一
二学期、最初のホームルームで担任が「皆さんにお知らせがあります」と言い、もったいをつけるように間を空けた。
「実は、毎朝新聞のワークショップに応募して、我がクラスがそれに選ばれました。どういう内容かと言うと……」
A賞を受賞した静原(しずはら)麻里による「物語を作ってみよう」という講座で、一回目は物語はどういう形になっているのかという講義とクラスのグループ分け。グループごとに一つの話を書き、二回目は書き上がった作品を読んで、皆で批評し合う、という。
中学二年生の翔太は、最初おっと思ったが、グループで書くと聞いて、えっと思わず声に出してしまった。そんなことをしたら、平凡なつまらない作品になるか、支離滅裂な読むにたえない作品になるかのどちらかだと直感したからだった。しかしまあ、と翔太は考える。一人一作品にしたら当然書けない生徒が出てくるし、たとえ全員が書けたとしても三十人分の作品を読んで批評するなんてできそうもない。新聞の記事にするにはグループ分けが妥当なのだろう。
翔太は一年前からネットの小説投稿サイトのアカウントを取り、ペンネームでファンタジーやSFを書いている。そのことはクラスの誰にも言っていない。顔見知りの批評など、百害あって一利なしだと思っているからだ。サイト内の他の作者の作品を読んでイイネを押したり、ちょっとした感想をコメントしたりして、いわゆる営業活動した結果、自分の作品も読んでもらえるようになった。ネットで全く知らない他人からイイネをもらったり、好意的なコメントがあるとガッツポーズをし、否定的な意見には夜寝られないくらい落ち込む。しかしその落差が何ともいえず快感であり、こちらを慮っての発言などいらないのだ。
だからと翔太は思う。一人一作なら今まで書いた作品を出してもいいが、グループ制作なら、出しゃばらず適当にお茶を濁しておこう。
九月終わりに、その日がやってきた。新聞記者二人と共に現れた静原麻里はA賞受賞のオーラも感じられず、しょぼい感じだった。年齢は二十九歳ということだが、十歳ほど上に見える。甲高い声でテンションを上げているが、無理して明るく振る舞おうとしているのが透けて見える。翔太は、事前に受賞作を読んでおこうかと本屋でちらちらとページをめくったが、女の一人語りがえんえんと続く内容に嫌気がさして放棄してしまった。だから彼女の話に興味が湧かず、ファンタジーを書いていたときは人物のキャラクター作りに苦労したという言葉が印象に残ったくらいだった。
グループ分けが始まった時、「小野寺翔太さんはどの子ですか」と彼女が呼びかけた。自分の名前がいきなり出てきたので翔太は驚いた。すぐに応えられない。
「おい、小野寺、呼ばれてるぞ」同級生の一人がにやにやした顔で肩をつついた。翔太は仕方なく手を上げた。彼女がつかつかと翔太のそばにやってくる。
「あなたのお祖父(じい)さんは小野寺龍造という方ですよね」 担任が余計なことを教えたに違いない。 「はい」翔太は気のない返事をした。
「すごい。私、小野寺先生の大ファンなんですよ。先生の作品を読んで、ファンタジーから転向したの。今の私があるのは先生のお陰なのよ。まさか先生のお孫さんにこんなところで会えるなんて思ってもみなかった。この仕事を引き受けてよかったわ」
「ああ、そうですか」
「あ、そうだ。翔太くん、お話を書いたことがある? 先生の遺伝子を受け継いでいるんだから書いたことあるでしょう。だったら、翔太くんだけグループ制作ではなく、一人で書いてくれないかなあ。私、それを是非読みたいんだけど……」
こちらの返事も聞かず、勝手に盛り上がっている彼女を冷ややかに見ながら、「お話なんて書いたことがありません」と翔太は嘘をついた。
「だったら今回挑戦してみて。先生のお孫さんだもの、絶対いいものが書けるわよ。どう?」
「先生、ハードルを上げないでください。ぼくは皆と一緒に作りますから」 「どうしても駄目?」 「はい」
彼女は諦めきれない表情をしていたが、仕方ないわねと教壇に戻っていった。
翔太の入ったグループでは、彼の祖父が小説家であることで盛り上がってしまった。秘密にしていたことがバレてしまい、今後そのことで揶揄されたり、皮肉を言われたりするなと思うと、翔太はうんざりした。誰も小野寺龍造という名前を知らず、どんな小説を書いてるのという質問に、少なくとも中高生向きの作品はないと答え、でも全集が出てるよと祖父を持ち上げてみた。ウィキペディアの受け売りである。家の本棚にも学校の図書室にも祖父の作品はなかったので、翔太自身も読んだことがない。都心の大型書店でたまたま見つけて手に取ったことはあるが、身の回りの細々とした事柄が漢字の多い硬い文章で綴られていて、ファンタジーやSFのようにすらすら読めないので、早々に棚に戻してしまったのだ。
「お父さんも小説家?」 「ただの公務員」 「ということは隔世遺伝して、翔太に才能が受け継がれているかも……」
翔太以外の四人はお話作りなどという面倒なことをしたくない連中ばかりで、翔太に押しつけようとする。それはグループ制作の趣旨に反すると抗弁しても、お前には才能があるだろうと肩を叩かれ、結局翔太が一人で書くことになってしまった。
二週間後に原稿用紙十枚程度の作品を提出しなければならない。ネタのストックはいくつかあるが、気が乗らないのでネットに載せた作品を出すつもりだった。ただ、十枚くらいでイイネをたくさんもらった作品はない。名目上はグループ制作なのだから、たとえ出来の悪い作品であっても俺には責任がない、と言いたいところだったが、あの講師の作家はそうは見ないだろう。小野寺龍造の孫がこんな作品を、と思うだろう。
自分が一人で書く羽目になったのは、おじいちゃんにも責任の一端があるはずだと考えた翔太は、夕食の席で、「今度の土曜か日曜におじいちゃんのところに行ってもいい?」と父親の隆に聞いてみた。
「突然何だ」
翔太はワークショップの授業のことを説明し、自分が一人で書かなければならなくなったから、おじいちゃんに作品の出来を見てもらいたいと答えた。
「わざわざそんなことをする必要はない。ただの授業なんだから、作品の出来、不出来なんか関係ないだろう」
「でも、ぼくが書いた作品がマズければ、おじいちゃんの評価も下がると思うけど……」 ふんと隆は鼻で笑った。
「そんなことで下がるんだったら、とうに下がってるさ」
「いいじゃないの」と母親の景子が口を挟んだ。「お父さまも翔太が来てくれたらうれしいんだから、私たちの代わりにご機嫌伺いに行ってくれると思ったら」
「それは皮肉のつもりか」 「そう聞こえたらごめんなさい。私は事実を言っているつもりですけど」 「……わかった。行ってこい」
隆は味噌汁を一口飲むと、 「それで作品はもう書けたのか」 「まだ」 「土曜まであと三日しかないぞ」
「間に合わなければ日曜にする」 「どちらにしても、電話してから行けよ」 「分かった」
夕食をすませると、翔太は早速龍造のところに電話をかけた。出たのは秘書の女性で、龍造につないでくれた。声とかしゃべり方が正月の時とは違っているようなと思っているうちに「どうした、翔太」と龍造の低い声が聞こえてきた。
「おじいちゃん、ぼくの小説を読んでよ。今度学校で小説を書く授業があって……」と翔太は事情を説明した。
「ふーん、面白いことをするな。子供に小説なんか書かせても仕方がないんだが、まあ、読み手を増やすという意味なら分からんでもない。わしの孫がどんなものを書くのか、お手並み拝見といこうか。お前の父親はさっぱりだったからな」
出ました、おじいちゃんの口癖。翔太は笑いをかみ殺した。 「ただし、わしの批評は厳しいぞ。覚悟して来い」
土曜日の午後、母親に持たされた蜂蜜プリンを手に、翔太は横須賀線に乗って鎌倉まで行った。そこで江ノ島電鉄に乗り換える。小学生の頃からお年玉をもらいに一人で行っているから、慣れたものである。
龍造の家は鎌倉大仏から歩いて十五分くらいのところにある。築年数は優に八十年は超えている屋敷で、隆が生まれてすぐにここに移ってから、もう四十年になる。翔太は時代に取り残されている感のある外観を見やってから、入り口の格子戸を開け、飛び石伝いに玄関の前に立った。インターホンを押すと、電話の時と同じ声が聞こえ、しばらくして錠の開けられる音がした。
引き戸を開けて現れたのは思った通り正月の時とは違う女性だった。ずいぶん若い。髪の毛を後ろで縛り、卵形の顔の輪郭を見せている。綺麗な人で、翔太はちょっとどぎまぎしてしまった。
「翔太さんですね。ようこそいらっしゃいました。先生がお待ちです」
式台に並べられたスリッパを履き、黒いロングスカート姿の女性の後について行った。廊下の先に応接間があり、ドアのそばで秘書が、翔太さんがお見えになりましたと声をかけた。
「通しなさい」 翔太はノブを回してドアを開けた。 「おじいちゃん、こんにちは」 「よく来たな」
直前まで煙草を吸っていたのか匂いが漂っており、ガラステーブルの上の灰皿には押しつぶされた吸い殻があった。着物姿の龍造の向かいに腰を下ろす。
「これ、お母さんから」 翔太は手に持った紙袋をテーブルに置いた。 「蜂蜜プリンだな」 「当たり」
龍造が千秋さんとドアに向かって呼びかけると、すぐに秘書が入って来た。 「頂き物をすぐに出しなさい。私はコーヒー、翔太もそれでいいな」
「うん」 千秋が紙袋を持って出ていくのを見届けてから「秘書の人、替わったね」と言ってみた。 「よく気がついたな」
全然違う人なんだもの、当たり前でしょと言いたかったが、それは口に出さず「綺麗な人だね」とだけ言った。 「気にいったか」龍造はにやりとした。
「うん」 「正直でよろしい」 前の人はどうしたのと聞く代わりに「いつから」と聞いてみた。 「うーん、春からかな」
前の人も美人だったが、今度の人は冷たい感じがなくて優しそうな雰囲気がある。 「おじいちゃん、もてもてだね」
「年寄りをからかうもんじゃない」
そう言いながらも、龍造はまんざらでもない顔をした。龍造が愛人を秘書兼家政婦として雇い入れているという話は、いつだったか立ち聞きした両親のひそひそ話の断片から翔太も知っていた。どこまで事実かは分からない。その時の隆の口調は苦々しいものだったが、翔太は、小説家っておじいちゃんみたいな歳になってもモテるものなのかなと驚いたのだった。
「いいから、作品を出しなさい」
翔太はリュックから透明ファイルを取り出し、挟んであったプリントを差し出した。それを手にした龍造は眉根を寄せて険しい顔をした。
「これ、最初からワープロで書いたのか」 「そうだよ」 「バカモン!」 いきなり怒鳴られて翔太はびっくりした。
「手で書きなさい、手で。小説は手で書くもんだ」 おじいちゃんの若い頃は手で書くしかなかっただけでしょと言いたかったが、黙っていた。
「どうした、不満そうな顔をして」 「読む時はみんな活字の状態で読むんだから、最初から活字のワープロでいいと思うけど……」
「それが浅はかというものだ。手を動かすということが思ってもない閃きを生むのだ。ワープロよりも書くのに時間がかかる分、だらだらとした文章にならず、きりっと締まった文章が生まれるのだ」
ワープロでもキーを打つという手の動作をしていると反論してもよかったが、面倒くさいので、そのつもりはないのに、
「分かりました。おじいちゃんの言う通り、これから手で書きます」と宣言した。 「よしよし」龍造は大きくうなずいた。
老眼鏡をかけた龍造が翔太の作品を読んでいると、千秋が盆を手に入ってきた。ローテーブルの上に、プリンの入ったガラス容器と受け皿に載ったコーヒーを置き、出て行こうとしたが、
「千秋さん、あなたもここに座って、この作品を読みなさい」と龍造が呼び止めた。千秋はえっという顔をしたが、すぐに口元に笑みを浮かべ、龍造の隣に腰を下ろした。読むのはおじいちゃんだけにしてほしいのにと翔太は心の中で反対したが、口には出せない。おじいちゃんにぼろくそに言われても年寄りには分からないと逃げられるけど、こんな若い綺麗な人に言われたらマジこたえる。
龍造の読んでいるのは投稿サイトに載せた十枚足らずの作品である。大親友が転校して、ある日引っ越し先に訪ねていくと、彼はそこでできた友達とすっかり仲良しになっており、主人公は失意のうちに帰ってくるという話で、ボーイズラブ的な匂いを入れているのがミソだと翔太は思っていた。
龍造は時々コーヒーを飲みながら表情を変えずに読み終わると、二度ほど前のページに戻って読んだあと、プリントを千秋に渡した。翔太もコーヒーカップに口をつけ上目遣いに千秋の顔を窺ったが、彼女も淡々と読んでいく。目の前で自分の作品が読まれるのが、こんなに居心地が悪いとは思ってもみなかった。どんな感想でもいいから、早く時間が過ぎてくれと思い、来るんじゃなかったと翔太は激しく後悔した。
千秋が読み終わると、「どうだった」と龍造が尋ねた。 「よかったです。初々しくて」
千秋の言葉にほっとすると同時にこそばゆい感じがしたが、子供に見られているのが悔しくもあった。
「やはり男の子なんだなと思いました。女の子だと相手の気持ちに気づいているから新しい友達を呼ばないのではないかと思います」
「わざと呼んだとは考えられないか。主人公の気持ちに気づいていて、それをさりげなく拒否するために」 「男の子はそんなに繊細じゃありませんよ」
「はは、嫌なら嫌とはっきり言うか」 「と思います」
龍造が笑顔のまま大きくうなずいた。二人の様子を見ていて、愛人というのは本当かもと翔太は思った。
「まあ、悪くはないが」と言いながら、龍造はプリントを翔太に返してくれた。
「書かれている内容はよくある話で新鮮味はない。わしなら、最後に主人公にマスターベーションをさせて終わるがな」 千秋が眉をひそめた。
「翔太さん、先生の言うことを聞いてはだめですよ」 「はい」 「翔太、やけに素直だな」
「だって、そんなことを書いたらクラスのみんながどん引きするもん」 「バカモン!」
翔太は首をすくめた。二度目なのでそんなにはどきりとしない。
「お前はクラスの人間を感心させようと思って書いているのか。クラスの人間に褒められたいのか」
ここで、違いますと言えば龍造の満足する答えになるとは分かっていたが、だったらどう思って書いているのかと問い返された場合、答えに窮してしまう。
「そう思って書いたらいけないの?」と質問で返してみた。
「いけないに決まっておる。小説を読ませる相手はたった一人、自分の中の読者しかおらん。自分が読んでどん引きしなければ、他人がどう思おうとそんなことはどうでもいいことなのだ。それに、たとえ自分がどん引きしても、それが作品にとってプラスに働くと思えば堂々と書けばいい。要するに、主人公の中に入り込んでその声を聞くことが大事なのだ。わしはその作品を読んで、主人公のマスターベーションをしたいという声が聞こえてきたぞ」
ほんとかなと翔太は思った。何かうまく言いくるめられているような気がする。その論理で言えば、おじいちゃんも他人なんだから、そんな意見を聞く必要がないということになるはず。しかしここで逆らうと、また、バカモンと怒鳴られるに違いない。
「分かりました。主人公の声がぼくにも聞こえるかどうか、もう一度じっくり読んでみます」 龍造はうんうんとうなずいてから、コーヒーを一口飲んだ。
「ところで翔太、その作品はお前が初めて書いた小説か」 嘘をつこうかどうか一瞬ためらってから、覚悟を決めて「いいえ」と答えた。
「やっぱりな。それでいつから書いているんだ」 「一年前から」 翔太は小説投稿サイトの話をした。
「ほう、今頃はそんなところがあるのか。時代だなあ。わしの若い頃は同人雑誌しか発表の場がなかったものだ。千秋さんは知っていたか」 「はい」
「あなたも投稿したことがあるのか」 「いいえ。覗いたことはありますが、投稿はしたことがありません」
「そのサイトからプロになった人もいるんだよ。イイネをたくさんもらった作品にプロの編集者が目をつけて、本にするんだって」
龍造の顔が急に険しくなった。 「もし編集者が本にしたいと言ってきたら、お前もそうするつもりか」
「当然だよ。そのために書いてるんだもの。ぼくはまだ本になるほど作品を書いていないけど」
「バカモン」今度の声は小さかった。「お前はまだ十四だろう。そんな年齢で本を出しても意味がない。お前のような年齢で書く小説はすべて習作だ。習作を本にしたらいかん」
「……だったら、何歳ならいいの」
「まあ、二十歳過ぎまで我慢しなさい。それまでは書くことよりも読むことの方がはるかに大事だ。名作をいっぱい読んで、自分の中の読者を育てなさい。それに、イイネをもらおうとして他人の目ばかりを気にするようになるのも駄目だ。書くのはいいが、それはすべて習作と思って書きなさい。イイネの数は気にしないこと」
「それなら書く張り合いがなくなってしまうんだけど」 「イイネの反対はないのか。ダメとか」
「先生」と千秋が口を挟んだ。「ダメとかあったら、人が集まりませんよ。みんなイイネを欲しがっているのですから」
「嘆かわしい。ダメがたくさん集まるのも逆にいい作品だというのが分からんのか」 「ダメばかりでいいの?」
「ダメがたくさん集まる作品には必ずイイネも集まるはずだ。それがいいのだ。イイネばかりの作品など読みたくもない」
人は年を取ると偏屈になるのかなと翔太は思った。自分が七十六の老人になった時、どんなことをしゃべっているのか想像しようとしたが、全くできなかった。横に座っている千秋という女性は祖父の言うことが分かっているのだろうか。年齢でいえば自分の方にはるかに近いはずなのに、にこやかにうなずいている。
龍造は、翔太の「何を読んだらいい」という質問に答えて、明治大正時代の文豪――夏目漱石や森鴎外、谷崎潤一郎、芥川龍之介の名前を挙げた。教科書で芥川の「トロッコ」くらいしか読んだことのない翔太は、様々な作品名を挙げて説明する龍造の話をほとんど聞いていなかった。
一段落したところで、
「分かった。ぼくはおじいちゃんの作品を読む。文豪の作品を読んで勉強したおじいちゃんの作品を読めば、一番手っ取り早いもん」
龍造ははっとした顔をし、それから苦笑をした。
「手っ取り早いなどという考え方は捨てなさい。小説修業に近道はない。わしの作品を読むより古今の名作を読んで、こつこつと習作を積み上げることだ。いいか翔太、楽しちゃいかんぞ」
「はい」
蜂蜜プリンが手つかずだったのでそれを食べてから、翔太は龍造の屋敷を辞した。作品に手を入れてくれるのではという当ては外れたが、悪くはないという評価だったので気分がよかった。最後にマスターベーションを入れろという意見はただちに却下した。
その晩、夕食の席につくと、 「おじいちゃま、どうだった。元気だった?」と景子が話しかけてきた。
「うん。元気だった。秘書の人が替わってたよ。すごい美人だった」 「えー、いつ替わったの」 「今年の春みたいなこと、言ってた」
「あなた」と景子は隆に顔を向けた。「そのこと、ご存じだったの?」
「俺が知るわけないだろう」隆はソースをかけすぎたエビフライを口に入れると、ご飯をかき込んだ。 「その秘書の人、何歳なの」
「聞いてないけど若かったよ。たぶん二十代前半」 「そんなに……。お父さま、どうしちゃったのかな。多恵子さんとこのままずっと行くと思ってたのに」
「いいじゃないか。親父の好きなようにさせておいたら。親父が倒れたとき、若い方が体力があっていいじゃないか」
「何言ってるの。多恵子さんなら面倒見てくれるかもしれないけど、新しい人なんかすぐに逃げだしちゃうわよ」
「その時は施設に入れたらいいだけだ。金はあるんだから。お前が面倒見ることはない」
「小野寺龍造を施設に入れたら、世間からバッシングされるのはあなたなのよ。それでもいいの?」 「甘んじて受けますよ。俺はちっともこたえないから」
「いいわね、あなたは強い人で。……ほんとに、多恵子さん、どうしちゃったのかな。お父さまとの間に何かあったのかしら。翔太、何か聞いてない」
翔太は首を振った。 「ところで翔太」と隆が口を開いた。「作品はどうだったんだ。親父にぼろくそに言われたか」
「ううん。悪くないって言われたよ」 「へぇー、珍しいこともあるもんだ」 「ねえ、お父さん、おじいちゃんの本、買ってよ」
「なぜそんなことを言う?」 「おじいちゃんとの話の流れで、本を読んでみるって言っちゃったから」
「読みたければ図書館に行け。学校の図書室にもあるだろう」 「図書室にはなかったよ。おじいちゃんの本て子供向きじゃないもんね」
「読んだことがあるのか」 「ううん。ネットに、男女の機微を赤裸々に描き、情痴小説と揶揄されることもある、って書いてあったから」
「翔太、やめなさい」と景子がにらんだ。「おじいちゃまの本はあなたが読むにはまだ早すぎます。大学生になってからにしなさい」
読むなと言われれば逆に読みたくなる。この前は文章に躓いたが、あれは立ち読みだったからで、図書館から借りれば無理をしてでも読むかもしれないと翔太は思った。
二
早朝、目が覚めた龍造は時計を見て五時であることを確認すると、横になったまま蒲団の上で手足を伸ばして揺らす、独自のぶらぶら体操をした。それがすむとゆっくりと起き上がり、部屋の隅の刀掛けにかけてある木刀を手に取って、寝間着姿のまま廊下に出た。雨戸を開ける。もうすぐ日の出なのだろう、晴天の空が明るんでいる。昼間はまだ残暑が残っているが、朝晩はようやく涼しくなってきている。
龍造は沓脱石のビーチサンダルに足を入れ、庭に下りた。モチノキの葉を揺らして流れてくる風が心地よい。両腕を袖から抜いて上半身裸になり、袖口を細帯に押し込んでから、龍造は木刀を振り上げた。毎朝百回、素振りをすることが彼の日課である。
さすがに後半になってくると、肩の筋肉が張り、木刀の重さがこたえてくる。それをハッという気合いで乗り切っていると、汗の噴き出てくるのが分かる。素振りを終え、縁側に腰を下ろすと同時に、「おはようございます」と言って千秋が盆を手に廊下をやってきた。盆にはガラスコップに半分ほどの水と、固く絞ったタオルが載っている。
千秋から渡されたコップの水を龍造は一息に飲んだ。千秋がタオルで彼の背中を拭いていき、それが終わると彼の手首をつかんで上げ、脇の下から二の腕へとタオルを動かしていく。両腕がすむと、タオルを受け取って龍造が胸と腹を拭う。拭き終わってタオルを千秋に返し、龍造は寝室に戻って普段着の着物に着替える。それから応接間に行き、ローテーブルに置いてある朝刊三紙を丹念に読む。龍造の情報源はほとんどが新聞であり、小説のネタを記事からいただいたこともある。五十年来の習慣は変えられそうもない。
七時になって、朝食の用意ができましたからと千秋が呼びに来た。ソファーから立ち上がり、台所へ向かう。
テーブルの上には味噌汁、焼き干物、お新香、納豆、そして千秋が来てから加えられたヨーグルトが載っている。椅子に腰を下ろすと、龍造は着物の袖をまくり上げて右腕をテーブルに載せた。千秋が血圧計のカフを上腕に巻いてボタンを押す。血圧測定も日課である。上が138、下が87。それがすむと彼女が炊きたてのご飯をよそった椀を置いてくれ、向かい合って、いただきますと両手を合わせてから、食べ始めた。
味噌汁を一口飲んでから、「披露宴は次の日曜だったかな」と龍造は口にした。 「そうです」 「何を着ていくか決まったか」
「私は地味な服装で」 「どうしてあなたを招待したいのか、今もって解せんな」 「乾様は私を見て安心なさりたいのでしょう」
「ほんとかな」 三ヵ月前に招待状をもらったときも同じような会話をしたことを思い出して、龍造はわずかに口角を上げた。
乾多恵子が結婚しますと言ったのは、正月三箇日のあと例年通り秋田に帰郷し、二日後に帰ってきた夜だった。相手は神和書房の編集者で梶原英明という男だという。名前は聞いたことがあり、顔見知りのはずだか、どんな顔だったか思い出せない。付き合っている男がいるとは感じていたが、梶原だったのかと思いながら、年を尋ねると四十八だと言う。多恵子より一回りも年上である。
「初婚か」 「いいえ、バツイチです」 「そうか。まあ、それはよかった」 多恵子が瞬きもせず奥二重の目で龍造を見つめている。
「先生、本当にいいんですか」 「何が」 「わたくしが結婚することが……」
「いいも何も、あなたが決めたことに反対する理由はないだろう」 「わたくしがいなくなったら誰が先生の面倒を見るのです?」
「また、家政婦でも雇うさ」 「……分かりました」
その晩、寝付けずに龍造は蒲団の上で悶々としていた。廊下の先の部屋には多恵子が眠っている。彼女がここからいなくなると思った途端に、彼女に対する執着が頭をもたげてくることに龍造は戸惑った。
多恵子と知り合ったのは五年前である。当時ある文学賞の選考委員をしていた龍造は、授賞式の日に他の選考委員や受賞者と共に二次会で銀座のクラブに繰り出した。そこでホステスをしていたのが多恵子だった。龍造の作品をいくつか読んでおり、そのことで話が盛り上がった。それから、一月か二月に一回、会って食事をし、気が向けばホテルに行くという関係を続けていたが、二年前家政婦が老齢を理由に辞めたとき、私が先生のお世話をしましょうかと多恵子が冗談めかして言い、おお、そうしてくれるかと軽い乗りで答えたのが本当になってしまった。多恵子はホステスを辞めて龍造の家に移り住み、訪ねてくる編集者の接待、龍造のスケジュール管理など秘書の仕事と炊事洗濯などの家事をやり始めた。印税や原稿料などの金銭管理は長年税理士に任せているので多恵子を煩わせることはないし、彼女もそのことを喜んだ。
インターネット回線の契約をしたのも多恵子であり、ノートパソコンで手書き原稿をワードで打ち直し、そのデータをネットで送れるようになって、喜んだのは編集者である。原稿を取りに来るためだけに鎌倉まで足を運ばせるのは申し訳ないと思っていた龍造も文明の利器の恩恵を受けることになった。
多恵子は嫌がったが、内縁関係とは区別するため、ホステス時代には及ばないがそれ相応の給料を支払うことを納得させた。
ただ、同居して毎日顔を合わせるとなると、愛人というよりは婚期を逸した娘と同居しているような気持ちになったのが誤算だった。そんなはずはないと思いながら多恵子を褥に誘っても、自分の精力の衰えを自覚する羽目になってしまった。たまに逢う方がよかったと後悔しても遅い。かといって、外に女を作ろうという気にもなれなかった。これにて終了という赤い玉が出るんだよという誰かの言葉を思い出し、とうとうその時が来たかと焦ったのも事実である。同人誌時代の悪友で医者のMに、そんなときはこれを使うんだよと錠剤を示されたが、そんなものを使ってまでという矜持が受け取ることを拒否した。赤い玉の出た後の自分がどうなるのか、昔の大作家のように、女の身体を愛でるだけとか、女の足に踏みつけられるだけとか、それで喜びを得る心境になるかもしれないという奇妙な期待もどこかにあって、そうなればそれで一編の小説が書けると龍造は思った。そう考えるのは小説家の習い性みたいなものだと自分自身を嗤うと、焦りがいつの間にか消えていることに気づいた。
多恵子は龍造が身体を求めなくなっても困惑の素振りひとつ見せず、甲斐甲斐しく世話を焼き、龍造に新作を書くように発破をかけてくれた。それで龍造は長編の半自伝的小説を書き始めたのだ。
この期に及んでの彼女に対する執着を、愛人を失うというよりも娘を取られる父親の心境に近いと納得することで抑え込み、翌朝、龍造は、相手のこともあるのですぐに家を出て行くようにと多恵子に言い渡したのだった。
すぐに通いの家政婦を雇ったが、当然秘書の役目をしてくれることはない。多恵子の来る前に戻っただけだと考えても、一度便利な生活を味わってしまうとどうにも窮屈で、何より執筆時間を取られてしまうのが痛かった。それで、いろいろなところに声をかけてワープロも打てる秘書兼家政婦を探していたところ、知り合いの出版社の社長が千秋を紹介してくれた。多恵子が去ってから二ヵ月が経っていた。
初めて千秋に会ったとき、龍造はその美形に驚いた。銀座のクラブでもなかなかお目にかかれない、いわば素のままの美しさである。しかも二十四歳と若い。なぜこんな女が自分のところにと思い、応募動機を尋ねると、「いつか、小説家になりたいと思っています」という答えが返ってきた。
「先生の薫陶を受けたら、と勧めたのは私です」と社長が答える。 「薫陶ねえ……。欲しいのは秘書兼家政婦であって弟子ではないんだが」
「だめでしょうか」社長が意外そうな顔をする。美人を連れてくれば俺が喜ぶと思っていたのだろう。そう思われても仕方がないと思いながら、「私のことは知っていますか」と尋ねてみた。
「名前は目にしたことがありますが、作品は読んだことがありません」
と千秋は明言した。普通は読んでくるだろうと内心で苦笑しながらも、そのきっぱりとした物言いが却って気に入り、多恵子の使っていた部屋に住むことになった。若いので、家事に関しては目を瞑ろうと思っていたが、意外にもテキパキとこなし、料理の腕も多恵子より上だった。大当たりだと龍造は喜んだ。多恵子も自分から見れば十分に若かったが、千秋は彼女より一回りも若く、娘というより孫に近い。その感覚が千秋を性の対象から隔てているのではと龍造は自己分析をし、これもいつかは小説に書けるかもと創作ノートに書き込んだ。
