ハンモンク     津木林 洋


  妻の麻美(あさみ)が仕事を辞めたいと言った時、どうして、いいよ、いいよと快く受け入れてやらなかったのかと俊二は後悔していた。
 二人の目標は、郊外の自然あふれるところに庭のある一戸建ての家を建て、そこで子供を産み、育てることだった。できるだけ住宅ローンを少なくするため、二人で頑張って頭金を貯め、麻美が専業主婦になっても何とか生活できるようにしたかった。
 それがあるから、麻美が新しい上司と折り合いが悪いと零した時も、仕事をしていれば嫌な人間にぶつかることもあるからさ、と受け流してしまった。その後、麻美は体の不調を訴え、医者に診てもらったところ鬱病との診断を受け薬を処方された。職場に戻ることを考えただけでも症状が悪化するので、休職期間が終わる前に退職せざるを得なくなった。家事が全くできなくなり、俊二が会社での仕事の他に、炊事、洗濯、掃除をすることになった。ベッドで横になっている妻の姿を見て、腹の虫が騒ぎ出すこともあったが、絶対に奥さんを責めてはいけません、頑張ってと言ってもいけませんという医者の言葉を、その通りだと肝に銘じた俊二は意識して笑顔を作った。
 コロナが始まってリモートワークになり、通勤時間や同僚との付き合いがない分、これで家事の時間が増やせると俊二は喜んだが、一日中妻の姿を目にする羽目になると、ついイライラしてしまうことが増えてしまった。
 昼近くになって起きてきた麻美に、おはようと笑顔で声を掛け、テーブルの椅子を引いてやる。
「おはよう」聞こえるか聞こえないかの声で返事をした麻美は椅子に腰を下ろすと、大きく溜息をついた。そのことに気づかないふりをして、「今日は天気がいいから、そのパジャマ、洗おうか」と言ってみた。勝手に洗うと機嫌が悪くなるのだ。
「うん、いい」
 腫れぼったい目をテーブルに落としたまま、麻美が呟く。俊二は、目玉焼き、温野菜のサラダ、フレンチトースト、ブルーベリーのスムージーを二人分、テーブルに並べる。麻美はこのブランチと晩ご飯の二食しか食べない。それに合わせるように俊二は、朝はコーヒーと栄養ゼリーだけですませている。
 麻美の向かいに坐って目玉焼きに箸をつけながら、「何かしたいことある」とお決まりの質問をしてみる。
「ううん」麻美が首を振る。
「そうか」
 そのまま会話もなく食事が終わりかけた頃、「ハンモックに乗ってみたい」と麻美が呟いた。
「ああ」
 二人で一戸建てのプランをいろいろ考えていたとき、庭に木を植えてハンモックをぶら下げたいと彼女が言っていたのだ。
「いいね」
 麻美が初めて前向きな返事をしてくれたことに、ついうれしくなり、俊二はテーブルの上を片付けないまま、ノートパソコンを持ってきて電源スイッチを入れた。ハンモックで検索し、ショッピングサイトを開くと、画面を麻美の方に向け、「どれがいい」と聞いてみた。麻美はちらっと画面に目をやると、「俊ちゃんに任せる」と言って立ち上がった。
「分かった。取りあえず自立型だよな」
 画面をこちらに戻し、「色は何にする」と彼女の後ろ姿に問いかけたが、そのまま寝室に入ってしまった。やっぱり気分が上がる方がいいよなと俊二は赤と青と黄色のストライプ柄を選んでクリックした。

 二日後の朝にハンモックが届いた。大きな段ボール箱を開いて、ダイニングキッチンで組み立てようとしたが、つり下げるための鉄パイプ製のスタンドが思った以上に大きく、俊二は自分の部屋に持ち込んで組み立てた。バルコニーに沿わせた方が外が見えていいのだが、いかんせん長すぎて設置できない。それで壁際に置こうとしたが、体を揺らしたときに壁にぶつかるので、マットレスを端に寄せ、ハンモックを中央に置いた。そうしておいて俊二は腰かけるように尻からハンモックに乗ってみた。両端が木製フレームで弓のように広がっているので意外と安定している。体を横にして寝そべると繭に包まれるような感じとともにゆるく揺れるのが何とも心地がよい。これはいいと俊二は独りごちた。
 昼前に麻美が起きてきたので「ハンモック、届いたよ」と声をかけた。
「どこ」麻美が目を動かした。
「ここじゃ狭いから、おれの部屋」
 ドアを開けて麻美を中に入れる。
「大きい」半目だったのが大きく見開いている。乗ってみてと促すと、彼女は恐る恐る腰をかけた。そのまま少し揺らしている。俊二はハンモックの根元を手で押さえて、いいから横になってみてと言った。麻美は足を上げ、ゆっくりと横になった。俊二が手を離すと、ハンモックが揺れた。麻美は揺れを味わうかのように目を閉じている。
「どう」
「気持ちいい」
 俊二は部屋を出て、ブランチの用意をした。
 テーブルに食べ物を並べて呼びに行くと、麻美はまだハンモックに揺られている。食事の用意ができたことを告げると、体を起こした。
「窓から外が見えるようにした方がいいと思うけど……」
「おれもそう思ったんだけど、長くてぶつかっちゃうんだよね」
「そうなんだ」
 麻美がハンモックを気に入って、俊二の部屋に入り浸るようになったので、部屋を取り替えることにした。俊二は何ヵ月ぶりかでダブルベッドで眠ることになった。

