関係     津木林 洋



      ハンバーガー・ショップで

  彼女は内気な女の子だった。中学、高校と女子だけの学校に通ったせいもあって、男の子とあまり話したことがなく、ましてやボーイフレンドを持ったこともなかった。彼女は高校を卒業すれば、地元の会社に就職するつもりでいたが、父親の希望で、都会にある女子大学の英文科に入学することになった。
 女子寮に入って、大学との間を往復するだけの毎日が続いた。彼女の回りにいる同級生たちは、始めのころは皆同じような感じだったが、一年もたつと、派手な子とおとなしい子にはっきりと分かれるようになった。そしておとなしい子の中にも、大学祭で知り合った男子大学生のグループとディスコに行ったことを話したり、ボーイフレンドの話をちらっとしたりする同級生が出てきた。彼女はそんな話を聞いて、いいなあと思う気持はあっても、自分からボーイフレンドを作ろうという気持はなかった。自分にそんなことが出来るとも思ってはいなかった。
 そんな彼女がハンバーガー・ショップの売子のアルバイトに応募したのは、友達が応募するのに、一人では不安だから一緒に来てと頼まれたからだった。面接を受けると、すぐに採用され、次の日曜日に講習を受けた。二十人ほどの女の子と一緒だった。「お客様の応対の仕方」という薄っぺらいパンフレットが渡され、お辞儀の仕方から、「いらっしゃいませ。何にいたしましょう」などという言葉の発声練習まで、何度も同じことを繰返しさせられた。特に笑顔は飽きるほどやらされ、講師は、一に笑顔、二に笑顔、三、四がなくて、五に笑顔と笑いながら言った。
 次の日から早速店に入った。夜の六時から九時までの三時間だった。始めのうちは見習いで、先輩の女の子のそばにいて、やり方を見たり、手伝ったりするだけだったが、そのうち暇なときにカウンターの前に立って、お客の注文を受けたりするようになった。笑顔を見せることをすぐに忘れ、チーフから注意されることもたびたびあった。
 三ヶ月があっという間に過ぎた。大学に行くよりも、アルバイトに行くほうが楽しくなった。店の中に入ったとたん、今までの自分をきれいさっぱりと忘れ、明るい声の明るい笑顔の女の子になれるのがうれしかったのだった。自分が舞台で何かの役を演じているような快感があった。
 ある晩、髪の長い大学生らしい男の子の注文を受けたとき、千円札と一緒に紙切れを渡された。その場で読もうとしたら、「後で読んで」と彼は小声で言って、笑った。彼女はどぎまぎしたが、笑顔でそれをうまく隠した。
 寮に帰って、紙切れを読んでみると、それはデートの誘いだった。日曜日の一時に、Mビルの前で待っているという一方的な内容だった。
 次の日、彼女は店のカウンターの前に立って、あの男の子が現れるのを待った。しかし彼は現れなかった。次の日も、その次の日も。
 日曜日になって、彼女は行こうかどうか迷ったが、からかわれてもいいという気持で出かけた。一時前に着くと、そこにはすでにあの男の子がいた。
「やっぱり来てくれた」と彼は言った。
「どうしてあんなこと、したの」と彼女は訊いた。
「何となく、してみたかったんだ」
 その日、二人はモーターショウを見に行ったり、コンピュータショップをのぞいて、テレビゲームをしたりして、夕方にはレストランで食事をしたが、彼女は、彼がずっと楽しそうではなかったことに気づいていた。しかし彼女は何も言わなかった。
 彼とはその晩すぐに別れたが、それっきりだった。店にも二度と現れなかった。電話番号も住所も聞いていなかったので、連絡のしようもなかった。
 それから一ヶ月ほどたって、彼女はまた男の子から誘われた。今度はカウンターの前に立っているとき、「デートしない?」と直接言われたのだ。リーゼントヘアーに丸縁の眼鏡をかけており、つっぱりふうに見えたが、悪い感じではなかったので、「いいわ」と笑顔で答えた。彼は彼女の住んでいるところを尋ね、寮だと答えると、「日曜に迎えに行くよ」と言った。
