今ここに在ること     津木林 洋


 山辺宗吉(そうきち)はハンガーラックに近づいた。季節に関係なくジャンパーやカーディガンが掛かっているので、コールテンのズボンもあると思っていたら見当たらなかった。部屋着のままでいいかと思ったが、いやいやと考え直す。年寄りが一見して部屋着のままで来ていると分かるのはみっともない、というミネ子の言葉が蘇る。あれはどこで聞いたのだったか。彼女がよれよれのジャージ姿の男を見て、彼に囁いた。男は短髪の白髪頭で無精髭にも白髪が混じっている。俺は部屋着ではなかったから、ミネ子の家の近くのスーパーだったはずだ。その時彼は、他人に言うふりをして自分に言っていると感じてどきりとしたのだ。
 宗吉は押し入れを開け、下段にしまい込まれている小ぶりのタンスの引き出しを開けた。セーターやらシャツがきちんと折りたたまれてあるので当然その中にあるものだと思ったが見当たらず、下着や靴下の段にもなかった。俺が気に入っているのが分かっていたから捨てるはずはないのだがと思いながら、タンスと横壁の間に目をやると、白いレジ袋があった。ああ、これだと手に取ると、果たして中にはコールテンのズボンがあった。ミネ子がクリーニングに出そうとしていたのが分かる。彼はそれを取り出して広げてみた。茶色の生地で取り立てて汚れているようには見えないが、一カ所太腿のあたりに薄くシミが広がっている。それで彼は思い出した。これを穿いてミネ子の部屋に行き夕食を食べていたとき、醤油をこぼしてできたシミだ。彼女はすぐにお湯で洗ってくれたのでそれで取れたと思っていたが、クリーニングに出そうとしていたのか。
 よく食べ物をこぼすのは年を取った証拠よ。
 なんだか、自分だけ年を取っていないような言い方だな。
 私はあなたと違って年は取りませんから。
 自然に逆らうのはよくないな。
 あのときの笑いは苦笑だったのか、それとも余裕の笑いだったのか。
 おそらく半年前にはクリーニングに出そうと思っていたのがそのままになっている。コロナが始まって、それどころではなくなったということだろうな。半年という時間が長いのか短いのか彼にはよく分からない。スーパーに買い物に行くついでにクリーニング店に寄ることにしてズボンをレジ袋に戻し、綿のズボンを穿いた。上を着替えるのは面倒くさいので薄手のジャンパーを羽織る。玄関の小さな段差に腰を下ろし、ウォーキングシューズを履く。右膝が悪くなったとき、ミネ子から口喧しく言われて履き出したもので、年寄りには似合わないと渋っていたが、実際に試してみるとクッションがあるせいか膝が楽になったのでもう手放せないでいる。玄関ドアの横にはL字を逆さまにして引き延ばした形の杖が立てかけられているが、彼は一度も使ったことがない。ミネ子が無断で買ってきてウォーキングシューズと一緒に勧められたのだが、そんな年寄りじみたものは断固お断りと彼は拒否した。
 何言ってるの。実際年を取っているのだから、年寄りじみたはないでしょう。
 あんたが使うのなら、俺も使う。
 私は足は悪くないもの。
 だったら俺も使わない。
 変な人。プライドだけは高いんだから。
 プライドくらい高くないとな。
 あの時の笑いは呆れたという意味なのは分かる。今日は杖を使ってみようかとふと思った。供養という言葉が浮かぶ。死んでから言うことを聞くというのも変な具合だが。俺が杖を使わなかったのは年寄りに見られたくないというのはもちろんそうなのだが、転んで怪我をしてもミネ子がいるからとどこかで思っていたのかもしれない。それならミネ子のいない今、怪我をしたら自分で面倒を見なければならない。それ見たことかとミネ子は笑うだろうな。彼は膝に手を当てて立ち上がると杖を握ったが、いや、自分で面倒を見なければならないのだったら転んでも構わないじゃないかと思い直した。変な人というミネ子の声が響く。そうさ、俺は変な人さとつぶやいて、彼は杖を手から離した。レジ袋を持ち、尻ポケットにある財布を生地の上から確かめてから、彼はドアを開けた。鍵を閉め、アパートの外廊下を行き、鉄製の階段の手すりを握ってゆっくりと一歩を下ろす。赤錆の浮いた踏み板がきしんだ音を立てる。急勾配の階段を慎重に降りていく。足を踏み外して頭でも強打すればあの世行きだ。いやいやすんなりとあの世に行ければいいが、動けなくなって寝たきりになれば最悪だ。誰が面倒を見る? あれ、自分で面倒を見るのではなかったか。寝たきりになれば誰かの手を煩わせるのは仕方がないか。
 一番下まで降りて彼は一息吐いた。顔を上げる。ひんやりとした空気の中、秋晴れの空が広がっており、昼前の太陽が高く昇っている。何だか気持ちがいい。母親はしょっちゅうお天道様に手を合わせていたが、この年になるとその気持ちが痛いほどよく分かる。しかし彼は手を合わせない。心の中で合わせておくことにして、上げた顔を下ろした。その時、道を行く人の姿が目に入り、彼はあっと口を開けた。マスクだ。マスクをするのを忘れていた。ジャンパーとズボンのポケットを探る。ないのは分かっていたが、万が一ということがある。ポケットにしまい込んで忘れていることがあるかも。しかし手はむなしくないことを告げるばかりだった。どうする、取りに戻るか。だがもう一度階段の上り下りをするのはとてつもなく面倒だ。いいじゃないか、マスクぐらい。スーパーマーケットでもたまにマスクをしていない者を見かけるのだから。年寄りがたまたま忘れているくらいに思われるだけだろう。彼は階段を離れ、アパートの敷地を出ようとしたが、エコバッグという声が聞こえてきて、思わず振り返った。ミネ子の声だった? しかしそこには誰の姿も見えない。空耳か。
 エコバッグなどという言い方は大袈裟だ。買い物袋でいいじゃないか。
 でもエコバッグの方がいいことをしているという気になるでしょ。
 気になるだけで、実際どれだけエコの役に立っているのか。
 チリも積もれば山となるという言い方を知らないの。
 庶民はせいぜいチリを積むことくらいしかできないのか。
 自分は庶民ではないみたいな言い方。
 俺が言いたいのは、もっと大きなことを考えろということだ。
 例えば?
 それは……庶民である俺には分からない。
 そら、ごらんなさい。
 マスクとエコバッグ、二つも忘れたのなら面倒でも取りに戻るかと考えたが、その時手にレジ袋を持っていることに気づいた。そうだ、先にクリーニング屋に行ってズボンを出したら袋が残るじゃないか。彼はその発見に自分でも得意になり、意気揚々と歩き出した。しばらくは高揚した気分のまま歩いていたが、すれ違う者がちらっと自分を見ることに気づき、マスクをしていないことを思い出した。行き交う人間でマスクをしていない者はいない。そう思っていると、心なしか微妙に自分を避けるように動線を変えている気もしてくる。このじいさん、マスクをしてないよ、そう思っているんだろうな。惚けているのかも、と思うかも。そうだよ、俺は惚けているんだ。彼はそこに逃げ込もうとしたが、やはり居心地はよくない。今更取りに戻る気はないので、どこかで買うことに決めて歩を進めた。部屋にはミネ子が買い置きしてくれたマスクがたっぷりと残っているのに、わざわざ買うのは馬鹿馬鹿しい気がしたが、戻る面倒よりも金を出す方がはるかに楽だ。
 スーパーマーケットに着く。買い物に来ている者たちは年寄りも含めてすべてマスクをしている。店内で、新型コロナウイルス感染防止のためマスクの着用にご協力くださいというアナウンスが流れている中で、マスクなしで入る勇気はさすがにない。本当に惚けていたら、そんなことは気にしないだろうが。彼は隣に建っているドラッグストアに近づき、中に入った。スーパーの店内よりも人がまばらなのでほっとする。薬売り場の手前、目立つところに様々なマスクが売られている。彼は三枚入りの一番安い袋を取って、レジに向かった。会計をしている人に後ろには並ばずに遠くから様子をうかがい、その人が終わって次に誰も並ばないことを確認してからレジの前に立った。ビニールシートの向こうからマスクをした中年女性の店員がこちらを見る。その目にはこちらがマスクをしていないことに対する反応はない。彼はマスクの袋をカウンターに滑らせる。店員が袋を手に取って、何か言った。彼は目を見開いて、もう一度言ってくれという意思表示をする。店員は心持ち大きい声で、ポイントカードはお持ちですかと言う。彼は左手を振った。レジ袋はお入り用ですか、テープで構いませんか。彼は右手を挙げてズボンの入ったレジ袋を示した。店員はバーコード読み取り機をつかんで商品のバーコードに光を当てると、百九十八円ですと言う。ズボンの尻ポケットから財布を出し、小銭で膨らんだ中を探る。よく探せばちょうどの硬貨があるはずだと思うが、ここで時間を取りたくはない。彼は百円硬貨を二枚取り出すと、店員に渡そうとした。しかし店員は、こちらにと手でカウンターの受け皿を示した。そこに硬貨を置く。店員は硬貨を取るとレジスターの穴に入れ、出てきた一円玉二枚とレシートを重ねて受け皿に置いた。彼はマスクをジャンパーのポケットに突っ込み、一円玉二枚を財布にしまうとレシートはそのままにして、その場を離れた。店内で袋を破ってマスクを付ける気はないので、急いで店を出た。自転車の並んでいるところでポケットから袋を取り出し、破って一枚を引き出す。それを口に当てると、一仕事やり終えたような安堵感が広がった。これでようやく周りを余裕を持って眺めることができる。そう思うと、自分が世間体を気にして汲汲としているちっちゃな男に思えてきて、自嘲の笑みがこぼれた。ケツの穴の小さな男ねえ、ミネ子の声が聞こえてきそうだ。もっとも、彼女はその言葉を彼に向けたことはない。テレビを一緒に観ていて、つまらないと思った男を突っ込むときに使うのだ。しかし彼はいつも自分に向けて言われていると感じてしまうのだった。