訪ねてきた編集者は千秋を目にすると、先生、お若いですねと言った。千秋が若いと言っているのか、龍造が若いと言っているのか、わざと分からない言い方をしているなと思った彼は、それに答えずにただ笑みを返しただけだった。龍造が多恵子を追い出して若い愛人に乗り換えたという噂が広まったのは、それからである。別の編集者が教えてくれた。根も葉もない噂にあわてたが、千秋が動ずることなく、日々の仕事を淡々とこなしたので、龍造はひと安心したのだった。
食後のコーヒーを飲みながら新聞の残りの記事を読み終えると、龍造は書斎に向かった。執筆机の天板は勾玉のような形をした大きな一枚板で、特別に作らせたものだ。椅子に座ってその窪んだところに体を入れると、胎内に取り込まれた心地になって、さあ書くぞという気持ちになる。しかしすぐには書き始めない。まず鉛筆立てから先が丸くなったBの鉛筆を取り出し、小刀で削っていく。先の尖った鉛筆がまだ残っているのでそれらを使ってから、全部まとめて削ればいいようなものだが、龍造はそうはしない。一種の執筆前儀式で、筆を執る前に墨を擦るようなものだと彼は思っている。
削りかすを小さな箒でゴミ箱に掃き入れると、机の上に出しっぱなしの書きかけの原稿を目の前に置く。左上に小さく小野寺龍造と文字の入ったB4版の原稿用紙の、真ん中くらいまで黒い文字で埋まっている。
龍造は鉛筆を手に取ると、昨日書いた文章を読んでいった。朝帰りした主人公の小説家が妻と諍いを始める場面である。妻は、女のところに行くのはいいが、朝帰りだけはやめて欲しいと言い、女のところではなく昔の同人誌仲間と呑んでいた主人公はそのことを言い募る。なぜ、嘘をつくのですか。嘘じゃない、本当のことだ。その言葉に何度だまされたことか。身に覚えのある主人公は反論できずに黙ってしまう。あなたは約束したはずです、家庭生活はきちんと守ると。わたしくはそれを信じているからこそ女遊びを容認しているのです。その時、小学生の息子が廊下の陰からこちらを窺っていることに気づく。学校に行きなさい。主人公はその場を繕うように優しい声を出す。しかし息子は動かず、怒ったような目を向けている。何だ、その目はと思った途端、さっさと学校へ行けと怒鳴り声が自分の口から飛び出す。息子はぱっと体を翻し、ランドセルが揺れながら出ていくのを主人公はじっと見詰める……。
そこまで読んで、龍造はふっと昨日やってきた孫の翔太のことを思い浮かべた。翔太の屈託のなさを見ていると、息子夫婦の仲が円満に行っているのが想像できる。息子がどんな人間に育つかほとんど関心がなかったが、親がなくとも子は育つか、と龍造は思った。いや、それは自分をごまかしている。もっとひねくれた人間に育っても文句は言えないところを何とか無事に育ってくれたと感謝すべきだろう。そういう平穏な家庭に育っても翔太は小説を書こうとしているのだから、それは自分の血かと龍造は孫の文章を思い出してにんまりした。
息子が小学生の時、月一回配本の少年少女向け世界文学全集を買ってやったことがあったが、手に取った形跡すらなく龍造自身が意外な面白さを発見して読む始末だった。中学生になると自分に反発するかのようにサッカーに没頭して、本を読んでいる姿など見たこともなかった。一度目にした読書感想文のひどさに龍造はがっかりし、文学の血など幻想に過ぎないと思い知らされた。それがどうやら孫に受け継がれている。伏流水のように、ないように見えても確かに血のつながりはあるのだ。
いや、と彼は思う。そう思いたいのは身びいきしたいからに過ぎない。小説を書くのに環境とか血は関係ないに決まっている。すぐれた作品を読んで心を揺さぶられ、詩神に見いだされた者だけが書くという営為に突き動かされるのだ。翔太が詩神に見いだされた者なら、俺のアドバイスなど関係なく書き続けるだろう。俺はただ見守ればいいだけだ。
龍造は孫に負けてなるものかと思い、そう思ったことに苦笑した。孫に尻を叩かれるとはなんたることか。その時、何か大きな流れの中に身を委ねているような、自分が解けて流れと一体となっているような感覚を味わった。龍造は目を閉じて、しばらくその感覚のたゆたいを反芻してから目を開けた。原稿に視線を落とす。次の場面が頭の中に現れ、彼はそれを言葉にして、空白の桝目を埋めていった。
龍造が小説を執筆するのは午前中だけである。昼食は蕎麦と決まっており、暑いときはざるそば、寒いときはかけそばになる。昼からはエッセイなどの雑文を書いたり、知人から贈られてきた本を読んだりする。ほぼ毎日、昼寝をし、その間に千秋が彼の書いた原稿をワープロで打ち直す。目が覚めると、必ず散歩に出、その日も杖を持って外に出た。
「先生、携帯電話、お忘れですよ」 と千秋がガラケーを手に追いかけてきた。それを受け取って懐に入れ、緩やかな坂を下っていく。
携帯電話など持つ気はなかったが、一度散歩途中でめまいがしてベンチで休んでいたとき、帰宅が遅いので千秋が探しに来たことがあった。それ以来、持たされるようになった。何かあったら、こことここを押してくださいと言われているが、一度もかけたことがないので覚えているかどうか心許ない。こちらがかけなくても千秋の方からかけてくるだろうと思っているので、龍造は覚える気がない。単なるお守りのつもりでいる。
坂道を十五分ほどかけてゆっくりと下ると、拝観料を払って高徳院の境内に入った。夕方近くなのに相変わらず観光客の姿が多い。彼は杖をつき、雪駄を鳴らしながら、人混みの中を歩いていく。三十年ほど前、ある女優と浮名を流した時は写真週刊誌に顔写真が載り、道を歩いていても人に顔を指されることがあったが、今ではそんなことは全くなくなった。それで人混みの中をいくことは苦にならないが、人にぶつかって倒れることを心配しなければならなくなった。最近ではスマートフォンで写真を撮っている観光客が多くて、ぶつかってこられることがあるので、倒れないように杖を持つことは必須になっている。
お目当ての鎌倉大仏の前に立った。石積みの台に鎮座している大仏を見上げる。四十年前に東京の喧噪を離れ、静かな執筆環境を求めてこの地に来たときは、大仏のことなどこれっぽっちも頭になかった。たまたま手頃な価格で売りに出されていた屋敷が大仏の近くにあったというだけの話だった。それが次第に心惹かれるようになったのは、その後の龍造の人生と無関係ではない。人妻とのスキャンダル、書評家との論争、他人の手記を無断使用したことによる盗用疑惑、鬱病だった妻の自死、問題発言による文学賞選考委員降板など心が鬱々とする情況に直面した時、それを慰撫してくれたのは、この大仏だった。細い目で泰然として印を結んでいる姿を見つめていると、この世のことなど大したことはないと思えてくるから不思議だった。
気が向いたら足を伸ばして海を見に行くこともあるが、今日は境内を散策しただけで家に戻った。
夕食は六時。今日の献立は、ポテトグラタン、ニンニクの芽と牛肉のオイスター炒め、筑前煮、ほうれん草のお浸しだった。晩酌は五〇〇ミリリットルの缶ビール一本だけ。龍造は酒が好きだが、深酒するのは何かの会合があるときだけで、家では健康のため適度なアルコールを嗜むだけである。ビールを飲まずに、千秋の呑んでいる赤ワインをもらうこともある。
台所にはテレビも新聞も置いていないので、何も話題がないときは二人で向かい合って、黙々と食べる。千秋とはそれが最初から気詰まりにならないのがよかった。沈黙してもその場に溶け込むような佇まいが彼女にはある。
「先生、翔太さんにはお優しいんですね」 千秋が珍しく口を開いた。 「そう見えたか」 「ええ」
「私も孫が可愛い平凡な男だということだよ」 「翔太さんが小説を書いているのが嬉しかったんじゃないですか」
「まあな。翔太には息子みたいに私に対する反発はないからな」 千秋がくすりと笑った。
「あなたはどうなの、翔太くらいの時にはもう小説を書いていたの」 「私は小学校二年生の時から書いていました」 「それはまた早熟だなあ」
「女の子ですから」 龍造はグラスに残っていたビールを飲み干した。 「一度読ませてよ、あなたの書いた小説」
「先生にお見せできるものが書けたらいつでも」 「そんなことを言っていたら、一度も読ませてもらえない可能性が高いな」 「そうでしょうか」
千秋は悪戯っぽい目で龍造を見てから、グラスのワインを一口飲んだ。
食事がすむと、録り溜めたテレビ番組の中から気にいったものを見たり、好きな小説を再読したりして過ごし、風呂に入ってから十時までには就寝する。
日曜日は秋晴れで涼しい風が吹いており、暑ければスーツにしようかと思っていた龍造は迷うことなく紋付き羽織袴を着た。千秋は濃紺のワンピースに真珠のネックレス、その上に薄いベージュのストールを羽織っている。髪をアップに結い、花飾りのカチューシャが若々しい印象を与えている。
タクシーを呼び、それに乗り込むと、披露宴の行われる横浜のホテルに向かった。横浜横須賀道路に入って港北区の会場に着いたのは、午後十二時半だった。受付には男女それぞれ二人ずつの係がいたが、女の一人とは面識があった。多恵子のホステス時代の同僚である。
「あら、先生」と彼女が言った。「お久しぶりでございます」
化粧は控えめだが、目鼻立ちが派手なので華やかに見える。薄いピンクの和服がよく似合っている。 「この方が小野寺龍造先生です」
と彼女が隣の男に紹介した。男は一瞬あっという顔をしてから、ご出席、ありがとうございますと会釈をした。その様子は、多恵子と龍造の関係を知っていると思わせるに十分だった。ここにいる誰もがそれを知っていると考えた方がよさそうだと思いながら、龍造は筆をとり、芳名帳に名前を書いた。千秋がその後に続く。千秋との噂も知れ渡っているのだろうとは思ったが、言いたい奴には言わせておけという心境だった。
千秋がバッグから袱紗を取り出す。それを受け取って中から祝儀袋を出し、女に渡した。中身は十万円である。どうしようかと迷ったが、身内のような感覚がその金額にさせたとも言える。
披露宴の席次表を受け取り、受付の男の案内で控え室に行った。正装した人たちがあちこちに固まっており、受付の男はソファーに腰を下ろしている初老の男女のところに龍造たちを案内した。女の目鼻立ちが多恵子に似ており、母親であることはすぐに分かった。還暦は過ぎているはずだが、若い頃はさぞかし美人だったと思わせる顔立ちで、その容色はまだ衰えていない。隣の男は再婚した相手だろう。多恵子が十二歳の時に実父が病死し、しばらくしてから再婚したと聞いている。
二人が立ち上がると、受付の男が小野寺龍造先生ですと紹介した。
「あーこれはこれは、小説家の先生でいらっしゃいますか」と白髪の男が頭を下げた。着慣れていないのか紋付の襟元が少しはだけている。
「乾多恵子の父でございます。先生には娘が大変お世話になり、ありがとうございました」
隣で、髪を結い上げた女も、わざわざお出でいただき、ありがとうございますと深々と礼をした。五つ紋の黒留袖を着ている。
「お嬢さん、いいお相手が見つかってよかったですね。おめでとうございます」
龍造は当たり障りのない言葉を選んで頭を下げた。この二人がどこまで知っているのか、今の態度からは全く分からない。知っていても何も知らないふりをするのが礼儀だと考えているのなら、こちらもそれに合わせるまでである。
その時、純白のウエディングドレスを着た多恵子が白いタキシード姿の男と一緒に入って来た。化粧のせいかずいぶん若く見え、男とは実年齢以上の年の差があるように思えてしまう。
「先生」龍造と目が合うなり、多恵子はドレスの膨らんだ部分を両手でつまみ上げ、小走りに近づいてきた。龍造の側まで来たところでよろけそうになったので、彼は思わず手をつかんで彼女の体を支えた。
「すみません。こんなに高いヒール、久しぶりに履いたものだから」
多恵子は手を離すと、両手を前に添え、「来ていただいて、わたくし、本当に嬉しゅうございます」と深く頭を下げた。被っていたベールが裏返る。
「あなたの結婚式には来ないわけにはいかないでしょう」 「先生、ご無沙汰しております」
多恵子の横に立ったタキシードの男が礼をした。目が細くて神経質そうな顔。ああ、この男が梶原だったと龍造は記憶をよみがえらせた。
「新婚生活が落ち着いたら、一緒に呑みましょう」 「ええ、是非」 多恵子が龍造の後ろに視線を向けた。
「そちらの方、先生の新しい秘書の方ですよね」 「はい」と千秋が答える。
「そうなんだ」と龍造が引き取った。「あなたがいなくなって、秘書なしでやっていたんだが、どうにも不便でね。それでお願いした」 「お若い方ですね」
「でも、しっかりしている」 「お名前は?」多恵子は千秋に呼びかけた。 「笹川千秋と申します。よろしくお願いいたします」
「ねえ、千秋さん。二次会にも出てくださるでしょ」 「え?」
「いや、二次会は遠慮しておこう」と龍造は手を上げた。「私も年なので披露宴だけで十分だから」
「だったら、千秋さんだけでも。あなたみたいに綺麗な人がいたら、男連中が喜ぶから」 そう言うと、多恵子は新郎をちらりと見た。
「そうですよ。是非参加してください。綺麗な人、大歓迎ですから」
「男の人がそんなことを言うとセクハラに聞こえるからやめてよね」と多恵子が新郎をにらんだ。
「なんだか、誘導尋問に引っかかっちゃったなあ」と新郎は頭をかいたが、まんざらでもない顔をしている。
結局、龍造は一人でタクシーで、千秋は二次会が終わって電車で帰るということになった。
挙式は午前中に親族だけで済ませており、一時からの披露宴はまさに型通りだった。男が再婚なのでもっと地味になるのではと思っていたが、多恵子が初婚であることを考慮したのだろう、ウエディングケーキ入刀もあり、お色直しも一回あった。
龍造は来賓席に座らされ、新婦側の主賓の挨拶をさせられた。新郎側は神和書房の社長で、これも龍造の知っている男である。社長は新郎の離婚にも触れ、原因は仕事のしすぎで家のことを顧みることができなかったからで、これからは仕事をしないようにさせますのでご安心を、と皆を笑わせた。
龍造の挨拶は決まっていた。水商売のことには触れずに、秘書としての二年間を語るだけである。手書きの原稿をワープロで打ち直してくれた、インターネットの世界を教えてくれた、編集者の接待をしてくれた等々。美人で有能なので編集者が用もないのに集まり、私を寝かせてくれなくて困ったとそこは話を盛って、笑いを誘った。
会も終盤近くになって皆に酒が回ってきた頃、龍造が神和書房の社長と話していると、白い髭を蓄えた男がビール瓶を持って隣の席に腰を下ろした。新婦側の親族席にいた男である。
「先生、まあ一杯」 龍造は社長との話を中断して、グラスに髭男のビールを受けた。
「多恵子が大変お世話になり、誠にありがとうございました。あの子がこうして結婚できたのも、すべて先生のお陰です。いやあ、さすがは小説家の大先生」
顔には出ていないが、酔いが回っているのか呂律がいささか怪しくなっている。
「でもね、わしは、あの子は先生と一緒になると思っておりましたよ。それが一番いいとね。年の差がいくらあってもいいじゃないですか。世の中にはそんな夫婦はいくらでもいますよ。でも先生はあの子を追い出した。もっと若い女と一緒になるためにね。小説のためなら、女を泣かせてもいいというのは間違っとるとわしは思うがね」
「きみ、失礼じゃないか」と社長が鋭い声を出した。 「まあまあ」と龍造は社長をなだめた。大声を出されると騒ぎになるので、それだけは避けたかった。
「多恵子さんが泣いているというのは本当ですか。ご本人からお聞きになった?」
「本人がそんなことを言うわけがないじゃないか。でもみんな思っとるよ、小説家の大先生が愛人を取っ替えたと」
その時、「それは事実ではありません」と戻ってきた千秋が口を挟んだ。
「多恵子様が先生の家を出られたのは一月、私が秘書として入ったのは三月。先生にお目にかかったのはその時が初めてです。それに私は先生の愛人ではありませんから」
「そんなこと、誰が信用する」 「信用していただかなくても結構です。私はただ事実を申し上げているだけですから」
新婦側の席から中年の男が小走りでやってきて、「おじさん、めでたい席で管を巻くのはやめてくれ」と髭男の両脇に手を入れ、立たせようとした。
「誰も管なんか巻いてねえ」
髭男は両腕を振って、脇に入れられた手を振りほどこうとした。その時、グラスがなぎ倒され、床に落ちて派手な音がした。会場のざわめきが一瞬にして静かになった。
まずいと龍造は思った。この場をどう収めるべきか。しかしすぐに、この情況を面白がっている自分がいることに気づいた。頭の中では、髭男がテーブルの上の物をすべてなぎ倒し、その騒ぎを聞きつけた他の親族たちが髭男の勢いに勇気づけられ、自分を取り囲んで指を突きつけてくる光景が浮かんだ。
しかし現実は、黒服を着たスタッフが飛んで来て、中年男と一緒になって髭男をなだめ、立ち上がらせて会場の外に連れ出してしまった。ボーイが飛び散ったガラスの破片を片付けている。多恵子の両親がやってきて「とんだ、不調法を」と頭を下げたが、「お気になさらないように」と龍造は笑って答えた。
お開きになって、出口に並んだ新郎新婦と両親の前を通ったとき、多恵子が「先生、すみませんでした」と申し訳なさそうな顔をしたが、「いやいや、面白かった」と龍造は答えた。
「また、どこかに書くんでしょ」 「それは分からない」
「それでもいいわ」と多恵子はにっこりし、「本日は来ていただき、ありがとうございました」と頭を下げた。そして千秋には「また二次会でお目にかかりましょう」と念を押した。
三
披露宴のあったホテルを出て引き出物と一緒に龍造をタクシーに乗せると、千秋は手に持った二次会のパンフレットを見た。場所はここから歩いて十分ほどのところだが、開始が五時で、まだ一時間半ほどある。空き時間があると分かっているときは何か文庫本を持参してカフェで読むのだが、今回は何も用意していない。書店に入って本や雑誌を見て回り時間を潰す手もあるが、今日のようにヒールのあるパンプスを履いた足で立ち続けたくはない。
仕方なく千秋は目についたスタバに入り、カフェラテを受け取ると、席についてスマートフォンを取り出した。ツイッターで、フォローしている何人かの作家のつぶやきをタイムラインで読んだり、インスタグラムで猫の写真を眺めたりしているうちに、翔太の言っていた小説投稿サイトのことを思い出した。
早速そのサイトに移ったが、翔太のアカウント名が分からないので、試しに小野寺翔太と打ち込んで検索をかけてみた。しかしヒットしない。そこで思いついて、この前読ませてもらった作品の「コウイチ」という題名で検索すると、ヒットした。アカウント名がshotan116になっている。彼のページをお気に入りに登録してから、投稿されている作品の一覧を見た。全部で十三作ある。ジャンル、文字数、およその読了時間が記されており、SFとファンタジーが多い。純文学≠燗作あり、そのうちの一つは「コウイチ」だった。SFやファンタジーにはイイネが結構ついているが、「コウイチ」には一つしかなく、もう一作にはイイネがなかった。千秋は、その、文字数10306、読了時間三十分の作品を開いてみた。「愛愛愛ランド」というタイトルはふざけすぎかと思いながら、横書きの作品を読んでいった。内容は、目立たない同級生の女の子に片思いをする男子を描いており、精通の場面に遭遇して千秋ははっとした。龍造がマスターベーションを書けと言ったときの顔をしかめた翔太を思い出した。書こうと思えば書けるんじゃない、千秋は心の中でツッコミを入れながら続きを読んでいった。別々の高校に行くことになって、片思いは成就することなく終わるという結末に物足りなさはあったが、「コウイチ」の時と同じような、もどかしいけれども爽やかな風が吹いてくる感じは残った。先生の血は彼に受け継がれているかもと思うと、そこに嫉妬する感情があることに気づいて、千秋は苦笑した。
読み終えてもまだ時間があったので、ファンタジーの一つを読み始めたが、ぶっとんだ設定にえっと思いながらも、ついつい小説世界に引き込まれ、気づいた時には五時近くになっていた。
千秋は急ぎ足で二次会場のレストランに向かった。受付を済ませたときには会がすでに始まっており、前方で司会者がマイクで何やらしゃべっていた。立食形式で三十人くらいいるだろうか。司会者の隣に新郎と並んで真紅のパーティドレス姿の多恵子がおり、千秋を認めると手を振ったので、彼女は会釈を返した。
新郎の挨拶が終わって歓談に移ると、多恵子が近づいてきた。 「てっきりすっぽかされたと思っちゃった」 「すみません、遅れまして」
「来てくれてうれしいわ。他の人に紹介するわね」
多恵子はグラスを手に談笑している男たちのところへ千秋を連れて行った。新郎の会社の人たちで、若いのは新郎の部下らしい。多恵子が小野寺龍造先生の秘書の方ですと紹介すると、年齢のいった人たちは、どうぞよろしくと当たり障りのない対応をしたが、茶色っぽい髪の若い男が、そりゃすごいと声を上げた。
「新婦の方も小野寺先生の秘書をされていたと聞きましたが、あなたもですか。いやあ、こんな綺麗な方を秘書にできるなんて先生が羨ましい」
二次会から来て披露宴の騒ぎを知らないのかもしれないと思いながら、千秋は微笑みで応えた。多恵子が赤ワインの入ったグラスを持ってきて、飲む? と聞いたので、千秋は喜んでそれを受け取った。ワインを飲みながら、男たちの質問に答えて、秘書としての仕事の他、龍造の日常や家事のことを話すと、家政婦もされているのですかと皆一様に驚いた顔をした。
そこを離れてテーブルの軽食を皿に取っていると、先ほどの若い男が近づいてきた。 「ねえ、三次会に行きません? 二人だけで」
千秋は思わず男の顔をじっと見た。 「ごめんなさい。この後、用事がありますので」 「だったら、その用事までの短い時間でもいいですから」
「その短い時間もありませんので」 「でしたら後日、時間があるときに」
そう言うと、男はジャケットの内ポケットから名刺を取り出し、千秋に手に取るように仕向けた。神和書房編集部という肩書きのついた仕事用の名刺である。
「裏を見て」 ひっくり返すと、携帯電話番号とLINEのアカウントが手書きされていた。
「あなたの名刺もほしいけど、そこまで図々しくはありませんので」 その時、ごめんなさいと後ろから多恵子が割り込んできた。
「お話中すみませんけど、千秋さん、借りますわね」と言って、彼女は千秋の腕を取った。そして会場の隅にパーティションで区切られた一角に連れて行った。
「あの子はやめた方がいいわ、チャラ男だから」 「ご存じなんですか」 「旦那がそう言ってた」
そう言われれば逆に興味が湧いたが、千秋はそれが顔に出ないように頷いただけだった。
パーティションの中は新郎新婦の休憩場所なのか椅子が二脚置かれており、座って話しましょと言われて千秋は腰を下ろした。
「ねえ、ずばり聞くけど、先生と寝た?」 「え?」 いきなりの質問に反応できない。 「寝てないの?」
ああ、このことを聞きたいために私を招待したのかと千秋は思った。 「寝ていません。そのつもりもありません」
「嘘。先生と結婚しようと思ってるんでしょ」 「いいえ、そんなつもりはありません」
「だったらどうして私の後釜に納まったの? あなたみたいに若ければ他にいくらでも仕事があるでしょ、それに美人だし」
「私は小説を書きたいと思っているので先生の側にいるだけです」 「つまりは先生のコネを利用して作品を売り込むつもりなのね」
「売り込むに値する作品が書けるかどうかが問題なのです」 「書けたらコネを利用するというわけね」 「そんなつもりはありません」
「あなたになくても先生にはあるでしょ。そのためにも寝ておいた方がいいわよ」 千秋は思わず笑ってしまった。
「多恵子さんは先生との結婚は考えなかったのですか」
「考えたわよ、もちろん。わたし、年上の人が好きだから先生でも全然よかったの。でも、わたし、子供がほしくなっちゃったのね。先生との間にできたらよかったんだけど、やっぱりダメで、それで今の旦那と」
「旦那さん、そのことをご存じなんですか」 「ええ、みーんな話してるから」
「先生とは顔見知りだと聞いていますけど、旦那さん、わだかまりとかないのですか」
「嫉妬のことを言ってるの? そんなの全然。ずっと年上だし、大先生なのだから嫉妬のしようがないのよ。それに先生との結婚は愛情ではなくて財産目当てだと思っていた節があるし。千秋さん、ご存じかもしれませんけど、先生の遺産は著作権も含めてすべてユニセフに寄付されるのよ。わたしがその遺書を書くお手伝いをしたから確かよ」
「はい、知っております」 初耳だったが、千秋は嘘をついた。 「結婚して書き直させる手もあるけどね」
そう言うと、多恵子は意味深な笑い方をした。 その時、パーティションが開き、こんなところにいたのかと新郎が顔を見せた。
「千秋さんに先生を転がすノウハウを教えてたの」 「それで、もうすんだの?」 「ええ」
みんながお待ちだからと新郎が多恵子の腕を取った。 「千秋さん、先生のこと、よろしくお願いしますわね」
多恵子は軽くウインクすると、新郎と会場に戻っていった。
パーティションを出ると、あの若い男がこちらを見ているのが分かった。千秋は気づかないふりをして出口に向かった。近寄ってくるかと思ったが、レストランを出ても背後に気配はなかった。千秋はいささかがっかりし、そのことに苦笑しつつ、横浜駅に向かった。
龍造に電話をして夕食を駅弁にすることを断ってから、シウマイ弁当を二つ買い、横須賀線に乗った。
龍造の家に着いたのは午後七時前だった。着替えてから台所でお茶の用意をし、応接間で新聞を読んでいる龍造に声をかけた。
テーブルの前に腰を下ろした龍造が「あまり食欲がないのだが」と弁当に目をやった。 「散歩はなさらなかったのですか」 「何だか疲れてな」
千秋は龍造の額に手のひらを当てた。熱はなさそうである。 「風邪でもお引きになったのですか」 「いや、人疲れだろう」
向かい合って弁当を食べ始める。電子レンジで温め直したシューマイが意外とおいしい。 「二次会はどうだった」と龍造が聞いてきた。
「知らない人ばかりで気疲れしました」 「それで彼女とは話せたのか」
「はい。子供がほしいとおっしゃっていました。先生とのこともすべて旦那さんに話しているとかで、そのことで結婚生活がうまくいかなくなることはないと思いました」
「それだけ?」 「ええ。私がどういう人間がお知りになりたかっただけですわ。先生のこと、よろしくお願いしますと言われました」
「何だか俺が子供みたいだな」 龍造は口角の片側を小さく上げた。 「先生は母性をくすぐるタイプだと思いますけど」
「彼女がそう言ってた?」 「いいえ」 「ということは、それはあなたの意見か。私は父性で持っていたと思っていたんだがなあ」
「両方あれば最強なのでは……」 「最強ねえ」 龍造はおかしそうに笑うと、シューマイを一つ口に入れた。
千秋は遺産相続のことに触れてみようかと思ったが、やめた。自分がそのことに関心を持つと、変なふうに受け取られる可能性があるし、この仕事を始めて半年、龍造の身内が訪ねてきたのは先日の翔太が初めてで、そこに何らかの確執があるとしたら遺産相続の問題が絡んでいるかもしれないと思ったからである。
四
龍造の家から帰るときは「コウイチ」の結末を変える気など全くなかったのだが、しばらく時間を置いてみると、それも面白い気がしてきた。それで翔太はマスターベーションの場面を付け加えて小説サイトの作品を更新した。するとたちまちイイネが十個も増えて、へえーと思ってしまった。
その結果だけを見れば、新バージョンを学校に持って行く方がいいのに決まっているが、いやいやと翔太は首を振った。どん引きされることと共感されること、その二つを秤にかけた場合、どん引きの方が重くてがくんと下がるのが目に見えている。龍造の「それが作品にとってプラスに働くと思えば堂々と書けばいい」という言葉を思い出して前日まで悩んだが、結局元のバージョンを出した。
当日、翔太の作品は男子からは不評で、散々な結果になってしまった。同じグループの連中からも、もっと面白いものを書いてくるかと思った、転校して向こうで友達を作るなんて当たり前じゃん、それでがっかりする方がどうかしている、と言われる始末だった。女子の一人がボーイズラブの匂いがすると言うと、男子全員からえーという声が上がった。
「どうなんだ、小野寺。そのつもりで書いたのか」とグループの一人が尋ねてきた。 「いやあ、そんな気はなかったけど」 翔太は嘘をついた。
「だから駄目なんじゃない? もっと意識してボーイズラブが分かるように書けばよかったのに」とボーイズラブを指摘した女子が言った。
「気持ちわりぃ」何人かの男子が声をそろえて叫んだ。
新バージョンにしなくてよかったと翔太は胸をなで下ろした。あんなことを書けば、登場人物と作者の区別のつかない連中からどんな目で見られるか分かったものじゃない。
