虹を見た日     津木林 洋


 懐中電灯を手に、神崎良一は一週間前に置いた餌をひとつ一つ見ていった。リフトの下、ガスレンジ台の脇、大型冷蔵庫の下、冷却室の中……。紙皿を手に取り、電灯の光の中で白っぽく見える団子を子細に観察する。どこにも囓られた痕がない。良一は頷いて、懐中電灯と一緒に握っていたビニール袋に、紙皿ごと入れる。ボイラー室に広げておいた粘着板にも、掛かっているのは一匹のゴキブリだけで、鼠はいなかった。
 良一は餌を集めたビニール袋の口を縛り、ライトバンの荷台に放り込んだ。そして殺鼠剤を手に工場に戻ると、あらかじめもらっておいたポテトサラダの中に入れた。この工場では、ポテトサラダの他に各種の総菜を作っており、現場で鼠の餌となるものを使うというのがこの仕事の鉄則だった。
 ステンレスボールの中の白いポテトサラダが殺鼠剤を練り込むにつれて、淡いブルーに変わっていく。かすかに鼻を突く臭いがする。それを団子状に丸め、新しい紙皿の上に置いていく。粘着板はまだ十分粘着力があるので、そのままにしておく。
 仕事が終わると、良一は手を洗い、ライトバンのボンネットを下敷き代わりにして報告書を書いた。
 事務所には社長一人だけがいて、新聞を読んでいた。良一が入っていくと、眼鏡越しに上目づかいでこちらを見、再び新聞に視線を戻した。
「鼠、いませんでした。これ、報告書です」
 良一は一枚の紙をカウンターの上に置いた。
「ああ、そうか」
 社長は新聞から目を離さずに答えた。
「あのう、きょうは集金の日なんですが」
 良一は遠慮がちに言った。
「集金? ああ、もうそうなるか。わかった。まあ、そこに坐って」
 社長は眼鏡を外し、それを持った手で、ソファーを示した。良一は報告書を手にカウンターの中に入り、ソファーに腰を下ろした。社長は良一の向かいに坐ると、再び眼鏡を掛け、報告書に目を通した。
「それで、なんぼやった」
 おかしなことを聞くなあと良一は思った。契約額は決まっているのだから、わからないはずはない。それでも良一は鞄から領収書を取り出して、社長に見せた。
「悪いけど、その領収書は使われへんで」
「はあ?」
「一万四千円、引いてもらわな」
 訳が分からず黙っていると、
「鼠が十四匹もおってな」
「え? 鼠はどこにも死んでませんでしたけど……」
「それが、死んでたんや」
 社長はすごく嬉しそうな顔をしている。
「あれは、工場内で死んでいる鼠を見つけたらという話やったと思いますけど……」
「そんなん、あんたが来るまでほっといたら、臭うてかなわんやろ」
 一ヵ月前の値引き交渉の時、これ以上の値引きには応じられないというこちら側の姿勢に対して、もし鼠の死骸が見つかったら一匹千円で引き取ってほしいとこの社長が提案してきたのだ。鼠の駆除対策に自信を持っていた良一の会社は、それに応じたのだった。
「それ、どこで死んでました」
「さあ、わしが見つけたわけとちゃうから、ようわからんけど、証拠やったらあるで。ちょっと待っててや」
 そう言うと、社長は事務所を出ていった。
 しばらくして、社長は大きなビニール袋を下げて戻ってきた。内部に霜が付いていてはっきりとはしないが、確かに黒い塊は鼠のようである。
 社長はビニール袋を目の前のテーブルの上に置いた。冷凍庫に入れておいたのだろう、鼠達は凍っていて、ゴンという音がした。尻尾の重なりが見える。良一は思わず両手を合わせた。
「さあ、確認してや」
「わかりました。集金はこの次の時にします」
 良一は領収書を鞄に仕舞って立ち上がりかけた。
「ちょっと待って。もう小切手用意したんねん」
 社長は新聞を広げたままにしてある机の引き出しから、紙切れを取り出してきた。
 見ると、金額は一万四千円を引いた数字になっている。
「正式な領収書はこの次でええから、とりあえず受取だけ書いといて」
 良一は社長の用意した紙に小切手の金額を書き、確かに受け取りましたという文句と名前を書いて、報告書に使うスタンプ印を押した。
 小切手をもらい、そのまま立ち去ろうとすると、「この鼠、持って帰って」と社長が声を掛けてきた。
「はあ?」