「一度、外でハンモックに揺られてみないか」
 ハンモックが来て一週間ほど経った頃、俊二はそう提案してみた。
「そんなこと、できるの?」
「できるさ」
 麻美が発病する前、金のかからないレクレーションとして二人で自転車に乗って、近くの川縁まで行き、晩ご飯の残りを詰め込んだ弁当を食べたりしていた。川縁には大きな木が何本かあったから、ハンモックをつるすことのできる木くらいあるだろうと俊二は言った。麻美が提案を受け入れてくれたので、早速俊二は自転車に乗って木を探しに出かけた。
 しかし枝と枝の間隔がちょうどいい木が意外と見つからず、何か別の方法を考えなければと思ったとき、視線の先にこんもりと葉を茂らせた大きな木が見えた。周りは芝生が生えており、護岸の白いパイプ柵の向こうには川の水が光っている。あとは枝振りだけだと思いながら近づいていき、自転車を降りた。一抱えもありそうな根元の幹からすぐに数本の幹が出ており、おあつらえ向きの枝がある。俊二は両手を伸ばして間隔を確認してから、少し離れてスマホで写真を撮った。グーグルで調べてみると、どうやら榎らしい。葉もたっぷりで日陰も十分である。彼はスキップする気分で自転車をこぎ、部屋に戻ると、あった、あったと写真を麻美に見せた。小さい画面では大きさがピンとこないのか、彼女の反応は薄い。俊二が手振り身振りで高さも間隔もちょうどいい枝振りであることを説明すると、ようやく笑顔になった。
 ところが次の日、麻美は外に出ていく気分になれないと言い、部屋に閉じこもってしまった。俊二はむかっとして、お前は鬱病を治す気があるのかと言いそうになり、あわてて口を噤んだ。ひょっとしたら、外で揺られてみないかという提案は頑張ってと同じことではないかと気がついた。
 何日か経って麻美の方から「今日は天気がいいから外に出てみようかな」と呟いたので、俊二はわざと淡々とした態度で「じゃあ、準備するよ」と言ったのだった。
 ブランチがすんでから、二人で出かけた。麻美が自転車に乗るのは発病してから初めてだった。俊二は収納袋に入れたハンモックとレジャーシートを荷台にくくりつけ、ノートパソコンと大容量のモバイルバッテリーを入れたバッグを前籠に入れた。
 目的の木の傍に自転車を止め、木陰に入った。
「大きい」麻美が見上げている。
「だろう」
 俊二は収納袋からハンモックを取り出し、昨日目星を付けておいた枝にくくりつけた。そして靴を脱いで慎重に横たわり、揺らしてみた。自分の体重で大丈夫なら麻美も何の問題もない。重なり合った木の葉の間から陽光が漏れて、ゆるやかに吹き渡る風に光がちらちらと動いている。何よりも部屋の中とは違って、視界が開けているのがいい。
 麻美がブランコの順番待ちをする子供のようにこちらを見ているのに気づいて、彼はハンモックを降りた。交替した彼女はハンモックを何度も揺らし、仰向けから横向きへと姿勢を変えた。
「気持ちいい?」
「うん」
 俊二は日陰にレジャーシートを敷き、モバイルバッテリーをつけたノートパソコンを立ち上げた。彼の仕事はクライアントから依頼された電子回路設計で、シミュレーションソフトで動作確認ができれば、実際の基板作りは製作部門がやってくれる。データのやりとりはクラウドで行うので、ネットが繋がりさえすればどこでもできる仕事だった。
 胡坐をかいてキーボードを叩いていると腰が痛くなってき、寝そべると上半身を支える肘が痛くなる。姿勢を変えながら何とか仕事を続け、日陰が外れて陽が射してきた時点でシートを移動しようと立ち上がった。
 ハンモックを見ると、麻美が眠っている。繭に包まれている感じなんだろうと思いながら俊二は彼女の寝顔を見た。
 翌日もあの木のところに行こうと昼過ぎに二人で出かけた。昨夜、近くのキャンプ用品店で買ってきた折り畳み式のテーブルと椅子を俊二の自転車の荷台にくくりつけ、シートとハンモックは麻美の方にくくりつけた。今日もいい天気で、サイクリング気分でペダルをこいでいった。
 堤防を降り、河原の舗装路を行くと、遠くにあの木が見えてくる。細い道に入って近づいたとき、誰かが木陰にいるのが見えた。さらに近づくと何やら音楽が聞こえてき、男の歌っている声も聞こえてくる。木陰に止めた自転車の傍に麦わら帽を被った男が小さな腰掛けに坐り、マイクのようなものを握っている。俊二と麻美は自転車を止めて、顔を見合わせた。
「先を越されたみたいだな」と言うと、麻美は明らかにがっかりとした顔で頷いた。
「どうする。無視してハンモックをつるす?」
 麻美は首を横に振った。
「帰る?」
 麻美が頷いたので、二人はアパートに戻った。スタンドにハンモックをつるそうかと聞いても、麻美はいいと首を振った。

