1
過去を振返るとき、人はその確かさの根拠をどこに求めるのだろう。日記、アルバム、覚書……。いや、むしろ確かさの根拠を求めると言うことなど考えもしないで、過去を振返るのが普通かもしれない。それまでの記憶だけを頼りにして。脳に蓄えられた記憶に比べれば、日記やアルバムなど、広大な沼地に浮かぶ泡のごときものだろう。ただ記憶の変容するのが避けられないとしたら、確固とした過去というのも存在しないだろう。変わっていく現在につれて、過去もその姿を変えていくに違いない。
以下に語ることは、記憶をめぐる話である。もっともここに語られたことも、泡のごときものであることには変わりはないけれども。
2
ぼくが大学を卒業したのは、石油ショックのあった翌年で、会社の求人が落込んだ年だった。ぼくは右往左往したあげく、小さなコンピューター会社に就職した。システム開発部に回されたが、来る日も来る日もプログラムのエラーチェックだった。キーボードを叩いて数字を入力する。プログラムが正しければ言うことなしだが、間違っていれば、「ERROR」という表示が出て、停止してしまう。チェックノートに数字を記入し、別の数字を入力する。ERROR。ノートに記入。別の数字。ERROR。記入。数字。ERROR。記入。……。チェックの終ったプログラムは設計者に戻されて、修正を受ける。再びエラーチェック。数字入力。ERROR。ノート記入。
厄介なことに、修正を受けたために、それまでエラーの出なかったところにエラーが出るということもたびたびあった。ERROR。ERROR。ERROR。……。まるで自分の人生であるかのように感じたものだった。
二年でその会社を辞め、ぼくはいろんなアルバイトで食いつないでいたが、一年ほどたって、一緒に働いていた同僚から声をかけられた。彼も会社を辞めており、ふたりで会社をつくらないかという誘いだった。その頃市場に出回りだしたマイクロ・コンピュータのプログラムを作るというのだ。ぼくもマイクロ・コンピュータには興味はあったが、それは所詮マニアだけのもので、数多く売れるわけがないと思っていた。ハードが売れなくては、ソフトが売れるわけがない。
しかし彼はアメリカの状況を説明して、ぼくを説得にかかる。アメリカでは日本の数年先をいっていて、パッケージ・ソフトも出回り始めているというのだ。アメリカで起ったことは、必ず日本でも起るというのが、彼の信念だった。
ぼくは彼の信念に負けて、というより、どうせ失敗するだろうけど、面白そうだからやってみようという軽い気持で、彼の誘いに乗った。仕事場は彼のアパートで、ローンで買い集めたアメリカや日本製のマイクロ・コンピュータを使って、主にゲームソフトを作った。一般にテレビゲームと呼ばれるようなやつだ。
だが、一年間はほとんど儲けにならなかった。コンピュータを扱う店も限られていたし、コンピュータ自体がまだまだマニアのものだったから。ぼくも彼も昼間はアルバイトに行き、夜はプログラムを作るという生活を続けた。さまざまなプログラミング・テクニックを身につけたのは、この時期だった。
ディスクトップ型のコンピュータが現れ、マイクロ・コンピュータという言葉がパーソナル・コンピュータという言葉に変わり、BASICというコンピュータ言語が普及し始めるにつけ、ぼくらの仕事は金になり出した。彼の予想が的中したのだ。ぼくは素直に頭を下げ、オールド・パーを一本買って進呈した。ぼくらはますます仕事に精を出し、ついに「ビーム・マシン」というリアルタイム・ゲームで一発当てた。その金で都心のビルに事務所を借り、株式会社組織にし、経理の女の子とプログラムのできる若い男を雇った。
3
彼女に初めて出会ったのは、そんな頃だった。出会うというより、拾うといったほうが近いかもしれない。
あれは確か体育の日か何かの休日だったと思う。近所の小学校から聞えてくる運動会のマーチの音で目を覚まし、ぼくはベッドの中で、明け方まで考えていたゲームのアイデアを再び考え始めた。だが、運動会のピストルの音や、歓声、それにスピーカーで拡大された女の先生の怒鳴り声が、まるでぼくに目がけて聞えてくるようで、横になっていられず、ぼくは起きて、パンと卵と牛乳とヨーグルトとバナナの朝食兼昼食をとり、散歩に出た。奥行きのある青空が広がっていて、少し汗ばむほどだった。十分ほど歩いたところにかなり大きな川があり、アイデアに行詰まると、よくそこに行ったものだ。
その日も、ゆるやかな坂を上って、堤防に立った。河川敷の公園では少年野球の試合がいくつか行われていた。ぼくはちょっと立止まっては試合を見たりしながら、まだ広い範囲に渡って残っている葦原のほうに歩いていった。岸辺が入組んでいるのと葦のせいで、回りから絶対に見えない場所があり、そこはぼくの秘密の場所だった。川の音を聞きながらそこに横たわり、空を見上げるのは、最も心が休まる一時だった。しかし、その日ぼくが秘密の場所に近づくと、枯れかけた葦の間から、横たわった人のスニーカーが見えた。先を越されたとぼくは思った。引返して別の場所を探そうかと思ったが、それよりも前を通って探したほうが見つかりそうな気がして、と同時にどんな野郎か見てみたい気もして、わざと足音をさせて歩いていった。
そこにいたのは野郎ではなかった。女性だった。ふんわりとした白いワンピースを着て、うつ伏せになっていた。右手に赤いポシェットの紐を握っている。ぼくは通り過ぎてから、何か変な感じがした。着ているものからして若い女性に違いないし、ぼくが近づいても起きないところをみると、眠っているということになる。若い女がこんなところで寝るだろうか。そこまで考えて、ぼくは不意にぞっとなった。死体じゃないのか。
放っておくべきだろうかと思ったが、あれが本当に死体で、しかも殺人事件だったら、真っ先にぼくが疑われるかもしれないと半分本気で考え、死体の発見者として届けるほうがまだましだろうと思った。
ぼくは引返し、少し離れたところから、彼女が息をしているかどうかじっと見てみた。だがよくわからない。どこからも血は流れていないし、頚に何も巻きついていない。ぼくは足音を立てないように、ゆっくりと近づくと、彼女の髪の毛を指でかき上げ、口許に掌を当てた。息をしているのがわかり、ぼくはほっとした。と同時に彼女が目を覚ませばやばいことになると思い、急いで立去ろうとした。そのとき彼女がうなり声を上げ、ぼくが振返ると、彼女が左腕を支えにして上半身を起すところだった。そのまま立去ればいいものを、ぼくは彼女にちょっとでもかかわった人間として、声でもかけてもいいなという気持で見ていた。彼女は体をひねるようにして上半身だけ起し、ぼくを見つけると、おびえたような顔をした。
ぼくはあわてて手を振った。「ここはぼくの秘密の場所なんだけど、休もうと思って来たみたら、きみが寝ていたものだから、てっきり死体だと思って、だから近づいて確かめてみたんだけど、生きているとわかってほっとして、でも言っとくけど、何にもしてないから、これだけは信じてほしいんだけど……」
それでも彼女の表情は変わらなかった。ぼくは頭が熱くなるほどあせってしまった。
「ほんとに怪しい者じゃないんだよ。仕事で疲れた頭を冷やそうと思って、散歩に来ただけなんだ。信じてくれないかなあ。ほら、この顔を見てよ。悪いことできるような顔をしてないだろう? いや、こんなことを言っちゃ、余計にまずかったかな。参ったなあ」
ようやく彼女の顔からおびえの色が消え、少し微笑んだような気がした。
「ここはどこ」と彼女が言った。
「ここって、この場所のこと?」
「ええ、このあたり」
「ここは**川の河原だけど……」
「**川?」
「そう」
彼女はゆっくりと起上がると、ワンピースについた草や砂を手で振り払い、ポシェットを肩にかけた。そしてすぐ前の川の流れに目をやると、上流から下流へ首を巡らし、「わからない」とつぶやいた。
おかしな女だから、かかわり合いになるのはよしておこうという気持から、ぼくは背を向けて行こうとした。
「あなたは、誰なの」
ぼくは歩くのはやめないで首だけ振返り、「さっきも言ったように、通りすがりの人間だから」と答えた。
「ちょっと待って」と彼女が走ってきた。ぼくは早足になったが、すぐに彼女に追いつかれて、右腕をつかまれてしまった。
「ねえ、あなた、わたしのこと何か知ってるんでしょう」
「何のことですか」
「ねえ、本当のことを言って。ここはどこなの」
「ここは**川の河原ですよ」
「だったら、わたしは誰」
ぼくは息を吸って吐く間、彼女の目を見つめた。冗談でないことはすぐにわかった。
「そんなこと、ぼくにはわかりませんよ。ただの通りすがりなんだから」
当たり前のことを答えながら、ぼくは彼女をひどく傷つけているような気がした。
彼女はぼくの腕を放すと、その場にしゃがみ込み、膝を両腕でかかえた。ぼくはどうしようかと思ったが、何をしていいのかわからず、結局その場を離れた。
アパートに帰るつもりで堤防に向かったが、コンクリートの階段を上るところで気が変わって、葦原に戻った。秘密の場所のちょっと向こうに、彼女の姿が見えた。まだしゃがんでいた。
「大丈夫?」とぼくは声をかけた。彼女は膝に乗せていた顔を上げた。泣いているのがわかった。
「……こわい」と彼女はかすれた声で言った。
「自分が誰だかわからないの?」とぼくはきいた。
彼女はうなずいた。
「どこから来たのかも?」
彼女はうなずいた。
「思い出せないの?」
彼女はうなずいた。さて、どうしようかとぼくは思った。「お腹はすいてる?」と試しにきいてみた。
彼女はうなずいた。するべきことが見つかって、ぼくは本当にほっとした。
「それじゃ、とりあえず何か食べようか」
彼女の歩調に合わせてゆっくり歩きながら、ぼくは自分のことを話した。この近くのアパートに住んでいること、ゲーム・プログラムを作っていること、アイデアに詰まったら例の秘密の場所に寝ころぶこと、会社を一緒にやっている友人のこと、事務所の様子……。ぼくが黙ってしまうと、彼女はすぐに沈み込んでしまうように見えたから。
彼女は少年野球を物珍しそうに見たり、堤防の上に立ったときには川全体を眺め回して、溜息をついたりした。ぼくは財布を持って出なかったので、それを取りにアパートに戻ったのだが、その途中でも回りの家並に目をやり、ぼくが「何か食べたいものでもある?」などときいても、「ううん」と生返事をするばかりだった。
彼女を道に残してアパートの部屋に財布を取りに上がったとき、ぼくはふっと彼女がどこかに消えていってしまうのではないかという気がして、急いで下に降りた。はたして彼女の姿が見当たらず、ぼくはびっくりしたが、角を曲がったところで彼女を見つけた。彼女はしゃがみ込んで、シャムの子猫の頭をなでていた。
「猫、好きかい?」とぼくは声をかけた。彼女は笑顔を見せ、うなずいた。本当に自然な笑い方だった。ぼくもしゃがみ込んで、子猫の頭をなでた。子猫は顔を手首にこすりつけてきた。
「これでひとつ、きみのことがわかったよ」とぼくは言った。「猫好きだっていうことだ。少なくとも猫嫌いじゃない」
彼女はちょっと照れたように微笑んで、子猫の背中をなでた。
彼女が何でもいいと言うので、ぼくは行きつけのレストランにつれていった。ボリュームたっぷりの特製スパゲッティを食べさせてくれるところで、それほどお腹はすいていなかったけれど彼女が遠慮するといけないと思ったので、そのスパゲッティを注文し、彼女にも同じものを頼んだ。
彼女には全部は無理かなと思っていたが、驚いたことにすっかり平らげてしまった。やけた鉄の皿にのってきた山盛りのスパゲッティをである。倒れていたのは、腹が減っていたせいもあったに違いないと思わせるほどだった。
食べ終って、さてどうしようかとぼくは考えた。問題はまだ何も解決していないのである。
「さあ、お腹もいっぱいになったことだし、ちょっとは元気になった?」
「ええ、ありがとう」
「問題はきみが何者かということだけど、何か手掛りになるものはない? ポシェットの中に何かないかな」
鉄皿を横にやって、彼女はポシェットの中身をテーブルの上に出した。ワインカラーの財布、ティッシュペーパー、黄と緑の縞模様の入ったハンカチ、二本の鍵のついたキーホルダー、口紅。それだけだった。
ぼくは財布を手に取って、「中を調べてもいい?」ときいた。彼女は小さくうなずいた。
財布は二つ折で、きめの細かい皮でできていた。高そうな品物だった。中を見ると五千円札一枚と小銭が少しあるだけで、他には何もなかった。名刺もキャッシュカードもクリーニングの伝票も電話番号を控えたメモもなかった。ティッシュペーパーはある都市銀行からもらったものだし、大小二本の鍵を見ただけでは、もちろんどこに住んでいるかわかりっこない。
「どう、これだけの品物を見て、何か思い出さない?」
彼女はゆっくりと首を振った。
「やっぱり、だめか」
途方に暮れるとはこういうことだった。さて、どうするかとぼくはまたまた考えた。
もちろんぼくは彼女が本当に記憶を失っていると全面的に信用したわけではなかった。彼女が芝居をしているとしても、それに付合ってみるのも悪くはないという気持だった。ちょっとしたゲームに参加している気分だったし、ひょっとしたら仕事に役に立つかもしれないなどと考えていた。
「警察に行こうか」とぼくは言ってみた。もし彼女が芝居をしているのなら、この言葉で怖じ気づくのではないかと思ったからだ。
「けいさつ?」
「うん。そのほうが手っ取りばやいと思うんだけど」
彼女は少しの間考えていたが、「しばらく自分で捜してみます」と答えた。
「しばらくって、どのくらい」
「………」
「二日も三日も無理だよ。五千円しかないんだから」
「働きます」
「警察、嫌いなの?」
「何だか、こわくって……」
「別に、記憶をなくしたのは犯罪じゃないんだから、堂々と行けばいいんだよ」
「ついていってくれる?」
「ああ、いいよ」
近くの交番では、らちがあきそうもない気がしたので、歩いて十五分ほどかけて、警察署まで行った。
受付のカウンターの中に警官がいて、何か書き物をしていた。ちょっとためらってから、「あの、すいません」と声をかけた。警官が顔を上げたが、二十歳くらいの童顔だった。
「何ですか」
「えーと、この人が記憶をなくしまして、身元を捜してほしいんですが」
「え?」
「ですから、この人は自分が誰だかわからないんです」
「記憶喪失?」
「ええ」
へぇーと警官は彼女の顔を見た。彼女は顔を伏せ、ぼくの後ろに隠れるようにした。
「お宅はどういう関係ですか」
「え? ぼくはただ偶然知合っただけで……」
警官はぼくと彼女をいくらか胡散くさそうに見てから、「ちょっと待って下さい」と言って、奥に行った。そして上司らしき警官に何やら話をして、ぼくたちのほうを指さした。上司はこちらを見、それから若い警官に何か言った。ぼくはひどく場違いなところに来てしまったような気になった。
「中に入って下さい」と若い警官が戻ってきて、言った。彼女を見ると、おびえたような目をしており、ぼくは「心配ないって」と笑いかけた。
カウンターを回って中に入ると、先程の上司のところに案内された。他の警官は電話をかけたり、書類に何か書込んだり、新聞を読んだりしていたが、誰もぼくたちに関心を払わないので、いくらかほっとした。
上司の警官は三十五、六で、顔全体は愛想がよかったが、目だけは別のところを見ているという感じだった。
「まあ、そこに坐って」と彼は目の前の二つの丸椅子を手で示した。彼に近いほうにどちらが坐るべきかぼくは一瞬迷ったが、やはり彼女に坐らせた。
「それじゃあ、話を伺いましょうか」と彼は彼女に話かけた。彼女は困ったような顔をして、ぼくのほうを見た。
「本当に記憶がないの」
「ええ」
「振りをしているだけじゃないの」
彼女は首を振った。
「お宅はこの人を全然知らないの」と彼はぼくにきいてきた。ぼくは、彼女を見つけて、ここにつれてくるまでの経過をざっと話した。ポシェットの中身を調べたことまで話した
「誰かに殴られたとか、そういうことは覚えてないの」
彼女は首を振った。
「ちょっと見せて」と彼は彼女の頭に両手をやった。彼女は素直に頭を前に出し、彼は長い髪をかき分けて調べた。「どこか体で痛むところはない?」と彼は元のように椅子に深く坐り直して、尋ねた。
「いいえ」
「それじゃあ、念のためもう一度そのバッグの中身を調べようか」
彼女がポシェットを渡すと、彼は中身を机の上に出し、ひとつひとつ念入りに見ていった。特に彼の興味を引いたのは、ふたつの鍵だった。
「あんた、マンションかアパートに住んでいた記憶はないかな」
彼女は首を振った。
「この大きいほうのやつは部屋の鍵で」と彼はひとつを指さした。「小さいほうは郵便受の鍵。ほら、小さいほうの鍵はちゃちでしょう。こういうのはよく郵便受についてるんだよね」
なるほどとぼくは感心した。
「郵便受が一ヵ所にまとまっているようなマンションかアパートに覚えない?」
彼女はしばらく考えていたが、やはり諦めたように首を振った。彼は大きな溜息をついた。
「さてと」彼は膝を両手で叩いた。そして書類ロッカーのそばにいた警官に家出人名簿を持ってくるように言った。
名簿が来ると、彼は机の上に広げ、「歳は二十四か五だな」と彼女を見ながら言った。「白いワンピースに、小さなバッグ。やせ型で長い髪。二重まぶたのかわい子ちゃんね」
かわい子ちゃん、かわい子ちゃんとつぶやきながら、彼はページをめくっていった。彼女が小さく笑った。笑い声に気づいて、彼が顔を向けた。「かわい子ちゃんなんて言葉はここには載ってないよ。念のため言っとくけど」と笑いながら言った。
しばらく調べていたが、どうも見当たらないらしく彼は名簿をぱたんと閉じた。
「きょう行方不明になったとして、まだ捜索願が出されていないということもあるし。もう二、三日たったらはっきりするんだけどね。こちらも注意して見ておいて、何かわかったら連絡しましょう。えーと、連絡先は……」
彼は困った顔をした。ぼくのほうをちらちら見て、何か言いたそうな様子だった。
「連絡先なら、ぼくのところでいいですよ」
「いやあ、それは助かる」
ぼくは住所を言い、彼はそれを紙に書いた。
「それで、あんたはこれからどうするつもり。財布には五千円しかないけど。あした、市役所に行って、相談してみたらどう。記憶が戻るまで、どこか施設を世話してくれるはずだよ。きょうひと晩はこの人の家に厄介になるか、安いホテルにでも泊まるかして」
彼女はうなずいた。
「お宅も何かの縁でこうなったんだから、この子の面倒を見てやってよ」と彼がぼくに言った。
「いいですよ。そのくらい」
「よしよし」彼は大きく首を縦に振った。「私もね、今まで何度かこういう迷い人を見てきたけどね。大抵は年寄りだからね。こんな若い人は初めてだ。ということはね、裏を返せば、若い人はすぐに記憶が戻るから、問題にならないってことになる。あんたもね、二、三日したら記憶が戻るから、心配いらないよ。簡単に戻らなければ、医者に診てもらえばいいし」
彼のこの言葉で、ぼくはだいぶ気が楽になった。それは彼女も同じらしく、笑顔を見せてはっきりとうなずいた。
ぼくたちは礼を言って、警察署を出た。とにかくぼくのアパートに帰ることにした。きょうは日曜日で、市役所も病院も休みなのでどうしようもなかったし、それに二、三日で記憶が戻るのなら、別にあわてる必要もないという気がしたのだ。
4
ぼくの部屋は2DKだったが、この部屋に住むようになってから、女の子をつれてきたのは今度が初めてだった。それも全く見知らぬ女の子などというのは。しかも今のところ彼女が何者か知る可能性が全くないというのだから、何だか犬か猫の子を拾ってきたような気分だった。
ひとつの部屋を仕事部屋にしており、パーソナル・コンピュータが三台と机と椅子と本棚が置いてある。机の上もカーペツトの上も本や雑誌で埋められており、フローチャートやプログラムを書いた紙がそこらじゅうに散らばっていた。
