拒食     津木林 洋


 最初の兆しは、結婚式場での衣装合わせの時だった。沙織の選んだ純白のウエディングドレスは背中のジッパーが上がらなかった。係員が同じ号数で別のデザインのドレスを勧めても、沙織は、絶対これを着ると言って譲らない。
「だったら、ダイエットするしかないよな。まだ半年もあるんだし」
 吾郎は壁にもたれながら言った。
「それって、私が太ってるってこと?」
 沙織が悲しそうな目で吾郎を見る。彼はあわてて壁から背中を離した。
「俺は、入らない服を着たいなら、入るような体型にしなきゃということを言ったまで」
 吾郎から見て沙織は別に太っているとは思わなかったが、彼女がダイエットしようかなと言うと、痩せたらもっと美人になるかも、などと冗談ぽく答えることがよくあった。
 結局、沙織はそのドレスを予約し、帰りにホームセンターで一番安いデジタルの体重計を買った。二人で外に出た時はいつも外食をするのだが、その日は「どうせ私は食べないんだし」と沙織が言ったので、アパートに帰った。
 冷蔵庫の残り物で沙織がチャーハンの大盛りを作ってテーブルに置いた。吾郎が食べる前で、沙織はテーブルに肘を突き、両掌に顎を乗せて彼を見る。
「いきなり飯抜きは、やり過ぎなんじゃないか。ちょっとは食べたら」
 吾郎がチャーハンの皿を押し出すと、沙織は「こういうのは最初が肝腎だから」と首を振った。
 翌日、残業を終えてアパートに帰ると、沙織はすでに帰宅しており、ラグマットに寝そべって大判の雑誌を読んでいた。キッチンテーブルにはカボチャの煮物やホーレンソウのお浸しなどが一人前だけ置いてあった。
「飯は食ったのか」
「私、今日から二食にするから」
 沙織が雑誌を見ながら答える。二食といっても、朝はパンと牛乳と野菜サラダだけなのだ。
「昼飯はちゃんと食べてるんだろう?」
「大丈夫よ」
 沙織がシャワーを浴びている時に吾郎は彼女の見ていた雑誌を手に取った。表紙には水着の女性が腰に手を当てて振り返っている写真があり、その上に「十日間で5s痩せる簡単ダイエット」という大きな文字が躍っていた。
 浴室から出てきた沙織が体重計に乗って、「順調、順調」とにこやかな声を出した。
「いくら減ったの?」
「五百グラム」
「たったそれだけ?」
「でも、これで十日たったら五キロ減るでしょ」
 沙織が不満そうな声を出した。
「人間、一日の内で一キロくらい上下するって聞いたことあるけど」
「それは三食食べている人のこと」
 沙織はもう一度デジタル表示を見てから、ぽんと飛び降りた。
 一週間は割と順調だったが、それからはぴたっと止まってしまい、十日経って減ったのは2.8 sだった。吾郎はそれだけ減ればドレスが着られるかもしれないから、もう一度試着に行こうと提案したが、沙織は納得しない。絶対に入らないことは自分でも分かるからと、今度は「ウォーキングでダイエット」という本を買ってきた。
 吾郎が晩ご飯を食べている間、ウォーキングすると言って、トレーニングウエア姿で出ていった。休みの日には吾郎も付き合ったが、沙織は十分も歩くと、立ち止まって息をついた。
「飯も食わずに運動したら、疲れるのに決まってるだろう。あの本にも、運動して基礎代謝量を上げて太りにくい体を作るって書いてあっただろう」
「そんなのんびりなこと、してられないの」
 沙織は上半身を起こすと、腕を振って歩き出した。
 ウォーキングのせいか再び体重が減りだしたが、それも十日ぐらいで効果がなくなった。沙織は仕事を辞めてダイエットに専念したいと言い出した。どうせ寿退社する予定だったんだからと言われると、反対できない。
 せめて四二は切りたいと沙織は朝食も抜き始めた。見た目も明らかに変わってきて、頬が痩せて目が飛び出てきた。滑らかな肌がかさかさになり、夜抱いても筋肉に張りがなく、乳房も小さくなった。掌が黄色くなり、そのことを指摘しても、沙織は、これは元からよと言って聞かなかった。
