結末     津木林 洋



       家路

  男は手摺をつかみ、おぼつかない足取りでマンションの屋外階段を上っていった。それぞれの部屋の窓からは、夕餉の明かりが漏れていた。
 五階に着くと、男は立ち止まり深呼吸をして息を整えた。それからゆっくりといくぶん千鳥足気味に、廊下を進んでいく。
 七つ目の部屋の前で止まると、片手をドアにつけもう一方の手でズボンのポケットを探る。キーホルダーを引っ張り出し、その中の一つを鍵穴に差し込もうとする。しかし入らない。男は首を傾げ、もう一度試みるが、駄目だった。男は他の二つの鍵も試してみたが、鍵穴に合うのはなかった。
 男はキーホルダーをポケットにしまうと、いきなりドアを叩き始めた。
「ミサエ、開けろ。おれだ」
 そしてチャイムを何回も押す。
 しばらくしてチェーンが掛かったまま、ドアが薄く開く。玄関の明かりが外に漏れた。
「どちらさまですか」と女の声。
「何言ってるんだ、おれだ、おれだよ」
 女は男の顔をじっと見た後、「ゴトウさん?」と声を掛けた。男はいきなり自分の名前が呼ばれたので、返事に詰まってしまった。
「いやだ、ゴトウさん。ゴトウさんの家はここじゃありませんよ。二週間前にここを引っ越されたでしょ」
 男は思い出した。女はマンションを売った相手で、自分は郊外に新築一戸建てを買ったことを。男は酔っていたものでと弁解しながら平謝りにあやまり、大急ぎでその場を離れた。酔いもすっかり覚めていた。
 男の新築の家はそこからさらに電車で四十分ほど行かなければならなかった。
 新興住宅地で、所々にまだ空き地が残っていた。街灯もあまりなく、男は暗がりの道を背を丸めて歩いた。駅から十五分かかってやっと自宅にたどり着く。
 しかし自宅には明かりがついていなかった。門の明かりもついていない。男は門扉を開けて中に入り、暗さに閉口しながらキーホルダーから一つの鍵を選ぶ。それが鍵穴に入って、男は安心した。回すと錠の開く手応えがある。
 玄関に入って奥を覗いても、明かりのついている様子もなく、真っ暗だった。
「ミサエのやつ、何してるんだ」
 男は呟きながら靴を脱ぐと、玄関の明かりをつけた。その明かりを頼りに廊下を行き、まずダイニングキッチンを覗いた。明かりをつけても、誰もいない。隣の居間にも誰もいない。
「ユウイチもキョウコもどこへ行ったんだ」
 男は一階のすべての場所、トイレから風呂場まで明かりをつけて見て回った。どこにも家族の姿はなかった。
 男は階段を上がり、夫婦の寝室の明かりをつけた。ベッドの横にパジャマ姿の女がうつ伏せに倒れていた。長い髪が乱れ、赤黒い血溜まりに毛先が沈んでいる。
「ミサエ……」
 男は子供部屋に向かった。ユウイチの部屋のドアは半開きになっており、中に入って明かりをつけると、ベッドの上で頭から血を流して横たわっている子供の姿が目に入った。
 男は急いで隣の子供部屋に入った。そこでも頭を割られて死んでいるキョウコの姿を目にした。
 男はすべてを思い出し、にやりと笑った。
 一階に降りると、キッチンの裏の庭に置いてあったポリタンクを運び、その中の灯油をキッチンから居間にかけてぶちまけた。そしてそれが家というものに充分染み込むのを待つかのように数呼吸おいてから、百円ライターで火をつけた。火は布製のソファーの上を走り、黒い煙を上げ始めた。
 男はゆっくりと廊下を行き、靴を履いて外に出た。帰ってきたときと違って、玄関にも門にも明かりがついていた。
 男は向かいの空き地に腰を降ろして、自分の家を眺めた。火はまだ外には出ておらず、よく見ると煙が漏れているのがわかった。
 しばらくして、爆発音がして窓から勢いよく炎が吹き出てきた。「火事だわ」悲鳴に近い女の声が聞こえてきた。男は立ち上がった。近所から出てきた人々が燃えている男の家に向かうのとは反対に、男は駅に向かって歩き始めた。