「一万四千円値引きしてもうてんから、この鼠はもうお宅のもんや。持って帰ってえな。それに、証拠の品物持って帰れへんかったら、お宅がネコババしたと思われるで。お宅だけやのうて、小切手を切ったわしも共謀して、金、ちょろまかしたいうて疑われるやろ」
 そう言われたら、持って帰らないわけにはいかない。良一はビニール袋の端をつかんで一礼すると、事務所を出た。
 営業所に戻ると、所長がパソコンのキーボードを叩いていた。
「何や、それ」
 良一の持っていたビニール袋を見て、所長が言った。
「鼠ですわ」
「そんなにおったんか」
 所長が驚いた声を出した。良一は事の次第を話した。
「あの社長、タヌキやなあ。経費削減で必死になってるのはわかるけど、どうせこんなもん、どっかから集めてきたんやろ。近所の子供に一匹百円で買うたる、なんて言うて集めたんとちゃうか」
「お金、受け取ってまずかったですか」
「まあ、しょうないな。一応約束したんやから。それでもこんなことが続くようやったら、あそことの契約も考え直さなあかんな」
「これ、数えたほうがよろしいか」
 良一はビニール袋を上げて見せた。
「ああ、もうええ、もうええ。捨ててきて」
 所長はしかめ面をして、手をひらひらさせた。
 良一はビニール袋を持って外に行き、鼠専用のゴミ箱に袋ごとそっと入れ、蓋を閉めると、手を合わせた。
 ほどなく他の所員も戻ってきた。
「片付いたら、送別会行こか」と所長が言った。きょう限りで会社を辞める所員がいるのだ。
「奥さん、心配やったら、顔だけ出してすぐに帰ってもええで」
 所長が良一の側までやってきて、囁くように言った。
「いや、大丈夫です。一応完全看護ということになってますから」
「そうか。まあ、それやったら」
 良一の妻は末期の膵臓ガンで入院している。ただし、所長には体調を崩して入院しているということにしてあった。
 酒の飲めない所員の車に全員が乗り込んで、予約してある料理屋に向かった。
 座敷には六人分の席が用意されていた。飲み物は別のお任せコースで、とりあえずビールで乾杯ということになった。良一は送別会が終わったら、会社の車で病院に向かうことにしていたので、コップ半分くらいしか飲まなかった。
 ビールが日本酒に切り替わって杯が進んでくると、それまで故郷に帰って家業を手伝うと言っていた西山が、「どうもこの仕事、おれには合うてなかったみたいですわ」と言い出した。
「ほう。それはまた、何で」と所長が訊いた。
「こんなこと言うたら、みんな気い悪うするかもしれへんけど、おれ、鼠を殺すことにどうしても慣れへんかったんですわ。ちょうど一ヵ月前、中島給食でガスレンジの中に隠れていたドブネズミを追い込んでビニール袋で捕まえたことがあったんですわ。おれ、思わずコンクリの床に袋ごと叩きつけて、そいつを殺したんやけど、なんや後味が悪うて」
「後味がええやつなんて、おれへんで」と一人が口を挟んだ。
「それだけやったらまだええねんけど、なんか手に鼠が潰れるときの感触が残っていて、いつかバチが当たるんやないかと。いや、自分だけにバチが当たるんやったら、まだええねんけど、周りの人間に当たるようなことがあったら、かなわんなあという気がずっとしてますねん」
 良一はどきりとした。
「何言うてんねん、お前は」と所長が大きな声を出した。「お前、今食べてんのん、それは何や」
「これ? 牛のたたきですけど」
「それみてみ。お前、牛食べとるやないか。そんなもん食うてたら、牛のバチが当たるぞ」
 西山は眉を吊り上げて、首を傾げた。
「わからんか。わからんかったら、言うたるわ。おれの言いたいのはやな、人間みんな生きてるもん殺しておのれの命を繋いでいるいうこっちゃ。おれもお前も、ここにいるみんなも一緒や。ベジタリアンは違うなんて言うたら、ぶっ飛ばすぞ」
 良一は自分に向かって言われているような気がした。
「所長の言うこと、何やおかしいですわ」と一人が言った。「食うために殺すのと、ただ殺すのとでは、意味が違うんちゃいますか」
「わしらもおまんま食うために鼠殺してんのや。どこが違うねん」
「食う意味が違うがな」誰かが小声で言った。
「どう違うねん。説明してみ」所長が大声を出した。
「もうやめて下さい」と西山が両手を振った。「結局、おれが弱かったんですわ。所長の言わはるように、おまんまのためと割り切ったらよかったんやけど、おれが弱かったんですわ」
