私は子供の頃、目覚まし時計を分解したり、鉱石ラジオを作ったりする理科少年だった。テレビが故障して電器屋が修理に来ると、その様子を飽かずに眺めたりしていた。
中学校に入ると、その熱はますます高じてきて、子供向けの無線雑誌を買ってきては、その中の制作記事を見ながら真空管式のラジオやアンプ、ワイヤレスマイクなどを作った。そういう子供が次に熱中するのはアマチュア無線と相場が決まっていて、私も何とかしてアマチュア無線技士になりたいと思い、通信教育で勉強を始めた。中学生にとってはいささか高度な内容だったが、二回目の受験で電話級という初級ランクに合格することが出来た。中学二年の終わりのことだった。
私としてはすぐにでもアマチュア無線局を開局したかったが、両親は一年後に高校受験を控えていることを理由になかなか認めてくれなかった。私は、成績が落ちたらすぐに止める、K高校に絶対入ると言って両親を説得し、何とか許可を得た。
既製品の受信機と送信機を買う金はもらえなかったので、キットを購入して半田付けをした。物干場に八メートルほどの垂直アンテナを立て、隣接した自分の屋根裏部屋にケーブルを引き込んだ。
近畿電波監理局から開局通知が届いた日、中学校から帰ってきた私は、どきどきしながら封筒を開いた。
コールサインは、JA3MBN。
私は「ジェイ、エイ、スリー、エム、ビー、エヌ」と呟いてみた。エム、ビー、エヌがちょっと言いにくい。私は屋根裏部屋に上がり、早速アマチュア無線雑誌を開いて、「MIKE、BRAVO、NOVEMBER」という呼び方を見つけた。何回か口の中で「マイク、ブラボー、ノーベンバー」と言ってから、それに決め、送信機のスイッチを入れた。マイクを握ってしゃべろうとすると、声が震えるのが分かった。
「ただいまテスト中。試験電波を発射しています。こちらはJA3MBN。ジェイ、エイ、スリー、マイク、ブラボー、ノーベンバー。どちらさまかテレビやラジオに妨害を受けておられましたら、こちらまでご連絡下さい。こちらの名前は……」と私は自分の名前と住所と電話番号を言った。開局時の心得として雑誌に載っていたことを忠実に守った。時間を変えて三日間ほど続けるのがよろしいと書いてあった。
何回かテスト中の電波発射をして、私は送信機のスイッチを切った。
ほどなく、母が階段下から顔を覗かせた。母は一階で美容室をやっていた。
「茂、一体何をしたの。すごい剣幕で電話がかかってきてるわよ」
私はどきりとした。階段を下りていき、母に「試験電波を出しただけや」と言ってから、さらに一階に下りていった。店に通じるドアの前に電話があり、受話器が外されていた。私は受話器をつかんで、耳に当てた。
「もしもし」
「お前か犯人は」怒鳴り声だった。私は受話器を耳から離した。「テレビが映れへんかったぞ。妨害や、妨害。二度とそんなことするな」
私は「直したいんですけど」と小声で言ってみた。
「何を直すんや」
「テレビです」
「何言うてんねん。わしのテレビは壊れてへんぞ。お前が変なことをせえへんかったらええんじゃ」
そう言うと、男は電話を切ってしまった。私は溜息をついて、受話器を置いた。
「どうしたの」と母が言った。
「テレビに妨害電波が入ってるみたいや」
「アマチュア無線の?」
「うん」
「どうするの」
私は屋根裏部屋に行って送信機のスイッチを入れ、再び一階に下りて、テレビをつけた。チャンネルを回して確かめてみると、6チャンネルと8チャンネルに線が走っていた。私は母にテレビを見ていてくれるように頼み、屋根裏部屋に飛んでいって、先程と同じようにマイクにしゃべってからスイッチを切り、下に降りた。
「どうやった」
「線が消えたけど」
「僕の声、聞こえへんかった?」
「いいえ」
その時電話が鳴り、従業員の戸田さんが受話器を取ったが、すぐに耳から離した。がなるような声が聞こえてくる。
「先生」と戸田さんが受話器をこちらに差し出した。母が受け取り、耳に当てないで「すみません」「わかりました」と答えている。
受話器を置くと、母は「妨害電波が出ている間は、アマチュア無線はやったらだめ。わかった?」と厳しい顔で言った。