 スーパーマーケットの出入り口の横にクリーニング店がある。その前に宗吉は立った。このスーパーマーケットができたのがいつだったか記憶にないが、彼は一度もこのクリーニング店に入ったことがない。どの衣類をクリーニングに出すかはミネ子が決め、彼女が持って行くのも引き取るのもすべてやっていてくれたから。俺の部屋から帰るとき、ついでに立ち寄るとしたら、この店か。いや、と彼はかすかな記憶をたどっていく。クリーニングは大手のチェーン店よりも個人の店の方が丁寧なので、少々高くてもそっちにしている、確かそんなことを言っていた。彼は目の前の店構えを観察した。明るい色調、ガラス壁には早い、安い、ていねいと大きなロゴが貼られている。スーパーマーケットの敷地に出店するのはチェーン店だろうとは彼でも分かる。どうせクリーニングに出すのなら、ミネ子の馴染みの店にしたいと思ったが、その店を探せるだろうか。ミネ子の住んでいたアパートまでの道筋のどこかにその店はあると思うので、ひさびさに散歩を兼ねて歩いてみようか、と彼は思った。整形外科の医者から、痛いからといって歩かないでいると、筋肉が衰えてますます痛くなるので、痛みが軽ければ少しは歩いた方がいいと言われているのだ。
 一週間ごとにお互いの部屋に泊まることにし、道順を覚えるために二人で歩いたことは記憶にある。健康のためにウォーキングと言っていたのが、膝が悪くなって彼はバス、ミネ子は仕事で使っている自転車に変わってしまった。歩いてどのくらい時間がかかったのか覚えていない。あの頃は若かったから一時間もかからなかったかと考えて、彼は一人で笑った。還暦と還暦間近の二人でも今の歳から思えば若かったとなるのだ。四十歳の時、二十歳を振り返って若かったと思うのと一緒のことか。いやいや、それは違うだろう。自分の情況が変わっていく二十年と日々変わりもしない二十年では同じ二十年でも全く違う。
 ミネ子のアパートに行く途中に大きな公園があったことを思い出した。瓢箪型の池があって、その周りを巡ったのだ。取りあえずそこまで行ってみようか。
 秋の日差しに背中を押されるように宗吉は歩き出した。歩道のある大きな道に出て、いつも使っていたバス停の前まで行く。マスクを付けた年寄りが三人、間隔をあけてバスを待っている。クリーニング店を探し歩いて膝に痛みが出てきたら帰りはバスに乗ろう、そう考えると不意に恋の片道切符という言葉が浮かんだ。チューチュートレインという歌詞が曲に乗って流れ出し、彼は思わず口ずさむ。誰の歌だったかと思っても名前が出てこない。なぜこんな歌が浮かんだのか。帰りのバスが片道切符だから? でも乗らなければ片道切符ではない。まあ、片道切符でも乗れると分かっていたら、安心して歩けるというものだ。彼は自分を納得させ、バス停を背に足を踏み出した。すれ違う者も自分を追い越していく者もいる。コロナが始まる前と今とでは人通りがどう変わったのか判断できないが、誰もがマスクをつけている姿は今だと思わせ、自分もマスクをつけているとそのことが当たり前に見えてくる。たまにマスクをつけていない者に出くわすと、まるでそこに警告マークが出ているように感じるのが面白かった。ジャンパーのポケットに手を入れて残りのマスクを確認すると、通行手形かと彼は笑った。
 店を探して歩くと、おのずからゆっくりとした速度になる。道が交差しているところに来ると、立ち止まってその道の両側に目をやって、クリーニング店の看板とか幟がないかと確かめるからなおさらだ。ミネ子は自転車だったので、もっと枝道を行って穴場の店を見つけたのかもしれないが、さすがにそこまで探す気はない。大きい道を行って見つからなければ、それはそれで仕方がない、帰ってあの店に持ち込もう。とは思うものの、彼女が気に入った店を見てみたいという気持ちは強い。見つからないまま歩き続け、大きな川にかかる橋をようやく渡ったところで、公園がこの近くにあったことを思い出した。この道のどこかで曲がったはず。そう思って歩いていると、電柱の上部に三勝池公園という看板がかかっているのを見つけ、彼はその矢印に従って道を左に曲がった。緩やかな下り坂を転倒に注意しながら慎重に足を運ぶ。行く手にはこんもりと木々が茂っているのが見え、彼は車止めのポールの立っている入り口から公園の中に入った。赤茶色の小石で固められた遊歩道を行くと、自然に池の周りに出られるようになっている。ジョギングをしている者もいて、そのマスク姿に、一人だし息苦しいのだから外しても、とは思うが、違和感は感じない。池は広くて、樹木が池端にせり出しているところもあり、カモなのか野鳥の群れが泳いでいるのも見える。池と遊歩道を区切っているのは木材を擬したコンクリートの柵で、それに沿って歩き始めて、彼はすぐにここでミネ子と手をつないだことを思い出した。あれはいつのことだったろうか。お袋が死んでから付き合い始め、週末同居を決めるまでの短い間のような気がするが、自信はない。腕を組んだこともないのにいきなりミネ子が手を握ってきて、その冷たさに驚いたから冬のことだったのか。いや、ミネ子は冷え性だと言っていたから、冬とは限らない。いやいや、お袋が死んだのが秋だったから、やっぱり冬だろう。
 どうして手を離すの。
 いや、びっくりしたから。
 今まで女の人と手をつないだことがないの?
 うーん、ないかな。
 淋しい人ね。
 昔のことは忘れたからな。
 ……ホントは手をつなぎたいんだけど、そんな若い子の真似なんか恥ずかしくてできないんでしょ。
 まあ、そうかな。
 大丈夫よ。周りに誰もいないから。
 それでも彼が躊躇していると、
 パーを出してみて。
 ミネ子が右手を広げてみせる。彼がおずおずと左手を広げると、彼女はぱっと指を絡ませ、つないだ手を自分の臍のあたりに持って行く。
 あったかい手。
 ミネ子の冷たい手が次第に温かくなっていくのがなぜか不思議な感じに思えたことを覚えている。
 あのあと、手をつないだまま、池の周りを歩いたのだったか。人の姿が見えて、自分から手を外したのか、それとも彼女がつないだ手を彼のオーバーのポケットに突っ込んだのだったか。いや、池に浮かんでいるボートを見て、あれに乗りましょうよと言ったときに彼女の方から外したのではなかったか。しかしボートに乗った記憶はない。
 秋の日差しを受けて池面が光っている。こんな日にボートに乗ったら気持ちがいいと思うが、一艘も浮かんでいない。コロナのせいなのか、それとも単なる平日のせいなのか。芝生のある広場にやってきた。人がぽつぽついて、ベンチにも坐っている。まだ痛くはないが、熱を持ってきている膝を休ませるために彼も坐ることにした。長いベンチには一人ずつ区切るための仕切りが二カ所あり、誰もがどちらかの端に腰を下ろしている。宗吉も誰もいないベンチの端に坐って一息ついた。左手を広げてみる。ミネ子と手をつないだのは何回かあると思うが、覚えているのはここでのことだけだ。ミネ子との二十年、最初の出会いからすれば、どうしてこんなに続いたのか分からない。もっとも、宗吉には五、六年くらいしか経っていない感覚なのだが。
 チャイムが鳴る。玄関のドアを開けると、グレーのトレーナーにベージュのスラックスを穿いた女性が立っていた。
 おはようございます。伊藤さんの引き継ぎで参りました新川と申します。
 宗吉は女性を見て、がっかりした。前任の看護師は三十代後半の人でぽっちゃりとした体型が彼の好みだったのに、新川という女性はどう見ても五十代、ひょっとしたら自分と同じくらいかもと思ったのだ。看護師長上がりかもと思わせる浅黒く堅い顔も好みではなかった。前任者と母親は最初のうちこそギクシャクしていたが、次第に打ち解けてうまくいっていると思っていたのに一週間前、突然母親が拒否し出した。訳が分からないまま、担当を替えてくれるよう申し込んだのだった。
 宗ちゃん、水という母親の声が聞こえてき、彼は女性との挨拶もそこそこに奥の部屋に駆け込んでいった。六畳の部屋に置かれた鉄パイプ製のベッドに横たわり、母親が筋張った手をひらひらさせている。彼は枕元に近づき、ナイトテーブルの吸い飲みを取ると母親の口に持って行った。ガラスの吸い口を銜え、母親は無表情に水を飲む。傾き具合に気をつけながら慎重に吸い飲みを持ち上げる。飲み終わって吸い飲みをテーブルに戻したとき、隣の部屋との敷居に新任の看護師が立っているのが目に入った。彼女がつかつかと近寄ってくる。
 山辺さん、と彼女が腰を曲げ、母親の顔をのぞき込んだ。今日から伊藤さんに代わって私が看護のお手伝いをさせていただきます、新川です、新川ミネ子です。
 母親は相変わらず無表情だ。
 それではまず体温を測りましょうね。
 ミネ子がナイトテーブルに置いたリュックから棒状の物を取り出した。蓋を開け、電子式の体温計を抜き取ると、母親の寝間着の胸元を広げようとしたが、母親がその手を払いのけた。彼はひやりとした。
 山辺さん、元気がありますね。それだけの元気があれば、リハビリも頑張ってやりましょうね。
 ミネ子が宗吉をちらっと見る。えっと思っていると、彼女が手に持った体温計の先をこちらに向けた。ああ。宗吉はミネ子から体温計を受け取ると、母親の寝間着の胸元を広げ、脇の下に体温計を差し込んだ。母親は無表情だが、さも当然という顔に見える。ピッと音が鳴り、彼は体温計を抜いてミネ子に渡した。
 三六・一。平熱ですね。
 ボールペンでバインダーに挟んだ用紙に書き込みをしたあと、彼女はバッグから血圧を測る道具を取り出した。しかし腕帯を母親の上腕部に巻こうとすると、肘を曲げ手で払われる。
 お母さん、血圧を測るのは看護師さんの仕事だから、素直に言うことを聞いて。
 そう言っても母親はかたくなに拒否する。
 今日は血圧はなしで。
 ミネ子に告げる。彼女はちょっと困った顔をしたが、口元は笑っている。血圧測定を止めると思いきや、手に腕帯を持ったまま、母親の耳元に口を近づけ、何事かささやいた。母親の目が看護師に向いた。
 ね?