彼女はぼくの部屋を見て、驚いたような、興味があるような表情を見せた。「ごちゃごちゃとなってるほうが、アイデアが浮かびやすいんだ」とぼくは言い訳した。
もうひとつの部屋は寝室に使っており、ベッドとラックに組込んだテレビとオーディオ・セットがあった。ひとわたり部屋を見せてから、彼女をキッチンの椅子に坐らせた。
「コーヒー、飲む?」とぼくはきいた。
「ええ」と彼女は微笑んで見せた。
サイフォンを使ってコーヒーをいれた。彼女はミルクだけを入れて、コーヒーをゆっくりと飲んだ。
「おいしい」
「コーヒー、好き?」
「ええ」
「これで猫とコーヒーが好きだったことがわかったね」
ぼくがそう言うと、彼女はカップを両手で持ったまま笑ったが、すぐにあいまいな表情になった。余計なことを言ったとぼくは後悔した。
「きょうはどうする?」と尋ねてみた。
「ここに泊まってもいいし、それが嫌なら、どこかホテルを探してもいいし……」
「わたし、わかりません。どうしてよいのか」
「そりゃそうだよね。何もあわてて決めることはないんだ」
記憶喪失の女の子と付合うのは、何しろ初めてだったから、何をどういうふうに話したらいいものか全くわからなかった。とっかかりになる話題といったものが見当たらないのだ。何か話すとすれば、あれ知ってる? これ知ってる? と質問攻めになってしまう気がした。
仕方がないから、彼女に新聞を渡し(何かを思い出すきっかけになればと思って)、用があればいつでも声をかけるように言って、仕事部屋に引っ込んだ。
昨夜紙に書いておいたいくつかのアイデアを読み返してみたが、どれも大したことがなさそうに思えた。かといってもっとましなアイデアを考え出そうという集中力も湧いてきそうもなかった。ちらちらと彼女のことを考えてしまうのがいけなかった。どこから来て、どういう名前で、どういうわけで河原に倒れていたのか。今晩はどうするつもりなのか。もしこのまま記憶が甦らなかったら、どうなるのか。あの子の一生はきょうからまた新たに始まると考えるべきなのか。それとも今の姿は仮のもので、失われた記憶の中にこそ本当の姿が隠れていると考えるべきなのか。
考えても仕方のないことをつい考えてしまい、ぼくは紙切れに彼女の持っていた物の名前を全部書出したり、彼女を主人公にしてアドベンチャー・ゲームを作ったら、面白いものができるんじゃないかと思ったりした。自分自身を捜すゲーム。しかしすぐに、そんなことを考えることじたい彼女に対して不謹慎だという気がして、書きつけた紙切れを破り捨てた。
ノックがしてドアが小さく開いた。彼女が顔を覗かせ、「ちょっと外に行ってきます」と言った。
「どうかしたの」
「いいえ。ただ外にいたほうが何か思い出しそうな気がして」
「一緒に行こうか」
「お仕事の邪魔をしたら悪いから」
「別に仕事といったって……」そこまで言って、ぼくは口をつぐんだ。彼女ひとりのほうが記憶を呼び戻しやすいんじゃないかと思ったからだ。
「もしこのアパートに帰る道に迷ったら、電話をして」とぼくは彼女に名刺を渡した。「すぐに迎えに行くから」
彼女は出ていき、ぼくは再びアイデアの断片の海に潜っていった。いや、潜るふりをしていただけだ。アイデアを書いた紙にちょこちょこっと書き加え、また次の紙に移るといった具合だったから。
彼女は夕方になっても、帰ってこなかった。ぼくはとうに仕事をするのをやめて、晩ごはんを何にするかという問題について考えていた。彼女が帰ってきたら、食べたいものを聞こうと思っていたが、それもできず、ぼくはひょっとしたら、記憶が戻って自分の家に帰ってしまったんじゃないかなどと考えた。それとも道に迷ってしまい、しかも電話のかけ方を忘れてしまったとか。ぼくはこのまま電話がかかってくるのを待つべきか、捜しにいくべきか迷った挙句、外に出た。夕焼けで、空が葡萄色だった。近所をぐるぐる歩き回り、それから川に向かった。堤防の上に立ったとき、もしかしたら秘密の場所にいるんじゃないかという気がした。一旦そう思うと、それは確信に近くなった。
ぼくは急いで堤防を降り、河原を走っていった。葦原を回って秘密の場所に近づいたとき、赤い色に染まっている彼女を見つけた。地面に腰を降ろし、両膝を抱え込んでいた。ぼくは一歩踏出してから向きを変えて、そこから離れた。アパートに帰る途中で、不意にカレーを作ろうとぼくは思った。
市場に行って材料を仕入れ、早速料理にかかった。具には牛肉とえびと玉ねぎと人参とじゃがいもを使い、市販のカレールーにメリケン粉とカレー粉をいためたやつを加えて、色を濃くした。にんにくとフルーツ・チャツネと醤油で味付けし、とろ火で煮込んだ。他にキャベツときゅうりと人参とラディッシュで野菜サラダを作った。料理は結構気分転換になるので、週末はたいてい自分で食事を作ることにしていたのだ。
ダニエル・リカーリのスキャットを流しながら、ぽくは彼女の帰りを待った。だが彼女は八時を過ぎても、帰ってこなかった。遅く帰ってくるほうがカレーを煮込めるから都合がいいやと思っていたが、さすがに十時近くになると心配になってきた。ひょっとしたらホテルにでも泊まったのかもしれないと考えたが、それなら電話くらいかけてくるはずだと思った。
彼女が帰ってきたのは、十一時を過ぎたころだった。小さなノックが聞え、開けると彼女が立っていた。昼間よりも十倍も疲れた顔をしていた。
「晩ごはん、食べた?」
彼女は首を振った。
「カレーは好き?」
「………?」
「一緒に食べようと思って、作ってあるんだ」
彼女は口許をゆるめて笑った。
「入らない?」
「入ってもいい?」
「待ってたんだよ」
彼女は部屋に入ると、鼻をひくひくさせて、「いい匂い」とつぶやいた。
「本当なら先にシャワーでも浴びてもらうんだけど、今はとにかく食事が先。でないと腹ぺこで死んでしまう」
「食事、まだなの?」
「ひとりで食べるのって、味気ないから」
台所のテーブルで向かい合って、カレーを食べた。真ん中に木のボールに入った野菜サラダを置き、そこからそれぞれの小さなボールに取るようにした。彼女はカレーを二杯もお代りした。「カレーも好きなんだね」とぼくが言うと、「カレーって誰でも好きなんじゃない」と彼女は笑った。
食事が終って、彼女が片付けますというのを制して、ぼくは手早く皿やコップを洗った。その間に彼女にはシャワーを浴びてもらうことにした。専用の脱衣場がないので彼女はためらったみたいだったが、カーテンの陰で服を脱ぎ椅子にかけて、中に入った。ぼくはバスタオルとパジャマを用意し、彼女が脱いだワンピースの上に重ねた。そして風呂場の彼女に、バスタオルを用意したからと声をかけた。
彼女が出てきて、バスタオルを使っているとき、「よかったら、そこにあるパジャマを着て」とぼくは言い、寝室へ行って、ベッドのシーツと枕カバーを新しいのに取替えた。彼女にベッドを使わせ、ぼくは仕事部屋で寝ることにしたのだ。
ベッドを整えて台所に戻ると、彼女は頚を傾けてバスタオルで髪を拭っており、ぼくを見て「どうもありがとう」と微笑んだ。ぼくの青いパジャマがだぶだぶで、ピエロみたいだった。
「やっぱり大き過ぎるね」
「でも大きいほうが寝るのには楽だから」
ベッドで寝るようにとぼくが言うと、彼女は戸惑った表情を見せた。そこで「ぼくは仕事部屋で寝るから」と急いで付け加えた。
「わたしがそっちで寝ます」と彼女が言った。
「いや、そこは散らかっているから」
「でも……」
「それにアイデアを考えながら寝るには、ちょうどいいしね。いいのを思いついたら、すぐにパソコンを使えるし」
彼女はうなずき、もう一度バスタオルの端で髪の毛を押さえた。ぼくは彼女が拭き終るのを待ってバスタオルを受取り、大急ぎでシャワーを浴びた。
歯をみがく段になって、新しい歯ブラシを買うのを忘れたことに気づいた。買い置きもなかった。まさかぼくのを使わせるわけにもいかないし。「歯ブラシ、買ってないんだ」と言うと、彼女は「気にしないで」と人さし指に歯みがきをつけてこすった。
「歯をみがかなきゃ、何だか眠られないような気になるんだ」
「わたしも、そうみたい」
ぼくたちは顔を見合わせて笑った。
仕事部屋を片づけ、というより本や紙切れを周囲に押しやって空間を作り、押入れに一組だけあったふとんを敷いた。さすがに眠れなくて、ぼくは目を閉じたままゲームのアイデアを考えようと思ったが、頭が勝手に彼女のことを考えるので、当然のことながら何のアイデアも浮かばなかった。途中で目を開け、わずかに外燈が反映するだけの暗い部屋で天井を見ていると、何だかきょう起ったことがすべて夢のように思えて仕方がなかった。
5
おそらくそのせいだろう、朝起きたとき、ぼくは自分がどこか別の場所で寝ているような錯覚に捉えられた。机の上に並んでいるパソコンを見て、自分の仕事部屋だと気がついたが、そこに寝る経過について思い出すのに、さらに数秒かかった。ぼくはトイレにいき、戻ってくるときに玄関に彼女のスニーカーがあるのを確かめてから、再び眠った。
次に起きたのは九時前で、ぼくはすぐに会社に電話をして、事務の女の子に休むことを告げた。「またですかぁ」と女の子は眠そうな声を出した。
「仕事は家でやるからって、言っといてよ」
「社長さんに代わります」
総勢五人しかいないのに、友人は自分のことを社長と呼ばし、ぼくは専務だった。
「いいよ、いいよ」とぼくはあわてて言った。「きみから言うほうが、何ごとも丸く収まるんだから、頼むよ」
「はーい、わかりました」
ぼくは風呂場の横の洗面台で顔を洗ってから、寝室のそばまでいって、中の様子をうかがった。物音がせず、ぼくはドアを小さく開けて、彼女がまだ眠っているのを確かめてから、ひとりぶんのパンを焼いた。
彼女が起きてきたのは、それから一時間ほどたってからだった。テーブルで新聞を読んでいるぼくを見て、彼女は戸惑ったようにドアのところに立ちつくした。
「おはよう。よく眠れた?」とぼくは笑いかけた。
「おはようございます」彼女はまぶしそうに笑ってから、小さくお辞儀をした。記憶が戻ったかどうか訊こうと思ったが、やめた。
彼女がだぶだぶのパジャマを着たまま顔を洗っている間に、ぼくはフレンチ・トーストと目玉焼を作った。風呂場から出てきた彼女が服を着替えると言ったので、ぼくはそのままでいいからと椅子に坐らせ、彼女がトーストを食べている間に、キャベツと人参ときゅうりを細かく刻んで、サラダを作った。
「上手ですね」と彼女が言った。
「必要に迫られてね」とぼくは答えた。
朝食をすませ、彼女が服を着替えてしまうと、もうすることがなくなってしまった。音楽を聞いたら、あるいは記憶が戻るかもしれないという気がして、カセットテープを次々にかけた。あるメロディの一節を聞いて記憶がたちまち甦るというちょっと興奮する想像をしたのだ。
五十年代、六十年代のポップス、ベストテンに入った歌謡曲、ヒットしたニューミュージック、なつかしいフォークソング、気に入った曲の部分ばかりを集めたクラッシック、オリンピアライブを集めたシャンソン、アメリカ映画音楽のスタンダードナンバー、ビートルズとローリングストーンズ、四十年代のスイングジャズ、etc。
彼女はベッドに横になりながら聞き、ぼくは床に尻をつけ、背中にクッションを当てて壁にもたれながら、彼女に七割くらい注意を払って、スピーカーからの音に耳を傾けた。途中でテープを替えに立ったとき、彼女が、「会社に行かないの?」と訊いたので、ぼくは仕事さえできれば会社に行く必要はないんだと答えた。
テープを全部かけ終ってから、「今までで、何か面白い曲があった?」とぼくは尋ねてみた。
「……クラシック」
「どれがよかった?」
「始めのほう」
バッハかなとぼくは思った。
「クラシックは好き?」
「わかんない」
「でも聞いたことはあるんでしょう?」
「だと思うわ」
これで猫が好きで、コーヒーが好きで、クラシックを聞いたことがあり、寝る前に必ず歯を磨くということがわかったわけだとぼくは考えた。
昼になって彼女が外に出たいというので、ぼくも一緒に出た。きのうのレストランで一口カツを食べ、それから河原に向かった。堤防の上に立つと、ひんやりとした風が彼女の髪をなびかせ、ぼくの鼻先をかすめていった。一瞬枯草の匂いがした。河原はきのうと違って子供たちの姿がなかった。
ぼくたちは階段を降り、どちらから言うともなく例の秘密の場所を目指して歩いていった。葦原の窪みに入ると、きのうと違って子供たちの歓声もなく、ゆったりと流れる川の水が岸を打つ音だけが聞えていた。ぼくたちは踏み敷かれた枯れ葦の上に腰を降ろし、膝を抱えて長い間黙って川の流れを眺めていた。そうやっていると、ある瞬間ふっと時間の感覚がなくなり、太古の昔から流れ続けている川が今という時間を通り抜けて、遥か未来に流れているような感覚が、ぼくの体の中を過ぎていった。
「ねえ、ちょっと聞いてもいいかしら」しばらくして彼女が口を開いた。
「うん?」
「……あなた、本当に私の知合いじゃないの?」
「残念だけど、そうなんだ」
「だったら、なぜ……」
ぼくは少し考えてから、
「義を見てせざるは勇なきなり、っていう言葉があるでしょ。あれかなあ。いや、ちょっと違うか」
彼女は小さく笑った。
ぼくたちはそれから堤防をゆっくりと歩いていき、橋のかかっているところで下に降りた。国道沿いをしばらく行くと、大きなスーパーマーケットがあった。彼女が興味深そうに目をやったので、中に入った。
一階は食料品売場だった。平日の昼間という時間のせいか客はまばらだった。ぼくたちは野菜、果物などのコーナーから冷凍食品のボックスまでゆっくりと見て歩き、出入口近くにあるエスカレーターで二階に行った。二階は衣料品売場で、一階以上に客が少なかった。彼女は女物の売場を見つけると、ハンガーにかけてあるワンピースやジャケットを一枚一枚見ていった。そのときぼくは彼女の着ているワンピースが薄汚れていることに気づいた。
「何か着替えの服を買ったら」とぼくは言った。
「ええ」しかし彼女は気乗りしない様子で、服の値札を見ていた。
「お金が足りなければ、ぼくが出そうか」
それには答えずに彼女は服を見ていったが、しばらくしてジーンズを見つけるとそれを買い、残った金でトレーナーを買った。下着を買う金がなくなってしまい、それはぼくが出した。「記憶が戻ったときに返してもらうから」と言うと、彼女は笑ってうなずいた。ついでに一階で夕食の材料を買った。
散歩から帰って、ぼくは部屋にこもって仕事をした。ときどき居間のほうに耳を澄ますと、テレビの音が小さく聞えたりしていた。
夕方になって、食事の支度をするために仕事部屋を出た。居間には彼女はおらず、寝室のドアを開けると彼女はジーンズとトレーナーの姿でベッドの上にうつ伏せになって寝ていた。ぼくは静かにドアを閉め、ロールキャベツ作りに取りかかった。玉ねぎを刻み、ひき肉と混ぜ合わせ、塩、コショーをし、グリーンピースを入れて、ゆがいておいたキャベツで巻く。そしてそれを鍋で蒸す。
海草サラダを盛りつけていると、彼女が起きてきた。彼女はぼくの顔を見ると、一瞬険しい表情になった。
「ロールキャベツ好きかい」とぼくが訊くと、彼女は曖昧にうなずいた。
彼女を椅子に坐らせ、あつあつのロールキャベツを皿に盛りつける。それを彼女とぼくのところに置き、真ん中に海草サラダを置いた。ウスターソースとケチャップをテーブルに出し、彼女に「ビール飲む?」と訊くと、うなずいたので、グラスも二つ用意した。缶ビールをグラスに注ぎ、ぼくは彼女と乾杯をした。乾杯の言葉を探したが、うまい言葉が見つからず、ただ微笑んだだけで、グラスを合わせた。
彼女はナイフとフォークをうまく使って、ロールキャベツを切分け、口に運んだ。
「さっきは恐い顔をしていたね」しばらくしてぼくは言った。彼女はちょっとためらってから、「自分がどこにいるか分からなかったから」と小さな声で言った。
「なるほど」
「でも、すぐに気づいてほっとしたわ」
食事が終って、ぼくが片付けようとすると、彼女も皿やボールを流しに運んでくれた。「気を使わなくてもいいんだよ」と言うと、「わたしにやらせて」と汚れた食器や鍋などを洗い始めた。ぼくは横から見ていたが、なかなか慣れた手つきだった。
それからぼくたちは風呂に入るまでの間、ポーカーをして過ごした。テレビを見るのも何だか気づまりになりそうだったので、ぼくがトランプを持ってくると、彼女は喜んだ。「何をしよう」と言うと、即座に「ポーカー」という答えが返ってきた。スーパーマーケットなどでもらうお釣りの一円玉をぼくはジュースの空缶にためているのだが、それを開けてチップにした。お互いに五十枚ずつ持って始めたが、たちまちぼくは全財産をすってしまい、彼女から借りなければならない始末だった。
6
翌日もぼくは会社を休むことにした。彼女を一人にしておくのはどうも危なっかしい感じがしたからだった。会社に電話をすると、女の子が出て休む旨を伝えたまではよかったが、ぼくが電話を切ろうとする前に、友人が出てきた。
「どうなってるんだ」と彼は言った。「今週でもう二回目じゃないか」
「悪い、悪い。ちょっと急用ができて」
「仕事以外に急用なんてないはずだろう」
「仕事は順調にいってるから、心配しなくていいよ」
「他の連中に示しがつかないんだよな、こうしょっちゅう休まれちゃあ」
「堅いこと言うなよ」
「少なくともおれは社長だからね。専務に言えるのはおれだけだもんな。それにおれたちみたいに小さな会社じゃ、社長のおれや専務のおまえが率先して引張っていかなくちゃあならないんだぜ。わかってるだろう」
近頃、いろんな経営書を読んでいるせいか、言うことがどうもパターン化してきたなとぼくは思った。
「今回は本当に特別なんだ」
「どう特別なんだ」
「実はね」とぼくは少し迷ってから話し始めた。「実は今、記憶喪失の女の子を一人預っているんだ。ぼくが見つけたんで、責任上面倒見なけりゃならないし。警察の人からも言われているんだ」
「ちょっと待ってくれ。今何て言った?」
「だから記憶喪失の女の子を預って……」
「何を言ってるんだ。嘘をつくんなら、もっとましな嘘をつけよ」
「嘘じゃないって」
「それじゃあ、どうせロクでもない女にだまされてるんだろう。記憶喪失なんて、嘘っぱちだぜ。気をつけろよ」
「わかった、わかった」
「まあ、きょうのところは仕方がないが、仕事だけはきちんと進めておいてくれよな」
「はい、はい」
受話器を置いてから、ぼくは溜息をついた。
彼女が起きてきて、ぼくたちはクロワッサンとハムエッグの朝食をとったが、食べ終って、さて、何をしようかと考えても、何も思い浮かばなかった。
「市役所でも行ってみる?」とぼくは警官の言葉を思い出して言ってみた。
「行ったほうがいい?」と彼女は頚を傾げて訊いた。
「そりゃ行ったほうがいいと思うよ。何たって、こういうときのために税金を払ってるんだから」
彼女は小さく笑い、「行くわ」と答えた。
市役所は警察署の隣にあり、こげ茶色の建物だった。正面に丸い大きな時計があり十二時五分を指したまま止まっていた。
ガラスドアを押して中に入ると、左手に受付があり、六十過ぎくらいの白髪のおじさんがスポーツ新聞を読んでいた。
「すいません」とぼくは声をかけた。おじさんは眼鏡を鼻先にずらせたまま、上眼使いにぼくを見た。
「えーと」とぼくは言葉に詰まった。記憶喪失なんてことを言出しても、わかってもらえないんじゃないかという気がしたのだ。
「何ですか」とおじさんが言った。
「この女の子が」とぼくは切出した。「記憶喪失で、どうしたらいいのか相談に来たんですが」
「記憶喪失?」
「ええ、自分のことを全く覚えていないらしいんです」
「ああ、そう。それなら民生局へ行って」
おじさんはまるで記憶喪失者を扱い慣れているみたいに言い、道順を教えてくれた。ぼくは大丈夫かなと思いながら、彼女をつれて二階の民生局へ行った。開け放しになっているドアを入ると、小さなカウンターがあった。二十坪くらいの広さで、机が三列並んでいて、十人ほどがデスクワークをしていた。落着かない気持で、室内を見回していると、すぐ近くにいた中年のおばさんがやってきた。
