四つの話     津木林 洋



 茶色い水

 マンションの窓から見える川は、いつもと様子が違っていた。いつもは堤防越しにちらっと見える水面が、きょうは大きく見え、しかも茶色く濁っている。
 理恵は夕食の準備もほったらかしにして、窓に張りついていた。雨はまだ降り続いている。あの水面が河川敷を洗い出したら、様子を見に行かなくちゃと理恵は思っていた。
 チャイムが鳴った。玄関に行ってドアを開けると、「濡れた、濡れた」と言って信二が入ってきた。背広の肩や背中が黒くなっている。理恵はタオルを取ってきて信二に渡すと、また窓のところに戻った。
「あれ、メシまだ?」
「それどころじゃないのよ」
「何見てんの」信二が側に来た。
「あれ」と理恵は川の方向を指さした。
「ああ、すごいなあ。溢れてる」
 急に水面が上がってきたのか向こう岸の河川敷が茶色い水で覆われ出した。
「わたし、行ってくる」理恵はエプロンを外した。
「どこへ行くの」
「ミミちゃんの様子、見てくる」
「大丈夫だって。とっくに安全な所に逃げてるって」
 理恵は玄関に行きかけて戻ると、食器棚の上にあるキャットフードの袋を取って、中身を二握りほどいつものナイロン袋に移し替えた。それをジーンズのポケットに入れる。雨に降り籠められて、ここ三日間餌をやれなかったのだ。
「ほんとに行くの?」
「ええ」
「おれのメシより猫の餌が先か」
 信二は呆れたような声を出した。理恵はそれを無視して玄関に行くと、サンダルを突っかけ、信二の傘を掴んで部屋を出た。
 サンダルの中で足が滑るのももどかしく理恵は堤防に急いだ。
 堤防の上には、傘を差した多くの人影があった。そのうちの何人かはヘルメットを被り、長靴を履いている。上着の背中には、防という字が丸で囲ってあった。
 理恵は階段を上がり堤防の上に立った。灰色の雲で薄暗くなった中、河川敷はすっかり消え、いつもの倍くらいの幅になった川が流れていた。ところどころに樹木の先が見えている。河川敷に降りる階段も途中から水没していた。
「あれ、何や」ヘルメットを被った男が遠くを指さした。
「おっ、泳いどる、泳いどる」
 理恵は男の指さした方向を見た。黒い固まりが茶色い水を被りながら、流されている。
「ミミちゃん」
 理恵は階段を降りた。手から傘が滑り落ちる。雨に打たれながら理恵はサンダルを脱ぎ、更に階段を降りていった。
「ねえちゃん、何すんねん」足が水につかったところで、後ろから右腕を掴まれた。
「離して。あの子を助けなきゃ」理恵は身をよじった。
「あの子て、誰や」
「いやあ」理恵は叫んで、腕を掴まれながらも更に階段を降りた。膝の上まで水が来た。
「危ないやないか」という声がして、左腕も掴まれ、引っ張り上げられた。理恵は腰を落として逃れようとした。
「理恵、どうしたんだ」信二の声がした。
 理恵は振り返り、「ミミちゃん助けて、ミミちゃん助けて、お願い」と泣き叫んだ。
「どこ」信二が横に降りてきた。
「あそこ、あそこ」理恵は両腕を取られながら、顎を突き出した。
「お宅、この人の旦那?」
「ああ、あれか」信二は水玉模様の傘を畳むと、サンダルを脱いで、水没した階段を降りていった。
「バカ、無茶すんな」
 信二は胸の辺りまで水につかると、そこから抜き手で泳ぎ出した。ワイシャツの白が茶色い水に見え隠れする。
「戻ってこい、死ぬぞ」
 理恵の両腕を掴んでいた男たちは、腕を放すと堤防の上に上がっていった。かなわんなあ、何か浮き輪になるもんないか、流されていくぞ、と口々に喋っている。
 理恵は両手を握り合わせて信二が猫に近づいていくのを見詰めていた。信二が猫に追いつき、流されながらも一緒に岸辺に向かい出すと、理恵は階段を駆け上がった。