 ミネ子が笑いかけると、母親は目を正面に戻し、まぶたを閉じた。ミネ子が素早く腕帯を巻き、その間に聴診器を差し入れ、血圧計のゴム球を何度か握る。
 一〇五、六五。山辺さん、血圧は正常ですよ。
 ミネ子は血圧計をしまうと、宗吉に、湯を沸かしてくれるように言った。
 湯沸かし器のお湯ではだめですか。
 それで構いません。
 お袋の身体を拭くということですか。
 はい。
 玄関横の小さな台所に行き、風呂場から持ってきた桶に湯をためていると、ミネ子が側に来た。
 できるだけ熱い湯にしてくださいね。
 彼はダイヤルを最大にした。
 それからタオルを二枚、用意してください。
 湯の溜まった風呂桶を寝室に持っていってから、小物タンスの最上段にあったタオルを二枚つかんでミネ子に渡した。
 ありがとうございます。
 そう言うと、ミネ子は襖を閉めた。伊藤さんは開けっぱなしでやっていたのにと思ったが、看護師によってやり方が違うのだろうと自分を納得させた。
 ミネ子は驚いたことに、そのあと母親のリハビリまでやってのけた。母親はアパートの階段を踏み外して転倒し、その拍子に大腿骨の根元を骨折、人工関節を入れる手術を受けたのだ。リハビリを嫌がり、いくら寝たきりになると脅しても言うことを聞かなかったのに。
 ベッド上で膝の曲げ伸ばし、起き上がってベッドに腰掛け、足を畳につけ、ゆっくりと立ち上がらせる。ミネ子が母親の手を取り、少しずつ歩かせ、山辺さん、その調子、上手ですよと声をかける。そのまま寝室を出て次の間に入り、流し台の前まで行く。そのとき、そこにあるパイプ椅子、持ってきてもらえますかとミネ子が声をかけてきた。彼はベッドの横に置いてあったパイプ椅子を畳んで持って行った。それを再び広げると、ミネ子は母親を坐らせた。
 バスタオル、ありますか。
 彼は寝室に戻り、押し入れの中から一番きれいと思われる一枚を取って、戻った。ミネ子はそれを母親の肩にかけ、今度は、シャンプーを持ってくるように言った。そこでようやくミネ子が母親の頭髪を洗おうとしているのが分かった。ドライシャンプーを使わないのか、伊藤さんはいつもそうしていたのに。
 流し台の下の扉を開け、そこに母親の膝が入るようにして、ミネ子は母親の頭を流しに傾けさせた。そして湯沸かし器の湯で母親の髪を濡らすと、ミネ子はシャンプーをたっぷりとつけ、鼻歌まじりに指で洗い始めた。時折、かゆいところはありませんかと尋ねる。目を閉じた母親が首をわずかに横に振る。相変わらず無表情だが、柔らかく見えるのは気のせいか。洗い終わると、また頭を流しに出し、湯沸かし器の湯をかけていく。時間をかけて丁寧にすすいでから、バスタオルでしっかりと水気を取った。
 山辺さん、気持ちよかったでしょう。
 母親は小さくうなずく。ミネ子がこちらを見て、シャンプーはやっぱり水を使った方が気持ちがいいんですよと言い、目を戻すと、これからはリハビリも兼ねてここでシャンプーをしましょうねと母親に告げた。
 ミネ子はそのあと、胸に聴診器を当てたり、口の中をペンライトで覗いたりしたが、母親は嫌がる素振りを見せなかった。
 訪問看護の仕事が終わって書類に確認の署名をしてから、彼はミネ子に小声で、どんな魔法を使ったんですか、何か言いましたよねと尋ねた。
 別に魔法なんか。清拭(せいしき)とか洗髪をご褒美にしただけですよ。気持ちがいいことは分かっていますから。
 聞いてみれば、単純なことだった。
 母親が死んだのは、それから一ヵ月も経たない頃だった。夜中に唸り声で目を覚ました彼の耳に、寝室からどさりと物の落ちる音が聞こえてきた。蒲団から上半身を起こし、垂れ下がっている紐を引っ張って蛍光灯をつける。耳を澄ますが、物音はもうしない。彼は立ち上がって、寝室の襖を開けた。こちらの光が届く中にベッドから落ちた母親の身体があった。お母さん。あわてて駆け寄って揺すっても母親は何の反応も示さない。母親の頬を両手で挟んで顔をこちらに向けたが、目は閉じたままだ。お母さん、どうした。頬を叩いてみたが、目を開けない。頭がかっと熱くなり、何かを考えようとしたが紐が絡まったように思考がまとまらない。その時、何かあったらいつでも連絡してくださいというミネ子の声が耳元で蘇った。彼は寝室を出てテレビの上に置いている黒電話の受話器を取った。早見表をめくり、こんな夜中にと一瞬躊躇したが、ミネ子の番号を押した。はい、新川です。その声に不機嫌な感じは全くない。彼が母親の状態を説明すると、すぐに救急車を呼んでください、私も急いでそちらに行きますからとミネ子は言って電話を切った。受話器を下ろし、もう一度取り上げたが、救急車が何番かが思い出せない。彼女が来てから電話してもらおうかと考えているうちに、一一九という数字がぱっと浮かんだ。
 救急車が来て隊員が担架に母親を乗せているときに、ミネ子がやってきた。私はこの人を担当している看護師です、具合はどうですかと隊員に質問している。意識がない、脳卒中の疑い、そんな言葉が聞こえてくる。彼はミネ子と一緒に救急車に乗った。向かい合って腰を下ろす。担架に縛り付けられた母親に目をやっているミネ子の横顔を見ていると、不思議と落ち着いてきた。母親もこれで大丈夫だろうと思えた。
 しかし次の日、母親は目を覚ますことなく病院のベッドで死んだ。脳梗塞だった。
 母親には遠い親戚しかおらず、近所に親しくしている者もいなかった。アパートの狭い一室で葬儀をする気にもならず、かといってどこかの会場を借りるのも大袈裟過ぎる気がした。何より金がない。ミネ子に相談すると、火葬場に直接運び込む直葬というのがあると教えてくれた。
 ちょっとお金はかかりますけど、火葬する前にお坊さんを呼んで拝んでもらうこともできますよ。
 それなら自分の気持ちにも添うと彼は納得し、病院から直接火葬場に母親の遺体を運んだ。すべての手続きをミネ子がやってくれた。病気の兆候を見逃したせいで母親を死なせたとミネ子は悔やんでいるようだった。言葉のやりとりの中でそういう発言を聞くたびに、新川さんはよくやってくれましたからと彼は繰り返した。
 母親の介護がなくなって空白の時間ができてしまうと、何をしたらいいのか分からなくなった。プラスチック部品会社で製造部に勤務していた宗吉は母親の骨折を機に六十歳の定年間近で退職した。年金受給までまだ時間があるので働かなくてはと思うのだが、その意欲が湧かない。そればかりか日々の生活に関しても、どうでもいいことだという思いに支配されて、体が動かなかった。
 あの頃のことを思い出そうとしても、霞がかかっていて自分がどのように生きていたのか、よく覚えていない。スーパーで出来合いの物を買ってきて食べ、洗濯はほとんどせず、日がな一日蒲団に寝転がってテレビを見ていたとしか言えない。怠惰な生活だという自覚はあったが、自分が病気だとは少しも思わなかった。そんな彼を引っ張り上げてくれたのがミネ子だった。遺族の心のケアも私の仕事ですと言ってやってきた彼女が嫌がる宗吉を蒲団から叩き起こし、精神科の診療所に連れて行ってくれたのだ。診断は鬱病で薬が処方された。
 週末同居を決めた頃だったか、あなたの部屋に入った途端、その荒れ具合ですぐにおかしいと思ったわとミネ子が言ったことがある。
 あんなに大事にしていたお母さまが亡くなって、張り詰めていた気持ちが切れたのよね。
 俺がお袋を大事にしていた?