 次の日ブランチを早めにして昼前に出かけた。案の定、男はおらず、俊二はいそいそとハンモックを枝にくくりつけた。そうしてレジャーシートを敷き、拡げたテーブルと椅子を置いて、いざパソコンの電源スイッチを押そうとしたとき、麦わら帽を被った男が細い道を自転車でやってくるのが見えた。新聞配達に使うようなごつい自転車からも昨日の男だということが分かった。
 男が自転車を止め、こちらを見た。日に焼けた顔で年齢がいっているように見える。男は芝生に入ることなく道なりに進んでいって、隣の野球場を区切るように生えている生垣の陰に入った。俊二がパソコンを立ち上げて仕事を始めると、かすかに音楽が流れてき、男が声を張り上げているのが聞こえてきた。どうやら演歌のようだった。麻美は気づいているのかとハンモックを見上げたが、体を起こしているようには見えなかった。
 男のカラオケは二時間ほど続き、終わるとまた自転車に乗って来た道を帰っていった。
 その夜、アサリのボンゴレを作って二人で食べていると「あのおじさん、ちょっと音痴じゃなかった?」と麻美が言った。
「聞いてたのか」
「そりゃ聞こえるわ」
「確かにおれも何だか調子っぱずれだなと思ってたんだよな」
「だから一人で歌っているのかも」
「たぶんスマホのカラオケアプリを使っているんだろう。無料だし」
 次の日は男はやってこなかったが、その翌日、二人が昼前に行くと、すでに男が榎の陰で歌っているのが見えた。俊二は心の中で舌打ちをした。カラオケなら別の木の下でもできるんだから、そっちに行けよと毒づきながら麻美を見ると、彼女はじっと男に目を向けている。どうするという声もかけづらく、一緒に男を見やっていると、こちらに視線を向けた男が急に歌うのを止め、腰掛けから立ち上がった。そして手を上げておいで、おいでをする。えっと俊二は思ったが、麻美はペダルをこいで芝生の中に入っていく。「行くのか」と声をかけたが、彼女は返事をせずに進んでいくので仕方なく俊二も後に続いた。
 自転車を止め、二人で男に近づいていく。屋外では何メートル離れたらマスクなしでもいいのだろうかと考えているうちに、麻美がどんどん近づこうとするので、俊二は彼女の腕をつかんだ。
「ハンモックをしに来たんだろう」
 男がにこやかに言った。黒い顔に皺が刻まれている。ニッカボッカのようなズボン、シャツの上にポケットの一杯ついたチョッキを着ている。自転車の荷台には木箱がくくりつけられており、そこにホルダーに入ったスマホがつけられている。腰掛けは布を張った折り畳み式のものだった。
「そうです」と俊二が答えた。
「おれ、あっちに移るから」男は離れたところにある生垣を指さした。何だか追い出した形になるなと思っていると、麻美が「木の反対側に移ってもらったら」と呟いた。
「カラオケ、聞きたいの?」
「うん」目が笑っている。
 麻美がそう言うならと俊二は男に向き直った。
「僕たちはハンモックをつるせたらいいんで、反対側でカラオケをしてください」
「そうかい。そりゃ助かる。日陰の方が画面が見やすいんでね」
 男は自転車のスタンドを足ではね上げ、太い幹の反対側に移った。
 ハンモックをつるしていると、演歌の曲が流れてきて、ふたりでたどるこころのたびじ……と微妙にずれている男の声が聞こえてきた。その声が二曲、三曲と歌うごとに大きくなっていくのが何となくおかしい。俊二はキーボードを叩きながら、笑いをかみ殺した。
 二時間ほどして男はカラオケを止め、俊二に会釈してから自転車に乗って木陰を離れていった。
「ねえ」と麻美がハンモックから顔を覗かせた。
「あのおじさん、ハンモンクって言ってたよね」
「ハンモンク?」
「そう」
「いや、おれにはハンモックって聞こえたけど」
「私の耳の方が確かよ。絶対にハンモンクって言ってたから」
 それで賭けをしようということになって、負けた方が相手の肩を揉むという他愛ないことを賭けることにした。
 しかし次の日行ったときにはすでに男は幹の向こう側にいて、言葉を交わす機会はなかった。何とか男にハンモックを言わせることはできないかと俊二は考えたが、うまいアイデアが浮かばないまましばらく時間が経った頃、カラオケの曲が急に聞いたことのあるJ-POPに変わった。男の音程がはっきりと狂っているのが分かり、歌詞と曲のずれも激しくなっている。それでも何とか最後まで歌い終わると、
「近頃の歌は難しいなあ」という男の独り言が聞こえてきた。そりゃそうでしょうと俊二が心の中で突っ込むと、
「おふたりさん、ちょっと歌ってみてくれんかな」と男が言った。それは無理と思っていると、
「歌います」と麻美が答えたので、俊二はびっくりした。彼女がハンモックから降りてくる。
「マイク、使うか」と男の声。
「いいえ、ここで歌います」
 イントロが流れてくる。麻美は、眠らない牧神のヨルノデキゴトの歌詞を検索しておいてと素早く言うと、くらいかわをおよぐように……と歌い始める。俊二は急いでスマホで検索して、それを彼女に手渡した。二番からスマホを見ながら気持ちよさそうに歌っている。鼻唄なら何度か耳にしたことがあるが、本格的に歌う姿を見るのは初めてだった。おれが歌が苦手なのを分かっていたからカラオケに誘わなかったのだろう。コロナが落ち着いたらカラオケに行ってみようかと俊二は思った。
 歌い終わると男の拍手が聞こえてきた。麻美はこちらを見て、照れ臭そうに舌を出した。
「やっぱり若いなあ」
「おじさん、一度ハンモックに乗ってみません?」
 何を言い出すんだと思っているうちに、男が幹の陰から姿を現した。しかし、それ以上近づいてこようとはしない。
「いや、乗ってみたいのはやまやまなんだが、コロナだから」
「ハンモックに乗ったこと、ありますか」
 そこでようやく俊二は麻美が男にハンモックと言わせようとしていることに気づいた。
「いいや。でも昔じいさんがハンモンクを作ってやると言ってたのを思い出したわ」
 麻美が、ねっというようにこちらを見た。俊二は頷いた。
「これ、ネットで買ったんですけど、屋内でも使えるスタンドがついて六千円くらいですよ」
 と俊二も何とかもう一度言わせようと言葉を繋いだ。
「ハンモンクて、そんなに安いんか」
 二人は再び顔を見合わせて、小さく笑った。
 その夜、俊二は麻美の肩を揉んだ。最初はくすぐったがっていたが、彼が優しく指を動かすと、目を閉じて、気持ちいいと呟いた。こんなに長い時間彼女の体に触れるのは、発病以来なかったことだった。