 日曜日の朝、彼は確かに迎えに来た。寮まで迎えに来るのは友達の場合からみて、大抵車だと決まっていたから、彼女もそのつもりだったが、玄関を出てみると、彼はオートバイにまたがっていた。
「その服装はだめだな」と彼は皮手袋をはめた手を振ってみせた。彼女はあわてて部屋に戻り、ワンピースを脱いで、たった一枚しかないジーンズに白のブラウスという恰好になった。同級生がちらちら見ており、彼女は少し得意だった。
 彼にヘルメットを貸してもらい、後ろの席にまたがった。ヘルメットは汗や脂や整髪料の臭いがしたが、別に不快な気持にはならなかった。むしろ興奮を鎮めるような働きをした。
 男の体に抱きつくのは初めてだったので、遠慮がちに彼の腹に腕を回したが、オートバイが発進すると同時に後ろに倒れそうになったので、あわててしがみついた。
 その日、高速道路を走って新しくできたダムを見に行き、人工湖で釣りをしているのを眺めてから、レストハウスで昼食を食べた。帰りは回り道をして、平野を見渡せる峠まで行き、そこでオートバイを離れて林の中を歩いた。「キスしてもいいか」と彼が訊き、彼女はうなずいた。キスは初めてだったにもかかわらず、彼女は冷静に、彼があまり上手ではないことを見てとった。
 都心に戻り、夕食をとってからスナックへ寄った。彼は水割りを呑みながら、「どうも感じが違うなあ」と独りごとを言った。
「何が違うの」と彼女は店の中を見回した。
「いや、別に何でもないんだ」と彼は首を振った。
 寮まで送ってもらい、「また電話でもするよ」と彼は言って、去っていったが、それっきり何の連絡もなかった。もちろんハンバーガー・ショップにも顔を見せなかった。
 二ヶ月ほどたって、また別の男の子に声をかけられた。その彼とも一日だけのデートに終ってしまった。
 十二月に入って、今度は背の高い、細面の男の子に、クリスマス・パーティに誘われた。どこかの大学のテニスクラブが主催するパーティだった。「いいわよ」と彼女は笑顔で答えた。
 クリスマスの日、彼女はアルバイトで貯めたお金で買ったブルーのパーティドレスを着て、迎えにきた彼の車に乗った。
 ホテルのホールを借りた会場には、二百人以上の人間が集まり、生バンドの演奏まであった。立食い式のテーブルが周りにあり、その間はほとんどディスコとなっていた。
 彼女は彼と踊ったが、初めてなのでうまく踊れない。それじゃあというわけで、テーブルで軽食をとり、即席のカウンターで水割りを呑んだ。しかし彼は浮かない顔をしていた。彼女の目から見ても、あまり楽しそうではなかった。彼女はそのとき、ふっと何かに思い当たったような気がした。今までの謎が解けるような気がした。彼女は化粧室に行って、鏡を見ながら、ハンバーガー・ショップでいつもしている笑顔を作ってみた。その笑顔を作ると、自分が別人になったような気になった。ハンバーガー・ショップにいるつもりで、と彼女は自分に言い聞かせた。
 彼女は笑顔のまま、化粧室のドアを開けたが、表情とは裏腹に自分が弾んでいないことに気がついた。彼女は足許に目を落としながら、ゆっくりとテーブルのところに戻っていった。



     ムカデに間違えられた二匹のゴキブリ

  彼女はマッカラーズの小説を読みながら、夫の帰りを待っていた。半年ほど前から土曜日はいつも遅く帰ってくるようになった。「仕事だったの?」と訊くと、「そう」と答えたから、そのつもりでいたが、そのうち女の人に会っているということがわかり始めた。帰ってきた夫の体から、石鹸の匂いがしたり、下着に長い髪の毛がついていたりしたからだった。しかし彼女は騒ぎ立てなかった。何事もないかのように振舞った。夫がわざと気づかせようとしている気がして、それに対する反発もあった。
 午前零時を過ぎて、夫が帰ってきた。いつものようにきちんとネクタイを締めて、酒の臭いもさせずに、自分でドアを開けて入ってきた。彼女は鍵のはずれる音で玄関に出ていき、「お帰りなさい」と夫の鞄を受け取った。
