人魚のサイフ     津木林 洋


 浩平はダイビング器材の入った大きなプラスチックの桶を静かに部屋の外に出した。その上にドライスーツを乗せ、近くの空き地に止めてある軽自動車まで運ぶ。午前四時。外はまだ真っ暗だ。座席を畳んで平らになった車の後部に桶を入れると部屋に戻り、今度はカメラバッグと着替えの入った紙袋を持って出た。十二月初旬にしては暖かい朝で、浩平はこの穏やかな天候が一週間もってくれることを願った。
 この一週間が勝負だった。この間にあいつが生まれなかったら、浩平の半年に渡る串本通いがすべて無駄になってしまう。浩平は何とか二週間会社を休めないかと主任と交渉したが、駄目だった。有給休暇の残り日数の五日間しか主任は休みを認めなかった。それに週休の二日を足して一週間だった。それでも主任は非常に渋い顔をした。連続して休まれると、ローテーションを組むのが大変なことは浩平にも分かっていた。彼は中堅ボイラー会社のメンテナンス部門に勤務しており、土曜日曜も関係なく、得意先から修理の依頼が来ると、車で駆けつけなければならないのだ。もちろん従業員には週休二日を与えなければならないので、誰かが休むとやりくりするのが難しくなる。
「お前がなあ、水中写真に凝っていることはみんな知ってるけど、それができるのもここで働いているからやろ。こんなこと言うたらなんやけど、仕事と趣味とどっちが大事なんや」
 主任の質問に浩平は「わかりました」と頭を下げて、その場を離れた。今まで同じようなことを何度言われたか知れない。その度に浩平は頭を下げてきた。ただ、有給休暇を使って休むのに文句を言われたくないという気持ちはいつもあった。
 大阪から串本まで車で大体五、六時間かかる。海南の辺りまでは高速道路が通っているが、そこから先は海岸沿いの曲がりくねった国道を走らなければならない。ダイビングを始めた四年前はまだ車を持っていなくて、ダイビングショップのツアーで白浜とか串本に潜りに行っていたのだが、仕事の関係上必ずしも土曜日曜が休みにならないので、ショップの日程と合わないことが多かった。それで思い切って軽自動車を買ったのだ。休みの前日、仕事が終わってから車を飛ばして串本まで行き、車の中で睡眠を取って翌日二本潜って帰ってくる、ということを今まで続けてきた。たまに連休になっても二晩車の中で過ごし、宿は使わなかった。一泊する金で一本潜れると思うと泊まる気にはなれなかった。しかし今回はさすがに車の中で一週間寝泊まりしようという気にはなれず、いつも利用するダイビングサービスに頼んで近くに民宿を取ってもらった。
 高速道路を降りてしばらく行くと、海がすぐ横に見えるようになる。夜はすっかり明けていて、朝の光が海面を照らしている。浩平はハンドルを握りながら波の様子を伺う。夕べの天気予報通り海は穏やかで、浩平は幸先のよい予兆を感じて「ようし」と自分に気合いを入れた。
 半年前、梅雨のさなか串本に行ったのだが、あいにく低気圧がちょうど通過中で海は荒れていた。ダイビングサービスの浜さんも船は出せないと言う。サービスには浩平以外に大阪のダイビングショップから男女併せて七人の客が来ており、そのうちの一人はインストラクターだった。インストラクターはどうしたものかと浜さんと相談し、大賀浜なら風の陰になるから大丈夫かも知れないという助言を受けた。彼は早速車で様子を見に行き、帰ってきて指でOKサインを出した。ただ大賀浜を潜ったことがないらしく、彼は浜さんにガイドを頼んだ。浜さんが引き受けたので、浩平も一緒に潜らせてもらうことにした。ショップの車にタンクを積み込むのを手伝って、同乗して大賀浜に行った。
 大賀浜は左手に大きな岩が迫っていて、ちょっとした入り江になっている。浩平は一度だけ潜ったことがあるが、大して面白いポイントとは思わなかった。しかし潜らないで帰るよりはましという気持ちだった。
 波が岩場に打ちつけており、うねりが入り江の中まで入り込んでいた。空は鉛色で海は蒼黒い。入り江の外には白い波頭が幾筋も立って、時折大きな波が襲ってくる。
「ほんとうに潜れるの」と一人の女の子が風に負けないように大きな声を出す。
「大丈夫、大丈夫。中に入ってしまえば静かだから」とインストラクターが言う。
 浩平は素早くウェットスーツを着て、器材をタンクに取り付けた。そして女の子たちがタンクを担ぐのを手伝った。そんなアシスタントまがいのことをしたせいか、浜さんが、一番後ろでみんなを見てくれと頼んできた。浜さんとインストラクターが前で浩平が後ろ、その間にグループを入れるようにするのだ。
「彼が」と浩平はインストラクターを指さした。「一番後ろじゃ駄目なんですか」
「地形を覚えたいって言ってるから」
「こんな日は透明度が悪いから地形なんて覚えられっこないと思うけど」
 そう言うと、浜さんは浩平の肩を抱いて「ガイド料払わなくていいから」と囁いた。浩平はその時浜さんがガイド料を全額ショップに持たせるために、そう言っていることに気づいた。浩平のアシスタント料とガイド料を相殺しようというつもりなのだ。浜さんは浩平が給料の大半をダイビングにつぎ込んでいることを知っている。カメラを持って入らないから、まあいいかと浩平はアシスタントをすることにした。
 タンクを担いで岸辺から海に入るのは、思ったより大変なのだ。フィンは海に浸かってから履くとしても、砂利場は海藻などで滑りやすいし、ましてやうねりが入り込んでいると、翻弄されることがある。浩平はすっかりアシスタント気分でインストラクターと二人で女の子たちを次々と海の中に入れた。最後に浩平が入って、入り江の中でみんながそろったところで潜降を開始した。案の定透明度はよくなかったが、それでも十メートルほどあって、この天候としてはまだましなほうだった。
 インストラクターの言葉通り海の中はそんなに荒れていなかった。浜さんは深場の方へみんなを連れていった。浅い所にいるとうねり酔いを起こしてしまうからだった。
 黄と黒の斜めに縞模様の入ったカゴカキダイの群れやアオリイカの卵、ホンソメワケベラにクリーニングしてもらっているカサゴなどを見ながら、水深二十五メートルのところから浅場に戻りかけた時だった。最後尾にいた浩平は左手に大きな魚の影を見つけた。体長一メートルくらい、クエのようだ。前を行くみんなに教えようとしたが、どんどん先に行ってしまう。タンクを叩く石でもないかと下を見たが、手頃な石はない。浩平はクエは諦めてアシスタントとしてみんなの後ろを行くべきかと迷ったが、どうせもう上がるだけだからと左にフィンを蹴った。クエは悠然と泳いでいるようだが、速い。浩平との距離はなかなか縮まらない。しかも浩平が追いかけているのがわかっているのか、どんどん深場に降りていく。浩平はダイブコンピュータを見ながら後を追ったが、水深三十五メートルのところで無減圧潜水の時間が二分になってしまったので諦めた。そして戻ろうとした時、緑っぽいものが目に入った。ゴミだと浩平は思った。プラスチックの切れ端がヤギに引っかかっている、そう思った。ヤギというのは腔腸動物の一種で、固くて、細く枝分かれをした木の枝のように見える。そこに十五センチほどの切れ端が引っかかっているのだ。。浩平はヤギの中に手を入れ、そのゴミを取ろうとした。しかし取れない。二、三回引っ張ってみたが駄目で、よく見ると切れ端の隅から凧の尻尾のようなものが延びてヤギに絡みついている。その時初めて浩平はゴミではないことに気づいて、水中で思わず声を上げそうになった。堅さといい、光沢といい、どう見ても緑色をしたプラスチックそっくりだった。カメラを持って入らなかったことを後悔した。
 じっくり見ていたかったが、ダイブコンピュータはすでに減圧潜水になっていることを告げていた。減圧潜水になると、コンピュータの指示する水深と時間で停止して、体から呼吸とともに窒素を排出しなければならない。それを守らずに水面まで浮上してしまうと、最悪の場合窒素の泡が血管を塞いで減圧症を引き起こす。俗に言う潜水病である。すぐに再圧チェンバーに入って治療しなければ、死亡する恐れもある。無減圧潜水であれば、基本的に浮上の途中で停止する必要はない。
 浩平は卵のある場所を覚えるため周りの地形を何度も見てから、浅場に向かった。
 ダイブコンピュータの指示を守って水深五メートルのところで六分間の減圧停止をしてから浩平は浮上したのだが、みんなはすでに岸辺に上がっていた。浩平が先ほど見たものについて話そうと勢い込んで浜さんに近づいていくと、「勝手なこと、すんな」と怒鳴られてしまった。もう五分たって浮上してこなかったら探しに行こうと思っていたと言う。
「すいません」と浩平は頭を下げた。
「まあ、お前のことやから大丈夫やとは思ってたけど、この天候やからな。万が一ということも考えたよ、おれは」
