祐輔は作り終った梯子を起こし、自分の部屋の窓の下に立てかけた。二、三段上ってみる。きしんだ音がしたが、案外しっかりしており、体を揺すっても大丈夫だった。祐輔は降りると、梯子をモルタルの壁にぴったりとつけた。梯子の上端がアルミサッシの窓枠から少し上に出ていることを確認してから、梯子を横にずらして壁に立てかけ、金槌を取ってしゃがみ込んだ。梯子の足の跡がわずかについている。祐輔はその跡を金槌で叩いた。できるだけ叩いて、いくら体重をかけても梯子がそれ以上沈み込まないようにするためである。
五分ほど叩くと深さ三センチばかりの穴ができ、そこに再び梯子の足をはめてモルタルの壁につけた。家がいくらか傾いているのか、手を離しても梯子は倒れてこなかった。それでも祐輔は念のため、切れ端の角材をつっかえ棒にしてから、玄関に回って家の中に入った。
階段を上がって、自分の部屋に行く。二階には二部屋あって、ドアが廊下を挟んで向かい合っていた。西側が妹の部屋で、祐輔の部屋は東側だった。
自分の部屋に入り、開け放たれた窓際に寄ると、祐輔は五センチばかり見えている梯子の先をつかんだ。そして手を伸ばして机の引出しからマジックインキを取出し、窓枠の下ぎりぎりのところで梯子に線を入れた。
祐輔は慎重に梯子から手を離し、マジックインキを机の上に放ってから、急いで下に降りた。玄関を出、家の横に回って梯子を見たが、梯子は倒れてはいなかった。祐輔はジョギングシューズをきっちりと履き直し、梯子のそばに行った。
つっかえ棒をはずし、梯子を倒して、マジックインキで書いた線に沿って、鋸で角材を切落とした。その梯子を再び立てて、つっかい棒をし、今度は金槌と五寸釘を持って自分の部屋に取って返した。
窓枠の回りには太い木材が入っていることは知っていたが、果してうまく釘が入るかどうか心配だった。祐輔は窓から上半身を乗出し、少しためらってから梯子の足の端のほうに斜めに釘を打込んだ。意外と大きな音がして、窓枠が振動した。祐輔は打つ手を止めて、隣の家の窓を見た。誰も出てこない。祐輔は左右に顔をやってから、思いきり釘の頭を金槌で叩いた。窓際沿いのモルタルの壁がぱらぱらとはがれ落ちるのも構わずに打込み、壁の中の木材に釘が入った手応えを感じると、金槌を大きく振って叩いた。
梯子の上端を両方とも固定すると、祐輔は両手で一番上の横木をつかんで揺すってみた。思ったよりしっかりしていた。梯子で下に降りてみようかと思ったが、降りるのはこわいので下から上ってみることにした。
一階におり、ジョギングシューズをはいて梯子の下に行く。一つ深呼吸をしてから、祐輔は腕を伸ばして横木をつかんだ。二段目の横木に足をかける。きしんだ音。祐輔はゆっくりと上っていった。
真ん中あたりまでくると、梯子が少したわんでいるのがわかった。太い釘で固定しているので、抜けることはないと思ったが、それでも祐輔はなるべく梯子に体を近づける姿勢で、上っていった。
窓枠に手をかけ、体を引上げると、右足を窓枠に乗せ、側面の壁に手を当てて体を支えながら、今度は左足を乗せ、それから部屋の中に飛降りた。飛降りると同時に体を倒して、床に寝そべった。額に汗をかいているのがわかった。汗を手の甲で拭いながら、祐輔は声を出さずに笑った。
祐輔が梯子を作ろうと思い立ったのは、夜遅く帰ってきたときに、ときどき締出されることがあったからだった。玄関の鍵は持っているのだが、ドアチェーンをかけられてしまうのだ。母親に抗議すると、「あら、外に出てたの。知らなかったわ」と言うだけだった。何回かそんなことがあって、母親がわざとやっていることがはっきりしてくると、祐輔はもう文句を言わなくなった。一昨日締出されて、終夜営業の喫茶店のソファーで横になっていたとき、梯子を作ったらいいんだと気がついた。それできのうの夜、近くの建築現場から手ごろな角材を盗んできたのだった。さすがに釘まで探そうという気にはならず、それはきょう買ってきた。
梯子を作るだけだったが、意外に疲れて、祐輔はベッドに横になって眠ってしまった。次に起きたのは夕方だった。何度もドアを叩く音で目を覚ましたのだ。
鍵をはずしてドアを開けると、母親が立っていた。パート帰りなのか、バッグを持ったままだった。
「あんなところに梯子を作ったん、あんたでしょ。どうして梯子なんか作ったのよ。すぐに取外しなさい」
母親は窓を指さして大きな声を出した。
「非常階段や」と祐輔はぼそっと言った。
「非常階段? それどういう意味なの」
「下から火が出たとき、あそこから逃げるんや」
「何言うてんの。あんたの魂胆なんか、お見通しやよ。……まあ、いいわ。お父さんに言うて、外してもらうから」
そのとき、向いのドアから「うるさいなあ」といって妹が出てきた。「勉強してるんやから、静かにしてえな」
「お兄ちゃんが梯子を作ったんよ。窓の外に」と母親が言った。
「へえー」妹は祐輔の部屋に入ろうとしたが、「勝手に入るな」と祐輔が怒鳴ると、ぺろっと舌を出して階段を降りていった。母親も祐輔をにらんでから、妹に続いて降りていった。
ドアを閉め、ベッドに転がっていると、窓ガラスを叩く音が聞えてきた。立って窓を開けると、妹が梯子の上まで来ていた。祐輔は思わずかっとなった。
「おまえみたいなブタが乗ったら、梯子が壊れるわ」
祐輔は、梯子の横木をつかんでいる妹の手を拳で叩いた。「何すんのん。落ちるやんか」妹は悲鳴を上げながら、慎重に降りていった。
母親と妹の三人で夕食を食べていたとき、「兄ちゃんが自分から何かするなんて、珍しいこともあるもんやねえ」と妹が言った。
「悪知恵ばっかり働くんやから」と母親が言った。祐輔は鼻先で笑った。
晩ごはんがすむと、祐輔はいつものように自分の部屋に鍵をかけ、家の玄関を出た。今夜は特に父親の顔を見たくなかった。梯子みたいなことで言争いたくはなかったし、自分の知らないうちに梯子を外されるのなら、それはそれで仕方がないという気持だった。それでも窓は開けておいた。
小さな庭の隅に置いてあるバイクを引張り出した。五十CCの小さなやつである。それに乗って、都心まで行くのである。
三十分ほど走って、鉄道の高架下の自転車置場に着く。そこにバイクを止めておき、祐輔は歩く。飲み屋ばかりが立並んだ路地を通り、ピンクサロンやキャバレーのあるところに出、アーケードの通りを行く。赤い顔をした勤め帰りのサラリーマンやOL、店に急ぐ水商売の女、大学生の男女、そう言った人間たちとすれ違いながら、祐輔は白一色の喫茶店の角を曲がって、大きなゲームセンターの中に入っていった。
「おっす」テーブル状のゲーム機に腰をかけていた男が声をかけてきた。黒い色のサングラスをかけている。祐輔は片手を上げて近づいていった。
サングラスは二人の男のやっているゲームを眺めていた。チックで固めたリーゼントの男と、耳の上の髪を金色に染めた男が互いに相手の宇宙船を撃ち落としていた。キュン、キュンという音にときどき爆発音が混じった。二人の男は、このやろう、やりやがったな、まいったかなどと言いながら、ジョイスティックとボタンを操っていた。
祐輔もゲーム機に腰を降ろして、二人の対戦を見た。チックが祐輔をちらっと見上げて、口許だけで笑った。
少したって、大柄の男が店に入ってきた。
「なんだ、おめえら、下らんことやってんな」大柄はやって来るなり、そう言って金髪の背中を叩いた。金髪は痛てえといって大げさに背中を反らしながらも、ジョイスティックを動かすことはやめなかった。
大柄は横に立って見ていたが、すぐに「おまえ、下手くそやな。ちょっとどいてみ」とチックの体を押した。チックは「この勝負、真剣なんや」と言いながら抵抗したが、大柄に席を取って代わられてしまった。
「さあ、どっからでもかかってこい」大柄はブルゾンの袖を少したくし上げてから、ジョイスティックを握り、ボタンに指を乗せた。
「この勝負、なしやで」とチックが金髪に言った。「そんなん関係ない。勝負は勝負や」と金髪は笑いながら答えた。
「なにをごちゃごちゃ言うとんねん。いくぞ」大柄がボタンを押した。金髪が応戦する。再びキュンキュンという音が飛びかい始めた。しかし大柄の宇宙船は次々と撃ち落とされていき、大柄がいくら熱くなっても挽回することはできなかった。
「GAME OVER」という文字が画面に現れると、チックは「おれは知らんで」とわめいた。
「なに騒いどんねん。ただのゲームやないか」と大柄が言うと、サングラスが「こいつら、きょうの稼ぎを賭てたんや」と答えた。
「そんなこと、やっとったんか」
「それで、結局おれの勝ちや」と金髪が言った。
「おれは負けてないで」とチックが言返した。
「わかった、わかった。しょうもないことで喧嘩すんな。おれの分をやったらええんやろ」大柄が両手を上げて言った。
「まあ、ええやろ」と金髪が答え、「妥当な線や」とチックが言った。
祐輔は彼らのやりとりを笑いながら見ていた。
「なんか、おかしいか」と大柄がこわい顔を向けてきた。「いいや、別に」と答えたが、祐輔はそれでもまだ笑っていた。
「おかしなやっちゃ」と大柄は表情をゆるめながら言い、「さあ、行こか」とみんなに声をかけた。男たちは揃って店を出た。
少し歩くと国道に出る。不法駐車の車が並んでおり、そのうちの一つに大柄が近づいていった。
「あれ、また車替えたんか」と金髪が甲高い声を出した。
「そうや。あの車はそろそろヤバなってきたからな」
「これは大丈夫やろな」
「ばかやろう。おれがそんなドジを踏むと思うんか。ナンバープレートはちゃんと替えたあるわ」
車は四ドアの大型乗用車で、かなり新しかった。ドアの内側には、まだビニールカバーがついている。祐輔たちは座席のクッションの具合を試してみたり、大柄にパワーウインドウを操作させたりして、ひとしきり騒いだ。
大柄がハンドルを動かして、車の列から出る。彼らが目指したのは、南の繁華街だった。南で稼いで、北で遊ぶというのが彼らのモットーだった。
南には川が流れており、その川を挟んでバーやスナックの飲み屋が立並んでいた。車を高速道路の高架下に止め、祐輔たちはネオンや看板の重なり合った飲み屋街に入っていった。大柄とチックが前を歩き、金髪とサングラスと祐輔が五メートルほど後ろを歩いた。まだ十時前だったが、すでに帰りかけている客もいるらしく、ホステスが三、四人並んで客を見送っている店もあった。
祐輔たちは飲み屋街の端までゆっくり歩き、再び引き返した。中ほどまで戻ったとき、大柄が首を捻って祐輔たちを見、雑居ビルの間の狭いわき道を指さした。その方を見ると、暗がりで一人の男が立小便をしているのだった。
大柄とチックが男のほうに近づいていく。祐輔たちは周りに目をやってから、後に続いた。
「社長、ご機嫌ですね」とチックが声をかけた。男はズボンのチャックを上げながら、チックに顔を向けた。黒縁の眼鏡をかけ、前頭部のはげ上がった中年男だった。ネクタイがだいぶ緩んでいる。
「社長、かわい子ちゃんのいる店、知ってんねんけど、どうでっか。もう一杯いきませんか」とチックが男の腕を取る。
「何や、おまえ客引きか」男はろれつの回らない言い方をし、体をゆっくりと揺らした。
「まあ、そんなところですわ」とチックは男の腕を引張って、わき道の奥に連れていこうとする。大柄がすぐ後ろについている。祐輔たちも横に並んで、通りを行く人間たちから前の三人を隠した。
「おれは今から帰るんや」男は怒鳴るように言い、チックの腕を振解こうとした。そのとき大柄が男のもう一方の腕をつかみ、そのままチックと一緒に男を引きずっていった。祐輔たちは小走りに近づいて、三人のすぐ後ろにつき、金髪が男の背中を押した。
「何やおまえら」男が首を捻って後ろを見ながら叫んだ。
「うるさいぞ、おっさん」大柄が男の腹を殴った。男は急におとなしくなり、「わかったわ。おまえらの店にいくわ」と小さな声で言った。それを聞いて、祐輔もサングラスも声を出して笑った。
わき道の半分くらいのところまで男を引張り込むと、大柄が襟元のネクタイをつかんで、男をビルの壁に押しつけた。同時にチックは右腕を押さえ、金髪が左腕を押さえた。男の口許は首を締められているために歪んでいる。祐輔は素早く男のそばにいき、背広の内ポケットを探った。酒臭い息がかかる。
左のポケットに財布があり、それを抜取ると、祐輔はわき道を突走った。通りに抜けたところで振返ると、大柄が男の腹を殴っており、男は壁を背にしてうずくまった。
男が動かないことを見て取ってから、祐輔は通りを歩き始めたが、やはり後ろが気になって、ときどき振返りながら次第に急ぎ足になった。