 座が静かになった。
「すまん。おれが言い過ぎた」所長がテーブルに両手をついて頭を下げた。「きょうはお前の送別会で、気持ちよう送り出さなあかんのに、余計なこと言うて。もう酔うたんかな」
「そんなこと、ないですわ」と西山がとっくりをつかんだ。「余計なことを言うたんは、こっちの方で、所長の言わはること、勉強になりましたわ」
 そう言って、西山は所長の杯に酒を注いだ。
 お開きになって、料理屋の前で、そのまま帰る者と一旦会社に戻る者に別れた。良一は会社に戻り、仕事用のライトバンに乗って病院に向かった。
 妻の入院している病院は住まいの近くだった。二人の息子が遊びに来やすいようにと、妻の希望で転院したのだった。
 病院に着いたのは、午後十一時過ぎで、夜間救急入口から中に入った。エレベーターで八階に上がり、暗い廊下を歩いて病室の前に立った。掌に息を当てて、臭いをかいでみる。酒の臭いはしないと決めて、良一はゆっくりとドアのノブを回した。
 六人部屋は真っ暗で、妻のベッドは入ってすぐ右側にあった。カーテンを少し引いて中に入ると、枕頭の小さな明かりを受けて妻の眠っている姿が目に入った。良一は丸椅子に腰を下ろした。
 こけている頬に目をやり、毛布に覆われた薄い胸に視線を移した。毛布が微かに上下する。その規則正しさに良一はほっとした。
 しばらく見つめていたが、妻が目を覚ましそうにないとわかると、良一は立ち上がって枕頭の明かりを消した。
 行きかけると、「だれ」という妻のかすれた声がした。
「おれや。起きたんか」
「子供たちは?」
「きょう、送別会があって、会社から直接こっちに来たから、連れてきてへん」
「食事は?」
「コンビニで好きなもん買うようにお金渡してあるから大丈夫や」
 良一は手で探ってもう一度明かりをつけた。妻が目をつむって眩しそうな顔をする。良一はあわてて明かりを消した。
「食事だけは、ちゃんとしてやってね」
「わかってるがな」
 良一はもう一度暗闇の中に腰を下ろした。
「きょうは熱あったんか」
「三七度三分」
「薬、飲んでるか」
「熱を下げる薬は飲んでないわ。無理に飲まなくていいって」
「それで、しんどないんか」
「大丈夫」
「そうか」
 廊下を行く看護婦のゴム靴のこすれる音が聞こえてきた。
「私は大丈夫だから、子供たちの様子を見てやって」
「わかった。明日また来るわ」
 良一は立ち上がり、妻の肩の辺りを触ってから、静かに病室を出た。
 マンションに帰ると、キッチンのテーブルはきれいなままだった。ゴミ箱を覗くと、菓子パンとおにぎりの袋があって、ポテトチップスの空箱が突っ込んであった。おかずの買い方まで教えなければいかんのかと良一は溜息をついた。
 居間のテレビには、ゲーム機のコードが繋がったままになっている。子供部屋を見ると、二段ベッドに息子たちは寝ていた。パジャマに着替えていることで、良一は少しほっとした。

 妻が急に、一度家に帰りたいと言い出した。
「治ったら、いつでも帰れるやろ」
 妻には癌であることを告げていなかった。下痢と嘔吐を繰り返す妻の症状の原因が、近くの開業医では分からず、大学病院に行って初めて膵臓ガンだと診断された。開腹手術をしたが、癌は既に肝臓に転移しており、摘出はもはや不可能だった。主治医と相談して、総胆管結石症ということにした。
「治る前に一度帰りたいのよ」
「ここにいるほうが安心やけどなあ」
「子供たちの手を握って、歩きたいのよ」
「そんなことやったら、二人を連れてきて、ここでやろ。な」
「きのうね、隣に妹さんが見舞いに来られたのよ。小さい息子さんの手を引いて。それが何とも言えず幸せそうだったの。私にもあんな時があったなあって思って見ていたら、急にあの子たちの手を引いて歩きたくなって」
 良一はこの時、妻は癌であることに気づいているのではないかと思った。疑いを口にしたこともないし、体調が戻らないことの苛立ちをぶつけたこともないが、既に死期を感じているのではないかという気さえした。
 良一は主治医に訊いてみると答えて、病室を出た。
 主治医はちょっと考える仕草を見せてから、「夜、こちらに戻ってくるのでしたらいいでしょう」と言った。