 堤防の上を信二と猫が流される速度に合わせて、小走りで行く。傘を差した見物人が理恵を見て道を空けた。
 信二は泳ぎ疲れたのか顔を上げたまま流されていた。消防団員の一人がロープを投げたが、全く届かなかった。
 川に掛かる橋のところで堤防は寸断され、理恵は橋の下に隠れていく信二を見詰めた。
「信ちゃーん」理恵は叫んだ。一瞬信二がこちらを見たような気がした。
 信二が見えなくなると、理恵は堤防を駆け下り、道路下のトンネルを走って、再び堤防の坂を駆け上がった。しかし信二の姿はなかった。
「あかん、溺れたわ」側にいた消防団員が橋の向こうにいる団員に怒鳴った。
「警察や、警察や」団員が怒鳴り返した。
 理恵は堤防の上を行ったり、来たりした。しかしどこにも信二の姿は見えなかった。
 五時間後、水死体が上がったという連絡がもたらされた。消防団長の車の中で、毛布にくるまりながら待っていた理恵は、団長の「確認してもらえますか」という言葉に、はっきりと頷いた。
 水死体の上がった場所は橋のところから二キロほど下流だった。テニスコートのフェンスに引っ掛かったらしいと団長は言った。
 夜の闇が辺りを覆っていたが、堤防の一郭だけが明るかった。団長に支えられながら、理恵は明かりに向かって歩いていった。人垣が崩れて、更に明るくなった。
 理恵は足を止め、いやいやをするように後ずさりした。団長が背中を支え、低い声で「今すぐでなくてもいいんですよ」と言った。理恵は首を振り、明かりの中に入っていった。
 ズボンを見ただけで、信二だとわかった。ゆっくりと視線を動かして顔を確認した。右腕が上の方に伸ばされており、理恵はその先に目をやった。黒い固まりが四本の脚を見せて、横たわっていた。信二の右手は尻尾を掴んでいた。

 消防団員の一人は女が微かに笑うのを見て、目を逸らせた。なぜか見てはいけないものを見たと思った。しかし女が水死体に突っ伏し、声を上げて泣き始めると、笑ったと思ったのは目の錯覚で、単に口許が引きつっただけかという気がした。
 女の震える背中を見続けていると、彼は堪らない気持ちになった。早くこの場から立ち去りたい、家に帰って風呂に入りたいとそればかり思っていた。




 遊歩道を横切る黒い筋

 二人は川べりの遊歩道を歩いていた。空は晴れて、夏を思わせるような日射しが照りつけていた。こんなところに来るのだったら、帽子を被ってきたらよかったと美奈子は思った。祐平の部屋でパンフレットを見ながら新婚旅行の行き先を決めるつもりが、天気がいいから散歩をしながら考えようと引っ張り出されたのだ。
 祐平は先程から一人で喋っていた。時差ぼけのことを考えたらオーストラリアがいいが、ハワイも捨てがたいし、安く上げるんだったら、東南アジアという手もある。いっそのことリッチにヨーロッパ周遊にしようか。
 美奈子はその都度、うんとか、それもいいわねなどと生返事をしていた。
「ちょっとは真剣に考えてよ」批難めいた口調で祐平が言った。
「考えてるわよ」
「じゃあ、どこがいい」
「……鄙びた温泉にずっと泊まるっていうのは、どう」
「何、それ」
「湯治客の真似をして、自分たちでご飯作ったりするの。安く上がるわよ」
「何言ってんの。そんなこといつでも出来るじゃないか。今回は新婚旅行だよ、新婚旅行。十日も休みが取れて、しかも親が出してくれるんだから、海外に行かなきゃ損じゃないか」
「テレビで見て、いいなあと思ったんだけど」
「だめ、だめ。そんなこと歳取ってからすればいいんだよ。第一、新婚旅行どこでしたって訊かれて、温泉でしたなんて恥ずかしくて答えられないじゃないか」
