日曜日     津木林 洋


 陽子はオウムを飼っていた。ピーコという名前で、飼い始めて二年になる。陽子は朝起きると、まずピーコに話しかける。
「ピーコ、おはよ」
 機嫌がいいと、ピーコは「オハヨ」と答えたが、悪いと無意味な奇声を上げるだけだった。ピーコが返事をしないときは、陽子はしんぼう強く「おはよ」を繰返し、ピーコが「オハヨ」と言うまで続けた。
 陽子は十時ごろ目を覚ました。日曜日だった。彼女はパジャマ姿のまま、オウムかごに顔を寄せ、「おはよ」と声をかけた。
「オハヨ、オハヨ」とピーコは答え、頚を上下に揺すった。陽子は満足して、窓のカーテンを開けた。光が部屋にあふれ、ピーコがはばたきをして、奇声を発した。
「いい天気ねえ」と陽子はプラタナスの林の向こうに広がる青空を見ながらつぶやいた。会社の机の前に坐っているとき、窓の外がいい天気だと、このまま仕事を放り出してどこかへ出かけたくなってしまうことがよくあったが、休日になるとその気がなくなって、結局は洗濯をしたり、掃除をしたり、手の込んだ料理を作ったりして一日が終ることが多かった。
 陽子はかごの中の水を替えてやり、ヒマワリの実とパンのくずを混ぜたものを餌箱に入れてから、ヨーグルトだけの遅い朝食をとった。
 ベランダの洗濯機を回し、カーペットに寝そべって大判の週刊誌を眺めていると、映画評の欄が目に入った。読んでみると面白そうだったので、テレビの上にあるタウン誌を手に取って、上映している映画館を探してみた。目的の映画館は都心にあり、陽子は昼からの上映時間を頭に入れた。そして何気なく他の頁をぱらぱらとめくったとき、片隅の小さなコラムが目に入った。
「この都会の砂漠でひとりで暮らしているあなた、ひとときみんなで集まって、騒いでみませんか。集団は嫌だなと思っているあなた、心配はいりません。集まっても、名前を名乗る必要もないし、年齢を教える必要もありません。ましてや仕事や電話番号も一切尋ねっこなし。嫌になれば途中で帰ってもかまいません。会費などなし、費用はすべて自分持ち。何をするかは集まったとき、みんなで決めます。どうです、一緒に騒いでみませんか。年齢、性別を問いません。面白そうだなと思う人は是非。発起人の私はこの雑誌を頭の上に掲げて、待っております」
 そして集合日時と集合場所が添えられていた。時間はきょうの十二時で、場所は都心の大きな駅のコンコースだった。
 陽子は何度もそのコラムを読んだ。行ってみようかという気持は、読んでいるうちにだんだん膨らんできた。ちょっと参加してみて、気に入らなければ途中で抜ければいいんだから、と陽子は思った。
 十二時まであと一時間余りしかない。陽子は顔を洗い、ドレッサーの前に坐って手早く化粧をした。服を着替える段になって、何をきていこうかと迷った。何着か着てみて、結局一番無難なレモン・イエローのワンピースにした。少し肌寒いので上に何か羽織っていこうかと思ったが、夜になる前に帰ってきたら大丈夫だと、そのままで行くことにした。
 洗濯機が止まったので、急いで干し、バッグの中身を点検してから、ピーコに、行ってきますと声をかけた。ピーコは知らん顔をしながら、頚を前後に揺すって、止まり木の上を動いた。返事を待つ暇がないので、陽子はもう一度、行ってきますと言ってから、外に出た。
 陽子の住むワンルーム・マンションから、地下鉄の駅に行くまでの間に小学校があり、塀越しに桜の枝が伸びていた。時期は少し前に過ぎており、ほとんどの花びらは散っていた。陽子はアスファルトの道に落ちた花びらを踏みつけながら、駅に急いだ。
 集合場所のコンコースに着いたのは、十二時十分前だった。目印の大きなレリーフのある壁のところには行かず、近くの柱の陰に立って、誰かを待っている風を装いながら、様子を伺った。大勢の人々が行き過ぎ、いろいろな人々が壁のところで待っていた。
 陽子は雑誌を頭の上に掲げた人物を捜したが、見当たらなかった。だまされたかなと思ったが、すぐに立去る気にもなれなかった。ひょっとしたら雑誌の発行日が四月一日だったのかな、などと考えて、ひとりで楽しんでいた。
 十二時を二分ほど過ぎたとき、陽子は紺のブレザーを着た若い男が頭上に何かを掲げるのを見た。それは、首だけを動かしている周囲の人たちの中では、奇妙に目立つ行為だった。赤い色の表紙から、男が掲げたのは例のタウン誌であるのがわかった。しかし、陽子はすぐには近寄っていかなかった。
 壁のところで待っていた者たちの中には、陽子と同じくコラムを読んできた者がいるらしく、四人ほどが男の回りに集まった。その中に下ぶくれの女の子が一人混じっていることで、陽子は少し安心した。もういいかなと陽子は思ったが、まだ人数が少ないような気がして、近寄るのをためらった。
 それから二十分ほどの間に、十人ばかりが集まって来た。ブレザーの男は両手に持った雑誌を高くかざして、周囲にそれを見せるように動かした。陽子は柱の陰から出て、ゆっくりと近づいていった。
 十五、六人の人間がブレザーの男の回りに、集団を作っているような、いないような感じで集まっていた。女は六人で、そのうち二人は明らかにカップルで来ていた。陽子は集団の一番外側に加わった。
「それでは、これから何をするかみんなで決めたいと思いますので、もっと近くに寄って下さい」とブレザーの男が言った。しかしみんなは半歩か一歩近づいただけで、それ以上寄ろうとはしなかった。
「そこの彼女、もっとこっちへ来て」とブレザーの男が陽子のほうに雑誌を持った手を向けて、おいでおいでをした。陽子は始め自分が呼ばれているとは思わなかったが、回りに女性がいないので、初めて自分のことだと気がついた。陽子はあわてて二、三歩近寄った。
「みんな、なんかぼくを警戒しているみたいですね。別にぼくは怪しい者ではありません。これこれ、しかじかと名前と身分を明らかにすれば、話は簡単ですけど、それをやったらこの集まりに違反しますのでやめます。何か魂胆があって、ぼくがこんなことをやっているのではないかと鋭く考えている人がいるかと思いますが、それは間違い。ぼくはほんの遊びでやっているだけです。……とまあ、こんなふうに弁解すると余計に怪しまれるけどね」
 笑い声が漏れた。
「さて、これから何をするかですが、何かやりたいことがありますか。あったらそれにしようと思いますが」
 誰も答えない。ただ左右の人間の顔色を伺っているだけだ。
「そっちで決めてよ」と色の黒い男が言った。
「そんなこと言われてもねえ」とブレザーの男は苦笑した。「別に計画を立ててきたわけじゃなし、さっきも言ったようにほんの遊びだから。……本当に何かしたいことない? かるーい気持で言ってもらえばありがたいんだけどなあ」
 一組のカップルが、行こうかとささやいて、離れていった。ブレザーの男はそのカップルを目で見送ってから、正面に向き直ると、「何もなければ、今ひとつ思いついたことに決めたいと思います。これから桜を見に行きます」と言った。
「さくらぁー」と一人の女の子が変な声を出した。
「そうです、桜です」
「もう、散っちゃってるじゃない」
「まだ咲いているところがあるんです。しかも人のあんまり行かない穴場がね」
 ざわめくというほどではないが、集団に落着きがなくなり、もう一組のカップルも男が女の手を引張って、去っていった。それにつられるように何人かの男女が通行の人波の中に消えていった。残ったのは男五人と女三人だった。「別にあわてて抜けることはないんだがなあ」とブレザーの男が独り言のように言い、残った人間に向かって「雑誌に書いたように、気に入らなければいつ帰ってもいいんだから、みんなあわてないでね」と言った。
「その、桜を見に行くところって、どこなの」とピンクのシャツに赤いベストを着た男が尋ねた。
「ここから電車で三十分かな」とブレザーの男が答え、地名を言った。桜の名所としてはあまり聞いたことがないところだった。「三年前に一度行ったことがあるから、大丈夫です」とブレザーの男は急いで付け加えた。