高架下の車のところに戻ってくると、大柄が運転席から身を乗出して、はやく来いというように腕を回していた。他の連中は皆戻っていた。
祐輔が車の中にはいると、「遅かったやないか」と金髪が言った。
「持逃げしたんやないかと思うたで」とサングラスが薄笑いを浮かべながら言った。
「持逃げしたらどうする」と祐輔が言うと、サングラスはちょっと考えてから、「諦めるわ」と答えた。
「おれは諦めへんで」とチックが前の席から首を出した。
「ほんなら、どうするんや」とサングラスが訊く。「それはなあ」とチックは席の背に顎を乗せて考える恰好をしたが、そのとき大柄が車を急発進させた。「わあ」チックは顎を落として、席を乗越えそうになった。
「あほな話してんと、さっさと分けんかい」と大柄が怒鳴った。
祐輔は尻のポケットから二つ折りの財布を引抜き、サングラスと二人で、中身を取出した。一万円札が五枚と五千円札が一枚、千円札が三枚、それに数枚の名刺と一枚のクレジットカードだった。
「なんぼある」大柄が前を向いたまま言った。
「五万八千円」とサングラスが言うと、「ほんなら、二枚もろとこか」と大柄が答えた。
「そっちの分はおれのもんや」と金髪が言った。
「なんでや」
「ゲームに負けたとき、きょうの分をくれる言うたやろ」
「あほぬかせ。冗談やないか」
「男がいったん口に出したことを引っ込めるなんて、恰好悪いで」
「そうか」
大柄がいきなりハンドルを切った。祐輔たちは右に傾いた。隣の車線を越え、橋の欄干にぶつかりそうになったところで、車は元に戻った。後ろからクラクションが何度も鳴らされる。
「おまえらの命を握っているのは、このおれやということを忘れたらあかんで。手が滑って、川の中へ飛込むこともあるからな」
「負けた、負けた」金髪が大柄の肩ごしに一万円札を二枚差出した。人差指と中指でそれを挟んで受取ると、「素直なんは人に好かれるで」と大柄は笑った。
残りの金を分ける段になって、祐輔は、金はいらないからクレジットカードをくれと言った。
「カードをどうするんや」と金髪が訊いた。
「使うのに決ってるやろ」
「やめたほうがええで」前の席からチックが顔を覗かせて言った。「信販会社から情報が回って、すぐにつかまるで」
「やってみな、分かれへんやろ」
今まで何回かカードが財布の中に入っていたことがあったが、現金だけということですべて捨ててきたのだ。
「金には名前が書いてないけど、カードには名前があるからなあ」とサングラスが呟いた。
信号待ちで車が止まったとき、大柄が運転席から顔を向けた。
「使う気やったら、もろとけや。そのほうが他の奴の取り分も増えるしな。ただし、サツにつかまっても、おれたちのことは一言もしゃべったらあかんぞ。もししゃべったら、殺す」
「つかまっても、しゃべりようがないやろ」祐輔はちょっと笑いながら答えた。
「ごろつく場所とか、人相とか、車の名前とか、何ぼでもあるやろ」
「そういうことか」
「そういうことや」
「おれ頭悪いから、大丈夫や」
そりゃそうだと大柄は声を出して笑い、正面に向き直って車を発車させた。「頭悪い奴に、カードなんか使えるのかな」と言いながら、サングラスが祐輔にカードを渡した。
空の財布はチックが持ち、橋のところに来たとき、信号待ちを利用して、川の中に捨てた。
国道は車の数が減って走りやすかったが、大柄はあまり速度を上げずに走り、北の繁華街に入っていった。
私鉄電車のターミナルと、映画館やディスコバー、ブティックなどの入ったビル群にはさまれた、通称ナンパ・ストリートと呼ばれる狭い道に、大柄は車を乗入れた。遊びに来た車が集まるのと、歩行者が信号を無視して横断するため、車が数珠つなぎになっている。のろのろと進む間、金髪は窓から顔を出して、歩道をいく女性に声をかけた。前の車でも、同じことをやっている。
四人の若い女連れの一人が祐輔たちの車を覗き込んで、「いっぱいやんか」と声をかけた。
「乗ってくれるんなら、こいつら追出すからさ」と金髪が言った。「ねえ、どこまで帰るの」
四人の女たちはいっせいに笑い合った。「まだ帰らないわよお」とそのうちの一人が答えた。
「だったら、今からどこへ行くの」
「どこでしょう」
そのとき後ろからクラクションが鳴った。信号が変わって、前の車と距離ができたからだった。大柄が車の速度を少し上げる。
「おれたち、オクトパスに行くんやけど、一緒に行こうぜ」
金髪は首を曲げて、叫んだ。
「あれはあかんわ」とチックは前を見ながら言った。
信号を曲がって、少し走ったところで、車はレーザーディスプレイのちらちらするビルの地下駐車場に入っていった。管理人からカードをもらって、空き場所を探して車を入れる。階段の横にエレベーターがあり、それに乗って三階で降りると、正面に大きなガラス張りの壁面が迫っている。ピンクのネオンサインで、「Octopus Garden」という字が描かれている。ガラス壁を通して、腹に響く音楽が聞こえてくる。入口は一人ずつが押して入る回転式になっていて、祐輔たちはそこを通った。
フロントで入場料を払い、チケットを受取る。フロアは映画館がすっぽりと入るほどの大きさで、赤や緑のレーザービームが奇妙な模様や人間の顔を空中に描き出していた。踊っている人間を見下ろすように、周囲の壁に沿って二階が作られている。
祐輔たちは二階に上がった。空いているテーブルの回りに腰を下ろすと、金髪がみんなのチケットを集めて一階に降りていった。祐輔は椅子を跨いで、手すりから下を覗いた。ビートのきいた音楽がホール全体を揺さぶりながら鳴っている中で、人間たちが海底の海藻のように揺らめいていた。
金髪がステンレスの盆に水割りの入ったグラスとナッツが山盛りになったボールを乗せて、戻ってきた。
「どうしたんや、それ」と大柄がナッツを目で示しながら、大声を出した。
「サービス、サービス」と金髪が笑って大声で答えた。
「取ってきたんと違うやろな」
「まさか」
ナッツをつまんで水割りを飲み終ると、「さあ、行こか」と大柄が立上がった。他の連中も腰を上げたが、祐輔は椅子に坐ったままだった。
「行けへんのか」とチックが耳許で怒鳴った。祐輔は首を振った。
「何でや」
「きょうは休憩しとくわ」
「おい、おい。熱でもあるんとちゃうか」とチックが額に手を当てたが、祐輔は頭を振って、その手を外した。
「好きなようにさせとけ」と大柄が怒鳴って、先に行った。その後を他の三人もついていく。
祐輔は椅子の背を手すりに押しつけ、空いた椅子に足を投出して、テーブルのナッツをつまんだ。右手の奥、男女四人のグループの向こうに高校生くらいの男女がベンチシートに坐っていた。男が女の首に腕を巻いて、抱きかかえるようにしている。祐輔はナッツを食べながら、その二人をじっと見ていた。男のもう一方の手はテーブルの陰になっているが、女の体を触っているらしく、ときおり女が体をくねらせた。カツアゲでもしてやろうか、祐輔はふとそんなことを考えた。
祐輔の視線に気づいたのか、男が女を促して立上がり、女の腰を抱きながら、階段のほうへ歩いていった。女の足許はおぼつかなかった。祐輔は反動をつけて起上がると、二人の後を追うように一階に降りた。二人が出口に向かうのを見届けてから、カウンターに行って水割りを注文した。
出されたグラスを持って、再び二階の席に戻る。祐輔は足を投出す姿勢になり、目を閉じて、ウイスキーを呑み、ナッツをかじり、腹に響くロックのリズムを感じていた。
「あかんかった」頭の上でサングラスの声がした。目を開けると、サングラスが歯を見せながら肩をそびやかした。
しばらくしてチックと大柄も戻ってきた。手にはそれぞれグラスを持っている。「あかんか」「あかん」
しかし金髪は三人の女を連れてきた。一見したところでは二十代半ばに見えたが、そばに来てみるとかなり若いというのがわかった。よく動く目をしている。
「なんやん、ぎょうさんいてるやん。話が違うわ」とフレヤースカートにレースの手袋をした女が金髪に言った。
「これじゃあ、数が合わないわよねえ」と別の女がもう一人に顔を向けた。
「ほんと、ほんと」
「そんなこと言わんと、大勢のほうが楽しいやんか」と金髪は一人の女の肘をつかんだ。どうするなどと女たちは相手の腕を引張ったりしながら言合っていたが、そのとき再びディスコサウンドが流れ出した。もっと静かな席に移ろうやと大柄が言い、女たちも納得して、奥のテーブルに移った。
一つのテーブルでは坐りきれないので、もう一つくっつけて全員腰を降ろした。
「ねえ彼女、何か飲みたいものある」とチックが訊いた。
「あたし、コークハイ」「じゃあ、あたしも」「おんなじ」
「みんなコークハイね。了解」チックは急ぎ足でテーブルの間を抜けていった。
「この子ら、M市のほうから来てるんやて」と金髪が祐輔たちに言った。女たちがくすくすと笑った。
「あれ、違うかった?」
「さあ、どうでしょ」と言って、レースの女がまた笑った。
「仕事は何してんの」とサングラスが訊いた。
「あんたたちこそ、何してんの」
「おれたちはなあ」と大柄が口を開いた。「かっぱらいや」
「うっそー」と言って、女たちは大げさに笑った。
チックがコークハイを持ってきた。盆の上にはその他にポテトチップスとチョコレートチップの入ったボールが乗っていた。二つのボールを女たちの前におき、それぞれがコークハイを取った。
「名前聞いてもいいかな」コークハイを一口飲んでから、金髪が言った。
「あたしはミカ」「あたしはルイコ」「サキです。よろしく」
「ミカちゃんに、ルイちゃんに、サキちゃんね。よろしく」
「あたしたちが名乗ったんだから、あんたたちも名乗ってよ」
大柄が唇の端をちょっと上げて、祐輔たちを見回した。
「そりゃ、もっともや」と金髪が大きくうなずいてみせた。「とりあえず、おれはシマ」
「おれはタカや」と大柄が答えた。チックはピート、サングラスはキリー、祐輔はケン、とそれぞれ答えた。
「あんたたち、それみんなほんとの名前?」
「そんなこと、お互いさまやろ」とチックが答えた。
「そうね」と女は舌を出した。
話をするのは主に金髪とチックで、ときどき大柄とサングラスが口を挟んだ。祐輔はほとんど黙っていた。
音楽やテレビの番組や食べ物の話題から車の話になったとき、「ドライブせえへんか」と大柄が言った。
「いやあ、車持ってんの」
「ああ」
「ドライブええわあ」
「今から海を見に行こか」と金髪が言った。
「わあ、パターン。……でも、夜の海も悪くないわねえ」
それで話は決まった。しかし車には六人しか乗れないので、二人があぶれることになる。「おれ、帰るわ」と祐輔は言い、チックとサングラスがじゃんけんをして、チックが負けた。
エレベーターで地下の駐車場に降りる途中で、祐輔だけが一階で降りた。チックは降りずにそのまま一緒に行ってしまった。
祐輔はビルを出ると、人通りのほとんどなくなったアーケードを急ぎ足で歩いて、バイクの置いてある自転車置場に向かった。
バイクで飛ばしている間、祐輔は梯子がまだあるかということをちらっと考えた。だから家に着いたとき、真っ先に横の路地に回ってみた。街灯の弱い光の中に、梯子が見えた。ドアチェーンがかかっているか確かめる気もなくて、祐輔は梯子の横木に手をかけて慎重に上った。
窓から部屋に入るときも、なるべく物音を立てないように体中に力を入れたから、中に降り立ったときには汗が吹出ていた。
窓を閉め、バックスキンの靴を脱いでから、部屋の蛍光灯をつけた。部屋の中がどこも変わっていないことを確かめてから、服を脱ぎ、バスタオルで汗を拭って、ベッドに潜り込んだ。
翌朝、誰かがドアを叩く音が聞えていたが、祐輔は頭から毛布をかぶって起きなかった。次に目を覚ましたときは、十時を回っていた。ちょっとあわてたが、シャワーを浴びて朝食を食べる時間はありそうだった。トレーニングパンツをはいて一階に降りる。家の中にはもう誰もいなかった。
風呂場で熱いシャワーを浴び、洗面台の前で念入りに髭を剃った。台所のテーブルはきれいに片付いていたので、祐輔は食パンをトースターに入れ、冷蔵庫を開けて、何か食べられるものを探した。ベーコンとりんごがあったのでそれを取出し、りんごをかじりながら、ドライヤーで頭の髪を乾かした。
簡単な朝食をすませて自分の部屋に戻り、服を着替えた。紺のブレザーにネクタイを締め、髪の毛も七三にきっちりと分けた。昨夜盗んだクレジットカードを内ポケットに入れ、汚れた下着と靴下とバスタオルを持って部屋を出た。鍵をかける。
下に降りて、洗濯機に洗い物を放り込んでから、玄関で靴を選んだ。どれにしようかと迷ったが、一番無難な黒の革靴にした。めったに履かないので、少し窮屈だった。
