通天閣に跨がれて     津木林 洋


 環状線の電車が新今宮駅に着いた。耕太は大勢の乗客と一緒にホームに押し出された。乗客たちは二手に分かれ、耕太はどちらについて行こうかと一瞬迷ってから、左に足を向けた。
 上り階段の手前に来て表示を見ると、南海本線新今宮駅とある。耕太は立ち止まった。西出口の文字もあるから降りられるはずだと思いながらもためらい、引き返して反対側の改札口から出ようかと思った。
 乗客の流れを邪魔する恰好になっていた耕太は、ホームの端に寄って駅の外に視線を向けた。ネットで見た職業安定所の建物が目に入る。あそこで見つかればと耕太は思う。しかし見つかればその後どうするか、耕太には何の考えもない。自分が父親に何を求めているのか、全く分からずにここまで来てしまった。
 四ヵ月前に母親が死んだ時、耕太は、まさか自分が大阪まで来ることになろうとは思ってもみなかったが、今ここにこうしていることは必然のような気がした。
 冷たい風が吹き抜けている。耕太はリュックを背負い直し、ダウンジャケットのジッパーを上げて、もう一度職業安定所の建物に目をやった。灰色の煤けた建物は廃墟のように見える。

 痛み止めのモルヒネも効かず背中が痛いと訴える母のために、耕太は右肩胛骨の辺りをさすった。時々「おかん」と呼び掛け、息を漏らすような反応があると、また続ける。
 そんなことを何回か繰り返し、一時間近く掌を動かしたところで、ようやく母が呼び掛けに応じなくなった。
 耕太はそろそろと手を放し、母に薄い毛布を掛ける。そして腰掛け兼用の衣類箱をベッドの下に入れると、立てかけてあった簡易ベッドを開いて、体を横たえた。また、痛みで起こされるかもしれないと思いながら、少しでも寝ておこうと耕太は目を閉じた。
 翌早朝、看護師がカーテンを開ける音に耕太は驚いて目を覚ました。朝まで一気に眠れたのは久し振りだった。
 看護師は、おはようございますと言いながら簡易ベッドと母の寝ているベッドの狭い隙間に体を入れてきた。母の顔を覗き込み、「大月さーん、体温を計りましょうか」と明るい声で言う。しかしすぐに「大月さん、大月さん」と叫んで母の肩を揺すった。耕太は思わず立ち上がった。看護師は母の手首を取ると指を当て、ほんの数秒で放すと、耕太に目もくれず走るように病室を出て行った。
「おかん」
 母は口を半開きにして眠っている。耕太は恐る恐る手を伸ばして母の額に手を当てた。暖かい。ほっとして、耕太は毛布の掛かった胸を見た。瞬きもせずに見詰めても毛布は微動だにしない。知らず知らずのうちに息を詰めていて、耕太が息を吐いても毛布は動かなかった。
 耕太は母の肩を小さく揺すった。
「おかん、おかん」
その時足音を立てて医者と看護師がやってきた。看護師が簡易ベッドを畳んだ。医者は耕太と母の間に割り込むようにして入ってくると、毛布をめくりパジャマの裾を首まで上げた。肋骨の浮き出た胸に平べったい乳房、腹には縦一文字に手術痕が見える。医者は胸に聴診器を当て、すぐに離すと今度は両手を肋骨の真ん中に当て力を込めて押し始めた。骨のきしむ音が聞こえてきそうな激しさに、耕太はどきどきしながら見守った。
 どのくらいそうしていただろう、医者は心臓マッサージをやめると、もう一度聴診器を当て、それから母の瞼を指で開いてペンライトの光を当てた。
 医者は母のパジャマを元に戻し、はだけた白衣のまま腕時計に目をやると、「午前六時八分、ご臨終です」と言って耕太に頭を下げた。汗で額が光っている。耕太もつられるように頭を下げた。
 医者が出て行った後、看護師が母に毛布を掛け、「お済みになりましたら、声を掛けて下さい」と言ってカーテンを引いた。何が済めばいいのだろうと思いながら、耕太は母を見た。昨夜とどこが変わっているのか分からない。
彼はベッドの下から衣類箱を引っ張り出して腰を下ろした。毛布に手を突っ込んで母の手を握る。冷たい。しかし母の手はいつも冷たかったので、それが何かを意味するのか耕太には分からない。
 じっと握っているとわずかに暖かさが伝わってきたが、それは自分の暖かさが母に伝わって返ってきたのかもしれなかった。
 耕太の目に不意に涙が溢れた。ここ二週間覚悟しながらの看病だったが、そんな覚悟などなかったかのように次々と涙が流れてきた。
「おかん」
 耕太はベッドに突っ伏して号泣した。

 葬儀の手配は伯父がすべてやってくれた。遺体の搬送から町内会の集会所を借りる交渉、それに近親者への連絡まで。母が頼んでおいたのだ。
 耕太が唯一やったことは、碧に連絡することだった。
 葬祭業の人々が集会所に幕を張ったりしている中で、部屋の隅から携帯電話を掛けた。
「どうしたの」
「おかんが死んだ」
「ほんと? いつ」
「今朝はように」
「大丈夫?」
「うん」
「あたし、早退してそっちに行くけん。アパートですると?」
「いいや、町内の集会所」
「わかった。耕ちゃん、そこにおってね。すぐに行くけん」
 しかし碧がやって来たのは昼過ぎだった。黒いワンピースを着ている。そんな碧の姿を見るのは初めてだった。急に大人の女になった気がして、耕太はどぎまぎした。耕太はTシャツにジーンズのままだ。
「ごめんね。すぐに早退しようと思ったけど、課長が仕事片付けてからち、言うもんやけん」
 伯父がこの人誰という顔で見ているので、耕太は碧を紹介した。
「あれ、耕太のガールフレンドね、この別嬪さんは。それはそれは」
 碧が、結婚することになってます、耕ちゃんのお母さんにも報告しましたと言ったので、伯父はますます喜び、「これで志麻子も安心してあの世に行けるたい」と祭壇の写真を見た。
 耕太はそれは違うと思ったが、口には出せなかった。確かにそういう報告をしたのは事実だが、それは母を安心させるために打った芝居で、そのことは碧も分かっているはずだった。かと言って、絶対に結婚したくないということではない。
 二十一歳の耕太にとって、結婚は遠い出来事という感じでしかないのだ。
 碧は祭壇の前に正座をすると、持ってきた数珠を手に掛け合掌した。
「見るね」と伯父が声を掛けた。
「はい」
 碧は立ち上がると、伯父の開けてくれた棺桶の窓を覗き込んだ。耕太は見たくないので座ったまま母の遺影を見ていた。再入院の前に撮ったものである。
 碧は耕太の側に戻ってくると、「眠っとうごたる」と小声で言った。
「苦しましたと?」
「薬で半分眠っとらしたけん」
「今朝はどげんやった」
「おれが起きたときにはもう死んどらした」
 語尾が震えた。思い出すと涙が出てきそうになるので、耕太は遺影を睨みつけた。母の顔が笑っている。碧がそっと耕太の手を握ってきた。
 通夜の間も碧は居て、弔問客にお茶を出したりする手伝いをしていた。
 午後九時を回ると弔問客も来なくなり、祭壇の前で耕太と碧はぼんやりと坐っていた。このまま夜通しこうしているのだろうと耕太は疲れた頭で思っていたが、零時を過ぎた頃伯父が姿を見せ、二人ともしばらく休めと言った。
 二人は歩いてすぐのところにあるアパートに帰り、ユニットバスでそれぞれシャワーを浴びてから、二つ並べた蒲団に横になった。耕太はパジャマに着替えたが、碧は泊まる用意をしていなかったのでキャミソール姿だった。
「耕ちゃん、このアパートで一人で住むと?」
 明かりを消した中、碧が話し掛けてきた。
「うん?」
「一人じゃ広過ぎんね?」
「広過ぎない」
「……あたし、移ってきてもよかろうか?」
「………」
「お母さん、亡くなったばかりやけ、すぐには返事できんやろうと思うけど、もう一緒に住んでもよかて、あたしは思うの」