          吐物

  女がシャワーを浴びてくつろいでいると、突然チャイムが鳴る。時計を見ると、十一時を回っている。女は一瞬きょうは男の来る日だったかと曜日を思い浮べ、そうではないことを確認する。チャイムが再び鳴り、息を殺していると、今度はドアを激しく叩く音がする。女は濡れた髪をバスタオルで手早く包み、ソファーから立上がる。玄関まで行く間もドアを叩く音が続き、女は恐くなって居留守を使おうかという気になる。
 玄関の明りはつけずに、そおっとドアスコープから外を覗くと、男の顔が見え、女はほっとしてチェーンをはずす。ドアを叩く音が止み、女が錠をはずして開けようとすると、男によってドアが勢いよく開けられる。
 男は突進するように中に入ってき、ドアを思いきり閉める。
「どうしたのよ」
「どうしたもこうしたもあるか」
 男の顔が赤黒い。
「酔ってるのね」
「うるさい」
「夜遅く来るのは構わないけど、静かにしてちょうだい。ドアも静かに閉めてね。近所迷惑でしょ」
「何をぬかしやがる。いいか、よく聞け。おまえなんかに俺の家庭を滅茶苦茶にされてたまるか」
「何のことよ」
「何のことだと」
 男は右手で女の顎を締付ける。あまりの痛さに女は悲鳴を上げ、両手で男の手を振り解く。男の手がはずれた後も、女は口を開けたまま両掌を頬に当てる。口の中が切れたのではないかと思う。
「何をするのよ」
「うるさい。よくも娘に余計なことをしやがったな。この最低の女め」
 男は女の胸を突く。女はバランスを失って尻餅をつき、その拍子に髪を包んでいたバスタオルがはずれる。女はバスローブの裾を直しながら立上がり、「何だ、そんなことだったの」と言う。
「ばかやろう。そんなこととはどういう言いぐさだ」
「あなたが娘自慢をするから、どういう子か見ただけじゃないの」
「そのおかげで離婚騒ぎだ。自分のやったことがどういうことかわかってるのか」
 男が土足で上がってくる。女がきれいに磨き上げた床に。女の体が震え、頭に血が上ってくるのがわかる。
「靴、脱いでよ」女が男の足許を指さしても、男は無視して近づいてくる。
「どういうことかわかってるのか」
「わかっているわよ」と女は叫ぶ。「あなたのかわいい娘に、真実を教えてやったのよ。世の中の真実をね」
「何だと」
 男は醜い顔をしている。男がこんな表情を持っていることに女はぞっとする。
「出て行ってよ。さっさと出て行って」
 男が唸り声を上げながら女の頚を両手で絞めにかかり、女は首を振って、男の手首をつかむ。
「死ね、おまえなんか死んでしまえ」
 男は女を壁に押しつける。男の指が喉に食込み、息ができない。顔面が熱く、ふくれあがり、目の前が暗くなる。そのとき胸の奥から何かが突上げてきて女の体は痙攣する。男が頚から手を離し、女はずり落ちて床に寝そべる。同時に口から吐物が出てきて、その臭いで再び嘔吐が起こる。女はまるで死体のように体のなすがままにしている。床につけた頬が冷たくて気持がいい。口から溢れた吐物が床を汚すのを女はぼんやりと見ている。
 男が女の肩を足先でこづき、女が生きている反応を見せると、「自業自得だ。いいか、二度と俺の家族に近づくな。わかったな」と言う。女がじっとしていると、今度はバスローブの裾を足先でめくり、下腹部を踏みつける。靴底の堅い感覚がある。
「おまえなんかここだけだ。わかったか」男はそう言うと、もう一度力を入れて踏み、それから足をはずす。
 女がなおもじっとしていると、男は靴を脱ぎ始める。
「ここじゃ汚いな」
 そう呟くと、男は女の両足首をつかんで、居間の方に引きずっていく。そしてフローリングの上に敷いた絨毯に女の体を投げ出すと、バスローブの前を開き、ショーツを引き下げる。女はなすがままになっている。
 男は上着とズボンとパンツを脱ぎ、女の体に被さってくる。ふたつの乳房をつかみ、下腹部を荒々しく触り、それから女の両脚を広げて侵入してくる。
 男は一人で果てると、急に酔いが回ってきたのかぐったりとする。女は男の体を押しのけ、バスローブの前を合わせて立ち上がる。
「どこへ行く」
「トイレ」
 女はバスルームに入り、タオルの入った引き出しの奥から銀色の拳銃を取り出す。借金のかたにもらったときからライターみたいだと思っていたが、今でも本物だとは思えない。重みだけはそれらしく手にずっしりとくるが。
 女は拳銃を後ろに隠して、居間に戻る。男はパンツもはかずワイシャツにネクタイ姿でソファーに座っている。女は近寄っていき、拳銃を前に出すと、引き金を引く。乾いた発射音がして、男の胸に赤い点がつく。男は胸を押さえ、びっくりしたような目で女を見る。
 女はその目に向かってもう一度撃ち、がくっと垂れた頭にもう一発打ち込む。
 男が完全に動かないことを確認してから、女は拳銃を放り出し、精液を洗い流すためにトイレに向かう。