「何か御用ですか」とおばさんは言った。ぼくは受付のおじさんとのやりとりを話した。
「迷い人ね」と言って、おばさんは彼女を見た。ぼくはおばさんの慣れた言い方に、これで何とかしてもらえるとほっとした。
「それにしても若いわねえ。いくつ?」おばさんは彼女に言った。彼女は戸惑った表情を見せた。
「彼女、わからないんですよ」とぼくは急いで答えた。
「ああ、そうか」おばさんは若い女の子みたいに舌を出した。
「話を聞きたいから、こちらに入って」
ぼくたちはカウンターの中に入って、ビニールレザーのソファーに腰を降ろした。おばさんは、一番奥の机でぶ厚い書類の束を広げている男のところへ行くと、こちらを見ながら何やら話をした。男はこちらにちらっと目をやってから、気のなさそうにうんうんと首を振った。
おばさんは書類ばさみとボールペンを持って、ぼくたちの前に坐った。ぼくは記憶喪失者を扱う書類がどういうものか見たくて、おばさんの開いた書類ばさみを覗いてみたが、ただの白い紙だった。
「さてと」とおばさんが言った。「あなたはこの女性とどういう関係なの。知合いじゃないでしょう」
「もちろん」とぼくは言った。
「それじゃあ、どういう……」
ぼくは警察で話したことをもう一度繰返し、それから警察へ行ったこと、ぼくの部屋に彼女を泊めたことを話した。おばさんはメモしていた手を止めると、「あなたのところに泊まったの?」と驚いた声を出した。
「いけませんか」
「いけなきゃないけど……」
「彼女、五千円しか持っていなかったし、警察の人にも、面倒見てやってくれって言われたものですから」
「それであなた」とおばさんは彼女に言った。「この人のところに泊まることを承知したの?」
彼女はうなずいた。ぼくはそのときになってやっと、おばさんが変な想像をしていることに気づいた。
「言っときますけど」とぼくはできるだけ穏やかな口調になるように注意した。「ぼくはこの人に何もしていませんよ。ベッドと食事を与えただけですから」
「気にさわったら、ごめんなさい。でも、こういう人を保護するのがわたしの仕事だから」
それからおばさんは彼女のポシェットの持ち物をひとつひとつ記入し、その書類ばさみを持って、また一番奥の男のところへ行った。しばらく話をしてから戻ってくると、「あなた、これからどうする?」と彼女に尋ねた。彼女が答えないでいると、「何も心配しなくてもいいのよ」と話し始めた。
「あなたのような人を泊める施設があるのよ。もちろんお金はいらないわ。そこでね、記憶が戻るまでのんびり過ごすの。どう、そうしない?」
彼女はぼくを見た。目で相談していた。
「そうしたら」とぼくは言った。彼女はあいまいにうなずいた。
「施設に泊まる?」とおばさんが訊いた。
「はい」と彼女が答えた。
「よかった」おばさんは書類ばさみを閉じ、「それでは」と立上がった。「この人はわたしが預かりますから。どうもご苦労さまでした」
「いいえ」と言って、ぼくも立上がった。彼女に「それじゃあ」と手を振ると、彼女は「ありがとう」と小さな声で言って、頭を下げた。
7
しかしその晩彼女は戻ってきた。夕食の用意をしていると、ノックする音が聞え、ドアを開けると彼女がポシェットを肩から斜めに掛け、紙袋を持って立っていた。「やあ」とぼくは言った。
「こんばんわ」と彼女が言った。
「どう、うまくいってる?」言ってから、どこかずれてると思った。
「入ってもいい?」
「どうぞ、どうぞ」
ぼくは彼女のためにスリッパを揃え、ガスコンロにかけていた鍋がふきこぼれてきたので、あわてて火を止めた。
「晩ごはん、食べた?」とぼくは訊いた。彼女は首を横に振った。
「ハンバーグだけど、食べる? 作り過ぎて余っているんだ。すぐ焼くよ」
「いだだきます」
「よかった」
フライパンで彼女の分を焼いている間、ポテトスープを彼女の前に出した。彼女がスープを飲むのを見ながら、「何かあったの?」と尋ねてみた。彼女は首を横に振った。「逃げ出してきたの?」と尋ねると、彼女はうなずいた。
焼けたハンバーグを皿に盛りつけ、彼女の前に置き、ぼくも椅子に腰を降ろして、自分の分を食べた。
「そこを出るとき、だれかに断ってきた?」しばらくしてぼくは尋ねた。
「いいえ」
「それじゃあ、一応電話をしておいたほうがいいね」
「ごめんなさい」
ぼくはハンバーグを食べ終えると、番号案内で調べてから、施設に電話をかけた。出てきた男の人に事情を説明し、あした市役所に連絡するからということで電話を切った。
翌日、ぼくは会社に行くのを遅らせて、市役所に電話をした。きのうのおばさんが出てきて、驚いた声を出したが、ぼくが事情を説明するとわかってくれた。結局ぼくのところでしばらく預かるということで話がついた。
ぼくは預金通帳を持って出ようかなと思ったが、たいした金額が入っているわけでもなし、それに何だか彼女に悪いような気がしたので、やめた。彼女には予備の鍵を渡し、昼食は外でするようにと二千円を渡した。
定刻ぎりぎりに会社に着くと、社長である友人がやってきて、「記憶喪失の女はどうなった?」と笑いながら訊いてきた。
「昨夜、出ていったよ」とぼくは答えた。遅かれ早かれ、いつかは出ていってしまうのだから、別に嘘にはならないだろう。
「やっぱり、そうだろう。記憶喪失なんてでたらめ言って、一宿一飯にありついただけだろう」
「まあね」
「それでどうだった?」
「何が」
「あっちのほうだよ」
「え? ああ、悪くはなかったよ」
「このう。うまいことやりやがって。な、どこで拾ったんだ?」
ぼくはいい加減相手にするのが嫌になって、「しごと、しごと」と言って、コンソールデスクの前に坐った。ゲームのアイデアに行詰まっていたので、入社したてのプログラマーのやっているアドベンチャーゲームのキャラクターデザインを手伝ってやった。
夕方、仕事が終ると、友人が「さあ、呑みにいくぞ」とみんなに声をかけた。金曜日の夜はいつも呑みにいくことになっているのだ。ぼくはそっと帰るつもりで、誰にも挨拶せずにドアを開けたが、友人に呼止められてしまった。「どこへ行くんだ。トイレか」
「いや、ちょっと……」
「呑みにいかないのか」
「きょうは遠慮しとくよ」
「デートか」
それには答えずに、ぼくは手を振って外に出た。
アパートに帰るまで、ぼくは彼女がいなくなっているのではないかと心配だった。それでスーパーに寄る前に、部屋に帰ってみたのだが、窓から明かりが見え、ぼくはほっとした。ドアを開けると、何かの煮物の匂いがぼくを包み込んだ。
「お帰りなさい」と彼女が流しの前で振返って、笑いかけた。彼女は、ぼくのデニムのエプロンをつけており、「どうしたの」とぼくは思わず言ってしまった。
「いけなかった?」彼女は不安そうな顔をした。
「いや、いいんだよ」ぼくはあわてて言った。「ちょっとびっくりしたもんだから」
「お昼、外で食べるのもったいないから、自分で作って食べたの。そしたら、お金が余っちゃったから、ついでに晩ごはんも作ろうと思って」
どれどれとぼくは鍋の蓋を開けてみた。湯気が顔にかかり、いい匂いがした。肉じゃがだった。テーブルにはほうれん草のおひたしが出ている。
「カレイを揚げるから、そこに坐ってて」
ぼくは言われた通りに椅子に腰を降ろし、彼女が動いている姿を横から眺めた。女の子に料理を作ってもらうなどということは、初めての経験だった。どこか映画の一場面のような気がした。
ほうれん草はきりっと絞れていたし、肉じゃがの味付けは決まっていたし、カレイもきれいに揚がっていた。
「料理、上手なんだね」
「ありがとう」
「何か思い出さなかった? 料理していて」
彼女はえ? という顔でぼくを見、それからゆっくりと首を横に振った。
「料理、どこで覚えたんだろうね」とぼくが言うと、彼女はテーブルの一点を見つめ、小さな溜息をついた。
「ごめん、ごめん。きみを困らせる気はなかったんだ。ただ、ちょっと気になったものだから」
「………」
「そのうち、きっと思い出すよ。ジクソーパズルの一片がぴたっとはまるみたいにね。ジグソーパズルって、わかるでしょ?」
「ええ」彼女はようやく微笑んだ。
翌朝、ぼくは洗濯機の回る音で目を覚ました。パジャマ姿のまま風呂場の横を覗くと、彼女が洗濯物を仕分しており、ぼくに気がつくと、「おはようございます」と小さく頭を下げた。トレーナーの袖をたくし上げ、髪の毛を後ろで縛っていた。
「そんなことしなくていいんだよ」とぼくは言った。
「居候なんですから、このくらいしなくっちゃ」
「ぼくとしては、お客のつもりなんだがなあ」
「でも、こうやって体を動かしていたほうが、あんまり考え込まなくていいみたい。それに、わたし、きれいにするの好きだから」
「風呂場も洗ったの?」ぼくは中を覗き込みながら、訊いた。
「ええ」
「洗いごたえ、あったでしょう」
「ええ」言ってから、彼女はすぐに「いいえ、そんなことはなかったけど……」と言直した。
「いいの、いいの」とぼくが手を振ると、彼女は笑い出した。
休みの日はいつもそうするように、ぼくはふとんの中で朝刊を読んだが、その間中、掃除機の音が聞えていた。ぼくはふと、ずっと前からこうだったような気がした。
それから三日ほどたったときだった。ぼくが会社から帰ってくると、「昼間、何度も電話が鳴ってました」と彼女が言った。「わたし、余程受話器を取ろうと思ったけど、わたしが出て、迷惑がかかったらいけないと思って」
「気にしなくて、いいよ。用があるんだったら、必ずまたかかってくるから」
その通りだった。彼女が煮物をしている横で、ぼくはサラダを作るためにキャベツを刻んでいたのだが、その時電話がかかってきた。警察からだった。相手はメモを読むような調子でぼくの名前を確かめ、「お宅のところに、迷い人がご厄介になってるそうですね。いたら、ちょっと替わってもらえませんか」と言った。彼女に「警察から」と言って受話器を差出すと、少し驚いた顔をしたが、すぐに手を拭いて受取った。
彼女はうなずいて返事をし、最後に「わかりました。すぐに伺います」と答えて受話器を置いた。
「わたしに似た女性の捜索願が出されているんですって」
「それで、今から行くの?」
「ええ」
「何だか気が進まないみたいだね」
「そんなことはないけど」と彼女は小さく笑った。「でも何だか変な気持。いよいよ自分が何者かわかるっていうのも」
晩ごはんの支度は途中で置いといて、ぼくも一緒に行くことにした。
警察署の中はがらんとしていて、五、六人の警官が電話をかけたり、雑談したりしていた。お茶を飲んでいる受付の警官に話をすると、彼はすぐに同僚の名前を呼んだ。雑談をしていたひとりがこちらを向き、用件がわかるとぶ厚いファイルを持ってきた。この前とは違う警官だった。
「きょうの昼間、何回か電話を差上げたんですが、お留守のようでしたので」
彼はカウンターでファイルを広げると、何ページかめくってみせ、あ、ここだとつぶやいて、指でなぞった。そしてファイルを逆にして、ぼくたちに見せた。ぼくが真っ先に見たのは、家出人の名前だった。鳥飼倫子。年齢二十四歳。身長百六十センチ。体重四十七キロ。顔はやせ型で、背中までかかる長い髪。二重まぶた。人目を引く美人で独身。家出時の状況が記された欄には、夜、男友達に会いにいくと言って出ていったきり、帰ってこないとあった。ポシェットのことも、靴がジョギングシューズだということも書かれていなかった。
「写真は?」とぼくは尋ねた。
「ここにはありませんよ。写真は……」と警官は書類の下のほうを指さした。「ここの署にあります。届出がそこに出されてるから」
ここから百キロばかり離れた海沿いの町だった。
「取寄せてもらうわけには、いきませんか」
「それはちょっと無理だね」
彼女は熱心に書類を眺めていた。ぼくは警官にメモ用紙とボールペンを借りて、書類に書かれた警察署の住所と電話番号を控えた。
ぼくたちは警官に礼を言って建物を出たが、お互い黙りこくったままアパートに帰った。料理の続きを始める前に「どうする」とぼくは尋ねてみた。「あした、ひとりで行ってみる? それとも二日待って、土曜日なら、ぼくも一緒に行けるけど」
「………」
「ほくも一度行ってみたいと思ってたんだ」
「行ったほうがいいと思う?」
「え?」
「何だか急にこわくなっちゃった」
「でも、いづれは確かめなくちゃならないんだから」
「そうね」
そのとき、ぼくはあることを思いついた。
「ねえ、きみの身長を測ってみようよ。自分の身長、知らないでしょ」
「ええ。……ああ、そうね。百六十センチかどうか」
包丁を放り出して、巻尺を取ってき、彼女を柱のところに立たせた。鉛筆で印を入れ、巻尺が短かったので二回に分けて測った。百五十九センチと百六十センチの間だった。
「体重も測りたいわ」と彼女が言った。
「体重計はないんだ」
「……じゃあ、行かなきゃ仕方がないのね」
8
土曜日の朝、ぼくはクリーニング店に行って、白いワンピースをもらってきた。彼女はそれを着て、深緑色のジョギングシューズをはき、赤いポシェットを肩から下げた。最初に見つけたときと同じ恰好になり、そうして昼過ぎ、ぼくたちは海沿いの町の駅に降り立った。いい天気で、潮の香りがどこからともなく流れていた。彼女はアパートを出るころから黙りがちだったが、今ではほとんど口をきかなった。その代わり、しきりと首を動かして、回りの景色を見た。ぼくは、何か思い出したの? ときこうと思ったが、やめた。
駅前のロータリーは閑散としており、タクシーが数台端のほうに止まっていた。運転手はいなかった。
「昼ごはん、先にすまそうか」と言うと、彼女がうなずいたので、広い道路を渡って、小さな食堂に入った。表のすすけたような感じとは違って、中はこざっぱりとしていた。二人とも焼肉定食を注文した。こんなところまで来て焼肉定食を食べるなんて、とぼくは何だかおかしくなったが、彼女が黙々と食べているので、何も言えなくなった。
店の人に警察署の場所をきいて、ぼくたちはそこを出た。警察署は広い道路に沿って十分ばかり歩いたところにあり、コンクリートの打ちっぱなしの建物だった。中は暗くて、あまり人の姿がなかった。
ぼくはカウンター越しに、書類に目を通しながら歩いている警官に「あのう」と呼びかけた。警官はうさん臭そうな目でぼくたちを見、ぼくが「捜索願の出ている鳥飼倫子のことで、来たんですが」と言うと、「新藤さん」と奥に声をかけた。出てきたのは、婦人警官だった。
ぼくは最初、知合いかどうか確かめたくてと嘘をつこうと思ったが、もし彼女が鳥飼倫子だったらまずいことになる気がして、本当のことを話した。婦人警官は始めはなかなかぼくの言うことが飲み込めなくて、ぼくは丁寧に説明した。ようやくわかると、婦人警官は「大変ですね」と言って、彼女に同情の目を向けた。
「しばらくお待ち下さい」と言って、婦人警官は奥に引っ込み、ファイルを持って戻ってきた。婦人警官がページをめくる間、彼女はカウンターに背中をつけて、窓の外を眺めていた。
「あ、これですね」という声で、彼女は向き直った。婦人警官はファイルの中の写真と彼女を見比べ、ゆっくりと首を振った。その瞬間、彼女はカウンターを両手で押すようにして離れると、走って外へ出ていった。ぼくは婦人警官に礼を言って、その後を追った。
彼女は広い道路を横切って、細かい砂利道を走っていった。ひとりにしておいたほうがいいんじゃないかと思いながら、ぼくは彼女の後をゆっくりと追いかけた。
踏切のところで、彼女に追いついた。遮断機が降りており、赤ランプが点滅していた。ぼくは彼女の横に並び、線路の左右に目をやった。
「なかなか来ないね」とぼくは言った。実際列車はなかなかやって来なかった。
「………」
「遮断機が降りるのが早過ぎるのか、列車が来るのが遅過ぎるのか……」
「両方じゃない?」
「なるほど」
やがて十数両編成の列車が通り過ぎ、遮断機が上がった。ぼくたちは踏切を渡り、渡り終えたところで、ぼくは尋ねた。
「どこへ行くの?」
「わからないわ」
ぼくたちはそのまま砂利道を進んでいき、コンクリートの防波堤に行当たった。潮の香りが強くなった。
「この向こうは海だね」
「見てみたい」
防波堤に沿って歩くと、切れ目があり、階段がついていた。そこを上ると、目の前に砂浜が広がった。弓状に砂浜が続いており、その端にはコンクリートの堤が海に突出ていて、突端には小さな燈台らしきものがあった。海は穏やかで、小さな波が寄せていた。砂浜には犬を散歩させているおじいさんがいるだけで、他には誰もいなかった。
ぼくたちは砂浜に降りていき、靴が濡れないように注意しながら、波をすくったり、足跡を強くつけて、それが波で消される様子を眺めたりした。
おじいさんが横を通りがかり、ぼくたちの様子を見て笑った。彼女はおじいさんに笑い返し、素早く犬の前にしゃがみ込んだ。犬は成犬になりかけの感じで、耳がぴんと立っていた。彼女は犬の頭をなでてから、頬をつけて頚を抱いた。犬はおとなしく、されるがままになっていた。
それからぼくたちは防波堤に上がって、横たわった。日の光に体が暖められ、柔らかい風が頬を通り過ぎた。思わず眠ってしまいそうな午後だった。
その夜、ぼくが仕事部屋で寝ていると、ドアが開き、彼女が入ってきた。
「入ってもいい?」と彼女がささやくように言った。
「いいよ」ぼくは横になったまま、ふとんの端をめくった。彼女は枕を抱えて、ぼくの横にもぐり込んできた。
ぼくは彼女を抱いて寝た。
翌朝ぼくが真っ先にしたことは、彼女に名前を付けることだった。漢字を当てはめれば仮りの名前の子という意味で、カナコと名付けた。
9
こうしてぼくたちの同棲生活は、曲がりなりにも始まった。曲がりなりにもというのは、ぼくにとって彼女との生活は一時的なもの、という意識が絶えず働いていたからだった。それは彼女も一緒だったらしく、ぼくが彼女のために少し改まった服を買おうかと提案しても、彼女は断ったし、高い服なら、なおさら拒否した。ジーンズにトレーナー、それにラフなシャツで充分よ、と彼女は言った。他にぼくの買ったものといえば、ちょっとした化粧品と小さなバッグだった。彼女の持っていたポシェットは、ワンピースやジョギングシューズと一緒にダンボール箱に入れて、押入にしまい込んだ。「必要なときに、なくなっていたりしたら困るから」というのが、その理由だったが、思い出せない過去なら、忘れるのが一番という気持もあったかもしれない。
もっとも、彼女が全く記憶を取り戻さなかったというわけではない。
水辺のほとりの石碑と山高帽子の形をした島。その二つが彼女の思い出した過去のすべてだった。もちろん突然甦ったわけではなく、いつか風邪を引いて熱を出したとき、まず夢というかたちで現れ、それが次第に過去の記憶として定着されていったようだ。
しかし初めのうち、その記憶の場所を探そうという気持は、彼女にもなかったようだし、ぼくにもなかった。あまりにも漠然としていたし、どうしてその場所を見つけるか、方法がわからなかったこともある。
ある日の夕刊で、ぼくは何とはなしに「手頃な旅」という記事を読んでいて、最後に「もっと詳しく知りたいかたは、市の観光課へ」と書いてあるのを見た。電話番号まで添えられている。そのとき、ぼくはぴんときた。湖か沼を持っている市や町の観光課に電話をして、水辺に石碑が立っているところがあるかどうか訊けばいいのだ。
ぼくは勢い込んで、彼女に話してみた。「そんなにうまくいくかしら」と彼女は半信半疑だったが、「やってみなければ、わからない」とぼくは彼女に、全国の地図帳を買ってきて調べるように言った。
翌日、会社から帰ってくると、彼女はプリンター用紙に市町村の名前をかなり書込んでいた。晩ごはんをすませて、ぼくも一緒になって調べた。北から南まで、沼か湖、もしくは潟という名のつくところは、うんざりするほどあり、それを全部調べ上げ、それぞれのところの市外局番を書込んだ。
