一
天保二年(一八三二)七月のある日、九歳の狩野晋三は狂言を習っている仲間たちと、祇園社に出掛けた。師匠から、神楽が奉納されるので勉強のために観に行ってこいと命じられたからである。
その時、円山応挙の絵があるから、お前にはそれも勉強になるとも言われた。観たくないとも言えず、晋三はしぶしぶ、はいと答えた。
境内は木立を透かして夏の光が差し込んでいる。神楽目当てなのか、参拝する町衆たちも多い。
仲間の一人が、「晋三は絵師の息子なんやから、観るべきやないか」とにやにやしながら言う。仲間の前で、町絵師の絵なんか観るに値しないと父親の口調を真似て公言している晋三に対して、ちょっかいを掛けているのは明らかだった。
「観ても俺には役に立たんと思うが、まあ、ええやろ」 「よう、言うわ」 仲間がお互いの顔を見て笑いあった。
神楽所は準備の最中で、お目当ての鶏図の描かれた衝立はまだ仕舞われず手前に出されていた。随分前に描かれた絵なので傷みが出ているが、その精緻さは十分に見て取れる。晋三は一応感心はしたが、それだけである。そっくりに描くと人は驚くが、絵とはその先にある、精妙な何かを描かなければ胸に迫ってこない。応挙にはそれがないと晋三は決めつけた。
ひと目観れば十分、そう思った時だった。衝立の奥に見える障子の腰板に何かが描かれているのが、ちらっと目に入った。何だろう、晋三は目を凝らした。
神官が衝立を片付けると、それがはっきりと見えた。
若松図だった。金箔を貼った上に水墨で松が描かれ、緑青の緑が薄く施されている。奇妙なのはその構図だった。二枚の障子の真ん中辺りに幹があり、右側には枝葉がたっぷりと、左側にはほんの申し訳程度に枝が伸びているだけで、写実にはほど遠い描き方だった。先程の応挙の鶏図を観た目から見ると、荒々しいと思える程の絵だ。
鳥肌が立った。一体、誰が描いた絵だろう。 「すみません」 晋三は、四方に飾り物をつけている白袴姿の神官に思わず声を掛けた。
「何や」 「あそこの絵をすぐそばで見せてもらえませんか」 晋三は奥を指差した。
「ここは神聖な場所や。子供が立ち入るところと違う」 「まだ、お神楽も始まってないやないですか。見せて下さい」 「だめといったら、だめ」
傍にいた仲間の一人が晋三の着物の袖を引っ張った。 「あんな絵のどこがええのん」 「あの絵の良さが分からへんのんか。おれには分かるんや」
晋三は神官に向き直ると、「あの絵は誰が描いたんですか」と尋ねた。 「田中訥言という人や」
たなかとつげん、と晋三は口の中で呟き、もう一度若松図に目をやった。金箔のせいか、後光が差しているように見えた。
帰って、父の狩野永泰(えいたい)に祇園社の神楽所で若松図を観たことを伝え、田中訥言のことを尋ねた。永泰は晋三が応挙ではなく訥言の絵に惹かれたことに興味を示しながら、彼のことを教えてくれた。
父よりも三十歳ほど年上で、土佐家の門人として大和絵をよくし、幼かった土佐光孚(みつざね)の後見人として土佐家の家格の維持に努めたということだった。一方では、土佐の絵が粉本に頼り切っているのを嘆いて、古刹に残っている数多くの古画の模写に努め、大和絵に水墨の技を持ち込んでその復興に尽力したという。
なるほどそれであの若松図なのか。 「父上は田中訥言という絵師をご存じなのですか」
「展観で何回か会ったことがある。話したことはないがな。つるっ禿で、目が鋭くて恐そうな人だった。その頃大分目が悪かったようで、こうして絵を観ていたのを覚えている」と永泰は右掌を顔の前に近づけた。
「目が悪くなっても絵を描いていたんですか」
「そうだ。彩色ができずに水墨画ばかりを描いていたと聞いている。最期は、完全に見えなくなって舌を噛んで自害したのだ」 「自害!」
「絵が描けなければ生きていても仕方がないと思ったのだろう」
あの若松図にはそれだけの気概が込められているのか。晋三が若松図を頭に思い浮かべた時、「そうだ」と永泰が声を張り上げた。
「お前が生まれたのは訥言が自害したのと同じ年だった。確か半年ほど後にお前が生まれたのだ」
その言葉は晋三に衝撃を与えた。ひょっとしたら自分は田中訥言の生まれ変わりではないのか。天啓のような思いが全身を貫いた。父からは絵では飯が食えないので狂言に行けと言われているが、自分の進む道はやはり絵ではないのか。田中訥言を師と仰いで、大和絵に進むべきではないか。
「父上」と晋三は両手をついた。「わたくし、狂言は今日を限りにやめ、絵の道で身を立てることに決めました」
永泰は突然何を言い出すかというように目を見開いた。 「わしの道を継いでも金にはならんことは、よく知っておろうが」
「狩野の絵を描くつもりはありません。大和絵に進みます」 「大和絵だと? 訥言の絵がそんなに気に入ったのか」
「はい。田中先生の衣鉢を継ぎます」
神楽所の絵をもう一度見たいという晋三の願いを聞き入れて、永泰は息子と一緒に祇園社を訪れた。狩野派の絵師であることを神社が認め、二人は神楽所に上がることを許された。
晋三は若松図の前に正座した。松の幹は無造作に描かれていて、一見雑なように見えるが、精緻に描かれた松葉の柔らかな緑と微妙に釣り合いが取れている。その対照がこれから伸びようとする若松の力をうまく表現している
晋三は絵の前を動かず、夕暮れが迫ってきて、永泰が帰宅を促さなければならないほどだった。
翌日、永泰は隣に住む狂言師の許に行って息子の脱退を伝え、次に土佐家に入門させる手続きを取った。禁裏御用の絵を引き受けている土佐の門人にならなければ、大和絵で生計を立てていくことは難しいのだ。
訥言と同様の道をたどることに心躍らせた晋三だったが、入門して何日も経たないうちに、門人たちの描いている絵に失望した。訥言の嘆いた粉本偏重の風が少しも改められていなくて、むしろ強くなっているのではと思わされた。どの門人も進取の気性を発揮せず、禁裏御用の座に安住しているように見える。これでは大和絵復興に掛けた訥言の努力が水泡に帰してしまうのではないか。
晋三は決意した。土佐家という大樹に頼ることなく、訥言の行った古画の模写を徹底することによって、大和絵の真髄を我が物にしようと。
晋三は、まず土佐家に残っている訥言の模写した絵巻物の類いを写そうと当主の土佐光孚(みつざね)に願い出たが、入門早々の人間には見せられない、最低でも五年は修行してからだと告げられた。
「それはおかしゅうございます」と晋三は反論した。「模写できる筆の力が備わっておれば修行の年数は関係がないのではないでしょうか」
年端もいかぬ頃から見様見真似で絵を描いていた晋三には、他の門人には負けないという自信があった。実際、彼らの絵を見ても、自分ならもっと上手く描けると思うことがしばしばだった。
五十を過ぎて鬢に白いものが混じる光孚は、鷹揚に笑いながら、
「そちはまだ九歳であろう。五年経ってもまだ十四じゃ。決して遅くはない。焦らずにじっくり修行されよ」
当主がこれでは土佐の行く末もこれまでかと頭を下げながら、晋三はその場を辞した。
父に土佐家を離れることを告げると、永泰はさすがに驚いた顔をした。 「入門してまだ二月ではないか」
「二月で十分でございます。土佐には学ぶべきことは一つもありません」
永泰は眉根に皺を寄せて晋三をじっと見ていたが、次第に顔を緩め、かすかに笑みを見せた。 「で、どうする。一人で勉強するのか」
「はい。田中先生のされたように古刹を回って古画の模写に励みたいと思います」
「わかった。お前の好きなようにしろ。書状を書いてやるから、それを持って寺を回れ。ただし、後で泣き言を言うな。狩野でも食えない絵師は多くいるのに、ましてや大和絵など、禁裏と繋がらなければ食えないぞ」
「覚悟の上です」
次の日から晋三の古刹回りが始まった。父の書状と母の作ってくれた弁当を持って、寺を訪ねた。書状を渡す時、必ず自分の描いた仏画を添えた。前夜、持って行く仏画に気に入らない線を見つけると、菜種油を灯して夜遅くまで描き直すこともあった。
巨勢金岡(こせのかなおか)の流れを汲む仏画や水無瀬宮の什物である、藤原信実の描いた後鳥羽天皇像、高山寺の鳥羽僧正作鳥獣戯画などの名だたる名画ばかりではなく、無名の物であってもそれが古(いにしえ)を写しているものならば、有職故実(ゆうそくこじつ)の資料として丹念に模写した。
高山寺の住持である慧友(けいゆう)上人はことのほか晋三を可愛がってくれた。持参した仏画をひと目見るなり、「よく描けておる。感心、感心」と晋三の頭を撫で、古画ばかりではなく高杯や茶器などの器物も見せてくれた。
晋三が夜の更けるのも忘れて模写に没頭していて、母が迎えに来た時、彼女が怒るのを庇ってくれたのも慧友上人だった。
「この子が帰ると言ったのを引き留めたのはわしじゃ。この子の筆の動きを見ていると、何やら気持ちがすっとするからのう。見ていて飽きんのじゃ。だからついつい明かりを灯させて引き留めてしまった。どうかお許し下され」
「もったいないことでございます」と母は両手をついて、頭を床に擦りつけた。
壬生寺では、地蔵尊の古画の模写に熱中して、三日間寺に泊まってしまった。家に無断だったので、さすがに迎えに来た母にきつく叱られてしまった。
模写だけではなく古物の収集を始めてみると、自分の気持ちをさらに古に近づけたくなり、服装も平安装束の真似をするようになった。時には模写した絵を売って、衣服の購入に充てることもあった。
十三歳になった正月に元服した晋三は、名を永恭(えいきよう)に改め、外出時には公家に倣った服装をして烏帽子も被るようになった。
そんなある日、画室で絵を描いていると、戻ってきた永泰に呼ばれて居間に行った。
永泰は展観で聞いたと前置きして、田中訥言の十三回忌が三月二十一日に深草にある瑞光寺で執り行われるようだという話をした。 「本当ですか!」
永恭は思わず身を乗り出した。 「うむ。宇喜多一(いっけい)殿が主催されるようだ。どうだ、行ってみるか」 「はい、是非とも」
しかし、当日になって永泰が発熱し、母もその看病に追われ、付き添う人間がいなくなった。永恭は一人でも行くつもりだったが、永泰が許さず、外祖父の北川梅價(ばいか)に頼んだ。
そのため回忌の始まる時間には間に合いそうもなかったが、それでも永恭はこの日のために誂えた墨染めの小直衣(このうし)を着、立烏帽子(たてえぼし)を被り、寺で履き替える木沓を持って、深草に向かった。
両替町二条下ルにある永泰の家から瑞光寺まで一里半ほどの距離である。六十を過ぎた梅價の脚に合わせて歩いて、寺に着いた時には、境内はしんと静まりかえっていた。
山門の手前で木沓に履き替えた永恭は、梅價と共に本堂に近づいた。中にいた若僧(にやくそう)に声を掛けると、しばらくして黒の紋付き羽織袴を着た男が姿を見せた。父永泰と同じくらいの年頃だった。これが宇喜多一宸ゥと永恭は思った。田中訥言の筆頭弟子だったことは知っていたが、一宸ノ教えを請おうと思ったことは一度もない。土佐家に残された一宸フ手になる粉本や絵を見ても、訥言のように心を動かされなかった。この程度なら、自分でも描けるとまで思ったくらいだ。
一宸ェ階段を降りてきた。 「私が宇喜多一宸ナすが、何かご用でございますか」 梅價が道帽を取って一礼した。
「わたくし、北川梅價(ばいか)という俳諧を嗜む者でございます。こちらで田中訥言先生の回忌法要が行われていると聞きまして、是非ともお参りをさせていただきたく……」
「爺は付き添いです。是非にとお願いしたのはわたくしでございます」 永恭は深々と立烏帽子頭を下げた。
「どこかの公家のお方でございますか」 どう答えようかとためらっていると、「この晋三の服装は……」と梅價が言い掛けた。
「爺、永恭(えいきよう)です」 「おお、そうであった。晋三は元服したのであったな」
「この服装は」と永恭は梅價の言葉を引き取った。「田中訥言先生が古画の模写を通じて大成されたことに敬意を表して、有職故実に則った正装をして参った次第です」
一宸ェほうというような顔をして視線を下に向けた。 「これは境内に入る前に草鞋から履き替えました」 と言って永恭ははにかんだ。
「それはそれは、有り難いことで。回忌の儀はすでに終わりましたが、まだ礼座は片付けておりませんから、どうぞお参り下さい」
一宸ヘ感激の体(てい)で二人を本堂に招いた。
法筵(ほうえん)の飾り付けがそのままになっており、永恭は梅價と並んで礼座の前に座った。一宸ェ焼香のための火を付けましょうかと聞いてきたが、それを断って、二人は抹香を摘まんで香炉に入れ、合掌した。
正面の釈迦如来座像より一段下がった右側に掲げられた絵には、流麗な筆致で坊主頭の人物が描かれていた。永泰から聞いた田中訥言の姿にそっくりである。そのことを尋ねようと永恭が口を開きかけた時、
「田中先生が古画の模写をしていたことをよくご存じですね」 と一宸ヘ声を掛けてきた。
「先生の絵を初めて拝見しましたのは、祇園社でございます。応挙の鶏を見に行ったのですが、その時障子の腰に描かれた先生の若松を見て、すっかり心を奪われてしまいました」
「この子は」と梅價が口を開いた。「私の娘が嫁いでいる狩野永泰という絵師の息子なのですが、それ以来大和絵にのめりこみまして……」
「永泰殿のご子息でありましたか」 「永泰をご存じで……」 「ええ、もちろん。展観で何度かお目に掛かったことがございます」
「それはよかった。この子は本来なら狩野を継がなければならないのですが、自分は大和絵に進むと言って聞かず、古い寺を回っては絵巻物や杉戸絵を模写しておるのです」
一宸ェ永恭に目を移した。 「それはまさに田中先生が若い頃に行っていた修行そのものですね。いやあ、若いに似合わず大したものです」
「どの寺に行きましても田中先生が模写に訪れたという話が残っておりまして、自分はまだまだ修行が足りないと痛感させられております」
永恭はそう言いながら、ふと棚台に載っている桐箱に目をやった。蓋に伴大納言という文字が見える。どきりとした。土佐家に訥言の模写した伴大納言絵詞があったのだ。
「あれは田中先生の模写された伴大納言絵詞でございますか」 「そうです。先生が心血を注いで模写したもので、私の宝です」
「拝見させていただいてもよろしいでしょうか」 永恭は遠慮がちに言った。 「よろしいですとも」
一宸ェ棚台から桐箱を両手で取ってきて、組紐を解いた。蓋を開け、一巻目を手に取り、巻緒を解いて二人の前に三寸ばかり広げて見せた。永恭は息を呑んだ。鎧姿や騎馬武者の随兵が今にも動き出さんばかりの躍動感で描かれている。
梅價は絵詞に顔を近づけると、「これは本当に模写なのですかな」と言った。「と申しても、私は本物を見たわけではないが……」
「三部模写するのに一年以上かかったと聞いております」 「線が所々途切れておりますが、模写とはそこまで忠実にするものですかな」
「爺、これは剥落写しといって田中先生が始められた模写の方法なのです」
「でもお前の模写した絵巻物をいくつか見せてもらったが、こんなふうには描いておらなかったが……」 永恭は一瞬答えに詰まった。
「私の模写は大和絵の神髄を会得するためのもので、趣旨が違います。私もいつの日か本物をこのように模写したいとは思っております」
一宸ヘ少しずつ広げて三巻全てを二人に見せてから、桐箱に再びそれらを仕舞った。
一宸ゥら別室で行われているお斎に誘われたが、巻物を見せてもらっただけで十分ですと永恭は答えて、本堂の階段を降りた。
去り際、永恭は「宇喜多先生のお宅にお邪魔をして、田中先生の他の絵も見せていただきとうございます」と頭を下げた。
「いつでもお待ちしておりますよ」と一宸ェ笑顔で答えた。
翌日にでも田中訥言の絵を見に行きたかったが、昨日の今日では回忌に出向いたのがそのためだったと思われやしないかと躊躇いがあって、永恭が木屋町二条南にある一宸フ家に向かったのは五日後のことだった。
母親に竹皮に包まれた草餅を土産に持たされ、永恭は小直衣姿で一宸フ家の前に立った。前栽がわずかにあるばかりの小さな家である。自分の家とそれほど違わない。土佐光孚の大きな邸を思い浮かべながら、禁裏御用の絵師といえども、片やこれほどの暮らしなのかと永恭は割れた屋根瓦を見上げた。
訪うと、丸髷を結った女性が前掛けを外しながら現れた。永恭を見て、少し目を見開いたが、にこやかな表情は変わらない。名を名乗り、来意を告げると、「しばらくお待ち下さい」と女性は頭を下げ、奥に消えた。
ほどなく一宸ェ姿を見せた。 「ようこそお出で下さいました」
先程の女性が水の入った手桶を持ってきた。永恭は上がり框に腰を下ろして、草鞋の紐を解くと、足を手桶に入れた。
「今日は何かの行事がございましたか」 一宸フ声に、永恭は足を洗う手を止めて振り返った。 「この服のことでございますか」
「さよう。私どもが昔の衣装を見る機会はそうそうございませんからな」 「これは大和絵の心を我がものにしようと、日頃から心がけておりますゆえ……」
「それではいつもそういうご衣装で……」 「そうです」 横で女性が微笑を浮かべている。
永恭は女性から手拭いを受け取って足を拭き、一宸ノ案内されて応接間に入った。
座布団に腰を下ろすと、永恭は風呂敷を解き、竹皮の包みを取り出した。詰まらないものでございますがと一宸フ前に差し出す。
「そんなお気遣いは無用でしたのに……」 一宸ェ「花」と襖の向こうに声を掛けた。襖が開き、先程の女性が片膝をついた姿を見せる。
「お土産をいただいた。すぐにお茶を持ってきなさい」 花が入ってきて竹包みを引き取った。
永恭が一宸フ質問に答えて両替町二条の住まいの話をしていると、花が煎茶と草餅の入った菓子器を盆に載せて戻ってきた。それらを一宸ニ永恭の間に置く。
一宸ヘ早速草餅を一口食べて茶を飲んだ。 「これは志乃屋の餅ですな。いや上品、上品」
一宸ノ勧められても、永恭は、食べて参りましたからと断った。 一宸ェ餅を食べ終わるのを待ってから、
「あの軸は田中先生の絵でございますか」 と永恭は床の間の掛軸に目を向けた。 「先生の孝経図です」
「近くに寄って拝見させていただいてもよろしいでしょうか」 「どうぞ、どうぞ」
永恭は膝行(しっこう)して、床の間の前に進み出た。掛軸には、上部に孔子と思しき髭を生やした人物が弟子に語っている姿、下部には玉座に座った人物と彼に礼をしている二人の人物が描かれている。
「仲尼(ちゅうじ)居(きょ)し、曾子(そうし)侍(じ)す。子曰く、先王に至徳(しとく)要道(ようどう)あって、もって天下を順(じゅん)にす……」
一宸ェいきなり諳んじ始めたので、永恭は驚いて振り返った。 「それは孝経ですか」
「そうです。孝経は人の道の基本。絵師たる者、絵を描く前にまず人の道をわきまえなければなりません」 「それは田中先生の教えでもあるのですか」
「先生は口では何もおっしゃいませんでしたが、その背中を見ていると自ずと伝わってくるものです」 永恭は感心してうなずいた。
「もっとも実際に儒学を学んだのは、大叔父からでしたけどもね」 そう言って一宸ヘ悪戯っぽく笑って見せた。
一宸フ所蔵している訥言の絵は、維摩居士像とか嵐山雨中図、伊勢海老図など名品ばかりであり、目が惹きつけられる。さらに賀茂祭礼絵巻の模写には唸らされた。ついつい自分の模写の方法と比べてしまい、その精緻さに溜息をついた。自分の筆の力を思い知らされる。
賀茂祭礼絵巻を見終わると、永恭は「伴大納言をもう一度見せていただけませんか」と小声で言った。 「いいですとも」
一宸ヘ画室から桐箱を持ってきて三巻を取り出した。
永恭は先ほど以上にゆっくりと上巻から見ていく。賀茂祭礼絵巻よりも傷んでいるが、その剥落もまるで絵の一部のように描き写している。何度見てもすごい。
途中で、一宸ェ手を叩いて花を呼び、茶を替えさせた。それに手を付けずにいると、
「永恭殿」と一宸ェ声を掛けてきた。「私はそろそろ仕事に戻ろうと思いますが、貴殿は心ゆくまでここで絵巻をご覧下さい」
永恭ははっとした。急いで中巻を巻き戻し、下巻の巻緒を解かずに三巻を一宸フ前に揃えた。もう、よろしいのかという一宸フ言葉にうなずくと、一宸ヘそれらを桐箱に仕舞った。
「宇喜多先生」と永恭は小直衣の袖を払い、畳に両手を突いて深々と頭を下げた。「唐突なお願いとは存じますが、その伴大納言をわたくしめにお譲りいただくわけには参らないでしょうか」
何としても手元に置きたいという気持ちが思わずそんなことを言わせてしまった。 一宸ェうん? という顔をした。
「買いたいとおっしゃるのか」 「さようでございます。先生の言い値で買いとうございます」
一宸ェ眉間に皺を寄せた。口を固く結んでいる。ひと呼吸してから、一宸ェ口を開いた。
「この前の回忌の時にも申しましたが、この伴大納言は家宝ですゆえ、どなたにもお譲りするわけには参りません」
「わたくしは田中先生の亡くなられた年に生まれた者でございます。ご尊顔を拝することもなく、教えを直接受けることもなく、ただ残された絵のみにて、先生の大和絵にかけた魂を受け継がなければなりません。どうか若輩のわたくしを育てるとお思いになって、お譲りいただきとうございます」
一宸フ表情が緩やかになった。
「永恭殿の先生を慕う気持ち、大和絵に対する情熱はよく分かりました。ただ、伴大納言を売るつもりはありませんので、貴殿さえよければ、ここに通われて模写されてはいかがですか」
手元に置いていつでも見られるようにしたいのに、どうしてそれが分かってもらえないのか。永恭は下唇を噛んだ。
「どうしてもお譲りいただけませんか」 「今申した通りです」 「分かりました。それでは通わせていただきます」
永恭は深々と頭を下げた。
次の日、永恭はいつもの模写に出掛ける時と同じように、大きな風呂敷に絵道具一式の入った箱とドーサ引きをした巻紙を入れて、一宸フ家に向かった。
玄関で一宸ェ初老の男と立ち話をしていた。 男は永恭を見ると目を丸くし、「お公家さんどすか」と一宸フ耳元でささやいた。
「そうです」と一宸ヘ笑って答えた。永恭はえっと思ったが、一宸ェそうしておくつもりだということが分かったので、男に軽く頭を下げるだけにした。
画室に向かう途中で、「大家です」と一宸ェ小声で言った。「家賃を取りに来たのです」
借家? 永恭は驚いたが、そのことが顔に出ないように口許を引き締めた。 画室に入って平机の前に坐り、風呂敷包みを開けた。
「わざわざお持ちにならなくとも、私のところにある物を使えばいいですのに」
「いや、模写する時はいつも持ち歩いておりますゆえ。慣れた道具を使いたいものですから」
永恭は小直衣を脱ぎ、持参した細紐で白小袖の袂をたすき掛けに縛った。
一宸ェ棚から桐箱を降ろし、中から伴大納言絵詞の第一巻を出して、平机の前に広げてくれた。
硯に水を落として、墨を指で持つ。逸る心を落ち着かせるようにゆっくりと墨を擦っていると、林間で瞑想しているような気持ちになってくる。これは高山寺の慧友上人の教えから来ていた。永恭が急いで墨を擦り、模写の筆を動かそうとするのをたしなめられたのだ。筆を動かすだけが絵を描くことではない、準備から片付けまですべてが絵を描くことであると。
墨を擦り終わると、「透き写しをしてもよろしいでしょうか」と永恭は尋ねた。透き写しとは、原本に直接紙を当て、線をなぞっていく模写の方法である。
「いや、それはご遠慮いただきたい」 墨が紙を通して原本に移る恐れがあるので、家宝だという一宸ェ断るのは当然と言えた。
「分かりました」と答えると、永恭は持参した巻紙を絵巻物の横に広げた。そして数本ある細筆の中から一本を取ると、冒頭の検非違使たちの姿をじっと見た。そっくりに写そうとすると運筆が鈍り、人物の動きが死んでしまう。かと言って、筆の勢いに任せては、模写にならなくなってしまう。頭に絵を焼き付けて、手本なしでも同じように描けるくらいまで見ることが大事なのだ。
永恭は筆先に墨をつけて、筆を動かし始めた。側で一宸ェ見ていたが、すぐに気にならなくなり、模写に没頭した。
一宸ェ画室を出て行き、再び誰かを伴って入ってきたが、永恭は顔を上げなかった。見られている気配も気にならず、運筆だけに集中した。
通い出して七日ほど経った頃だった。模写が終わって帰ろうとすると、一宸ェお茶でも飲まないかと呼び止めた。今までにないことなので訝しく思いながらも、永恭は応接間に入った。
花の持ってきた煎茶を二人で飲んでいると、 「永恭殿が本格的に大和絵の道に進まれるおつもりなら、どうですか、私の許で修行されては」
と一宸ェ言った。 「入門せよということでしょうか」 「そうです。束脩(そくしゅう)も謝儀も要りません。いかがですか」
「お断りいたします」永恭は即座に答えた。「わたくしは田中先生の生まれ変わりと信じております。わたくしには先生以外の師はございません」
「田中先生から直接教えを受けた私から、学ぶものは何もないとおっしゃるのか」 「その通りです」
傲岸と取られてもいい。自分の正直な気持ちなのだという思いがあった。
一宸ェ苦虫を噛みつぶしたような顔になった。模写に通うことを拒否されたら、それは仕方がないと思ったが、一宸ヘ何も言わなかった。
それでその後も通ったが、一宸ェ画室に姿を見せないことが却って模写に集中することを妨げるようになり、二巻目の途中まで写したところで、永恭は通うのを止めた。
しかしどうしても続きを写したい思いが強く、父を介して土佐家に訥言写しの伴大納言絵詞の模写を頼み込んだが、断られた。いっそのこと買い取ろうと交渉しても、三十両という高額を提示された。父に相談しても、そんな金は我が家にはないと言われ、永恭は肩を落とした。
「借金して買うか」 永恭の姿を見かねたのか、永泰が言った。永恭は面を上げ、「是非に」と頼み込んだ。
土佐家から手に入れた絵巻を手本に、永恭は二巻目の続きから模写を再開した。絵に対して疑問が起こった時すぐに見られるように、二巻目を緞子の袋に入れて首に掛け、絶えず持ち歩いた。
父に借金を返すため、永恭は骨董の鑑定料で稼ぐことを考えた。売れる絵を描けばいいのだが、茶掛けにいいからと画題だけで買うような人間には売りたくない。自分の絵はその価値を分かってくれる人にだけ売りたい。そうなると、なかなか絵で稼ぐというのは難しい。
今まで古刹を回って色々な掛軸、茶器を目にしてきたので鑑定には自信があった。
始めは年少の者の言うことなど誰も聞きはしなかったが、永恭が持っている知識を滔々と披露して鑑定をすると、相手は納得して彼の鑑定を信用してくれるようになった。その評判が次第に数寄者たちの間に伝わるようになり、鑑定料が稼げるようになった。
ぽつぽつと依頼の入る絵の稼ぎと合わせて、永恭が借金を返したのは二年後のことだった。
二
天保十一年(一八四〇)十八歳になった永恭は名を冷泉三郎為恭(ためちか)と改めた。狩野の絵ではなく、大和絵を描いている自分にとってふさわしい名前とは何かと考えた末、公家の名門である冷泉家の姓を自称することにしたのだ。
冷泉家から勝手に姓を名乗ってもらっては困ると苦情が来たが、母織乃(おりの)が父である永泰に嫁ぐ前、冷泉家に仕えたことがあり、自分は冷泉家のご落胤である、故に名乗るのであると突っぱねた。母が冷泉家に一時仕えていたことは事実だったが、落胤であるというのは嘘である。しかし母が嫁いだ時期と自分が生まれた時期を考え合わせて、そう考えても辻褄が合うので、方便として使ったのだ。父も母もそれが方便であることは承知しており、他の絵師たちもそれが為恭の法(ほ)螺(ら)であることは分かっていた。それを咎められなかったのは、為恭がまだ若いということと画力が並外れていることの二つが作用していた。若さゆえの稚気と見なされたのである。
それでも中には為恭の改名を苦々しく思う者もいて、
「お主ほどの画力があるのなら、そんな名前に頼らずとも絵師として十分にやっていけるだろうに」と、ある日、展観で年長の絵師から忠告されたことがあった。
「お言葉ではございますが」と為恭は慇懃(いんぎん)な口調で返した。「名前は大事でございます。人は絵を観る時、まず何を見るか。絵師の名前でございます。狩野永恭という名前を見て画面に目を転じた時、そこに描かれているのが大和絵なら人はどう思うでしょうか。絵の善し悪しよりもまず、狩野の絵とは違うという見方をするのではないでしょうか。そういう見方をされないようにわたくしは名前を変えたのでございます」
「それならお主が私淑する田中訥言先生のように、普通の名前にしたらどうか」
「田中先生ほどの力がございましたら、わたくしもそうしとうございます。しかしわたくしにはそれほどの力がございませんので、人の目を惹く名前が必要なのでございます」
謙遜である。しかし謙遜も度が過ぎると自慢になる。為恭はそのことが分かりながら言っている。
年長の絵師は苦々しい顔をしながら「冷泉家を敵に回して仕事が減らないように、せいぜい気をつけなされ」と言った。
冷泉家としても為恭の言い分が嘘であると反駁するにはそのことを証明しなければならず、そんなことをわざわざするはずがないというのが為恭の読みだった。
案の定、冷泉家からは苦情を言ってこなくなった。俺の画名が上がっているので、冷泉家も黙認したのだと為恭は嘯(うそぶ)いた。
改名したのは絵のためだけではなく、骨董の鑑定にも有利に働くからだった。鑑定書に能筆で「冷泉三郎為恭」と書き入れると、その名の由来が怪しいという噂を知っている人間でもありがたがって、恭しく書状をいただくのだった。
その年の夏頃、紀州藩の家臣で古学者の長澤伴雄が京に滞在して、桑名藩所蔵の春日権現験記(かすがごんげんけんき)絵巻の模本を模写しているという噂を聞きつけた。その原本が春日大社の神庫から盗まれて久しいことは為恭も知っていた。鎌倉の治世の時に描かれた絵巻の中でも春日権現験記絵巻は二十巻もの大部であり、当時の有職故実を知る上で貴重な絵巻である。模本でもいいからこの目で見たいと為恭は切望し、紹介状もなしに長澤の滞在している出水西洞院下寺の法林寺に出向いた。
案内を請うと、奥から面長の若い男が姿を見せた。 「私に何か御用ですか」
為恭は驚いた。藩主徳川治宝(はるとみ)侯に重用され、藩内の古画の修復や模写に尽力していると聞いていたので、てっきり年寄りだと思っていたのである。どう見ても三十路くらいだ。
「こちらで春日権現験記絵巻の模写をしていると伺ってまかり越しました。どうか、わたくしめを模写の一員に加えていただきたく……」
為恭は狩衣の前を両手で押さえてから、烏帽子頭を下げた。 「どちらのお公家の方でいらっしゃいますか」
「申し遅れました。わたくし、冷泉為恭と申す絵師でございます。この服装は大和絵の心を我が物とするために日頃身に付けておりますが、公家ではありません」
長澤はほうというような表情をした。 「立ち話も何ですので、どうぞお入りください」 為恭は長澤の案内で簡素な宿坊の一室に入った。
長澤を前にして、為恭は、父の手解きで五歳から絵筆を握り、狩野の絵に飽き足らず、大和絵を学ぶために古画の模写に努めてきたことを述べ、水無瀬宮や石清水八幡宮、高山寺などの名前を挙げ、描かれている装束の色が大事だとか絵巻物の建具が参考になるとか、有職故実の知識を延々と開陳した。長澤は時折質問を挟みながら、興味深そうに聞いていた。
「ところで、模写をされている絵師はどちらの方でしょうか」 「宇喜多一寳謳カと小野広隆先生です。ご存じですか」 「もちろんですとも」
為恭は勢い込んで、六年前に伴大納言絵詞の模写をするために一宸フ許に通っていた話をした。
「ほう、そうだったのですか。それなら話が早い。今お二人が別室で仕事をされていますので、紹介いたしましょう」
長澤に連れられて画室にいくと、宇喜多一宸ニ小野広隆がそれぞれ平台に向かって、絵筆を動かしていた。二人は同時に顔を上げた。
「宇喜多先生、お久し振りでございます」 為恭は烏帽子頭を軽く下げた。
「どなたかと思ったら、狩野永恭殿であったか。すっかり見違えましたな」 「今は、冷泉三郎為恭(ためちか)と名乗っております」
「そうでしたな」 一宸ェ笑みを浮かべた。 長澤と為恭は二人の前に腰を下ろした。