 浜さんの口調が柔らかくなったので、浩平はクエを追いかけて緑色の生き物を見つけたことを話した。
「ぱっと見ただけではプラスチックにそっくりなんですよ。おれ、最初ゴミかと思って」
「ヤギに絡まってたんやろう。だったら卵ちゃうか、何かの」
「サメの卵じゃないですか、それ」とインストラクターが口を挟んだ。「どこかでちらっと聞いたことがありますよ」
 午後からもう一度同じポイントに潜りたかったが、風とうねりがさらに強くなってきて、できなくなった。浩平は忘れないうちにログブックにあそこの地形を詳しく書き、浜さんにどういうふうにコースを取ったか聞いて、それも書き込んだ。
 次の休日が待ち遠しかった。自分の持っている魚類図鑑にはそれらしい記述は見当たらず、大きな書店に置いてあるすべての図鑑にも当たってみたが、載っていなかった。それで浩平は仕事の空き時間を利用して市立図書館に出向き、インストラクターの言葉を頼りにサメ専門の図鑑を調べた。そこでようやくあの緑色をしたものがナヌカザメの卵であることを知った。 俗に「人魚のサイフ」というらしい。
 次の休日、浩平はマクロレンズを用意して串本に行った。浜さんに、ナヌカザメの卵であることを教えると、「一緒に潜ろう」と言う。船で沖に出るポイントでは決して一人では潜らせてくれないが、岸から入るポイントで浩平が何回も潜っているところでは、一人で潜らせてくれるのである。本来スクーバダイビングはバディシステムと言って、タンクの空気がなくなったときなどの危険を避けるため二人一組になって潜るのが基本なのだが、浩平のように水中写真を撮りたいと思っている人間にはそれでは不自由になる場合が多い。かといって一人で潜りたい人間にタンクを貸してくれるサービスは皆無に近い。もし事故でもあった場合、システムを無視したことでいくら誓約書があっても責任を問われかねないからだ。浩平は浜さんのサービスに通い続け、何度も頼み込んで、ようやく浜さんの許可したポイントでは一人で潜ることができるようになったのだ。
 大賀浜はもちろん浜さんの許可がないので一人で潜ることはできない。だからサービスに来た客たちとこの前のように何回か一緒に潜ってからと浩平は思っていたのだが、浜さんは一本目の前に二人だけで潜ろうと言う。浜さんもあの卵を見たがっている、そう思うと浩平は嬉しくなった。
 海はこの前と打って変わって穏やかだった。梅雨が明けたのではと思われるほど青空が広がっていた。浩平はマクロレンズを取り付けたハウジングカメラを持ち、浜さんはナイトダイビングに使う強力なライトをもって海に入った。水温もこの前に比べて上がっているようだ。二人は方向を定めて一直線に目的の場所に降りていった。水深三十五メートル付近で浩平は周りを見回し、すぐにヤギの生えている場所を見つけた。近づくと、卵があった。何度見ても自然の物には見えない。浜さんがライトの光を当てると、橙色のヤギの中に鮮やかな緑が浮かび上がった。浜さんは顔を近づけてじっと見ている。ときどき首を振っては、卵を撫でる。浩平はいろいろな角度から写真を撮り、浜さんにライトを裏側から当ててもらって、中の丸い卵を透かして写真に撮った。
 十分な枚数を撮り終えると、浩平はすぐに親指を立てて浮上のサインを示したのだが、浜さんは名残惜しそうにその場をなかなか離れなかった。
 岸に上がると、「いやあ、びっくりしたなあ」と浜さんは背中からタンクを降ろしもしないで話しかけてきた。「どうしてあんなもんができるんやろな。不思議や。十何年も潜ってるけど、まだまだ知らんことが一杯あるから辞められんな、この商売は」
 サービスに戻る車の中で、「あの卵、どのくらいで孵化するって書いてあった」と浜さんが訊いてきた。
「そんなこと書いてませんでした」
「わからんのかな。わかってたら孵化する瞬間を写真に撮れるのに」
 浩平の頭に、孵化する瞬間の映像が浮かんだ。胸が高鳴り、鳥肌が立った。絶対に孵化する瞬間を写真に撮る、浩平は心に誓った。
「おれが撮りますよ」
「いつかわからんのに」
「毎週通いますよ」
「その手があるか。よし、お前に任せた」
「一人で潜らせてくれます?」
「流れもないし地形も単純だから、ええやろう」
 それから毎週浩平は串本に通って大賀浜に潜った。八月になって透かしたライトの中に小ザメの姿が現れたときは、上がって浜さんに報告し、もう一度一緒に潜った。小ザメは卵の縁にへばりつくような恰好で姿を見せた。腹の部分が卵で、その腹が小さくなってぺしゃんこになったときが孵化の瞬間だということが想像された。小ザメは毎週見るごとに少しずつ大きくなっていくのがわかった。強い低気圧や台風の接近でどうしても潜ることのできないときは、生まれないとわかっていても、ひょっとしたら早産ということがあるかも知れないと気が気でなかった。
 そして十一月の終わり、腹も大分小さくなって動きも活発になってきた。浩平は今までの観察の経過から孵化する日を予測して、その前後三日間を休みに当てたのだった。二週間なら確実だと思ったが、一週間では外れる可能性があった。

  十時前に串本に着いた。浜さんのところに行くと、浜さんは面倒くさそうに店の中の掃除をしていた。
「来たか」浜さんは箒を動かす手を止めずに言った。
「暇そうですね」
「当たり前やろ」
 十月頃までは店の表にもずらりとタンクが並べてあったが、十一月になるとぐっと減り、きょうは表には一本もなかった。
「きょうのお客はおれ一人?」
「その通り」
「土日は?」
「五、六人入ってたかな」
「よかった」
「店のこと、心配してくれるのか」
「潰れてしまったら、おれの行く所がなくなるから」
「ふん」
 店の中のテーブルを借りて、浩平は早速カメラのセットに取り掛かった。ハウジングの中に一眼レフのカメラを入れ、Oリングに傷とか砂とかが付いていないか慎重に調べてから蓋をする。一度、ハウジングの中に水が入る、いわゆる水没を経験してから大変慎重になったのだ。修理に出したら、買い換えた方が安いと言われてしまった。もっとも中身よりもハウジングの方が高価で、そっちの方は水没しても大丈夫なので助かったが。
 次にストロボを左右に一つずつ取り付け、ハウジングのリリースボタンを押してストロボが発光することを確かめる。
 カメラの準備がすむと、浩平は裏のシャワー室で水泳パンツに穿き替えた。いくらドライスーツで潜ると言っても、時には水が浸入してくることがある。そのときふつうのパンツと水泳パンツでは気持ちの持ちようが全然違うのだ。同じ濡れるにしても水泳パンツでは全く平気なのに、下着となると何だか寝小便をしたときのように気持ちが悪くなるのだ。水泳パンツの上にショートパンツを穿き、寒いのでジーンズを穿く。上は長袖のTシャツにダウンジャケットを着る。
 着替えがすむと、鉛のウェイトを借り、タンクを一本車に積んで、早速大賀浜に向かった。ダイバーの姿は全く見かけない。ただの漁業町に戻っている。
 大賀浜に着くと浩平は道路の端に車を止め、まずタンクを浜に降ろした。浜まで三十段ほどの階段があるのだ。それからダイビング器材とドライスーツの入ったプラスチックの桶を両手で抱えて階段を降りた。重りの増えた分だけずしりと来る。最後はカメラだ。浩平は大事そうに両手で持って浜に降りた。浜にはバーベキューをした焼けこげた跡がいくつも残っていたが、人の姿は全くなかった。
 浩平はタンクにBCジャケットとレギュレーターを取り付けてから、ダウンジャケットとジーンズを脱いでドライスーツに着替えた。しゃがみ込んでスーツの中の空気を首の部分から抜く。腰にウエイトを巻き、足首にもウエイトをつける。左手首には腕時計とダイブコンピュータ、BCジャケットにライトを付ける。この恰好でタンクを背負うと、動きが鈍くなって陸に上がったトドのような気分になる。浩平は左手にフィン、右手にカメラを持って、少し前屈みになりながら海の中に入っていく。腰の辺りまで浸かったらフィンをつけ、マスクをしてすぐに体を投げ出す。顔の部分が直接海水に触れ、ひやっとするが、水温はそんなに低くない。二十度近くはあるだろうか。浩平はゆっくりとフィンを動かし、底が深くなったところでBCジャケットから空気を抜き、息も同時に吐いて潜降していった。
 ダイビングを始めたときはまさか一人で潜ることになろうとは思ってもみなかった。
 五年前の夏、沖縄旅行から帰ってきた奈緒美という会社の女の子が職場のみんなにお土産を渡しながら、体験ダイビングの話をしたのが、そもそものきっかけだった。
 離れたところでスポーツ新聞を見ながら聞いていた浩平は、彼女がふっと前後の脈絡なしに「わたし、人生観変わっちゃったみたい」と呟くように言ったのを耳にした。同僚たちは、どこがどう変わったんだ、お前に人生観なんてあったのか、などと口々に突っ込み、彼女は、言い過ぎちゃったと舌を出した。浩平もたかがダイビングで大袈裟すぎると思ったが、その一言は妙に頭の片隅に残った。高校を卒業してこの会社に入り三年、仕事にも慣れたけれど、自分がずっとこの仕事をやっていくかどうかわからないところがあった。機械いじりが好きだから勤まっているような気がするが、かと言って他にやりたいと思う仕事はなかった。