「そう。それならお任せするわ」
 いつもおれ任せなんだから、困ったもんだよと祐平は呟き、さて、どこにするかなあとひとりごちた。
 美奈子は目を落とした。その時、前方の遊歩道に黒っぽい筋が見えた。何かなと思い、足下まで近づいた黒い筋を見て、蟻の行列であることがわかった。美奈子は歩くリズムを乱して、黒い筋を踏まないようにした。
 見ると、黒い筋は所々にあった。美奈子は振り返り、ひょっとしたら踏んだかもしれないと思った。
 次の筋が近づいた時、美奈子は歩幅を微妙に変えて、踏まないようにした。しかし祐平はテニスシューズの踵のところで黒い筋を踏んでいる。
「踏んでるわよ」と美奈子は言った。
「うん? 何」
「蟻を踏んだって言ってるの」
「どこに」祐平は立ち止まって、足下を見た。
「ほら、あそこ」美奈子は通り過ぎた黒い筋を指さした。
 祐平は少し戻り、黒い筋を見詰めた。
「あ、ほんとだ。今の季節、蟻の繁殖期なのかなあ」
「他にもあるわよ」
 美奈子は前方を指さした。
「ああ、結構あるなあ。やっぱり今が繁殖期なんだよな」
 再び歩き始め、最初のうちは祐平も黒い筋をよけていたが、そのうち歩幅をわざわざ変えなくなった。
「踏んでるわよ」美奈子は祐平の足下を見て指摘した。
「もういいよ」
「どうして」
「まともに歩けないじゃないか」
 美奈子が立ち止まると、祐平も歩くのを止めた。
「ちょっとよけたらしまいじゃない」
「踏んだって、蟻は死なないよ」
「どうしてそんなこと言えるの」
「たとえ死んだとしても、ほんの一部だろう。こんなにいるんだから、少々死んだって蟻は絶滅しやしないよ」
「誰もそんなこと言ってないわ。ちょっとよけたら殺さずにすむのに、どうしてそうしないかと言ってるだけよ」
「あのね、こんな蟻みたいな動物はね、数多く子供を産んで、そのうちの大半が死んで、一部だけが生き残るようにできてるの。だからおれが少々踏み潰そうが大勢に影響は全くないんだよ、わかる」
 美奈子は反論しようとしたが、どう言っていいのかわからなかった。
「わかるだろう。だったらこんな議論はもうやめて、新婚旅行の行き先を決めようよ」
 美奈子は無言で歩き始めた。どうしたの、怒ったのと言いながら、祐平もついてくる。
 次の黒い筋を祐平が踏むのを見届けると、美奈子は遊歩道をはずれて、芝生の中に足を踏み入れた。
「どこ行くの」
 美奈子はどんどん祐平から離れていく。
「そんなところを歩いたら、蟻どころかバッタもミミズも踏んでしまうぞ」と祐平が叫んでいる。
 あんな男と鄙びた温泉で湯治客のようにと考えたこと自体汚らわしいと思いながら、美奈子は大股で芝生の上を歩いていった。




 大恐竜博覧会にて

 ねえ、おじさん、ここって写真撮ってもいいの? こういうとこって大抵、撮影禁止みたいな張り紙貼ってあるでしょ。レイ、そういうとこ苦手なんだ。はっきり言って入りたくない。大丈夫? よかった。だったら入ってもいい。写真が撮れないとこってつまんないもの。レイがカメラ持ってる意味がないもんね。
 うわあ、結構人多いじゃん。休日でもないのにどうしてこんなに多いの。みんな学校さぼってこんなとこに来たらいけません、なんちゃって、レイもさぼってまーす。取りあえず、ここで一枚撮っておこうかな。ちょっと暗いから写るかどうか心配だけど。
 おじさんも一枚撮ってあげようか。なあんて、冗談なのに、そんなに手を振ることはないでしょ。絶対写したらだめって? わかってまーす、そんなこと。写ったら証拠が残るもんね。