 日曜日の朝、夕べからの雨が残っていたが、良一は子供たちを連れて、病院に行った。回診の時間は過ぎており、病室に入ると、妻は点滴を受けていた。
「大丈夫か」
 妻が目を開けた。
「食事があんまり入らないから、先生に点滴お願いしたのよ」
「きょうはやめとこか。雨、降ってるし」
「雨がやんだら行きたい」
 二人の息子たちがおずおずとベッドに近づく。
「雄太も耕平も、しっかりとご飯食べてる?」
「うん」
 耕平が点滴の針が刺さっているところを触ろうとする。
「耕平、触ったらあかん」と良一が言うと、耕平はあわてて手を引っ込めた。
「お母ちゃん、きょうビデオ撮るんやで」と雄太が言った。
「ビデオ?」
 妻は良一の方に目を向けた。
「ビデオカメラ、借りてきたんや。ちょっと撮っとこかなと思うて」
「ふーん」
「いやか。いややったらやめてもええんやで」
「ビデオ取るんだったら、河原に行きたい」
「そやな」
 病室の窓から見ると、雨はやんでいるように思えたが、水たまりにはまだぽつりぽつりと落ちているのが見えた。息子たちが退屈してきたので、良一は国道沿いのハンバーガーショップに連れていった。
 早い昼食を済ませ、外に出ると、雨が上がっていた。青空も見える。
 病室に戻って妻に雨が上がったことを伝えると、土気色の顔が笑った。
 車椅子を頼んだ。良一はパジャマの上に薄いローブを着せて、妻を車椅子に移した。妻の身体は驚くほど軽くなっていた。
「きょうは、お家へ?」
 隣のベッドの女性が声を掛けてきた。
「ええ。でも夕方には戻ってきます」と妻が答えた。
「あら、勿体ない。泊まって来やはったらええのに」
「先生がだめだって」
「そんな堅いこと言わんでもええのになあ」
 妻が笑った。良一はその女性に頭を下げ、車椅子を押して外に出た。雄太と耕平は先に走っていき、エレベーターのボタンを押している。
 エレベーターで一階まで下り、段差に注意しながら、自動ドアを通って外に出た。雲間から覗いた太陽の光が良一たちを包んだ。
「気持いい」妻が目を閉じ、細い顎を上げて光を受けた。
 マンションの部屋に着くと、子供たちは先に入ってしまった。居間に通じるドアが開けっ放しで、テレビの音が聞こえてくる。
「自分の力で立ってみる」と妻が言った。
 良一は玄関先に脱ぎ捨てられた靴を脇にやって、車椅子を中に入れた。足置き台を外側にやると、靴下を履いた足を床につけ、肘掛けに手を置いて、妻は何とか立ち上がろうとした。しかし上半身を前に倒しても、尻が少し浮くだけで立ち上がることができない。良一は前に回って妻の脇の下に手を入れ、抱え起こすように立ち上がらせた。
「手を離して」と妻が言った。良一は脇の下から手を抜き、体を離した。妻は壁に手をつきながら、床を探るようにゆっくりと歩いた。
「お父ちゃん、ビデオカメラは?」後ろから声がかかった。雄太がドア枠にもたれながら、こちらを伺っている。
「そんなん後や」
「今撮ったらええのに」
 妻がよろめいた。良一は思わず手を出そうとしたが、妻はすぐに立ち直った。
 ドアのところまで来ると妻は立ち止まり、居間を見渡した。
「思ったよりきれいね」
「きのう掃除したんや」
 良一は一休みしたらとソファーを手で示したが、妻は一旦休んだら歩けなくなりそうだからとそのまま壁づたいに歩き、洋服ダンスのある部屋に入った。そして窓際にある鏡台の椅子に腰を下ろした。埃だらけの化粧品に目をやり、鏡を見る。
「顔を拭きたいから、濡れたタオル持ってきて」
「化粧すんのか」
「ビデオ撮るんでしょ」
 そう答えて妻は笑った。
 熱めの湯にタオルを濡らして絞り、妻のところに持っていった。
「熱いかもしれへんから、気をつけてな」と広げたタオルを手渡した。妻はタオルを顔に当てると、「あったかい」と呟いた。そしてそのままタオルの上から両手で顔を覆うと、うつむいてしまった。
「お母ちゃん、化粧すんねんやん」と耕平が入ってきた。
「そうや。お母ちゃんきれいになってビデオ撮るんや。ええなあ」
 良一は耕平を抱き上げて、風車のように身体を回した。耕平はわあと言いながら、笑いこけた。
 顔を拭き終えた妻が同じタオルで髪を拭こうとしていたので、良一はそれを取り上げて別のタオルを今度は緩く絞って持っていった。
 妻は首を傾け、髪の毛をタオルで挟むようにして拭いた。しかし力が入らないのか時々手を休めた。見かねて良一が代わりに拭いてやった。