 あれ、自分ではそうは思ってなかったの?
 俺は普通だよ。
 ミネ子がくすりと笑った。
 お母さまは何かあると、宗ちゃん、宗ちゃんてあなたを呼んで、足を揉ませたり、トイレの介助をさせたりしたじゃない。あなたは生き生きとしてたわよ。
 お袋の世話をしたのは確かだが、生き生きなんてしていなかった。
 体の大きな男が喜んで母親の面倒を見ている姿が可愛いと思ったんだけど、そうじゃなかったの?
 親の面倒を見るのは当たり前だろう。
 その当たり前だという意識が恐いのよ。本当はお母さまを憎んでいたんじゃないの?
 俺が? それはない。
 否定はしてみたものの、一人になって夜、蒲団に横たわって天井の染みを見つめていると、一つの光景が記憶の底から姿を現した。
 彼と若い女が母親と相対している。結婚したい女性がいると言ったときには、お前もようやく結婚するのか、早く孫の顔が見たいと喜んでいた母親が、実際に相手を連れてくると笑顔も見せず値踏みするように女を見た。彼が、結婚したら別に住むけど、ここの近くにアパートを借りるからと言うと、
 別居は嫌だよ。大きな家を借りればいいじゃないか。あたしはその中の小さな部屋でいいからさ。そうだ、いっそのこと家を買ったらいいんだ。あたしもお金を出すよ。あたしだってまだまだ働けるし。ねえ、悠子さん。あんたもそう思うでしょ。子供が生まれたら、あたしが一緒にいた方が絶対にいいから。子供をあたしに任せて、二人とも安心して働きに出れるでしょ。どう。
 女はうつむいたまま黙っている。
 お母さん、子供の話なんかまだ早いよ。別居するということはもう決めたんだから。
 あたしに相談もなしにそんな大事なことを決めるなんて。あんたはいつからそんな人間になったんだい。あたしはそんな人間に育てたつもりはありません。お父さんが亡くなってから女手一つで頑張ってここまで育てたのに、あたしを放り出すつもりかい。それが母親の恩に報いるってことなのかい。
 誰も放り出すなんて言ってないじゃないか。近くに住むんだから。よく言うだろう。親とは味噌汁の冷めない距離がいいって。
 それは子供が何人もいる親の話だ。あたしにはあんたしかいないんだよ。同居するのが当たり前じゃないか。
 結局、彼は女と別れた。あなたのお母さんて恐い、わたし、とっても一緒にやっていけそうもないというのが最後の言葉だった。その言葉が結構な重しになり、この母親がいる限り結婚はできないと思い、この母親さえいなければと恨みが向かおうとするのを恥ずかしいことだと押さえ込み、母親が亡くなるのを待とうと思っているうちに六十になってしまった。その母親が死んだのに解放された気持ちになれないのが不思議だった。まだ母親が自分の頭の上に坐り込んで押さえつけている気がする。
 お母さんを憎んでもいいのよ、とミネ子が言う。もう亡くなっているんだから、あなたがどう思おうとお母さんには分からないわ。
 目の前に相手がいなければ、それは無理。
 ミネ子はそれじゃあと言って、部屋に置いてあった骨壺を永代供養をしてくれる寺に預け、母親の使っていたベッドを処分し、服とか雑貨などもすべて廃棄した。週末に来るだけだから何もそこまでしなくてもと思ったが、それが週末同居の暗黙の条件のように感じて、彼は何も言わなかった。しかし実際に母親の物が身の回りからなくなってしまうと重しが取れたように身体が軽くなった。
 私はあなたの母親代わりになるのは嫌だから、一緒には暮らさない。
 その一言で一週間ごとにお互いの部屋を訪問して一泊するという週末同居が決まった。食事は部屋に迎えた方が作り、その費用も負担する。
 私は一度結婚に失敗しているから二度とごめんなのよ。
 と言い訳のように付け加え、流産が原因で夫婦仲がギクシャクして別れたとミネ子は簡単に説明した。それ以上深いことは彼女もしゃべらなかったし、彼も聞かなかった。
 今から思えば、籍だけでも入れておけばよかったと宗吉は思う。そうしておけば、ミネ子の死も知らされ、遺体袋を通してかもしれないが、その姿を確認できたかもしれない。
 彼は公園のベンチからゆっくりと立ち上がった。膝が固まっていてすぐには歩き出せない。その場で何度か足踏みをしてから池端に向かった。ミネ子と並んで歩いていた思い出をたどりながら、彼は柵に沿って足を運ぶ。しばらく行くと、小さいオレンジ色の花を咲かせた樹木が目に入った。あれは確か金木犀じゃないかと思って近づいていき、十字の形をして密集している花に顔を近づけた。衰えた嗅覚にもその匂いははっきりと感じられた。この花が金木犀だと教えてくれたのはミネ子だった。手をつないだときと同じ日だったかどうかは覚えていない。この匂いを嗅ぐと、身体の奥でちりちりと欲情の火が燃え出すのを感じる。ここまで来ようと思ったのは、これを感じようとしたかったのかと今更ながら彼は気づいた。ミネ子と初めて裸で抱き合ったとき、彼女の体からほんのりと匂うものがあった。部屋を暗くし、豆球の明かりだけにしているので、嗅覚が敏感になっているのかもしれなかった。ずいぶん久しぶりに女の体を抱く緊張で体を硬くしながら、金木犀の匂いがすると彼はつぶやいた。ほんと? 彼女は首をひねって自身の肩に鼻を近づける。
 自分では分からないわ。
 金木犀の側を通ったんじゃないか。
 覚えがないわ。でもそんなことで匂いが残るなんて思えない。
 だったら石鹸か。
 そんな石鹸、使ってない。
 彼女が彼の肩の匂いを嗅ぐ。
 ほら、あなたも同じ石鹸を使ったのにそんな匂いはしないじゃない。あなたの匂いは……金木犀ではなくて何ていうか、燻製の香りをうんと薄めたような甘酸っぱい匂い。
 彼は彼女の背中に回していた手をゆっくりと滑らせた。彼女の体がわずかに反応する。肌と肌が全身で触れ合っていることに彼は恍惚となった。このままずっとこうしていたいと思い、それが次の行為に移ることへの不安の裏返しであることも気づいていた。結局、その夜はうまくいかなかった。焦れば焦るほど体がいうことを聞かず、彼女が優しく頭を抱いてくれることで終わった。男の人は最後まで行くことに拘るけど、女はそうじゃないの、こうしているだけで充分、とミネ子は慰めてくれたが、それが余計に宗吉を落ち込ませた。実は私も恐かったのよ、と彼女は笑いを含んだ声で言った。更年期が終わって自分の体がどういう反応をするのか分からなかったから、それなりの用意はしたの、看護師だからね。そう言って彼女は手を伸ばした。手渡してくれたのはチューブで、潤滑ゼリーだと言う。そうなんだと彼は思った。彼女も不安に思っていたことが分かって、肩の力が抜けた。彼女が、アメリカで開発された勃起不全治療薬が日本でも認可されたから、必要ならもらってくることもできるわよと冗談めかして言ったが、彼にはもう大丈夫だという思いがあった。事実、次の週末彼女が彼の部屋に来て、二人は性交した。射精し終わってもかなり長い間、二人は抱き合っていた。
 宗吉はオレンジ色の小さな花弁を一つちぎると、匂いを嗅いでからジャンパーのポケットに入れ、また歩き始めた。来た道を戻り、公園を出て、広い道に向かう。交差点のところで家に帰るかどうか思案してから、もう少しクリーニング店を探すことにした。しばらく歩いて枝道に目を向けたとき、黄色地に赤でクリーニングと染められた幟が目に入った。あそこか。彼は少し急ぎ足になって枝道に入っていった。ガラスドアには谷山クリーニング店とロゴ名があり、その上に、しみ抜き一級技能士が承りますと張り紙がある。いかにも個人経営の店という佇まいだった。彼は客がいないことを確認してからガラスドアを押した。カランと鐘の鳴る音がする。カウンターにはビニールシートが垂れており、マスクをした店員がいらっしゃいませと目で笑いかけた。年配の女性だった。彼は手に持ったレジ袋からズボンを取り出し、これをとカウンターに置いた。店員はコーデュロイのズボンですねと言いながら広げ、ひっくり返したりしてチェックした。ここにシミがありますねと言って紙片に何やら書き込みをする。
 この店をご利用になるのは初めてでいらっしゃいますか。
 はい。
 そうしたら、ここにお名前と電話番号をお書きください。
 カウンターに置かれた紙片を手前に滑らせ、側にあったボールペンを取って、名前と電話番号を書いた。その時ふっと思いついて、新川ミネ子という人がここに来たことはありませんかと聞いてみた。
 シンカワさん?