 アロサウルス、ジュラ紀後期。ジュラ紀後期っていつ頃。一億五千万年前? すごい、っていうか、あんまり古すぎてピンと来ない。ほんとにこんなのが生きてたの。これ本物の骨? ふーん、大きいね。もっと大きいのがあるの? 世界最大の恐竜? なんだ、おじさんはそれを見たくて、ここに来たんだ。だったら先にそれを見ちゃいましょうよ。だめ? ゆっくり見たいんだ。おじさん、恐竜が好きなの? どうして好きなの? 子供の頃から好きだったの? 男の子って恐竜好きな子が多いよねえ。ガンダムとかエヴァンゲリオンが好きなのと同じノリなのかなあ。おじさんはどうだった? やっぱり好きだったんだ。それがずーと続いてんだ。今もこんな恐竜見たら、キュンと来る? ほっとするの? どうして。ふーん、恐竜見てたら嫌なこと忘れちゃうんだ。と言うことはいろいろ嫌なことがあるんだ、いっぱい。それを忘れるためにこんなとこに来るんだ。レイと付き合うのもそのため? いいよ、答えなくても。でもレイと付き合ってて嫌なこと忘れてくれたらうれしいな。誰もそんなこと言ってくれないから。
 アロサウルスって、後ろに映る影のほうがカッコイイよね。じゃあ、あの影をバックに写真を撮ってもらおうっと。
 レイ、疲れちゃった。休んでいい?
 おじさんも飲む? はい。ああ、ホントに飲んじゃった、間接キス。ううん、レイは平気だよ。ほらね。
 リュックの中身? 大したもの入ってないよ。制服でしょう、ほかにポーチ、ティッシュケース、タオル、ポッキー、カメラ、それにお財布かな。面白いもの見せてあげよか。じゃーん、コンドーム。これ入れてたらお金たまるって、今学校ではやってるんだ。使ったこと? ないよ、ホントだよ。信用しなけりゃ信用しなくてもいいけど、レイはココロは売ってもカラダは売らないんだ。ココロを売るっていうのは、誠心誠意付き合ってあげるってこと。何で笑うの、そこで。
 携帯電話? 持ってない。欲しいんだけど、ママが絶対ダメだって。おじさん、買ってくれる? プリケー? ダメ? あったらいつでも付き合ってあげるのになあ。
 カメラはレイの必需品だから、いつも予備を入れてんの。これ、ミッフィー。かわいいでしょ。でもこれ、二十五枚撮りだから予備専用なの。いつもはこっちの三十九枚撮りのやつ。こっちもかわいいでしょ。ミッフィーの三十九枚撮りが出たら全部それにしちゃうのに、出してくれないかなあ。色はね、赤と黄と青があるんだけど、レイは黄色が好きだから、そればっかり。
 大体一日一本のペースかなあ。撮り過ぎ? そんなことないよ、レイはもっと撮りたいんだけど、お金がないから我慢してんの。どうして撮るって訊かれても困っちゃう、日記代わりなんだもん。もう二年くらい続けてるよ。一ヶ月五万くらいかかるかなあ。レイは自分で稼いでるから、ママには迷惑かけてないよ。
 プリントしたやつ? きちんとアルバムに貼って整理してるよ、日付書いて。そうしてる時が一番楽しいんだもん。自分の一日がそこにあるんだもん。それがどんどんたまっていくでしょ。積み上げたら、もうレイよりも高くなってるし、うわあ、こんだけ生きたんだって思うと、何だかホッとするし。おじさんもやってみない、今から? レイの予備のカメラあげるからさあ。いらない? 写すものがないって? 何で、いっぱいあるじゃん。そうか、そんなもの撮っても、おじさんには一日にならないのか。でも楽しいよ。去年の今頃何してたのかなって見返すと、そこにあたしがいるんだもん。イヤなことなんか思い出さないよ。イヤなことなんか写さないもん。
 これが世界最大の恐竜? セイスモサウルスって言うの? 近すぎてよく見えない。ホントにこんなのが歩いてたの? これもジュラ紀後期なんだ。えーと一億……一億何千万年前だった? あ、そうそう、一億五千万年前なのよね。レイの生まれるずーっとずーっと前なんだもん、ピンと来ないのは当たり前よね。でもこんなのが生きてたんだ。不思議よね。