「まだ起きていたのか」と夫はいつものセリフを言う。「ええ、土曜日ですもの」と彼女は答える。
 夫は帰ってくると、決ってお茶漬けを食べた。その夜もテーブルには、野沢菜の漬けものと塩昆布が出してあった。
 彼女は湯をわかして、薄めのお茶をいれた。夫は背広を脱いでガウンを着て、テーブルの椅子に腰を降ろした。茶碗には電子レンジで暖めたごはんが入っており、ガラスの箸置きには、塗りの箸が乗っており、横には小皿が置いてあった。夫はごはんにお茶を注ぎ、箸を取ると、小皿を使わずに、直接鉢から野沢菜漬けを取って食べた。彼女はその様子をテーブルに両肘をつきながら見ていた。「うん?」と夫は顔を上げた。
「ううん」と彼女は首を振った。
「一緒に食べないか」
「いいわ。夜食べると太るから」
「そうか」夫は再び食べ始めた。
「夕刊、見る?」と彼女は言った。
「うん? ああ、そうだな」
 彼女は棚から新聞を取ってきて、夫に渡した。夫は新聞を広げて、社会面を出すと、再び四つ折りにした。そして読みながら、空になった茶碗を差し出した。彼女は電気を切ったジャーから冷めたごはんを茶碗によそい、ラップをかけて電子レンジに入れた。その間に残っていた湯をわかし直して、急須に注いだ。
 暖まったごはんを新聞を読んでいる夫の手のそばに置くと、彼女は再び夫の向かいに腰を降ろした。夫は、切りのいいところまで読んでからというように少し間を置いてから、ごはんにお茶を注いだ。
 そのとき、上のほうで小さな物音がした。作りつけの戸棚のあたりだった。彼女は両掌にあごを乗せたまま、上眼使いに音のしたほうを見た。また音がした。戸棚の扉と天井の間に何やら黒っぽいものが見えた。よく見ていると、わずかに動いて、そのたびにかさかさと音がした。
「あれ、なに」と彼女は指をさした。
「なんだ」夫は顔を上げ、彼女の指をさしている後ろに首をひねった。
「ほら、戸棚と天井の間」
 夫はじっと見つめてから、急に立ち上がって、彼女のほうに回り込んできた。
「ゴキブリじゃないのか」と夫は黒っぽいものから目を離さないで言った。
「ゴキブリにしては、大きいんじゃない?」
「そうだな」
 確かによく見かけるゴキブリにしては、長過ぎる感じだった。見ていると、黒っぽいものは右に十センチほど動いた。
「ムカデだな」と夫は言った。
「ムカデ? どうしてそんなものが、こんなところにいるの」彼女は思わず大きい声を出した。二人の住んでいるところは都心のマンションの四階で、今までムカデなど見かけたことがなかったからだ。
「わたし、虫はみんな嫌いだけど、特にムカデは一番嫌いなのよ。何とかして」
「何とかしてと言われてもなあ」夫はガウンのポケットに両手を突っ込んで、口許に笑いを浮かべながら、黒っぽいものを見ていた。
「あんなのがいたら、わたし、眠れないわ」
 見ていると、黒っぽいものは今度は左に二十センチほど動いた。
「あれ」と夫が言った。「ムカデって、バックできたのか」
「そんなこと知らないわ。とにかく何とかしてよ、早く」
「とりあえずゴキブリの薬でもかけてみますか」
 夫はテレビの横の開き戸棚から、細長いノズルのついたスプレー式の殺虫剤を持ってきた。「ムカデは飛ばないから、いいよな」とひとりごとを言いながら、背伸びをしながらノズルの先を黒っぽいものに近づけていった。その瞬間黒っぽいものはかなりの速さで横に動き、四隅に行ったかと思うと、戸棚の白い扉の上に姿を見せた。
 それはムカデではなく、交尾のために尻でつながっている二匹のゴキブリだった。夫は半歩ほど体を引きながら、「ゴキブリじゃないか」と怒ったような声を出した。「このやろう、人を脅かしやがって」
 夫はノズルの先を二匹のゴキブリに向けると、薬を吹きかけた。ゴキブリは天井と戸棚の隙間に戻ると、そのまま戸棚の中へ入ってしまった。夫は開き戸をわずかに開けると、そこから薬を噴霧させた。
 しばらくして、中からかさかさという音が聞こえてきた。夫はスプレーを持って、待ち構えている。