「実は、為恭殿から春日権現験記絵巻の模写を手伝いたいという申し出があって、こうしてお連れした次第です」と長澤が言った。
「有職故実を学ぶ絶好の機会ですので、是非ともわたくしをお仲間に加えていただきとうございます」
「為恭殿の有職故実の知識には並々ならぬものがありますので、模写の一員に加わってもらうのはよろしいかと思いますが、私は何せ絵に関しては門外漢ですので、私の一存では決めかねます。宇喜多先生、いかがでしょうか」と長澤が言う。
ひょっとしたら拒否されるかもしれんと為恭は思ったが、 「私も冷泉為恭殿に加わってもらえば心強い限りです」
と一宸ヘ答え、小野広隆も賛同した。 「為恭殿は六年前に宇喜多先生の許に通っておられたということですが……」
「そうです。田中先生の模写した伴大納言絵詞を買いたいと言われたのだが、売り物ではないと断ると、模写させて欲しいと言われて。しかし途中で通うのをやめられたのではなかったかな」
一宸ェこちらを見た。 「はい」為恭は神妙にうなずいた。 「どうしてやめられたのですか」と長澤。 「実物を手に入れたからです」
「ほほう」と一宸ェ目を見開いた。「どこで手に入れられた」 「父に頼み込んで土佐家にあった田中先生の模本を買ってもらいました」
「如何ほどで……」 「三十両でございます」 「それはまた思い切られましたな」 「安い買い物だと思っております」
「私のところで模写されたら、只でしたぞ」 一宸ェ笑いながら言うと、為恭は襟元を緩め、首に掛けた緞子の袋を引っ張り出した。
「ここに伴大納言絵詞が入っております。肌身離さず持ち歩くには買うしかありませんので」
為恭は袋の中から巻物を取りだして広げて見せた。長澤も小野も顔を近づけて絵巻に見入った。一宸セけが姿勢を崩さなかった。
「いや、素晴らしい」小野が感嘆した。 「わたくしも話には聞いておりましたが、剥落写しを目にするのは初めてです」と長澤も興奮している。
「そうでしょう。わたくしが実物を手に入れたいと思う気持ちがお分かりでしょう」
そう言って一宸見ると、苦々しい表情をしている。一宸ゥらは学ぶものは何もないと言い放った時、彼の浮かべた表情を思い出した。今ならそんな傲岸な物言いはしないのだが、と為恭は内心で苦笑した。
模写を始めて為恭は、一宸熏L隆も自分ほどには有職故実の知識を持っていないことに気づいた。むしろ長澤の方が詳しい。疑問点は長澤に教えを請うことも度重なり、最初の内は出しゃばった真似をして煙たがられるのも嫌なので黙っていた為恭もつい口を挟むようになった。
そんなある日、長澤が画室に顔を見せ、一休みしていた一宸ニ雑談を始めた。広隆もそれに加わったが、為恭は模写の手を休めなかった。
「治宝侯は古い物を収集されるのにご熱心ですが、定信侯に感化されたからですかな」 と一宸ェ言った。長澤はうなずきながら、
「確かにそれはあるかも知れませんが、それよりも殿は我が国の今の有り様を心配されておるのです。近年来、オロシヤやアメリカの船が我が国の近くに来て騒ぎを起こしているのはご存じでしょう。今年に入って清国ではエゲレスとの間で戦になっていると聞いております。我が国もエゲレスなどの外国と戦う時がいずれ来るかも知れない。そんな時大事なのは何としても国を守るという気概なのだと殿はおっしゃいます。春日権現験記絵巻のような国の宝を守ることは、我が国を守ることに他ならないと仰せなのです」
「清国とエゲレスが戦っておるのですか」
「そうです。出島のオランダ商館長から幕府にもたらされる知らせの中にあったのです。何でもエゲレスが持ち込んだアヘンとか申す物を巡って争っているとか」
「アヘン?」
「そうです。それを服すると働く気力がなくなって国が疲弊するとか。エゲレスはインドからそれを大量に持ち込んで、貿易の支払に充てており、清国がそれを止めようとして戦になっておるようです」
「それでどちらが勝ったのですか」と小野。 「まだ勝敗はついていないようですが、エゲレスが優勢らしいです」
「エゲレスは清国を乗っ取るつもりなのですか」と一宸ェ尋ねた。 「それは分かりません。ただ清国がそうやすやすとエゲレスに屈するとは思えませんが」
「もしエゲレスが清国を占領したら、次は我が国ということもあり得るのでは……」
「我が殿もそれを危惧されておるのです。江戸でもそれを心配されている幕臣の方々が大勢おります。此度の模本事業も、古(いにしえ)の心を守り伝えていくことが国を一つにすることになるという考えの元に行われるのです」
一宸ニ小野広隆は身を乗り出して長澤の話を聞いていたが、為恭は筆を置いて腕を組み、目をつむっていた。
「為恭殿はどうお思いか、長澤殿のおっしゃることは」と一宸ェ声を掛けてきた。為恭はゆっくりと目を開けると、腕組みを解いた。
「そういう大きなお話は私には荷が重すぎます。私はただ有職故実を勉強して、自分の絵が古画に対して間違いがないと思えるようになりたいだけでございます」
「エゲレスが攻めてきたら、勉強とばかりにはいかないのでは……」 「彩管を刀に持ち替えよと言われるのですか」
「そんなことは言っておらぬ。絵師といえども天下の大義のために働く道があるのでは、と申しておるわけです」
大義よりも前にご自身の絵をもっと高める努力をすべきではと言いたかったが、さすがにそれを口には出せなかった。
「ですから、私には荷が重すぎると……」 その時、まあまあと長澤が割って入った。
「為恭殿も模写の意義は重々承知されているでしょうから、一專aもその辺りで……」
一宸ェ憮然とした顔をしている。絵師が大義などと考えること自体、間違っているというのが為恭の考えだった。そんなことは政(まつりごと)を行う人間の考えることで、絵師はただ絵というものをいかに優れたものにしていくかを考えるべきなのだ。そのための努力ならいくらでもする。絵筆を刀に持ち替えることなど為恭には到底考えられなかった。
その後、一宸ヘことあるごとに大義のために絵を生かす道を為恭に説いたが、為恭は自分の任ではないとことごとくはねつけた。次第に画室内の雰囲気が悪くなり、為恭は長澤に申し出て模写の一員を降りることにした。有職故実の勉強なら長澤と付き合うだけでよく、春日権現験記絵巻の模写にしても、原本ではないのでそんなに惜しいとは思わなかった。
長澤は為恭が辞めたのを自分の責任だと感じていたようで、春日権現験記絵巻の仕事の代わりにと、徳川治宝侯から命じられた善教房草子絵巻の模写を依頼してきた。為恭は別に長澤の責任ではないと伝えたが、考え方の違う絵師たちをまとめるのも自分の仕事だからと言って聞かなかった。
長澤を通じて国文学者の伴信友(ばんのぶとも)と知り合ったのも、この頃だった。伴は為恭より五十歳も年長の国文学者である。元酒井家小浜藩士で、二十年ほど前に家督を息子に譲り、本居宣長の没後の門人となって国学に専念していた。古典の考証に優れ、平田篤胤(あつたね)、橘守部(たちばなもりべ)、小山田与清(ともきよ)とともに、「天保の国学の四大人」と称されていた。
堀川にある伴の自宅で面会した時、長澤が為恭のことを有職故実に精通した絵師であると紹介すると、伴は興味深そうに身を乗り出してきた。
「羅陵王の面は竜頭と言われているが、実際に絵に描く場合はどのようになるのか」
舞楽に羅陵王という演目があって、眉目秀麗な北斉の武王が美貌を恐ろしげな仮面で隠して戦に挑み見事に大勝した、という逸話を元にしている。田中訥言の絵に羅陵王を描いたものがあって、それを模写したこともある為恭は得意になって、目や鼻の形を説明した。さらには筆記用具を所望して、実際に紙に描いて見せた。伴は面白がって、舞楽の楽器の形や模様も質問し、為恭はそれらも描いて見せた。
伴に気に入られた為恭は国学を学ぶために彼の家に出入りするようになり、さらには伴の紹介で京都所司代になっている小浜藩主酒井忠義にお目見えすることが許された。為恭より十歳年上の三十二歳という若さでありながら、酒井忠義は能楽や茶道を好み、書画や古物、茶器などを愛好した。
手土産として持参した、蹴鞠遊びを描いた掛け軸をひと目見るなり、 「噂に違わぬ、天稟(てんぴん)の才の手になるものよ」
と忠義は感嘆の声を上げた。 「有り難きお言葉」 為恭は両手をつき、額を畳に押し付けた。
為恭は忠義から絵の依頼があると、何はさておいても真っ先にそれを仕上げることにした。というのも、酒井家には伴大納言絵詞の原本があり、いつかはそれを模写したいと念願していたからである。ただ、伴大納言絵詞は家老であってもなかなか見せてはもらえないと噂されるほどの、酒井家の秘宝中の秘宝であり、そう簡単には実現しないことは容易に想像できた。
伴信友が七十四歳で亡くなると、酒井家との繋がりもぷっつりと途絶えてしまい、やがて忠義は所司代をお役御免になり、京を去ってしまった。為恭は念願を成就する絶好の機会を失ってしまったことを後悔することしきりだった。
善教坊草子絵巻の模写を少しずつ始めた頃、慧友(けいゆう)上人から高山寺内方便智院八幡宮に伝わる八幡宮神影の模写を頼まれた。慧友上人の依頼でなければ断っていたところだか、それも引き受け、さらに師走になって、禁裏から光格天皇策命使絵巻の注文が入った。
為恭が画室で八幡宮神影の模写を進めていたとき、母の織乃が「禁裏からお使いが来ましたえ」と飛び込んできた。何の用か分からぬまま応対に出た為恭は、それが光格天皇の策命(さくみょう)
を描けという注文であることに驚いた。禁裏からの依頼は初めてで、為恭は恭しく書状を受け取った。一番喜んだのは、かちの病(糖尿病)で床に臥せっている父の永泰で、「これでお前も一人前の絵師としてやっていけるかも知れん」と涙を流した。
禁裏御用の絵を依頼されたことで、為恭の画名は一挙に高まり、次々と注文が舞い込んできた。神護寺の「源頼朝像・平重盛像・藤原光能像」の模写から始まって、「文覚上人像」の模写、薩摩藩から島津忠久の真影を写す依頼も入り、富家からはおめでたい高砂図とか恵比寿神図の注文が来た。目の回る忙しさで、とても一人ではこなせなくなり、下準備をさせるための弟子を取らざるを得なくなった。
江戸木挽町狩野家の当主である狩野清川院養信(せいせんいんおさのぶ)から突然使いがやって来て、年中行事図絵巻を描いて欲しいと告げたのは、天保十三年の終わりのことである。
為恭は禁裏からの依頼の時より、余程驚いた。木挽町狩野家というのは幕府の奥絵師四家のうちの一つで、絵師の中では最高の権威を誇る家柄なのだ。その当主が一介の町絵師である為恭に絵を頼むということなど、普通では考えられなかった。清川院は漢画と大和絵の統合という狩野家の長年の夢を実現させようと古画の模写に取り組んでおり、京に来て古刹回りをしていた時に為恭の模本を観たらしい。
何としても清川院を唸らせる絵巻に仕上げなくてはならないと為恭は他の仕事を中断して取り組んだ。それまでに描かれた年中行事図絵巻を何本も観、有職故実を徹底的に調べ上げ、二ヵ月ほどかかって一本の絵巻を仕上げた。奥書に、拙筆を顧みず描いたので、拙いところがあれば教えてくださいという意味の言葉を入れて、清川院に送った。清川院から百両の為替と礼状が届いた。百両という大金にも驚いたが、それにも増して、礼状の中で家宝にしたいとまで書かれていることに為恭は感激した。
長澤から再び春日権現験記絵巻の模写の仕事が舞い込んだのは、そんな頃だった。行方不明になっていた原本が見つかり、鷹司家から模本作りの許可が下りたので、桑名本模写の作業を中止し、急遽原本の模写に切り替えることにした。ただし、二年間という限定なのでのんびりと模写をしていられない。そこで絵師の数を増やしたいので是非とも参加して欲しいということだった。為恭は喜んで承諾の返事をした。
為恭の他に、原在明と林康足が加わり、一宸ニ広隆を合わせて五人で模写をすることになった。原在明は春日大社絵所預で還暦を過ぎているし、林康足は五十代後半、一宸ヘ五十近く、若いと見なされている小野広隆でさえ三十代半ばである。ひとり為恭だけが二十一歳と飛び抜けて若い。
しかし為恭に臆するところは微塵もなかった。自分の技倆は他の四人に比べて遜色ないどころか上回っていると思っていたし、有職故実の知識に関しても誰にも負ける気がしなかった。
何より、勅命で描いた光格天皇策命使絵巻や狩野清川院から依頼された年中行事図絵巻が京洛の絵師たちの間で評判になり、画名がぐんと上がったことが為恭の自信になっていた。
五月になって絵師が一堂に会することになって、為恭は法林寺に出向いた。いつもの烏帽子狩衣姿である。長澤に挨拶した時、宇喜多殿と政(まつりごと)の議論はしないようにしていただきたいと念を押された。
「もとより私はそのつもりでおります。宇喜多先生のそうした議論には知らぬ存ぜぬで通すことにいたします」
長澤に連れられて画室に行くと、一宸ニ広隆がいた。
「再び春日権現の模写の一員に加えさせていただきます。粉骨砕身勤めますのでよろしくお願いいたします」
「やはり原本と聞いて、さすがの為恭殿も居ても立ってもいられなくなったというわけですな」
と一宸ェ笑みを浮かべた。以前、途中で抜けたことを皮肉っているのは明らかだったが、為恭は素知らぬ顔をして、
「何事も根源を探りたいと思うのは、有職故実を勉強している者としては当然の気持ちですから」と答えた。
ほどなく原在明と林康足がやってきて、長澤が鷹司家から借り出した三巻を広げて見せた。一目で模本とは違うことが分かった。線の伸び具合、形を捉える的確さ、彩色の丁寧さ。為恭はわくわくする気持ちを抑えられなかった。
一巻目は原在明、二巻目は為恭、三巻目は一宸ェ担当することになって、法林寺に日参することになった。一宸ニは努めて有職故実の話しかしないように気をつけた。
三
病床にあった父が亡くなった。五十歳だった。狩野の絵を継がず大和絵に傾倒した自分を受け入れ、常に見守ってくれた父。自分の画名が上がってからの死であることだけが救いだった。供養の気持ちを表すため、為恭は忙しい仕事の合間を縫って、仏画を十数枚描き、知恩院に収めた。
その何日か後、知恩院から呼び出され、勅修御伝と呼ばれている法然上人絵伝の第一巻目を写すように言われた。
法然上人絵伝は土佐吉光の他、多数の絵師が関わって書き継がれたもので、全四十八巻もあり、世にある絵巻の中では最大のものだった。鎌倉期の大和絵を勉強するには恰好のお手本である。
訳を聞いてみると、前年に将軍徳川家慶(いえよし)の台覧(たいらん)に供するために江戸に全巻が渡っていたが、将軍家ではこれを機に副本の制作を企画し、彩色の済んだ暁には、主上を始め宮堂上方それぞれ詞書を書写してもらいたいとの依頼がもたらされた。しかし手本の原本を多くの公家たちに一巻ずつ手渡すと、紛失の恐れがあるため、知恩院が模本を作ることにしたというのである。
その描き手として為恭に白羽の矢が立った。一巻目の出来映えを見て、全巻の模写を依頼するか決めるということで、為恭は身が震えるのを感じた。
早速翌日から知恩院に日参し、一ヵ月足らずで白描を完成させた。それを見た門主が「まさにそっくりである」と感心して、為恭が制作することになった。
弟子たちはその量に恐れをなし、手を抜くことを考えてはとそれとなく進言したが、為恭は二人を厳しく叱責した。どんなに数多くの仕事を抱えても、絶対に手を抜いてはならない。観る人が観れば手抜きはすぐに見破られて評判を落とすこともなりかねず、それ以上に、一度でもそんなことをしたら、自分自身を許すことができなくなるからだ。
二人の弟子だけでは手が回らないので、為恭は保留してあった弟子志願者十数人の中から、一人一人の画力を実際に見て、岡本恭儀(やすのり)と平盛茂の二人を迎え入れた。岡本恭儀は特に秀でていて、こんなことならもっと早く弟子を増やすべきだったと思わせるほどだった。為恭よりも一つ年上で、何より細面で公家風のすっきりとした顔が気に入った。
平盛茂は毛利家の家臣で、京の毛利藩邸に詰めていた。藩主毛利慶親(よしちか)侯の命を受け、為恭に絵の依頼をしてきたことが縁で為恭に絵を習いたいと申し出ていたのだ。画力はそこそこだが、毛利家との繋がりを考えて採用した。盛茂を通して、雪月の大双幅や源氏物語図などを描くことになった。
二人が入門してしばらく経った頃、「先生は仕事、仕事で日々追われていますが、何か息抜きはされないのですか」と盛茂が尋ねてきた。
「骨董を愛でることくらいか」 「それは仕事の一環でしょう。どうです、仕事が一段落したら、お茶屋でぱあっと遊びませんか」
「お茶屋なあ。皆の励みになるのだったら、それも面白いか」 「そうですとも。皆で行きましょう」
今まで、懇意にしている富家に連れられて何度か行ったことはあるが、金が掛かるので自費では行ったことがない。しかし模本ばかりではなく絵の依頼も増え、骨董の鑑定料も莫迦にならない金額が入ってきている。金銭の心配をしなくても遊べるだけのゆとりがあるのも事実だった。
知恩院に日参して法然上人絵伝の第十巻目を模写し終わったのを潮に、弟子四人を連れて祇園に出向いた。
和泉徳(いずとく)の暖簾をくぐって中に入ると、女将が出迎えてくれた。為恭の顔を覚えていて、「先生のような高名な方に来ていただいてうれしおす」と如才ない言い方をした。
お任せでやって来た芸妓二人のうち、一人は引目鉤鼻の平安美人を思わせる顔で、為恭は一目で気に入り、踊りが済むと側に侍らせた。為恭が絵師だと知るとその芸妓は席画を所望し、彼は気軽にそれに応じた。富家に連れられて来た時も席画をしたことはあったが、どこか強制されているという気持ちがあるため楽しめなかった。やはり自分の金で遊ぶのは気持ちがいい。
店が用意した硯と筆を使って半紙に芸妓の上半身を浮世絵風に描き、余白に能筆で和歌を入れた。弟子たちが感心したように為恭の手許を覗き込んでいる。
「いやあ、先生、お上手。まるで生き写しやおへんか」 もう一人が紙を両手で持ち上げて甲高い声で褒めそやした。
「お前たちも何か描いたらどうだ」 そう言っても弟子たちは尻込みするばかりで、為恭ひとりが芸妓たちの要望を聞いて、牡丹や雀の絵を描いた。
それから為恭はすっかり茶屋遊びが気に入り、恭儀や盛茂を連れて行ったり、一人で出向いたりして和泉徳の馴染みになった。和泉徳ばかりではなく、評判の芸妓がいると耳にすれば他の茶屋にも足を運んで、それが自分好みの女であればしばらく通い、十二単を着せて写生をしたりした。女の中にはあからさまに身請けを持ち掛ける者もいたが、奥ゆかしさのない、そういう態度に出られるといっぺんに熱が冷めてしまい、為恭は早々に通わなくなった。
為恭の好みはまず第一に平安の衣装の似合う女でなければならなかった。容貌はいうに及ばず、物腰、言葉遣いもたおやかで、こちらの気持ちをやさしく慰撫してくれるものでなければならなかった。さらには、紫式部や清少納言のような才知があれば申し分なかった。そんな女が現れれば箕帚(きそう)を執らせることもやぶさかではなかったが、為恭の目にはどの女も足りないところがあった。恭儀が「先生、そんな女は絵の中にしかおりませんよ」と皮肉交じりに言うほどだった。
弘化二年(一八四五)三月、四年に渡った春日権現験記絵巻の模写が予定よりも早く終わった。前年の六月に原在明が亡くなり、その一周忌に間に合うように仕事を急いだ結果だった。
原在明の邸で完成を祝う内輪の会が開かれた。長澤伴雄、林康足、宇喜多一宦A小野広隆、冷泉為恭の計五人が集まった。大きな仏壇の前に二十巻の模本を積み上げ、天性寺の住職が読経し、原在明の御霊に報告した。
それが終わると、長澤が詞書は鴨の社司従四位上讃岐守である林康満に任せるが、目録の表裏の見返しに誰か絵と和歌を描いて欲しいと問い掛けた。目録とはいわば絵巻の顔である。皆が黙していると、再び長澤が口を開いた。
「原先生がご存命なら絵所預としての立場上、担当していただくのが筋ですが、残念ながらおられませんので、最年長の林先生にお願いいたします」
「いやいや、わしの任ではない」と林康足は手を振った。「ここは一番年若(としわか)の為恭殿にお任せしてはどうか。為恭殿の有職故実の知識がなかったら、もっと時間が掛かったでしょうからな」
為恭自身は、桑名本から模写を行ってきた一宸ェ担当するのが妥当だと思っていたので、自分に回って来て驚いた。一宸ヘ腕を組んで目を閉じている。その表情からは賛成とも反対とも読み取れなかった。
結局、誰からも異議がなかったので為恭が描くことになった。為恭は立烏帽子が畳につくほど頭を下げた。
「皆様方のご努力がさらに立派に見えますように全霊を尽くして目録を作成いたします」
宴会の席で、一宸ェ信州松本への遊歴の話をした。その中で近藤茂左衛門(もざえもん)、久保田信右衛門(しんえもん)という勤王の活動をしている兄弟のことを力を入れて語り、夷狄(いてき)を討つためには天皇を中心に据え直して、人心を一つにすることも必要と考えている水戸藩の徳川斉(なり)昭(あき)の話もした。
また一宸ィ得意の勤王の話かと為恭は内心苦々しい思いを噛み殺していた。
「江戸や京から離れた辺地においても、勤王の志を持った人々がいることに私は感服いたしました。夷狄を討つことができないのなら、徳川に代わる者が世を治めなければならないでしょう」
長澤伴雄が咳払いをした。 「一專a、この場でそのような政(まつりごと)の話は控えた方がよろしいのでは……」と林康足が取りなすように言った。
「どうしてですか。長澤殿が紀州藩の方だからですかな。先程の私の話をお聞きになりましたか。紀州と同じ徳川御三家の水戸侯でさえ、この国の行く末を案じられておられるのですぞ。徳川に拘って清国のように異国に蹂躙されたら、どうするおつもりか」
長澤伴雄がますます険しい顔をした。為恭は思わず、
「宇喜多先生は画号に豊臣可為(よしため)と記されるほどのお方ですから、そのように徳川憎しの言を弄されるのでしょう」
と言ってしまった。一宸フ顔が険しくなった。
「そう言われる貴方はどうですかな」と一宸ヘ眉根を寄せて為恭の直衣(のうし)を手で示した。「その衣装も烏帽子も平安の公家に倣ったわけでしょう。平安の世に憧れるということは、武家の世を否定することではありますまいか」
「確かに私は平安に憧れております。ただしそれは政(まつりごと)にではなく、雅に対してですので武家の世を否定しているわけではありません」
「その雅もわが国があってこそのもの。さらに言えば天朝様あってのもの。異国に滅ぼされたら雅どころではありませんぞ」
「それではどうしろと。絵師が彩管を捨てて何をしろとおっしゃるのか」 「時と場合によっては彩管を刀に持ち替えることも必要だということです」
「ふん、馬鹿ばかしい。絵師が彩管を捨てたら、ただの人ではないですか」
「私が申しておるのは心構えです。かの頼山陽先生が筆をもって『日本外史』で天皇親政を説かれたごとく、絵師も彩管をもって警世の絵を描かねばならないということです」
「そのような仕事は宇喜多先生にお任せいたします。私は平安の雅の素晴らしさを伝えることに専念いたします」
「貴方は田中訥言先生を師と仰ぐのではなかったのかな。先生が生涯古画の模写に努められたのは、決して平安の雅を復活しようとされただけではありませんぞ。天朝様のご威光があまねく世に行き渡ることがわが国を強くすることだとお考えになったからですぞ」
「そのことは私も同感です。ただ現実の政を動かす力は絵師にはございません。絵師はただ人々の心に平安を与えるのみで……」
「そのような考えが絵を堕落させるのです。もっと現実を見なさい、現実を……」
「まあまあ」と林康足が割って入った。「今日は春日権現験記絵巻の完成を祝うめでたい日。原先生の御霊の前でもありますから、そのように争うのはお止めになった方がよろしいかと」
「確かにおっしゃる通り。原先生の霊前で話すことではありませんな。慎みましょう」
後日、為恭の元に「春日権現験記絵詞目録」と墨書された冊子が届いた。彼はその表裏の見返しに、金砂子を霞に散らし、三笠山と鹿、それに藤折枝を銀泥で描き、和歌を一首、芦手風に散らし書きにした。その出来映えを見て、これなら一宸熾カ句を言わないだろうと為恭はにやりとした。
春日権現験記絵巻の仕事でますます画名の上がった為恭の元には、模写依頼が殺到した。類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)指図巻、勝絵絵巻、業平朝臣像、地蔵縁起絵巻、新羅明神像、さらには聖護院嘉言親王の命で黄不動明王像を模写する栄誉まで賜った。もちろん並行して法然上人絵伝四十八巻の模写も続けており、四人の弟子に手伝わしても目の回る忙しさだった。その合間に古画古物の鑑定も行う。たまの息抜きは祇園で遊ぶことだった。
父の残した家を仕事場にしていたが、さすがに手狭になり、どこかに手頃な土地でもないかと富家に依頼しておいたところ、西洞院通下立売上ルに二百坪ほどの借地が見つかった。早速その土地を借り、自分の理想とする平安朝の屋敷を建てることにした。
十畳と八畳の客間には畳は敷かずに檜の板敷きにし、柱もすべて檜にした。古い唐櫃(からびつ)を置き、欄間には小野道風筆の額を掲げ、壁には当麻寺より借りた中将姫絵伝の双幅を掛けた。模写をしたいと申し出て借り受けたもので、当麻寺から返却の要求があってものらりくらりと返事を先延ばしにし、返したのは三年後のことである。
画室は十二畳で、母屋から渡り廊下でつながった離れになっていた。その裏に土蔵を建て、集めた絵巻物、古書画、古器物などを収めた。庭には池を造り、植木屋に無理を言って、松や桜の成木を植えさせた。
完成すると、絵の注文主の富家や絵師、馴染みの芸妓らを集め、盛大な披露宴を張った。客たちは平安朝様式の作りに感嘆し、さすがは大和絵の第一人者だけのことはあると褒めそやした。調子に乗った為恭は、
螺鈿(らでん)唐櫃在座右 五車名画安中堂 清談数刻千年事 客去亭中月照床 と七言絶句を吟じた。
惜しげもなく金をつぎ込んで自分の理想とする邸を建てた為恭は大満足で、それは、袍を着た衣冠束帯に太刀を佩き、烏帽子を被った姿にも現れていた。その姿で月夜の庭を歩き、池の周りを巡っていると、まるで自分が七百年前の古の貴人になっている心地がし、池面に映る月影に思わず「いさぎよし月の光は池水にやどりながらにあともとどめず」と歌が浮かんでくるほどだった。
衣服、住居といった生活が平安朝になると、それだけでは満足できなくなった。
嘉永元年は天朝様の代替わりの年で、十一月の新嘗祭(にいなめさい)は大嘗祭(だいじょうさい)ということになり、御所で平年を遙かに上回る規模の儀式が執り行われることになった。
その前夜、知恩院の宿坊に泊まり込んで法然上人絵伝の模写をしていた為恭は、式場の見学が許されるということで弟子たちと一緒に御所に向かった。
大勢の町衆が立入を制限する注連縄(しめなわ)の手前に集まっている。遠くには、かがり火に照らされた新築の大嘗宮(だいじょうきゅう)――悠紀殿・主基殿が見える。その何とも荘厳な光景を目にすると、何としてもあの中に入ってみたいという願望がふつふつと湧き上がってきた。本当の有職故実を知るためには御所に上がらなければならないと為恭は強く思った。今でも冷泉という姓を使っていることに嫌みを言う人間がいて、御所の役職を得れば借り物の姓など捨てることが出来る。
為恭は懇意にしている公卿の三条実万(さねつむ)に自分の希望を伝えた。実万は為恭の才を高く買っており、ご下命で屏風絵を描いたり、社寺に伝わる色々な文書を写して実万の仕事の役に立てたりしていた。
その伝手で、百万遍に住んでいる蔵人所衆の岡田出羽守が官人の株を売りに出していることを知った。岡田家の養子に入った出羽守が当家と不仲になっており、そのいざこざが嵩じているのだ。これはもっけの幸いとばかりに、為恭は代金の五十両を出して株を買い、表向き岡田家の養子になった。
為恭は従六位下蔵人所衆に任ぜられ、さらに官位を上げるべく付け届けに努めた結果、四ヵ月後には正六位下式部省(しきぶしよう)大録(だいさかん)に昇進した。早い昇進も三条実万のお蔭だった。
式部省とは朝廷の中で年中の儀式、六位以下の文官の考課、選叙などを行う部署で、八省の中でも重要な役所の一つである。為恭は落款に意気揚々と、正六位下式部省大録菅原朝臣為恭と書き入れた。菅原という姓は岡田家の遠祖が菅原道真の流れを汲んでいるという言い伝えを根拠に、為恭が勝手に名乗ったものだった。以後、冷泉という姓は一切使わなくなった。
今の官位でも「御装束奉仕之時昇殿」といって年に二、三回殿上の御簾(みす)まで昇ることはあるのだが、もっと頻繁に昇殿したいというのが為恭の願いだった。そのためには殿上(てんじょう)の丞(じょう)になることで、さらに官位を上げる必要があり、最終的にはどこでもいいから国守に任ぜられることだった。そんな為恭の行いを、養父の出羽守ばかりでなく岡田家に繋がる人々は快く思っていないのは明らかだった。年始とか法要とか岡田家の行事に極力参加すべしと直接言われたこともあったが、養子とは形ばかりとみなしていた為恭は一切聞かなかった。株代金の五十両には岡田家との付き合いの全てが含まれていると解していたのである。官位を上げる金はあっても、付き合いの金はないというのが為恭の言い分だった。
官位を得ると祇園でのもてなしが一段と上がったことに為恭は驚いた。女将も番頭もまるで殿上人を迎えるような丁重さで、同行した弟子の岡本恭儀(やすのり)も「先生、官位の力はすごいですね」と囁くほどだった。
為恭につく芸妓や娼妓にしても店で一、二を争う美女ばかりで、すっかり気持ちのよくなった為恭は、求められなくても席画をし、長々と官位を連ねた落款を書き込んでは、女たちにその職名の意味や仕事を滔々と説明した。
四
知恩院から依頼された法然上人絵伝四十八巻の模写は四年掛かって弘化五年(一八四八)には出来上がっていたが、その前年に江戸増上寺から同じ依頼を受け、それが完成したのが、さらに五年後の嘉永六年三月半ばのことだった。並行して自分のためにも一本を制作していたから、九年で三本、百四十四巻を仕上げたことになる。
為恭は弟子たちを祇園に連れて行き、その労をねぎらった。 その翌月のことである。
夜中、「火事どすえ」と叫ぶ下女の声で為恭は目を覚ました。急いで庭に出てみると、隣の邸から激しく炎が吹き出している。辺りがほんのりと明るく照らされ、折からの強風で大小の火の粉がこちらの檜皮葺の屋根に飛んでくるのが見えた。それらの落ちた辺りから、すでに火が上がっている。
慌てふためいて「火消し、火消し」と屋根を指差して叫んでいると、髪を乱した下女が飛んで来た。裸足だ。
「旦那様、画室に行って大事な物を土蔵に仕舞わんと……」
為恭ははっとした。急いで寝間に戻ると伴大納言絵巻の入った緞子袋を首に掛け、暗い廊下を手探りで画室に行った。燭台の蝋燭を灯すため火口に火打ち石で火をつけようとしたが、手が震えてうまくいかない。何度も試みている時、下女がやって来て一度で付けてくれた。
その明かりを頼りに、棚にあった粉本や絵巻物、描きかけの本絵、下絵の類いをかき集め、土蔵に急いだ。燭台を持った下女が後をついて来、鍵を開けてくれた。為恭は暗い土蔵の床に抱えた粉本類を直に置くと、再び引き返して今度は硯や筆、墨の入った硯箱、岩絵具の入った木箱を抱えた。それらの収納が済むと、今度は居間に置いてある唐櫃を下女と二人で運ぼうとしたが、重くてとてもできない。仕方なく蓋を開け、中にあった太刀や鎧、高杯や香炉などを取り出し、また、別の唐櫃から冠や袍、指貫袴などの衣装を取り出し、土蔵に運んだ。
あらかた運び終わると、高窓を閉め、塗り籠めの引き戸を閉めた。しかしそれだけでは火を防げない。そこに目塗りをしなければならない。そのための土が土蔵の横に盛ってある。為恭は手桶で池の水を汲んできて、その水で土を捏ね、泥団子をいくつも拵えた。それから梯子を高窓の下に掛け、寝間着の裾を尻からげにして登っていく。普段なら足が竦んでできないが、今は恐さを感じない。邸の屋根の至る所から火の手が上がっており、熱風が肌を刺す。