「そんなこと言うても」と私は口を尖らせた。「こっちばっかりで対策しても、むこうが悪かったら直れへんもん」
「とにかく直るまではだめ」
「先生」と戸田さんが言った。「今の声、確か与加郎の人ですわ。私、いっぺん話したことありますわ」
与加郎というのは、私の家から二筋離れた細い道にある古道具屋だった。といっても大型ゴミの集積所といった趣で、商売をしているような感じではなかった。私も母も与加郎は知っていたが、その主人は知らなかった。
翌日、私は中学校から帰ると日本橋まで行って、コンデンサやコイル用銅線、コネクタなどを買い求めた。無線雑誌に載っていたローパス・フィルターを作るためだった。それを送信機とアンテナの間に入れると妨害電波が軽減されるのである。
私は二日がかりでそれを作り上げ、ケーブルの間に入れた。すぐに試してみたかったが、もし効果がなくてまた怒鳴り込まれたら嫌なので、夜中まで待って午前零時過ぎにスイッチを入れた。一階のテレビで確認すると、どのチャンネルにも妨害電波は入っていなかった。やったと私は思った。これで思う存分電波が飛ばせる。
しかし翌土曜日の昼から、「CQ、CQ、こちらはJA3MBNです。どちら様かお聞きでしたら応答願います」とやっていたら、母が階段下に顔を見せ、「また妨害電波が入ってるって」と言った。
「えー」
「とにかく止めなさい」
私はスイッチを切って、下に降りていった。
「与加郎?」
「そうよ」
私はズックを履いて外に出た。二筋向こうの幅三メートル足らずの道を入っていき、薄汚れた箪笥や石灯籠、洗濯機などでふさがれた店の前に立った。古いホーローの看板が何枚もぶら下がっている。かろうじて見えるガラス戸には、「与加郎」という紙が貼ってあった。私は入るのを躊躇った。中から出てきてくれないかなと思って様子を窺っていたが、人のいる気配がしない。明日にしようかと弱気の虫が動いたが、ここのテレビを何とかしなければ電波が飛ばせない。
私は意を決してガラス戸を開けた。店内は薄暗く、積み重ねられた椅子や洋服箪笥、商売で使う氷かき機などで埋まっていた。両側の棚は雉の剥製や天狗の面などの雑多なもので一杯だった。埃っぽい感じがする。
「すみません」と私は言ってみた。しかし返事がない。奥からテレビの音声が聞こえてくる。
「すみません」
今度はもう少し大きい声を出してみたが、やはり返事がなく、私は奥に進んでいった。
畳の部屋が目に入り、テレビと横向きに寝ている人の脚が見えた。上半身は襖に隠れている。私はゆっくりと歩いていき、肘枕をしている男の人を見た。短髪の白髪頭だった。テレビは丸いブラウン管のかなり古い型だった。
「あのう……」と言うと、男の人はこちらを見た。皺のある黒い顔で、ぎょろっとした目つきだった。私がひるんでいると、その人は上半身を起こし、尻を滑らせるようにして近づいてきた。そして「何か欲しいもんあったかな」と言いながら、靴を履こうとしたので、私はあわてて「テレビの妨害電波のことなんですけど」と言った。
途端にその人の顔が険しくなった。私はどきどきしながら、「テレビ、直したいんですけど」と早口で言った。
「どこを直すんや」
「妨害電波が入らないようにフィルターを入れたいんです」
「そんなもん入れんかってきれいに映っとる、見てみ」
「僕、アマチュア無線始めたばっかりで、妨害電波が入らないようにせえへんかったら電波出せないんです。お願いします」
「わしには関係のないこっちゃ。商売の邪魔せんと早よ帰り」
そう言うと、その人は尻を滑らせて畳の上に戻った。私は小便をちびりそうになった。
「テレビはいつ見てはるんですか」
「一日中つけとる」
夜遅くやったらテレビ見てへんかなと思いながら帰ろうとすると、「お前、いくつや」という声が飛んできた。
「十五です」
「中学三年か」
「はい」
「機械いじりが好きなんか」
「はい」
「そうか」
それっきりだった。何かあるのかと続きを待っていた私は、がっかりして店を出た。
家に帰ると、母が「どうだった」と訊いてきた。
「触らしてくれへん」私は溜息をついた。
「困ったわね」