玄関を出たとき腕時計を見たが、十一時十五分前だった。急いだほうがいいと思いながら、祐輔はバイクにまたがり、エンジンのキーを回した。
小さい道では信号無視をし、スピードをかなり出して、二十分ほどでいつもの自転車置場についた。そこから近くのデパートまで歩いた。
デパートは開店早々にも関わらず、結構客が入っていた。店内図を見ると、商品券売場は一階になっていた。祐輔は頭を巡らし、遠くの表示板に商品券売場の文字を見つけて、その方向に歩いていった。
商品券売場のカウンターには、ワインカラーの制服を着た五、六人の女店員が客の応対をしていた。店員が多いので、祐輔はためらった。壁に掲げられた金額表を見て、税金が付くのかとうなずいてみたり、ショーケースに並べられたいろいろな金額の商品券の見本を眺めたりしながら、カウンターの端にいき、そこにいた店員に「商品券、もらえますか」と声をかけた。
「いらっしゃいませ」と店員は頭を下げた。「金額はいかほどでございますか」
「五万円」祐輔は椅子に腰を降ろした。
「はい、かしこまりました」
店員は後ろの棚から商品券の綴りを一冊取出した。
「贈物でございますか」
「そう」
店員は横の棚から木箱を取って商品券を入れ、熨斗の有無を訊いてきた。祐輔がいらないと答えると、丁寧に包装し、今度はリボンをかけるかどうか訊いてきた。祐輔がうなずくと、店員は赤いリボンをかけた。
金を払う段になって、祐輔は内ポケットからカードを取出した。
「カードで払いたいんやけど」
「結構でございます」店員は祐輔の差出したカードを受取り、ちょっと眺めてから支払い用紙をカウンターに出した。祐輔は覚えていた持ち主の名前を書いた。筆跡が違うのを見とがめられたら、父親から頼まれたと言うつもりだった。しかし店員は何も言わず、番号を書き写すとカードを返してくれた。
カードを内ポケットに入れ、リボンのかかった小さな包みを手に取ると、祐輔は店員の「ありがとうございました」という声を背に歩き出した。早足になるのを我慢して、ゆっくりと歩いた。
デパートを出たところで、祐輔は大きく息を吸った。意外と簡単だったことに、自然と笑いが浮かんできた。こんなことなら十万円にしておけばよかったと後悔し、その後悔を楽しんでいた。
地下街に降り、公衆便所の個室に入って、手に持った包みの包装を破った。商品券だけをポケットに入れ、木箱や包装紙は便所のごみ箱に捨てた。
もう一つのデパートがすぐ近くにあった。祐輔は一回だけでやめるつもりだったが、食料品売場の見えるガラスドアを眺めていると、気が変わった。地下街を行く人の流れを切りながら歩いていき、ガラスドアを押した。
さっきと同じく売場は一階にあり、エスカレーターで上がるとすぐにわかった。化粧品売場の奥にあり、ここは店員が三人しかいなかった。しかも出口がすぐそばだった。「商品券下さい」と祐輔はカウンターに手をついて言った。
「いらっしゃいませ。金額は……」
「十万円」
かしこまりましたと言いながら、店員は商品券を取出し、先ほどと同様に贈物かどうかを訊き、包装した上からピンクのリボンをかけた。
包みができあがったのを見計らって、祐輔はカードを取出した。
「カードで払いたいんやけど」
店員はカードを受取ると、「はい、わかりました」とその表に目をやったが、すぐに「金額が大きいですので、ちょっと調べさせていただきますが」と祐輔の顔を見た。
「ええ、どうぞ」祐輔は口許で笑いながらそう答えたが、胃を素手でつかまれるような感じがした。
「しばらくお待ち下さい」店員は包みを持って、横の控室に入っていった。
祐輔は椅子から立上がった。すぐ横にガラスのドアがある。ドアに目をやり、店員に目をやった。店員はこちらを見ていない。しかしあわてて外に飛出せば、変に思うだろうし、かといってこのままじっとしているわけにはいかない。祐輔はトイレにでも行くようにドアに近づき、ゆっくりとドアを押した。外はホールのようになっており、その中ほどまで来たとき、祐輔は一気に走った。ホールから表の歩道に出ても、走るのをやめなかった。地下街出入口から下に降り、人の流れの中に紛れ込んで、ようやく速度を緩めた。
祐輔は両手を握り締めながら歩いた。誰でもいいから前から来る人間の顔に、拳をぶち当てたかった。カードを調べると言った女の顔を思い出すと、むかむかした。
昼時だったので、祐輔は喫茶店に入ってピラフを食べた。食後のコーヒーを飲んでいると、気分も収まってきて、やはり十万は無理だったかと笑う余裕も出てきた。
喫茶店を出ると、近くのビルの二階にあるチケット屋に行って、商品券を金に換えた。今までに一度、巻上げた財布の中に入っていた新幹線の回数券を換金したことがあるのだ。商品券は四万円の現金になった。
日曜日は祐輔の一番いやな日だった。父親も母親も妹も家にいたからだ。父親の会社は週休二日制だったが、父親は土曜日も仕事にいっていたので、顔を合わすのは日曜だけだった。母親のパートの仕事も、日曜は休みだった。
祐輔は昼近くになって、目を覚ました。服を着替えていると、下から妹の笑い声が聞えてきた。誰にも顔を合わさずに、梯子を使って外に出ようかと考えたが、逃げていると思われたら面白くないので下に降りていった。
居間の横を通ったとき、父親と母親と妹がテレビを見ながら昼食をとっているのがちらっと見えた。洗面所で顔を洗い、歯を磨くと、自分の部屋に戻るためにまた居間の横を通った。
「祐輔、ご飯はどうするの」という母親の声が飛んできた。「いらん」祐輔は居間のほうを見ないで答えて、すぐに階段に足をかけた。「しょうがないわねえ」という母親の声に続いて、「いらん言うてるもんに、食べさせる必要なんかない」という父親の声が聞えてきた。ふんと祐輔は鼻先で笑ってから、階段を上った。
外に出るのにどの服を着ていこうかと迷っていると、ドアを叩く音がした。
「だれや」
「わしや」父親だった。
「何の用」
「ここを開けろ」
「まず何の用か言うてえな」
「……話があるんや」
「何の話」
「とにかくここを開けろ」父親が再びドアを叩いた。
「何の話か聞いてから開けるわ」
「梯子のことや」
祐輔はちょっと考えてから、鍵を外して、ドアを開けた。父親はパジャマの上から、ブルーのガウンを羽織っていた。口許に笑いを浮かべている。
「どういうつもりなんや、梯子なんか作って。母さんから聞いたんやが、非常階段やて」
「そうや」
「階段やったら、これ一つで十分やないか」と父親は横の階段に目をやった。
「心配やから、作ったんや」
「何が心配や」
「火事」
「そんなもん窓から飛降りたら、助かるわ」
祐輔が答えないでいると、父親は、ちょっと見せてもらおかと言って、中に入ろうとした。祐輔はそれを体で遮った。
「梯子を見るだけやないか」父親は胸を反らせて、祐輔をにらんだ。
「入ってもらいたないわ」
「自分の建てた家やのに、わしは自由に歩けんのか」
「梯子外したかったら、勝手に外せや。その代わりこの家どうなっても知らんで」
「親を脅迫する気か」
祐輔は声を出さずに笑った。
「おまえ、いくつになった」と父親が訊いた。
「え?」
「何歳になったか、訊いてんねや」
「十九」祐輔はぼそっと答えた。
「二十歳になるのは今年か、来年か」
「来年や」
「そうか」
「わかった、わかった」と祐輔は大きい声を出した。「来年になったら、こんな家出ていったるわ」
「それを聞いて安心したわ」父親はうっすらと笑いながら言った。祐輔はその笑いを遮るように、ドアを閉めて鍵をかけた。
何年か前に父親と口論したとき、祐輔は二十歳になったら出ていったるわと口走り、それから口げんかをするたびに父親がその言葉を持出した。祐輔も次第にそのつもりになり、逆に言えば二十歳までは意地でも家にいてやろうという気持になった。
その日、祐輔はすぐに家を出、真夜中まで帰らなかった。
大柄たちはこの前ディスコで引っかけた女たちの話をしていた。埠頭まで行って夜の海を見てから、今度はスナックで呑み直し、それから三人それぞれが相手を決めて、ホテルに連込んだというのだった。
「おまえ、ほんとにホテルに行ったのか」と大柄が金髪に訊いた。
「女のほうが積極的で、おれ、困っちゃったよ」金髪はにやにやしながら、髪の毛を掌でなでつけた。
「うそっぽいんだよな」と大柄が笑った。
「おまえはどうやったんや」とチックがサングラスに訊くと、サングラスは黙って拳を突出した。人差指と中指の間から、親指が出ている。
「説得力があるう」チックが甲高い声を出した。
「露骨なんだよ」と大柄が言うと、笑いが起こった。祐輔もつられて笑った。
「そう言うあんたは、どうやったんや」とサングラスが大柄に訊いた。
「おれは、これで、これよ」と大柄は拳で何かを殴る真似をし、その拳を突き上げた。
「それやったら、強姦やないか」
「ホテルに連込んだら、強姦もへったくれもあるかいな」「まいった、まいった」
「どや、一緒に行きたかったやろ」と大柄が祐輔に訊いてきた。笑うだけで答えないでいると、「こいつはね、カードを使うために、早く帰りよったんや。次の朝一番にどこかの店でカードを使うために。時間が経てば、それだけ危ないからな。どや、図星やろ」とサングラスが言った。
「そんなところや」
「このやろう。そんなことは一言も言いやがれへんかったな」と大柄が大きな声を出したが、顔は笑っていた。
「それでどうやった。カード、使えたか」とチックが訊いてきた。
「あかんかった」
「ばれたのか」
「ああ」
「それで、そのカードはどうしたんや」と大柄が真顔になって訊いてきた。
「捨てたよ」
「ほんまか」
「ああ」
「それならよかった」と大柄はうなずいた。「警察の手に渡って、指紋でもばっちり取られたら、やばいからな」
ああ、そうかと祐輔は初めて気がついたが、黙っていた。たとえカードから自分の指紋が見つかっても、今まで一度も警察に指紋を取られたことがないので、大丈夫だという気持だった。それに自分以外の指紋が検出されて大柄たちが捕まっても、自分のところまでは手が伸びてこないだろうと祐輔は思った。大柄たちがカードのことをうるさく言わないのも、自分と同じように考えているからに違いない。
「そろそろ行こか」と大柄が言った。酔払いが姿を見せ始める時刻だった。
今回の仕事の場所は、前よりも二筋南の飲み屋街だった。上等の背広を着た六十近い男が、酔いつぶれてビルの階段の下であぐらをかいていた。介抱する振りをして男を取囲み、祐輔が背広の内ポケットから財布を抜取った。男は何の抵抗もしなかった。
男の財布には二十五万円余りの金があり、祐輔たちは歓声を上げた。大柄が六万円取り、残りを外の連中で分ける際に祐輔は四万円でいいと言った。
「この前のカードは一銭にもなれへんかったのに、今度は最低でええんか。欲がないやっちゃな」と金髪が皮肉っぽく言った。余計なことを言ったと思いながらも、祐輔は素知らぬ顔で「おれ、欲がないんや」と答えた。
週末でもないのに、〈オクトパス〉は混んでおり、一階も二階もテーブルが空いていなかった。金髪とチックが探し回り、ようやく一階の中ほどあたりに相席のテーブルを見つけてきた。相手は先週と同じく三人組の女たちだったが、年齢は四、五歳上に見えた。
「どうもすいませんねえ」と言いながら、チックが腰を降ろした。
「いいのよ。あたしたちもちょうど退屈していたところだったから」三人のうち一番化粧の濃い女が答えた。
「もう踊ったの」と金髪が訊いた。
「始めにちょろっとね」
そのとき、止んでいた音楽が再び激しく鳴出し、ストロボのような照明が始まった。
「踊れへんか」と金髪が怒鳴った。
化粧の女が両側の女たちに、どうするというように訊いている。髪の長い女と赤いイヤリングをつけた女はお互いに顔を見合わせ、踊ろうかというような口の動きを見せている。ストロボの光の中で、女たちの唇が赤黒く見える。
女たちが立上がり、祐輔も一緒にフロアに出た。三人を囲むように、祐輔たちは踊った。一番うまいのはサングラスで、手足を操り人形のように奇妙に動かして踊り、周囲の男女が彼を見るために空間をあけるほどだった。
金髪はいつの間にか一人の女の手を取って、踊っていた。祐輔がそのほうを見ていると、そばにいた化粧の女が体を動かしながら、「踊れる?」と耳の近くで叫んで、手を伸ばしてきた。祐輔は首を振ったが、女は構わずに祐輔の手をつかんだ。
女と二人で踊るダンスは苦手だったが、祐輔はしかたなく女の背中に左手を回した。女の胸元から汗と化粧の混じり合った匂いが湧上がってきて、祐輔はちょっと顔をそらした。