 奈緒美はそれからすぐにダイビングのライセンスを取り、三ヶ月後には会社を辞めてしまった。ダイビングショップに勤めるからというのが理由だった。女はいいよな、将来のことを考えなくてもいいんだからと同僚たちは言い合ったが、それが羨望の裏返しであることは浩平にもわかっていた。
 翌年、夏がすぐそばまでやってきたとき、浩平は奈緒美の一言を思い出し、彼女の勤めているショップに寄ってみた。話を聞いて面白そうだったらやってみようかという気持ちはあった。
 日曜出勤明けの月曜日だったから、ショップは休みかなと思ったが開いていて客が一人だけいた。若い女性が客の相手をしており、その他にはスタッフらしき人影は見当たらなかった。二十坪ほどの店内にフィンやウェットスーツ、それにテレビで見たことのあるダイビングの器材などが所狭しと置かれてあった。奈緒美が休みだったらまた来ようかと思いながら、浩平は珍しい物でも見るように店内を歩いた。
「七瀬さん」いきなり名字を呼ばれた。振り返ると客の横の女性が笑いかけていた。奈緒美だった。先ほど入って来たときには彼女だとは全く気づかなかったのだ。髪がロングからショートになって、顔も日に焼けて黒くなっていたからかもしれない。奈緒美は客に何か言ってからこちらにやってきた。
「ご無沙汰してます」と彼女は会釈した。浩平は言葉を返すことも忘れて奈緒美をまじまじと見た。髪の毛が短くなっているだけではない。体全体から生き生きとした感じが伝わってくるのだ。会社の中にいたときの、よく言えばおっとりとした、悪く言えば眠そうな感じはどこにもなかった。
「見違えてしもうたわ」
「そうですか」
「何だか楽しそうやな」
「楽しいけど、給料は安いんですよ」
 浩平が、ダイビングのライセンスについて訊ねると、「今うちの店ではライセンス取得キャンペーンを実施中で、すべて込みで通常の二割引なんです」
 そう言って奈緒美はパンフレットを持ってきて説明してくれた。二割引といっても十万円を越える。他のショップではもっと安くしているところもあるが、奈緒美のところは海洋実習をきちんとやって、使えるライセンスにするという方針らしかった。
 浩平はキャンペーンの内容についていろいろと質問したが、気持ちはすでに受けることに傾いていた。奈緒美の説明が終わると、その場で申し込んだ。
 机の前に坐ってダイビングのことを学ぶ講習が二日間、プール実習が二日間、そして海洋実習が三日間だった。
 プール実習ではシュノーケルを使って素潜りの練習から入り、二日目にスクーバダイビングをしたのだが、初めてのシュノーケルではシュノーケルクリアに失敗して水を飲み、二日目のマスククリアでは鼻から水を吸い込んで咳き込んでしまった。これが海中で起こったらと思うと、急に怖くなってきたが、一緒に実習を受けている女の子たちの手前、ここでやめますと言う訳にはいかなかった。
 不安なまま串本の海洋実習に臨んだのだが、海の中に潜った途端、そんな不安はどこかに行ってしまった。海の中に潜っているという驚きが不安を頭の片隅にやってしまったのだ。何の変哲もないごろた石と岩場の海中だったが、実際に魚たちが泳いでいる姿を見ると、別の世界に迷い込んだような気持ちになった。プール実習では、言われたことをこなすのに必死で、水中で呼吸をしていることに何の不思議も覚えなかったが、海の中では呼吸できていること自身に驚きがあった。魚たちが生きて泳いでいる、その同じ場所に自分もいる、そんな単純なことが浩平を感動させたのだった。奈緒美の言った、人生観が変わったというのはあながち大袈裟ではないかもしれないとその時浩平は思った。
 浩平はCカードを取ると、ショップの組むツアーの日程と会社の休みが合うときはいつでも参加した。そして初めて沖縄の慶良間の海に潜った時は、その青さに目が眩みそうだった。串本の海はどちらかと言えば蒼いという感じだったが、慶良間の海はスカイブルーだった。青いガラスの中を泳いでいるような透明感があり、太陽の光が揺れる白い砂地の中にぽつんと珊瑚礁の根のある光景はどこか牧歌的な感じがした。根には色とりどり、大小さまざまな魚が群れており、その一つの小宇宙をダイバーが乱すのは申し訳ないと思うほどだった。ガイドは一つ一つの魚を指さしながら、水中ノートにその名前を書いてくれたが、ほとんど覚えられなかった。浩平が水中写真を撮ろうと思ったのは、魚の名前を覚えたいからだった。
 沖縄のツアーから帰ってすぐに、奈緒美はショップを辞めて沖縄のダイビングサービスに移ってしまった。浩平はあの海を毎日でも潜ることのできる彼女を心底うらやましいと思った。そう思うほどダイビングにはまり込んでしまったのだった。
 ショップの常連たちが奈緒美の送別会を開き、その席で浩平は「いつかガイドぶりを見に行ったるわ」と彼女に言ったのだが、それはいまだに実現していなかった。カメラを買い、車を買い、ほとんど毎週のように串本に通っていては、沖縄に行く金も暇もなかった。ただ一度だけチャンスはあった。水中写真を初めて半年も経たない頃、浩平は浜さんに勧められてダイビング雑誌のフォトコンテストに応募した。それがどういう偶然か準グランプリを獲得し、那覇までの往復航空券が副賞として付いてきた。浩平は余程行こうかと思ったが、有給休暇を使い果たしていてどうしても休みが取れないので諦めて金に換え、車のローンの返済に充てた。串本に行く回数を減らし、有給休暇も使わずにためておけば行けないことはなかったが、そんな気にはなれなかった。むしろ逆に、沖縄に行く金があれば串本に何回行けると考えてしまう方だった。
 浩平は準グランプリに味をしめて、それから何度もいろいろな雑誌のコンテストに応募したが、よくて佳作か入選止まりで賞品をもらうことはなかった。しかしだからといって水中写真をやめようという気には全くならなかった。自分の感じた生き物の姿、海の中の光景を写真の中に捉えたいという一心でシャッターを押してきた。何十枚、何百枚の中で、一枚でも「捉えた」と思える写真があれば、それで満足だった。

  海の中は穏やかで、ウエットスーツでも十分潜れるほど暖かかった。きょう生まれてくれれば最高なのにと思いながら、浩平は深場に降りていった。ほんだわらなどの海藻類はすっかり姿を消し、夏に比べて透明度が上がっていた。頭の上をスルメイカの群れが通り過ぎていく。浩平はカメラを構えたが、マクロレンズを付けていることに気づいて苦笑いしながらカメラを降ろし、そのまま白っぽい透明の群れを見送った。
 ヤギの中の「人魚のサイフ」は水の流れによる動きとは違った揺れ方をしていた。反対側からライトを当てて中を見ると、サメの形をした稚魚が影絵になって体をくねらせていた。さあ、出てこい。浩平はレギュレーターをくわえたまま、声を出した。いつ出てきてもいいように、カメラを構える。しかし十分経っても二十分経っても稚魚は出てこなかった。ダイブコンピュータは無減圧潜水の時間が後わずかであることを知らせている。ここで無理をしてもしようがない。まだ生まれるなよ、そう卵に言ってから、浩平は岸に戻った。
 浜さんは腕を組んでソファーに横になっていた。浩平が入っていくと、目を開けて「まだ生まれへんやろ」と言った。
「まだです。もう生まれてもおかしくないんやけど、出てきませんね」
「当たり前や。真っ昼間に生まれるわけがないやろ。生まれるとしたら夕方や。昼間の魚が活動を止め、夜行性の生き物がまだ動き出さない夕方、その時に出てくるのが一番生き延びる確率が高いんや」
「なんだ、それならそうと言ってくれればいいのに」
「いや、相手はサメやからな。ひょっとして昼間堂々と生まれてくるかも知れないという気がしないでもなかったからな」
 夕方潜るときは一緒に行くと浜さんが言った。浩平はタンクを降ろしドライスーツとダイビング器材を水道の水で洗って店の裏手に干した。ハウジングカメラは水を張った桶の中にしばらく浸け、念入りにホースで水を掛ける。浜さんが、夕方すぐに使うんだからそんなに丁寧に洗うことはないだろうと言ったが、浩平は聞こえない振りをしてリリースボタンやライトの接続コネクタなどの塩の残りやすい部分に何度も水を掛けた。水洗いがすむと、バスタオルで丁寧に水気を取り、そのままくるんで車の助手席に置く。浜さんが民宿までの地図を渡してくれたので、それを見ながら車で民宿に向かった。