 そうです。七十代後半のおばあちゃんですが。
 うちはお客さんが多いので、ひょっとしたらおいでかもしれませんが、お一人お一人のお名前までは……。
 調べてもらえませんかという言葉が喉元まで出かかったが、たとえここの客であったとしてもそれ以上何かが分かるわけでもないと思うと言えなかった。店員の方から、その方がどうかしましたかと聞いてくれれば、一部始終を話すのだがと店員の目を見たが、店員は何も言わない。スタンプカードをお作りいたしますかと言うのを断って料金を払い、引換券を受け取ると、彼は店を出た。一仕事終えた気がして、彼は家に帰るつもりだったが、ここまで来たらミネ子のところまで行ってみようかと気が変わった。
 半年前のことだった。スーパーマーケットで買ってきた惣菜で簡単な夕食を済ませ、使ったパックを片付けていると、電話が鳴った。ミネ子からやっと来たと彼は急いで手を洗い、卓袱台に置いてあるスマホに向かった。
 顧客である高齢者が発熱しているのに医者にかかりたくないと駄々をこねている、ひょっとしたらコロナかもしれないので、しばらく会うのは控えておくという電話を受けてから、ずっとかかってこなかったのだ。
 スマホを取り、カバーを開けると非通知だった。非通知には出るなと言われていたのでそのまましばらく待つと、電話は切れた。ほっとしてカバーを閉じようとしたとき、ホーム画面のLINEのアイコンに@という番号がついているのに気づいた。インストールした最初こそ何度かやりとりをしたが、やはり電話の方がいいと全く使っていなかった。アイコンをタップする。ミネ子からLINEが来ていて、宗ちゃん、ごめん、コロナに罹ったみたい、とあった。受け持った高齢者がコロナだったということかと思ったが、文面はどうみても本人が罹ったとしか読めない。じわじわと怖さが浸みてくる。返信はどうしたらいいと使っていた頃のことを思い出しながら、あちこちタップをしまくって、やっと、大丈夫かと送信した。それだけでは心許ないので、ミネ子の番号に電話をした。しかし呼び出し音がしばらく続いた挙げ句、ただいま電波の届かないところにいるか電源が入っておりません、というアナウンスが流れた。そんなはずはないともう一度かけても同じだった。LINEのアイコンをタップして返信がないか見てみたが、自分の文面は未読のままだった。彼は財布をつかみ、ジャンパーを着て、アパートを出た。夜は街灯やヘッドライトの光がまぶしく感じられるので、なるべく外出しないようにしているが、そんなことを言っている場合ではなかった。膝の痛みを押して、急ぎ足でバス停に向かう。国道に出てタクシーだと気づき、手を上げた。しかし空車がなかなか通らず、ようやく一台が止まってくれたと思ったら、ドアが開かず、マスクをした運転手が前の窓から首を覗かせた。
 お客さん、マスクお持ちですか。
 彼は、あっと思った。
 忘れてきた。
 どちらまで。
 彼は市営団地の名前を言った。
 まあ、近いからいいか。
 運転手はドアを開けてくれた。
 すみませんねと言いながら、彼は乗り込んだ。寒いけど窓を開けますねと言って、運転手は後方の窓を全開した。動き出し、風が吹き込んでくるのを腕を組んでしのぎながら、だからあれほど辞めろと言ったのに、と彼はミネ子に腹を立てた。
 大丈夫よ。最前線で戦うんじゃないんだから。私たちはいわば後方支援。滅多なことじゃ罹らないわ。
 でも万が一罹ればお互い後期高齢者なんだから重症化して死ぬ可能性が高いだろう。
 宗ちゃん、死ぬことが恐いの?
 死ぬことが恐くない人間なんていないだろう?
 そう? 私は恐くない。子供もいないし、天涯孤独の身の上だから。最後まで自分の仕事をやり抜いてそれで死んだら本望よ。
 俺はどうなるんだ。
 宗ちゃんも天涯孤独なんだから、いつ死んでもいいでしょ。
 俺の死に水を取ってくれるんじゃなかったのか。
 取れるときは取ります。大丈夫、感染症対策をばっちりしてるからコロナになんか罹らないわよ。
 彼はジャンパーのポケットに放り込んだスマホを取り出し、電話をかけたがやはり不通で、次にLINEを見たが、未読のままだった。
 十分足らずで市営団地の側に到着し、彼は運転手に何度も礼を言って料金を払った。タクシーを降りると夜のせいなのか見慣れない建物に見えたが、敷地に入ってエレベーターのある玄関にたどりつくとここだと思う。それに乗って五階で降り、外廊下を右に曲がると、急に動悸を感じて足が止まった。一つ深呼吸をして膝の痛みを押しながらそろそろと歩く。角部屋の隣の五一三号。新川という表札がかかっている。廊下に面した窓は真っ暗だった。彼はインターホンのボタンを押した。いるなら出てくれ。もう一度押す。しかし何の物音もしない。彼は立て続けにボタンを押した。彼女が蒲団の横で倒れている姿が浮かんだ。こんなことなら合鍵を作っておくべきだった。彼はドアを叩いた。ミネ子、ミネ子。何度も叩く。ミネ子、ここを開けてくれ。その時、お隣さん、お留守ですよという声が聞こえてきた。見ると、右隣の部屋のドアが少し開き、年配の女性が顔を覗かせている。
 いつから。
 最近、お見かけしたことがないですよ。
 そんなはずはないと思ったが、それ以上ドアを叩くことができなくなった。彼は年配女性に会釈すると、その場を離れた。エレベーターで一階に降りたところでポケットのスマホを取り出し、再びLINEを見た。未読だ。エレベーターホールの灯りを受けてミネ子のLINEを見ると、発信時間が8:26となっている。スマホの時間表示は20:15。彼は呆然となった。そんな前だったのか。半日の間にミネ子にとんでもないことが起こっているのではと思えてきた。どうして気づかなかったのかと自分を責め、LINEではなく電話をしてくれたらと彼女を責めた。帰りのバスの中でも彼女に電話をし、LINEを覗いたが、反応はなかった。部屋に戻って、彼は思いきって一一〇番に電話してみた。事情を話すと、それでしたらまず市役所に電話してくださいと言われてしまった。
 蒲団の中に入っても眠れそうになかった。どうしたらいいという言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡るだけで、具体的な方策が浮かばない。暗闇の中でミネ子の倒れている姿が何度も浮かんでくる。明け方、ようやくうとうとしかけ、電話の鳴っている音に目覚めて、あわてて手を伸ばしてスマホを取ったが、音はもう鳴っておらず、着信履歴も入っていなかった。夢の中の音だったか。彼は上半身を起こし、まずLINEを見た。それから彼女の番号に電話をした。どちらも結果は同じだった。九時になったら市役所に電話することに決め、何日か前にポストに入っていた市政だよりを引っ張り出した。市役所の電話番号が載っている。それを卓袱台に置いてパンと牛乳とバナナだけの朝食をすませると、テレビでコロナ関連の番組を選んで観ていく。じりじりしながら時間が来るのを待ち、テレビ画面の右上に9:00と出るとスマホの数字をタップした。すぐにつながり、彼は友人にいくら電話をしても出ないので心配だから調べてほしいと訴えた。電話が回され、担当者に、昨夜からの事情を話した。
 それだったら、もう病院に入院されたんじゃないですか。
 病院?
 そうですよ。病室からLINEされたんでしょう。
 その病院て、どこか分かりますか。
 え? いや、こちらでは分かりかねます。
 どこか分からないんだったら、まだ部屋にいるかもしれんでしょう。
 いや、そう言われても……。
 とにかくその人の部屋を調べてください。コロナに罹って苦しんでいるのに、放っておいたらお宅の責任になりますよ。
 まあ、一応お調べいたしますが。
 私も立ち会うので、時間を教えてください。
 それはちょっと。警察とかの調整がありますから、すぐには無理です。
 それでは準備ができたら私の方に連絡してください。
 いつになるか分かりませんが。
 担当者の言った、病院に入院しているかも知れないというのは確かにその通りだと思えてきた。しかも彼女は看護師なのだ。彼は今度は市政便りに載っている保健所の番号に電話をした。しかし話し中でなかなかつながらない。何度もかけ直し、ようやくつながると、友人がコロナに罹って入院したと聞いたんですが、どこに入院したか教えてくださいと一気に言った。
 お宅様はその方と濃厚接触されたということでしょうか。
 濃厚接触?
 ご自分がコロナに罹ったかどうか心配されているんでしょう。
 違います。私は友人の見舞いに行きたいんです。
 発熱されているんじゃないんですよね?
