昼休みが終って自分の机の前に腰を降ろしたとき、電話が鳴った。課長が受話器を取り、何か訊き直してから「島田くん、電話」と言った。祐二はすぐそばの電話の受話器を取り、赤ランプの点滅しているボタンを押した。ボタンは緑色に変る。
「はい、替りました」
「もしもし、島田祐二さんですか」聞き覚えのない男の声がした。
「はい、そうですが」
「奥さんの名前は、確か島田明美さんですね。明るいという字に美しいと書く……」
突然妻の名前が出てきて、祐二は警戒する気持になった。
「それがどうか……」
「間違いないですね」
相手が名乗らないことに、いくぶんいらだちながら、「間違いないですけど、お宅はどなたです」と祐二は強く言った。
「いやあ、これは失礼しました」相手の声の調子が急に変った。「私はM警察署の警部で飯野と言いますが、いいですか、これから私が言うことを落着いて聞いてくださいよ」
祐二は受話器を握り直し、課長に背を向けた。
「女房がどうかしたんですか」真っ先に祐二の頭に浮かんだのは、交通事故だった。
「実はお宅の奥さんが背中を刺されまして、病院に運ばれたんです。医者の話によりますと、重傷だが命に別状はないとのことで」
刺された? 祐二は言葉に詰った。
「命に別状はないから、心配いりませんよ」と相手は繰返した。
「どういうことですか」
「詳しいことは病院に来てもらったときにお話しますので、至急お越し願いますか」
祐二は承諾し、病院の名前と場所を教えてもらった。場所が自分の住んでいるところとかけ離れていることに、祐二は奇妙な感じを覚えたが、救急病院のせいかと考えて納得した。
受話器を置くと、祐二は課長の机の前に行った。同僚たちが怪訝な表情で自分を見ているのがわかる。
「ちょっと早引きさせてもらってもいいでしょうか」
「奥さん、どうかしたの」と課長が言う。
「交通事故に遭ったらしいので」とっさに祐二は嘘をついた。
「え?」
「命には別状ないらしいんですが、入院したものですから」
「そうか、わかった。すぐ行ってあげなさい」
祐二は同僚たちに手を上げて挨拶をし、ロッカー室に行って着替えをした。
会社の前でタクシーを拾い、運転手に病院名と住所を告げると、祐二はシートに体を預けて目を閉じた。刺されたという言葉が頭の中を巡っていた。強盗にやられたのかと考えてみるが、明美は人が来てもドアチェーン越しに相手をするほど用心深い性格だし、ましてや鍵もかけないで外出するはずがないから、空巣が居直ったということも考えられない。祐二は先ほどの電話での応対を反芻し、警部の所轄がM警察であることを思い出した。M警察は祐二の住んでいるところとは全く離れている。むしろこれから向う病院に近い。祐二は、それでは通り魔かと考え直す。妻の予定を今までいちいち聞いたことがないし、帰宅すれば必ず家にいたので何となく一日中家にいるような気がしていたが、たまには都心のデパートに買物に行くこともあるだろう。そこで通り魔にあったとして、どうして警部がそのことを言わないのか。変に言葉を濁すから、こちらもおかしくなって、課長に嘘をつく羽目になってしまったと祐二は顔をしかめた。通り魔ではないとしたら……、まさか知合いに刺されたなんてことは。もしそうだとすると、相手は男? 祐二は首を振った。妻が他の男と一緒にいる場面を想像することなどできなかった。日頃の生活から妻に他の男の匂いを感じたことなどなかったし、そういう雰囲気をまるで持っていなかったから。
病院はかなり大きな建物で、祐二は警部に言われたように救急病棟を探して中に入った。受付で名前を言うと、事務員が奥に向って、「警部さん、お見えになりましたよ」と叫んだ。ひとりの男が横の扉の方に歩いていくのが見える。出てきたのは四十過ぎの太った男で、祐二を見ると、片手を上げ、軽く頭を下げた。
「先ほど電話をした飯野です。突然でびっくりされたでしょう」
「ええ」
「奥さんは五階ですから、行きましょうか」
警部が先に行き、祐二は後からついていった。エレベーターに乗ったところで、警部が祐二の仕事のことや家庭のことを訊いてくる。祐二の会社が週休二日制だとわかると、「いいですなあ、大企業は。私らなんか事件が入ると休みもくそもないですからな」と警部は笑った。雑談と言えば言えなくもないが、少し引っかかるところが祐二にはある。そんなことより、刺されたというのはどういうことか尋ねようとしたとき、エレベーターのドアが開いた。
警部の後についていき、ガラス張りの部屋の前に来たとき、警部が立ち止って中を指さした。
「あれが奥さんですよ」
祐二はガラスに目を近づけて中を見た。四つのベッドすべてに人間が横たわっており、点滴やら酸素マスクなどの管をいっぱいつけている。髪の毛の感じから、あれかなと思って見ていると、警部が「右の奥ですよ」と反対側のベッドを教えてくれた。酸素マスクをしているため、ここからではあれが妻なのかどうかわからない。
「どこから入るんですか」と祐二が言うと、
「ここは集中治療室だから、簡単には入れませんよ」と警部が答えた。「まず先生に話を聞きましょう」
集中治療室の隣が看護婦詰所だった。そこで妻の担当医から話を聞いた。妻は鋭利なナイフで右背中を刺されており、傷は肺にまで達しているということだった。ただ幸いなことに太い血管を傷つけていないため、順調に行けば、三週間ほどで退院できると医者は言った。祐二はよろしくお願いしますと頭を下げて、詰め所を出た。看護婦が中に入られますかと訊いたので、祐二は承諾し、彼女の指示でスリッパに履きかえた。そして薄青色のガウンのような服を着、紙のマスクをして中に入った。