ワークショップ特別講師の静原麻里はさも当たり前のようにボーイズラブに言及し、主人公が親友を見る描写とか、親友が新しい友達と話しているときの主人公の嫉妬に似た感情の描写などに、その気持ちが表現されていると指摘した。まさに翔太が意識して書いたところなので、さすがはA賞受賞作家だと感心すると同時に、それをバラされるとまずいと彼は胸の内で舌打ちした。
「先生」とグループの一人が手を上げた。「本人にそんな気がなかったんだから、それは読み過ぎじゃないんですか」
「作者が意識するしないはあんまり関係がないんですね。物語というのは往々にして作者の無意識を反映しますから」
「へえー」という声が上がり、「小野寺、お前男が好きなんか」という声に皆がどっと笑った。
「先生、そうなんですか」と翔太はできるだけ軽く言った。「いやあ、知らなかった。勉強になります」 その言葉で教室内が再び笑いに包まれた。
生徒全員の挙手によって作品の順位がつけられ、翔太の作品は七作中最下位だった。上位二作のチームは記者からインタビューを受け、それを横目で見ているとチャイムが鳴った。教科書を持って技術科室に移動しようとすると、静原麻里に呼び止められた。ちょっと職員室に来てほしいと言う。
「何ですか」 「いいから来て」 職員室に向かう途中で、記者のインタビューがあることを明かしてくれた。 「どうしてぼくなんですか」
「あなたにインタビューすることは前もって決まっていたのよ。ただ最下位だったので教室ではできなかっただけ」 「嫌ですよ、そんなこと」
「小野寺龍造のお孫さんがいるのに、それを記事にしないという手はないでしょ」 あーあと翔太はため息をついた。
「話すことなんか何もないですよ」 「だったらそう言えば」 お、この突き放した感じ。翔太は静原麻里にちょっと興味が湧いた。
「私の中では翔太くんの作品は上位に来るんだけどなあ」 「今更ながらのフォロー、ありがとうございます」
職員室の来客用の椅子に静原麻里と並んで腰を下ろしていると、記者が戻ってきて翔太にいろいろと質問した。初めて書いた作品か、どんなとき思いついたのか、龍造に見てもらったのか、これからも書こうと思うか、等々。翔太は嘘をついたり、言葉を濁したりした。お祖父さんはどんな人、という質問に、
「よく分かりません。ていうか、祖父が小説家という意識がありませんから。年一回、正月の時しか会わないし、それもお年玉目当てなんで」
記者は明らかにがっかりした表情を見せた。
終わって技術科室に急いでいると、後ろから、ちょっと待ってと声がかかり、振り向くと静原麻里が駆け寄ってきた。
「ねえ、小野寺先生に会わせてくれない?」 「え」 「翔太くんに紹介してほしいのよ」 「直接会いに行けばいいでしょう」
「住所、知らないのよ」
個人情報なので公開していないのか。だったら教えるわけにはいかない。それに祖父に会わせると嘘をついたことがばれてしまう。
「住所を教えるわけにはいけませんし、紹介する気もありませんので悪しからず」 そう答えると、翔太は技術科室に全力疾走した。
五日後、ワークショップの記事が新聞に載ったが、それを読んで、翔太の頭はかっと熱くなった。自分のインタビューで、小説を書くのは難しい、しかし書いてみて祖父の仕事に興味が湧いた、これからも書いてみたいと、言ったこともないことが書かれていたのだ。そのコメントに対して、静原麻里が、翔太くんの作品を読んで小野寺先生の血が流れていることを感じました、このまま書き続けていってほしいとエールを送っていた。
同級生たちは、なんだ、えこひいきじゃないか、最下位になったことに触れずに翔太の作品を持ち上げてとさんざんに言われた。俺はこんなこと一言も言ってないと否定しても、誰も信用しなかった。担任に抗議しても、別に悪いことが書かれてあるんじゃないからいいじゃないかと言われる始末だった。
家では、インタビューの記事よりも翔太の作品が最下位になったことの方が話題になった。
「インタビューで小野寺龍造に読んでもらったとなぜ言わなかったんだ。その方が記事としては断然面白くなるのにな」 隆はにやにや笑いながら言った。
「その話はもう終わり。一切答えたくない」 翔太は両手でバツ印を作った。
インタビューのモヤモヤが薄れかけた頃、同級生の一人がスマートフォンを見せてくれた。静原麻里がツイッターで翔太のことをつぶやいているというのである。
「M中学校で小説ワークショップ。引き受ける気はなかったが、生徒の中に尊敬する先生のお孫さんがいると聞いて引き受けた。グループ制作なのに彼のグループだけは彼が一人で書いたという。やはり血は争えないと言うべきか。作品の受けは悪かったが、それを読み解けない同級生が幼すぎたのだろう」
ツイッターの日付は作品合評の日になっている。 「俺たちが幼すぎたんだって。よく言うよ。お前がどんなにバカか知らないんだよな」
「まあ、そうでしょ」と翔太は受け流した。「小説家は妄想するのが好きだから」
帰宅して、翔太はパソコンでツイッターのアカウントを取った。スマートフォンは持っていない。スマートフォンを持つのは高校生になってからと父親に言われているし、LINEのやりとりをしている同級生たちの、既読したのに返事しないとかスタンプだけでスルーされたとか騒いでいる姿を見ていると馬鹿馬鹿しくて、そんなことに参加する気にはなれなかった。ネットのことならパソコンで十分で、コミュニケーションのお守りとしてスマートフォンを持つ連中なんてまだまだ子供だと翔太は馬鹿にしていた。
早速静原麻里のアカウントを検索してフォローする。自分のアカウント名は、小野寺翔太を連想させないように、TADANOYOMITEとした。
過去のツイートを見ると、トークイベントとか書店巡りの話が多くて、営業に使っているのが分かる。最新のツイートも今週土曜日のサイン会の告示で、新宿の**書店で午後一時から行うので、新刊書を買ってくださいと書いてある。インタビューを受けたとき、彼女も同席していたのだから、記事がでたらめだと分かっていたはず、それなのにそんな記事を受けてヨイショしやがって、とモヤモヤが再びよみがえってきた。
土曜日、翔太は**書店にいた。本を探すふりをしながら、少し離れたところのサイン会のスペースに目をやる。白い布で覆われた長机の片側には本が積まれており、書店名の印刷されたバックパネルには「A賞受賞作家 静原麻里さんのサイン会」という看板が掲げられている。時間になっても十数人しか並んでおらず、こんなものなのかと思っているところへ彼女が現れた。笑顔がぎこちない。椅子に腰を下ろして先頭の若い女性の差し出した本にサインをする。ゆっくりとサインペンを動かしている。本を返しながら、その女性と二言三言会話をし、握手して終わる。作家のサイン会を初めて見た翔太は、結構時間をかけるものなのだなと思った。
それでも三十分ほどで並んでいる人間がいなくなった。翔太は本棚の陰から出て、静原麻里の前に立った。うつむいていた彼女が顔を上げ、翔太と目が合うと、あ、という口になった。
「新聞の記事で文句を言いに来たんだけど」 彼女の横に立っていた書店員が「本を買ってください」と割り込んできた。
「いいのよ、知り合いだから」と静原麻里は手で制すと、 「それで何を言いに来たの」
「俺が言ってないことに、どうしてコメントができたのかってこと。あんた、あのとき俺の横にいたよね。だったら記事がでたらめだって分かったでしょ」
「ああ、そのことね」彼女は口元に笑みを浮かべた。「あれは私も知らなかったの。私のコメントはインタビューとは関係なく、後で話したことだから」
そのとき後ろに人が並んだので、書店員が翔太に離れるように言った。翔太は割り切れないままその場を離れ、書店を出ようとしたが、「翔太くん、ちょっと待って」という静原麻里の声が追いかけてきた。振り返ると、「まだ話があるから」と彼女が手を上げた。
サイン会は一時間ほどで終わり、翔太は彼女に促されて、書店に併設されているカフェに入った。彼女はカフェオーレを注文し、翔太も同じものにした。
「私もあの記事には言いたいことがあるわ。でも、翔太くん、インタビューに素直に答えてないでしょ」
翔太はどきりとしたが、素知らぬ顔をして「そんなこと、ないよ」と答えた。 「うそ、少なくとも初めて書いたというのは嘘でしょ」 「………」
「だろうと思った。あの作品、中学生が初めて書いたにしてはできすぎてるもの」 「バレましたか」 「私も一応プロだから」
注文の品が来て、静原麻里がカフェオーレを一口飲み、翔太も口をつけた。 「あの作品、先生に見てもらったの?」 「先生って祖父のこと?」
「そう」 翔太はどう答えようかと一瞬考えてから、 「確かに読んでもらいました。ただし添削は受けてないから。それは本当です」
彼女はふふっと笑った。 「いいわね、あなた。小野寺先生に作品を読んでもらえるなんて」
その素直な言葉に翔太は龍造に対する嫉妬めいた感情を覚えた。イイネをいくらもらっても、この言葉には勝てそうもない。
「ねえ、翔太くん、私を先生のところに連れて行ってくれない? お願い」 静原麻里が胸の前で両手を合わせた。
その様子がやけに可愛く見えた。嘘がバレたことでもあるし、まあいいかという気になった。 「分かりました。おじいちゃんにお伺いを立ててみるから」
「ありがとう」 「OKがもらえなかったら、それまでだから」 「分かった」
連絡をどうするかということになって、ツイッターのダイレクトメールではどうかと提案した。 「ツイッターやってるの?」
翔太は彼女をフォローするためにアカウントを取ったことを白状した。 「それで今日のサイン会を知ったのね。いいわ、フォローする」
彼女はバッグからスマートフォンを取り出すと、ツイッターをタップし、フォロワーの一覧を画面に出した。
「どれ」と画面をこちらに向ける。一覧の一つを指で指すと、「タダノヨミテ?」と甲高い声を出した。 「いいアカウント名でしょ」
「皮肉っぽいけど」 そう言いながら、静原麻里はフォローの文字をタップした。
小野寺龍造にお伺いを立てると、次の土曜日の午後を指定されたので、静原麻里に連絡を取り、品川で待ち合わせることにした。
五
インターホンが鳴って受話器を取ると翔太の声がしたので、千秋は玄関に向かった。錠を外し、引き戸を開ける。
翔太の斜め後ろに立っていたのは、A賞受賞記事の写真で見たことのある、まさに静原麻里その人だった。写真の時はショートだった髪がセミロングになり、頬がいくぶんほっそりとなっている。淡いピンクのブラウスにチャコールグレーのパンツスーツという姿だった。
「お待ちしておりました。どうぞお入りください」 「ご無理を言って押しかけました。申し訳ありません」
麻里は丁寧に頭を下げると、翔太に続いて中に入ってきた。翔太がお土産を渡すように促し、麻里が手に持っていた紙袋を差し出した。
「これ、先生がお好きだとお聞きしまして」 「蜂蜜プリンですね」 翔太が人差し指で自分を指す。千秋は笑って紙袋を受け取った。
二人を龍造のいる応接間に案内し、千秋は飲み物の用意をする。龍造から彼女も同席するように言われているので、コーヒー四人分をいれ、プリンと一緒に持って行く。
応接間に入ると、翔太が新聞を龍造に見せているところだった。千秋はそれぞれの前にコーヒーとプリンを置き、龍造の横に腰を下ろした。
「それで翔太はどうして本当のことを答えなかったのだ」 コーヒーを一口飲んだ龍造はカップを置くと尋ねた。
「そんなことをしたら、クラスの皆に小説を書いていることがバレちゃうもん」 「バレたらいやなのか」
「当たり前だよ。主人公と作者の区別がつかない奴ばっかりだし、この前この人が」と翔太は隣の静原麻里に目をやった。「小説は作者の無意識を反映しますなんて言うから、なおさら」
「ほおう」と龍造は大きくうなずき、「そんなことを言ったんですか」と静原麻里に目を向けた。 「はい」
「えらい。若いのにそこまで分かっているなら大したもの。私なんかそれが分かったのが四十過ぎてからだったからな」
「おじいちゃんの小説って意識して書いたものじゃないの?」
「意識して書くということは意識して隠すということでもあるのだ。それでも作品の中に隠したものが表れてくるから面白いのだ」
「SFとかファンタジーみたいなエンタメでも?」 「ジャンルは関係ない。人間が書いているのだから、そこからは逃れられん」
「先生のおっしゃること、よく分かります」と麻里が言った。「私、今のような小説を書く前はファンタジーを書いていたんです。その方が楽しかったから。しかし書けば書くほどだんだん苦しくなってきて。それがなぜだか分からなかったんです。そんな時先生の『四ツ谷橋から』を読んではっと気づかされました。自分は書こうとしていることを書いていないのではないか、ていうか、無意識のうちに書くのを避けているのではないかと。それでもそのことがファンタジーの中ににじみ出てくることに苦しんでいるのではないかと。私は『四ツ谷橋から』を何度も読み返し、自分もこのように書いてみたいと思い、ファンタジーから離れたのです」
麻里はそう言うと、脇に置いていたバッグを開け、中から一冊の単行本を取り出した。カバーもない古ぼけた本で、『四ツ谷橋から』という題名が見える。彼女はそれをローテーブルの上に滑らせた。
「この本に先生のサインをいただきたいのです。古本で申し訳ないのですが」
「いやあ懐かしい」と言いながら龍造は本を手に取った。ぱらぱらとめくっているのを見て、千秋は眼鏡入れから老眼鏡を取り出した。龍造が本の奥付けに目を凝らしたので老眼鏡を差し出す。龍造はそれをかけると「そうそう、四十八年前に出した私の最初の本だ。全然売れなくて、重版がかからなかったやつだ」と笑みを浮かべた。
「全然売れなかったら食べていけないんじゃないの」と翔太が聞く。 「そりゃ食べていけないさ。だから別の仕事につきながら書く」
「おじいちゃんは何してたの」 「うーん、色々だな。業界紙の記者とかイベント会社の現場監督とか」
「小説で食べられるようになったのはおばあちゃんと結婚してから?」 「まあ、そういうことだ」
龍造の半自伝的作品をワープロで打ち直している千秋は、その辺りの事情を知っている。小説執筆に専念したいため付き合っていた女の許に転がり込み、三年間ヒモのような生活していたこと、その時の別の女とのトラブルを描いた作品が予想外の評価を得て、一本立ちしたこと。妻と愛人の両方をインスピレーションを与えてくれる存在だと崇めながら、第三の女に手を出す「どうしようもない売れない小説家」を容赦ない筆で描き、誇張を多用する滑稽な書き方の中に真実を垣間見させる私小説の新たなジャンルを開いたと評された。『四ツ谷橋から』を出版してから六年後のことである。
千秋は『四ツ谷橋から』を読んだことはなかったが、静原麻里のA賞受賞作『卵と結び目』は読んだことがある。母と娘の確執を三人称の娘の視点から描いた作品で、その微妙な心理がくねくねと蛇行するような文体で綴られている。三人称を使っているが、その内容はほぼ私小説だといってもいい。その彼女が影響を受けたということは、『四ツ谷橋から』という作品は龍造の今のスタイルではなく、おそらく従来の書き方で書かれた私小説だったのだろう。しかしそれがA賞受賞作家を生み出したのだとしたら、新しいとか古いとかは作品の生命とはあまり関係がないのではないかと千秋は思う。
「千秋さん、書くものを持ってきて」 「筆ペンでよろしいでしょうか」 「うん」
千秋が行きかけると、いや、硯箱にしてくれという声が追いかけてきた。
書斎に行き、棚に置いてある漆塗りの硯箱を両手で取ると、キッチンで水滴に水を入れ、応接室に戻った。三人はプリンを食べ、コーヒーを飲んでいた。
龍造は硯箱の蓋を取ると、水滴から硯に水を落とし、ゆっくりと墨を擦り始めた。その手元を見つめていた翔太が顔を上げ、千秋に視線を向けた。こんなたいそうなことをするの、という顔である。千秋は小さくうなずいた。
墨を擦り終わると龍造は古本の表紙を開き、細筆を取って、まず静原麻里様と書き、次に小野寺龍造、そして年月日を書き入れた。墨が乾くのを待ってから、龍造は開いたままの本を回して麻里の前に滑らせた。麻里がそれを手に取る。
「ありがとうございます。私の一生の宝物です。大事にいたします。それにしても先生は達筆でいらっしゃいますね。びっくりいたしました」
「ホント、ぼくなんか習字が苦手なのに。そこはおじいちゃんの血を受け継ぎたかったなあ」 「何を言っておる。習字は遺伝ではないぞ、練習あるのみだ」
「おじいちゃんも練習したの?」
「そうとも。若い頃大御所の先生に、色紙に揮毫を頼まれたらためらわずに引き受け、ささっと書けるようにしておかなければいかんと言われたのだ。その時金釘流ではせっかくいいことを書いても相手の胸に入っていかないから、書を習いなさいとな」
「ふーん、一種の営業活動かな」 「何だ、それは」 「字がうまいと作品もよく見える、ってことでしょ」 はははと龍造が笑った。
「お前の言う通りだ。昔の作家はその程度の営業活動で十分だったからな」 麻里はサイン本をバッグに仕舞うと、別の本を取り出した。
「サインしていただいた御礼というわけではないのですけれど、私の本をお渡ししてもいいでしょうか」
『卑弥呼のタイトロープ』と題された本で、何日か前、新聞の広告に出ていたことを千秋は思い出した。確か彼女の二冊目の本で短編集だったはず。
龍造はそれを受け取ると、面白そうな題名だなと言って中身をぱらぱらと見てから、「折角だからサインしてもらおうかな」と本を麻里の前に置いた。
「え」 「ここに筆もあるし」 「……筆は使ったことがないので、サインペンでよろしいでしょうか」
「もちろん構わないですよ。千秋さん、うちにサインペンあった?」 「筆ペンならありますけど」 「あのう、私、サインペンを持っていますので」
そう言うと、麻里がバッグからサインペンを取り出した。
「いい心がけです。プロ作家たるもの、いつ何時読者からサインを求められるか分からないですからな」
先生の前で緊張すると言いながら、麻里は見開きに時間をかけてサインした。決して達筆ではないが、やや丸みを帯びた丁寧な文字である。
それがすむと、今度は龍造とのツーショット写真を撮らせてほしいと言い出した。ツイッターにアップしたいと言う。龍造の質問に答えて、千秋はツイッターとはどういうものかを説明したが、龍造は今ひとつイメージが湧かないようだ。静原麻里が先生に面会に来たのはこれが目的だったのかと思った。自分の本の宣伝のため?
「いわゆるSNSの一種なのかな、ツイッターも」 「おじいちゃん、SNSって知ってるの?」
「当たり前だ。ソーシャル・ネットワーキング・サービスのことだろう。そんなこと、新聞を読んでいたら分かる」 「さすがあ」
「千秋さん、ツイッターに載せたら本の宣伝にもなるわけかな」 「そうなりますね」
「わかった、この本が売れるのならいくらでも写真を撮ってもらおう」 そう言うと、龍造は老眼鏡を外した。
「先生」と麻里が激しく手を振った。「私はそんなつもりでツイッターにアップするのではありません。先生との出会いを一生の記念として残しておきたいだけなんです」
「それがあなたの正直な気持ちであることは分かります。でも私としてはこんな顔が少しでも役に立ってくれればうれしい」
「でも、おじいちゃんとこの人では読者層が違うから、大して売れ行きには響かないと思うけど……」 「翔太、そこは正直に言わんでもよろしい」
「はい」と翔太は首をすくめた。
千秋は麻里に龍造の横に座るように言い、麻里のスマートフォンで、龍造と彼女がそれぞれ自分の本を表紙が見えるように持っている姿を撮った。
「これでおじいちゃんの本がまた売れるかも」と翔太が言うと、「絶版になっていなけりゃわしも儲かるのだが」と龍造が軽口を叩いた。
麻里は『四ツ谷橋から』の表紙を開け、見開きの龍造のサインを写真に撮ると、スマートフォンの画面を素早くタップした。そして「アップしました」と皆に見せた。
――尊敬する小野寺龍造先生のお宅にお邪魔しています。今日は人生最高の日になりました。
ツイートに続いて二枚の写真がアップされている。龍造は外した老眼鏡を再びかけて画面を見た。千秋が指を使って写真を拡大すると、「うーん、これが自分の顔か。なかなか本当の姿は分からないものだ」と龍造がつぶやいた。
「おじいちゃん、鏡を見ないの?」
「鏡は自分が見ているから駄目なのだ。カメラという自分ではないものが写してくれるから本当の姿が見えてくる。それは小説も一緒だ」
「何だかよくわかんない」 「お前もいずれ分かるようになる」
翔太と麻里が屋敷を辞するときになって、龍造がついでに散歩をしてくると言い出して、千秋は携帯電話を持たせて送り出した。
夕食時、龍造の機嫌はすこぶるよかった。いつもは缶ビール一本が二本になったことを見ても分かる。特に、出版当時ほとんど反響のなかった『四ツ谷橋から』を静原麻里が何度も読み返してくれたことが龍造を喜ばせているのは明らかだった。自分以外の小説の読者はたった一人でいい、その読者の中に深く入り込めばもって瞑すべし、というのは龍造の持論なのだが、それがまさに確認できたのだから、千秋にも龍造の喜びが分かる。
彼が静原麻里からもらった本をすぐに読み出したことにもそれが表れている。献本の類いは結構あるが、書評とかエッセイの仕事につながらなければ龍造はまず読まない。知り合いからの本でも最初の二、三ページ読んだだけで千秋に、読みたければと回してくる。
しかし『卑弥呼のタイトロープ』は、次の日には読み終えて、いやあ、面白かった、千秋さんも読んでみなさいと渡してくれた。
それは、A賞受賞作の続編とでもいうべき内容で、母との確執に加えて学校でのいじめが始まり、主人公の女子中学生は自分を卑弥呼になぞらえて、ひたすら呪詛と呪術を繰り返すことで自分を守る姿が描かれている。暗い内容なのだが、いわゆる鬼道の詳細がこれでもかというくらい事細かに描かれ、そこに微かなユーモアと強さが表れていて、読後感は意外と悪くない。
千秋は小説のモチーフということを考える。静原麻里の作品はすべてが彼女の経験とはいわないまでも、どこかで彼女自身とつながっている――龍造のいうヘソの緒がつながっていることが伝わってくる。自分にはそういうヘソの緒があるのかと自問し、千秋は自分の中学生の頃を思い浮かべてみる。小さい頃から可愛いとか美少女とかちやほやされてきたのが嫌になって、中学に入ると視力が少し落ちたことをこれ幸いとばかりに丸い眼鏡をかけるようになった。母親はコンタクトレンズにしてもいいのよと言ってくれたが、眼鏡の方が楽と拒否し、髪型も制服もできるだけ目立たないようにして過ごした。千秋ちゃんは身長もあるしきれいなんだからもっとおしゃれをしたらと母親ばかりでなく友達にも言われたが、彼女は地味にすることを通した。今から思えば笑ってしまうが、その当時は小説家になるには不幸でなければならないと思い込んでいた。自分の中に鬱屈がなければ、いい作品は生まれないと思っていた。かといって、勉強もトップクラスの千秋はいじめられる対象になることもなく、いわゆるスクールカーストの最底辺にいる女の子がいじめに遭うのを遠巻きに見ていただけだった。静原麻里は自分が見ていた最底辺の女の子の一人だったのだろう。いじめる人間に対する怒り、いじめられる女の子に対する同情、しかし何もできない自分の無力感、それらの感情を持て余しながら、千秋がその頃書いていた作品は男の子の冒険小説だった。
その時の自分の鬱屈などいじめられた側から見れば大したことはないと思っていた。しかしそれを軸にしてもいいのではないかと思うと、何か新しい作品が書けそうな気がした。
六
龍造は何十年ぶりかで書棚から『四ツ谷橋から』を取り出した。同人雑誌に発表した作品に文芸誌の編集者が目をつけ、その文芸誌に二作発表し、同人雑誌の分と併せて三作の作品集として出版されたものだ。男との噂が絶えない奔放な母親とそれを黙認しているおとなしい父親の姿を高校生の息子の視点から描いた作品で、主人公の名前はそれぞれ違ってはいるが、連作長編としても読め、主人公が母親の首を絞め、殺す寸前までいくところが山場になっている。
当時は七十年安保の時代で、過激派の運動が耳目を集めており、龍造の私小説風の小説など見向きもされなかった。書評も皆無で、そのことは龍造を落ち込ませるのに十分だった。リングに上がって一分もしないうちにノックアウトを食らった感覚だった。編集者は気落ちせずに次の作品を書くように励ましてくれたが、書く意欲が湧かないのはどうしようもなかった。
龍造は三作目の「西日の当たる部屋」のページを開けてみた。生硬な文章に苦笑しながらも、リズムは今とあまり変わりがないのでついつい読まされてしまう。
〈……午前一時、広志が噛み跡のある鉛筆を握って微積分の問題を解いていると、アパートの外階段を上がってくるヒールの音が聞こえた。錆びた踏み板を鳴らすその不規則な音の連なりでまさに母親であること、さらにはよろける肢体までが想像でき、広志は机の電気スタンドを消した。暗闇の中、息を潜める広志の耳に、ドアノブ錠に何かカチャカチャと当たる金属性の音が響き、早く入ってきて寝てしまえ、脳内の言葉が思わず口に出た時、いきなりドアが叩かれた。
「ヒロシー、ここを開けてぇ」
ガラスをガラスで擦るような声が広志の神経を逆撫でするのを唇を噛んで耐えながら、俺はここにはいない、俺はここにはいない、思っていることが再び口に出た。
「ヒロシー、早く開けてよぉ、ミヤコ様のお帰りだー」
ドアを叩く音が激しくなり、ヒールで蹴っているのか高い音も聞こえてくる。広志は仕方なく襖を開け、手で探って電灯の紐を引っ張ると、薄橙色の光がちっぽけな台所を照らし、流し台の上、格子のはまった磨りガラスにぼんやりとした白い顔が浮かんでいる。
「鍵を開けて自分で入れよ」と広志は怒鳴った。 「そんなこと言わないで開けてよー」
母親の声に媚びる色調がわずかに混じっており、それは広志に母親が今夜何をしてきたかをまざまざと思い起こさせた。
ドアを開けると、ピンクのワンピースにグレーのショールをまとった母親がゆらりと入ってきた。長い髪を持ち上げて結った髪がほつれ、真っ赤な口紅が歪んでおり、彼女は手に持った鍵を投げ捨て、それが広志の膝に当たって床に落ちた。
「鍵ぐらい開けられるだろう。俺の勉強の邪魔をすんな」 「暗いから穴に入らないのよ」
言ってから母親はヒヒと卑猥な笑い方をし、「今あたし、エロいこと言っちゃったわね」と広志に顔を向け、ワンテンポ遅れてその意味するところに気づいた彼は顔が熱くなるのを感じた。
「鍵も開けられないくらい酔っ払う方がどうかしてる」 「誰が酔っ払ってるって。酔っ払ってるわけ、ないじゃない、このあたしが」
そう言うと、母親はハイヒールを脱ごうとしたが、バランスを崩して倒れかけ、思わず広志は手を出し、母親の身体を受け止めると、化粧品の匂いに混じって酒臭い息が鼻腔を包む。息を止めながら彼は母親の身体を床に寝かせるためにそのまま腰を下ろした。空いた襟ぐりから乳房の谷間が見え、広志は目を背けた。
「あんたも男ねぇ、男の手ってどうしてこんなに安心できるのかなあ」
目を閉じた母親が言うのに構わず、広志が彼女の背中から手を抜くと、後頭部が床にぶつかり、ゴンという音がした。
「痛」母親がゆっくりと右腕を挙げ、後頭部に手を当てながら、上目遣いに広志を見る。 「せっかく気持ちよくなってたのに、何てことするの」
それを無視して部屋に戻ろうとすると、「ヒロシ、水」という声がし、 「すぐそこにあるだろう」 「水、水、水」
母親がまだハイヒールの脱げていない足と脱げた足をばたばたさせると、ワンピースの裾が持ち上がって白い太腿が見えた。
広志はコップに水道の水を入れて、横たわっている母親の顔の前に持っていった。 「飲ませてちょうだい」 「馬鹿か」
「あたしの頭を床にぶつけた罰」 今度こそ部屋に戻ろうと背を向けると、母親が足首をつかみ、
「お願い、飲ませてちょうだい。あたしはあんただけが頼りなのよ」 今度は泣き落としか、そう思うが、足首をつかんだ手を振り払うことができない。
広志はかがみ込み、首の後ろに手を入れて頭を起こすと、コップの縁を赤い唇に当てた。目を閉じたまま母親がわずかに口を開き、広志がコップを傾けると、口から零れた水がくねりながら胸の谷間に流れ込んでいく。
突然母親が咳き込んだ。目を見開き、痙攣するかのように胸を波立たせ、「バカ」何度も咳をしながら「女に水も……飲ませられないなんて……それでも男か」
母親の目が知らない女のそれに見え、広志はコップを投げ捨てた。壁に当たったコップの割れる音、聴覚神経から入った音の信号が脳内にスパークして膨張し、広志の中の何かのスイッチをぐうっと押した。決められた動作であるかのように広志は母親の首に両手をかけた。ぐにゃりとした感触。死ねぇー、脳内に言葉が響き渡り、広志は母親の首をぐいぐいと絞めていった。〉
そこまで読んで龍造は本を閉じた。六十年前の手の感触がまざまざと甦ってきたからである。小説ではそのまま締め続けて母親が気を失い、死んだと思った主人公が呆然としながらも死体をどうしようかとあれこれ考えているうちに、母親が息を吹き返す、という展開になっているが、実際は気を失う前に龍造は手を放したのだった。母親の目が笑ったので手を放したと自分では思っているが、本当に母親が笑ったのかどうかは確信が持てない。彼が手を放すと、母親は何事もなかったように身体を起こし、ガラスの破片を一つ残らずきれいにしておくようにと言い残して部屋に引っ込み、そのまま寝てしまったのだ。
