矢野さん     津木林 洋


 矢野さんは大きな女性だった。母の美容室に初めて姿を現わした日、私はその大きさに驚いた記憶がある。百八十センチ近くの背丈で、体格もがっちりしていた。私はまだ小学生で、背もそんなに高い方ではなかったので、余計に彼女の大きさを感じたのだろう。矢野さんはそんな自分の身体が世間に対して申し訳ないとでも思っているのか、背を丸め気味にしてやってきた。
 矢野さんは中学卒業後、美容師の見習として働きながら夜間の美容専門学校に通い、二十一歳の時に美容師の免許を取得した。母の店に来たのは二十五歳の時で、知合いの美容師の紹介だった。矢野さんの父は彼女が十一歳の時に亡くなり、母親も元来身体が弱かったので、九つ年下の妹の面倒を見るのも、家事をこなすのも大抵矢野さんの役目になったらしい。矢野さん自身は高校に進学したかったらしいが、家の事情がそれを許さず中学卒業と同時に働き始めた。矢野さんの自慢は自分の稼ぎで妹を高校にやらせたことで、夢は妹を大学に進学させることだった。
 母はそんな矢野さんの話を聞いてすっかり感心してしまい、すぐに彼女を雇い入れた。
 矢野さんはよく働いた。子供の頃から働いていたせいか、あるいは元来働くのが好きなせいか、夜遅くまで仕事が続いても文句ひとつ言わず働いた。その点では母も大いに助かったのだが、ただひとつ困ったことがあった。それはお客さんに対して、自分の意見を押しつけることだった。
 例えば、こんな具合だ。
 お客さんが、白髪染を頼む。すると矢野さんはその人の頭皮を調べ、髪の毛の質を見てから、次のように言う。
「お客さん、白髪染やめた方がよろしいわ。頭皮が弱いし、第一髪の毛によくないですよ」
 確かに理屈は合っている。しかし経営者の立場からすると、それでは困るのである。取りあえずお客さんの要望を聞いて、一番刺激の少ない製品を使って様子を見、それで問題が起ったらその時にお客さんに説明しても遅くはないのである。
 だが、矢野さんは頑として自分の意見を曲げない。母がそれとなく、もう少し融通を利かすように言っても、自分はお客さんのために正しいことをしていると言って、聞かないのである。他の従業員もそんな矢野さんの頑なさに、うんざりするようなところがあった。
 しかし矢野さんのそういうところがいいと、贔屓にするお客さんもいたのである。

 矢野さんの妹さんは一度だけ家に顔を見せたことがある。某国立大学の英文学科に現役で合格し、父と母が確か奨学金の保証人になったお礼に来たものだと思う。
 妹さんが大学に合格したときの矢野さんの喜び様は大変なもので、学校から帰った私を掴まえて「美知子が合格したんよ。よっちゃんも勉強で分かれへんとこがあったら、美知子に訊いたらええわ」と顔をくしゃくしゃにしながら、私の手を振った。別に嬉しくもない私は、「ふーん、それはよかったやん」と気のない返事をしたが、矢野さんは気にすることなく「合格したんよ、合格したんよ」と繰返した。
 初めてみる美知子さんはほっそりとした美少女で、矢野さんとは似ても似つかなかった。同じ姉妹とはとても思えず、子供の私から見ても、叔母と姪のように見えた。
 美知子さんは父と母の前に出ても臆することなく、保証人になってもらったことのお礼を述べ、父の質問に答えて、「出来れば大学院まで行って、大学の先生になりたいのです」と言った。
 父は、「矢野さんはしっかりしていると思ってたけど、妹さんもそれに負けずにしっかりしてるね」と大いに感心し、横で寿司のお相伴にあずかっていた私に「義雄もこの妹さんを見習って、ちゃんと目標を持たなあかんぞ」と言った。
 何でこっちにとばっちりが来なあかんねんと思いながらも、私は「うん」と頷いた。
