三月の街を走る     津木林 洋


 田代夏子から手紙をもらったとき、彼は本当にびっくりした。四年前に年賀状を初めてもらったときも驚いたが、そのときの驚きには、どうして自分の住所がわかったのかという疑問がかなりの比重を占めていた。冷静に考えてみると、大学卒業者名簿というのがあるし、このマンションに引越してきたときも、同窓会の欠席通知と一緒に新しい住所を書き送っている。それで調べたのだろうと推測できたが、その次に、どうして今ごろになってこんなものを送ってきたのだろうという疑問が湧いてきた。彼は大学四年生のときに、十カ月ほど彼女と付合っていたことがあったが、卒業する前に別れていた。
 年賀状が届いたのは、それから六年後のことだった。差出人は夫婦連名になっていたが、初めて見る名前で心当たりはなかった。すべて手書きで、年賀の挨拶の終わりに、「これをもって、結婚の挨拶に代えさせていただきます」という言葉が添えられていた。
 彼は大学、高校、中学と、友人の顔を思い浮かべてみたが、福田という姓には記憶がなかった。もっとも、昔の友達というのは顔は覚えていても、名前を忘れているのが多いから、きっとそれだろうと気にもとめなかったのだが。
 何日かたって、テレビの上の郵便入れに入ったままになっている年賀状を手に取ってみて、彼はそれが男からではなく、女からのものだということに気づいた。福田夏子。名前のほうに心当たりがあった。彼女のくれた手紙には、いつも「なつこ」と仮名書きだったので、すぐには気づかなかったのだ。それに字も、昔の丸っこい字ではなく、角ばった字だった。
 妻は、形ばかりでも何かお祝いの品を贈ったほうがいいのではないかと言ったが、彼は放っておくようにと答えた。ただ、返事だけは、印刷した年賀状だったが、一応すませておいた。
 夏子からの年賀状は、それから毎年届いた。去年になって、夫婦連名の横に、「一郎」という名前が加わり、年賀状そのものが、その子供から発せられたという形式になっていた。
 それが今度は手紙だった。しかも差出人の名前が田代夏子になっていた。離婚でもしたのだろうかと思いながら、彼は封を切った。
「早春の候、皆様いかがお過ごしでございましょうか。その後、ごぶさたしております。このたび、叔母の七回忌の法要で、そちらにまいりますので、是非お会いしたく思っております。つきましては、三月二十四日(土)の午後三時に、K書店の前でお待ちしております」
 それだけだった。一方的に場所と日時を指定してあるということは、何か切迫した感じを与えたが、他方、法事のついでに会いたいというのは、ただ懐かしいからというふうにも読めた。結婚前の姓で送ってきたのは、昔の頃に戻って会いたいという謎ではないかと思った。
「誰なの」と妻は流しで、食器の洗いものをしながら尋ねた。
「高校時代の友人の奥さんからだ」
「……そう」
 しかし、あまり納得していないような口振りだったので、余計なことだと思いながらも、「ほら、福田っていう友達がいただろう、毎年年賀状がくるやつで」と言い足した。妻にはそういうことにしておいたのだ。
「田代さんじゃなかった?」
「どうも離婚するらしい」
「それで何て」
「福田に手紙を書いてほしいって」
「奥さん、離婚したくないのね」
「まあ、そういうことだな」
「それでどうするつもり」
「放っておくさ」
 そう、とつぶやいて、妻は蛇口をひねって、湯を出した
 もちろん彼は夏子に会うつもりなどなかった。手紙も妻の見えないところで、丸めてくずかごに捨ててしまった。ところが二十四日が近づいてくると、だんだん不安になってきた。ここで会わないと、ひょっとしたら家までやってくるかもしれないという気がした。
 二十四日は休みだったが、彼は会社の同僚と麻雀をすると言って、昼過ぎにマンションを出た。電車で都心に向かいながら、彼はまだ迷っていた。夏子とはきれいに別れたわけではなく、いわば一方的に自分のほうから離れたので、そのことが心に引っ掛かっていたのだ。だが、三時に近づいてくると、逆に腹がすわってきた。あれから十年もたったことだし、お互い家庭を持って暮しているのだから、余計なことは何も考えずに、ただ懐かしい気持で会えばいいという気になった。
 K書店には十五分前に着いた。出入口にはたくさんの人間が人待ち顔で立っていた。その中に混じって待つのは居心地が悪かったので、彼は中に入って、雑誌を手にした。夏子との初めてのデートの待合わせも、書店だったような記憶があった。
 彼はコンパで横に坐った彼女の顔を思い浮かべ、タクシーに乗ったときの横顔を思い浮かべ、タクシーから下りて手を振った顔を思い浮かべた。しかし、どの顔も輪郭がぼやけていて、はっきりとした像が結べなかった。すぐに彼女だとわかるだろうかと、少し不安になった。彼は手に取った雑誌の文字を目で追いながら、ときどき出入口に目を向けた。