番号案内で、それぞれの役所の電話番号を調べ、石碑が立っている岸辺があるかを尋ねるのは、彼女の仕事になった。土曜日の午前中はぼくも手伝った。一週間くらいで、その作業は終ったが、ぼくの予想に反して、かなりの場所に石碑が立っていた。水のそばというのは、どうも碑が建てやすいところらしかった。
土曜日を待って、ぼくたちは一番近い石碑の場所へ出かけた。一番近いといっても、電車を三回も乗換えなければならなかったが。
この冬初めての木枯しが吹いており、ぼくたちはコートの襟を立てながら、通りがかりの人に教えてもらった道を行った。自動車の行きかう道をちょっと入ったところに、めざす碑があった。自然石をそのまま使っており、一部を平らに研磨して、くずした字が彫られていた。昔の俳人の碑らしかった。
「少し小さいみたい」と彼女が言った。
「何か思い出したかい」
「もっと大きかったような気がするの。わたしの背より、ずっと大きかったような……」
「それは子供のときに見たからじゃないのかい」
「そう言われたら、自信はないけど。それに水辺があんなに遠くにあるのもね」
その通りだった。松林の向こうに、光る水面が見えていた。
「水際があそこまで後退したのかな」とぼくは冗談めかして言った。
「まさか」
二十分ほどいて、そこを離れた。そんなにすぐに見つかるとは思っていなかったので、別に気落ちすることもなかった。
翌日も別の場所へ出かけたが、そこも捜しているところではなかった。石碑は二メートルを越す大きなもので、岸のすぐそばに立っていたが、彼女は首を振った。見たことあるとか、懐かしいとかいう心のざわめきが感じられないと言うのだ。
それからぼくたちは休日になると、石碑のある場所まで出かけていった。ちょっとした小旅行という趣だった。ぼくは貯金をおろして、その費用にあてた。雨や雪が降ったり、ひどい風が吹いたりして天候の悪い時は、出かけるのをやめた。冬の間に近いところは全部見て回ったが、どこもだめだった。
三月になって、急に暖かい風が吹き始めた日、ぼくたちは泊まりがけで、かなり大きな湖まで行くことにした。そこには石碑が四ヵ所もあり、とても一日では回りきれないと思ったからだった。彼女とよそで泊まるのは、初めての経験だった。
ホテルの部屋からは湖が見えた。対岸はかすんでいたが、その上には頂上付近に雪の残った山々が姿を見せていた。さざ波に陽が当たり、いかにも柔らかそうな湖面に見えた。彼女はひどく興奮して、ダブルベッドの上で何度も飛びはねた。
湖の東側に二ヵ所、西側に二ヵ所あり、その日のうちに東側だけでも回っておきたかった。それで部屋に荷物を置くと、ホテルのレストランで昼食をとってから、早速出かけた。近くまで電車で行って、駅前でタクシーを拾った。運転手に碑のことを話すと、すぐにわかってくれた。かなり有名な碑らしかった。
その碑は道路のすぐそばに立っており、今まで見たのとは違って回りに石柱の柵があった。御影石でてきており、四メートルほどの高さがあった。つるつるにみがかれた表面には、難しい漢字が上から下まで彫られていた。近くには護岸工事で造られたコンクリート堤があり、その向こうに湖面があった。
彼女は石碑をちらっと見ただけで、あとはもっぱらコンリート堤から湖を眺めた。
「ここも違うみたいだね」とぼくは彼女の後姿に向かって言った。
「そんなこと、ないわ」と彼女は湖に目をやったまま答えた。
「え?」ぼくは彼女の横に並んだ。
「この感じ。どこかで見たことがあるわ」
「この感じって、湖のこと?」
「ええ。後ろの石碑には何も感じないけど」
ぼくは急に動悸を感じた。
「それじゃ、かなり近いってことかな」
「そうかもしれないわ」
ぼくたちはタクシーを拾って、駅に戻り、再び電車に乗って次の場所へ向かった。
駅前でタクシーに乗り、運転手に碑のことを話したが、今度は知らなかった。運転手に地図を見せて大体の位置を教えると、「ああ、この辺ね」と返事をして車を走らせたが、碑は見つからなかった。運転手は何度も地図を見直し、何人かの通行人に尋ねては、バックしたり、右折したりして、最後に煙草屋のおばあさんにきいて、やっと場所がわかった。神社のそばにあるというのだ。
小さな鳥居があり、そこから先へは車は行けなかった。ぼくたちはタクシーを降り、砂ぼこりの舞う道を歩いていった。彼女がぼくの手を握ってき、ぼくも握り返した。
神社はこじんまりとしていて、ちょっとした森の中にあった。人の姿は見えず、玉砂利を踏む音だけが響いた。ぼくたちは境内に碑がないことを確かめてから、石段を降りた。細い道が神社の裏を回って湖のほうに続いており、そこを行くと、森が途切れるあたりに石碑が立っていた。高さ三メートルぐらいの菱形をした自然石だった。表面をけずらないまま、くずした字体の漢字が彫られていた。
彼女は黙ったまま、石碑を見つめた。湖面を渡る冷たい風が彼女の髪を乱し、ぼくの鼻先をかすめていった。
「これみたいね」と彼女が言った。
「これですか」
ぼくたちはまたしばらく黙って、碑を見つめた。
「これに間違いない?」
「そう言われたら自信はないけど、心がざわめくのは確かね」
ぼくは湖に目を向けた。対岸は遠いせいか見えなかった。
しばらくしてぼくたちは神社に戻り、社務所に寄った。母屋からちょっと張出した出窓という感じで、色あせた札がかかっていた。ぼくはガラス戸を開けて、中に声をかけた。返事がなく、二、三回繰返すと、ようやく丹前を着たおじいさんが現れた。真白な眉毛をしており、ぼそぼそとした声で、「おみくじかな」と言った。「いいえ」と答え、ぼくは彼女の記憶喪失のこと、石碑を見にきたことを話し、彼女に見覚えがないか尋ねた。おじいさんは何度もきき直したが、結局ぼくの説明をわかってくれなかった。ぼくは諦めて、「この人を見たこと、ありませんか」と彼女を前に出した。おじいさんは彼女をじっと見ていたが、「知らん」と首を振った。彼女におじいさんを知っているかどうか訊いたが、彼女も首を振った。礼を言ってぼくたちが行こうとすると、おじいさんは母屋からおばあさんを呼んでくれたが、おばあさんも彼女を知らなかった。
彼女は悪いからと言って、おみくじを買った。「末吉」で、「失せ物見つかる」という項があり、彼女を喜ばせた。ぼくたちは折角来たのだからと、神殿に手を合わせた。さい銭を投げるとき、最初は硬貨にするつもりだったが、気が変わって紙幣にした。それを見て、彼女が笑った。
それからぼくたちは一時間ばかり付近を歩き回り、煙草屋のおばあさんや雑貨屋のおばさんに彼女のことをきいてみたが、誰も彼女のことを知らなかった。
この湖には島がひとつだけあったので、ぼくはホテルに帰ったとき、絵はがきで調べてみたが、山高帽子とは似ても似つかない姿をしていた。次に見つけるとしたら、山高帽子の島なのだが、それにはどうしたらいいのか。ぼくは石碑の場合と同じように、全国の観光課に電話をして教えてもらえばいいのではないか、と彼女に言った。山高帽子の島が観光客を集めるような有名な島なら、きっとわかるはずだ。もしそうでなければ、お手上げだ。
「もう、いいのよ」と彼女は言った。「そんな島なんか捜す必要はないわ」
「どうして? 手がかりはそれしかないんだよ」
「もう過去なんかいらないわ。きょうあの碑を見て、そう思ったの。わたしの記憶を消したのは、神様の配慮なんじゃないかしらって」
「それでいいのかなあ」
「いいのよ。わたしが言ってるんだから」
ぼくたちはその晩ホテルに泊まり、翌日湖から少し離れたところにある古都を見て回った。本当の意味での観光をしたのだった。
彼女の過去を捜す旅は、そこで終った。
10
ぼくと彼女との同棲生活はそのときからまた新しく始まった。彼女に必要なもの、例えば鏡台とかタンスとかヘヤードライヤーとかをぼくは貯金をはたいて買った。友人に交渉して、給料を少し上げてもらった。もちろん同棲していることは内緒にして。会社の業績も順調に伸びていたので、友人は二つ返事で認めてくれた。
ぼくは洗濯も掃除も炊事もすべて彼女にまかせた。面倒くさいので、給料袋もそのまま渡した。会社から帰れば晩ごはんができており、パジャマはいつも洗いたてで、はくパンツがないといって捜し回ることもなくなった。仕事部屋以外はきれいに片付けられ、台所用品も数はふえたが、きちんと整頓されて、ステンレスの流し台もぴかぴかになった。仕事が詰まってきてアパートまで持帰り、夜遅くまでパソコンを相手にしているときに、静かにドアが開いて彼女がクッキーに紅茶、あるいは雑炊にお茶などを運んできてくれると、それだけでひどく幸福な気分になったものだった。
他に変わったことと言えば、ベッドがダブルベッドになって、それにベッドカバーがつき、カーテンが格子縞の柄になり、クッション、玉すだれ、マガジンラック、ポパイの絵の入った縦長のごみ箱、鉢植えの植物、便器カバー、体を洗うブラシ、スチームアイロン、アイロン台などが新しく部屋に加わった。
彼女はスーパーや市場で買物をしたり、クリーニング店に服を持っていったりする以外には、他の人と話す機会がなく、電話にも出ないように言ってあったので、ストレスがたまるらしかった。それでぼくが会社から帰ってくると熱心に話しかけてき、ぼくもできるだけそれに応じた。土曜と日曜には努めて彼女と外に出るようにし、カメラを持っていって、どっさりと写真をとった。
ある日、彼女は捨て猫を拾ってきた。黒と白のまだら模様の牡猫で、まだ小さかった。スーパーに買物に行った帰り途、細い鳴き声を立てて寄ってきたので相手をしたら、部屋までついてきたというのだ。ぼくは生き物を飼うのはあまり好きではなかったが、彼女がどうしてもと言うので、「仕方ないな」とうなずいた。
猫の名前は彼女がつけた。三日間さんざん考えたあげく、シャケという名前にした。鮭の切身を喜んで食べたからというのが、その理由だった。
シャケは彼女の言うことなら何でもきいたが、ぼくには全くといっていいほど従わなかった。一日中彼女が相手をしているのだから、当たり前だとは言えたが、ただぼくが帰ってきてドアを開けると、ちゃんと玄関まで迎えに出てきたので、他のことはたいてい大目にみた。
シャケが来てから、彼女は前よりストレスがたまらなくなったみたいで、会社から帰ってきたぼくを離さないということはなくなった。その点はありがたかったが、シャケがふすまとか柱を爪でひっかくのが新たな悩みとなった。特に寝室の押入のふすまはひどく、始めは下から三十センチほどがぼろぼろになったが、もうひっかく場所がなくなると、ベッドから飛上がってふすまをひっかいた。ペットショップで爪をとぐ器具を買ってきたが、それを使ったのも最初のうちだけで、すぐに元に戻ってしまった。
糞とおしっこが臭いのも、頭痛の種だった。五十センチほど張出したベランダに砂を入れた箱を置いて、そこにするようにしたが、風の向きによっては臭いが流れてくることもあった。ぼくは何とかして人間と同じように、便器にさせようとしたが、失敗した。彼女は、そんな猫の生理に反するようなことは無理よと言って、手伝ってくれなかった。
そんなふうにして、ぼくと彼女とシャケの生活は流れていった。同棲していることは、他の誰にも話さなかった。ぼくが電話をするときは、三回かけ直すことにしていた。
11
著名な心理学者ジェフリー・ランキンの「あなたは本当にあなたなのか」という本の中に、次のような一節がある。
「あなたの記憶の総体が円錐形だとすると、頂点は現在という平面に接している。底面はあなたにとって、確固たる過去と感じられるところのものである。それは頂点である現在のあなたを、まさに支えているのである。あなたはそれを唯一絶対の過去だと信じていることだろう。しかしあなたは次のような経験をしたことがないだろうか。同窓会に出席して、かつての友人から忘れていたあなたに関する昔話を聞かされ、激しく動揺したり、古い日記を読み返していて、忘れていた過去が甦り赤面したりしたことを。
あなたはそのときどういう態度を取ったか。まさかと思い、強く否定したか、それともしぶしぶ認めたか。どちらにせよ、そのときあなたにとって、過去は少しばかり位相を変えたはずである。あなたが意識するか、しないにせよ。
あなたの意識している過去というのは、現在のあなたを矛盾なく、合理的に説明するために、あなたが選び取ったものなのである。現在のあなたを混乱に陥れ、現在という平面と不適合を起こすような過去は抑圧されている。その意味で、人はだれしも記憶喪失者なのである。あなたが選び取ることのできる過去は無数にあり、そのうちの一つをあなたは選んだ。そのような選び方をした存在があなた自身であったといえるだろう」
この一節を読んだとき、ぼくはずいぶんほっとした。それというのも彼女と暮らし始めて彼女に対して何か悪いことをしているような、というより本当の彼女に対して申し訳がないような気持がいつもつきまとっていたが、結局彼女は過去をすべて忘れるという選び方をしたのだと考えることにした。
12
麗子に初めて会ったのは、カナコと暮らし始めて二回目の春が巡ってきた頃だった。
その日は金曜日で、例によって友人が会社の連中を呑みに連出したのだ。ぼくはいつもなら一軒目で帰ってしまうのだが、その日はゲームプログラムが完成して、ほっとしていたときだったので、最後まで付合う気になっていた。
三軒目の江戸時代ふうの居酒屋が最後で、友人が勘定を払ったのだが、ぼくは一旦外に出てからトイレに行きたくなって、また店に入った。トイレは入ってすぐ右にあり、男用と女用に分れていた。かなりあわてていたのか、それとも酔っていたのか、ぼくが入ったのは女用らしく、立って用を足すところがなく、一組の男女が通路で抱合っていた。男は背中を向けており、女の顔が男の肩から見えていた。「失礼」と言って、ぼくは行きかけたが、すぐに「待って」という女の声がした。振返ると、女がいやいやというように体を揺すっており、顔にも嫌がっている表情が表れていた。どうしようかとぼくがためらっていると、女は男の手を振りほどいて、ぼくの方へ走ってきた。そしてぼくの腕を取ると、「行きましょ」と男の方を向いて言った。男は二十五、六のやさ男で、「何だ、連れがいたのか」と言うと、別段悪びれたふうもなく、ぼくの顔をじっとにらむようにして出ていった。その間十数秒の出来事だった。
ぼくは何が何だか訳がわからず、ちょっと呆然としてしまった。
「出ましょ」と女が言った。女は微笑んでおり、よく動く目をしていた。ぼくと同じ歳か、少し下の感じだった。女に引張られてトイレを出、出口に向かった。そのとき後ろから、「レイコ、どこ行くの」という舌足らずな女の声が聞えてきた。
女が立止まったので、ぼくも立止まり、後ろを向いた。真ん丸の眼鏡をかけた女がやってきて、隣の女の横に並んだ。
「どうして帰っちゃうの」と眼鏡の女が言った。
「大学のときの友達に偶然会ったのよ」
眼鏡の女はぼくを見て、「こんばんわ」と小さく頭を下げた。
「ねえ、だったら一緒に呑みましょうよ」と眼鏡の女は隣の女の腕を取って、引張った。
「あなたも鈍いわねえ。久し振りに会ったのよ、積もる話がいろいろあるのよ」
「ああ、そうか。それじゃあ仕方ないわ、解放したげる」
「ありがと」
隣の女はバッグから財布を取出すと、素早く紙幣を抜出し、眼鏡の女の手に握らせた。
「これ、わたしの分。余ったらみんなで呑んで」
眼鏡の女は手の中の紙幣を広げると、「わ、サンキュー。何だか得しちゃった気分」と喜んだ。
「じゃあ、みんなによろしく言っといてね」
「まかせといて」
眼鏡の女は「お邪魔しました」とぼくに頭を下げてから、席に戻っていった。
「それじゃあ、今度は本当に行きましょうか」と女は再びぼくの腕を取った。
「どこへ行くの」
「さあ、どこにしましょ」女は意味ありげに笑った。
階段を上がると、歩道に出た。春とはいっても、夜になると冷え、女は組んだ腕に力を入れて、体を寄せてきた。
「どこかで会ったことあります?」とぼくは訊いてみた。
「大学時代の友達じゃなかった?」
「クラスに女の子は、ひとりもいなかったけど」
「まあ、かわいそうに」
男ふたりの酔払いが何か声をかけて通り過ぎた。女は首をひねって、「余計なお世話よ」と笑い声で言返した。
「わたしの知っているところでいい?」と彼女が訊いたので、ぼくはうなずいた。
彼女の連れていってくれたところは、おばあさん二人がやっている小さなバーで、カウンターにテーブルがふたつあるだけだった。そのテーブルも小さなやつで、椅子はパイプ椅子だった。
彼女はおばあさんと親しそうに口をきき、「きょうはこっちね」と言って、テーブルのところに坐った。ぼくも向かいに腰を降ろす。真っ白な髪のほうのおばあさんが水割の入ったグラスをふたつ持ってきた。「何にします」「シチューある?」「ええ」「じゃあ、それ二つ」
「ここのシチュー、おいしいのよ」と彼女は言い、それからこの店のことを話した。おばあさん二人は姉妹であること、二人とも今まで一度も結婚をしたことがないこと、三十年以上もやっていること、値段が安いこと、客はほとんど常連であること、などなど。ぼくはさっきのトイレでのことをききたかったが、黙っていた。それを察したのか彼女は店の話がすむと、「さっきはびっくりしたでしょう。ごめんなさい」と話し始めた。「トイレから出ようとしたら、あの男がやってきて、いきなり、今夜つきあえって言うのよ。わたし、もうびっくりしちゃって」
「知ってる人?」
「ううん、ぜーんぜん」
「酔ってたのかなあ」
「そうでもないみたい。近頃、図々しい男が多いから」
「へぇー、そんなものなのか」
「だから、あなたが来てくれて助かったわ。でなけりゃ、あそこで」と彼女は声をひそめた。「犯されてたかも」
「まさか」
「そんなこと、ないわね。もしそんなことになったら、わたし、大声でわめいてやるもの」
彼女はおかしそうに言うと、水割を呑んだ。シチューが運ばれてき、ぼくたちはしばらく黙って、それを食べた。半分ほど食べてから、彼女は「自己紹介をするわね」と自分の名前と仕事を言った。レイコというのは麗子と書き、仕事はコピーライターだった。ぼくも自己紹介をした。ぼくの仕事には一応ゲームデザイナーという名前がついていたが、もちろん一般的ではなかった。ぼくは麗子の質問に答えて、仕事の内容を話した。
「コンピュータって、難しい?」と麗子が訊いた。
「難しいと言えば難しいけど、まあ、慣れだからね」
「頭、おかしくならない?」
「もう、なってる」
麗子は声を立てて笑った。
「ずっと、その仕事?」
「いいや」
ぼくは大学を卒業してから、この仕事を始めるまでのことを簡単に話した。ぼくが石油ショックの翌年の卒業だとわかると、麗子は「わたしもおんなじ」と驚いた声を出した。ぼくが、なかなか就職先が見つからずに困った話をすると、彼女は大卒女子の求人が全然なかったので、コピーライターの学校に入り直したという話をした。ぼくたちはその頃はやっていた音楽を思い出し、かかっていた映画を映画館とともに思い出した。そしてその頃ふたりともアパートに住んでいたのだが、結構近くだったことに驚いた。
「すごい美人の奥さんがいる本屋があって、その奥さんの顔を見るために、よく本を買いに行ったなあ」とぼくが言うと、「そうそう。ちょっとエキゾチックな人でしょう」と彼女が答えたりした。ぼくは何だか旧知の友人に会ったような気持になった。
その店を出たときは、零時を過ぎていた。ぼくはカナコに電話するのを忘れていたことに気づいたが、どうせすぐに帰るからとそのままにしておいた。麗子との話の中で、お互いに結婚しているかどうかなどということには全く触れなかったので、できれば最後までそういう話になるのを避けたい気持もあった。
「ねえ、もう一軒行かない?」と先を歩く麗子が振返って言った。ちょっと舌足らずな発音になっている。
「まだ呑むの」