翌朝、母親は前の晩のことを全く覚えていないようで、普段通り起きて朝食を作り、彼を学校に送り出してくれた。しかし単身赴任中の父親と別れたのはすぐその後のことで、龍造はやはり母親は覚えていたのだと自分の記憶を改めることになる。母親が死んだのは離婚して一年ほど後で、男の運転する車がスピードを出しすぎて対向車線にはみ出し、ダンプカーと正面衝突してしまったのだ。即死だった。
龍造は人生で何度繰り返してきたか分からない質問を自分に投げかける。あの時、俺が母親の首に手をかけなければ両親は離婚せず、いや、いつかは別れたかもしれないが、少なくともすぐということはなく、従って母親の一年後の死もなく、つまり母親の運命も変わっていたはず。いっそのことあの時自分の手で殺しておけば、と思うのもいつものことである。もしそうしておけば自分は小説など書かなかっただろうし、小説家という職業に就くこともなかっただろう。あの時の自分の周囲をぐるぐると回りながら、答えのない答えを探してきたようなものだ。
龍造は『四ツ谷橋から』を書棚に戻し、机の前に腰を下ろした。書きかけの原稿用紙を前にして執筆前儀式である鉛筆削りを始めようと思ったが、鉛筆立てに手が伸びない。仕方なく、前日書いた箇所を読んでみたが、他人の書いた文章にしか感じられない。あんなものを読まなければよかったと後悔しても遅い。龍造はため息をついて煙草盆に手を伸ばした。ライターで火をつけ、口にくわえる。そして肘掛けに片肘をつき、掌に頭を乗せた。頭を駆け巡るのはとりとめない過去の断片ばかりである。母親の葬式のときに照りつけていた太陽のギラつき、初めて女と寝たとき、女の寝顔を見て、どうして自分がこんなところにいるのかという戸惑い、文学賞の授賞式で受賞者として登壇したとき、誰もが自分を嘲笑していると感じたこと、ののしる妻の口の中がなぜか真っ黒に見えることに驚いたこと……。死の間際には走馬灯のように自分の人生が繰り返されるというが、今のこの状態は自分が死につつあることの証かもしれないと半ば嗤いながら口から煙を吐き、回想という形式の持つ甘美さに身を委ねた。
午後からは神和書房の編集者との面会が入っていた。何人かの編集者は見知っていたが、井納という名前には心当たりがない。龍造がいろいろな雑誌や新聞に発表したエッセイをまとめたいらしい。龍造は今までエッセイ集を二冊上梓しているが、そこに収めきれなかったものやその後新しく書いたものもある。どういうエッセイ集になるのか話を聞こうということになった。
龍造がソファーに腰を下ろしているとチャイムが鳴り、千秋が玄関に出て行く足音がした。男の声がし、それに答える千秋の声が聞こえ、二人のやりとりが応接室の前まで続いた。井納様がお見えになりましたという千秋の声がしてドアが開き、彼女に続いてグレーのスーツを着た若い男が入ってきた。初めて見る顔である。千秋の持っている紙袋が蜂蜜プリンのメーカーのものであることに気づいて、またかと龍造は苦笑した。
「先生、お忙しいところを面会していただき、ありがとうございます」
井納が頭を下げた。茶色っぽい髪の毛がさらさらと前に垂れる。龍造がどうぞと向かいのソファーを手で示すと、恐縮ですと言いながら腰を下ろし、鞄から名刺を取り出した。両手で差し出された名刺を龍造も両手で受け取る。〈神和書房編集部 井納大二郎〉とある。
そばに控えていた千秋が「飲み物は何をお持ちしましょうか」と尋ねてきた。 「うーん、今日は紅茶にしようか。井納さんはコーヒーの方がいいのかな」
「いえ、私も同じもので」
井納が千秋に向かってにこりとした。いつもは表情を変えない千秋が微笑みを返し、分かりましたと応接室を出ていった。応接室に来るまで千秋が訪問者と会話を交わすのも珍しいことなので、やはり若い男だと対応が変わるのかと龍造は内心でにやりとした。
「井納さんはいつ神和書房に入られたのかな」 「今年の四月です」
「梶原さんと」と龍造は多恵子の結婚相手の名前を出した。「一緒に仕事をしているんですか」
「梶原さんは私のボス……いや上司でして、いつも厳しく指導していただいています」 「今回のエッセイは梶原さんの提案?」
「いや、私が企画しまして上司の許可をいただきました」
そう言うと井納は鞄から三冊の単行本を取り出した。二冊は龍造のエッセイ集で付箋がいっぱい貼られており、もう一冊は別の小説家の出したエッセイ集である。そのタイトルが評判を呼んでベストセラーになっているというのは龍造も知っていた。
「先生のエッセイ集を読みまして、これが売れるのなら」と井納は一冊を手に取った。「先生のエッセイも切り口を変えて集めれば売れるのではないかと思いまして。例えば、自分の恥を徹底的にさらけ出してそれを笑いに変える自虐力に注目するのはどうでしょうか。先生のエッセイは結構笑えるのが多いですし、笑った後これなら自分にもできそうと思わせますし」
「自虐力ねえ」 龍造は苦笑した。 「まずいですか」 「いや、確かにそういうエッセイを書いてきたので、それを軸にする手もありかな」
井納はほっとした表情を見せると、龍造のエッセイ集の付箋のついた箇所を開いて、こことかここもそうですし、と示していった。
千秋が飲み物を載せた盆を手に入ってきた。蜂蜜プリンも載せていて、それらを龍造と井納の前に置いた。
「あなたも同席して、井納さんの話を聞いてもらおうか」
龍造がそう言うと、千秋は盆をテーブルに置いて龍造の横に腰を下ろした。井納はもう一度企画の意図を説明し、龍造のエッセイのいくつかを、これなんかぴったり、これも面白いでしょう、これ、私は好きですね、などと龍造の時よりも熱心に千秋に示した。
「千秋さんはどう思う、この企画」 「私もいいと思います。面白そうですから」 「よかった」と井納が微笑んだ。
企画を受けることになり、判型は四六版でハードカバーにすること、今まで雑誌や新聞で活字になったエッセイのコピーを千秋が集めて井納に送ること、企画に沿ったエッセイを龍造が新たに書き下ろすことが決まった。
蜂蜜プリンを食べ、飲み物を口にしながら雑談する中で、井納が三十歳で、神和書房に来る前は大手機械メーカーで営業の仕事をしていたことが分かった。現場の職人と話しているうちに何か自分でも作り出すことがしたいと思うようになって出版会社に転職したというのだった。今まで一冊だけ自分の企画本を出しており、それがこれですと井納が鞄からソフトカバーの本を取り出した。『ヘイトスピーチなんかブッ飛ばせ』という題で、現役女子大生奮闘記という副題がつけられている。作者名はヒヨコっちというハンドルネームになっており、本人はヘイトデモに対抗するデモを中心になって企画した女子大生で、
「在日の子かなと思って近づいたら、ごく普通の日本の女の子だったんでびっくりして、ブログを読んだんですよ。そうしたら面白かったので、ブログとインタビュー記事で本にしてみました」
そう言いながら井納がテーブルに滑らせた本を、龍造は手に取った。 「なかなか硬派な本ですな」 「コウハ、ですか」
「硬派な内容を面白く、というのは神和書房のモットーでしょう」 「ああ、その硬派ですか。そうです、そうです」
井納は、お邪魔にならなければお渡ししてもいいですかと言い、余っておりますからと付け足した。
玄関まで見送りに出て、井納が引き戸を閉めて去っていくと、「あの男どう思う」と隣にいた千秋に尋ねた。 「どうと言われますと……」
「何だか楽しそうに話していたから」 「そうでしょうか」
「そうだよ。あの男を応接室に案内する間も何やら話をしていたでしょ。珍しいなと思って。それに蜂蜜プリン。あれもあなたが教えたんでしょ」
「そうです。電話があったとき、先生のお好きなものを聞かれましたので。それと、実はあの方にお会いするのは二回目だったものですから」 「二回目?」
「はい。この前の多恵子様の結婚式の二次会でお目にかかっておりまして、ああ、あの時の、と驚いて、ついつい話してしまいました」
「何だ、そうだったのか。世の中は狭いなあ」 「ええ、本当に」
「……うん? ちょっと待てよ。二次会の時に井納くんはあなたが私の秘書であることを知ったんでしょ」
「どうでしょうか。私はそんなことは一言も言わなかったですけど」
「あなたが言わなくても誰かに聞いたら分かるじゃないか。うーん、ひょっとしたら井納くんはあなたに近づくために本を企画したのかもしれんな」
「まさか」 「そのまさかだよ。私の勘は意外と当たるからな」 「もしそうだしたらこの企画はお断りになりますか」
「いや、仕事は仕事だから断らないよ。でもあなたは気をつけた方がいい。相手がそのつもりでいることを頭の片隅に入れておくこと」
「はい、分かりました」
七
先生の勘は鋭いと千秋は冷や汗をかいた。実は、エッセイ集の依頼の電話があったとき、「あなたに近づくために企画したんですよ」と井納が明かしたのだった。
「LINEにも携帯電話にも音沙汰がなかったんで、これはスルーされたなと思いましてね。考えましたよ。小野寺龍造の小説を出すのは無理なのでエッセイ集ならどうかなと読んでみたら、これが結構面白くて。これなら企画が通るかなとやってみたら、ボスの後押しもあってすんなりとOKが出まして」
「仕事上のお付き合いなら、いくらでもさせていただきます」 「まずは友達からという言葉もありますよ」 「あくまでも仕事上ということで」
「分かりました。それでは仕事仲間ということで」 「仲間ではありません」
「そうですね、まだ先生がこの企画を受けるかどうか決まっていませんものね」 「決まっても仲間ではないですよ」
電話の向こうで井納が笑い声を上げた。
「いやあ、千秋さん、面白い。私が近しさを演出しようとしているのを見破って、ことごとくはねつけてくるんだもの」
「千秋さん、と呼ぶのも一つの演出ですか」 「バレましたか」
下の名前で呼ばれたことにむっとしたが、それも演出だと吐露することで和らげているのが分かる。多恵子の言ったチャラ男という言葉は当たっているが、嫌な気持ちにならないのはこの男の術中にはまったということかもしれない。そう気づくことが千秋に余裕を与えたのは確かだった。
龍造に本当のことを言わなかったのは、先生の仕事を減らしたくないというのが第一だったが、井納に興味を持ったというのもある。
人の外見と中身は必ずしも一致しないということを学んだのは大学時代だった。
親元を離れ、都内で独り暮らしを始めた千秋は、プロ作家を数多く輩出している大学の文芸創作科に通い始めた。同級生の七割は女子で他の大学の男子学生との合コンがすぐに始まった。千秋も誘われ、いつもの地味な恰好で参加した。他の女子は目を引く化粧をしているが眼鏡をかけた彼女はすっぴんで、会が進んでも話しかけてくる男子はいない。それでも千秋はみんなの様子を観察しているだけで面白かった。そんな時、おとなしそうな男子が側に来て遠慮がちに声をかけてきた。理科系の男子学生によくある、自分の興味のある分野ならいくらでも喋れる男で、千秋はあきれながらもその子供っぽさに惹かれて付き合うことになった。
二ヵ月ほど付き合っただろうか、ある日初めてキスをし(こんなものかと思ったくらいだった)、その勢いで彼がスカートの裾から手を入れてきた時、千秋はその手をやんわりと押し戻した。
その夜を境に彼からメールもLINEもぱったりと途絶え、あのとき手を押し返したのがマズかったかなと千秋は思ったが、別にフラれて傷ついたという感覚もなく、まあいいかと思う程度だった。
ところがしばらくして、合コンに誘ってくれた女子から、彼が美人の女子学生と付き合っているという話を聞いた。あなたの彼ってあたしが今付き合っている彼の友達なのよ、二股をかけてたみたいと言いながら、彼女はスマホの画面を見せてくれた。そこには、彼と頬をくっつけるようにして綺麗な女の子が映っていた。
そういうことかと千秋は思った。男って単純だな。そう思ってそのことは忘れてしまうはずだった。しかし日にちが経つにつれて、次第に怒りというか鬱屈が溜まってきて、そのことに自分でも驚いた。もっと素直になったらどう、自分の中のもう一人が囁く。男が単純なら、その単純さに合わせてやればいいのよ。
千秋は眼鏡をやめてコンタクトレンズに変え、ストレートのショートヘアにゆるくパーマをかけ、デパートのコスメ売り場でナチュラルメイクを学んだ。初めて化粧品を買いに行ったとき、「すっぴんではもったいない。是非メイクをさせて」と売り場の美容部員に懇願されたのだ。着る物も黒とかブラウンの無地が多かったのが、ショップ店員の勧めで白とかピンクの柄物を買った。当然お金が必要なので、実家の母に、女を磨く費用がいると素直に申し出ると、母は大いに喜んで、わざわざお金を持って実家から出てきてくれた。
美しくなった千秋を初めて目にして、 「そうよ。これが本来のあなたの姿なのよ。やっと繭から抜け出て蝶になったわ。お母さん、うれしい」
と千秋の顔に手を当てた。 千秋が変身した姿で初めて大学に行った時、男子学生ばかりでなく女子学生もちらちらと彼女を見た。
「笹川さん、どうしたの」 声をかけてきたのはあの合コン女子だった。 「ちょっとした心境の変化」
「すごくきれい」彼女は千秋の顔をまじまじと見た。「Nくん、今のあなたを見たら、きっとよりを戻してくれって言うわよ」
そう言うと彼女はポケットからスマホを取り出し、「写真撮ってもいい?」とこちらに向けた。一瞬迷ってから「いいわよ」と千秋は微笑んだ。
その写真が回ったのに違いない、Nから一ヵ月ぶりにLINEが来た。
「ごめん、連絡が遅れて。実験のレポートに追いまくられていて時間が取れなかったんだ。やっと終わったから、どう、遊びに行かないか」
千秋はもちろん返信はせずに、Nを友達リストから削除した。
授業中、今まで感じなかった准教授や教授の視線を感じるようになった。若い講師が近くの学生に、あんな子いたっけと尋ねるのが聞こえたこともあった。ただ、千秋が予想した、男子学生から次々に声をかけられるという場面は全くといっていいほどなかったし、合コンの誘いも来なくなった。
定期的に様子を見に来る母親にそのことを告げると、 「そりゃあ、あなたが綺麗になったからよ。誰かいい人がいると思われているのよ」
面倒くさいなあと千秋は思った。男が寄ってくれば人間観察してやろうと待ち構えていたのに却って遠ざけてしまうとは。一旦蝶にはなったが、もう一度繭に戻ってやろうかと思ったが、その時の周りの反応は驚きよりも疑念の方が大きいだろうと考えると、それも面倒に思えた。
ある日、大学構内を歩いていると、すみませんと男子学生から声をかけられた。滅多にないことにちょっと動揺しながら、はいと微笑むと、
「ミスキャンパスに応募しませんか」とチラシを手にした男子学生がはにかみながら言った。そういう経験も小説のネタになるから面白そうと一瞬思ったが、もし当選した場合、自分の作品が読まれるときに、ミスキャンパスが書いたというバイアスがかかってしまうに違いないと考えた。今なら、バイアスがかかってもいいじゃないと思えるが、当時はテキスト至上主義を信奉していたので、
「その気はありませんので」と断った。
男子学生は、そう言わずにと千秋の歩きに合わせながら食い下がったが、千秋が知らん顔をしていると、残念だなあと去っていった。
秋の大学祭でミスキャンパスコンテストが催されたが、どこからともなく陰のミスキャンパスは笹川千秋だという噂が広がるようになった。
二年生になって文章表現の基礎技術という実習科目が始まった。担当は市村准教授だった。市村は他の教師とは違って千秋を見る目に何の色もついていないように見えた。どの学生もフラットで見ていると思えた。
しかし最初の授業で市村と目が合ったとき、千秋はこの男と寝るかもしれないという予感がした。なぜだか分からない。百六十五センチの千秋と同じくらい背丈の、男としては小柄な方で、別にイケメンというわけではない。むしろ風采が上がらないという方が近い。ただ、澄んだ沼のような目には他の男にはない冷静というか諦観めいた光を感じた。
実習で返された自分の文章に市村のチェックが入っており、それが納得いかないという理由で、彼の研究室を訪れた。半分本当で、半分は彼に近づくためである。
千秋がドアを閉めると、開けておくようにと市村が言った。彼女は再びドアを開け、本や書類が積まれている市村の机に近づくと手に持ったA4の紙を彼の前に置いた。
「納得がいかないんですけど……」 「どこが」 千秋はいくつか赤で直されている箇所のうち三箇所を指で示した。
「ああ、そこか。どれも言葉を詰め込みすぎてリズムが悪くなっているから、不要な言葉を外して読みやすくしただけですよ」
「私は不要だとは思っていません。必要だから書いているのです」 「あなたがそう思うのなら、それでいいでしょう。私の訂正は無視して構いませんよ」
えっと思った。そんなに簡単に白旗を揚げられたら、とりつく島がない。 「文章のリズムがいいとか悪いとか、どうやったら身につくのですか」
とりあえず思いついたことを質問してみた。 「そうですね……」
市村は立ち上がって書棚に近づき、一冊の本を手に取った。そして中を開いてページをめくった。 「そこに座って、これを読んでみなさい」
市村が顎で書棚の側にある古ぼけたソファーを示した。千秋がソファーに腰を下ろすと、手に広げられた本が載せられた。
「ここから読んでみなさい」と市村が右ページの一箇所を指さす。表紙を見ると「近松門左衛門集3」とあり、曽根崎心中の一節であることが分かる。千秋は一つ大きく呼吸をすると、読み始めた。
「この世の名残り、夜も名残り。死に行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く夢の夢こそ哀れなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂(じやく)滅(めつ)為(い)楽(らく)と響くなり」
市村が横に座ったので千秋はどきりとした。顔を近づけてきて本をのぞき込む。煙草の匂いがして、学内は全面禁煙なのにと思うと、どこまで読んだか分からなくなってしまい、読みが止まってしまった。
「いいから、気にしないで続けて」 千秋は動揺を隠しながら、
「鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面(おと)、北斗は冴えて影うつる星の妹(いも)背(せ)の天の河。梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星(めをとぼし)。必ず添ふとすがり寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩(みかさ)も勝るべし」
「もうそのくらいでいいでしょう」 千秋はほっとして本を下ろした。 「どうですか、読んでみて」 「七五調のリズムが心地いいです」
「そうでしょう。日本語の文章には七五調のリズムが隠れているのです。近松の文章はその極端な例ですが、そのことを意識するだけで文章に対する感覚が変わってきますよ。自分の文章を読んで何かリズムが悪いなと感じたら、七五調になるように言葉を変えるとか順番を入れ替える。もちろん近松のように七五調の連続では笑われてしまいますから、部分的にね。要は使い方ですよ」
顔が近い。体を引いて距離を取るべきだと頭では分かっていたが、千秋は身を硬くしてじっとしていた。 「どうして来たの」
市村が耳元でささやいた。息が耳たぶに当たり、ぞくりと電流が走った。市村はそのまま顔を前に持ってき、千秋の唇に唇を当てた。手から本が落ちる。反射的に顔を離そうとして千秋の身体がソファーに倒れ込んだが、市村もついてきて唇がさらに強く押し当てられた。千秋は両腕を市村の首に回した。その自然な動作に自分自身が驚いた。市村が舌を差し入れてくる。千秋は口を開き、その舌を迎え入れ、さらに絡ませた。煙草の匂いがし、この匂い好きかもと彼女は思った。市村の舌が歯の裏の口蓋を擦ると、千秋の下腹部が熱を持った。
突然市村が体を離した。呆気にとられていると、彼は出入り口まで行ってドアを閉め、カチリと錠をかけた。そして戻って来ると、行為の続きが始まった。こんなソファーの上でと思ったが、彼女の予感が当たることになった。
後(のち)に、「いつもあんなことをしているの?」と聞いたことがある。 「するわけがない」 「だったらどうして」
「君の目がしたそうにしていたから」 千秋は市村をにらんだ。
「そう怒るなよ。陰のミスキャンパスと噂されている女子が来たら、おっと思うのが普通だろう」 「噂なんかに興味がないと思っていたわ」
「興味がなくても耳に入ってくるのが噂というものさ」
千秋は市村から男女のことばかりでなく、彼の専門の文章表現や文学全般、あるいは小説の読み方、書き方についていろいろと学んだ。さらには、同僚の教授や准教授、講師たちに対する辛辣な批判も千秋を面白がらせた。最初は、人の悪口を言うなんてと眉をひそめたが、相手の欠点を突く的確な言葉使いがいかにもその人を思わせる表現になっているので、痛快になってくるのだった。それは彼女が最初に市村の目を見て感じた諦観とは全然違う姿だったが、ふとした瞬間に見せる、世の中から一歩引いた態度は彼女の直感が正しいと思わせるに十分だった。
千秋と市村の関係は半年ほどで大学当局に知られるところとなった。市村は既婚者なので一層問題となり、メディアに嗅ぎつけられる前に急いで処分ということになった。
結局、市村は北海道にある系列の大学に移籍し、千秋は自主退学した。市村の妻がパニック障害を患っていることを知らなければ、千秋は北海道に行き、関係を続けていたかもしれない。
両親は落胆し、彼女を実家に連れ戻した。父親は、お前の教育がなっていなかったからだと母親を責め、人形のように娘を飾り立てたのが間違いだったと嘆いた。娘が綺麗になって喜んでいたのはあなたも同じでしょうと母親は言い返した。二人のそんな言い争いを千秋は苦い思いで聞いていた。
一年間は家事手伝いをしながら軟禁生活に耐えていたが、次第に我慢できなくなって東京の某出版社のアルバイトを始めた。そこの社長から小野寺龍造の秘書という仕事を紹介され、これで実家を出ることができると千秋は一も二もなく飛びついたのだった。龍造が高名な小説家で、かつ高齢であることが両親を安心させたに違いなかった。
千秋は書斎の書棚から龍造のエッセイが掲載されている雑誌や新聞を選び出し、コピーを取り、一つ一つに掲載紙誌の情報を書き込んだ。初期のものは散逸しており、保管してあったのは三十年分で百五十編あまりだった。それが多いのか少ないのか千秋には分からない。
その仕事の合間に、井納が企画したという女子大生の本を読んでみた。彼女が反ヘイトデモをやろうと思ったのは、初めてヘイトデモに遭遇したことがきっかけだった。その時の身体反応を言葉にしている。
「全身の血が頭から下がっていって足の裏から地面に吸い込まれた感じ。立っていられなくてしゃがみ込む。体が氷のように冷たくなって私は両腕で自分を抱いた。体がぶるぶると震える。胃がムカムカしてきて吐こうとしたが何も出てこず、それでもムカムカが収まらず、涙目になってウェーウェーやっていたら酸っぱい胃液がほんの少しだけ地面に落ちた。……」
彼女も中学生の時にいじめられた経験をしており、その時の身体反応が甦ったと書いている。その当時の自分を救うつもりで、一人で反対デモを始めたという。拡声器でがなり立てながら車道を行くデモ隊の横の歩道を、「ヘイトデモはしないでください」と手書きした段ボール紙を掲げて歩くのは恐かったらしい。間に警官隊が入っていなければできなかったと書いている。面白かったのは、次第に人が彼女の後ろに付くようになったことだった。人数は十数人と少なかったが、こわごわ行動を起こした彼女にとって、勇気づけられる出来事だった。
巻末に彼女のブログのURLが記載されていたので、ノートパソコンで見てみたが、すでに閉鎖されていた。しかしひょっとしたらアーカイブサイトに残っているかもしれないと思って、『ヒヨコのつぶやき』というブログ名で検索をかけると、果たして十数件のアーカイブサイトがヒットした。そのうちの一つを見ると、月四、五回あったブログが九ヵ月前の更新で止まっていた。本の発行日から一週間ほどたった日付になっている。都内の書店に手書きの本のポップを飾ってもらっている写真が何枚か載っており、「重版になればうれしいな」と書かれてある。遡って読んでいくと、本に書かれた内容そのままだった。閉鎖するとのコメントもなく突然閉じられているのが気になりながら、千秋はノートパソコンを閉じた。
二週間ほどかかってコピーの仕事を終え、井納に連絡すると、取りに行きたいけれども仕事が立て込んでいるのでできれば持参してほしいと言われた。郵送ではなく持ってきてくれと言われるだろうと思っていた千秋はやっぱりと納得し、指定された日時に東京に向かった。
神和書房は小さいながらも自社ビルを構えており、その四階に編集部があった。ドアが開いていて、十人ほどの人間が、パソコンをにらみながらキーボードを叩いたり、コピーを取ったり、何かを見ながら話し合っていたりと雑然とした雰囲気だった。それぞれの机上にそれこそ山のように本や雑誌が積み上げられているのがさらに乱雑さを強調している。
多恵子の結婚式の二次会で会ったことのある編集部員が千秋に気づき、「井納くん、お客さんだよ」と奥で誰かと話している茶髪の男に声をかけた。井納は振り返り、やあと手を上げると、再び相手と少し話してからこちらにやってきた。
「すみませんねえ、ご足労をおかけして」 「本当にそう思ってます?」
「思ってますとも。いやだなあ、ぼくってそんなにいい加減な男に見えます?」 「見えないこともないですけど……」
「だったら今度の仕事でそのイメージを覆しましょうか」 「お願いします」
それではということで、千秋がリュックに入れて持ってきたコピーの束を見せることになった。井納の机も書類で埋まっているので、来客スペースのソファーに向かい合って腰を下ろした。
井納はコピーの束を一枚一枚めくっていく。時折手を止めて内容に目を通したりしながら十分ほどで最後の一枚にたどりつくと、
「きちんと時系列に揃えてあって助かります。後でじっくりと読ませてもらいます。ところで千秋さん、お昼はまだでしょう?」
千秋さんという言い方があまりにも自然なので、それにいちいち引っかかるのがおかしい気がしてきて、彼女は笑ってしまった。
「先生との昼食は大体一時頃ですから」 井納が腕時計を見た。 「十一時半か。ちょっと早いけど昼ご飯を食べに行きましょうか」
「そのつもりだったんでしょう。十一時にって言われたとき、中途半端な時間だと思いましたから」
「いやあ、そこまでお見通しなら言うことないです。さあ、行きましょう」
井納は何か食べたいものはと聞き、千秋が何でもいいですと答えると、歩いて数分のところにあるイタリアンレストランに連れていった。こぢんまりとした店内は赤いレンガを使った内装で、まだ早いせいか一組の客がいるだけだった。食欲をそそるいい匂いがしている。
井納は常連らしく厨房から顔を覗かせた白い服のコックに片手を上げ、奥のテーブル席に腰を下ろした。年配の女性が注文を取りに来、井納の勧めに従って千秋もカルボナーラを注文した。
「千秋さん、ワイン飲みます?」 「昼間は飲みません」 「ということは晩は飲むってことですね。先生は晩酌されるんですか」
「缶ビール一本ですね」 「五〇〇?」 「はい」 「千秋さんは?」 「赤ワインをグラス一杯ほどですね」
「いやあ、先生が羨ましい。こんな美人と毎晩一緒にお酒が飲めるなんて」 千秋は微笑むだけで、それには答えない。
「いつか、じゃなくて近いうちに一緒にお酒を飲みに行きましょう」 「それってデートの誘いですか」
「ぼくは今のこれもデートだと思ってますけど……」 そう言うと、井納は両手を広げて見せた。 「思うのは自由ですけど」
「千秋さんもデートだと思ってくださいよ。その方が楽しいじゃないですか」 「仕事のお付き合いをデートと言うのなら、その通りです」
「言葉に厳しいなあ。もっとゆるーく、ゆるーく」
井納は見えないボールを両手で撫でているような仕草をした。その長い指の動きはエロチックに見えないこともない。千秋はふっと市村の指を思い出した。
カルボナーラが運ばれてきて一口食べると、確かに井納の言うように卵のとろみと生クリームが絶妙にパスタに絡まり合っていておいしかった。そのことを告げると、でしょうと井納はしたり顔を見せた。
食後のコーヒーを飲んでいるとき、千秋は『ヘイトスピーチなんかブッ飛ばせ』を面白く読んだことを告げ、「彼女のブログも覗こうとしたんですが、閉鎖されていますよね。アーカイブサイトで読みましたが、最後の更新にも閉鎖を思わせるような雰囲気はなかったのに」
井納の表情が途端に曇った。眉根を寄せている。