 民宿は串本港の近くにあり、カメラと着替えの入ったバッグを持って中に入ると、五十がらみの気さくなおばさんが迎えてくれた。泊まり客は浩平ひとりだと言う。土曜日には名古屋から若い女性の三人組がやって来て一泊していくらしい。よくこの民宿を利用しているダイバーたちだと言う。土日は浩平の休暇の終わりの二日に当たっている。もしその前にナヌカザメが生まれていたら、残りの予約をキャンセルして大阪に帰るつもりだから彼女たちとはすれ違いになるだろう。夏の海に潜る女の子たちは大勢いるが、冬の海に潜る女性は数少ない。いや女性ばかりではない、男でも少数なのだ。そういう意味で、浩平はちょっと彼女たちに興味を引かれた。
「あんた、カメラマンかね」
 おばさんが浩平のハウジングカメラを見て、言った。
「趣味で水中写真を撮ってます」
「じゃあ今回も写真を撮るために……」
「ええ」
 浩平は半年前にナヌカザメの卵を見つけた時から、ずっと串本に通っていることを話した。
「水中写真を撮る人は何人も知ってるけど、そこまでやる人はいてないわ。それでこの一週間に生まれなかったら、どうすんの」
「いや、絶対生まれます」
「そうやね。それだけ頑張ったんやから、生まれてきたらよろしいのにね」
 浩平がもうすでに一本潜ってきたことを知ると、おばさんは風呂を沸かしてくれた。浩平は近くの食堂で昼御飯を食べてから、湯船に浸かって冷えた体を温めた。いつもなら生ぬるいシャワーで塩気を落とすだけなのに、宿に泊まるのと車で寝るのとの最大の違いはこうして風呂に入れることだと浩平は新発見をしたような気分になった。
 夕方までエアコン暖房の効いた部屋でひと寝入りするつもりでいたのだが、目が冴えて眠ることができない。こうしている間にも、ひょっとしたら生まれているかも知れないと思うと、じっとしていられなかった。浩平は立ち上がって、部屋を出た。夕方までにもう一本、すっと行って様子を見て、すっと帰ってくることにしようと決めた。
 店に着いて、そのことを浜さんに話すと、笑い飛ばされた。
「そんなに無理したらろくなことないぞ。ええか。夕方に生まれる確率が一番高い。だったらその時に一分でも長く潜っていられるように、窒素を抜いて置かなあかんやろ」
 確かにその通りだった。しゅんとして浩平が帰りかけると、「さっき見てきたよ」と浜さんが言った。
「まだ生まれてない」
「なんだ、浜さんも気になっているんやないですか」
「お前が性懲りもなく、また潜ると言い出すんやないかと予想してやな、おれが代わりに見て来たっただけや」
 午後五時に来いということで、浩平は民宿に戻ったが、時間がなかなか経たなかった。ログブックに朝のダイビングのデータを記入したが、卵に関してはほとんど書くことがなくすぐに終わってしまった。
 今ごろ同僚たちは油まみれになってボイラーのパイプを取り替えたり、ポンプの調整をしたりしているだろうなと思うと、こうしてじっとしていることが何だか申し訳ないような気になった。いつもなら串本に来たら仕事のことなど頭から完全に消えているのだが、今回は違った。生まれてくるのを待つという宙ぶらりんな状態がそうさせるのに違いなかった。今までのように午前の一本は全然別のポイントに潜って、午後は大賀浜に潜るというようにはできなかった。今まではまだ生まれないことがわかっていたから一回見に行くだけで十分だったが、今回はそうはいかない。
 五時少し前に店に行くと、浜さんはすでにドライスーツを着ていた。カメラも用意している。浩平も干してあったドライスーツと器材を車に積み込み、タンクを二本載せ、浜さんも乗せて大賀浜に行った。
 日は沈んでいたが、まだ空に明るさが残っていた。しかし用意をしている間にみるみる蒼くなりはじめ、海に入ったときにはすっかり夕闇が辺りを覆っていた。潜降すると同時にライトを点けた。今まで夕方や夜の海に一人で潜ったことはない。たぶん浜さんは許可しないだろうし、浩平にしても一人で潜ろうという気にはなれない。夜の海は昼間とは様相が一変して、まるで別の海を潜っているような感覚になるのだ。エビ、カニ、タコ、ウツボなどが動き回り、魚類は珊瑚の陰や岩穴でじっとしている。変わらないはずの地形までが変わってしまったような錯覚に陥るのは、ライトの当たったところだけしか見えないせいだろう。
 浩平は浜さんの後について潜っていった。しかし昼間のようにすんなりとヤギのある場所を見つけることができない。二人でぐるぐるとライトを回して、ようやく見つけることができた。
 橙色のヤギに引っかかった卵殻は昼間よりもさらに鮮やかな緑色に見えた。周りが暗いせいだろうか。浜さんは十五ミリのレンズを付けたカメラを構えて、卵殻にぎりぎりまで近寄っている。まだ生まれそうにない。浩平も浜さんと交代で写真を撮った。ヤギに透明の小さなエビが付いており、それと卵殻を一つのフレームに収めるのに浩平はかなり苦労した。
 一段落したところで、浜さんが脚に付けた水中ナイフを引き抜いた。何をするのかと見ていると、「人魚のサイフ」の口のところに刃の先を当てた。浩平はあわてて浜さんの腕を引っ張った。浜さんがこちらを振り向く。浩平はだめだめというように手を振った。浜さんは何か言い、レギュレーターから勢いよく泡が吹き出した。浩平も負けじと、だめですよと言い返した。浜さんは首を縦に振り、ナイフをすんなりと脚の鞘に収めた。
 岸に上がったところで、浜さんが「あのぐらいのこと、誰でもやってるんやで」と言った。
「やらせはだめですよ」
「やらせじゃないって。ほんの少しお手伝いして、決定的瞬間を撮ろうというだけの話やないか」
「それがやらせって言うんですよ」
「人間でもあるやろ、陣痛促進剤とかいうの打って出産させるの。あれと一緒や。それとも帝王切開かな」
 変な理屈に浩平は笑ってしまった。
「とにかく自然がいいんです。もし無理矢理卵からかえらせて稚魚がカニか何かにやられたらどうするんですか。無理矢理生ませたために弱っていて、普通ならやられないやつにやられる可能性がないとは言えないでしょう。そうなったらせっかく今まで見てきたのに寝覚めが悪いでしょう」
「わかった。お前の言う通りや。おれが悪かった。もう金輪際いっさい手は出さない。自然に生まれてくるのをじっと待つ」
「そうですよ」
「しかしじっと待つのはつらいぞ」
 浜さんはそう言いながら、浩平の方を見た。一週間の間に生まれなかったらどうするとその目は問うていた。そのときはそのときですよと浩平は目で答えた。
 民宿に戻ると、おばさんがどちらで晩御飯を食べるか訊いてきた。客専用の食堂があるのだが、たった一人なので一緒にどうかと言うのだ。そのためにわざわざ待っていてくれたらしかった。浩平は先に風呂を済ませ、おばさんの教えてくれた台所に入った。そこには小ぶりの食卓があり、日に焼けた男がビールを飲んでいた。こんばんわと頭を下げて、浩平はおばさんの引いてくれた椅子に腰を下ろした。男はおばさんにコップを持ってこさせ、浩平の前に置くと、ビールを注いだ。浩平が戸惑っていると、「酒、飲めるんだろ」と男が言った。
「ええ」
「サービスだから、遠慮せんと飲んで」流しの前のおばさんが振り返って言った。浩平はいただきますと言って、一気にビールを飲んだ。喉がからからに乾いていたので、ビールは染み込むように胃に降りていった。
 コップを空にすると、男はまた注いでくれた。
「ダイビングて、面白いかね」と男が言った。
「うちの人、漁師だからね。ただ潜るだけというのが納得いかないんだわ」
 男はおばさんの旦那で、定置網の漁師だった。
「そりゃ面白いですよ」
「魚を見るだけで?」
「ええ」
「わしらの仲間にも、潜水するやつはおるけど、それは貝とかの漁が目的やからの。ただ潜って楽しむなんて、わしにはわからん」
「この人は写真を撮ってはるのよ。水中写真」とおばさんが言う。
「ふーん、そんなんが面白いんかの」
 浩平はナヌカザメを見たことがあるか訊いてみた。
「サメはときどき網に掛かるな。いろんなやつがおる。ほれ、なんちゅうたか大阪の水族館におる、大きいやつ」
「ジンベイザメですか」
「そうそう、それ。そいつも何回か掛かったことがある」
「へえ」浩平は驚いた。ジンベイザメは滅多に見られない魚で、浩平も水族館以外では見たことがない。ダイバー憧れの生き物で、そのことを話したが、おじさんは興味がなさそうだった。
「売りもんにならんから、すぐに逃がすけど、網が痛んでかなわんな」
 ナヌカザメも見たことがあるかも知れないが、名前が違うからわからないということだった。おばさんがナヌカザメの卵の話をした。
「この人、その卵の写真を撮るために六ヶ月もここに通ってるんやて」
 ふーんとおじさんは言ったが、それは感心してというより物好きなやつだという意味合いの方が強かった。
「あんた、プロになるつもりか」
「いいえ、とんでもない」
「そないに好きやったら、プロになったらええ。わしやったら、そうするけどな」