「食べ物があるから、もう薬はかけないで」と彼女は言った。夫はスプレーをテーブルに置くと、代わりに夕刊を丸めて手にした。
 かさかさという音が聞こえなくなったと思ったら、二匹のゴキブリがまだつながったまま、下の隙間から出てきて、ステンレスの台の上に落ちた。夫は慎重に狙いを定めて、丸めた新聞紙を振り降ろした。
 かわいそうと彼女は思った。交尾中だったのに。
「あなた、女の人がいるのね」と彼女は小声で言ってみた。しかし夫は聞こえないのか、「死ね、死ね」と叫びながら、ゴキブリを叩き続けた。



            震度五

  彼が地震に遭ったのは、彼女と喫茶店にいるときだった。一緒に夕食を食べて、食後のコーヒーを飲むために入った店で、ウェイトレスが注文を取りにきた直後に、どーんと突き上げるような震動がきた。こいつは大きいぞと思う間もなく、横に揺さぶられた。彼は椅子の両側を手でつかんだ。シュガーポットがガラス製のテーブルの上を滑り、彼はそれを押さえようとしたが、うまくつかむことができず、床に落としてしまった。テーブルの真ん中あたりにある水の入ったグラスは、左右に滑るだけで倒れもしなければ落ちもしなかった。あちこちでガラスの割れる音が聞こえ、女の悲鳴が混じり合った。前にいる彼女を見ると、彼と同じように椅子にしがみつきながら、口を開けて天井を見上げていた。天井のシャンデリアがゆらゆらと揺れている。
 かなり長い間揺れてから、地震は収まった。音楽が止まってしまった店内に、人々のざわめきが戻ってきた。「すごかったわねえ」と彼女が急き込んで言った。「こんなに大きいの、生まれて初めて」
「おれも」答えながら、彼は自分も興奮していることに気づいた。
「どのくらいあったのかしら」
「テレビでニュース速報をやると思うんだけど、どこかにテレビないかな」
 そうねと言いながら、彼女は店内を見回している。もちろんテレビなどどこにもなかった。
 ウェイトレスが落ちたシュガーポットを片づけにきた。幸い割れてはおらず、砂糖がばらまかれただけだった。ウェイトレスは水のこぼれたグラスも持っていき、しばらくして、コーヒーカップとグラスとシュガーポットを一緒に持ってきた。「コーヒーを頼んだことを忘れてた」と言いながら、二人はコーヒーを飲んだ。
 喫茶店を出て、いつものように彼女を送るために、地下鉄の駅に向かった。しかし階段を降りて、地下通路に入ったとき、いつもより多い人の数にふたりは顔を見合わせた。改札口に向かう人間より、そっちのほうからやってくる人間のほうが多かった。それにスピーカーでがなりたてる声が聞こえてくる。彼は彼女を促して、足早に歩いた。
 行ってみると、改札口のあたりは人だかりがしていて、駅員がハンドマイクで何やら怒鳴っていた。どうやら先ほどの地震で、電車が動かなくなってしまったらしい。彼は人をかきわけて前に行き、怒鳴っている駅員の横で、ぼんやりと人だかりを見回している中年の駅員に声をかけた。
「※※線は動いていますか」と彼は彼女の乗る私鉄のことを訊いた。
「だめだね。こんな大きい地震は何しろ初めてだから、どこもかしこもストップしてるよ」
 中年の駅員は小さく笑いながら答えた。彼は駅員が楽しそうに話す気持がわかったので、「そうですか。ストップしてますか」と同じく笑いながら言った。
「確か五十年ぶりの震度五だって、テレビで言ってたからなあ」
「五十年ぶり! へぇー」
 彼は彼女のところに戻ると、私鉄が動いていないことと震度五の話を伝えた。
「五十年ぶりなの。すごい!」
 彼女は彼が満足する反応を示した。
 ふたりは地上に上がり、繁華街に戻った。十時過ぎの時間帯としては、いつもの倍以上の人混みで、まだ宵の口みたいだった。入口をネオンサインで縁取ったゲームセンターは人でいっぱいで、ふたりはその客の多さにひかれて中に入った。どのゲーム台も塞がっていたが、しばらく待つと一台があいた。ふたりはその台をはさんで坐った。二人で対戦するゲームで、初めて見る種類だった。もっともふたりともゲームセンターにはめったに入らないので、どれも初めてのようなものだったが。
