのを眺めながらハンバーガーを食べ、ゆっくりコーヒーを飲む。人が働いているときに自分がこうしてのんびりしているのが至福の時なのだ。土日を休みにしなかったのもこのためなのだ。もちろん土日の時給が高いこともあったけれども。
小一時間いて、すぐ近くにある銀行のATMに行き、まず残高を確認する。週給四万五百円が入金されていて十万円を超えていることにほっとする。一万円を千円札十枚にして引き出し、それをジーンズのポケットにねじ込んだ。
銀行を出て、通りの向こう側にある消費者金融の無人機コーナーが目に入った。二十万くらいならあそこで借りられるかもと思ったが、すぐにかぶりを振った。十数年前の嫌な記憶が甦ってくる。
会社が倒産して派遣の仕事に逆戻りした頃だった。それまで何とか奨学金の返済、国民健康保険、国民年金を払っていたが、派遣の給料では賄えなくなり、貯金もみるみる間に減少していき、その恐ろしさについ消費者金融に手を出してしまったのだ。返済が遅れ、電話での催促の怒号を逃れるために借り換えを繰り返し、最終的には十万円が百万円を超えてしまった。
食費を切り詰めて返済に充てていたが、それも行き詰まり、すきっ腹を抱えて街をうろついていたとき、公園からずらっと並ぶ人の列が目に入った。何だろうと思って様子を窺うと、どうやら年末の炊き出しをやっているのだった。彼は一度はその場を離れたが、一食分の金が浮くと考えると、ここは恥を忍んで並ぶべきだと自分に言い聞かせ、踵を返した。
「一人、豚汁は一杯、おにぎりはワンパックですから、どうかお守り下さい。なるべく多くの方に渡るようにしてください」
若い男の係員が声をかけている。最後尾に並んで先頭を見ると、おにぎりのパックが次々と渡されている。自分の分がなくなるのではないかと思うと、腹の底がきゅうと引き絞られる感覚がした。なんでこんな思いまでして恵んでもらわなければならないのだ、俺はこんなところに並ぶ人間じゃない。彼は余程列から抜けようと思ったが、下唇を咬んで耐えた。順番が来て、発泡スチロールによそわれた豚汁を受け取り、隣のテーブルに移動する。若い女がおにぎりのパックを差し出す。彼は女の顔を見ないように視線を下げ、右手をだしてそれを受け取った。
「一緒に頑張りましょう」
女の軽やかな声がした。その途端、頭に血が上り、顔が熱くなった。彼は顔を上げ、女の顔を睨んだ。女ははっとした顔をしたが、すぐに微笑んだ。負けたと思い、彼はそそくさとその場を離れた。そんなことを思ってないくせに、腹の中では嗤っているくせに、恵んでもらう側に立ったこともないくせに。負け犬の遠吠えであることが彼をいっそう惨めにした。誰もいない木の陰に隠れた。豚汁を一口飲み、おにぎりにかぶりつく。久し振りに食道を食べ物が通る感覚がして、胃が落ち着いた。その瞬間、不意に涙があふれてきた。ちくしょう、ちくしょう、心の中で叫びながら、彼はおにぎりをむさぼった。
もう頼るのは母親しかいなかった。翌日、彼は母親のアパートに向かった。
「何で今まで黙ってたの。そんなになる前なら何とかなったのに、そこまで大きくなったらどうしようもないわ。自分で何とかしなさい。大学まで出してやったのに、どうしてあんたはそんなに体たらくなの」
顔を合わせて事情を説明した後の第一声がそれだった。それでも母親は仕事で掃除に行っている司法書士事務所の所長に相談してくれて、自己破産という選択をしたのだった。そのとき、奨学金という借金も消えるのだが、保証人になっている母親に返済義務が生じるため、所長は母親に一括返済を勧めた。幸い残りが六十万円ほどで払えない金額ではなかったので、その助言に従い、母親は一括返済を決めた。ただし、それは彼が毎月一万円ずつ返すという約束の下でだった。
司法書士に手数料を払った母親が「二度と借金をしないこと。借金を考える前に私に相談すること」と言った。毎月一万円をあんたに払うのは借金と同じじゃないかと思ったが、口には出さなかった。支払いがちょっとでも遅れるとすぐに電話がかかってきて、彼に対する愚痴が続くので、彼は国民健康保険、国民年金への支払いをやめて、何とか五年で払い終わったのだった。健康保険や年金の支払督促状を無視していると役所の人間がやって来るようになって、それから逃れるために彼は今のアパートに引っ越して住民票を移さなかった。役所からの問い合わせがなくなり、彼はせいせいした。
スーパーに寄り、牛乳、弁当、それから餃子などの冷凍食品をいくつか買い、部屋に戻った。レジ袋の中身を冷蔵庫と冷凍庫にしまい、彼はノートパソコンのスリープを解除した。YouTubeの罵倒芸の画面を再生すると、再び二人の漫才師が動き始める。それを笑いながら、頭に二十万円のことがかすめた。ブラウザのタブをもう一つ開いて検索窓に消費者金融大手の名前を入れる。そのサイトでWEB上で借り入れ、返済のできる方法を選んだ。名前、年齢、仕事先、携帯電話番号、メールアドレスなどを入力し、審査項目という欄に来た。ここで自己破産したことを書いた方がいいのか分からなかったので、AIが答えてくれるというチャットに「以前自己破産したことがありますが、大丈夫ですか」と打ち込んだ。罵倒芸の声が流れていて、笑い声も聞こえてくる。
「いつのことですか」 「十五、六年前です」 「今はどこかに借金をされていることはありませんか」
健康保険や年金のことが頭に浮かんだが、 「ありません」と答える。
「分かりました。お客様の場合、WEB上で審査の判断ができませんので、改めてこちらで審査いたしまして、その結果をお知らせいたします」
向こうで調べられて健康保険や年金の滞納がばれて、こちらの情報が役所に伝わる恐れがある。彼はそれ以上先に進まず、タブを閉じた。再び二人の漫才師が画面に現れる。一応借りようとした形を作りたかっただけだろう、と罵倒芸の口を借りて、彼は自分にツッコミを入れた。それに笑い声が被さった。そのタイミングのよさに彼は思わず笑ってしまった。
その時、ドアの叩く音が聞こえた。WEBの申し込み途中の情報がもう役所に回ったのかと一瞬思ったが、まさかそんなはずはないと立ち上がり、ドアの傍まで行くと「どなた」と問いかけた。
「郵便局です。お荷物が届いています」
ドアを開けると制服を着た若い男が立っており、手の平大の銀色の袋を差し出した。サインをし、添付のラベルを見ると、英語の文字が見え、彼はどきりとした。宛名には自分の名前、差出人には〈KeyProduct
co.〉とあった。 やっと来た!