「今夜はすんごく気分がいいから、もっともっと呑みたい感じ」麗子はそう言うと、両手を上げて伸びをし、くるっと一回転した。クリーム色のワンピースの裾が広がった。しかしその途端、麗子は歩道に右手をついてうずくまった。ぼくは驚いて彼女のそばに寄り、背中に手を置いて、顔をのぞき込んだ。
「大丈夫?」
麗子は額に手をやりながら、うなずいた。「ちょっと目まいがしただけ」細い声で言った。
しばらくじっとしてから麗子は立上がったが、ひどくつらそうだった。額に指を触れてみると、汗がにじんでいるのがわかった。
「ほんとに大丈夫?」
「何だか気分が悪い」
そう言うと、麗子はまたしゃがんでしまった。ぼくは近くに喫茶店か何か休める場所がないか見回してみたが、みんな閉っているみたいだった。どうしたらいいのかぼくは途方に暮れたが、目を車道の向こう側にやったとき、ホテルの玄関を見つけた。ラブホテルなんかではなく、普通のホテルだった。
「立てる?」
麗子はうなずいたが、なかなか立上がらなかった。
ようやく彼女が立ったとき、ぼくは「あそこまで、おぶっていくよ」と背中を向けた。
「え?」と麗子は言ったが、素直にぼくの両肩に腕を乗せてきた。バッグが胸に当たった。ぼくは膝を落し、体を前に倒して、麗子を背中に乗せた。反動をつけてもう少し上にあげ、太腿と尻の境目あたりを手で支えた。
車道を渡り始めたとき、信号が点滅し始め、ぼくは急ぎ足になった。一歩踏出すごとに麗子の重みを受け、ぼくは急に酔いが回ってくるのを感じた。
ホテルは遠くから見ていたときより、はるかに立派な感じで気おくれがしたが、思いきって入っていった。ロビーには客の姿は見えなかった。ぼくはフロント係がこっちを見ているのを視界の端でとらえながら、麗子をソファーに降ろした。彼女は体をねじった恰好で、うつ伏せになった。彼女の様子をしばらく見てから、ぼくは背筋を伸ばし、ネクタイの結び目を直して、体の向きを変えた。フロント係はこっちを見ずに、下を向いていた。
ぼくが近づいていっても、彼は下を向いたまま何か書きものをしていた。
「部屋、あります?」とぼくは訊いた。
「あ、いらっしゃいませ」と彼は顔を上げた。「あいにく只今満室でございます」
「どんな部屋でもいいんだけど」
「そうおっしゃられても……」
「あのね。人が困ってるんだから、何とか助けてやってよ」
フロント係は下に目をやり、左右に動かしてから「ツインでしたら空いております」と言った。
「それでいいよ」
ぼくは宿泊者カードに住所と氏名を書き、「あちらの方は奥様でいらっしゃいますか」という質問に「そうです」と答えてから、自分の名前の下に「麗子」と書いた。
前金を渡して鍵を受取った。麗子はまだ伏せっており、肩を揺すると、ぼんやりとした顔を上げた。
「ここは?」
「ちょっと休んでいくだけだよ」
ぼくは彼女のバッグを取り、彼女を引張り起して肩を貸した。「ごめんね」と言って、麗子は口許だけで微笑んだ。
エレベーターに乗るところまでは麗子はしっかりしていたが、上がり始めると、口を押えてしゃがみ込んでしまった。ぼくも腰を降ろし、エレベーターが八階に着いても、「開」のボタンを押して麗子の横顔を見ていた。
しばらくして麗子は壁に手をついて立上がり、ぼくは彼女の腕を肩に回して、エレベーターから出た。途中で何回か休みながら、ようやく部屋に着き、中に入ると、早速麗子をベッドに寝かせた。ワンピースの胸元を弛め、ベルトをはずし、パンプスを脱がせる。麗子は目を閉じて、眉間にしわを寄せており、「吐いたほうが、すっきりするんじゃないの」と言っても、何も答えなかった。仕方なくぼくは隣のベッドに腰を降ろし、両手を後ろについた。ホテルの一室に彼女とふたりきりでいることが不意に意識され、ぼくは急に動悸を感じた。これは一体どうしたことなんだろうと思いながら、ぼくは麗子を眺めた。
三十分ほどたって急に麗子が起上がり、まぶしそうな目をして、あたりを見回した。「どうしたの」「トイレ」ぼくは彼女の背中を手で押して、案内した。ドアを閉め、ベッドに戻ると、三回ほど吐く声が聞え、次に水を流す音が聞えてきた。なかなか麗子は浴室から出てこず、様子を見にいこうかと腰を上げたとき、ドアが開く音がした。ぼくは彼女のベルトを輪にして、ナイトテーブルに置き、毛布をめくった。麗子が体を揺らしながら戻ってき、すぐにめくり上げた毛布の中に入った。毛布をかけ、しばらく彼女の目を閉じた顔を眺めてから、ぼくも隣のベッドにもぐり込んだ。浴衣に着替える気にもならず、靴下だけ脱ぎ、そして眠った。
13
次に目覚めたときには、カーテンがかなり明るくなっていた。ぼくは上半身を起して、時計を見た。七時半だった。そのとき麗子も目を覚ました。
「おはよう」とぼくは言った。「頭、痛くない?」
彼女は首を振り、ちょっと微笑んでから、毛布の端に顔を隠すようにした。
「シャワー、浴びてきたら」とぼくは言った。
「ええ」しかし麗子はぐずぐずしていた。
「行かないの?」
「あっち向いてて」
「ああ、そうか」ぼくは反対側に体を向けた。後ろで麗子の服を脱ぐ音が聞えてき、すこしたって小走りにシャワールームのほうへ行くのがわかった。向き直って隣のベッドを見ると、ワンピースとスリップとストッキングが揃えて置かれてあった。ぼくはベッドから出ると、服を脱いで浴衣に着替えた。
麗子がバスタオルを頭に巻き、浴衣姿で出てきた。入替りにぼくが入った。バスタブにつかっていると、何かが微妙に変わってしまったような気がした。それが何かぼくにもよくわからなかったけれども。
浴衣姿になってシャワールームを出ると、麗子はすでに服を着て、化粧も終えており、ぼくはあわててベッドの上に整えられていた服を手にした。「そんなに急がなくてもいいわよ」と麗子は言ったが、ぼくは手早く服を着た。
湯から上がってすぐだったので、ベッドに腰を降ろして少しぼおっとしていると、「はい、これ」と言って麗子が名刺を渡した。会社の名前と電話番号が入っており、その横に自宅の電話番号がボールペンで書かれてあった。ぼくも財布から名刺を出して、彼女に手渡した。
「自宅の番号は教えてくれないの?」と麗子が言った。
「ああ、そうか」ぼくは机の上にあったボールペンでアパートの電話番号を書入れ、麗子に返した。そのときぼくはカナコのことを話すのは今しかないと思った。
「実を言うとね、こんなこと言うのはおかしいかもしれないけど、同棲してるんだ。本当ならもっと早く言うべきだったんだけど……」
「そう」麗子はぼくの名刺をじっと眺めていた。
「昨夜から、チャンスがあれば話そうと思ってたんだけど、言出せなくて」
「そんなことだろうと思ってたわ」
「………」
「まさか同棲してるとは思わなかったけど、誰か女の人がいるなっていう気がしてたのよ」
「ごめん」
「何も謝ることなんかないわ。別に何かしたわけじゃないもの。でも、ちょっとがっかり」
「………」
「まあ、いいわ。正直に話してくれて、どうもありがとう。バカ正直っていえなくもないけど」
「話しておかなきゃいけないって思ったから」
「はい、これでその話はおしまい。さあ、下でコーヒーを飲みましょうよ。わたし、飲みたくてたまらないのよ」
麗子がぼくの背中を押した。
一階のラウンジはすいていて、ぼくたちは窓際の席に腰を降ろし、コーヒーとトーストを頼んだ。麗子は窓の外を見ていたが、注文の品が来ると、コーヒーを一口飲み、大きく溜息をついた。
「お酒を呑んだ翌朝のコーヒーって、すごくおいしいのよね」
ぼくも急いでコーヒーを飲み、うんうんとうなずいて見せた。「何も、わたしに調子を合わせることはないのよ」と言って、麗子は笑った。
「同棲を黙っていたこと、気にしてるの?」
「うん」
「気にすることなんかないわ。わたし、何とも思ってないから」
それから麗子は、一緒に働いている女性のことを話し始めた。その女性は、好きになる男がみんな妻子持ちか相手がいて、どうして自分はこうも男運が悪いのだろうと嘆いているという。
「それで、その人、今はどうしてるの」
「もちろん妻子ある男の人と付合っているわ。三十半ばの大手の会社の課長だって言ってたわ。でもね、ああいうのは精神衛生上、よくないわね」
「よくないって?」
「例えば喫茶店なんかで、おしゃべりしているときにね、いま機嫌よく笑っていたかと思うと、急に涙ぐんだりして、感情がころころ変わるのよ」
「情緒不安定?」
「そう、それ」
ぼくは、ひょっとしたら彼女は自分のことを、過去の自分のことを話しているのではないかという気がちらっとしたし、ぼくとはそういう関係になりませんということを、ほのめかしているという気もした。
フロントで精算をし、ぼくたちは表に出た。よく晴れた朝だった。
「ここで別れましょう」と麗子が言った。
「そうだね」
「どうもありがとう。月並な言い方だけど、昨夜は楽しかったわ、ほんとに。いつかまた、どこかで会いたいわね」
「できればね」
麗子は小さく手を振って、ぼくに背中を向けた。ぼくはしばらく彼女の後ろ姿を見送ってから、彼女とは反対の方向に歩き出した。
いかにも朝帰りという感じが嫌だったので、どこかで時間をつぶして、昼過ぎにでも帰ろうかとぼくは考えていたが、適当な暇つぶしを思いつかず、アパートに帰ってきてしまった。カナコに詰問されたら、正直に言おうと覚悟を決めて、鍵を回した。
ドアを開けると、洗濯機の音が聞えてきた。起きてるなとぼくは思った。シャケが今ごろ帰ってきたのかというようにゆっくりと現れ、玄関先に坐ると、顔を洗い始めた。ぼくはシャケを抱上げ、居間に入っていった。ベランダにふとんを干しているカナコの姿が見えた。シャケがいやがって体をくねらせ、鳴き声を上げた。
「シャケ、どうかしたの」とカナコが振返った。
「ただいま」と言って、ぼくはシャケを降ろした。
「あ、お帰りなさい」とカナコは笑った。「朝ごはん、まだ」
「ううん、食べてきた」
「ああ、よかった。わたし、もう食べてしまったもの」
カナコはそう言うと、再びふとん干しを続けた。ぼくはちょっと拍子抜けがした。無断で外泊をしたのは今回が初めてだったので、もっと何か言うと思っていたのだ。「昨夜はどうしたの。電話もくれなくて」と言われれば、嘘をつくにせよ本当のことを言うにせよ応対のしようがあったのだが、こう何も言われないとなると、どうしようもなかった。「昨夜電話しなかったのは、実は……」などと切出すのも、間が抜けている感じがした。
仕事でよく会社に泊まり込むこともあったから、おそらくカナコはそう思っているのだろうと考えて、ぼくは自分を納得させた。
14
それから一ヵ月ほどたったとき、友人がパーソナル・コンピュータの情報誌に全面広告を載せる計画をぼくに打明けた。パーソナル・コンピュータ用のワードプロセッサーのプログラムがようやく完成したので、この際思い切って、大々的に宣伝しようというのである。ぼくはあまり感心しなかった。というのもプログラムそのものがワードプロセッサーの専用機に比べて、大幅に機能が落ちるため、自信を持ってユーザーに勧められないというのと、そういう機能の劣ったプログラムを売って、ワードプロセッサーのプログラムとはこの程度のものかという悪いイメージを持たれるのはかえってマイナスだという気持があった。もっともこのプログラムを作ったのは、高校を中退した十七歳の少年だったので、やっかみ半分の気持もあった。
友人はぼくの意見も一応認めた上で、何よりも先手を打たなければいけないと力説した。ワードプロセッサーのソフトはまだほとんど出回っておらず、いま打って出ればかなりのユーザーを獲得できる。そうしておいてから改良プログラムを次々に提供していけば、問題はないのではないかと言うのだった。なるほど友人の言うのももっともだった。会社の経営上からいけば、それが最善のような気がした。ぼくは全面広告に同意し、そのときふと麗子の勤めている広告代理店のことを思い出した。
「代理店を替える気はないか」とぼくは言った。
「どうしてだ」
「いや、知合いが広告代理店に勤めているもんだから」
「ほう。初耳だな」
ぼくは鞄から麗子の名刺を取出して、友人に渡そうとしたが、彼女の自宅の電話番号が書いてあったので、メモ用紙に必要なところだけ書き写して渡した。
「何だ、女か」と友人は言い、にやっと笑った。「一体どういう知合いなんだ」
「昔の友達でね」
「ほんとかね」
友人は「まあ、検討してみよう」と言って、メモ用紙を背広の内ポケットにしまった。
数日たって広告代理店から二人の若い男が来たが、彼等が麗子の勤めている会社の者だと知って、ぼくは驚いた。
「宣伝の規模を大きくするには、やはり大手に任せたほうが安心できるからな」と言って、友人はぼくの肩を叩いた。
その日の夕方、麗子から会社に電話があった。「仕事を回してくれてありがとう。お礼に食事でもごちそうさせてくれない?」と彼女は言った。ぼくは素直にその好意を受けることにした。約束の日を決める段になって、いろいろ迷った挙句、やはり金曜日にした。
金曜日の朝、出かける間際になって、ぼくはカナコに「仕事で会社に泊まるかもしれないから、晩ごはんはいいよ」と言ってしまった。言ってから少し気がとがめたが、予定は未定だからと自分に弁解していた。なるようになったら、それはそのときだと開き直ってみたりもした。
仕事が終って、例によって友人が呑みに誘うのを用事があるからと断って、ぼくは約束の場所に急いだ。そこは地下街にある警察署の出入口で、人待ち顔の男女が大勢集まっていた。十五分前に着き、ぼくはガラスのドアと壁とのくぼみに体を入れて、麗子を待った。
約束の時間を十分ほど過ぎて、くぼみから体を離して、人の流れを見やったとき、手を振ってこっちにやってくる麗子を見つけた。ぼくはそのとき、こうした光景が以前にも何度となく繰返されたような錯覚に陥った。まるでエンドレステープが回っているみたいに。
ぼくが近づいていくと、麗子は「ごめんなさい。遅くなって」と舌を出した。「招待したほうが遅刻しちゃ、お話にならないわね」
「ただでごちそうしてもらえるんなら、三十分でも一時間でも待ちますよ」
麗子が連れていってくれたのは、中華料理店だった。入口で食券を買う方式に驚いたが、「ここは穴場なのよ」と言って、麗子はウィンクしてみせた。
ウェイトレスが食券を半分ちぎってもっていってから、麗子は仕事の礼を言った。
「最初、あなたの会社の社長さんから電話をもらったとき、会社の名前を言われたんだけど、あなたの会社だと気がつかなかったのよ。専務の紹介でお電話したと言われてもね。名前を聞いて、初めてわかったんだけど。でも、あなたが専務とはねえ」
「らしくない?」
「そう。らしくない」
「ここまで来るには、それなりの苦労はあったんだけどね」
「社長さんに訊かれたわ。専務とはどういうお知合いですかって」
「で、どう答えたの」
「学生時代の友達だったって言っておいたわ」
「まさに、ぴったり」
「いけなかった?」
「いいや」
ぼくは友人に尋ねられたときのことを話した。
「気が合うみたいね、わたしたち」と麗子は笑った。
前菜にくらげの酢のものが来て、ぼくたちはビールで乾杯をした。小海老のケチャップ煮や若鶏の唐揚げなどをそれぞれの皿に取分けながら、その合間に、麗子の仕事の話を聞いたり、ソフト会社を友人と始めたときの苦労話などをした。
食事をして店を出ると、地下街はまだかなりの人通りだった。
「もう一軒、行かない?」と麗子が言った。
「あの、おばあさんの店?」
「ええ。それとも、奥さんに悪いかしら」
ぼくは少しむっとなった。
「奥さんなんかじゃないよ」
「でも、似たようなもんじゃない」
「いや、違う」
ぼくの語気が強かったのだろう、麗子は驚いた顔をした。
「ごめんなさい。気にさわったみたいね」
「そんなことないよ。ただちょっと事情があるもんだから」
麗子が「行く?」と訊いたので、ぼくはうなずいた。
おばあさん姉妹の店はこの前よりも客が入っていて、カウンターしか席がなかった。ぼくたちは並んで丸椅子に腰をかけた。おばあさんが交互にやってきて、麗子に話しかけ、そのうち銀縁の眼鏡をかけたおばあさんが、「この前の人ね」とぼくのことを言って、目の前に水割のグラスを置いた。
しばらく黙って水割を呑んでから、ぼくはカナコのことを話し始めた。出会いから、記憶に残っている場所を捜す旅のことまで。麗子はほとんど質問をはさまずに聞き、聞終ってからも黙っていた。
「そういうわけだから、奥さんというのとはちょっと違うんだ」
「それはわかったけど、どうして記憶を甦らせる努力をしないの」
「手がかりがないんだ」
「でも方法はいくらでもあるでしょう。テレビに出るとか」
「彼女が今のままでいいって言うから」
「あなたはいいの?」
「わからない」
麗子は残っていたウイスキーを呑み干し、「お代わり」と言って、グラスを前に出した。
「一度、その人に会ってみたいものだわ」
「喜ぶかもしれない」
「本気なの」と麗子がぼくをにらんだ。ぼくはあいまいに笑って首を横に振った。
その店を出て、ぼくたちは呑み屋街を歩いていった。この前よりよほど暖かい夜だった。ぼくは彼女の足に合わせて歩こうとして、ときどき先に行ったりした。
呑み屋街を抜けたところで、雨が降ってきた。ぼくたちはシャッターの降りた銀行の軒先に身を寄せた。
「これからどうする」とぼくは言った。
「そんなこと、わたしに決めさせないで」と麗子は雨足を見やりながら答えた。
道路をはさんで斜め向いに、この前泊まったホテルが見えた。
「あそこまで走っていく?」とぼくはホテルを指さした。「いいわ」
信号が青に変わると同時に、ぼくたちは軒先から走り出た。
15
麗子とはそれから金曜日ごとに会った。そして翌日、一緒に昼食を食べてから別れるという形になった。カナコには急ぎの仕事が入ったからということで、泊まることにしていたが、別に泊まらなくても、土曜日の休みを返上したらいいじゃないと言われたら、返事に窮するだろうと思っていた。それに他の日は遅くもならずに時間通りに帰ってくるのだから、おかしいと思えばおかしいには違いなかった。しかしカナコは何も疑ってはいないようだった。ぼくは埋合わせをするような気持で、日曜日や祝日にはバックギャモンをしたり、遊園地でジェットコースターに乗ったりして、カナコと遊んだ。
しかし、それも長くは続かなかった。カナコがある日突然いなくなってしまったから。
その日は五月の連休が終った週の土曜日で、ぼくは二時ごろアパートに帰ってきた。鍵を開けて部屋に入ったときに、すでにおかしいという感じはあった。いつもならテレビかFM放送の音、あるいは掃除機の音が聞えてくるはずなのに、それがなく、しんとしていた。靴を脱いで上がったとき、そういえばシャケはどうしたんだろうとぼくは思った。いやいやながらでも姿を現すはずなのに。
ぼくは居間へ行ってベランダを見、それから寝室のドアを開けた。ダブルベッドにはきちんとカバーがかけられており、周りもきれいに片付いていた。
買い物でも行ったのかなとぼくはつぶやいたが、無理にそう思おうとしていることは自分でもわかった。鏡台やナイトテーブルに書置らしきものがないのを見てとると、ぼくは自分の仕事部屋に急いだ。
仕事部屋は木曜日の晩のときと変わらず、散らかっており、机の上にもどこにも書置らしきものはなかった。ぼくは少しほっとして、やっぱり買い物かなともう一度つぶやいた。カナコだけではなく、シャケもいないことがぼくを落着かなくさせた。ぼくは床に散らばっている紙切れを何枚か手に取って、手紙でないことを確認してから、今度はゆっくりと居間に戻った。
もしか出ていったとしたら何を持っていくと考えて、ぼくはあわてて寝室に入り、カナコのタンスを開けてみた。どの段にもブラウスやスカート、下着、ストッキング、ハンカチなどが詰まっていた。ぼくは今度こそ本当にほっとし、はみ出したブラウスの袖などを押込んで、タンスを閉めた。しかしそのとき全く正反対の考えが浮かんで、ぼくは思わず声を上げそうになった。カナコは何も持たないで出ていった!