 してません。
 申し訳ございませんが、この番号は発熱等があってコロナに罹ったかも知れないという方のための専用電話ですので。
 新川ミネ子という名前なんです。どこに入院したか教えてください。
 こちらではプライバシーに関するご質問にはお答えできませんので。
 だったらどこに電話したらいいんですか。
 その方からの連絡をお待ちになったらいかがですか。
 それがないからこうして電話してるんじゃないか。
 つい、怒鳴り声になってしまった。
 お役に立てず、申し訳ありません。
 電話が切れた。ツーツーツーという音が耳に響く。こうなれば直接病院に電話をして調べるほかはないと思ったが、その病院が分からない。スマホで検索できると気がつき、ミネ子が声で入力していたことを思い出した。マイクのアイコンを見つけてタップし、コロナの病院と入れた。するとトップに、新型コロナウイルス感染症の電話相談という市のホームページが来た。そこを開いて一般電話相談窓口というのを見つけた。ここだと彼は勇んで電話をした。しかし相手は、新川ミネ子という方が入院しておられるかどうかも含めて、一切お答えできないと言うばかりだった。ましてや身内とか親族でもない方には絶対にお教えできません、という言葉が彼には堪えた。コロナの病床のある病院にも電話してみたが、全く同じ対応で、そちらに行って直接お伺いしたいと言っても、お見舞いはできませんので、こちらに来られても同じですと突き放されてしまった。彼にはもうすることがなくなってしまった。後は彼女の部屋を調べてくれる市役所からの連絡を待つしかなくなった。彼女がそこにいれば死んでいる可能性が高いし、いなければいないで、彼女の行方が分からない。コロナで入院すれば、身内でさえも対面は叶わず、遺骨になって戻ってくるだけというニュースが人ごととは思えなかった。
 次の日の夕方、市役所から連絡があり、確認しましたが、お留守でしたと言われた。立ち会わせてくれと言ったではないかと詰っても、手続き上そういうことはできませんので、の一点張りだった。突然ミネ子がこの世から消えてしまった。そんなことが起こりえるのか。スマホを握りしめたまま、彼は呆然となった。いやいやそんなことがあるはずはないと頭を振って打ち消し、そうだと思い当たった。彼女の勤務先に電話をすればいいのだ。派遣先でコロナに罹ったのなら、当然派遣事業所の方に連絡があるはず。何でこんな簡単なことに気づかなかったのか。確か週末同居を始めた頃に名刺をもらったはずと水屋の引き出しを探すと、色あせた十枚ほどの中にあった。不知火訪問看護ステーションとあり、その電話番号にかけてみた。
 しかしそこは七十歳定年制で今は在職していないということだった。どこに移ったのかと聞いても、分からないと返ってきた。勤務先を替えたとは今まで聞いたことがない。これで本当に手がかりがなくなってしまったと彼は肩を落とした。コロナなのだからどこかの病院に入院して手厚い看護を受けているに違いないと思うしかなかった。そのうちすっかり元気になって電話をかけてくるはず、あいつはそういう女だと自身を納得させた。俺はその連絡を待てばいい、そう思うと少し気が楽になった。
 しかしそんな気持ちも長くは続かず、次第に悶々としてきた。大丈夫かというLINEが未読のまま、彼は、とにかく連絡をくれと打ち込んだが、それも既読にならず、たまにかかってくる電話に、来たと思って出ると非通知で、構わずタップをし、ミネ子かと叫ぶと、プツンと切れるということもあった。やはり探さなくてはという気持ちにはなったが、どうしていいのか分からない。もう一度、保健所に電話してみようかと思ったとき、ミネ子は今まで訪問看護師をしていたのは確かなのだから、どこかの事業所に在籍しているに違いないことに気づいた。こうなったらこの辺りにある事業所に片っ端から当たってみるほかないと彼は覚悟を決めた。スマホの検索画面に、訪問看護と声で入れ、タップすると一番上に地図と共にずらりと事業所の名前が出てきた。最初の事業所に電話をする。いない。次の事業所にもいない。次第に疲れてき、検索に引っかからないところに勤めているかもと思い始めた十一件目だった。
 つかぬことをお伺いしますが、そちらに新川ミネ子という方がおられないでしょうか。
 新川さんですか。
 はい。
 所長という声が聞こえ、すぐに保留音のメロディーに切り替わった。今までと違う対応に急に動悸がしてくる。しばらく待ってもなかなか切り替わらない。ゆったりとした曲調の奥で鼓動が響いている。突然メロディーが途切れた。
 お電話替わりました。わたくし、所長の木村と申します。新川さんのことで何かお尋ねだとか。
 男の低い声だった。
 そうです。新川ミネ子さんがそちらにお勤めかどうか知りたくて。
 失礼ですが、新川さんとはどういうご関係でしょうか。
 彼は一瞬言葉に詰まってから、
 長年の友人です。いくら電話をしても出ないので心配になって。
 そうですか。……ご存じなかったんですね。新川さんはコロナで亡くなられました。一週間ほど前のことですね。容体が急変したらしくって。
 電話の声が急に遠くに感じられる。
 もしもし、聞こえてますか。
 聞こえてます。
 大丈夫ですか。
 ありがとうございました。
 彼は電話を切った。そのまま畳の上に仰向けになる。亡くなられましたという男の声が耳に残っているのに、それが現実の声だったという実感がない。本当だろうかという気がしてくる。新川という名前の別の人間と間違えているのではないか。残りの事業所に電話をしたらどこかに本当の新川ミネ子がいるのではないかと思ったが、彼はスマホを放り出したまま天井に目を向けていた。天井の染みの向こうにミネ子の姿が次々と流れていったが、それがどの時のものか分からないまま流れるに任せるばかりだった。どのくらいそうしていただろう、彼は急に起き上がると、外出するために服を着替え始めた。実際にミネ子の勤めていた事業所に出向いて詳しく話を聞かなければならないと思ったからだった。マスクをし、ウォーキングシューズを履き、スマホがジャンパーのポケットにあることを確かめてから部屋を出た。国道のところでタクシーを捕まえ、スマホの画面を見せる。運転手は、ドーム訪問看護ステーションね、はいと言って車を発進させた。この前タクシーに乗ったときにはミネ子は既に死んでいたのか。それならどうして俺のところに連絡がなかったのか。連絡先として俺の電話番号を伝えておかなかったのか。自分でもまさか死ぬとは思っていなかったのか。分からないことだらけだった。お客さん、着きましたよという声で顔を上げた。降りるとビルの目の前で、一階上部の壁面にドーム訪問看護ステーションという大きな看板がかかっていた。こんなところで働いていたのかと彼は事業所の構えを見やり、ガラス窓から中を覗いた。しかし足が動かなかった。ここに入ればミネ子が死んだことがはっきりしてしまう。このまま引き返そうかと何度も逡巡してから、意を決してガラスドアの前に立った。ドアが開くと、中にいたすべてのマスクの顔がこちらを向いた、机の前に坐っている者も立っている者も。誰もが淡いピンク色のポロシャツを着ている。そういえばミネ子も同じポロシャツを着ていたことを思い出した。アクリル板で遮蔽されたカウンターの前に立つと、すぐ前の机のところにいた若い女性が立ち上がった。お申し込みですかと言って目で笑いかけてくる。
 さきほど、新川ミネ子のことで電話した者ですが。
 ああ。
 女性が後ろを振り返る。奥にいた男性が椅子から立ち上がり、近づいてきた。
 どういったご用件でしょうか。
 もっと詳しいことをお伺いしたくて。
 詳しいことと言われても、電話でお話しした以上のことはこちらでも分からないんですが。
 ミネ子はいつからここで働いていたんでしょうか。
 男の目が急に険しくなった。
 失礼ですが、お宅様は新川さんのどういうご友人でいらっしゃいますか。
 彼は言葉に詰まった。本当のことを言って分かってもらえるか、いや、こうして聞かれるということはミネ子は俺のことは何も言っていなかったということだ、そうならばミネ子のためにもそうしておいた方がいいのでは、と考えが頭の中を駆け巡る。
 ……長年シュノーケリングであちこち一緒に行っていた者です。今年はコロナでどうしようかと相談するつもりだったんです。
 とっさに嘘が口からついて出た。男の目がまた柔和なものに戻った。
 ああ、シュノーケリングをね。
 背後に見える若い女性もうなずいている。
 新川さん、シュノーケリングが好きだったですものね。年に一回はどこかに行っていて。そうですか、いつもご一緒だったんですか。
 はい。それで今年の予定を決めるために電話したら、全然出なくって。
 いや、それはご心配だったでしょう。私どももあまりにも急なことで、戸惑っているんです。新川さんが受け持った患者さんがコロナになって新川さんにもPCR検査を受けてもらったんですよ。そうしたら陰性だったのでこちらも安心していたんですが、三日ほどして発熱されて、それからあっという間に。
 どこに入院したんですか。
 第一病院ですね。身内に連絡したいので分かるかどうかという問い合わせがあって。その時はもう危篤だったと思いますね。こちらに緊急連絡先がありましたのでお伝えしましたが。
 その連絡先、教えてもらうわけにはいきませんか。せめて墓参りでも行きたいので。
 いや、それはちょっと無理ですね。
 そうですか。だめですか。
 男の目を見ると、眉根を寄せて視線をわずかにそらせた。
 ……甥御さんということだけはお伝えしておきます。後は、保健所かどこかでお聞きになったら。
 ミネ子に甥がいたとは初耳だった。兄弟がいるということも聞いたことがなかった。
 あの時、とっさにシュノーケリングの仲間だと言ったのはなぜだったのかと宗吉はミネ子のいた市営団地に向かいながら考える。ミネ子の身近にいたことを示したいという気持ちだったのは確かだが、それならどうして本当のことを言わなかったのかと今更ながら忸怩(じくじ)たる思いに駆られる。本当のことを言っておれば、あの所長も甥の連絡先を教えてくれたんじゃないかという気がする。そうしたら甥のところに行ってミネ子の骨をもらい、彼女の望み通り遺灰をあの海に撒けたのだ。