高窓にたどり着くと、「放ってくれ」と下で見上げている下女に怒鳴った。下女は両手で泥団子をつかむと、羽根突きの要領で投げ上げるが、上まで届かない。何度やっても一つも為恭の手に落ちないので、仕方なく下に降り、手桶に泥団子を入れて、再び一段一段慎重に梯子を登っていった。
体と梯子で手桶を挟み、熱風に煽られながら、泥を窓に塗り込めていくのは簡単ではない。 「旦那さまあ、旦那さまあ」
下で下女が叫んでいる。火が側まで迫っているのが熱さで分かる。為恭は何とか我慢して半分ほど泥で固めたが、それ以上は無理だった。手桶を投げ捨て下に降りる。
時間がないので、引き戸は隙間だけを泥で埋めて、その場を離れた。庭の奥に逃げて振り返ると、邸は猛火に包まれ、吹き出た炎が土蔵を舐めていた。
ああ、ああ。 為恭は言葉もなく立ち尽くした。 新築からわずか四年後、為恭が三十一歳の時だった。
邸は焼け落ちたが、土蔵は塗り壁が黒く焦げただけで残っていた。熱が残っているためすぐには入れず、二日経ってようやく戸口を開けることができた。為恭は中身が無事であることを祈ったが、やはり駄目だった。火が入り込んで、すべてが焼けてしまっていた。五十両で買い求めた太史硯も割れ、特注で作らせた十数本の筆も燃え、高価な岩絵具にも火が回って塊になっている。何より、二十数年かかって収集してきた絵巻物や粉本がことごとく灰になってしまったことが堪えた。残ったのは首に掛けた伴大納言絵詞だけで、自分のために描き上げたばかりの法然上人絵伝も燃えてしまった。きなくさい臭いの残る中、足から力が抜け、為恭はその場にへたり込んだ。
為恭は烏丸通り下長者町にある八条家の空き家を借りて、禁裏奉仕の楽人阿部忠彦と共に暮らし始めた。阿部は為恭が官位に就いて御所で仕事をし出した頃からの付き合いで、同年であること、雅楽の演奏という為恭の羨む仕事をしていることで、仲がよかった。阿部が新婚で、ちょうど家を探していたので、一緒に住まないかと為恭は声を掛けられたのだ。
公家の持ち家だけのことはあって、土蔵もある邸で、阿部夫婦と一緒に住んでも十分な広さがあった。ただ、庭は池もなくて小振りで、為恭は、平安装束を着て太刀を佩き、池の畔を散策していたかつての自分の姿を思い浮かべると、涙が零れるほどだった。
弟子たちは自分たちも一所懸命励みますゆえ、またいっぱい仕事をして前以上の邸を建てたらいいではないですかと力づけてくれたが、為恭の目には贅を尽くした邸があっけなく焼け落ちる光景が焼き付いている。形のある物はいずれ無に帰すと思うと、虚脱感が先に立って仕事に意欲が湧かなくなってしまった。新たに買い求めた硯と筆を前にして墨を擦っても、描きたいと思う気持ちが湧いてこず、目の前に置いた半紙は白いままだった。
そんな折、大阿闍梨(だいあじやり)の願海(がんかい)という僧から「勤発菩薩心文」という自著の挿絵を頼まれた。大阿闍梨というのは千日回峰行を満行した者に与えられる称号で、その修行は想像を絶するほど過酷なものなのだ。
願海に面会した為恭はその若さに吃驚(びつくり)した。大阿闍梨というからにはもっと年配の、天台坐主のような僧を思い浮かべていたのだが、目の前に現れた願海は自分と同じくらいに見えた。為恭は思わず年齢を尋ねてしまった。
「三十一でございます」 墨染めの僧衣を着た願海はにこやかに答えた。
「わたくしも三十一でございます。ということはお生まれは文政六年の……」 「九月十五日と聞いております」
「おお、わたくしより二日早い。わたくしは十七日でございます」 「それは、それは。こうしてお会いできるのも仏縁かも知れませんね」
千日回峰行のことを尋ねると、願海は二十四歳の時に行を始め、七年目の今年満行したと答えた。一年目から三年目までは比叡の山中を一日約八里、百日間祈祷して回り、四年目から五年目は二百日間、五年間で七百日を満了すると、無動寺明王堂で足かけ九日間にわたる断食、断水、断眠、断臥の四無行に入り、不動明王の真言を十万回唱えるのである。それを満了すると、六年目にはこれまでの行程に京の赤山禅院への往復が加わり、一日約十五里の行程を百日続ける。七年目には二百日行い、はじめの百日は全行程十六里におよぶ京大回りで、後半百日は比叡山中の行程に戻る。
「堂入りの四無行は特に過酷だとお聞きしましたが、どうやって耐えることができたのでしょうか」
「耐えるもなにも自分が生きているのやら死んでいるのやら、それさえも分からない状態でした。ただただ真言を唱えて不動明王にすべてお任せするしかありませんでした」
そう穏やかに語る願海を前にして、為恭は、今の自分の気持ちを思わず知らず願海に打ち明けていた。古画の模写を通じて有職故実を勉強し、それを生かして大和絵を描いてきたが、いずれそれらも灰燼に帰すとなれば自分は何を目標に絵を描けばいいのか分からなくなったと告げ、「仏の道で言うところの無常は、頭では分かっておりましたが、実際に目にするとこんなに苦しいものなのかと……」
「では、出家をなさいますか」 「え」
「私がお手伝いいたしますよ。出家をして仏画を描かれたらどうですか。今までの絵の修行を生かすこともできますよ」
それは魅力的な提案だった。為恭はしばらく願海の許に通うことを願い出て、寺を辞した。
経典を読み、分からないところを願海に教えてもらいながら、次第に仏教に馴染んでいった為恭がようやく筆を執ったのは、頼まれていた「勤発菩薩心文」の挿絵で、裴休(はいきゆう)という唐代後期の在家の仏教者の像だった。
その絵を描いていたある日、阿部忠彦の部屋から妻、信子の声とは別の、若い女の笑い声が聞こえてきた。
誰だろうと思いながら筆を動かしていると、忠彦がやって来て、ひと休みしないかと言う。為恭は筆を水洗いして硯の横に置き、立ち上がった。
忠彦の後に続いて襖の開け放された居室に足を踏み入れると、女たちの声がぴたりと止んだ。為恭は若い女に目をやった。その途端どきりとした。絵巻物から抜け出てきたような女の顔がそこにあったからだ。女は微笑みながらこちらを見上げている。小さな瓜実顔に高島田の髪形が重そうだった。
為恭が動けずにいると、「突っ立っておらんと早よう坐れ」と忠彦が側にある座布団を叩いた。
女から目を離さずに座布団に腰を下ろす。動悸が止まらない。女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「紹介しておこう」と忠彦が言った。「この子は信子の姪でな、綾子といって新善法寺(しんぜんぽうじ)家の娘さんだ」
「新善法寺というと男山八幡の?」 「そうだ」
男山八幡とは石清水八幡宮のことである。かつて、神宝や松花堂昭乗の書画を見せてもらったこともあるし、男山からの素晴らしい眺望も記憶に残っている。新善法寺家はそこに仕える祠官(しかん)の一つで、大変格式の高い家柄なのだ。
「岡田為恭と申します。どうぞお見知りおきを」 為恭は膝に両手を置いて軽く礼をした。
「綾子です。こちらこそお目にかかれてうれしゅうございます」
綾子は三つ指をつくと、深々と頭を下げた。椿油のいい匂いがする。内着の紅色が表着の白絣を通してほんのりと透けて見え、焚きしめた香のかおりも微かに漂ってくる。
「この子は為恭様の絵をいくつか目にしているのですよ」と信子が言った。「それで為恭様が家にいると言うたら、どんなお方かお目にかかりたいと言うて……」
「叔母様、そのことは内緒」綾子が口に人差し指を当てたが、目は笑っている。 「ほう、どの絵ですか」
「若菜摘みとか、雪月花とか……。若菜摘みで、すぐに、初春の初音の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手にとるからにゆらぐ玉の緒、という歌を思い出しました」
万葉集に収められている大伴家持の歌である。
「それに、雪月花は普通なら三幅対ですのに、為恭様のお作では一方が雪、もう一方が月と花の双幅になっていて、大変珍しいと思いました。雪の絵は枕草子の香炉峯(こうろほう)の雪から取られたのではおへんか」
「その通りです」
答えながら為恭はうれしくなってきた。娘が本を読んで知識を得、それが絵の鑑賞に生かされていること、それはとりもなおさず彼女の頭の良さを示している。そのことが娘を一層美しく見せた。
話は枕草子から源氏物語へと移り、それぞれがどの巻が気に入ったかという話題になった。 「わたくしは若紫が好みでございます」
と綾子が言った。若紫の巻は、光源氏が藤壺の面影を持った十歳ほどの紫の上を引き取って育てるという話で、為恭は、ひょっとしたら自分を育てて下さいましという謎かけではないかと思ったほどだった。
その日から為恭の頭の中は綾子のことで一杯になった。髪が長くてあまりにも美しいので、「黒髪はたけにあまりて心根のすなほにきよき人ぞ恋しき」と詠んで送り届けたこともあった。彼女は二十歳で、紫の上に比べたらずいぶん大人だが、それでも自分好みに育てることができるのではと夢想した。
綾子も頻繁に阿部夫婦を訪ねてくるようになり、その都度為恭も同席した。 名にし負う光の君にちかづかむ
我妹子(わぎもこ)とはに我れに恋ひめや 物おもへば紫の上は我が身なり 光の君の逢瀬まつらん
歌に託して綾子の気持ちを問うた返歌がこれだったので、為恭は天にも昇る心地になった。
早速、阿部忠彦に新善法寺家との仲立ちを頼むと、「おそらくそうなるだろうと思っていた」と快諾してくれた。横にいた信子も「わたくしもお似合いだと思っておりました」と微笑んだ。
ところが新善法寺家の返事は意外なものだった。綾子との結婚を認めないというのだ。家格が違いすぎるというのがその理由だった。確かに町絵師の自分と石清水八幡宮の祠官の家では格が違うのは分かる。しかし自分は京洛随一の大和絵師だと自負しているし、綾子に今よりも豪奢な生活をさせる富力もある。何より自分の絵を観てもらえば、自分という人間がどういう者であるのかよく分かるはずだ。
為恭は知恩院に収めた法然上人絵伝の模写全四十八巻を事情を言って借り受け、それらを弟子の岡本恭儀(やすのり)と平盛茂に持たせた。そして阿部忠彦に同道してもらい、新善法寺家に赴いた。
応接間で相対した父親は紺袍に浅葱奴袴、冠という正装で、為恭も狩衣、差袴、烏帽子という役職の服装をしていた。忠彦に促されて為恭は法然上人絵伝の第一巻目を差し出した。残りは後ろで弟子二人が積み上げて、父親に見えるようにしている。
父親は巻緒を解き、三尺ほど開いて、左右に視線を動かしながらしばらく眺めた。表情には何の変化もない。為恭は息を凝らして見ていたが、父親はそれ以上開こうとはせず、巻き戻してしまった。
「なるほど、岡田殿の技倆は噂に違わぬものだと感服いたしました」と父親が言った。「娘の言うように他の絵も素晴らしいものでありましょう。ただ、私としてはこの新善法寺家を末代まで盛り立てていく役目がございましてな。早い話が、綾子にはいろいろなお公家から是非嫁にという申し出がありますのじゃ。あれほどの器量ですから、私どももどのお話をお受けしようかと嬉しい悲鳴を上げておったところです」
為恭は両手をついた。
「確かにわたくしは公家ではありません。しかし正六位下式部省(しきぶしよう)大録(だいさかん)という役職に就いておりますし、いずれはどこかの国守になるつもりでおります。必ずや新善法寺家の後押しができると信じております。どうかわたくしめに綾子様をくださいますよう切にお願い申し上げます」
為恭は烏帽子の先が畳につくまで深々と頭を下げた。 「わたくしからもお願いいたします」と忠彦も同様に礼をした。
「うむ」父親は一つ大きく息をした。「ここでこんなことを言うのも何ですが、岡田殿のことを少し調べさせてもらいました」 「………」
「祇園で色々とお遊びのようで……」 為恭はどきりとした。
「馴染みの遊び女(め)も一人や二人ではないように聞いております。こういう戯れ唄もお作りになったようで……」
そう言うと、父親は一枚の紙切れを懐から取り出し、
「いろの思案のうちとけて、うゐの奥の手しられじと、くるわ遊びのかりねにも、あさき夢みず、ゑひもせず」 と唄う調子で読み上げた。
「なかなか粋なお唄をお作りですな」 父親は皮肉な笑みを浮かべている。
座にいやな沈黙が流れた。祇園での遊びを否定することはできない。為恭は腹をくくった。
「確かにわたくしは祇園で遊んで参りました。しかしそれは、一つは絵の修行に生かせると信じていたからです。もう一つは、わたくしの理想とする女性(によしよう)
とはどういう人なのか、そういう女性を探していたのでございます。綾子様を見つけることができたのも、その遊びのお蔭だと思っております。綾子様と一緒になりましたら、二度と祇園に足を踏み入れないとお約束いたします」
嘘ではなかった。為恭の本当の気持ちだった。しかし、父親には通じなかった。家格の違いと為恭が遊び人という理由で、結婚の申し出ははねつけられてしまった。
為恭の落胆は大きかった。それから綾子が家にやってくることもなくなり、手紙を出しても全く返事が来なくなった。新善法寺家のような位の高い家柄では親の言うことは絶対で、それに逆らうことなどあり得ないだろうし、自身の仕事のことを考えたら、駆け落ちという非常手段も取れないことは明らかだった。
綾子の出現でようやく戻ってきた絵に対する情熱がまた萎んでしまい、文机の前で文箱の蓋も開けないまま、両肘をついて溜息をつくばかりだった。
綾子を娶(めと)ることができないのなら、いっそのこと出家でもしようかと思い悩んでいた為恭に、願海から孝明天皇の皇子祐宮(さちのみや)の無事成育を祈るための絵「仏頂尊勝曼荼羅」の制作依頼が来た。
為恭は久方ぶりに願海の許を訪れた。天朝様の皇子のために絵を描くのは光栄の至りなのですが、自分に描けるかどうかと為恭は弱音を吐いた。
「為恭殿の技倆があれば何の問題もないと思いますが」 「いや、技倆の問題ではないのです。心の問題なのです」
為恭は綾子と知り合った経緯から始めて、彼女に対する思いの丈と新善法寺家の仕打ちを訴えた。黙って聞いていた願海が口を開いた。
「為恭殿の絵の修行において、綾子様はどうしても必要なお方なのですか」
「その通りです。綾子が側におれば、さらに努力して素晴らしい絵が描けると信じております」
「分かりました。私が新善法寺家に出向いて説得してみましょう。大阿闍梨という肩書きが役に立つかもしれません」
為恭はその時初めて願海にお願いする手があったかと気づいた。 「是非にお願いいたします」 「駄目だったら、私の許で出家されますか」
願海が微笑んでいる。 「それはもうお任せいたします」
それから程なくして、新善法寺家が折れて綾子を為恭の許にやってもいいと認めたという知らせが忠彦からもたらされた。ただし、本家からは出さずに家来の林宇一郎の養女にしてから嫁がせるというものだった。そんな形式は為恭にとってどうでもよかった。綾子が側に来る、そう思うと為恭は有頂天になった。早速、願海の所に御礼に行った。
「大阿闍梨様のお力がこんなにもすごいとは思っても見ませんでした」
「いやいや、大阿闍梨という肩書きは相手に会うことができるというだけのものですよ。説得ができたのはひとえに為恭殿の力に依るところが大きいです」
「と申しますと……」
「私は、為恭殿はいずれ天下第一の絵師になること請け合いです、そんじょそこらの公家なぞ足下にも及ばなくなると正直に申したまでのこと」
「それが説得力を持つのも大阿闍梨様だからでしょう」
「そうなりますか」願海は笑顔を見せた。「私の言ったことが嘘にならないよう、絵の修行に励んで下さいよ」 「もちろんその覚悟でおります」
「それにしても綾子様はお美しいですな。煎茶を持ってこられた時、ちらと見ましたが、為恭殿が惚れられるのもうべなるかなと思いましたよ。京洛一との噂も本当でしょう。傾城の美女という言葉を思い浮かべましたが、それが杞憂となるようしっかりと添い遂げて下さいよ」
感謝の念を込めて為恭は「仏頂尊勝曼荼羅」を描き、同じ絵柄を願海が天朝から下賜された御衣にも描いた。
その後も願海の依頼で、「尊勝明験録」の挿絵や「賢十羅刹女図」などを描き、願海との交流は四年後の安政五年六月に彼が紀州の粉河寺御池坊に転任するまで続くことになる。
為恭は室町通椹木町(さわらぎちよう)下ル西側に、以前ほどの規模ではないが、小振りの瀟洒な邸を建てた。螺鈿の唐櫃(からびつ)を置いたり、客間を板敷きにしたり、と平安朝にしたのは変わりがなかったが、庭が狭かったので池を造れなかったのが唯一残念なことだった。
妻の、綾子という名前が今風なので、綾衣(あやき)と改名させ、おすべらかしの髪形に十二単を着せて、平安の公家の女を真似させることもした。
為恭の憂鬱はすっかり取り払われ、失われた絵巻物や古画の模本を取り戻すべく、寺社や貴紳の許を訪ねては原本を借り受け、模写に励んだ。依頼画の制作、骨董鑑定にも精を出すようになったので、弟子たちも安堵し、さらには綾衣がなにくれとなく面倒を見てくれるので、仕事が大いにはかどることになった。
そんな為恭の唯一の気がかりは、姉のたつのことだった。綾衣との結婚を実家の母に報告に行った時、たつが床に臥せっていた。婚家から一時的に戻って療養しているという。
十数年前に嵯峨の農家である井上藤之進に嫁いで二男三女をもうけたが、藤之進は身持ちが悪く、博打にも手を出し、次第に家計が傾いて、たつは心身共に疲弊したのだった。
そんな男とはすぐに縁を切るべしと為恭は憤慨したが、駆け込み寺にでも逃げ込まない限り女の方からは離縁できない。
どうしたものかと阿部忠彦に相談すると、誰かと結婚させて既成事実を作り、後から相手から離縁状を出させればいいという知恵を授けてくれた。
「お姉様はいくつなのだ」 「私よりも四つ年上なので、三十六だ」 「ほう、それならちょうどいい」
聞くと、忠彦の同僚で楽人の多忠誠(おおのただなる)という男が最近妻を亡くし、わびしく暮らしている、年も四十過ぎなのでどうかと言うのだ。為恭が会ってみるとしっかりとした男だったので早速姉に紹介した。姉は苦労した割には若い時の美貌を失ってはおらず、忠誠はすっかり気に入り、嫁にもらいたいと言う。為恭は姉を説得し、忠誠に事情を話し、とりあえず仮祝言を挙げさせた。
その事実を持って、為恭は嵯峨に向かった。懐には二十両の小判を入れている。
井上藤之進は若い時の溌剌とした感じはすっかり影を潜め、人の顔色を窺う貧相な男に成り下がっていた。為恭が事の経緯を話すと、案の定藤之進は話にならないと首を振った。
「体の調子が悪いというので実家で療養させたまでのこと。それがどうして離縁などという話になるのか。直接たつと話をさせてもらわないと納得がいかん」
「その理由は貴兄が一番分かっておられるのではありますまいか。一家を養う器量のない者から妻の心が離れていくのはものの道理というもの。離縁は自然の流れでございます」
藤之進は顔をしかめると、 「では、もう一度やり直させてくれないか。子供たちのためにも」
「姉が何年も前から貴兄に訴えてきたのに、聞く耳をもたず、ついには体を壊したのをどう思われるのか。もうやり直しは効きませぬ。正五位下の楽人と仮祝言を挙げたという事実は重いですぞ」
それでも藤之進はなんやかやと屁理屈を付けて離縁状を書くのを拒否した。
昼からの話し合いが二時ほど続き、庭に面した障子に夕闇が迫ってきた時、隣室の襖の向こうから「お父(とう)、腹減った」という男の子の声が聞こえてきた。
為恭は懐から小判の包みを取り出した。 「ここに二十両がございます。縁切りの対価としてわたくしが出せる精一杯でございます」
「わしが金で動くと思っているのか」 「道理を通すために必要なお金だと思っております」
金を挟んで、二人は沈黙した。応接間が次第に暗くなっていく。
「ちぇ」と藤之進が舌打ちをした。「負けたよ。姉が姉なら弟も弟だ。どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがって。離縁なんて金輪際してやらないつもりだったが、書いてやるよ」
そう言うと、藤之進は小判の包みをつかんで懐に入れた。為恭は立っていき、行灯に火を入れると近くまで持ってきた。その明かりを頼りに藤之進に三行半の離縁状を書かせた。男の子二人は井上家に残し、女の子三人は姉が引き取ることで決着がついた。
しかし藤之進がおとなしくしていたのは二ヵ月ほどだった。ある日、突然為恭の家に顔を見せ、追加の金を要求した。為恭が拒否をすると、彼の悪口を書いた紙を近所中に張り付け、あまつさえ「岡田式部大録」と書かれた門の表札を剥がして、「岡田式部大盗人」と書いた紙を張った。為恭を呪い殺してやると触れ回っている噂も聞こえてきた。追加の金を払うのは容易だが、一度でもそんなことをすれば何度でもやって来るのは目に見えている。為恭はじっと我慢をして相手が根負けするのを待った。
そんな日々の続く四月六日の昼過ぎ、画室で依頼画の下絵を描いていると、弟子の岡本恭儀(やすのり)が息を切らせて入って来た。
「先生、禁裏から火が出たようです」 「何!」
為恭はあわてて外に飛び出した。大勢の人たちが椹木町(さわらぎちよう)通まで出て東の空を仰いでいる。確かに黒い煙が遠くに棚引いている。一筋東にある烏丸通まで行くと、南から、火消し装束を身に付け、鈎付き棒などの道具を持った十数人の一団が駆けてきた。道を空けると、彼らは下立売御門から御所の中に入って行った。
風が東から吹いている。大事(おおごと)になりそうな予感がして、為恭は急いで家に戻った。恭儀だけではなく全ての弟子を呼びつけ、家中の荷物をまとめさせた。模本や粉本の類い、さらには筆や硯などの用具も唐櫃に入れ、いつでも運び出せるように大八車も調達してきた。
早く収まるように為恭は神仏に祈っていたが、東の空を覆う煙が次第に大きくなってきた。様子を見に行った弟子が帰ってきて、火が御所を越え、町中まで燃え広がっていることを告げた。先年の自宅の火事に続いて、また我が家が焼失するのか。為恭が思わず神仏を呪詛する言葉を吐くと、綾衣がたしなめた。
「お前様、たとえ我が家が燃えることがあっても、神仏を恨むことはあきまへんえ。禍福はあざなえる縄の如しと言うやおへんか。きっとええことがあります」
その通りだ。綾衣と巡り会えたのもこの前の火事のお蔭なのだ。為恭はすっと心が落ち着くのを感じた。
「さすがは男山八幡の娘だけのことはある。そなたさえおれば、私は何もいらぬ」
暗くなってからでは逃げるのも容易ではないと考えて、夕闇が迫る中、南の両替町二条にある母の家に一旦身を寄せることにした。もし火がここまで迫ってきたら、綾衣の実家である石清水八幡宮まで逃げるつもりだったが、翌七日の早朝、様子を見てみると、北の空にまだ煙は棚引いているが、夕べほどの勢いはなく火の手も見えない。近所の人々の話によると、ようやく鎮火したらしいということだった。
それで恭儀と連れ立って椹木町まで戻ってみると、焼け焦げの臭いは漂っているが家は無事で、二人は手を取り合って喜んだ。火は下立売通まで迫っており、もう少しで為恭の家も飲み込まれるところだった。綾衣が神仏のご加護を連れてきてくれたのだと為恭は思った。
藤之進の嫌がらせは火事の後ぴたりと収まり、これでようやく終わったかと安心していたが、そうではなかった。
御所の再建が正式に決定され、幕府の財政難の折、費用を抑えるために襖絵等の御用は京洛の絵師たちが担うことになった。為恭も願書を出し、当然選ばれるはずと修理職奉行からの下命を待っていたが、いつまで経っても音沙汰がない。奉行の中山大納言忠能(ただやす)に面会を申し込んでも、願書に関する申立には応じないと断られてしまった。
訳が分からない為恭は三条実万に泣きついた。
実万が手を回して調べたところによると、どうやら藤之進が為恭の悪評を並べ立てた文書を修理職奉行に提出していたことが分かった。自分が為恭によってむりやり離婚させられたことばかりではなく、養子に入った岡田家と為恭との色々な確執も綴られ、さらには、大した値打ちもない骨董を法外な値に鑑定して、鑑定料を稼いでいるという出鱈目なことまで書かれていた。
為恭はその一つ一つについて事情を説明し、追加の金の要求を断った腹いせに、藤之進からずっと嫌がらせを受けていたと訴えた。
「おそらくそんなことだろうと思っておった。分かった。私に任せなさい」 実万の言葉に為恭は「ありがたきお言葉」と平伏した。
それから日時を置かず、修理職奉行から使者が来て、為恭に新御所の襖絵を描くよう下命が下った。実万に御礼に伺うと、「奉行を通して、藤之進という輩に、二度と為恭殿に関わらないようにきつく申し付けたので、もう心配はいらないであろう」と実万が言った。
その言葉の通り、藤之進の嫌がらせはそれ以後全くなくなり、為恭は喉に刺さった棘がようやく取れた思いがした。
五
年が明けて安政二年(一八五五)一月、為恭は式部省第三番目の官職である式部少丞(しようじよう)に任ぜられた。ようやく清涼殿への昇殿も叶い、帝の近くで仕えることで自分が公家の一員になったような心地を味わうことになった。
そんな折、祇園社の神楽所に描かれている訥言の若松図を宇喜多一宸ェ修復するという話が耳に入ってきた。
為恭はすぐに、この仕事は自分がやらねばならぬと思った。自分が大和絵に転向する切っ掛けを与えてくれた絵であり、しかも自分は田中訥言先生の生まれ変わりを自任しているのだ。最高級の岩絵具、金箔を使い、あの若松図を末代まで残すのは自分しかいない。貧乏絵師の一宸ノはそんな費用を掛けられるはずがない。
為恭は早速祇園社に出向き、若松図の修復を自分に任せるように頼み込んだ。しかし神官は、すでに一宸ノ依頼しているので、どうしてもと言うことなら、直接一宸ニ談判してくれと答えた。
一宸ニ会うのは気が進まなかったが、ここはどうしても一宸説き伏せて自分に任せるように仕向けなければならない。一宸ェ腫れ物がひどくて臥せっているという噂も説き伏せるには好都合だと思えた。
為恭は田中訥言模写の伴大納言絵詞を緞子の袋に入れ、首から掛けた。さらには上等の絹で仕立てた狩衣に烏帽子を被り、一宸フ好きな島臺という酒瓶を手にして、木屋町三条北にある彼の家まで出掛けた。
訪(おとな)うと奥から一宸フ妻、花が現れ、名前を告げると驚いた顔をした。 「あの、狩野永恭様でいらっしゃいますか」
「さようです。あの当時は、いろいろとお世話になり、ありがとうございました」
「いやあ、ご立派になられて。ご高名はかねがね主人からも伺っております」
見舞いの品だと酒瓶を差し出すと、花は両手で胸に抱え、しばらくお待ちをと奥に引っ込んだ。
少し経って現れた一宸ヘ元気そうで、噂は間違いかと思わせるほどだった。 「こんなあばら屋にお越しとは、どういう風の吹き回しですかな」
面と向かうのは春日権現験記絵巻の模写が終わって以来、十年振りだった。 「ご病気で臥せっておいでだとお聞きしたものですから、お見舞いに」
「この通り平癒しましたので、ご安心を」 為恭は一宸フ後について、応接間に入った。花が煎茶を持ってきて二人の間に置き、静かに出て行った。
「先月、式部少丞(しきぶのしようじよう)に出世されたとか、おめでとうございます」 「これで昇殿も適います」
「まさに殿(てん)上(じよう)人(びと)ですな。これからは岡田殿とお呼びした方がよろしいかな」
「冷泉はいろいろと差し障りがございますゆえ、そのように願えれば……」 一宸ヘうなずくと、湯呑みを手に取り、ひとくち茶を飲んだ。
「ところで、法然上人伝の模写は完成されたのか」 「はい、一昨年にようやく収めることができました。丸九年掛かりました」
「一本でも大変なのに、同時に三本とはよく決意されましたな」 「私一人の力ではとてもできませんでした。弟子たちのおかげです」
話は御所再建のことになり、為恭は小御所の北廂に襖絵を描く下命を受けていることを告げた。
「いずれ土佐や狩野に話があると思いますが、私の方から宇喜多先生にご依頼が来るように口添えをいたしましょうか」
「いや、そのご配慮は無用に願いたい。絵師はその画力で選ばれるものですからな」 「これは失礼をいたしました」
為恭は頭を下げ、「ところで、宇喜多先生は祇園社の田中先生の若松図を修復されるとお聞きしましたが」と切り出した。
「さよう。年始に神人(じにん)よりご依頼がありましてな。病が癒えてようやくそれに取り掛かろうと思っておるところです」
「宇喜多先生、それを私に任せてはいただけないでしょうか」 「どういうことですかな」
「以前お話ししたことがあると思いますが、祇園社の若松図は、そもそも私が田中先生を師と仰ぐようになったきっかけの絵。その絵が破損したと聞いて、修復するのは私しかいないと思っているのでございます」
「お気持ちはお察しするが、田中先生の絵を修復するのは第一等の弟子である私の務めです。第三者にそれを譲ったとなると、末代までの恥になります」
第三者という言葉に為恭はかっと頭が熱くなるのを感じた。
「私を第三者とおっしゃるのか。田中先生の画跡を追い続け、先生の写した伴大納言絵詞を肌身離さず持ち歩いている私を」
そう言うと、為恭は狩衣の前を開け、首に掛けた紐を引っ張りあげた。単(ひと)衣(え)の襟元から緞(どん)子(す)の細長い袋を出す。
為恭は袋の口を広げると、中から巻物を取りだし、巻緒を解いてそれを広げて見せた。
「この絵詞を何度も写しました。田中先生が模写した古刹の絵も写しました。それでも私を第三者だとおっしゃるのか」
「師に直接教えを受けていない者を第三者と言ったまでのこと」
「それは生まれた時代が違っただけのことではありますまいか。私は光琳に対する抱一と同じだと思っております」
尾形光琳が死んで約五十年後に生まれた酒井抱一が光琳の画風を再興したのは、よく知られた事実だった。
「為恭殿の志は泉下で田中先生もお喜びでしょう。だが、今回の件は私がやります。それが務めですから」
「私に任せていただければ、後世までも田中先生の業績を称える立派な絵に仕上げて見せます」
そちらでは金を掛けられないだろうと直接訴えるのは、かえって臍を曲げられる恐れがあるので控えたが、さりとてそのことを言わないでおくのも癪だった。
「何と言われようと、これは私の仕事ですからな」 「是非にとお願いしてもですか」 「その通り」
為恭は溜息をつくと伴大納言絵詞を巻き戻し、袋に入れた。それを懐に戻し、狩衣の前を正してから、お邪魔いたしましたと立ち上がった。
帰りがけ、立派な修復を願っておりますと皮肉を込めて言うのが精一杯だった。
二ヵ月半後、修復のなった若松図を祇園社が披露するというので見に行った。人だかりの中、一番前まで進んで目を凝らした。貼り直した金箔は最上等のものだと分かる。緑青も岩絵具の高価な物で塗り直されている。時間を掛けて入念に修復されたというのが一目で分かる仕上がりになっている。
さすがは田中先生の第一等の弟子だけのことはある。この修復なら良しとしよう。自分ができなかったことは残念だったが、為恭は素直に一宸フ仕事ぶりを称賛した。
為恭が小御所の北廂に面する襖六面に描いたのは、清涼殿十月の更衣の様子、田に氷の張っている風景、それに貴人が鷹狩りに向かう場面だった。それぞれ二面ずつ取り、小御所内部の襖絵と合わせるように、群青の棚引きで鮮やかに画面を彩っている。
四月吉日、納められた絵を観るため、為恭は伯父の狩野永岳や他の狩野派の絵師と共に御所に向かった。
唐御門から中に入った時、西対屋の方からこちらに歩いてくる人の中に、宇喜多一宸フ姿を認めた。為恭は浅沓(あさぐつ)を鳴らして一宸ノ近寄っていった。一宸フ側に僧衣を着た若い男が立っている。
「宇喜多先生も納めの立ち会いに来られたのですか」 「さよう。先程済ませてきました」
「ところで、先日、祇園社の若松図を拝見いたしましたが、さすがは田中先生の第一等の弟子たる者の仕事は違うと感心いたしました。ただ、私ならもう少し色を重ねて、鮮やかに描くかなと思いました」
「淡彩は先生の教えですから、それを歪めるわけには参りませんな」 誘うべきかどうしようかと少し考えてから、