 しかし、夏子が入ってきたとき、彼はすぐに気がついた。人の群れの中で見え隠れしながら、夏子の小さな頭が自分を捜して左右に動いているのが見えた。後ろから近づいていって、夏子の肩を指で叩くと、彼女は体をびくんとさせて振り向き、まぶしそうに彼を見た。
「待った?」と夏子がきいた。
「ちょっとだけ」実際は三十分以上も待っていたのだが、彼はそう答えた。
 三時になって、彼はK書店を出て、人待ち顔の列に加わった。こちらにやってくる人々に目をやりながら、彼は夏子ではなく、知った顔に会わないか注意していた。こういうところを見られたら、まずいという気持があったので、もし自分が先に見つけたら、顔を隠すつもりだった。
 十分ほど待ったとき、和服を着た眼鏡の女性が彼のほうにやってきた。道でも尋ねるつもりなのかと思っていると、その女性は彼におじぎをした。
「お久しぶりでございます」
 まさかと彼は思った。昔の夏子とは別人だった。背丈は同じくらいだったが、かなり太っていて、きゃしゃな感じなどどこにもなかった。眼鏡をかけているせいもあったが、ずいぶん人相が変わっていた。もちろん、口許のあたりに昔の面影が残っていたけれども。
「ほんとに久しぶりですね。十年ぶりかな」彼は頭を下げながら、できるだけ明るく言った。
「わたし、すぐにわかりましたわ」
「そうですか。ぼくのほうはすっかり見違えちゃったなあ。ずいぶん女っぽく見えたから」
「もう、おばさんですわ」
「そんなことないですよ」
 言いながら、彼はもうこれでいいんじゃないかと思っていた。十年ぶりに会ったことだし、もう別れてもいいんじゃないかと思っていた。いや、むしろ早く別れたほうがいいとさえ思っていた。
 彼は夏子の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いた。それでも夏子より先になってしまうことがあった。腕を出せば組んでくれるとは思ったが、そうすることにいくらかためらいがあった。
 ふたりは目についた喫茶店に入り、まず夏子が、なぜ親ではなくて自分が苦労するかということを話した。コンパの後で、電話でデートに誘ったとき、門限に間に合わなかったという話から、彼が「苦労しているのは親のほうじゃないかな」と言ったのにたいして、「ううん、そうじゃないの。それは世間一般のはなし。うちではね、わたしが苦労するのよ。その理由はここでは言えないけれども」という会話があったのだ。
 夏子はいろいろと話したが、要するに、両親とも大変呑気で、自分の娘は間違いないと素直に信じ込んでいるため、その両親の理想像を壊さないように、充分気をつけなければならないというようなことらしかった。何か複雑な事情があるのかと気負い込んでいた彼は、拍子抜けがしたが、そのたわいのなさに微笑ましい感じを持った。
 それから夏子は自分の家族のことを話し、彼女の質問に答えて、彼も家族のことを話した。話題が途切れそうになると、夏子はこの前のコンパのことを口にし、そのとき一緒だった大学院生の話から、「卒業研究って、どういうことをするの」と質問してきた。彼はほっとして、自分のしている実験のことを話し始めた。高校の物理で習うような事柄から始めて、できるだけ詳しく説明していった。夏子は興味深そうに、時折質問しては、彼の話に聞き入った。ずっと後になって、夏子が、あの時は驚いたわ、専門的な事がぽんぽん飛出してくるんですもの、と言ったのだが、もちろん彼はその時、夏子の当惑には気づかなかった。
 このまますぐに別れるわけにもいかないから、どこか喫茶店で一時間ばかり話をして終りにしようと、彼は考えた。
「これから、どうします」と彼は尋ねた。どうしようかしらとつぶやいて、夏子は頸を少し傾げる仕種を見せた。それは昔の彼女を思い出させた。
「お急ぎでなければ、どこかでお茶でも飲んで、話しましょうか」
「お急ぎだなんて」と夏子は曇った声を出した。「光雄さん、何だか他人行儀で変だわ。わたしと会うの、お嫌だったみたい」
「そんなことないですよ。ただどういう言葉使いをすればいいのか、迷っていることは確かだけど」
 そう答えながら、彼は内心あわてていた。人の気持を見抜く鋭さは変わっていないなと、彼は驚いた。
「昔と同じような感じで話すのは、だめ?」
「え? いや、別に構わないですよ」
「ほら、その言い方」
 彼は笑ってごまかした。
 ふたりは地下街を歩いていき、最初に目についた喫茶店に入った。コーヒーを注文し、ウェイトレスが行ってしまうと、不意に沈黙がふたりの間を支配した。彼は、いつかもこんな、いやもっと気まずい沈黙が彼女との間にあったことを思い出した。
「わたし、妊娠しました」と夏子は言った。彼は目を伏せがちにして、あたりの様子を窺った。夏子の声が大きかったので、回りに坐っている人々がしゃべるのをやめて、こちらを見ているような気になった。しかし相変らず店内にはポップスが流れ、人々は自分たちの話に熱中していた。彼はひとつ深呼吸をした。
「それで、何カ月?」と彼はきいた。
「お医者さんは、三カ月だと言っています」