「おかんの物、片付けないかんけね」
「片づけが済んだら、移ってきてもよか?」
「………」
「あたし、早く家を出たいっちゃん」
「こっちに来たら、通勤に時間が掛かるんと違うんね」
「三十分くらいしか違わないよ。ねえ、よかやろ」
「……それならよかばってん」
「うれしい」
 しばらくの沈黙の後、「そっちに行ってもいい?」という碧の声がした。耕太が返事をためらっていると、暗がりの中、黒い影が上半身を起こした。耕太は目を閉じた。
 タオルケットがめくられ、碧が体を滑り込ませてくる。チーズに似た匂いがする。
 碧は体を寄せ、耕太の肩に頭をもたせかけた。手が股間を触ってくる。おかんが死んだばっかりなのにという気持ちとは裏腹に勃起し、手を払いのけたいが耕太には出来ない。母が死んでからふわふわと浮いているような感覚を何とか鎮めたいという気持ちがどこかにある。
 碧が唇を求めてきた。耕太はすぐにそれに応じた。お母さんの許可を貰ってるからいいよねと碧が掠れ声で言い、何の許可だろうと思いながら、耕太は碧を抱き締めた。
 翌朝、六時過ぎに起きて、集会所に行った。伯父の指示で碧は耕太に寄り添い、喪主挨拶の時も横に並んだ。
 夏の日差しが照りつける中、会葬者は二十人足らずで、扇子や白いハンカチで風を送っている。耕太は葬祭業の人から教わった挨拶をしようとしたが、涙が出そうになったので「ありがとうございました」と頭だけ下げた。

葬儀が終わって、碧から、そっちに行ってもいい? というメールが頻繁に来るようになった。耕太はその都度、まだ母の物を片付ける気にはなれないからとメールを返した。それは本当の気持ちだった。碧も最初のうちは、そうよねと納得していたが、さすがに一ヵ月も経つと、一緒に住む気なんてないんじゃない? と怒り出した。
「そげんことはない」
 久し振りのデートの時、耕太はそう言わざるを得なかった。
「ほんと? そんなら、いつまでに片付けるか約束して」
「………」
「一週間じゃどげね? 十分やろ」
「……一緒に住むちいうたら、そっちの両親にも挨拶に行かんばいけんし……」
「よか、よか。あたしの両親やら」
「俺、そっちの親に怒られるの嫌やけん」
「なんか言うてきても、無視したらよかたい」
「なんで、そげんして親を嫌うんか、俺にはよく分からんなあ」
「耕ちゃんはお父さんがおらっさらんし、お母さんに可愛がられとらすけん、あたしの気持ちなんか分からんとよ。子供の頃から姉貴と比較されて、出来の悪い妹として育ったら分かると思うよ。酔っ払って自分の帰宅は午前様なんに、あたしの門限を決める資格やらないとよ」
 父親の悪口を聞かされるのは気持ちのいいものではなかった。父親のいない自分にとって、肯定も否定もできないのが居心地悪いのだった。
 一週間という期限を決められ、耕太は仕方なく母親の遺品を整理し始めた。しかし母の衣類や履き物を目の前にすると、今にも母が「帰ったよ」とドアを開けそうで、処分する踏ん切りがつかなかった。
 箪笥の中の物を出していると、引き出しの隅から薄い菓子箱が出てきた。中には未使用のテレホンカードや年賀状、手紙の類が入っていた。
 ざっと見ていく中に、宛名が母と自分の連名になっているものがあり、耕太は手を止めて封筒を裏返した。住所はなく、大きな角張った字で大月信次とだけ書かれていた。耕太はどきりとした。父親の名前だ。中を見ると便箋と一万円らしき札が見え、耕太は急いで中身を引っ張り出した。一万円札は昔のものだったが、まっさらで、五枚あった。
 便箋を広げると真ん中辺りに、「元気か。おれは元気だ。今年の冬は暖かいから楽だ」とだけ下手な鉛筆書きの文字で綴られていた。他には何も書かれていない。
 これは仕送りなのだろうかと耕太は思った。出て行ってしばらくは仕送りをしていたのだろうか。
 どこにも日付がないので、耕太は封筒の消印を見た。インクが薄く、目を近づけてみる。蛍光灯の光を斜めに当てて年月日が分かったとき、耕太はびっくりした。今から十年前になっていたからだ。母からは耕太が四歳の時に女を作って出て行って、すぐに交通事故で死んだと聞かされていたのだ。
 耕太は何度も消印を確かめ、間違いないことがはっきりすると、どういうことだろうと考え込んだ。母が嘘をついていたと考えるのが一番自然だが、どこまで本当のことを言っていたのだろう。耕太には父親の記憶は微かにしかない。だだっ広い野原で肩車されている記憶が唯一鮮明な記憶で、父親の顔は一枚だけあるピンぼけの写真で覚えているだけだ。
 そう考えると、四歳というのは確かなようだが、女を作って出て行ったというのは、どうなのだろう。
 耕太は消印をもう一度見て、西成という文字を見つけた。隣の部屋に行き、パソコンのスイッチを入れる。インターネットで西成を検索すると、西成区という項目が出てきた。中を読み、あいりん地区の説明にぶつかって、耕太は手紙がそこで投函されたことを確信した。
 葉書でも書ける文面を手紙にしたのは、五万円を同封するために違いない。でもどうして母はこの金を使わなかったのだろう。いや、もっとあって使った残りがこの金なのかもしれない。耕太は便箋と一万円札を封筒にしまうと、他に父親から来た手紙がないか調べてみたが、他にはなかった。
 少なくとも十年前までは父親が生きていたことは確かだった。
 耕太は伯父に電話をした。葬儀のお礼や香典返しの話の後、見つけた手紙のことを話した。
「おや、そげんね」
伯父の声はあっさりとしたものだった。驚きもなければ興味を示した声でもない。
「親父は死んだんじゃなかったとですか」
「わしは志麻子から死んだち、聞いとったがなあ」
「女と逃げたちいうのは本当なんですか」
「ああ、それは本当やん。わしが中に入って別れさそうとしたが駄目じゃった」
「………」
「それでどげんしようと言うんじゃ。父親に会いたいんか」
「いや、そげなことは考えとりまっせん」
「それでよかたい。お前の父親は志麻子とお前を捨てて出て行った。それで十分やろ」
「……はい」
 何が十分か分からないまま、耕太は受話器を置いた。
 一週間の期限が過ぎても、母の遺品はほとんど整理できなかった。そのことをメールで知らせた次の日、派遣された工場から帰ってくると、アパートの前に碧が立っていた。ノースリーブのワンピースに大きいバッグを二つ提げている。
 ついに来たかと思いながら、耕太は「どげんした」と軽く言ってみた。
「来ちゃった」
 碧は舌を出した。
「まだおかんのもん、整理しとらんよ」
「よか、よか。あたしが片付けちゃる」
 耕太は嫌な気持ちになった。
「勝手なことすんなよな」
「分かった。耕ちゃんが整理するのを手伝う。それでよかでしょ」
 耕太はしぶしぶ頷いた。
 夕食は碧が作った。いつも食べている食堂に行こうとすると、もったいないからと碧が言い、自転車に二人乗りして近くのスーパーマーケットに行った。そこで材料を買い、碧が焼そばを作った。碧が耕太のために何か作ってくれたのは初めてのことだった。
 碧が何度もおいしい? と訊き、ソースの味なんだからうまいも不味いもないだろうと思いながらも、耕太は、うん、うまいよと答えて、ビールを飲んだ。
 食後、流しで洗い物をする碧の後ろ姿を見ていると、そこに母親の姿がだぶって見えた。碧がいることに馴染んでしまうのだろうか、耕太はふっと不安になった。
「ここに来ること、親には言うたと?」
「言うとらん」後ろ姿のまま碧が答える。
「言うた方がよかとやないね」
「絶対に言わん」
「どうせばれるんやし……」