 矢野さんは美知子さんが大学に合格するまでは結婚はしないと、いくつかあった見合い話を断っていたが、美知子さんが大学に合格すると、今度は卒業するまで結婚はしないと言い出した。
「妹さんが卒業する時には、あなた、もう三十路を過ぎてるじゃない。三十過ぎたら、見合いの話なんかパッタリと来なくなるわよ」と母が脅かした。
 さすがに矢野さんもその言葉は堪えたようである。結婚しても母親と同居し、美知子さんが卒業するまで学費その他の面倒を見るという条件付で、見合い話に応じた。もっとも母は見合い話を持ってきてくれる人に、そんな条件は一切付けなかった。まずお互いに好意を持つことが肝腎で、好意さえ持てば後は話し合って条件でも何でも付けることができるというのが、母の考えだった。だから母は矢野さんに、親しくなるまで条件の話は一切しては駄目よと念を押した。
 だが、条件の話を持出すまでもなく、矢野さんの見合いは失敗続きだった。その一番の原因が、背の高さにあることは明白だった。誰もが、開口一番「大きいですね」と言うらしい。
 ある日、矢野さんを贔屓にしているお客さんが、見合い話を持ってきた。相手も矢野さんと同じくらいの背丈があるから大丈夫とお客さんが保証した。
 そのお見合いには私も付いていった。美容室が休みの月曜日がその日だったのだが、ちょうど学校の創立記念日で私が休みであることを知ると、矢野さんが私の同行を母に頼んだのである。せっかくの休みに何でと私は渋ったが、母の怖い顔と臨時の小遣に負けて、私は承諾した。矢野さんは相手と二人きりになるのが嫌だったのである。今までの見合いで、息が詰まる思いを何度も経験したらしい。
 今回は初めて振袖で臨むことになった。いままで洋服だったので体の大きさが余計目立ったのであって、和服にした方がごまかしが利くというのが理由だった。母が言い出したのである。
 朝から母は大張切りで矢野さんの髪をアップにして和風の頭にし、貸衣装屋から借りてきた振袖を着付けた。私の見たところ、どうもごまかしは利いていないように思われた。洋服の時よりも髪をアップにしたせいか大柄に見えるのである。その上ウエストの太さが帯で強調されて、堂々たる体躯に見える。
 母もそのことに気づいたようだったが、今更変えようがない。
「矢野さん、きれいよ。一段と女っぷりが上がったわ」と、母は彼女の全身を眺めながら言う。いつも地味な服を着ている矢野さんが桜模様の派手な振袖を着ると、確かに華やかには見えるが、それはきれいとはちょっと違うんじゃないかと私は思った。しかし矢野さんは母の言葉に素直に照れた。
 昼過ぎに、見合い話を持ってきたNさんがタクシーで迎えに来た。矢野さんが私の同行の許可を求めると、Nさんは驚いて「子連れと間違われなきゃいいけど」と言った。
 見合いとは漠然とホテルなどの高級なところで行うものだと思っていたが、タクシーが着いたのは下町風の街中だった。タクシーを降りると、Nさんは私たちを近くの喫茶店に連れていった。
 小さい店で、私たちが入っていくと、カウンターの中にいた髭おやじが珍しいものでも見るような目つきでこっちを見た。たぶん矢野さんの振袖姿が珍しかったのだろう。
「あら、来てないわ」とNさんが言った。
 私たちが二つあるボックス席のうちのひとつに腰を降ろすと、カウンターから「何にします」と声が掛かった。昼食を食べていないということで、サンドイッチとコーヒー、それに私はミルクセーキを頼んだ。
 私たちが軽食を食べ終った頃、ようやく相手の男がやってきた。確かに大柄で、矢野さんに負けず劣らず立派なお腹をしていた。暑くもないのに、顔中汗だらけにしている。
「すんません。遅なってしもうて」
 席に着くと、男は頭を下げた。頭皮が透けて見える。「どないしたん。見合いの席に遅れるなんてもってのほかやないの」とNさんが詰ると、「いやあ、なかなか仕事が抜けられへんかったんですわ」と男は笑いながら答えた。