 ミネ子と沖縄の慶良間に行ったのは、いつのことだったのだろう。週末同居を始めてすぐではない。子供のころ川で溺れたことがあって、水に対して恐怖のある宗吉は彼女の誘いを断っていたから。母親が死んでシルバー人材センターに登録し、地下鉄の駅の清掃業務に就いていたので、まとまった休みが取れないとか沖縄旅行のお金がないとかも理由になった。彼女はお金なら私が出してあげるからと言ったが、それは男の矜持が許さず、結局行ったのは、六十五歳で仕事を辞め、次の仕事を見つけるまでの間だったはずだ。
 どうだった。やってみれば簡単だったでしょ。
 ミネ子がビーチチェアに寝そべりながら、サングラスをかけた顔をこちらに向ける。ビーチパラソルに太陽の光が遮られているのに白い砂浜からの反射光のせいか、彼女の顔が輝いて見える。
 何だか疲れたな。
 初めてだから体に力が入っていたからよ。慣れてきたら楽になるわ。
 横に並んだチェアで仰向けになりながら宗吉は心地よい疲れを感じていた。いや、心地いいと感じるのは恐い時間が過ぎ去ってほっとしたからかもしれない。腰の辺りまで海に入り、彼女がシュノーケルの使い方を教えてくれた時から、自分には無理ではないかと思い始めた。水中に顔をつけてシュノーケルで呼吸をするのが苦しく感じられるのだ。慣れたら大丈夫だからと彼女が言い、もし水が入ってきた場合息を強く吹いて水を吐き出すシュノーケルクリアも教えてくれる。それでも不安が拭えない。苦しいと感じたら体を起こして口で呼吸すればいいのよと言うが、体を起こすという意味が分からない。最初はライフジャケットをつけてやるから絶対に沈まないからと言われ、橙色のそれに腕を通し、黒いフィンと水中マスクをつけ、シュノーケルを口にくわえる。その姿で海面に横になった。言われたとおりゆっくりと呼吸することを意識すると、次第に動悸が収まってきた。その時初めて、水の透明度に驚いたのだった。陽光が水面の波紋を白い砂に映し、それがゆらゆらと揺れている。砂の凹凸がはっきりと分かり、空中に漂っているようだった。フィンを動かしてみてというミネ子の声が聞こえる。彼がフィンを蹴ると、膝を曲げないで太腿の根元から動かすようにしてと言う。それを意識すると、そうそうその調子という声。私についてきてと言われ、彼女の長くて黒いフィンの後を追っていくと、黒みを帯びたサンゴの塊が見えてきて、何人もの男女がシュノーケルをくわえて潜っている。光が揺れる中、サンゴの周りには小魚が群れ、人の動きに合わせて枝状になったサンゴに隠れたり現れたりを繰り返している。ミネ子も上半身を直角に曲げて水中に没すると、フィンをゆっくり動かしてサンゴに近づいていく。青いセパレートの水着からわずかに白い腹が見えている。他の女性たちは花柄や白のビキニで、これならミネ子もビキニでよかったような気がした。彼女の水着を最初に見たとき、腹を見せるのは大胆だと思い、そのことを口にすると、そお、と彼女は不満な口をしたのだが、海の中ではもっと肌を出した方が自然の中に溶け込んでいるような感じがする。もっとも彼はトランクスのような海水パンツに、急に日焼けしないように長袖のTシャツを着て膨らんだ腹を隠していたのだが。
 次はライフジャケットを脱いでやる?
 ミネ子がサングラスを頭の上にあげながら言う。
 いや、それは遠慮しておこう。
 ライフジャケットを脱げば、水中に潜れるわよ。
 とんでもないと彼は首を振った。上から見ているだけで充分だから。透明度がいいし。
 そうでしょう。これが本当の海よ。
 海から吹く風が心地よく、ビーチチェアに寝そべっていると眠ってしまいそうだった。
 私ね、死んだらこの海に遺灰を撒いて欲しいのよね。
 散骨か。
 そう。あなた、やってくれる?
 平均寿命を考えたら、先に死ぬのは俺なんだけど。
 だから私が先に死んだらって話よ。
 分かった。
 あの時、安請け合いしたのは、もちろん彼女が先に死ぬとは思っていなかったからだと彼は交差点の赤信号で立ち止まりながら考える。保健所にも市役所にもミネ子の遺骨の行き先を尋ねたが、彼女に関する情報は一切教えてもらえなかった。まるでそんな人間など元からいないも同然だった。ましてや彼女の甥のことを聞く糸口もなかった。もう一度あの訪問看護ステーションに行って、甥の連絡先を尋ねてみようかと思いながら逡巡していたとき、彼女の使っていたヘアーブラシがあることを思い出した。風呂場の横の洗面所に残っていたそれを手に取ると、髪の毛が絡まっている。鼻を近づけると、微かに匂いがする。ミネ子の髪はこんな匂いがしたのかと記憶をたぐり寄せながら、しばらく嗅いでいた。そうしてから、絡まった髪の毛を指で抜き始めたが、全部は抜かずに半分ほど残し、取った髪の毛をティッシュぺーパーで包んだ。コロナが終息したらあの島に行って遺灰の代わりに髪の毛を撒くつもりで、その包みを水屋の引き出しに仕舞った。
 ミネ子と一緒にシュノーケルに行ったのは、あの時一回だけだった。それで充分だと思ったのだ。ビーチチェアに寝そべって、若い男女のグループがバレーボールをしている声を聞いていると、四十年遅かったなという気がしてきた。二十代ならまだ水への恐怖よりも楽しさが上回ってシュノーケルにはまっていたかも知れない。腹も出ておらず、水着になっても若さゆえの自信があって、臆せずにいられただろう。ミネ子はそれから何度か誘ってきたが、俺が一緒なら充分楽しめないだろうと断り、土産話を聞くだけで俺は楽しいからと彼女を送り出した。六十代最後の記念として彼女は御蔵島のイルカツアーを申し込み、なるべく肌を露出した方がイルカが近寄ってくるんだってと言って人生初めてのビキニに挑戦した。彼女の部屋で黒いビキニ姿を披露してくれたが、腹のたるみや尻の肉の落ち具合は年相応のものだった。それでも彼はミネ子がぐっと若返った気がした。しかしそのことは口にせず、海に入るまではヨットパーカーで体を隠しておいた方がいいんじゃないかと言ってしまった。
 そんなこと、言われなくても分かっているわよ。
 彼女が淋しそうな顔をした。
 どうしてあの時、あんなことを言ったのか。素直に思ったことを言えばよかったと今更ながら彼は後悔する。ツアーから帰ってきて彼女が興奮気味に、イルカと三十センチもないくらいの距離で目が合ったとか子供のイルカがずっと私と併走して泳いでくれたとか話してくれ、ガイドの撮った動画もテレビにつないで見せてくれた。水中をイルカと戯れるように泳ぐビキニ姿のミネ子は生き生きとしていて、とても七十前には見えなかった。その横に一緒に泳ぐ自分の姿を想像してみて、彼は笑った。どうみても釣り合わない。
 何がおかしいの。
 いや、と彼は慌てた。あんまり楽しそうだから。
 どう。今度一緒に行く?
 彼は苦笑いをしながら首を振った。
 国道の先に私鉄の高架橋が見えてきて、彼は次の交差点を左に曲がった。市営団地の建物が一戸建ての家々の屋根の向こうに見える。そこで足を止めた。ミネ子が死んだと聞かされてからも、ひょっとしたらという思いで週末同居の約束通り、二週間に一回、彼女の部屋を訪れた。厚紙に書かれた新川という文字を確認し、インターホンのボタンを押す。耳を澄ませても中でチャイムが鳴っているのかどうか分からない。それで遠慮がちにドアを叩き、しばらく待ってその場を離れる。何回目だっただろうか、かなり暑い日だったので七月に入っていただろう。厚紙の表札がなくなっており、それを入れる枠だけになっていた。あっと思い、恐る恐るインターホンのボタンを押した。ドアを叩いても反応はなく、彼は右隣の角部屋の前に行き、表札の下のボタンを押した。はいという女性の声が聞こえてくる。
 お隣の新川さん、引っ越しされたんでしょうか。
 新川さん、コロナで亡くなったって聞きましたけど。
 やっぱりそうなんですか。
 十日ほど前に業者の人が来て、片付けていきましたよ。
 業者の他に誰か身内の人が来てませんでしたか。
 さあ、別に挨拶したわけじゃないので。
 新川さんの甥御さんが遺骨を引き取ったと聞いたんですが。
 そうなんですか。
 相手は明らかに興味のなさそうな口ぶりだった。
 それ以後、彼はこの辺りに来たことはなかった。
 五階建ての建物がいくつか平行に並んでおり、彼はいつものように手前の建物から三番目と四番目の間にある通路に入った。昼下がりのせいか、人が見当たらない。エレベーターで五階まで行き、外廊下を右に曲がってゆっくり歩き出したとき、奥の方の部屋から人が出てくるのが見えた。角部屋の一つ手前、五一三号室だ。髪が肩まである。彼はどきりとして立ち止まった。ジャージを着た背格好はミネ子と同じだ。彼は固まったまま動けなかった。女性が鍵をかけ、こちらを向く。遠くて顔がはっきりしない。しかし女性が歩き出してすぐにミネ子ではないと分かった。膝を伸ばして早足で歩く姿は明らかに若い人だった。果たして灰色のマスクをした女性は目の周りに幼さを残した顔をしており、彼の顔にちらっと目をやってから、エレベーターの踊り場に入っていった。彼は外廊下を歩いて行き、五一三号室の前に立った。表札はTAKADAになっていた。
 帰り、彼はバスには乗らずに歩くことにした。膝に痛みはあるのだが、むしろ今は痛みを感じていたかった。その痛みを感じることがミネ子を忘れないことにつながるような気がした。彼女の痕跡が消えてしまったことを何とか否定したかった。彼は痛みを押して歩き続けたが、さすがに公園のところまで戻ってきたところで耐えきれなくなり、池の畔まで行ってベンチに腰を下ろした。右膝に手をやるとかなり熱を持っているのが分かった。指で軽く揉む。しばらく続けていると痛みがましになってきて彼は一息ついた。すぐに立ち上がらずに目を閉じる。あの部屋にはもう別の人間が暮らしているのだ。そう思うと、ミネ子の死が急に目の前にあるように感じられた。
 ミネ子の部屋に初めて入ったとき、自分の部屋と比べてずいぶん明るく感じた。壁紙が白いというだけではなく、物があまり置いていなくてさっぱりとしているせいだった。奥の和室の壁には海辺の大きな写真が飾ってあり、ビーチパラソルが二列に並ぶ砂浜とスカイブルーから群青へと色の変わる海、白い雲が写っている。どこだろうと目を近づけていると、海、好きなの? とミネ子が聞く。
 いや、あんまり。子供の頃、海水浴で溺れたことがあって。 
 それは残念。
 彼女があまりにもがっかりとした顔をするので、でも砂浜に寝転がるのは好きなんだよなと付け加えた。
 私は断然海が好きなのよ。シュノーケルって知ってる?