女は踊りなれているのかステップが軽く、祐輔は女にリードされて踊った。曲が変わると、女たちは相手を換えたが、祐輔は彼女たちをチックや大柄に任せて、一人で踊った。曲の合間に大柄が近寄ってきて、「三人ともなかなかええ女やないか」とささやき、女の尻をなでる仕草をした。
「おまえはどれが好みや」
祐輔は女たちをじっくり見てから、「あれかな」と化粧の女を顎で示した。
「お、おれとおんなじやな」と大柄は祐輔を見た。
五、六曲踊ったところでテーブルに戻ると、他の連中も遅れて戻ってきた。チックがそれぞれに飲物の注文を訊き、水割りとコーラを持ってきた。
「名前、教えてよ」音楽が止んで、チックが訊いた。
「そんなことどうでもいいでしょ」と化粧の女が答えた。拒否しているというのではなく、本当にどうでもいいというような言い方だった。
「おれ、マック。どうぞよろしく」とチックが言う。
「そう」
「面白くない?」
女は急に笑い出し、再び真顔に戻ると、「ぜーんぜん」と答えた。
「そっちの彼女、名前教えてくんない?」チックは隣の女に訊いた。髪の長い女は笑って答えない。
「名前があかんかったら、電話番号でもええで」と大柄が言った。
「どうしてそんな余計なことを訊くの。一緒に踊るだけでいいじゃないの」とイヤリングの女がのんびりとした口調で答えた。ちょっと舌足らずで、高い声だった。
「ええ声してるやん」と金髪が言うと、「いやだあ」とイヤリングの女は体をよじった。
再び照明が回り出し、ラウドスピーカーから腹に響くドラムの音が飛出してきた。「もっと踊ろか」とチックが怒鳴った。女たちは互いに顔を見合わせたが、返事をしない。「そんなら、ドライブはどうや」と大柄がハンドルを回す仕草をした。
「車、持ってんの?」と化粧の女が高い声を出した。
「とうぜん」
化粧の女が「行く?」と二人に訊いた。イヤリングの女はうなずいたが、髪の長い女は困ったような表情を見せた。それでも三人一緒に立上がり、大柄たちは女たちを囲むようにして出口に向かった。
〈オクトパス〉を出たところで、髪の長い女がトイレにいき、大柄以外の男たちもトイレにいった。トイレで祐輔たちはじゃんけんをして、サングラスとチックが負けた。チックはこの前も負けたので、ぶつぶつと文句を言ったが、誰も相手にしなかった。
地下に降りるエレベーターが一階で開くと、髪の長い女が「あたし、やっぱり帰るわ」と降りてしまった。どうしてと言いながら、イヤリングの女も出ようとしたが、ドアが閉まってしまった。金髪が「閉」のボタンを押したのを、祐輔は見逃さなかった。化粧の女は落着いていて、「あの子の家はうるさいからだめよ」とイヤリングの女の腕を取った。
地下の駐車場に降りて、女たち二人を両側から挟む形で、車のある場所に向かったが、サングラスとチックは後に残った。祐輔が振返ると、二人はエレベーターのそばでじゃんけんをしていた。サングラスが勝ったのかこちらにやってきたが、チックもその後からついてきた。
女たちと金髪が後ろの座席に坐り、祐輔とサングラスは前に坐った。大柄がエンジンをかけたり、ライトをつけたりしていると、チックが窓から顔をのぞかせた。祐輔はサングラスの肩ごしに後ろを見た。
「後ろ、彼女ら二人やったらすきすきやんか。おれ一人ぐらい入れるやろ」
「あかん、あかん」と金髪が手を振った。「見かけはほっそりしてるけど、腰なんかこんなんやで」
金髪が両手で大きさを示すと、女たちは笑った。
「ばかやろう。おまえなんかこの前もうまいことやりやがったやないか」
「そんなに乗りたかったら、トランクにでも入るかあ」
女たちはまた笑った。
「定員オーバーでおまわりに目をつけられたら、かなわんからな」と大柄は言って、エンジンを空ふかしした。そのときドアをける音がし、大柄は、ははと笑ってから、車を急発進させた。
コンクリートで囲まれた駐車場から深夜の街に出た。車は少なく、ネオンサインだけが変わりなく点滅していた。いつものスナックに向かう途中で、金髪が、彼女と言って呼びかけるのはやりにくいから、とりあえずどんな名前でもいいから教えてと頼むと、化粧の女がケイ、イヤリングの女がエムと答えた。「それ、イニシャル?」と金髪が訊いたが、ケイとエムは笑って答えなかった。
十坪ほどの深夜スナックには数人の客がおり、祐輔たちが入っていくと、急ににぎやかになった。一つのテーブルを占領し、キープしていたウイスキーが残り少なくなったので、新しいボトルを注文し、アイスボックスとミネラルウォーターを真ん中に置いた。サングラスが六人分の水割りを手早く作って、みんなに渡した。「あたし、おなかすいちゃった」とエムが言い、ケイが「あたしも」と同調し、マスターの勧めで、二人は焼きうどんを注文した。
二人は皿に大きく盛られた焼きうどんを、おいしいわねえと言いながら食べ、水割りを呑んだ。
「色気ねえなあ」と金髪が言った。ケイが割箸を持った手を休め、顔を上げて目で笑いかけた。
「あんたたちもなんか食べたら」とケイが言った。
「おれも腹が減ったから、なんか食べようかな」とサングラスが答え、祐輔もメニューに目をやった。大柄も腹が減ったと言い、ケイが「焼きうどん、おいしいわよ」と勧めると、祐輔たちはみんな焼きうどんを頼んだ。「主体性がないのね」とケイが笑った。
「二人はどういう友達なの。ぱっと見たところOLって感じやけど」焼きうどんを食べ終って、水割りのグラスを手にしながら、金髪が訊いた。
「さあ、どうかしら」とエムが答える。
「職場が一緒?」
「そんなところかしら」
「あたしたちのことより、あんたたちはどういうグループなの。仕事仲間には見えないけど」とケイが言った。
「仕事仲間やで」と大柄が祐輔やサングラスに顔を向けながら答えた。金髪が含み笑いをした。
「嘘でしょう。とってもそうは見えないわ」
「なんでや」
「だって、みんなばらばらの感じやもん」
「どういうふうに、ばらばらや」
「服装がまちまちやし、一人一人雰囲気が違うし……」
「肉体労働や言うたら、信じるか」大柄がそう言うと、金髪は変な声を出して、笑った。
「うーん、そうねえ」とケイは金髪に目を向けながら、少しの間考える素振りを見せた。「力仕事だったら、納得できないことはないけど」
「力仕事なんやで」と金髪は思わせぶりな言い方をした。
「どんな仕事」とケイが訊いた。
「さあね。当ててみたら」
そんなこと、わからないわと言いながら、ケイはしばらく考えて、「もしかして、大工さん?」と言った。ブーと金髪が答えた。
それじゃあ、引越し屋さん。ブー。左官屋さん。ブー。ダンプの運転手。ブー。土方。ブー。屑拾い。ブー。
「何かない?」とケイはエムに訊いた。
「鉄筋工」エムは即座に答えた。
「なんや、それ」
「ビルなんかの鉄筋を作る人」
「なんでそんなん知ってるんや」
「正解なの?」
「ブー」
ケイが祐輔のほうに目を向けて、「ねえ、教えて」と酔いが回ったような甘えた言い方をした。瞳が潤んでいる。祐輔は笑うだけで、答えない。
「この顔見たらわかるやろ」とサングラスが初めて口を開いた。「まともな仕事してるように見えるか」
ケイは男たちの顔をぐるっと見回し、「見えないわねえ」と言って笑った。
「そしたらあんたたち、暴力団関係の人?」とエムが訊く。
「暴力団関係ねえ。まあ、そんなところか」金髪が顎を撫でながら答えた。
「やくざの人には、とても見えないけど」とケイが言った。
「やくざであるわけないやろ。おれたち、みんなまともやで」大柄が手に持ったグラスを掲げて答えた。金髪が吹出し、「やくざなら乗ってる車は外車やもんな」と揶揄するように言った。
閉店の時間になり、勘定は男たちだけの割り勘になった。車に乗込んだところで、大柄が「送ったるわ。家、どこや」と尋ねた。ケイとエムは、どうするなどと言合っていたが、「※※でいいわ」と〈オクトパス〉のある都心の名前を言った。
「電車はもうないで」と金髪が言った。
「構わないわ」とケイが答えた。
「タクシーで帰るくらいやったら、送ったるで」
「いいのよ」
「誰も家まで押しかけへんで」
「いいって言ってるでしょ。いやなら、降りてもいいわよ」
ケイはドアのハンドルに手をかけた。
「わかった、わかった。戻ったらええんやろ」と大柄が言い、車を発進させた。
「運転、大丈夫?」とエムが訊くと、大柄はわざとジグザグ運転をし、女たちに悲鳴を上げさせて、笑った。
都市高速道路入口の標識のある交差点で、大柄は標識の矢印の方向にハンドルを切った。
「どこ行くんや」とサングラスが訊いた。深夜なので一般道路も車はほとんど走っていなかった。
「信号のない分だけ、早く着くやろ」と大柄は答えたが、時間にして二十分とはかからないところを高速道路に乗ってもほとんど意味がないことは、祐輔にもわかっていた。しかし黙っていた。
高速道路に入って大柄は速度を上げ、一定のスピードになったところで、窓を半分ほど開けた。酒くさい臭いと化粧の匂いの混じった車内の空気が掻き混ぜられた。「気持いい」というエムの声がした。
ほんのときおり対向車線を車が行き過ぎる以外は、他の車を見なかった。ヘッドライトに照らし出されるものといったら、背の高い防音壁か黒っぽい道路面だけだった。
都心に降りる出口に近づいても、大柄は車線を変更しなかった。サングラスが大柄の腕をつついて標識を教えても、大柄は知らん顔をしていた。
「まだ着かないの」とケイが言った。
「もうちょっとや」と大柄が答えた。しかし出口はとうに過ぎていた。
「さっきの出口、降りるんとちゃうかったんか」金髪がのんびりとした口調で言った。
「そうかあ」大柄も同じような調子で答えた。
防音壁から突出たビルの姿が見えなくなってしばらくしてから、「どこを走ってんの」とケイが身を乗出してきた。
「降りる出口を見過ごしてしもたからな」と大柄は左右にゆっくりと首を巡らしながら答えた。
「どこへ連れていくつもり」ケイが大きな声を出した。
「出口を探してんねん」
「どこでもいいから、早く下に降りてよ」
「わかってますよ」
しかし大柄は出口を二つも無視して、車を走らせていった。アーチ型の大きな橋を渡ったところで、祐輔は都心からかなり離れてしまったことを知った。
「あんたたち、何考えてんのよ」とケイが金髪を詰っている。
「おれは知らないよ」と金髪は答え、大柄の肩の横に顎を突出した。「なんでもいいから、早く戻ってやってえな」
「次の出口で降りるぞ」
その言葉どおり大柄は車線変更をして、矢印の標識が見えると、その矢印に沿って出口に車を走らせた。
料金所を過ぎると、片側三車線の広い道路に出た。ときおりトラックが猛スピードで通り過ぎる。両側には建物の姿はなく、照明灯に照らされたところは、一方は樹木、こちら側は鉄板か何かの塀になっていた。大柄は塀に沿って一番左の車線をゆっくりとした速度で走らせた。
「ここ、どこなの」とケイが言った。
「さあ、どこやろな」大柄は左側に目をやりながら答える。
「もういいから、降ろして」とケイが叫んだ。
「こんなとこで降りたって、タクシーもけえへんで」今度は金髪が答える。
「何すんのよ。触らないでよ」ケイが甲高い声を出した。「興奮を鎮めたろと思うただけやないか」金髪が大きな声で言った。
「お願いやから、車を止めて」エムが身を乗出してきた。
「わかってる、わかってる」
しかし大柄はいっこうに車を止めず、逆に速度を上げると、タイヤをきしませて横道に入った。しばらく行くと、鉄板の塀の切れ目がちょうど囲いの入口のようになっており、そこで一旦車を止め、緩んで地面に垂れ下がっている鎖を踏んで、中に入った。
中には照明がなく暗かったが、ヘッドライトに照らされた部分には白線が見えた。車は全く見当たらなかったが、かなり大きな駐車場のようだった。真ん中あたりまで行って大柄は車を止め、サイドブレーキを引いた。
「ここはどこなの」とケイが小さな声で言った。大柄が後ろを向き、背もたれの上に腕と顎を乗せて、「さあ、どこでしょ」と答えた。
ケイはドアを開け、「とにかく降りましょ」とエムの手を引張った。女たちが出るよりも早く、大柄がドアを開けて外に出、それにつられるように、祐輔たちも車を降りた。ヘッドライトの明りだけが頼りだった。
「何よ、あんたたち」ケイが、自然と取囲むような形になった祐輔たちに噛みついた。金髪の顔が泣き笑いの表情に見える。
「さあ、行きましょ」とケイはすっかりおびえているエムの腕を引寄せて、大柄とサングラスの間を通ろうとした。そのとき大柄が女たちの腰に手を回した。
「何すんのよ」ケイが大柄の手を叩いた。大柄は手を引っ込めると、「ここまで来たんやから、もうちょっとつき合えや」とにやにやしながら言った。