 今はどうして恐竜がいないの? え、いるの? 鳥? 鳥が恐竜なの? へえー、鳥って恐竜の子孫なんだ、知らなかった。なんでこんな大きな恐竜がちっちゃな鳥になっちゃったんだろう。ほかに恐竜の子孫はいないの? なんで? 六千五百万年前に恐竜が絶滅しちゃったから? なんで絶滅したの? へえー、隕石が衝突したのか、すごーい、映画みたい。
 隕石が衝突したら、どうするって? そんなこと考えたこともないからわかんない。でも、もしそうなったら、レイはお家に帰って、アルバム見て過ごすから全然平気。アルバム見てたら楽しいもん。アルバム燃えちゃったら? そんなことあるわけないじゃん。おじさん、イヤなこと言わないでよ。第一、隕石なんか落ちてくるわけないんだから。
 ああ、何だか心配になってきた。隕石落ちなくても、家が火事になったら燃えちゃうんだ。そうなったら、レイのアルバムも消えちゃうんだ。二年が消えちゃうんだ。
 帰らなきゃ。帰ってアルバムの番をしなきゃ。おじさんがいけないんだよ。レイに変なことを吹き込むから。
 レイ、帰る。誰が何と言っても帰る。今更あやまってもダメ。
 どうしても残ってほしい? ホントに残ってほしい? うーんとね、それじゃあ一万円。イヤなら帰る。
 おじさんがいけないんだよ、変なこと言うから。これはその罰金。
 アルバム? あるよ、ホントに。ウソだと思うんなら見に来る? アルバム燃えたら悲しいけど、そんなことあるわけないじゃん。火事なんてめったに起きないし。それよか、明日のカメラ代のほうか切実。カメラが買えなきゃレイの一日はなくなってしまうんだもの。どうもありがとうございました。これで今月は大丈夫だよん。




 延長12回裏

 福島に移動する日、高井戸宏はチームから離れ、弁護士の所に行った。ペナントレースが終わるまで待ってくれと高井戸が頼んだにもかかわらず、妻が離婚裁判を起こしたからである。高井戸が娘の親権を絶対に渡さないと主張したため、離婚調停はうまくいかなかったのだ。
 弁護士の話は厳しいものだった。離婚の原因が高井戸の暴力であるため裁判に勝つことは難しいと弁護士は言い、暗に、親権を放棄して離婚に応じたほうがいいようなことを匂わせた。しかし高井戸はそれを拒否して、よろしくお願いしますと頭を下げた。
 高井戸は控えのキャッチャーだった。去年は正捕手として三十試合ほどマスクを被り、偉大な先輩が引退した今年はレギュラーになれるはずだった。マスコミもそのように書き立て、周囲も当然そのように見た。三十四歳にしてようやくレギュラーの座をつかんだと高井戸は思った。それが今年入ってきたルーキーに奪われてしまったのだ。
 鳴り物入りで入ってきた大物ルーキーに不安を覚えたのは確かだった。しかしキャッチャーというのは経験がものをいうポジションなので、ポッと出の新人なんかに簡単に務まるはずがないと思っていた。キャンプに入って、監督にルーキーの教育係を命じられたが、高井戸は知らん顔をした。自分の首を絞めるような真似ができるかと心の中で吐き捨て、知りたかったら自分で見て覚えろとルーキーに言ったきり、後は一切話をしなかった。
 だが、オープン戦に入ると、高井戸は才能の違いを見せつけられることになった。ピッチャーのリードに関しては高井戸の方が一日の長があったが、打撃センス、送球の速さに関してはルーキーの方が遙かに上だった。比べようがなかった。高井戸はあせり、何とか結果を残そうとしたが、かえって力んでしまい、オープン戦の成績は惨憺たるものになった。