         爆音

  午前一時。窓の外からオートバイの爆音が聞こえてきた。眠りに落ちかけていた男はその音でいきなり現実に引き戻された。また始まったと舌打ちして、男は窓を閉めた。これでもう十日間連続だった。
 男は枕に片方の耳を押しつけながら眠ろうとしたが、クーラーのない部屋は途端に暑くなってきて眠ることができない。爆音はしばらく窓の外を行ったり来たりしていたが、そのうち遠ざかっていった。男はほっとして窓を開けた。ひんやりとした空気が流れ込んでくる。汗の浮かんだ肌でその心地よさを感じながら、男はふうっと眠りに落ちかけた。
 そのとき、まるでその瞬間を見透かしたように爆音が戻ってきた。男の体は一瞬痙攣し、鼓動が速くなった。男は両手で耳をふさぎ、体を堅くした。
 爆音は男の気持を逆撫でするかのように、遠ざかっていくと見せかけては戻ってき、また遠ざかりということを繰り返して、やがて離れていく。今度は男も用心して耳をそばだて、爆音が戻ってくるのを待つ。しかしその前に睡魔が襲ってきて、男はうとうとしてしまう。
 そしてまた爆音が男を叩き起こした。男は目を見開き天井を一分ほど見詰めてから、起き上がった。
 男は玄関横に立てかけてあった金属バットを手にすると、裸足のまま外に出た。向かい側の別棟のマンションの窓はほとんど明かりが消えている。
 男はゆっくりと階段を降り、爆音の聞こえるほうに歩いていった。オートバイは棟と棟の間の空き地を走り回っているのだ。
 一階は吹き抜けになっており、男はコンクリートの柱に身を隠した。爆音が左から近づいてくる。男は柱の陰から覗き、運転している奴の顔を確かめようとしたが、ヘッドライトの明かりが眩しくて出来ない。オートバイは爆音を響かせながら男の前を通過していく。運転者はフルフェイスのヘルメットを被っている。音を誇示することが目的なのか速度は速くない。
 このまま遠ざかれば許してやろうと思いながら、男は柱の反対側に移った。
 しかし爆音は再び近づいてきた。男は金属バットを握り締めながらオートバイとの間合いを計り、ヘッドライトの明かりの先端が目の前に来たとき、その光の中に飛び出した。急ブレーキの音がし、ヘッドライトの明かりが男を避けるように曲がっていく。男は金属バットを振り上げ、ヘルメットめがけて水平に振った。
 手応えがあり、黒い服を着た運転者はオートバイから転落した。金属の擦れる音がし、オートバイは横倒しになった。
 運転者は呻いていたが、そのうち片手をついて起き上がろうとした。男は近づいていき、奴の脳天めがけて金属バットを振り下ろした。
「どうしたんですか」
 後ろで不意に声がした。男は驚いて振り返った。そこには同じようなパジャマ姿の男の人が立っていた。スリッパを履いている。
「いや、別に」と男は答えた。
「そいつですか」男の人は男の後ろに目をやりながら言った。
「ええ、まあ」
 男の人はしばらく黙って見ていたが、突然「それ貸して下さい」と言った。訳が分からず男が黙っていると、男の人は男の手からバットを取り、倒れている運転者に近寄って一撃を加えた。
「私にもやらせて下さい」別の声がした。
 男が振り返ると、いつの間にか大勢の男女が集まっていた。手にはゴルフクラブとか木刀とかバットを持っていた。
 彼らは運転者を取り囲み、黙々と一撃を加え続けた。その様子は、まるで原始人が狩猟で倒した動物を完全に葬るための儀式のように見えた。男が人々の間から覗くと、運転者の体はまるで手足をつけ損なった人形のように、奇妙にねじくれていた。