 説明書きと隣のやっているのを見て、ふたりは始めた。互いに相手の駒を撃ち落とすという単純なゲームだったが、思わず熱中してしまうほどだった。
 ゲームセンターを出て、ぶらぶら歩いていくと、雑居ビルのホールみたいになったところで、若い男四人が機械仕掛けの人形を真似たダンスをやっていた。三重くらいの人だかりがしていた。ふたりも一番外側から見物した。
 ばらばらに踊っていた男たちが互いに両腕を持ち合った動きに入ったとき、少し離れたところから、怒鳴り合う声が聞こえてきた。どうも喧嘩のようだった。ふたりは喧嘩を見に行った。
 若い男同士の喧嘩で、どちらも鼻血を出していた。すでにひと勝負あったらしく、互いに荒い呼吸をしながら、にらみ合っていた。野次馬が群がっており、その中の酔っぱらいが「もっと、やれ」と怒鳴った。一方の男が声のしたほうをちらっと見たとき、もう一方が頭から突っ込んでいった。突っ込まれたほうは尻から落ちたが、相手の後頭部のあたりを握り締めた両手で思いきり叩いた。しかし相手はひるむことなく頭突きで腹を攻め、一方の男はうなりながら、相手の腰を膝でけった。
「行きましょう」と彼女が言った。眉根にしわを寄せている。彼はもっと見ていたかったが、仕方なくその場を離れた。
「喧嘩を見たのは久し振りだなあ」と彼は言った。
「みんな、気が立っているのよ」
「何しろ五十年ぶりの地震だからなあ」
「まるでお祭り騒ぎみたい」
 そのとき彼はふと思いついて、「いっそのこと、どこかに泊まっちゃおうか」と言ってみた。断られるかと思ったが、彼女は少し首を傾げる仕草を見せてから、「そうね、電車がまだ止まっていたら」と答えた。やったと彼は思った。今までキスまでしかいってなかったから。
 地下鉄の駅に行くと、改札口はまだ閉鎖中で、私鉄も全面ストップになっていた。
 早速ホテルを探した。彼女の希望で、シティホテルを選んだが、どこも満員だった。ダブルやツインはもちろんシングルルームまで塞がっていた。彼は電話帳を調べて、片っ端から電話をかけ、都心から少し離れたところにあるホテルに、ようやくツインがひとつ空いているのを見つけた。その部屋を予約し、タクシーでそのホテルまで行った。
 フロントで夫婦と偽って記帳し、ボーイの案内で部屋に入った。ボーイが出ていくと、彼女はテレビをつけた。ちょうど地震のニュースをやっているところだった。ひとつのベッドに並んで腰を降ろして、テレビを見た。かなり大きい地震の割には被害が少なかったが、鉄道は到るところで止まったままだった。
 彼は彼女の腰に腕をまわして、体を引き寄せた。そしてそのままベッドに倒れ込んで、キスをした。
 長いキスのあと、唇を離した彼女が「地震のせいで、こんなふうになったカップルって、多いんじゃないかしら」と笑いながら言った。彼は一緒に笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
 つけっぱなしのテレビからは、アナウンサーの抑えた声が聞こえていた。消したほうがいいと思いながら、彼は再び唇を近づけていった。



          タファーヤの祭

  彼がシャワーを浴びにバスルームに行ったとき、「ねえ、ゴールデン・ウィークは、どうするの」と彼女が声を掛けてきた。「旅行」とだけ答えて、彼はドアを閉め、バスタブに入って栓をひねった。
 バスタオルを腰に巻いて出てくると、彼女はまだ裸のままでダブルベッドに横たわっていた。来たばかりの朝刊を読んでいる。彼はバスタオルをはずして肩にかけ、椅子に投げ出してある自分と彼女の下着の中からパンツを取って、はいた。そして、どっこいしょという感じで、ベッドに腰を降ろした。
「あの人と一緒に行くの?」と彼女が新聞を眺めたまま、言った。あの人とは、彼の妻のことである。
「ああ」
「どこへ行くの」
「スペイン」