 三カ月なら、十月か十一月頃か。なるほど可能性はある。彼はゆっくりとそう思った。
「それで?」
 夏子は戸惑っているようだった。
「……だから、どうしようかと思って」
「ぼくに責任とれって言うの?」
「そんな……」
 そのとき彼は不意に、夏子が嘘をついているのではないかと思った。彼はもう夏子に会うつもりはなかったが、電話で、これが最後だからと懇願されて、応じたのだった。そのときは、妊娠のことなどこれっぽっちも出なかった。
「あのね、はっきり言うけど、妊娠って嘘だろう? もしそれが本当なら、この前のとき、なんか言ってるはずだよ」
「………」
 夏子はうつむいている。彼はレシートをつかんで、ひとりで出ていこうかと思ったが、そうすると妊娠という言葉に驚いたと思われるのがしゃくだったので、そのまま腰を降ろしていた。煙草を取出して、火をつける。一本目を吸い終っても、夏子は同じ姿勢のままだった。彼女が嘘だと言うまで席を立たないつもりだったが、五本あった煙草がなくなっても、彼女は一言も口をきかなかった。彼はしびれを切らし、レシートをつかむと、じゃあと言って立上がった。
 その夜、電話の呼び出しがあった。廊下に出て、ピンク電話のところまでいき、受話器を取った。夏子だった。
「昼間はごめんなさい。妊娠っていうのは嘘なの。でもそう言えば、あなたがこれからも会ってくれると思って。お願い、もう二度と嘘はつかないから、また会って」
「同じ話になるけど、もう会わないよ。会ってもしょうがないんだから」
 彼は一方的に電話を切った。
 それから一週間ほどたって、彼がレコードを聞いていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。彼は緊張して、夏子が来たと思った。音楽が聞こえているのに、居留守を使うわけにはいかない。彼はアンプのボリュームを絞ってから、小さな三和土に下りた。鍵をはずして、ドアを小さく開ける。
 夏子ではなかった。髪の長い、どこかで見たことのある女だった。
「どなた?」
「あたし、夏子の友達で、山本由紀子と言います」
 そのとき彼は、去年の絵の展覧会で会ったユッコとかいう女だと気がついた。
「それで、何か用ですか」
「夏子のことで、ちょっと」
「ああ、なるほどね。それで……」
「こんなところじゃ、なんですから、中に入れてもらえません? ここじゃ寒くって」
 若い女は首に巻いていた長いマフラーをはずした。冷たい空気が足許から部屋の中へ流れ込んでいる。
「別に中に入ってもらうほどのこともないと思うから、ここで聞きますよ」
 彼はこの女を部屋に入れたくはなかった。入れれば、夏子も一緒に受入れてしまうことになるという気がした。
「そう、じゃあここで話すわ」女の声の調子が変った。彼女ははずしたマフラーを、もう一度首に巻いた。
「ずばり聞くけど、どうしてあなた、夏子と会おうとしないの。聞けば、急に会うのを避けるようになったって言うじゃない。どうしてなんですか。夏子はさっぱりわからないって、泣いているのよ」
 彼は黙っていた。というより無性に腹が立って、一言も答えたくない気持だった。
「夏子はね、あなたに恋人ができたんじゃないかって言ってるわ。もしそうなら諦めるとまで言ってるのよ。どうなの、恋人ができたんですか」
 なるほど恋人という手もあったのかと彼は思った。
「恋人なんかいません」
「だったら、どうして……」
「そんなこと、あんたに話してもわかりっこない。これはね、ぼくと彼女のふたりだけの問題なんだ。他人のあんたが口出しする問題じゃないよ」
 女は何か言葉を言おうとして口を小さく開けたまま、驚いた顔で彼を見つめた。
「……一人の女の体を弄んでおいて、よくもそんなことが言えるわね。出るところへ出たら、そんな言い訳が通じるとでも思ってるの」
「それじゃあ」と言って、彼はドアを締め、鍵をかけた。
 ドアを足でける音がし、「覚えてらっしゃい。このままじゃ絶対にすまないわよ」という女の声が聞こえてきた。気違いめ、と彼はつぶやいた。
「法事はどこであったの」と彼はきいてみた。そのくらいしか話すことがなかった。
「え?」
「叔母さんの七回忌の法要だったんでしょ」
「ええ、そうです」
「どこであったんですか」
「あれは……どこかのお寺。境内に大きな銀杏の木があって、鳩がいっぱいいて」
「ここから、近いの?」
「ううん、ずっと遠く」
 本当に法事でこちらに来たのかと彼は思ったが、それを確かめてみる気はなかった。どうでもいいことだったし、ひょっとしたら家でおもしろくないことがあって、うさ晴らしに出てきたのかもしれなかった。
「ご主人とは、うまくいってるの」
 だが、夏子は聞いていなかった。顔を上げて、彼の頭上を見つめている。
「ほら、この曲、知ってる?」と彼女が言った。
 彼は耳をすませた。サイモンとガーファンクルのサウンド・オブ・サイレンスが流れていた。このデュエットを初めて教えてもらったのは、夏子からだった。
「懐かしい曲だな」
「あの時のアンプ、まだあるの?」