 そんな時、吾郎が仕事から帰ってくると、いつもは点いている部屋の明かりが消えていた。どうしたんだろうと思いながら服を着替えるために洋室の電気を点けると、沙織がベッドに寝ていた。頭に白いネットを被っている。近寄って見てみると、右耳の上にガーゼがあった。
「どうしたの」
 毛布から出ている肩に手をやると、沙織が目を開けた。えへへへ、と舌を出す。
「ウォーキングで転んじゃった」
「大丈夫?」
「平気よ。大体こんなもの大袈裟なのよ。ちょっと切っただけだから」
 吾郎がネットの上からガーゼに触れると、「イタッ」と頭を動かした。
「ダイエットで体力が落ちたから転んだんだろう?」
「そんなことないって。石に躓いただけなんだから」
 しかし、ベッドから起きようとしない沙織を見ていると、それが嘘だと分かる。
「もうダイエットを中止しよう。それだけ痩せれば十分だろう」
「どうして。だめよ」
「とにかく中止。体重計は捨てるから」
 吾郎が浴室の前に置いてある体重計を持ち上げた時、沙織が近づいてきた。
「だめぇー」
 横から体重計を取ろうとする。吾郎が取らせまいと横に振り払うと、沙織は簡単に床に倒れ込んだ。
「ほら、体力が落ちてるじゃないか」
 沙織は床に俯せになったまま、身動きしない。吾郎は体重計を置いて、彼女の側にしゃがみ込んだ。
「悪かったよ。大丈夫か」
 吾郎が沙織の肩を揺すると、彼女は重そうにネットを被った頭を起こし、「お願い、体重計だけは捨てないで。それがなければ私、死んでしまう」と吾郎の足にしがみついた。
 泣いている。
 吾郎ははっとした。
「分かったよ。捨てない。しかし捨てない代わりに何か食べること。いい?」
 沙織はゆっくりと頷いた。
 しかし、コンビニで買ってきた弁当を前にして、沙織は「食べられない」と言い出した。
「食欲が全然ないの」
「それじゃ約束が違うだろう」
 吾郎が割り箸を割って沙織に持たせると、彼女はどれに箸をつけようかと迷ってから、ご飯の端をほんの少し摘んで口に入れた。吾郎は彼女の口元をじっと見ていたが、動かす様子はない。
「ちゃんと噛んで飲み込まなきゃ」
 それでも沙織は口を動かさない。再度促すと、吾郎の前にあったお茶のペットボトルをつかんで一口飲んだ。それきり弁当に手を付けようとしない。
「もっと食べろよ」
「もうだめ。吐き気がする」
 そう言って立ち上がろうとしたので、吾郎は思わず彼女の手首をつかんだ。
「体重計、捨ててもいいのか」
「だめよ。いわれた通り、食べたじゃない」
 沙織が金切り声を上げ、手を振り解こうとしたが、その力はひどく弱々しい。吾郎はそのことに胸を衝かれ、手を離した。
 翌日、吾郎は会社からの帰りに結婚式場に寄って、沙織が着ることになっているウェディングドレスを借りてきた。
 しかし、沙織はドレスを着ようとはしない。
「これが着たかったんだろう」吾郎は手に持ったドレスを振った。「一度着てみろよ。十分入るって。ダイエットは成功したんだよ」
 沙織はしぶしぶ頷き、着るところを見られたくないから出ていってと言う。吾郎は洋室を出て、ドアの前で待っていたが、「もういいか」と問い掛けても返事がない。
 しびれを切らして中に入ると、沙織はトレーナー姿のままだった。
「着たのか」
「着た」
「十分入るだろう」
「これ、私のじゃない」
「何言ってるんだよ。今日結婚式場に行ってわざわざ借りてきたんだから、間違いないよ」
「わざと大きいドレスを借りてきて、私を欺そうと思ってるのよ」
 吾郎は呆れた。と同時に猛烈に腹が立ってきた。俺の目の前で着てみろと沙織のトレーナーを脱がそうとしたが、彼女は自分の体を抱くようにしてベッドに倒れ込んだ。吾郎は上着の裾をめくり上げた。背中の肋骨が浮き上がっている。
 沙織が悲鳴を上げた。
 その時、ナイトテーブルの携帯電話が鳴った。吾郎は裾を握ったまま、体を硬くした。着信のメロディが流れ続ける。
 沙織がそろそろと手を伸ばし、携帯電話をつかんだ。液晶画面を見、それから耳に当てる。吾郎は裾から手を離した。
「もしもし」
「………」
「うん、元気よ」声が震えている。
「………」
「大丈夫だってば!」投げ出すように言うと、沙織はボタンを押して携帯電話をナイトテーブルに投げた。