妻は鼻と口を覆うプラスチックのマスクをして眠っていた。鎮痛剤が効いているということらしかった。マスクには壁から管がつながっており、壁際の機械の画面には規則的な波形が映し出されている。妻は深緑色の簡単服を着ており、胸の下辺から管が出てベッドの向こう側に降りていた。腕には点滴のための管がつながれ、ベッドの横には液体の入ったビニール袋がぶら下げられている。祐二はそれを見て少し間を置いてから、尿かと納得した。妻は全く動かないために、死んでいるように見えた。祐二はしばらく顔から目を離さずにいて、妻が顔をしかめるのを認めると、ほっとしてその場を離れた。
集中治療室を出ると、警部が近づいてきた。
「奥さん、どうでしたか」
「眠ってました」
「まだ薬が効いているみたいですな。目を覚すのは明日になるかな」
警部は終りのほうを独り言みたいに呟いた。
「一体何があったんですか」祐二は思い切って訊いてみた。警部は首を一つ縦に振ってから、左右に目をやり、「ここじゃなんですから、屋上に出ましょうか」と言った。その答え方に、祐二は急に動悸を感じ始めた。
エレベーターに乗って最上階まで行き、階段を使って屋上に出る。屋上は日が射して白く光っており、物干し場にはタオルや浴衣などが風に揺れていた。警部は祐二を物干し場とは反対の端に誘い、手摺に両腕をもたせかけた。
「島田さん、きょうは朝からずっと会社のほうで……」
「ええ、そうですが」
「営業か何かで外に出られたことは」
「私は営業ではありませんから」
「そうですな。さっき伺いましたな」
警部は一人で納得するように、小さくうなずいた。祐二は体を固くして、次の言葉を待った。
「ご主人にこんなことを申上げにくいんですが、実は奥さんが刺されたのはホテルの部屋でして」
「ホテル?」
「それもラブホテルの……」
祐二は肩から力が抜けていくのを感じた。
「……それで相手の男は?」何か言わなければいけない気がして、とっさに口にした。警部は口許に笑いを浮かべて、「その男をわれわれも追っているんですよ」と答えた。
「歳は四十前後、背は百七十センチぐらいで、割とがっちりした男らしいんですが、心当りはありませんか」
少し考えてから「ありません」と祐二は答えた。答えてから、自分も疑われていることに祐二はようやく気がついたのだが、そのとき警部が意外なことを言ったのである。
「奥さんはどうも売春をしていたみたいですな」
「え?」祐二は警部の顔を見詰めた。警部の顔はほとんど無表情だが、有無を言わせない力がある。
「どうしてそんなことを言うんですか」祐二は自分でも声が震えるのがわかった。
「ホテルの従業員の証言もそれを裏付けますよ。奥さんは常連客で、毎回相手が違うということで、従業員の間でも評判らしかったですから」
酸素マスクをつけて眠っている妻の顔が脳裡に浮かんだ。あの顔と警部の言う「奥さん」が祐二の中でどうしても結びつかない。
「何かの間違いということは……」
「ないですな」
「どうしてそんなことをしたのか……」
「心当りはありませんか」
「あるわけないでしょう」
祐二は思わず大きな声を出した。警部は苦笑して、二、三度うなずいた。
「主婦売春は生活費を稼ぐのが目的というのが多いですからな。だんなが黙認というケースもままありまして」
「私が黙認していたと言うんですか」
「いやいや、そういうわけでは。ただこちらとしては、奥さんの売春の背後関係を知りたいわけです。何らかの組織があれば、その線から奥さんを刺した犯人に近づけるわけですからな。心当りと言うのは、そういう意味ですよ」
祐二は気持を落着けて、少し考えてから「全然心当りがありません」と答えた。
「妙な電話がかかってきた、なんてことは」
「ありません」
警部は考えごとをするかのように口を閉じ、しばらくしてから言った。
「ところでアダムス英語学院というのをご存知ですか」
「知りません」
「奥さんはそこに通われていたんですけどな」
祐二は首を振った。
「奥さんの身元がわかったのも、そこのカードを持っていたからでして、でなければ簡単にはわからなかったところですよ。その英会話学校は調べたところちゃんとした学校らしいんですが、これが授業料が高いんですな。話を聞いて驚きました。フリーレッスン制と言うんですか、ワンレッスン一時間四千円もするんですよ。奥さんはそれを百レッスン分、つまり四十万を前払いされていて、もう半年ほど通われているんです。きょうも九時からワンレッスン受けて、それが終ってからホテルに直行されてるんですよ。時間的に見て、どこかで客をつかまえてホテルに行くというのは無理ですから、あらかじめ連絡があったと考えるのが自然ですな。ということは後ろに何らかの組織があるということになりますな」
祐二は生返事をしながら、四十万という金のことを考えていた。マンションのローンの支払いに追われて、そんな金が家にあるとは思えなかった。半年前というのは別にボーナス時期でもないし、たとえそうであっても右から左へと流れてしまうはずだ。ということはその金は売春で稼いだものなのか。
「女房はいつごろから、その、売春をしていたんですか」
祐二が訊くと、警部はえっという顔をし、口許を緩めながら「ホテルの従業員の話では、かなり前かららしいけど、まあ詳しいことは奥さんが快復してから訊けば、はっきりしますよ」と答えた。
「取調べがあるんですか」
「一応売春容疑ですからな」
「そうですか」
「まあ私どもとしては、奥さんの売春容疑よりも売春組織の摘発が狙いですから、そう心配されることはないと思いますよ」
「よろしくお願いします」
祐二は頭を下げた。警部は腕時計に目をやり、「私はこれで署の方に帰りますが、何かありましたらここに電話して下さい」と言って、内ポケットから名刺を取出して祐二に手渡した。祐二は名刺を手にしながら、離れていく警部の背中に向って、もう一度「よろしくお願いします」と頭を下げた。