「実家の物置には、まだあると思うけど」
 夏子が初めて彼のアパートに来たのは、知合って一カ月ほどたった頃だった。五月末のいくらかひんやりとした日曜日だった。彼女はサイモンとガーファンクルのLPレコードを抱えていた。
 夏子は珍しそうに六畳一間の部屋を見て回り、「開けてもいい?」ときいて、押入れを開けた。下段にはオーディオ部品や、工具類、測定器などがぎっしりと詰まっていた。夏子は感心し、彼女の質問に答えて、彼は工具の使い途や測定器の種類などを教えた。彼はオーディオを自作するのが趣味で、机の横にあるアンプもスピーカーも、自分で作ったものだった。プレーヤーだけは既製品だったけれども。夏子がレコードを持ってくると言い出したのも、彼が自作のセットがあると言ったからだった。
 彼はアンプの電源を入れた。真空管式だから、機械の中からブーンと微かな音がする。彼は夏子にアンプの放熱孔から中を見るように言った。
「ほら、あそこに赤いのが見えるでしょ。あれが真空管のヒーターが熱くなってる証拠。あの赤いのがいいんだなあ。本当に働いているって感じがして」
「あら、ほんと。見えるわ。あれが真空管なのね。わたし、初めて見たわ」
 そのとき、オーデコロンか何かの匂いが彼の顔を包んだ。夏子の顔がすぐそばにあり、今、不意にキスをしたら驚くだろうかと彼は思った。実際彼は口を近づけたが、夏子が気配で顔を向けたので、あわてて離れた。彼はばつの悪さをごまかすため、真空管式のアンプのほうがトランジスタよりも音がいいということを、専門的な用語も入れて説明した。
 レコードを聞く前にインスタントコーヒーをカップに入れて、手に持った。夏子の持ってきたLPレコードは、S&Gゴールデンアルバムと銘うった二枚組だった。一枚目にはミセス・ロビンソン、スカボロ・フェア、サウンド・オブ・サイレンスなどが入っていた。ふたりはコーヒーを少しずつ飲みながら、スピーカーからの音に耳を傾けた。
「よかったわ。家で聞くのと確かに違うわ。よくわからないけど、こっちのほうが音が柔らかいみたい」
 一枚目が終って、夏子が言った。お世辞かもしれなかったが、その言葉は彼を喜ばせた。
 二枚目のリトル・スージーという曲が始まってすぐに、隣から壁を叩く音が聞こえてきた。はじめのうちは棚でも直しているのかと彼は思ったが、だんだん音が大きくなって、隣が文句を言っていることに気づいた。彼はあわてて音量を絞った。部屋の中が急に静かになった。
「まさか隣にまだいるとは思わなかった」と彼はささやいた。夏子は横坐りになったまま、真剣な顔つきになって、隣の物音に耳を澄ましている。しかし、それっきり隣からは何の音もしなくなった。それでもふたりは、しばらく隣の様子を窺った。
 そのうち、夏子が急に小さく笑い出し、彼もこうして息をひそめていることが何だかおかしくなって、笑った。そのとき隣で、やかんか何かが板の間に落ちるはでな音がした。ふたりは驚いて口をつぐんだ。
 夏子が彼を見つめ、しかし顔はいかにもおかしそうに笑っている。彼も笑って見返す。夏子の顔がすぐそばにあり、オーデコロンの匂いが再び彼をとらえた。彼は真顔に戻り、目を見開いて、わずかに顔を近づけた。夏子も笑うのをやめた。
 彼は顔だけ近づけていって、夏子の唇に触れた。彼女は驚いて少し上半身を引いたが、すぐに目を閉じると、あごを上げた。彼は彼女の肩を抱いて、唇を重ねた。夏子の体から力が抜け、ふたりは畳の上に倒れ込んだ。唇だけのキスが続いたあとで、彼はためらいながら舌を入れた。夏子は歯を閉じており、彼は舌で歯と歯茎の境目をなぞった。歯が小さく開き、その隙間に舌を差入れると、夏子の舌がわずかに触れた。彼は彼女の脇腹から腰へと掌を動かしていき、フリルのついたワンピースの上から太腿を触って、裾から中に手を入れようとしたが、夏子がその手首をつかんだ。
 アンプは卒業と同時に会社の寮に引越すときに、狭いからという理由で、実家に運び込んだのだった。夏子に勧められて買ったサイモンとガーファンクルのLPレコードも今は彼の手許にはない。
「きょうはいつまでゆっくりできるの」と彼はきいた。暗に、もうそろそろ別れようかという意味を込めたつもりだった。
「きょうはいつまででもいいんです。折角の機会だから、ホテルもとって、ゆっくりすることにしたの」
「子供さんはどうしたの。まだ小さいでしょ」
「母に預けてあります」
「お母さんて、ご主人のお母さん?」
「いいえ、わたしの母です」
「一緒に住んでるの」
「近くに」
「ご主人は何をしてる人」
 夏子はカップにスプーンを入れて、ゆっくりかき回していたが、顔を上げると、急に明るい声で「きょうは今の話はやめて、昔の話をしましょうよ」と言った。おれは昔の話なんかしたくないんだと思ったが、彼は黙っていた。
「ねえ、わたしの人形はどうしてる。やっぱり実家の物置の中?」
「ああ」
 しかし、それは嘘だった。いやなことをきく、と彼は思った。最初に会ったときに、用事があるから何時までと決めておけばよかった、と彼はこうして会ったことを後悔し始めていた。