「スペイン?」彼女は新聞から目を離して、彼のほうを見た。
「おかしいか」
「ううん、別に。……でも何だかイメージが合わないわ」
「女房が知合いの旅行業者から、安いパック旅行を世話してもらっただけさ。おれの趣味じゃない」
「そうでしょうね」彼女は小さく笑った。
「そっちはどうするんだ」
「わたし? わたしは本を読んだり、買物をしたり、友達と電話でおしゃべりをしたり……」
「いつもと一緒か」
「そう、いつもと一緒」
「やっこさんは相変わらず、ゴルフってわけか」
「遠いところへ二回も行くみたいよ。ひとつは名門のコースなんだって」
「一緒に行って、ゴルフでもすればいいのに」
「いやよ。馬鹿ばかしい」
 彼女は新聞を彼に渡すと、ベッドを降りて、バスルームに歩いていった。

  パリからマドリードへ飛び、そこからスペイン各地へバスで回るという強行軍だった。スペインはちょうど聖週間というカトリックの祭のシーズンで、各地で行われていた。それを見物するのが観光の目的といってよかった。しかし彼は祭にはほとんど関心がなく、強過ぎる太陽とオリーブ油を使った料理に辟易しながら、ぶどう酒だけを楽しんでいた。
 何日目かにタファーヤというスペイン北部の街に泊まることになった。マドリードやセビーリャなどに比べたら、遥かにちっぽけなところで、石畳の細い道の両側に石造りの家が建込んでいる街だった。ホテルも煤けたような石造りの建物だった。
 彼はずっとホテルで休んでいたかったが、妻に引張り出されて、祭の行列を見に行った。街の小ささに比例して、行列も質素なものだった。見物人は街の人間と近郊から来た人間が大半らしく、カメラを構えた観光客は一緒に来た日本人を除けば、ちらほらしか目につかなかった。
 行列はキリストが処刑場まで連れていかれる道程を再現したものらしく、ローマ時代の兵士の恰好をした一群に続いて、身の丈を越える太い木の十字架を背負った裸の男がやってきた。腰に白い布を巻いただけの姿で、顔は髭だらけだった。十字架は本当に重いらしく、男は腰を屈め、一歩一歩踏みしめるように石畳の道を歩いていく。後に続いた兵士役の男が、鞭を地面に叩きつけて鳴らした。
 彼はその行列に見とれた。今まで見てきた観光化された祭と違って、素朴な形を残していたし、何よりキリストが処刑されたのは、きっとこんなふうだったんだなと思わせるところが彼を引きつけた。妻が彼の横顔を写真に撮った。
「祭なんて、興味がなかったのと違うの」と妻が言った。「これはなかなか面白いね」と彼は答えた。
「どこが面白いの」
「面白くないか」
「ぜんぜん。色がないんですもの」
「色がなければ、写真に撮っても、面白くないか」
 妻はカメラを持った手を降ろして、しばらくの間ゆっくりと動く行列を見ていた。
「なるほどね」と言って、妻は彼のほうを向いた。「あなたがこの行列に興味を持ったわけがわかったわ」
「うん?」
「あなたは自分もあんなふうに、十字架を背負って歩いていると思ったんでしょう」
「え?」
 彼はどきりとした。
「そんなの、みんな男の思い上がりよ。あのキリストだって、男の発想だわ」
「そう言われれば、そうなるのかな」と彼は笑って答えながら、いくらかほっとしていた。
 行列が行き過ぎたので、ふたりはホテルに戻ることにしたが、途中でブリーフをはいただけの若者が、バラの蔓かなにかで上半身をむち打っているところにでくわした。白い肌に血が点々と流れている。周りに同じ年恰好の若者が数人いて、掛け声をかけている。その度に若者は自分の胸や脚にむち打った。何やら呟きながら苦悶の表情を見せているが、それは陶酔しているという感じにも見えた。
「何だかエロチックね」と妻がささやいた。
「あれも十字架の一種だろう」
「でも、こっちのほうがいいわ」
 その晩、彼は妻を抱いた。妻のほうから求めてきたからだった。彼は妻の体を愛撫しながら、昼間見た行列のことを思い出していた。

 「スペイン、どうだった」
 ホテルで一緒に食事しているとき、彼女が尋ねてきた。