「ねえ、お昼ご飯はどうするの」とポニーテールをした女の子が言った。
「先に食べていってもいいし、弁当か何か買って、向こうで食べてもいいし」
「ねえ、ねえ、どうせならお弁当にしない? 桜の下で食べるなんていいじゃない」とポニーテールの女の子はブレザーの男ばかりではなく、他の人間の同意も求めるように周囲に顔を向けた。しかし誰も答えない。陽子は弁当でもいいと思ったが、何も言わなかった。
「どう」とポニーテールが、そばにいた下ぶくれの女の子に訊いた。下ぶくれの女の子は「ええ」と曖昧な返事をしただけだった。
 少し間があってから、「決まりだな」とピンクシャツの男が言った。
「それじゃあ、それぞれ各自で弁当と切符を買いましょうか」とブレザーの男が言った。
 集団はまとまりなく、だらだらとした足取りで売店のほうへ向かっていった。陽子は男五人をさり気なく観察して、その中で一番背が高くて、ちょっと神経質そうな男に興味を持った。自分と同じくらいか、少し年下だろうと陽子は思った。
 売店で幕の内弁当とお茶を買い、陽子は切符売り場に向かったが、もう集団の形は全くなく、何人かは姿が見えなかった。
 ブレザーが切符の自動販売機のところで、早くしてくれというようなことを言っていた。陽子はポニーテールの後に続いて機械の前まで行き、目的地までの切符を買った。
 改札口を入ったところでブレザーがみんなを待っており、銀縁の眼鏡をかけた男が来て全員揃った。目的地までは急行が三番線から出ており、そのプラットホームまで八人が比較的かたまったまま、動いていった。まわりには家族づれや男女のカップルや友達同士の集団が、いろんなしゃべり声をまき散らしながら歩いていた。
 急行電車はすでにプラットホームに入っており、座席はすべて塞がっていた。陽子たちは閉まっているドアの周囲に立った。眼鏡が持っていた弁当の袋を網棚に乗せると、他の何人かも同じようにした。陽子も乗せようかと思ったが、どうせ三十分くらいだからと止めにした。
 背高男はドアの右側にもたれて、外を見ていた。左側には下ぶくれの女の子が同じように外を見ていた。まだ電車が走り出していないんだから、外を眺めても仕様がないと思いながら、陽子も吊革につかまりながら外を見た。
 色黒男とピンクシャツがブレザーと何か話していた。桜を見てから後の話のようだった。陽子の前の座席では、高校生くらいの男の子ふたりが映画のことをしゃべっていた。どういう映画が一番映画らしいかというような話だった。面白ければどんな映画だったっていいのにと陽子は思い、ふっと、きょう見にいく予定だった映画のことを思い出した。次の日曜日までやってたかしらと陽子は思い、上映期間の日付を思い浮かべようとしたが、できなかった。
 時間が来て、電車が動き始めた。窓の外は朝と変わりなくいい天気で、日に照らされた光景が次々に流れていくのを見るのは、気持のいいことだった。陽子は朝干した洗濯物のことを思い、この分ならきれいに乾くといささか気分がよかった。
 電車が駅を通過したり、ビルの陰に入ったりしたとき、外を見ている背高男の顔がドアのガラスに映った。ちょうど陽子と視線が合うような恰好だったが、背高男は気づいていないのか無表情に外を見ているだけだった。
 二つ目の停車駅で陽子たちは降りた。乗客の半数近くがそこで降り、陽子は、これだけの人間がいて本当に桜の穴場なんてあるのかしらと思った。ピンクシャツが「この分ならどこへ行っても、人がうじゃうじゃいるだろうな」と独り言を言った。
 駅の近くから続いている疎水沿いに、他の観光客と一緒に歩いていった。ブレザーを先頭にして、金魚の糞のようにみんながついていった。
 陽子たちは観光客と一緒に、大きな寺の山門を入ったが、ブレザーは観光客の曲がる方向には行かず、太鼓橋のような渡り廊下の下をくぐった。寺の裏山に登るらしかった。
「こんなところに桜なんか咲いているのか」後ろからピンクシャツが声を掛けた。
「任せなさい」ブレザーは首だけ振返ると、片手を振ってみせた。
 ゆるやかな勾配で、細い道が続いていた。陽子は辺りを見回しながらついていった。緑の木が繁っているだけで、桜の花は全く見えなかった。ブレザーはしっかりとした足取りで歩いており、ポニーテール、色黒男、背高男と続いていた。後ろを見ると、ピンクシャツ、眼鏡、下ぶくれの女の子の順でついてきており、その後には誰もいなかった。急に人里離れたところに来たような感じだった。
「あとどのくらい歩くの」とポニーテールが訊いた。
「十分くらいかな」とブレザーが前を向いたまま、答えた。
「そのくらいならいいけど、わたし、ヒールのある靴を履いてきたから歩きにくいのよ」
 ポニーテールの服装は白のシャツブラウスに、水玉模様のフレアースカートだった。靴はパンプスで、それは陽子も同じだった。
 十分ほど歩いても、桜の花一枚見えなかった。陽子は歩きながら左右に繁っている木々を見てみたが、桜の木は一本もなかった。
「ここらで昼飯にしないか」と後ろからピンクシャツが大声で言った。「おれもう、腹ぺこで……」
 ブレザーは立止まると、「もうすぐだから、我慢してよ」とこちらに向き直って答えた。
「こんなところじゃ、昼飯食えないよ」と色黒男が言った。
 一メートル半ほどの幅の山道が続いているだけで、ちょっとした空地も見当たらないのだ。
「ここにずらっと並んで、弁当食べたらいいじゃないか」
「それこそ漫画じゃない。誰かが通りかかったら笑われるわよ」とポニーテールが笑った。「それに桜を見ながら、お弁当を食べようっていうのが、この会の目的なんだから、今食べたら何のためにここまで来たのかわからないじゃない。そう思うでしょ、ねえ」
 ポニーテールは陽子に相槌を求めてきた。「ええ」と陽子はうなずいた。
「ねえ、腹減ってるだろ」とピンクシャツは眼鏡や下ぶくれに声をかけた。下ぶくれは笑いながら首を横に振り、眼鏡は「ぼくはまだ大丈夫です」とこれも笑いながら答えた。「おれもう帰ろうかな」とピンクシャツが後ろを見た。
「もうちょっとだから、そんなこと言わずに」とブレザーが言い、ふたたび歩き始めた。列が動き出し、ピンクシャツも「まあ、桜を見るまでの辛抱か」とついてきた。
 しかし桜はなかなか現れなかった。ブレザーの足取りが鈍くなり、ときおり首を傾げるような仕草を見せるようになった。
 やがて道が枝分れしているところにやってきた。今までの道は枝分れの道よりも幾分細くなっており、しかも樹木の少ない明るい方に延びていた。ブレザーが立止まったので、みんなが彼のそばに集まってきた。「どっちへ行くんだ」とピンクシャツが楽しそうに尋ねた。
 ブレザーはしばらく考えてから、「確か、こっちだったな」と枝分れの道のほうに足を踏み入れた。「大丈夫?」とポニーテールが言い、「こんなところで迷うなんてのは、嫌だぜ」とピンクシャツが笑いながら言った。
「いいじゃないか、道に迷っても。そうなれば桜を見る会を道に迷う会に変えればいいんだから」と色黒男が言った。
「ぼくの記憶は確かだから、心配いらないって」とブレザーが余裕のある言い方をし、再びみんなは彼の後について歩き始めた。
 しかし桜はやはりどこにも見えなかった。そのうちに道がだんだん細くなり始め、雑草で覆われ出した。「道を間違ったな」とピンクシャツが言い、「引返したほうがいいですね」と眼鏡が同調した。しかし誰も立止まろうとはせず、黙々と進んでいくブレザーの後をついていった。
 道はますます細くなり、石ころやごつごつとした岩が目につき出した。それとともに両側にあった木々がなくなり、雑草に覆われた斜面が迫ってきた。そのうちちょろちょろと細い水の流れまでが現れてきた。
「これは谷じゃないのか」と色黒男が叫んだ。みんなは一斉に立止まった。