 夏子にもらった人形は、引越しをするときに川に捨ててしまった。人形だけではなかった。何かの実をくり抜いて作ったキャンディーボックスや、彼の誕生日にふたりで買ったダーツ、それに夏子が買ってきてくれた白いベストや手編みの手袋など夏子に関係する全ての品物をタンボールに詰めて、河原のごみ捨て場に捨ててしまったのだった。
 人形は七十センチくらいの、茶色い毛糸の髪を持った女の子のそれだった。夏子が自分で作ったもので、足の長さが不揃いで、丸い毛糸の玉で作った目鼻の付けかたも歪んでいた。それゆえかわいいことはかわいかったけれども、ちょっとした拍子にひどく悲しい顔に見えたりした。
 夏子はそれを「わたしの分身だと思って、かわいがってね」と彼にくれたのだった。彼はそれをドアの内側に吊した。夏子は彼のアパートに来るたびに、「なっちゃん、元気? いい子にしてた?」と声をかけ、小さな手を引張ったりした。
 夏子の存在がだんだん嫌になってきたとき、彼は人形をドアの内側からはずして、机の近くに吊ってあったダーツの上にかけた。ドアの内側だと、寝るときにどうしても目に入ってしまうからだった。
 ある日、実験結果をまとめていた彼は、赤ボールペンを探して机の引出しをかき回していたとき、ダーツの矢を見つけた。気分転換のつもりで、彼はその矢を手にとった。最初は人形をのけるつもりだったが、面倒くさかったのでそのままにしておいて、人形に隠れていない部分に向かって、矢を投げた。矢は人形の腕に当たって、落ちた。彼は引出しの中の矢を取ると、また投げた。今度は腹に当たって、落ちた。残っていた三つを次々と投げて、最後の矢がダーツに刺さった。彼ば人形のところまで行って、畳に落ちている矢を拾い、ダーツに刺さっている矢も抜いた。人形に刺さらないのは、柔らか過ぎて、刺さってもはね飛ばされるからだ。上から斜めに刺さると、あるいは引っかかるかもしれないと思って、彼は少し離れて、矢を放物線を描くように投げた。矢は胸の部分に刺さったが、重みで垂れ下がると、ぽとりと抜け落ちた。彼はもう一度、今度はもっと斜めに刺さるように、高めに投げ上げた。矢は鋭角的に落ちてきて、目に突き刺さった。また重みで垂れ下がったが、今度は落ちなかった。彼は近寄って、顔の部分の布が胴に比べて厚いのに気づいた。そして、椅子のところに戻ると、腰を降ろして、人形の顔をめがけて矢を投げた。前より距離があるため、顔に刺さっても、勢いで抜け落ちてしまう。しかし彼は半ばむきになって、矢を投げ続けた。
 彼は腕時計を見た。まだ会って一時間ほどしかたっていなかった。用事を思い出したからと言って、別れようかと思ったが、そうすると自分がこうして一緒にいるのを嫌がっているととられるだろう。そういう別れ方をするのは、まずかった。あくまで旧交を暖めあって別れるというかたちにしたかった。
「まだ、絵を描いてるの」と彼は尋ねた。最も無難な話題のような気がしたからだった。
「気が向いたときなんか、たまにね」と夏子は答えた。彼女は美術クラブに入っていたのだ。
「一度展覧会を見にいったことがあったなあ。あれはいつだった」
「秋です。文化祭の行事だったから」
「あのときの絵は、まだあるの」
「ええ、家に飾ってあるわ」
 ほう、と彼はつぶやいた。だんなが毎日あの絵を見ているのか。
 展覧会場はデパートの隣のビルの三階にあった。受付に夏子の後輩らしき女が坐っており、彼は彼女の目を意識しながら、署名をした。会場は人影もまばらで、二、三人の女の子のグループがちらほら目につく程度だった。
「わたしの作品、どれだかわかります?」
 鍵形になった会場の曲がったところで、夏子が言った。そこだと、全部の作品が見渡せるのである。数にして、三十ばかりある。
「どれ」と彼は絵の下にある題名と名前の書かれた札を見ようとした。
「あ、だめ」夏子は掌で彼の目を隠した。微かに化粧品の匂いがした。
「それじゃ見えないよ」
 しかしそのとき、彼は実に意外な、それでいて十分あり得る想像をして、どきりとした。絵は、ひょっとしたら、この自分の肖像画なのではないだろうか。夏子が手を離し、彼は素早く見回して、肖像画らしきものが四点ばかりあるのを見つけた。
「ねえ、どれだと思う?」
「あれ」彼はとっさに一番色の明るい抽象画を指さした。
「残念でした 」と笑って、夏子は彼の指さした方向とは反対の方へ、彼を引張っていった。彼は腕を取られながら、気持だけはそれに逆らっていた。
「ほら、これよ」夏子は四十号ほどの絵の前で立止まった。
 肖像画ではなかった。小さな花がいっぱい散りばめられた中に、二頭の白い馬がそれぞれの背中に、性別のはっきりしない天使のような裸の人間を乗せて、右上のほうへ駈けていこうとしている絵だった。「Marchen」という題がつけられていた。
「きれいだね」彼はほっとしながら、そう言った。
「ほんと?」夏子がうれしそうな顔をした。