急いで中に戻り、机の引き出しからハサミを取り出して袋の端を切る。内側のプチプチクッションの奥に十センチほどのSSDが見え、同封の紙切れと一緒に抜き出した。紙切れには絵が描いてあり、SSDの横のスライドバーを動かしてカバーを引くと赤いボタンが現れ、それを押すと内蔵の火薬に火がつく仕組みだった。彼は絵に従ってカバーを開けてみた。確かに赤いボタンが現れた。本当に火がつくのか、中身が燃えるのか、実際に試してみたかったが、本当に燃えてしまうとまた買わなければならない。注文するとき、動作確認用にもう一本買うべきか悩んだが、値がはるのと偽サイトで送ってこない場合のことを考えて一本だけにしたのだった。
彼は早速ノートパソコンを立ち上げてSSDをUSBポートに差し込み、ダウンロードファイルの中から〈MegaRepeater〉を選んでインストールした。インストール先はSSDである。デスクトップにできた黒丸に黄色の稲光の入ったアイコンをクリックすると、〈MegaRepeater〉の画面が現れる。デフォルトの設定では偽装アカウントの数は10だが、それを最大の100にする。他に、履歴や過去のデータ、各種設定の保存先をすべてSSDのDドライブに変更した。これでパソコン本体のCドライブには〈MegaRepeater〉の痕跡は残らない。警察が彼のアカウントを特定してやってきても、赤ボタンを押せばすべて消えてしまう。実行の痕跡がなければ捕まるはずがない。
彼は早速Y・Tの事務所のSNSに行き、コメント欄のURLをコピーして〈MegaRepeater〉のtarget
sectionにそれを貼り付けた。Comment
sectionには、取りあえず〈Y・Tは死ね! 死ね! 死ね!〉と書き込み、スタートボタンを押した。
コメント欄を見ると、すごい勢いで次々と〈Y・Tは死ね! 死ね! 死ね!〉と書き込まれていく。背筋がぞくっとした。メガリピーターはすごいと彼は思わずつぶやいた。この手に無敵の剣、エクスカリバーを手にした気分だった。
彼は〈こいつだけは許せねぇ〉の過去動画を見て、コメントがまだ可能なところに〈死ね! 死ね!〉の爆弾投稿を繰り返した。いちいちその反応がどうかと見ることもない。食事を摂ることも忘れて爆弾投稿に熱中し、翌日もそのことで一日が暮れた。
前日、遅くまで起きていたのにスマホのタイマーが鳴る前に目が覚めた。ベンデロンにワンコールし、部屋干ししていたワークパンツとTシャツ、タオルを取ってリュックに入れる。二日休みを入れているせいで体が軽くなっているが、今日は気持ちまで軽くなっていることに気づいた。いつもなら体の軽さに反比例するように働きたくねぇと思ってしまうのだが、今日は違う。〈MegaRepeater〉が体中の濁りを拭い去ってくれた感じがする。だから天気がどんより曇っていても、コンビニの例の店員が能面みたいな顔で「レジ袋はどうされますか」と言っても、全く気にならなかった。
三日前の、PTGを上げろというリーダーの言葉が残っていて、彼は端末画面に現れる緑色のLEDバーが消える前にピックアップを終えることに集中した。
午前中の休憩が終わって、次の商品のあるJゾーンに入ったとき、そういえばあの女はどうなったのだろうと彼は思った。何だか遠い出来事のようで、今まで全く頭に浮かばなかった。朝礼のときにリーダーがそのことに触れれば思い出したのだろうが、リーダーは何も言わなかった。ということは死んだと思っているのは自分だけで、本当に脳出血で今も病院にいるのかもしれない。
昼休みにあの女と話していた相手を探したが、どんな顔だったか見当もつかないのでどうしようもない。もっとも見つかったとしても女のことを尋ねる気はなかったが。
昼食休憩後は足の運びが遅くなるのが通常だったが、今日くらいはもっとPTGの数字を上げておいた方がいいと思い、彼は小走りでカートを押した。
三時休憩のとき、タブレット端末に「本日残業があります。残業ができる方は応募してください」とメッセージが表示された。足が棒のようになっても何だか気力でカバーできそうで、一回くらい応募しておいた方がリーダーの覚えもめでたくなるのではと思ったが、帰って〈MegaRepeater〉を使いたい気持ちの方がはるかに強かったので、彼はそれをパスした。
毎日〈MegaRepeater〉のターゲットを漁っても新着のスキャンダルは次々とは現れない。そこで彼は芸能人ばかりではなく、炎上しているSNSならどこにでも爆弾を投下し始めた。同じ〈MegaRepeater〉を使っている誰かが投下する前に先を越すことに熱中し、先を越されたなら舌打ちし、しかし、その後に自分の足跡をつけるように、罵詈雑言の履歴の中から気に入った文句を選んで投稿した。
ある日、ベンデロンの給与体系を愚痴るSNSが賛否入り乱れた投稿で炎上しているのを見つけた。ベンデロンを擁護しているのはベンデロン側の誰かに違いない。彼はすぐにコメント欄のURLを〈MegaRepeater〉のターゲット欄にコピーして、「ベンデロンは人殺し、倒れても死ぬまで放置」と書き込み、スタートボタンを押した。同じ文句がそれまでの投稿を押しのけて次々と書き込まれていくのを眺めていると、胸がすっとした。
次の日、ベンデロンに行くのがちょっと恐かったが、朝礼でもSNSに触れられることは全くなく、それはそうだろうと彼はにやりとした。
Y・Tが自殺したというニュースが流れたのは、それから数日経ったときだった。
帰りの地下鉄の中でスマホのポータルサイトを開いたら、トップニュースがそれだった。えっと思い、嘘だろうと思わずつぶやいた。記事を見ると、マネージャーが迎えにいったら、部屋の中でドアノブに紐状のものをかけて首をつっていたのを発見したとある。マネージャーが来る時刻を見計らって首つりの真似をし、すんでの所で助かって世間の同情を買おうとしたが、失敗したというのが本当だろうと彼は思った。そうに違いない。
駅に着いて彼はどこに立ち寄ることもなく、急いでアパートに帰った。スニーカーを脱ぐのももどかしく、一目散に机に向かうと、ノートPCの電源を入れた。
Y・Tの事務所のサイトを開く。〈本日、Y・Tが天国に旅立ちました。皆様に可愛がられ、応援をいただいて成長してきたY・Tですが、突然のお別れとなってしまいました。皆様から多くのご声援、励ましをいただき、Y・Tも前を向いて歩んでいこうとしていた矢先のできごとでした。Y・Tは天国に旅立ちましたが、皆様のことは天国から見守っていると信じます。どうかY・Tのことを忘れずに記憶にずっと留めていただければ幸いです。ありがとうございました〉
事務所からの通知に対するコメント欄には〈悲しいです。安らかにお眠り下さい〉〈ユーピーの頑張る姿にずっと励まされてきました。ありがとうございました。天国からずっとわたしたちを見守って下さい〉〈なんでとは言いません。わたしたちがユーピーを守れなかったことが悔しいです。涙が止まりません〉などと次々に書き込まれている。
彼は〈MegaRepeater〉を立ち上げてターゲットの履歴からY・Tの事務所を選び、コメントセクションに〈自業自得! 自業自得! 自業自得!〉と書いた。スタートボタンを押すのを一瞬ためらったが、えーい、ままよとマウスの左ボタンにかけた指に力を込めた。ファンのコメントが〈自業自得! 自業自得! 自業自得!〉にあっという間に押し下げられ画面から消えた。下にスクロールしていってもその文字で埋め尽くされている。何か反応があるかもと見ていると、しばらくして返信コメントがあり、〈ひどい!〉〈こんなことを言うやつ、絶対に許せない!〉〈人間じゃない!〉と続いていた。口元が緩み、彼は笑顔を浮かべた。
何日か経って、Y・Tの遺族の告訴を受けて、警察が誹謗中傷をした者を特定して名誉毀損罪か侮辱罪で逮捕する方針であるというニュースが流れた。やっぱりそう来たかと思いながら闇掲示板の〈MRを愛する会〉を覗いてみると、Y・Tの自殺で盛り上がっている投稿に続いて、警察がいよいよ乗り出したことへの反応が書かれていた。しばらくMRを使うのを控えるという者やアカウントが特定できるはずがないと主張する者、名誉毀損罪が恐くてMRを使えないなんて言うやつはさっさと出ていけと威勢よく書き込む者などで入り乱れていた。彼は威勢のいいやつの投稿を引用して、〈捕まっても三年ブタ箱に入るくらいどうってことないだろう〉と書き込んだ。〈そうだ、そうだ〉という投稿がすぐに続いた。
お前ら、そんな簡単に俺の言うことに同意して大丈夫かと彼は苦笑した。焼却という最終防御兵器を持っていないのにMRを使う度胸は俺にはないけどね。