 ブラシで髪をとかすのも、良一がした。妻の指示でヘアスプレーをかけ、入院で幾分長くなった髪の毛にブラシを入れた。鏡の中の妻を見ながらブラシをかけるのは、初めての経験だった。
 髪をとかすのが終わると、妻は化粧をしているところを見られたくないからと言い、良一は部屋を出て、ドアを閉めた。
 子供たちがテレビゲームに興じているのをソファーに坐って眺めながら、良一は妻のいる部屋の物音に耳を澄ませた。はじめのうちはドライヤーの音が聞こえていたが、そのうち物音ひとつしなくなった。
 良一は立っていってドアの外から、「友子、大丈夫か」と声を掛けた。だが中から返事はない。
「友子、入ってもええか」
 それでも返事はなかった。良一はドアを開けた。
 洋服ダンスの扉が開けっ放しになっており、下の引き出しに背中をもたせかけるようにして妻が倒れていた。良一は驚いて走っていき、妻の肩をつかんだ。
「友子、大丈夫か」肩を揺すると、妻が顔を上げた。
「洋服を選んでたら、立ちくらみがして」と妻が小さく笑った。赤い口紅が入り、ファンデーションで土気色の肌が明るくなっている。
「おい、おい。脅かすなよ」
「ごめんね」
 妻に代わって良一が服を取り出し、それを妻が選ぶというようにした。そうやって妻は丸襟の白いブラウスと花柄のフレアスカート、それに水色のカーディガンを選んだ。下着も妻の指示で良一が取り出した。
 着替えるところも見られたくないということで、良一はまた部屋を出た。
 今度は少したって中から声がした。入ると、着替えを終えた妻が横座りになって両手で上半身を支えていた。前髪の辺りがふわっとして、頬の横のカールがやせ細った顎の線を隠していた。
「行けるか」
「ええ」
 良一は妻を抱え上げて立たせた。耕平が妻の足許にまつわりついてくる。妻が壁づたいに歩くのを助けながら、良一はテレビゲームをしている雄太に声を掛けた。
「お父ちゃん、ビデオカメラは?」
「ああ、そうや」
 二日前にビデオカメラを借りてきたとき、使い方を覚えるために子供たちと一緒に試し撮りをしたのだが、その後勝手に触らないようにと押入に隠しておいたのだ。
 良一は隣の部屋に行って、ビデオカメラを取ってきた。
「ぼく、カメラマンやったるわ」と雄太が言い、良一はビデオカメラを渡した。雄太は早速良一が妻を車椅子に坐らせるところから撮り始めた。
「雄太、やめなさい」と妻が叱った。
「まあ、ええやないか」と良一は言った。
「こんなところ、撮られたくないわ」
「そうか」
 後ろを振り返ると、雄太はすでにビデオカメラを下に降ろしていた。口をとがらせている。
「お母さんがこう言うてるから、後で撮ろか」
 そう言うと、雄太は口をとがらせたまま頷いた。
 ヒールのない靴を履かせ、外に出る。マンションは川に面しているので、外周の道が堤防に続くだらだら坂になっている。
 堤防の上に出ると、雨の匂いがまだ残っていた。雄太がビデオカメラでこちらを撮っている。耕平は手を広げながら河原に続く坂道を駆け下りていった。草むらにちらほらとすすきが見え、川岸近くにはセイタカアワダチソウの鮮やかな黄色い群生があった。河川敷では、キャッチボールをしている父子や、ラジコン飛行機を飛ばしている人たちの姿が見えた。
 良一は前輪を浮かし気味にして、慎重に坂道を下り、水たまりのない芝生を探して河原の道を押していった。
 しばらく行くと、比較的ましな場所があったので、車椅子を乗り入れた。しかし芝生は水を含んでいて、踏むと水が浮いてくる。
「ここでええか。結構水が出てくるけど」
「大丈夫」
「立てるか」
「ええ」
 良一は手を貸して妻を立たせた。
「耕平」良一は散歩中の犬の前にしゃがんでいる息子を呼んだ。耕平は犬の頭をなでてから、こちらに走ってきた。雄太は相変わらず後ろでビデオカメラを構えている。
「雄太、もう撮影はええからここへ来てお母さんと手をつなげ」
「ぼく、カメラマンやもん。そんなことせえへん」
「カメラマンはお父さんがやるから、お前はここや」
「やだもーん」
 そう言って雄太は再びビデオカメラを構える。
「雄太」良一は大声を出した。「さっさと言うことをきかんか」