「おれも谷じゃないのかなあって思ってたんだけどね、みんながあんまり自信たっぷりで歩くものだから」とピンクシャツが言った。
「ねえ、引返しましょうよ。わたし、もうこれ以上は歩けないわ」とポニーテールが言った。陽子も少し休みたかった。悪い道を注意しながら歩いたものだから、足指のいつもは痛まない部分が痛んだのだ。
「もうちょっと先まで行ってみないか」とブレザーがなだめるように言った。谷のような道は二十メートルほど先で右に折れていた。
「いやよ」
「じゃあ、どうする。みんな、どうしたらいいと思う」
「引返すのがベターだと思うけど」と背高男が答えた。
「それしかないね」とピンクシャツがうなずいた。
「ここが谷だとすると」と色黒男が言った。「この両側は尾根になるわけだよね。尾根に出れば何とかなるんじゃない?」
 色黒男はみんなが何か言う前に、「ちょっと、おれ、上ってみるわ」と弁当の入ったビニール袋を背高男に渡すと、傾斜面を上っていった。色黒男はスニーカーを履いており、ときどき草に滑りながらも、その都度岩やくぼみにつかまって体を支えた。そして一番上に生えている低い木の幹につかまり、体を引き上げると、次の瞬間色黒男の姿は消えた。残された者はお互い何も言葉を交わさず、ただ斜面の上に目をやった。
 二、三分たって、色黒男が再び顔を見せ、「この上に道があるよ」と右手をしきりに振った。
「ひょー、助かった」とピンクシャツが言った。
「おかしいなあ」とブレザーが首をひねった。「どうしてそんなところに道があるんだろう」
「あなたが間違ったんでしょ」とポニーテールがすかさず言った。
「まあ、いいじゃないですか。とにかく行くべき道が見つかったんだから」と眼鏡が言った。
 弁当をまず上に上げることにし、ピンクシャツがひとつひとつ放り上げた。それを色黒男が受取る。それがすむと、ピンクシャツは女性から先に上げようと言ったが、ポニーテールも陽子もそれに反対した。二人ともスカート姿だったから。下ぶくれはスラックスに踵の低い靴だったので、先に上がり、そのあとブレザー、眼鏡、背高男、ピンクシャツと上っていった。男たちは次の者が上りやすいように足場を少しずつ掘りながら、上に行った。
 陽子はポニーテールに「お先にどうぞ」と言われて、先に行くことにした。最初パンプスをはいたまま上ろうとしたが、滑るのと指が痛いのとで靴を脱いだ。本当はパンティストッキングまで脱ぎたかったが、もちろんそれはできなかった。靴を左手に持って上り始めると、上から色黒男が「靴を放り上げろ」と言った。陽子は少しためらってから、もう一度下に降りて、靴を投げ上げた。ひとつはうまく上がったが、もうひとつは斜めの方向に飛んで、斜面の途中に落ちた。色黒男がそこまで降りて、靴を拾ってくれた。陽子はわけもなく恥ずかしかった。
 陽子がバッグを袈裟がけにして、よつんばいになって上っていくと、背高男が木につかまりながら手を差しのべていた。陽子は左手を斜面につけながら、右手を差出した。指先が触れ、次に暖かい掌が陽子の手をつかんだ。次の瞬間陽子はふわっという感じで引上げられた。
「スカート、汚れたね」と背高男が少し笑いながら言った。見ると、裾のあたりに泥がついていた。陽子はバッグからハンカチを取出して拭いたが、余計にきたなくなってしまった。
 色黒男が靴を持ってきてくれ、陽子は小さく礼を言ってから、近くの木につかまって足の裏をハンカチで拭いた。しかしストッキングをはいているため、きれいにはならず、陽子は構わずそのまま靴をはいた。足の裏がざらざらした。
 陽子に続いてポニーテールも上がってきた。陽子のときと同じように背高男が手を貸している。それを見て陽子は、彼が手を貸したのは一番背が高いからなんだということに気づいた。よく考えれば当たり前のことで、陽子はひとりで笑ってしまった。
 ポニーテールも靴を脱いでおり、彼女が足を拭いて靴をはくのを待ってから、歩き出した。木立の向こうに道が見え、ブレザーやピンクシャツたちはすでにそこにいた。弁当の入った白いビニール袋を両手に持っている。陽子たちが近づくと、「もう、めしにしようぜ」とピンクシャツが言った。ブレザーは笑っている。
「もう少し行ったら、空地があるよ」と言いながら、眼鏡が走ってきた。八人は樹木でかげった道を歩いて、空地に出た。そこは木を十本ほど切り倒したところで、まだ新しい切株が等間隔で散らばっていた。チェーンソーの切口が五分の四くらいのところで止まっており、そこから先は折れてぎざぎざになっていた。光がその空地にだけ降り注いでいた。
 それぞれが持っていた弁当が一緒になってしまったため、各自が自分が買ったと思うものをそれぞれ手にしたが、最後に残ったビニール袋をとったポニーテールが中を見て、自分のじゃないと言い出した。「わたし、幕の内なんか買わなかったわよ」
「誰だ、間違えたのは」とピンクシャツが言った。陽子は自分の持っている袋の中をのぞいて、幕の内弁当であることを確かめた。
「わたし、牛肉弁当を買ったんだけど」
 ポニーテールがそう言うと、下ぶくれが「わたしが間違っているのかもしれません。買うとき、よく確かめなかったから」と近寄っていった。
「おれが間違えたのかな」とブレザーが袋を振った。
「そんなこと言ったら、ぼくも自信ないなあ」と背高男が言った。
「おれも牛肉弁当だけど、自信はあるよ」とピンクシャツが言った。
「わたし、別に何でもいいんです。これ、換えて下さい。幕の内も好きですし」
 下ぶくれはビニール袋をポニーテールに渡した。「いいの?」「ええ」「何だか、悪いわねえ」
「さあ、これで決まり。めしにしよう、めしに」とピンクシャツが言い、みんなはどこに腰を降ろそうかと迷ったが、結局一人がひとつの切株に坐ることになってしまった。ビニールシートとか新聞紙など地面に敷くものを持ってこなかったせいもあった。
 親しく言葉を交わすには遠過ぎ、かと言って黙っているのも気まずいという微妙な距離の中で、陽子たちは黙々と弁当を食べた。
「なあなあ、面白いと思わないか」とピンクシャツが笑いを含んだ声で言った。「もし、ここに誰かが通りかかって、おれたちを見たら、なんて思うか。おかしな連中だと思うだろうね。ひとりひとり切株に坐って、駅弁を食べているなんて、ちょっとほかでは見られないぜ」
「駅弁を食べているなんて、わかりっこないだろ」と色黒男が言った。
「これ、これ」とピンクシャツはお茶の容器を持上げて見せた。「これを見たら、すぐに駅弁だとわかるさ」
「そんなことを言ってるから、ほら、誰かやってきたじゃないか」とブレザーが言った。みんなは食べるのをやめ、道の両側に目をやって、木々の間に人影が現れるのを待った。しかし誰もやって来なかった。
「リーダーが嘘をついてもいいのかよ」とピンクシャツがにやにやしながら言った。
「確かに人が来たように思ったんだけどなあ」
 そう言ってから、ブレザーはひとりだけ弁当を食べ始めた。
「よく言うよ」とピンクシャツが言い、それにつられるように何人かが少し笑った。
 みんなが弁当を食べ終り、空箱やお茶の容器を捨てる段になって、色黒男が、埋めなければいけないと言い出した。「そんな堅いこと言うなよ。誰も見てないんだから」とピンクシャツが言った。
「一番いいのは、持って帰ることなんだけどね。どうしても捨てる場合は、埋めるというのがルールだよ」
「埋めましょうよ。簡単な話じゃない」とポニーテールが言った。
「山を汚さないほうがいいと思いますけど」と下ぶくれが言った。
 それで話は決まってしまった。「わかった、わかりました」とピンクシャツは両手を振り、「どうもおれはこの中で孤立しているね」とつぶやくように言った。それを聞いて、ポニーテールが「落込んじゃったのね」とピンクシャツの顔をのぞきこんで笑った。「ふん」とピンクシャツは顔を横に向けた。