十二月になってベンデロンへの注文が激増していることは、午後の休憩の後に、残業要請が毎日端末に表示されることで分かった。しかも、五日間連続で応募すればボーナスが出るというポスターが通路のあちこちに張り出されている。MRを使う高揚感が警察の介入のせいで落ちてしまって早く帰る気持ちもなくなって、残業しようと思えばできるのだが、彼は全く応募する気はない。というのもベンデロンのサイトを見て、新規募集の時給が一八〇〇円と分かったからだった。自分よりも六〇〇円も高い。これなら一旦やめて新規に応募した方が得じゃないかと思った。しかしその時給は年末繁忙期だけで、続けて働く場合は一二〇〇円になると書かれている。残業を奨励するのは新規で雇うより安くすむからだ。ベンデロンに儲けさせる気持ちなどこれっぽっちもないので、彼は応募しない。さらに、以前PTGを上げるために頑張って達成率の上位三十人のうちに二回入ったことがあるが、リーダーからはそのことに関して何も言われなかったし、元の働き方に戻しても何の注意も受けなかった。それなら体力を温存するためにも今まで通りでよかった。銀行口座の残高が少なくなってくれば、そのとき残業でも何でもすればいい。
冬になって汗の出方がましになったので、体力の消耗は少なくなったが、脚が棒になるのは変わりがない。更衣室で着替え、靴を履いているとスマホが鳴った。電話だった。母親かと思ったが、画面には見慣れない固定電話の番号が出ている。彼は電話を切り、更衣室を出て、セキュリティゲートから外に出る。
送迎バスに揺られていると、また同じ番号から電話が来た。タップしてすぐに電話を切る。
部屋に帰るまでかかってこなかったので、間違い電話だったのだろうと思っていたら、三度目の呼び出し音が鳴った。仕方なく通話アイコンをタップした。
「わたくし、**市役所生活福祉課の宮城と申しますが、加賀太郎様でいらっしゃいますか」 「そうですが」
「この度お母さまの加賀ひさ子様が生活保護を申請されまして、扶養照会という形でこうしてお電話を差し上げた次第でございます」 「扶養照会?」
どういうことか分かっていたが、彼はわざととぼけて見せた。
「はい。お身内の方にお母さまを扶養できるかどうかのお尋ねをしなければなりませんので、こうして……」 「できません」 即座に彼は答えた。
「加賀太郎様は加賀ひさ子様のご子息でいらっしゃいますよね」 「金がないから無理。自分一人が食っていくのに精一杯なんだよ」
「取りあえず文書をお送りしたいので、ご住所を教えていただけませんでしょうか」 「金がないって言ってるだろう。もう二度と電話をかけてくるな」
彼は電話を切り、かかってきた番号を着信拒否にした。
やっと生活保護を受けることにしたか。そう、それでいいんだよ。それで膝の手術でも何でもすればいいんだ。
そう思っても何だか胸の内がむしゃくしゃする。
ノートPCを立ち上げ、YouTubeを見ると、〈こいつだけは許せねぇ〉に新着動画がアップされていた。大手事務所から独立して個人事務所を作った女優が国税局から所得税法違反容疑で検察庁に告発された件で、謝罪している映像だった。彼女は会計責任者に任せっきりで、自分は全く知らなかったと弁明した上で頭を下げていた。概要欄に個人事務所のサイトへのリンクがあり、彼はそれをクリックした。コメント欄にはMRの投稿はまだない。そこをMRのターゲットにし、〈納税は国民の義務。それをしないやつらは税金泥棒! 死ね、死ね!〉と書き込んでスタートボタンをクリックした。書き込みが次々と続いていく様子を眺めていると、むしゃくしゃした気持ちが嘘のように消えていく。
他のサイトも巡回していったが、MRによる投稿が目に見えて減っているのが分かった。ちぇ、情けねえやつらだと思ったものの、さすがにこの情況では派手に投稿するのはまずい気がした。しかしMRによるコメントの一番乗りは捨てがたい。
彼はここぞというやつにだけ、しかもMRの一番乗りのときだけ爆弾を投下すると決めて続けていた十二月末、ネットニュースに「ついに〈MegaRepeater〉の使用者が逮捕される」という見出しが載った。仕事から帰ってスーパーの値引き弁当を食べていた彼は思わず割り箸を置いて見出しをタップし、口の中のものを噛むのも忘れて記事に見入った。
「警察は29日、Y・TさんのSNS上で誹謗中傷を繰り返していた自称会社員の遠山孝太容疑者(45)を逮捕した。遠山容疑者は〈MegaRepeater〉という特殊なアプリを使い、大量の中傷コメントを送りつけてY・Tさんの名誉を傷つけた疑いが持たれている。警察は引き続き〈MegaRepeater〉の解析を進めて使用者のアカウントを特定し、、プロバイダーの協力の下、中傷コメントを送りつけた者を逮捕する方針を固めている」
男の年齢が四十五歳であることが胸に刺さった。こいつが俺であってもおかしくはなかった。彼は記事に目を落としながら弁当の残りを黙々と食べた。
どうして男のアカウントが特定されたのか。本当にMRの解析で見つかったのか。男が何かミスをしたのか。
ひょっとしたら〈MRを愛する会〉でそんなやり取りがされているかもと闇掲示板のお気に入りに入っているスレッド名をクリックすると、「このスレッドは閉鎖されました」と表示される始末だった。その逃げ足の速さが、もうMRは使えないと告げているようだった。
正月は時給が五割増しになるので、彼は週休を一日に減らして働いた。MRを使う楽しみも当分の間封印しているので、余力の残っているときは残業もこなした。
しかしそうやってベンデロンと部屋の行き帰りだけで日を過ごしていると、自分が小さな穴の中に押し込められた気持ちになってくる。そこから這い上がるように、彼はMRを使わずに〈こいつだけは許せねぇ〉や〈水に落ちた犬をさらに叩こう〉に載った新着動画のコメント欄に〈悪はとことん叩く。お前は死刑だ! 死ね! 死ね!〉と書き込んだ。MRさえ使わなければ大丈夫だと自分に言い聞かせた。
一ヵ月ほど様子を窺ったが、あれ以後、MRの逮捕者は出なかった。彼の見た限り、MRを使った投稿は目にしなかった。もうそろそろ再開してもいいかと彼が思い始めた頃、脱税で告発されている女優と国税庁の話し合いが終わって、修正申告と重加算税を課す処分で決着がついた。それに対してSNSが炎上し、そこにMRが使われていた。彼もここぞとばかり封印を解き、〈政界にコネのあるやつが罪を逃れやがった。庶民の手で鉄槌を下す。お前は死刑だ! 死ね!〉と書き込んだ。連続した書き込みが次々と上に積み上がっているのを眺めていると、自分も穴から飛び上がったような気持ちになった。
ドアを叩く音がしている。はっと目を覚ましてスマホを見ると、5:02だった。夢かと思っていると、再びドアが叩かれる。その激しさに彼はどきりとした。まさか。上半身を起こし、息を殺しているとドアを叩く合間に「加賀さん、警察です。ここを開けてください」と叫んでいる。部屋の中は冷え切っている。体が小刻みに震え、それを抑えようとして両手を巻き付け体を硬くしても、震えは止まらない。
「加賀さん、そこにいらっしゃるのは分かっていますよ。開けなければ鍵を壊して入りますよ」
彼は両手を握り、親指を噛んだ。このまま居留守を使えば何事もなく過ぎていくのではと思う自分を、もう一人の自分がそんなわけねぇだろうと否定する。真っ白になった頭の中にSSDという言葉が降ってくる。そうだ、あれだ、あれだ。バネ仕掛けのように立ち上がると、彼はドアに近づき、
「着替えるまでちょっと待ってください」
叫ぶように言って奥に戻り、机上のノートPCに刺してあるスティックSSDを抜いた。カバーを引き、赤いボタンを押す。一呼吸置いても何の反応もない。彼はもう一度力を込めて押した。しかし同じだった。やっぱり騙された、二本買ってテストすべきだった。頭の中がかっと熱くなる。そのとき説明書にあった絵が浮かんだ。あの絵ではPCに刺した状態でボタンを押していた。彼は引き出しを開けて説明書を探したが、どの引き出しにも見当たらない。とにかく絵の通りにと、PCのUSBポートにSSDを刺してボタンを押したが、何も起こらない。どうしてだと叫んだとき、電気だとひらめいた。USBポートに電流が流れないと火薬に火がつかないのだ。彼はPCの電源ボタンを押した。メーカーのロゴが現れ、Windowsの起動の輪っかがくるくると回り始める。遅い、遅いとつぶやきながら、立ち上がる前に赤ボタンを何回も押していると、SSDから突然火が出た。あわてて指を離すと同時に炎がぼおっと十センチほど立ち上がって、すぐに消えた。花火をした後のような臭いがする。SSDは溶岩の表面のようにボコボコになっている。もっとよく確認するため引き抜こうとしたが、SSDに触れた瞬間、熱さで思わず手を引っ込めてしまった。電源が落ちたのかWindowsは立ち上がらずに黒い画面になっている。
「加賀さん、開けてください」
彼は玄関に行き、ドアを開けた。冷たい空気が流れ込んでくる。コートを着た男が立っており、後ろには何人か警官がいるようだった。