 洗い物の終わった碧がタオルで手を拭きながら耕太の傍までやって来た。
「あたしはここで耕ちゃんと一緒に暮らして、子供を作り、育てたいんよ。耕ちゃんは好きなギターをやっててよかとよ」
 子供が出来たら好きなことなんか出来るわけがないじゃないかと反発したが、それを口にすると、じゃあ、あたしのために止めてと言われそうで恐かった。
 ギターといっても耕太のは人前で演奏するわけではなく、ギターで生録音したメロディラインをシンセサイザーのドラムやベースでアレンジして、パソコンのソフトを使って仕上げる、いわゆる自宅録音のことなのだ。それをネットのサイトに投稿して聞いてもらうだけである。
 碧は耕太がそれでプロになろうとしていると勘違いしているようだが、彼は別にプロを目指してやっているわけではない。単に楽しみのためなのだ。それがプロにつながればと漠然と思うことはあっても、何が何でもという気持ちにはとてもなれない。時には、自宅録音をしていて面倒臭いことをしているなと思うこともある。
碧が「新しい曲、作った?」と訊いてきたが、ここ二ヵ月、耕太は全くギターには触っていない。そのことを話すと、何でもいいから何か聞かせてと碧が言ったので、二人で隣の部屋に行き、パソコンとスピーカーのスイッチを入れた。
 マウスで一番最後に作った曲をクリックする。バラード調のロックでスライドギターでビブラートを効かせてある。三分弱の曲で、聞き終わると、碧が「耕ちゃん、これ、よかやん。才能あるんやない」と言う。
「サンキュー」と耕太は答えたが、大したことはないというのは自分でも分かっている。碧は生演奏をせがんだが、指が動かないからと答えて、耕太はギターを握らなかった。
 母の部屋に蒲団を敷いて横になったとき、耕太は「親父が生きとらすかもしれない」と天井を見ながら言った。
「どういうこと」
 耕太が手紙のことや伯父との話を聞かせると、
「耕ちゃん、会いたいの?」
「いや、分からんとやん、どげんしたらよかとか」
 碧が体を滑らせて耕太の横に来た。タオルケットの上で、片肘をついて彼を見る。
「お母さんが亡くなって寂しいとは分かるばってん、耕ちゃんのお父さんは、耕ちゃんやお母さんを捨てて、女と出て行ったんやろう。その時点で父親失格やんね。そんなお父さん、生きとっても死んどっても関係なかやん。耕ちゃんはお父さんなんかおらっさんでも、こうして生きてきたとやんね、大丈夫よ」
「そげやろか」
「そうよ。早く子供を作って、耕ちゃんが父親になればよかやん」
 そう言って、碧は耕太の胸に頭を預けてきた。
 母の遺品は、結局どれも捨てずに碧が段ボール箱にすべて詰めて、押入の奥にしまうことになった。

 碧は家賃と光熱費の半分を出すと言っていたが、それを一回も果たさないまま父親によって連れ戻されてしまった。
 ある晩、碧と夕食を摂っていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。耕太がドアを開けると、背広を着た小太りの男が立っていた。
「碧、いますか」
 振り返ると、碧が立ち上がって首を振っている。耕太はどうしようかと迷ったが、男はドアの内側に顔を突っ込むようにして部屋を見た。
「碧!」男が叫んだ。
「帰ってよ」碧が叫び返した。
「上がらしてもろうてよかですか」男が靴を脱ぎながら言う。耕太は男の勢いに押されて返事が出来ず、体を引いた。
 男はキッチンに上がると、テーブルを挟んで碧と対峙した。
「お父さんと一緒に帰りなさい」
「いやよ。あたし、耕ちゃんと結婚するんやけん」
 男が耕太を見た。
「本当な」
 耕太は返事が出来ない。体が強ばって頷くことも出来なかった。
「耕ちゃんはあんたが来てびっくりしとるだけよ。あたし、耕ちゃんのお母さんに結婚するち約束したとやけん」
「結婚するんなら、ちゃんとした手続きを踏みなさい。こんな犬や猫みたいなみっともない真似をするな」
「放っといてよ。あたしはあんたとはもう何の関係もないとやけん。親子の縁を切りたいとよ」
「そんなことは世間が許さん」
 男はテーブルを回り込んで碧を捕まえようとしたが、彼女は耕太の後ろに体を隠した。
 耕太は目の前の男を見て、これが父親かと思っていた。そう思うと、何も出来ない気がした。木のように立っているしかなかった。
 碧が耕太の後ろから出て、玄関に行こうとしたところを男が手首をつかんだ。
「放してよ」碧が体をよじり、男の手を振り解こうとした。
「一緒に帰るんだ」
 その時、碧が男に唾を吐いた。男ははっとした顔をし、次の瞬間手を振り上げて碧の顔を平手打ちした。碧の体が飛んで、ドア横の壁に頭からぶつかった。碧が両手で頭を抱える。耕太は驚いて碧の傍に寄った。
「耕ちゃん、助けて」碧が薄目を開けて掠れ声を出した。
「今日のところはお父さんと一緒に帰った方がいいとやないか?」
「バカ」
 碧は吐き捨てるように言うと、のろのろとした動作で立ち上がり、裸足のまま半開きのドアから出て行った。男は耕太には目もくれず、急いで靴を履くと、その後を追った。
 ドアを閉め、耕太はキッチンを振り返った。食事途中の食器類が雑然とテーブルの上に乗っていた。
 数日後、碧からメールが来て、自分の持ち物を宅急便で送ってほしいと実家の住所が書き添えられていた。バッグ二つに詰めて送り返すと、母の箪笥は空っぽになった。
 送ったよというメールを送信したが、返事が来なかった。それで今度は、「この前はごめん。おれ、どうしていいのかわからなかったんだ。会ってちゃんとあやまりたいけん、返事ください」とメールした。それに対して、「しばらく考えさせて」とだけ来た。そう言われると、もうそれ以上メールすることが出来なくなった。
 十一月になって三ヵ月の契約期間が過ぎた時、耕太は再契約を一週間待ってもらった。派遣会社の営業担当は渋い顔をしたが、何とか頼み込んで、耕太は夜間バスに乗って大阪に向かった。ダウンジャケットのポケットには、五万円の入った手紙とピンぼけの父親の写真が入っていた。

 新今宮駅の西出口から階段を使って外に出ると、車道を挟んで向かい側に職業安定所の建物が見える。耕太は信号を渡って、その建物に近づいていった。一階は天井の高いピロティになっており、太いコンクリート柱が何本も建物を支えている。駅から見た時は廃墟のように見えたが、こうして見上げると要塞のような感じがする。ピロティの中にはくたびれたジャンパーやコートを着た男たちが何人もたむろしていた。耕太はその男たちの中に父親がいないか目をこらした。どの男も父親であっても不思議はないような気がした。耕太と目が合うと、男たちはよそ者を見る目つきで彼を見た。
 耕太は気後れがして、職業安定所への階段まで行くことが出来なかった。
 そのまま建物の前を通り過ぎた。数多くの自転車が止めてある歩道を歩いていくと、先の方に線路が見えた。あそこを超えると父親のいる場所から遠ざかる気がして、耕太はコンビニの角を曲がった。道の両側にビジネスホテルのような簡易宿泊所が何軒も並んでいる。取り敢えず今晩泊まるところを決めておこうと、そのうちの一軒に耕太は恐る恐る足を踏み入れた。
 玄関は暗くガラス戸の閉ざされたフロントには誰もいない。背を屈めてガラス戸から中を覗くと、奥の部屋に人影が見えた。すみませんと耕太は声を掛けた。しかし人影は反応しない。
 耕太はガラス戸を小さく叩いた。人影がこちらを向き、立ち上がって近づいてきた。眼鏡を掛けた六十くらいの男の人だった。ガラス戸を開けると、胡散臭そうな顔で「何か」と言った。
「泊めてもらいたいんですけど……」