受付で入院の手続をしたが、祐二は事務員の顔をまともに見ることができなかった。誰もが自分を見ているような気がし、脇の下に汗を感じながら書類に文字を記入した。手続を終えて、祐二はもう一度五階に行った。集中治療室のガラス壁に手をつけて、中を見る。看護婦が点滴のビンを調べ、妻の手首を取って脈を調べている。交通事故だったらどんなによかったかと祐二は思った。
帰りの地下鉄の中で、祐二は「なぜだ」という言葉を繰返した。思い当ることといえば結婚してすぐの流産以外になかった。妻はかなり気落ちした様子を見せ、「この次は気をつけたらいいんだから」と祐二が慰めても、なかなか立直れなかった。二、三ヶ月は腫物でも触るように妻を扱ったが、それも二年以上も前の話で、それが関係しているとは祐二は思いたくなかった。ただ、あのとき子供が生れていたら、こんなことにはならなかっただろうという思いがある。
マンションに帰ったのは、午後四時前だった。平日のこんな時間に帰宅することなどなかったので、祐二はいくぶん戸惑いながらドアを開けた。部屋の中は物音ひとつせず、祐二はその静かさに気圧されるように遠慮がちに靴を脱いだ。どこか他人の家に上がり込んでいるような気がした。祐二は自分の家であることを目で一つひとつ確認しながら、部屋を順番に見て回り、どこもきちんとなっていることにひとまず安心した。妻の部屋のベランダには洗濯物が干してあり、それを目にしたとき、祐二は不意に涙ぐみそうになった。
祐二は背広をジャージーの上下に着替え、両隣のベランダに誰もいないことを確認してから洗濯物を取込んだ。下着、靴下、バスタオル、パジャマ、カッターシャツ。妻のパンティだけを、祐二は別に置いた。それを見ていると、なぜだという疑問がまた湧いてきた。流産が原因ではないとすると、金が欲しかったからなのか。それも英会話を習うための。そりゃあ、俺の給料じゃ贅沢はできないが、人並の生活はできるはずだ。何のために英会話を習わなきゃならないんだ。祐二はそのとき、そういえばそういうことを妻が言っていたことを思い出した。一年ほど前のことだった。
食事が終って安楽椅子で夕刊を読んでいると、妻が一枚のチラシを持ってきた。
「ねえねえ、見て」
それは英会話学校の開講の案内だった。
「これがどうしたんだ」祐二はわざとそっけなく言った。
「近いでしょう」妻は案内図のところを指さした。確かに近くて、ここから歩いて十分くらいで行けそうだった。
「行くつもりなのか」
「でも高いのがちょっと……」
料金の欄に一時間四千円とあるのをちらっと見ただけで、祐二はチラシを妻に返した。
「どうして英会話なんか習いたいんだ」
「私、中学校のころから習いたいなあって思ってたんだけど、チャンスがなくって」
「だからどうして習いたいの」
妻は一瞬黙って、チラシに目を落しながら、「だって海外旅行なんかに行ったとき、便利じゃない?」と答える。
「英語なんか知らなくても、行けるよ」
「でも英語を話せたほうが楽しいじゃない」
「英会話を習う金があったら、海外旅行したほうがよっぽどいいよ」
「だったら、海外旅行に連れてってよ。新婚旅行で行くって言ってて、結局忙しいからパア。九州をちょっと回っただけ。それ以来二人で旅行したこともないんだから」
「そんなこと言ったって、先立つものがないんだから、仕方がないだろう」
「だったら私が働くわ」
「子供ができたらどうするんだ」
「子供なんか当分できないわよ」
「じゃあ勝手にしろ」
祐二は再び夕刊を広げた。しばらくして祐二の耳に、食器のこすれ合う音が聞えてきた。
子供なんか当分できないわよと言った妻の言葉は本当だった。あれから一年たった今に至るまで、妊娠の兆候は全くなかったのだから。しかしと祐二はパンティを丸めながら思った。ひょっとしたら妊娠したことがあったのに、おれに黙って中絶したのかもしれない。それも全く見知らぬ男の子供を宿して。祐二は自分の想像に馬鹿ばかしくなって笑おうとしたが、うまくいかなかった。他の男の子供という思いつきが急に現実感を持って迫ってきたからだった。
祐二はパンティを放り投げ、押入を開けた。そこには妻の使っている小物入れがある。祐二は上から順番に開けていった。別に何かを見つけようという意識はなかったが、何かが見つかるかもしれないという気持はあった。いつから妻があんなことをやっていたのかを知りたかったし、それがわかれば原因がつかめると祐二は思った。
引出しの中にはイヤリングやブローチ、髪飾りなどがあるだけだった。探しているうちに祐二は、手帳だと気がついた。今まで妻が手帳を使っているところなど見たこともなかったが、ああいうことをしていた限り絶対に使っていたと祐二は確信した。探すものがわかると、祐二の手は急に速く動き始めた。衣装箱とか紙袋の類は全部押入から放り出して、中を調べた。部屋の中が散らかっていく。しかし途中で、手帳なら妻の持っていたバッグの中だと気づいて、また手が遅くなった。警察に電話をして手帳の中身を教えてもらおうかと考えながら、半ば惰性で手を動かしていたとき、臙脂色の手文庫を見つけた。開けると、中には手紙が入っており、祐二は動悸を覚えた。自分宛の手紙は全部自分で保管しているから、ここにあるのはすべて妻宛のものだ。それにしては多いと思いながら、祐二は中身を畳の上にぶちあけた。その中から自分の知らない男が差出人の手紙を探した。最初に見つけたのは、伊藤広俊という名前で、祐二は真っ先に消印を見た。その日付は妻と結婚する二年ほど前になっており、祐二は少しほっとした。二年前なら関係ないかと思いながらも、中身を見たいという誘惑に祐二は勝てない。