「変なことしたら、承知せえへんわよ。あたしの兄さん誰だか知ってんの。※※組の若頭よ」
ケイは広域暴力団の名前を口にした。大柄の顔から笑いが消えた。
「でたらめ言うな」
「嘘やと思うんやったら、電話したら」とケイは大きな声で番号を言った。大柄は言葉に詰まったように黙ってしまった。
「それじゃあ、帰らしてもらうわ」ケイはエムの肩を抱いて、大柄の横を抜けた。男たちは誰も動かない。祐輔はケイとエムを見送っている大柄、金髪、サングラスの顔に何度か目をやってから、女たちの後を追った。柔らかい靴底なのに、意外と大きな音がする。
ケイが後ろを振返り、小走りになった。祐輔は全力で走り、出口の五メートルほど手前で追いつくと、後ろからケイの衿をつかんだ。エムが悲鳴を上げる。ケイがのけぞりながら、祐輔の手を払おうとしたが、祐輔が衿を引張ると、バランスを崩して横向きに倒れてしまった。エムがまた悲鳴を上げた。祐輔がエムのほうに目をやると、後ずさりしながら逃げようとしたが、ハイヒールが捻れて尻もちをついた。
そのとき後ろから大柄たちの走ってくる靴音がした。祐輔はケイの右腕を絞り上げた。ケイはハンドバックで祐輔を叩こうとしたが、右腕をさらに絞るとおとなしくなった。大柄が四つんばいになって逃げようとしたエムをつかまえ、暴れると腹を一発殴った。
「車のほうへ連れていこうや」と大柄が祐輔に言った。祐輔は同意して、ケイを引張っていこうとしたが、いやよと叫んで腰を落とした。サングラスがもう一方の腕をつかみ、引きずっていった。大柄はぐったりとなったエムを肩に担ぎ上げた。
車の横まで連れていき、祐輔は絞っていた右腕を押すようにして放した。ケイは車のドアに頬をつけるようにして坐り込んだ。いつのまにか素足になっている。大柄はケイの横にエムを降ろした。エムは倒れたまま足を曲げて海老のようになった。肩が震え、すすり泣いているのがわかった。
「こうなったら、二人いっぺんにやろか」と金髪が言った。金髪は女たちのバッグを手に下げている。
ケイが突然金切り声を上げた。耳が痛くなるような声だ。大柄が近づいて、ケイの頬を思いきり張った。その反動でケイはドアに頭を打ちつけた。大柄はさらに一発頬を張り、ケイのシャツブラウスの胸元に指を入れて引きちぎろうとしたが、うまくいかない。そのときケイがで大柄の顔を叩いた。大柄はこのやろうと怒鳴って顔を離し、ちょっと手を貸せと祐輔たちに言った。
祐輔とサングラスはケイの足首を持って引きずり、彼女を車から離した。スカートがまくれ上がり、太腿まで露になった。ケイは足かせを逃れようと、力いっぱい脚を動かした。しまいには上半身を起こそうとしたため、大柄がケイの首を膝で押さえ、金髪に手を持てと言った。金髪は手に持っていたバッグを肩にかけ、ケイの両手首をつかんだ。
ケイはバンザイの恰好になる。
「どうや、観念せえ」そう言って、大柄はケイの顔に唾を吐きかけた。ケイは芋虫のように体をねじった。大柄はケイの体にまたがって、シャツブラウスの裾をスカートの中から引張り出し、両側に裂いた。今度は簡単にボタンがちぎれ飛んだ。白いスリップが見え、大柄は胸元に指をかけてそれをずり下げた。肩紐が外れ、乳房が現れる。大柄は乳房を一回ぎゅっと握ってから、次にスカートを外そうとした。しかしホックの部分が背中にあるのか、なかなかうまくいかない。祐輔は女の足首を握りながら大柄の様子を見ていたが、何だかおかしくなって笑えてきた。
「スカートなんかはずさんでも、まくってやったらええやないか」と金髪が言った。
「うるさい」大柄は怒鳴り、スカートを回そうとしたり引張ったりして格闘したが、ついに諦めて女の腹のほうにまくった。パンティストッキングに包まれた下半身が、別の生き物のように見える。
大柄がパンティストッキングに手をかけると、女は激しく体をひねった。それでも構わず大柄はパンティごと引きずり降ろしていったが、脚が開いているので膝から下にいかない。「もっと閉めろ」と大柄が言い、祐輔はサングラスに近づいた。
女の足からパンティストッキングとパンティを抜取るのは、祐輔とサングラスの役目だった。いくらか暖かみの残ったそれらから、一瞬汗のような臭いがした。パンティを脱がされると、女は急に暴れるのをやめた。
大柄は女の股の間で立て膝になり、ズボンのファスナーを降ろして、ペニスを引張り出した。そして女の部分と自分のものに唾をつけ挿入しようとしたが、うまくいかない。もっと上げろと大柄が言い、祐輔とサングラスは足を持ち上げた。金髪は女の両手をつかんだまま、腰を降ろしている。大柄が挿入すると、女は目を閉じたまま顔をしかめ、横を向いた。
大柄の行為はあっけないほど早くすんだ。のろのろとペニスをズボンの中へしまう大柄に、「交替や、交替や」と金髪が言った。大柄は照れたような笑いを浮かべながら、女の脚をまたいで、頭のほうに回った。
金髪に代わって大柄が女の手首を持とうとしたとき、女の体が突然震え出した。祐輔は思わず足首を握っていた手に力を入れたが、次の瞬間横向きのまま女が吐いた。口から白っぽいものが溢れている。
「きったねえ」と言いながら金髪は回ってきて、大柄同様立て膝になり、ズボンのベルトを緩めると、パンツと一緒にずり下げた。尻は青白く、所々に染みのような斑点がある。金髪も唾をつけて挿入し、大柄の倍ほども時間をかけた。金髪の次はサングラスだった。「ジーパンが汚れるぞ」という金髪の言葉に従って、サングラスも尻を出して行為をした。
祐輔の番になって、彼は首を振った。
「どうしたんや」サングラスに代わって足首を持っていた金髪が言った。
「気が乗れへんだけや」
「おまえ、インポか」と大柄が言った。祐輔は笑って答えない。ずっと勃起していたのだが、女が吐いたのと金髪の尻を見たのとで、急に柔らかくなってしまったのだ。
「それじゃ、次行こか」金髪は女の足を放り出した。大柄が手を放し、祐輔も足を放した。女はゆっくりと肘で頭を抱え、下半身むき出しのまま横向きになると、後は身じろぎもしなかった。
エムはまだ体を丸めて、横倒しになっていた。金髪がその上に屈み込んで、脇のあたりをつつくと、体をびくんとさせた。
「今度は裸にしようぜ」と大柄が言った。金髪がエムの髪の毛をつかんで、顔を起した。きつく目を閉じている。
エムは縦縞のワンピースを着ており、大柄が背中のファスナーをゆっくりと降ろした。しかし自分の胸を堅く抱くようにしているため、ワンピースの袖を抜くことができない。
「脱がせへんかったら、引きちぎるぞ」と大柄が女の耳許で言った。女はじっとしている。
「手伝え」と大柄が言い、祐輔は金髪と一緒に女の腕をはずしにかかった。女は膝を突き上げ、頭を振って、抵抗した。足をサングラスが押さえ、大柄が女の顔を数回張る。女の体から力が抜け、嗚咽を漏らし始めた。
女が力を緩めると、服を脱がすのは簡単だった。パンティストッキングとパンティを脱がすときにちょっと抵抗しただけで、女は全裸になった。押さえつけていた手と足を放すと、女はあぶられたスルメのように丸くなった。
男たちは回りに立ってその白い体を見下ろした。祐輔は再び勃起していた。
「やるか」と大柄が言った。
「おれはもうちょっと後」と金髪が答える。
祐輔は黙って靴を脱ぎ、ジーンズとパンツを下ろして、足から抜いた。「お、インポじゃなかったな」と大柄が言った。
女は膝をかたく閉じており、祐輔は両手で開こうとしたが、だめだった。「手伝おか」と金髪が横に来たが、祐輔は首を振った。
祐輔は女の尻から背中へと手を滑らせていき、そのまま女の体に覆いかぶさった。女はこきざみに震えており、体からはチーズのような匂いがした。
祐輔は女の耳許で、「力抜けへんかったら、むりやり脚を広げることになるで」とささやいた。それでも女は力を緩めない。祐輔は自分の胸を抱いた女の腕をさすり、目を閉じた女の顔をなでながら、同じことを何度もささやいた。
しばらくして女は腕を解くと、顔を両手で覆った。体から力が抜けている。祐輔は膝を割って下半身を入れると、すぐには挿入せず、女と合意のうえでやるように乳房を愛撫し、股間に指を滑らせた。
十分前戯をしてから、祐輔は挿入した。女は顔を覆ったまま喉を反らし、膝で祐輔の腰を締めてきた。祐輔は普通に女とするように相手の反応に合わせて動き、最後に射精した。
立上がってパンツとジーンズをはいていると、「面白くねえなあ」という金髪の声がした。金髪は口をとがらし、バッグを振っていた。
「そんなふうにやられたら、全然興奮せえへんやないか」
大柄も白けた表情で、「そろそろ行こか」と車のほうに向かった。金髪はバッグを女たちのほうに放ってから、大柄の後に続いた。
「どうも悪いことしたな」祐輔は車に乗込んでから、三人に向かって言った。
「わかってたら、これから注意してよね」と金髪がおどけてみせた。大柄が車を発進させる。
しばらく走って、金髪がズボンのポケットから二つの財布を取出した。「これ、あいつらのや。さっき抜取ったんや。おれがもらっとくで」
「おまえ、抜け目がないなあ」と言って、大柄が笑った。
チックは大柄から強姦の話を聞くと、舌を鳴らしてくやしがり、「それはないよ、それはないよ」と大柄や金髪の腕を小突いた。金髪が身振り手振りで具体的に説明すると、体をねじって奇声を発した。「きょうは絶対降りへんからな」とチックは言い、「な、代わってくれよな」と祐輔に擦り寄ってきた。祐輔は苦笑しながらうなずいた。
祐輔たちはゲームセンターを出て、南に行ったが、仕事をしようと思っていた通りに警官の姿を見つけたため、何もしないで北に戻った。
仕事をせずに遊ぶのは誰もが気乗りのしない様子だったが、とりあえずという感じで〈オクトパス〉に行った。空いているテーブルに腰を降ろし、チックの取ってきた水割りを呑んでいるとき、「やっと見つけたわ」という女の声がした。ケイだった。この前とは違って、細いスラックスをはいていた。
「あんたたちをずっと探してたのよ」ケイは祐輔たちのテーブルから少し離れたところに立って、腕を組んでいた。
「またつき合いたいっていうの?」と金髪がにやにやしながら言った。ケイは金髪の声など全く聞えていないみたいに、「あんたたち、そこにいなさいよ」と言うと、腕を解いて引返した。
祐輔は嫌な予感がしたが、大柄たちが逃げようとしないので、じっとしていた。
「やばいんと違うか」とサングラスが言ったが、「心配すんな。つかまるわけないやろ」と大柄が答えた。
祐輔は気になって、ケイの立っていた方向に目をやっていたが、ケイが何人かの男たちを連れて戻ってきたときは、思わず腰を浮かしてしまった。
男たちは八人で、そのうち二人はチェックの派手なブレザーを着ており、他の六人は黒っぽいジャンパー姿だった。坊主頭の一人を除いて全員がパンチパーマをかけており、三人がサングラスをしていた。
男たちはテーブルの回りを取囲んだ。隣のテーブルの男女四人組が席を立った。
「何の話かわかってるやろ。ちょっと顔貸してもらおか」
ブレザーを着たうちの一人が低い声で言った。大柄は両隣に坐っている金髪とチックの顔を見、祐輔のほうにも目をやってから、テーブルに手を突いて立上がった。それにつられるように祐輔たちも腰を上げた。
ブレザーを着た男二人が前を行き、ジャンパー姿の男たちが祐輔たちの回りを固めた。テーブルが接近して狭くなっているところでは男たちは椅子を蹴り倒した。席を立った男女の客が遠巻きにして祐輔たちを見ていた。
店を出、エレベーターを待っているとき、ケイが横に来た。
「あんたたち、もうおしまいよ」とケイが言った。祐輔はジャンパーの男の肩越しに、彼女を見た。勝ち誇ったような言い方とは裏腹に、眉根を寄せたきつい顔をしていた。
エレベーターに全員が乗るといっぱいで、祐輔は押されて坊主頭の男の胸に肩をぶつけた。坊主頭は下唇を突出して祐輔をにらみつけ、同時に拳を祐輔のわき腹に食込ませた。痛みをこらえながら、祐輔は体中がかっと熱くなるのを感じた。
エレベーターは一階で止まらずに、地下まで降りた。
「ここやったら、人がおれへんからええやろ」とブレザー男が言った。
「おまえらの車はどこや」ともう一人のブレザー男が訊いた。大柄が指をさすと、「よし。そこまで行こか」と言った。
大柄と金髪がブレザー男二人の後ろを歩き、その後にチックとサングラス、そして祐輔が続き、ジャンパーの男たちが祐輔たちを挟みつけるように歩いた。ケイが一番後ろについている。大柄がときおり振返って、チックや祐輔を見た。いつ男たちの囲いを破って逃げるつもりなのか、祐輔は大柄の目の動きから探ろうとしたが、よくわからなかった。