 男は中堅商事会社の営業マンで、本当は見合いを日曜日にしてもらいたかったらしい。それが出来ないということで、会社近くの喫茶店を指定したのだ。
 Nさんが二人を互いに紹介すると、その野島さんという人は私の方に手を向けて「お子さんですか」と訊いてきた。私は急いで首を振った。
 Nさんがわけを説明すると、「でしょうね。私、ここに入ってきたとき、三十にもなってないのに、こんな大きい子供がいてるんかいなとびっくりしましたわ」と言って笑った。よう笑う男やなと私の第一印象はあまり良くなかった。
 野島さんも昼食がまだだったので、サンドイッチを注文し、それを三口くらいで平らげると、オムライスを頼み、それを食べると今度はスパゲティだった。その間に何度も水をお代りし、よくしゃべった。矢野さんはいつも見る彼女とは違って、口に手を当てて「ほほほ」と笑ったり、小さな声で答えたりした。着物を着ているからこうなんのかなあと、その変わり様に私は驚いた。
 しばらくして、Nさんが「それじゃあ、私はこれで失礼して、後はお二人だけで……」と立上がって、私の方に目配せをした。私ははじめ何のことかわからなかったが、Nさんがもう一度「後はお二人だけで」と言ったので、ようやく気づき、立上がった。しかし矢野さんは、「よっちゃんは帰っちゃ駄目。一緒にいといて」と私の腕を引張った。
「二人きりで話す方がいいんじゃない」とNさんが言うと、「いやあ、私もいといてもろたほうがよろしいわ」と野島さんが口を挟んだ。「二人きりになったら、何か話しにくいですわ」
 それで私は残り、二人の間の会話のクッションみたいな役回りになった。会話が途切れると、野島さんが私に学校のことを尋ね、気まずい沈黙を避けるといった具合だった。
 外に出てからも、行先を決めたのは私だった。どこに行こうかという話になって、二人の間では決められず、野島さんが「どこに行きたい」と私に訊いてきたからだった。
 私は迷わず「デパート」と答えた。その頃のデパートには屋上に遊園地があったからだ。それにあわよくば食堂で何か食べさせてもらえるかもしれないという魂胆があった。
 矢野さんは野島さんの仕事のことを心配したが、後は任せてきたからということで、私たちはタクシーで梅田のデパートに行った。
 私はそこの屋上で、ピンボールやゴムボールのバッティングマシンで遊び、思惑どおり食堂で特大のチョコレートパフェにありついた。
 だがその帰り、私は猛烈な腹痛に襲われ始めた。汗が吹き出て、顔から血の気が引き、吐き気も襲ってきた。バチが当ったと私は思った。
 デパートの休憩所のベンチで横になったが、腹痛は一向に治まる気配がない。矢野さんはハンカチで私の顔の汗を拭き、私が「頭が熱い」と言うと、ハンカチを濡らして頭に当ててくれた。
 私の様子が変らないのを見て取ったのか、しばらくして野島さんが「病院に連れて行かなあかんわ」と私を起して背負った。そして外に飛出し、タクシーを掴まえて救急病院に運んだ。
 幸い大した病気ではなくただの食中毒で、二日ほど入院しただけで済んだが、その時の野島さんの素早い対応が矢野さんの心を掴んだようだった。野島さんも彼女を気に入り、話はトントン拍子に進んだ。
 野島さんは次男だったので、矢野さんの母親と同居するという条件も飲み、全てはうまくいくかに見えた。
 しかし野島さんの東京への転勤が決って、事態が変った。妹の美知子さんは大学があるから、大阪を離れることは出来ないが、母親は連れていける。だが母親が大阪を離れることを断固拒否したのだ。病弱で健康に自信がないため、新しい場所で生活するのに不安があったのだろうし、なにより六十近くになって知らない人間ばかりの中に入っていく気にはなれなかったのだろう。