 高井戸の酒量が増えたのは、その頃からである。もともと酒好きだったのが、試合の前日でも深酒をするようになり、正体不明で帰宅することも度重なった。レギュラーの座をルーキーに奪われた悔しさもさることながら、自分の野球人生の先が見えてしまったことが高井戸には堪らなかった。この歳になって他のチームに移ったとしてもレギュラーになれないことはわかっているし、今からいくら努力してもあのルーキーに近づくことさえ不可能なこともわかっている。高井戸は神が人に与える才能のどうしようもなく不公平なことに怒り、その矛先が妻に向かった。娘に手を挙げなかったことだけが救いだったが、妻を殴るところを見ていた娘が怯えたように高井戸を見るようになったのが辛かった。

 山手線のホームで高井戸は東京行きの電車を待っていた。ベンチに坐っていても誰も高井戸に気づかない。チームで移動している時は声を掛けてくれる人もいるが、こうして一人でいるとただのおっさんにしか見えない。高井戸は腕を組んで、目をつむった。
「すいません……」駅の騒音に混じって、小さな声が聞こえてきた。しかし高井戸は自分に向けられたものではないと思って、そのまま目を閉じていた。
「タカイドセンシュ?」
 高井戸ははっとして目を開けた。少し離れた所で、高井戸のチームの帽子を被った少年がこちらを窺っている。
「あ、やっぱり高井戸選手だ」
 少年はおずおずと近寄ってくる。高井戸は少年に笑いかけた。
「あのう、サインしてもらえますか」そう言うと、少年は帽子を取って差し出した。あいにく書くものを持っていない。
「何か書くもん持ってる?」
 高井戸が尋ねると、少年は帽子を高井戸の手に残したまま、ホームを駆けていった。見ると、少年は一人の女性の側に行き、何か話している。女性がこちらを見て、会釈をした。高井戸も小さく頭を下げる。女性は少年の話し掛けに対して首を振り、少年の手を引っ張るようにして向こうに歩いていく。そのうち人影に隠れて見えなくなった。
 どうなってるんだと思いながら、高井戸は手に持った帽子を見た。買ってもらったばかりなのか真新しくて、どこも汚れていない。
 少しして少年と女性が姿を見せた。二人してこちらにやってくる。女性は高井戸と同じくらいの年齢で、少年の母親であることは顔を見ればすぐにわかった。
「こんなものでよろしいでしょうか」と母親は袋に入ったサインペンを差し出した。
「あ、上等です」
 高井戸は受け取ると、袋を破ってサインペンを取り出した。
「どこにサインしてほしい。こっち? それともこっち?」高井戸は帽子の外側とつばの内側を示した。
「こっち」少年は帽子の外側を指さした。
「いいの、ここで? これまっさらだよ」
「いいです」
 高井戸は膝頭に帽子を被せ、字がかすれないようにゆっくりとサインペンを動かした。その後に、いつもはしないのだが漢字で「高井戸宏」と書き入れた。
 帽子を返すと、少年はサインを繰り返し眺めてから「ありがとうございました」とお辞儀をした。そして大事そうに帽子を被った。
 サインペンを母親に返すと、「ご無理を言ってすいませんでした」と母親は恐縮した顔で頭を下げた。
「体大きいけど、小学生ですよね?」
「四年生です。今リトルリーグに入っているものですから」
「どこ守ってるの」高井戸は少年に尋ねた。
「キャッチャー」少年は恥ずかしそうに答えた。
「おお、ぼくと一緒だな。キャッチャーって大変だけど、面白いだろう」
「うん」
 うんじゃなくて、はいと言いなさいと母親が叱った。
「プロ野球選手になりたい?」
「うん……はい」
「そうか。うんと練習したらなれるから頑張って」
「はい」
 母親が、ほら、もう一度お礼言ってと少年の頭を押さえ、少年は、ありがとうございましたと口の中で呟いて頭を下げた。母親も頭を下げる。