「加賀さんですね」 うなずくと、「スウェットに着替えた?」と聞かれた。 「これが出かける服なんで」」
刑事が眉根を寄せて彼をにらんだ。 「名誉毀損で逮捕状が出ていますので、逮捕します」
刑事がコートのポケットから折り畳まれた紙を出して、彼の前にそれを拡げてみせた。 「これが逮捕状ね。それから」と言いながらもう一枚の紙を拡げ、
「家宅捜索の許可状も出ていますので、今から捜索を行います。よろしいですね」
彼の返事も待たずに刑事が入ってき、靴を脱いで部屋に上がる。続いて警官が三人入ってきて、一人が彼の腕を捉えた。
奥に行った刑事が、何か臭うなと言い、あっと声を出した。 「こっちへ連れてこい」 警官に引っ張られて刑事の横に来た。
「これ、何をしたんだ」 刑事が燃えたSSDを指を差す。彼はこれからは絶対に口をきかないと決めた。
「黙秘か。警察をなめたらあかんぞ。こんなことをしても証拠はごまんとあるんだから観念せえ」
ノートPCとスマホの他、机の中にあるものすべてを押収された。警官たちは押し入れの中もかき回し、本や漫画、使わなくなったフロッピーディスクなども段ボール箱に放り込んだ。ベンデロンのリーダーに電話をしたかったが、口を聞きたくないのでスマホを使わせてくれとは言えなかった。どうせこのままクビになると考えると、ドタキャンの電話にこだわる方がどうかしていると自分を笑いたくなった。
取り調べで怒鳴られたり机を叩かれたりしても彼は完全黙秘を貫いた。穴の中に閉じこもるのは得意なのだと自分に言い聞かせる。刑事は「Y・Tが自殺に追い込まれたのは、お前たちのような輩がSNS上で誹謗中傷を繰り広げたせいだ。そのことについて心が傷まないのか」と声を荒げたが、全然傷みません、天罰だと心の中でつぶやくのみだった。かと思うと刑事は柔らかい口調で世間話をしたりや彼の身の上話を聞こうとしたが、一切応じなかった。
勾留が決まって国選弁護人をつけることを要求すると、留置場の接見室に風采の上がらない年寄りの弁護士がやってきて、差し出された書類に署名をしたり指印を押したりした。
「加賀さん、もしあなたが警察の言うようなことを実際にやっていたとしたら、素直に認めて刑に服した方がいいと思いますけどね。今回初犯なんだから執行猶予がつくのは確実でしょう。私もその方向で弁護できますよ」
「私はやってません」 彼は即座に答えた。 「そうですか。分かりました」 そう言うと、弁護士は溜息をついた。
勾留期間中も一言も喋らず、留置場の寒さに耐えながら二十日間を過ごし、彼は不起訴処分になって釈放された。自分ではまだまだ頑張れると思っていたが、外に出た瞬間、ぱんぱんに膨らんでいた風船が急速にしぼむように立てなくなり、その場でしばらく蹲らなければならないほどだった。
不起訴の理由は一切明かされなかったが、SSDが焼けたことによって実行行為の特定が不可能になったに違いないと彼は考えた。
押収された物は焼けたSSDを除いてすべて返却された。SSDがないことを申し立てても、そんなものは押収していないの一点張りだった。写真を撮っていたはずなので写っていると主張しても写っていないと言うだけで、写真も見せてくれなかった。
あのSSDは今も解析中で、データが復活できたら今度こそ起訴されるんじゃないかと気が気でなかったが、たかが名誉毀損罪でそこまで労力をかけるはずがないと考えて、心を鎮めるしかなかった。
SSDを刺していたUSBポートは焼けただれており、PCが壊れたなと思っていたが、電源ボタンを押すと、何事もなくWindowsの画面が現れた。彼は快哉を叫び、PCを抱きしめたくなった。こいつだけが俺の友だちだと彼はキーボードをなで回した。焼けたUSBポートだけが使えなくて、あとのポートはすべて生きていた。
荒らされた部屋を片付けるのは後にして、彼はまず自分が逮捕されたときの記事をネットで探した。しかし二十日以上も前の記事は見当たらず、検索に引っかかったのは、Y・Tの事務所のサイトに掲載された声明文だった。そこには、〈MegaRepeater〉の使用者が二名逮捕されたが、それを使わずに誹謗中傷する者が絶えないことを述べ、これからも警察と協力して厳正に対処していく、と結んでいた。
その二名のうちの一人は俺だよ、と彼は自分を指さした。しかし俺は不起訴だったんだよ、バーカ。最初にMRの使用者が逮捕された記事から考えて、自分が逮捕されたときの記事にも名前や年齢が出ていたはずで、それを目にできないのは何とも残念で、彼は何とか目にしたいと検索を繰り返したが、どこにもなかった。大したことのない犯罪だから仕方がないかと彼はブラウザを閉じた。
銀行口座の残金は自動引き落としやクレジットカードの支払いがあって、五万円を切っていた。 ベンデロンに電話をする。
「はい、エムジェイの柴田ですが」リーダーと思しき声が聞こえてくる。 「あのう、加賀という者ですが、しばらく休んでしまって……」 「誰?」
「加賀です。一ヵ月ほど前までそこで働いていた……」 「ちょっと待って」
保留音が聞こえてくる。俺が逮捕されたことを知っていたら、二度とベンデロンでは働けないかも、そうしたらコンビニかどこかを探さなくては、と思っていると保留音が切れ、
「ああ、加賀さんね。突然やめた人ね。それで……」 「あのう、もう一度働きたいんですが」 「そりゃいいけど、新規で応募してね」
「はい」 「じゃあ」
あっさりと電話を切られてしまった。歓迎されているのかいないのか全く分からない。ただ逮捕のことは知られていないのは分かった。
繁忙期とは違う時期の新規応募で時給は下がったが、慣れた仕事なので気は楽だったし、エムジェイの社員たちから気になるような視線を投げかけられることもなかった。最初にMRで捕まったやつの記事には顔写真が載っていたわけでもないので、自分のときも同じだろうから顔を知られるはずがないし、たとえ写真が載ったとしても誰もそんな顔をいちいち覚えていないだろう。名前にしても、ベンデロンのここで気づかれなければ、他では絶対に気づかれないだろう。ただ現実の匿名性に安心して、ネットでの活動を再開するのは危険だというのは分かっていた。
取りあえずプロバイダーを変えて新たなアカウントを取得し、VPNでそれを隠して〈こいつだけは許せねぇ〉〈芸能界見張り番〉〈水に落ちた犬をさらに叩こう〉のサイトを閲覧した。コメント欄にはぽつぽつと〈こいつはゴキブリ! 叩きつぶせ!〉とか〈お前の居場所はここにはない、地獄に落ちろ!〉などの言葉が書き込まれていた。さすがにMRを使った連続コメントは見当たらなかった。彼も〈死ね! 死ね! お前が死んでも悲しむ者は一人もいない!〉と書き込んで、リターンキーを押した。コメントが画面に出る。久し振りの気持ちよさだった。
〈KeyProduct co.〉から一つ二万円の〈Exploding SSD〉を買うため、彼は残業要請に五日間連続で応募し、ネットで注文した。
それが届くまでの間、引っ越し費用を貯めて、届いたらすぐに別の安アパートに移るつもりだった。新しいアカウントが警察に知られても住所を変えておけば、そう簡単に踏み込まれないだろうという計算だった。
MRを使うのを我慢しながら、一つ一つ罵倒コメントを書き込んでいたある日、見知らぬ番号から電話がかかってきた。彼は迷わず通話終了のアイコンをタップした。しかしすぐにまた同じところからかかってきた。市外局番がこの前着信拒否の設定をした**市役所生活福祉課と同じだったことに気づいて彼は電話を切ろうとする指を止めた。ひょっとしたら母親の生活保護に関して電話してきたのかもしれない。ためらいながら通話のアイコンをタップした。
「はい」と答える。 「ああ、こちらは**市警察の戸田と申しますが、加賀太郎さんですね」 思わず、いいえと言いそうになって口を噤んだ。
「もしもし、加賀太郎さんですか」 「……はい」
「実は、お母さまの加賀ひさ子様がお亡くなりになりまして、ご子息の加賀太郎さんにご遺体を引き取っていただこうと……」 「死んだ?」
「はい。隣にお住まいの方が見つけて救急車で病院に運んだんですが、脳梗塞だったようで。事件性はありませんので、すぐにでもお引き取りが可能です」
「いつですか」 「できれば早くしていただいた方が……」 「いや、お袋が死んだのはいつですか」 「ああ、……二日前ですね」
二日前か、ひょっとしたら母親は俺のところに電話をしたかもしれないと彼は思った。 「それで、いつ頃こちらにお越し願いますでしょうか」
「次の休みは六日後なんで、そのときなら……」 「今日はお休みなんですか」 「はい」
「だったら今からでも。何かご用事がなければ、まだお昼なんで」 休みが潰れるのはいやだなと思いながら答えを渋っていると、
「来られるのなら、身分証明書と印鑑をご持参ください」と警官が言った。 「印鑑はあるけど、身分証明書はないです」