「そうなんですよ。発売から二週間ほどは全然売れなかったんですが、あるブロガーがとんでもない本があるとツィッターで呟いてから急に売れ出して。それから反日だとか国賊だとか大騒ぎになって、うちにもバンバン電話とかFAXがきましてね。ガソリンを持って乗り込んでやろうかなんていう脅迫もありましたから警察にも届けましたよ。同業者からは炎上商法を狙っていたんだろうなんて陰口を叩かれて。そんなつもりは全くなかったんですが、参りました」
「それで彼女は大丈夫だったんですか」
「大丈夫じゃなかったですね。ネットで実名が特定されてさらにひどくなって。そりゃやっぱり恐いですよ。ブログを閉鎖し、大学も休学して今は実家に戻っています。彼女を守れなかったことに関してはホント責任を感じてます」
「でも、ある程度騒ぎになることは予想できたんじゃないですか」
「うーん、あの本を読まれたので分かると思いますけど、彼女は決してヘイトスピーチに対して理屈で対抗しているわけではないんですよ。自分の直感、感覚、いわゆる感性で気持ち悪いと言ってるわけですよ。そこが面白いから本にしたんであって、その感性は否定できないだろうと、こっちも甘えていたところはありますね」
「攻撃しにくいと?」 「ええ。だから題名をわざとキャッチーにしたんですけれどね。甘かったです。世の中は予想以上に変な風が吹いていますよ」
会計の時、千秋は自分の分を払おうとしたが、経費で落ちますからと井納は払わせなかった。
近いうちにホントに飲みにいきましょうねという井納の言葉を笑顔でかわしてから、千秋は駅に向かった。帰りの列車の中で、ヒヨコっちを自分の作品の中で勝たせてあげたいという気持ちがふいに起こってきた。そのためにはどういうストーリーにすべきか、それを考えていると帰りの時間はあっという間に過ぎていった。
八
千秋が何か作品を書いているのではないかと龍造が思ったのは、早朝木刀の素振りを終えた時、彼女が眠そうな目をしながら、水の入ったコップとお絞りを持ってきたのがきっかけだった。それが何度か続き、欠伸(あくび)をしたこともあって、一度尋ねたことがある。
「このところ夜遅くまで起きているようだが、小説でも書いているのか」 龍造の腕を拭いていた千秋は一瞬手を止めたが、すぐに、いいえと微笑んだ。
「井納さんからいただいた本が面白かったので、その関連で別の本を読んだり、ネットの動画を見たりしてましたから」 「面白い本でもあった?」
「ヘイトスピーチを実際にしていた人の手記なんか結構面白かったです。その人は今正反対の立場に立っていて、その当時の自分を批判的に書いていますからね」
「差別の構造が分かったということか」 「いいえ、そこまではなかなか……」
「差別というのは人間の感情に根ざしているからなくなりはしないだろうな。ただ、自分の心にも必ずあると思っておくと、暴走する歯止めにはなるかもしれん」
「先生にもありますか」 「わしなんかルサンチマンを核に書いているようなもんだからな」 「嫉妬、妬みですか」
「そうだ。そういう感情は小説を書くエネルギーになる」 「そうなんですか」 「あなたも小説を書いているから分かるでしょ」
「子供の時はそんなことはかんがえもしませんでしたけど」
その後も眠そうな千秋の姿を目にしたから、いよいよ小説を書いているに違いないと確信した龍造は、夕食の席で赤ワインを飲んで、ふうと息を吐き、おいしいと千秋が呟いた瞬間を捉えて、
「脱稿したのなら、一度読ませてくださいよ」 とさりげなく言ってみた。
「え」と絶句したが、すぐに千秋は破顔し、「いやだ、先生、私は何も書いていませんよ」とテーブルにワイングラスを置いた。
「そうか。私の勘違いだったか」 しかし龍造の確信は揺らがない。長年小説を書いてきた経験上、書いているときの状態というのは分かるものである。
まあ、そのうちに見せてくれるだろうとそのことには触れず、エッセイ集に収める新たなエッセイと自伝的小説の執筆に時間を費やしていたとき、何年ぶりかで隆から電話があった。千秋から「息子さんからお電話です」と言われたとき、孫の間違いではないかと思ったほどだった。
「どうした、お前が電話をかけてくるなんて、珍しいな」 「お父さん、余計なこと、しないでくださいよ」
始めからけんか腰なので、龍造は戸惑ってしまった。 「なんのことだ」 「翔太の本のことですよ」 「翔太の本?」
「そうですよ。あなたが仕掛けたんでしょ、どこかの出版社に売り込んで」 「ちょっと待ってくれ。わしにはなんのことかさっぱり分からんのだが」
「翔太がはしゃいでいるんですよ。何と言ったかな、〈あなたも小説家になれる〉だったかな、そこに載せた作品を本にしてくれる出版社が現れたって大はしゃぎして。あなたが口を聞いたんでしょ」
ようやく龍造は事態が飲み込めた。 「わしは何にも知らんよ。翔太の作品にイイネがたくさんついて、どこかの編集者が目をつけたんだろう」
「イイネなんか全然ついてませんよ。だのに出版社が目をつけるなんておかしいでしょ。あなたが何か言ったんでしょ」
「わしが言うわけないじゃないか」龍造はさすがに腹が立ってきた。「成人するまで作品は公にするなというのがわしの信条なんだ。違うと思うんなら、翔太に聞いてみろ。その信条のわしがどうして出版社に口を聞くのだ。むしろそんな話があったら、反対する方だぞ」
「だったらどうして本の話が持ち上がったんですか」 「だから知らんと言っとるだろう。翔太はどう言っとるんだ。聞いてみたのか」
「もちろん聞きましたよ。突然出版の話がメールで来たと言ってましたよ」 「ふーん、おかしな話だな」
「翔太は来年三年生で高校受験を控えているんですからね。小説なんか書いている暇はないんですよ。だからお父さんも変なことを吹き込まないでくださいよ」
「変なこととは何だ」 「もちろん小説を書くことですよ。才能があるとか何とか吹き込んだんじゃないですか」
息子と話してもらちがあかないと判断した龍造は翔太と替わってくれと頼んだ。 「出版の話に反対してくださいよ」 「分かってる」
保留音に切り替わり、しばらくしてその音が切れたと思ったら、「おじいちゃん、反対しても無駄だよ。ぼくは本を出すから」といきなり翔太の声がした。
「何という出版社なんだ」 「宝錘社」 「ほう、結構大手じゃないか」 「でしょう。そこのライトノベル部門が出してくれるんだって」
「翔太、前にわしが言ったことを覚えているか。習作はいくら書いてもいいが、本にするのは成人してからにしなさいと言ったはずだ」
「覚えてるよ。でも折角のチャンスなんだからぼくは本を出すよ。チャンスは前髪をつかめ、後ろは禿げているって言うしね」
くだらない警句を知っているなと苦笑しながら、
「あわてる乞食はもらいが少ない、とも言うぞ。お前はまだ十四歳だろう。人生の経験も読書量も圧倒的に少ないんだ。小説というのはな、どんな奇想天外のものを書こうと作者の人生がにじみ出るものなのだ。お前にはまだにじみ出る人生が不足している」
「成人したら、それが出てくるって言うの?」 「……まあ、今よりはましになる」
「ある作家が言ってたよ、小説を書くには十三歳までの経験で十分だって」 また、くだらない警句か。
「誰が言ったか知らんが、そんな作家にろくなものが書けんと断言してもいい。とにかく書く時間があるなら、それを読む時間に充てなさい。その方が今のお前にははるかに役に立つ」
「ぼくは書くことと並行して本もいっぱい読むから大丈夫だよ」 「学校の勉強はどうするんだ。高校受験を控えているんだろう」
「もちろん勉強も頑張ります」 「どうしても本を出したいのか」
「もちろん。出版社が出してくれるって言うんだから、お金の面で親に迷惑をかけないし……」 「分かった。お父さんと替わりなさい」
隆が出て、「説得してくれましたか」と言った。 「いいや、駄目だった」
「そんなことだろうと思った。どうせあなたは心の底では、よくやったと思っているんでしょう」 「どういう意味だ」
「私にはなかった文才が孫にあることが分かって、応援しようという気なんでしょ」
「うーん、翔太が本当にいい作品を書くのなら、その気持ちはないでもない。ただし、それは今ではない。まあ、十年後だな」
「だったら反対してくださいよ」 「わしが反対しても本人がその気なら、どうしようもない。親のお前が止めるしかないな」
「それができるんだったら、こうして電話なんかしてませんよ。もういいです」
怒って隆は電話を切ってしまった。ひさびさの息子からの電話もこうしてけんか別れのようになってしまうのかと苦笑いしながら、龍造は、先ほどの、イイネがついていないのに出版社が目をつけたという息子の言葉を思い出していた。翔太の作品のどこがよかったのか。直接担当の編集者に聞いてみようという気になった。
千秋を呼び、宝錘社の編集者の名刺を持ってくるように言った。かなり以前、宝錘社の出している文芸誌に作品を載せたことがあるのだ。
名刺を手にして書斎に来た千秋に、先ほどの電話の内容を話した。 「すごいじゃないですか、翔太くん。十四歳で小説家デビューだなんて」
「本当にそう思っているのか」 「先生は思っていないんですか」 「思っていない」
「ああ、そうでしたよね。先生の持論は作家デビューは二十歳以降にすべしですものね」
「そうだ。十代でデビューした作家で大成したものはおらんからな」 「そうでしょうか」と言って、千秋が何人かの作家の名前を挙げた。
「……まあ、どの世界にも例外はいる」 「翔太くんも例外かもしれませんよ」 「例外じゃないな。この前作品を読んだから分かる」
「先生、翔太くんに厳しいんですね」 「そうではない。見込みがあるから、青田買いされて熟す前に刈られるのを心配しておるのだ」
早速、名刺に記された番号に電話をすると、営業時間外のアナウンスが流れ、龍造は今日が土曜日であることを知った。裏には携帯電話番号が手書きされており、その番号をプッシュする。呼出音が微妙に変わり、しばらく待つと「はい、山口ですけど」という低い声が聞こえてきた。
「小野寺龍造です」 「はい?」 「以前、山口さんの担当で小説を書かせてもらった……」
「ああ、小野寺先生ですか。これはこれは失礼いたしました。ちょっと聞こえにくかったものですから。ご無沙汰しております」
「実は、ちょっとお伺いしたいことがありまして」 「何でしょう」
「そちらにライトノベル部門というのがありますよね。そこが私の孫の作品を本にするという話を聞きまして、もう少し詳しいことをお伺いしようと思いまして」
「ああ、そうなんですか。それは先生もお喜びでしょう。私は今編集部を離れて電子出版の方におりますので、早速編集部の担当の者をつかまえて電話させます」
よろしく頼みますと言って受話器を置いたが、なかなか電話はかかってこず、夕方、散歩に出ようとしたとき、やっとかかってきた。
今井と名乗る男の声はやけに甲高く、かなり若いと思わせる。龍造は井納の声を思い浮かべた。
「こちらから電話すべきところを先生からいただいて恐縮です。お孫さんの本の企画が通った段階で、先生にご連絡しようと思っていたのですが、バタバタしておりまして遅れてしまいました。申し訳ありません」
「……最初から私の孫だと分かっていたということですか」
「それはもちろん。A賞作家の静原麻里さんから話をいただいたときから存じ上げておりました」 「静原麻里から?」
「はい。静原さんから面白い小説を書く中学生がいるという話を聞きまして、読んでみるとなかなか面白くて、これは本になりそうだなと。さすがは先生のお孫さんだと感動いたしました」
龍造は何と応えていいのか分からない。
「それでですね、先生に本の帯に推薦文を書いていただこうと思っておりまして。できれば作者の後書きに続けて先生の解説文が載れば言うことないんですが」
「お断りします」 「解説文はやはり無理ですよね。それでしたら推薦文の方を……」 「それもお断りします」 「え?」
「孫の作品を出すのはそちらの自由ですから、どうぞ勝手におやんなさい。ただし、私の名前は一切使ってほしくない」 「ええ? どうしてですか」
「孫はまだ十四歳。本を出すには早すぎるからです」
「いやあ、まさか先生からそんなことを言われるとは思ってもみませんでした。てっきり大喜びされるものとばかり……」
「ちなみに、孫の作品のどこがよかったのですか」
「ひとことで言うと、人間観察がしっかりしているということですかね。とても十四歳とは思えない見方で、驚きました。文章も大人顔負けの的確な表現を使っていますし……」
「つまりは十四歳らしからぬ、ということですか」 「そうです、その通りです」 「やっぱりな。十四歳であることが大事なんですな」
「え、どういうことですか」 「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人、という言葉をご存じですか」 「ええ、知っております」
「孫は今たまたま神童に見えるかもしれないが、ただの人かもしれないということです」
「先生、お言葉を返すようですが、神童を持ち上げたら駄目ということでしょうか」
「早いうちから褒めそやすことによって、才能を駄目にするかもしれないと言っておるわけです」
「でも褒めそやされて駄目になるようなら、もともと大した才能ではなかったと言えるのでは?」
「他人ならそう突き放せるかもしれんが、自分の孫となるとそうはいきませんからな」 「ははあ、なるほど。先生はお孫さんを大事に育てたいと」
「そうです」 「それならご心配には及びません。わたくしどもも小野寺翔太という作家を大事に育てていくつもりですので」
「だったら本にするという企画を中止していただきたい」 「それはちょっと……」
「十四歳という年齢を前面に出して本を売ろうなどというのは邪道です」 うーんと言って今井が黙り込む。苦笑している顔が目に浮かぶようだった。
「先生のお気持ちは分かりますが、わたくしどもは小野寺翔太さんの作品を世の中の人に読んでもらいたいので、このまま出版したいと思っております」
龍造はライトノベル部門の責任者は誰かと尋ねそうになったが、そういう圧力のかけ方はさすがに卑劣な気がして思いとどまった。
「いいでしょう、出版はご自由に。ただし、私の名前を使って宣伝するのは遠慮していただきたい」
「しかし、先生が小野寺翔太さんの祖父であることは事実ですから、事実は事実として使わせていただきます」 「勝手にしなさい」
龍造は電話を切った。むしゃくしゃした気持ちのまま散歩に出ようとしたら、奥から「先生」と千秋が手にコートを持って出てきた。
「宝錘社との話はどうなりました」 「どうもこうも、わしの言い分など歯牙にもかけなかったわ」
「本が売れない時代ですから、出版社も大変なんでしょう、特に文芸部門は。十四歳で大作家のお孫さんとなると、それだけで耳目を集めますものね」
「わしの名前も人寄せパンダにはなるということか」 千秋がくすっと笑った。
「静原麻里さんがツイッターで先生のことに触れてくれていますよ。今度のエッセイ集だって、神和書房の新刊予告のリツイートもしてもらって。先生の本の売り上げがこのところ少し上がっているのも麻里さんのお陰だと思いますし。麻里さんを通じて先生の名前が若い人に認知されるようになったら、私もうれしいです」
「それが時代か。わしには分からんな」 千秋にコートを着せてもらい、渡された携帯電話をポケットに入れ、草履を履いて杖を持つ。
散歩先はいつもの高徳院である。師走に入って寒波が到来し、その余波(なごり)でまだ冷たい風が吹いているが、このくらいの寒さの方が龍造の好みなので、彼は気持ちよく緩い坂道を下っていった。
高徳院の境内は秋に比べるとさすがに観光客は減っているが、大仏の周りにはカメラを構えたりする結構な数の姿が見えた。
龍造はそれらの観光客から離れて大仏を見上げる。夕暮れの中で見る大仏の顔は暗く沈んでいるが、その表情がいつもと同じ泰然としたものであるのが分かる。その顔と対峙していると、むしゃくしゃしていた気分が次第に収まり、というかそういう気分になったこと自体が馬鹿ばかしいと思えてくるのだった。
三日後、静原麻里が訪ねてきた。突然の訪問だったが、龍造にはその理由が大体想像がついた。宝錘社の今井からこの前の電話のやりとりが伝わったのだろう。果たして麻里は応接間のソファーから身を乗り出すようにして、そのことに触れてきた。
「私が余計なことを言ったばっかりに先生にご迷惑をかけて申し訳ありません。私は純粋に翔太さんの作品が面白いと思って編集者に伝えただけなんですが、そこにはやはり十四歳の中学生が書いたものという意識があったかもしれません。先生が出版に反対されていると聞きまして、初めてそのことに気づきました」
「今井さんがあなたにどう言ったか知らんが、私は別にあなたが翔太の作品を薦めたことを怒っとらんよ。本が売れない今の時代に、出版社が何とかしたいと思うのも理解しているつもりだ。ただ、子供が大人顔負けの小説を書いたという売り方が気にいらないだけです」
麻里の表情が緩んだ。 「よかった。今日は先生に叱られると思っていました」 「叱った方がよかったかな」 「いいえ、いいえ」
麻里は首を強く振った。 「ちなみに、あなたは何歳の時にデビューしたの」 「二十二歳のとき、飛翔小説大賞をいただきました」
「それっていわゆるライトノベルの賞かな」
「はい。高校生のときからずっと応募していまして、受賞したときは本当にうれしかったです。やっと自分の居場所ができたと思って。それまでは小説が逃げ込む場所だったんですが、それが自分を発信する場所に変わって、ここにいてもいいと思えましたから」
「ということは高校生でデビューということもあり得たわけだ」 「はい。ですから翔太さんが十四歳で本を出すことに何の疑問もなかったです」
「高校生のときにデビューしたかった?」
「うーん」麻里は眉根を寄せて困った顔をした。「どうでしょうか。ただ、高校生のときに受賞していたら、今のような小説を書いたかどうか。落選が続く間、他のジャンルの作品を結構読みましたから」
「その話、翔太に聞かせてやりたいな」 「翔太さんは心配いらないと思います。私と違って色々な本を読んでいると聞きましたから」
千秋がコーヒーを運んできて、自分も同席していいかと聞いたので、龍造は横に座らせた。千秋は麻里から貰った『卑弥呼のタイトロープ』に触れ、執筆の動機から始まって主人公と作者の距離の取り方、体験と書かれた場面との違い、何を捨て何を書くかの選択の基準、等々、一読者という枠を越えて質問していく。麻里は慣れているのか戸惑いも見せず、時折考え込みながら丁寧に答えていく。龍造も時々自分の意見を挟みながら、二人のやりとりを聞いているうちに、愉快な気持ちになってきた。一冊の本を巡って話される言葉が柔らかな空気になってこの場を満たしている感じがするのだ。
『卑弥呼のタイトロープ』が一段落すると麻里のA賞受賞作に移り、次は『四ツ谷橋から』、さらに麻里も読んだことがあると言って『ヘイトスピーチなんかブッ飛ばせ』も話題に上った。龍造は散歩に出かけることも止め、麻里が帰ったのは六時過ぎだった。四時間あまりも話したことになる。千秋は夕食もご一緒にと勧めたが、麻里はいいえと激しく手を振って帰って行った。
九
麻里との話で一番印象に残ったのは、彼女が主人公と対話しながら書いているということだった。問いかけると声が聞こえると言う。
千秋は思わず「本当ですか」と聞いてしまった。 「変でしょう。でも本当なんです」 「先生はどうなんですか」と千秋は龍造に振ってみた。
「登場人物の声を聞こうとするのは私も同じだ。もちろん聞こえるときと聞こえないときがある。たまに、こちらが考えてもいないことをしゃべり出すこともあって、あれあれと驚くこともある。まあ、それが書く楽しみの一つかもしれんがな」
「何だか羨ましい」 「あなたも書いていてそういう経験があるでしょう」 「ありません」
「千秋さんは」と麻里が言った。「小説を書かれるのですか」 「子供の頃からお話が好きで冒険小説なんかを書いていましたけど、子供の遊びでしたから」
「今は何も?」 はい、と答える前に「隠れて書いているみたいなんだ」と龍造が意味ありげに笑う。
「それは先生の勘違い。私は何も書いていません」
「それはもったいない。先生の下にいるんですから書いて見てもらったらいいんですよ。私だったら絶対そうするのに」
「何か書きたくなったらそうします」
麻里の、主人公との対話という言葉を頭に置いて、千秋は今書いている作品を読み返してみた。
ヘイトスピーチを生理的に嫌悪する女子大生と在日韓国人の男子大学生、ヘイトスピーチに共感する日本人の男子大学生、彼らの三角関係を軸に感情と理性がかみ合わない物語を作ろうとしていた。かなり書き進み、扇郷書店の出している文芸誌が公募する十二月末日締切の有三谷(ありみたに)浩平賞に間に合わせるつもりだったが、ここに来て、やはり『ヘイトスピーチなんかブッ飛ばせ』の作者に会っておいた方がいいのではないかという気がしてきた。それまでは直接顔を合わすと主人公の造型が自由にできないのではないかと恐れていたのだ。しかし主人公と対話するとなると、一度は会うべきかという気持ちが芽生えてくる。
千秋は龍造のエッセイ集の初校ゲラを返しに神和書房に出向いたとき、井納大二郎に、彼女に会うことはできないかと尋ねてみた。
「それはまた、どうして」 千秋は本当のことを言おうかどうか一瞬迷ったが、嘘をついても仕方がないので正直に話した。
「へぇー千秋さん、小説を書いているんだ。そんなこと、これっぽっちも言わなかったですよね」 「聞かれなかったから言わなかっただけです」
「やっぱり、大先生に仕えていると小説が書きたくなるんですかね」
「それは関係ありません。それに、私は仕えているのではなく秘書としての仕事をしているだけですから」
「あー失敗、失敗。また言葉を訂正されてしまった」 「それで」と千秋は話を戻した。「ヒヨコっちさんに会うことはできますか」
うーんと井納は考え込んでから、 「千秋さんの頼みなんで、できるだけのことはやってみますが、無理かもしれませんね」
千秋は作品の意図――一人の若い女性の素直な感覚が押しつぶされ、攻撃されることへの反発、彼女を小説の中で引っ張り上げたいという気持ちを伝えた。
「分かりました。千秋さんの書こうとするものを伝えて、彼女が会いたいとなったら段取りしますよ」
しかし次の日、井納は駄目でしたと電話をかけてきた。
「何度かメールのやりとりをして説得したんですが、もう表には出たくないということで。その代わり、私の持っている資料は見せてもいいと言ってもらったのでお渡ししますよ」
井納がこちらに持ってくると言ったので、それを断り、龍造にゲラの件で神和書房に行ってきますと嘘をついて出かけた。
井納のいう資料には、千秋がすでに見たことのある閉鎖されたブログの一覧の他に、ヒヨコっちの日記のコピーとかインタビューの全文があり、千秋を喜ばせた。
「すごく参考になります。ありがとうございます」 「それで小説は大分進んでいるんですか」 「あと最終章が残っていますけど」
「それ、読ませてもらうわけにはいきませんかね」 「え?」 「実は、彼女から私と特定されることのないようにしてほしいと言われてて」
そう言われると、拒否するのが難しい。 「脱稿したらお見せします」 「よかった。ところでその原稿、どこかに応募するんですか」
「書き上がってから考えようかなと」 「だったら、三月末日のK賞にしませんか。あそこの編集者と顔見知りだから、プッシュできますよ」
それが嫌なのと千秋は心の中で突っ込みながら、「考えておきます」と答えた。
小説が書き上がったら一回呑みにいきましょうねという井納の言葉に、いいですよと軽く答えて、千秋は神和書房の編集部を出た。
秘書としての仕事と家事の合間にもらった資料を読み、夕食の片付けが終わってからすぐに自室に引っ込んだ。それまでは龍造がテレビを観るのに付き合って九時過ぎになることが多かったが、今は時間がなかった。
資料の中で一番役に立ったのは日記だった。そこに書かれた心情を小説の主人公の言葉に変換しつつ、作品の中にちりばめていった。井納の言った、ヒヨコっちと特定されないようにという言葉も頭にあったが、どのように変えたらそうできるのかが分からず、ストーリーは全然違うので大丈夫という思いで最終章を書き進み、脱稿したのが大晦日だった。スマホのクックパッドを見ながら、簡単おせち料理を何とか作り終え、自室で作品の誤字脱字をチェックしてからデータを送信し終えたのは、高徳院の除夜の鐘が鳴り始めた頃だった。
十
今年は龍造のところへお年玉をもらいにいくべきかどうか、翔太は悩んでいた。行けば必ず出版のことで説教されるのは目に見えている。ひょっとしたら説教だけ食らって、お年玉をもらえないかもしれない。
だから二日になって隆から「どうした、お年玉をもらいにいかないのか」と問われるまでは、行かないつもりだった。しかし父親の表情や言い方に、祖父(じい)さんに何か言われるのが恐いんだろうという含みを感じた翔太は「昼から行く」と咄嗟に答えていた。
出版の話が持ち上がった当初、絶対反対を主張していた隆も、費用の負担は一切ないことや景子の取りなしもあって、しぶしぶ認める方向に舵を切っていた。
注連縄を飾った玄関の前に立ち、翔太はインターホンのボタンを押した。 「どちら様でしょうか」千秋の声が聞こえてくる。
「ぼくです。小野寺翔太です」 「あ、翔太さん、玄関開いていますからどうぞ」
引き戸に手をかけると、鍵がかかっていなくて翔太は中に入った。
奥から千秋が出てくる。いつもと変わらない地味な服装だ。おめでとうございますとお互いに挨拶を交わして、翔太は靴を脱いだ。横に大きな黒革靴がある。
「お客さん?」 「ええ、編集者の方が」 応接室の前まで来ると、中から話し声が聞こえてきた。 「先生、翔太さんがお見えです」
「そうか、中に入りなさい」 龍造の声が普通なので、翔太はダイイチカンモンとっぱと胸の内で呟いた。
着物姿の龍造の向かいに座っていたのは髪を茶色に染めた若い男だった。スーツにネクタイ姿である。
「おじいちゃん、明けましておめでとうございます」と翔太は頭を下げた。 「うん、おめでとう。よく来たな。まあ、ここに座りなさい」
龍造が顎を動かして隣を示した。よく来たなという言い方に翔太は引っかかった。来るとは予想していなかったのによく来たなということだろうか。説教する気かもと緊張しながら翔太は龍造の横に腰を下ろした。
「先生、お孫さんですか」と若い編集者が言う。
「そうだ」と答えると、龍造は懐からポチ袋を取り出し、「ほれ」と翔太に差し出した。ありがとうございますと翔太は両手で受け取った。なんだ、ぼくが来ることを予想してたんだと肩から力が抜けた。
「今度宝錘社から本を出すというのはこのお孫さんですか」 編集者がいきなり言ったので、え、と翔太はびっくりした。
「どうしてそのことをご存じ?」 「千秋さんからちらっと聞きました」
「まあ、そういうことだ。ネットに発表した作品を本にするらしい。そんなものが売れるとは思えんが」
「それはもちろん先生のネームバリューに期待してのことでしょう」
何を言い出すの、この編集者は、と茶髪の男に腹を立て、翔太は龍造の横顔を窺った。龍造の表情は分からないが、黙り込んだところを見るとむかっと来ているに違いないとほぞをかんだ。
少しの沈黙の後、 「井納くんがもし宝錘社の編集者だったら、同じことを考えるか」
「もちろん考えます。どうしたら多くの読者に手に取ってもらうか、いつも考えていますからね」
「なるほど。それじゃあ井納くんがこの孫の立場だったらどうだ」 「どうと言われますと……」
「私の名前の後押しで世に出ることをよしとするか、ということだ」 「先生は自分の力でデビューすべきだと……」 「井納くんはどう思う」
「私は、利用できるものならどんな力でも利用してデビューしたらいいと思いますけどね。それで書き続けることができたら言うことなしじゃないですか」
これじゃ間接的な説教だと思いながら、翔太は首をすくめて二人のやりとりを聞いていた。 「人の力を借りて世に出て、書き続けられると思うか」
「それはその人の努力次第でしょう。先生だって同人誌に載せた作品を読んだ編集者の後押しがあったんでしょう」
「私の場合は作品が先にありきだからな」 「お孫さんもネットの作品がよかったから編集者が目をつけたんでしょう。同じじゃないですか」
龍造が苦笑している。 「宝錘社の編集者が後書きに解説を書いてくれとか帯に推薦文を書いてくれとか言ってきたが、すべて断った」
はは、と編集者が笑った。 「それは当てが外れたでしょうね」
初めて聞くことで、翔太は驚いた。おじいちゃんの孫であることで本が出せるのは分かっていたが、そこまでしてもらうのは自分でも嫌だ。
「あ、そうだ」と編集者が大きな声を出した。「宝錘社と連携を取って、先生のエッセイ集とお孫さんの本を同時に発行して売り出しましょうよ。新聞広告も二つの本を並べて打てば絶対効果がありますし」
「そういうことは止めなさい」
「どうしてですか。相乗効果で売れること間違いなしですよ。売れたら編集者としての私の値打ちも上がりますし、先生やお孫さんにも印税がたんまり入りますし、いいことずくめじゃないですか」