「ああ」彼はこういう絵にふさわしい、かといって、大袈裟ではない言葉を探した。「 ……それに、夢があっていいよ」
夏子はうれしいと言って、喜んだ。彼は目を近づけて、小さな花がひとつひとつ丹念に描かれていることに感心し、そのことを口にした。それは夏子をさらに喜ばせた。
ふたりはそれから、他の作品をゆっくりと見て回り、最後にもう一度、夏子の絵を見て、出口に向かった。受付のところで夏子が後輩の女の子と言葉をかわし、ふたりが出ようとしたとき、三人づれの女たちが入ってきた。
「なつこ、来てたの」とそのうちの髪の長い女が言った。
「あら」と夏子は驚いた顔をした。
「彼?」そう言って、女は無遠慮に彼を見た。彼は体が竪くなるのを感じた。夏子は、恥ずかしそうな笑いを浮かべて、彼の腕をゆっくりと取った。
「いいわねえ、彼とふたりで来るなんて」
「ユッコは?」
「あたしは高校のときの友達をつれてきたのよ」
 後ろにいた二人の女が、夏子と彼に小さくお辞儀をした。夏子も頭を下げる。ユッコがもう一度無遠慮に、まるでモデルを見るような目つきで、彼を上から下まで眺めた。彼は無理に笑おうとし、顔がこわばるのを感じた。
「絵の中の一人は、この人なんじゃないの?」とユッコが夏子にきいた。
「まさかあ」
「そうかなあ。あたし、ぱっと見た瞬間、そうじゃないかって思ったわ。なつこは自分たちのことを描いたなって」
「いやだあ」と夏子は照れたように言って、彼を見た。
「なつこ、ちょっとだけ付合ってよ」とユッコが夏子の空いている腕を取った。そして彼のほうを見て、「なつこ、ちょっとお借りしてもいいでしょ?」と言った。
「ええ」と彼は口ごもりながら答えた。
 夏子がユッコにつれられて、あの絵のほうへ行き、二人の女も彼をちらっと見てから、その後についていった。夏子の絵を見ながら、ユッコが何か言い、夏子が小さく笑った。二人の女にもユッコが何か言い、そして彼のほうを見た。彼は不自然にならないように目をそらし、近くにかかっている絵の前まで体を移動させた。
 絵は山のある風景画だった。彼はその山に視線を固定しながら、みんなが自分を見ていると感じていた。
 彼はカップの底に残っているコーヒーを飲みほした。
「油絵の道具は、まだ昔のやつを使っているのかい」
「ええ」
「部屋の中で絵を描いたら、ご主人に文句をいわれないか。絵の具のにおいって、臭いんだろう」
「そんなことありません」
「自分の部屋があるの? うちの女房なんか自分専用の部屋が欲しいって、いつも言ってるんだけどね」と言いながら、彼は夏子が興味のなさそうな顔をしていることに気がついた。しかし彼は、こういう話から今の話題に移ればという気持から、話を続けた。
「うちは2DKだから、ぼくがひと部屋取ると、あとは寝室で、女房の部屋がないんだよね。そっちはどうなの、部屋数多いの?」
「いいえ」
 どういうところに住んでいるのか尋ねようとしたが、その前に夏子が、「何か注文しません? コーヒーだけで長い間いるから、店員がいやな顔をしているでしょう」と言った。彼は店内を見回して、ウエイトレスの顔を見たが、こちらを見ているものは誰ひとりとしていなかった。しかし彼女の言うことももっともだったので、アイスクリームを注文することにした。
 アイスクリームが来て、夏子はスプーンですくって食べていたが、不意に笑い出した。
「わたし、あの時もアイスクリームを食べたかったのに、言い出せなくって」
「いつの話?」
「ほら、夏休みにわたしがクラブの合宿から抜け出してきて、初めて一晩一緒に過ごしたでしょ」
「ああ」
 七月に入って、大学は夏休みになった。彼は卒業研究の実験のため、帰省するのは八月の二週間と決めていた。
 その月の終りのある暑苦しい晩、外食から帰ってきた彼に電話があった。夏子からだった。
「今晩、どこかで会いません?」
 突然のことで、彼はとっさに返事ができなかった。
「わたし、今、合宿から抜けてきたところなの」
 そこで、ようやく納得がいった。彼女は美術クラブの合宿で、三日間学校に泊まり込む予定だった。そのため、次にふたりが会うのは、合宿の終った次の日と決めていたのだ。
「そんなに勝手に抜け出して、大丈夫なのかな」
「いいの、いいの。みんな、これが楽しみで合宿に参加しているのよ」
 夏子の声はいつもより弾んでいた。
 待合わせの場所に現れた夏子を見て、彼は驚いた。夏子はジーンズにTシャツという姿で、そういう彼女を見るのは初めてだった。
「似合わない?」
 夏子が照れるように言った。
「そんなことないよ。似合うよ。でも、何だか見違えるなあ」
「よかったあ」
 そう言って、夏子が彼の腕を取った。彼はそのことにも驚いた。彼女のほうから、腕を取ったのは初めてだったから。
「食事は?」
「すませてきたわ」
「それじゃあ……踊りに行こうか」彼は頭に閃いた言葉をそのまま口にした。
「賛成」と言って、夏子が頭を彼の肩に押しつけるようにしてきた。