ぼくは押入を開け、カナコの過去からの持ち物の入っているダンボール箱を引張り出した。開ける前から中が空であることは重さからわかったが、ぼくは開けてみた。何もなかった。ワンピースもポシェットもスニーカーも。
ぼくはパーソナル・コンピュータの前の椅子に坐って、事態を冷静に考えてみようとした。カナコが昔の服装で出ていったのは、もう一度過去を捜すため? それとも現在を振払うため? あるいはその両方? 出ていったのは、もちろんぼくと麗子のことを知ったから。はっきりとはわからなくても、誰かと寝ていると感じたから。あるいはひょっとして、急に過去の記憶が甦ったから。そんなはずはない。それならぼくに喜んで話しているはずだ。現在の記憶を失ったから? それならどうしてタンボール箱の場所がわかったのだ。もしかしてカナコはぼくに警告を与えるつもりで出ていったのだろうか。それならぼくは彼女の帰りを待つだけでいいのだが。
ぼくはコンピュータのディスクにピンボールのシュミレーションゲームを入れて、スイッチを押した。CRTの画面にピンボールが現れ、ぼくはキーボードで画面のボールをはじいた。こうやっていればそのうち後ろにカナコが現れるような気がして。ぼくは半ばむきになってフリッパーを動かし、何度もリプレイのキーを押した。
どのくらいそうやっていただろう、ぼくは不意に、捜さなければと思い、コンピュータのスイッチも切らずに外に出た。おだやかないい天気で、ぼくは堤防に向かった。
河原では少年野球のほかにママさんソフトボールの試合があった。ぼくはそれを横目でにらみながら、葦原のほうへ歩いていった。まさかいないだろうと思いながら、ひょっとしたらいるかもしれないというかすかな期待で秘密の場所に行ったが、やはり誰もいなかった。葦が踏み荒らされており、あるいはカナコが来たのかもしれないと丹念に見てみたが、ここに来たという証拠はどこにもなかった。ぼくは窪地に横になり、頭の後ろで両手を組んで空を眺めた。ちぎれ雲が視界の端から端まで行くのに、かなりの時間がかかった。
陽が落ちるまでそこにいて、アパートに帰った。ドアを閉めたとき金属音がして何かが落ち、見ると部屋の鍵だった。カナコが郵便受に放り込み、そこから落ちたものだった。ぼくは鍵を拾い、リング状になったキーホルダーに通そうとしたが、指先にかなり力を入れなければならないのでやめて、靴箱の上に放り投げた。
夕食をどうするかと考えて、ぼくは冷蔵庫を開けてみた。三日や四日は充分食べられるだけの材料が入っていた。二人分作っておこうかとふと思い、そんなことを思う自分にうんざりした。冷蔵庫を閉め、外に食べに出た。帰ってきて風呂をわかして入り、早々にベッドに潜り込んだ。秘密の場所でカナコを見つけたときの情景が繰返し頭に浮かび、なかなか眠ることができなかった。
翌朝、目覚めかけて寝返りを打ったとき、手の甲が何かに当たった。ぼくは夢うつつの中で、カナコがいるじゃないかと思い、再び眠ってしまった。そして今度は本当に目を覚ましたとき、隣がからっぽだとわかるとひどくだまされた気がした。手の甲には確かにカナコの体の感触があったが、実際は枕に過ぎなかったのだ。
起きて歯をみがいていると、電話が鳴った。ぼくは飛んでいき、口の中に歯ブラシを入れたまま受話器を取った。間違い電話だった。違いますよと言おうとしてうまく言えず、ぼくはそのまま受話器を降ろした。昼近くになっており、トーストと牛乳と目玉焼きで食事をすますと外に出た。電話の音を聞きたくなかったから。
映画でも見ようと思って、映画館ばかり集まっているビルに行き、波瀾万丈のスペクタクル映画を見た。一人で見るのは数年ぶりだった。立見が出るほど混んでいたが、上映が終って入替わりのときに席に坐れた。周りはアベックばかりで、映画館てこんなにアベックが多かったのかと思ったほどだった。
終って映画館を出たのは五時過ぎだった。さて、これからどうしようかと考えて、麗子に電話でもしてみようかと思った。しかしすぐにそんな考えは捨てた。麗子はどうしたのと訊くだろうし、そうするとカナコがいなくなったことを話してしまうだろう、まるで麗子に救いを求めるみたいに。そんな自分の姿を思い浮かべると、ぞっとした。ぼくは早い夕食をとり、おばあさん姉妹のやっている酒場に行ってみた。しかし閉まっていた。仕方なく麗子と初めて会った居酒屋に行って呑んだが、広い店で一人で呑むというのは居心地が悪く、すぐに出てしまった。
結局アパートに帰ってきてしまった。階段を上がっているとき、ひょっとしたらカナコが帰っているんじゃないかと思ったが、部屋には明かりがついていなかった。暗い部屋に一人で帰ってくるというのも、何年ぶりかのことだった。ベッドに横になってテレビを見たが、番組が頭の中を素通りするばかりなので、ベッドから降り、しかしテレビはつけたままで、風呂場へ行った。ガスの火をつける前に浴槽の蓋を開けてみると、水がきたなかったので栓を抜き、中を洗った。
風呂がわく間、流しでフライパンやコップや朝食用の白いトレーを洗い、まだ時間があるので掃除でもしようかと思ったが、どこもきれいだった。仕方なく新聞をていねいに読んだ。
風呂から上がってパジャマを着、歯をみがいてからすぐにベッドに入った。明かりを消し、テレビを見た。途中風呂の種火を消していなかったことに気づき、ベッドから降りて消しにいった。
テレビを見ながらいつの間にか眠ってしまい、トイレに行きたくなって起きたときには放送が終っていて、白い画面とサーという雑音だけが流れていた。テレビを消し、トイレにいって、再び寝た。
翌朝ぼくは寝過ごした。目覚まし時計をセットするのを忘れていたのだ。休もうかとぼくは思ったが、そんなことををすればまた、きのうみたいな日を過ごさなければならないので、出勤することにした。それに仕事をしているほうが気がまぎれるだろう。ぼくは別に急がず、ゆっくりと朝食をとり新聞を読んでから、出かけた。会社に着くと、友人がやってきて、ぶつぶつと説教らしきことを言ったが、適当に聞流して、頭を下げた。
カナコがいなくなって一番困ったことは、生活のリズムがつかめないことだった。二年半ほど前までは一人で生活していたじゃないかと自分に言いきかせるのだが、そのころの感じが取戻せないのだった。夕食を作る気にはなれず、外食ですませた。
金曜日、いつものようにぼくは麗子に会った。いつものように食事をして、おばあさん姉妹の店に行き、ホテルに入った。ぼくはカナコのことは一言も言わないでおこうと思ったが、抱合ったあと部屋の明かりを消し、それぞれの眠りにつこうとしていたとき、麗子が話しかけてきた。
「彼女、何にも言わない?」
麗子がそんなふうにカナコのことに触れるのは初めてだった。ぼくはちょっと迷ってから、「出ていったよ」と答えた。麗子は黙ってしまった。
「いつ?」しばらくして麗子が訊いた。
「先週の土曜日」
「何か言ってた?」
「帰ったときには、もういなかったから」
「そう」
再び麗子は黙った。
「わたしのせいね」と麗子がぽつりと言った。いや、ぼくのせいだと言おうとして、やめた。
「記憶が戻ったのかもしれない」とぼくは言った。
「そうね。そう考えたら、少しはわたしも楽になるわ」
翌朝、いつものように昼食をとり、コーヒーを飲んでから別れた。別れるとき、麗子は何か言いたそうな顔をしたが、ぼくはあえて訊かなかった。
翌日いい天気だったので、ぼくはふとんを干し、一週間分の洗濯をし、FM放送の音楽をボリュームを大きくして流しながら、掃除機をかけた。昼ごはんは冷蔵庫に残っている材料でオムレツを作り、しなびたキャベツも刻んで食べた。
仕事部屋でコンピュータのキーボードを叩きながら、プログラムを作っていると、電話が鳴った。麗子だった。
「よかったら、わたしのところで晩ごはんを食べない?」
と彼女は言った。ぼくはオーケーし、会う時間を決めてから電話を切った。
いつもの警察署の前で麗子が先に待っており、ぼくたちは地下鉄に乗った。麗子の家に行くのは初めてだった。
駅から歩いて五分くらいの所に彼女のアパートはあり、鉄筋コンクリートの四階建の三階だった。1DKの白っぽい色で統一された部屋だった。
「女の人の部屋っていう感じがするね」とぼくは白いタンスやカーテンを見ながら言った。
「別に意識しているわけじゃないんだけど」と麗子は笑った。
バスとトイレはホテルみたいに一体型になっており、シングルベッドが畳の部屋に置いてあった。
晩ごはんは牛肉のクリーム煮とポテトスープとアルファルファのサラダだった。ビールを注ぎ、少しためらってから「乾杯」とだけ言って、グラスを合わせた。
「三日続けて会うのは初めてね」と麗子が言った。
「そうだね」ぼくはビールを一息に飲んだ。麗子が再びついでくれる。
「ところで猫ちゃんは元気? ちゃんと餌やってきた?」
「いないんだ」
「いないって、逃げちゃったの?」
「わからない。彼女も猫もいなくなったんだ」
「連れて出たのね」
ぼくは切分けられた牛肉をフォークで突差して口に入れた。麗子はスープを飲み、何かを思い出したようにスプーンを持った手を止めると、「ごめんなさい、余計なことを訊いて。もう何も訊かないわ」と言った。
「うん」とぼくはうなずいた。
その夜、ぼくは麗子からソクラテスというゲームを教えてもらった。夜遅くまで熱中し、ぼくは麗子の部屋に泊まった。
翌朝、ぼくは麗子のベッドの横にふとんを敷いて寝ていたのだが、起きたとき自分がどこにいるのかを思い出すのに、十秒ほどかかった。麗子はすでに起きており、フライパンで何かをいためている音が聞えてきた。ぼくは服を着て、洗面所で顔を洗い、麗子の出してくれた女性用カミソリでひげを剃った。ところどころ剃り残したまま、麗子と一緒にクロワッサンとハムエッグの朝食をとり、一緒に部屋を出た。同じ地下鉄に乗り、ぼくが乗換える駅に着いたとき、「それじゃあ、いつものように金曜日に」と麗子が言った。
「いつもの時間、いつもの場所」とぼくは呪文のようにつぶやいて、電車を降りた。
その日、ぼくは久し振りに気分よく仕事をし、女の子に「何かいいこと、あったんですかあ」とひやかされたほどだった。
六時過ぎにアパートに帰ってきたぼくは、まずシャケに関係するものをすべて捨てようと思った。ベランダの砂箱、キャツトフード、爪とぎ器、「猫の草」という名前の、何かの植物の種子の入った箱。シャケに引裂かれた押入のふすまは、表具屋に電話をして直してもらえばいい。
ぼくはまず砂箱を持って、暮れかけた河原に行った。中学校の野球部が、まだ練習をやっていた。ぼくは彼等の掛け声を聞きながら、芝生の禿げたところに砂を捨てた。その中に小さくて黒っぽいものが混じっており、それが糞だとわかると、ぼくは不意に、ぼくとカナコの生活を知っていたのは、ぼく自身とカナコ以外にはシャケだけだったんだという思いに捉われた。カナコに抱かれて悠然とあたりを見回している姿や、面倒臭そうにぼくを出迎えにくる姿や、ベッドの上から飛上がってふすまに爪を立てる動作を飽きずに繰返す姿が一瞬のうちに甦ってきた。
ぼくは砂のなくなった木箱を持帰ったが、もう他のものを片付ける気がしなくなって、ベッドにひっくり返った。そうやって窓の外が藍色から黒色に変わるまでじっとしていたが、やがて起上がると、まだ開いていたスーパーマーケットに行って鮭の切身を買った。ラップをはずし切身を手にして、ぼくは道路ぞいを歩き、暗い路地まで入り込んで、シャケ、シャケと小さい声で呼んだ。犬に吠えられても、ぼくは鮭を持った手を振りながら歩き続けた。
16
結局ぼくはカナコを探すことにした。ぼくがどんな過去を選択するにせよ、カナコとのことが欠落と感じられる限り、そこから自由になれない気がしたのだ。
ぼくは会社にいるときも、アパートに帰ってきたときも、どうしたらカナコを見つけることができるかを考え、結局カナコのあとをたどるしか方法がないという結論に達した。カナコはおそらく自分の過去を捜そうとするだろうから。
まず始めに、あの碑のある場所に行かなければならないと考え、そこでカナコの行方を捜すには彼女の写真がなければならなかった。写真なら掃いて捨てるほどあるとぼくは高をくくっていたが、実際に押入からアルバムを取出してめくってみると、そこにはカナコの写真はなかった。ぼくと一緒に写っている写真はあるにはあったが、どれもこれも通りがかりの人に撮ってもらったもので、風景の中に男と女がいるという程度にしか見えなかった。大きな洞窟の前に並んでいる男女、どこかの展望台で雪をかぶった山々を背景にした男女、遊園地の入口にあるアーチ型の看板の下で腕を組んでいる男女……。
ぼくは紙袋に入ったネガを捜したが、どこにも見当たらなかった。ぼくはちょっと途方に暮れたが、二人で写っている写真のうち比較的カナコの面影がはっきりしているものがあり、それを持って碑のある湖に行くことに決めた。写真をはがしていったということは、自分を捜さないでほしいというカナコの意思の表れだとは思ったが、そう思うとますます捜さなければならない気がした。
何日かたって会社からの帰り道、シャッターの降りたビルの前で人だかりがしており、見ると路上に歌手や俳優の似顔絵が並べてあった。横では髪を長くした若い男が、椅子に坐らせた女の子の似顔絵を書いていた。この方法があったんだなとぼくは気づき、急いでアパートに帰ると写真を持ってビルの前に戻った。人だかりはなくなっており、若い男は路上の絵を集めていた。
「似顔絵を書いてほしいんだけど」とぼくは言った。男は腕時計をちらっと見てから、「いいですよ。そこに坐って」と椅子を指さした。
「いや、ぼくじゃなくて、この写真の女性の似顔絵を書いてほしいんだけど」とぼくは写真を見せた。
男は写真を手に取り、街灯の明かりを受けるようにしてじっくり見てから、「どうもはっきりしないなあ。もっと大きいやつはないの」と言った。
「これしかないんだ。おかしいところはぼくが注意するから、書いてくれないかな」
「モンタージュ写真を作るみたいに」と言って、男は笑った。
男は椅子に腰を降ろし、厚手の板を膝の上に乗せ、そこに画用紙を置いた。そして左手に写真を持って、濃い鉛筆で描き始めた。荒っぽく輪郭を書き、髪の毛を書き、慎重に目を入れた。ときどき親指でこすって線をぼかした。
大体描き終ったところで、男はぼくに見せた。似ているようで、どこか似ていないような気がした。ぼくは、目尻をもう少し下げてとか、口をもう少し大きくとか、頬骨のあたりはもう少し痩せていたとか、いろいろ注文をつけたが、しまいには自分でも訳がわからなくなってきて、そのことにショックを受けた。
最後まで、これだというようにはならなくて、結局まあまあ似てるというところで手を打った。男に料金を払うとき、ふっと、この男もこういうことをしながら誰かを捜しているんじゃないだろうかと思ったが、すぐにおかしくなって自分を笑った。
いつものように金曜日に麗子に会い、彼女が月曜までここにいたらと言うのを、仕事があるからと言って翌朝アパートに帰り、写真と似顔絵を持って、列車に乗った。ちょうど梅雨に入った頃で、細かい雨が降っており、車窓を斜めに流れる水滴を眺めながら、ぼくは二年前カナコと二人でこの列車に乗ったことを思い出していた。
二年前と寸分違わぬ駅で降り、漫画を読んでいる運転手に声をかけてタクシーに乗った。神社の名前を言うと、運転手は返事もせずに急発進し、ぼくは自分がこの土地の歓迎されざる客であるような気になった。
鳥居の前でタクシーを降りた。雨が少し強くなってきたので、ぼくはバッグから折りたたみの傘を取出して、広げた。神社への道はところどころぬかるんでおり、注意して歩いた。境内にはこの前と同じく人っ子ひとり見当たらなかったが、前よりも寂しい感じがした。雨のせいもあったが、どこか呼吸を止めてしまっているという気がした。社務所の窓を開けようとしたが開かず、ぼくは窓ガラスを小さく叩いてみた。おじいさんに似顔絵を見せようと思ったのだが、誰も出てこず、諦めてその場を離れた。
石段を降りて、碑に通じる道を歩いていった。途中で、ひょっとしたらカナコが来ているかもしれないという想像に捉われ、ぬかるみも構わず足早になった。しかし、碑の前にはもちろん誰もいなかった。雨が碑を濡らし、ぼくは読みにくくなった字をしばらく眺めてから、目を湖に向けた。ゆるやかにうねっている湖面に、細かい雨が降り注いでいた。対岸は全く見えず、ただ灰色だけが広がっていた。そのときぼくは不意に、カナコは幻の島の記憶が甦って、そこに行ったのかもしれないということに気がついた。
ぼくは鳥居のところまで引返すと、目についた食堂で遅い昼食をとった。半分つぶれかけみたいな食堂で、外から見ただけでは営業しているのかどうかわからないくらいだった。勘定を払うときに、ぼくは写真と似顔絵を出して、おやじさんに心当たりがないか訊いてみたが、おやじさんは客の注文を断るみたいな感じで首を振った。
この前カナコと一緒に寄った煙草屋と雑貨屋にも入って、写真と似顔絵を見せたが、おばあさんもおばさんも、知らないと首を振った。ぼくは二人の顔に見覚えがあったが、二人ともぼくのことは知らないようだった。
ぼくはホテルに一泊して、カナコと回った古都の寺を順番に辿どってみようと思っていたが、そんなことよりも幻の島を捜したほうが手っ取り早いと思い直して、列車を乗換えた。その日、ぼくはアパートに帰った。
17
幻の島を見つけるには、碑を捜し出したときと同じように県か市の観光課に電話をして、山高帽子に似た島があるかどうか教えてもらえばいいと思っていたが、実際に土曜日の午前中、島をたくさん抱えている県や市に電話をしてみた結果、どうも碑の場合ほど簡単にはいかないことがわかった。相手はとっさにぼくの質問の意味が理解できないらしく、それは奇岩かなにかですかとか、絶壁で有名な島のことですねとか、管轄外ですとか言って、役に立たなかった。ある係員に、島の大きさはと訊かれ、言葉に詰まってしまったこともあった。
ぼくは県別の観光ガイドの本を買ってきて、調べてみたが、山高帽子はおろか島の形を観光の売物にした記事はひとつも見当たらなかった。
こうなったら地図を見て自分で捜してみるまでだと、ぼくはまず西の方の県で島が数多くある地図を買ってきて、ひとつひとつの島を調べ始めた。二万五千分の一の縮尺だから、かなり小さい島まで載っていた。最初どこから見ても山高帽子に見える島を捜していたが、そんな特殊な等高線をした島があるわけがないと気がつき、一方向からでもいいから山高帽子に見える島を捜すことにした。しかし、そうすると途端に一つの島を検討するのに時間がかかることになった。それに等高線が入組んでいる場合、島の形がうまくイメージできないこともあった。
そんなとき、これをコンピュータにやらせたらと思いついた。等高線のデータを入力して、3Dグラフィックパッケージで立体化して画面に表示する。やってやれないことはなさそうな気がした。
ぼくはワードプロセッサーのプログラムの改良に取組んでいる少年に、この話をしてみた。
「おもしろいですね」と少年は言った。「問題は等高線の入力方法だと思うんですけど」
「そうなんだ。今のところデジタイザーを使うしかないんじゃないかと思っているんだけどなあ」
「それもおもしろいけど、等高線を一本一本なぞっていくのは大変でしょ。いっそのことイメージスキャナーでやったら」
「うちにはないよ」
「だから社長に買ってもらうんですよ」
少年はこともなげに言った。しかしイメージスキャナーは一台百万円は下らない代物なのだ。友人が簡単にオーケーするとは思えなかった。