「翔太はどう思う。そんなことをして売れてうれしいか」 急に振られて翔太は咄嗟に答えることができない。うーんと呟いてから、
「宝錘社の人から連絡があったときはやったと思ってすごくうれしかったんだけど、編集者の人が熱心にぼくの作品を読んでいろいろ言ってくれるのに応えているうちに、だんだん不安になってきて。これだけ時間を使ってもらって売れなかったらどうしようという気になってきて。だからその人たちのためにも売れて欲しいなと思ってます。ぼくの印税なんかどうでもいいけど」
「翔太くん、大人ですねえ」 編集者が感心したように言った。 「わしに推薦文とか解説を書いてほしいか」
「おじいちゃんが嫌ならいいよ」 「先生、書いてあげたらいいじゃないですか」 「わしは嫌だから書かない」
「先生も頑固だなあ。翔太くん、さっき言った同時発売の件、宝錘社に掛け合って検討してみますよ。我ながらいい考えだと思いますよ」
龍造はふんと鼻で笑ったが、何も言わなかった。
十一
龍造のエッセイ集『自虐力』と翔太の作品集『空を飛べない人々』が発行されたのは二月下旬の大安の日だった。全国紙の新聞に二つの本の広告が横並びに掲載された。小野寺龍造と小野寺翔太の名前が枠を挟んで隣り合うように配置され、翔太の方には「弱冠十四歳にして堂々の作家誕生」とか「高名な小説家の血を引く恐るべき才能」のコピーが躍っていた。龍造の枠には「人間関係に悩む人へのヒントが満載」とか「自信のない人が自信のないまま生きる知恵」などの文言はあるが、龍造が翔太の祖父であることを匂わす言葉は一切入っていない。
広告を見た龍造が「十四歳に弱冠を使うのは明らかに間違っておるんだが」と文句を言いながらも機嫌がいいのは、横で一緒に見ていた千秋にも分かった。
「こうして名前を並べると、誰が見ても、高名な小説家が先生であることが分かりますよね」
「苦肉の策だな」と龍造は笑い、「恐るべき才能は持ち上げ過ぎだ。才能だけにすべきだな」
「先生、広告なんですから、オーバーに書くのは仕方がないですよ」
「そんなことは分かっておる。ただ言葉には言霊があって、たとえ嘘だと分かっていても発せられた言葉には力が宿るのだ。人間は弱いから、嘘だと分かっていても影響を受けてしまうものなのだ」
隆がダイニングのテーブルに広げた朝刊を、翔太は向かいの席から覗き込んだ。
「『自虐力』だってさ、よく言うよ」と隆が鼻で嗤った。「親父が自虐力を発揮するのは女に対してだけ。自分のだめなところをアピールして女の気を引こうとするのがうまいんだ。男に対しては徹底的に上から目線だからな」
翔太は隆の言葉を無視して朝刊を手前に引っ張ると、半回転させた。龍造と自分の名前が近接している広告にへえっと感心した。こうしておじいちゃんの力を利用しているわけか。
「お父さん、印税が入ったら、神戸牛の最上級のステーキおごってあげるよ」 「バカ。息子におごってもらうほど俺の給料は低くない」
キッチンカウンターの向こうから「印税はすべてあなたの将来のために貯金するのだから使ったらだめ」と景子の声が飛んできた。
「そう、そうだ、翔太。分かってるな」
その慌てたように付け加える言い方が心とは裏腹だと翔太は見て取り、本当に印税が入ったら父親とステーキハウスに行こうと決めた。
朝の教室ではもうすぐ学年末試験が始まるので、テレビやネットの話題よりも勉強の話が耳についた。誰も新聞広告に気づいていないと分かって翔太がほっとしていると、時間ギリギリになって入ってきた女子が鞄から新聞を取り出すのが見えた。嫌な予感がした。
その新聞を見せられた隣の女子がわーすごいと声を上げ、他の女子も騒ぎ出し、一団になって翔太の方にやってきた。男子たちも何だ、何だと集まってくる。
「小野寺くんが本を出したんよ」 朝刊を持ってきた女子が得意げに言う。 「マジか」 「どれどれ」
翔太の机の上に三面の下段にある広告が見えるように四つ折りの新聞が置かれた。男子の一人が翔太の名前を指で押さえ、ホントだと声を上げた。すごいじゃんか。全然知らなかった。へえー、小説家デビューか。小野寺龍造ってお祖父さんだろ。級友たちが口々にしゃべる言葉を翔太は身を硬くしてうつむきながら聞いていた。
だからペンネームにしたかったんだ。翔太は担当編集者の今井に腹を立てた。彼にペンネームの提案をしたとき、「それなら企画が通らないよ」と一蹴されたのだ。
「千二百円か。誰か買えよ」 「俺は無理」 「図書室に入れてもらったらいいんだよ」 「そうだよ、その手があった」
「わたしの家に図書カードが余っているから、それで買ってくるわ」 「それ、回し読みしようぜ」
翔太は我慢ができなくなって、「みんな、読まなくていいから」と叫んでしまった。 「どうして。読んで欲しいから本にしたんだろう」
そう言われれば反論のしようがない。 「知ってる人に読まれるのが恥ずかしいんじゃない?」 女子の一人が訳知り顔で言う。
「小野寺、お前、恥ずかしいものを書いたのか」
いくつかエッチなものを載せているが、もちろん自分では恥ずかしいなどとは思っていなかった。あえて言えば、自分ではない誰かの手になって書いたという感覚だった。しかし、こいつらはそうは思わないだろうとは分かっていた。
「どう思われても作者は反論しない」 翔太はどこかで耳にした言葉を口にした。 「おー、カッコいい。すっかり小説家だなあ」
その時、始業のチャイムが鳴ってやっと騒ぎが収まった。
まず最初に売れ出したのは翔太の本だった。十四歳という年齢が耳目を集め、子供っぽさと老成したところが奇妙に混じり合って独特の世界を作っていると書評にも紹介された。その評判に引っ張られるように龍造のエッセイ集も徐々に売れ出し、「自虐力」という言葉が一種の流行語のように喧伝され始めた。二人の本がセットで語られるようになり、ついには二人そろってのインタビューのオファーも来た。
始めはインタビューなど一人でもごめんだと断っていた龍造だったが、井納や千秋に説得されてしぶしぶ応じた。ただし、翔太の作品については言及しないという条件をつけた。読んでいないからというのがその理由だった。宝錘社から発売と同時に献本されてきたが、龍造は目を通していない。千秋が読んで、面白いですよと渡してくれたが、習作など読む必要がないと書棚に置いたままである。
インタビューは龍造の家で行われた。居間のソファーに翔太と並んで、向かいに座った新聞記者から質問を受けた。
「先生はお孫さんにどのような教育をされたのですか」
教育というのはもちろん作家としての、ということだろうとは思ったが、「教育は息子夫婦がしましたので、私は何も」と龍造はとぼけた。
「お孫さんの作品を読んで批評とか添削はされたんですか」 「しておりません」
「おじいちゃん、一度だけあったでしょ」と翔太が言い、去年の「物語を作ってみよう」のワークショップの話をした。記者が俄然興味を示し、手元にあるソフトカバーの『空を飛べない人々』をめくって龍造の読んだ作品のページを開いた。
「最後の場面はおじいちゃんの意見を取り入れて変えてみました。そうしたらイイネがいっぺんに増えて、びっくりしたんです」
「先生、どんなことをおっしゃったんですか」 「さあ、よく覚えておらんのだが」と龍造はまたとぼけた。 「主人公の声が聞こえたんでしょ」
「そんなこと、言ったかな」 「言ったよ。それからぼくは主人公の声に耳を澄ますようになったんだから」
「聞こえてきたから作品がよくなった?」 「いや、分かりません、聞こえているのかどうか。でもぱっぱと書けなくなったのは確かです」
記者はせっせとメモを取っている。龍造の薫陶を受けて翔太が年少にもかかわらず作家としての一歩を踏み出したというストーリーを記者が頭に描いているのは分かっていたが、龍造はそのストーリーに沿うような話は一切しなかった。しかし翔太は龍造の本が一冊も家になかったので(そのことに記者は驚いたが、息子とは断絶していますのでと龍造が答えると黙ってしまった)図書館で借りて読んで、声を聞くとはどういうことかと考えたり、龍造が読めと言った名作を読んで勉強したりしたと答え、本当にそんなことをしたのかと龍造は苦々しい思いで聞いていた。
インタビューが終わってから翔太にそのことを問いただすと、「もちろん本当だよ。だいたいおじいちゃんとぼくをインタビューしたいっていうことは、当然そういう話を聞きたいと思ってるわけでしょ。それに答えるのは当然だと思うけど」と意外な顔をされた。
やけに大人ぶった言い方にカチンときたが、これは俺の血ではなく息子の血だなと自分を納得させることで怒鳴るのを何とか抑えた。
一週間後の読書欄にインタビュー記事が二人の写真入りで掲載された。内容は、龍造が一作だけ読んで批評したことをあたかも全作品を読んだかのように書かれ、翔太がそれによって小説を書くことの目を開かれた話になっていた。「十年後まで書き続けられるかどうかが勝負だ」と言った龍造の言葉が「十年後にはどんな作家になっているのか楽しみだ」に変わっているのは、さもありなんというところだった。
新聞の影響力は衰えたとはいえ、それなりの反響があって、二人の本の売れ行きはさらに増した。調子に乗って井納が二人の合同出版記念会を提案してきた。宝錘社の今井と共同で行うという。お孫さんの作家としての門出を祝いましょうよ、他の編集者に紹介できますし、翔太さんがこれから書き続ける環境も作れますよと言われると、爺馬鹿と思いながらも龍造はそうかもしれんと思うのだった。
十二
合同出版記念会を明日に控えた土曜日、千秋は朝から落ち着かなかった。それというのも、三週間前に有三谷浩平賞の担当者から最終候補に残った旨の連絡があり、選考会が今日の午後六時からと知らされたからだった。
最終候補に残ったことは龍造や他の誰にも話していなかった。龍造に知らせないのは、有三谷浩平賞の関係者に手を回されることを恐れたからだ。先生は決してそんなことはしないだろうとは思っていても、万が一ということがある。もし先生の力に少しでも与(あずか)っているということが分かれば、デビューの喜びが半減、いやほとんどなくなってしまうに違いないとまで考えた。
ここ三週間、合同出版記念会のための招待客の名簿作りやサイン本の作成の手伝い、会場での打ち合わせ等、あえて忙しく体を動かすことで選考のことを考えないようにしてきた。どうせ落ちるだろうと考えて、心を平静に保とうとした。しかしそういうふうに考えることが却って賞を意識していることになると気づいて自分を嗤ったこともあった。
それも今日で終わりである。千秋は落ち着かない気持ちを抱えながら掃除、洗濯を淡々とこなし、明日着ていく、龍造の着物と自分の洋服を用意し、龍造を散歩に送り出してから、夕食の準備を始めた。切り身を使った鯛飯に味噌汁、春キャベツと鶏肉のあっさり煮である。
龍造が帰ってきて食卓に腰を下ろしたのが、いつもと同じ午後六時だった。いつもは部屋に置いているスマホをロングスカートのポケットに入れて千秋は給仕し、龍造の向かいに腰を下ろして一緒に食べた。龍造が鯛飯の味付けを褒めてくれる。ありがとうございます、と答える声が上の空になっていないかと気になった。
食事が終わりかけた頃、ポケットの中のスマホが鳴った。バイブレーションの設定にしていたはずなのに、と千秋は焦りながらスマホを取り出し、龍造に断ってから席を立った。廊下を小走りに行き、自分の部屋に入ってから、通話ボタンをタップした。
「もしもし」なぜだか小声になる。 「笹川千秋さんでいらっしゃいますか」
最終候補を告げられたときの女の声ではなく、落ち着いた男の声だった。 「はい」
「わたくし、扇郷書店の太田と申します。有三谷浩平賞の選考の結果、笹川さんの『語ることの不可能性について』が当選となりました。おめでとうございます」
一瞬、頭の中が空白になった。 「笹川さん、聞いていらっしゃいますか」 「はい、聞こえております。ありがとうございます」
「つきましては、最近の顔写真と八百字程度の受賞の言葉を三日以内に編集部宛のメール添付で送っていただけないでしょうか」 「分かりました」
「受賞作は笹川さんの体験を元に書かれたものでしょうか」 「いいえ。主人公の気持ちの部分はわたしが入っていますけど」
「執筆されるに当たって、何か参考にされた文献とかございますでしょうか」 どこまでを参考にしたというのだろうかと思いながら、
「作品を書くきっかけになったのは神和書房から出ている『ヘイトスピーチなんかブッ飛ばせ』という本です。あと、その作者のブログと日記も参考にしました。その他に差別を考察した本とかにも目を通しましたが……」
「それらの本は今手元にございますでしょうか」 「あります。ブログもまだ検索すれば残っていると思いますが」
太田は参考文献すべてを明日にでも取りに行きたいと言い、千秋は午後からの出版記念会を考えて、十一時を指定した。それを了承すると、太田は、受賞のことはメディアで公に発表されるまでは内密にと言って電話を切った。
千秋は大きく息を吐いた。動悸が収まっていない。喜びよりも自分なんかが受賞してもいいのだろうかという気持ちの方が強い。スマホを部屋に置いてダイニングキッチンに戻ると、龍造が食べ終わって手持ち無沙汰にしていた。
「すみません。今すぐお茶を淹れますから」 「いいよ、いいよ。千秋さんが食べ終わってからで」
向かいに座り直して鯛飯を口に入れたが、味が感じられない。 「お家から?」 「はい?」 「今の電話、実家から?」 「いいえ」
太田の、内密という言葉があったので、言うべきかどうか迷ったが、千秋は箸を置くと、「先生」と言った。龍造がわずかに首を傾ける。
「実は先ほどの電話、扇郷書店からでして、わたしの作品が有三谷浩平賞を取ったんです」
「本当か、これはすごい」龍造は破顔した。「有三谷浩平賞といえば新人作家の登竜門じゃないか。こいつはめでたい」 「ありがとうございます」
「あなたが何か書いているなとは思っていたんだが、そうか、その応募原稿を書いていたのか」 「すみません。黙っておりまして」
「何も謝ることはない。私に見せたくないというあなたの気持ちは分からんでもないからな。よし、明日のめでたい席であなたの受賞のことを発表しよう」
「先生、受賞のことはメディア発表があるまでは内密にと言われておりますので」 「ああ、そうか。そうだな、分かった。その辺は昔と違うのかな」
龍造はお茶を飲みながら、いや、めでたいと繰り返し、実家には知らせたのかとか、もう作品を読ませてもらってもいいだろうとか声高に言って、高揚しているのを隠さなかった。その様子を見ていて、千秋はようやく受賞の実感が湧いてくるのを覚えた。
翌日の午前十一時少し前に太田がやってきた。引き戸を開けると、黒いバッグを提げた中年男が立っており、千秋の招きに応じて「いやあ、ここは小野寺先生のお宅だったんですね」と言いながら玄関先に入ってきた。「住所に小野寺方と入っていたときに気づくべきでした」
そう言うと、太田はバッグから名刺を取り出し渡してくれた。「扇郷書店第一出版部〈水如〉編集長」の肩書きがある。
千秋は参考資料の入った紙バッグを差し出した。そのとき奥から「千秋さん、上がってもらいなさい」という龍造の声がした。
「お忙しくなければ……」と千秋が言うと、「それではお言葉に甘えて、先生にご挨拶させていただきます」と太田は靴を脱いだ。
太田を応接室に案内し、お茶を淹れるためにキッチンに行き、戻ってみると、二人の間で話が弾んでいた。
文芸書が売れなくて第一出版部も人員削減されて、と太田がぼやき、編集長も大変ですなという龍造の言葉に、肩書きは編集長になっていますが、雑用係ですよと太田は笑顔で答える。
千秋がお茶を出して龍造の隣に座ると、
「先生が美人の秘書を雇っていらっしゃるというのは噂でちらっと聞いたことがありますが、まさか受賞者の方だとは思ってもみませんでした」
と太田は湯飲みを手に取って笑いかけた。 「私も受賞のことは昨日聞いたばかりでびっくりしておるのだ」
「やはり先生の薫陶が効いているんでしょうな」
「いや、私は何もしていない。強いて言うなら、私の原稿をワープロで打ち直してもらっていることくらいか」
「そう、それですよ。先生の文章をワープロで打つということは、名文を写すという修業をしていたのと同じですからね」 「ヨイショしても何も出んぞ」
「いえいえ、ヨイショじゃありませんよ。そうでしょ、笹川さん」 急に振られて千秋は一瞬返答に詰まった。
「わたしには分かりません。でも気がつかないうちに鍛えられているのかもしれません」 「それは間違いないですね」
その時、太田は何かに気づいたように、「そうだ、笹川さんのインタビュー記事を載せましょう。全身写真を入れて」と手を叩いた。「いかがですか、今からでも。ちょうどいい機会だし」
えっとためらったが、龍造がそれも作家としての仕事だろうと言ったので、千秋は承諾した。龍造が席を外してくれる。太田が録音することを断ってからスマホをテーブルに置き、インタビューが始まった。
受賞作の成立過程から始まって千秋の文学的来歴に移ったとき、大学の文芸創作科を二年で中退したことの理由を聞かれた。
「ちょっと体調を崩しまして」と千秋は答えた。それは嘘ではない。市村との不倫問題が原因だが、太田はそれ以上突っ込んで聞いてこなかった。
「実家で一年間静養してから出版社のアルバイトを経て、先生の秘書になりました」 「大学へ戻るという選択をされなかったんですね」
「いつまでも親のすねをかじりたくなかったですから」
最後に、これからの作品の方向性について聞かれ、できるだけ目線を低い位置に置いて書いていきたいと答えて、インタビューが終わった。
太田がバッグからデジタル一眼レフカメラを取り出して、庭で写真を撮りたいと言うので、千秋は着替えるため自室に戻り、出版記念会に着ていく服を着た。乾多恵子の結婚式のときに着た濃紺のワンピースに薄いベージュのストールを羽織った姿である。
応接室に入ると龍造が戻っていて、太田が『自虐力』がよく売れているという話をしていた。
「昔のことは水に流して、次はわたくしどものところから本を出していただけないでしょうか」 「まあ、今回の受賞も何かの縁なので考えておきましょう」
「是非お願いいたします」
太田は入ってきた千秋に目を向けると、「これは、カメラマンとしてはテンションが上がりますな」と重そうなカメラをつかんだ。
庭に下り、太陽の当たり具合を変えながら、太田は何枚も写真を撮ると、満足した顔で帰って行った。
太田を見送ってから千秋は「先ほどの、昔のことは水に流して、というのはどういうことでしょうか」と龍造に尋ねた。 「ああ、そのことか……」
龍造は四十数年ほど前の盗作騒ぎのことを話してくれた。『四ツ谷橋から』を読んだ扇郷書店の編集者から注文が来て、文芸誌『水如』に百枚くらいの作品を書いたのだが、それがある男の書いた手記を盗用したと問題になったのだ。その男は龍造の知り合いで、精神を病んだ妻との確執を綴っており、その内容が身につまされたので小説にした。もちろん表現などは変えたのだが、場面の類似性を指摘され、さらに男から自分のことだと分かってしまうのがだめだとプライバシーの問題も提起され、龍造はその作品を闇に葬ったのだった。その時、扇郷書店は龍造を守ってくれず腰の引けた対応に終始したため、龍造が以後一切扇郷書店とは関わらないと絶縁したのだ。
「そうでしたか。そうと知っていたら有三谷賞に応募しなかったのに」 「そんなことは気にしなくていい。もう昔のことだから」
千秋が龍造と一緒に合同出版記念会の行われる東京のホテルに着いたのは、午後一時半だった。ホールの出入り口の受付で龍造の羽織に赤いバラを象った胸章をつけてもらっていると、井納が姿を見せた。
「先生、遠いところをありがとうございます」 「井納くんも大変だね。いろいろやっていただいてありがとう」 「いやあ、これも仕事ですから」
「何人くらい来られるんですか」と千秋が聞いた。 「七十人ちょっとですね」 「ほう、そんなに」と龍造。
こちらから出した名簿は二十名だった。
ホールの中央には大きな丸テーブルが三つ並び、そこに料理や飲み物が置かれている。壁際の長机には龍造と翔太の本が積まれており、正面の緞帳には「小野寺龍造・翔太合同出版記念会」のパネルが掛かっていた。
正面近くの壁際の椅子に龍造は腰を下ろし、袴の間に立てた杖の握りに両手を置いた。千秋もその隣に座る。次々に人が入ってくる中、学生服姿の翔太がフォーマルっぽい黒のワンピースを着た母親と思しき女性と一緒に現れた。
翔太がこちらを見て、手を振る。千秋は手を上げて応えながら立ち上がった。二人が近づいてくる。 「お義父(とう)さま、ご無沙汰しております」
龍造の前に来た母親が深々と頭を下げた。翔太は母親似のようだと思いながら、千秋は彼女を見ていた。 「うん」
「隆さんは今日仕事で来られないものですから、申し訳ありません」 「分かった」 翔太が母親に目をやっている。
「お母さん、この人が新しい秘書の人だよ」
「息子から話は聞いておりまして、もっと早くご挨拶に伺うベきだったのですが、ついつい遅くなってしまい、申し訳ございません」
「いえ、ご挨拶に伺うべきはわたしの方ですので、こちらこそ申し訳ございませんでした。去年の三月から先生の秘書をさせていただいています笹川千秋と申します」
千秋は小さなクラッチバッグから名刺を取り出して母親に渡した。 「翔太の母で小野寺景子と申します。よろしくお願いいたします」
何人もの出版社関係の人間が龍造に挨拶に来て、その中に宝錘社の今井もいた。井納と同じくらいの年齢で、長く伸ばした髪を後ろで縛っている。やけに腰の低い男で、合同出版記念会を承諾してもらったことに何度も礼を言った。
多恵子の結婚相手の梶原も姿を見せた。 「先生、いつぞやは結婚式に来ていただいてありがとうございました」
「どうです、結婚生活は? うまくいってますか」 「実は多恵子が妊娠いたしまして」 「ほう、そりゃよかった。で、何ヵ月?」
「三ヵ月です。本人も今日来たかったようですが、つわりがひどくて欠席いたしました。先生によろしく言っておいてほしいということでした」
「それは体を大事にしなければいけませんな」
時間になって若い女性の司会で式が始まった。主賓として登壇した神和書房の社長は『自虐力』の一節を紹介して今の世に求められている言葉だと絶賛し、宝錘社の社長は過去の龍造との関わりを紹介し、その孫である翔太の文学的早熟を褒め称えた。その後、井納が龍造のエッセイを自虐力という言葉で切り取るまでの経緯を説明し、今井は、ネットの投稿サイトには隠れた才能が埋もれており、それを掘り起こすのが我々の仕事だと胸を張った。
次に著者の挨拶に移り、まず翔太が登壇した。マイクの前に立つと、ポケットから紙切れを取り出し、折り畳まれたそれを広げた。
「自分の作品が本になるとは思ってもいませんでした。いつか本になったらいいなとは思っていましたが、まさかこんなに早くとは、夢みたいです。祖父は十年早いと反対しましたが、ぼくはチャンスは前髪をつかめという言葉に従いました。これが吉と出るのか凶と出るのか、それは十年後に祖父に判断してもらいたいと思います。ネットの力はすごいです。ぼくの作品を拾い上げてくれた今井さんに感謝します。それから静原麻里さん」
翔太が顔を上げて会場を見回した。 「今日は来るはずなんですが」
その時、ここよという声がし、見ると、静原麻里が出入り口のところで手を上げていた。
すかさず司会者が「A賞作家の静原麻里さんがお見えになりました。皆様、拍手でお迎えください」と言った。麻里は拍手に驚いたように顔を左右に向けてから、頭を下げた。
「静原麻里さんが推してくれなかったらぼくの作品は本にならなかったので、最大の感謝を静原麻里さんに捧げたいと思います。ありがとうございました。これからも自分を信じて書き続けていきますので、ご指導ご鞭(べん)撻(たつ)、この言葉は昨日ネットで見つけました、どうぞよろしくお願いいたします」
笑いと共に拍手が湧き起こった。 「ああ、緊張した」と言って、翔太が戻ってきた。 司会者に促され、龍造は杖を千秋に預けて登壇した。
「孫の翔太が十年後に判断してくれと言ったのは、十年は書き続けるという決意の表明なので、その言やよしといたします。ただ、十年後は私がこの世にいない可能性が大だと思われますので(ここで笑いが起こった)、その判断はここにおられる皆様にしていただきましょう。年の若い、という冠が取れたときが勝負だと本人も分かっているはず。どうぞびしばしと鞭で叩いてやってください。
私のエッセイ集に関しましては、そこにおられる井納さんの企画ですべてをお任せいたしました。過去のエッセイが再びお金になるとは思ってもみなかったので、そのお金は香典の前払いとしてありがたく頂戴しておきます。ですから皆様方、私が死んだときは香典はいりませんのでよろしく」
笑いの起こる中、龍造は降壇しようとして再びマイクの前に立った。 「めでたいついでに一つ皆様にお知らせしておこうと思います」
千秋は嫌な予感に襲われた。
「実は私の秘書をしております笹川千秋がある文学賞を受賞いたしまして、近いうちに作家としてデビューすることになりました。孫の翔太ともども笹川千秋をどうぞごひいきに」
そう言うと、龍造が手をこちらに向けて立つように促したので、千秋は立ち上がって頭を下げた。ほうと言う声と共に拍手が起こった。
挨拶が終わって懇談に移ると、すぐに井納がビールの入ったグラスを片手に近づいてきた。 「受賞作ってこの前書いていたやつですか」
「そうです」 「書けたら見せてくれるって言ってましたよね?」
「すみません。応募の締切が迫っていたので見てもらう時間がなくて。それに出した後に何か言われても落ち込むだけなので」
「書き上がったら一緒に呑みに行くという約束は覚えてます?」 井納は口元に笑みを浮かべながら言った。 「ええ」
「よかった、覚えていてくれて。……ところで年末の締切というと有三谷賞ですか」 「そうです」
「やっぱり。すごいじゃないですか。千秋さんもいよいよプロ作家か」 「有三谷賞であることは発表があるまで黙っていてもらえませんか」
「でも、われわれの業界ではすぐに広まりますよ」 「それは分かっていますけど……」 「受賞作が載るのは何月号だっけ」 「六月号です」
「それまでに読ませてもらえませんか、データでいいから」 「分かりました。メールでお送りします」
井納の質問を受けて、執筆期間とか枚数を答えていると、静原麻里がワイングラスを片手に近づいてきた。
「受賞、おめでとうございます。何の賞かお聞きしてもよろしいでしょうか」
千秋がためらっていると、井納が麻里の耳元に口を近づけ、「有三谷賞」と囁いた。
「そうなんですか。羨ましい」と麻里が高い声を出した。「私、あの賞が欲しくて三回応募したけど、一回一次通過しただけなんですよ」
「A賞受賞作家でもそういうことがあるんですね」と井納。
「自分の書いているものが何なのか分からなくて、お墨付きが欲しかったんでしょうね、ファンタジーから転向したばっかりだったから」 「なるほど」
井納が内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を麻里に差し出した。 「小野寺先生のこの度のエッセイ集を担当いたしました井納と申します」
「神和書房といいますと」と麻里が名刺から目を上げた。「『ヘイトスピーチなんかブッ飛ばせ』を出したところですよね」
「それを担当したのも私です」井納が自分を指さした。
「そうなんですか。あれ、すごく面白かったですよ。読んでいると忘れていた記憶がいくつも甦ってきて、そのことを小説にも書きました」
「千秋さんも同じようなことを言ってましたよね」 「わたしの場合は誹謗中傷を受けた作者を何とか小説の中で立たせたいという気持ちだけでしたから」
「二人の作家に影響を与えたんだから、あの本はもって瞑すべし、ですね。いやあ、編集者冥利に尽きます」
冗談なのか本気なのか分からないところがこの人らしいと思いながら井納の言葉を聞いていた。
井納は調子に乗って、千秋の受賞を祝う内輪の会をこの三人でやりましょうと提案してきた。麻里はすぐに賛成し、千秋も三人で行くならと承諾した。お互いLINEのIDを交換し、グループを作った。
日程をお互いに調整して、井納が店を予約するということになったが、なかなか連絡が入ってこなかった。流れたら流れたでいいかと思っていたら、一週間後、風呂から上がって肌の手入れをしていた時、井納から電話が掛かってきた。いきなり「ちょっと面倒なことになりまして」と言い出した。千秋の渡した受賞作のデータを念のためヒヨコっちにも転送したところ、それを読んだ彼女から自分だと分かってしまうから発表を差し止めてほしいと言われたという。
「作品自体は千秋さんがおっしゃっていたように彼女を逆風に立ち向かう女性として、きちんと立たせていて、優れた作品だと思いました。ですから彼女が悪い感情を抱くとは思ってもみなかったんですよ。それで何とか説得しようとしたんですが、やはりそれまでのバッシングがトラウマになっているんでしょうね、どうしても自分だと分かるのが嫌だと言われて。しまいに彼女が直接社長に訴えたので私一人の手には負えなくなってしまって。資料に目を通した編集次長もプラバシーの問題だけではなく表現も似通ったところがあるので、それも含めて扇郷書店と話し合う必要があると言い出して」