 ごみの穴を掘るのは、簡単な話ではなかった。一番奥の切株と林の間に場所を決めたが、土が固かったし、だいいち道具がなかった。空箱で掘るしかなかった。はじめ、ひとつの大きな穴を掘るつもりで両手を動かしたが、とうてい無理だということがわかって、三つに分けることにした。
 ピンクシャツが「さっさとやろうぜ」と言いながら、半ばやけくそ気味に手を動かしていた。陽子も他の連中も苦笑しながら、彼につられて熱心に土を掘った。
 ようやく空箱やお茶の容器をビニールの袋ごと穴に放り込み、土を被せた。その上から足で踏み固めたが、ピンクシャツは両脚で飛上がるようにして、少し盛上がったところを踏んづけた。
「これからどうします」と眼鏡がブレザーに言った。
「どうしようかなあ」
「おれは桜を見るぜ」とピンクシャツが言った。「ここまで来て、桜を見つけないで帰るなんてことができるか。このまま帰ったら、弁当を食ってその空箱を埋めにきただけになってしまうからな」
 ポニーテールが小さく笑った。
「それにまだ時間はあるし……」とピンクシャツは付け加えた。陽子は腕時計を見た。二時半を少し回っていた。
「どうする」とブレザーがみんなに向かって言った。
「腹ごしらえもすんだことだし、ひとつハイキングといきますか」と色黒男が言った。
「女性の方はどうです」とブレザーが陽子たちに声をかけた。
「わたしはごめんだわ。足が痛くて、歩くのはもうたくさん。桜を探したい人は勝手に探したらいいでしょ」とポニーテールが答えた。
「帰り道、わかってるの?」とピンクシャツが言った。
「リーダーにつれていってもらうわよ」
「リーダー、わかってる?」ピンクシャツがブレザーの顔を見た。
「どの道を行ったって、帰れないことはないよ」
「ということは、帰り道を知らないってことだろ」
「そんな、無責任だわ」ポニーテールが甲高い声を出した。
「大きい声を出さないで」とブレザーが含み笑いをしながら、ゆっくりと言った。「ぼくが責任を持って、みなさんを出発地点までお帰ししますので、ご心配なく」
「できましたら、なるべく歩く距離を短くしてもらえません?」と陽子は口を開いた。「わたしも足の指が痛くって」
「あなたも」とポニーテールが驚いた声を出した。
「ええ」
「そうよねえ。男と違って、女はこんな山道を歩くとなると、それなりの用意がいるのよねえ」
 陽子は曖昧にうなずいた。
「よかったら、これ、使って下さい」と下ぶくれが小さなポシェットから、救急絆創膏を差出した。
「わあ、あなた、用意がいいわねえ」とポニーテールが一枚を取った。陽子はちょっとためらってから、残った一枚を取り、「あなたはいいの?」と訊いた。
「まだありますから」と下ぶくれは笑って答えた。それを聞いて、ポニーテールはもう一枚絆創膏をもらった。
 陽子とポニーテールは二人ともパンティストッキングをはいていたので、その場で絆創膏を貼るわけにもいかず、少し離れた林の中まで行った。そこで靴を脱ぎ、パンティストッキングを降ろして、指に絆創膏を巻いた。ポニーテールは左足の小指と薬指にまめを作っていた。陽子は右足の小指だった。巻き終わってから、何とはなしに二人で顔を見合わせて笑った。
 陽子たちが空地に戻ると、他の連中は誰も切株には坐っていなくて、どこかに動き出すところだった。
「それで、どうするの」とポニーテールが訊いた。
「桜を探すの」とピンクシャツが答えた。
「うっそー」
「心配しなくていいよ」とブレザーが手を振った。「帰りながら、桜を探すということになったから」
「あくまで桜にこだわるのね」
「別にそういうわけじゃないけど、見つからなければ何となく気持ち悪いからね」とブレザーが言った。
「本当にあるのかなあ。もうないんじゃないのかなあ」と眼鏡が言った。
 そのとき、背高男が「ああー」と変な声を出した。「ひょっとしたら、この切株が桜なのかもしれない」
 みんなは一瞬黙り込んだ。「まさかそんなこと……」とブレザーが言い、すぐ近くの切株の根元にしゃがみ込んだ。みんなも彼の周りに集まった。
「これはどう見ても、杉だよな」とブレザーは樹皮をさすりながら言った。
「杉だな」とピンクシャツが断定した。
「他のも見てこよう」と眼鏡が輪を離れたので、陽子もピンクシャツや色黒男と同じように他の切株を見に行った。陽子はふたつ調べてみたが、どちらも杉のようだった。桜の木は一本もなかった。
「あんまり変なこと、言うなよな」と戻ってきて、ピンクシャツが言った。
「悪い、悪い」と背高男が恐縮した顔をした。
 道のどちら側へ行くかということで、ちょっともめた。どちらも木々の枝や葉に光が遮られ、暗い道が続いていた。色黒男が「下りをいったほうが、いいんじゃないか」と言ったので、右に行くことになった。下りといっても、ほんのわずかだった。
 それまでと同じように、ブレザーが先頭に立ち、その後に色黒男がついた。そして陽子とポニーテールと下ぶくれが間に入り、後ろを眼鏡と背高男とピンクシャツが歩いた。女の歩調に集団を合わせるためだった。これも色黒男が指図をしたのだ。みんな彼の言うことに素直に従った。
 道は下りから、わずかな上りになり、再び下りになった。いつのまにか右側に杉山が迫っており、雑草の生えた細い間道が山に延びていた。
 杉木立が途切れると同時に、急に明るくなった。右側の山もなくなり、視界が広がった。ピンクシャツと色黒男は下界が見えないかと、道をはずれて茂みの中へ入っていったが、だめだった。自分たちがどの辺りを歩いているのか、皆目見当がつかなかった。ブレザーに道案内はできないとわかっていながら、まだ彼を頼っているという雰囲気があった。
 左足をわずかに引きずりながら歩いていたポニーテールが、突然立止まった。みんなも歩くのをやめた。
「いいから、行って」とポニーテールは言った。
「このへんで休もうか」とブレザーが言った。
「いいのよ、わたし、ちょっと用があるのよ」
「用?……ああ」
「おれもついでに……」とピンクシャツが言うと、「さっさと行きなさいよ」とポニーテールが怒った。
 みんなは再び歩き始めた。
 しばらくして、ポニーテールがいくらか早足で追いかけてきた。陽子の前に来るとき、「すっとしたわ」と小声で言って、笑いかけた。陽子はどきっとした。
 下りが続き、それが平坦になったところで、ちよっとした野原を道が横切っていた。道と野原の境目が曖昧になっていた。野原の中に、色黒男が焚火の跡を見つけた。みんなは道をはずれて、焚火のところに行った。燃え残りの炭の色が土ぼこりで白くなっているところから見て、きのうやきょうの跡ではないことは明らかだった。それでもみんなは何となく安心したようだった。ブレザーが休憩しようかと言い、それぞれ思い思いの場所に腰を降ろした。陽子がバッグからハンカチを取出して下に敷くと、ポニーテールも下ぶくれも真似をした。
「それにしても人に会わないなあ」と色黒男が言った。
「この山に入って三時間ぐらいになるのと違うか」とピンクシャツがブレザーのほうをみた。
「ここは観光地じゃないからね」とブレザーが答えた。
「ひょっとしたら、ぼくたち、異次元にもぐりこんだんじゃないですか」と突然眼鏡が口を開いた。「さっき谷から上に上がったでしょ。あそこが異次元の入口だったんですよ」
「おまえ、マジでそんなこと言ってんの」とピンクシャツが冷やかした。
「ええ、真面目ですよ」
 陽子は眼鏡の顔を見たが、どこまで本当なのかよくわからなかった。
「この世界には現実とそっくりなパラレル・ワールドが、表と裏みたいに現実にぴったりとはりついているんですよ。そして所々に二つの世界を結びつける裂け目があって、そこに落込むと現実の世界から消えてしまうわけです。ほら、昔神隠しといって、人が突然消えてしまうというのがあったでしょ。あれは裂け目に落ちたんです」
「おれたちがその裂け目に落ちたっていうの」とピンクシャツが言った。
「その可能性があると言ってるだけです」
「大丈夫かねえ」とピンクシャツは眼鏡のほうに揃えた指を向けて、二、三度振ってみせた。