 美知子さんが母親の面倒を見ると言ったらしいが、今度は矢野さんが承知しなかった。矢野さんにしても、母親と美知子さんの面倒は自分で見るつもりだったから、どこに行こうと働き続けることには変りはなかったが、東京で美容師として働くことに不安もあったらしい。
 結局縁がなかったということで、結婚話は沙汰止みとなった。Nさんは大変残念がり、それならばとさらにいい見合い話を持ってきたが、矢野さんはもう二度と見合いをしようとはしなかった。
 それから一年半後、矢野さんの母親が心筋梗塞で亡くなった。私も母に連れられて葬式に出たが、美知子さんが泣きじゃくっているのに比べて、矢野さんがてきぱきと葬儀屋に指示している姿が印象的だった。「どうせ亡くなるんだったら、もう少し早かったらねえ」と母が不謹慎なことを呟いた。

 私が名古屋の大学に入ったのはちょうど東大入試が中止になった年で、大学紛争が全国的に盛上がっていた時だった。半年間授業がなく、私も全共闘の一員として大学改革を叫んでいた。
 そんなある夜、私のぼろアパートに仲間が集まって酒を飲んでいると、ドアを叩く音がする。行って開けると、矢野さんが立っていた。
「矢野さん、どないしたん」私はびっくりした。矢野さんは小さく手招きし、私を部屋の外に連れ出した。
「よっちゃんがずうっと帰ってけえへんから、先生が心配してるんよ」
「それがどうかしたん」
 母に頼まれて様子を見に来たのだろうと私は露骨に嫌な顔をした。それを察したのか「先生に頼まれて来たんとちゃうよ。ただ先生があんまり心配するから、ちょっと様子を報告して安心してもらおうと思って」と矢野さんは小声で言った。
「おい、お客さんなら中に入ってもらえよ」ドアが開いて、先輩のKさんが声を掛けてきた。矢野さんがにっこりとして頭を下げる。
「いや、いいですよ」
「いいことないよ。ここはお前のアパートなんだから、入ってもらわなきゃ。でないと俺たちが邪魔しているみたいじゃないか」
 仕方なく私は矢野さんを招き入れた。六畳一間の部屋に男ばかりが七人、そこに女性が入ってきたら色めき立つのが普通だと思うが、矢野さんの場合は違った。みんながその大きさに圧倒されているのが、視線でわかった。部屋には彼女より大きい男は一人もいなかったのだ。それにその当時流行っていたパンタロンスーツ姿だったので、余計に大きさが際だったのかもしれない。
 矢野さんは部屋に充満している煙草の煙に顔をしかめて、鼻先を手であおいだ。
「ちょっと空気入替えようか」とKさんが言い、一人が立って窓を開けた。ひんやりとした風が入ってくる。
 Kさんが部屋に一つしかない座布団を私の横に敷き、そこに矢野さんを坐らせた。
「お姉さんですか」と一人が訊くと、矢野さんはえっという顔をし、大きな声で笑い出した。いつまでも笑うだけで答えようとしないので、私が簡単に説明した。ふーんと何人かは頷いたが、それは何かを納得したというようなものではない。どうしてそんな人がわざわざ大阪から来たのかという疑問は誰も口にしない。
「酒、飲みますか」とKさんが矢野さんに尋ねた。
「ええ」
「ビールと日本酒、どっちがいいですか」
「日本酒いただきます」
 矢野さんの前に湯飲み茶碗が置かれ、一升瓶から酒が注がれた。矢野さんは茶碗を両手で持つと、まず一口味見をするように口に含み、それから一気に飲干した。ほうという声が漏れた。
 すぐに次が注がれ、それも矢野さんは一気に飲んだ。
「矢野さん、無理したらあかんで」心配になって私は言った。
「このお酒、とてもおいしいわ」矢野さんは私の言葉が聞えていないのか、三杯目の酒を受けた。
