ガ島にて     津木林 洋


 飯粒の甘みがまだ残っている。最後の飯。小隊長が持っていた米を全部炊いた。それを十二人分に分けたので、茶漬けより薄い飯だったが、甘かった。瑞穂の国という言葉が浮かぶ。生きて帰れたら、ほかほかの飯を腹一杯に食べたい。いや、そんなことを考えるな。考えると力が出なくなる。重い小銃が持てなくなる。あったぞ、小隊長の声。漆を塗り込めたような真っ暗闇の中、その声の方向に仲間の動く気配がする。それに引っ張られるように歩くと、掌ほどの大きさの青白いものが見えた。燐か何かが微かに光っている。黒い影が次々に掠める。俺も手を伸ばして木の窪みにあるぬるぬるをつかむ。手の中が青白く光る。みんな、持ったか。持ったらそれを前の奴の背嚢に擦りつけろ。手を前に伸ばして、あちこちに突きつけると、何かに当たった。俺だという加藤の声。奴の背嚢にぬるぬるを擦りつける。青白い光の一部がそちらに移る。俺の背嚢にも誰かが擦りつけている。みんな済んだか。はい。よし出発。軍靴を引きずる音と背中の微かな光を頼りに前に進んでいく。背嚢の重みで負い革が両肩に食い込んでくる。足が重い。目を開けても閉じても何も見えないので、瞼に力が入らない。どうして転科しないの。純子の声が聞こえてくる。転科してもどうせ同じさ、遅かれ早かれ死ぬことになる。明日戦争が終わるかもしれないって言ってたのは、あなたじゃない。たわごとだよ。だったら私のために転科してちょうだい、それで一年でも召集が延びたら、その間に戦争が終わるかもしれないでしょ。兵隊が全員死ぬまで終わらない。卑怯な真似だと思ってるんでしょ、転科することを。したい奴はすればいいさ。だったらしてよ、私のために。俺はドイツ文学の学徒として死にたい。死んだら二度と好きなゲーテも読めないのよ、フランクフルトにも行けないのよ。天国でゲーテに会える。どうして生き延びることを考えないの、どうしてそんな簡単なことさえ分からないの。純子、お前は生き延びてくれ、生き延びてこの日本を甦らせてくれ。虫がよすぎるわ、生きようとしない人間に言われたくない。俺は純子の唇を唇で塞ぐ。長く、長く。息ができない。口の中に水が入ってきた。後ろ襟をつかまれて首が引き上げられる。気管に泥水が入って激しく咳き込む。音を立てるな。誰かの手が口を塞ぐ。村松、眠るな、目を閉じたら駄目だと言われただろう。加藤の声だ。なおも咳が出て、加藤の手が口を押さえる。俺は首を振ってその手を逃れ、もう大丈夫だと言う。立てるか。ああ。軍服が水を吸って重たくなっている。口の中が泥でじゃりじゃりして唇をすぼめて吐き出そうとしたら、頬に痛みを感じた。手をやると、にゅるにゅると動いている。蛭だ。俺はそいつを引き離し、口の中に入れて噛んだ。体液が出てき、鉄錆の味が広がる。泥と一緒に蛭を飲み込む。俺は目を凝らし、微かな青白い光に向かって足を動かす。夜が明ける前に飛行場に着くのか。方角は本当に確かなのか。いつまでも夜が明けない気がする。永遠にジャングルを彷徨う気がする。ばさばさと木を切り払っている音が聞こえてくる。音を立てるな、小隊長の鋭い声。十歩も歩かないうちにヒューという音がしたかと思うと、後方からぱっと光が射した。爆発音と衝撃。風圧が背中に当たる。次々にヒューと聞こえてくる。散開、誰かが怒鳴っている。横に動こうにも暗闇で分からない。俺はその場に伏せた。地面から爆発の振動が伝わってくる。どのくらい続いたのか分からない。音が止んだ。皆、大丈夫か。はいと俺は返事をする。加藤はいるか。離れたところから呻き声がする。どうした。足をやられました。そうか、お前はここに留まれ、帰りに拾ってやる。はい。俺は小銃を抱えて、ゆっくりと立ち上がった。加藤の声のした方を振り返ったが、暗闇で見えない。声を掛けようとしたが、何と言っていいのか分からない。帰りはないのだ。微かに見える青白い光が動き出し、俺は軍靴を引きずって後に続く。木の根に足を引っ掛けては倒れ、野草に足を滑らせては倒れ、を繰り返す。突然、伏せという声がした。俺は前方に体を投げ出した。樹木の重なった濃い闇の間に薄い闇が見えた。着いたのか。他の連中と同じように俺も匍匐前進をする。ジャングルが途切れ、空の薄い闇と地上の濃い闇にくっきりと分かれている。百メートルほど先に黒い棒が間隔を開けて並んでいる。鉄条網に違いない。バカと小隊長が言う。目を凝らすと、濃い闇の中を黒い影が蠢いているのが微かに見える。右手のずっと向こうから兵隊達が匍匐前進をしているのだ。一斉攻撃のはずだろう、小隊長の苛立った声。その時、シュポという音がして上空に光が見えた。煙を照らしながら眩い光が徐々に降りてくる。地面を這っている兵隊達の姿がはっきりと映し出される。その瞬間、鉄条網の向こうから機関銃の一斉射撃が始まった。小高いトーチカのような影の中に赤い発火点が明滅し、ヒューという音と共に迫撃弾が降ってくる。兵隊の吹き飛ぶ姿が見える。立ち上がった兵隊が崩れ落ちる。誰かが小銃を撃った。バカ、勝手に撃つな、と小隊長が怒鳴る。ほぼ同時にシュンシュンという音がして周りの木に弾が跳ね返る。俺は鉄帽を手で押さえて地面に這いつくばった。照明弾の光が消えても機関銃の射撃が止まない。上目遣いに前方を見ると、暗闇の中、銃弾の赤い軌跡が次々とこちらに飛んでくる。俺は地面に頬を押し付けた。どれだけじっとしていたのか分からない。銃声が収まって、着け剣、背嚢降ろせと小隊長の声がした。いよいよ突撃か。剣帯から銃剣を抜き、小銃の先に付ける。背嚢を降ろす。急に体が軽くなった。散開前進の声に腹這いになり、小銃を右手で引きずりながら匍匐する。背嚢がないのはこれほど楽か。横を見ると、黒い頭がいくつも動いている。血の臭いがして倒れている兵隊にぶつかる。その上を越えて更に進む。前方に鉄条網の杭が見え、何人かの兵隊が折り重なるように有刺鉄線に引っ掛かっている。その重みで鉄線がたわみ、両側の杭が傾いでいる。鉄線を切らなくてもあそこを乗り越えれば。そう思った時、発射音と共に頭上に照明弾が上がった。視界が真っ白になる。突撃という声と同時に周りから喚声が起こり、俺も大声で喚いて立ち上がった。機関銃の弾幕、銃弾の音。目の端に兵隊の倒れていく姿を捉えながら、俺は背を屈めて走った。そして有刺鉄線に引っ掛かっている兵隊達の足下に倒れ込んだ。ブスブスと死体に弾が当たっている。照明弾の光が消えた。機関銃弾の方向が変わり、左側を赤い軌跡が飛んでいく。俺は中腰になり、死体の陰から顔を出した。遠くに発火点が見える。俺は思い切って立ち上がり、発火点に照準を合わせる。微妙に揺れるのをぎりぎりまで我慢して、引き金を引いた。機関銃の射撃が止まった。俺は急いで向こう側に行こうと死体に取り付いた。革帯が何かに引っ掛かる。その時再び機関銃の音が響いた。体を捻って引っ掛かりを外し、向こう側に落ちようとした時、背中に衝撃を感じた。丸太で思い切り叩かれたような。俺は落ちた。頬に当たる地面が冷たい。銃声が遥か遠くに聞こえる。こうやって死ぬのか、案外楽なものだ。闇の中に吸い込まれそうな感覚に抗しながら、俺はわずかに上半身を捻って、上着のポケットから文庫本を取り出した。ファウスト。森林太郎に負けない訳をしたかった。〈自由な民と共に、自由な土地の上に住みたい。己は「刹那」に向つて、「止まれ、お前はいかにも美しいから」と叫びたい。〉ファウスト博士よ、俺にもそんな刹那があったら。〈今何やらが過ぎ去つた。それになんの意味がある。元から無かつたのと同じぢゃないか。……己は「永遠な虚無」が好きだ。〉メフィストフェレスよ、お前はなぜそんなに残酷で優しいのか。激しく咳き込んだ。口からどろりとしたものが溢れてくる。鉄錆の臭いがする。純子、寒くなってきた、純子……。