「電話にも出ないとはどういうわけですか。明美はいつからそんな冷たい女になってしまったのですか。ぼくは何度明美のところに押しかけようかと思ったか知れません。しかしお互いのところを訪問しあわないようにしようという最初の約束をかろうじて守って、こうして手紙を書いています。思えば下らない約束をしたものです。自分のエゴから言出したことが自分の首を絞めるなんて。あのころは自分がこんな気持になるなんて思ってもみなかった。ごく軽い気持で、本当に軽い気持で、こんなことを言うと明美は怒るかも知れませんが、それなのに今は明美に会えないといらいらして仕事も手につきません。明美の顔、明美の体が目の前にちらついて、机の前でぼおっとしてしまう始末です。ぼくがこんなに明美のことを思っているのに、明美はぼくのことをなんとも思っていないのですか。そんなはずはないでしょう。ぼくの胸で泣き、ぼくの胸で笑い、ぼくの胸で眠った明美がぼくから離れていくはずはありません。どうか連絡を下さい。いつものように電話サービスを利用して。こういう関係に疲れたのなら、そのことについてもじっくりと話し合いたいと思います。本当に申訳ないと思っています」
祐二は怒りとも恥ずかしさとも知れない気持で、体が熱くなるのを感じた。いったん手紙を封筒に戻したが、こういう関係とはどういう関係なんだと思い、もう一度取出して素早く読んだ。不倫に違いないと祐二は確信した。他に伊藤広俊からの手紙を捜すと、四通あった。どの手紙の日付も先ほどのより以前のもので、一番古いのを祐二は封筒から出した。これが最初だとすると、妻とこの男との関係は二年間ほど続いたことになると祐二は考える。
手紙は初めて二人で温泉に行ったときのことを、まるで後戯をするみたいに微細に書き綴ってあり、祐二は途中から読み飛ばした。最後のところに「この手紙をどこで書いているかわかりますか。当ててご覧なさい。……家ですよ、ぼくの家。隣の部屋では女房が寝ています。仕事だと嘘をついて、この手紙を書いているのです。こうしておけば、女房の相手をしなくてもすみますからね。温泉もよかったけど、今度はドライブに行きましょう。絶対に」
これではっきりしたと思いながら、祐二は手紙をしまった。もう他の手紙を読む気にはなれない。散らかった手紙を集めて手文庫に戻した。妻が見ても気づかないように、古い順番に収めたほうがいいだろうかと思いながらも、祐二は表裏も関係なく放り込んだ。
押入から出したものを元に戻し、祐二は洗濯ものを片付けようとパジャマから畳み始めたが、馬鹿ばかしくなってやめた。どうして洗濯物なんか取込んだんだ、放っておけばよかったんだと自分に腹を立てた。祐二は胡座をかいて洗濯物を眺めながら、伊藤という男のことを考えた。妻の過去について祐二は何も知らなかった。というより何も訊かずに今まで過してきたのだ。妻と初めて寝たとき、処女ではないのがわかったから過去に男と交渉があったことを知ったが、それを詮索しようという気はなかった。しかしそれが不倫であったとは。
祐二はそのとき、ある疑問が浮かんでまさかと思った。妻とは友達の紹介で知合って結婚したのだが、それは伊藤という男から逃れる手段だったのではないかという疑いだ。知合ってから結婚まで四カ月しかなかったことも、今にして思えば変な気がする。あのときは妻が、二十八歳の誕生日が来る前にどうしても結婚したいと言ったので、祐二は承諾したのだった。女というのは変なところにこだわるのだなと、そのときは思っただけだったが。
結婚すると決めた後、妻の両親のところに挨拶に行ったのだが、非常に丁重にもてなされたことを祐二は覚えている。両親は仕事のことも収入のことも訊かずに、ただ娘をよろしくお願いしますと頭を下げた。祐二は当惑したが、それは婚期の遅れた娘がやっと片付くうれしさのせいだと理解した。だがそれも両親が娘と伊藤という男の関係に困り果てた末での、ほっと肩の荷を降ろす気持の表れだと見るほうがむしろ自然な気がする。結婚して四年たった今はさすがに間遠になったが、当初は一週間おきくらいに実家から電話が掛かってきた。そのことにも祐二は今引っかかるものを感じる。まさか自分のいるときに、伊藤という男のことを尋ねていたことはないと思うが、自分がいないときはどうだかわからない。
伊藤との関係は結婚後も続いていたのだろうかと祐二は考える。そしてきょう妻を刺した男はその伊藤ではないのか。妻の売春というのはホテルの従業員や警部の勘違いで、実は妻の相手はいつも伊藤ではなかったのか。むしろそのほうが祐二には納得ができ、そうであって欲しいとさえ思う。まさかあの結婚直後の妊娠も伊藤との関係の結果で、流産にあれほど落胆の色を見せたのも、伊藤の子供だったからではないか。
考えるのに疲れて、祐二は仰向けになった。天井が蛍光灯の光を受けて、妙に白っぽく見える。隅に蜘蛛の巣が見え、祐二は何か引っかかっていないかと目を凝らしたが、何も見えなかった。蜘蛛の姿もない。目を閉じると、祐二は自分が何か悪意の蜘蛛の巣に絡め取られているような気がした。このまま眠ってしまって、一週間後、いや一年後に目覚めることができたらどんなにいいだろうと思う。これからどうなるのか、祐二は初めてその言葉を心の中で呟いた。
しばらくして目を開けると、窓の外には夕闇が迫っていた。祐二は空腹を感じ、食事でもして気分を変えようと反動をつけて起きあがった。外食をする気にはなれないので、出前を取ることにし、料理の本の並んだ棚から四つほどの店のメニューを引張り出した。その中で一番高いのをというわけで、特上のにぎり鮨を吸物付で注文した。受話器を置くと、祐二は夕刊を取りに下に降りた。これくらいの時間になれば、別に勤め人の男がうろうろしても構わないだろうと思いながら集合郵便箱から夕刊を取出し、部屋に戻った。