 ディスコの入口でチケットを買い、扉を開けると、人いきれと煙草の匂いがふたりを包み込んだ。ロックのリズムが響いて、ホール全体が鳴っていた。彼は気おくれがした。こういうところに来るのは、初めてだったし、踊り方も知らなかった。夏子も初めてらしく、固い表情をして、彼の腕をしっかりとつかんでいる。それを見て、彼は不思議と気持が落着いてくるのがわかった。
 フロアは薄暗く、ときおり虹色の照明が回ってき、ストロボライトが点滅していた。その中で大勢の男女が踊っている。一角に、そこだけ明るくなっているカウンターがあり、そこで飲み物をもらえるとわかって、彼は行って、水割りを二つ受取った。
 ふたりは空いたテーブルを見つけてグラスを置き、スツールを引寄せて坐った。
 ロックの音が大き過ぎて、とても話はできない。ふたりは何曲かのサウンドが流れる間、フロアで踊っている人の群れを眺めた。
「踊ろうか」
 彼は夏子の耳許に口を近づけて、思い切って言ってみた。夏子が小さくうなずいた。
 一曲が終って、次の曲が始まるまでの短い間に、彼は夏子の手を取って、群れの中へ入っていった。
 始めのうちは、彼も夏子も動きがぎこちなかったが、三、四曲踊っているうちにコツが飲み込めてきた。回りに踊りのうまいカップルばかりではなく、へたなのも混じっていることが、ふたりを安心させた。
 ふたりはそれから休んだり踊ったりしながら、二時間余りもその店にいて、出たのは十一時を過ぎてからだった。
 水割りと踊りで火照った体を寄せ合って、ふたりは夜の歩道を歩いた。夏子の汗の匂いと、Tシャツを通して彼女の体温を感じながら、彼はこのままずっと、一晩中でも歩き続けたい気分になった。快い虚脱感が全身を満たしていた。
 大通りに出たところで、彼は立止まった。夏子が顔を上げる。
「さて、どうしよう。大学へ戻る?」
「ううん、まだいいの」
 夏子が彼の目をじっと見た。彼は不意に動悸を感じた。どうしようと彼は思った。
 ふたりは黙ったまま、歩道を歩き、まだ人通りの残っている繁華街を抜けた。暗い路地を行き、小さな神社のそばを通り過ぎたとき、「※※ホテル入口」という赤い灯の看板を見つけた。
「あそこで休んでいこうか」
 彼はふっと言ってしまった。夏子は彼の腕を握り締めた。
「ディスコを出て、ずっと歩いたとき、わたし、喫茶店を見つけて、アイスクリームが食べたかったんだけど、あなたがどんどん引張っていってしまうから」
「そう、だったかな。きっとあせってたんだろう」
 夏子は大きな声で笑い出した。彼が驚いた顔をすると、「ごめんなさい。何だかおかしくって」と口を押えたが、喉の震えは止まらなかった。
 彼は時計を見た。五時半を回っていた。
「あ、もうこんな時間か」と彼はわざと言い、「そろそろ引上げましょうか」と笑いながら、尋ねた。
「食事を一緒にして下さるんじゃなかったの」
「え?」
「わたし、レストランに予約してあるんです」
「………」
「奥さまがご心配?」
「べつに、そんなことは……」
「わたしが奥さまに、お電話しましょうか」
「とんでもない」と彼は大袈裟に手を振ってみせた。夏子がまた大声で笑い出した。彼はむっとしたが、顔には出さず、「それじゃあ、そのレストランに行きましょうか」と立上がった。
 地下街の階段を上り、地上に出ると、雨だった。彼は傘を持っておらず、夏子がバッグから折りたたみの小さな傘を出そうとした。そのとき夏子が額に指を当てて、彼のほうへ寄りかかってきた。彼は夏子の肩を手で制しながら、「どうしたんですか」と声をかけた。「ちょっと立ちくらみが……」と夏子がつぶやいた。手をかざして飛込んできた男がふたりを見た。彼は中途半端な姿勢のまま夏子を抱きとめていたが、そのとき不意に昔も同じようなことがあったのを思い出した。
 昼過ぎから冷たい雨が降り出し、傘を持っていなかった彼はブレザーの衿を立てて、バス停から走った。そしてアパートにたどり着いたとき、髪を濡らしながら立っている夏子の姿を見つけた。どうしたのと声をかけるよりもはやく、夏子は彼の胸に飛込んできた。彼女は泣きながら顔を押しつけた。彼はうろたえ、そばを通る人々が傘を傾けて、訝しげに見るのを横目で見やりながら、抱きかかえるようにして、夏子をアパートの中へ連れ込んだ。
 彼の頭に最初に浮かんだのは、妊娠という言葉だった。避妊をしたり、しなかったりだったので、夏子が妊娠しても不思議はなかった。もしそうだとしたら、と思うと彼は急に寒気を感じた。
 部屋に入って、乾いたタオルで髪を拭いてやりながら、彼は軽い調子で、どうしたのと尋ねた。夏子はもう笑顔を見せている。
「きのう、ここへ電話したの」と彼女は話し始めた。彼は昨挽、研究室に泊まって、アパートには帰らなかったのだ。「何回電話しても、取り次いだ人があなたが留守だっていうものだから、わたし、いろんなことを考えて、眠れなくて、そうしたら明け方近くに夢を見て、それがあなたと別れる夢だったんです」と夏子は一気にしゃべった。その夢の中で彼女は泣き、目が覚めたら本当に涙が流れていて、そのことに気づくと、夢の中の悲しい気持が甦ってきて、心配でたまらなくなり、八時頃祈る気持でアパートに電話したという。しかし彼はまだ留守で、仕方なく夏子は授業に出たが、どうしようもなく胸が騒ぐので、昼からの講義を休んで、アパートまで来、彼が本当に留守なのを確かめてから、玄関で待っていたのだ。