「みなさん、学生運動のお仲間?」と矢野さんが私に訊いてきた。私が頷くと、「みなさん、どうして学生運動なんかすんの」と周りに尋ねた。
 不意を突かれたのか誰も答えない。
「私が言いたいのは、親の臑をかじって大学に行かせてもらってる人間が勉強もしないで、どうして学生運動に精を出すってことなんやけど」
 矢野さんて酒癖悪いんかと私は気が気でなかった。
「確かにおっしゃる通りです」とKさんが答えた。「我々は親の臑をかじってます。自分の力で稼いで生活はしていません。しかし、逆説めきますけど、だから学生運動が出来るんです。社会に縛られていないフリーハンドを持っているから大学改革が出来るんです」
「そんなん、おかしいわ。大学卒業して社会人になってから、その、改革とやらに取組んでも遅くないんとちゃう?」
「大学の外から大学を改革するのは無理だと思いますよ。大学の中にいる人間が立上がって変えていかなきゃ」
「大学って本当に改革せえへんかったらあかんの」
 待ってましたとばかりKさんは、大学のマスプロ教育化、大学自治の形骸化、社会への批判精神を育もうとしない文部省の教育制度などを蕩々と述べた。矢野さんは時々難しい言葉について質問したりしながら神妙に聞いていた。
 Kさんの話が終ると、矢野さんは「私の妹、今大学院で勉強してるんやけど、大学の先生になるのも考えもんやろか」と溜息をついた。
「どこの大学ですか」とKさんが訊く。
「Mなんやけど」
「お、それは優秀ですね」
「でも、今の話聞いてたら、大学て大変なとこみたいやから」
「いや、そんなことないですよ。是非大学の先生になってもらって下さいよ。要は知識の切売りをするんじゃなくて、人間教育をする先生になってもらったらいいんですよ」
 矢野さんはKさんの肩をぽんと叩いた。
「あんた、いいこと言うわねえ」
「ええ、まあ」Kさんは頭を掻いた。
「飲もう、飲もう」と矢野さんはKさんのコップに酒を注いだ。
 一人、また一人とダウンしていき、朝方まで起きていたのは矢野さんだけだった。
 六時過ぎ、私は矢野さんに起こされた。共同炊事場で顔でも洗ったのかさっぱりとした表情だった。
「私はこれで帰るけど、先生には何にも言えへんから心配せんでええよ。それから学生運動はええけど、くれぐれも無茶せんように」
 矢野さんは目をさましたKさんに「よっちゃんをよろしくお願いします」と頭を下げて部屋を出ていった。
 それからしばらくは「豪快なお姉さん」が仲間内で話題になった。

 矢野さんが心配した大学紛争も一年ほどで峠を越え、妹が先生になる頃には落着きを取戻しているだろうと矢野さんが安心した矢先、矢野さんをがっかりさせることが起こった。
 美知子さんが大学院の修士課程を卒業すると同時に結婚すると言い出したのだ。大学の先生になるのは諦めたらしい。相手は四歳年上のサラリーマンだった。
 矢野さんの落込み様はひどかった。
 大学の春休みで実家に帰っていた私は一人で晩御飯を食べながらテレビを見ていたのだが、突然仕事の終った店内から女性の号泣が聞えてきた。驚いて店に通じるドアの側に行き、耳を澄ますと、号泣はしゃくり上げる泣き声に変った。
「すぐに結婚するんやったら、大学なんかに行かせへんかったらよかった」矢野さんの声が切れ切れに聞える。
「美知子には大学の先生になってもらいたかった。そやないと、何のために頑張ってきたかわかれへん」
「矢野さん」母の声だった。「ものは考えようよ。妹さんが立派に育ったのは、みんなあなたのお陰じゃないの。そりゃあ、大学の先生にならなかったのは残念かもしれないけれど、結婚して幸せな家庭を築くのも女の生き方として立派なんじゃない。大学を出たことが無駄になるとは私は思わないけど」
 矢野さんはしゃくり上げる泣き声を必死で抑えようとしている。