「どうです、私の絵をご覧になりますか。そうしたら私の言うことの真意が分かっていただけると思いますが」 と為恭は言ってみた。
「喜んで見せていただきましょう」
為恭は一宸ニ若い僧を案内するように先導して、車寄せから中に上がり、長い廊下を真っ直ぐに行って、小御所の北廂に入った。右手に襖がずらっとはまっており、手前の六枚に為恭の描いた絵があった。
「これが私の描いた絵です」為恭は胸を張って紹介した。 一宸ニ若い僧は近くに寄って細部に目を凝らし、また体を離して全体を眺めた。
「さすがは狩野のご子息だけのことはありますな。これだけの群青を集めるのは、さぞかし大変だったでしょう」
上質な群青の岩絵具は高価である。そのことをにおわせて絵の内容に触れない言い方に一宸フ皮肉を感じて、為恭はかちんときた。
「群青だけに注目されるのは心外です。色をはっきりと塗ることの重要さを見ていただきたい」
「絵は形を写すのではなく、情を写すものだというのが先生の教えですからな。色の薄い濃いは関係ないのではありますまいか」
「濃く見えるものを濃く描いて、何の不都合がありましょうか」
「濃く見えたからといって、濃く描く必要もないのでは。絵師の心に映った色を描く。それは絵師一人一人によって違うと思っておりますが、いかがですかな」
「しかし、絵は絵師以外の者が観て初めて成り立つもの。ここで言えば、殿上人の心を癒やすことが求められていると思いますが」
「色使いの濃いのを殿上人が求めているということですかな」 「さようです」 「唯念(ゆいねん)、そちはどう思う」
一宸ゥら声を掛けられて、若い僧は襖絵に再び目を向けた。
「私には難しい話は分かりかねますが、為恭様の絵が美しく、ひと目で惹きつけられることは確かでございます。ただ、このような公の場所なら気分が高揚してふさわしいかと存じますが、普段の場所だったら、私なら、もう少し色を控えた絵が好みでございます」
その時、左端の襖が開いて、薄い縹(はなだ)色の狩衣を着た狩野永岳が姿を見せた。
「何やら声が聞こえると思ったら、宇喜多殿ではありませんか。どうしました。為恭が何か無理を申しておりましたか」
「いやいや、為恭殿の絵を見せていただいて、絵師の心得について少しばかり話し合ったまでのこと。お耳障りでございましたら、お詫び申し上げます」
「そうでしたか。それならどうです、私の絵をご覧いただけますかな」 永岳の言葉に一宸ニ若い僧が中に入った。為恭も後に続く。
一宸ェ永岳の描いた四季の襖絵に感心している様子を眺めながら、為恭は先程の問答を反芻していた。確かに田中先生の教えが淡彩であることは自分も知っている。形ではなく情を写せという言葉もその通りだ。ただ今は先生のおられた時代とは違う。人の情も徐々に変わっているのだ。古(いにしえ)の大和絵を今に生かすということは、その当時の力強さをそのままに、今の情を写すことに他ならない。一宸フように教えをそのまま踏襲することではない。濃彩の絵が好まれているのは自分の絵が多くの人に求められていることでも分かる。御所の絵を観るのは公家の方々であるということを一宸ヘ少しも考えておらぬようだ。
その後、新造内裏の評判記が京に出回り、その中で為恭の襖絵は人気役者市川蝦十郎に喩えられ、「九百両」と謳われた。一宸フ名前はどこにも見当たらず、為恭は自分の考えが世に受け入れられていることに自信を得たのだった。
六
梅雨が明けて夏の暑さが本格的になり出した頃、為恭は父狩野永泰の十三回忌のために、さる寺から借りた過去現在因果経の模刻を始めた。過去現在因果経とは釈迦の前世における修行から現世で悟りを開くまでの物語を説いた経典である。下半分にお経を書き、上半分にそれに当てはまる絵を描いていく。願海の勧めで取り掛かったのだ。
それが終わってほっとする間もなく、寿延寺から『真言八祖行状図』の模写を頼まれ、さらには、御所の襖絵の評判を聞きつけた公家や富家からも屏風絵や掛け軸の注文が相次いだ。
翌年の安政三年には関白直廬預(じきろあずかり)
に抜擢され、九条尚(ひさ)忠(ただ)の宿所の世話をする仕事も重なった。結婚して二年、綾衣との生活も安定し、三十四歳になった為恭には、数多くの仕事がさらに充実感をもたらした。
安政四年の二月には知恩院を通して岡崎の大樹寺の障壁画の仕事が舞い込んできた。
大樹寺は徳川家の遠祖に当たる安祥城主松平左京亮親忠(さきようのすけちかただ)が創建した寺で、後に徳川家の菩提寺にもなった。二年前に火事に遭って本堂、書院などが焼失し、幕府はただちに再建の準備をしたが、ちょうどその年の十月に江戸で大地震が起こり、再建費用節約のため襖や建具は紺青の型紙を貼ってすませるように寺に申し付けた。しかし寺側としては、東照大権現様の霊場として、見物に来た人々に対して観てもらうものが何もないということになる。それでは申し訳ないということで、寺が自前で、障壁画二十数面を含めて百四十五面の絵の制作を為恭に依頼したのだった。
大樹寺は浄土宗の寺で、総本山の知恩院に話が行き、法然上人絵伝の模写などで深い繋がりのある為恭に白羽の矢が立ったのである。長期間京を離れることについて式部省の上層部にお伺いを立てると、知恩院と関係の深い関白九条尚忠公から直々に、仕事のことは気にせずに存分に彩管を揮うようにと仰せがあった。それで安心して、為恭は大樹寺に承諾の返事をした。大樹寺からの書状には、焼失前の障壁画は江戸狩野家によって描かれたものであり、為恭が狩野の出自であることも考慮したとあった。
それを読んだ為恭は、大和絵ですべての面を描くのではなく、狩野の絵も入れてくれという依頼だと解釈した。寺から示された見取り図を基に、為恭は絵の構想を練り始めた。
彼が大樹寺から絵を依頼されたという話は瞬く間に京の絵師たちの間に広まり、天朝様のお膝元に暮らす絵師が徳川の菩提寺の仕事を引き受けるとは何事だという批難の声が沸き起こった。それは為恭の耳にも入ってきたが、能のない絵師のたわごとだとして気にも掛けなかった。
狩野家に繋がる絵師が突然亡くなって、その葬儀に出席した際、偶然顔を合わせた一宸熨蜴寺の仕事について触れてきた。
為恭が関白直廬領の仕事について「前例を踏襲しなければならず、なかなか大変です」とこぼすと、一宸ヘ、
「ご公務に熱心なのはいいことでござるが、朝廷に仕える者として徳川の菩提寺の障壁画を描くことに、周りから何も言われなかったのですかな」と言ってきた。
「それはどういう意味でしょうか」
「いや、今のご時世、とかく朝廷と幕府の間で、ぎくしゃくした問題が起こっておりますからな。そういう時に引き受けて、あらぬ誤解を招くよりも、幕府の御用絵師に任された方がよいのでは、と思っただけです。そういう忠告をする者がいなかったのですかな」
「私は絵師ですから、依頼があれば、どんな絵も描きます」
「私のように無位無冠の者ならいざ知らず、蔵人としての立場がおありなのだから、そう簡単に割り切ることができますかな」
「私が大樹寺の絵を引き受けることで、朝廷と幕府の仲を取り持てたら幸いでございます」
「おや、為恭殿は公武合体のお考えか。やはり関白殿のお側に仕える者はそうでなければならないのですかな」
九条尚忠は公武合体の推進者なのだ。まさか話がそこに来ようとは思っても見なかった。
「……いや、私は取り立ててそういう考えは持っておりません。先生に問われたので、私の願望を述べたまで」
「為恭殿が、絵は絵、政(まつりごと)は政、と生きる世界をくっきりと分けたい気持ちは分からないではないが、人は必ずしもそうは見てくれませんからな。十分に注意した方がよろしいですぞ」
「ご忠告、感謝致します」 為恭は深々と頭を下げた。
閏五月に建物が竣工したとの知らせを受け、為恭は岡本恭儀(やすのり)を始めとする弟子五人を引き連れて、岡崎に向かった。
為恭としては一年は掛かると踏んでいたが、「一年も離れて暮らすことなど到底できしません。死んでしまいます。どうかもっと早よう帰ってきておくれやす」と綾衣に泣きつかれたため、半年で戻ってくると約束したのだ。連れていく弟子を三人から五人に増やしたのもそのためだった。
本格的な長旅は初めてで、しかも例年より暑さが厳しく、為恭は駕籠に揺られたり、馬の背に乗ったりして東海道を行き、十日ほどして大樹寺に到着した。
山門は上下二層の大きな造りで、焼け残ったのか年代を感じさせる建物だった。そこを潜って境内に入ると右手に鐘楼が建っており、その近辺を竹箒で掃いていた作務衣姿の僧がこちらに気がついて近づいてきた。
「岡田為恭様でいらっしゃいますか」 「そうです」 「はるばるお越しいただき、ありがとうございます。お待ちしておりました」
彼の案内で、新築なった本堂に向かった。大屋根の真新しい瓦が陽を受けて輝き、ずらりと並んだ葵の紋入りの軒瓦が、徳川家の菩提寺であることを示している。
「岡田様がお出でになりました」と僧が声を張り上げた。正面の障子が開き、薄物の僧衣を纏った年配の僧侶が姿を見せた。にこやかな顔をしながら階段を降りてくる。
「長旅、ご苦労様でした。わたくし、当寺の住持で弁苗(べんみよう)と申します。どうぞお上がり下さい」
為恭ら一行は草鞋を脱ぎ、用意された木桶の水で足を拭い、本堂に上がった。中はひんやりとしていて、木の香が漂っている。
為恭と弟子たちは住職に倣って須弥壇の正面に正座し、手を合わせた。左右の太柱には金地に墨色で「厭(おん)離(り)穢(え)土(ど)」「欣(ごん)求(ぐ)浄(じよう)土(ど)」と書かれた大きな札が掛かっており、その奥に火災を免れた金色の阿弥陀仏が鎮座している。為恭は阿弥陀仏に向かって長旅のご加護を感謝し、加えてこれからの仕事がうまくいくように祈った。
それがすむと、住職の後について大方丈(おおほうじよう)に入った。六つの間を一畳の幅の広縁が取り囲んでおり、上段の間近くの窓からは、徳川家康お手植えの椎の木が大きく茂っていた。
見取り図で百畳ほどの建物であることは分かっていたが、実際に目にすると、意外に大きい感じがした。事前の構想通りの絵が映えることは間違いなしと為恭は自信を深めた。
その日は寺から歓待を受けて、次の日から早速仕事に取り掛かった。
まず須弥壇の両側にある襖に浄土の象徴である蓮の花を描く。これは寺側から指定されていた。襖を外し、本堂の広間に持ち出して、そこで描いた。
次に大方丈の上段の間である。ここと隣の下段の間に大和絵を描くことが今回の仕事の主要な目的なのだ。床の間を含めて十畳ある上段の間の周囲に円融院天皇の子(ね)の日遊びを、八畳の下段の間に三条実房(さねふさ)の茸狩を描くという構想は、すでに寺側の了承を得ていた。
畳を外して板の間にし、その場を画室にした。まずあらかじめ描いてきた下絵を元に、実物大の下絵を墨一色で描く。それを周囲に仮貼りをして、人物と風景の釣り合い、効果、迫力などを勘案して、微妙に修正を加えていく。床の間や右側の壁に張り付ける絵は紙を載せて写せばいいのだが、襖絵は下絵を横に置きながら、いわゆる臨写になる。貼付絵はやり直しがきくが、襖絵は描き損じると張り直しの作業になって時間の無駄になる。模写に慣れていない絵師ならば緊張の強いられる瞬間だが、為恭にとっては何ほどのこともなく、ぐっと集中して一気に筆を動かしていった。
絵の具の材料にも工夫を凝らした。白には水晶、茶には鉄錆、赤には瑪(め)瑙(のう)や珊瑚、黒にはわざわざ大樹寺の庫裏で使われている鍋や釜の底に付着した煤を使った。緑青や群青も最高の品質のものを用いた。それらの調合や背景の山や木々の大まかな色塗りは弟子たちに任せ、為恭は人物や牛車、木々の枝等、細かな部分に力を注いだ。
円融院天皇が始めたとされている子(ね)日御遊之図が完成すると、畳を戻し、住職たちを呼び入れた。
「ほう」周囲をぐるりと見回した彼らが口々に感嘆の声を漏らした。
「いやあ、思った以上に迫力がありますな」と住職が言った。「岡田様から子の日の遊びを絵にすると伺ったときは、柔らかな雅な趣になると思っておりましたが、どうしてどうして。漢画に引けを取らない、いや、それ以上の迫力を感じます。何より、子の日の場に自分が立っているような心地がいたします」
次の下段の間では、日頃何かと世話になっている三条実万に対する御礼として、遠い祖先に当たる三条左大臣実房の姿を茸狩に託して描いた。これも上段の間と同様に、四面の襖に絵巻物のように描いて、臨場感を出すようにした。
この二間を仕上げるのに二ヵ月近く掛かってしまった。後の四つの部屋と周囲の広縁の杉戸には、焼失前の画題を参考に狩野派の筆で、鶴とか牡丹、春秋山水、鉄線花などを描いた。大和絵と違って余白を生かす描き方なので早く仕上げることができる。
すべて描き終えたのは、それから二ヵ月後の九月半ばのことだった。完成法要の後の内祝いでは、為恭の仕事の早さが賞揚され、にもかかわらず筆遣いのどこにも荒さがないことに僧侶たちは驚いたのだった。
「それは弟子たちをほめてやって下さい」と為恭は言った。「わたくし一人の力では到底なしえなかった仕事ですから」
綾衣との約束よりも二ヵ月も早く帰洛した。
玄関に現れた綾衣は目を見はり、裸足のまま三和土に降りてきて為恭に抱きついた。心なしか痩せたようだ。
「帰るなら帰ると知らせてくれはったらよろしおしたのに」 「驚かせようと思ってな」 「ええ、ええ。ほんまに驚きましたえ」
声が潤んでいる。 「すまなかったな。長い間留守にして」
「いいえ、こうして無事にお帰りになりはったら、寂しかったことなんてすべて忘れました」 為恭はもう一度綾衣を抱きしめた。
意気揚々と京に戻ってきた為恭を待っていたのは、前にも増して激しくなった批難の声だった。許可を与えた式部省にもそれは伝わり、関白直廬預の役を外そうかという意見も出たが、関白九条尚忠の「案ずるには及ばず」の一言で収まった。さらには、大樹寺の障壁画を見に行った絵師たちの間から、その仕事ぶりの素晴らしいことが伝えられ、為恭を悪く言う声は次第に小さくなっていった。
七
安政五年(一八五八)一月、為恭は従五位下に叙せられた。これでいつでもどこかの国守に任ぜられることができる。蔵人の株を買って岡田家の養子になった時から目指していた最終的な出世の頂点までもう一息だった。為恭は関白直廬預の仕事も手を抜かず、三条実万公や懇意の親王たちからの絵の依頼も精力的にこなした。
世上が、開国だ攘夷だ公武合体だとかまびすしいのは、もちろん為恭も知っていた。五年前にはアメリカからペリーの黒船が来航して幕府に開国を強要し、それによって一宸フような攘夷を唱える人間が増えたが、政治に関心のない為恭にとって、そんなものは遠い世界の出来事であり、黒船再来航の年に大坂天保山沖にオロシヤの船が現れて京の街が大騒ぎになったのが唯一の身近なことだった。
ところが、六月の終わり頃からコロリという今まで見たこともない流行病(はやりやまい)が京の町を襲うようになり、それが夷狄(いてき)からもたらされたということになって、町衆(ちようしゆう)の間にも攘夷を口にする人間が増えていった。
それに罹ると、突然嘔吐と下痢を繰り返し、青黒い瘤ができて痙攣を起こし、黒く干からびて死んでいくという。朝、症状が現れたかと思うと、その日の夕方に死んでしまうので、コロリと呼ばれているのだ。鴨川の畔には投げ捨てられた屍が積み重なり、悪臭を放っていた。
水毒や魚毒のせいだという噂が流れ、為恭は好物の鮒ずしも食べなくなった。また、アメリカの持ち込んだ狐のせいだという噂もあり、異形の狐を祓うには秩父の三(みつ)峯(みね)神社の御犬様の護符をもらってくるのがいいという話を聞いた為恭は、牙を剥いた犬の姿を描き、それを床の間に掛けて、綾衣と並んで南無阿弥陀仏と一心に唱えた。
そんな頃、思わぬ朗報がもたらされた。八年振りに京都所司代に酒井忠義が戻ってくるというのだ。
伴大納言絵詞の原本を見る機会を今度こそ逃してはならないと為恭は決意した。
二年前に長州の萩に帰るという弟子の平盛茂に、訥言写しの模本を餞別として贈与しているので、余計に本物を見たいという気持ちが募っている。あの時は盛茂から所望されたこともあり、さらに何度も模写してすっかり頭に入っているという思い、また長州との繋がりを重視して、深く考えずに贈ってしまったのだ。
前回は伴先生一人だけを頼りにしたのが悪かったのだと考え、所司代と職務上緊密な関係にある関白九条家の家臣島田左近を頼ることにした。島田は、アメリカとの通商条約に当初反対していた主家九条尚忠(ひさただ)を賛成に転向させた人物として、九条家では絶大な力を誇っていた。為恭とは年齢も近く、関白直廬預という仕事を通じて知り合いだったが、風流よりも政治に目が向いている人物と見なして親しくはしていなかった。
しかし今回ばかりは自身の気持ちなど考えてはいられなかった。内裏の直廬で島田と顔を合わせた時、為恭は伴大納言絵詞の原本をどうしてもこの目で見たいため、酒井家に働きかけをしてほしいと頼み込んだ。
「その絵巻物はそんなに凄いものなのですかね」
「それはひと目見れば分かります。古(いにしえ)の世に自分が入り込んだような気持ちになりますから。模本があれば島田殿にお見せできるのですが」
為恭は訥言の模本を手放した事情を説明し、今さらながらそのことを後悔していると告げた。
「模本を見られたのなら、別にもう本物を見なくてもいいのでは。どうせ同じように描かれているのでしょ」
「島田殿は絵を描かれないから、そのように思われるのも無理もありませんが、絵師はどうしても本物の絵、本物の線を見たくなるものなのです。どうか分かっていただきたい」
島田は困ったような笑いを浮かべていたが、やがてうんうんとうなずくと、
「まあ、私が口添えすれば何とかなるとは思いますが、ただ私も忙しい身ですからね。岡田殿と昵懇になって追々ということなら、引き受けるにやぶさかではありませんが……」
つまりは接待をしろということなのだ。島田が女好きということは知っていたので、「では、祇園で一献というのはいかがですか」と持ち掛けた。
「お、早速ですか。いいですね。今晩は私もちょうど暇ですから」
仕事が終わって夕方、為恭は島田と連れ立って祇園に向かった。登楼したのは島田が行きつけの一(いち)力(りき)である。女将が満面の笑みで二人を迎えた。
「まあまあ、島田様、ようこそお越しを。あれまあ、先生もご一緒で。お久しゅうございます」
綾衣(あやき)と結婚する前には一力にも何度か足を運んだことがある。結婚してからは弟子たちの慰労を兼ねて祇園に来ることもあったが、もっぱら格下の安い所で済ませていた。
二階に上がり、酒が来て、為恭は徳利を持ち上げて島田の杯に注いだ。島田も注いでくれる。 「今後ともよしなに」
為恭がそう言って杯を持ち上げると、島田はにやりと笑って一気に杯を空けた。為恭は自分の杯に口を付けてから、島田の杯に再び酒を注いだ。
「岡田殿はもう祇園では遊ばれんのですか」
島田の目が笑っている。端整な顔にも関わらず、蛇のように何かを狙っている目が為恭にはどうにも好きになれないのだ。
「弟子たちを連れて、たまに来ることはありますが……」 「以前は派手に遊ばれておったと聞きますが、それは本当ですかな」
「若気の至り、ということでご勘弁を」
「いやいや京洛一の美人と謳われた方をご内室に迎えられたら、祇園で遊ぶのが遠のくのも無理もない。私も一度ご内室に会ってみたいものです」
為恭は嫌な気持ちがした。ただの社交辞令と思えばいいのだが、この男の腹の中はそうとばかりは言えない気がしてくる。
「いやいや京洛一などとは単なる噂でして、実際に御覧になれば落胆されること請け合いで……」 「そう言われるとますます会いたくなる」
島田はそう言うと、大口を開けて笑った。 その時、「おまっとうさんどした」と芸妓二人が三味線を抱えて入ってきたので、為恭はほっと一息ついた。
その晩、島田は茶屋に泊まったが、為恭は付けで支払いを済ませ、駕籠を頼んで自宅に帰った。
夜遅くにも関わらず綾衣は起きていて、行灯を手に為恭を迎えてくれた。 「急なお仕事でもできたんどすか」
「いや、島田さんと祇園で飲んでいた」 「島田様?」 為恭は事情を説明した。
「そうどしたか。それやったらせいぜい島田様をもてなさなあきまへんな」 「ここへ連れてきてもいいか」 「喜んで接待させてもらいます」
「……いや、やめておこう」 綾衣に着替えを手伝ってもらっている時、その手を取って引き寄せた。 「……お酒臭い」
為恭は下帯姿のまま構わず抱きすくめ、床に押し倒した。
島田を通じて京都町奉行所与力の加納繁三郎と知り合いになったのもその頃だった。町奉行所は所司代の指揮下にあり、加納は酒井忠義にも直に話のできる男として、紹介してくれたのだ。太りじしで、恰幅がいい。えらが張っていて一見強面だが、目に愛敬があった。島田よりも余程親しみが持てた。
為恭が祇園で一献と持ち掛けると、島田は為恭の自宅で飲みたいと言い出した。
「岡田殿のご内室が京洛一の美人だと話すと、加納殿が一目会いたいものだと申してな。私も是非見てみたい。どうですか」
加納も笑みを浮かべて、こちらを窺っている。嫌な申し出だと思ったが、むげに断ると伴大納言の模写も叶わなくなるかもしれない。それに、この男たちに綾衣を自慢したい気持ちもどこかにある。綾衣も異存はないはずだ。それで日を改めて二人を自宅に呼ぶことにした。
綾衣は下女と二人で、朝から張り切って、椎茸真薯(しんじよ)とか白味噌の豆腐田楽、鰹の膾(なます)などを作り、夕方、為恭が二人を連れてきた時には公家の女房のような小袿姿で出迎えてくれた。髷を解いて御垂髪(おすべらかし)に結っている。
「ようこそお出で下さいました」
綾衣が上がり框の向こうに正座をし、三つ指をついてゆっくりと頭を下げた。島田と加納は瞬きも忘れたように綾衣を見つめている。
一呼吸置いて、島田が「ご主人に無理を言って寄せてもらいました。どうぞお気遣いなく」と会釈した。
客間にはすでに料理の載った膳が用意されており、三人はその前に置かれた円座に腰を下ろした。
酒の準備で綾衣が台所に下がると、「聞きしに勝る美しさですな」と加納が感に堪えたように言った。
「まことに。祇園でもあれほどの女性(によしよう)はおらんでしょう。岡田殿が祇園通いを止めたのもむべなるかなと思いますな」
島田が笑顔でこちらを見る。そう言われて悪い気持ちはしなかったが、どこか居心地の悪いところはある。
銚子を手に戻ってきた綾衣は三人の盃に酒を注ぎ、島田と加納が一気に飲み干すと、すぐにまた注いだ。
「いやあ、美女のお酌で呑むと、酒がこんなにうまいとは」 島田の言葉に綾衣は口元を手で隠してにっこりとした。
「ご内儀は岡田殿とどこで知り合われたのですか」と加納が尋ねた。
綾衣が、為恭の邸が火事に遭って叔母夫婦の家に同居した時に、たまたま遊びに行って知り合ったと話し、結婚までの経緯を説明した。
「新善法寺(しんぜんぽうじ)家といえば格式の高いお家柄。よくぞ決断されましたな」 「主人の才を信じておりましたから」
初めて聞く言葉だった。 「確かに。ご内儀はよき男を捕まえたというわけですな」と島田が笑った。
綾衣が燭台の灯りに照らされながら箏(そう)を何曲か奏でてもてなすと、後は自分がやるからと為恭は彼女を奥に下がらせた。
ひとしきり彼女の料理や箏の腕前の話で盛り上がった後、「岡田殿は彩管ばかりではなく公務にも熱心だと所司代の覚えもめでたいですぞ。岡崎の古刹で描いた襖絵も大層な評判だとか」と加納が言った。
「お褒めをいただき、恐縮至極に存じます」
「確かに」と島田がうなずいた。「わが主は有職故実に関しては全て岡田殿に任せておられてな。もし公武合体ということになれば朝廷から将軍へ誰かが嫁に行くので、その時は岡田殿に嫁入り道具の考証をお願いすることになろうかと」
将軍への降嫁は噂には聞いたことはあるが、島田のような重臣から聞いたのは初めてだった。
「ほう。関白殿はやはりそのことを画策しておられるのか」と加納。
「黒船来航以来の、朝廷と幕府のいがみ合いを見ていたら、何とかしたいと考えるのは当然でしょう」
「今度所司代に赴任された酒井侯も大老の意を受けて朝廷の中から攘夷の連中を追い出すことが仕事みたいなものですからな」
二人の話は将軍の後継問題から、誰を降嫁させるかということに及び、様々な名前が飛び交った。為恭は我関せずという気持ちで、ぼんやりと二人のやり取りを聞いていた。
「岡田殿はいかがお考えか」加納が問い掛けてきた。「公武合体が最善の策だとは思われぬか」
「私にはそのような議論は難しゅうございます。ただ、九条公より仰せがあれば有職故実の考証なり何なりと私にできることは精一杯励むつもりでおります」
「岡田殿はそれでいいのです」 そう言って島田はにやりとした。 二人が帰る時には、綾衣も出てきて見送った。
それから時々島田が家に顔を見せるようになった。為恭が公務で内裏に詰めている昼間もやって来て、綾衣が酒でもてなしたと聞いた時はさすがに驚いた。妾を何人も囲い、人妻にも手を出したという噂があるので、為恭は、自分が家を空ける時は弟子の岡本恭儀を呼んで、一緒に居させることにした。
そんな島田が急に姿を見せなくなったのは九月に入った頃だった。
コロリ騒ぎがようやく下火になってきた洛中を捕り物姿の役人たちが走り回る光景が目につくようになり、騒然とした雰囲気の中、幕府が攘夷を唱えていた連中を次々に捕まえているという話が伝わってきた。八月にあった戊(ぼ)午(ご)の密勅騒ぎで、公家たちが浮き足立っている中での出来事だった。島田左近も加納繁三郎もその捕縛に掛かりきりになっているらしく、酒席の誘いもとんとご無沙汰になっていた。
そんなある日、直廬で仕事をしていると、廊下を島田が急ぎ足で歩いているのが目に入った。 「島田殿」
思わず為恭は声を掛けた。島田が立ち止まり、こちらを振り返った。いつになく険しい顔をしている。 「おっ、岡田殿。何か御用ですか」
「いや、別に。近頃お忙しいようで姿をお見かけしなかったものですから」
「さよう。幕府の命を受けて東奔西走しております。何しろ大勢の輩を捕まえなけりゃいかんので大変です」
そう言うと、島田は早足で歩き出したが、少し行くと戻ってきた。 「岡田殿は宇喜多一宸ニいう絵師をご存じですか」
「ええ、よく知っておりますが」 「その者も捕まえることになっております」 「え」
「大老の掃部頭(かもんのかみ)を天朝の威光によって無位無冠にし、その地位から引きずり落とそうと入説(にゆうぜい)したということです」
「まさか、そんな大それたことを……」 「岡田殿はその辺りのことを聞き及んだことはありませんか。他の絵師で関わりのあった者がいたとか……」
「いいえ、初耳です」 「でしょうな。絵師の分際でそんなことをしようとする者はそうそういないですからな」
ことが終わればまた祇園なりに繰り出しましょうと言って、島田は去って行った。
一宸ネらやりかねん、自業自得だろう。為恭は今までの一宸フ言動を思い浮かべ、どのくらいの罪になるのだろうと思った。幕府に楯を突いた罪がどれほどのものか、見当もつかなかった。
何日か経って、一宸ニ息子の松庵が捕縛されたと聞いて、為恭は弟子二人を連れて彼の家に向かった。刑罰によっては家財没収もあり得るので、そんなことになるくらいなら訥言の絵や粉本の類いなどを自分が保管しておこうという気持ちだった。
奥から姿を見せた花は驚いた顔をした。 「これはこれは岡田様、ようこそお出で下さいました。あいにく主人はおりませんが、どうぞお上がり下さい」
「宇喜多先生が御上に捕まったと聞いて、お見舞いに参上いたしました。さぞかしお力落としとは思いますが、この為恭、できることなら何でもいたしますので、何なりとお申し付け下さい」
「ありがとうございます」 花はふっと涙ぐんだが、それを指で拭うと、すぐに顔を上げた。
為恭は家財没収の話を持ち出し、「先生が戻られるまで私がお預かりいたしましょうか」と申し出た。花はためらいの表情を見せた。
「田中訥言先生の絵とか粉本がないと、宇喜多先生のこれからの仕事にも差し障りが出ると思いますが」
そう言ってじっと花を見ると、彼女は「承知いたしました」とうなずいた。
弟子たちを連れて画室に入る。花には「すべてを持って出てしまうと、前もって隠したのではないかと疑われますので、私が選別して持ち出すものを決めます」と言って、作業に入った。
田中訥言の絵はすべて持ち出す。一宸フ描いた下絵はすべて残す。粉本の類いは、その内容を見て決める。選別を始めて、伴大納言絵詞の模本があるのに気づいた為恭は「おお」と声を出した。
これがあっただけでも、ここに来た甲斐があったと為恭は喜んだ。
中に、婚怪草紙(こんかいそうし)と表書きされた桐箱があった。田中先生にそんな作品があったかと首を捻りながら蓋を開けると、裏に一尓Mと書かれていた。一宸フ描いた絵巻物か。
巻物を取り出して巻緒を解き、広げてみる。詞(ことば)書きではなく、いきなり絵から始まっているのは伴大納言絵詞と同じ構成である。どこかの邸の総門を描いており、上と下と真ん中に青のすやり霞が引かれ、右上の霞の中に銀泥で月が描かれている。門の屋根には苔が生え、秋草が乱雑に生い茂る中庭には一匹の狐が月を見上げている。どことなく荒廃した感じが画面から漂っている。
詞を書くための空白があって、第二段では、書状や進物を持った狩衣姿の狐たちが描かれ、表書きの言葉から狐の嫁入りを基にした絵巻物であることが分かった。さらに、邸の間取りや池と泉殿の構図を見て、それが春日権現験記絵巻の第五巻に出てくる讃岐守の栄華全盛を描いた場面とそっくりであることに為恭は気づいた。ただ、讃岐守の邸は立派に描かれているのに比べて、ここでは陰気な荒れ果てた姿になっており、没落した名家を示そうとしているのは明らかだった。
そう思って第三段の輿入れの行列や、第四段の結婚式を観ると、そこに徳川家を風刺、揶揄する意図があると思えて来る。最終の五段目は朝日が昇る場面で、その光に照らされて逃げ惑う狐たちの姿が描かれている。朝日はおそらく天朝様を象徴しているのだろう。とすると、狐の嫁入りは篤姫の輿入れを示しているに違いない。島津家の篤姫が公家である近藤家に養女に入り、形の上で公武合体のように見えることを批判しているのだろう。一宸フ描きそうな題材だと為恭は苦笑を浮かべた。
「きれいな絵巻物ですね」 手を止めて覗き込んできた弟子たちの一人が感嘆の声を上げた。 「今はやりの異形図ですね」
「そうだ。田中先生にも賀茂祭を異形に置き換えた絵巻物がある。宇喜多先生は第一等の弟子だからそれに影響されたのだろう」
「先生は異形図をお描きにならないのですか」 「私は異形図は苦手でな」
そうは言いながら、もし異形図を描くとなったらこの絵巻は参考になると為恭は思った。手許に置いておこうかと一瞬考えたが、一宸フ後塵を拝したくないという気持ちがそれを押し止めた。
集めた荷物を二枚の風呂敷に包んだ。玄関を出る時、「大切にお預かりいたします。宇喜多先生が戻られましたら、ご一報下さい。お返しに参ります」と花に告げた。
もし一宸ェ死罪になれば、その時は自分の役に立てよう、その方が粉本や絵巻物を生かすことになるという気持ちだった。
それから二ヵ月ほど経った頃、戊午(ぼご)の大獄で捕まった志士たちが江戸に送られるという噂が広まった。彼らを奪還するために勤王の志士たちが京に集結してくるという噂も流れ、市内警護のためだろう、刀を帯び、脚絆姿の役人たちの姿が目につくようになった。
十二月五日の朝、弟子の岡本恭儀(やすのり)が息せき切って走り込んできた。 「先生、六角獄から次々と駕籠が出ているらしいです」
「いよいよか」
朝餉を終えて画室に行こうとしていた為恭は狩衣にも着替えず、着流しにどてらを羽織って外に出た。恭儀と一緒に南に向かう。他に何人も南に急ぐ町人たちがいて、三条通に出た時は道路沿いに人が連なっていた。向こう側の道端にも人が並んでおり、その間を槍や鉄砲を担いだ徒士たちに護られた角駕籠がゆっくりと進んで行く。前方に目をやると、馬に乗った武士の姿が見えた。物々しい警備が事の重大さを示していた。