ぼくは二日間考えてから、それとなく友人に切出した。コンピュータグラフィックのひとつの応用として、おもしろいアイデアだろう、ひょっとしたら商売になるかもしれないとぼくはさりげなく言った。友人はしばらく天井をにらんでから「まあ、いいだろう」と答えた。「税金にもっていかれるより、設備投資したほうがましだもんな」
ぼくはあまりにもあっけなかったので、ちょっと気が抜けたほどだった。
「ただし」と友人は言った。「本来の仕事に支障のないようにやってくれ」
早速イメージスキャナーを注文し、五日後届いた。かなり大きい代物で、十五インチのプリンターの倍くらいの大きさだった。コンピュータと接続するのはプログラムができてからなので、邪魔にならないように隅のほうに置いておき、仕様書を読んだ。
ぼくはイメージスキャナーとコンピュータのデータのやりとりの部分のプログラムを受持ち、少年は3Dグラフィックパッケージの部分を受持った。
ぼくと少年は五時過ぎまで本来の仕事をやり、晩ごはんを食べてから、地下鉄の最終が出る時間まで地図の立体化プログラムに取組んだ。アパートに帰ると、頭の中に綿を詰込まれているような気分で、シャワーを浴びると、ぼくはさっさとベッドに潜り込んだ。そして朝起きると、牛乳とトスートだけの簡単な食事をして、会社に行った。その繰返しだった。もちろん金曜日には仕事を早く終え、麗子のアパートに行って食事を一緒にとり、そして彼女と寝た。翌朝は、仕事があるからと本当のことを言って、会社に行き、誰もいないオフィスでプログラムの続きを作った。日曜日は洗濯だけをして、あとはほとんど寝て過ごした。
ぼくが余程疲れた顔をしていたのだろう、麗子はときどきぼくと少年だけが残っている会社に、差入れにやって来るようになった。ハンバーガーやフライドチキンやドーナッツやお寿司、それにコーラやコーヒーやお茶を持ってきた。そんなときは作業を一時中断し、ぼくたちは椅子に坐ったまま輪になって、真ん中の丸椅子に置いたパッケージの中から、食べ物をつまんで口に入れた。少年は最初人見知りをして、麗子とは全く口をきかなかったが、麗子が何回か来るうちに打解けてきて、次第に話をするようになった。学校をやめたときの話とか、将来の夢など。学校をやめたのは、優等生の演技をするのが馬鹿ばかしくなったからで、将来の夢は人間の問いかけに完璧に応答するシステムを作ること、つまり話し相手になるコンピュータ・システムを作るということだった。
麗子は別種の人間を見るみたいに少年を見たが、ぼくに言わせると、少年の話はとりたてて変わっているわけではなく、昔の少年が野球選手にあこがれるみたいなものだった。そう言うと、麗子は少し皮肉っぽく「あなたも少し変わっているから、変わっているものが普通に見えるのよ」と言った。そして「女の子と遊んでみたらいいのに」と溜息をついた。その意見には、ぼくも賛成だった。
少年に任せたプログラムは順調に仕上がっていったが、ぼくのほうは難産だった。イメージスキャナーからデータを読込むのは割合簡単だったが、等高線にかぶさって書込まれている文字をどう消して、等高線を修正するかが問題だった。何回試みても失敗し諦めかけたとき、少年が陰線処理の手法を応用すればどうかというアイデアを出し、共同作業をした結果、ようやくうまくいった。全体のプログラムを作るのに、一ヵ月もかかってしまった。
少年の仕事は終ったが、ぼくの仕事はこれからが本番だった。少年と共同作業をしていたときと同じように、晩ごはんを食べに出て戻ってきてから、天井の照明を半分にしたオフィスの片隅で、一人でコンピュータの画面に向かった。イメージスキャナーのドラムに地図を巻きつけ、スイッチを押すと、人間の目に相当する素子のついたヘッドが左右に素早く動いて線を読取っていく。読み終ると、画面に地図が表れ、マウスを使ってそのうちの一つの島を指定すると、その島が画面に拡大される。キーボードを押すと、次に陰の部分の線が消去されたワイヤーフレーム状の島が表れる。そこでまたキーボードを押すと、その島がゆっくりと回転し始める。キーボードを離せば、すきなところで回転を止めることができる。
こうやって一枚の地図に載っている全部の島をチェックし終ると、次の地図をドラムに巻くのである。載っている島の数にもよったが、一日にせいぜい十枚の地図を調べるのが精いっぱいだった。友人が、バグ(エラー)もなくなったんだから、いい加減にしておけと言ったが、仕事には全く支障をきたしていないんだから、放っておいてくれと強く言うと、もう何も言わなくなった。
ある晩、麗子が差入れにやってきて、少年がいないのを不思議がった。
「プログラムは完成したから、もうあの子の分はいらないよ」とぼくは言った。麗子は赤と白のストライプの入ったパッケージを持上げてみせ、「ちょっと多かったかしら」と言った。パッケージを開けて、二人分には多いドーナッツを、彼女が一個食べる間にぼくが二個食べるといった具合にして片付けた。
「今はどういうことをしてるの」と麗子が訊いた。
「プログラムが正常に動くかどうか試しているのさ」とぼくはごまかした。
しかしその嘘もすぐにばれることになる。三日後、再び麗子がやってきたが、手には何も持っていなかった。差入れは? と訊く前に、麗子が「もう仕事は終ったんでしょう?」と言った。
「いや、まだだよ」
「仕事、終ったって聞いたわよ」
「誰がそんなこと言ってるの」
「ここの社長さん」
「え?」
麗子はコンピュータの画面を覗き込みながら、「あなたの捜している島、もう見つかった?」と言った。ぼくは黙っていた。
「昨夜、社長さんから電話があってね。あなたのこと、大変心配してたわ。プログラムはでき上がったのに、いつまで試運転しているのかって。それも地図を何枚も買ってきて、島を片っ端から見てるんですってね。何とか言ってやってくれって、頼まれたわ」
「余計なお世話だ」とぼくはつぶやいた。
「社長さんから電話をもらってしばらくしてから、ようやくわたしは気がついたのよ。あなたがどうしてこんなプログラムを作ったのか。いつか、ほら、あなたが話してくれたことがあったでしょう。彼女の記憶に残っているたった二つの光景。水辺の碑と山高帽子の島の記憶。あなたはその島を捜しているんでしょう。島を見つければ、彼女も見つかると思ってるのでしょう」
「………」
「イエスかノーか、はっきり言ったらどうなの」
「そうだよ。その通りだ」
「やっぱりね」麗子は背中を向けた。「あなたって、ひどい人ね。彼女を捜すために新しくプログラムまで作りながら、一方では平気でわたしと寝るんだから」
ぼくは麗子の怒りをもっともだと思いながら、それは誤解からきていると楽観していた。
「彼女を捜すのは、きみと新しくやり直すためなんだよ」
「馬鹿なこと、言わないで」
「馬鹿なことじゃない。本当なんだ。うまく言えないけど……」
ぼくは苦しまぎれにジェフリー・ランキンの言葉を話して聞かせた。
「今ぼくは現実平面と不適合を起こしているんだ」
「わからないわ」
「でも、本当なんだ」
「それは、あなたが彼女との過去を選択しようとしているっていう証拠だわ」
「いや、違う。ぼくはきみとの過去を選択しようとして不適合を起こしているんだ」
「信じられないわ」
「信じてほしい」
麗子は黙った。
「とにかく」と彼女は言った。「彼女を捜すのはやめてちょうだい。でなければ、もうわたしのところに来ないで」
「それはできない」
「だったら、もう終りね。これっきりだわ」
「どうしてもかい」
「どうしても」
「わかってもらえると思ったんだけどなあ」
「わかるわけないでしょ」と麗子は突然大きな声を出した。「そんな理屈がわかる人間なんて、どこにもいないわ」
ぼくは画面に目をやり、意味もなくキーボードをいじった。
「それじゃ、元気で」と麗子はドアの方へ歩いていった。
「本当に行くのかい」とぼくは言ったが、彼女はそれには答えなかった。ドアを出るところで麗子は振返り「あのね、わたし今度……」と言いかけて、やめた。
「なに?」
「ううん、何でもないわ」と麗子は首を振り、「さよなら」とドアを閉めた。後を追いかけたほうがいいのだろうなと思いながらも、ぼくは椅子に坐り続けた。
金曜日が来て、ぼくはどうしようかと迷った。いつものように直接訪ねていっても大丈夫だろうとは思ったが、もし拒否されたら、それは決定的になるような気がした。ぼくは麗子のアパートのある駅で降り、そこから電話をした。二十回ほど呼出音が鳴ってから、ようやく麗子が出た。おかしな声だった。
「寝てたのかい」とぼくは言った。
「そうよ」
「仕事のし過ぎだな」
「あなたほどではないわ」
ぼくは少し笑った。何もかもうまくいきそうな気がした。
「今、※※の駅にいるんだ。そっちに行ってもいいだろ」
「だめ」
「どうして」
「この前も言ったように、彼女のことを忘れるって約束してくれたら、来てもいいわ」
「忘れるためには、彼女に会わなければならないんだ」
「そんな理屈、ナンセンスよ」
「ぼくがそっちに行くのがだめなら、きみのほうが出てこいよ。晩ごはん、おごるよ」
麗子はしばらく黙ってから、「いいわ」と答えて、電話を切った。
しかし一時間待っても、彼女は現れなかった。いらないわと言ったのを聞き違えたのかと思い始めたとき、ようやく麗子がやって来たが、その服装を見てぼくは驚いてしまった。シースルーの黒のイブニングドレスだったから。靴は銀色のサンダルで、足首に何重にも皮紐が巻きつけられていた。それに化粧はいつもの三倍ほど濃かった。そんな麗子を見るのは今回が初めてだった。
「どこかおいしい店知ってる?」とぼくは彼女の変わり様には触れないで言った。
「イタリア料理は好き?」
「何でもいいよ」
麗子は先に立って歩き、ぼくは握りこぶし四つ分くらい離れて、ついていった。
彼女の案内してくれた店はこじんまりとしていて、ランプの明かりだけが、それぞれのテーブルを照らしていた。五つあるテーブルのうち四つまではふさがっていて、壁際の一つだけ開いていた。そこまで行く間、客たち全員がこっちを見ているような気がした。実際男たちの何人かは、ぼくたちが席につくまで麗子の姿を目で追っていた。
イタリア料理はスパゲッティ以外食べたことはなかったので、ぼくは麗子に任せた。麗子はやって来たウェィトレスに、メニューを見ながら何品か注文し、最後に白ワインを頼んだ。
白ワインとワイングラスが先に来て、ぼくは彼女のグラスと自分のとにワインを注いだ。何に乾杯しようかと思っている間に、麗子は一息に飲んでしまった。
「何だか怒っているみたいだね」
「どうして」
「いや、別に」
料理が来た。ピンク色がかった魚に緑色のソースがかかっており、ブロッコリーが添えられていた。一口食べてみて鮭だとわかった。さっぱりとした酸味で舌にもたれず、結構おいしかった。
「この店、よく来るのかい」
「たまにね」
「ぼくも覚えておいて、また来ようっと」
ぼくは店内を見回してから、グラスに残っていた白ワインを飲み干した。
「島、見つかった?」と麗子が訊いた。
「いいや、まだ」
「見つからなければ、どうするの」
「わからない」
「ねえ、こんなふうに考えたらどうかしら」と麗子が小さな声で言った。ぼくはフォークを動かす手を止めて、続く言葉を待ったが、麗子はそれきり黙ってしまい、ウェイトレスの持ってきたスープを飲み始めた。
「どういうふうに考えるの」とぼくは尋ねてみた。麗子はちょっと笑ってから、「わたし、ふっと思ったのよ。彼女はもともと存在しなかったと考えられないかって。だってそうでしょ、どこから来たのかもわからないし、名前も年齢もわからない」
「いや、ぼくにはいろんなことがわかってるよ」
「どこから来たのか、わかってる?」
「それは今捜しているんだ」
「二年間、長い夢を見ていたとは考えられない?」
「そう思いたいけど、やっぱり無理だよ」
「そう、やはり無理なのね」
スープには殻つきの貝が入っていて、麗子は指で殻をつまんで実を食べた。
「待ってほしいんだ」とぼくは言った。「彼女を見つけさえしたら、それでいいんだから」
麗子が顔を上げた。
「いつまで待つの」
「それはわからないけど、でも、そんなに長くじゃない。島さえ見つかれば、なんとかなると思う」
「それでも彼女が見つからなければ?」
「………」
「わたし、そんなに待てないわ。現に、こんど会社を変わろうと思っているもの。この前、ちょっと言いかけたんだけど。以前から誘われていたのよ」
「どこへ変わるの」
「ちっぽけなところよ」
「でも、また会えるんだろ」
「会えないわ」
「どうして」
「もう、ここにはいないから」
「どこかへ行くの」
「ずっと遠くよ」
ぼくはトマトのサラダをフォークを使って食べようとしたが、うまくいかなかった。
「それはもう決めたのかい」
「ええ」
食後のコーヒーを飲んでから、ぼくたちは店を出た。もちろんぼくのおごりだった。
地下鉄の出入口のところまで来て、「それじゃあ、ここで」と麗子が言った。
「本当にどうしようもないんだ」
「わかってるわ」
麗子は片手を上げてから、向きを変えた。
「あ」とぼくは言った。麗子は首だけ振返った。
「なに」
「その服、とても似合うよ」とぼくは言った。
「ありがと」
麗子が信号を渡るのを見届けてから、ぼくは階段を降りた。
18
夏から秋にかけて、来る日も来る日もぼくはイメージスキャナーに地図を巻き続けた。夏の間平日はエアコンがきいたが、土曜日曜はクーリングタワーが止まってしまうためスイッチを入れても風だけで、仕方なく窓を開けて、うちわで裸の上半身をあおぎながらコンピュータに向かった。
麗子の言ったことが本当かどうか確かめるため、彼女の会社に電話をしたが、やはり彼女はその会社を辞めていた。
「会社を変わったって聞きましたが、どこの会社かご存じありませんか」とぼくは訊いてみた。
「さあ、詳しいことは何も聞いてませんのでね」と相手の男が答えた。
麗子のアパートにも電話をしてみたが、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という声が流れただけだった。
夏が過ぎて、いくぶんしのぎやすくなった。島を含んだ地図はうんざりするほどあり、ぼくは調べる地図がなくなると、書店へ行って百枚くらいづつ買い求めた。しまいには女店員がぼくの顔を覚えてしまい、ぼくが顔を見せると一緒に地図を選ぶのを手伝ってくれるようになった。彼女が変に理由を詮索しないのが、ぼくにはありがたかった。
秋になっても、幻の島はいっこうに姿を見せなかった。それらしき島さえ見つからなかった。ぼくは半ば意地で、半ば惰性で作業を続けていった。
十一月になって、残っている地図の数もようやく少なくなってきた。
書店に行くと、例の女店員が「いらっしゃいませ」と笑顔を見せて近寄ってきた。
「残りはそんなにありませんから、あるだけ全部探しましょうか」と彼女が言った。
「そうですね」
僕たちはそれぞれ引出しを抜き出し、近くのテーブルの上に置いて、一枚一枚調べていった。
全部で百二十五枚だった。それで終わりだった。
「これで全部ですね」と彼女はちょっとした感慨を込めて言った。彼女は百二十五枚の地図をきれいに揃えて、大きな包装紙で包み、ていねいに紐をかけた。
代金を払うとき、「どうもありがとう」とぼくは声をかけた。彼女は「いいえ」と言って、にっこりとした。そのときぼくは、彼女がぼくが地図を買い求めた理由を何もかも知っているような錯覚を抱いた。
幻の島らしきものを見つけたのは、九百四十六枚目の地図でだった。ぼくは椅子の肘掛けに肘を置き、掌に顎を乗せて惰性でキーを押していたが、画面上で島が回り始めたときは似ているとは思わなかった。百二十度ほど回転したとき、あれっという気がしてあわててキーを離した。そして逆回転をさせるキーを押して、三十度ほど島を戻した。胸が少しどきどきした。
ワイヤーフレームのせいか、島の上部がごつごつしており、右側の崖も左側に比べると垂直ではなく階段状になっていた。しかし両側には帽子のつばに当たる部分もあったし、山高帽子に見えないこともなかった。
ぼくは地図をドラムからはずして、見つけた島を確かめてみた。左上隅のほうにあり、小さな島だった。集落の印はなく、「黒島」という名前だけがあった。ぼくはその島を赤いマジックインキの丸で囲み、元の作業に戻った。
一週間後、地図を調べる作業は終った。幻の島に似ている島は「黒島」しかなかった。ぼくは「黒島」の載っている地図を机の上に広げ、詳しく見てみた。等高線の密な部分の状態から見て、北西もしくは南東の方向からしか帽子の形には見えないようだった。ぼくはその方向の延長線上に集落がないか捜してみたが、南東の方は近くに無人島が集まっているため視界が遮られることがわかり、北西の方は途中で地図が切れていた。ぼくは急いで、調べ終った地図をめくって、北西の方向がつながるものを捜した。ちょっとしたジグソーパズルだった。
ようやく見つけて方向をたどると、黒島の四倍程度の大きさの島にぶつかり、そこには「日浦」という名前の集落があった。その反対側に、もうひとつの集落があった。ぼくは、ひうら、ひうらと何度もつぶやいた。ここからカナコは山高帽子の形をした島を見たのかもしれない。
ぼくは友人に頼み込んで休暇をもらい、地図と写真と似顔絵を持って列車に乗った。その前の晩、ひょっとしたら麗子に会えるかもしれないと思って、おばあさん姉妹の店に行ったが、彼女はもう常連ではなくなっていた。三ヵ月ほど前、遠くに引越すからと挨拶に来たということだった。一人のおばあさんは、あれは結婚だよと言い、もう一人はそんなふうには見えなかったよと言った。
幻の島はかなり遠方にあり、何時間も列車に揺られなければならなかった。すでに稲が刈り取られ、切株だけが見えている水田や深い緑の杉木立、藁葺き屋根の農家や青い瓦の新興住宅、家の密集した街や誰もいない海岸、新しくできた橋や車がくっつくようにして走っている道路……。さまざまなものが窓の外を流れていった。
島に一番近い都市で列車から降りたときは、すでに日は暮れていた。ぼくはなるべく安そうなホテルに泊まり、翌朝船で対岸の半島に渡った。そしてバスに乗った。幻の島のあるあたりは、たくさんの島が点在しているところで、そのいくつかには橋が架かっていた。バスで行けるところまで行き、そこから先は船に乗るしかなかった。バスの窓からは、いくつかの島影が見え、ぼくは帽子の形をした島を捜したが、どれかわからなかった。
バスが最終的に着いたところは、ちっぽけな町とも言えないようなところで、目につく店と言ったら喫茶店と美容室ぐらいだった。小春日和でいくらか暖かく、そのせいか魚の腐ったような臭いが漂っていた。さて、どうしようかと考えて、ぼくはとりあえず喫茶店に入ることにした。
白っぽくほこりの積もった表を入ると、スラックス姿のちょっと年のいったおねえさんが水を持ってきた。店の中まで魚の臭いがした。ぼくはコーヒーとカレーライスを頼み、コーヒーが来たとき、このあたりに山高帽子の恰好をした島がないか尋ねてみた。おねえさんは少し考えてから、そんなことなら漁師に訊けばいいとなまりのある言葉で言った。もっともだと思ったので、それ以上訊かず、カレーライスを急いで食べると代金を払ってそうそうに店を出た。
ぼくは防波堤に沿って歩き、それが切れたところに桟橋があるのを見つけた。漁船が三隻つながれており、そのうちの一隻には漁師がいて、ロープを桟橋に投げていた。ぼくは桟橋に降りていき、その漁師に声をかけた。漁師は中年の年恰好で、真っ黒な顔をこちらに向けた。
「ちょっとお尋ねしますが、このあたりに黒島という名前の島がありませんか」
「黒島?」
「ええ。山高帽子に似た形の島なんですが」
「ああ、帽子島のことかな」
「帽子島? あ、それです、それです。その島はここから近いですか」
「ああ、すぐだ」