「一人にして」そう言って、沙織は毛布を被った。
「お義母さん?」
 沙織は答えない。
携帯電話の液晶画面が明るくなると同時に再びメロディが鳴り出した。毛布の中から手が伸びて、ボタンを押す。液晶画面が暗くなる。
 吾郎がドレスを拾い上げて洋室を出ようとした時、床に置いてあった鞄の中から吾郎の携帯電話が鳴った。取り出して開くと沙織の母、文江からだった。
「今沙織に電話をしたんですが、どうも様子がおかしいんです。何かあったんですか」心細そうな文江の声が聞こえてくる。
「ええ、ちょっとありまして……」
 言いながら吾郎は洋室のドアを閉めた。
「吾郎さん、今お家ですか」
「はい」
「沙織の様子はどうなんでしょう」
 吾郎はキッチンの椅子に腰を降ろし、話すべきかためらってから、「実は彼女、ダイエットすると言って食事を摂らなくなったんです」と言った。
「………」
「お義母さん、聞こえてます?」
「……はい、聞こえてます」
 吾郎は今までの経過を詳しく話した。文江は時々そうですかという相槌を打つ以外はほとんどしゃべらなかった。
 吾郎が話し終えると、「私、明日そちらに伺います」と文江は言った。
 翌日、吾郎は仕事を早めに切り上げて定時に会社を出た。アパートの部屋の灯りが点いており、ドアを開けるとキッチンの椅子に坐っていた文江が立ち上がった。地味なスーツ姿で、深々と頭を下げる。吾郎もお辞儀を返しながら、靴を脱いで上がった。
「沙織の様子はどうですか」
「今は眠っています」
「何か食べましたか」
「いいえ」
 彼が沙織の様子を見ようと洋室のドアを開けようとした時、「吾郎さん」と文江が呼び掛けた。
「折り入ってお話が……」
「……はい」
 文江が、ここでは話しにくいからと言うので、アパートを出て駅前の喫茶店に入った。
 ウエイトレスが注文のコーヒーを持ってきたが、文江は手を付けようとはせず、「実は沙織、中学生の時に同じようなことがありまして」と話し始めた。「治るまでに三年間掛かりました」
 心療内科の診察で、離婚が原因だろうということになったと言う。治ってからは、絶対に体重計には乗らないと決めていたと聞いた時、吾郎は、沙織が体重計を買う時さんざん迷っていたことを思い出した。あの時はただ、体脂肪計付きの物を買おうかどうかと迷っていると思っていたのだ。
「沙織から吾郎さんと結婚すると聞いた時、心底ほっとしました。これで本当に病気が治ったと」
「病気が再発したわけですか」
「……沙織は、吾郎さんのお母様のことが気に掛かっておりました」
「え?」
 沙織は時々文江に電話をして、吾郎の母親と一緒にやっていけるかと不安を漏らしているらしかった。
 吾郎は彼女を母親と初めて引き合わせた時のことを思い出した。二人ともすぐに打ち解けて、「お料理とかお茶をお母様から習いたいです」と沙織はにこやかにしていた。その後も、お母様は字が綺麗だから羨ましいとか、町内会の世話役を進んでなさるなんて偉いなどと言っていたので、不安を感じているとは全く思わなかった。
「それなら別居しますよ、もちろん。母が何と言っても、そうします」
「すみません。差し出がましいことを申しまして……」
 喫茶店にいたのは一時間ほどだったろうか。
 アパートに帰ってドアを開けた時、むっとした油っぽい臭いがした。何の臭いだろうと思いながら靴を脱いで上がると、テーブルの上に弁当が積み重なっており、弁当二つが汚い食べ方をされていた。周りに食べこぼしが散らばっている。レジ袋には菓子パンが大量に入っていた。
「沙織ちゃん!」
 文江が洋室に飛んで入った。吾郎も後に続く。しかしベッドは空だった。その時キッチンの方から呻き声が聞こえてきた。声はアコーディオンカーテンの開いている洗面所から聞こえてくる。急いで中を見ると、扉の開け放たれたトイレの中で沙織が倒れていた。ジャージー姿で、便器と壁の間に横向きになっている。便器は吐瀉物で汚れ、鼻を衝く酸っぱい臭いがした。
「沙織!」文江が吾郎を押しのけて飛び込んでいく。