「あんた、そんな無責任なこと言うたらあかん。うちに来るお客さんの中にも写真を撮る人はぎょうさんいてるけど、みんながみんなプロになったらどうすんの。そこらじゅうプロだらけになってしまうやないの」
「構わんやないか。プロになれるやつはなれるし、なれへんやつはなれへんし」
「あんた、もう酔うたんかいな」
「酔うてない。ビールもう一本」
 食事が終わって部屋に戻ると、浩平はテレビを付けた。天気予報が気になるのだ。
 明日の天気はきょうと同様に晴れで穏やかな予報だったが、問題は週間予報だった。土曜日から日曜日に掛けて低気圧が通過し、その後この冬初めての寒気団が入り込んでくると予想していた。まずいと浩平は思った。しかし考えようによってはよかったとも言えた。低気圧が水曜か木曜に来たら最悪だった。まだ最後の一日が潰れるくらいは我慢しようと浩平は自分に言い聞かせた。
 翌日、浜さんも週間予報を見たらしく、ドライスーツに着替えながら「低気圧が来る前に生まれてほしいな」と呟いた。しかしその日も生まれなかった。
 水曜日もだめで、一番確率が高いと浩平の予想した木曜日も稚魚は卵殻の中に籠もったままだった。浩平はがっかりして、夕食時におじさんから「どうだった」と訊かれても、「だめでした」と答えるのが精一杯だった。
 次の日、午前中に一本潜って民宿に戻ってくると、おばさんが何も訊かずに、一枚の紙切れを渡してくれた。大漁を祈願する神社の御札だということだった。
「わたしじゃなくって、うちの人が渡してやれって」
 浩平はBCジャケットのポケットに入れることにした。だが御札の効果もなく午後からのダイビングでも卵殻は閉じたままだった。浩平は余程ナイフを使ってこじ開けたい誘惑に駆られたが、それをしてしまうと今までやってきたことがすべて無意味になってしまう気がして、思いとどまった。浜さんも浩平が反対してからは、二度と卵に手を貸そうとは言い出さなかった。素振りも見せなかった。
「予想が間違うてたんやないか。おれの感じでは、一週間ほど遅れるように思うけどな」
 夕方のダイビングが終わって店に戻ってきたところで、浜さんが言った。
「そうかなあ」浩平は弱気になっていた。
「お前、もう一週間休みを取れ」
「そんなこと、無理ですよ。この一週間だって拝み倒して有給休暇を使ってやっと取れたんですから」
「会社に電話をして、もう一週間休みますって言やあ済むことやろう。何ならおれが電話してやろうか」
「そんなことしたらクビですよ」
「やっぱりだめか」
 土曜日の午前中のダイビングも空振りだった。落ち込みながら民宿に戻ると、若い女性たちの声が響いていた。おばさんの言っていた名古屋からの三人組であることに気づいたが、浩平は顔を合わさないように静かに自分の部屋に向かった。がっかりして情けない顔になっていることが自分でもわかっていたので、誰とも会いたくなかった。
「七瀬さん、どうやった」
 後ろから大声でおばさんに呼び止められた。女性たちの声がぴたりと止んだ。
「だめでした」
「そう」おばさんは本当にがっかりした声を出した。浩平は軽く会釈して自分の部屋に戻った。
 夕方のダイビングに出るときも、三人組が午後のダイビングに出かけた後を見計らって、民宿を出た。遅い昼食を食べて浜さんのところに行くと、「只今ガイド中」という札がぶら下げてあり、店はもぬけの殻だった。店を開けっ放しにして大丈夫かなと思いながら、浩平はソファーに寝そべった。自分では店番のつもりだった。
「もう来てんのか」浜さんの声で起こされた。いつのまにか眠ってしまったらしかった。浜さんの後ろには男女五人のウエットスーツを着たダイバーたちがいて、浩平のほうを見ていた。浩平はあわてて起き上がり、車からタンクを降ろすのを手伝った。
「どこを潜ったんですか」
「住崎。下浅地にしようかと思ったんやけど、ちょっと海が荒れてきたから、急遽変更した」
「やっぱり荒れてきましたか」
「うん」
 風が吹き始めていた。入り江に面したここからでも、沖合に時折白い波頭の立つのが見えた。
 大賀浜もきのうより波があったが、まだまだ大丈夫だった。ただ浜さんはきょう三本目なので、いつもほど長くは潜っていられない。
 うねりが入っているのか、ヤギが揺れていた。卵も揺れていたが、時々ぴくぴくと小刻みに振動した。その度にどきりとしてカメラを構える。ライトを透かしてみると、すっかりサメの形になった稚魚が8の字を描くように体をくねらせていた。出てこい、早く出てきてくれ。ファインダーで卵殻を捉えながら、浩平は声にならない声を出した。
 その時浜さんが浩平の肩を叩いた。親指を岸の方向に向けている。浩平は首を横に振った。浜さんは浩平の残圧を確かめ、ダイブコンピュータを見てからまっすぐ上に浮上していった。見ると、十メートルほど頭上で止まって浩平の方を見下ろしている。浩平は無減圧潜水ができるぎりぎりまでカメラを構えたが、稚魚は卵殻を破って出てこなかった。浩平が浅場に向かうと、頭上の浜さんも岸に向かった。
 浜さんの指示に従わなかったことで何か言われるかと思ったが、浜さんは何も言わなかった。
 民宿に戻って風呂場に行ったのだが、きのうまで掛かっていなかった「ただいま空いています」という木札がぶら下げてあった。裏を見ると、「入浴中」と書かれてある。浩平は静かに引き戸を開けて、どこにも脱衣した服がないことを確かめてから中に入った。
 風呂から出てしばらく体の火照りを取ってから、客用の食堂に向かったが、そこには食事の用意がされておらず、台所の方から若い女性たちの声が聞こえてくる。きょうもそっちなのかと思いながら入っていくと、三人組は話をやめて浩平の方を見た。
「こんばんわ」浩平はちょっと頭を下げた。
「ねえ、どうだった」右側の一人が言った。
「え?」
「生まれた?」
「ああ、……まだ」
「何だ、まだなの」
 やけに馴れ馴れしいと思ったが、嫌な感じはしなかった。おばさんが「こっち」と空いている椅子を手で示した。三人組と一緒に食べるのに抵抗があったが、ここまで来たら仕方がなかった。
「旦那さんは?」坐りながら浩平は尋ねた。
「麻雀」おばさんは手で牌を掻き混ぜる仕草をした。
 テーブルを挟んで向こう側に女性が二人、こちらにもう一人と浩平が座る形になった。おばさんは流し台に向かって食事の用意をしている。
「きょう、どこに潜りました」見知らぬダイバーと一緒になった時、取りあえず話の口火を切る文句を浩平が口にした。
「午前が下浅地、午後が吉右衛門出し」馴れ馴れしいと思った女性が答えた。三人のうちで一番色が黒く、短めの髪の毛も茶色に変色していた。まだらになっているから染めているのではないらしい。サーファーかなと浩平は思った。
「下浅地、潜れました? 午後からは潜れなかったみたいだけど」
「船頭さんはやめたほうがいいって言ったんだけど、強引に入っちゃったのよ。流れは結構あったけど、でも潜ったらそうでもなかったわ。ねえ」
 彼女は他の二人に同意を求めた。
「強引に入ろうって言ったのはユッコだけで、私たち二人は別のところでもよかったのよね」
「そう」もう一人が大きく頷く。
「あー、裏切り者。でもそのお陰でクエが見れたんでしょ」
「そうそう、あのクエ大きかったわねえ。一メートルくらいあったんじゃない」
「クエっておいしいのよね」
「サヨは食べたことあんの」ユッコが訊いた。
「ない」
「じゃあ、どうしてわかるのよ」
「おばさん、クエっておいしいんでしょ」
 おばさんは振り返って「おいしいけど、高いよ」と言う。
「クエ、食べたことあります?」と隣の女性が浩平に訊いてきた。
「いいえ」
「この中で食べたことあんの、おばさんだけか」
「今度、クエ料理食べに行こうか」ユッコが言う。
「行こう、行こう」二人が同時に答えた。
 タイとマグロの刺身と天ぷらの盛り合わせが出てきた。ユッコはおばさんにビールを頼み、浩平にも注いでくれた。
「ずっと同じところを潜ってるんですってね」とユッコが言った。
「え?……ああ、まあ」
「ごめんね」とおばさんが口を挟んだ。「わたしがみんなに話したもんだから」
「いや、いいです」
「何というポイントだった」
「大賀浜」
「知らないわねえ。ねえ、知ってる?」ユッコが二人に訊いた。知らないと二人とも首を振った。
「ぼくも今年の六月までは一回しか潜ってなかったんですよ。それが海が荒れていてそこしか潜れなくて。その時見つけたんですよ、ナヌカザメの卵を」
「ナヌカザメなんていう魚いるの」サヨが言った。「ねえ、知ってた?」
「知らない」隣の女性が答えた。
「名前だけは聞いたことがあるけど、どんなサメなの」
「ぼくも図鑑でしか見たことがないから、よく知らないけど、頭が平べったくて体中に斑点がありましたよ」
「その卵をずっと写真に撮ってるの?」とユッコ。
「ええ、もう半年ずっと」
「半年! すごい。あなた、プロのカメラマン?」サヨが言った。