「どうもおれには合わないね。ひとことで言って、すべて動物的だから」
「でも女の人は綺麗だったでしょ」
「太る前の若い女性はね」
「女性以外は面白くなかった?」
「まあね……」
 彼は少しためらってから、「ひとつだけ面白いものがあったな」と言った。
「なに、それ」
 彼はタファーヤの行列のことを話した。
「女房に、十字架を背負うなんて男の発想だと言われたんだけど、どう思う」
「面白いわね」と彼女は笑った。「それで、どう答えたの」
「否定も肯定もしなかったけどね」
「ほんとは、どうなの」
「うん?」
「男は十字架を背負っていると思ってる?」
 彼は妻に訊かれたときと同じ緊張を感じた。水の入ったグラスにゆっくりと手を伸ばし、それを一口飲んだ。「別に男とか女とか、そんな問題じゃないと思うけどなあ」
 答えてから、思わないとだけ言えばよかったと後悔した。彼女は「そうね」と呟いて、目を皿に落とし、フォークとナイフを動かした。そして一口舌ビラメを食べると、この二週間の間に読んだ本の話を始めた。
 食事が終わって、ふたりはチェックインした部屋に向かった。エレベーターに乗ったとき、彼は、スペインで見た自分の体に鞭を打つ若者に自分をなぞらえて、思わず苦笑した。
「なにがおかしいの」と彼女が訊いた。
「いや、別に」と答えて、彼は8のボタンを押した。



            安全弁

  彼はここ一週間ほど頭痛に悩まされていた。頭の周囲をゴムのようなもので、じんわりと締めつけられる感じが続いていた。頭痛は二、三年ほどの周期で彼を襲い、その度に気分が落ち込んで、何をするにも億劫になるのだった。自分だけが深い穴の底にすっぽりとはまりこんでしまったような感覚にしばしば捉われた。それがけさは特にひどく、仕事を休もうかと思ったほどだった。それでも何とか体を運んで会社に行ったが、昼を過ぎて、頭の異常な重さから思わず何か叫びそうになり、早退することにした。
 ようやく家にたどりついてドアを開けたとき、彼は家の中がやけに静かなことに気づいた。いつもならFMの音楽が流れているはずなのに、きょうは何の物音もしなかった。ゆっくりとドアを閉めると、鍵をおろし、彼は壁に手をつきながら、居間に行った。
 居間はいちめん白かった。彼はとっさにはその白さが何であるのかわからなかった。しばらく見つめてから、その白に触れてみた。ティッシュペーパーだった。それも細かくちぎったそれだった。
 来たなと彼は思った。彼はティッシュペーパーの雪をけちらして、居間に続く部屋の襖を開けた。中では彼の妻が数十個ものティッシュペーパーの箱を周りに積み上げて、ティッシュを手でちぎっていた。何か口の中で呟いている。
 彼は近づいていって、空箱をいくつか妻の周りから取り、そこに腰を降ろした。ちぎれたティッシュが舞い上がり、紺色のズボンの上に落ちた。妻は「これでも足りませぬか」と呟きながら、ちぎったティッシュを放り上げていた。
「どうしたんだい」と彼は妻の横顔に声をかけてみた。しかし妻は彼の方を見もしなかった。
「おもしろいかい」と言ってみた。
「これでも足りませぬか」
「病院に行くか」
「これでも足りませぬか」
「病院に電話するよ」
「これでも足りませぬか」
 彼は立ち上がって居間に戻り、早見表を見ながら病院に電話をした。今回で四度目だったので、病院の方も妻のことをよく知っており、話は簡単についた。車で迎えに行くということで、その間に彼は妻の着替えの下着や服を用意して、居間と和室のティッシュをゴミ袋に入れて、通り道をつくった。彼は自分の頭痛が消えてしまっていることに、そのとき初めて気がついた。
 一時間ほどして、四十半ばの医者と二人の看護士がやってきた。医者は居間の入口で立ち止まって、通り道以外に敷き詰められた白いものに目をやった。
「これは何ですか」と医者は言った。
「ティッシュペーパーです」と彼は答えた。
「これ、全部そうですか」
「ええ」
「ほう」