「マイナンバーカードとか運転免許証とかお持ちでないですか」 「はい」 「そうしたら住民票をお持ちください」
住民票がないとは言えない。かといって、前の住所の役所まで行って申請すると、国民健康保険とか国民年金の保険料滞納がばれて請求されてしまう。いっそのこと引き取りを拒否しようかと思ったが、もし母親が小金を貯めていたら、それを受け取れるかもと考えて、今から行くことを承諾すると、警官は病院の名前を告げ、お待ちしておりますと電話を切った。
彼は着信拒否をしていた母親から二日前に電話があったかどうか調べてみたが、なかった。さかのぼっても着信はなく、まあ、そうだろうなと納得した。
彼はとりあえず印鑑だけを持って部屋を出た。
地下鉄と私鉄を乗り継いで**駅に降り立ち、スマホのナビ機能を使って病院に向かった。
茶色のタイルの貼られた中規模程度の病院で、中に入ると診察時間が終わっているのか閑散としていた。受付で遺体の引き取りのことを告げると係員は内線電話でどこかにそのことを伝え、しばらくして警官とスカイブルーの制服を着た看護師、それにくたびれたスーツを着た中年男の三人がやってきた。
「加賀さんですね」と警官が言った。声の感じから若いとは思っていたが、自分の息子であってもおかしくない年頃に見える。
中年男が、この度はご愁傷さまでしたと口の中でつぶやきながら、名刺を差し出した。〈**市役所生活福祉課 宮城敬三〉とある。
三人の後から地下への階段を降り、照明の乏しい長い廊下の突き当たりに霊安室があった。前の三人が立ち止まり、一人が鍵を開けている。彼は急に動悸を感じ出した。本当は母親がまだ生きていて、扉の向こうに立ち、自分が入っていったら首を絞められるのではないかと思った。黒い扉が開けられ、ためらいながら彼らに続いて中に入る。三畳あるかないかの小さい部屋で、天井からの電球色の灯りに照らされて白い布に覆われたストレッチャーがあった。白い布の膨らみが母だというのか。警官がストレッチャーと壁の間を体を横にして奥に行く。奥には小卓があり、蝋燭立てと焼香用の香炉が載せられている。市役所員が奥に行くように手で示し、彼は警官と反対側に進んだ。
警官は白い布の両端をつまむと、三十センチばかり覆いを外した。やはり母だった。皺だらけの顔で、眠っているようだった。触れると今にも目を開けそうで、彼は手を出せない。
「お母さまですね」
警官の声に彼は小さくうなずいた。この前会ったのがいつだったのか彼は思い出せなかった。額や目尻、頬に皺が走り、染みの浮いた顔を濃いファンデーションで隠していたのが母親の顔だった。それ以外の顔は思い浮かばない。まさにその顔で母親は横たわっている。悲哀とも怒りともつかない感情がぐるぐると胸の内を巡っていた。
一階に戻り、応接の椅子に坐って警官から遺体引き取りの手順を聞いた。身分証明書を出してくれと言われて、持ってきていないと答えると、警官は困った顔をした。
「電話でお伝えしましたよね」 「何だかぼうっとしてしまって。明日持ってきていいですか」
「うーん、それがないと手続きができないので、引き取りは明日になりますけど、よろしいですか」 「それでいいです」
話を引き取った市役所員が遺体発見の経緯を説明する。隣室の住人が朝方玄関先に倒れていた母親を見つけて救急車を呼び、脳梗塞の疑いで点滴を受けたが、手遅れだったということだった。
「母親はお金を遺していませんでしたか」 「はあ?」 「お金があれば受け取ろうかなと……」
「いやあ、部屋の中は調べておりませんので、それはお宅様にしていただかなければ。その場合でも身分証明書が必要になります」
結局、そこに落ち着くのか。二度と来るつもりはなかったが、分かりました、明日来ますと答えて、その場を後にした。
アパートに帰ると、**市の市外局番で始まる電話をすべて拒否する設定にした。数日後、警官から携帯電話番号でかかってきたが、金がないので引き取れないの一点張りで押し通し、その番号も着信拒否にした。
これですべて終わったと彼は思った。見えないくびきが外れて、体がわずかに軽くなった気分だった。母親は誰かの手で荼毘に付され、無縁墓地に葬られるのだろう。それは未来の自分の姿だった。それまで母親と同じように自分も明日の金のことを心配しながら生きていかなければならないことを思うと、頭に浮かぶのは蟻地獄に落ちた蟻の姿だ。目の前の砂を掻き続けなければ底に落ちてしまう。見えているのは砂だけだ。
彼はノートPCを立ち上げて、罵詈雑言を書き込む。こんなやつはさっさと死にやがれ、念を込めてリターンキーを押す。
引越費用を稼ぐため残業を繰り返していたある日、スーパーの売れ残りの弁当を買って帰宅すると、玄関に紙切れが落ちていた。拾い上げてみると、郵便局の不在配達通知書だった。SSDが届いたのかと一瞬喜んだが、差出人の名前が**地方裁判所になっている。まさか不起訴処分が覆(くつがえ)って起訴されたのかと思いながら、明日の夜に再配達をスマホで申し込んだ。
翌日、配達員が大きな封筒を手渡してくれた。どきどきしながら封を切り、中身を見ると、名誉毀損罪による慰謝料請求の訴状で、原告はY・Tの遺族、被告は彼になっていた。慰謝料は百万円。彼は首を捻った。刑事裁判で不起訴になったのにどうして慰謝料請求の裁判ができるのか、罪に問われていない俺がどうして慰謝料を払わなければならないか理解ができなかった。ネットで調べると、「民事裁判では、刑事事件と異なり、被害が認定されれば賠償の請求が認められる可能性があります」と書いてあり、放置はまずい、相手の言い分で決着するからとあったが、時間も金もないので放置しかしようがない。住所を変えたいが郵便局に転送届を出せないので、SSDが届くまでは引っ越しもできない。不起訴処分になったことが唯一の頼りで、もし慰謝料の支払いが決定したとしても金がなければ取りようがないと居直るしかなかった。
それから数日経って、郵便配達員がまたやってきた。配達証明でサインか印鑑がいると言う。え、またかと思いながら、サインをして封筒を受け取った。差出人が**市役所生活福祉課となっている。一枚の書類が入っており、母親の遺体を火葬にし、骨壺を預かっているから取りに来るように、そのとき、かかった費用を支払うことと記されていて、金額が一万円と書かれていた。払う気のない彼は書類をゴミ箱に捨てようと思ったが、次の文言を見て捨てる手を止めた。。
「故加賀ひさ子様の部屋にある所持品を整理しましたところ、預金通帳と生命保険証が遺されていました。預金通帳の残金は100,426円、生命保険金は1,000,000円となっております。これらをお受け取りになる場合、本人確認のため身分証明書が必要となります」とあって、いくつか種類が書かれている。彼が唯一取れる住民票を取得しようとすると、健康保険料等の滞納金の支払いを要求されるだろう。それが百万円よりも多ければ相続しない方がいいと考えたが、払うと言っておいて時間を引き延ばし、その間に金を使ってしまえばすむことだと気づいた。
住民票を取得するため彼は前の住所の役所に転出届を出し、今の役所に転入届を出さなければならなかった。
転出届を出すための身分証明には八年前の健康保険証とマイナンバーの通知カードを提示した。 「引っ越しされたのは一週間前で間違いないですか」
「はい」
係員は立っていき、後ろにいる上司と思しき職員と何やら話していた。正直に八年前の日付を書いた方がよかったかと思っていると、上司の方が近づいてきて、話があるからと別室に通された。
「困りますね。本当のことを書いてもらわねば。こちらの住所には八年も前に別の人が住んでいますよ」
彼は頭を下げ、生活が苦しくて色々な保険料の支払いができなくて逃げたことを説明した。職員は、国民年金保険料の滞納分が二百万円を超えていることを告げ、「相談してもらえばさまざまな減免措置があるんですけどね」と言って、それらについて説明してくれた。彼は**市役所からの書類を見せ、
「母親の遺産がここに書いてあるとおり、百十万ほど入るので、それを滞納分にあて、残りについては減免措置を受けたいと思います。そのためにも住民票が必要なので」
職員は書類を見て、首を捻るような仕草を見せたので駄目なのかと思ったが、結局転出届を受理し、転出証明書を出してくれた。それを持って現住所の役所に行くと、届け出が遅れた理由を聞かれただけで、転入届は比較的すんなりと受理された。
新しい住民票を持って**市役所生活福祉課に行くと、前に会った宮城という職員が応対してくれた。
「まず、お母さまの所有品を確認していただいて、引き取るものと廃棄するものを選んでいただきたいのですが」 「すべて廃棄でいいです」
「テレビとかの家電製品も?」 「はい。欲しいのは現金と生命保険証だけなので」 「位牌とかアルバムもあったと聞いていますが」