 彼が首を振ると、彼女は押し入れからメッシュになったバッグを引っ張り出し、その中のフィンや水中マスク、息をするためのシュノーケルを見せてくれた。さらにそれらを装着して、畳の上で実演してくれた。その子供のようなはしゃぎようを見て、これならうまくいきそうな予感を抱いた。
 彼女の部屋では毎回手料理を出してくれ、誰かのために料理を作るのは楽しいと言うので、彼も挑戦した。
 これ、ちょっとしょっぱいけど、ビールに合うわ。
 ミネ子に言われて、彼は作ったばかりの牛肉野菜炒めのキャベツを箸でつまんで口に入れた。ちょっとどころかかなり塩辛い。やり直すわと言って彼女の皿を取ろうとすると、ビールが進むからいいわよと制された。
 いや、そうはいかん。
 やり直したらべちゃべちゃになるわよ。
 だったらキャベツを切ってそのまま炒めて混ぜるから。
 彼は冷蔵庫から半玉のキャベツを取り出し、ざくざくと切り、フライパンで炒めようとした。
 その前に三十秒ほどチンした方が早いわよ。
 その言葉に従って電子レンジで加熱してからキャベツを炒め、二つの皿の野菜炒めを足して混ぜ合わせ、皿に盛り直した。
 うん、ましになったと彼女は言ったが、彼には大して変わっていないように感じた。
 初めてにしては上出来。
 そう言われても納得できない。やはり出来合いの惣菜を買ってきた方がよかったかと彼は後悔した。それから彼はテレビの料理番組を見て自分にも作れそうなものが出てきたときにはそのレシピを書きとめ、彼女が来たときにそれを作った。失敗することもあって、そんなときは彼女のアドバイスを受け、レシピの紙にコツを書き加えたりした。溜まったレシピをクリアファイルにまとめたらと言ってくれたのも彼女だった。宗ちゃんの料理帳と彼女は呼んだ。
 スーパーの出来合いの惣菜ばかりではなく、久しぶりに作ってみようかと彼は考える。
 ミネ子がハンガーラックを通信販売で取り寄せてくれたのはいつ頃のことだっただろうか。お互いの生活のことには口を出さないという暗黙の了解があのハンガーラックから崩れた気がしている。最初のうちこそ彼女が来る前に部屋をきちんと片付けていたが、そのうち面倒くさくなってゴミなどの目立つところだけきれいにするようになった。服は仕舞いようがないので大きな籠に入れっぱなしにしていた。そんなある日、宅配が届き、注文した覚えのない宗吉は間違いであると突っ返そうとした。しかし伝票を見ると、確かに自分の名前になっている。品名を確認するとハンガーラックとあり、すぐにミネ子が注文したことに気づいた。週末、彼女がやってきたときに、ハンガーラック、買っただろうと玄関脇に置いておいた荷物を指さした。
 まだ、組み立ててないの?
 何かの間違いかもしれないし、あんたに確認してからでないと開けられないだろう。
 そりゃそうか。
 彼女は靴を脱いで部屋に上がると、じゃあ、早速組み立ててよと言う。余計なことをされて気分がよくなかったが、そのことを告げると週末が台無しになると考えて、彼は何も言わず、荷物を奥の部屋に運んだ。カッターナイフでPPバンドと梱包テープを切り、ステンレスのパイプとかプラスチックの台座、ボルトとレンチの入ったビニール袋などを取り出した。彼が説明書の図を見ながら、こうかなとパイプの組み合わせを考えていると、そうじゃなくってこうじゃないと横からミネ子が指図をする。何度も言われて彼はレンチを投げ出した。
 だったら、あんたがやればいい。俺が買ったわけじゃないんだから。
 何言ってんの。自分で組み立てるから愛着が湧くんじゃない。私が組み立てた物を使って、あなた、楽しいの?
 楽しい。
 変な人。
 それでも彼女は自分でやろうとはしない。彼は仕方なくもう一度レンチを取り、時間がかかったが何とか組み立てた。籠にあふれている服をすべてハンガーラックにかけると、確かにすっきりとした。積み重なった服を探って着たい服を見つける必要もなくなった。
 どう。買ってよかったでしょ。
 まあな。
 彼は代金を払おうとしたが、そんなの、いいわよと彼女が答える。
 ただでもらう理由がない。
 だったら、プレゼント。
 何のプレゼント?
 うーん、週末同居のお祝い。
 週末同居を決めてから、三ヵ月以上も経っている。首を捻っていると、
 だったら誕生日プレゼント。
 俺の誕生日は半年も先だぜ。
 いいじゃないの、一年に一回は必ず来るんだから。
 なるほどそりゃそうかと彼は妙に納得してしまった。彼女の誕生日の方が彼より先に来て、彼は何かをプレゼントしようかと考えたが、今まで一度もそんなことをしたことがなかったので、彼女に何が欲しいかと聞いてみた。彼女は笑って手を振った。
 そんなこと、いいって。
 そうはいかない。
 彼女は、そうね、だったら……と首をかしげ、
 ランチをおごって。
 え?
 形のある物を考えていた彼は意外に思ったが、それならそんなに悩む必要はない。それから年二回、お互いの誕生日に、ちょっと豪華なランチを外で食べることになった。

 宗ちゃん。
 突然声が聞こえた。顔を上げると目の前にミネ子が立っていた。衿が黒い、ピンクのポロシャツを着て、手にレジ袋を提げている。
 何だ、生きていたのか。
 生きていますとも。宗ちゃんの死に水を取るって約束したでしょ。
 彼女の顔に何か違和感があると思ったら、マスクをしていないのだった。宗吉はジャンパーのポケットに手を突っ込み、マスクの入った袋を取り出した。
 何か落ちたわよ。
 彼女の指さした先に目をやると、ベンチに小さくてオレンジ色のものが落ちていた。指でつまみ上げると、金木犀の花びらだった。
 これ。
 彼が差し出す。金木犀ね、と言ってそれを受け取ると、彼女は鼻に当てた。
 いい匂い。
 彼はゆっくりとベンチから立ち上がり、手に持ったポリエチレンの袋からマスクを一枚取り出した。
 ほら、これ。
 そんなもの、いらないわよ。
 みんなしてるが。
 ここは外だし、周りに人がいないんだからしなくてもいいわよ。宗ちゃんも外しなさい。
 確かにそうかもと思って、彼はマスクを外した。口の周りがすっきりする。
 さあ、今晩は私が作ってあげる。
 そう言ってミネ子はレジ袋を差し上げた。
 何を。
 それはできあがってからのお楽しみ。
 今日は土曜日だったかと宗吉は思ったが、曜日の感覚がなく、そういうことにしておこうと心の中でつぶやいた。池に沿った小道を公園の出口に向かう。風がなく水面は鏡のように陽光を映し、人の姿はどこにも見当たらない。
 突然、ミネ子が立ち止まった。顔を少し上げて左右に動かしたかと思うと、金木犀だわ、と言った。
 宗吉も鼻をひくひくさせてみたが、何の匂いも感じない。
 こっち、こっち。
 ミネ子が出口とは反対方向の小道を行く。宗吉はゆっくりと彼女の後を追う。
 視線の先に、オレンジ色の花の群れが見えてきた。ミネ子が立ち止まり、鼻先を花に近づけている。宗吉の鼻にもようやく匂いが届いた。ミネ子の横に並ぶ。
 いい匂い。
 宗吉もミネ子の真似をして鼻を近づけた。匂いがさらに強くなった。
 二人同時に花弁から鼻を離し、金木犀を少し見上げる恰好になった。ミネ子が手を握ってくる。宗吉が握り返すと、ミネ子が微笑んだ。 

 

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