 雄太はそれでもビデオカメラを構えるのをやめない。
「雄太」良一はさらに大きな声を出した。行って、頭を叩きたいが、妻の手を離すと、妻が倒れてしまいそうなので、動けない。
「いいのよ、雄太。あなたがカメラマンをやりなさい」
 と妻が言った。雄太はモニター画面を見ながら、前に回ってくる。良一はレンズをにらんでから、妻を促して歩き始めた。耕平が妻の手を引っ張って先に行こうとするのを抑えながら、ゆっくりと歩く。十歩ほど歩いたところで良一は妻を支える力を緩め、「手を離すぞ」と言った。
「ええ」しかし良一が手を離すと、耕平は走ってもいいと思ったのか、妻の手を引っ張って駆け出した。妻はそれにつられるように三、四歩足を動かしたが、すぐに倒れてしまった。良一はあわてて駆け寄り、妻を抱き起こした。スカートもカーディガンも濡れてしまった。
「お母ちゃん、ごめんな」耕平が泣きそうな顔をしている。
「いいのよ。耕平が悪いんじゃなくて、お母さんが悪いのよ。耕平はお母さんと一緒に走りたかっただけだものね」
 そう言って、妻は笑った。雄太はビデオカメラを下ろして、こちらを見ている。
「雄太、カメラマン替わろか」
「うん」
 妻を立たせ、良一は雄太からビデオカメラを受け取った。
 二人の息子たちの手を繋ぎ、妻が立っている。モニター画面に映る姿を見ていると、ふと妻が病気だというのは嘘ではないかという気がした。
「あ、虹や」
 耕平が指を差した。見ると、良平たちのマンションをまたぐように大きな虹が架かっていた。
「でっかいなあ」
「根元まではっきり見えるわ」と雄太が言った。「あそこまで行ったら、虹捕まえることができるんかな」
「できるんとちゃうか」と良一は答えた。妻が笑っている。
「私、こんなに大きな虹を見たのは、生まれて初めてだわ」
「おれもや」
「お父ちゃん、ビデオ、ビデオ」
「ああ、そや」
 良一はビデオカメラを回した。
「何かいいことあるのかしら」
 良一は妻を見た。妻はじっと虹を見ている。
「そやな、何かあるんちゃうか」
 良一は再び虹を見た。雲の残る空を背に、虹は輝いていた。
 夕方、妻は下痢をした。トイレに行くのが間に合わず、良一は妻を風呂場に入れて下半身を湯で流した。
「私、もうだめかもしれない」と初めて妻の弱気な言葉を聞いた。良一はシャワーの音で聞こえない振りをした。

「良ちゃん、アイスクリームが食べたい」
 鎮痛剤を投与され、うつらうつらしていた妻が急に目を覚まして、良一に言った。良ちゃんというのは、子供ができるまで妻が良一を呼ぶときに使っていた呼び名で、一週間前にそう呼びかけられて、良一はびっくりしたのだった。「良ちゃん、お願いがあるんだけど」と妻が言い、眠るまで手を握っていて欲しいと頼まれたのだ。それまで見せたことのない甘えた口調だった。良一はそれ以来、子供たちに夕食を食べさせてから病院に泊まり込むことにした。
「どんなやつがええ」
「バニラアイスクリームのふわっとしたやつ」
「わかった」
 良一は一階に降り、近くのコンビニエンスストアまで走っていった。しかしどのアイスクリームを買えばいいのかわからない。
「バニラアイスクリームのふわっとしたやつって、ありますか」とレジにいる店員に訊いた。
「ふわっとしたやつですか」と言いながら、店員はレジから出てきた。二人でアイスクリームの売り場に行く。店員はひとつひとつ手に取って眺めてから、「これなんか、結構ふわっとしているみたいですけど」と青いカップのひとつを良一に見せた。良一は迷わずそれを買うことにした。
 良一がアイスクリームをスプーンですくって口に入れてやる度に、妻は「おいしいわ」と溜息をつくようにして食べた。
 カップの半分を食べたところで、「もう十分」と妻が言った。「全部食べたらどや」と言ったが、妻は首を振った。
 残りを良一が食べた。アイスクリームなどあまり食べたことがなかったが、確かにふわっとしておいしかった。自分で選ばなくてよかったと良一は思った。
 消灯時間が来て、枕頭台の明かりをつけた。妻は眠っているようだったが、良一は毛布の中に手を入れて妻の骨張った手を握った。わずかに握り返してくる。起きているのかと妻の顔を見たが、わからない。良一は合図を送るように、力を入れたり、緩めたりした。