「お母さん、一緒に行って頼んでくれへん?」
「お父さんの方がいいんじゃない?」
私は反対の意思を表すために、口を結んで小さく首を振った。父は頑固だから絶対与加郎のおっちゃんとぶつかると思ったのだ。
母に頼み込んで、美容室が休みの月曜日に一緒に行ってもらうことになった。
夜中の零時過ぎに私は恐る恐る送信機のスイッチを入れてみた。マイクに向かって、小さい声で、「ただいまテスト中。こちらはJA3MBN……」と試験電波のメッセージを流したが、どこかのテレビを妨害していると思うと気が気でなく、三回だけで止めてしまった。
翌日曜日に、私は日本橋まで部品を買いに行き、雑誌を見ながら夜遅くまでかかってテレビ用フィルターを作り上げた。それを持って次の日の放課後、母と一緒に与加郎に行った。母は手作りのおはぎを皿に入れ、それにナイロン袋をかぶせて持っていた。
玄関を塞いでいるがらくたに立ち止まってから、母は体を横にしてガラス戸を開けた。私もその後に続いた。
「ごめんください」
母の声が暗い店内に響いた。テレビの音がしている。
「奥や」私は小声で母に言った。
奥に行こうとすると、与加郎のおっちゃんが襖の陰から姿を現し、靴を履いた。
「はい、はい」と言いながらおっちゃんがこちらに来た。右足を引きずるように歩いている。
「何か欲しいもんおましたか」と母を見たが、私に気づくと、「何や、お前か」と言った。
「私、この子の母親で、二筋向こうで美容室をやっております」と母はおはぎの皿を抱えながら頭を下げた。「すでにお聞きとは思いますけど、この子がアマチュア無線を始めまして……」
「わしには関係ない。ええから帰って」
「この子が申しますには、機械をちょっと取り付けるだけでお手間は取らせませんので、どうかお願いします」
私は手に持ったフィルターを見せた。与加郎のおっちゃんはそれをじっと見てから、「どこに付けるんや」と言った。
「アンテナからテレビに来てるケーブルの間に入れるんです」
「中は開けへんのか」
「開けません」
「どうかよろしくお願いします」と母が頭を下げた。
与加郎のおっちゃんはしばらく私の手許を見ていたが、やがて「まあ、ええやろ」と言うと私たちに背を向けた。右足を引きずるため、歩くたびに体が傾いている。畳の間に上がる時も、両手を使って右足の靴を脱がせた。靴下を履いた右足は確かに足の形をしていたが、堅い作り物を思わせた。義足とちゃうかと私は思った。
私はその後に続いて畳の間に上がった。母は敷居の上に腰を降ろして、おはぎの皿を滑らせるように差し出した。
「つまらないものですが」
「なんや、それ」
「おはぎです」
「わし、甘いもん嫌いや」
母ははっとした顔をし、皿を引っ込めようとした。
「せやけど、せっかくやからもろとくわ」
母は戸惑った顔で再び皿を押し出した。
私はテレビの電源を落としてから、ポケットに入れておいたニッパーでケーブルの途中を切った。ビニールの被膜を剥いて銅線をねじり、フィルターを繋ぐ。そしてもう一度テレビの電源を入れて、画面を見た。どのチャンネルもきれいに映っている。白黒なので、色づれ障害がないだけましかなと思った。
私は母に、電波を出してくるからチャンネルを切り替えて画面を見ておいてくれるように頼んで、家に走って帰った。
屋根裏部屋に上がり、テスト中のメッセージを五回ほど流してから、送信機のスイッチは切らずに与加郎に戻った。
「どうやった」息せき切って尋ねた。
「どこもきれいに映ってたみたい」母がチャンネルを切り替えながら答えた。
「僕の声、聞こえへんかった?」
「聞こえなかったわよ」
私はほっとした。自分でチャンネルを変えてどの局にも妨害が入っていないことを確認してから、「今、電波を出しっぱなしにしてますけど、この通りどこにも妨害は入ってません」と与加郎のおっちゃんに向けてチャンネルを回して見せた。
おっちゃんはテレビの画面に目をやって、「ああ、そうか」と気のない返事をした。
「茂、よかったわね」
「うん」
畳の間から降りて母は、本当にありがとうございましたと深々とお辞儀をした。私も、ありがとうございましたと頭を下げた。