「あんまり変なことを言ってくれるなよ」とブレザーが言った。
「別に変なことじゃないと思いますけど」
「ねえ、ちょっと聞いていい」とポニーテールが口を挟んだ。「その落ち込んだ世界が現実とそっくりだったら、別に何も困らないんじゃない。どうせ区別がつかないんだから」
「ぼくの言うそっくりというのは、木や石や空気が一緒だという意味で、そこに住んでいる人間はもちろん違いますよ」
「それは困るわ」とポニーテールが笑いながら言った。
「一度落ちたら、もう出られないんですか」と下ぶくれが尋ねた。
「そんなことないよ。裂け目さえあれば、そこから元の世界に戻れるよ」
「じゃあ、もう一度あの谷のところまで戻ったほうがいいっていうわけ?」とポニーテールが言った。
「いや、戻ってもまだ裂け目があるかどうか。ああいう入口は絶えず揺れ動いてるから」
「もう、そんなナンセンスな話はやめようぜ。もっとましな話をしようぜ」とピンクシャツが大きな声を出した。
「ナンセンスというのは、当たってないと思うけど」と背高男が言った。
「だったら、非科学的というのはどうだ」
「この世には、科学だけで説明しきれない現象がごまんとあるからな」と今度は色黒男が言った。
「おいおい、どうしたっていうの。みんなおかしくなったんじゃないの。今はたまたま山の中で迷っているだけだろ」
「全然人に会わないのは、どう説明する」とブレザーが言った。
「あんたまで、何言い出すの。観光地じゃないからだって、さっきあんたが言ったばかりじゃないか」
「じゃあ、木こりみたいな人にも会わないのは」
「……日曜で、休みなんだろ」
「まあ、いいじゃないですか」と眼鏡がにこやかに言った。「われわれがパラレル・ワールドに入ったとして、それはそれで面白いんじゃないですか」
「馬鹿野郎、ふざけんじゃないよ」とピンクシャツが怒鳴った。
「冗談、冗談」とブレザーが片手を振った。
 雲が流れて、急に日がかげった。ブレザーが腰を上げ、みんなも立上がった。
 道は野原を過ぎて、再びゆるやかな上りになった。樹木も野原に出る前よりも濃くなったようだった。それでもみんなの足取りは以前よりも軽くなった感じだった。ポニーテールは足を少し引きずりながらも、同じ歩調で歩いたし、街にたどり着いたら何を食べようかという話まで飛出した。
 しかし三十分ほど歩き続けても、人家などの人のいる気配はどこにも感じられなかった。どこまでも濃い樹木が続くばかりだった。どこかで道を間違えたんじゃないかと後ろを行くピンクシャツが言い出した。ブレザーと色黒男が立止まって、同時に振返った。
「ずっと一本道だっただろう」と色黒男が言った。
「さっき休憩したところで、他に道があったんじゃないか」
「そんなことないと思うけどなあ」とブレザーが言ったが、いかにも自信がなさそうな口ぶりだった。
「どうするの」とポニーテールが言った。
「おれが見てこようか」とピンクシャツが言って、笑った。
「それがいいわ。わたし、足が痛くなって、休みたいって思っていたところだから。ねえ、いいでしょ」ポニーテールは他の連中に顔を向けた。そうだな、それがいいかな、などとブレザーや色黒男はつぶやき、ピンクシャツは、それじゃあと敬礼のような動作をしてから、ゆるやかな下りの道を小走りに駆けていった。
 みんなはピンクシャツの姿が曲がり角の樹木に消えるのを見送ってから、道端の雑草のところに腰を降ろした。背高男が仰向けに寝て、大きく伸びをした。
「もう夕暮れだなあ」と背高男が言った。陽子も空を見上げた。薄蒼くはなっていたが、まだ暗いという感じではなかった。
「まだ明るいじゃないか」とブレザーが言った。
「山は暮れるのが早いんですよ、ねえ」と背高男は上半身を起こして、色黒男に言った。
「意外とね」と色黒男は答え、空を見上げた。
「桜、見つからないわね」と陽子は言った。近くに坐っているポニーテールと下ぶくれに軽い気持で言ったつもりだったが、みんなは不意に黙り込んでしまった。
「今さら関係ないわね」と陽子はあわてて付け加えたが、低い声だったのでみんなに聞こえたかどうかわからなかった。
「桜、か」と色黒男が言った。
「見つかるといいけどなあ」とブレザーがつぶやいたが、いささか投げやりな言い方だった。
 ピンクシャツはなかなか戻ってこなかった。男たちは立上がって、樹木の中に曲がっていく道を見ていた。陽子は靴を脱いでいたので、男たちの足の間から道の奥を見た。ポニーテールは自分の足のまめだけを気にしていた。指で触り、他の足指の付け根を揉んだりしていた。下ぶくれが大丈夫ですかと言って、のぞき込んだ。
「何とかもってるみたい。あなたのおかげよ」とポニーテールが言った。下ぶくれは恥ずかしそうに笑い、ポニーテールが、もう二枚ちょうだいと言うと、ポシェットから出して渡した。「あなたももらっておけば」とポニーテールが言ったので、陽子は一枚だけもらった。
「ぼくが見に行ってきましょうか」と眼鏡が言った。
「そうしたほうが、いいみたいだな」とブレザーが答えた。
 眼鏡はちょっと頭を振って歩き始めたが、その背中に向かって色黒男が「裂け目に落ちるなよ」と声をかけた。眼鏡は顔だけ振返って、「まさか」と笑ってみせた。
 眼鏡が道の奥に消えたと思ったら、すぐにピンクシャツと一緒に現れた。ピンクシャツの足が速く、眼鏡は少し遅れぎみに戻ってきた。
「一体、どうしたんだ」とブレザーは帰ってきたピンクシャツに言った。
「さっきの空地には他に道がなかったから、もっと先まで探しにいってたんだ」
「そうか。それならいいけど……」
「おれのこと、心配してくれてたの」
「裂け目に落っこちたんじゃないかってね」と色黒男が言った。
「そんなことないだろ。……ああ、そうか。おれ一人でとんずらしたんじゃないかって思ったんだろ」
「ひがまない、ひがまない」とブレザーが笑いながら言った。
 再びみんなは歩き始めた。
 しばらく行くと、両側の樹木の数がまばらになり、頭上に張出している枝や葉も少なくなって、空が広がった。陽子は少し後悔した。どこかで用を足したかったが、ふんぎりがつかないまま樹木の多い場所を通り過ぎてしまったからだ。
「先に行ってて」陽子は思い切って立止まった。
 前を行くブレザーと色黒男はちょっと振返っただけで、歩くのを止めなかった。ポニーテールと後ろにいる下ぶくれやピンクシャツは立止まったが、すぐに察して陽子の横を抜けていった。
 陽子は集団の最後尾がかなり前方の曲がり角に消えても、しばらく見ていた。それから反対の方へ歩き、適当な茂みを探した。細長い木の生えた間にツツジのような小さい葉を持った茂みがあり、陽子はそこで用を足した。
 終って茂みから出ようとしたとき、男女の微かな話し声が聞えてきた。それもほんの一瞬だった。陽子は声のしたほうへ音を立てないように体を移動した。草むらが下に落込んでおり、谷になっているのがわかった。声は谷の下から聞えてきたようだった。陽子は近くにあった木につかまりながら、谷の底を覗いた。なかなか見えなくて、左右に体を揺らした。ようやく草と草の間から下が見え、白いワンピースの女の人が、ござか何かの上で両手両足を伸ばしてうつ伏せになっている姿が飛込んできた。十五メートルほど下だった。陽子は反射的に体を引いた。動悸がしていた。
 陽子は音がしないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと動いていき、茂みを出た。走りたいのを我慢して、陽子は歩いた。かなり歩いてから小走りになり、それからできるだけ速く走った。豆の痛さも感じなかった。ヒールが小石を踏んづけて、足首が捻れそうになったが、それでも走るのを止めなかった。
 殺されたのだと陽子は思っていた。見た瞬間、そう直感し、それ以外には何も思い浮かばなかった。