 いつの間にか眠ってしまい、突然携帯電話の着信音で起こされた。病院内での携帯電話の使用は禁止されているので、いつもはスイッチを切っているのだが、今回は忘れていたのだ。良一はあわててジャンパーのポケットから携帯電話を取り出した。
「もしもし、神崎くん。夜遅うすまんなあ」所長の声だった。枕頭台のデジタル時計は零時十七分を示している。
「何ですか。今時分」良一は声をひそめて応えた。病室は静まり返っている。
「悪い、悪い。実はなあ、『プチボーイ』でまた猫が出たんや」
「またですか」
「そうや。あそこのマスター、いっぺん言い出したら聞けへんのや。どうしても今晩中に退治してくれ言うんや」
「明日の午前中じゃだめですか」
「おれもそう言うてんけどな、この前翌日にして見つかれへんかったやろ。今なら鳴き声がするから絶対捕まる言うて、聞けへんのや」
「わかりました。今から行きます」
「悪いなあ。おれも行くから」
 良一は妻を起こさないように静かに手を外した。枕頭台の明かりを消し、外に出る。看護婦詰所に顔を出し、「ちょっと出かけますけど、女房よろしくお願いします」と声を掛けた。
 猫を捕まえるのは気が進まなかった。おれが着くまでに、逃げてたらええのにと思いながら、良一は車を走らせた。夜中の道は空いており、思ったより早く着いた。
「プチボーイ」は飲屋街の雑居ビルの地下だった。表に見慣れた所長の車が止まっている。良一は、ライトバンをその車の隣につけた。
 階段を降りて「プチボーイ」のところに行くと、ドアが開いており、良一はこんばんわと口の中で呟いて中に入った。煙草と化粧品の混ざり合った臭いがした。すでに客やホステスの姿はなく、カウンターのところで所長とマスターが何やら話し合っていた。
「こんばんわ」と良一は声を掛けた。
「ああ、神崎くん。悪いなあ、こんな遅う呼び出したりして」所長が手を振る。良一が近づいていくと、化粧を施したマスターが「ごめんなさいね」と首を傾げるポーズで頭を下げた。
「夜遅いのはわかってるんだけど、何とかしてもらいたいのよ。お客さんとバカ話で盛り上がってるときに、にゃーって哀れな声で鳴かれてみなさいよ。しーんとしちゃうんだから。お客さんは猫飼ってるのかって真顔で天井見上げるし。飼ってねえっちゅうの」
 その時猫の鳴き声がした。
「ほらね。聞こえたでしょ」
 マスターは自慢げに所長と良一を指さした。
 早速猫退治に取りかかることにした。猫の鳴き声は隣の電気室との境から聞こえてくる。良一は「プチボーイ」のトイレから天井裏に入り、所長は電気室から入ることにした。電気室とはコンクリートの壁で隔てられているが、配線を通すための穴が空いているので、挟み撃ちをしなければならないのだ。
 所長の車から脚立を持ってくる。所長が軍手とマスクをくれた。
「呼んでも聞こえへんかったらあかんので、一応携帯持って行こか。ここ地下やから電波届けへんかもしれんけど、上がったら確認しょうか」
 良一は着信音が鳴って猫を脅かさないようにバイブレーターに切り替えた。
 トイレに脚立を入れ、ドライバーで天井の点検口の留め金を外す。軍手とマスクをして脚立に上り、点検口に上半身を入れると、両手を天井につけて体を持ち上げた。マスターから大型の懐中電灯を手渡してもらう。
 天井裏には換気のダクトやガス管が走っていて、這うようにしなければ進めない。携帯電話がぶるぶる震え、良一はマスクをずらしてからボタンを押した。
「聞こえるか」
「ええ、聞こえます」
「おったか」
「いや、まだ」
「こっちもや」
 電話を切り、先程鳴き声のした方向へ這っていく。懐中電灯の光を周りに当てながら進んでいくと、冷房の配管が入ってくるところに穴が空いているのが見えた。木の板で塞がれている下の方に小さな穴がある。近くの配管を覆っている断熱材がかじられていて、そのくずが下に落ちている。鼠の後を追って、猫が入り込んだのかもしれんと良一は思った。
 電気室との隔壁に到達する頃には、良一は汗びっしょりになってしまった。腕もしびれてきた。天井裏に上がってからは、猫の鳴き声は聞こえなかったので、良一はさっきの穴からもう逃げたんちゃうかと思った。
 その時、奥の方から微かな鳴き声が聞こえてきた。息が漏れるような声だった。良一は壁に沿って明かりを照らした。しかし猫の姿はなかった。良一は声のしたほうに這っていった。