「その近くの島に、日浦というところがあると聞いてきたんですが」
「日浦なら近くだが」
「そこに行ったら、帽子の形がはっきりと見えますか」
「真正面に見えるな」
「そこまで乗せていってもらえませんか。お願いします」
ぼくは頭を下げた。
「あんた、カメラマンか何かか」
「まあ、そんなところです」
言ってから、しまったとぼくは思ったが、ごちゃごちゃ言うよりも、カメラマンにしておくほうが手っ取りばやいという気がした。
「乗れや」と漁師が言い、ロープをはずしにかかった。
船はゆっくりと桟橋を離れ、ちっぽけな港を出ていった。ぼくは最初舳先に腰を降ろしていたが、海は外から見ていたときよりうねっていて、体が持上げられたり、沈められたりするため、真ん中の箱に坐り直した。風が髪を乱し、さすがに肌寒くて、ぼくはジャンパーの前を合わせて、腕を組んだ。
しばらくして、「あれが帽子島だ」と後ろの操舵室から声がした。後ろを向くと、漁師が右手前方を指さしていた。そのほうを見ると、砲弾の上半分みたいな島が浮かんでいた。思ったより小さな島だった。その左手に集落のある島が見えており、あそこが日浦らしかった。
帽子島が見えてから、その反対側まで行くのに、かなりの時間がかかった。とても、すぐどころではなかった。
ようやく島の左側を通って集落のある島との間に出、そこから帽子島を見ると、確かに山高帽子のような恰好をしていた。少し寸足らずみたいだったが、つばの部分もきれいに見えていた。
集落は海沿いに二、三十軒の家がかたまっているだけで、あとは段々畑が後ろの山の頂上のほうまで続いていた。島はひょうたんを縦半分に割って横にしたような形で、もう一方の大きい山には段々畑もなく、木が生い茂っていた。
ここにもさっきのところと同じように防波堤で囲まれた小さな港があり、そこに船は入っていった。おそらく船を見たら誰かわかるのだろう、防波堤で釣りをしている男やすれ違って出ていく船の漁師がこちらの漁師に手を振って挨拶するのが見えた。
船が桟橋に横づけされると、ぼくはていねいに礼を言って、桟橋に上がった。いくらかお金を渡そうかとも思ったが、かえって失礼になるかもしれないと考えて、やめた。
桟橋からコンクリートの岸壁に上がると、三人のおばあさんが頭に手拭をかぶり、網に引っかかった魚をはずしていた。ぼくはちょっとためらってから、バッグから似顔絵を取出して、おばあさんたちに見せた。
「この女の人を知りませんか」とぼくは大きい声で言った。
真ん中のおばあさんが何か言い、ぼくは聞きなおした。意味がよくわからず首を傾けていると、隣のおばあさんも何か言い、もう一度聞きなおすと、二人とも、そんなに大声で話さなくても聞えると言っているのだった。
肝腎の似顔絵のほうは、三人とも見たことがないと言った。「子供の頃に、ここにいた人かもしれないんですが」と言っても、だめだった。
頭にタオルの鉢巻きをした漁師が通りがかったので、その人にも見せてみた。彼はしばらく見て首をひねってから、「おーい」と言って、誰かを呼んだ。少し離れたプレハブの事務所みたいなところから、四人の男たちがやってきた。若いのと年寄りが混じっていた。最初の漁師が似顔絵を見せ、男たちは周りから覗き込んだ。
そのうちおばさん連中も集まってきて、十人以上が似顔絵を自分の手に持って眺めた。おばさんの一人が、ぼくにどうしてこの女を捜しているのか訊いてきた。ぼくはどう言おうか迷った挙句、ただ「人から頼まれて捜している」とだけ答えた。
結局、誰もカナコを知らなかった。幼いときに島を出ていたら、大人になった顔を見てもわからないだろうとは想像できた。漁師の一人に「ここに交番はありませんか」と尋ねてみたが、「おまわりか。そんなものいないな」と笑われてしまった。
岸壁を歩いていくと、それが途切れて元の砂浜が残っており、ぼくはそこに飛び降りた。石のあるところでは、ひと足踏出すごとに船虫や小さな蟹が逃げ散った。ぼくは砂地に腰を降ろし、正面に見える帽子島を見つめた。カナコの記憶の中にある幻の島は、ひょっとしたらあの島ではないのかもしれないとぼくは思った。世界にまで手を広げると、島はまだまだあるし、というよりほとんど無数と言ってよかった。そしてそんなはずはないという理由はどこにもなかった。
やがて空が蒼み始め、ぼくはゆっくりと立上がった。そのとき岸壁の端に、最初に似顔絵を見せた漁師が立っており、これからどうするつもりかとぼくに訊いた。帰るつもりだと答えようとして、やめた。せっかくここまで来たのだから、この島の全員に似顔絵を見せて確かめようと思ったのだ。それに島の反対側にあるもう一つの集落にも行って調べなければならなかった。
漁師は、帰るのなら、今から船を出すから乗せていってやろうと言ったが、ぼくは丁重に断り、反対に、この島に旅館か何かないか尋ねた。
「ここに泊まるつもりか」
「ええ」
「ここに旅館はないな」
どうしようかと思っていると、漁師が、以前民宿をやっていたところがあるから頼んでやろうと言ってくれた。
ぼくは岸壁に上がり、漁師の後についていった。桟橋で魚を陸揚げしている男や赤ん防をおんぶしている女や戸口で七輪を使って魚を焼いている年寄りなどが漁師に挨拶をし、それからぼくをじっと見た。
漁師の案内してくれた家は古ぼけてはいたが、かなり大きいところだった。玄関を入ると中は暗く、すぐ横手の台所のようなところから、ひっつめ髪をしたおばさんが出てきた。漁師が説明をすると、おばさんはわかりましたとうなずき、ぼくに「どうぞ、上がって下さい」と言った。ぼくは遠慮せずに上がり、おばさんの案内で、ふつうの家の座敷のような、それでいて旅館の一室のような部屋に通された。おばさんはお茶を持ってきたが、机がなく、盆に乗せたまま畳の上に置いた。
それからしばらくたって、男の声が聞えてき、おばさんと何かしゃべったあと、廊下をやって来て、ふすまが開いた。日に焼けた顔とがっしりとした胸を持った中年男だった。男はようこそ来なさったと挨拶をし、一緒に夕食を食べないかというようなことを言った。ぼくは同意し、居間に行った。勧められて、食事の前に風呂に入った。五右衛門風呂だった。手足を縮めて入っていると、何だかこんなところで風呂に入っているのが奇妙に思われた。
風呂から上がると、篭の中にバスタオルと浴衣が置いてあった。ぼくは体を拭き、着てもいいのかと少しためらいながら浴衣を着て、居間に行った。すでに夕食の用意ができており、座敷机の周りには五、六人の男たちが集まっていた。ぼくを見ると、それぞれ小さく頭を下げた。ぼくは服を部屋に置きにいき、居間に戻ってくると、主人の横に坐った。夕食はいろいろな魚の刺身と煮つけで、野菜はほうれん草のおひたしときゅうりの酢のものだけだった。
主人の斜め横に二十歳くらいの若者がおり、主人は息子だと紹介した。おとなしそうな青年だった。
男たちはそれぞれにビールを注ぎ、ぼくは主人に注いでもらった。男たちは初めのうちは天候や漁の話などをしていたが、やがてビールが回ってくると、ぼくに、どこから来たのかとか、仕事は何をしているとか質問し始めた。ぼくは正直に答え、しばらく街の話や仕事のことを話した。もっともぼくの仕事の話には、誰も納得した顔をしなかったが。
どうして人を捜しているという質問には、正直に答えるつもりはなかった。ある金持がその人を養女にしたがっていると嘘をついた。ある時、ある所でその人に非常に親切にされた金持が、その人を養女にしようとしたが、その人には過去の記憶がなく、そのうちどこかへ行ってしまった。唯一の手掛りは、その人が山高帽子の島を見て育ったということだけで、ぼくがその島を捜すのに一役買った。そしてようやく見つけて、ここにやって来た。ざっとそんなふうに話した。いかにも映画か何かの作り話みたいで、自分でもうんざりしたが、男たちは熱心にうなずいて聞いていた。
「その似顔絵、わしにも見せてくれないか」と主人が言った。似顔絵は村中の話題を集めているようだった。
部屋に戻って似顔絵を取ってくると、男たちはそれを順番に回していった。最後に主人が手に取って、しばらく眺めていたが、やがて「この女は、ここの出じゃないな」と言った。
「そんなこと、わかりますか」とぼくは尋ねた。
「こんな女はここにはおらん。わしが言うから確かだ」
「子供のときに島を出たのかもしれませんよ」
「島から出たもんでも、盆や正月には必ず帰ってくるから、わしは知っとる」
もう酔ったのかなと思い、他の男たちに「そんなものですか」と訊いてみると、皆が「まあ、そうだな」と答えた。ぼくは一度に気が抜けてしまった。
「でも、ここと反対側にある村の出身かもしれませんよ」
と、ぼくは何とか食い下がった。
「あそこでも見たことがないな」と主人が言った。
「しかし、盆や正月に帰ってくるだけだったら、ここと違って会わないこともあるでしょう」
「それは、そうだが」
ぼくが明日反対側の村に行ってみると言うと、主人は息子に案内させようと言った。
翌朝、ぼくは早く目を覚ました。すぐには起きずに、隅に雨水のしみた跡のある天井を眺めながら、外から聞えてくる物音に耳を澄ませた。港を出ていく漁船の微かなエンジン音や年寄り同士の大きな声。不意に鶏の鳴き声がする。ぼくは何だか自分がひどく遠いところに来てしまったような気持になった。
服を着替えて居間に行くと、おばさんが卓袱台に一人分の茶碗や箸を置いていた。ぼくが挨拶をすると、おばさんは「よく眠れたかね」と言って笑った。主人の顔は見えず、息子が縁側で肘掛け椅子に坐って、新聞を読んでいた。ぼくに気がつくと、新聞の陰から顔を見せ、ちょっと笑って頭を下げた。
主人はすでに漁に出ているということだった。ぼくは手早く朝食をすますと、早速息子に案内を頼んだ。
彼は車で連れていくと言ったが、玄関にやって来た自動車にはナンバープレートがなかった。「大丈夫?」とぼくが言うと、「こんな車しかないから」と彼は頭をかいた。車検に通った車は三、四台しかなく、あとはみんな廃車になったのを船で運んできたのだという。「警官は何も言わないの」と訊くと、警官が来るときは車を隠すから心配ないと言う。警官は年に二、三回やって来るが、来るときは必ず前もって連絡があるから、車検切れの車だけ山の中へ運ぶのだ。ぼくは村の十台以上の自動車が、一列になって山の中へ入っていく光景を想像して、思わず笑ってしまった。
息子の運転で、ぼくは島の反対側の村に向かった。車はセダンで、ドアもがたがただったが、坂道でエンストすることもなく何とか動いた。
二つの山にはさまれた谷の部分に道ができており、峠のところからは帽子島を含むあたり一面の海が一望できた。ぼくは息子に車を止めてもらい、外に出た。帽子島の向こうにあるいくつかの小さい島のあたりに、雲間から洩れた三筋の光が突きささっていた。何隻もの漁船がそれぞれ勝手な方向を向いて走っており、白い航跡を引きずっていた。しばらくその光景を見守ってから、ぼくは車に戻った。
反対側の村は、日浦よりも小さくて、十五、六軒の家しかなかった。港もひと回り小さくて、漁船が十隻も入ってきたら、身動きが取れないんじゃないかと思わせるほどだった。
車を岸壁の近くに止め、ぼくはバッグから取出した似顔絵を持ってドアを開けた。息子も一緒についてきてくれた。集落の中はひっそりとしており、一軒一軒訪ねて歩くのがためらわれた。
どこから訪ねようかと思っていたとき、ちょうど生垣の向こうに洗濯物を干している四十過ぎくらいのおばさんを見つけた。ごめんくださいと言って、ぼくは入っていき、息子も後ろからついてきた。おばさんはぼくを見ると、警戒の顔色を見せたが、後ろの息子に目がいくと、途端に愛想よくなった。おばさんは息子に話しかけ、息子もそれに答えて、ぼくのことを説明した。ぼくが似顔絵を見せると、おばさんは両手で持って少し離して眺めたが、やがて首を左右に振ってから、「知らないねえ」と言った。
「誰に聞けば、一番手っ取り早いかな」と息子が訊いた。
「そりゃ木下のばあさんだね」
ぼくは礼を言ってそこを出、息子の案内で、木下のばあさんのところに行った。岸壁の側に立っている新築したばかりの二階家で、アルミ製の引戸を開けて中に入ると、三十五、六の奥さんが出てきた。息子が事情を説明すると、奥さんは引っ込んで、おばあさんと一緒に現れた。おばあさんは手拭いで姉さんかぶりをして、エプロン姿だった。
息子がもう一度説明をし、ぼくは似顔絵を見せた。おばあさんは眉間にしわを寄せ、目を細めて絵を見、すぐに首を振った。
「子供の頃に、島を出ていったかもしれないんですが」とぼくが言うと、「三十年以上も、ここから出ていった者など一人もおらん」とおばあさんはきっとした声で言った。
その家を出てから、ぼくは念のため通りかかった漁師に似顔絵を見せてみたが、やはり知らなかった。
諦めて帰るしかなかった。車が峠に差しかかったとき、息子がもう一度見ますかと言ってくれたが、ぼくは首を振った。
息子の家に着いたときには、もう昼を過ぎていた。居間には昼ごはんの用意ができており、主人は先にすませて煙草を吸っていた。
「わかりましたか」と主人は言った。
「だめでした」
「そうでしょうな。それでこれからどうなさるかね」
「もう帰ります」
おばさんがみそ汁を持ってきてくれ、ぼくは礼を言って早速それを飲んだ。だしじゃこと豆腐とねぎが入っていた。
「ひとつ思い出したことがあったんだが」と言って主人は煙草の灰を灰皿に落した。「今朝がた、網を仕掛けていたとき、帽子島を見て思い出したんだが、いつも帽子島を見ながら暮らしていて、しかもここの人間じゃないというやつがいたんだ、かなり昔の話になるが」
「この島の人間じゃなくて? それじゃ他のところからも帽子島が見えるんですか」
「帽子の形に見えるのは、ここしかないが」
「だったら、どういうことです」
「つまりやつは帽子島に住んでいたんだ」
「でも、あそこは無人島でしょ」
「今でもそうだ。やつが住んでいたのは、三十年くらい前の話だから」
「それとぼくの捜している女性と何か関係があるんですか」
「関係があるかどうかわからないが、やつには確か女の子供がいたような記憶があるから」
ぼくは坐り直し、残っていたみそ汁を飲み干した。
「一体いつごろの話ですか。詳しく教えてもらえませんか」
「昔のことだから、わしもはっきりとは覚えていないんだが」と主人は話し始めた。それによると、三十年ほど前どこからか夫婦連れの乞食が流れてきて、帽子島に住みついたという。乞食はちっぽけな船を持っていて、それで漁をしながら生活していたらしい。初めのうちは、その夫婦に子供がいるようには見えなかったが、しばらくして赤ん坊をおぶっている女房の姿を遠くから望めるようになった。漁業組合のほうから役員が一度話をしに行ったが、相手にされず追返されてしまった。そして五年ほどたったとき、突然いなくなってしまったという。
話を聞きながら、年齢が合わないこともないなとぼくは考えていた。
「帽子島に住んでいたのは、その家族だけですか」
「そうだ」
「その家族が住んでいた家は、まだありますか」
「さあ、わしは見たことがないんで、何とも言えんが、まだあるんではないかな」
帰りに帽子島に寄ってみたいと言うと、主人は息子に送らせようと答えた。
帰り支度といってもバッグだけなので、すぐに整い、ぼくはおばさんに礼を言って、なにがしかのお金を渡した。おばさんは最初固辞したが、どうしてもと言って、むりやり握らせた。
桟橋へは主人もついてきてくれた。息子は防波堤の内側に繋いである漁船を取りにいき、やがて桟橋のほうに進めてきた。ぼくは船に飛乗ると、主人に「お世話になりました」とお辞儀をした。主人もゆっくりと頭を下げた。
船はエンジンの音を大きく響かせて桟橋を離れ、港の外へ出ていった。ぼくはしばらく桟橋のほうを見ていたが、主人がなかなか立去らないので、操舵室の前の箱に腰を降ろした。海はかなりうねっていて、ときどきそばの鉄柱をつかまなければならないほどだった。
帽子島には切立った崖があり、あまり近づくと帽子の形には見えなくなった。大きな岩がいくつも海の中から出ており、船はエンジンを絞って、ゆっくりと進んでいった。海岸から十メートルほどのところで停止し、ぼくが操舵室のほうを見ると、ここから先へは行けないと息子が言った。ぼくはジーンズを脱ごうかどうか迷ったが、結局そのまま海に飛込んだ。太腿のあたりまで水につかった。
崖から波打際までほんの少しの距離しかなく、こんなところに人が住めるのかと思ったが、砂浜に上がってみると、正面からは見えないように崖が切れ込んでいた。砂浜から草地に変わるあたりから傾斜しており、一番奥の行止まりのところに廃屋があった。柱に板切れを打ちつけただけの家だった。家というより小屋といったほうがいいかもしれない。ぼくは膝まである雑草を踏みつけながら、近づいていった。廃屋には窓がなく、戸の隙間から中を覗いたが、薄暗くてよく見えなかった。
ぼくは少しためらってから、戸の隙間に指をかけて引張った。しかし、きしんだ音がするだけで、戸は開かなかった。釘で打ちつけてあるのかと思ったが、そのとき何とも奇妙なことに、この中にひょっとしたらカナコがいるかもしれないという気がした。ぼくは両手の指をかけ、思いきり引張った。金属のこすれるような音がして、戸が開いた。体を入れると、戸は重みで再び閉ってしまった。
目が慣れると、そこが土間だということがわかった。もちろんカナコはいなかった。土で作ったかまどがあり、古い型の石油ストーブが転がっていた。カビ臭いにおいがし、いたるところに短い丈の草が生えていた。土間の隣には四畳半の部屋があり、それがこの家のすべてだった。畳はぶかぶかで波打っており、それを突破って、丈の長い草が生えていた。屋根には二十センチばかりの穴が開いており、そこから外の光が入り込んでいた。
ぼくは土間にあったほこりだらけのリンゴ箱に腰を降ろし、両手で胸を抱えた。濡れたジーンズを今ごろになって冷たく感じ始めた。本当にこんなところで、三人の家族が五年間も暮らしたのだろうか。ぼくは周りを見回して、その家族の幻影を見ようとしたが、できなかった。カナコの子供の時の姿を思い浮かべようとしたが、それもできなかった。こうして何年間もここにいると、いつかはカナコがやって来るかもしれないという気がした。
どのくらいそうやって坐り込んでいたのだろう、やがて戸の開く嫌な音で、ぼくは顔を上げた。光が入ってき、影になった頭が現れた。
「もうそろそろ引上げないと、潮が引いていくから」
息子の声だった。ぼくは立上がり、息子の開けてくれた隙間から外に出た。
船に乗込んだとき、ぼくはあることを思いついて、バッグを持って、もう一度海に飛込んだ。そして砂浜に上がり、廃屋のところまで走っていくと、戸を開けて中に入った。バッグから似顔絵と写真と地図を取出すと、リンゴ箱の上に置いた。この島が幻の島でないとしても、カナコはぼくがたどったのと同じように、いつかここにやって来るかもしれない。そのとき、こうしておけば、ぼくが先に来たことを知るだろうと思ったのだ。
ぼくが戻ると、息子は錨を上げ、エンジンをかけた。船はゆっくりと後退していき、あるところまで来ると向きを変えて、エンジンの出力を上げた。
遠去かっていく帽子島を見ていて、ぼくは不意に、十年後一体自分はどうしているだろうと思った。それは遥か彼方のような気もしたし、すぐ目の前に迫っているような気もした。舳先のほうに目を向けると、風が強く吹きつけていた。船首が波を切り、時折しぶきが顔にかかった。
しばらくたって、もう一度帽子島のほうを見た。しかし角度が変わったせいで、それはすでに帽子の形をしていなかった。
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