似通った表現などしていないはずと千秋は思ったが、夢中になって書き進めていたので、ひょっとしたら日記の文言を知らず知らずのうちに使ったかもしれないと急に不安になってきた。
「すみません。井納さんにあらかじめ読んでもらうべきでした」
「まあ、済んだことをあれこれ言っても仕方がないので、これからどうするかということですけど。扇郷書店との話し合いの場に千秋さんも呼ばれると思いますけど、私も神和書房の側として出席しますから、できるだけ丸く収まるようにしますよ。ただ、立場上そうは行かない場合もありますので、その時は勘弁してください」
「それは分かっております」 「千秋さんのデビューに水を差したくはないんですが……」 「お気遣いありがとうございます」
電話が切れた。千秋はスマホを耳に当てたまま鏡の中の顔を見た。どうしたらいい、ローションマスクを貼り付けた顔に呼びかける。しかしそれは他人の顔のように千秋を見るだけだった。
十三
千秋が三日続けて午後から外出し、夕飯の支度も間に合わず駅弁になって、龍造もさすがに何かおかしいと感じた。
それで、東京駅で買ったという和食弁当を食べ終わると、千秋がお茶を淹れている後ろ姿に向かって「何かあったのか」と尋ねてみた。
「すみません、今日も駅弁になってしまって」 後ろ向きのまま千秋が答える。答えになっていないと思いながらも龍造はそれ以上尋ねなかった。
千秋は駅弁の容器を片付けてから、湯飲みを龍造の前に置き、彼女も湯飲みを持って向かいに腰を下ろした。
龍造はお茶を一口飲み、苦みが少し出ていることに気づいた。沸騰した湯を使ったのかと思っていると、千秋が「実はこの前から扇郷書店に行ってまして」と話し出した。
有三谷賞受賞作がプライバシーと剽窃の問題に直面していて、神和書房と話し合っているという内容だった。
「わしの時と一緒じゃないか」龍造は思わず口走った。「それで井納くんはどう言っているんだ」
「井納さんは作者の要望を伝えるだけで、交渉は編集局次長の梶原さんが……」
「作者と直接話し合うのが一番いいんじゃないか。どうして作者が来ないんだ」 「表に出たくないという気持ちが強いと聞いています」
「編集長の太田はどう言っている」
「資料を読んだ限り、プライバシーも剽窃も問題がないから参考文献として最後に入れる以外の対応はしないと。でもそれは作者から拒否されてしまって」
「そうか、今回は扇郷書店も腰砕けにならず頑張っているんだな。よし分かった。私からも一筆社長宛にあなたを守るように書いておこう」
その夜、龍造は巻紙に筆で、過去の自分の盗作騒ぎに対する扇郷書店の対応を批判し、今回はそういうことのないように作者を守ることを要望する文面を認(したた)めた。
その手紙が効いたのか、まもなく有三谷賞のメディア発表がなされ、五月の初めに『水如』六月号が発売された。冒頭にいきなり千秋の上半身と全身の写真が入り、続けてインタビュー記事が載っていた。その、いつもとは違う構成に龍造は舌打ちしながら、千秋の受賞の言葉を読んだ。
「子供の頃からお話を読むのが好きでした。今ではない違う時間、こことは違う場所、会ったこともない人々、それらの中に身を置くとなぜか心が落ち着くのです。故郷に帰ってきたような気持ち。なぜそうなるのか、自分でも書こうと思った動機はそこにあるのかもしれません。しかし思うことと実際に書けることの間には深い深い谷があります。今回、たまたま細い橋が架けられことは僥倖でした。自分にも橋を架けることができる。その思いを胸に、これからも架橋の試みを続けていきたいと思います」
素直な心情が吐露されていて龍造はうんうんとうなずきながら、ページをめくった。
前もって千秋から渡された応募原稿を読んでいた龍造は、改めて誌面で読んでみたが、書き換えた跡は見当たらないように思った。参考文献の記述もない。太田は神和書房の要望を受け付けなかったということになる。選評では文体の力加減とか人間関係の微妙さに触れていたが、盗作云々に触れた選者は一人もいなかった。当然だろうと龍造は思う。『ヘイトスピーチなんかブッ飛ばせ』とこの作品は似て非なるものとしか言いようがない。これでプライバシーが問題になるのなら、小説が書けなくなる。それが龍造の思いだった。
しかし事態は龍造の予想を超えていく。
まず週刊誌やネットメディア、SNSが食いついたのは千秋の容姿だった。美人作家の登場が喧伝され、授賞式には新人賞とは思えない数のメディアが殺到し、写真ばかりでなく映像までがあちこちで流された。龍造の屋敷にも取材記者が押しかけ、千秋の部屋ばかりでなく龍造の書斎までカメラに収め、龍造自身もインタビューされる始末だった。いくつかの出版社から写真集の出版を打診されたが、千秋はすべての申し出を断った。その中には扇郷書店も含まれており、相談を受けた龍造は編集長の太田に電話をして「馬鹿な真似はやめろ」と怒鳴りつけた。
「馬鹿な真似であることは重々承知しておりますが、先生、今はそういう時代なんですよ。付加価値があるならそれを大いに宣伝して商品を売る、どの世界でもやっていることですよ」
「バカモン、それを貧すれば鈍すと言うんだ。小説の価値は作品の中にしかない。それ以外のどこに価値があるのだ」
「先生、お言葉を返すようですが、お孫さんの本がかなり売れているのも小野寺龍造という大作家の名前が効いているのではありませんか。書く才能がどれだけお孫さんに流れているのかという興味で読み、ああ、やっぱりと確認する、そういうストーリーが本の売れ行きを押し上げているのではありませんか」
龍造は一瞬言葉に詰まった。 「そんなものは一過性のブームに過ぎん。ブームが過ぎたら忘れ去られてしまうはかないものだ」
「そのブームがあるから出版社はやっていけるんです」 「それはお前のところだけだろう。とにかく写真集はお断りする」
「笹川さんに替わってもらえますか」 「千秋が断りにくいから、わしが断っているのだ」 受話器の向こうから太田のため息が聞こえてくる。
「先生にどう言ったら、こちらの気持ちが伝わるんでしょうね」 「どう言おうと伝わらん」 龍造は電話を切った。
後で千秋から「太田さんからスマホに電話がありましたが、お断りしました」と報告を受けた。
写真集の騒ぎが一段落したと思ったら、芸能プロダクションの連中がアポイントメントも取らずにやってきたので追い返し、メディアの記者も一切家に入れないようにした。すると今度はSNS上で、笹川千秋は小野寺龍造の愛人であるという言説が流れ、さらには千秋の作品が有三谷賞の候補になったのは龍造が裏から手を回したからだとか、当選させるため選考委員の何人かに頼み込んだなどの話も飛び交うようになった。それに尾ひれがついて、受賞作には龍造の手が入っているとか翔太の作品も実は龍造が半分以上書いているというツイッターも流れた。
それを確かめようと記者が入れ替わり立ち替わりやってきたが、馬鹿ばかしくて相手にする気のない龍造はインターホンにも出ないで家に閉じこもった。千秋も取材には応じず、二人して軟禁生活のようになってしまった。食料や日用品は千秋がネットで買ってくれるので何とかなったが、毎朝の庭での素振りと夕方の散歩を止められたのはこたえた。パパラッチという名のカメラマンが望遠で狙っているからと千秋が言うのだ。こういう時こそ半自伝的小説の執筆に専念しようと思うのだが、想念があちこちに飛び、集中できない。自分がいかに生活のルーチンの中で書いてきたかということを認識させられる始末だった。
週刊誌には龍造の過去の愛人列伝が載り、元秘書兼愛人として乾多恵子のインタビュー記事まで掲載された。「先生は面食いだから、笹川千秋さんにお会いしたとき、負けたと思いました。でもいいんです。それで先生が書いてくれたら。千秋さんも先生の力を利用して作家になったんだから、二人はウィンウィンの関係なんですよ」
さらには千秋の大学時代の不倫まで報じられ、それを初めて目にしたときは驚いたが、それは作家としてマイナスにはならないと龍造はむしろ歓迎したいくらいだった。しかし世間の反応はまるで違ったものだった。どこで調べたのか、見知らぬ者からの電話が掛かってき、昼のワイドショーで取り上げられると、それがさらにひどくなった。千秋には取らせずに龍造が受話器を取った。最初のうちは「バカモン」と怒鳴っていたが、それが相手を余計に興奮させると分かってからは黙って聞き、時折「はい」と小さく返事するだけにとどめた。非難の言葉は大体同じだった。「小説家だからといって不倫が許されると思うなよ」「相手の妻のことに頭が回らないなんてそれでも小説家なの」「本を売るための手段だろう」中には「不倫をネタにして文学賞を取るなんて最低だ」と作品を読んでいないことが丸わかりの言葉もあった。龍造はこれもいつかは小説のネタになると思いながら、ごもっともです、ごもっともです、と答えて、相手が電話を切るのを待った。
一連の騒動が沈静化しないうちに、さらに『語ることの不可能性について』の剽窃問題が浮上してきた。これも最初に火がついたのはSNSのブログだった。ヒヨコっちの日記の文章のいくつかと酷似しているというもので、「タラバガニのようにトゲトゲの甲羅で覆われたあいつに近づいたら、自分がズタボロになる」とか「足下の地面がまるで液状化したように揺らぎ、その泥の中に体が吸い込まれそうになった」などの表現が列挙されていた。千秋の不倫を報じた週刊誌もそれに食いついて、「美人作家、不倫だけではなく盗作も?」という見出しで記事を載せた。
それらの騒ぎに背中を押されるように神和書房が再び剽窃問題を持ち出し、『水如』紙面上での謝罪と単行本化に当たっての修正を要求してきた。
千秋から経緯を聞いた龍造はブログの記事を読んでみて、確かによく似ているが取り立てて特異な表現でもないし、ましてや出版もされていない日記なのだから何の問題もないと断言した。他人の日記をそのまま流用して小説を書くことなど今までにいくつも例があったわけだし、それで問題になったこともない。いくつか実際の例を挙げてそう言うと、千秋は「先生のおっしゃることも分かりますが、わたしは修正して本にしたいと思います」と答えた。
「そうか、あなたがそう言うのなら、そうしたらよろしい」 だが、話はそれだけではすまなかった。
神和書房との話し合いに臨んだ千秋が帰ってきて言うには、ヒヨコっちのプライバシーにも配慮して、例えば舞台を東京ではなく地方に移したりなど設定を見直してもらえないかと主張したという。受賞作という性質上、大幅な見直しはできないと扇郷書店側が反論し、千秋もそれは同じだった。話は平行線をたどり、再び話し合いの場を持つということでその場は終わった。
「次はいつだ」 「一週間後です」 「よし。その時は私も出席しよう」
十四
話し合いは東京の扇郷書店ビルで行われる。千秋は余裕を見てハイヤーを予約し、カメラマンの姿がないことを確認してから龍造と一緒に乗り込んだ。車内は冷房が効きすぎていたので、千秋は温度を上げてくれるように運転手に頼んだ。車がゆっくりと動き出す。後部座席にもたれた龍造は目を閉じている。ここ二ヵ月足らずの間に先生はずいぶん痩せられたと、千秋は龍造の顔を見た。しみが広がり、顔色も悪い。すべては自分のせいだと忸怩たる思いを抱えながら、千秋は窓の外に目を転じた。季節はすっかり夏になっており、白っぽい陽光が街に降り注いでいた。
有三谷賞受賞を喜んでいた両親も龍造の愛人問題が報じられると、すぐに戻ってこいと言い出した。そんな先生だと分かっていたらお前を行かせなかったのにと母親が言うので、「先生との間には愛人なんていう関係はないの。娘のいうことを信じてよ」と千秋は手に持ったスマホに向かって声を上げた。
「分かってますよ、そんなこと。ただ、前のこともあるし……」 「とにかくわたしは帰りません。ここを離れたら嘘を本当だと認めることになるから」
「それは逆でしょう。そこに居続けたら愛人だと言っているようなものでしょ」
「わたしが帰ったら実家に記者が押しかけるよ、何人も。それでもいいの?」
こっちに戻ってきたら新聞記者が押しかけるってという母親の声が聞こえてくる。俺に貸せという声がしたかと思うと、「とにかく帰ってこい。新聞記者が押しかけてきたらどこかに身を隠したらいい」と父親が怒鳴った。
「先生は高齢なのよ。一人にしておくことはできないの。だからわたしが住み込みで働いているのよ。仕事なんです。それをほっぽり出して帰れるもんですか」
「周りから変な目で見られるこっちの身にもなってみろ」
「あなたの娘を信じてよ。わたしはこのことに関しては後ろ指を指されることは何もないんだから」 「世間はそうは見ないんだ」
「見る人には勝手に見させておいたらいいじゃない」 「そうはいかん」 千秋は、わたしは帰りませんと言って電話を切った。
千秋の過去の不倫が明るみに出ると、市村からLINEが入った。五年ぶりだった。ムラチというアカウント名が市村であることに気づくのにしばらく時間がかかった。
〈有三谷賞受賞おめでとう。ぼくの教え子の中で作家デビューしたのは、きみが初めてだからうれしいよ〉 〈ありがとうございます。先生のお陰です〉
〈ぼくよりも小野寺龍造の力でしょう〉 〈文章の基礎を教えてもらったのは先生です〉 〈ところで今、何だか騒がれてますね〉
〈先生にご迷惑がかかっていますか〉 〈いや、ぼくの方はちっとも。たとえ騒がれたってぼくは平気だから〉
〈そう言っていただくとわたしもほっとします〉 〈東京におれなくなったら、こちらに避難してもいいですよ。ぼくは大歓迎だから〉
千秋の指が止まった。市村の真意がどこにあるのか分からない。昔の関係を復活させてもいいということなのだろうか。千秋はしばらく考えてから指を動かし、文字を打ち込んだ。
〈お気遣い、ありがとうございます。わたしも五年でずいぶん打たれ強くなりました。小野寺先生を見捨てるわけにはいきませんので、東京で闘って参ります。先生はどうぞ奥様を大事になさってください〉
〈大事にしたくても妻は今、転地療養のためここにはおりません〉 〈どうぞお元気で〉
千秋は市村の返事を待たずに、彼を友達登録から外した。自分が本当ににっちもさっちもいかなくなった場合、市村を頼ってしまうかもしれないのが恐かった。千秋はさらに、スマホとパソコンに残っている市村とのメールデータをすべて消し、彼のメールアドレスも削除した。
扇郷書店に着いたのは約束の時間よりもかなり早かった。出版部編集局長の柳井と『水如』編集長の太田が一緒に迎えてくれた。
柳井が「先生が来られるということは向こうに伝えておりませんので、もし相手が先生の同席を断ってきたら、申し訳ありませんが、別室で待機していただいてよろしいでしょうか」と言った。
龍造は千秋を見た。 「神和書房に伝えなかったのか」 「わたしは伝えるつもりだったのですが、柳井さんから止められて」
「伝えて断られた場合、先生をお呼びすることができませんので。ここは、直接来ていただいてその場で相手の反応を見た方がいいかと。その方が同席を断りにくいのではと思いまして。先生のお力があるのとないのとでは交渉の行方が全く違うと思いますので」
小会議室で待機していると、ぎりぎりの時間になって、神和書房編集局次長の梶原と井納が柳井と太田の後に続いて入ってきた。
梶原がこちらを見て驚いた顔をした。 「小野寺先生が同席するとは聞いていませんでしたけど……」
当惑の中にいくぶん詰る口調が込められている。井納は眉根を寄せて千秋にちらっと目を向けた。
「受賞作に先生の手が入っているとかいう噂が流れていて、先生もあながち当事者ではないといえませんので、来ていただいた次第です」と柳井が答える。
「梶原くん」と龍造が呼びかけた。「悪いけど同席させてもらうよ。どうしてもということなら私は退席するが……」
「……まあ、そういうことなら先生のご意見も伺うということで……」
机を挟んで向かい合って座り、話し合いが始まった。柳井は最終案として、似通った表現はすべて改め、東京という大きな舞台は変えないが区や通りの名前をイニシャルにしてプライバシーに配慮する旨を伝えた。
それに対して梶原は、表現を改めるのは当然として、プライバシーに関しては東京以外の地域にすることに加えて、主人公を女子大生から女子高生、それが無理なら社会人に変更してほしいと言う。
「そんな変更をしたら受賞作とは別の作品になってしまう」柳井が気色ばむ。
「テーマは変わらないのだからいいじゃないですか。どうです、作者としては」
それは改稿ではなく新作を書くのと同じことになると思いながら、千秋は、 「その変更を受け入れたら、単行本にしてもいいということでしょうか」
「いや、それは分からない。ヒヨコっちさんがそれを読んでオーケーと言ってくれるかどうか……」
「どうして作者が来ないんだ」と龍造がいらついた声を上げた。「こういう場合、作者同士が話し合うのが一番いいんだ。作者の思いが伝わるとプライバシーの問題も軽くなるし。だいたい本にするということはプライバシーを公にするということなんだ。その覚悟もなくて本にしておいて、今更プライバシー云々などと言い出すこと自体がどうかしている。井納くんも井納くんだ、首に縄をつけてでも作者をこの場に連れてくる必要があるんだ」
「彼女がここまで頑なになってしまったのは私のせいなんです」井納がおもむろに口を開く。「担当者として彼女をバッシングから守れなかった責任は痛感しております。ですから今回の件に関しましては徹底して彼女の側に立たなくてはと思っております。先生のお怒りはごもっともですが、彼女が同席を拒んでいる以上、私にはどうすることもできません」
「それに梶原くん、さっきからあなたは表現が似ているとかプライバシーとか言っているが、出版物はすべて新しい文学のための土壌になるということが分からんのか。本にした段階で作者のプライバシーなんかない。表現に関していえば、たとえそっくりに使ったとしてもそれは部分に過ぎない。全体で新しい価値を生み出しているなら何の問題もないのだ。ましてや公にしていない日記の文章を使うことなど問題にする方がおかしい」
そう言うと、龍造は日記を流用した作品名と作家の名前を次々と挙げていった。
「先生」と梶原が口を挟んだ。「昔とは時代が違うんですよ。文学が特別な地位にあった時代なら、皆仕方がないと思ったでしょうが、今は個人の権利が大事にされる時代なんですよ、そこを分かってもらわなくては」
「バカモン!」と龍造が机を叩いた。「お前はそれでも編集者か。文学を大事にする気持ちがあるなら、口が裂けてもそんなことは言えないはずだ。どうしてソロナラコロ……」
興奮して指先を震わせていた龍造が突然ううっと唸って頭を手で押さえた。同時に体が前に倒れ、頭が机にぶつかった。ごんという重い音が響き、龍造がそのまま椅子からずり落ちそうになる。千秋はあわてて両手で龍造の体を支えた。
「先生!」横にいた太田も肩をつかんでいる。 向かいの梶原と井納が立ち上がり、急いでこちらに回ってくる。
「取りあえず床に寝かせよう」と柳井が言う。
千秋と太田、それに井納も手を貸し、木偶の坊のようになった龍造を慎重に椅子から下ろし、床に横たえた。目を見開き何か言おうとしているが、あーうーと言うだけで言葉にならず、口の端から涎が垂れている。
「先生」と千秋が龍造の胸を揺すると、「動かしちゃいかん」と梶原が怒鳴った。千秋はびくっとして手を引っ込めた。龍造と目を合わせようとしても眼球があちこち動くので合わない。梶原が龍造の手首を取って脈を診ている。あ、もしもし、救急車をお願いしたいんですがという井納の声が聞こえてくる。
龍造は近くの救急病院に搬送された。MRI等の検査を受けた結果、脳出血と診断された。発症後すぐに運ばれたために手術を回避することができ、しばらく絶対安静で経過を見ることになった。
その日のうちに千秋は小野寺隆の家に電話をした。出たのは景子で、千秋が龍造の発症を伝えると、えっと絶句した。
「幸い意識はありまして、手術はしないことになりました」 「やっぱりお義父(とう)さま、ストレスがたまっていたんでしょうか」
そう言われると自分が責められているようで千秋は「いろいろありましたから」としか答えられなかった。
翌日の昼過ぎ、点滴を受けて眠っている龍造を見ながら丸椅子に腰を下ろしていると、病室の扉がゆっくりと開けられた。景子と翔太の姿が見えた。千秋は立っていって、二人を迎えた。
「こんにちは」と翔太が神妙な顔で頭を下げる。 「お義父さま、どうです」 「今は眠っていらっしゃいます」
二人を中に入れた。椅子が二つしかないので、二人をそこに座らせ、千秋はベッド脇に立った。
「おじいちゃん、顔がおかしい」と翔太がつぶやいた。片方の目尻や頬、それに口角が若干下がっている。 「右半身に麻痺が出ているとお医者様が……」
「お義父さま、右利きでしたっけ」 「そうです。でも先生がリハビリをしたら改善するので、そんなに落ち込むことはないとおっしゃっていました」
その時、龍造が目を開けた。景子が立ち上がって龍造の顔を覗き込む。翔太も立ち上がった。 「お義父さま、大丈夫ですか」
「ここはどこだ」不明瞭な発音だが何とか聞き取れる。 「病院ですよ、病院」 「あんた、だれだ」 「景子です、隆さんの嫁の景子です」
「たかし……」 「隆さん、今日は仕事で来れないので私が……」 「わからん」 「おじいちゃん、翔太だよ。分かる?」
龍造が顔をわずかに動かして翔太に目をやった。 「しょうた……」 「そうだよ、孫の翔太。この前、一緒に出版記念会をしたでしょ」
「そうだったか」 「そうだよ。一緒に並んでサイン会もやったじゃない。覚えてない?」 「うーん……」
龍造は再び目を閉じた。翔太が何か言おうとするのを景子が手で制した。
「先生はわたしのこともまだ誰だか分からないような状態で。お医者様は一時的な認知障害だとおっしゃっているんですが」
しばらく待っても龍造が目を覚まさないので、三人は病室を出た。
交替で付き添うことを景子が提案してくれたのでその晩は鎌倉に戻り、翌日、千秋は着替えとかバスタオル、それに保険証を持って東京に向かった。
十五
龍造の認知障害は徐々に薄れていったが、それでも時々記憶の混濁が起こることがあった。
朝方、簡易ベッドで千秋が仮眠をとっていると龍造の声で起こされ、こちらを見て何か言っている。顔を近づけて「先生、何ですか」と尋ねると、「多恵子さん、トイレ」と左手を上げて千秋の腕をつかもうとする。
「先生、おしっこならこの場でしてもいいんですよ」 絶対安静なので導尿管が挿入されている。 「ここはどこだ」
「脳神経外科の病院ですよ。先生は脳出血で入院されているんです」 「……ああ、そうだったな」
「それにわたしは乾多恵子ではありません。笹川千秋です」 「笹川千秋? ああ、そうだ、そうだ。千秋さんだった」
主治医から、脳血管性の認知障害なので脳出血が再び発症するとさらに症状が進むと言われていた。
景子との交替の付き添いも一週間が限度で、認知障害が残っているため病院からの要請で夜は付添人を雇うことになった。
それから二週間経って容体が安定してきたので、リハビリ専門病院への転院を要請された。それまでもベッドの上で手足を動かしたり、簡単な文を声を出して読む練習をしていたが、専門病院の方がもっとしっかりとリハビリができるという。
景子は自宅から通える東京の病院を主張したが、龍造は鎌倉を譲らず、結局救急病院の紹介で鎌倉のリハビリテーション病院に転院した。
江ノ電に乗って四つ目の駅にある病院まで毎日通うことになった。夜間の付き添いがなくなったことだけでもありがたかった。
千秋は龍造を車椅子に乗せ、三階にある訓練室まで連れていく。理学療法士が龍造をベッドに寝かせ、右足の関節を動かすマッサージをしていく。朝起きてベッドの上でできる運動を教えてもらったが、それを朝だけではなく日に何回もさせるのが千秋の役割だった。
龍造は自力で歩けるかどうかより、右手で文字が書けるようになるかどうかを最大の関心事にしていた。千秋が「左手一本でもワープロなら打てますよ」と言っても聞かない。
「わしは今まで手で書いてきたのだ。ワープロなんか使って文章が書けるか」 「だったら口述筆記はどうですか。わたしがやりますよ」
「バカモン。口で小説が書けるか。手を動かしてようやく生まれるのが小説だ」
龍造が怒りっぽくなっているのを感じたが、自分の身体を思うように動かせない苛立ちがそうさせているのだろうと思うと、腹立ちも抑えられる。
リハビリが平行棒の間を歩く訓練に移った頃、井納が上司の梶原と共に見舞いにやってきた。龍造は倒れる前の話し合いのことを覚えていないらしく、話はもっぱら今自分の書いている半自伝的小説のことに終始した。「あの作品はわしの集大成になるはずだ」「こんな体になる前に書いておきたかった」「あれを完成させなければ死んでも死に切れん」愚痴が次々と口から零れ、井納も梶原も神妙にうなずきながら聞いていた。
病室を出たところで、梶原が「笹川さん、扇郷書店から連絡はありました?」と聞いてきた。 「何のことでしょう」
「あなたの受賞作はもう単行本にしないということですよ」 「そうですか」 たぶんそうなるだろうと思っていた千秋は別に驚きはしない。
「扇郷書店はあなたの受賞作をなかったことにするということでこちらと合意したんです。受賞は取り消さないが、単行本にはしないとね。もし出版ということになればこちらが訴訟を起こすことになっています」
二人をエレベーターに見送って病室に戻り、龍造の右手をマッサージしていると、扉が開き、井納が顔を覗かせた。龍造の手を放し、立っていくと、「ちょっと話をしませんか」と小声で言った。
同じフロアーにある談話室に行く。井納は自動販売機からコーヒーを二つ買ってきて、一つを千秋にくれた。 「本にならなくて残念でしたね」
「仕方がありません」
「ぼくはそこまでしなくてもと思ったんですが、梶原さんが結構強硬で。今の奥さんに何か言われたのかなとちらっと思ってるんですけどね」
指摘されて初めて千秋は多恵子が関わっている可能性に気づいた。しかし多恵子の性格を考えると、自分への嫉妬だとは到底思えない。
「たとえ本にならなくても有三谷賞を受賞したというのは事実なんだから、千秋さん、自信を持ってくださいよ」 「それは分かってます」
「今、何か書いていますか」 「何も」 「そりゃそうか。先生の看病で大変だもんな」 井納がコーヒー缶に口をつけて一口飲んだ。
「千秋さん、ぼくはそのうち出版社を立ち上げようと思っているんですよ。一人出版社ですけどね。その時最初に出版する本を『語ることの不可能性について』にするというのはどうです」
「え?」 「いいアイデアだと思いませんか」 「……でも、版権を持っているのは扇郷書店でしょう」 「だからそれを買うんですよ」
「でも出版となったら訴訟が……」
「もちろん今すぐというわけにはいきませんが、何年かしてヒヨコっちが大人になったら許可してくれるかもしれませんからね。ぼくが説得しますよ。そうしたらあなたの作品を本にする。だからそれまでに千秋さんはぼくに損をさせないようにプロとして名を上げておいてくれなくちゃ」
井納らしいワンクッションのある励まし方に千秋は笑みを見せた。たとえ実現の可能性が低くてもそれを遠くにあるトンネルの出口の光と見なせば、そこに向かって少しずつでも歩いて行ける。
「分かりました。井納さんの立ち上げた出版社をつぶさないようにいたします」
「そうこなくっちゃ。人生のマイナスは小説にとってはプラスである、これ、先生のエッセイにある言葉ですよ」 「先生なら確かに言いそうです」
エレベーターの前で待っていると、下から上がってきて扉が開いた。井納は中に入りかけて振り返ると右手を差し出した。千秋がその手を握ると、ぐっと力が込められた。
「約束ですよ。書いてくださいよ」 「はい」 エレベーターに乗り込んだ井納が手を上げ、千秋はお辞儀でそれに応えた。
井納に書きますとは言ったものの、書きたいものが自分の中にないことに加えて、龍造のリハビリに付き添うと時間も体力も奪われて夜、パソコンのスイッチを入れる気力もなかった。
さらに、最初のうちはリハビリに熱心に取り組んでいた龍造も遅々としてよくならない症状に次第に苛立ち始めた。理学療法士による自立歩行の訓練と作業療法士による右手の訓練が並行して行われるのだが、龍造はもっと右手の訓練時間を増やしてくれと文句を言う。しかし理学療法士は「生活する上で自立歩行の方が大事なのですよ。それに足の訓練と手の訓練は脳の中でつながっていますから、足を動かすことは手を動かすことだと思って、頑張ってください」となだめた。
しかし龍造は納得せず、訓練室から帰ってから病室で、千秋にテニスボールやお手玉を使った右手の訓練をさせた。時には原稿用紙と鉛筆を使って文字を書く練習もしたが、鉛筆を握るだけでも一苦労で、とうてい文字にはならず子供の落書きになった。千秋が左手で書く訓練を提案し、一週間ほど熱心に続けたが、ものにならんと鉛筆を投げ出した。今書いている小説を完成させなきゃだめじゃないですかと叱咤しても、龍造は左半分の顔をゆがめるように笑って、未完で終わるのもわしらしくていいと言う始末だった。