「一泊?」
「……はい」
「あかん、あかん。うちは一泊はやってない」
「どこか他に一泊出来るところなかでしょうか」
「この辺りはやってないなあ。駅前の方の二千円くらいのとこか、反対側の五百円から八百円くらいのとこやったらやってるけど、お兄ちゃん、そんな安いとこ、よう泊まらんやろ」
「分かりました」
 耕太は行きかけたが、定宿専門ならひょっとしてと思い、「すみません」と再び呼びかけた。ガラス戸を閉めようとしていた男は、何という顔をした。
「人捜ししているんですけど、大月信次という人、ここに泊まっとらんでしょうか」
「人捜し?」
「私の父親なんですけど……」
「ああ……何ちゅう人?」
「おおつきしんじ。大きいお月様の大月に……」
「そんな人、泊まってないなあ」
 耕太はジャケットのポケットから写真を取り出した。海岸の岩場に子供の頃の耕太と並んで腰を下ろしている写真だった。
「こういう顔なんですけど……」
 男は写真を受け取ると、眼鏡を額まで上げ、外からの光を当てるようにして目を近づけた。
「えらいボケてるけど、見たことないなあ」
 男は写真を返すと、
「人捜しやったら、警察に行ったらええんや。お兄ちゃん、警察に行ったんか」
「いいえ」
「そこ出て、右をずっと行ったら西成警察があるから、そこで相談してみ」
 耕太は礼を言って表に出、言われたとおり右の方に歩いていった。弁当屋や路上で週刊誌を売っている傍を通って、しばらく行くと、白い柱が見えてきた。周囲を威圧するような大きなビルが建っている。
 耕太はどこが入り口だろうかと白い柱で囲われたポーチの奥を見た。警官が一人立っている。その後ろが入り口だろうと思うが、ガラス扉ではなくアルミ製か何かで中が見えない。
 耕太はためらって通り過ぎ、それから意を決して踵を返してポーチの中に入っていった。
 保安係のカウンターで父親を捜していることを伝え、事情を説明した。手紙を出して消印のことを話すと、警官は目を近づけて、なるほど西成やなあと呟いた。
「何で今頃捜しに来たの」警官は封筒をカウンターに置くと呆れ気味に言った。
「四ヵ月に母が亡くなって、遺品を整理していたら手紙が出てきて。……母からは家を出てすぐに死んだと聞かされていましたから、手紙を見た時はびっくりして……」
「ふーん、そうか。お母さん、亡くなったんか。それでお父さんに会いに来たんやな」
 警官の口調が急にしんみりとなった。
「はい」
 しかし自分にそんな気持ちがあるのかどうか耕太にはよく分からない。
「ここは人の出入りが激しいとこやから、十年前にお父さんがいてたとしても、今はいてないかもしれんなあ。取り敢えず職安に登録があるかどうか訊いてみたるから、ちょっと待っときや」
 警官は少し離れたところにある電話で訊いてくれたが、登録はなかった。
「一応、捜索願出しとこか」
「……はい」
 警官の取り出した書類に記入しようとして、耕太は父親の特徴を何も知らないことに気づいた。分かるのは、生きていたら五十一歳になるという年齢と自動車整備工をしていたことと家出の原因くらいだった。耕太は書類と一緒に持ってきた写真を渡した。
「これ、いつ頃の写真? 家を出る前やな」
「そうです」
「まあ、ええか。コピーしとこ」警官は写真を置くと書類に目を通し始めた。
「女性問題って、女と一緒に出て行ったということ?」
「そうらしいです」
 警官が書き込みをする。身長などを訊かれたが耕太は答えることが出来ず、性格については無口だったような、と言うのが精一杯だった。
「これでコンピュータに登録して、例えば行き倒れとかのデータと一致したら連絡する、ということやな」
 連絡先を訊かれたので、耕太は携帯電話の番号を教えた。
 西成警察署を出て、耕太は立ち竦んだ。大阪に来る前は、西成に来たら何とかなるんじゃないかと思っていたのだが、どうも無理なような気がしてきた。父親がここから別の場所に移っていたら、捜し回っても無駄なのだ。
 耕太はどうしたらいいのか分からないまま足を右に向けた。しかし歩き始めると、このくすんでごたごたした街がそうさせるのか、やはり父親はここにいるような気持ちになった。歩道のそこここに立っている顔色の悪い男たちに父親の姿が重なり、街角にさしかかれば、ひょいと父親が姿を見せるような気がした。父親が現れても、それが父親であると分かるかどうか自信はなかったが、それでも角を曲がるたびにそんな気持ちになった。
 南海本線のガードに沿って、露天の店が並んでいた。耕太は品物を見るような振りをして、露天商の顔を一人一人見ていった。写真を出して尋ねる勇気が湧いてこない。
 順番に見ていくと、CDラジカセや炊飯器などの電気製品を売っている店があり、ビニールシートの一番端にエレキギターがあった。ぱっと見てフェンダーのストラトキャスターであるのが分かった。弦はなくボリュームのノブも取れ、塗装もはがれている。五百円の値札が貼ってあった。
 もったいないと思いながら、耕太は通り過ぎ、少し行って、また戻った。
 顎髭を生やし、黒いジャンパーを着込んだ露天商の男は、腕を組みながら耕太を見た。
「それ、見せてもろうていいですか」
 耕太はエレキギターを指さした。
「ああ、ええよ」
 男が腕を組んだままじっとしているので、耕太は横に回ってギターを手に取った。フェンダージャパンの製品で、ネックサイドに長い亀裂が入っていた。それでも五百円は安過ぎると彼は思った。
 耕太はギターを救い出す気持ちで、五百円を払った。そしてそれを受け取った時、「こういう人、知りませんか」とポケットから写真を取り出した。男は写真を摘むように持つと、興味のなさそうな目で見た。
「大月信次といって、僕の父親なんですけど……」
「知らんな」
 男は写真を返すと再び腕組みをし、視線を遠くに向けた。耕太はちょっと頭を下げて、その場を離れた。
 再び職業安定所の前まで来た。携帯電話の時間を見ると、二時を回っている。歩き回ったせいでひどく腹が減っている。しかし何か食べる前に今夜泊まるところを決めておきたかった。
 車道に面して並んでいる簡易宿泊所を見ていくと、ホテル日本という看板の横に一泊可と貼り紙のされた一軒があり、耕太はそこに足を踏み入れた。上がり框にどす黒い顔をした初老の男が坐っており、足許にはぱんぱんに膨れた紙袋がある。耕太が入っていっても、男は見向きもしなかった。
 横にあるフロントカウンターのところで、すみませんと声を掛けると、中から三十くらいの男が出てきた。自分に年齢が近いので耕太はいくらかほっとした。
 部屋は空いており、一泊千七百円の前払いだった。鍵を持ち出すかどうか訊かれ、持って出ると答えると保証金として千円を要求された。チェックアウトの時に返すと言う。耕太が延長できるかどうか尋ねると、朝の九時までに前払いしたら、いくらでも延長できるということだった。
 男は耕太の名字だけ尋ねると、風呂の時間や夜中の出入り口の場所を教えて、部屋番号の書かれた紙切れと鍵を渡してくれた。暖房は三時半から入ると言う。
 耕太の部屋は十階建てビルの二階だった。靴は自分で部屋まで持っていくように言われ、スリッパを履いてエレベーターに乗った。二階の廊下に出ると、両側に狭い間隔で灰色の扉がずらっと並び、耕太は一瞬監獄を連想した。
 耕太の部屋は端から二番目で、三畳ほどの和室に蒲団がすでに敷いてあった。スニーカーを置き、中に上がると、エレキギターを隅に立てかけ、リュックを降ろした。部屋の中は冷えていたが、歩き回ったせいで寒さを感じずダウンジャケットを脱いだ。それをハンガーに掛け、蒲団の上に横たわった。扉横の棚に小型テレビがある。その下には冷蔵庫もあった。