「要らないです」 「そうですか。分かりました」 宮城は立って奥に行くと、ロッカーから紙袋を取り出して戻ってきた。
カウンターに直径二十センチほどの白い骨壺と色あせた生命保険証、預金通帳、そして使い込まれた、本来は綺麗な赤だっただろう赤黒い財布が並べられた。
「遺骨は要りませんので、そちらで処分してください」 「納骨をこちらで行うとなると、永代供養で十万円、三年供養で三万円の費用がかかりますが」
そう言われると引き取らざるを得ない。母親の財布に一万円札が一枚あったので、それで火葬費用を払い、残りの所有物の権利を放棄する書類にサインをして生命保険証と通帳と財布を受け取った。
銀行や生命保険会社に電話すると、遺産相続の方法を教えてくれたが、住民票を取得するだけでも大変だったことを思うと、自分でする気にはなれなかった。それで駅の近くにあった司法書士に頼むことにした。
白髪頭の司法書士は彼の話を聞いて、「それならそんなに難しくはないので、五万円プラス実費でできますよ」と言った。簡単ならば自分でやろうかと思ったが、百十万円のうちの五万円ならまあいいかと任せることにした。
それよりも頭を悩ませたのは遺骨のことだった。押し入れの中に放り込んでいたが、ベンデロンからくたくたになって帰ってきても、ほっと一息つけなくなった。骨壺の中に母親がいて、そこから睨まれているような気がするのだ。単なる骨だ、物だ、と思い込もうとしても、何か得体の知れないものを発していて落ち着かない。〈こいつだけは許せねぇ〉のサイトで罵倒コメントを投稿しても、以前のようにすっきりした気分になれないのだ。
〈遺骨を捨てる〉で検索すると、〈遺骨を勝手に遺棄・埋葬することは法律で禁止されている〉とあって、実際に逮捕されている事例が出ている。しかし骨を砕いて散骨するのは大丈夫らしい。
散骨という言葉を目にして、不意に母親の言葉が甦った。 「私は散骨でいいわ」
あれはいつのことだったか。父親の遺骨は長兄の管理する一家の墓に納められていたのだが、墓じまいをするということで、父親の骨をどうしたいか連絡が来たときだった。金がいるということで、母親の愚痴を聞いた覚えがあるので、まだ同居していた高校生か大学生の頃だろう。母親の死など遠い未来だと思っていた彼は「それなら簡単でいい」と軽い口調で答えた。それを聞いて母親がどんな表情をしたのかは記憶にない。母親も本心からそう言ったかどうかは分からない。
しかし今の彼はそれを母親の願望だったと考えることにした。散骨という願望を叶えてやると思うと、得体の知れなさがずいぶんと薄まる気がした。
しかし母親の骨を金槌か何かで砕いている場面を想像するとぞっとした。彼は骨壺の蓋を開けて中を見ることさえしていない。
休日になって午後から天気が荒れ模様になるというネットニュースを見て、骨壺ごと海に捨てることを思いついた。波が荒いと遠くまで運ばれて海の底に沈んでしまうだろう。
窓ガラスのひび割れを補修するために買ったダクトテープがあったので、それを骨壺の蓋と本体の境目に一周分巻き付けて、蓋が外れないようにした。
海に突き出た防波堤のある場所を検索で選んで、夕方近くに部屋を出た。すでに雨が降り出しており、地下鉄から私鉄に乗り換えた頃にはしっかりとした雨脚になっていた。
目的の駅に着き、スマホの地図アプリを使って防波堤に向かった。左手に骨壺を入れた紙袋、右手にスマホを持ち、右腕と肩でビニール傘を支えながら歩いていく。中華料理店や鍼灸院、コンビニの並ぶ通りを横切って、くすんだ平屋に挟まれた小道を進み、防波堤沿いの道路に出る。スマホのルート案内に従って左に曲がり、しばらく歩くと防波堤に階段が造られており、それを上がると沖に突き出た防波堤が見えた。ぽつぽつと釣り人の姿がある。テトラポッドに波が打ち付けているが、思ったほど荒れてはいない。スマホをジーンズのポケットに仕舞い、ビニール傘の柄を持った。
彼は突堤に足を踏み入れ、一番端に向かった。釣り人たちは竿を引き上げ、帰り支度をしている。
突端に立った彼はビニール傘を打つ雨音を耳にしながら、ずっと先の海を見つめた。厚い雲に覆われ、暗い海が続いている。
振り返ると、夕闇の中、釣り人たちが帰って行くのが見えた。真っ暗になる前にすませておこうと彼は傘を畳んで下に置き、紙袋を右手に持ち替えた。雨が顔に当たる。できるだけ遠くにと腕を振り回し、手を離した。上に投げ過ぎてテトラポッドに当たるかとひやりとしたが、紙袋はその先に落ちてくれた。骨壺の重みでそのまま沈んでしまうだろうと思っていたのに、紙袋は波間に浮いたままだった。あれと思っていると、横の海面に白い骨壺がぷかりと浮き上がった。石か何かを詰めておけばよかったと後悔したが、たとえあれが誰かに拾われて中身が遺骨だと分かっても、誰が捨てたか分からなければ大丈夫、と思い直した。彼は傘を拾い上げて広げると、骨壺を一瞥して踵を返そうとした。
そのとき、大波が来て骨壺を持ち上げ、テトラポッドに叩きつけた。あっと思う間もなく骨壺が割れ、白い骨が窪みになっているところに散乱した。彼は傘を離し、組み合わされたテトラポッドに足を降ろした。滑りやすいので慎重に足場を確保しながら、骨のあるブロックまで近づいていく。やっとブロックに降りて骨壺の破片の間に見えている太い骨を取ろうとしたとき、再び大波が押し寄せ、身体が持ち上げられた。自分の体がどう動いているのか分からないまま腕に衝撃を感じ、頭が固いものにぶつかった瞬間意識を失った。
気がついて目を開けたとき、何だか白っぽい世界にいることは分かった。首を横に動かすとベージュ色のカーテンが見え、天井も同系色で、体を起こそうと左手を動かすと、痛みが走った。見ると腕に包帯が巻かれ、固定されているのか肘が曲がらない。頭にも痛みを感じて右手で触ろうとすると点滴をされているのが分かった。人差し指を洗濯ばさみのようなものが挟んでいる。慎重に右手を動かして頭に触れると、そこにも包帯が巻かれていた。病院か。しかし彼には自分の身に何が起こったのか全く記憶がなかった。骨壺を捨てようとして雨のなか部屋を出たところまでは覚えていた。
ドアが開かれる音がして、マスクをした看護師が入ってきた。 「あら、ようやく気がついたんですね」
看護師は近づいてくると目で彼に笑いかけた。 「……ここはどこですか」 声がかすれている。 「聖ロメロ病院ですよ」
「どうしてここにいるんですか」 「覚えてないの? あなた、防波堤で頭を打って倒れているところを発見されてここに運ばれたんですよ」
「いつですか」 「三日前」
看護師が枕元にあるブザーのボタンを押し、「はい」という返事に「患者さんが気がついたから高津先生、呼んできて」と言った。
しばらくすると、首から聴診器を提げた医師がやってきた。彼の名前を聞いたり、目の前で人差し指を動かして目の動きを見たりした後、聴診器を胸に当てた。前腕の尺骨にひびが入っていること、硬膜外血腫だったが手術する程でもないので脳圧降下剤の点滴をしていることを告げた。
「このくらいの怪我ですんで、ラッキーでしたね。発見が遅れていたら死んでいたところでしたよ」 「………」
「先生」と看護師が言った。「患者さん、そのときの記憶がないみたいですよ」
「ああ、そうなの」医師が彼の顔を覗き込んだ。「あなたが防波堤のテトラポッドのところに倒れているのを、たまたま釣り人が見つけてくれて、ここに運ばれたんですよ。あのままだったら、あなた、溺死してましたよ」
そう言われてみれば、何だかそんな記憶がぼんやりと浮かんでくる。 「まあ、血腫がなくなるまで安静にしてください」
治るまでここで安静にしていたら、どれだけ医療費がかかるのか分からない。彼は翌日、密かに部屋を出てトイレで服を着替え、頭の包帯も外して、外来で混んでいるのを見計らって外に出た。足に力が入らずふわふわしているのは頭を打ったせいか、四日間も寝ていたせいか分からなかった。
聖ロメロ病院がどの辺りにあるのか皆目見当がつかず、マップで確認しようとスマホを取り出した。しかし電源ボタンを押しても反応しない。海水をかぶったのか少しべたつく。これが使えないと電子マネーもICカードも使えない。まだ湿り気のある財布を取り出し、千円札が一枚あるのを確認して、彼はほっとした。
とりあえず大きな道路に沿って道なりに歩いていった。左手を振ると痛みが走るのでジーンズの前ポケットに入れる。
行く方向を見つけるべく道路標識を見ながら歩いていると、何かの音楽がかすかに聞こえてきた。木立の向こうは公園になっており、桜の咲いているのが木々の間に見えた。
彼は柵の切れ目から中に入った。木立を過ぎると、満開の桜が目に飛び込んできた。彼は思わず立ち止まった。今までこんなに咲き誇る桜を見たことはなかった。いや、目にしたことはあったかもしれないが、意識したことはなかった。桜を見たいと思ったことは一度もなかった。