祐二は安楽椅子に体を預けて夕刊を広げたが、そのとき、まさか妻の事件が載っていないだろうなと気がついて上半身を起こした。社会面を開ける。祐二は隅から隅まで目を通して、どこにも載っていないとわかると安堵した。しかし時間的にみて夕刊ではなく、あしたの朝刊に載る可能性のほうが高い。もし載ればどうなるのか。たとえ小さな記事でも妻の名前が出てしまえば、いずれ会社の連中には知られてしまうだろう。そうなれば交通事故という嘘もばれてしまうし、会社にはいられない。願わくば誰も気づかないことだが、たとえ気づかれても同姓同名の他人だと知らんふりができるか。だが考えてみれば、同僚の女房の名前など誰も覚えていないのではないか。そこまで考えて祐二はいくらか安心した。自分自身同僚の女房の名前をひとつも覚えていないのだから。結婚式に上司や同僚も出席したが、明美などという名前はごく平凡だから誰も覚えていないだろう。島田明美なんてどこにでもある名前なんだから、知らぬ存ぜぬで通せばいいんだ。
しかし祐二は立上がって自分の部屋に行くと、洋服ダンスに仕舞った背広のポケットから、警部の名刺を取出した。そして居間に戻って、どうしようかと迷ってから電話をかけた。ぶっきらぼうな声が聞え、自分の名前を名乗って「飯野警部をお願いします」と言うと、少したって低い声が返ってきた。
「何かわかりましたか」と警部が言った。
「いいえ、電話したのはそのことではなくて」祐二は言い淀んだ。
「では何か」
「……今度のことは新聞に載るんでしょうか」
「ああ、そのことですか。そうですな、何とも言えませんな。何人か取材に来たのは確かですが」
「取材に来ましたか」
「いやあ、あの人たちはどんなことでも一応取材には来ますからな」
「記事になるのを押えることはできないんでしょうか」
「お気持はわかりますけど、無理でしょうなあ」
「やっぱり無理ですか」
祐二は礼を言って受話器を置いた。馬鹿なことを訊いてしまったという後悔だけが残った。
出前の鮨が来て、祐二は冷蔵庫にあったビールを飲みながら食べた。ウニもイクラも少しもうまいとは感じなかった。ビールで胃の中に流し込むだけで、こんなことなら並でよかったんだと祐二は腹を立てた。そのとき不意に妻と鮨を食べにいったことが甦ってくる。あれはいつごろのことだったか。妻の見慣れぬワンピース姿に驚いた記憶があるから、春のことで、まだ半年も経っていないだろう。
六時半ごろ帰宅すると、妻が花柄のワンピース姿で祐二を出迎えた。化粧もしている。
「どうしたんだ、その恰好は」
「ねえ、ちょっといいでしょ」妻は爪先立つようにして体を左右に回した。
「買ったのか」
「バーゲン。ねえ、今からお鮨食べにいきましょうよ。いいお店、教えてもらったのよ。お金のことなら心配しないで。私、儲けちゃったんだから」
「儲けた?」
「そうよ。化粧品のモニターをやって、これだけもらったの」
妻は片手を広げた。モニターのことは初耳だった。
「そうか」
「だからお鮨食べにいきましょう」
場所を尋ねると、妻は都心の地名を言った。
「遠すぎるよ。きょうは疲れてるから今度にしよう」
祐二が靴を脱ぎかけると、妻は押しとどめた。
「タクシーで行きましょうよ。それに私、外で食べるつもりだったから、何の用意もしていないの」
結局祐二が負けて、タクシーで行ったのだが、妻が高い物ばかり注文するので、大丈夫なのかとはらはらした。勘定は何とかモニターの儲けのうちに収ったが、祐二はせっかく儲けた金をと思う反面、おれの稼ぎ以外の金はぱあっと使ったほうがいいと清々した気持になった。
今から思えば、モニターで儲けた金というのも怪しい気がする。あのときおれがいつもより早い時間に帰ってきたので、妻はあわてたのではないか。外出着を着て、化粧をしていたのは、売春という仕事から帰ってきてすぐだったからではないか。もっと早く帰ってくるつもりが、客との交渉が長引いて。それを取繕うために、鮨を食べにいこうなどと……。
祐二はあのとき妻がどういう化粧をしていたか思い出そうとしたが、できなかった。初めて見るワンピースに気を取られて、化粧の濃さに気づかなかったのか。それとも普通の化粧だったのか。祐二はさらに、あの夜妻と性交渉を持ったのかどうか思い出そうとしたが、わからなかった。
祐二は冷蔵庫にあったビールを全部飲んだが、少しも酔えなかった。テレビをつけても映像が素通りするだけで、頭の中では別のことを考えている自分に祐二は気づく。ぼくの胸で泣き、ぼくの胸で笑い、ぼくの胸で眠った明美……。不倫と売春はどこかで結びついているのかと考えたとき、祐二は、伊藤との関係も実は売春ではなかったのかと思い到った。不特定多数を相手にするのではなく、特定の相手と長く関係を続けるような売春。その相手が売春とは別の関係を求めてきたので、妻は逃げた。もしそうなら、結婚する前からやっていたことになる。妻が結婚早々、家を買おうと言出したのも、売春で稼ぐことができるという裏付けがあってのことだったのかと祐二は考える。
「ねえ、家を買いましょうよ」と妻が言った。祐二はコーヒーを飲みながら見ていた朝刊から目を離した。妻は折込に入っていた不動産広告を眺めている。
「そんなもの、無理だよ」
「どうして」
「金がない」
「何とかなるわよ」
「そんなに気安く言うなよ。払うのは、おれなんだぜ」
「でもね、不動産は年々値上りするのよ。早いうちに買っておいたほうが得じゃない。それに家賃にお金を払うのも、ローンに払うのも一緒でしょ。どうせお金を払うのなら、自分たちのものになるほうがいいに決ってるじゃない」
「それはね、ローンが組めればの話。おれの年収じゃ、家を買うローンなんて組めるわけないよ」