 隔壁がビルの側壁にぶつかる辺りは、天井裏より一段と低くなっている。その窪みを懐中電灯で照らすと、黒い塊と二つの光る点が目に飛び込んできた。さらに近づくと、唸り声がし、赤い口腔が見えた。側には赤黒いものが、手足を動かしている。
 いた。
 その時、携帯電話が震えた。良一は窮屈な姿勢のままポケットからそれを取り出した。
「いました、ここにいました」思わずマスク越しに言ってから、良一はマスクをずり下げた。
「神崎さんですか」と女性の声が聞こえてきた。
「え?」
「神崎さんですよね」
「はい」
「私、関本救急病院の看護婦長の三宅と申しますが、奥様のご容体が急変いたしましたので、すぐにこちらのほうへ来ていただけますか」
「………」
「神崎さん、聞こえてますか」
「はい、聞こえてます」
「至急こちらへ来ていただけますか」
「はい、すぐに行きます」
 電話を切って、ポケットに仕舞った。黒猫は赤い口腔を見せて、唸っている。
「お前もおれも鼠捕って生きてるんや、いわば同類やないか」良一は声に出した。その途端ふいに涙が溢れてきた。喉が詰まって息苦しくなり、良一は口を開けて呼吸した。
 また携帯電話が震え出した。しかし良一はなかなか電話を取ることができない。
 ようやく出ると、「おったか」という所長の声が聞こえてきた。
「おりました」声がかすれている。
「捕まえたか」
「いや、まだ」
「そっちから追い立てたら、こっちへ逃げてくるかもしれへんから、いっぺんやってみ」
「はい」
 良一は軍手の甲で目を拭ってから、手を伸ばした。黒猫は手が触れる寸前まで噛みつくような勢いで口を開けていたが、いざ捕まえようとすると、さっと逃げた。後には二匹の子猫が残された。生まれたばかりなのか、目も開いていない。子猫の周りには、鳥の羽や小さな骨が散乱していた。
 隣の電気室から微かな叫び声が聞こえ、ほどなく携帯電話が震えた。
「やった、捕まえたぞ。これでもう安心や」
「ここに赤ん坊の猫がいてるんですけど、どうしましょう」
「何や、子連れか。そりゃそれも捕まえなあかん」
 良一は手足を動かしている二つの塊をポケットに入れ、点検口に這い戻った。
 下に降りて、ポケットから子猫を出して床に置いた。
「なあに、子供生んでたの」マスターが悲鳴のような声を出した。
 所長がドンゴロスを下げて入ってきた。底がうごめいている。
「マスター、何か箱ない?」
 マスターはカウンターの奥に入って、段ボール箱を持ってきた。その中に親猫と子猫を入れ、ガムテープで封をした。かりかりと段ボールをひっかく音がする。
「それ、どうすんの」とマスターが所長に訊く。
「保健所に持っていって処分してもらいますわ」
 良一は所長に、病院から連絡があったことを告げた。
「何や、そうやったんか。何でもっとはよ言えへんねん。後はええから、はよ行け」所長が怒ったように掌をひらひらさせた。
「ごめんな」マスターが申し訳なさそうな顔をする。
 良一は二人に会釈して外に向かったが、ドアを出たところで、猫を飼ったらという考えが浮かんだ。もう一度店の中に入り、所長に、その猫を飼いたいからと申し出て段ボール箱を受け取った。
 荷台に箱を置き、良一は車がわずかになった真夜中の道路を飛ばした。
 大きな橋を渡り、高速道路の高架下の道路に入ったとき、ふいに後ろから妻の声が聞こえたような気がした。良一は車を止め、後ろを振り返った。耳を澄ます。その時、猫の声が聞こえてきた。
 ああ。良一は向き直り、発車しようとしてやめた。車を降り、後ろに行って、荷台のドアを開けた。段ボール箱を取り、高架下の茂みに置いた。ガムテープをはがし、箱を横にすると、黒い塊が出てきた。最初はじっとしていたが、そのうち親猫が子猫をくわえ、引きずるようにして茂みの奥に消えた。
 良一は車に戻った。しかしすぐには発車しようとはしなかった。仕事で疲れたときによくやるように、ハンドルに両手を置いて額を付けた。
 どのくらいそうやっていただろう。やがて良一は頭を上げると、病院に向かってアクセルを踏んだ。

 

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