右半身の顔や手足の痺れやだるさ、重さがなかなか取れないことへの苛立ちも次第に言い募るようになり、一時は回復していた認知機能もリハビリへの意欲が衰えるに従って時々おかしくなることがあった。
朝、リハビリが始まる前に病室に入ると、龍造が眠っていることがある。
「先生、リハビリの時間ですよ」と千秋は龍造の体を揺する。うんと唸って龍造が目を開ける。そしてこちらを見てから、天井とか周りに視線を向ける。
「ここはどこだ」
千秋は収納ボックスの上に置いてあるクリアファイルを取って龍造に見せる。中に挟んであるA4用紙には、「先生は脳出血になって今リハビリのために聖タダイ病院に入院しています」と書かれてある。
龍造はそれに目を通すと、「そうか」と言ってクリアファイルを千秋に返す。 「先生、わたしは誰でしょう」
千秋はおどけた感じで自分を指さす。龍造はじっとこちらに目を向けてから「千秋さんだろう」と言う。
「正解」と千秋は明るい声を出す。たまに答えないときがあって、そんな時は不安になって、時間を置いてから聞き直すこともあった。
杖をついて何とか歩行できるようになると、龍造はすぐにでも退院したいと言い出した。医者はまだ早すぎると反対したが、龍造の意思は固く、千秋の言うことも聞かなかった。それで彼女は医者の意見を聞いて、屋敷のバリアフリー工事を早急に実施することにし、龍造の金銭管理をしている税理士に相談した。彼が補助金申請もやってくれて、二週間後に龍造を退院させた。
屋敷に戻った日、龍造は高徳院に行きたいと言い出した。お疲れだから明日にしましょうと言っても聞かず、ジャージーの上下に厚い靴下を履かせ、毛糸の帽子にダウンのコートを着せて車椅子に乗せた。靴はスニーカーである。昼から木枯らしが吹き始め、千秋はいつの間にこんな季節になったのかと驚いた。秋があったのか全く記憶にない。龍造の倒れた暑い日からいきなり道沿いの林は冬景色になっていた。
車椅子を押して高徳院の境内に入っていき、大仏の前まで来ると、龍造は股の間に挟んでいた杖を地面につけて立ち上がろうとした。千秋は車椅子のストッパーを掛け、龍造の左腕をつかんで起き上がるのを助けた。
大仏と相対するように立った龍造は杖のグリップを左手でつかみ、その上に右手を添えて見上げていた。体が微妙に揺れている。千秋は両手を合わせて、龍造が再び小説を書けるようになることを祈った。
「体が冷えますから、そろそろ戻りましょう」 なかなか大仏との対峙をやめない龍造に声をかけ、手を貸して車椅子に座らせた。
「大仏様の声が聞こえましたか」 「聞こえん。……いや、聞こえたかな。もうそろそろお前もこっちに来いとおっしゃった」
「それは先生の空耳です」 「かもしれん。そうでないかもしれん」
車椅子を押して屋敷に戻るうちに、最初は冗談のように聞こえていた龍造の言葉が次第に重みを持ってくることに千秋は戸惑ったのだった。
それから数日後、翔太から見舞いに行きたいという電話があったとき、千秋は静原麻里も一緒に連れてきてほしいと頼んだ。麻里が来たら少しは龍造の気持ちが作品に向かうのではないかと考えたからだった。
インターホンが鳴って玄関に出ると、翔太が紙袋を提げた麻里と共に中に入ってきた。 「おじいちゃんの具合、どう」
「よくなったり、悪くなったり。でも少しずつ歩けるようになってるわ」
麻里が「これ、お見舞いですけど」と紙袋を差し出す。中身は思った通り蜂蜜プリンだった。
二人を龍造の寝室の傍まで連れていき、引き戸を開けると、「先生、翔太さんと麻里さんがお見えですよ」と千秋は声をかけた。
背上げ状態の電動ベッドに上半身をもたせかけていた龍造がうんうんとうなずいた。 「ここにお通ししてもいいですか」
「……いや、応接間にしよう」 「分かりました」 千秋は二人を応接間に通し、エアコン暖房のスイッチを入れてから、寝室に戻った。
龍造がベッドに腰をかけ、左手でジャージーのズボンを脱ごうとしている。 「先生、そのままでいいじゃないですか」 「いや、着物に着替える」
龍造のそのこだわりに、本来の姿に戻りつつあると千秋は喜んだ。手を貸して着物を着せ、ジャージーよりも歩きにくいだろうと手を持とうとすると、その手を払われた。龍造はベッドに立てかけた杖を左手で握り、不自由な右手を新たに設けた手すりに当てながら応接間に向かった。
ドアを開け、先に入って龍造を誘導する。麻里が腰を上げた。驚いた表情をしている。
「よく来たな」と言って龍造はソファーにゆっくりと腰を下ろした。 千秋はキッチンに行き、お茶と蜂蜜プリンを盆に載せて応接間に戻った。
「先生、私、もうすぐ新刊が出るんです」
そう言うと、麻里がバッグから本を取り出し、龍造の前に置いた。『ミミ、死にたまふことなかれ』という書名だった。龍造がそれを左手で取った。
「ミミとは誰だ」 「猫の名前です」 「動物か」 「いいえ」と麻里が手を振った。「実在の猫ではなくて、主人公の幻想の猫です」
「幻想の猫?」 「そうです。主人公が子供の時から頭の中で飼っている猫です」 「その猫が死ぬのか」
「死にそうになるのですが、死にません」 「幻想の猫がどうして死ぬのか」 「それは読んでいただければ分かります」
「うーん、面白そうだな」 しかし龍造の声には張りがなく、麻里が戸惑った表情を見せた。 「麻里さん、わたしも読ませてもらいます」
千秋がすかさず口を挟んだ。 「翔太は書いているのか」 「今は高校受験でそれどころではないよ」
「時間があろうとなかろうと、書きたいという欲求に突き動かされて書かざるを得ないのが作家だ」 「だったらおじいちゃんは書いてるの?」
「欲求がない」 「だったら来年、高校に受かったらぼくも小説を書くから、おじいちゃんも書いてよ」 「わしと競争か」 「うん」
千秋がプリンを食べるように勧め、龍造も左手でスプーンをつかんでプリンを一口すくった。ゆっくりと口に運ぶ。それを飲み込んだ途端、龍造が激しく咳き込みだした。誤嚥だと気づいた千秋は上半身を倒して咳をする龍造の背中をさすった。なかなか治まらない。龍造はソファーに突っ伏し、背中を痙攣させている。翔太と麻里がおろおろしているのが分かる。
しばらくしてようやく落ち着いてくると、「車椅子を取ってきますからね」と龍造に言って、千秋は急いで寝室に行った。
車椅子を押して応接間に入ると、麻里に手伝ってもらってそれに龍造を座らせ、寝室に戻った。翔太と麻里も一緒についてき、また麻里の手を借りて龍造をベッドに横たわらせた。龍造は目を閉じ、時折間歇的な小さな咳をしている。
屋敷を辞する翔太と麻里を玄関まで見送ると、パンプスを履いた麻里がこちらを振り返った。
「先生、すごく痩せられていてびっくりしました。何だか急に年を取ってしまわれたようで……。先生の看護、大変でしょうけど頑張ってください」
「麻里さんに来てもらって先生もきっとお喜びだと思います。ありがとうございました。翔太くんもありがとう」 「また来るよ」
麻里が行きかけて戻ってきた。 「先生の看護、大変でしたら私が替わりますから、いつでもおっしゃってください」
その時、麻里がこういう申し出をするのは小説のネタのため? という考えが一瞬頭をよぎり、千秋はそれを羞(は)じた。
「ありがとうございます。その時は遠慮なく連絡いたします」
二人の訪問が少しは龍造の作家魂に火をつけるかと思っていたが、執筆意欲を全く見せなかった。麻里の新刊も手に取ろうとせず、翔太が高校入学を機に執筆を再開することを言い、先生と競争じゃなかったんですかと水を向けても、その会話自体を覚えていなかった。
翌朝、朝食の用意ができて龍造を呼びに行くと、彼はまだ電動ベッドの上で横になっていた。顔を覗くと眠っていたので、千秋は静かに寝室を出て起きてくるまで待つことにした。
しかしいくら待っても起きてこないので、ダイニングテーブルの椅子から立ち上がり、再び様子を見に行った。まだベッドに横たわっている龍造を見て、まさかと思い、口の近くに手を当てた。息があり、ほっとして枕元のナイトテーブルを見ると、いつもは一粒くらいしか押し出した跡のない睡眠導入剤が何粒も押し出されている。
「先生、先生!」
千秋は龍造の胸を揺すり、それでも目が覚めないと分かると、頬を叩いた。龍造は大きく息をし、吐くときいびきになったが、目を覚まさない。
彼女はワイドパンツのポケットからスマホを取り出し、かかりつけ医に電話をした。声が震えているのが自分でも分かった。事情を話すと、かかりつけ医は落ち着いた声で、すぐに行きますからと電話を切った。
先生は自殺を図ったに違いない、その思いが頭から離れない。
ほどなくやってきた医者は龍造のまぶたを指で開け、ペンライトの光を当てて覗き込んだ。龍造は唸って首を左右に動かしたが、それでも目を覚まさない。医者は手首を取って脈をみ、胸に聴診器を当てたあと、ナイトテーブルにある錠剤シートの押しつぶした跡を数えた。
「どうやら飲み過ぎたようですね」 「何か処置しなくていいんですか」 千秋は医者ののんびりとした態度に、思わず強い口調になった。
「しばらく様子を見ましょう」 その言葉通り、二人が見守っていると龍造が目を覚ました。こちらを見て不思議そうな顔をする。 「リハビリか」
週二回来てもらっている理学療法士と間違えている。 「先生がなかなか目を覚まさないから心配していたんです」 「………」
「睡眠導入剤を飲み過ぎたんですか」医者が龍造の耳元に口を近づけてゆっくりと言う。 「分からん」 「よく眠れてますか」 「どうかな」
医者は千秋に、他の薬と同じように睡眠導入剤の管理も彼女がするように言って、帰っていった。 それから何日か経ったときだった。
左手の箸と誤嚥を恐れるゆっくりとした咀嚼で時間のかかった夕食を途中で終えると、「もう終わりにしよう」と龍造が言った。 「多かったですか」
「いや、飯のことではない。わしの人生のことだ」
千秋ははっとして龍造の顔を凝視した。いつかこういうときが来る、千秋は薄々感じていたことをはっきりと自覚し、そのことが彼女を冷静にさせた。
「死ぬおつもりですか」 「そうだ」 「未完の作品はどうなります」 「それは仕方がない」
「先生、それはおかしくありませんか。作家たるもの、一度書き始めたものは最後まで書かなければならない、とエッセイにも書かれていたと思いますけど」
龍造がふっと笑った。 「そんなことを言ったか」 「それに、人の死を決めるのは神だけである、これも先生の言葉ですけど」
「作品が書けないのは死んだも同然」 「死ぬこと以外、すべてネタとおっしゃっていたのは嘘だったんですか」 「わしはもう死んでおる」
「死ぬのならお一人でなさってください」 「それができないからあなたに聞いておる」 「わたしに聞かれても困ります」 「そうか」
千秋は話を打ち切り、食事の片付けを始めた。洗剤で食器を洗っているとき、何度も滑り落としそうになり、自分が緊張していたことに気づかされた。
これからどうなるのか。わたしの役目はもうここまでではないのか。後は息子さん夫婦に任せたらいいのではないか。そんな思いが千秋の頭を駆け巡り、なかなか眠れなかったが、ようやくうとうとしかけた頃、大きな物音で目を覚ました。冷え切った廊下に出ると龍造の寝室の引き戸が開いていて、明かりが射している。急いで行って中を覗くとベッドは空っぽだった。動悸が激しくなる。寝室のどこにも龍造の姿はない。トイレだと確信して廊下の角を曲がると、浴室の扉が開いており明かりが点っていた。千秋は浴室に突進した。
果たして龍造がうつ伏せのジャージー姿で床に倒れていた。折り畳み式の風呂蓋が残り湯の中に落ち、石鹸やシャンプーのボトルが散乱していた。かがみ込み、肩を揺する。その時脳出血かもと気がつき手を引っ込め、その手を恐る恐る口に持って行った。微かに息をしている。
「先生、大丈夫ですか。わたしの声が聞こえますか」
反応はない。千秋は自分の部屋にとって返し、スマホをつかんで、一一九を押した。落ち着いてくださいと言う救急隊員に事情を説明しながら浴室に戻る。救急車の要請が終わって電話を切ると、言われたとおり玄関に行って引き戸を開け、龍造の寝室から毛布を取ってきて倒れている彼の体にかぶせた。このまま死ぬんじゃないかと気が気でなく、何度か玄関まで救急車が到着していないかと見に行った。近づいたらサイレンが聞こえるはずだと気づいて、龍造の横にしゃがみ込んだ。そのこんもりとした姿を見ながら、龍造が何をしようとしていたのかと千秋は不思議に思った。風呂は週二回のデイサービスですませている。浴槽の蓋が落ちているということは風呂に入ろうとしたのか。ジャージーも脱がないで? まさかと思った。浴槽の湯につかって死のうとした? 千秋はあわてて立ち上がり、龍造の寝室に行って、ナイトテーブルを見た。寝る前に千秋の渡した睡眠導入剤三錠の包装がすべて押しつぶされていた。
浴室に戻ってもう一度龍造の呼吸を確認した。そのとき、龍造の歯がかたかたと鳴り、体が震えていることに気づいた。千秋は思わず両手で体を擦ろうとしてためらい、毛布の上からゆっくりと体を密着させた。震えが全身に伝わり、それを溶かすように龍造の体を抱き続けた。
十六
翔太が遅い朝食を摂っていると、リビングで家の電話が鳴った。洗濯室から景子が出て来て、小走りにリビングに向かう。ここにいるのなら電話くらい取ってくださいよという景子の声が聞こえ、電話のベルがやんだ。
はい、小野寺ですが……え、何ですって……あ、そうなんですか……はい、はい、分かりました。今すぐ行きます。
急に景子の声が小さくなって、病院とか電話番号とかの単語が聞こえてくる。 「どうした」と隆の声。 「お父さまが手術されるんですって」
「また脳出血か」 「いいえ、浴室で転んで脳挫傷なんですって。血腫を取る手術をするそうよ」 「意識はあるのか」
「聞かなかった。でもないんじゃないの」 翔太は朝食を中断して、リビングに行った。ソファーに座った隆が新聞を手に、体をねじって景子を見ている。
「手術同意書に身内の署名が必要なんですって」 「だったらお前が行ってこい」
「また私ですか。今日は日曜ですから仕事という言い訳は効きませんけど」 「休日出勤と言えばいい」
「私は車で行きたいんです。車を出してください」 隆は新聞をローテーブルに叩きつけると、ソファーから立ち上がった。
翔太も同行して隆の運転で鎌倉まで向かうことになった。翔太と景子が後部座席に乗り込むと、カーナビに病院の住所を入力して隆はプリウスを発車させた。
「浴室で転んだって言うけど、親父、右半身が麻痺じゃなかったのか」 「そうですよ」 「秘書が風呂に入れていたということか」
「おそらくそうだと思いますけど」 「無理だろう、女の力で。介護保険があるんだから、どうしてそれを使わなかったんだ」
「私に聞かれても困りますよ。千秋さんが若いからいいとおっしゃってたのはあなたですよ」 「ふん」
車は首都高速に載って速度を上げていく。今にも冷たい雨が降ってきそうな曇り空の下、疾走する車に乗っていると、何だかこのまま死に向かっていくような心地がした。
「おじいちゃん、死ぬのかな」 翔太はぽつりと呟いた。 「人間、死ぬときは死ぬ」 前を見ながら隆が答える。
「お父さん、恐くないの?」 「死ぬことが?」 「うん」 「やめてよ、縁起でもない」景子が声を上げた。
「翔太、向こうへ着いたら、親父に聞いてみるんだな。おじいちゃん、死ぬことが恐いかって」 「いい加減にして、そんな話は」
鎌倉の病院に着いたのは、昼前だった。受付で尋ねて二階の集中治療室に向かった。看護師控室に声を掛けると看護師が出てき、ICUに案内してくれた。六床あるベッドがすべて埋まっており、一番奥のベッドの傍に椅子に腰を下ろしている千秋の姿が見えた。翔太たちが近づくと、彼女が立ち上がって会釈をした。目の下が黒く、疲れ切った表情をしている。
龍造は目を閉じて横たわっており、点滴を受けていた。指先と頭からモニターに線がつながって、ピッピッと音が流れている。
「意識はあるの?」と景子が小声で聞いた。 「いいえ」 「父がいろいろとお世話になっています」隆が神妙な顔で頭を下げた。
「笹川千秋です」
その時、看護師が入ってきて、先生の説明がありますから来ていただけますかと誰に言うともなく言った。隆が看護師と一緒に出ていく。
千秋が景子の質問に答えて、龍造が倒れたときの情況を説明した。その前の睡眠導入剤の過剰摂取にも触れ、「自殺しようとされたのかもしれません」と彼女が言ったとき、翔太は思わず龍造の痩せこけた顔を見た。一週間前に静原麻里と見舞いに行ったときには、弱ってはいたがそれは体だけで精神の方は以前の祖父と変わらない気がしていたのだ。
「やはり脳出血のダメージがこたえているのでしょうか」 と景子も龍造に目を向けた。
「利き手の右半身麻痺がこたえていると思います。書けなくなれば小説家は死んだも同然とおっしゃっていましたから」
書けなければ死んだも同然、翔太はその言葉を頭の中で繰り返した。本当だろうか。死ねば二度と書けないが、生きていればまた書けるチャンスが巡ってくるのではないか。自分が祖父の年まで書けたとしたら、その感覚が理解できるのだろうか。
隆がストレッチャーを押した看護師たちと一緒に戻ってきた。龍造はストレッチャーに移され、点滴袋もアンテナのような棒につるされた。
手術は三時間ほどかかると言われ、四人は手術室前のソファーに腰を下ろした。 景子が隆に小声で、先ほど千秋から聞いた話をしている。
「自殺か」隆が呟いた。 「そうなのよ。私も聞いてびっくりした」 「どうせやるなら確実に死ねばいいものを、中途半端なことをしやがって」
「あなた」景子が隆の腕を揺すった。「そんなことを言ったらダメ」
「どうしてだ。俺はさんざんあいつに痛めつけられて来たんだ。お袋もあいつに苦しめられてうつ病になって自殺したんだ。自業自得だよ。世間の奴ら、何にも知らないくせに、赤裸々に書かれた魂の叫びだとか極北の自虐だとか勝手なことをぬかしやがって。俺はあいつの書いた小説なんか絶対に認めん。書けなくなったらどうぞ死んでくれだよ。あー、せいせいするよ」
声が上ずっている。写真でしか見たことのない祖母が自殺していたということに翔太は驚いたが、それよりも父親の激昂する姿を初めて目にしたことの方が衝撃が大きかった。
「他の人に聞こえるからやめてちょうだい」 「聞こえるように言ってるんだ」 隆は翔太の隣に座っている千秋を指さした。
「あんた、あんな男の世話をするのをもうやめろ。介護施設に放り込んで、そこで一人で死なせればいいんだ。それがあいつには一番ふさわしいんだよ。それがあいつには……」
語尾が震えている。 隆が急に立ち上がった。一瞬よろけて、それを立て直すと、ゆっくりと通路を歩いていく。
「あなた」景子がその後をついていく。
どこに行くのかと見ていると、隆がトイレに入ったので翔太はほっと息を吐いた。景子が戻ってきて、翔太に向かって大丈夫みたいというように目配せをした。
隆がなかなか出て来ない。見に行こうかと翔太が腰を上げかけると、ようやくトイレから隆が出てきた。
戻って来ると、「俺は帰る」と隆が言った。前髪が濡れており、顔でも洗ったのか、さっぱりとした表情をしている。 「お前はどうする」
問われた景子が翔太と千秋に目をやった。 「わたしが見ますからどうぞご心配なく」と千秋が言う。 「ぼくも残る」
景子は迷ったように翔太と隆に交互に視線を向けていたが、隆が歩き出すと、「お父さん、心配だから一緒に帰るわね」と翔太の耳元で言った。そして彼に五千円札を持たせると立ち上がった。
「千秋さん、よろしくお願いします。付き添い、また交替でやりましょうね」 「東京は遠いですから、来ていただけるときだけで構いませんので」
景子は、ありがとうと言って隆の後を小走りで追っていった。 「翔太くんも帰っていいのよ」 「どうせ冬休みで暇だから」
そう言うと、千秋は微かに微笑んだ。
手術は午後三時過ぎに終わった。草色の手術着を着た主治医は二人を見て、怪訝な顔をした。
「小野寺さんの身内の方?」 「はい」と答えて翔太は立ち上がった。
主治医は、片耳にマスクをぶら下げたまま、血腫は取り除いたこと、脳出血の既往症があるため予断を許さないこと、脳の腫れが治まるかどうか、ここ一日か二日が山場であることを淡々とした口調で説明した。そして翔太と千秋を集中治療室に案内してくれた。
龍造は先ほどと同じベッドに横たわっていた。剃り上げた頭から管が出ており、口には人工呼吸器の蛇腹状のホースがテープでとめられている。頭の管はビニール袋につながっており、赤い液が溜まっていた。脳の圧力を下げるため髄液を排出していると主治医が説明した。
人工呼吸器の出す排出音がいくつも交錯する中、龍造は死んだように横たわっている。その痩せこけた頬を見詰めているうちに、翔太はこの光景をどこかで見たことがあるような感覚に陥った。デジャビュだと思ったが、そう思っても既視の感覚は消えず、さらに強くなっていく。おじいちゃんが死んじゃうんだ、今この瞬間に。そう思ったとき、不思議なことに自分が祖父の目になって、取り囲んでいる人間たちを見ているのだった。自分なのか千秋なのか、誰なのか判然としないまま、翔太は彼らを見詰め続けた。
十七
……ひかりがある、ひかりがあるうちに、ひかりのなかをすすんでいこうとしても、そのひかるものがなになのかわからないまま、ひかるものにみちびかれてしろいみちをあゆんでいくけれども、出口はひかりにかすんだままいっこうにちかづいてくれず、そのままそこにへたりこんでしまおうかとおもっていると、とおくでなにかがきらきらとひかりをはんしゃしており、それをたしかめようとちかづいていくと、しろいてでおんながおいでおいでをしており、かおはのっぺらぼうとおもうまもなく、きりがはれるようにめはながあらわれ、珠子とおもわずくちにすると、ようこそおかえりとおんながだきついてき、そのおんなともおもえぬちからにあらがい、うでをさしいれ、なんとかふりほどくと、おんなのくちがさけ、まっくろな口腔にのみこまれそうになり、おんなをつきとばし、ひかりあるでぐちにむかってにげようとするが、しろいみちがいつのまにか沼のようなぬかるみになっており、あしをとられてすすまず、ふたたびおんなにだきつかれ、こんどはりょうてをこすりあわせてゆるしをこうが、くちをあけたおんなはこちらをみておらず、おんなの視線につられて目をむけると、こどもがあっかんべーをして、くるりとうしろをむき、くろいランドセルがゆれているとおもったら、おんなの口腔になり、それがきょだいになってのみこまれていき、すべりおちたところはまたしろいみちで、となりにおとこがいて、たいようがずじょうからてりつけるあついなかをあるいていき、かげのようなにんげんたちのたむろするなかをはいると、かんおけが鎮座し、おとこが母をみろといってかおのところの観音扉をあけ、おそるおそるのぞきこむと、こうつうじこでぐしゃぐしゃになったはずのおんなのかおがきれいにけしょうをされており、よくみるとくびにあかいあざがみえ、まだきえないのかとおもっていると、おんなが目をあけ、にっとわらい、きてくれたのねというのでにげずにがまんしていると、うでをつかまれそのつめたさにふるえあがり、おとこの制止をふりきって、そとにとびだしたら、くろい喪服をきたおんなにぶつかり、おんなにてをひかれてしろいみちをあるいていき、一軒のいえにつれこまれ、お慕いしておりましたというおんなのかおをよくみたら、俊美こんなところをみられたらあいつになぐられると、からだがはんぶんにげかけるが、うでをがっしりとつかまれて、これをよんでくださいと手にもったちょうめんをめのまえにつきつけられ、わかりましたわかりましたとそれをてにとりはなれると、おんなはこれであんしんしましたとたちあがり、脚立にのって鴨居からぶらさがったひもにくびをかけようとするので、あわててそのからだをおさえ、ばかなまねはよせというと、だったら抱いてくださいとおんながいい、それはできないとこたえると、おんなのかおがたちまち土色になり絶命したので、そのからだをたたみのうえによこたえて一軒家をでると、くろいかげのにんげんたちがこちらをゆびさして口々になにかさけんでおり、みみをふさいではしりだすと、しろいみちにでており、ひかる出口はまだはるか遠いさきで、おもわずへたりこむと、どこからかおんなの呼ぶこえがきこえてき、たすかったとおもい、ふらふらとそのほうへあるいていくと、おんながおいでおいでをしており、和子ですといってから、すぐうしろにあるとびらをあけ、うながされるままなかにはいると、おおきな劇場でそのまま壇上にひっぱりあげられ、観客席はくろいかげでうまっており、拍手するものと指さすものがはんはんのなかで、なにかいおうとするも、ことばがでてこず立ちすくんでいると、いつのまにか壇上にいたおとこたちから怒りのこえがとんできて、それにちいさなこえで反論しているうちに次第にどなりごえになり、舞台のそでからおんながとびだしてきてうでをとり舞台裏につれていかれると、そこにあった衣装をきるようにいわれ、なんのことかわからないまま突っ立っていると、わたしはこれをきるからとおんなはふくをすべてぬぎ、振袖衣装をきてこちらのきがえもてつだってくれ、ふたたび舞台にもどると盛大な拍手がおこり、おんながここでちぎりをむすびましょうというので、えっとおもううちにひきたおされ、おんながおびをほどきこちらのおびもほどかれ、にまいの衣装を毛布のようにしてはだかでだきあうけれども、てをおんなの陰部にのばすと、おんなはわらって、これはえんぎなのでほんきはだめとてをおさえられ、そのときとつぜん衣装がはぎとられ、こわいかおをしたおんながたっており、道代かとたずねるまもなく、おんなにはだかのままてをひっぱられ、先生さぁ書かなくてはと目のまえにげんこうようしをつきつけられ、てにえんぴつをもたされ、しりを観客席にむけたまま書こうとしたが、いくら手をうごかしても黒い字にならず白紙のまま、それでもおんなはしりをたたきつづけ、何枚かたまったところで、白紙のたばをつかみ飛び跳ねるように舞台のそでにひっこんだので、そのあとをおおうと一歩ふみだすと、いきなり舞台に穴があいてすべりおち、きがついたらしろいみちにたっており、さむいとおもったら裸のままで、ふくをさがしながらあるいていると、あかい灯のしたにおんながたっており、流し目をしたのでちかづいていき、ふくはありますかとたずねると、お待ちしておりましたと手をとり、あかい灯のかかっているとびらをあけ中にみちびいてくれ、さぞかし寒かったことでしょうとからだをだき、ふくをきせてくれたのでお礼をいうと、そんなことはいいからと長椅子にすわらされ、わたしくこういうものですとわたされた小振りのめいしには多恵子とあり、からだがあたたまりますからと酒をすすめられ、それをのんできもちよくなっていると、せんせいの御作すばらしいと手にもった原稿用紙でさんざんたたいてくるので、それをとりあげると先ほどかいた白紙のやつで、こんなものとうしろに放りなげると、おんながとつぜんおこりだし、わたくしがせっかく書かせたものをほごにするなんてと首をしめてくるので、それは誤解だ、白紙の作品などかいたおぼえがないといいわけしても納得せず、このまま死んでもいいかとおもっていると、せんせいに死なれたらこまるからと力をゆるめ、どこへでもおいきなさいなとつきはなされ、ゆらゆらとたちあがり大きなためいきを背中でききながら、おもてにでると、真っ暗闇でどのほうこうに向かえばいいのかわからないまま歩き出すと、とおくにかすかなひかりがみえ、あしをひきずりながら闇をかきわけるようにすすんでいくと、とびらの形にひかりがもれており、それをおしひらくと眩いひかりが目をいって思わず目をつぶり、つぎにあけるとそこはなにやら教室のようで、翔太、千秋、麻里三人の生徒たちがたちあがり、先生おはようございますとあたまをさげ、ふたたびすわると、三人ともなにやら熱心にかきものをしているので、ちかづいていくと原稿用紙にえんぴつでなにか書いているようだが、しろいままで字が見えないので何もかいていないじゃないかというと、こうしているうちに字がでてくるとおしえたのは先生ですよといわれ、そんなことをいったおぼえがないまま、ひかりの出口にむかわねばとおもって教室をでようとすると、先生もそこでかいてくださいといわれ、教卓にちかづくと、まっさらな原稿用紙がおいてあり、椅子にこしをおろしてえんぴつをもったが、なにを書いていいのかわからないまま、しろい紙をみつめていると突然かぜがふいてきて原稿用紙がとばされそうになったので手でおさえ顔をあげると、いつのまにか三人はおらず、教室もきえ、白い白い平原に立っており、どこに向かえばいいのか戸惑っていると、遠くの方からかすかな声がきこえてき、なにを言っているのだろうと声の方にあるいていくと、それはしだいに歌声のようになり、その心地よい声はミューズに違いないと確信すると泣きたいような気持ちになり、しかし足取りは軽くなってますます歌声がはっきりと聞こえてくる……
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