「でもここに、自己資金五十万からでもオッケーって書いてあるわ」
「それはただの宣伝文句だよ。五十万で家が買えるんだったら、誰も苦労しないよ」
妻は黙ってしまう。祐二は再び朝刊に目を戻した。しばらくして妻が口の中で何か呟くのが聞えてきた。実家から二百万などと言っている。祐二は思わずかっとなった。
「親から絶対に金を借りるな。いや、親だけじゃなく、他の誰からも金を借りるな。そんなことをする必要はどこにもないんだから」
妻は小さく舌先を出し、「怒られちゃった」と首をすくめた。
しかし結局祐二はマンションを買った。一戸建ては無理だが、マンションなら何とか親から借金をせずに買えそうだったから。月々の返済額は家賃よりも多くなったが、贅沢さえしなければそんなに不自由はしなかった。妻は「私も働くわ」と言ったが、祐二は「働きたければ働いてもいいけど、別に無理をする必要などないんだよ」と答えた。その言葉のせいかどうか、妻は働こうという素振りなど全く見せなかった。別段祐二は気にしなかったが、ひょっとしたらもうすでに売春という仕事をしていたのかもしれない。
祐二はもう一度押入を開け、手文庫から伊藤広俊の手紙を全部取出した。そして先ほど読まなかった三通に目を通した。どこかに売春を思わせる箇所がないかどうか探したが、どれもこれもベッドでの会話の延長みたいなことが書いてあるだけで、それらしい記述はなかった。他に伊藤以外の男の差出人の手紙がないか探すと、いくつかの名前で何通かあった。しかしすべて伊藤の手紙より古くて、そのうちの一通を読んでみたが、高校時代の同級生の愛の告白だった。
手紙をしまおうとしたとき、電話が鳴った。祐二はどきりとした。警部の言っていた売春組織という言葉が、急に現実感を持って迫ってきた。仕事が終れば何らかの連絡をしなければならないのに、妻はそれができなかった。組織はいくら待っても連絡がないので、しびれを切らして電話をしてきた……。
祐二はベルの音がしている黒い塊を見つめながら、手を出しかねていたが、これ以上放っておけば切れるだろうというところで、思いきって受話器を取った。
「もしもし」祐二は低い声で言った。
「明美の母でございます」馬鹿丁寧な口調の声が返ってきた。
「あ、お義母さんですか、どうもご無沙汰しています」
祐二はほっと肩の力を抜き、如才ない声を出した。
「明美は居りますでしょうか」
「えーと」祐二は言葉に詰った。何か適当な理由をこしらえなければと焦るが、何も思いつかない。
「居りませんでしょうか」
「ええ、ちょっときょうは出かけているもんですから」
「どちらへ」
二、三日は帰ってこない理由を見つけろと祐二は自分に言いきかせ、ぱっとテニスのことを思い出した。
一か月ほど前、新聞の広告に一泊二日のテニス合宿の案内が載っていて、妻が「行ってもいいかしら」と訊いたのだ。
「テニスなんかやったことがないのに、何を言ってるんだ」
「初心者大歓迎って書いてあるわよ」
「ラケットはどうするんだ」
「貸しラケットありって書いてあるし、買ったって安いものだわ」
「まあ、行くのはいいけど、朝と晩の飯の用意と洗濯だけはちゃんとやってくれよな」
「行かせたくないんなら、行くなって言えばいいのに。いつも遠回しに反対するんだから」
「誰も行くななんて言ってないだろう」
「じゃあ、行ってもいい?」
「やることさえやったらな」
結局妻は行かなかったのだが、それからしばらくはテニスの記事や広告が目について仕方がなかった。
「えーと、新聞社主催のテニススクールに泊り掛けで行っているものですから」
「明美がテニスを始めたんですか」義母は驚いた声を出した。
「ええ、まあ」
「そうですか、あの運動嫌いの子がねえ」
「ところで明美に何かご用ですか」
「いいえ、別に用はないんですけど、ただ、どうしているかしらと思ったものですから」
「元気にしていますよ」
「それで明日には帰ってきますでしょうか」
「えーと、あさってですね、帰ってくるのは」祐二は一週間くらい帰ってこないことにしたかったが、それでは義母が変に心配するかもしれないと考えた。
「あら、そんなに留守にするんですか。どうも申し訳ございません」
「いや、いいですよ、そんなことは。帰ってきたら、実家から電話があったと伝えておきます」
受話器を降ろして、祐二は溜息をついた。あさってには妻に病院から実家に電話をさせなければと思う。電話ができるまで快復していなかったらどうするかと考えて、そのときはそのときだと祐二は妙に腹が立った。母親が真相を知ってどうしていけないという気持だった。あなたの娘がこれこれこういうことをしでかしたんですよと言ってもよかったんだと祐二は思った。そう言うと、あの母親はどんな顔を、いやどんな声を出すのか。あまりの驚きに泣出すか、それとも、いや、意外と冷静に受止めるかもしれない。そういうことをしでかしてもおかしくない娘だと母親は感じているのか、というより、結婚前から娘の行状を知っていて、ああやっぱりとうなずくかもしれない。
不意に「あの運動嫌いの子がねえ」という義母の言葉が甦る。そういえば今まで妻の運動する姿を一度も見たことがない。それなのにどうして急にテニスをやろうなどと言出したのか。ラケットさえ持ってないのに。まさかテニスに行くと言うのは口実で、実は誰か男と一泊するつもりだったのか。泊りの仕事というわけか。
さすがに祐二は、そんな方向にばかり考えてしまう自分にうんざりした。確かなことは何もわからないんだからと自分に言聞かす。売春をしたということだって……。仮に売春をしたとしても、それはたぶん魔がさしたというやつだろう。ホテルの従業員の証言なんて、当てになるものか。祐二は病室のベッドに横たわっている妻の姿を思い浮べ、とにかく妻は背中を刺され、重傷なんだからとそのことだけを考えるようにした。