 耕太は体を起こし、冷蔵庫を開けてみた。空っぽだった。テレビのリモコンを取り、スイッチを入れる。何回かチャンネルを変え、ワイドショーに合わせてから、再び横たわった。
 テレビの画面を見るとはなしに見ていると、父親もこういうところで暮らしているのだろうかと不意に身近に感じた。隣の部屋にいてもおかしくない気がする。
 フロントで父親のことを尋ねなかったことを思い出し、耕太は起き上がった。ジャケットを着、一階に下りる。
 フロントの男に、父親を捜していることを伝えると、うちでは名字しか分かりませんが調べてみましょうと写真も受け取ってくれた。お願いしますと頭を下げて、耕太は外に出た。
 コンビニに行き、弁当とペットボトルのお茶を買い、ホテルに戻ったところで、大月さんと呼び止められた。
「調べましたけど、大月という名前の人は、うちには泊まったことがありませんね」
 答えの出るのが早過ぎる気がしたが、耕太は写真を受け取り、礼を言って二階の部屋に戻った。
 蒲団の上に胡座をかき、小さな卓袱台で弁当を食べる。それがすむと、蒲団に横たわってテレビを見る。夜行バスでよく眠れなかったのと歩き回った疲れでいつの間にか眠ってしまい、次に目を覚ましたのは五時過ぎだった。
 耕太はこれからどうしようかと考えた。後出来ることは、簡易宿泊所をしらみつぶしに当たって調べることしかないように思われた。しかしそれは考えただけでも途方もない作業だし、できっこないと思う。そう思うと、自分でも本当に捜そうとしているのか分からなくなってしまった。
 彼は体を伸ばしてギターをつかんだ。胡座を組んだ脚の間に胴を乗せ、左手の指でフレットを押さえる。ピックを持ったつもりになって、右手で幻の弦を弾いた。
 こういうのはエアギターとは言わないなと耕太はおかしくなって笑った。半エアギターかと呟きながら、高校の時必死で練習したジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ」を弾き始めた。頭の中で音が鳴り、曲になっていく。左指がずれても右手が動かなくても、音の流れは途切れることなく続く。耕太は目をつむり頭を振って、上体を揺らしながら、ないはずのトレモロアームも操作して曲を弾き続けた。
 風呂が九時までなのでそれまでに夕食をすませておかなければと、七時過ぎにホテルを出た。外はすっかり夜になっている。昼と同じように弁当にしようとコンビニまで行ったが、その時耕太は、道を挟んで向かい側に、「太一食堂」という電飾看板を見つけた。昼間全く気づかなかったのは明かりがなかったせいだろう、看板を縁取る小さな電球が明滅している。それに引きつけられるように耕太は道を渡って店の前に立った。
 湯気で曇ったガラスを通して、何人もの男たちが食事しているのが見える。ホテルで弁当を食べるより、ここに入った方がひょっとしたら父親が見つかるかもと思ったが、なかなか入る勇気が湧いてこない。耕太がためらっているうちにも、数人の男たちが中に入った。
 意を決して耕太は引き戸を開けて中に入った。モツのにおいがむっと鼻に来た。テレビの音がし、それに張り合うように男たちが喋り合っている。右側のカウンターは満席で、四つあるテーブルのうち三つは二人連れや三人連れが腰を下ろしている。一つだけ野球帽を被った男が一人で坐っていた。
 カウンターの中から、相席お願いしますという声が掛かった。その声で、出て行くことが出来なくなった。二人や三人の所には行けないので、耕太は一人のテーブルに近づいた。男は丼に入った味噌汁を飲んでいる。
「相席、よかですか」
 おずおずと耕太が尋ねると、男は丼を持ったままじろっと見上げ、ええよとしわがれた声で言った。顔は黒く皺が寄っており、無精ひげに白いものが混じっている。色褪せた野球帽の下の髪は伸び放題で、重ね着をした服は薄汚れていた。
 耕太はダウンジャケットを脱いで椅子に掛け、男の向かいに腰を下ろした。壁には黄ばんだ紙に書かれたメニューが貼られている。それらに目をやっていると、「そんなん頼むより、あそこのん食べた方が安いで」と男がカウンターの横を指さした。そこにはガラス製の棚があり、総菜を盛った皿がいくつも乗っていた。
 どうしたらいいのか、ためらっていると、「あそこの盆に好きなもん適当に入れて、カウンターで飯もろて、金払たらええんや」と男が教えてくれた。耕太は立っていき、言われた通り盆を手に取ると、鶏の唐揚げ、野菜の煮物、シューマイの皿を乗せた。「大盛り?」と訊かれ、「いや、普通でよかです」と答えて丼飯をもらい、味噌汁も追加した。
 金を払って席に戻ると、「お兄ちゃん、豪勢やな」と男が言った。男の前には丼飯と味噌汁しかない。耕太はおかずを一品減らした方がよかったかなと小さくなりながら、ぎっしりと突っ込んである箸置きから箸を取った。醤油を取ろうとしたが、頭の赤いのか黒いのか分からない。たぶん赤ではないかと赤を取って、胴の部分を見ると、「しょう油」と黒いマジックインクで書いてある。それを唐揚げとシューマイに掛けようとすると、「それ、醤油やで」と男が言った。
「はい」
 そう答えて耕太は醤油を掛けた。
「唐揚げはしょうないとして、シューマイはソースやろ」
 男を怒らせたのかもしれないと耕太は引き気味になった。
「醤油が好きやもんで」
「今時の若いもんは何でも醤油か。わしら、唐揚げもシューマイもソースやけどなあ」
「すいません」
 何も謝ることないわと男が笑った。
「お兄ちゃん、九州か」
「はい」
「わしも九州や。九州のどこや」
「久留米です」
「わしは福岡や。箱崎知ってるか」
「少しだけ」
「筥崎宮があってなあ。ようあそこで遊んだもんや。こっちに来てもう三十年にもなるけど、一遍も帰ってないなあ」
 博多訛りが全然感じられないのが気になったが、それを指摘すると気まずくなりそうだったので、耕太は何も言わず目の前のシューマイに箸を伸ばした。
「九州も不景気なんか」
「………?」
「仕事、探しに来たんやろ。何やったら紹介したろか」
 適当に話を合わせたらまずいだろうかと耕太は思う。かといって、黙っていると本当に怒らせるかもしれない。
「……父親を捜しに来たとです」
「連絡、ないんか」
 耕太は手短に事情を話した。父親が生きていると分かって捜しに来たと言うと、父を尋ねて三千里やな、ええ話やなあと男は首を振った。
「親父さんの名前、何て言うんや。わしの周りにも九州から来た人間、いっぱいおるんや」
「大月信次ちいいます」
 耕太は唐揚げの皿に溜まった醤油を指先につけると、「大きい月に信じる次」と言いながらテーブルに名前を書いた。
「うーん、聞いたことないなあ。違う名前使てるかもしれんなあ。親父さん、どんな人や」
 耕太は椅子に掛けたジャケットのポケットから、写真を取り出し、男に渡した。
「これが親父さんか。何歳や、この写真」
「三十三です」
「三十三なあ」
 男は目を近づけてじっと見た。
「似てるいうたら、似てるかな」
「えっ」思わず大きな声が出た。
「わしの知り合いに似た奴がおる」
「本当ですか」
「会わしたろか」
「はい」
「お兄ちゃん、どこに泊まってんのや」
「ホテル日本です」
「ええとこ、泊まってんな。あそこやったら職安に近いし、ちょうどええわ。四時半にそこに来いや」
「……四時半?」
「朝の四時半やで。そこでそいつを捕まえるんや」
 話がよく分からず黙っていると、「職安の仕事をもらうために並んどるとこを捕まえるんや。分かるか」と男はいらついた声を出した。