外に出ると、ふうっと母は溜息をついた。
「あのおっちゃん、義足とちゃうか」と私が言うと、母はしーと唇に人差し指を当てた。
家に帰ると、私は屋根裏部屋に上がり、早速マイクに向かって「CQ、CQ……」と始めた。五分ほど呼び掛けていると、受信機のスピーカーから「JA3MBN、JA3MBN。こちらはJA3……」という応答の声が聞こえてきた。心臓が飛び上がった。
「JA3***、JA3***。こちらはJA3MBN。ジェイ、エイ、スリー、マイク、ブラボー、ノーベンバー。応答ありがとうございます……」
声が震えていた。同時に雲の上をふわふわ歩いているような幸福感に包まれていた。
それから毎日学校から帰ってくると、屋根裏部屋に籠もり、アマチュア無線に熱中した。夕食もそこそこに、テレビも見ないで見知らぬ相手と交信をした。交信した記念にQSLカードというものを交換するのが習わしだった。私は印刷したものを作っていなかったので、せっせと葉書に色鉛筆を使って「JA3MBN」と書いて投函した。
そのうち父が苦虫をかみつぶした顔で、無線ばっかりやっとらんと勉強せんかと怒鳴ったので、夕食までは勉強の時間に当てた。夕方よりも夜の方が交信相手がずっと多かったのだ。
そんな日が一週間ほど続いたある日、与加郎のおっちゃんから、また妨害電波が入っているという電話があった。
あれと私は思った。その時は勉強していて、電波は出していなかったからだ。母にそのことを言うと、「とにかく行ってみなさい」と言う。別の電波を拾てるのかなと思いながら、私は与加郎に行った。
店の中に入ると、おっちゃんが古道具にはたきを掛けていた。埃っぽい店内がますます埃っぽく、私は思わず口を押さえた。
「おお、来たか」
私は早口で、妨害電波がいつ頃入ったかと訊いてみた。おっちゃんの答えは、私が勉強していた時間だった。
「その時間は電波を出してませんから、僕のと違います」
「ああ、そうか」
余りにもあっさりと納得したので拍子抜けしながら帰ろうとすると、「この前の皿、持って帰れ」とおっちゃんが奥からおはぎの皿を持ってきた。それを受け取って行こうとすると、今度は「ちょっと店の中、見ていけへんか」と言った。古道具に興味などなかったが、無下に断って絡まれたらかなわないという気持ちが働いた。
私が頷くと、おっちゃんはびっこを引きながら品物一つ一つを蘊蓄を傾けて説明した。キセルとか根付けとか、中には何に使うのかよく分からない道具もあった。
その中で私の目を引いたのは、ガラスケースに収まった鉄道模型だった。こんな店にどうしてこんなものがあるのかというくらい立派な模型が並んでいた。蒸気機関車や電気機関車、客車、貨物車、それにレールもあった。私が見詰めていると、「ええもんに目えつけるなあ」とおっちゃんが言った。「これはうちの中で一番高いやっちゃ」
私はもう一つ将棋盤にも目をつけた。二十センチほどの分厚さで、ナイロンのカバーが掛けてあった。薄い板の盤でしか将棋を指したことがなかったので、あんな盤で指したら気持ちがええやろなと思ったのだ。おっちゃんは「なかなかお前、目えが高いな。どや、おっちゃんと一緒に古道具屋やるか」と言って笑った。
私が将棋盤を触っていると、「どや、おっちゃんと将棋指せへんか」と言い、私が首を振ると、「わしに勝ったら、その将棋盤やるぞ」と言い出した。えっと私は思った。本気かなという気がしたが、この将棋盤で一度指してみたいという思いもあった。
しかしおっちゃんが出してきたのは、薄っぺらい盤で、駒も安物だった。
「あれで指したいねんけど」と棚にある将棋盤を指差すと、「わしに勝ったらお前のもんやから、好きなだけ指せるぞ」と言って取り合わなかった。
指し始めて十分ほどで私は負けてしまった。手玉に取られるという表現がぴったりだった。勝ったら将棋盤をやるなんて、全然本気やなかったんやと私は腹を立てた。
「もう一番どうや」というおっちゃんの声を無視して、私は店を出た。