「これからは自分の幸せだけを考えて生きていけばいいんじゃない。そうでしょう」
「私はいっつも損な役回りばっかり。……美知子は美人で頭が良くて、性格もいいって人から誉められてばかりいるのに、……私はこんなへちゃむくれで大女で、人から強情っぱりや言われて。……神さん、不公平やわ」
 私は胸を衝かれた。自分の役回りを十分心得て、それに徹し切っていると思っていた矢野さんが、やはり心の底ではそういう思いを抱いていたのかと思うと、何か胸を衝くものがあった。
「そんな風に考えちゃ駄目よ」と母が言った。
 矢野さんは再び激しく泣き始めた。母が慰めれば慰めるほど感情が高ぶるようだった。
 結婚式には両親が出席した。矢野さんは恨み言めいた表情や態度などこれっぽっちも見せず、いつもにこやかに親代りを勤めたということだった。大阪に帰ったとき、矢野さんから結婚式の写真を見せてもらったが、綺麗な美知子さんの横に坐っているのは姉というよりも母親に近かった。実年齢以上に歳の差があるように見えた。
 それからしばらくして矢野さんが突然店をやめると言出した。心機一転神戸に引越して、そこで仕事を見つけると言うのだった。
 母は驚いて懸命に慰留したが、矢野さんの決意は堅かった。結局母は折れて、矢野さんのために推薦状を書いた。
 何年間かは年賀状のやり取りをしていたが、ある年宛先不明で返ってきて、それ以来音信不通になった。

 矢野さんの行方が知れたのは、それから二十数年後のことだった。
 阪神大震災があって一ヶ月ほど経った頃、母から電話が掛かってきた。テレビに矢野さんが映っていたというのだ。避難先の小学校の中継の中で、矢野さんがボランティアで美容の仕事をしている場面が流されたという。アナウンサーのインタビューでは、矢野さん自身も被災者で、自分の店と夫を失ったらしい。
「ほんまかいな」と私は言った。「それ確かに矢野さんやった? 見間違うたんちゃうの」
「見間違えるわけないでしょ。あんなに背の高い美容師は矢野さんしかいないわよ。アナウンサーも驚いていたくらいなんだから」
 母は矢野さんに会いに行きたいと言う。それで私が付いていくことになった。
 母の用意した品々をリュックサックに詰め、大阪からJRに乗った。ようやく住吉まで復旧していて、大きな荷物を抱えた人の姿が目立った。
 尼崎までは車窓から見える風景はどうと言うこともなかったが、そこを過ぎた辺りからだんだん、屋根を青いビニールシートで覆った家が増え始めた。そして住吉に近づくにつれ青いシートよりも倒壊した家の方が多くなった。
 二時間待って三宮行のバスに乗り、三宮から更に西に歩いた。あちこちでビルが傾いたり、倒れたりしていた。
 母の足を考え、休み休み歩いたので、目的の小学校に着いた時には三時を回っていた。校庭には自衛隊が草色の大きなテントを張っていた。
 校舎に入っても受付らしきものはなく、近くにいたおばさんにボランティアで美容の仕事をしている人のことを訊いた。母が「こんな大きな人で、がっちりした……」と手で示すと、おばさんは、ああ、あの人と頷いた。しかし居場所を知らないらしく、私たちを班長と呼ばれる人の所に連れていった。
 班長さんはさすがに知っていて、私たちを二階の教室に案内した。教室は段ボールで何カ所かに仕切られている。
「木内さん」と班長さんは中に声を掛けた。しかし誰も姿を現さない。
「やっぱり美容室か」
 再び一階に降り、廊下をかなり歩いて「理科室」という標札の掛かった部屋に来た。扉には「サチ美容室」と書かれた紙切れが貼ってあった。
「木内さん、お客さんですよ」
 班長さんが扉を開けて、声を掛けた。私たちが入っていくと、流し台の前で大柄の女性が椅子に腰かけたおばあさんの髪を切っているところだった。