 医者は和室に入ると、妻に「奥さん、どうしました? ティッシュペーパーをちぎるの楽しいみたいですね。私と一緒にちぎりませんか」などと次々に声をかけた。そうしながら看護士に指で合図して、ティッシュペーパーの空箱や中身の入った箱を片づけさせた。病院からの指示で、彼は妻の周りにはいっさい手をつけなかったのだ。 医者が妻の肩に手を置くと、妻は背筋をぴんと張るようにして、体を硬くさせた。
「心配いりませんよ」と言いながら、医者は妻の両肩を掌でゆっくりと撫でた。それでも妻は体を硬くして、ティッシュペーパーをちぎり続けた。医者は声をかけながら、頃合を見計らって、看護士に目で合図した。看護士たちは妻の両脇に腕を差入れて、妻の体を引き上げた。妻は正座した恰好のまま、畳から引き離された。しかしその姿勢も長続きせず、徐々に足が垂れてきて、しまいには爪先が畳についた。
 玄関の三和土に降りるところで、妻がいやいやをした。彼は靴箱から素早く、妻のお気に入りの白のパンプスを取り出して、並べた。妻はそれをじっと見てから、ゆっくりと足を入れた。靴をはくと、妻は自分の足で歩いた。くすんだ色の部屋着に対して、白のパンプスだけが別の生き物のように見えた。
 家の前に止めてあった乗用車に医者と妻を連れた看護士が乗り込み、出ていった。彼は隣近所を見回して、誰も今の様子を見ていなかったことに、ほっとした。
 荷物を持ってタクシーですぐに後を追い、病院に行った。担当の医者は顔見知りで、一ヶ月ほど入院したら、よくなるでしょうと、にこやかに言った。受付で入院手続きをすませ、再びタクシーで帰ってきたときには夜になっていた。さすがに晩ご飯を作る気にはなれず、店屋物をとってすませた。部屋の中を掃除しなければと思ったが、それもする気が起こらず、風呂をわかして入ると、すぐに寝てしまった。
 翌朝会社に電話して、妻が病気で入院したので、一日だけ休ませてほしいと課長に頼んだ。「病気?」と課長は一瞬変な声を出したが、すぐに「ああ、そうか。また出たの」と訊いてきた。
「ええ」
「それは大変だね。何だったら、しばらく休んでもいいよ」
「いいえ、入院させましたから」
「そうか。それじゃあ、まあ頑張ってくれ」
 彼は午前中に居間と和室のティッシュペーパーを片づけ、掃除機をかけ、洗濯をした。久しぶりに頭痛のない爽快な朝だった。いい天気だったので、近くの河原まで行ってジョギングをし、最近開店したフランス料理店に入って、ランチを食べた。
 その夜、二軒隣の世話好きのばあさんが、ひじきの煮物を持ってやってきた。妻のことを探りにきたのはわかっていたので、「おかしくなったので、入院させました」とはっきり言った。「おや、そうかい。それは、まあ……」と口ごもり、隣の誰それが車で奥さんが連れていかれるところを見たので、とか、入院はこれで何度目、いや別に詮索する気はないんだけどねとひとりでしゃべった。そして最後に「お前さんも、ようやりなさるねえ」と感に堪えたように言ってから、出ていった。
 次の日、会社に出てみると、みんなが自分をそれとなく特別扱いするのがわかった。今年入ったばかりの女子社員が「係長、えらいですね」と言って、お茶を持ってきてくれた。彼は「ありがとう」と答えながら、照れくさくてしようがなかった。
 土曜日になって、彼は妻の着替えを持って、病院に出かけた。受付に顔を出すと、女の事務員が「いつもご苦労様ですね」と言って、手続きをしてくれた。
 帰りに彼はデパートに寄った。自分で作ろうと料理の本を見ていたとき、圧力釜があれば調理が早いし、便利だということを読んで、どんなものか見にきたのだった。店員の説明を聞いていたとき、安全弁という言葉が耳に入った。釜の中の圧力が異常に高くなれば、安全弁が自動的に開いて、圧力を外へ逃がしてくれる……。彼は店員の話に熱心に耳を傾けた。
 彼は圧力釜を買い求め、家路についた。デパートの包みを膝に置いてバスに揺られながら、彼は妻のことを考えていた。

 

もどる