それから二日ほど経って、夕方再びおっちゃんから、妨害電波が入っているという電話があったが、私は全然取り合わなかった。電波を出すのは夜だけだったし、夜には文句を言ってこないのだから自分のではないという確信があった。本当に妨害を受けているか怪しいもんやという気持ちもあった。
母が来て、「茂に替わって欲しいって」と言う。私は降りていき、しぶしぶ電話に出た。
「もしもし」耳から受話器を離しながら言った。
「四枚落ちでどうや」おっちゃんの声は低く、私は受話器を耳につけた。
「何のこと?」
「四枚落ちでわしに勝ったら、あの将棋盤やるで」
四枚落ちとは、飛車と角行と香車二枚を上手が落として指すハンディ戦である。私は気持ちが動いた。しかし「考えときます」と言って電話を切った。
私は自転車で大きな書店に行き、駒落ち将棋の本を買ってきた。そしてアマチュア無線の合間にそれを見ながら、戦型の研究をした。研究といっても、序盤の守り方と攻め方を丸暗記するだけだったが。
日曜日、私は与加郎に行った。おっちゃんは横になってテレビを見ており、私を見ると、「やっぱり来たか」と起き上がった。
私は本で覚えた通りの攻め方をした。おっちゃんは「研究してきよったな」と鼻で笑った。
平手と違って手玉には取られなかったが、やはり私は勝てなかった。私は口惜しくて五番続けて挑んだが、粉砕されてしまった。惜しい一番というのもなかった。「まだまだ将棋盤はやれんな」と言って笑うおっちゃんを背に、私はがっかりして店を出た。
それから日曜日になると、私は一週間の研究成果を試すため、おっちゃんに勝負を挑んだ。そのうちもうちょっとで勝てるという一番が出てきて、私はますます闘志をかき立てた。
私とおっちゃんは将棋以外のことはほとんど話さなかった。それでも一度義足のことについて私が尋ねたことがある。
おっちゃんはズボンの裾をめくり上げて義足を見せてくれた。臑から下がなく、義足はプラスチックと木と硬いゴムで出来ていた。走れんのと訊くと、走れるわけがないとおっちゃんは笑った。
「どうしてそうなったん」
「戦争に決まってるやろ」
「あれ、おっちゃん戦争に行ったん」
「そうや。お国のために戦うたんや」
「おっちゃん、いくつのときに戦争に行ったん」
戦争に行ったのは、父くらいの世代だと思っていたから、意外だったのだ。
「そんなこと聞いてどうすんねん」
おっちゃんが急に不機嫌になった。私はあわてて「お父さんが中国に行ったのは二十五て言うてたから」と小声で言った。
「お前のお父さん、中国で戦うたんか」
「うん」
「わしは南方や。南方のフィリピンや」
「お父さん、脇腹に貫通銃創があるけど、おっちゃんの方がすごいわ。傷痍軍人やんか」
その頃はまだ、白衣にカーキ色の兵隊帽を被り松葉杖を突いた人が街角に立って、道行く人からお金をもらっているのを見たことがあった。
「傷痍軍人なんか別にすごない」
おっちゃんがつまらなそうに言ったので、その話はそれで終わりになった。
私はアマチュア無線の話をしたことがある。おっちゃんが、何が面白いと訊いてきたからだ。
「全然知らん人と話すのが面白いねん」
「全然知らん人と何を話すんや。話すことがないやろ」
「そんなことないよ。アンテナとか送信機の話をしたり、天気とか飼ってる猫の話とか」
「天気なんかどこがおもろいねん」
「この前北海道の人と話したら、すっごい寒い言うてた。大阪と全然ちゃうねん」
「北海道と話したんか」
「そうや。運がよかったら、外国の人とも交信できるんや」
「外国人と話したんか」
「まだ話したことない。僕のん電話級やからあんまり遠くまで届けへんねん」
おっちゃんが、外国かと呟いたので、私は「おっちゃんもアマチュア無線やってみいひん」と言ってみた。
「わしが?」
「やったら結構面白いと思うけどなあ」
「あかん、あかん」とおっちゃんは手を振った。「何も知らん人間と話す気なんかあれへん」
「やるんやったら僕が勉強した本、貸したんのになあ」
いらん、いらんとおっちゃんは大袈裟に手を振った。
私の将棋の力がだんだんついてきて、四枚落ちでいい勝負をするようになった。