「いいえ、とんでもない」浩平は手を振った。「ただのサラリーマンですよ」
「仕事は何」
「ボイラーの会社でメンテナンスを……」
「ふーん、それで生まれそうだから一週間休みを取ってねえ」
「何だか母親の代わりをしているみたい」
 言われてみて、ああそうか、おれは母親の代わりをしていたのかと浩平は思い至った。
「卵ってどんななの。写真の被写体になりそうなやつなの」
 浩平は初めて見つけたときの様子を詳しく話して聞かせた。ゴミと間違えて取ろうとしたこと、蔓のようなものがヤギに絡まっていて生き物だと気づいたこと、ライトで透かしてみると丸い卵が見えたことなど。そして別の名を「人魚のサイフ」と言うこと。
「特にあの手触りは何とも言えませんね。本当にプラスチックとそっくりなんですから」
「人魚のサイフなんてロマンチックじゃない」
「見てみたい」
「わたしも」
「明日一緒に潜ってもいい? 写真を撮る邪魔はしないから。ねえ、いいでしょう」とユッコが言った。
「いいですよ」と浩平は答えた。ひょっとしたらこの三人組がツキを運んでくれるかも知れないという気がした。
「ただし、水深三五メートルとちょっと深めですけど」
「大丈夫、大丈夫。三人とも四十メートル以上潜ったことがあるから」
 話が決まると、ユッコはどうぞどうぞと言って、ビールを何度も注いでくれた。
 明け方、風の音で浩平は目を覚ました。枕元に置いたダイバーズウォッチを見ると、五時だった。外はまだ真っ暗だ。浩平は目を閉じてもう一度眠ろうとしたが、荒れた海が頭に浮かんで眠ることができなかった。
 早めに起きて、洗面所で顔を洗っていると、「おはようございます」と言ってユッコが現れた。髪の毛を頭の上で縛って、眠そうな顔をしている。
「風が強そうだけど、潜れそう?」
「大賀浜は結構入り江になってるから、大丈夫だと思うんだけど」
「きょう生まれたらいいのにね」
「うん」
 三人組も車で来ていて、浩平が先に走らせて浜さんの店に向かった。空はどんよりと曇っている。海岸沿いに出て海を見ると、高い波が打ち寄せてはいたが、思ったほどではなかったので、浩平はいくらかほっとした。
 浜さんの店にも四人の客が来ていて、ダイビングの準備をしていた。
「船、出るんですか」浩平は忙しそうにしている浜さんに声を掛けた。
「ぎりぎり行けそうや」
「それで、お願いがあるんですけど」
「何や」
「彼女たちが」と浩平は外で待っている三人組を手で示した。「ぼくと一緒に大賀浜に潜りたいって言うんですけど、いいですか」
 浜さんが外を見ると、三人組が同時に手を振った。
「知り合いか」
「夕べ民宿で一緒になって、卵のことを話したら、是非見たいって言うもんだから」
「でもな、おれ今からガイドやしなあ」
「ぼくが連れていきますから」
「あそこも結構荒れてるぞ。普通の時なら別に心配しないんやけどな」
 取りあえず三人のダイビング経験を聞くことになった。三人を店の中に入れ、浜さんがCカードの提示を求めた。「串本でCカード見せるの、何年ぶりかしら」などと言いながら、それぞれバッグからカードを出した。浩平も見せてもらったが、ユッコはインストラクター、サヨともう一人はレスキューダイバーの資格を持っていた。UKO OHNUKI、SAYO NAKAMURA、AKEMI SUDOと名前が印字されてあった。三人とも浩平より一つ年上だった。
「どこかで仕事してるの」カードを返しながら浜さんがユッコに尋ねた。
「先月までハワイでガイドの仕事を」
「ほう」
「年が明けたら、今度はメキシコでガイドをするんですって」とアケミが言った。
「メキシコってラパス?」
「いいえ、カリブ海にあるコスメルっていう島で」
「ああ、知ってる。アメリカ人のダイバーがどっと押し寄せるところやね。日本人も来るの?」
「これから呼ぼうと言うことらしいんです。わたしも一度カリブ海を見てみたいと思っていたから」
「ユッコはいいわよ、ガイドはできるし、英語だってぺらぺらだし。世界中の海を潜れるわよ」とサヨが言う。
「でもコスメルではスペイン語を勉強した方がいいみたい」
「大丈夫よ。向こうに住むんでしょ、すぐにマスターできるわよ」
「半年ぐらいで帰って来ちゃったりして」
「その時はここで雇ってもらったら」
 浜さんは大笑いした。
 ダイビングの経験本数はユッコが一千本を越えており、後の二人も二百本前後と豊富だった。浜さんは浩平と一緒に潜ることを認め、タンクを貸してくれた。コーヒーの入ったポットを振って、「持っていくか」と言ってくれたので、浩平は喜んでそれを受け取った。
 大賀浜は予想以上に波が高かった。夏の時とは風向きが変わっていて、直接冷たい風を受けていた。
「荒れてるわねえ」とユッコが言った。
「どうする」とアケミ。
「わたし、やめようかしら」とサヨ。
 浩平は聞こえない振りをして、すぐにドライスーツに着替え始めた。黙々と準備をする。そのうちユッコが服を脱ぎ始めた。
「入ってしまえばどうってことないか」とサヨが後に続いた。
「何言ってんのよ。エギジット(岸に上がること)が大変なんじゃない」と言いながら、アケミがジーンズを脱いだ。三人ともウエットスーツだった。いくら五ミリのフルスーツだといっても、今時の水温ではそんなに長くは海中にいられない。ぎりぎりまで潜っていられないかもしれないと浩平は思った。
 上で準備を整え、タンクを背負って階段を降りる。波があるので、カメラを持っている浩平は海の中に入ってフィンを履くのが難しい。波打ち際でフィンを履き、波が引いた時を見計らって横向きに素早く動き、次の波の中に潜り込むように海中に身を投げる。カメラを胸に抱え、思い切りフィンを動かす。余りゆっくりしていると、岩場に叩きつけられてカメラを壊す恐れがあった。
 岸辺から離れたところで波に揺れながら待っていると、ユッコを先頭に三人が入ってきた。全員がそろったところで親指を下に向けて潜降の合図を出す。
 海中は波で巻き上げられた砂のせいで、透明度が悪かった。浩平は何度も後ろを振り返って三人がついてきていることを確認しながら、深場に降りていった。深くなるとうねりはあったが、若干透明度が上がって十メートルくらい先まで見えるようになった。浩平はコンパスと地形を慎重に見ながら、水深を下げていった。
 目的のヤギのある場所を見つけたときは、さすがに浩平もほっとした。三人は指をさしながら卵に近づいた。裏からライトを当てると、まだ中にいて盛んに動いているのがわかる。アケミが手袋を脱いで卵殻に触れる。他の二人も同じように手袋を脱いで緩やかな曲線を描く緑色の表面を撫でた。浩平は生まれてきたらいつでもシャッターボタンを押せるようにカメラを構えた。
 しかし稚魚は出てこなかった。うねりに揺られながら時間だけが過ぎていった。三人は両手で自分の肩を抱いている。浩平は、寒くないかと身振りで三人に尋ねたが、三人とも首を振った。だが、顔を見ると白っぽくなっているのがわかる。時間にまだ余裕があったが、浩平は戻ることにした。何となく生まれるのはきょうの夕方のような気がした。
 アケミの言ったとおり、エギジットのほうがはるかに大変だった。BCジャケットの空気を抜き、海底を這うように岸に近づいていく。大波が何回かに一回やってくるが、そのときはじっとしていて小波が寄せるときに、その波に乗って岸に上がるのだ。しかし浩平は引き波に足を取られて岩場に転倒してしまった。ハウジングカメラが岩にぶつかり、鈍い音がした。あわててカメラを見たが、白い傷が付いただけで、浩平は胸をなで下ろした。
 三人組も波に翻弄されながら、何とか岸に這い上がってきた。そのまま階段を上がって車のそばまで来る。タンクを降ろし、レギュレーターとBCをはずしてプラスチックの桶に放り込む。三人組は急いで膝まであるヨットパーカーを着て、バスタオルで髪の毛を拭いたが、歯の根が合わずに震えている。浩平はポットからコーヒーを紙コップに注いで、一人一人に手渡した。
「生き返ったわ」とアケミが言った。
「動かないから余計に寒くて」
「私たちに合わせて、早く上がったんじゃない」とユッコが訊いてきた。
「いや、そんなことないですよ」
「それだったらいいんだけど」
「本当にプラスチックみたいなのよね。ゴミと間違うの無理もないわ」サヨが紙コップを返しながら言った。
「でしょう」
「わたしだってカメラをやっていたら、半年通っちゃうわね」
「夕方もう一度一緒に潜ります?」浩平は三人に尋ねた。
「夕方?」
 浩平は夕方に生まれやすいという浜さんの説を話した。
「午後からすぐだったらいいんだけど。私たち夕方には名古屋に帰っちゃうから」
「夕方潜るのはもう無理なんじゃない。今でこれでしょう、午後からもっとひどくなるわ」とユッコが言った。
「いや、大丈夫ですよ」と浩平は答えた。浜さんがいるかぎりという言葉をそこに込めたつもりだった。