         遁走

  挨拶が続いていた。女はかつらの重みに耐えながら、いい加減にしてほしいわと思っていた。挨拶する人間はすべて隣にいる男の会社の上司と大学の恩師だった。女の方の関係者は誰も挨拶せず、というより挨拶するような関係者がいなかったのだ。この広いホールにいる二百人ほどの出席者のうち、女の方の関係者は死んだ両親の代わりとして来てくれた叔父夫婦を入れても二十人足らずだった。男の親からは、バランスが大事だからもう少しあなたの方の出席者を増やして下さいなと言われたが、いないものはどうしようもなかった。そんなにバランスが大事なら、そちらの人数を減らしたらどうですかと思わず口から出そうになって、女はあわてて口を噤んだのだった。
 挨拶が終り、ウェディングケーキにナイフを入れることになった。男はすべて本物のケーキを使いたがったが、そんなことをするくらいなら披露宴はしないと女が反対したため、入刀の部分だけが本物で、後は砂糖で固めたお仕着せのケーキにしたのだ。男はそのケーキに最後まで拘った。
「きみのために一生で一度の最高の思い出を作って上げようとしているのに、どうして反対するのかわからないな」
「たかがケーキに、二十万も三十万も出すのはもったいないでしょ」
 しかしそれは表向きで、本当は一つくらいこちらの言い分を通さなければ気持が収まらなかったからだった。
 二人で握ったナイフをケーキに入れたまま、カメラを持った客達の注文に応えて笑顔を向ける。男は調子に乗って手まで振っている。
 それが終ると、色直しだった。白無垢、金襴緞子、チャイナドレス、ウェディングドレスと着替えるのだった。
 最後のウェディングドレスに着替えたときは、さすがに疲れ切って、着付室のソファーでしばらく横になった。この恰好でキャンドルサービスをしなければならないと思うと、ぞっとした。
 着付室を出ると何だか息苦しくなり、係の人に「二分だけ外の空気を吸いに行かせて」と頼み、女は一人で式場の玄関に出た。
 秋のひんやりとした空気を二、三回吸込むと、ようやく気持が落着いてきた。それで女が戻ろうとしたとき、車寄せにオープンカーが入ってきた。ボーイの恰好をした男が運転しているから、式場の車なのだろう。ボーイは車から降りると、中に入っていった。
 女は近寄って、車を見た。外国の車らしく、左ハンドルだった。キーは付いたままだ。
 女は後ろを振返ってから、素早く車に乗込んだ。キーを回す。腹に響く低い音がして、エンジンがかかった。ゆっくりとアクセルを踏んで、車寄せから離れる。男に頼まれて取得した運転免許がこんなところで役に立つとは思わなかった。
 道路に出るとき、「おーい、待て」という叫び声がしたが、女は無視して車の流れの中に入っていった。
 始めは式場の周りを一周して帰るつもりだったが、途中で気が変わった。いや、そうではなかった。一周して帰るつもりだったというのはただの言訳で、車に乗ったときから帰るつもりなどなかったことに気づいたのだった。
 ウェディングドレスで運転していることが珍しいらしく、信号待ちのとき周りからじろじろと見られた。横に新郎の姿が見えないから余計に奇妙に見えるでしょうねと思うと、女は急におかしくなって笑い声を上げた。
 今ごろ披露宴会場は大騒ぎねと女は呟いた。肩に乗っていた重い荷物を放り投げた爽快感があった。
 女は高速道路に乗りたかったが、金がなかったので一般道路を走った。ガソリンの尽きるところまで走って、そこで車を放棄するつもりだった。
 女は山の中に入っていった。以前別の男とドライブした道を思い出したのだった。確かダムと人工湖があるはずだった。
 標識をたどって人工湖に着いたときには、日も暮れかかっていた。山の端が赤く染まり、湖面に夕陽が映っていた。この景色を見るためにここまで来たような気持になっていた。
 燃料計を見ると、Eを指していた。どうしようと女は呟いた。やるか。
 女は車を曲り角の向こうまで戻した。ガードレールはない。女は一つ深呼吸をすると、アクセルを徐々に踏んでいった。車が加速する。ハンドルを握り締めながら、アクセルを最後まで踏込んだ。曲り角が迫ってくる。ベールが飛んだ。
 赤い空を見詰めながら、車が空を飛んだ瞬間、女は両手を高く差上げた。