駐車場はコンクリートの柱ごとに蛍光灯がついているが、柱と柱の間では、大分暗くなる。そこに来たとき動くかと祐輔は緊張したが、大柄たちは歩いていく。
突然タイヤのきしむ音が響き、同時にヘッドライトの光が射込んできた。車はかなりの速度で突込んでくる。それも二台だ。
男たちも祐輔たちもわきに寄った。二台の車はスピードを落として近づいてきたが、そのとき大柄が車の前に飛出した。少し遅れて金髪も後に続いた。急ブレーキの音が耳を打つ。大柄はもう少しでバンパーにぶつかりそうになりながらも、ボンネットに手を置いて向こうに回り込み、金髪はらくらく車の前を走った。「ばかやろう」と運転手の若い男が怒鳴る。
「野郎、待ちやがれ」とブレザー男が叫び、男たちの目が逃げた二人に向いた。囲いが緩む。祐輔はとっさに男たちの間をすり抜けるようにして、大柄たちとは反対方向に走った。エレベーターの横には階段がある。そこを目指して足を動かした。宙に浮くような感覚がもどかしい。「おまえはあっちだ」という怒鳴り声。すぐ後ろで、靴音が聞える。
もう少しで階段というところで、祐輔はちらっと振返った。サングラスがついてきている。その背後には三人の黒いジャンパーが見えた。
「おれは関係ないよお」というチックの悲鳴に近い声が聞えてきた。階段を駆け上がっている間も、チックの叫びが聞えていた。
祐輔とサングラスはビルを出てから、別々の方向に走った。人通りの少なくなったアーケード街を、何でこんなに人がいないんだと悪態をつきながら、祐輔は走った。とにかくバイクのあるところまで行き着きたかった。
祐輔は家にじっとしていた。ほとぼりがさめるまでは、あの近くには顔を出さないと決めた。他の連中、特にチックのことが気になって、新聞の社会面に丹念に目を通したが、それらしい暴力事件は載らなかった。せいぜい指を詰められる程度で、まさか殺されはしまいという気はしたが、それでも祐輔は殺人事件の記事が出ると、注意して読んだ。
祐輔が夜出かけない日が続くと、母親も妹も珍しいものでも見るような目で、彼を見た。父親が帰ってくるまでの間、一緒にテレビを見ていると、「お兄ちゃん、きょうも出かけへんの」と妹が笑いながら訊き、祐輔は黙って二階に上がることもあった。
漫画雑誌を買込んできて読みふけったり、バイクで夜の街を走ったりしたが、金がなくなってくると、そんなこともしていられなくなった。母親の財布から金を盗んだり、金目の物を売り飛ばして金を作ることは、意地でもしたくなかった。もし見つかれば、家を追出す口実を与えることにもなりかねなかった。
一カ月たってから、祐輔はいつものように夜の九時ごろゲームセンターに顔を出した。二十人ほどの客がいて、彼らのやっているゲームをのぞき込むようにしながら、ひとりひとり確認していったが、大柄や金髪はどこにもいなかった。祐輔は射撃やサーキットのゲームをして十一時過ぎまでいたが、誰一人現れなかった。
次の夜も行ったが、誰にも会えず、その次の夜、ようやく金髪と会った。祐輔がフライトシミュレーターで敵機を撃墜するのに夢中になっていると、肩を叩く者がいる。振向くと、金髪が口許をゆがめるような笑いを浮かべながら立っていた。祐輔は腰を上げてボックスから出た。
「他のもんは?」と祐輔は訊いた。
「おいおい来るやろ」
「全員か」
「さあ」
「あれから、仕事やったんか」
「先週、一回だけ」
「四人でか」
「いや、三人で」
「あいつがいてへんのか」
「そうや」
祐輔は再びボックスに入って続きをやったが、時間切れですぐに終ってしまった。
金髪はゲームテーブルの前に坐って、宝探しゲームをやっていた。横に立って見ていると、大柄がやってきた。
「お、生きとったんか」と大柄が言った。
「まあな」
「これで四人になったし、ちょっとは楽できるか」そう言って、大柄は笑った。
少したって、サングラスが現れた。レンズの色が黒から銀色に変わっている。祐輔が笑いかけると、サングラスは右手の親指を立ててみせた。
仕事に行くことになり、ゲームセンターを出た。大柄の車が今度は中型のハードトップになっていた。
「前のはどうしたんや」と祐輔は訊いた。
「あんなもん、危のうて取りにいけるか」と大柄は首を切る真似をした。
「それで大丈夫か」
「心配すんな。あの車から足がつくようなことはないわ」
今度のはスポーツタイプの二ドアで、後部座席に入るのが面倒くさく、祐輔がそのことに文句を言うと、「走って逃げるよりましやろ」と大柄は真面目な顔で答えた。
いつものように高速道路の高架下に車を止め、連れだって飲み屋街に入る。給料日の後のせいか、人通りが多く、仕事がやりにくい。一回国道まで歩ききってから、今度はふた手に分かれた。
祐輔が大柄と歩いていると、別の通りに行っていたサングラスが二人を呼びにきた。カモを見つけたと言う。三人は横道を走り、一つ南の筋に行った。サングラスの後についていくと、電柱のそばに立っていた金髪が手招きをした。
「あれや」と金髪はあごで示した。十メートルほど離れたピンクサロンの前で、白髪まじりのずんぐりとした男が店の表に張出された写真を見ていた。鞄を抱えており、体がわずかに揺れている。
「行こか」と大柄が先に歩き出した。
大柄が男の左後ろに立ち、祐輔とサングラスは写真を見るような恰好をして、男を挟んだ。金髪が「社長」と声をかけて、男の肩を叩く。男は振返りながら、横に動き、祐輔とぶつかった。男は驚いた表情で祐輔を見、鞄を両腕で抱え直した。赤い顔をしていたが、そんなに酔っているようには見えなかった。
「ええ子いてまっせ」と言いながら、金髪は男の腕をつかんだ。男は肩を振って金髪の手を逃れ、祐輔と大柄の間を行こうとしたが、その瞬間大柄が男の首に右腕を回した。男はうなり声を上げて、首の隙間に指を突込もうとする。
「取れ」と大柄が怒鳴った。祐輔が鞄を取ろうとすると、男は両手で押さえた。
突然、「いやあ、喧嘩やわ」という女の声がした。見ると、隣のバーのドアの陰から、ホステスが上半身を出している。祐輔は鞄の端をつかんで引抜こうとするが、焦っているせいかうまくいかない。金髪が男の股間に膝げりを入れる。女が悲鳴に近い声で何か叫んだ。男は前屈みになり、大柄は腕を放した。男の力が緩み、祐輔は鞄を引抜いた。そのとき「サツや」とサングラスが低い声で言った。
祐輔はサングラスの顔を見、反射的に彼の向いている方向に目をやった。二つの影がこちらに走ってくる。大柄も金髪も弾かれたように反対方向に走り出した。祐輔は走りながら、まっすぐ行ってはだめだとそればかり考えていた。先に逃げたサングラスが、棒のようなものを踏外して倒れてしまった。祐輔は棒切れを飛越え、大柄や金髪と同様に速度を落とさずにその横を走り抜けた。
次の横道を大柄と金髪は右に曲がったが、祐輔は左に折れた。曲がる直前、後ろを見たが、サングラスがびっこを引きながら走ってくるのが見えた。
全力で走るのに、鞄は邪魔だった。小さな橋にかかったとき、祐輔は川に向かって鞄を放った。向いから来た二人のサラリーマンが、欄干から下をのぞき込んだ。「欲しけりゃ、やるよ」と言いながら、祐輔は二人の横を走った。
地下鉄で北まで戻り、そこからバイクを飛ばした。
翌朝、母親がパートに出かけるのを見届けてから、祐輔は居間に降りた。朝刊が目当てだった。立ったままテーブルの上に新聞を広げて、社会面を見る。保険金詐欺の記事が大きく載っており、その他にはマイクロバスの横転事故や汚職事件の課長の自殺などが紙面を占めていた。下段の小さい記事にも目を通したが、火事や交通事故だった。
大丈夫やったんやなと思いながら、隣の紙面に目を移し、ざっと見たとき、「ひったくりつかまる」という小さな見出しが飛込んできた。一段だけの簡単な記事だった。時間も場所もぴったり同じだった。
つかまったのは十九歳の男で、少年Aと書かれていた。仲間は四人で、警察は逃げた三人について追及していると結んであった。
少年Aかと祐輔はつぶやいた。「おれがつかまっても、こういうふうに書かれたわけか」声に出して言ってから、祐輔は新聞を閉じた。川の中に放り投げた鞄のことにはひとことも触れられていなかった。あのときサラリーマンに顔を見られたのはまずかったと思ったが、おれの似顔絵を書くんやったら、少年Aに聞いたほうが正確なはずやと思い直し、もしおれがつかまったらどう言うだろうと考えた。たとえ仲間が助けもせずに逃げたとしても、出たらめを教えるだろう。
祐輔は取調べの様子を想像していると、不意におかしくなってきた。仲間の名前はと訊いても、少年Aには答えようがない。刑事は何とかしゃべらせようとし、本当に彼が何も知らないことがわかると、唖然とするだろう。祐輔はそのときの刑事の顔を思い浮かべ、テーブルに手をついて笑った。痙攣のような笑いが止まらず、祐輔は低い声を出し続けた。
金がなくなってきて、バイクのガソリン代にも事欠くようになった。バイクに乗れないということは、夜、外出できないということで、それは祐輔にとって一番いらいらすることだった。夕食を食べ終るとすぐに部屋にこもり、読み古した漫画に目を通したり、ラジオをひたすら聞いて時間をつぶした。
しかしそれも三週間が限度だった。祐輔はカセットステレオを古道具屋に持込んで金をつくり、その金で髪を短くし、ガソリンを入れた。変装用にサングラスも買った。
母親は祐輔の頭を見て、「やっとまともに仕事する気になったのね」と言った。
「これでどうや」と祐輔がサングラスをかけると、「お兄ちゃんがまともになるわけないやんか」と居間でテレビを見ていた妹が振向いて言った。
祐輔は立上がって妹に近づき、思いきり頭を殴った。妹はソファーから転がり落ちた。母親が悲鳴を上げる。祐輔は母親に拳を突きつけながら、階段のほうに歩いていった。
「大丈夫? 大丈夫?」というかすれた母親の声が聞えてくる。「ほんとに気違いなんやから」と妹が泣き叫んだ。祐輔は階段を上がりながら、にやっと笑った。
その夜、祐輔は久しぶりにバイクを飛ばした。ゲームセンターに寄ろうかどうか迷っていたが、見慣れた街に近づいてくると、もう大丈夫だろうという気になった。
自転車置場にバイクを置き、サングラスをかけて歩いていったが、途中で気が変わってゲームセンターに行かずに、向いの喫茶店に入った。窓際に席を取り、コーヒーを飲みながらゲームセンターを見た。一時間ほどたって、帰ろうかと思ったとき、見たことのある背恰好の男がゲームセンターに入っていくのが見えた。祐輔は急いで金を払い、走っていった。
店内のゲーム機の半数以上に客がついていて、祐輔は素早く目を走らせた。一人の男がゲームをのぞき込むような恰好で客の間を移動していた。祐輔はその男に近づいていき、後ろから肩を叩いた。男は体をびくっとさせ、上半身を反るようにして振返った。髪の毛は普通の黒に戻っていたが、金髪だった。
「おれだよ」と言って、祐輔はサングラスをはずした。
「何だ、おまえか」金髪は大きな声を出したが、顔はこわばったままだった。「脅かすなよなあ」
「サツやと思たんか」
「ばかやろう」
「髪染めんの、やめたんか」
「そっちこそ、髪切ってサングラスまでして、どないなってるんや」
「考えることは一緒や」
「お互いさまか」ようやく金髪は笑った。
「他のやつに会ったか」と祐輔は訊いた。
「サングラス野郎のことか」
「まあな」
「あいつはサツにつかまったんとちゃうか」
祐輔は新聞記事のことを話そうかと思ったが、やめた。
「もうひとりは?」
金髪は首を振った。「あのとき一緒に逃げるのはヤバイから言うて、途中で別れたんや。それっきり顔見てないなあ」
祐輔が黙ると、金髪は「それはそうと」と祐輔の腕を取って、近くの空いているゲーム機のところに連れていった。向かい合って腰を降ろすと、金髪は顔を近づけて、「あの鞄の中に、なんぼ入ってた?」とささやいた。
「捨てたよ」
「なんやて」金髪は甲高い声を上げ、ちょっと周りを見回してから、またささやくように言った。「何でそんなことしたんや」
「おれはつかまるのは嫌やからね。あんなもん抱えて走れるか」
「ふーん、なるほどね」しかし金髪が信用していないのは明らかだった。だが祐輔はそれ以上何も言うつもりはなかった。
お互い一人用のゲームをして時間を潰したが、大柄が来そうもなかったので、連れだって店を出た。金髪はふたりでやろうとしきりに持ちかけた。祐輔は気が進まなかった。車がなければ逃げるのも容易ではないし、二人だけでは危険が大き過ぎる。そのことを漏らすと、「そりゃおまえは懐があったかいからええよな」と金髪は鞄の件を暗にほのめかした。
「わかった、わかった」祐輔は突放すように言った。