「どうしたの、しっかりしなさい」文江は沙織の頬をばしばしと叩いた。沙織が唸り声を上げる。
 文江と二人して沙織を洗面所の方に引っ張り出した。沙織は下腹部を両手で押さえ、呻き声を出す。肩を押さえると、小刻みに震えている。吾郎は目をぎゅっと閉じている沙織の耳元に顔を近づけると、「沙織、心配すんな。二人で住もう。な、二人で住もう」と叫んだ。
 救急車を呼び、沙織を病院に運んだ。
 一命を取り留め、沙織は摂食障害専門の医者のいる病院に移された。しかし口から食事を摂ることができず、彼女の体はさらに痩せていった。吾郎は時に見たくないと思うことがあったが、それを彼女に気づかせてはいけないという気持ちの方が強かった。
 それ以上進むと危険だということで、鎖骨の下からカテーテルを大静脈まで入れて栄養補給をする方法が取られた。沙織は抵抗したが、文江と吾郎が一緒になって説得して、ようやく受け入れたのだった。
 体重の減少が何とか止まった。
 そんなある夜、午前二時過ぎに枕許の携帯電話が鳴った。病院に泊まり込んでいる文江からだった。一瞬沙織が死んだのではとどきりとしたが、そうではなく、沙織が来て欲しいと言っているのだった。
 吾郎がタクシーで駆けつけると、枕許の灯りだけが点いた病室で、文江がベッドに横たわっている沙織を覗き込んでいた。
「吾郎さん、こんなに夜遅くすみません。沙織がどうしてもと言うものですから……」
 吾郎が覗き込むと、沙織は目を閉じていた。顔全体が、皮膚が頭蓋骨に直接張り付いたように見え、その中で瞼に覆われた目だけが異様に大きかった。
「沙織」吾郎が囁いた。彼女がゆっくりと目を開ける。
「吾郎ちゃん、ごめんね」
「全然」
 吾郎は沙織の額に手を置いた。はっとするほど冷たい。その手を頬の方に滑らせた。
「吾郎ちゃん」そう言うと沙織は再び目を閉じた。「私、吾郎ちゃんのお嫁さんになれそうもない」
「何言ってんの。今は病気じゃないか。病気は治せばいいんだよ」
「ありがとう」
 吾郎が頬から手を離すと、「抱いて」と彼女が囁くように言った。
 吾郎はためらって文江のいる方を見た。しかしそこには文江はいなかった。いつの間にか出ていったらしい。
 吾郎は立ったまま抱こうとしたが、うまくいかず、靴を脱いで沙織に添うように体を横たえた。腕を首の下に差し入れ、静かに沙織を抱いた。枯れ木のような感触だった。沙織は腕を縮めて吾郎の胸の中にすっぽりと収まった。
 彼女の呼吸を感じながらじっとしていると、不意に沙織が「恐い」と呟いた。
「ん?」
「私、恐い」
 吾郎は抱いている腕に少しだけ力を加えた。その時、もう沙織はだめかもしれないという思いが突然脳裡を駆けめぐった。
 二日後、急性心不全で沙織は死んだ。

 沙織の持ち物を片付ける気になったのは、それから二ヵ月も後のことだった。文江が手伝いましょうかと申し出てくれたが、吾郎は断った。
 衣類やバッグ、靴、化粧道具などを段ボール箱に詰める。彼女の読んだ本や雑誌の中に、ダイエット本が五冊あった。それだけ別にしてレジ袋に入れ、ゴミ置き場に捨てた。
 しかし部屋に帰って沙織の持ち物を整理していると、捨てるだけでは自分の気持ちの置き所がないような気がしてきた。
 吾郎はゴミ置き場に取って返すと、膨らんだレジ袋を取り戻し、沙織とウォーキングをした川縁に向かった。夏の日差しに汗が噴き出てくる。途中にあるコンビニで百円ライターを買った。
 川原に高圧の鉄塔が建っており、その横に草の刈られたところがあった。見上げると、電線に太陽が掛かっている。
 吾郎は最初、本を薪のように積み上げて火を付けようとしたが、焦げるだけでうまくいかない。それで本を数ページずつ破って、隙間が出来るように重ね、ライターで火を付けた。
 始めはくすぶっていたが、やがてぼっと炎が上がった。日盛りの中の炎には、燃えているという実感が乏しかった。それでも表紙に使われた水着写真のモデルは、反り返りながら黒くなっていった。

 

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