 前を行くブレザーたちの姿はなかなか見えなかった。ふと、どこかで道を間違えたのではないかという気がしたが、そんなことはない、ずっと一本道だったと自分に言い聞かせた。息が上がってきて、陽子は立止まり、道から少し外れたところにある太い木の幹に、体を隠すようにして身をもたせかけた。そこで初めて後ろを振返った。誰もいなかった。暮れかけた空と黒ずんできた枝や葉の中に、白っぽい道がやや上り加減に続いているだけだった。
 しばらく休んで、陽子は幹から体を離した。先ほどまでのように全力で走ることはせず、早足で歩いた。最後尾は確か背高男だったと、陽子は彼の後ろ姿を求めて進んでいった。横を見ると、草むらの影は暗くなりかけており、ふっと、白いワンピース姿の女が頭に浮かんだ。本当に見たのだろうかという思いとは裏腹に、陽子は再び走り始めた。 
 道が蛇行しており、急な上りから右に折れ曲がったとき、百メートルほど前方に背高男の後ろ姿とそれに続くピンクシャツたちの姿が見えた。陽子は立ち止まり、思わず大声を上げそうになった。彼らをみんな呼び戻したかった。しかし、すぐにそんな興奮は治まってしまった。殺されたというのが、自分の一人合点かもしれないと気づいたからだった。人殺しがそう簡単に起るはずはないし、そう気づくと、ますます自分の思い込みがおかしくなった。
 陽子は今度は歩き始めた。あのとき聞えたのは確か男と女の声だったから、ひょっとしたら情事の最中だったのかもしれないと、陽子は笑いを浮かべながら思った。むしろそう思う方が自然なのに、どうして殺されたなどと感じたのか、陽子はそのときの自分を振返ってみて、結局人気のないところで突然人に会ったからと考えた。それに女の人が倒れていたのもいけなかったのよ、と陽子は自分に言い聞かせた。
 背高男に追いつくと、彼は中に入るように言い、陽子は前と同じようにポニーテールの後ろについた。
「遅かったじゃない」とポニーテールが言った。
「ええ、ゆっくり来たから」と陽子は答えた。
 道は相変わらず一本道だった。空が見えるところでは砂埃の立つ道になり、枝葉が頭上を覆うところでは湿った黒っぽい道になった。小石や拳大の石が散らばっており、ときおり岩の角が露出していた。
 ますます辺りが蒼くなり、ゆるやかに吹いている風も確実に冷たくなっていた。
 ブレザーと色黒男が前へ前へと先に行き出し、ポニーテールや陽子たちと離れ始めた。
「そんなにはやく行かないでよ」とポニーテールがすねた声を出した。
 ブレザーと色黒男は振返り、そのうち色黒男だけが立止まった。ブレザーは先に行こうとしたが、少し行ってやはり立止まった。二人とも笑っている。
 二人に追いつくと、ポニーテールは「ちょっとは私たちのことを考えてよ」と怒り、「ここで休憩しましょ」とさっさと道端に腰を降ろしてしまった。陽子も腰を降ろし、ポニーテールを真似て、靴を脱いで足を揉んだ。
「もう五時だぜ」とピンクシャツが言った。「おれたち、本当にパラレル・ワールドに入ってしまったのかな」
「ちょっとは信じる気になってきたのか」とブレザーが言った。
「ばかやろう。冗談に決まってるだろ」
「もしか、このまま夜になったらどうします」と眼鏡が言った。
「夜は動かないほうが安全だよ」と色黒男が答えた。
「そうしたらこんなところで野宿か」とピンクシャツが甲高い声を出した。
「それしか方法がないだろ」
「あんたたち、何の話をしてんの。野宿なんかできっこないでしょ」とポニーテールが怒鳴った。「そんな話より下へ降りる道を見つけることが先決でしょ」
 そのとき陽子はふと先程の出来事のことを思い浮かべた。あの二人はあそこまで来ていたのだから、あの辺りに下へ降りる道があったのに違いない。どうしてそのことに気づかなかったのだろう。
 陽子はそのことをみんなに話そうかと思ったが、やめにした。どうしてもっと早く言わなかったのと聞かれれば、答えようがなかったからだ。それにもし、あれが殺人事件だったら、みんな警察に呼ばれて、住所、氏名、年齢、職業と、それこそすべてわかってしまう。それはこの集まりの趣旨に反することになってしまう。殺した男の姿を見ていないのだから、私が警察に行っても意味がないとまで考え、想像が急におおげさになってしまったことに、陽子はひとりで笑ってしまった。
 十五分ほど休んで、再び歩き始めた。最初のうちは全員固まって進んでいたが、そのうちブレザーと色黒男が先に行き出した。というよりポニーテールと陽子の足が遅いため、どうしてもそうなるのだった。後ろと離れたことに気づくと、ブレザーと色黒男はその都度立止まって、陽子たちが追いつくのを待った。しかししまいには、二人は立止まらなくなってしまった。
「待って、待ってよ」とポニーテールが叫んだ。二人は首をひねって後ろを見たが、もう立止まらなかった。
「先に行って、下りる道を見つけておくよ」とブレザーが言った。二人はそのままずんずん歩いていって、道が右に曲がっているところで、木立の中に消えてしまった。
「あーあ、行っちまいやがった」とピンクシャツがつぶやいた。
 陽子たちが曲がり角を曲がっても、二人の姿は見えなかった。道が今度は左にゆるやかに弧を描いていたからだ。それに少し上りになっている。
「どこまで行ったんだ」とピンクシャツがポニーテールの前に出てきた。そのまま少し歩いてから、「おれ、ちょっと見てくるわ」とピンクシャツも先に進んでいった。その後に続くようにして、眼鏡が陽子の横を抜けていった。
「あら、行っちゃうの」とポニーテールが言うと、眼鏡はちょっと笑ったような顔でうなずいた。
 陽子は後ろをみた。背高男が一番後ろで、長い足をゆっくりと動かしていた。
「わたしたちも急ぎましょ」とポニーテールが言い、歩く速度を上げた。見ていて、危なっかしい歩き方だった。左足をひきずり、右足一本でふんばるため、小石を踏んでも足首が折れ、腰が落ちそうになった。「無理しないほうがいいわよ」と陽子は声をかけたが、ポニーテールは聞かなかった。
 そうしているうちに、ポニーテールは埋もれている岩のでっぱりを踏みそこなって、よつんばいになった。白い足が陶器の置物のように見えた。陽子は手を貸そうとしたが、「ほっといて」と拒絶されてしまった。ポニーテールは数呼吸の間その姿勢を保ってから、尻を地面につける体勢に坐り直した。そして両方のパンプスを脱いだ。左足の豆はつぶれて、皮がめくれていた。ポニーテールはストッキングの上から、ずれた絆創膏を豆の上に戻そうとした。
「絆創膏、まだありますけど……」と下ぶくれが小さい声で言った。しかしポニーテールは聞えていないのか何も答えなかった。
 横でポニーテールの足を覗き込んでいた背高男に、「おぶっていける?」と陽子はささやいた。
「そんな、無理だよ」
「だったら、先に行って誰か呼んできて」
 背高男は足の指を押さえているポニーテールをちらっと見てから、大股で歩いていった。
「誰か来るまで、ここで休んでいたほうがいいわ」と陽子が言うと、ポニーテールはうなずいた。ずれた絆創膏はしわが寄って役に立たなかったので、ポニーテールは立上がってパンティストッキングを脱ぎ、前にもらった絆創膏をバッグから取出して、足指に巻きつけた。陽子も靴を脱いで、足の豆を見た。絆創膏は少しずれていたが、皮は破れてはいなかった。それでも念のためパンティストッキングを脱いで貼り直した。
 二十分ほど待っても、誰もやって来なかった。周囲は少しの間に急にうす暗くなり、お互いの顔の輪郭も暗さの中でぼんやりとして見えた。
「私、見に行ってきましょうか」と下ぶくれが言った。
「そうしてくれる?」と陽子は答えた。
 下ぶくれはポシェットを手で押さえながら、駆けていった。陽子とポニーテールは黙って、足の指を押さえたり、アキレス腱を指でつまんだりした。
 しばらくして「あなた、野宿した経験ある?」とポニーテールが言った。
「ないわ」
「じゃあ、キャンプは?」
「それはあるわ。高校のとき」