 タンクとウエイトは浩平が返すことにし、三人は風呂に入りたいからとウエットスーツのまま民宿に戻っていった。
 店に行くと、浜さんはまだ戻っておらず、浩平は空のタンクを店先に並べた。そしてドライスーツとレギュレーター、BCジャケットを裏に干し、生温いシャワーを浴びて、浜さんの帰りを待った。夕方のダイビングをどうするか相談したかったのだ。しかし浜さんはなかなか戻ってこなかった。昼からまた来ることにして、浩平は民宿に戻った。
 昼食後、三人組が午後からのダイビングを浜さんのところでやりたいと言ってきたので、一緒に出かけた。
 だが、浜さんはソファーに寝そべったままで、何の準備もしていなかった。
「午後からは中止ですか」と浩平が訊いた。
「ああ」浜さんは上半身を起こした。
「何だ、残念」とアケミが言う。
「どこのサービスも駄目ですか」とユッコが訊いた。
「たぶんあかんやろ。やってるとしたら、大きい船を持ってるとこやな。コーラルダイバーズか潜水館ぐらいとちゃうか」
 ユッコが浜さんから聞いて、その二つのサービスの電話番号をメモした。
「それから、午前のタンク代を払いたいんですけど」
「いい、いい。サービス、サービス」
「浜さん、太っ腹」とサヨが言った。名前を呼ばれて面食らった顔をしたが、浜さんはすぐににこやかな表情になった。
「どうだった、卵」
「最高。あんな変なの見たの初めて。今回のダイビングの目玉ね」
「生まれてくるところが見れたら、もっとよかったんだけど」
「夕方、みんなで潜るか」
 浜さんのその言葉を聞いて、浩平はほっとした。ひょっとしたら大賀浜のダイビングも中止なのかと気が気でなかったのだ。
 三人は夕方には帰ることを伝え、次からの串本でのダイビングは浜さんの店を利用すると言った。
「誕生の瞬間が撮れたら、どーんとこの店に飾っといてね」
「ええ」
 三人は民宿に戻ってチェックアウトを済ませてから、コーラルダイバーズか潜水館に寄ってみると言って、車に乗り込んだ。彼女たちを見送ってから、浩平は浜さんと夕方のダイビングの打ち合わせをした。
 民宿に戻ると、すでに三人の姿はなかった。
「七瀬さんもきょうで終わりやね」とおばさんが言った。
「長いことお世話になりました」
「夕方、また潜るの?」
「ええ」
「最後やから言うて、あんまり無理したらあかんよ」
「わかってます」
 約束の四時になる前に、浩平は浜さんの店に行った。ところが浜さんは何の準備もして居らず、先ほどと同じようにソファーに寝そべっていた。浩平が中に入っていくと、浜さんは横になったまま、「すまん」と片手を上げた。
「ぎっくり腰や」
「え?」
「タンクを持ち上げようとした瞬間、ぎくっときてしもた」
「全然動けませんか」
「ちょっと無理やな」
「だったら、ぼく一人で行きますわ」
「あかん」
「どうして」
「この海を見てみいな。一人で潜らせるわけがないやろ」
「だったら、どうしたらいいんですか」
「明日にせい」
「だめですよ」
「明日やったら、おれも動けるようになるし、海も治まってるやろ」
「もう休めないって」
「一日くらい何とかなるやろ」
「何ともなりません」
 夕方潜って駄目で自分が大阪に帰ってから生まれても諦めがつくが、もし夕方潜らずに明日一日休みを取って潜ったときにすでに生まれた後だったら、悔やんでも悔やみきれない気がした。
「二人だったら、いいんでしょ」
「うん?」
「バディを連れてきたら文句ないでしょ」
「そりゃまあ、バディにも依るわな」
 浩平は電話を借りて、コーラルダイバーズに掛けてみた。しかし午後からは船を出していなかった。浩平は祈る気持ちで、潜水館に電話をした。船は出ているという返事で、客の中にユッコたちの名前があった。
「あの子たちやったら、ええやろ」と浜さんが言った。
 浩平は船が戻ってくる港の場所を聞き、すぐに車で向かった。
 突堤で風に吹かれながら、船を待った。三十分ほど経って、防波堤の切れ目から白い船体が姿を現した。
 船が突堤に着くと、六、七人のダイバーたちが降りてきたが、その中にヨットパーカーを着た三人組がいた。ダイビング器材の入ったメッシュバッグを肩から担ぎ、いかにも疲れたという表情をしていた。
 浩平が近づいていくと、「どうしたの、きょうはもう潜らないの」とユッコが訊いてきた。浩平は事情を説明して、誰か一緒に潜ってくれないかと頼んでみた。
「いまから帰ったって、夜中になっちゃうもの」とアケミが言った。
「ユッコが適任じゃない」とサヨ。
「私は何で帰るの」
「送ってもらったら」
「この人、大阪よ」
「だったら、JRで帰れば」
「名古屋までの運賃出しますから」
「私たちは明日仕事でしょ。ユッコはずうっと暇なんだから、付き合ってあげなさいよ。もし、きょう生まれなかったら、ユッコが後を引き受けて写真を撮ったらいいじゃない」
「何言ってんの」
 ユッコはしばらく考えてから、「私しかいないんなら、仕方がないわ」と言った。「それに当分の間串本で潜ることが出来なくなるから、見納め、じゃなかった、潜り納めにはいいかも」
 岸壁に止めてあった三人組の車から、ユッコの荷物を浩平の車に移した。
 浜さんの店に戻ると、浜さんは相変わらずソファーに寝そべっていた。
「大丈夫ですか」とユッコが訊く。
「大丈夫じゃない」
 ユッコはどうせすぐに着るんだけどと言いながら着替えを持ってシャワー室に行った。浩平は浜さんの指示で店の奥から、タンクを二本車に運んだ。
 ウエットスーツを脱いでジーンズ姿になったユッコは、エアコンの暖かい風に当てて髪の毛を乾かしている。
「寒いか」
「そんなに寒くはないけど、乾かしておかなきゃ体温下がるもの」
「それじゃあ、インナーを着るか」
 浩平は浜さんに言われて、店の奥から大きさの違うインナーウエアをいくつか出してきた。ベストにフードの付いたやつだ。ユッコは「格好悪い」と言いながら上を脱いで試着して、一つを選んだ。
「ちょっとダイビングコンピュータを見せてくれ」と浜さんがユッコに言った。ユッコが車から取ってきて見せると、浜さんは指につばを付けてコンピュータのスイッチを入れ、三五メートルで何分無減圧潜水で潜れるかを調べた。
「もうちょっと水面休息を取ったほうがええけど、あんまりゆっくりしてたら真っ暗になってしまうからな」
 浜さんは窓の外の空を見遣りながら言う。灰色の雲が垂れ込めて、それでなくても暗いのだ。
「いざとなったら、減圧するわ」
「いや、それは危険や。これだけ波があるときは十分エアに余裕を持って上がらな、エギジットの時にエア切れを起こすで。エア切れを起こして海面に浮上したら、間違いなく岩場に叩きつけられる」
「大丈夫ですよ。そんなに無理しませんから」と浩平は答えた。
「自分たちの命と写真とどっちが大事かよく考えろよ」
「わかってますって」
 店の中で浩平はドライスーツに着替えていくことにした。ユッコもまだ濡れてるから嫌だわと言いながら、インナーを着てウエットスーツに着替えた。
「絶対に無理をするな」という浜さんの声に送られて、二人は店を出た。浩平は黙って車を運転し、ユッコも口を閉ざしてじっと前方だけを見ている。
 大賀浜に着いて車から降り立った。薄暮の中、海岸に打ち寄せる白い波頭だけがやけにくっきりと見えた。波が岩場にぶつかる音が聞こえる。二人は顔を見合わせた。
「思ったより波が高いわね」とユッコが言った。浩平は一瞬やめようかと思った。どうして危険を冒してまで潜る必要があるのだ、たかがサメの誕生の写真じゃないか。しかしすぐに体が動いて後ろの荷台からタンクを降ろした。ユッコも器材を降ろすのを手伝った。
「ぼく一人で潜るから、ここで見てて」浩平はふっと思いついたことを口にした。
「え?」
「最初からそのつもりだったんや。でも浜さんは一人ではタンクを貸してくれないから」
「だめよ。もし一人で行かせて事故でもあったらどうすんの。私に一生後悔しながら暮らせって言うの」
「……わかった」
 午前の時と同じようにタンクを背負って階段を降り、波打ち際から離れたところに立つ。それでも時折大きい波が来て足許を洗い、飛沫が顔に降りかかる。浩平はフィンを履いたまま岩場の陰に移動し、波をかぶりながら小波を待った。一つ、二つと数え、三つめの時に思い切って引き波の中に体を突っ込んだ。しかしすぐに大波が来て、体が持ち上げられた。回転し、思わずカメラを胸に抱えると頭が何かにぶつかった。だが痛さは感じない。無我夢中でフィンを動かし、とにかく沖を目指した。
 水深が深くなり、浩平は海底の岩を片手でつかんで体を落ち着かせた。岸辺の方を見ても水が濁っていてよく見えない。浩平はBCジャケットにぶら下げた水中ライトを照らして、丸く輪を描いた。
 しばらくしてユッコが姿を現した。指を丸めて、オーケーかと訊くと、ユッコもオーケーのサインを返してきた。親指を進行方向に向けて、浩平は泳ぎ出した。