何挺かの角駕籠が通り過ぎた後、唐丸駕籠がやって来た。竹で編んだだけの円柱形で、人の姿が丸見えである。
「頑張りなせえ」と声が飛んだ。見物人の中には両手を合わせている者もいる。 「先生、あれは宇喜多先生ではありませんか」
恭儀が次の唐丸駕籠を指差した。見ると、総髪が伸び放題で髭も剃っておらず、一見誰だか判別しにくいが、前方を睨んでいる目は明らかに宇喜多一宸フそれである。薄汚れた単衣がいかにも寒そうだ。その駕籠が為恭の前にゆっくりと進んできた時、一宸フ顔が動いて為恭と目が合いそうになった。為恭はとっさに隣の町人の陰に隠れてその目を避けた。
駕籠が通り過ぎるのを目で追っていると、恭儀と目が合った。恭儀は何か言いたそうな顔をしたが、すぐに次の駕籠に目を戻した。
一宸フ視線を避けたことに気づかれたのだろうか。そのことを問われても自分でも理由が分からなかった。視線を通して暗黙のうちに、自分の絵師としての生き方を糾弾されるのが嫌だったのだろうか。それとも単に野次馬として見物に来ている姿を見られたくなかっただけなのか。
江戸護送の行列が通り過ぎて家に戻る道すがら、為恭は、もう京からいなくなった一宸フことは考えないでおこうと決めた。
その年の暮れには、戊午の密勅に関わった公家たちに辞官落飾の沙汰が下り、その中には三条実万も入っているという話が伝わってきた。驚いた為恭がその真偽を確かめるべく加納繁三郎の家に行くと、間違いないと言う。
「梨木町の邸にはもう居られないはずですよ。采邑地(さいゆうち)に移られたとか聞いております」
采邑地とは領地の一種で、三条家のそれは山城国綴喜郡上津屋村にあった。そこの管理を任されている伴正兵衛方に移ったと聞いて、為恭は年賀の儀が終わると、早速七日に出向いた。数日前に降った雪がまだ残る中、三条家の家司の案内で伴正兵衛の家に着いた時はすっかり日が暮れていた。
主人に年始の挨拶をし、囲炉裏のある部屋に通された。部屋の隅には鏡餅が飾られている。真っ赤に熾った炭火に手をかざしていた実万が顔を上げた。
「おお、為恭か。よくぞ来てくれた」
実万は顔をくしゃっとさせた。泣き顔なのか笑い顔なのか分からない。為恭よりも二十ほど年上でまだ還暦には数年あるが、ずいぶん老けてしまわれたように思えた。
為恭は実万の傍に腰を下ろすと、烏帽子の頭を床に付けて平伏した。
「この度は誠に残念至極なことでございました。この為恭、上様のご処遇を聞いて驚愕いたしました。お見舞い申し上げます」
新春を言祝ぐ年始の挨拶など口にする気にならないので省略した。
「有為転変は世の習い。悲嘆に暮れても仕様がないと思うておる。いずれ世の中の流れが変わって、予の出番があるやもしれぬ」
「おっしゃる通りでございます。その時が来ますよう、微力ながらわたくしめも努めて参りますので、何なりとお申し付け下さいますよう……」
「よう、言うてくれた」
目に涙を浮かべた実万が為恭の手を取った。炭火で暖まった熱が伝わってくる。もったいのうございますと言いながら、為恭はその熱を感じていた。
主人の正兵衛が今朝仕留めた猪ですと言って、牡丹鍋を用意してくれた。為恭が手土産として持ってきた酢茎と鮒ずしも供され、ちょっとした酒宴となった。
実万の質問に答えて、為恭は与力の加納から聞いた、他に処分された公家たちの名前を挙げていった。青蓮院宮(しようれんいんのみや)は隠居・慎(つつしみ)・永蟄居、左大臣近衛忠煕(ただひろ)は辞官・落飾、右大臣鷹司(たかつかさ)輔煕(すけひろ)は辞官・落飾・慎、太閤鷹司政(まさ)通(みち)は隠居・落飾・慎……。
青蓮院宮の処遇に、実万はお労(いたわ)しいと手を目元に当てた。
「それにつけても関白九条の奴は許せん。天朝のご意向が分かっておるのにそれを無視して幕府とつるみよって。そなたはそうは思わぬか」
為恭は言葉に詰まった。関白は自分が仕えている上司に当たる。たとえどういう人物であろうと批判することはできない。
「まあ、そういうこともございましょうが……」と言葉を濁しながらチロリを取り上げると、実万の杯に注いだ。実万はそれを一口飲むと、
「そういえばそなたは直廬預(じきろあずかり)であったな。役目上、関白を悪し様には言えないわけか。それでよい、それでよい。しかし、関白が幕府から何万両もの賄賂を受け取っていることは知っておろう」
「……噂には聞いております」 「噂ではない。事実だ」 実万の語気の強さに、為恭は口をつぐむしかなかった。
実万は、何年か前にペリーの黒船が我が国に来て以来、ろくなことが起こらなかったと愚痴り始めた。御所が炎上し、あちこちで大地震が起こり、コロリなどという奇妙な病が流行ったり。全ては天朝のおっしゃる通り、穢れた夷狄(いてき)を神州に入れたからだ。幕府が鎖国という自分たちで作った祖法を自ら破って、開国をしようなどとは言語道断。本来なら武を以て統治している幕府が率先して攘夷すべきなのに、弱腰にもほどがある。こんなことをしていたら、いずれ夷狄に我が国が滅ぼされてしまう……。
一宸ェ言いそうなことだと思いながら、為恭は実万の言葉を聞いていた。ただ、実万はそのことの是非をこちらに糺(ただ)してこないので、黙ってうなずいているだけでよかった。
それから為恭は何度も上津屋村に足を運んで、実万を慰めた。綾衣(あやき)の発案で、彼女の実家が仕える石清水八幡宮の御札をもらってき、水難火難その他の厄災から守護するということで呈上したこともあった。
三月の終わりには采邑地にも留まることを許されなくなったので、実万は洛北愛宕郡一乗寺村の曼殊院の寺侍渡辺仲助の家を借りて移った。
その翌日、早速一乗寺村まで出向いた為恭は、その家のみすぼらしさに驚いた。藁屋根の六畳二間しかない陋(ろう)屋(おく)だった。
ささくれた畳に正座して一心に光明真言を唱える実万を見ていると、涙が溢れてきて止まらなくなった。為恭は見舞いを終えて家に帰ると、大日如来を極彩で描いて掛軸にした。それを持参すると、実万は大層喜び、壁に掛けて光明真言を唱えだし、為恭も後ろに控えて同じように読経した。
四月の終わり頃、訪ねていくと、実万の子息である三条実美(さねとみ)もいて、二人とも深刻な表情をしている。挨拶をして訳を尋ねると、
「五月には仏門に入ろうと思っておる」 と実万が言った。いよいよその時が来たかと為恭は身が引き締まる思いがした。
「それでそなたに頼みがあるのだが……」と実美が言った。 「何でございましょうか」
「髪を落とす前の父の姿を遺(のこ)しておいて欲しいのだ」 実万を見ると、小さくうなずいている。為恭は茶色く変色した畳に両手をついた。
「この為恭、今だ未熟者ではありますが、全精力を傾けて慇懃に仕(つかまつ)る所存でございます」
そう言って頭を下げると、うれしゅう思うぞという実万の声がした。
次の日、為恭は画材道具だけではなく、数多くの蒐集物の中から弘法大師直筆の心経を持参した。実万の心持ちが少しでも清々しくなればと思ったからである。果たして実万は大いに感激し、机の上にそれを広げ、光明真言を唱えた。為恭はその様子をじっと見てから、用意した紙に写し取った。実美はその画像を見て、生き写しであると唸った。
翌月実万は髪を下ろし、澹空(たんくう)と号した。その場に立ち会った為恭は実万の姿が痛々しくて涙を禁じ得なかった。
六月半ばに、宇喜多一宸ニ息子の松庵が京に戻ってきていると加納繁三郎から知らされた。所払いという軽罪で済んだのは運がよかったらしい。
まさかと為恭は驚いた。死罪になることはなくても遠島くらいにはなるだろうと漠然と思っていたからだ。内儀には預かると言って一宸フ持ち物を持ち帰ったが、おそらく戻って来ないだろうという気持ちがあって、もうそれらは自分の物のような気がしていたのだ。
弟子の岡本恭儀(やすのり)が「先生、どうします」と尋ねてきた。「宇喜多先生は病を得て、もう長くはないと聞いておりますし、ここはもう返さないでおいたら。私たちの勉強にもなりますし」
「うむ、そうかもしれん」
その方が田中先生の絵にしても模本にしても生きることは間違いない。一宸フ見舞いに行けば、彼の持ち物を返さざるを得なくなるので、彼が所払いで洛東に移ったと聞いても為恭は足を向けなかった。後ろめたい気持ちを紛らわすためもあって、せっせと実万の下に通って、歌を詠んだり絵を描いたりして慰めた。
その実万が十月六日に突然薨去(こうきよ)した。急な病ということだったが、それまで元気な姿を見ていた為恭はにわかには信じられなかった。どこからともなく幕府の隠密に毒饅頭を食わされたという噂が広まり、そうに違いないと為恭も納得した。
前内大臣にしては極めて質素な葬儀に立ち会った為恭は、身を寄せていた大樹がなくなってしまった心細さを感じていた。
為恭が一宸フ下を訪ねたのは、実万の葬儀が終わって十一月に入ってからだった。預かると言った手前、やはり返すべきだと思い直し、掛け軸や模本の類いを大風呂敷に包んで恭儀に持たせた。伴大納言絵詞の模本も迷った末、風呂敷の中に押し込んだ。
鴨川の東の田中という所にある一宸フ家は小川の畔にぽつんと建っていた。藁屋根は苔むし、板塀はところどころ破れている。よくこんなところにと、為恭は入るのを一瞬ためらったほどだった。
板戸を開けると、中は二間しかなく奥に蒲団が敷いてあるのが見えた。ご内儀はと思っていると、外から花が大根を下げて入った来た。
「どなたかと思うたら、岡田様ではおへんか」
一年余り前と比べると、丸髷には白髪が目立ち、頬もこけて、ずいぶん老けてしまわれたように思えた。花は大根を横の土間に置くと、手を前掛けで拭った。
「こんなあばら屋にようこそお出で下さいました。主人は奥に伏せっておりますが、どうぞお上がり下さい」
為恭と恭儀は草鞋を脱いで上がり、花の後に付いて奥の間に入った。床板が抜けかけているのか畳が波打っている。
一宸ヘ夜着を胸のあたりにまで掛けて眠っていた。総髪の髪はすっかり白くなり、頭蓋骨に皮膚が張り付いたような顔にはところどころ瘡蓋ができていた。
「お前様、岡田為恭様がお出でです」 花が声を掛けた。しかし一宸ヘ目を覚まさない。花は膝をついて彼の胸を揺すり、同じことを言った。
ようやく目を開けた一宸ェこちらを見た。病人とは思えない目の強さに、為恭はたじたじとなった。 「ご無沙汰しております」
花と入れ替わるように為恭は横に坐った。 「ご加減はいかがですか」 「ご覧の通り、もう起き上がることも叶いませんでな」
「そんなことを仰らずに、気を確かにお持ち下さい。近頃蘭方が効くとか申しますから、私からご紹介いたしましょうか」
「ありがたきお言葉なれど、天の定めた寿命には逆らえません」 「……今日は以前お預かりした粉本の数々をお返しに参りました」
為恭は後ろに控えている恭儀に声を掛けた。恭儀が風呂敷包みを前に持ってきて、結び目を解いた。 「どうぞそのままお持ち帰りを」と一宸ェ言った。
「え」 「もうわしが持っていても役に立たないのでな」 「それでも松庵殿には必要なのでは……」
「松庵はいずれ長州藩の許に身を寄せるゆえ、絵師であるお主に引き取ってもらう方が粉本のためになる」 「……よろしいのでしょうか」
「どこかに散逸するよりも、その方がわしも安心じゃ」 「それではお言葉に甘えて」 為恭が目配せすると、恭儀は風呂敷を包み始めた。
「ひとつだけ、あの孝経図だけは返していただけぬか」 為恭は風呂敷の中を探って、一本の掛軸を取り出した。 「これでよろしいでしょうか」
一宸ヘ掛軸の表書きを見て、うなずいた。為恭はそれを一宸フ枕元に置くと、 「それではこれで」
と立ち上がった。恭儀と共に部屋を出ようとした時、これが一宸ニの最後になるという思いが湧き上がってきた。何か言うべきことがあるはずと感じた為恭は振り返った。
「宇喜多先生、どうして……」
しかしそれ以上言葉が出てこなかった。絵師として別の生き方があったのではないかと言いたかったのだが、それを今さら問い質しても仕方がないという気持ちが口を閉ざさせた。為恭はこちらに目を向けている一宸ノ一礼して玄関に向かうと、内儀の花に、蘭方医に診てもらうのなら私にお声をお掛け下さいと言って家を辞した。
一宸ェ死んだのはそれから十日も立たない十一月十四日のことだった。見えない軛(くびき)がようやく外れたように感じ、そう感じたことに為恭は自分自身驚いたのだった。
八
安政七年の年が明けてすぐに、九条家から、高松にある金刀比羅宮(ことひらぐう)に錺(かざり)車一輌を献納したいので、その実務を引き受けてくれないかという依頼が舞い込んだ。
九条家は九条富という富(とみ)籤(くじ)を金刀比羅宮で開催することで利益を得ており、金刀比羅宮側も勅願所として朝廷と結びつくために九条家に頼るという持ちつ持たれつの関係にあった。今年が金刀比羅宮発展の礎を築いた金剛坊宥盛(こんごうぼうゆうせい)の二百五十年忌に当たるので、金剛坊木像のほか、金堂や本坊の宝物等の一山御開帳の催しが企画されていた。その祝祭に華を添えようというのである。
関白の九条尚忠からも直々に頼まれたこともあって、為恭は光栄の至りと大いに張り切らざるを得なかった。
父永泰から受け継いだ「文永賀茂祭画巻」、一宸ゥら譲り受けた数々の訥言の模本の中にあった「葵祭礼図巻」、それらの中に描かれている牛車を手本にし、さらに有職故実を確かなものにするために文献を渉猟して、牛車の周囲を飾る胴懸の文様を決めた。
関白に下図を見せると、錺車なのでもう少し華やかに、例えば牛車の前後に緋毛氈を垂らしてはどうかと提案してきた。
「お言葉ではございますが、そのような色目の簾は古式にはございませんが」 「なくてもいいではないか。派手な方が御開帳で集まった民が喜ぶだろう」
「……それはそうではございますが」 関白が口に手を当てて小さく笑った。
「そちが有職故実に拘るのは分かるが、今回は祭礼の奉納であることを忘れてはいかん。見物の民が喜べば金刀比羅宮も喜ぶ。誰も文句を言わないはずだ」
そう言われるとそれ以上反対はできない。為恭は緋毛氈の下簾を垂らすことにした。
職人たちを叱咤して錺車が出来上がったのは二月の終わりのことだった。為恭は「御車絵図巻物」を著し、その序文の中に「亀山天皇の御代なる錺車一輌をかたのごとく作りいでむ」と書き、付箋に「下簾の色目は古儀とは異なるが、殿下の御内意による」と記した。自分が間違ったわけではないと示して、鬱憤を晴らした。
錺車奉納の一行が京を立って金刀比羅宮に到着したのは三月三日のことだったが、為恭は彼らとは別に、案内役に連れられて単身で乗り込んだ。奉納が朝廷の行事なら官人として同行できるが、今回は九条家の私的なものなので、表だって離京できないのだ。そのため丸亀までは名前も岡田伊勢に変えた。奉納の一行の表向きの正使は伊藤左右太という九条家の家臣だった。
五日には、為恭の指揮の下、ばらばらに解体されて運ばれた錺車を、神前に特設された御車小屋で組み立て、翌六日から無事に御開帳が始まった。その夜の饗応の席で、為恭は「御車絵図巻物」を金刀比羅宮に納めた。
御開帳には予想以上に数多くの見物人が押し掛け、境内は混雑を極めた。奉納の一行は十二日まで滞在し、その間為恭は琴棋書画図や四季童遊之図などの襖絵を四面描き、最終日には駒迎図の扁額を奉納した。
為恭以外の一行は京に帰ったが、為恭は画帳にするための金毘羅八景図とか、金刀比羅宮内の全生亭(ぜんしようてい)という数奇屋二の間の天井絵などを依頼されたため、その地に留まり、八景を描く下見として、十六日に高松の八栗や八島の景勝地を遊覧し、いくつか写生もした。
その日の夕方、高松城下の宿に戻ってくると、一人の武士が為恭の帰りを待っていた。前日、金刀比羅宮の書状を持って高松藩の郡奉行に挨拶に行った時、応対してくれた役人だった。
「岡田殿、大変ですぞ」役人は近寄ってくると、険しい顔で言った。「大老の掃(か)部(もんの)頭(かみ)が討たれましたぞ」 「え」
「昨日江戸表から早駕籠が到着して、その報告によると三日に江戸城桜田門の近くで襲われたらしいです。下手人は水戸を脱藩した浪士という噂で……」
「何と……」 「ですから、岡田殿もすぐに京に戻られた方がよろしいかと」
確かに朝廷も大騒ぎになっているに違いない。身分を隠して来ている以上、ただちに帰京すべきだろう。
為恭は役人に礼を言い、部屋に戻ると明朝出発の準備を始めた。その間、脳裡をよぎっていたのは、三条実万公の光明真言を唱える姿であり、唐丸駕籠に乗せられた一宸フ髭面だった。大勢の人間の恨みが一点に集まった結果だと思わざるを得なかった。
次の日、どうしても参りたかった崇徳天皇を祀った白峯御陵に行き、翌日の昼に金毘羅の定宿に戻った。
金毘羅八景図と天井図は京に戻ってから描くことにして、為恭が金毘羅を出立したのは十九日だった。
五日後、京に戻った為恭は翌日直廬(じきろ)に出仕し、関白九条尚(ひさ)忠(ただ)に帰洛の挨拶をした。
「ご苦労であった。詳細は伊藤から聞いておるが、大盛況であったらしいな」 「お陰さまで多くの参拝客に来ていただき、わたくしも肩の荷が降りました」
「……ところで、大老が討たれたことは聞いておるか」 「はい。高松で聞いて、こうして直ちに戻って参りました」
「困ったことよのう。戊(ぼ)午(ご)の大獄が引き金となっているとはいえ、幕府と事を構えて我が国がよくなっていくと思っておるのだろうか」
「仰せの通りでございます」 「こうなれば和宮様の降嫁を急いで、幕府との融和を図らなきゃいかん。その時は、嫁入り道具の考証を頼むぞ」
「身に余る光栄でございます」
内裏では、急ぎ足で行き過ぎたり、そこかしこでひそひそ話をする官人たちの姿が目立った。今まで見られなかった光景で、控え室に腰を下ろした為恭も心が騒いで仕事に手が付かない。
そこへ島田左近が姿を見せた。 「おお、岡田殿、ようやく戻られたか」 「昨夜、戻って参りました」 「大老が殺されたことは?」
「存じております」
「いやあ、大変なことになった。水戸の奴らは何を考えておるのか。大老を殺せば藩主の斉昭侯が復職できるとでも考えておるのか。浅はかな奴らだ」
「それで幕府はどうなるのでしょうか」
「井伊侯が亡くなっても公武合体の流れは留めることはできないはず。攘夷に与する奴らをとことん排除する方針は変わらないでしょう」
「島田殿は大丈夫ですか」 「どういうことですか」
島田がきっとした顔を向けた。戊午の大獄で死に追いやった者たちの恨みがいずれ手を下した者にも降りかかるのでは、と言いたかったが、さすがにそれは口にできなかった。
「大老を討った水戸の浪士が京にまてやって来ることはないのでしょうか」 はははと島田は笑った。
「京は我が殿と所司代の酒井侯ががっちりと手を結んで、治安を守っているから心配いりません。そんな奴らがたとえやって来ても、我らが叩きつぶしてやりますよ」
心なしか血走った目が威勢のいい言葉を空元気に見せている。 それではまた、と言って行きかけた島田が引き返してきた。
「伴大納言の模写の件、忘れてはおりませんぞ。和宮様の降嫁の件が片付いたら酒井侯に話を通しますから」 「よろしくお願いいたします」
為恭は最敬礼をした。
金刀比羅宮から頼まれた金毘羅八景図と天井図のうち、前者は岸岱(がんたい)の描いた画帳を参考に写生してきた絵から下絵を起こした。後者は、やはり火事から全生亭を守るという意味でも雲龍図にしようと決め、妙心寺や大徳寺などの天井図を見て回った。
そんな時、島田から、やっと伴大納言絵巻の閲覧、模写のお許しが出たという手紙が届いた。末尾に、それについてご相談したき儀があるので拙宅までお越しいただきたいと添えられており、住所が記されてあった。本宅のある堺町ではなく、木屋町二条上ルとある。妾宅かも知れんと思いながら訪ねていき、打ち水のされた飛び石を踏んで玄関で訪(おとな)うと、銀杏返しの髪に縞模様の振り袖を着た美しい娘が現れた。年の頃十六、七で、きりりとした目元をしている。島田が祇園の君香という舞妓を八百両で身請けしたという話が評判になっており、この娘がそうかと為恭は目を見はった。
君香は片膝をつき、指先を床に触れると、 「岡田様、お待ちしておりました」 と涼やかな声で言った。
君香の案内で応接間に入ると、すでに島田が一人の男と酒を呑んでいた。鬼瓦のようなその顔は文吉という目明かしで、為恭も一度会ったことがある。君香が文吉の養女であるという噂も流れていた。
「いやあ、当代一流の絵描きの先生のお出ましですぞ」 島田がほんのりと赤い顔を向けた。軽口が出るところを見ると、かなり呑んでいるのだろう。
下女が酒肴の載った膳を運んできて、為恭の前に置く。 「さあさあ、先生にお酌をして」
島田が君香に促す。君香は袖を左手で押さえて徳利を持ち上げると「おひとつ、どうどす」と言ってにっこりとした。杯に受け、飲み干すと、君香はまた注いでくれた。
「どうです、この娘(こ)は。先生のご内室も美しいが、それ以上でしょう。それに若い。もちろん年増の妖艶さはまだまだですがね」
島田はにやりとした。君香は静かに微笑んでいる。 島田が自分を呼んだのはこの娘を見せるためだったのかと為恭は納得した。
「いやいや、愚妻はこの娘さんの足元にも及びませんよ。祇園の名花という噂は本当だったと驚いております」 「君香はこの男の娘なんですぞ」
「そうでございましたか」 「女房の連れ子でして」と文吉が言い、自分の顔を指差した。「この顔でこの娘は生まれまへんからな」
どう応えたらいいものか分からなかったので、為恭は曖昧にうなずくしかなかった。
島田は戊午の大獄の時、幕府から一万両もの賄賂を受け取って、攘夷の志士たちの捕縛に精力的に当たり、その金を高利で貸し付け、取り立てを文吉が担っているという噂も流れていた。それが本当だとしたら、八百両という金も島田にとっては何ほどのことでもないのだろう。この妾宅も何軒かあるうちの一つに違いない。金をばらまいて権勢を誇っている姿を町衆から今太閤と揶揄されていることも為恭の耳に入っていた。
下女の弾く三味線で君香が舞いを披露し、それがすむと、島田は文吉と君香を下がらせ、応接間には二人だけになった。
「ところで伴大納言の絵巻の件ですが」と島田が為恭の杯に酒を注いだ。「酒井侯のお許しが出たのですが、それについて一つ難しいお願いがありましてな」
「何でしょう」 「酒井侯が、承(じよう)久(きゆう)の乱の絵巻物を描いて欲しいと言われているのですよ」
承久の乱とは、鎌倉時代の承久年間に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱のことである。なぜ今、そんな絵を所望されるのか、訳が分からなかった。
為恭が黙っていると、 「やはり駄目ですか」 と島田が笑いを含んだ眼でこちらを見た。
「いや、駄目というわけではないのですが、酒井侯がどうしてそんな画題を選ばれるのか分からなくて……」
「なあに、簡単なことですよ。朝廷が幕府に楯を突いて破れた歴史を、尊皇攘夷派の公家たちに思い起こさせようという魂胆ですよ」 「………」
「分かりませんか。つまりは公武合体が一番の策であるということを示したいのでしょう。風流も使いようによっては政(まつりごと)に使えるというわけだ。そうは思われぬか、為恭殿」
なるほど、そういう訳か。しかしそんな絵を描くと自分が公武合体に与していると取られる恐れがある。
「どうです。お引き受けになりますか。それを描かれたら、伴大納言の模写が叶いますぞ」
為恭はしばし考えた。自分は画工である。画工は注文主の意向で絵を描くだけであって、その意向を自分が持っているのとは違う。大樹寺の障壁画を描いたのも同じ理屈だ。
「喜んでお引き受けいたします」 そう答えると、「さすがは岡田殿、当代一流の絵師ですな」と島田が酒を注いでくれた。
当初は気の進まなかった題材だったが、有職故実を調べていくうちに次第にのめり込んでいった。特に、瀬田川にかかる宇治橋を挟んで、守る後鳥羽上皇軍と攻める北条義時の弟時房が率いる鎌倉幕府軍の合戦場面や、後鳥羽上皇が配流(はいる)される場面は絵巻物の中心となるところなので念入りに文献を当たった。
弟子たちの中には、朝廷の負の歴史を絵にすることを危惧して「こんな仕事を引き受けて大丈夫ですか」と心配する者もいた。
「気にするでない。責任は注文主である酒井侯が取られる。我らは全力を傾けてその注文に応えるまでだ」
自分の不安を押し隠すように、為恭は弟子を叱りつけた。
絵巻物の制作が佳境を迎えた十月十六日、為恭の母織乃が病で亡くなった。還暦だった。父の戒名普明未敷蓮心居士から蓮心の文字を取って、蓮華心院不着妙?大姉という戒名をつけた。仕事が忙しいので為恭は三日間だけ喪に服し、その間供養として仏画を描いた。
金刀比羅宮から依頼された絵も年内に仕上げようと絵巻物と並行して進めていったが、和宮の降嫁が正式に決まり、関白から婚礼調度品の有職故実を調べて、その制作を差配するようにと命じられたため、それ以外の仕事を一時中断せざるを得なかった。
その年の暮れから翌年文久元年(一八六一)の春にかけて調度品の差配に忙殺され、さらに金刀比羅宮からの督促で金毘羅八景図と雲龍図を先に仕上げなければならず、承久の乱の絵巻物をようやく描き終えたのは六月になってからだった。
絵巻を桐箱に入れ、二条城南西にある小浜藩邸に持参した。 十年振りに会う酒井忠義は太って顎の辺りにもたっぷりと肉が付いてた。
「少丞(しようじよう)殿のご活躍、聞き及んでおりますぞ。大樹寺の襖絵は江戸城中でも大層評判でしたからな」
「ありがたき幸せ」為恭は烏帽子の先が床に付くまで平伏した。
「この前予が京にいた時も伴大納言の模写を熱望しておったな。あの時は少丞殿の才は認めておったが、もう少し画業を見てからと進言する者もおってな、許しを出すことができなかった。その後の活躍を見れば、あの時許しを与えておけばと後悔することしきりだった。今回は是非伴大納言の模写をしてもらいましょう」
酒井忠義の前に桐箱を置くと、忠義自ら高座を降りてきて蓋を開け、中の絵巻物を取り出した。巻緒を解いて広げ、しばらく見入ってから、
「予が思っていた以上に素晴らしい絵だ。この絵を殿上人に高覧して、我が意の存するところを見てもらうことにする」
と言って忠義は巻物を頭上に掲げて礼をした。そして再び桐箱に仕舞うと高座に戻り、
「短期間のうちによくぞ仕上げてくれた。さすがは少丞殿である。願い通り、伴大納言の模写を許す」 と声高に言った。
「この為恭、全身全霊を傾けて模本作りに精進いたします」
早速次の日から酒井家に通う日々が始まった。誰にも邪魔をされたくないので、弟子も連れず、自分一人で道具を抱えて邸の門を潜った。
書院造りの一室で、初めて三巻ある本物の第一巻を手にした時は震えが止まず、巻緒を解くにも時間が掛かった。気息を整え、文机の上でゆっくりと伴大納言絵詞を広げた。
詞書がなく、木の矛を抱えた下部(しもべ)や鎧姿の随兵(ずいひょう)
が駆けていく、模本で見慣れた場面から始まっている。朱雀門があり、その中の群衆は頬を赤く染めながら燃えさかる応天門を見上げている。
為恭は持参した訥言の模本を広げて、比べてみた。剥落まで細密に写した模本は本物と区別がつかないほど忠実なものだった。さすがは田中先生、と為恭は唸った。それでも微細に見ていくと、燃え盛る焔の描写とか公家たちの衣装の文様などにわずかな違いが見られた。剥落部分の筆勢が弱くなっているところもある。
やはり本物を見ることが大事だと為恭は改めて思った。
さて、自分はどうするか。忠実な剥落写しをしてもいいのだが、それは田中先生の仕事で十分ではないか。せっかくこうして実物を模写できる機会を得たのだから、この為恭にしかできない模写をしたい。
為恭は線や色、模様などが残っている部分は忠実に写して、剥落や色褪せの部分は有職故実を調べて描かれた当時のように再現しようと考えた。それは剥落をそのまま写すよりも困難なことだった。しかし、それができるのは自分しかおるまいという気概が為恭を動かした。
訥言先生が模写した同じものを自分も今写しているのだと思うと、直に先生に教えを受けているような気がした。その幸福な時間が終わるのを惜しみながら筆を動かし、伴大納言絵詞三巻の再現模写を終えたのは、半年後のことだった。
最後の一筆を描き終わると、年来の宿願が果たされた安堵感と先生の教えをもう感じることができない寂しさが相まって、何とも言えない虚脱感が為恭を襲った。
酒井忠義はその出来映えに目を見はり、「原本はもう誰にも見せる必要はない」とまで言った。
九
年が明けた文久二年(一八六二)正月、為恭は念願の国守に任ぜられた。受領名は近江守である。伴大納言絵詞の模写と国守になるという二つの宿願が果たされて、四十歳の為恭はまさにこの世の春を感じていた。邸に弟子たちを集め、内祝いの宴を開き、島田左近や加納繁三郎、その他の官吏たちを祇園でもてなしてお披露目とした。
そんな日々に冷や水を浴びせる知らせが一月二十日に内裏にもたらされた。五日前に老中の安藤信行が江戸城坂下門外で水戸浪士たちに襲われて負傷したというのである。皇女和宮と徳川家茂の結婚がなり、降嫁の行列が江戸に到着して、これから婚礼の儀が始まるという矢先の出来事だった。二年前の大老暗殺の騒ぎがようやく収まりつつあっただけに、公武合体を推し進めた関白九条尚忠や所司代酒井忠義の衝撃は大変なもので、傍に仕える為恭にもそれはひしひしと伝わってきた。
直廬(じきろ)の控え室で島田に会うと、彼は怒りを露わにした顔で、
「和宮様が嫁いでようやく朝廷と幕府が一体になろうという時に、どうして水を差すような真似をするのか。水戸の奴らがいくら攘夷を叫んでも、公武合体をしなければそんなことはできないのは明白なのに。そうは思われぬか、為恭殿」
問われても為恭ははっきりと答えられない。公武合体であろうと尊皇攘夷であろうと、どちらにしても日々平穏に務めを果たし、絵筆を握れればそれで十分なのだ。島田の顔を立ててその通りと答えてもいいのだが、脳裡にふっと一宸フ顔が浮かんだ。
「天朝様は攘夷を望んでおられるのではありませんか」 戊(ぼ)午(ご)の密勅の内容はまさにそれだった。
「それは、攘夷の連中があることないことを吹き込んだからですぞ。異国の連中の力を知ったら、心変わりされることは間違いないはず」
「今回の襲撃で尊皇攘夷の志士たちが勢いづくということはないでしょうか」
「それは大いにあり得ますな。加納さんたちにも頑張ってもらって、京の治安を守ってもらわねば」
京洛に浪士風の侍たちの姿が目立ち始めたのは、二月の徳川家茂と和宮の結婚の儀が終わった頃からである。
薩摩藩主島津茂久(もちひさ)の父親で、実権を握っている島津久光が藩兵を引き連れて上洛し、朝廷の後ろ盾となって攘夷を実行するという噂が京の町を駆け巡った。その噂が各地から尊皇攘夷に燃える侍たちを引き寄せているのだ。
実際に四月半ばになって島津久光が千名ほどの藩兵と共に伏見にやって来たという知らせを聞いた時は、今にも京で争いが起こるのではないかと為恭は不安に駆られた。
その不安が的中したかのように、四月二十三日に伏見の寺田屋で襲撃事件が起こり、為恭は肝を冷やした。事情を聞くために加納繁三郎の邸に出向くと、薩摩藩の尊皇攘夷の連中を島津久光自らが粛清したと話してくれた。
「伏見奉行の連中と現場に駆けつけたのですが、まだ血溜まりがそこかしこに残っていて、ひどい有様でした。それにしても同じ藩の者同士が斬り合いをするとは、嫌な世の中になったものですな」
「私にはどうも解せません。久光侯は攘夷を実行するために京にやって来たのに、どうして同じ尊皇攘夷の者を討ったのでしょうか」
「攘夷といっても考え方が違うわけですよ。朝廷と幕府が一体となって夷狄に立ち向かうという公武合体の攘夷と、弱腰の幕府なんか倒して天朝が実権を握って諸藩に命じて実行するという攘夷があって。薩摩の中でも過激な連中がどうやら関白や所司代を襲おうと計画していたらしいですな」
「え、それはまことですか」 まさか九条尚(ひさ)忠(ただ)公が狙われていたとは!