出しっぱなしになっていた手紙類を押入にしまい、祐二は明日病院に持っていくものの用意を始めた。入院時の心得と書かれたパンフレットに、用意する物という項目があり、それを見ながら下着やパジャマ、バスタオル、歯ブラシなどこまごまとしたものを揃えた。どこに何があるのかわからないため、一時間以上もかかってしまった。
ボストンバッグと紙袋を玄関のそばに置くと、もう後はすることがなかった。寝るには早いが、それしかない。ぐったりと疲れているようで、頭の芯は妙に醒めていて、何だか自分がふたつに割れているような感覚がある。
「風呂に入ろう」そう祐二は声に出して言い、バスルームに行った。浴槽の蓋を取ると、水がいくぶん濁っている。祐二は栓を抜き、ロッカーから洗剤とスポンジたわしを見つけて、浴槽の中を洗い始めた。そのとき誰かに見られているような気がして、横を向くと、鏡に自分の顔が映っていた。気弱そうな表情が他人の顔に見えた。祐二は手に持ったスポンジで鏡をひと撫ですると、浴槽洗いに専念した。
風呂が沸き、裸になって湯の中につかると、体中から力が抜けるのがわかった。平凡な一日がまた終ったと思いそうになる。このまま湯につかりながら、さくらんぼをボールにいっぱい食べることができたらと祐二は思う。結婚してすぐのころ、出回り始めたアメリカンチェリーを浴槽の中で食べて、妻をあきれさせたことがあった。
「何だか静かだと思ったら、こんなところでさくらんぼを食べてるの」顔をのぞかせた妻が言う。
「ここがさくらんぼを食べる一番いい場所だということを知らないか。火照った体に冷たいさくらんぼがうまいんだよな」
「こんな趣味があるとわかってたら、結婚なんかするんじゃなかったわ」
「そんなこと言わずに、入ってきて一緒にやらないか。うまいぞ」
「いいわよ、そんなこと」
あの頃はまだ一緒に風呂に入っていたはずだ。別々に入るようになったのはいつごろのことだったのだろうか。祐二は記憶をたどってみたが、思い出すことができなかった。
風呂から上がると、祐二は歯を磨き、パジャマを着てベッドに横たわった。キングサイズのダブルベッドがいやに広く感じられ、落着かない。ベッドを買うとき、祐二は普通サイズでいいと言ったのだが、子供が生れたとき広いほうがいいという妻の意見に従ったのだ。確かに二人で寝るには余裕があって楽だったが、こうして一人で寝るには広過ぎて背中の辺りが冷え冷えとする。祐二は飛び起き、台所にあった料理用の酒を湯呑みに一杯飲んでから、ベッドに戻った。
目を閉じて眠ろうとしても、逆に頭は冴えてくるばかりだった。きのうまでは寝返りを打てば妻の体に触れたのに、今は何もない。妻は本当に売春をしたのだろうかと祐二は思う。他の男をどのように迎えたのか。祐二には売春婦を買った経験がないので、具体的に想像することができない。自分との場合と同じようにごく普通なのか、それとももっと違うものなのか。祐二は今までの妻との性交渉を思い浮べ、そこに何らかのはっとすることがあったかどうか見つけようとしたが、見つからなかった。むしろ妻は大胆な行為を嫌うほうが強くて、売春などできるようには見えない。演技? そうかもしれない。祐二は胸の中がかすかすになって、風が吹き通るような感覚を覚えた。と同時に勃起していることに気づき、うつ伏せになって枕に顔を埋めた。声を上げて泣出しそうになるのを、祐二は堪えた。
いつのまにか眠ってしまい、何かの物音で目を覚した。ナイトテーブルの時計を見ると、六時過ぎを指している。その時間から今の物音は朝刊が配達された音だと気がついた。もう少し眠っておこうと祐二は目を閉じたが、すぐに体を起した。ベッドから降り、玄関に行く。新聞受けに朝刊が入っており、祐二は急いでそれを取出した。その場で社会面を広げ、暗いので明りをつけた。大きくアメリカの地震のニュースが載っており、祐二はその周りの別の記事に目を走らせた。ざっと見たところ妻の事件はどこにも載っていなかった。
祐二はほっとしながら居間に行き、テーブルに新聞を広げて今度は丹念に見ていった。地方欄にも目を通したが、やはり載っていなかった。地震のニュースが妻の事件を追いやったのかもしれない。ついていると祐二は思った。何だかすべてがうまくいきそうな気がした。
「あの頃の私はおかしかったのよ。流産以来ちっとも妊娠しないし、あなたはあなたで仕事が忙しくなって、私のことを構ってくれないし、私だけが一人取残されているような気持になって。誰でもいいから私に目を向けてくれる人が欲しかったのよ」
そう言いながら妻は赤ん坊をあやしている。
「でももう大丈夫。私は独りぽっちじゃないんだから。ねえ、マーちゃん。ママはさまよっていた迷路から抜け出て、歩く道を見つけたんだものね。問題はパパよね。パパが私を許してくれるかどうか」
「許すも許さないも、おれたち夫婦じゃないか。今までもそうだったし、これからも」
祐二は赤ん坊と妻の顔を交互に見ながら言う。赤ん坊がぐずり始め、妻は「お腹がすいたのね」と声をかけながら、胸元から乳房を出し、赤ん坊に含ませる。手つきがぎこちない。祐二はその光景を目にして、どこかの絵画で見たことがあるようなと思う。
祐二は新聞を畳み、やかんで湯を沸かした。そしてペーパーフィルターでコーヒーをいれ、これからどうしようかと漠然と考えた。初めの予定では会社に欠勤の電話をしてから、病院に行こうと思っていたが、妻が集中治療室に入っている限りは、病院に行ってもしようがないのだ。そのことに気づくと、祐二は予定を変え、早いうちに病院に行って、妻がまだ集中治療室にいるのなら、そのまま出勤することにした。入院の荷物は駅のロッカーにでも預けておけばいい。