 男とはその後何回か一緒になり、演歌の合間に一、二曲麻美が歌うようになった。夜、男の素性について、ホームレス(麻美はアウトドアライフの人と言った)には見えないし、色が黒いので日雇いで工事現場かどこかで働いているのだろうなどと二人で憶測し合った。
 そんなある日、男が姿を見せなくなった。二日、三日くらいまでは、そのうちやってくるだろうと思っていたが、一週間も過ぎると、さすがにもう来ないかもしれないという気持ちになった。病気になったのかもしれないと言ったのは麻美で、もっといい場所を見つけたんだろうと言ったのは俊二だった。そうねと呟く彼女の姿に、親の介護か何かで田舎に帰っているんじゃないかと俊二は別のことを言った。
 雨模様の日々が続いた後、久し振りに好天になり、二人はあの榎の陰に向かった。雨の後のせいか、葉の緑が鮮やかに見えた。麻美がハンモックに揺られている傍で、俊二がキーボードを叩いていると、
「ハンモンクおじさん!」と麻美の声がした。顔を上げると、上半身を起こした彼女が揺られながら遠くを指さしている。
 俊二は立ち上がってその方向に目をやった。堤防から降りて近づいてくる無骨な自転車が見え、こいでいる男の頭には麦わら帽が載っていた。帽子は光を受けて輝き、男の顔はますます黒く見えた。

 

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