「まことです。公武合体が持論の久光侯がその計画を知って、その芽を潰したのが今回の事件ですよ」 「それでもう、京の治安は大丈夫なんでしょうか」
「薩摩の藩兵がいる限り、大丈夫でしょう」
幕政改革を要求するための勅命が下ったことを為恭は関白から聞かされた。その内容は次の三箇条だった。 一、将軍・徳川家茂が上洛すること。
二、沿海五大藩主(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)を五大老にすること。
三、一橋慶喜を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を大老とすること。
この勅命は戊(ぼ)午(ご)の大獄で罰せられた者たちを復帰させるもので、井伊直弼の所業が間違いであったと認めさせるものだった。
五月の終わりに島津久光の率いる薩摩藩兵が江戸に向かう勅使に随行して京を去ると、京の町に、一時少なくなっていた浪士たちの姿がまた目立ち始めた。薩摩言葉に替わって、長州や土佐の言葉が聞こえるようになり、往来の商家は日が暮れるのを待っていたかのように大戸をばたばたと閉めてしまう。内裏の官吏たちも夜の仕事は控えて、早々に帰宅する始末だった。
朝廷内では公武合体派の岩倉具視や久(こ)我(が)建(たて)通(みち)、千(ち)種(ぐさ)有文(ありふみ)などの公家に替わって、権大納言の中山忠能(ただやす)、その息子忠光、姉(あね)小(こう)路(じ)公知(きんとも)、三条実美(さねとみ)などの尊王攘夷派が長州藩の力を背景に勢力を拡大しつつあった。
関白九条尚(ひさ)忠(ただ)の心労は一方ならぬもので、側に仕える為恭もどうお慰めしたらいいものか途方に暮れるばかりだった。
六月になって、幕府が勅命を受け入れて幕政改革を実行したという知らせが届くと、朝廷内は一気に尊皇攘夷に傾いてしまった。二十三日には九条尚忠が関白を辞めさせられ、三十日には酒井忠義が京都所司代のお役御免になった。
替わって関白になったのは戊午の大獄で落飾謹慎していた近衛忠煕(ただひろ)だった。関白が交替すれば直廬預(じきろあずかり)の職も詮議し直さなければならないが、蔵人所の長官から、引き続いて岡田式部少丞(しきぶのしようじよう)でいいのではないかという上申書が出され、為恭もそのつもりでいた。ところがどういうわけか近衛忠煕から出された沙汰は、直廬預を蔵人所衆の村井修理少進と瀧口の津田筑後介両人にするというものだった。
村井はまだ三十にもならない若さだったが、和漢学に通じ兵法や和歌にも心得があり、何より尊皇攘夷を信奉する人物だった。為恭が絵の仕事で京を離れた時など、代理で直廬預の職を任せることがあって、顔見知りではあったが、為恭のことを公武合体派の一人と見なして批判的に見ているのは確かだった。
尊皇攘夷に支配された内裏ではその沙汰も仕方あるまいと、為恭は異議を申し立てることもせず素直に従った。
洛中では浪士たちが大手を振って歩き回り、戊午の大獄の意趣返しとばかりに、その時捕縛に関わった者に天誅を加えるという噂が為恭の耳にも聞こえてきた。島田左近は寺田屋騒動の後、薩摩の藩兵が去った辺りから姿を見なくなっており、うまく逃げおおせたのだろうかと心配になった。
そんな時だった。七月二十一日の昼過ぎに岡本恭儀が為恭の家に飛び込んできた。玄関に出てみると、息を整えようと体を二つに折って深呼吸をしている。
「どうした」 「島田様が殺されました」 「何!」 「高瀬川の畔に島田様の死体が投げ捨てられていました」
京の町がその事件で大騒ぎになっているという。首と片腕を斬り落とされた、傷だらけの死骸で、頸筋から背中にかけて「島田左兵衛権大尉(ごんのだいじよう)」と小刀で刻み込んであったので身許が分かったのだ。噂によると、木屋町の妾宅に潜んでいるところを見つかって暗殺されたらしい。君香のところに違いない。まさか洛中にいたとは信じられなかったが、君香の傍にいたかったのか。あるいは灯台下暗し、とでも思っていたのか。
為恭は高瀬川の方に向かって両手を合わせた。 奥から綾衣が出てきた。 「島田様が殺されたとなったら、お前様も狙われるのではおへんか」
「なぜだ。わしは戊午の大獄なんかにいささかも関わってはおらぬぞ」 「でも、島田様とずいぶん懇意にされておりましたし……」
「あれは所司代様の風流が取り持つ縁で知り合ったまでのこと。政(まつりごと)に関して島田殿と話したことなどこれっぽっちもない」
「そうやったら、よろしいおすけど……」 その二日後のことだった。 恭儀が今度は島田の首が晒(さら)されていると告げに来た。
「先斗町の川際らしいです」 「そうか」
島田とのこれまでの付き合いがふっと頭をよぎった。様々な噂があったが、自分としては悪い付き合いだとは思えなかった。 「見に行こう」
「え」 「回向に行くのだ」 綾衣に告げると「やめておくれやす」と強く反対された。
「島田様を斬ったお人が傍にいるかも知れまへん。危のうおす」 「気をつけるから大丈夫だ」
為恭は矢立と画帳を懐に入れた。恭儀が同行するのを渋ると、
「晒し首を写す機会などそうそうはない。それを嫌がるようでは、一流の絵師にはなれんぞ」
と叱咤した。それでも迷っている恭儀にむりやり矢立と画帳を持たせ、邸を出た。
先斗町まで歩いて四半時ほどである。昼前の夏の日差しを受けながら鴨川の畔に出た時、下流の河原に黒山の人だかりが見えた。為恭と恭儀の横を何人もの町衆が走り抜けた。
河原に降りて黒山に近づいていく。人々の頭越しにちらっと赤い色をした首が見えたが、よく分からない。背伸びをして見ている群衆の背を押しのけて真ん中に進んだ。押すなと言う声を無視してようやく一番前にたどり着くと、そこはぽっかりと空いた空間になっていた。河原に突き立てられた六尺ほどの青竹の先端に青黒い首が刺さっている。腐臭が漂ってき、ぶーんという蠅の羽音が聞こえてくる。ざんばら髪で、こめかみから頬にかけて赤い傷口が見え、そこに金蠅が何匹か止まっていた。目を閉じ、口をわずかに開いた顔はまさに島田左近だった。首の下の青竹には札がぶら下げてあった。
「この、島田左兵衛権大尉こと、大逆長野主膳へ同腹いたし、奸(かん)曲(きよく)を巧み、天地に容(い)るべからざるの大奸賊なり。これによって天誅を加え、梟首(きようしゆ)せしむる者なり。文久二年七月」
為恭は両手を合わせて回向をすると、懐から画帳と矢立を取り出し、筆先に墨をつけて晒し首を写し始めた。口で息をしながら陽に晒された首を写していると画帳に水滴が垂れ、その時初めて自分がひどく汗を掻いていることに気づいた。
「へえー、うまいもんだ」 横から声がした。若い男が手許を覗き込んでいる。為恭はその声に急かされるように写生を終えると、その場を離れた。
人だかりから抜けて恭儀の姿が見えないことに気づいた。探していると後ろから「先生」という声がした。恭儀が青白い顔をして立っている。
「どうした」 「気持ちが悪くなって休んでいました」 「それで首は写したのか」 「いいえ」
「駄目ではないか、そんなことでは。滅多にない機会なのだぞ」 「………」 「仕方がない。次の機会を待とう」
岸に上がるために河原を行きかけると、 「岡田様」
という声が聞こえてきた。為恭はどきりとした。首を巡らすと、離れたところから頭の禿げ上がった男が小走りにやってくるのが見えた。懇意にしている表具師の奥村蒿庵(こうあん)だった。為恭はほっと一息ついた。
「先生もご見物で……」 「ああ」 「ひどいことをするもんですな」 「確かに」
蒿庵の家は烏丸通夷川にあり、為恭の邸のある方角と同じだった。連れ立って帰る道すがら、蒿庵は、岡田様もお気を付けなさった方がいいと言い出した。
「なぜだ」 「島田さんと懇意にされてはったでしょう。それに所司代に頻繁に出入りされていたことも噂になっておりますよ」
「あれは、伴大納言の絵巻を模写するために通っていただけだ。島田さんともその縁で知り合っただけで……」
「先生がいくら絵のためだと言わはっても、世間はそうは見てくれまへんからな。佐幕と見なされたら容赦なく首を切られるご時世ですから」
その通りだった。島田の梟首がそのことを物語っていた。
「それに」と蒿庵はあおいでいた白扇を口に当て、小声になった。「後鳥羽上皇様が隠岐に流された話を絵巻にしやはったでしょう。あれはあきません」
「どうしてお主が知っておるのだ」
「仕事で伺ったお公家さんのところで小耳に挟んだんですよ。酒井の殿様があちこちで見せて、天子と雖(いえど)も配流(はいる)もあり得るぞと暗黙のうちに圧力をかけはったんでしょうな」
やはりあれはまずかったか。為恭は唇を噛んだ。
「和宮様の降嫁の時、調度品を差配されはったでしょ。絲毛車の考証とか念入りに。あのことだけでも先生が公武合体派の一人だと見なされておりますよ」
「そんな馬鹿な」為恭は思わず立ち止まった。「わしは関白の下で働く官吏だぞ。上から命令されたことをするのは仕事だ。仕事をして何が悪い」
「もちろん悪くはおません。しかし攘夷の浪士たちはそこまで考えてはくれませんよ」
蒿庵と別れて自分の邸に向かいながら、為恭は気分が重く沈んでいくのを感じていた。年の初めには国主にもなり、伴大納言絵詞の模写も終え、まさに男盛りの高揚感に包まれていたのに、それからたった半年ほどしか経っていない今日の激変ぶりは一体何としたことだろう。頼りにすべき九条公も関白を去り、酒井侯も所司代を辞めさせられた。為恭は一人無人の荒野に立たされているような心細さに思わず身震いした。
物思いに沈んでいた為恭は玄関に現れた綾衣の問い掛けにも上の空だった。 「どうどした」と綾衣は恭儀に尋ねた。
「ものすごい人だかりで、輪の中に入っていくのが大変でした」 「本当に島田はんでしたんどすか」 「間違いありません」
為恭は懐から画帳を取り出し、「見てみるか」と綾衣に手渡した。 「こいつは絵師のくせに写生をしなかったのだ。そんなことでどうする」
恭儀は神妙な顔をしている。 綾衣は画帳を捲っていき、島田の首のところではっとして閉じてしまった。
「絵を描かないそなたはそんなふうに閉じてもいいが、絵師たる者、見るべきものは見なくちゃいかん」
綾衣はもう一度、恐る恐るといった手つきで画帳を開き、梟首を見た。 「島田はん、わたくしに言い寄ってきたことがあったんどすえ」
綾衣が呟いた。 「え」 「あの、お前様が留守をして、初めて一人で来られた時どす」 「………」
「お酒で歓待したので勘違いされたと思います。お民が気を利かせて入ってきてくれたから、それ以上何にもなかったですけど」
こうして口にする以上、本当に何もなかったのだろう。ひょっとしてと恭儀を同席させたのは正解だったのだ。
為恭の中から島田を回向する気持ちがすっかりなくなってしまった。
それからさらに三日後のことだった。御所の築地の外に立てられた下馬札に為恭を名指しした貼り紙が出ていると恭儀が知らせてきた。急いで行ってみると、人だかりがしていた。
貼り紙には「典薬岡本肥後守、島田左兵衛、岡田式部少補、加納繁三郎等と同意し、戊午三条公落飾の件には専ら周旋したる罪軽からず、之に仍(よつ)て同刑に行ふべき者なり」とあった。
少丞とすべきところを少補と間違って書いている。その程度のいい加減な貼り紙なのだと思ったが、三条実万(さねつむ)公の落飾の件に関わっているという指摘には、全くの事実誤認だと腹を立てた。自分がどれだけ三条公をお慰めしたか、ご令息の実美(さねとみ)公に聞いてもらえば分かることなのに、どうしてそんな簡単なことさえ確認しないのか。間違って殺されることなど許されるわけがない。
「先生、どうしましょう」 「そなたは先に邸に帰って、綾衣に戸締まりを厳重にするように言っておけ。わしは加納さんに会ってくる」
悲(ひ)憤(ふん)慷(こう)慨(がい)した為恭は加納繁三郎の詰めている東町奉行所に向かった。半里ほど歩いて詰め所で尋ねると、加納が奥から難しい顔をして現れた。いつものどこか笑っているような表情とは大違いだった。
加納は横の小部屋に招き入れた。
為恭は下馬札の貼り紙のことを伝え、三条公の落飾の件について間違いであること、そればかりか三条公の蟄居先を何度も訪れ、お慰めしたことをその時の様子を具体的に交えて懸命に訴えた。
「貼り紙をした犯人にそのことを伝え、是非疑惑を晴らしていただきたい」と為恭は頭を下げた。
黙って聞いていた加納は「私も今朝貼り紙を見ましたよ」と静かに言った。「私の名前も書いてあって驚きましたが、大獄の件に関わったのは事実ですから仕方がないですな。しかし岡田殿のことは連中の勘違いでしょう」
「そうでしょう。ですから是非……」
「京が今のような状態でなければ、奉行所も動いて犯人を引っ捕まえてやるのですが、いかんせん今は動けません。酒井侯の後任の所司代も朝廟(ちようびよう)が内諾を与えていないので空席のままですからな」
奉行所が機能しなければ京の治安は誰が守るのだと為恭は叫びたかったが、そんなことを言って加納を糾弾したところで何の益もないことは分かっていた。
「それでしたら、私の邸の周りの巡回だけでも頻繁にやってもらえませんか」
「岡田殿の願いを聞いてあげたいのは山々なんですが、島田殿が殺された今となっては、こちらの首の心配もしなくてはならず、お役に立てず申し訳ない」
加納は深々と頭を下げた。為恭が茫然として加納の髷頭を見詰めていると、顔を上げた加納が「今すぐにでも京を離れられたらいかがですか」と言った。
「私は役目があるので離れられないが、岡田殿は大丈夫でしょう。三河の寺にも長きにわたって絵を描きに行かれたこともあるのだし……」
「いや、私も蔵人所衆というお役目を賜っていますし……」
京の地を離れることなど考えられないことだった。自分は平安の雅の中でしか生きることができない男だ。この地で絵を描いてきたからこそ今の地位があるのだ。
奉行所に来るまでは怒りが為恭を支えていたが、今やそれがすっかりなくなってしまい、邸に帰る道が急に恐ろしくなった。恭儀を帰らせるのではなかったと後悔しながら帰途についた。道の向こうに侍の姿が見えると横道に入り、商家から京言葉とちがう訛りが聞こえると、足早に通り過ぎた。
半時ほども掛かってようやく邸にたどり着くと、「遅おしたな」と綾衣が奥から出てきた。「加納様は犯人を捕まえてくださるんどすか」
為恭は首を振った。 「奉行所では手を打てんから京を離れたらどうかと言いよった」 「そんな……」
「どうしたらいいんだ」為恭は総髪頭に手をやった。 「お父様の所に逃げまひょ」 「男山にか」 「そうどす」
確かに石清水八幡宮に逃げ込めば神域なので浪士たちも容易には踏み込めまい。祠官(しかん)なのでそれなりの武器もあるかもしれない。しかし武力で彼らの横暴を防ぐことは不可能だ。もし彼らがやって来て争いになれば皆殺しの憂き目に遭うかもしれない。新善法寺家に迷惑の掛かることは極力避けなければならない。
「実家に逃げるのは却って危険だ。逃げるのなら連中が見つけられないところでなければ……」
結局、どうしたらいいのか決められないまま、表も裏も戸締まりを厳重にして、雨戸も閉ざした。下女が怖がって、家に帰りたいと言い出したので、事態が収まったらまた来てくれと暇を出した。
次の日から昼間も雨戸を開けずに燭台に火を点けた。蔵人所衆の職務も病気と称して出仕せず、余計なことを考えないように画室に籠もって、一宸ゥら譲り受けた田中訥言の勝絵絵巻を模写した。陽根比べとか放屁合戦などの面白い姿を写していると、束の間現実を忘れられた。
しかし夜、床に入ると、島田の首や貼り紙の文句が浮かんできて眠ることができない。どうしてあんなものを見に行ったのかと後悔しても遅い。真綿で首を絞められているような息苦しさを感じ、何度も体を起こした。
十
三日後の夜のことだった。眠られずに画室で燈火を付けて勝絵絵巻の模写をしていると、どんどんと門を叩く音が聞こえてきた。あの音の近さは間違いなく自分のところである。為恭は筆を持ったまま、体を堅くした。
しばらくして今度は前より激しく、門が叩かれた。心臓が跳ね上がり、為恭は思わず筆を落とした。来た、来た、どうする。為恭は立ち上がった。脚に力の入っている感覚がない。表に出てみるかどうしようかと迷っていると、襖が開いた。寝間着姿の綾衣だった。
「お前様、縁の下にお隠れなさいまし。わたくしが様子を見てきますさかい」
その時、門を叩く音と同時に「開けろ、開けろ」という怒鳴り声が聞こえてきた。為恭は息を呑んだ。 綾衣が行きかけてこちらを振り返ると、
「道具を片付けて火を消して下さいまし」
と静かに言った。その落ち着き振りに、この女はやはり神官の娘であったかと思い、為恭はいくらか平静を取り戻した。
文机の上の筆や硯を箱にしまい、勝絵絵巻や書きかけの紙は唐櫃の中に放り込んだ。燭台の火を吹き消し、障子を開け、縁側に出た。雨戸を音を立てないように一尺ほど開けてから体を斜めにして裸足のまま庭に飛び降りた。雨戸を静かに閉め、四つん這いになって真っ暗な床下に潜り込んだ。蜘蛛の巣が顔にまとわりつくのも払わず、灯りを照らされても光が届かないくらい奥にという気持ちが前に進ませた。
床を踏む複数の足音が聞こえ、為恭は思わず膝を折ったまま頭を抱え込んだ。男の怒鳴り声が聞こえ、綾衣の細い声もするが、どちらも何を言っているのか分からない。体がぶるぶると震え、歯が鳴るのを奥歯を噛みしめて堪えた。いつ床下に光が射し込むのか、覚悟をしながら為恭は男たちの足音を聞いていた。
どのくらいそうしていただろう。急に足音が聞こえなくなった。頭から両手を外し、為恭は耳を澄ませた。確かに聞こえない。それでもじっとしていた。自分をおびき寄せるために奴らは動かないで様子を見ているのに違いない。そう思った。
しばらくして、雨戸のがたつく音がして為恭はどきりとしたが、すぐに「お前様」という綾衣の声と同時に光が射し込んできた。為恭は四つん這いで灯りの方に行きかけたが、ひょっとして男たちに言わされているのではないかと動きを止めた。
「お前様、大丈夫どすえ。あの人たちはもうおりません。帰りましたえ」
為恭は這っていって頭を出した。行灯の灯りに照らされた綾衣の顔は心なしか微笑んでいる。後ろには誰もいない。それを確認して為恭はようやく床下から這い出た。
綾衣が着物を払ってくれる。その時初めて為恭は自分が汗びっしょりになっていることに気づいた。
家に上がって寝屋に行き、そこで着物を着替えた。浪士たちが蹴飛ばしたのか、蒲団がめくれてよじれている。土足で上がってきたのだろう、板の間にはうっすらとした足跡がいくつも残っている。為恭は改めて恐怖を感じた。
綾衣が白湯を持って来、為恭はそれを一息に飲むと、その場に腰を下ろした。 「やつらは何人だった」 「四人どした」
「薩摩か長州か、分かるか」 「訛りはおましたけど、どこのお人かまでは……」 「それで、何と言っておった」
「いずれお前様の首をいただきに参るから、そう伝えておけと」 青竹の先に晒(さら)された島田の首が思い浮かんだ。
「もうここにはおれんな。今すぐにでもどこかに逃げなくては。しかしやつらはまだこの近くにおるかもしれん」
「それなら大丈夫かもしれまへんえ。お前様の行き先を聞かれた時、とっさに伯父様の家のつもりで狩野のお宅へと答えたんどすけど、相手は加納繁三郎様のところと勘違いしやはったようで……」
「ということは、やつらはそちらへ向かったのか」
加納繁三郎の名前も貼り紙に載っている。ひょっとしたら加納のところで斬り合いになるかもしれない。加納には申し訳ないが、時間稼ぎにはなる。そこに自分がいないと分かると、再びやつらはここに戻ってくるかもしれない。
逃げるのは今しかないと為恭は決意した。しかしどこへ逃げるのか。伯父のところか、男山か。その時ふっと奥村蒿庵の顔が浮かんだ。伯父や男山なら、やつらも当然調べ上げているだろうが、表具師まではさすがに知らないだろう。
「今夜は奥村のところに行く」 「近すぎやおへんか」 「近いからいいのだ。あまりうろうろしていては危険だからな」
早速、用意を始めた。画材道具を一式持って行きたいが、逃げるには身軽な方がいいので、矢立と画帳だけにした。他に訥言の伴大納言絵詞の模本や行成卿(こうぜいきよう)の書巻など日頃見返す巻物を何本か持って行くことにした。後は着替えと当座の路銀を用意して玄関に立った。
「そなたはこの邸を守ってくれ。いずれ、やつらの誤解も解けてわしへの嫌疑も晴れるだろう。その時までの辛抱だ」
「分かりました。お前様、十分お気を付けなさいまし」
新月に近く月明かりがないので、仕方なく提灯を持った。幸い木戸の閉まる時刻まではまだ少し時間がある。
風呂敷包みを抱え、人通りの途絶えた烏丸通りを足早に歩いて、奥村の店の前に立った。内から灯りが漏れている。大戸を叩くと、
「どなたはんです」という蒿庵の声が聞こえてきた。 「岡田だ。岡田為恭だ」 潜り戸が開いて蒿庵が顔を覗かせた。 「どうしました」
「取りあえず中に入れてくれ」 為恭の切迫した声に押されて、蒿庵は潜り戸を大きく開けてくれた。
店の中は行灯に火が入っており、檜のいい香りがする。 「それで一体何があったんですか」 為恭は先ほど起こったことを話した。
「やはり来ましたか。やつらは功名を立てることを焦っているので、そう簡単には諦めないでしょう。京を離れなあきませんな」
「ここに置いてもらうわけにはいかないか」 「ここはあきません。店の者が大勢おりますからすぐに噂になります。どこか他に心当たりはありませんか」
そう言われて思い付いたのは、栂(とがの)尾(お)の高山寺だった。かつての住持である慧友(けいゆう)上人には子供の頃ずいぶん可愛がってもらったことがあるし、鳥羽僧正作の鳥獣戯画を模写するために泊まり込んだこともある。願海が比叡山延暦寺と諍(いさか)いがあって落ち着かない時、高山寺へ身を寄せたらどうかと勧め、そこの石雲院に世話したこともある。一年後願海が去るまで、何度も尋ねていって憂愁を慰め、「石雲清事」という絵巻を描いたのは五年前のことだ。
そのことを話すと、 「行き来を頻繁にされておったところはあきません。すぐに嗅ぎつけられます」 「では、どこがいい」
「……神(じん)光(こう)院(いん)はどうでっしゃろ。ご住職とお知り合いやなかったですか」 「確かに知り合いだが……」
神光院は京の北、西加茂の山奥にある小さな真言宗の寺である。住職の月心(げつしん)律師は、出家する前は応挙十哲の一人森徹山に学んだ絵師で、和田呉山と名乗っていた。その頃為恭の父永泰と親交があり、為恭は子供の頃から見知っていた。呉山が長男の死を切っ掛けに、二男、三男と一緒に出家して神光院の住職になってから、一、二度訪ねたことがある。
「しかし神光院は近すぎて危なくはないか」
「洛中と違って洛外ですから、よろしいんと違いますか。それに灯台下暗しという言葉もおますし。一応守護不入の地ですから、浪士の連中も動きにくいはずやし。もし嗅ぎつけられたら、今度こそずっと遠くへ逃げはったらよろしいのでは……」
確かに蒿庵の言うとおりかも知れない。月心は絵師の時から剣術や柔術の稽古にも励み、自分流の奥義を生み出すほどの腕前を持っている。いざという時、頼りになるかもしれない。
夜中では道に迷ってしまうので、夜が明けたらすぐに出立するということになって、為恭は蒿庵の用意してくれた床についた。しかし目が冴えて眠れそうもない。浪士たちが再び邸に舞い戻ってきたらどうなるのか。綾衣が問い詰められ、打(ちよう)擲(ちやく)を加えられている場面が浮かんでくる。女なので命を奪われることはないだろうが、黙っている綾衣を凌辱するかもしれない。悪いことを思い浮かべないようにしようと思えば思うほど鮮やかに浮かんできて、綾衣もどこかに逃がせばよかったかと後悔することしきりだった。
輾(てん)転(てん)反(はん)側(そく)しながら七つの鐘を耳にした頃、蒿庵に起こされた。一汁一菜の朝餉を済ますと、朝ぼらけの中、為恭は編笠をかぶって蒿庵と共に店を出た。烏丸通を北上し、鴨川沿いを進み、上賀茂の森が見えたところで西に曲がった。いくつかの摂社の横を通り過ぎ、ようやく神光院の白い築地塀が見えた頃にはすっかり夜が明けていた。
山門はすでに開いており、中に入ると作務衣を着た若い僧が竹箒で庭を掃いていた。こちらに気づいて顔を上げる。月心の三男智満だった。為恭は編笠を外した。
「あれ、岡田様?」 智満は箒を手にこちらにやってきた。 「どうされました、こんなに朝早く」 「浪士に襲われて逃げてきたのです」
「え」 為恭は簡単にいきさつを話した。驚いた智満は箒を持ったまま、二人を庫裏に案内した。 「和尚様」
智満が大声を上げると、奥から、なんじゃ騒々しいと言いながら白衣(はくえ)姿の月心が姿を現した。 「ご無沙汰しております」
為恭は頭を下げた。 「おや、これまた珍しいお方がお見えだ」
智満が月心の耳元で、為恭が語った内容を繰り返した。月心の顔が途端に険しくなった。 「それはいけませんな。さあ、どうぞお上がりを」
二人は応接間に通された。朝餉が済んだかどうか尋ねられ、済ませたと答えると、煎茶が運ばれてきた。それを一口飲むと心が落ち着き、一晩を無事に過ごせたことにようやくほっとすることができた。
為恭はなぜ浪士たちに狙われるようになったか、その理由を話し、すべてが彼らの誤解から来ることを説明した。
「わたくしに政(まつりごと)をうんぬんする力はありません。官位を得たのも、実際の事物を見て有職故実の知識を深めたいがため。絵にしても依頼があったから描いたまでで、わたくしの思いなどどこにも入っておりません」
「矢の弦上に在れば発せざるを得ず、ということですかな」 月心が三国志の陳琳(ちんりん)の言葉を引用した。
陳琳は優れた文才を持った後漢の文官だった。袁(えん)紹(しよう)の配下に入って、敵の曹操を徹底的に罵倒する檄文を作ったが、袁紹は破れ、陳琳は曹操に捕まってしまう。曹操から、私個人を誹謗するだけならまだしも、どうして祖先まで持ち出して攻撃するのかと責められた陳琳は、矢の弦上に在れば発せざるを得ずと答えた。矢の飛ぶ方向は弓手が決めることであって、矢が決めることではないと居直ったのである。その答えを気に入った曹操は陳琳を召し抱えることになる。
「陳琳ほどの才はございません」 「何をおっしゃるか。為恭殿の名声がこんなに京に轟いておるのに」
「それが却って災いして、狙われているのです」 帰宅する蒿庵に、為恭は綾衣のことを頼んだ。
「邸に一人で居るのは危ないので、実家の新善法寺家に戻るか姉の嫁ぎ先である多(おおの)家に身を寄せるか、どちらかにするように申し伝えてもらえぬか」
「確かにそうですな。そのようにした方がいいでしょう」
為恭は庫裏の二階の六畳間に身を隠すことになった。為恭の世話は智満ともう一人、心城という大坂から流れて来て道心坊になった者が担うことになった。
隣の八畳敷の板の間には月心父子の所蔵本が山のように積まれており、それらの書物を自由に読むことを許された。
六畳間の東には一間ほどの窓があり、上賀茂の森の向こうに比叡の山並みが窺われた。北側の窓からは鞍馬山が見える。人里離れた山の懐に抱かれていると思うと、どこか安心するところがあった。
翌日の昼過ぎに、為恭が所蔵の本を手に取って眺めていると、階下で蒿庵の声が聞こえてきた。もう一人別の声も聞こえ、伯父だと分かると、為恭は急いで階段を降りていった。
奥から月心も姿を見せた。 「伯父上、来て下さったのですか」 狩野永岳の顔を見て、為恭は不覚にも涙ぐみそうになった。
「奥村さんから話を聞いて飛んで来たのだ」 月心も入れて四人で今後のことを話し合うことになった。
応接間に腰を下ろすと、蒿庵が懐から畳んだ紙を取り出した。
「今朝、また御所の築地(ついじ)の下馬札に貼り紙がされてまして、書き写して参りました」 蒿庵が紙を開いて見せた。 絵師 冷泉為恭
此者安政戊午(つちのえうま)以来、長野主膳、島田左近等に組し、種々大奸謀を工(たく)み、酒井若狭守に媚び、不正の公卿と通謀し悪虐数ふべからず。不日(ひならず)我等天に代り、誅(ちゆう)罰(ばつ)を加ふるべき者也。
「なんと」月心が唸った。 為恭は怒りと恐れがない交ぜになって体が震え、言葉が出てこなかった。 「どうする、為恭」永岳が言った。
為恭は紙面の文字を見詰めながら、何度か大きく息をすると、 「こと、ここに至った以上、私はやつらと対決して、身の潔白を証明したいと思います」
と言葉を絞り出した。三人は一様に驚いた顔をした。 「自首するとおっしゃるのか」と月心。
「そうです。三条実万公からいただいた手紙なら山ほどありますので、それを読ませれば私がいかに勤王方であるかということが分かるはずです」
「いやあ、それは危険だ」と永岳が手を振った。「浪士たちがそんな手紙を信用するとは思えん。実万公と一緒に出向けば別だと思うが、実万公はすでにおられんからな」
「それなら実美(さねとみ)公は? 実美公なら私がいかにご尊父をお慰めしたかご存じなので口添えしてもらえるはずです」
三条実美は攘夷派の公卿の急先鋒として、今の朝廷を仕切っているのだ。自分で口に出しておきながら、なぜこんな簡単なことを思い付かなかったのかと為恭は不思議な気持ちになった。実美公に頼めばこの窮地を救ってくれるはず。為恭は前途が一気に明るくなったと感じた。
「なるほど、それはいい考えかも知れん。わしが行って頼んでこよう」
「それなら私は」と蒿庵が言った。「薩摩と長州が詰めている本圀寺と大徳寺に行って、釈明し、浪士たちを抑えてもらうよう頼んでみますわ」
為恭は二人の手を握って「よろしくお願いします」と頭を下げた。 二日後、二人は再びやって来たが、彼らの話は為恭を落胆させるに十分だった。
「本陣に行って釈明しようとしましたが、薩摩も長州も浪士たちのことなど当方とは何の関係もないことだと言って全く取り合ってもらえませんでした。取り付く島がありません」
蒿庵に続いて永岳も「知り合いの公家を通して何とか面会してもらったが、逆にこちらが叱られてしまった」と嘆息した。「和宮様のご降嫁の時、有職故実の考証に尽力したのは関白からの命で仕方のない面はあるが、酒井侯の依頼で承久の乱の絵巻を描いたのはまずかったな。実美公からさんざん詰(なじ)られて、こちらの教育が悪かったとまで批難されてしもうたわ」
為恭が肩を落としていると、 「岡田家に寄って何とか力添えをしてもらおうと思ったが、逆に御所からのお沙汰書を渡されてな」
と永岳が懐から糊の効いた紙を取り出して広げて見せた。
蔵人所々衆岡田式部少丞(しようじよう)、為恭、頃(けい)日(じつ)来容易ならざる風聞追々増長、之に依り官位を止めらるべきのところ、御憐察を以て御沙汰これなく、本人所労と称して官位を辞し、位記返上あるべき事。
「お前が留守なので岡田出羽守殿が代わってお受けされたのだ。典薬頭(てんやくのかみ)の岡本肥後守殿も辞職位記返上を仰せつかったそうだ」
ついにここまで来たかと為恭は歯がみした。官位に恥ずべきことは何もしていない。すべては風聞なのだ。それなのにどうして辞めなければならないのだ。裏で、攘夷派の村井修理少進が動いたに違いない。
「こういう沙汰が出た以上、従うしかあるまい」 「嫌です」為恭は首を振った。「辞めれば自ら風聞を認めたようなもの。そんな真似は絶対にできません」
「しかし、お前が自ら辞めなかったら、いずれ免職の沙汰が降りるぞ」 「それでも構いません」
永岳の言葉は三日後、現実のものになった。蒿庵が届けてくれた書簡には、「その方身上につき容易ならざる風聞有之(これあり)辞官落(らく)飾(しよく)願はる可く候」とあった。
「出羽守様も譴(けん)責(せき)されて差控になったということですわ。言いにくいことですけど、為恭殿を離縁するとおっしゃっておりました」
覚悟はしていたが、実際に無位無官になってしまうと自分が丸裸になったような心細さを感じた。しかも岡田家の人間でもなくなったのだ。これから落款に何と書き入れたらいいのだろう。宇喜多一宸フように画院生徒冷泉為恭とだけ記そうか。
その時、ふいに一宸フ声が蘇ってきた。
――為恭殿が、絵は絵、政(まつりごと)は政、と生きる世界をくっきりと分けたい気持ちは分からないではないが、人は必ずしもそうは見てくれませんからな。十分に注意した方がよろしいですぞ。
一專aがもし生きていたら私のこの窮状をきっと救ってくれたに違いない。戊午の大獄で獄に繋がれた一專aの言うことなら、浪士たちも耳を傾けたに違いない。どうして死んでしまわれたのだ。
為恭ははらはらと涙をこぼした。
月心の勧めで為恭は頭を丸めることにした。御沙汰書にあった落飾という言葉を守って恭順の意を示すと共に、風体を変えることによって浪士たちに見つかりにくくする意味もあった。さらにはもし見つかっても僧形ならば殺されるまではいかないのではないかという思惑もあった。
剃髪は月心立ち会いの下、智満が執り行ってくれた。剃刀で総髪を全てそり落とすと、青い頭が鏡に映った。為恭は頭に手をやり、その丸い形を撫でた。