「はい」耕太はあわてて頷いた。
 二人で店を出、道を渡った。
「兄ちゃん、酒飲むか」
「いいえ」
「わしは飲むで」
 コンビニの前だった。男は立ち止まって、中を覗いている。耕太がひょっとしてと思っていると、「兄ちゃん、悪いけどコップ酒奢ってくれへんか」と男が言った。これが目的だったのだと耕太は嫌な気持ちになったが、顔には出さず、はいと答えた。
 男は店に入ると、他の商品には目もくれずに酒類の棚に行き、コップ酒をつかんだ。耕太は何本買われても払う覚悟でいたが、男は一本しか手にしなかった。
 表に出たところで、男は上蓋の封をほんの少しだけ開け、チュチュと吸った。
「やっぱり、寒い夜はこれに限るなあ」
 男は大きく息を吐いた。
「それじゃあ、明日四時半に職安で」と耕太はその場を離れかけた。
「兄ちゃん、朝起きれるか」
「大丈夫です」
「何号室や」
「……219です」
「けえへんかったら、わしが起こしたるわ」
 耕太は小さく頭を下げて、男に背を向けた。
 ホテルに戻ると九時少し前で、耕太はあわてて一階の浴場に行った。汗臭い脱衣場で服を脱ぎ中に入ると、五、六人の先客がいた。それだけで風呂場は一杯だった。耕太は小さくなりながら隅の方で体を洗った。
 風呂場から戻り、共同洗面所で歯を磨くと、耕太はすぐに蒲団を被って横になった。男の言うことはどこまでが本当か怪しかったが、取り敢えず四時半に職安に行って父親を捜してみようと彼は思った。しかしなかなか眠れなかった。いつも寝るのは零時過ぎで、十時前に寝たことなど記憶にない。しかも閉め切った窓から車の騒音やカラオケで昔の演歌を歌っている男の声が聞こえてくる。眠くなるまでギターをいじっていようかという思いを抑えて、耕太は目を瞑り続けた。
 いつの間にか眠ってしまい、どんどんという音で起こされた。枕許の携帯電話を見ると、四時五十分を示している。耕太はあわてて飛び起きた。再び扉が叩かれる。彼は扉を叩き返し、服を着替えた。
 扉を開けると、昨夜の男がにやにや笑いながら立っていた。
「やっぱり起きられへんかったな」
「すんません」
 スニーカーを持って、男と一緒に下に降りる。玄関には数人の男たちがいて、夜間出入り口をくぐっていた。その後に続いて、二人は表に出た。外はまだ暗く、街灯の明かりの中、男たちがぞろぞろと職業安定所に向かって歩いていた。昨日より一段と寒さが増し、耕太はジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
 職業安定所の前には、紙袋やバッグを持った男たちが、並ぶとはなしに並んでいた。耕太は男の後について、ばらけた行列の横を歩いていった。ドブくさい臭いが微かに鼻を衝く。男は知り合いの居場所を知っているのか、一直線に進んでいく。
 かなり前の方まで来て、昨夜の男は一人の男の側に立った。六十にはまだなっていないようながっしりとした体格の男だった。見た瞬間、父親ではないのが耕太には分かった。写真の顔とも全然似ていない。
 昨夜の男は、男に「どや」と尋ねた。男の視線が耕太に注がれる。
「脅かしよんな。おれの息子やったら、三十越えてるんやで。こんな若ないわ」男は口を歪めて笑った。
 昨夜の男は耕太に向かい、「どや」と言った。耕太は黙って首を振った。
「親父さん、何ちゅう名前やった」
「大月信次です」
 男はいきなり両手をメガホンにして「オオツキシンジ、息子が来てるで」と叫んだ。周りの男たちが一斉にこちらを見る。それでも構わず男は「オオツキシンジ、息子が来てるで」と大声を張り上げた。
 おっさん、うるさいわと鋭い声が飛んでも、男は向きを変えて、同じ文句を叫んだ。静かにせえと誰かが怒鳴る。
 男は行列に沿って移動しながら連呼した。耕太はその場を逃げ出したかったが、そうもいかず三メートルほど離れてついて行った。
 建物の外に出てすぐに男が咳き込み、前屈みになって膝に両手を突いた。耕太は近寄っていったが、背中をさすることなど出来ない。捜す気があるのかと怒られるかもしれないと思ったが、男は何事もなかったように顔を上げた。
「ここにはおらんな」
 そう言うと、男は建物の横の道に入っていく。耕太がついて行かずに突っ立っていると、「こっちや、こっち」と男は掌をひらひらさせた。
 南海本線のガードと建物に挟まれた道路には、ボックス型の車が何台も停まっていた。そのうちの一つに男が近づいていく。
「おっさん、今日はそいつか」
 車の側にいたハンチング帽の男が声を掛けてきた。
「今日は人捜しや」
「何や、それ」
「大月信次いう男、知らんか」
「知らん」
 手配師は素っ気なく答えた。男は耕太に写真を出すように言い、それは男の手から手配師の手に渡った。手配師は街灯の光が弱々しく差す中、ちらっと見ただけで「知らんな」と写真を返した。
「それより兄ちゃん。ちょっとアルバイトせえへんか」手配師は耕太に声を掛けてきた。「十日で八万になるで。どや」
 手配師はリアガラスに貼られた紙を掌で叩いた。
「あかん、あかん。今この兄ちゃんの父親を捜しとんのや」
「そうかあ」と手配師はそっぽを向いた。
 男は他の車にも近づいて、手配師に耕太の父親のことを尋ねたが、誰も首を振るばかりだった。
 職業安定所の建物の前に戻ってきたところで、「疲れたなあ」と男が言った。
「ありがとうございました」と耕太は頭を下げた。
「兄ちゃん、腹減ってへんか」
「………」
「朝飯にしょうか」
 これは奢ってくれということだろうと耕太はぴんと来た。
「ええとこ、知ってんねん。そこ行こか」
 南海本線のガード下を抜けてしばらく行ったところに喫茶店があった。まだ夜が明けきっていないのに開店しているようで、店の中には明かりが点いていた。
「兄ちゃん、わし、臭えへんか」男は肩を突き出すようにした。耕太は鼻を近づけ、ちょっとだけ吸った。少し饐えた臭いがする。
「大丈夫です」
「そうか」男は歯を見せて笑った。
 ガラスドアを開けて中に入りかけた男が、振り返った。
「兄ちゃん、奢ってくれるやろ」
 そら来たと思いながら、耕太は仕方なく頷いた。
 店の中は暖かく、三、四人の男たちが何かを食べながら新聞を読んだり、煙草を吸ったりしていた。耕太と男は表窓に近い席に腰を下ろした。
 フリルのついたミニスカートを穿いたウエイトレスが、お絞りと水を持ってやって来た。それらをテーブルに置くと、「ご注文は?」と愛想のない顔で言った。男がモーニングサービスを頼んだので、耕太もそれにした。
 ウエートレスが戻っていくと、「あの娘(こ)、可愛いやろ」と男がにやけた顔を見せた。碧の方がよっぽど可愛いと思ったが、耕太は「そうですね」と相槌を打った。
 奥から、やめてよという女の声が聞こえてくる。見ると、先程のウエイトレスが客の手を叩いている。「人気あるんや、あの娘」と男が笑った。
 ウエイトレスがモーニングサービスを持ってきた時、「お尻、触られたんか」と男が訊いた。彼女は知らん顔をして、トーストとゆで卵とコーヒーを置く。男が尻を触るのではないかと耕太は注意していたが、男はウエイトレスの後ろ姿を見送っただけだった。
 トーストを食べていると、「親父さん、将棋好きやなかったか」と男が尋ねた。
「分かりません」
「将棋好きやったら、ジャンジャン横丁の将棋屋に出入りしとるかもしれんなあ」
「ジャンジャン横丁って、どこですか」
「新世界や。ここから歩いて行けるで。行ってみるか」
「はい」