金髪は南までいく金がもったいないから、ここでやろうと言い、祐輔はあえて反対しなかった。
国道沿いにふた筋ほど南に行くと、東西に伸びる飲み屋街がある。そこは南と違って道幅も広く、横道もすっきりしているので、人目につきやすい。それが今まで敬遠してきた理由だった。
祐輔と金髪は歩きながら、どういう方法でやるか話し合った。今までのように暗がりに引張り込んで、というのは無理だということで一致した。
「ヒットエンドランやな」と金髪が言った。
「それしかないな」と祐輔は答えた。相手をいきなり殴り倒して、金を奪うというもっとも単純な方法だった。
「財布を取るのは、おれの役目やからな」と金髪は念を押すのを忘れなかった。
信号を渡って飲み屋街に足を踏入れたとき、祐輔は久しぶりに膝が震えるのを覚えた。金髪に悟られないように、足を強く踏み、握り拳を作って力を入れた。
人通りはぽつぽつあったが、どれも二人とか三人づれなので敬遠するしかなかった。街の中程まできたとき、ホステスに見送られて店から出てくる男がいた。でっぷりと太った初老の男だった。祐輔と金髪は目を合わせ、小さくうなずき合った。男がタクシー乗り場までいく間が勝負だった。
男がこちらにやってくる。金髪は男に背を向けており、祐輔は肩越しに男を見た。見送っていたホステスが店の中に引っ込んだ。祐輔は顎をしゃくって金髪に合図をした。金髪はくるっと向き直り、二人は男に近づいていった。
男はさほど酔っているようには見えない。上背もあり、祐輔はこの場から逃げ出したくなった。しかし金髪は男に目を据えて歩いていく。
男とすれ違おうとした瞬間、金髪がわずかに体を横にずらして、男の肩にぶつかった。
「何や、おっさん」と金髪がすごんでみせた。男は少し怯んだ様子を見せたが、すぐに唇を突出すようにしてにらみ返した。金髪は横目で祐輔のほうを見た。祐輔は一瞬ためらってから、男の顔面に拳をたたきつけた。鼻骨にちょうど中指が当たり、鈍い音がした。男はよろめき、鼻を両手で覆った。顎から血がしたたり落ちる。
祐輔は頭が熱くなるのを感じながら、もう一度男の顔面を横から殴った。頬骨に拳が当たり、自分の指が痛くなった。男が屈み込もうとするところを今度は金髪が膝で蹴り上げた。男は上半身をひねるようにして倒れた。
「おっさん、どうしたんや」と金髪が男の上に屈み込みながら、背広の内ポケットを探った。
そのとき「何かあったんか」という声が聞えてきた。振返ると、三人づれの男たちが道の端からこっちへ来るところだった。祐輔はとっさに左に駆出した。背後で金髪が反対方向に走っていく靴音がする。あの野郎と思ったが、祐輔はそのまま走り続けた。
翌朝、祐輔はドアが叩かれる音で目を覚ました。時計を見ると、まだ九時前だった。祐輔は壁側に寝返りを打って、毛布を頭からかぶった。しかしドアはますます激しく叩かれ、「中におるんやろ」という父親の声まで聞えてきた。
「何や」と祐輔は怒鳴り返した。
「ここを開けんか」
「話やったら、昼からにしてくれ」
「とにかく開けんか」
祐輔は毛布をはね飛ばし、パジャマ代わりのジャージー姿のままドアのところにいき、鍵を外した。父親は着物を着ていた。くつろぐときにたまに着ているのを見たことがあるが、それでも何年かぶりに目にする姿だった。
「話があるから、下に降りてこい」と父親が言った。部屋の中には入ってこようとはしない。
「話やったら、ここで聞くわ」
しかし父親は祐輔の肘をつかんで、「来い言うたら来い」と引張った。
「何すんねん」祐輔は父親の手を振りほどいた。父親は体勢を崩し、階段を一段踏外した。もう少しで落ちるところだった。
「出ていけ」と父親は興奮した声で言った。「暴力を振るうようなやつは家に置いとけん」
「何を興奮してんねん。そっちが腕をつかんできたから、ちょっと振りほどいただけやないか。暴力なんてもんやないで」
「ミチコはな、おまえに殴られたせいで、頭痛い言うて、学校休んどんのや。それでも暴力やないと言うんか」
「ああ、そのことか」祐輔は小さく笑った。「あれはあいつが悪いんや。殴られるようなことを言うからや」
「つべこべ言わんと、出ていけ。おまえなんかの顔は二度と見とうないわ」
父親ははだけた胸から下着をのぞかせながら、手を振った。
「二十歳になったら、出ていったるがな」
「うるさい。きょう中に出ていけ」と怒鳴ると、父親は音を立てて階段を降りていった。
「ばかやろう」と父親の背中に言ってから、祐輔は部屋のドアを思いきり閉めた。出ていくことなんか簡単やとつぶやきながら、祐輔は机の一番下の引出しを開けた。そこには梯子を作るのに使った金槌と釘があった。金槌と釘を四、五本つかんで、祐輔はドアのそばに行き、鍵穴の少し下あたりに斜めに釘を打込んだ。大きな音がして、ドア枠と壁が震えた。
釘が最後まで入ったところで、祐輔はノブを回してドアを押してみたが、びくともしなかった。それでも彼はその上と下にさらに釘を打込んだ。
三本目を打ち終ったとき、階段を急いで上がってくる足音がした。ドアが叩かれ、「おまえ一体何をしとんのや」という父親の声が聞えてきた。
開けようにも、もう開けようがないわと祐輔は笑いながらつぶやき、急いで服を着替えた。そして机の下に脱ぎ捨てておいたジョギングシューズをはき、バイクのキーと財布をポケットに突込んで、梯子を降りた。父親はまだドアを叩いていた。
庭ではバイクのエンジンをかけずに、押して外に出た。朝の光は意外とまぶしいもんだと目を細めながら、祐輔はバイクに乗った。サングラスを取りに戻ろうかと思ったが、思っただけだった。
モーニングサービスと大きく書かれた喫茶店が目に入って、祐輔はその店の前にバイクを止めた。腹が減っていることに気づいたのだ。
ウェイトレスにモーニングサービスを頼み、祐輔は備え付けの朝刊を手に取った。きのうのことが気になっていた。社会面を開き、ざっと見たところで「KO強盗現れる」という見出しが目に入った。祐輔たちが起した事件の記事だった。男は二週間の怪我をしていて、十万円の入った財布を盗まれたと書かれていた。目撃者の話も載っていたが、漠然とした犯人像で、これなら大丈夫と祐輔は安心した。
惜しいのは金髪に金を持っていかれたことだった。やつが金を使ってしまう前に、やつに会わなければと祐輔は考えた。半分の五万円はおれに権利があると思いながら、彼はウェイトレスの持ってきたパンを食べた。
祐輔はその日一日中ゲームセンターとその周辺でぶらぶらして、金髪の現れるのを待ったが、無駄だった。夜になって、〈オクトパス〉に行ってみようかと思ったが、ひょっとして強姦した女がまだ自分たちを探しているかもしれないという気がしたし、入場料がもったいないという気持もあって、やめた。次の日は日曜日で、父親が家にいるので、祐輔はオールナイト喫茶店で一晩を過ごした。
翌日もゲームセンターの中で他人がゲームをしているのを眺めて、時間をつぶした。そして夜中の一時ごろ、バイクは近くのマンションの自転車置場に置き、家に帰った。明りが消えているのを確かめてから、祐輔は音を立てないように梯子を上った。
祐輔は朝遅く目を覚ますと、ドアに耳をつけて家の中で物音がしないのを確かめてから、服を着替え梯子を降りた。玄関の鍵を開け、中に入ると、まずシャワーを浴びた。それから冷蔵庫を開け、すぐに食べられるものを探したが、チーズしかなく、それを口の中に入れながら、即席ラーメンを作って、食べた。使ったどんぶり鉢と箸を洗って、元の場所にしまい、これなら誰にもわからないだろうと祐輔は台所を見回してから、外に出た。
しかし翌朝、祐輔は母親の声で起された。「そこにいるのはわかっているのよ。こそこそしないで、男らしく出てきなさい」と母親は叫んでいた。祐輔は無視して、寝返りを打った。「ほっとけ、ほっとけ」という父親の声が聞えてきた。階段の下からしゃべっているらしい。
「お父さんがそんな甘いことを言うから、あの子がつけあがるのよ」
「おれはこれから仕事や。あんなやつに付合ってられるか」
母親はもう一度ドアを叩き、「いい加減に出てきなさい」と言い、反応がないとわかると、降りていった。
祐輔は音を立てないようにして、階下の物音に耳を澄まし、母親がパートの仕事に出かけてしまうのがわかると、手足を伸ばしてもう一度眠った。
昼前に目を覚まし、きのうと同様にシャワーを浴びて、冷蔵庫の中の食べ物をつまんだ。どうせバレているのだからと使った食器を片付けないで、流しに放りっぱなしにした。夕方母親が帰ってくる前に出かけ、街をうろついて夜中に帰ってくるというパターンだった。もう母親の声で朝起されることはなかった。
金曜日、祐輔は期待しながらゲームセンターに顔を出した。金髪に会えるとしたら、この日が一番可能性があったからだ。
ル・マンというロードレースのシミュレーションゲームをしていると、後ろから肩を叩かれた。振返ると、大柄がいた。意外な気がしたが、祐輔はスクリーンに視線を戻し、ゲームを続けた。アクセルを思いきり踏込んで前の車を次々と追越していったが、五台目を抜くところでハンドルを切損なって壁に激突した。大音響と共に、運転席が激しく振動する。これで三回目なので、ゲームは終りだった。
祐輔は低い運転席から両手を使って腰を上げた。
「ゲームやいうても、無茶したらあかんわ」と大柄が笑いながら言った。
「久し振りやな」
「まあな」大柄の顔が照れ笑いに変わった。
「あんたに会えるとは思てへんかったな」
「誰かを待っとったんか」
「髪を染めたやつや」
「ああ、あいつか」と大柄は口先から弾き飛ばすような言い方をした。「あいつなら、死んだで」
「死んだ?」
「ああ」
大柄は手に丸めていた写真週刊誌を祐輔に渡した。
「そこにあいつのことが載ってるわ」
祐輔は週刊誌をぱらぱらとめくった。真ん中あたりやと大柄が指で教えてくれたページを開くと、崖下に転落しているオートバイと人間の写真があった。隅に丸い枠で顔写真があり、それが金髪だった。髪を染めている顔だった。
「どう見ても、あいつやろ」と大柄が言った。「それを見つけたときは、びっくりしたで。まさかと思うたわ」
記事には「魔のカーブで十五回目」という見出しがつけられており、ある山の有料道路の交通事故を扱っていた。そこで以前死んだ女性の霊などの話題を持ってきて、何やらオカルトめいた話に仕立ててあった。金髪の名前は、冬木幸司で、年齢は二十一歳だった。金髪に関することは、それだけだった。
「五万円、損したな」と祐輔はつぶやいた。
「何を損したて」と大柄が訊いてきた。祐輔は一週間前のことを簡単に説明した。
「はは、それは生きとっても無理やったな。とうに使われてるわ。ま、香典代わりやと思うて、諦めることやな」
「高い香典や」祐輔がそう答えると、大柄は声を出さずに大笑いした。この男がこの前おれが持って逃げた鞄のことをひとことも言わないのは、たぶんおれが全部使ってしまったと思っているのだろうと祐輔は考えたが、そう思っているのならそう思わせておこうという気持だった。
二人だけでは何をするにもやりにくいので、人を集めようやと大柄が提案し、祐輔は賛成した。二人で手分けして、店の中を見て回り、一人で遊んでいて、体のがっちりした男を探した。一人で遊んでいるように見えても、よく見ていると何人かの仲間と来ているのがわかったりして、なかなか本当に一人というのは見つからなかった。
近くにある別のゲームセンターにも、行ってみることにした。祐輔がずらっと並んだスロットマシーンとそれをやっている男たちを眺めながら歩いていると、大柄が先のほうに姿を現し、手招きをした。近寄っていくと、「あいつはどうや」と大柄はテレビゲームをやっている男を指さした。横顔はまだ高校生のようだったが、体つきは申し分なかった。
しばらく見ていても、誰も男には寄ってこず、大柄と祐輔はゆっくりと近づいていった。
男のやっているゲームは、速度を上げて追いかけてくるモンスターをかわしながら次々と金塊を奪っていくというものだった。男はたくみにジョイスティックを動かして金塊を奪い、画面をクリアしていった。
何画面かクリアして、ついにモンスターにつかまったところで、「なかなかうまいもんやな」と大柄が声をかけた。男は胡散臭そうな目をして、二人を見上げた。
「年季が入ってるな。だいぶ金をつぎこんだやろ」大柄は男の目に構わず、話しかけた。男は腰を屈めた姿勢のままゲームテーブルを離れようとしたが、大柄は男の肩をつかんだ。
「心配すんな。カツアゲとちゃうで」大柄の声は柔らかだったが、有無を言わさない力があった。男が席に戻ると、大柄は素早く向いの席に腰を降ろし、祐輔はとなりのテーブルに尻を乗せた。男は祐輔のほうにもちらちらと視線を向けた。警戒と脅えが入り混じっているようだった。