「矢野さん」と母が声を掛けた。大柄の女性がじっとこちらを見る。皺が寄り、肌の色艶も悪くなっていたが、骨張った顔つきは紛れもなく矢野さんだった。
「……先生」
 矢野さんが目を見開いて驚いた表情を見せた。鋏をもったままこちらに近づいてくる。
 母が頭を下げた。私もお辞儀をする。矢野さんも大きな体を曲げて頭を下げる。
「先生、どうしてここへ……」
「テレビで見たのよ。あなたがボランティアで美容師をしているというのが映って……」
「そんな大したことしてへんねんけど」
「ほんとに久しぶりね」
「ええ」
 話が途切れ、沈黙が流れた。
「大変だったのね」
 母の声が震え、今にも泣きそうになっている。
「先生」
 矢野さんの目から涙が零れた。と同時に母の肩に額を付けて泣き始めた。母も矢野さんの腰を撫でながら泣いた。
 椅子に腰かけたおばあさんが、カットしかけのざんばら髪の顔をこちらに向けてにこやかに笑っている。私はリュックサックを降ろした。
 矢野さんは泣き止むと、エプロンの裾で涙を拭いた。そして笑顔になった。
「あなた、よっちゃん?」矢野さんは私の方に顔を向けた。私が頷くと、「ひゃー、すっかりいい男になって」と甲高い声を上げた。
 私は矢野さんの質問に答えて、結婚して子供が二人いること、母の近くに住んでいること、それに仕事のことなどを話した。
 矢野さんはおばあさんのカットに戻り、髪の毛を切りながら自分のことを話した。
 三十九歳で五歳年上の男性と結婚したこと、四十二歳の時、小さいながらも美容室を開いたこと、子供は出来なかったこと、そして今度の震災で店も夫も無くしたこと。
「サチ美容室という名前だったの?」と母が訊いた。
 矢野さんは照れ笑いを見せ、「名前の幸子から取ったんやけど、ちっともサチじゃなくて……」そこまで言うと不意に涙声になった。しかしすぐに立直って、「名前負けしたんですよね」と笑った。
「妹さんの所にはいかないの?」と母が訊いた。
「美知子は来い来いって言うんやけど、今更世話になるのはいややし、ここでこうやって美容師の仕事をしている方が性に合うてるんです。みんなも喜んでくれるし、気が紛れるし。それに常連さんがもう一度店を持てて言うてくれるから、ちょっとはその気になってるし」
 私は母に言われてリュックサックの中からインスタントラーメンや梅干、ツナ缶などの食べ物、それにシャンプー、リンス、コールド液などの美容用品、そしてタオルを取出した。母は二年前に美容室をやめており、残っていた物を持ってきたのだ。
 矢野さんは特に美容用品を喜んだ。潰れた店から使えそうなものを拾ってきて使っているが、残り少なくなっているのだ。母が店をやめたことを残念がったが、コールド液などが残っているのなら大阪まで取りに行きたいと言う。それで結局来週私がまた持って来ることになった。
 矢野さんが寝起きしている教室で、アルバムを見せてもらった。亡くなった旦那さんは矢野さんより頭一つ分小さく、いかにも人の良さそうな顔をしていた。少なくともこの十数年間はサチがあったんや、そう思うと目の奥が熱くなった。
「これ以上見てると辛くなるから」と矢野さんはアルバムを閉じ、私たちは帰ることにした。
 校庭を出るところまで矢野さんが見送ってくれ、母は「また来るわね」と手を振った。
 帰りの電車の中で、「いいこと思いついたわ」と母が言った。「私も矢野さんと一緒に美容のボランティアをしよう」
「あそこまで通うの?」
「そうよ。週一回ならできるでしょ。それに矢野さんが店を再開する手伝いもできたらいいし」
 そうや、それがええかも知れへんな。車窓を流れる青いビニールシートの屋根を眺めながら、私はそう思った。

 

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