そんな時、私がもう少しで勝つ寸前までいったことがある。おっちゃんが驚異的な粘りを見せ逆転されてしまったのだが、その一番が終わった後、口惜しくて歯がみする私に向かって、おっちゃんが「四枚落ちではもうあかんな。将棋盤をやるのは、二枚落ちで勝ったらにしよう」と言い出した。
私は頭に来た。
「そんなん卑怯やわ。四枚落ちでええ言うといて負けそうになったら二枚落ちやなんて。どうせ二枚落ちで負けそうになったら、今度は平手や言い出すんやろ」
私は将棋盤の駒を手でぐちゃぐちゃにしてから、立ち上がった。運動靴を履いて出口に向かう。そしてガラス戸に手を掛けた時、「わかった、わかった」と背後から声が聞こえてきた。「四枚落ちや。四枚落ちで勝ったら将棋盤や」
私は振り返った。
「ほんと?」
「男に二言はない」
やったと言いながら、私は戻っていった。どこかで、怒ればこうなるんじゃないかと予想していたところがあった。
その後もう三番指したが、勝てなかった。
私が勝ったのは、次の日曜日だった。三局目に絶対優勢になり、私は震えた。おっちゃんは攪乱させようと様々な手を指してきて、それに私は惑わされたが、局面はひっくり返らなかった。最後の一手を指して、おっちゃんが「ついに負けたか」と言った時、私は両手を上げて、やった、やったと叫んだ。
駒が安もんやったら将棋盤が可哀相やと、おっちゃんは駒も付けてくれた。私は意気揚々とそれを抱えて帰り、母に報告した。
ところがゴルフ練習場から帰ってきた父が、母から話を聞いて怒った。賭将棋をするとは何事だと言うのだ。私が、賭将棋と違う、向こうが勝ったらくれると言うたんやと説明しても、そんな高いもん貰たらあかん、さっさと返してこいと怒鳴った。
確かに子供の私から見ても、将棋盤と駒は高そうに見えた。埃の被ったビニールカバーを取った時、その美しさにびっくりしたほどだった。駒も飴色に光っていた。
私はしぶしぶそれらを返しに行った。おっちゃんは、一旦やったものを受け取るわけにはいかんと言ったが、父親に怒られるからと私は返した。
その代わり、おっちゃんは「これからはこの将棋盤で指そか」と言ってくれた。私はうれしかった。この将棋盤で指せるんやったら、貰たんと一緒やと思った。
夏休みが始まって、私は日曜日だけではなくその間の日もちょくちょくおっちゃんのところに行った。分厚い将棋盤に飴色の駒を置くと吸い付くようだった。私はテレビで見るプロ棋士がよくやるように、人差し指と中指で駒を挟んで指す練習をした。きれいに叩き付けると何とも言えないいい音がした。
四枚落ちでは二番に一回は勝つようになり、二枚落ちで指すようになった。途端に手も足も出なくなったが、そのうち強くなって平手でおっちゃんを負かしてやろうという意気に燃えていた。
扇風機に当たりながら、時には二人でアイスクリームを食べながら将棋を指した。
将棋を指していても客は滅多に来なかったが、夏休みが終わりに近づいたある日、「こんにちは」という男の声が聞こえてきた。おっちゃんは将棋盤から目を離さない。
「おっちゃん、お客さんやで」と私は言った。
「うん?」とおっちゃんは顔を上げた。
その時「おじさん、ご無沙汰しています」と男が姿を見せた。開襟シャツに灰色のズボンを穿いており、タオルで首筋を拭いている。七三のきっちりとした髪で、四十過ぎに見えた。
「なんや、お前か」
「きょうはええ話持って来ましたんや」
「株やったらお断りや」
「そんな野暮な話、しますかいな」
男はそう言って敷居に腰を降ろした。おっちゃんはやれやれという顔で、尻を滑らせて男の隣に坐った。
男は鞄から新聞を取り出すと、「ここに面白い記事が載ってますねん」と指をさしておっちゃんに示した。おっちゃんは目を離して記事を見ていたが、やがて「老眼鏡取ってくれ」と言った。
私はテレビの上にある老眼鏡を取って、おっちゃんに渡した。男は私を胡散臭そうな顔で見た。何やこいつと思いながら、私は将棋盤の前に戻った。
「要するに」と男が言った。「おじさんみたいに勤労動員で軍需工場に引っ張られて身体に障害を負った者は、働いていたことを証明さえすれば金が貰えるいうことですわ」
おっちゃんは眼鏡を掛けて、まだ記事を読んでいる。
「おじさんの場合、ケンちゃんも亡くなってんねんから、その証明もしたら、ごっつ貰えまっせ」