彼は一本の桜の下に立って顔を上げた。これが桜か。青空を背景に輪郭の曖昧な白い花びらがいくつもの群れを作っている。彼はふと、中学生のころ母親と一緒に出かけたことを思い出した。イヤイヤついていった彼が、桜なんてちっとも綺麗じゃないと言うと「子供のあんたにはまだ分からないのは当たり前。私みたいな歳になったら分かるから」と答えたのだ。あの時母親は何歳だったのだろう。五十は超えていたか。ということは俺もそんな歳になったということか。今日が何日か分からないが、誕生日が三月三十日なのでこの何日間の間で五十になっている。母親の言うことが当たっていたなと彼は笑いを漏らした。
桜を見ながら歩いていると、ブルーシートを敷いてカラオケをしている男がいた。後ろにあるカラオケセットから演歌が流れている。シートには丸い缶が置かれており、投げ銭を入れるためなのだろうかと思っていると、その傍に桜の花びらがはらはらと落ちてきた。それを目にした瞬間花びらが骨片に見え、事故の記憶が突然甦った。俺が取ろうとしたあの骨はどうなったのだろう、波にさらわれて海の底に落ちたのだろうか、それともあのままテトラポッドの隙間に漂っているのだろうか。じりじりと胸を焦がすような怒りが湧いてきて、彼は落ちていた小枝をつかむと桜めがけて投げつけた。花びらが散る。男が歌うのをやめた。彼は男に笑いかけようとしたがうまくいかず、顔を背けて公園の出口に向かった。
何とか部屋にたどりついて彼は万年床に横たわった。包帯の巻かれた左腕を触り、頭を撫でた。大きな瘤があり、鈍い痛みが続いている。馬鹿なことをしたと彼は思う。何も海に捨てなくても近くの山の中に捨てればよかったのだ。あんな骨ならどこに捨てても同じだったのだ。体が疲れ切っていて、いつの間にか眠ってしまった。
目覚めて枕元のスマホを手に取る。電源ボタンを押しても震動がなく、充電器に刺しても反応がない。海水をかぶったせいで壊れたに違いなかった。起き上がって机のパソコンを立ち上げた。画面右下の時刻を見ると、18:10とあり、かなり眠っていたことが分かる。
彼は財布を持って外に出た。地下鉄駅前の牛丼チェーン店に入って特盛と味噌汁のセットを頼んだ。何年ぶりかの牛丼だった。すきっ腹にがつがつと掻き込んだ。
帰り道、緑の公衆電話が目に入った。ベンデロンに電話しなければと思い出したが、番号を覚えていない。パソコンで検索して電話番号をメモして、などと考えているうちに馬鹿馬鹿しくなってきた。無断で四日間も休んだらクビになっているのは間違いないし、そのときのやり取りを想像すると、今の腹一杯の幸福感が吹き飛ぶ気がした。
働かなければスマホの必要性は感じないが、現金しか使えないのはさすがに不便なので、彼は中古のスマホ販売店でSIMフリーの格安スマホを買い、SIMを差し替えて必要なアプリを登録した。
不意に訪れた長期休暇に彼は、これで明日のことを気にせずに一日中、罵詈雑言コメントを書き込むことができると喜んだが、実際にやってみると、以前の高揚感が全く湧き上がってこなかった。頭を打ったせいでどこかがおかしくなったのかと彼は思った。この痛みが取れれば、また元のようになるのだろうか。
しかし痛みが取れ、瘤が小さくなっても、罵詈雑言を書く意欲がなくなってしまった。 そんなとき〈KeyProduct
co.〉からSSDが届いた。彼は早速SSDに〈MegaRepeater〉をインストールし、〈こいつだけは許せねぇ〉を覗いてみた。新着動画に人気アイドルがファンの男性と不倫をして、結婚しているとは知らなかったと謝罪している会見が流されていた。アイドルのサイトに飛び、MRにURL等のデータを入れ、スタートのアイコンをクリックする。コメント欄に〈死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!〉がどんどんと書き込まれていく。しかし気持ちがよかったのは最初だけで、流れていくそれらの文字列が何だか自分に向けられているような錯覚にとらわれて、彼は急いでそのサイトを閉じた。
ブラウザの画面はYouTubeに戻った。〈こいつだけは許せねぇ〉の動画は終わっていて、お勧め動画のサムネイルが十数個表示されている。
その中に〈日本をダメにした人物TOP10〉というのがあった。今までお勧め動画に出ていたのか記憶になかった。出ていたとしても気づかなかったのかもしれない。
彼はその動画をクリックした。多くは政治家だったが、中には経済学者の名前もある。一時間近くの番組で長いと思ったが、見始めると釘付けになり、うなずいたり、そうだ、そうだと思わずつぶやいたりしながら見終わった。俺が今こんな状態に落ち込んでいるのは、すべてこいつらのせいだと腑に落ちた。俺が悪いのではない、トップにいる二人がそれまで限定的だった非正規の職種の枠を際限なく広げ、どの企業も労働者を低賃金で働かせることを可能にしたのだ。その結果どうなったか。本来、労働者の懐に入るはずだった金が企業の内部留保として貯まっていき、労働者の平均賃金はここ三十年間まったく増えなかった。生産性が上がらなくても企業が存続できる土壌をこしらえたら、世界経済から日本が取り残されるのは当たり前の話だ。非正規であるが故に組織されることもなく、結局俺たちは自己責任の名目で痛めつけられ、社会の底辺に追いやられたのだ。
彼は〈日本をダメにした人物TOP10〉の概要欄に貼られているリンクを次々に見ていった。様々な人間がサイトを開設していて、それら十人の一人ひとりを深く追究しており、それらを読むと社会のからくりがはっきりと見えてきた。取り上げられた十人の人物を検索すると、いくつかの事務所がサイトを運営していたが、コメントが書き込めるようになっているのはTOP10の最初に挙げられた人物だけだった。
彼は〈MegaRepeater〉を立ち上げ、Comment
Sectionに〈怨みはらさでおくべきか! 必ずお前を死に追いやってやる! 殺す! 殺す! 殺す!〉と書き込み、スタートアイコンをクリックした。書き込みが次々と流れていくのを見ていると、これこそMRの正しい使い道だと思えてきた。社会の悪を糺すためにこそ使われるべきものなのだ。
しかし五日間連続で投稿した後、コメント欄への書き込みが禁止されてしまった。裏技で何とか書き込みができないかと探ったが、無理だった。その代わりとして、愛人を囲っていて炎上している国会議員とか公職選挙法の買収容疑で大騒ぎになっている知事とかのサイトにMRで爆弾コメントを投下しても気持ち良さはほとんどなかった。
そんな時、一つのサイトの概要欄に「テロリズムの正義」という本が紹介されていた。著者は道端要(よう)輔(すけ)という名前で、一九七〇年代、爆弾テロを行って何人かを死傷させ、刑務所に四十年ほど入っていて、出所後に書いた本だった。三千円と高い本だったが、彼はそれを買った。本を買ったのは十数年ぶりだった。テロリズムの歴史から書き起こし、自分の行った爆弾テロをドキュメンタリー風に書いていた。
テロは虫けらに残された唯一の力である。 テロという力を持たなければ虫けらは虫けらのまま踏みつけられて殺されるしかない。
やつらは虫けらがいくら死のうと何の痛痒も感じない。
道端要輔の言葉がまるで自分に向けられた言葉のように刺さってくる。道端の反省として書かれているのは、不特定多数を狙う爆弾テロは間違いで、確実にターゲットを殺す銃撃が正しかったということだけだった。
骨折が次第に治るにつれて、銀行口座の金が徐々に少なくなっていく。司法書士のところに顔を出すと、もうすぐ終わるということで、本当に一週間後、口座に百万円余りの金額が振り込まれていた。今まで自分の口座の残高が七桁になったことなど一度もなかった。1,275,814。彼は数字を何度も見返した。これで当分働かなくてもすむ。彼は頬の筋肉が緩むのを抑えることができなかった。
しかしそんな喜びも、裁判所から届いた書類によって吹き飛んでしまった。Y・Tの遺族から出された名誉毀損罪による慰謝料請求裁判が決着して、慰謝料百万円プラス弁護士費用十五万円を支払えという判決が書かれていた。放置すると強制執行で銀行口座が凍結される場合があることは、以前調べたときに学んでいた。そんなに急に強制執行が実行されるとは思えないが、いつ行われるのか見当がつかない。今のうちに引き出して、現金として持っておく方が安全かと迷っていると、今度は、引っ越す前の役所から保険料滞納分の振込用紙と減免措置の書類の入った封筒が届いた。そして日を置かずして、今の役所から健康保険料と国民年金保険料の支払いを求める書類が届いた。役所同士が連携しているのではないかと思えるほどだった。さらに、どうして住所が分かったのか、聖ロメロ病院から医療費の請求書が届いた。