墨染めの法衣を着せてもらい、数珠を手にすると、すっかり自分という人間が変わってしまったような気がした。子供の頃から模写のため古刹に通って僧侶に親しんできたが、こうして自分がなってしまうと、自分は本来僧になるべき運命にあったのかもしれないと思った。現世から離れ、浪士たちの手の届かぬ世界に入り込んだ心地がした。
月心が、為恭の父親の戒名普明未敷蓮心居士と母親の戒名蓮華心院不着妙?大姉の二つを考慮して、心蓮という名を与えてくれた。
綾衣は多家に身を寄せており、心城が為恭の現状を知らせる手紙を持って行ってくれた。その返信の中で綾衣は「たとえお前様が出家なされても、わたくしはお前様の妻でございます。世の中が平安を取り戻した暁には再び一緒に暮らしとう存じます。いいえ、本当は今すぐにでもお会いしとうございます。お前様と離れて暮らすのは、身を裂かれるくらい辛うございます」と書いていた。
胸が締め付けられた。
為恭は何度、綾衣に会いに行こうと思ったかしれない。しかし月心に「今が一番肝腎な時期ですぞ」と諭されて断念し、綾衣への思いを振り払うように為恭は彩管を握った。浪士たちに襲われて以来、絵を描く気にはなれなかったのだが、僧になってようやく心が落ち着いてきたのだ。月心に導かれて僧の修行をしつつ、空いた時間は文机の前に坐って仏画を描いた。智満が書を嗜むと知ると、逃げる際持ってきた行成卿の書巻を広げ、一緒に並んで筆写したりした。
一ヵ月ほどは平穏な日々が続いたが、閏八月になって雲行きが怪しくなってきた。明神の社家の方から、神域に不浄の浪士たちの姿が目撃されるようになったのははなはだ迷惑である、彼らが来るような原因を作らぬように、というお達しがあったのだ。月心に言わせると、とりたてて浪士たちの姿が目立ってきたわけでもないが、為恭の隠遁を知った社家が面倒を避けたいがためにあらかじめ為恭の追い出しに掛かったのだろうということだった。
そんな折、京洛に用事で行っていた心城が暗殺の噂を持ち帰った。閏八月二十二日のことだった。
「越後の本間精一郎という浪士が木屋町で殺されたそうです。なんや、仲間割れやそうで。京の町ではまた始まったというてえらい騒ぎですわ」
さらに翌日、今度は九条家の諸太夫宇郷玄蕃(うごうげんば)が殺され、松原通あたりの鴨川の川原に梟首(きようしゆ)された。様子を見に行った心城は、槍の先に首が刺さっていてひどいもんでしたわと言い、札紙に書かれた文言を見せてくれた。
宇郷玄蕃 此者儀、島田と同腹、主家をして不義に陥らしめ、其罪彼より重し、之に依りて天誅を加ふる者也 閏八月廿三日
為恭は島田左近の梟首を思い出し、胸が悪くなった。
こうして立て続けに暗殺事件が起こると、さすがに今度は自分の番かと恐怖に駆られた。さらには見慣れぬ乞食が「お慈悲を」と言ってなかなか門前を去らなかったり、智満が托鉢に出かけた際、浪士風の侍が後をつけていたりと、いよいよ猶予ができなくなった。
「どこか遠くに貴殿を匿ってくれる御仁はござらぬか」と月心が聞いてきた。 「粉河寺はどうでしょうか」
遠くという言葉で思い付くのはそこくらいだった。粉河寺は紀伊国那賀郡粉河の里にある、西国三十三所第三番札所として世に知られた名刹で、願海が四年前に一山の学頭の御池坊として住職に転任している。願海のことは最初から頭にあったが、紀州は余りに遠くて逃れる先にしたくなかったのだ。
為恭は月心に願海との交流を話した。 「粉河寺に移られてからはご無沙汰しておりますが、行けば必ずや助けてもらえると思います」
「それは願ってもないことですな。紀州は御親藩第一のお家柄なので、攘夷の連中も容易に入ってはこれまい。京からも遠く離れておることだし……」
早速旅支度を始めた。 智満には行成卿の書巻――三宝感応要略録(さんぼうかんのうようりやくろく)之下一巻を手渡した。
「これは私が内山永久寺の亮(りよう)珍(ちん)上人から無理を言って頂戴したものです。その時、何があっても身から離さず、子孫の守護も当てにせず、と言われたが、これから私の運命がどう転ぶか分からない。もし紛失でもしたら、上人に顔向けができない。智満殿の練筆のお手本にもなるので、どうか受け取って欲しい」
跋文には亮珍上人の手で、「相伝之旧物、予独悲可寛放之、雖一紙半葉乃至一行一字、不可出干他人、為一生涯軌則、敢不可頼児孫之守護、必仰和光之擁護、為永世不朽之計矣、此一事、随順予寸志、而謹而勿違約」と書かれてあった。
跋文を読むと、智満は恭しく書巻を掲げた。 「為恭様がお戻りになるまで、確かにお預かりいたします」
「いや、もう智満殿の手許に置いて下され。私の形見です」 「形見では受け取れませぬ」 為恭はふっと笑顔を見せた。
「分かりました。それでは私が戻る日までお預かり下さい」 「承知いたしました」
夜になって身支度をしていると、階下から「心蓮様、お客様がお出でです」という智満の声がした。
階段を降りていくと、行灯の薄明かりの中、二つの人影があった。一つは狩野永岳、もう一つは丸髷を結った綾衣だった。まさか綾衣が来るとは思っても見なかった為恭は棒立ちになった。
「綾衣か」 「お前様」
為恭は裸足のまま土間に降り立ち、綾衣を抱き締めた。焚きしめた香の匂いが鼻腔を打った。絽縮緬の着物を通して、妻の柔らかい体が感じられる。
「どうしてもと言われて連れてきた」と永岳が言った。 「わたくしも一緒に連れていっておくれやす」 綾衣が耳元で囁いた。
連れていきたい、為恭は心底そう思った。どうせ殺されるのなら、最後まで綾衣と一緒にいたい。この体を抱いていたい。
「できればわしもそうしたいのだが……」 その時、月心が近づいてきた。
「為恭殿は仮にも出家された身。女子(おなご)連れで寺に入ることは許されませんぞ」 「そうどしたらわたくしも出家いたします」
「何と」月心は驚いたが、すぐにふっと笑顔を見せた。「それだけのお覚悟がおありなら、京で為恭殿の帰りを待つことができるのではあるまいか」
「和尚の言われるとおりだ」為恭は体を離して綾衣を見据えた。「京にそなたがいると思えばこそ、わしはどんな境遇にも耐えることができる。この嵐が過ぎ去るまで辛抱してくれ」
綾衣はいやいやというように首を振った。
「それではこうしたらどうだろうか」と永岳が言った。「女連れで逃げるのは危ないので、取りあえず今は為恭一人で紀州に逃れる。向こうでしばらく様子を見て、大丈夫だと思えば、わしがそなたを連れて行く」
綾衣が小さくうなずいた。 「そうと決まれば夜の明けぬうちに京を抜けて大坂に向かわれた方がいい」
月心の言葉でただちに出立することになった。墨染めの僧衣に身を包み、網代笠を被り、心城をお供にして、暗闇の中、為恭は山門を出た。長い参道を行き、通りに出たところで振り返ると、提灯の灯りの中、白い着物姿の綾衣が佇んでいるのが見えた。
伏見から三十石船で大坂に向かう方が早かったが、もし為恭を狙う浪士たちが同乗していたら逃れられないので陸路を行くことにした。
大坂の宿で同部屋になった商人風の二人連れが、半紙大の紙を手に興奮気味にしゃべっている。「殺された」とか「自業自得」という言葉が聞こえてきて、為恭は声を掛けた。
「何かありましたか」 「京でまた暗殺があったんですわ」
一人が手にした紙を見せてくれた。瓦版だった。そこには、真っ裸でざんばら髪の男が両手を横木に縛りつけられ、尻から頭頂部にかけて竹槍が貫き通された絵が載っていた。見るに堪えない絵で、稚拙な描線がかえって残酷さを強めていた。殺されたのは猿(ましら)の文吉で、刀の穢(けが)れとばかりに絞殺されたと書かれていた。為恭は島田左近の妾の家で会った鬼瓦のような男を思い出した。
死体の傍に掲げられた口札の文言も載っていた。
――右の者先年より島田佐兵衛へ随従いたし、種々姦謀の手伝いたし、剰(あまつさ)え戊午年以来種々姦吏の徒に心を合(あわせ)、諸忠志の面々を苦痛いたさせ、非分の賞金を貪り、其上島田所持いたし候不正の金を預り、過分の利息を漁(りよう)し、近来に至り候迚(とて)も様々の姦計を相巧み、時勢一新の妨(さまたげ)に相成候間、かくのごとく誅(ちゆう)戮(りく)を加へ、死骸引捨にいたし候。同人死後に至り、右金子借用の者は、決して返辨(へんべん)に及ばす候。且又其後迚も、文吉同様の所業働者これあり候はば、高下に拘らず、随時誅戮せしむべきものなり。
「まあ、天罰が下ったちゅうことですわな」と一人が言った。「これで金を借りていた連中も大喜びですやろ」
為恭は心城を促して、瓦版に手を合わせ、習い覚えのお経を唱えた。それを見た二人の商人は口をつぐみ、為恭たちに倣って合掌した。
十一
閏八月二十八日に京を出立し、京街道、紀州街道を経て、粉河寺に着いたのは九月九日の夕方のことだった。朱塗りの山門を潜り、粉河寺本坊という表札の掛かったお堂に入った。網代笠を取り、開け放たれた玄関に立つ。訪(おとな)うと、若僧が出てき、為恭たちを見て合掌した。
「心蓮と申します。京から参りました。大阿闍梨様にお目にかかりとう存じます」
若僧は心蓮の漢字を尋ねてから、しばらくお待ちをと言って引っ込んだ。少し経って願海が姿を見せた。四年振りの再会だった。願海の顔がぱっと明るくなった。
「どなたかと思ったら為恭殿ではないか。心蓮などというから、どこの僧侶かと首を捻っておったところだ」
「出家をいたしまして、今は心蓮と名乗っております」 「ほう、それは殊勝な心掛けじゃが、はて、どういった心境の変化がござったのかな」
為恭は経緯(いきさつ)を話した。話しているうちにふっと涙ぐみそうになったが、何とか堪えた。
「なるほど。よく分かりました」願海が落ち着いた声で答えた。「私のところに来られたからにはもう大丈夫。ご安心なさい」
為恭は合掌して目を閉じた。先ほど堪えた涙がほろりと零れた。 願海の居室に案内された。
一緒に夕餉を摂りながら願海は、為恭がなぜ浪士たちに狙われるようになったのか、その理由を聞いてきた。 「すべては風聞による誤解なのです……」
為恭は関白との関わり、酒井家への出入り、島田左近や加納繁三郎たちとの繋がり、など包み隠さず話した。
にこやかに聞いていた願海は「そんなことだろうと思った」とうなずいた。「為恭殿の頭には絵のことしかない。しかしそのことが分からない連中は何かそこに意図があると見てしまうのだろう。功名心に駆られた連中にとって、為恭殿は恰好の獲物に違いない。まあ、こんな世が長く続くはずがない。その時までここで存分に彩管を揮われたらよろしい」
願海の言葉は涙が出るほどうれしかった。京を離れる決断をして本当によかったと為恭は思った。 「ところでご内儀は息災か」
「一緒に来たいと申しておりましたが、こちらが安全だと分かるまでは無理だということで、残して参りました。いずれ、呼んでもよろしゅうございますか」
「あのような別嬪を一人にしておくと、さぞかし為恭殿も心配でしょう。どうぞお呼びなさい。ただし、一緒に暮らすとなったら寺内では無理ですので、どこか借家を見つけることにいたしましょう」
本坊の奥座敷から縁側で繋がった大きな書院が為恭の居室になった。そこは千手千眼観世音が姿を変えた童(どう)男(なん)大士を祀るお堂の裏手に当たり、背後は山、横は竹林で、表参道からは全く見えない。床の間が二つもあり、神光院の六畳間とは比べものにならない。
願海が絵道具をすべて用意してくれ、紙も自由に使ってよいと言ってくれたので、早速為恭は持参した訥言模写の伴大納言絵詞を臨写した。絵を描いているだけで心が落ち着いてくる。神光院でも彩管を揮ったが、あそこでは浪士の襲撃が頭にあったため、没頭する心境にはなれなかった。ここではその心配がないのだ。
粉河寺には粉河寺縁起絵巻があった。一宸ゥら譲り受けた絵巻の中に訥言模写の粉河寺縁起絵巻があり、剥落写しはこの模写から始めたと聞いていた。実物を見せてもらうと焼損が激しく、確かにこれでは復元模写は難しいと思われた。始めからここに来るのが分かっていたら、師の模写した絵巻を持ってきて比較できたものをと残念に思ったが、綾衣がこちらに来ることになったら、持参してもらえばいいと気づいて顔をほころばせた。
願海は尊勝(そんしよう)陀(だ)羅(ら)尼(に)の霊験を広く伝えるべく、その宣伝に努めていた。陀羅尼というのは梵語で書かれた一種の呪文で、それを唱えることによって、現世の罪障を消滅し,死後に善報のもととなるものをつくるという滅(めつ)罪(ざい)生(しよう)善(ぜん)や息災延命の利益が得られるとされている。息災延命こそ今の自分が一番求めていることなので、為恭もそれを信じて必死になって暗記し、朝晩願海と一緒に唱えた。さらにはその功徳を願い、金字で神咒(しんじゆ)百巻を書写して施行をなした。
部屋に籠もって彩管を揮っていたばかりではない。神光院では人目に付かないようにと外出は極力避けていたが、ここではその心配がないので、絵を描くことに疲れてくると、本堂とか念仏堂などの建物がある広い境内を散策し、また背後の、木々に覆われた山に登ったりした。
粉河寺から少し離れた紀ノ川沿いの藤崎というところに古岳上人という僧侶が庵を結んでいた。願海と交流があり、そこまで足を伸ばすこともあった。上人は琴の名手で、川岸の岩の上に立てられたお堂で演奏を聴いたり、一緒に歌を詠んだりした。穏やかでいつも笑みを浮かべているような口元、柔らかな物腰、激することのない口振り。為恭が京の情勢を口にしても、それを憂うでもなくただ黙ってうなずいて聞いている。その、世の中とは一切関わらない超然とした姿勢に感銘を受け、こういう心境にいずれたどり着きたいという思いでその姿を絵に描いた。
願海の一生を絵巻物にしたいと申し出たのは、粉河に来て二ヵ月ほど経った頃だった。何とか感謝の気持ちを表したいと考えた時に、ふっと思い付いたのだ。
そのことを伝えると、願海は一笑に付した。 「わしの一生など画題にするべくもない。何か描きたいのであれば、仏画をお描きなさい」
「大(だい)阿(あ)闍(じや)梨(り)は世の中に何人もいらっしゃらない。そのお姿を伝えることがどうして画題にならないと言えるでしょうか」
為恭は懸命に説得した。その説得に折れて願海は承諾した。ただ、詞書を自分で書くことは断固として拒否されたので、願海の提案で慈本僧都に頼むことになった。羅渓慈本は願海の宗門の先輩で、七十近い老人だったが、真言宗から天台宗に移り、随一の学僧といわれていた。文才に富み、妙法院宮や曼(まん)殊(しゆ)院(いん)宮(のみや)の侍読(じとう)
になったり、一実神道一巻、天台霞標(かひよう)二十八巻などを書いたりしていた。
為恭は願海との合作にしたいとの強い希望を持っていたので、各場面にふさわしい古歌を願海が選び出して書くということに落ち着いた。
願海が生まれる前の象徴としてまず円相を描き、それから、誕生、発心、剃髪、勤学、諸国遊歴、比叡山住居、回峰行、玉体加持、陀羅尼施行、北野大碑建立、栂(とがの)尾(お)閉居、出世粉河という順序で、場面を描くことにした。
願海が選び出した歌は、誕生では、 住みなれし宿をば花に浮かれ来て かへるさ知らぬ春の旅人 剃髪では、
たらちねはかかれとてしもむば玉の わが黒髪をなでずやありけむ 勤学は、願海自作の歌だった。 たずね入る道の奥にぞなほまよふ
法(のり)の心を誰知るや人 比叡山常楽院「住院」の図では、 これをこそまことの道と思ひしに なほ世を渡るはしにぞありける
回峰行では、 もろともにあはれと思へ山ざくら 花よりほかに知るひとぞなき
下図が完成して願海に見せたところ、「自分の一生が絵になっているから言うわけではないが、これは傑作だ」と激賞した。さらに加えて「ついでに臨終とお墓を描いてもらいたい」と言い出した。
「何をおっしゃる。阿闍梨はまだ生きておられるではありませんか。縁起でもない」
「人はいずれ死ぬ。その姿を自分で見られるならこんなうれしいことはない」 「……分かりました。描きましょう」
「苔むした墓を描いて……そうだ、最後も円相にしてほしい。そうすると、最初に戻ることになるから」 「なるほど」
「そこに添える歌は、これでどうだ」 願海は筆を取って、紙に書き付けた。 更にまたたづね来つれど住みなれし むかしの花の都なりけり
「……わたくしはできることなら生きているうちに戻りとうございます」 「まあ、お前さんはそうだろう」
そう言うと、願海は声を出さずにゆったりと笑った。
為恭は願海の希望通り、隠居、命終、古墓、円相を描き加え、さらに童子が花を持って野辺に立つ図を巻頭に描きつけた。下図が出来上がると、すぐに彩色の本絵に取り掛かり、それが出来上がったのは年が明けた文久三年(一八六三)正月のことだった。絵巻の名前を願海阿闍梨絵巻にしようとしたが、願海に固辞されて「忘形見(わすれがたみ)」となった。絵巻は羅渓慈本の下に送られ、詞書が書かれることになった。
絵巻が完成したら綾衣を呼び寄せようと決めていた為恭は、早速狩野永岳に手紙を書いた。しかし戻ってきた返事には、寒さがまだ厳しいので連れて行けない、暖かくなるまで待って欲しいと書かれていた。紀州に比べて京ではまだ寒さが厳しいのかと意外な気がしたが、無理に来させて体を悪くされても困る。暖かくなって綾衣が来るのを楽しみにしながら、為恭は仏画を描くことに励んだ。
そんなある日、願海が「お前さんの石碑を建てようと思うのだがどうだろうか」と言い出した。 「石碑でございますか」
「そうだ。生きているうちに建てるから寿碑というやつだ。お前さんはわしの一生を絵に残してくれた。それならわしもお前さんの一生を何かの形で残したいと思ってな。しかしわしには絵は描けん。それなら寿碑という形はどうだろうかと思い付いてな」
「ありがたきお言葉でございます。しかしここに来たばかりの一介の絵師、いや今は一人の僧侶となっている身。そんなわたくしの碑を建てても大丈夫なのでしょうか」
「構わん、構わん。表は梵字で書いて目立たないようにして、裏に細かく顕彰文を入れるから」
為恭が承諾すると、願海は直ちに顕彰の碑文をこしらえた。
「式部大夫兼近江守菅原朝臣為恭は、平城京の人、京極黄門の裔(すえ)なり、出でて岡田の姓を冒し、菅原を称す。朝臣の人となり、雄偉超群、気(き)宇(う)沖?(ちゆうはく)、性画事を好み、皇国上古の画風を慕い、復古を以ておのが任となす。精励刻苦ここに数十年、ここにおいてその道大いに進み、世日本古様の画の中興と称す。余を以てこれを見るに、その功棠(こうとう)神禹(しんう)の下にあらず。文久二年秋八月、病に依って官を辞し、仏道に入って卍字坊と称す。吉祥すなわち寿碣(じゆけつ)を粉河寺御池坊三(さん)昧(まい)の側に建立し、以て浄因を結ぶ。心蓮坊光阿というは、大行満願海授くるところの名なり。
文久三季癸亥正月二十五日預修供養畢 御池坊現住職願海大悲誌」
願海は、石屋に命じて高さ一間余りの自然石に碑文を彫らせた。それを近くの御池山にある墓地の一郭に建てた。
願海の唱えるお経を隣で手を合わせて聞きながら、自分が死んでも寿碑はここに立ち続けるのだと思うと、為恭はその遙かな時間に目眩を覚えるほどだった。
碑文に書かれたほどの域には自分はまだ達していないという思いから、為恭はさらに仏画に打ち込み、「仏頂尊勝陀羅尼神仏降臨曼荼羅図」や「山越阿弥陀図」の大作を描き上げた。その間、永岳に何度か手紙を出したが、返事は一回しかなく、浪士たちの目が光っているので容易には連れて行けないと記されていた。綾衣への思慕は絵を描いている間は忘れられたが、筆を置くと途端に胸を締め付けた。ひょっとしたら重病にでもなっていて、それを告げられないため伯父が苦しい言い訳をしているのではないかとさえ思うようになった。
綾衣に会うために一度京に戻ろうかと思い始めた頃、為恭は本堂で一人の僧侶から、願海が苦境に陥っているという話を聞いた。理想家肌で、自分の正しいと思ったことは周囲の思惑など気にせずに実行していく願海。そんな彼を煙たがっている者たちも結構いるのだが、大阿闍梨で学頭僧の願海に表立って反対できない。そこで陰から彼の足を引っ張ろうとする動きもあるのだ。
「反対派の者たちは心蓮様が名高き絵師で、攘夷の連中に追われていることを知っております。もし侍たちが寺内を汚すようなことがあればゆゆしき問題であるのに、わざわざ碑を建てて心蓮様がここにいることを知らせるような真似をしてと騒いでおります。寿碑を建てられたのはやり過ぎかも知れません。大事になる前に何とかされた方がいいのではないでしょうか」
為恭は礼を言って御池坊に戻ると、願海の居室に行き、僧侶の話を伝えた。 「寿碑を撤去した方がいいのではないでしょうか」
「気にすることはない」と願海は笑って否定した。「わしを忌み嫌う連中はちょっとしたことでも揚げ足を取ろうとするのだ。現在の地位に安住し、それを脅かす者には難癖をつけて排除しようとする。仏道のなんたるかも分からない卑しい連中の言うことなど聞く必要はない。お前さんを守ることがどれほど仏道のためになるか、一枚の絵を観ただけでも分かるではないか」
しかし、事態は次第に願海排斥の方向に動いていった。輪王寺門跡にまで本坊弾劾の上書が届き、願海はそれに対する陳弁書を提出したが、効果はなく、ついに本山から隠退を命じられてしまった。
「わたくしが来たばかりにこんなことになってしまって。阿闍梨には申し訳ないと思っております」
「なあに、萍水(へいすい)浮雲の身なれば一所不在は覚悟の上さ。それよりもお前さんの身の振り方を考えねば。どこか当てでもあるか」 「いいえ」
「それではわしに任せてもらおうか」
何日か経って、願海は粉河寺の末寺である天福寺の住職を紹介してくれた。恵穏(えおん)という中年僧で、願海に同情している僧侶の一人だった。恵穏は堺にある光沢寺という寺の住職も兼任していて、その寺と関係のある安楽院という山伏寺に移ればどうかと提案してきた。
堺は京に近すぎないかと為恭は思った。ここ粉河では浪士たちの姿を見ることもなく安穏と暮らしていけたが、堺ではどうだろう。そのことを口にすると、
「堺はもともと商売で繁盛した土地柄ですので、武士はあまり立ち入りません。お隠れになるには最もよかろうかと思いますが」
と恵穏が言った。願海は比叡山の常楽院にひとまず腰を落ち着けるという。為恭はできれば一緒に行きたかったが、萍水浮雲の身になった願海に甘えるわけにはいかない。
ここより京に近くなるということは綾衣とも逢いやすくなるということだと為恭は思い直した。もっと近かった神光院でも身に危害が及ぶということはなかった。恵穏の言うとおり、堺は案外いいところかもしれん。
為恭が恵穏と共に御池坊を出たのは、文久三年(一八六三)五月二十五日の早朝だった。折しも小雨が降り出し、僧衣の上に蓑をつけ、網代笠を被った。山門のところまで願海が見送りに来てくれた。
「また、いつかお会いしとうございます」 為恭は網代笠を少し持ち上げて言った。
「釈迦牟尼仏のお導きによって、再び会える日がきっと来る。それまでわしはお前さんの描いた絵を眺めて、その日を待つことにするよ」
願海が笑顔で答えた。 参道をしばらく行って振り返ると、雨で白くけぶる中、山門のところで願海が合掌している姿が目に入った。
安楽院は湊の船待神社の境内にある神宮寺で、院主は柔和な顔をした五十過ぎの山伏だった。妻は院主よりも年上に見え、顎の尖った険のある顔をしている。
「事情があって世を忍んでおられる方なので、どうか気をつけてお世話していただければありがたい」 と恵穏が言うと、
「町中なので人の出入りは多ございますが、それでよければどうぞお気楽に」
と院主は答えた。妻はじっと為恭を見るだけで何も言わない。為恭は両手をつき、「こんな流浪の身を置いていただけることに感謝いたします」と頭を下げた。
何日かやっかいになってみると、安楽院は妻の勝ち気さで持っていることに気づいた。狭いところなので二人の会話も漏れ聞こえてくる。「あんな厄介者を……」と妻が愚痴をこぼしているのも耳にした。
昼日中は部屋に閉じ籠もり、体を動かすのは、夕方、境内に人通りが絶えた頃、ちょっと散歩するくらいだった。粉河寺ののびのびした生活に比べると息が詰まりそうだった。
為恭は絵を描くことで、それを発散するしかなかった。落款には「南山隠士」「吉祥寺」「眞蓮」「~廉」などと署名し、本名が分からないようにした。世話になっている御礼として院主の妻に与えると、彼女は大いに喜び、為恭の待遇ががらりと変わった。どうやらどこかに持って行って絵を売っているらしく、食事も急に豪勢になった。こんな絵で喜ばれるならと為恭はせっせと描き散らした。
そんな頃、一人の男が安楽院に為恭を訪ねてきた。まさか侍ではと為恭は緊張したが、院主の案内で部屋に入ってきたのは、大柄で立派な顎髭を生やした商人風の男だった。院主は、男を今市町の西で米穀や海産物、肥料などの大問屋を営んでいる辻本徳兵衛だと紹介した。屋号を大和屋、通称、大徳で知られているという。茶、俳句、書画、能狂言などに心得のある数寄者で、大坂や京にもその方面の知己が大勢いるらしい。
大徳は手に為恭の絵を持っていた。 「この絵を見せてもらいまして、どんなお方がお描きになったのか、是非お目に掛かりたいとやって参りました」
「漂泊の身の乞食坊主でございます」
「わたくしも今まで何人もの絵師の方をお泊めして、絵を描いてもらいましたが、この絵の線描は並ではないとすぐに分かりました。さぞかし名のあるお方ではないかと。わたくしの方にお出で願うことはできないでしょうか」
「今までどういうお方が寄寓されたのですか」
大徳が指を折りながら絵師の名前を挙げていく。知っている名前もあれば知らない名前もあった。その中に、狩野永岳という名前が出てきた。
「狩野永岳はわたくしの伯父でございます」 「え。それではあなた様は……」 「……岡田為恭というのが出家をする前の本名でございます」
「あれ、まあ」 大徳は目を見はると、顎髭をしごきながらうなずいた。 「永岳はんのお父さんも来やはったことがございますよ」
「影山洞玉は祖父でございます」 「ということは、確かお父様は狩野永泰様ですか」 「さようでございます」
「何と、縁がございますなあ」 為恭は自分が逃げている事情を話した。大徳はおおよそのことは噂で知っていて、為恭の話を聞くと大いに同情した。
「そういうことでしたら、是非ともわたくしにお任せ下さい」
大徳の提案で、為恭は隠れ家を移ることになった。院主の妻は最初渋っていたが、大徳から金が渡ったらしく、最後は快く送り出してくれた。
為恭の事情を考慮して、人の出入りの多い大徳の家ではなく、親戚の間(ま)中(なか)惣兵衛の別荘に隠れることになった。
そこは女隠居と孫の彦四郎という男の子、それに下女の三人だけの住まいで、奥には茶席ふうの離れ座敷があった。寂れた庭もどこか風情を感じさせる。市中にあるとは思えないほど静かで、為恭はほっと一息ついた。
ようやく堺での暮らしに慣れてくると、為恭は大徳の許可を得て、南宗寺などの古刹を巡り、古物の写生に力を注いだ。侍の姿をほとんど見ない生活に為恭の警戒心も鈍磨し、浜新地にある常磐家という料理屋にも度々訪れるようになった。そこで京風の料理を食べていると、一目でいいから京の町を見てみたいという熱病のような思いが湧いてきた。粉河では遠すぎて京への思いは封印してきたが、ここは京とは目と鼻の先なのだ。
ある晩、夕食を運んできた彦四郎に、箸袋に書いた言葉を見せた。 「しびれ? 何のことでございましょう」
「しびれしびれ京へ上れ、という言葉を知りませんか」 「いいえ」 「足がしびれた時に治すおまじないですよ。京に行けば、しびれが治るのです」
「心蓮様は京にお出でになりたいのですか」 「このしびれを治すにはそれしかありません」
為恭は大徳に、京に行って綾衣に逢いたいと申し出た。しかし大徳はまだ危険だからと認めてくれない。それなら手紙でも、と言っても、首を横に振った。
「せめて私が生きていることだけでも伝えたいのです」 そう言うと、しばらく思案していた大徳は、
「それなら狩野永岳様にお出しなさい。伯父上から間接的にご内儀に伝えてもらえばいいのではないですか」
為恭は早速手紙を書いた。すると、三日後、永岳が訪ねてきた。思わぬ再会に為恭は驚くと同時に、涙が溢れてきた。
「伯父上、為恭はまだ生きております」 「うむ、よかった、よかった……」 永岳も涙をこぼした。 「それで、綾衣は息災でしょうか」
「今は八幡の方に帰っておる」 「多(おおの)家ではないのですか」 「実家の方が心安くていいのだろう」
「新善法寺(しんぜんぽうじ)家ですか」 「いや、林の方だ」
実の両親のところではなく、養父母の家に身を寄せているのが引っ掛かったが、尊皇攘夷の敵と見なされている自分を新善法寺家は許していないのかもしれないという気がした。
「綾衣に会っていただけましたか」 手紙で、綾衣に会って自分が生きていることを伝えて欲しいと書いておいたのだ。 「手紙で知らせておいた」
綾衣の様子を知りたかった為恭はがっかりした。それでは元気にしているかどうか分からないのでは、と思わず口にしかけたが、伯父を難じることになると思いとどまった。
「ところで京の治安は少しはよくなりましたでしょうか」
「まあ、ちょっとはよくなっておるかな。三月に将軍の上洛があって、その時江戸から大勢の侍が護衛のためにやって来てな。今はその侍たちが新撰組と名乗って京の町を巡回しておる。攘夷を叫んでいた公家たちも長州藩と共に朝廷から追放されたらしいし……」
「ということは、もう京に帰っても大丈夫ということですか」
「馬鹿を言うな。尊皇攘夷の浪士たちと今でも血なまぐさい斬り合いが起こっておる。まだまだ危険だ」
「一度、綾衣に会って元気かどうか確かめたいのです」 「分かった。わしが会って手紙で知らせてやるから」
その日永岳は大徳の家に泊まって、翌日帰っていった。
為恭は伯父からの手紙を今か今かと待っていたが、一向に届かなかった。ひょっとしたら重病に罹っていて知らせることができないのかも、と疑心暗鬼に駆られた。我慢できず、為恭は大徳に京に行きたいと頼み込んだ。
大徳はその頼みを認めなかったが、代わりに綾衣に手紙を書くことは許してくれた。それで早速林家宛に手紙を出したが、その返事も返ってこなかった。いよいよ、病に伏せっているに違いないと思い込んだ為恭は大徳に京行きを告げ、許可がなくとも一人で行くと申し立てた。さすがに大徳は困り果て、それなら駕籠を用意すると言った。
「八幡までの往き帰り、決して駕籠から外に出ないようにしてくださいよ。ご内儀のところ以外、余計なところに立ち寄らないように」
大徳の言いつけを守ると約束して、次の日の明け六つ、駕籠に乗った。道中、座り続ける苦痛も綾衣に会えると思うと、むしろ喜びだった。
林家の前に着いたのは夕方で、駕籠から降りるとさすがに足がふらついた。伸びをすると関節がぐきぐきと鳴った。
門を入り、玄関の戸を開ける。薄暗がりの中で訪うと、林の家内が姿を見せた。 「どちら様でございますか」
「わたくしです。岡田為恭でございます」 「え」 家内は一歩近づき、為恭の顔を下から窺った。 「あれ、まあ。そんなお姿で」
為恭は自分の僧衣に改めて目をやった。 「出家をしましたので、こんな姿になっております」 「主人を呼んで参りますのでしばらくお待ちを」
そう言って急ぎ足で林の家内は引っ込んだが、しばらく待っても誰も現れなかった。いい加減いらいらし出した頃ようやく、行灯を手にした林の家内と林宇一郎が奥から出てきた。
「岡田様、ようこそいらっしゃいました」と宇一郎が頭を下げた。「ご無事で何よりでございます」
「綾衣がこちらにご厄介になっていると聞いたものですから」
「ええ、確かに綾衣様はわたくしどものところにいらっしゃいますが、ちょっとお加減が悪いので……」 「まさか、重い病気では……」
何年か前に流行ったコロリのことが頭にあった。 「いや、そういう訳ではありませんが……」 「だったら会わせて下さい」
宇一郎の煮え切らない態度に為恭はつい強い口調になった。
林の家内が宇一郎に何やら耳打ちをする。宇一郎はうなずくと「ではご案内いたします」と為恭を上げてくれた。
二人の後に付いてギシギシとなる廊下を行き、奥の障子の前に来た。宇一郎が障子を開け、林の家内が行灯をかざした。 「あれ!」
家内が口に手を当てた。宇一郎が急いで入っていく。後について入室すると、薄明かりの中、白い着物を着て突っ伏している女の姿が見えた。
「綾衣様!」
宇一郎が屈み込んで女の肩に手を掛けた。家内が女の側に行灯を置く。それでようやく女の姿がはっきりと見えた。蒲団からはみ出して畳の上に突っ伏した女は、右手に裁ち鋏を持ち、左手に長い髪の毛を握っていた。肩が時折ひくっと動いた。
「なんてことを」
家内が声を震わせた。宇一郎が女を抱き起こす。短くなったざんばら髪が顔に掛かっているが、まさに綾衣だった。ふっくらしていた頬がこけている。閉じた目から流れた涙に行灯の光が反射した。
「綾衣」 為恭は腰を下ろし、髪の毛を握っている彼女の左手を両手で包んだ。綾衣がうっすらと目を開けた。
「お前様」綾衣が掠れた声で言った。「わたくしは大罪を犯してしもたんどす。どうぞお前様の気の済むように罰してくださいまし」 大罪?