おっちゃんは読み終わると、眼鏡を外した。
「わしには興味ないから帰ってくれ」
「何言うてまんねん。お国のために働いて、そんな体になってんから、堂々と国からお金貰たらよろしいがな。おじさんが書類集めんの大変やったら、私が代わりにやってあげまっせ」
「ええから帰ってくれ。わしは自分の体もケンジの死んだんも金に換える気はない」
「まあまあ、そう言わんと。折角国が補償したる言うてんねんから、素直に乗りはったらどうですか」
「ええから帰ってくれ」
「相変わらず頑固やな。まあきょうはこういう話があるということを言いに来ただけやから、また来ますわ」
「もう来んでもええ」
男は立ち上がると、「ところであの子どこの子でっか」とおっちゃんに顔を近づけながら私の方を見た。
「近くの美容室の子や」
「将棋相手でっか」
「そうや」
男はふーんと言って私を見てから、「いつもおじさんの相手してくれてありがとう」と手を上げた。私は曖昧に頭を下げた。
男が帰ると、おっちゃんは何事もなかったように将棋盤の前に戻った。
「わしの番か」
「うん」
おっちゃんはなかなか指さない。
「ケンちゃんて、おっちゃんの子供?」と私は訊いてみた。
「そうや」おっちゃんは盤を見ながら答える。
「空襲で死んだん?」
「そうや」
いくつやったと訊こうとして、止めた。おっちゃんがあまり話したそうには見えなかったからである。
私は戦争に行ったというおっちゃんの話と、今さっき聞いた話が矛盾していることに気づいていたが、そのことを糺してみる気にもなれなかった。どちらにしても右足を失ったことには変わりがないと思ったからだった。
九月になって模擬テストがあり、私の成績の急降下が明らかになった。
父は怒り、まずアマチュア無線が禁止された。送信機と受信機が屋根裏部屋から撤去され、父の部屋の押入に収まった。さらに放課後毎日、塾に行くことになり、私は宿題に追いまくられることになった。将棋どころではなくなった。
そんなある日、おっちゃんから電話があった。妨害電波が入っているというのである。
私はおっちゃんのところに行った。おっちゃんは駒を並べて待っていた。
「長いこと来えへんかったな。二枚落ち、勉強してたんか」
私は事情を説明した。
「そうか。それやったらしょうないな。高校に入るまで勝負はお預けや」
せっかく駒を並べてくれていたからと、私は一番だけ指すことにした。
指し始めてすぐに、おっちゃんが力を抜いていることに気づいた。
「手を緩めんと、本気で指してえな」と私は文句を言った。
「わしは本気で指してるで」とおっちゃんはとぼけたが、それから厳しい手が多くなり、結局私は負けてしまった。
駒を駒箱に片付けていると、「高校に合格したら、何か入学祝いやろか」とおっちゃんが言った。
「何くれんのん」
「何が欲しい」
将棋盤はここで指せるからいいとして、と私は店の中を見ながら考えた。そしてどうせ駄目だろうと思いながら、「鉄道模型」と言ってみた。
おっちゃんはうーんと唸ってから、
「よっしゃ、やろ。そやから一所懸命勉強せえよ」
「する、する」
塾通いの受験勉強にうんざりしていた私の目の前に、具体的な目標が出現した気持ちだった。
「入学祝いをやる代わりに」とおっちゃんが言った。「高校に入ったら、わしにアマチュア無線のこと教えてくれへんか」
「アマチュア無線やんの?」
「わしにはもう無理か」
「無理ちゃう、無理ちゃう」と私は手を振った。「八十のひとでもやってるもん」
「そうか」
「それに、アマチュア無線で将棋指してる人もいてるで」
「ほう、そうか」
「何やったら、僕が勉強した本、おっちゃんに上げよか」
「あかん、あかん」と今度はおっちゃんが手を振った。「自分で勉強しても分かるわけがない。誰かに教えてもらわんと」
「わかった。高校に入ったら教えたるわ。電話級やったら、そんなに難しないもん」
私は帰る前にガラスケースの鉄道模型を眺めた。屋根裏部屋にレールを敷いて電気機関車を走らせている光景を想像すると、胸が高鳴った。