「私はそれもないのよ。とてもこんなところで夜明かしなんかできないわ。明かりもないし、真っ暗でしょ。真っ暗じゃあ私、眠れないのよ」
「そんなことになるわけないでしょ」
「でも、下に降りる道が見つからなければ、野宿しかないでしょ。私たちがこんな山で迷っているなんて、誰も知らないんだから、捜索隊が迎えに来てくれるなんてことはないもんね」ポニーテールは小さく笑った。
「別に野宿になっても構わないんじゃない?」と陽子は言ってみた。
「あなた、本気なの?」
「だって、仕方ないでしょ」
「でも、この寒さじゃ、凍死するかもしれないわよ」
 ポニーテールは体を震わした。昼間暖かかったから、余計に寒く感じるのかもしれなかった。上着を着てくればよかったと陽子は少し後悔した。
「みんなで体を寄せ合って、寒さを防げばいいわ」と陽子は言った。
「家に帰らなくて、心配する人はいないの?」とポニーテールが訊いてきた。
「いないわ」
「私も誰もなし。その点は全く心配いらないんだけど」
 そのとき、陽子はピーコのことを思い出した。今まで全く思い出さなかったことに、陽子は何だか申し訳ないような気持になった。もし今晩帰れなくても、まだ大丈夫だと陽子は思った。もし凍死すれば、そのときはピーコも私に殉じて死ぬしかない。
 風が出てきて、枝葉の擦れ合う音がした。両腕に鳥肌が立って、陽子は二の腕を抱締めた。短い間に辺りはいっそう暗くなり、樹木の向こうには真の闇が来ていた。
「誰も戻ってこないわね」とポニーテールが道の向こうに目をやりながら言った。「みんな勝手に下に降りてしまったのかしら」
「そんなことないでしょ」
 ポニーテールはため息をついて、膝を抱え込んだ。そうやって、しばらくじっとしていたが、急に腕をほどくと、「待ってられないわ」と立上がった。その勢いにつられるように、陽子も腰を上げた。
「その足で歩けるの?」
「裸足で行くのよ」と言って、ポニーテールは両手に片方ずつの靴を持った。
 陽子は靴をはいて、一緒に歩き始めたが、ポニーテールは遅れを取り戻すかのように早足で歩いた。離されまいと陽子も急いだが、早く歩けば歩くほど、ヒールが土に食込んで歩きにくかった。それに疲れているせいか、足首がすぐに折れそうになった。
 ポニーテールは陽子のことなどお構いなしに先に歩いていき、陽子が「待って」と声をかけても振返らなかった。ポニーテールの白い背中が闇に紛れて遠ざかっていき、ふっと右に曲がって黒い樹木の中に消えた。
 陽子はあわてて駆出したが、すぐに何かにつまずき前のめりになった。膝を打ち、その痛さですぐには起上がれなかった。土の日向臭いにおいがした。
 陽子は不意に、谷で見た女の姿を思い出した。あれは五体投地の礼ではなかったのかと思った。以前テレビで見た映像と重なったのだった。シルクロードの風物を紹介する特集番組で、体に黒い布を巻きつけた女の人が五体投地の礼をしながら山の周りを回っている場面だった。陽子は自分の今の姿をその上に重ね合わせた。
 陽子がつまずいたのは、木の根っこだった。陽子はそのことを手で確かめてから靴を脱ぎ、それを手に持って、再び歩き始めた。砂利や岩のでっぱりが直接足の裏に当たって痛かったが、耐えられないほどではなかった。むしろ靴から解放されて、気持ちがいいほどだった。
 ポニーテールが消えたところを曲がっても、彼女の姿は見えなかった。道はまっすぐだったが、先で下に降りているらしかった。陽子は小走りになったが、足の裏が痛くてすぐに歩くのに戻った。ポニーテールはここを走ったのだろうかと陽子は思った。風がときおり強く葉を揺すり、その度に陽子は緊張した。
 下りのところまで来たとき、ずっと前方に白いものが揺れているのが見えた。「待って」と陽子は叫んだが、その途端白いものは闇の中に消えてしまった。陽子は不意に、すべてのものから取り残されてしまったように感じて、その場に立ちすくんだ。永遠にこの山の中をさまよい続けなければならないのではないかという恐れが、一瞬頭の中をよぎった。「異次元の世界に入ったのかしら」と声に出して言い、陽子は小さく笑った。
 陽子は急ぎ足になった。足の裏に神経を集中していたが、ときおり角のある小石を踏んでは立止まった。
 まっすぐの道がポニーテールが消えた辺りで、湾曲しており、そこまで来たとき、ポニーテールの声が聞えてきた。誰かと話しているようだった。陽子は湾曲した道を急ぎ、左に急カーブしているところを曲がった。二十メートルほど先にポニーテールと背高男が立っていた。
「来た、来た」とポニーテールが手を振った。陽子は手に持っていた靴を地面に置き、それをはいてから、ゆっくりと近づいていった。
「今から迎えにいこうかと思っていたのよ」とポニーテールがはしゃいだ声で言った。「下に降りる道が見つかったんですって」
「ほんと?」陽子は抑揚のない声で答えた。
「うれしくないの?」
「それはうれしいわよ。でも、いつかは見つかると思っていたから」
「それはそうだけど……」
 ポニーテールは右手にパンプスを揃えて持っていた。陽子がそれを見ていることに気づくと、「まだ痛いから、はけないのよ」と答えた。
 背高男が前に立って、歩き始めた。陽子はポニーテールと並んで歩いた。ポニーテールは砂利を避けて歩くため、どうしても遅れがちになった。陽子は構わずに背高男の後についていった。
 背高男がポニーテールの遅れに気がついて立止まった。「靴をはいたらどうなの」と背高男が言った。
「足が痛いのよ」ポニーテールが地面を見たまま答えた。 
 ポニーテールの遅れにときどき立止まりながら、二十分ほど行くと、ようやくブレザーたちが固まっているところが見えてきた。裸電球がぽつんとともっており、その下に彼らの姿が浮き出ていた。
「靴をはかないのか」と背高男が言った。
「私、このまま行くわ。絶対靴をはかない」とポニーテールは強い口調で言った。
 ブレザーたちのところに着くと、「やっと揃ったなあ」とピンクシャツがため息まじりに言った。
「何よ、その言い方は」とポニーテールが怒った。「女だけほっておいて、男だけ先に行っちゃうなんて。私なんかずっと足が痛いって言ってたのに、誰も知らん顔なんだから。ひどいわよ。裸足で歩いて、やっとここまで来たのよ。おかげでストッキングはぼろぼろ。ほら」
 ポニーテールは足の裏を見せた。土で汚れており、爪先と踵のあたりに穴が開いていた。
「誰もほっておいたわけじゃないぜ」とピンクシャツが言った。
「だったら、どうしてたのよ」
「道を探してたんじゃないか」
「道を探すくらいなら、一人で十分でしょ」
「まあまあ、もういいじゃないの。こうして下に降りる道が見つかったんだから」とブレザーが言った。
 ポニーテールとピンクシャツがブレザーの方を見た。
「元はと言えば、あなたがいけないんじゃないの。こんな山の中へつれ込んだりして」とポニーテールが矛先をブレザーに向けた。
「そうなんだよ。何もおれが非難される筋合いはないんだよな」とピンクシャツも言った。
「もうすんだことはいいじゃないか。それより早く下に降りようぜ」と色黒男が言った。
 陽子たちは下りの道を歩き始めた。ポニーテールは靴をはき、ゆっくりと歩いた。みんなもそれに合わせて、ぞろぞろと歩いた。
「本当にこの道なの?」とポニーテールが言った。道幅は山の中より半分くらいしかなく、角張ったバラスが敷きつめられていた。工事用に急いで作った道といった印象だった。
「さっき見に降りたら、民家があったから確かだよ」と色黒男が答えた。
「ほんとに大丈夫かしら」
 しばらく行くと、丸太を野積みにした場所が見えてき、その向こうに民家も見えた。バラスの道がアスファルトに変わり、急に道幅も広くなった。両側には相変わらず樹木が茂っていたが、道がアスファルトになっただけで、人里に近づいた感じになった。樹木の切れ目に人家がぽつりぽつりと入り、そこから明かりが漏れていた。