「何があったのだ」 為恭は宇一郎に目を向けた。 「それが実は……」
宇一郎は自分の家内を見やった。彼女も困惑の表情を浮かべている。 「お父様、わたくしが話します」
綾衣は宇一郎の腕を逃れると居住まいを正し、鋏と髪の毛を並べるように畳の上に置いた。 「お父様、お母様、私たちだけにしてもらえまへんか」
宇一郎と家内が出て行く。綾衣は両手を付き、深々と頭を下げた。
「わたくしは多(おおの)家の美麿(よしまろ)と不義密通の罪を犯してしまいました」 「何!」
美麿は為恭の姉たつの嫁いだ多忠誠(おおのただなる)の先妻の長男だ。何年か前、彼が元服した時に会ったことがある。細面のなよなよとした男である。何と言ったらいいのか、唇が震えてうまく言葉が出てこない。
「……美麿はまだ子供ではないのか」 ようようそれだけ言った。 「二十歳でございました」 「どうしてそんな年下の男と……」
「お前様が殺されたという知らせが届くのではないかとびくびくしながら暮らしておりますと、もう苦しゅうて苦しゅうて。美麿からお姉様、お姉様と慕われているうちに、つい、心を許してしまったのでございます」
ざんばら髪の綾衣がすがるような目でこちらを見上げている。その目を見詰めていると、怒りというより情けなさに囚われた。一目でいいから綾衣に会いたいと思っていた自分。そんな自分をもう一人の自分が嗤っている。
ふっと、姉たつの元夫、井上藤之進の呪いのことが頭を掠めた。未だにあいつは俺のことを呪っているに違いない。その力がこんな形になって現れたのだ。……いや、そんなことがあるはずがない。もう十年も前の話ではないか。
為恭の脳裡に願海の姿が浮かんだ。願海に会いたい。会って自分がどうすべきか教えてもらいたい。為恭は目を閉じ、頭の中の願海に両手を合わせた。思わず知らず口の中でナウボバギャバテイ、タレイロキャ、ハラチビシシュダヤ……と陀羅尼を唱えていた。
「お前様」 綾衣の声で目を開けた。彼女が取りすがってくる。
「どうぞわたくしを罰して下さいまし。お前様に殺されてもわたくしは本望でございます」
為恭は綾衣の体を抱き留めた。生ぐさい体臭が鼻を突く。すっかり痩せていて、その骨張った体に為恭は驚いた。
「こんなに痩せて……」思わず声が出た。 「赤子が流れたのでございます」 「え」
為恭は体を離して綾衣の目を見た。彼女は目を伏せた。 「美麿の子でございました」 「何と!」
二人の間では子供ができなかったのに、不義密通でできるとは……。 「美麿はそのことを知っておるのか」 「……美麿は自ら命を絶ちました」
「それはまことか」 「わたくしがいけなかったのでございます。二度と逢わないでおこうと決めたために……」
こんなところに来るのではなかったと為恭は唇を噛んだ。何も知らないままでいた方がよかった。いや、いっそのこと浪士たちに斬り殺されていた方がどんなによかったことか。何のために自分は逃げていたのだ。
為恭はふらふらと立ち上がった。 「お前様、どうぞわたくしを罰して……」
「そなたは赤子もなくし、体も痩せ、髪の毛も切った。それで十分に罰せられた。わしが罰することもない」
「それではわたくしをどうかお許し下さいまし」 「今はまだそんな気持ちにはなれぬ」
為恭は部屋を出た。林家に留まることは矜持が許さず、かといってこのまま去ってしまうと綾衣は自死するかもしれない。 「願海様……」
為恭は呟いた。その時、お前さんは出家したんじゃろうという願海の言葉が聞こえてきた。世俗を捨てたのではなかったか。
わたくしはまだ捨てきれませぬ。
様子を窺っていた林宇一郎と家内が、どうぞ一晩綾衣の側にいてくれと引き留めたが、為恭はその手を振り払い、待たせてあった駕籠に乗り込んだ。月夜の道を枚方宿まで行き、そこで一泊して堺に戻った。
十二
戻った晩に大徳が惣兵衛の別荘にやって来た。どうでしたと聞かれたが、とても正直に話す気にはなれず、「体調が悪いようで臥(ふ)せっておりました。しかし久しぶりに会って安心いたしました」とぼやかした。
「ほう、それはいけませんな。ご心配でしょう」 「はい」 「だったら、こんなことをお願いするのはまずいですかな」 「何のことです」
「実は娘のお京がこの度、結婚することになりまして、嫁入り道具として一つ屏風絵でも描いてもらおうかと考えておるのですが……」
「それはめでたいことでございますな」 「……如何でございますか」
大徳が遠慮がちに言う。こんな時にこそ絵を描いていた方がいいと為恭は思った。余計なことを考えなくてもすむ。 「お引き受けいたします」
「よろしゅうございますか」大徳の顔が綻んだ。
聞くと、嫁入り先は大坂船場の海産物問屋で、盛大な式になりそうだった。為恭は屏風絵だけではなく、調度品も差配いたしましょうと答えて、大徳をさらに喜ばせた。和宮の時の経験を話しているうちに、和宮降嫁図を描けばちょうどいいと思い付いた。
次の日から早速下絵作りに取り掛かった。参考にする図や文献など一つもなかったが、記憶している有職故実や様々な絵で十分だった。ああでもない、こうでもないと考えていると、自分が絵の世界に入り込んでいる感覚があり、現実を忘れることができた。
世話になっている大徳のために、できるだけいい物を作ろうと紙や絵具も最上の物を求めた。
昼間は彩管を握って絵のことだけを考えておればよかったが、夜、寝床に入ると綾衣のざんばら髪の顔が浮かんでくる。あの時、林の家に留まって一晩懇ろに過ごした方がよかったのではないか。ひょっとしたら綾衣は自死するかも知れぬ。綾衣が裁ち鋏で喉を突いている姿が何度拭っても脳裡に現れ、為恭を苦しめた。
下絵ができあがり、本絵に取り組み始めた、ある日、お客様がお出でですと部屋の外から彦四郎の声がした。 「どうぞ」と答えると襖が開いた。
そこに立っていたのは綾衣だった。為恭の指から細筆が落ちそうになり、あわてて握り直した。 「どうした、こんなところへ」
綾衣は切り下げ髪に藤紫の着物を着、手首には数珠を巻いている。頬は元のふくよかさを取り戻していた。 「お前様」
綾衣は走り寄ると、為恭の膝元にくずおれた。
「お前様のお許しをいただけへんと毎日が不安なんどす。このままお前様に会えないと思うと居ても立ってもおられず、ご迷惑が掛かるのも承知の上で参りました。どうぞ一言許すとおっしゃってくださいまし」
先日会った時には感じなかった香の匂いが鼻腔を打った。 「ここはそなたの来るところではない」
「嫌でございます。もう、お前様と離れて一人でいることなどできまへん。どうかここに置いて下さいまし」
綾衣を抱き留めていると、自死しなかったという安堵が胸の内に広がり、不義密通の罪などどうでもいいように思えてくる。綾衣を一人にしたのが間違いの元だったのだ。世の中がこんなに騒然としていなかったなら、二人して京で仲睦まじく暮らしていたはずなのだ。自分が隠れなくてはならない、こんな時代がすべての元凶なのだ。
彦四郎に綾衣が泊まることを告げると、しばらくして大徳が姿を見せた。 「主人が大変お世話になっております」
綾衣は三つ指をつき、微笑みを浮かべながら頭を下げた。その様子をじっと見ていた大徳は「誰かに後をつけられませんでしたか」と憮然とした面持ちで聞いた。
「家の前から駕籠で来ましたので決してそのようなことは……」 「それはよかった。では、今日のうちにどうぞお帰りを……」 「え」
綾衣が為恭の顔を見た。 「一晩くらいいいのではと思うのですが」と為恭が取りなした。
「心蓮様は形ばかりとはいえ出家された身。そこへ女性(によしよう)
が出入りするとなると、たちまち噂が広がります。ましてやご内儀のように美しいお方なら尚更のこと。世間の口に戸を立てることはできません」
「おとなしゅうこの部屋でじっとしておりますので、どうぞお許しを」 大徳は腕を組んで険しい表情をしていたが、
「一晩だけですぞ。それと今回限り。そう約束していただけるなら認めましょう」 「お約束いたします」
しかし、綾衣は二晩泊まり、駕籠で帰っていった。そして十日ほどしてまたやって来て、今度は三晩泊まっていった。大徳はもう綾衣には直接言わず、為恭に注意したが、「妻が側にいると仕事がはかどるのです。屏風絵と調度品ができあがるまではどうぞお見逃しを」と為恭が頭を下げると、しぶしぶといった顔で黙ってしまった。
事実、綾衣がいる間ばかりではなく、いない間も、彼女の訪問を待っている心情が絵を描かせる力になった。婚礼衣装を綾衣に着させて写生し、それを和宮の下絵に使い、その下絵を大徳に見せて実際に綾衣が役に立っていることを示したりした。
屏風の裏には金銀砂子を振るつもりだったが、折角の大きな画面があるのだからと、冬の雪、夏の月、春の花を詠む和歌を題材にして雪月花を描いた。
差配した鏡台や厨子棚、化粧道具などの調度品もできあがり、屏風絵と一緒にそれらを大徳の店に運んでお披露目をすると、町中の評判になった。大徳は御礼として金品を差し出したが、為恭は頑としてそれを受け取らなかった。世話になっている御礼として描いたのであり、思う存分仕事ができただけで十分だった。
何日か経って、納めた屏風絵に一ヵ所衣装の間違いがあることに気づいた為恭は大徳の店に向かった。しかし辻を曲がったところでかの店に浪士ふうの侍二人が入るのを目にした。為恭はどきりとした。今まで町中を歩いても侍の姿はほとんど見なかったので、まさかという思いがした。
為恭は急ぎ足で引き返した。もしやつらが自分を探している浪士たちだったら、屏風絵に必ず目を留めるはずだ。落款を心蓮にしておいてよかったと為恭は胸を撫で下ろした。衣装の文様などから画題が和宮降嫁図だと気づかれれば心蓮という絵師に引っ掛かりを覚えるかもしれないが、そんな知識を持っておる者などいないだろう。……いや、違う。やつらは為恭という絵師を探しているのだ。新しい絵があれば落款がどうであろうと、当然その絵師が当人ではないかと疑うに決まっている。大徳に絵師のことを尋ねるに違いない。
動悸が激しくなった。隠れ家に戻ってもじっとしていられず、すぐにどこかに逃れた方がいいのかと思案が乱れた。彦四郎の運んでくれた晩飯も喉を通らず、大半を残してしまった。
夜半前、床に入っても寝られず悶々としていた為恭の耳に、玄関の戸を叩く音が聞こえてきた。体を堅くする。彦四郎が出て行ったようで、やり取りの声が聞こえてくる。ふっと京での晩を思い出し、為恭は跳ね起きた。庭に面した障子を開け、縁側に出ると、裸足のまま庭に飛び降り、床下に潜り込んだ。四つん這いでできるだけ奥に進む。蜘蛛の巣の絡んだ頭を抱え、蹲った。
どのくらい経っただろうか、庭の方から「心蓮様」という声が聞こえてきた。大徳だ。やはり彼が浪士を連れてきたか。為恭は答えず、じっとしていた。
「そこにいらっしゃるのでしょう。まだ浪士たちには見つかっておりませんよ」
見ると、行灯の灯りが見えた。為恭は恐る恐る這っていき、大徳の他に人影が見えないことを確認してから、床下を出た。
「昼間、店に浪士が来ていたでしょう」 「どうしてご存じで」
「屏風絵に間違いがあるのに気づいて直しにいこうとそちらに行ったら、たまたま見掛けたのです」
「それはようございました。心蓮様がお出でなら危ないところでした」 「屏風絵を見てやつらは何か言いましたか」 「屏風絵?」
「心蓮という落款に気づかれると、大徳さんが責められるのではないかと……」 「はは、お披露目は前日に終わって、もう片付けておりましたよ」
「そうでしたか」
「確かに屏風絵を見られると私も言い訳するのが難しかったかもしれませんが、心蓮様の居所を白状するほど弱い人間ではございませんよ。お見それになってはいけません」
言葉の調子は強いが、口元には笑みを浮かべている。それがかえって大徳の残念な気持ちを表していて、為恭は恐縮するばかりだった。
二人は部屋に戻った。
「やつらはご内儀が堺に通っているという噂を聞きつけて来たようです。今回は知らぬ存ぜぬを通しましたが、早晩ここを突き止められることは必定です。逃げなければなりません」
やはり綾衣が来たのはまずかったのか。逃げ場を失った鼠が蔵の隅に追い立てられるような焦燥感がじりじりと足元から上ってくる。
「どこか隠れる場所の心当たりはありませんか」
急に言われても思い浮かばない。願海がどこかの住職に決まっていたらそこに逃れることもできたが、この前出した手紙の返事ではまだ安楽院にいて萍水(へいすい)浮雲の身であると書いていた。神光院に戻ろうかと思った時、智満に渡した行成卿(こうぜいきよう)の書巻を思い出した。大和の内山永久寺の亮(りよう)珍(ちん)上人を頼るのはどうだろう。名案に思えた。
そのことを告げると大徳も賛成してくれた。
「それはよいところに気づかれました。私も一度参ったことがありますが、山深くて隠れるには絶好の場所でしょう」
早速明け六つにはここを逃れることにし、その準備に追われた。一時ほどの仮眠を取り、荷物を抱えて玄関を出た。朝ぼらけの中、駕籠が用意されていた。見送りに来た大徳と彦四郎に世話になった御礼を言い、「命があれば、いつか屏風絵の訂正に参ります」と告げて為恭は駕籠に乗った。
駕籠に揺られながら、いつまでこんな隠れ家を転々とする生活を続けなければならないのかと為恭は思った。願海と同じ萍水浮雲の身でありながら、願海のようには煩悩を捨てきれず、しかもいつ終わるともしれない。為恭は嘆息の代わりに陀羅尼を唱えることで、自分の弱気を払いのけた。
内山永久寺の西門に着いた時には、日が大分傾いていた。小高い山の上にあるせいか町中よりも空気がひんやりとしている。駕籠から降りて背筋を伸ばし、足腰の凝りをほぐしてから、為恭は長い築地塀に挟まれた西門を潜った。池の畔にある何本もの桜はすでに葉桜になっていたが、境内のあちこちには藤が咲き誇っている。樹木に囲まれたいくつかの塔頭を目にしながら参道を行くと、見慣れた本堂が見えてきた。
社務所で亮珍上人にお会いしたい旨を告げると、名前を尋ねられた。
「心蓮と申します。出家する前は岡田為恭と名乗っておりましたので、その名前をお伝え願えれば……」
しばらくすると、眉も髭も白い、童顔の亮珍上人が姿を見せた。 「本当に岡田為恭殿であるか」
上人は目を見開いていたが、口元は笑っている。 「ご無沙汰しております」 「何年ぶりかな」 「十年ほどになるでしょうか」
「ほお、もうそんなになるか」 上人は本堂に繋がる方(ほう)丈(じよう)の小部屋に招き入れてくれた。
為恭が事情を説明すると、初耳だったらしく上人は驚いた顔をした。 「それでそんな僧形をされておるのか」
「最初は敵の目を欺く方便として出家いたしましたが、願海様とご一緒するうちに本当の僧になるのも悪くはないかと思っているのでございます」
「それではここで修行なさるか」 「ありがたきお言葉なれど、妻を娶っておりますゆえ、自分の一存では……」 「はは、それは難儀なことですな」
上人は為恭を匿うことを快く承知してくれ、寺内の蓮乗院に住まうことになった。事情が事情だけに寺の外には決して出ないと約束させられた。
以前無理を言って頂戴した行成卿の書巻を神光院の智満という僧侶に託したことを告げ、何があっても我が身から離さずという責務を果たせなかったことを詫びると、
「書巻にとってはむしろその方がよかった。気になさることはありませんぞ」 と上人はうなずいた。
北に三里ほど行けば奈良の古都があり、そこには春日権現験記絵巻の模写で知り合った春日大社社家の者や手向山宮司など大勢の友人知己がいて、京に次ぐ馴染みの土地なのに訪れることもできない。
ただ、広い寺内には阿弥陀堂や観音堂、大日堂などの堂塔伽藍が建ちつらなり、松の緑やツツジなどの花が咲き、散歩するだけで心を慰めてくれた。
そんなある日、小坊主が「京からお客様が見えられました」と奥座敷に告げに来た。 「侍か」 「いいえ、僧侶の方でございます」
「願海様か!」
為恭は急いで玄関に出た。そこには綾衣の実家で下僕をしている吉平という年寄りがいて、為恭を見ると、腰を折って深々と頭を下げた。玄関の外には一人の僧が網代笠を被って佇んでいた。
「吉平、どうしてこんなところに」 「綾衣様をお連れしました」 「え」
表にいた僧が中に入ってきて、網代笠を取った。綾衣だった。頭を剃り上げている。為恭は吃驚(びつくり)した。
「どうした、そなた。そんな姿で……」 「こうでもしなければここに来れまへんもの」 「出家したのか」
「流れた赤子と美麿の供養の意味もございます」 為恭は綾衣の目をじっと見た。 「わしがここにいるというのは大徳に聞いたのか」
「さようでございます」 「そなたが堺に通ってきたお蔭で危なくなったというのは聞いておるか」 「はい」
「ではどうしてここに来たのだ」
綾衣は目を伏せ、悲しそうな顔をした。その憂い顔に為恭はどきりとした。青々とした形のよい頭、瓜実顔につんと尖った顎。見慣れぬ女性(によしよう)がそこに立っているようだった。
「お前様はまだわたくしをお許しになってはくださいまへん。悲しゅうございます」 為恭は思わず三和土に降り立ち、綾衣の手を取った。
「何を言うか。わしはとうにそなたを許しておる。そなたが来てくれてどんなに嬉しいことか」 「そうどしたらわたくしをここに置いていただけまへんか」
「ここで暮らすというのか」 「はい。堺では通っていたのが悪かったのでございます。ここにずっとおれば大丈夫でございます」
確かにと為恭は思った。綾衣さえここにおれば、浪士たちに見つかる気遣いはない。彼の頭には、すでに京でのような綾衣と二人だけの暮らしが浮かんでいた。ただ、問題は寺内でそんな暮らしが許されるかどうかだった。
為恭は綾衣を連れて亮珍上人の居室を訪ねた。綾衣を紹介すると、 「こんな器量のいい尼僧は見たことがない。冥途の土産になったわい」
と上人はにこやかに笑った。為恭が恐る恐る一緒に暮らしたい旨を告げると、上人はしばらく考えてから、
「形の上といえども両人は出家されておるので寺内で一緒に暮らすことは許されぬ。しかし寺の外に出して浪士に殺されては仏の道にも反する。従ってお二人とも今すぐ還俗なされて、客人としてお迎えすることにいたしましょう」
綾衣が来て、永久寺の外に出られないという鬱屈がすっかり消えてしまい、為恭は久しぶりに筆を取った。上人の所蔵している書巻を筆写するのを手始めに、寺内の大日堂や真言堂の障子絵である「両部大経感得図」や「真言八祖行状図」を写したりした。綾衣は一緒に留まっている吉平を連れて、広い境内を散策し、あそこに明神様が、とか芭蕉の句碑がありましたなどと教えてくれた。
元治元年(一八六四)五月五日、端午の節句だった。といっても寺では節句の行事など何一つ行われないので為恭は寂しい思いをした。京にいた時は床の間に鎧櫃を飾り、衣冠束帯姿になって、菖蒲酒を楽しんだりしたものだ。綾衣も「幟を立てたり、菖蒲を葺いたりしとうございます。粽(ちまき)も食べてみたいし」と懐かしがった。
「あのいい香りを嗅いでみたいな」
「そうどすわ」と綾衣が顔を上げた。「菖蒲を探してきまひょ。二人で楽しむだけやったら、寺方も何も言わへんのと違いますか」
「そうは言っても境内のどこにも菖蒲は生えておらんぞ」 「寺の外ならどこかにあるのでは」 「それはいかん。約束に反することはできん」
「だったら吉平に行かせるのはどうでっしゃろ」 早速吉平を呼んで菖蒲を探しに行かせた。
「菖蒲がなければ花かつみでもいいのだが……」と為恭が呟くと、 「実(さね)方(かた)朝臣(あそん)様でございますね」
と綾衣が答えた。平安中期、藤原実方が陸奥(みちのく)に流された時、菖蒲がなかったので代わりに安(あ)積(さか)の沼のかつみという花を取ってきて軒に葺いたという話が残っているのだ。
「京で育った者なら年中行事の風習を懐かしむのは今も昔も変わりがない。朝臣の気持ちがわしには痛いほど分かる」
「それはわたくしも同じでございます。来年には京で端午の節句を祝うことができたらどんなに嬉しいことか」 「本当にそうなれば……」
為恭の脳裡に、この二年間の逃亡生活の光景が去来した。 一時ほど経って吉平が戻ってきた。手に菖蒲の葉を持っている。
「粽もいただいて参りました」 吉平が菖蒲と一緒につかんでいた粽を見せた。 「おお」
為恭は菖蒲の束を受け取ると、半分を綾衣に渡し、残りを鼻に押し当てた。清涼な香りが鼻腔を満たし、ふっと泣きたいような気持ちになった。綾衣も鼻を近づけ、大きく息を吸っている。
「邪気が払われるようどすわ」 為恭も同感だった。清新な気分になり、背筋がぴんと伸びた。粽は一つだけで、それを三つに分けて吉平と共に食した。
昼過ぎ、遅めの昼餉を食べようと準備していた時、「大徳というお方がお見えになりました」と吉平が告げに来た。
玄関に出ると、確かに顎髭姿の大徳が立っていた。ひどく汗を掻いており、しきりに手拭いで顔を拭っている。 「どうしました、こんなところに」
「先生に一つお願いがございまして……」 「何でしょう」
「間中惣兵衛のところで今度祝い事がございまして、是非とも先生にお出でいただきたいと。その時屏風絵でも描いていただければありがたいと申しておりまして……」
「堺は危なくありませんか」
「浪士たちが姿を見せたのは一回きりで、あの後とんと見掛けません。先生がおられないことが分かって諦めたのでございましょう」
「祝い事はいつなのですか」 「明日でございます。ですから私がこうやってお迎えに参りましたわけで」 その時、奥から綾衣が出てきた。
「大徳様、ご無沙汰しております」 「ご内儀ですか」大徳が目を丸くした。「また思い切ったお姿になられて……」
「こうでもせえへんかったら主人の側におれませんもの」 そう言うと、綾衣は口に手を当てて笑った。
「お昼、まだでしょう。どうです、ご一緒に」と為恭が勧めると、 「いや、私はここでお待ちしております」
「そんなこと、言わはらんと」綾衣が手をひらひらさせた。「精進料理なんてお口に合わないかも知れまへんけど、たまにはよろしおすやろ」
大徳は仕方がないというように苦笑いをしながら、部屋に上がった。
居室の入り口に菖蒲が紐で吊り下げられているのを見て、「端午の節句でございましたか」と大徳が言った。
「寺方ではお祝いをしやはりませんので、せめて邪気払いにと思いまして」と綾衣が答えた。「大徳さんのところではさぞかし盛大に飾っておられるのやおへんか」
「え、……ああ、まあ女房が何やら忙しくしておりました」 大徳が手拭いで顔を拭った。
吉平がもう一つの膳を用意する。高野豆腐と椎茸の炊き合わせとヒジキの煮物、それに味噌汁、ご飯という簡単な献立だった。
「ところで間惣(けんそう)さんのお祝い事とは何なんですか」 為恭は味噌汁を一口飲んでから尋ねた。
「……ああ、確か彦四郎の元服とか申しておりました」 大徳が口ごもりながら答えた。 「おお、それは是非とも伺わねばなりませんな」
為恭が食べ終わっても、大徳はそれぞれほんの一口食べただけで、ご飯のお代わりもしなかった。 「大徳様、やはりお口に合いまへんどしたか」
綾衣が心配そうに尋ねた。 「いいえ。風邪が治ったばかりで食欲がないのでございます」 「それは無理にお勧めして申し訳おまへんどした」
食事がすみ、隣の部屋で出かける準備をした。木蘭(もくらん)の法衣に着替えるのを手伝っていた綾衣は「わたくし、何だか気が進みまへんわ」と耳元で囁いた。
「どうしてだ」 「何となく」
「心配するな。間惣さんには今まで散々お世話になったのだ。彦四郎の元服姿も見てみたいし。恩返しをするいい機会だ。ついでに大徳さんの屏風絵も修正してこようと思っておる」
「分かりました。それでは十分お気をつけて」
大徳は駕籠で来ていて、為恭はそれに乗った。大徳は途中まで一緒に歩き、宿のあるところで駕籠を拾うと言う。
初夏の陽気で、駕籠の中は幾分暑かったが、走っていると風が垂れの隙間から入り込んできて気持ちがよかった。二人の駕籠かきの呼吸が合っていて乗り心地がよく、目の前の吊り紐を両手でつかみつつ、彦四郎のためにどんな絵を描こうかと思案した。
せいぜい一日か二日しか居れないことを考えると、二曲一隻の屏風絵がいいかもしれない。彩色はせずに白描なら、短時間で仕上げることができる。いや、うっすらでも色を施した方が見栄えがするか。題材は何にするか。元服にふさわしい図柄なら、楠木正成子別れの図はどうだろう。本来なら湊川合戦に向かう途中での別れなので正成は鎧兜姿なのだが、墨一色なら平服の方がごちゃごちゃせずにすっきりするはず。いや、やはり描くとすれば史実に則って鎧兜を描くべきだろう。右隻(うせき)に鎧兜姿の正成、左隻に平服姿の正行を描いて、部下たちの姿は省略する。これなら彩色もそんなに時間はかからないはず。鎧兜の形や色も正確を期すのなら資料に当たらなければならないが、記憶の中にあるもので十分だろう。ただ、服装に彩色を施すのなら、背景にも何か色を入れた方が映えるのは間違いない。前もって分かっていたら金箔を貼った屏風でも用意させたのだが。
考えているうちに次第にうとうとしてきて、もうすでに堺に着いて間中惣兵衛の別荘で屏風に向かって筆を動かしている。楠木正成を描き、息子の正行を仕上げると、屏風を立てそれに見入っている。と思ううちに屏風が祇園社にある訥言の若松図に変わり、自分も子供に還(かえ)っている。ああ、凄い絵だ。まだ自分はここにいると思っているとその絵が伴大納言絵詞に変わり、春日権現験記(かすがごんげんけんき)絵巻、法然上人絵伝、大樹寺の円融院天皇子日御遊之図や三条実房茸狩図、金刀比羅宮の雲龍図、願海のために描いた忘形見へと次々に変わり、それらが渦のように回って闇の中に消えていった。
「その駕籠、待てえ」 怒鳴り声で目が覚めた。一瞬、自分がどこにいるか分からず、駕籠の吊り紐に手首を通していることに気づいた。
もう、堺か。
駕籠が停止し、前方に投げ出される。体が一瞬浮いたかと思うとどんと下に落ちた。はっと身構えた時、右の太腿を刺し貫く鋭い痛みを感じた。 「ひぃ」
為恭は反対側の垂れを上げ、四つん這いで外に出た。
その時、光がさっと目の前を通り過ぎた。首に衝撃があり、ごりっという音が耳の奥に響いた。そのまま顔面が小石混じりの地面に叩きつけられる。ぬるりとした液体が頸筋を垂れ、口の中に入ってきた。鉄錆の臭いがし、吐き出すと地面に赤が散った。為恭は両手を踏ん張って頭を上げたが、再び首に衝撃を受け、次の瞬間目の前に闇が降りた。
*
翌日の早朝、大坂南御堂近くの呉服屋の女主人がお参りに来た時、石灯籠の火袋の中に人の首のようなものを見つけた。人形かと思って近づいたところ、それが坊主頭の生首だったので、大慌てで奉行所に届けた。
役人が来て調べたところ、生首は奪われないように耳に穴を開け、鎖を通して縛られており、その下には貼り紙がしてあった。 岡田為恭
此者王城の下に生育しながら、尊攘の大典を忘却し、前(さき)に長野主膳に黨(とう)し、後に島田左近に組し、或いは酒井若狭守に媚び、私慾を遂げんがために正義を排し、正士を害し、其罪枚挙に遑(いとま)あらず、就中(なかんずく)廢流獻毒(はいりゆうけんどく)逆謀(ぎやくぼう)に預かり候は天地に容れざる大罪なり、是を以て先年斬戮(ざんりく)せんと欲し候處(ところ)不幸にして打ち洩らし、其後探索致し候得共行方詳(つまび)らかならず、然る處近来剃髪名を心蓮と改め、紀州粉河より堺に潜居し、謂ゆる天網恢疎(かいそ)にして漏らさず、昨端午昼時、大和國丹波市路上に於いて生捕り即刻天誅を加へ、当地まで持ち来たり、梟首(きようしゆ)せしむるものなり。
嗚呼(ああ)尊皇の大義を失ひ、攘夷の明詔(めいしよう)に背き候者、遂に白刃にかかり候自然なり、豈(あに)ただ此者のみにならんや。
高名な絵師の梟首であることがたちまちのうちに町中に喧伝され、昼近くには大勢の見物人が石灯籠を取り囲んだ。そのうち、どこからともなく、絵師が女房を尼にして同棲していたという噂が広まり、夕方には貼り紙の下に次のような落首が張り出された。
時はいま尼をかこひしさつきかな
数日後、為恭の首は何者かによって夜の間に持ち去られ、鎖だけが残された。まことしやかに、尼僧が一人の男を連れて鎖を切っていたという目撃談が流れ、それは綾衣に違いないということになった。
元号が明治に改められるのは、四年後のことである。 首の行方は今も杳(よう)として知れない。
[主要参考文献]
猪熊信男『岡田為恭の畫蹟と其勤王思想』(新三河新聞社 一九三二) 藤森成吉『渡邊崋山と冷泉為恭』(高見澤木版社 一九三九)
村松梢風『綾衣絵巻』(長骼ノ書店 一九四一) 藤森成吉『悲戀の為恭』(聖紀書房 一九四三)
逸木盛照『冷泉為恭の生涯』(便利堂 一九五六) 辻川穆堂「堺潜居中の岡田為恭」(『大坂春秋』第七号 一九七五)
村松梢風『本朝画人傳』巻三・四(中央公論社[中公文庫] 一九七六)
水尾博・辻惟雄「冷泉為恭筆大樹寺障壁畫について」(『國華』第八四四号 一九六二)
中村渓男「冷泉為恭と復古大和絵」(『日本の美術』第二六一号 一九八八) 岡崎市美術館『冷泉為恭展――幕末やまと絵夢花火』(二〇〇一)
金刀比羅宮『冷泉為恭とその周辺』(二〇〇四) 忠成公(三条実万)御幽居日記
亀井森「絵巻はなぜ模写されたのか――国学者長沢伴雄の『春日権現験記』模写一件」(文献探究の会 文献探究(46)二〇〇八)
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