          風邪

  女は風邪を引いていた。男は仕事から帰ると、二人分の夕食を作った。女はガウンを羽織ってベッドから降りてきた。男は寒いといけないからと、パジャマの上から綿入れのズボンをはかせた。
 女は椅子に腰を降ろすと、テーブルに並んだ料理を見て、「わあ」と声を漏らした。
 今まで自分のために食事を作ったことはあっても、人のために作ったことなど一度もなかったので、男は女の反応が気になった。
 女は豚肉で取ったスープを一口飲むと、「あら、おいしい」と言った。上目遣いで見ていた男は、その言葉を聞いて少し満足した。
 夕食がほとんど終りかけたころ、チャイムが鳴った。男は知らん顔をして残りを片づけようとしたが、すぐにドアを叩く音が続いた。かなり強く叩いている。
 女が立上がりかけるのを制して、男は玄関に行った。ドアを小さく開けると、見知らぬ男たちの顔が並んでいる。
「何かご用ですか」
 それには誰も答えず、真ん中の髭の濃い男がドアを大きく開けた。ノブを握っていた男は引張られてその男とぶつかりそうになった。他の男たちは首を伸して部屋の奥を覗いている。
 髭の濃い男は男の耳許に口を寄せると、「ミゾグチエリコがいるでしょう」と低い声で言った。
「そんな者、いませんよ。……一体、あんたがた誰なの」
 男は思わず大きな声を出した。
「いや、これは失礼」髭の濃い男は内ポケットから黒っぽいものを取出して男に見せた。警察手帳という字が読めた。
「刑事さん?」
「そう」
「刑事さんが一体何の用ですか」
「だからさっき言ったようにミゾグチエリコを探しているんですよ」
「そんな人、いませんよ」
「女の人がいるでしょう」
「……ええ」
「ちょっと上がらしてもらいますよ」
 男の返事を待たずに、男たちは靴を脱いで上がっていった。男も後に続いた。
 女は先ほどと変わらず料理の残りを食べていた。髭の濃い男がポケットから紙切れを取出して広げた。
「ミゾグチエリコだな。殺人容疑で逮捕する」
 女はそばに誰もいないかのように黙々と箸を動かしている。二人の男が両側から女の腕を抱え、立上がらせた。
「その恰好じゃまずいだろう。着替えてきなさい」
 刑事がそう言うと、女は「はい」と素直に返事をした。男は呆然とその様子を見ている。
 女は隣の部屋に入って襖を閉めた。
「彼女、本当にそのミゾグチエリコって人なんですか」
 男は刑事に訊いた。
「本人が認めてるだろう」
「それで何をしたんですか」
「あんた、ニュース見たことないの」
「ええ」
「旦那に保険金を掛けて殺したんだよ。それも二回」
「二回?」
「前の夫と今度のと。男はどうしてあの手の女に弱いのかねえ」
 女がコート姿で出てきた。ちゃんと化粧をしている。若い刑事が彼女に手錠をかけ、腕をつかんだ。
 玄関から出るとき、男は刑事に「彼女、風邪を引いてますから」と声をかけた。
「風邪? ああ、わかった」
 女が振返り、小さく笑った。男は思わず頭を下げた。
 誰もいなくなってしまうと、急に部屋の中が静かになった。テーブルの上には汚れた食器がある。しかし男は片づける気にもなれなかった。静かすぎるのでテレビをつけたが、画面は見ずにソファーに横になった。
 しばらくたって、男は立ち上がり食後の後片づけを始めた。そのとき生命保険のことを思い出した。一ヵ月ほど前、老後のことを考えて養老特約付の生命保険に入ったらと女が勧めたのだ。男は深く考えもせずに女の差出した書類に署名したのだった。
 男は洋服ダンスの中の女の持物を片っ端から調べて、生命保険会社からの大きな封筒を見つけた。しかしすぐには中を見ることができない。
 男は封筒をソファーの上に置いて、再び後片づけを始めた。流しで食器を洗いながら、男はときどき後ろを振返ってソファーを見る。
 何度振返っても、封筒は消えずにそこにある。

 

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