 遠ざかる二人を見ていると、少年が振り返って手を振った。高井戸も笑いながら、掌を小さく振った。母親が少年の腕を取って手を振るのを止めさせ、何か言った。すぐに「でも、去年はサヨナラホームランを打ったんだよ」と抗議するような口調の少年の声が聞こえてきた。母親は少年の腕を引っ張って、足早に歩いていった。
 母親はあの選手誰とか何とか言ったのだろうと高井戸は思った。あるいは、今年全然活躍してないじゃないと言ったのかもしれない。その通りだと高井戸は苦笑した。しかし少年が去年のサヨナラホームランのことを覚えていてくれたことが嬉しかった。せめて娘があのくらいの年齢になるまで現役を続けていられたら、プロ野球選手としてのおれの姿を覚えていてくれるのにと思ったが、それには四十歳までプレーしなくてはならない。それにそんなことよりも自分の手許から手放してしまえば、父親としての姿さえ忘れられてしまうかもしれないのだ。
 高井戸は大きく溜息をついた。

 高井戸のチームが主催する地方試合は、ホーム球場でやる時よりもずっと観客の入りが多かった。その熱気に押されるように試合は激しい打撃戦になり、延長に入ってもなかなか決着がつかなかった。
 高井戸は、10回からダッグアウト裏でバットスイングを繰り返していた。野手を使い果たし、代打要員として残っていたのは彼一人だった。
 12回の表に1点を取られ、裏の攻撃は6番からの打順だった。高井戸は誰か塁に出てくれとテレビ画面に向かって祈った。9番のピッチャーのところには必ずおれが代打で出される。その前に終わってくれるな。
 高井戸の祈りが通じたのか、1アウト後、7番がショートゴロエラーで1塁に出た。打撃コーチが高井戸を呼びに来る。
 高井戸はバットを持ってダッグアウトに戻った。観客席にはまだ大勢のファンが残っていた。次の打席は高井戸からレギュラーの座を奪ったルーキーだ。ファンの大きな声援がルーキーに飛んでいる。
 監督を見ると、人差し指をグラウンドに向けた。高井戸は短い階段を踏んでグラウンドに入り、ネクストバッターズボックスに立った。バットに重りをはめ、二、三度素振りをする。
 ピッチャーが投球動作を始めると、高井戸は素振りを止めた。打つな、打つな、三振しろ。高井戸は心の中で叫んだ。打ってもシングルならいい、ダブルプレーなんか食いやがったら許さん。
 初球を見送った後、二球目をルーキーが捉えた。乾いた打球音と同時に、わあっという歓声が上がる。高井戸は打球の行方を見詰めた。いかん、やられたと高井戸は思った。しかし打球はフェンスのわずか手前で失速し、大きなセンターフライで終わった。球場は溜息に包まれ、高井戸の名前を読み上げる場内アナウンスもかき消されてしまった。
 一発頼むぞという誰かの声が聞こえたが、声援はそれくらいで、場内はまだ先程のセンターフライでざわついている。
 ここで逆転サヨナラ2ランを打てばテレビのスポーツニュースで流れるなと高井戸は思った。女房も娘も見るかもしれない。たとえ見てても離婚の逆転打にはならないかもしれないが、ここは一発狙ってやるか。
 ふっと、ここでホームランが打てたら、娘を手放そうかと高井戸は思った。何かを犠牲にしたら、神様が打たせてくれるかもしれない、そんな気がした。
 高井戸はバットを持ってバッターズボックスに向かった。いつもは近く感じる距離がきょうは遙かに遠いように感じられ、高井戸は一歩一歩土の感触を確かめるようにゆっくりと歩いていった。
 

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