年が明け、三学期が始まってすぐのことだった。夜遅くまで勉強してベッドに潜り込んだ私の耳に、サイレンが聞こえてきた。遠くからだんだん近づいてくる。その合間に鳴る鐘の音も大きくなる。消防車や、どこやろと思いながら、私は徐々に眠りに落ちていった。
翌朝、朝ごはんを食べている時、「昨夜消防車のサイレンが聞こえてたやろ」と私は母に言ってみた。
「そうね、かなり近かったみたいね」
「どこやろ」
「さあ、どこかしら」
その時、「おはようございます」と従業員の戸田さんが横の路地から入ってきた。
「先生、聞きはりました? 昨夜の火事、与加郎の隣から火が出たんですって」
私は口に入れていたご飯を飲み込んだ。
「おっちゃんのとこは燃えたん?」
「燃えたんと違う? 遠くからちょっと見ただけやけど」
私は箸を放り出して、靴を履いた。
外はこの冬一番の寒気が来ていたが、寒さは全く感じなかった。私は全力で走ったが、足が空回りしている感覚があった。
与加郎の筋に入る手前に、消防車二台とパトカー一台が止まっていた。大勢の人々が、ロープの張られたところから、火事現場を覗き込んでいる。私もその野次馬の中に潜り込み、ロープのところに出た。きな臭いにおいが鼻を突いた。
与加郎はと思って見てみると、見慣れた店先の風景はそこにはなかった。焼けこげた箪笥や石灯籠、熱で変形した洗濯機が水浸しになった道路に散乱していた。炭のようになった柱が何本か立っており、あちらこちらで水蒸気が上がっている。何軒かが焼け落ちていた。
私は野次馬の中を抜け、パトカーのところに行った。しかし中を覗いても誰も乗っていない。
周りを見ていると、一人の警官がやってきた。
「あのう、与加郎のおっちゃん、助かりましたか」と私は尋ねた。
「ヨカロ?」
「古道具屋の与加郎ですけど」
「ああ、あそこ。確か一人火傷して運ばれたはずやけど」
「助かったんですか」
「いやあ、こっちではちょっと分からんなあ」
「どこの病院ですか」
「この辺やったら、たぶんT医大ちゃうか」
私は警官に礼を言い、家に走って帰った。そして母に、T医大に電話して与加郎のおっちゃんの容体を訊いておいてくれるように頼んで、中学校に向かった。
しかしおっちゃんはT医大に運ばれてはいなかった。夕刊には火事の記事が小さく出たが、重傷一、軽傷三と書いてあっただけだった。死者がなかったことに私はほっとした。
次の日、私は火事現場のすぐ側まで行ってみた。異臭も水蒸気も収まり、長屋になった三軒分がすっぽりと焼け落ちていた。
私は与加郎の出入り口だったところに立って、中を見た。燃え残った古道具の上に黒こげの屋根が落ちていた。私はガラスケースのあったところを見詰めたが、ぺしゃんこになっていた。
奥には畳がかろうじて見えており、その中に黒い固まりがあった。あれは将棋盤とちゃうかと私は思った。その時何とも奇妙なことに、おっちゃんとずっと将棋を指し続けていたらこんなことにはならなかったのにという後悔の念が湧いてきた。考えれば考えるほど、それは絶対そうだという気持ちが強くなっていった。
私は結局K高校に落ち、滑り止めで入った私立高校に通い始めた。
父は大学に入るまでアマチュア無線は駄目だと厳命したが、母が頼んでくれて何とか再開した。
与加郎の焼け跡はいつまで経っても、焼け残った柱のままだった。私はおっちゃんが戻ってきた時に備えて、電話級の本を読み直していた。
そんなある日、高校から帰ってくると、母が台所の椅子に坐っており、いきなり「与加郎のご主人、死んだそうよ」と言った。
「死んだ?」
「お客さんから聞いたんだけど、火傷が原因で敗血症とかいう病気になったんですって」
「そうなんや」
私は屋根裏部屋に上がり、送信機のスイッチを入れた。
「CQ、CQ。こちらはJA3MBN。ジェイ、エイ、スリー、マイク、ブラボー、ノーベンバー。どちら様かお聞きでしたら応答お願いします。こちらは……」
声が震えているのが分かった。与加郎のおっちゃんがどこかで聞いていて、妨害電波が入っていると怒鳴り声で電話を掛けてくる気がした。
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