 うねりはあるのだが、海面の荒れ具合に比べると、海の中は驚くほど静かだった。真っ暗になる手前の、幾層にも重なったような蒼さの中にいることが、静けさの感覚をもたらしているに違いなかった。
 浩平はライトで周囲の地形を照らしながら、慎重に目的の方向に潜降していった。
 すぐに見慣れた岩場がライトの光の中に現れ、浩平はほっとしてその岩場を越えて下に降りた。
 ヤギも卵も荒れた海のことなどまるで知らないかのように、そこにあった。浩平は素早くまだ稚魚が生まれ出ていないことを確かめてから、カメラを構えた。フラッシュの当たり具合を見るために、二回シャッターを押し、ユッコにも押してもらってライトの位置を調整した。
 後は待つだけだった。卵殻が時々ぶるぶると震え、その度にカメラを構える手に力が入った。
 浩平にはユッコの潜水時間が気がかりだった。時折彼女のダイブコンピュータを見せてもらい、減圧潜水の表示に切り替わっていないことを確かめた。
 時間が過ぎていった。ユッコは肩を抱くようにしながら、水中ライトの光を卵殻に当てている。浩平は寒いかと訊こうとしてやめた。寒いに決まっているのだ。
 ユッコの無減圧潜水時間が一分になったところで、浩平は浮上のサインを出した。浜さんの忠告が頭にあった。
 そのときユッコが浩平の肩を叩いて、卵を指さした。見ると、サイフの口に当たるところから稚魚の頭が出かかっていた。浩平はレギュレーターから大きく息を吸い込み、急いでカメラを構え直した。シャッターを押そうとして指が震えていることに気づいた。カメラを持つ手も震えている。落ち着け、落ち着け。浩平は自分に言い聞かせ、意識してゆっくりと呼吸した。ファインダーの中がぶれなくなるのを待って、浩平はシャッターを押した。
 灰色っぽい体が緑の卵から出てくる。体をくねらせながら、卵殻を脱ぎ捨てようともがく。しばらくもがいてから稚魚は力を溜めるかのように動きを止める。数呼吸して再びもがき始める。浩平はライトの充電時間がもどかしかった。位置を変えながらシャッターを何度も押した。
 稚魚は卵から抜け出ると、それで力を使い果たしたかのようにしばらくヤギの中に漂った。ユッコが両手で掬うようにして掌の中に入れた。わずかに濃い灰色がまだら模様を作り、形はすでにサメだった。浩平はカメラを近づけて、子供をあやすような感じで一枚、二枚と写真を撮った。
 そのうち稚魚は力を回復し、ユッコの掌の中から出た。ヤギの枝の中を何回か輪を描くように動いてから、深みを目指して泳いでいく。浩平もユッコもライトでその姿を追ったが、すぐに暗い海の中に消えていった。二人はしばらく稚魚の消えた辺りを見詰めていた。
 ユッコのダイブコンピュータには減圧潜水の表示が出ていた。二人は急いで岸を目指した。
 十メートルのところで一回減圧停止をし、うねりに揺られながら五メートルでもう一回停止した。ユッコは先に浮上するように手で示したが、浩平も付き合って停止をした。残圧を見ると、二人とも30を切っていた。浩平に至っては、10しかなかった。エギジットに手間取ったらエア切れを起こすかもしれないという思いが頭を掠めた。
 浩平は海底に這いつくばるようにして、徐々に浮上していった。しかし浅くなるにつれ、波に翻弄され出した。大波が体を持ち上げようとするのを、片手で岩をつかんで耐えようとしたが、とても無理だった。自分の呼吸が速くなっているのがわかる。そのまま岸に運ばれて岩場に叩きつけられた。ここで引き波に引きずり込まれたら死ぬ。浩平はカメラを胸に抱えながら必死で岩場をつかもうとしたが、すべって再び海中に引きずり込まれた。カメラを捨てるしかないのか。
 そのとき横から手が伸びてきて浩平のカメラをつかんだ。ユッコだった。先に上がれというように親指を上に振っている。浩平はユッコにカメラを渡して、両手で岩をつかみながら這いずっていった。波の間隔を計りながら、小波のとき手を離してフィンを思い切り動かした。岩場に取り付き、体を持ち上げる。次の波が来て、岩場に放り投げられ、尻餅をついた状態で後じさった。
 レギュレーターを口から外すことも忘れ、さっきまでもがいていた海を見詰めた。残圧計は0を指していた。
「大丈夫か」
 不意に声がした。見ると、ドライスーツを着た浜さんが階段の一番下に腰を降ろしていた。
「浜さん」浩平はフィンを脱ぎ、濡れている岩場に足を取られながら近づいていった。
「あの子はどうした」
「まだ中に」
 そのとき浜さんが岸辺を指さした。振り返ると、ユッコが岩場に取り付こうと懸命になっているところだった。浩平は急いで近寄り、波の飛沫を浴びながら彼女の手を引っ張った。同時に大波が来て、二人とも岩場に放り投げられた。ただ浩平が手を離さなかったので、再び引きずり込まれずにすんだ。
 ユッコはタンクを背中にしたまま横向きに倒れ、肩で息をしている。
「大丈夫?」浩平が肩を揺すると、ユッコは目を開けて小さく笑った。
「はい、カメラ」そう言いながらユッコは上半身を起こし、フィンを脱いだ。浩平はカメラを受け取った。
「残圧いくつだった」とユッコが訊いた。
「ゼロ」
「私は」と言ってユッコは自分の残圧計を見た。「10もないわ。ひどいダイビング。ライトもなくしちゃったし」
 浜さんはにこにこしながら二人を迎えた。
「腰、痛いんじゃなかったんですか」とユッコが訊いた。
「痛いとも」
「じゃあ、どうしてここに」
「ひょっとして、こいつが一人で潜っているんやないかと心配になって見に来たんや」
「そんなことするわけがないじゃないですか」と浩平は答えた。
「九割方、自信あったんやけどな」
 浩平とユッコは顔を見合わせた。
 浜さんは一人で立ち上がるのもつらそうだったので、両側から二人で支えて階段を上った。
 急いで店に帰り、シャワーを浴びた。生温くても、冷えた体には心地よかった。浜さんがホットウイスキーを作ってくれ、三人でナヌカザメの誕生とそれを写真に撮れたことを祝して、乾杯した。
「ライトをなくしちゃって、ごめんなさい」とユッコが謝った。
「いいの、いいの。ライトの一つや二つ。命の代わりになったと思ったら安いもんや」
 浩平はログブックのバディのサイン欄にユッコの名前を書いてもらった。バディの欄はずっと空白が続いていたが、久しぶりに名前が入った。大貫祐子といくらか角張った文字が記されていた。
「インストラクターサインならお手のもんなんだけど」
 とユッコが言ったので、インストラクターのサインも書いてもらった。YUKOとかろうじて読める崩した字で、インストラクターの番号が入っていた。
 フイルムを現像したらプリントして送るということで、住所も書いてもらった。
「ただし、これは実家。来年の一月十二日からはメキシコのコスメルになるから、送るのなら早いうちよ」
 浜さんに名古屋方面の列車の時刻を調べてもらい、三十分前に店を出た。すでに外は真っ暗で、風だけが相変わらず吹いていた。
 串本駅は人影もまばらでがらんとしていた。浩平が名古屋までの切符を買おうとすると、「そんなこと、いいわよ」とユッコが押しとどめた。
「きょう潜ったお陰で踏ん切りがついたんだから、感謝するのは私の方よ」
「………」
「私ね、ずっと迷っていたのよ。本当にメキシコに行くかどうか。ハワイじゃ日本人のダイバーもいっぱい来るし、日本食もあるし、居心地がよかったのよ。それがコスメルじゃ周りはアメリカ人かメキシコ人。スペイン語も覚えなきゃならないし、食べ物も違うでしょ。カリブ海を潜りたいというそれだけで、やっていけるのか不安だったの。でもきょうあのサメの誕生を見たでしょ。そうしたらそんな不安なんて嘘みたいに吹っ飛んじゃって。あんな弱々しい稚魚がたった一匹で海の中を行くんでしょ。暗い海の中に消えていくのを見ていると、涙が出そうになったわ」
 ユッコの言葉は真っ直ぐ浩平の中に入っていった。彼女の気持ちがまるで自分の気持ちのように感じた。
 時間が来て、ユッコはメッシュバッグを肩から担ぎ、ボストンバッグを持って改札口を入った。
「私がいるうちに、一度コスメルに来てよね」
「メキシコは遠すぎて、とても無理やわ。休みが取れないから」
 ユッコは行きかけてまた戻ってきた。
「いいこと思いついたわ。プロのカメラマンになるのよ。そうして取材でいらっしゃいよ」
「ははは」
 ユッコはじゃあと手を振って、ホームの中に入っていった。
 浩平は車まで戻る途中、そういう手もあるかも知れないと思った。あの稚魚がひょっとしたら導いてくれるかも知れない、そんな予感に包まれながら、浩平はゆっくりとした足取りで歩いていった。



(注 「日経サイエンス」1993年2月号P60、61の中村宏治氏の記事と写真を参考にしました)

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