やつらにむしり取られる前に、口座にある金をすべて使い切ったら、死んでもいいかと彼は思った。母親も死んだし、俺も五十を過ぎた。虫けらのまま死にたくはない。
〈日本をダメにした人物TOP10〉に挙げられた十人を順番に殺していくのはどうだろう。百万円あれば銃が何丁か買えると思ったが、猟銃を正式に取得するには資格審査があって、とうてい自分には持てそうもない。たとえ持てたとしても、猟銃のように長さのある銃を持ってターゲットに近づくことはできないだろう。
彼は何年か前に3Dプリンターで銃を作った男が逮捕されたニュースを覚えていた。その中で、銃は実際に殺傷能力があったと書かれてあった。YouTubeで検索すると、様々な動画がアップされており、自動小銃ばかりかそれに使われる弾丸まで作るという映像が流れていた。アメリカでアップされた動画で、もっと情報を得ようと概要欄のURLをクリックしたが、すでに閉鎖されていた。
それで〈MegaRepeater〉を手に入れた闇の掲示板で「3D Printed guns」で検索すると、YouTubeとは比べものにならないほどわらわらとヒットした。日本語への自動翻訳の設定をして、次々に見ていく。その中に、様々な種類の銃とそれに使用する弾丸の3Dプリンター用のデータを公開しているサイトがあって、作成に使用するプリンターを販売していた。二台セットになっており、一台は銃身部分をつくる金属用で、もう一台はその他の部分を作るプラスチック用だった。海外送付にも対応しており、価格は六千ドルプラス送料だった。アップされた動画を見ると、耐久性は劣るが市販されている銃と遜色のない射撃性能であり、3Dプリンターで作られたことを示すため、銃身以外の部分は若干透明感のある白色をしており、それらを作る場面と銃身と組み合わせて銃にする場面も入っている。
サイトにアップしているマニュアルには初心者にも必ず作れるように懇切丁寧に手順が書かれていること、市販の材料を使って弾丸に使う弾薬の作り方も説明しているとあった。買った人間のレビューが何百とあり、★印は五つと四つが大半で、弾丸まで作れるのが素晴らしいと絶賛している人間もかなりいた。それらを読むと、詐欺サイトとは思えない。
彼は海外送付の方法選択で、二週間ほどで届くと書いてあるFedExを選び、クレジットカードの情報を書き込んで、ボタンをクリックした。
品物が届くまで時間があるので、彼は久し振りに働くことにした。3D銃がどのくらいの期間でできるのか見当もつかないので、それまでの生活費はどうしても要る。弾薬を作る費用も要るだろう。
彼はベンデロンの新規募集に応じて、再び巨大配送センターで働き始めた。リーダーと呼ばれていた男も腰巾着のような部下もおらず、別の人間に変わっていた。彼のことを誰も気にせず、新規募集の割には仕事に慣れていることを指摘されることもなかった。そういう意味では気楽だったが、仕事のきつさは相変わらずだった。いや、以前より正確性とスピードを求められるようになっていて閉口したが、どうせ二週間足らずのことだからと彼はすべて無視した。
ある日の帰り、送迎バスを降りて地下鉄の駅に向かっていたとき、行列ができているのが目に入った。並んでいる人間たちの煤けた服装から炊き出しかと思い、様子を見にいくと、果たして行列は小さな公園に続き、炊き出しをやっているのだった。
これはラッキーと彼は最後尾に並んだ。豚汁とパック弁当を受け取ると、坐る場所を探したが、適当なところはすでに誰かが坐っていた。仕方なく、彼はリュックを地面に置き、その上に腰を下ろして弁当を食べた。
次の日も炊き出しがあるかと期待していたが、見当たらず彼はがっかりした。
毎日、注文の品の動きをネットでチェックした。発送までは順調だったが、税関審査のところで停滞した。3Dプリンター自体は汎用品なので別に禁輸品でもないはずだ。売っていたサイトの注意書きにもそんなことは書かれていなかった。理由が分からないのでやきもきしたが、五日経って通関したときはほっとした。空輸され一週間後日本の通関手続きが終わるとすぐに、FedExから配達日時と届け先指定のメールが届いた。
翌日の夜、青い制服を着たFedExの配達員が注文の品物を二個口で運んできた。二つとも部屋にある小型冷蔵庫ほどの大きさで、彼はそのデカさに驚いた。
カッターナイフで慎重に段ボール箱を開封し、ビニール袋に包まれた3Dプリンターを取り出した。台所の冷蔵庫の横に二台並べると壮観だった。金属用は艶消しの黒い塗装が施され、プラスチック用はアイボリー色の塗装だった。どちらも跳ね上げ式のボックスで作業するところを覆うようになっており、前面はアクリルで中が透けて見える。まず金属用プリンターを動かすことにし、サイトからダウンロードしたマニュアルを翻訳させて読む。チュートリアルのビデオを見ながら、試作用のデータの入力、粉末金属のセット、その他調整のために位置決めなどを行って、スタートボタンを押した。小さな音がして、透明な覆いの中でプリントヘッドが動き、レーザーが粉末金属を照射していく。当たったところが小さな太陽のように輝く。
彼はその光に魅せられ、食事を摂るのも忘れてずっと眺め続けた。
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地下鉄の駅の出口を上がり、スマホを取り出して念のため至誠会館までのルートを見る。案内に従って歩いていくと、レンガ風の外壁をした建物が見え、そこに「至誠会館」と書かれた大きなプレートがかかっている。前を行く年配者の何人かがその敷地に入っていく。階段を上がった正面玄関にはターゲットの名前と「日本の未来を憂う」と書かれた細長い立て看板があり、二人の警備員がガラスドアの前にある金属探知機のゲートに来場者を誘導している。スマホを警備員に渡してゲートを通り、それを返してもらって会館に入る。ロビーを左に行き、突き当たりにトイレへの矢印があるのを確認してから右に曲がる。男子用に入ると、男が一人、用を足しており、個室に入って便器の蓋に腰を下ろす。手を洗う水の音が止み、靴の音がしなくなると立ち上がって扉を薄く開ける。誰も来ないのを見計らって外に出、隣の用具入れ室に入る。蓋付きのゴミ箱を隅に移動し、その上にバケツを反対にして置き、壁に手をつきながら慎重にスニーカーの足を乗せていく。天井の点検口のラッチを外すと蓋が下り、手を差し入れて紙袋の取っ手をつかむ。引っ張って袋が近づいたところで中に手を入れて銃をつかむ。ぐらぐらと揺れる足元に注意しながら左手を壁につき、ゆっくりと下りる。銃身が長めの半自動拳銃である。プラチック部分は無骨で大きいが、スタジアムジャンパーの中に十分隠せる。ジーンズのベルトに銃身を差し込んで、ポケットに入れた左手で支えるようにして、トイレを出る。ぶ厚くて重い扉を押して会場に入る。四百人くらい入れる大きさで、半分くらい席が埋まっている。壇上の背後には「糸(いと)清(きよ)大次郎先生講演会――日本の未来を憂う」という横断幕がかかり、中央には演台が置かれている。右端の通路を下りていき、一番前の端の席に腰を下ろす。横を見ると、五つほどの空席を挟んで年配の男たちが数人坐っており、後ろも空席の向こうに年寄りたちが腰を下ろしている。左右の舞台袖にはスーツ姿の男が一人ずつ立って小さく顔を左右に動かしている。時間が来て「ただ今から糸清先生の講演を始めさせていただきます。ロビーにおられる方は急ぎご入場くださいますようお願いいたします」というアナウンスが流れる。人々の入ってくるざわめきが聞こえ、一人の男が前を通って空席三つ分を空けて腰を下ろす。後ろにも人の坐る気配がある。舞台はそのままに会場の照明が次第に暗くなっていく。右側の袖から長身で赤ら顔の男が現れ、ゆっくりと演台に近づいていく。こつこつという靴音だけが静まりかえった会場に響く。ジャンパーのファスナーを下ろし、銃のグリップをつかんで立ち上がる。先生は水差しを持ち上げ、コップに水を入れている。舞台に近づいて銃をベルトから引き抜き、構えようとしたとき、目の端に男が近づいてくるのが映る。とっさにその方に一発撃ち、跳ね上がった腕を下ろして左手で右手首を持ち、先生に銃口を向ける。先生は突っ立ったまま、不思議そうにこちらを見ている。連続して二回引き金を引くと、先生はわずかに身を捻り、糸の切れたあやつり人形のようにくたっと倒れ込む。その瞬間、下半身にタックルを受けて倒され、衝撃で引き金を引いてしまう。何人かが馬乗りになってくる。手足を押さえ込まれ、右手から銃をむしり取られる。誰かの膝が頭を圧迫し、冷たい床に頬が押さえつけられる。怒号が飛び交う中で、その時俺は笑っているだろう。
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