 モーニングサービスを食べ終わった後、「兄ちゃん、ビール飲んでええか」と男が上目遣いに耕太を見た。どこまで調子に乗るのだろうと耕太は呆れた。その気持ちが表情に出たのだろう、男が気弱な笑いを浮かべた。
「ビール奢ってくれたら、新世界に行く前に、もう一カ所捜す所に連れてったるで」
「捜す所って、どこですか」
「ビール奢ってくれたら教えたる」
「……一杯だけですよ」
「分かってる、分かってる」
 ウエイトレスがテーブルの物を下げに来た時、「ビール一つ」と男がうれしそうに注文した。彼女は、え? という顔をし、男と耕太を交互に見てから、はいと怠そうに答えて戻っていった。
「捜す所って、どこなんですか」
「病院や」
「病院?」
「そうや。親父さんが病気になって病院に行ってたら、記録が残ってる。わしがよう知ってる医者がおるから、一遍訊いてみたるわ。一緒に来るか」
「はい」
「そんなら九時に職安の前や」
 グラスに入ったビールが来て、男は一気に飲み干した。そして息をふうっと吐くと、「やっぱりうまいなあ」と顔を綻ばせた。
 一緒にいると、またビールをねだられそうだったので、耕太は伝票を持って立ち上がった。手を伸ばしてスポーツ新聞を取ろうとしていた男は、九時やでと念を押した。
ホテルのフロントが開いていたので、もう一泊することにして前金を払った。部屋では、ギターを胸に抱えて弾く真似をしながら、テレビをぼんやりと見た。病院で見つからなければ、久留米に帰ろうと耕太は思った。やるだけのことはやったのだからと自分に言い聞かせた。
 九時前にホテルを出て、職安の前に行った。一階の洞窟のようなピロティに、早朝ほどではないが多くの男たちがたむろしていた。
 男の姿はどこにもなかった。やはり奢らされただけかと思い、一人で病院を当たろうかと考えていたら、遠くから「兄ちゃん、こっちや」と叫ぶ声がした。見るとガード下で男が手を挙げていた。
 男と一緒に十分ほど歩いて、「多能田病院」という看板の掛かった建物の前まで来た。かなり大きい病院で、案内窓口受付で男はポケットから何か出し、薄いブルーの制服を着た女性に見せている。女性はカウンターにあるインターホンでどこかに電話をし、受話器を置くと男に笑顔を見せて何か言った。
 少し離れてその様子を見ていた耕太のところに男が戻ってくると、「行こか」と先に立って歩き出した。大勢の人たちが行き交う中を男は迷わず進んでいく。そして「呼吸器内科」と表示された診察室の前のベンチに腰を下ろした。隣の中年女性が腰を動かして座り直し、わずかにそっぽを向くように向きを変えた。
「病院は温いからええわ。一日中ここにいといたろか」と男が呟いた。
 順番はなかなか回って来なかった。最初は耕太に、母親の病気を尋ねたり、看病していましたという答えに、息子の鑑やなどと言っていた男も次第にいらいらして、立ち上がって診察室を覗き、看護師に叱られたりした。
 一時間ほど経って、「熊谷さん、どうぞ」と看護師が呼び掛けた。「やっとか」と男が立ち上がった。耕太がじっとしていると、「兄ちゃんも来るんやで」と言った。
 二人揃って中に入る。看護師が怪訝な顔をして耕太を見た。
 診察室には五十代半ばの医者がカルテを手に、椅子に坐っていた。男が前の丸椅子に腰を下ろすと、「薬、飲んでるか」と医者が言った。
「飲んでます」
「ほんとか」
「はい」
「売り飛ばして酒、飲んでないやろな」
「そんなこと、しますかいな」
「薬、飲まなかったら、治れへんで」
「分かってます」
「それじゃあ、服めくって胸見せて」
「先生、きょうは診察と違うて人捜しに来ましてん」
「人捜し?」
「この兄ちゃんの父親が行方不明で、九州から捜しに来よったんですわ。わし、その手伝いしてますねん」
 医者が耕太を見た。本当かと睨まれているようだった。はいと耕太は小声で応えた。
「そんなことは俺に訊いても分からん。事務局に行け」
 耕太は、もう一度はいと応えて急いで診察室を出た。後ろで、「あんたは診察や」という医者の声が聞こえていた。
 しばらくベンチで待っていると、男が出てき、「あの先生、恐いやろ。でもええ先生やで」と耕太に囁いた。
 事務局に行こかという男の後についていく。途中で通りすがりの看護婦に事務局の場所を尋ね、三階に行った。
 しかし事務局では、すぐには調べられない、分かったら連絡すると言われ、携帯電話の番号を聞かれただけだった。
 一階に降りると、男は綜合受付と書かれたカウンターに行き、そこで何か紙切れをもらって耕太のところに戻ってきた。見ると処方箋らしかった。
 表に出、病院の横にある薬局に入る。その時、耕太は薬代も奢らされるのではないかと気づいた。
「それじゃ僕はこれで」帰ろうとすると、「まあ、待ちいな」と男が耕太の手首をつかんだ。「一緒に帰ろうや」
「薬代は払いませんよ」
「何や、そんな心配しとったんかいな。これはただや。金はいらん」
 確かに男は金を払わずに薬袋を受け取った。な、と男は耕太に笑い掛けた。
 しかし帰りにスーパーマーケットの横を通った時、「兄ちゃん、ここで昼の弁当買うていき。コンビニより安いで」と言い、耕太と一緒に中までついてきた。どうせ奢らされるのだろうと思い、弁当売り場の前で、「おっちゃん、どれほしい」と訊いた。
「え、奢ってくれんのんか」
「うん」
「おおきに、おおきに」
 男は焼肉弁当を手に取った。耕太もそれにし、「お茶は?」と訊いた。
「わし、これの方がええねんけど……」男は丸くした右手を口に当て、何かを飲む真似をした。耕太は呆れたが、どうせ最後だしと頷いた。男は、コップ酒、コップ酒と呟きながら、酒類売り場に歩いていった。
 レジで二つの袋に入れてもらい、外に出た。
「さあ、昼飯食ったら、次は新世界に捜しに行こか」
 男はレジ袋をぶらぶらさせながら、遠くを見た。
「僕、もう帰ります」
「え、親父さん、捜せへんのんか」
「帰って連絡待ちます」
「そんなこと言わんと、新世界に行こうや」
「いや、もうよかです」
「そうか。しょうないな。わしは新世界で見つかるような気がすんねんけどな」
 男は耕太を横目で見た。
「もう十分捜しましたから」
「そうか。まあ、兄ちゃんが帰っても、わし、こっちで捜しといたるわ」
「ありがとうございます」
 ホテル日本の前で別れて、耕太は部屋に戻った。
 その夜、男がいるかもしれないと思いながら「太一食堂」に夕食を食べにいったが、男はいなかった。
 十時過ぎ、風呂から戻ってそろそろ寝ようかと思っていた時、インターホンの呼出音が鳴った。受話器を取るとフロントからで、クマガイという人が面会に来てるということだった。
 湯冷めしないようにジャケットを着て下に降りていくと、上がり框に男がこちらに背を向けて坐っていた。おっちゃんと呼び掛けると、男は首を捻ってこちらを見、おうと答えた。そして立ち上がろうとしたが、体が揺れてうまくいかず、尻餅をついた。耕太は駆け寄って男を助け起こした。男の口から酒くさい臭いがする。
 男はおおきに、おおきにと言いながら、直立不動の姿勢を取った。
「兄ちゃん、不肖わたくし、熊谷新吉は、大月信次を見つけました」
 呂律が回っていない。耕太はびっくりした。
「うそ、ほんとですか」
「本当であります」
「どこにいるんですか」
「ここであります」
 え、と思った。
「何を隠そう、わたくしが大月信次であります」
 耕太は一遍に冷静になった。
「おっちゃん、もうよかよ。おっちゃんが捜してくれるとはありがたいけど、もうよかです」
「わたくしでは駄目でありますか」
「駄目とかそんな問題やない」
「やはり駄目ですか」