 夜が白々と明けた。ロイは自動小銃を構えたまま塹壕の壁にへばりついていた。今更ながら体が震えてくる。多くの日本兵が倒れているのが遠くに見えるが、今にも奴らが立ち上がって突っ込んでくる気がする。
 恐い。なぜ奴らは死にたがっているのか。戦争とは生き延びるための戦いではないのか。生きるか死ぬかの瀬戸際だから、相手を殺すのだろう。だのにジャップときたら、両手を挙げて突っ込んで来やがる。まるで死ぬことが楽しいみたいに。全く理解できない。
 探索の命令が出た。しかし誰も塹壕から出ようとしない。息がある奴は捕虜にするから殺すな、ポケットを探って手帳でも何でも回収しろと隊長が叫んでいる。一人がそろりと塹壕を出た。左の奴も立ち上がった。
 ロイも塹壕の壁を蹴って上に出た。中腰で進む。自動小銃をいつでも撃てるように構え、右手の人差し指を引き金に掛けている。
 不意にダッダッと射撃音がし、ロイは縮み上がった。左前方の兵士がぶっ放したようだ。銃口で死体をつついている。
 有刺鉄線に日本兵が折り重なっている。血の臭いと糞尿の臭いが入り混じって鼻がひん曲がる。ロイは口で呼吸しながら、倒れている日本兵に近づいた。赤黒くなった背中を銃口で揺すってみる。動かない。
 その時、奴が手に何かをつかんでいるのに気づいた。ロイは慎重に手からそいつを引き抜いた。血がこびりついているが、どうやら小さな本のようだ。ページを捲ってみる。模様みたいな文字が並んでいる。ひょっとしたら役に立つかも知れないと、ロイはそれをポケットにねじ込んだ。

 

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