「どうや。楽して金をもうける気はないか」と大柄は切出した。「いつも遊ぶ金に困ってんねやろ」
「金やったら、あるわ」男はぼそっと答えた。
「あのな」と大柄は男の肩に手を置いた。「おれたち、組のもんとちゃうで。勘違いせんといてや。こんな恰好をしてる組のもん、おれへんやろ」
男はわずかに笑顔を見せた。
「ただちょっと仕事の手伝いをしてもらいたいだけなんや」
「仕事?」
「そうや。ただしヤバイ仕事やけどな」
大柄は反応を見るみたいに上目使いで男を見、次に祐輔のほうに視線を向けてにやっと笑った。
「ヤバイ仕事?」男は少し身を乗出し、声を落として応えた。
「早い話が人様の財布をいただく仕事や」大柄も声を低くした。
「すり?」
「そんな器用なことはせえへん。一発おみまいして、いただくだけや」
「KO強盗?」
「まあ、そんなとこかな」
「へぇー」男は胸を反らし、大柄と祐輔を交互に見た。
「強盗いうても、酔払い相手やから楽なもんや。どうや、ちょっとやってみいひんか」
「ちょっとと言われてもなあ……」男は両手を頭にやって、指で髪の毛を後ろにすいた。
「そんなに深刻に考える必要はないんやで。やめたかったら、いつやめても結構。こっちはそっちの名前も住所も何にも訊けへんから、いつでも抜けられるで」
「そんなんでええの?」
「そのほうがいもづる式につかまれへんから、都合がええんや」
「なるほどね」
「こいつのことも何にも知らんのや」と大柄は祐輔のほうにあごを向けた。「なあ」
祐輔はうなずいた。男は首を振り、ゲームテーブルのジョイスティックをいじった。
「今からちょっとやってみるか」と大柄は軽い調子で言った。
「きょうはやめとくわ」そう言うと、男はゆっくりと立上がった。
「大体このくらいの時間には、ここかあっちのゲームセンターにいてるから、その気があるんやったら来いよな」
「ああ」
男はポケットに両手を突込んで、外に向かって歩いていく。
「サツにたれこむなよ」と大柄が声をかけた。男は振返り、口先だけでにやっと笑ってみせた。
男が出ていくのを見送ってから、祐輔は「失敗したな」と大柄に言った。
「いや、どうかな。五分五分いうとこやろ」
他の男たちに声をかけるのはやめて、二人は店を出た。大柄の車はまた変わっていた。三ドアハッチバックというタイプで、新しかった。ちょっと様子を見てくるかと大柄が言い、二人は車に乗込んで、南に向かった。
いつもの高架下には止めずに、寺の塀に沿った場所に駐車した。そこから飲み屋街まで、かなりの距離があった。二人はほとんどしゃべらず、ただ明るい場所をめざして歩いた。
飲み屋街に着いたとき、時刻はちょうどよかった。遅くもなく、早くもなく、適度な人通りと酔払いの姿も目についた。一丁やってみるかと大柄が冗談めかして言い、祐輔はうなずいた。
「おまえも金がないんか」と大柄は小さく笑った。
そのつもりで見ていると、ちょうど一人の男が足をふらつき気味にして、先を歩いているのが目に入った。祐輔が横を見ると、大柄がわずかにうなずき返した。
男はビル壁に片手をつきながら、横道に入った。二人は足を早めて男の後から横道を曲がった。しかし男の姿はなかった。忽然と消えたように見えたが、立止まってよく見ると、男は二十メートルほど先の電柱の陰に隠れるようにして坐り込んでいた。
祐輔は思わず走り出そうとしたが、すぐに大柄に腕をつかまれてしまった。大柄が視線で示した方向に目をやると、懐中電灯か何かの光が目に入り、次に二人の警官の姿が飛込んできた。警官たちは坐り込んでいる男に近づいていくと、懐中電灯の光を当てながら、何か声をかけた。
祐輔と大柄はゆっくりと回れ右をして、元の通りに戻り、始めのうちは歩いていたが、次第に速くなって、ついには走り出した。
車にたどり着いたところで、二人は顔を見合わせて笑った。「もう少し警官がくるのが遅かったら、ヤバかったなあ」と大柄が言った。「まだまだツキがあるんや」
北へ戻って、久しぶりに〈オクトパス〉に顔を出してみようということになった。ナンパ・ストリートに車を乗入れると、飲み屋帰りの客を求めて入ってきたタクシーのため、車の列ができていた。
前の小型車の助手席の男が渋滞に退屈したのか、そばの歩道を通るOLの二人づれや水商売帰りの女に声をかけ始めた。女たちは無視したり、笑ったりしながら横を通り過ぎる。「あんな車で女が引っかかるか」と大柄は鼻先で笑った。
信号が青になっても、小型車はのろのろとしか進まず、前の車との間が広がっていく。大柄はクラクションを鳴らした。しかし小型車は速度を上げず、助手席の男も窓から頭と肩を出して、相変わらず通りがかりの女に声をかけている。大柄は二、三回クラクションを長く鳴らし、それでも効かないとわかると、窓から顔を出して叫んだ。
「ばかやろう。いつまであほなことやっとんねん。さっさと車を出さんかい」
助手席の男が何か叫び返し、前の車が止まった。運転席のドアが開き、背の高い男が降りてくる。助手席の男も続いて降りてきた。リーゼントの髪に、きらきらと小さく光るものを散らしている。
「怒ったんか」と大柄は笑いを含んだ声で言った。
背の高いほうがバンパーをけり、リーゼントが祐輔のほうのドアの窓を拳で叩いた。
「しょうない。やるか」大柄は祐輔を見た。祐輔はうなずいた。
「ダッシュボードの中にナイフがあるから、念のためにポケットに入れとけ」と大柄が言い、祐輔は前のダッシュボードを開けてみた。道路地図帳やらティッシュペーパーが入っており、隅に櫛入れのような平べったいものがあった。手に取ると、ちょっとした重みがあり、折り畳みのナイフだった。これはおまえのものかと祐輔は訊こうとしたが、その前に大柄はドアを開けて外に出てしまった。祐輔もナイフをズボンの尻ポケットに入れて、外に出た。前の二人は歩道側に出ており、大柄が車の前を通って、祐輔の横に来た。後ろのタクシーがクラクションを数回鳴らした。
「さっき言うたことを、もういっぺん言うてみ」とリーゼントがすごんでみせた。
「あほにあほ言うたら、気にさわったか」と大柄はにやにや笑いながら言った。
「けんか売る気か」背の高いほうが低い声で言った。
「そっちが売る気なら、買うで」大柄は指の関節を鳴らしながら答えた。
「そうか。後悔すんなよ」
そう言うと背の高いほうが車に戻り、後部座席から金属バットを取出してきた。祐輔は一歩体を引き、身構えた。大柄も車にもたれていた姿勢から体を起し、背中を丸くした。
「素手やったら、よう喧嘩せんのか」と大柄は言ったが、もう笑うような口調ではなかった。
「じゃかましい」背の高いほうがバットを振回した。祐輔と大柄は後ろに飛びのいた。
「そっちは頼むで。おれはこっちをやるわ」とリーゼントが祐輔のほうに体を向けた。祐輔は後ろに下がりながら、尻ポケットからナイフを抜こうとしたが、その前にリーゼントが突込んできた。頬を殴られ、リーゼントを抱え込む形で歩道に倒れた。リーゼントは両手で首を絞めてき、祐輔は苦しまぎれに頭を振りながら相手の襟をつかみ、膝を突上げながら、相手を横に飛ばした。
相手の動きを見ながら、祐輔は立上がった。息が上がっているのが、自分でもよくわかる。体全体が熱く、特に殴られた頬がかっと熱を持っていた。口の中が切れているのか、舌が粘り気のあるものにからめられており、祐輔は黒い唾を吐いた。
リーゼントも荒い息をしながら身構えていたが、顔はちょっと笑っているようだった。祐輔は尻ポケットを手で探った。ナイフはまだあった。それを抜き、手の中に入れる。リーゼントの目がナイフを持った手に向いているのに気づいて、祐輔はその手を前に突出し、止め金を押してはずした。刃先が飛出す。リーゼントの表情が変わった。バットを持った仲間にちらっと目をやりながら、「おーい」とリーゼントは声をかけた。「こいつ、ナイフを……」
その瞬間祐輔はリーゼントの体めがけて、突込んでいった。リーゼントは叫び声を上げながら、逃げようとしたが、足がもつれて倒れかけた。それを踏ん張ったとき、祐輔は体ごとリーゼントにぶつかった。手応えがあり、ナイフが腹のあたりに食込んだ。リーゼントが悲鳴を上げ、上半身を折曲げて、ナイフを握っている祐輔の手を両手で握ってきた。祐輔はナイフを抜こうとしたが、抜けない。仕方がないから手を放すと、リーゼントはタイル張りの歩道に崩れ落ちた。
背中を丸めて横倒しになったリーゼントの体を、祐輔は見下ろしていた。かすれたうめき声を上げながら、リーゼントはときおり膝を動かした。
「おい、どうしたんや」という声が聞えてきた。振返ると、背の高い男がバットをかついだ恰好で、こちらの様子を伺っていた。そのとき低い姿勢でいた大柄が、手を伸ばしながら突込んでいった。不意を突かれた背の高い男がバットを振下ろそうとしたが、手首をつかまれてバットの先端が大柄の背中に当たっただけだった。
大柄は背の高い男の両手首をひねるようにしながら、相手の腕を脇の下に抱え込み、バットを握っている手の甲を小型車のサイドミラーに叩きつけた。バットは男の手を離れ、ボンネットの上を転がって車の前に落ちた。大柄はボンネットに手をつきながら前に回り込み、バットを拾い上げた。背の高い男はそれを見て、逃げ出した。大柄はバットを持ったまま、少し追いかけたが、すぐに諦めて戻ってくると、小型車のフロントガラスにバットを叩き込んだ。鈍い音がして、ガラスに細かいひびが入った。
大柄は次々とガラスを割っていき、サイドミラーを壊し、ボンネットをへこませ、ヘッドライトを叩き割った。そこで一息ついてから、今度は車体の横を叩いてへこませていき、最後に天井に一撃を加えた。
大柄は廃車寸前のようになった小型車をざっと眺めてから、バットを放り投げ、祐輔のほうに近づいてきた。
「さあ、行こか」
大柄の右耳がふくれ上がり、穴から血が流れていた。
「血」と言って、祐輔は自分の耳を触った。
「え? ああ」大柄は耳を触って、その指を見た。「さっき、一発かまされたからな」
そのとき祐輔は、自分の手が血まみれになっていることに初めて気づいた。ズボンで拭おうとして、そこにも血が飛散っているのを見つけた。
「早く乗れよ」大柄が車の向こう側から声をかけた。しかし祐輔は血まみれの手を眺めて、突っ立っていた。
遠くのほうからパトカーのサイレンが聞えてきた。大柄が車に乗込み、助手席側のドアを開けた。
「早く乗れ、乗れ」
祐輔は血の飛散った服に目をやりながら、「シートが汚れるわ」と小さい声で言った。
「なに言うてんねん。はよ乗らんか」
それでも祐輔がためらっていると、大柄はドアを閉め、車を反対車線に出した。対向車が急停車すると、タイヤをきしませて前の小型車を抜き、信号のある交差点を猛スピードで右折した。
大柄の車がビルの陰に消えてしまうと、祐輔は手を見ながら体の向きを変えた。倒れているリーゼントの体が目に入ったが、もう動いてはいなかった。
祐輔は歩道を走り出した。こちらを眺めていた数人の男女があわてて道をよけた。
祐輔は赤信号も無視して、走り続けた。アーケードの繁華街を走っているとき、ごみ箱に突込んであるスポーツ新聞を拾って、手についた血を拭こうとした。しかし血はほとんど固まっていて、こびりついたままだった。
自転車置場の自分のバイクにたどり着いたときには、祐輔はほっとした。バイクを押していき、道路に出たところでエンジンをかける。シートをまたいで腰を降ろし、アクセルレバーを回す。心地よい振動を感じていると、急に空腹を覚えた。しかしこの恰好でどこかに入ることはできない。まず着替えなくてはと祐輔は家に急いだ。
家の近くまで来たところでエンジンを切り、押していった。門扉の前にバイクを止め、小さな水銀灯が一つだけついた庭に入る。家の中の明りはすべて消えていた。
横の路地に回り、梯子を上ろうとして、祐輔は驚いた。梯子がなかったのだ。祐輔は二階の窓を見上げ、左右に目をやった。
表に戻って、確かに自分の家であることを確認してから、再び路地に回った。梯子のあったあたりの地面を手で触ってみた。そこには三十センチほどの間隔で二つの穴が残っていた。
鍵を使って玄関のドアを開けてみようかと思ったが、やめにした。どうせドアチェーンがしてあるだろう。祐輔は庭を出、バイクに乗ると、エンジンをかけた。思いきり空ふかしをすると、近所の犬が吠え立てた。
どこへ行こうかと祐輔は思った。とりあえず空腹を癒してくれる熱いコーヒーが飲みたかった。
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