 男が次第に体を揺らし、横に崩れ落ちた。耕太は男を助け、自分の部屋に連れて行こうと上がり框に引き上げたが、フロントから、部屋に連れて行くのは駄目ですよと釘を刺されてしまった。仕方なく、耕太は男に肩を貸し、スリッパのまま表に出た。男の体は重く、酒くさい息が鼻に掛かる。
「おっちゃんの部屋、どこ」
「そんなもんない」
「どこに住んどうと」
「あっち」
 男がガードの方を指さした。その方向に男を引きずるようにして歩いていると、男が、うっという呻き声を出した。まさか吐かれるのではないかと耕太は立ち止まった。
 男は片方の手で胸を押さえ、いいいと呻いた。体を丸めようとするので支えきれず、耕太は男を路上に降ろした。男は横になって両足を縮め、手で胸を掻きむしった。
「おっちゃん、どうしたと」
 返事がない。
「救急車、呼ぼうか」
 男は呻くだけだ。
 周りを見ると、こちらを見ている者や知らん顔をして通り過ぎていく者がいる。どうしようかと耕太は一瞬思ったが、すぐに携帯電話をポケットから取り出すと、119番に掛けた。
 救急車が来るまでの時間がひどく長く感じられた。耕太はジャケットを脱いで男に掛け、救急車を待った。
 サイレンを鳴らして救急車が来、耕太は一緒に乗り込んだ。動き出した時、痛みが軽くなったのか、意外としっかりとした声で、「多能田に行ってくれ」と男が言った。
 心筋梗塞の疑いがあるということで、男は集中治療室に入れられた。耕太は外のベンチに坐って様子を窺っていたが、看護師から、今夜はICUから出られないからいても仕方がないと言われ、ホテルに戻った。
 翌日、耕太はチェックアウトをして、病院に向かった。部屋を出る時、もったいないと思ったが、ギターはそのまま隅に立てかけておいた。
 昨夜の記憶を頼りに集中治療室まで行ったが、「熊谷新吉」の名札が掛かっていなかった。通り掛かった看護師に尋ねると、すでに六人部屋に移っているということで、耕太はその場所を教えてもらい、部屋まで行った。
 男のベッドは奥の窓際で、点滴をしている最中だった。薄緑色の簡単服みたいなものを着て、腕を出している。
「おはようございます」
「おう、兄ちゃん。昨夜はありがとな」心なしか、やつれたように見えた。
「大丈夫ですか」
「そう簡単にくたばるかいな」
「僕、これから帰ります」
「そうか。わざわざ見舞いに来てくれたんか。ありがとな」
 それじゃあと言って別れようとした時、「兄ちゃん」と男に呼び掛けられた。
「わしなあ、九州出身言うてたやろ。あれ、嘘や。ずっと大阪や。それに釜に来たんも七年前や。九州出身の知り合いがおるのはほんまやけどな。悪かったな」
「いや、よかです。そげなこと」
 その時、一人の若い医者が入ってきて、「熊谷さん、どう、調子は」と声を掛けた。
「お陰さんで助かりましたわ」と男は笑顔を見せた。
 耕太は部屋を出て、医者が出てくるのを待った。
 しばらくして医者が出て来、耕太は男の病気のことを尋ねた。心筋梗塞ではなく、狭心症だった。
「狭心症も問題なんだけど、結核の方が心配やね。ああいう人は、薬を飲まないから」
「結核なんですか」
「まだ菌が出てないから、うつる心配はないけどね」
「そうなんですか」
 行きかけた医者を耕太は呼び止めた。ポケットから封筒を出し、中から一万円札五枚を抜き取った。
「これ」と耕太は札を差し出した。「あの人の治療につこうて下さい」
 医者は困った顔をした。
「本人に渡したら?」
「本人に渡したら、酒ば飲んでしまうけん」
「いや、私は受け取れないよ」
「だったら、あの人が呼吸器内科でお世話になっている先生に渡して下さい」
「岡崎先生かな」
「はい」
「まあ、そういうことなら預かっておきますが」
 金を手渡し、行きかけた耕太に「お名前は?」と医者が言った。
「大月です。大きい月と書きます」
 耕太は会釈してその場を離れた。
 電話をして久留米までの夜行バスの予約を取った。午後十時梅田発なので、まだ十時間以上時間がある。どうしようかと考えて、耕太は男の言っていた新世界に行くことにした。
 人に道を聞いて国道沿いに歩いていく。線路を渡り、ガード下をくぐってフェスティバルゲートのそばまで来て、また人に聞き、ジャンジャン横丁に入った。
 狭い通りの両側に、雀荘や寿司屋、串カツ屋などが軒を並べている。昼前なのに結構人通りがあり、一杯飲み屋では年配の男たちが酒を飲んでいた。
 中程に囲碁将棋の会所があり、耕太は窓の外から覗き込んだ。四十席くらいあるうち、三分の一ほど埋まっている。対戦を傍で見物している男たちもいる。耕太は男たちの顔を一人一人見ていった。父親が将棋好きだったかどうか分からないが、その中にいてもおかしくないような気持ちになった。少し行くとまた棋会所があり、そこでも耕太は将棋を指している男たちの顔を見詰めた。
 うどん屋で昼食を済ませ、新世界をぶらぶら歩いていると、突然目の前に塔が現れた。頭が膨らんだ奇妙な形。
 これが通天閣か……。こんな所にあるとは思っても見なかったので、耕太はびっくりした。
 見上げながらゆっくりと近づき、通天閣の下に入った。父親も初めて見た時は、自分と同じように驚いたのではないかと彼は思う。
 円形エレベーターに乗って二階に行き、そこで展望券を買って九十一メートル上空の展望台に上がった。客はまばらで、耕太は窓の外をぐるりと一周した。大阪の街並が広がっており、厚い雲が垂れ込めているせいで、遠くの方は霞んでいた。このどこかに父親がいるかもしれないと思うと、大阪が身近になったように感じられる。
 展望台の一郭には、尖った頭を持った木像が安置されていた。説明書きにはビリケンとある。縁結びの神様らしく、木像の両側には両足の裏をかたどった絵馬がおびただしく飾られていた。耕太はその中の一枚に目を近づけた。
「ユーちゃん、五十年後も縁側に腰を下ろして一緒にお茶を飲んでいたいね」
 碧と一緒に来ていたら、彼女も同じようなことを書いたかもしれないと思うと、耕太は急に切なくなった。初めて味わう感覚だった。
 碧への土産を買うつもりで、すぐ横の売店に近づいたが、目についたのはビリケン像を付けた携帯ストラップだった。様々な色と種類がある。
 耕太はポケットから携帯電話を取り出すと、開けてメールを打ち始めた。
「久し振り。おれ、今、大阪の通天閣にいる。おやじをさがしに来たけど、いなかった。おみやげは何がいい? おれはビリケンの携帯ストラップなんか面白いと思うんだけど、どう。あした、帰る」
 送信して十分後、着信を知らせる「パープル・ヘイズ」が鳴った。見ると、碧からのメールだった。ボタンを押す。
「耕ちゃん、ごめん。あたし、来年の春、結婚することになりました。今まで付き合ってくれてありがとう。お母さんとの約束、破ってしまったけど許してね。ストラップは次の女の子にあげて下さい。バイバイ。これが最後のメールです」
 耕太はしばらく液晶画面を見詰めてから、ゆっくりと閉じた。
 エレベーターに乗る。窓の外を鉄骨が流れていく。体が沈んでいく感覚の中で、耕太はもう一度携帯電話をポケットから取り出し、碧からのメールを読んだ。そして削除しようとしてボタンに指をかけたが、やはり止めて携帯電話を折りたたんだ。
 通天閣の下に出ると、雨が降っていた。携帯電話をポケットにしまいながら、耕太は雨の中に走り出た。




「秋の暮通天閣に跨がれて」(内田美紗句集『魚眼石』)より、着想を得ています。

 

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