「やっと降りてきたあ」とピンクシャツが走り出した。それにつられるように、眼鏡も色黒男も先に行き、陽子もポニーテールの足に合わさずに勝手に歩いた。列が長くのび、しまいにはばらばらになった。
 下る道が緩やかになると同時に、両側に家が建て込んでき、降りきったところは神社の横だった。石造りの鳥居が立っており、そのそばでピンクシャツや眼鏡たちが待っていた。
 ポニーテールが、わざと遅れているのではないかと思われるほどの時間をかけて、降りてきた。みんな揃ったところで、神社の前の道を左の方へ歩いていった。そっちの方角がにぎやかそうな感じがしたからだった。誰もこの街を知らなかった。手がかりになりそうな看板かなにかを探したが、見つからなかった。夕食時のせいか人通りもまばらで、「ここがどこか訊いてみたら」とお互いに言合いしているうちに、タイミングを失ったりした。
 前から犬を連れた中年の男の人がやってきたとき、ポニーテールが「ねえ、訊いてよ」とピンクシャツの背中を押した。ピンクシャツは、ちょっとすいませんがと言いながら男の人に近づき、「ここはどこですか」と尋ねた。男の人は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに町名を言った。聞いたことのない名前だった。
「そうじゃなくて、この街全体は何というところなんですか」とブレザーが言った。男の人は陽子たち全員を見回してから、「Yだけど……」と答えた。
「なんだ、そうか」と色黒男が言った。陽子たちは山を越して、隣の市に入ったのだった。
 男の人についでに、最寄りの私鉄の駅までの道順を教えてもらい、陽子たちは礼を言って、その方角に歩いていった。疎水沿いの道にぶつかり、そこを右に曲がった。疎水沿いには桜の木が植えられており、ピンクと青の紙を張った雪洞に明かりがともっていた。桜は満開を少し過ぎたあたりだった。
「こんなところに、桜があったじゃない」とポニーテールが言った。
「探していたのは、これじゃないのか」とピンクシャツが言った。
「こんなんじゃないよ。ぼくが見たのは、一本だけ立っていて、太くて枝が四方に伸びていて、花全体にもっと量感があったんだ」とブレザーが大きい声で言った。
「ほんとにそんな桜があったのかなあ」と背高男が間延びした声で言った。
「あったんだ。ぼくはこの目で見たんだ」
「まあ、そういうことにしとこう」とピンクシャツが言った。
「どこかにあるんだろうけど、この山ではないことは確かだな」と色黒男が言った。
「この桜も結構きれいよ」と陽子は言った。下ぶくれも、きれいと言って、うなずいた。
 人通りが少なく、陽子たちは桜を見ながらゆっくりと歩いた。
 疎水沿いをはずれると、両側に商店の並んだ通りに入っていった。少し行って、ポニーテールが小さな靴屋に入った。しばらくたって戻ってきたポニーテールは赤いサンダルをはいていた。手には紙袋を下げている。「あなたも買ってきたら」とポニーテールは陽子に言ったが、陽子は首を振った。その代わり陽子は洋品店に入って、パンティストッキングを買ってきた。
 駅は郊外のそれよりも少し規模が大きいといった程度だった。明る過ぎるパチンコ店と時計塔が目立つだけで、後は何の変哲もない駅前だった。
 出発駅までの切符を買い、改札口を入ると、陽子とポニーテールと下ぶくれはトイレに行った。陽子はパンティストッキングをはき替え、ポニーテールは脱いで素足になり、三人そろって鏡の前で化粧を直した。陽子がブラシで髪をとくと、下ぶくれもポシェツトから小さな櫛を取出し、真ん中にいたポニーテールも髪をほどいて、ブラシですいた。鏡に映った顔を互いに見ながら、三人は何となく笑ってしまった。
 トイレから出て、男たちの集まっているところに行くと、「おや、三人とも美人になったねえ」とピンクシャツが冷やかした。
「そうよ。今ごろ気がつくなんて、遅いわね」とポニーテールが答えた。
 急行電車はところどころ席が空いており、全員坐れた。陽子はポニーテール、下ぶくれと並んで坐った。何か話そうと思っているうちに、振動と疲れで眠ってしまった。ときどき目を覚ましたが、向かいに坐っているブレザーと色黒男も腕組みをして、眠っていた。
 行き先のわからないバスに乗ってしまい、降りようとしても満員で降りられなくて、途方に暮れているところで、肩をつつかれた。ポニーテールだった。外を見ると、電車がビルの中のホームに入っていくところだった。
 他の乗客たちに混じって陽子たちはホームに降り、そのまま改札口を出た。先に出たブレザーや色黒男、ピンクシャツが待っており、陽子たち女三人も集まった。「あの背の高いのと眼鏡をかけたやつはどうした」とピンクシャツは言ったが、そのあとすぐに二人ともゆっくりとした足取りで現れた。
「何とか無事に着いて、ほっとしました。ここまででぼくの責任は終り。それでは解散します」とブレザーが言った。みんなはお互いの顔をちらっと見た。
「こんな時間になったんだから、どこかで晩飯でも食べないか」と色黒男が言った。
「いいわね、それ。どう、行かない?」とポニーテールが陽子のほうを見た。陽子が下ぶくれに「行こうか」と言うと、下ぶくれはうなずいた。
「おれも行こうっと」とピンクシャツが言った。
 結局全員で食べにいくことになった。
 地下街に降り、店を探したが、八人が坐れる席がなかなか空いていなくて、五軒目の焼肉屋が空いていた。正方形のテーブルを囲んで腰を降ろし、めいめいが好きな肉を注文し、ビール瓶の栓を開けた。肉の焼ける臭いは空腹感をいっそう刺激した。
 話は最初、ブレザーへの冗談まじりの非難から始まり、谷に入り込んだところから道を見つけた色黒男への賞賛に進み、眼鏡の言い出したパラレル・ワールドの話からUFOに飛んだ。
「山から降りる道が見つからないときは、どうなることかと思ったよ」とブレザーが言った。
「おれは本当に野宿を覚悟したね。ただ翌日が無断欠勤になるんで、それをどうしようかと……」とピンクシャツが言った。
「お、まじめ」
「冗談だよ。決まってるじゃないか」
「結局、山を歩き回るだけになってしまったわけだなあ」と背高男が赤い顔をしながら言った。
「もう一度桜を探してみる?」とブレザーが言った。ビールを飲んでいた背高男はぷっと吹出した。
「今度行くときは、もう少しましなリーダーに連れてってもらうわ」とポニーテールが言った。賛成、賛成とみんなはコップを持上げた。ブレザーも、賛成と言ってコップを持ち、他のコップとかち合わせた。
 端数まできっちりと割勘にし、焼肉屋を出た。ビールが回って、陽子は少し体が浮上がるような感じを覚えた。
 地下街を上がって、駅に続く構内を出たとき、雨がぱらついてきた。
「野宿してたら、大変だったな」と色黒男が空を見上げて言った。大きな木の下で雨を避けながら、八人が体を寄せ合っている場面が陽子の脳裡を通り過ぎた。
「それじゃあ、ここで今度は本当に解散します。みなさん、きょうはどうもご苦労さまでした。それでは明日から砂の一粒に戻って、生きていきましょう」とブレザーが言った。
「何だい、そりゃ」とピンクシャツが変な声を出した。
「だから、この都会の砂漠に生きているという意味で」
「そんなことか」
 じゃあと言いながら、みんなはそれぞれの方向へ歩いていった。陽子はポニーテールと一緒だったが、タクシー乗り場に来ると、「わたし、足が痛いから、タクシーで帰るわ」とポニーテールが言った。
「そう。じゃあ、バイバイ」と陽子は手を振った。
 少し行って振返ると、ポニーテールを乗せたタクシーが乗り場を離れるところだった。
 陽子は向き直ると、地下鉄の駅に急いだ。雨が大粒になって、顔に当たった。帰ったら、ピーコに餌をやらなくてはと彼女は思った。そのことを考えると、陽子はいくらかほっとした。

 

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