祐二は急いで顔を洗い、トーストと牛乳だけの朝食を取ってから、背広に着替えた。会社への欠勤届は有給休暇扱いにしてもらうつもりだったので、もしかしたら有休が一日助かるかもしれない。そうなったら、妻が退院してからその一日を使って温泉にでも行けばいいな、背中の傷にもいいかもしれないと祐二はぼんやりと考えた。
「見て、見て。とってもきれいよ」
妻が窓から山の紅葉を眺めながら言う。祐二はそばに行って、妻の肩越しに外を見る。
「二人で温泉なんかに来るのって、初めてじゃない」と妻が紅葉に視線を向けたまま言う。
「もっと早く来ればよかったんだ」
「そうね、もっと早く来ればよかったのよね。でもきょう来れてよかった。二人で旅行できるなんて、思ってもみなかったもの」
祐二は妻の肩に手を回して、体を引寄せる。妻は頭を祐二の胸に預ける。しばらくして「風呂に入ろうか」と祐二が言う。「家族風呂があるらしいから、一緒に入ろうか」
「恥ずかしいわ」と妻が答える。「一緒に入るのって久し振りなんですもの。それに……背中の傷痕を見られるのがいやだわ」
「そんなもの、構うもんか」
祐二はそう言って、肩に回した手に力を込める。
両手に荷物を下げながら、祐二は乗換えのために地下街を歩いていたが、新聞売りのスタンドを見つけて立ち止った。荷物を降ろし、いつも読んでいるのとは別の新聞を二紙買った。それを紙袋に突っ込んで、人通りの少ない場所まで行き、そこで新聞を広げた。たぶん大丈夫だろうと思った通り、地震のニュースが大半で、二紙とも妻の事件は載っていなかった。顔がほころんでくるのを、祐二はあわてて引締めた。
病院の朝は早いせいか、祐二が着いたときにはもう人の動きは活発だった。祐二は五階に上がり、集中治療室の前に立った。ガラス越しにきのうの妻の寝ていたあたりに目をやったが、髪の長さから見て、どうも別人のようだった。祐二は隣の看護婦詰所に顔を出した。名前を告げると、中年の看護婦が「急患が入ったので、つい先ほど一般病室のほうに移ってもらいました」と答えた。祐二は教えてもらった部屋番号を探しながら、廊下を歩いていった。
中程あたりに「島田明美」という札がかかっていた。個室らしかった。扉を開けようとすると、中から看護婦が出てきた。
「ご主人ですか」
「ええ」
「今移ってきたばかりで、ちょっとごたごたしていますので、もうしばらくお待ちください」
そう言って看護婦は詰所のほうへ歩いていった。祐二は両手の荷物を降ろして、壁にもたれた。少しして、看護婦が毛布を持ってやってきて、部屋に入ろうとしたが、そのとき「奥さん、意識が戻られましたよ」と声をかけた。胸が急にどきどきし始めた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
妻は今にも泣出しそうになりながら、呟くように言う。顔が青白い。
「いいんだよ。もうすんだことだ。それより傷はどう。痛むか」
「いっそのこと心臓に刺さってたら、こんな思いをしなくてすんだのに」
「そんなことを言うもんじゃない。今までのことはすべて忘れて、もう一度二人でやり直そうよ」
「本当にそう思ってくれる?」
「もちろん」
「ありがとう」
妻は本当に泣き始める。祐二はボストンバッグを開け、タオルを取出して妻に渡す。
部屋の扉が開き、看護婦が顔を覗かせた。
「もう片付きましたので、どうぞお入り下さい」
祐二は床に降ろしていたボストンバッグと紙袋を両手で持って、部屋の入口に近づいた。中から「ご主人がお見えになりましたよ」という看護婦の声が聞えてきた。その瞬間祐二は入るのが急に恐くなった。脚が突っ張って、扉の前で立ち止ってしまった。呼吸の速いのが自分でもわかった。
数呼吸して扉が開き、看護婦が「どうぞ」とちょっと驚いたような声を出した。祐二がゆっくりと中に入ると、入れ替るように看護婦が出ていった。祐二は入ったところで立ち止ったまま、部屋の中を見回した。二人用の部屋と思われるほど広く、窓際にベッドがあった。半分カーテンが引いてあって、妻の脚しか見えない。祐二は何か声をかけながら近づこうと思ったが、口の中が乾いていて声が出ない。靴音を気にしながらベッドに近づき、足許に立った。妻は点滴の針が刺さった腕を上にして、体を横向きにしていた。身動きしないので、眠っているのかと祐二は思ったが、窓のほうを向いている顔を斜め上から見ると目を開けていたので、安心して近寄っていった。妻は思ったよりよい顔色をしている。
妻の顔と窓の間に立ち、おはようと声をかけようとして、祐二は言葉を呑んだ。妻は確かに起きていたが、その目は祐二を見ようとはしなかった。視線を合わせるのを避けているというよりも、目の前に祐二がいないかのように祐二の体を透かして外を見ているようだった。おかしくなったのか。祐二はベッドの端に手をついてしゃがみ込み、妻の視線と合わせた。
「大丈夫か」祐二はやっとそれだけ言った。しかし妻の表情には何の変化も表れない。しばらく間を置いてから、もう一度、大丈夫かと言おうとしたとき、「そこ、どいてよ」と妻が言った。低い声だった。
祐二は衝撃を受け、ふらふらと立上がった。部屋の中が揺れている。壁を伝うようにして扉のところまで行き、外に出た。金属製の何かが触合う音やワゴンの車輪の音が耳を圧する。エレベーターのボタンを押したが、なかなか上がってこないので祐二は階段を駆け降りた。足がもつれそうになっても、手摺につかまりながら降りていく。
待合所を通り、祐二は朝の街に出た。通勤する人々を見て、夢から醒めたように走るのをやめた。祐二は少しの間、人の流れを見ていたが、すぐにその中に入っていった。
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