「あなたが返事もできないほど重い病気にかかっているんじゃないかって思ったわ」
 妊娠でなかったことに、ほっとしながら、彼は「ばかだなあ」と言って、夏子の頭を後ろから抱いた。濡れた髪の匂いがした。彼は頭を抱きすくめたまま、ゆっくりと彼女を倒し、その上に体を重ねた。
 唇を離したところで、夏子が「なっちゃんが見てるわ」とかすれた声で言った。
「え?」
「ほら、あそこ」
 と夏子はドアの方に目をやった。
「何だ、人形か」
「そうよ。わたしの分身だから、なっちゃんて言うのよ」
 彼は微笑し、再び口づけしようとしたが、夏子が「ちょっと待って」と彼の胸を両手で制した。そして彼の体の下から抜けると、立上がって、ドアに近づいていった。
「なっちゃんはいい子だから、向こうを向いててね」
 そう言って夏子は人形を裏返しにした。それを見たとき、彼は不意に鳥肌が立つのを感じた。
 予約したレストランは、夏子の泊まったホテルにあり、歩いて行けた。夏子はフロントに寄らずに、エレベーターに乗った。最上階で降りると、すぐ右手にレストランの入口があり、中に入ると、夏子は黒い制服のウェイターに「田代ですけど、席はどこ」と尋ねた。ウェイターは「少々お待ちください」と引っ込んだが、すぐに予約ノートらしきものを手に戻ってくると、それを覗き込みながら、「失礼ですが、ご予約はいつごろ……」と訊き返した。
「席がないの?」夏子が甲高い声を出した。
「いいえ、そういうわけではございませんが、ただ、こちらのほうに記載されておりませんので」
「わたし、確かに電話したわ。男の人が出て、承知しましたって言ったのよ。間違いないわ。どうしてなの。どうしてそんなことになったの」
 語尾が震えて、もう少しで泣き出しそうになった。彼は驚いて、「どこから電話したの」と声をかけた。
「部屋からよ。チェックインして、すぐに」
「こちらにお泊まりですか」とウェイターが尋ねた。
「そうです」と彼が代りに答えた。
「お部屋の番号は」
 夏子は席のほうに目をやったり、戻したりするだけで答えない。「部屋の番号は覚えてる?」と彼は小声で尋ねた。
「知らない」
「お名前は?」ウェイターが言う。
「田代夏子です」と彼が答えた。
「しばらくお待ち下さい」
 ウェイターが離れていった。夏子は小きざみに足を動かしながら、周囲に目をやっていた。彼は彼女が本当にこのホテルに泊まっているかどうか心配になったが、そのことを尋ねる気にはなれなかった。
 ウェイターが戻ってきた。
「大変失礼をいたしました。どうも私共のほうに手違いがあったようです。すぐにお席をご用意いたしますので、しばらくお待ち下さい」
 少したって、テーブルに案内された。
 彼はステーキを注文し、夏子は舌ビラメのムニエルにした。野菜サラダにスープ、それにオードブルも頼んだ。ウェイターの勧めに従って、ロゼワインのハーフボトルも注文した。生ハムのオードブルがきて、食べようとしたとき、夏子が「あ、そうそう。もう少しで忘れるところだった」と、バッグから小さな紙袋を取出した。そしてその口を開け、中身をテーブルに出した。薬のカプセルだった。夏子はそのうちの色違いのカプセルを二個ずつ、折り取ると、残りを紙袋に戻した。
「何の薬?」と彼は尋ねた。
「ただのビタミン剤」夏子は笑って答え、カプセルの透明な部分を両手の親指で押して、薬をテーブルの上に出した。それを掌に取って、グラスの水で飲んだ。
「ビタミンなんて、わざわざ薬みたいにとらなくても、いいんじゃないの」彼は夏子の太った体に対する皮肉を込めて、そう言った。
「でも、お医者さまが渡して下さるから」
「どこか悪いの」
「いいえ」
 オードブルを食べ終り、スープがきたころ、夏子が気分が悪いと言い出した。それでも彼女は我慢して飲んだが、舌ビラメがきて一口食べた途端、口を押えて立上がった。彼は驚いて、ナイフとフォークを置いた。ウェイターがやってきて、夏子に小声で何か言うと、彼女の肩を抱くようにして、外に連れ出した。つわりじゃないのかと思いながら、彼はステーキを切って、口に運んだ。しばらくして、夏子がウェイターに連れられて席に戻ってきた。少し蒼い顔をしている。
「大丈夫?」と彼は声をかけた。夏子は口に白いハンカチを当てながら、小さくうなずいた。
「薬を飲んだせいじゃないの?」
 夏子はかぶりを振った。
「あれは本当にビタミン剤?」
 夏子はうなずいた。
「どこか悪いんじゃないの?」
 夏子はかぶりを振った。
「つわりじゃないかと思った」彼がそう言うと、夏子は一瞬泣きそうな顔になった。
「お子さんは、一郎くんという名前だったよね」
「ええ」
「いくつだった?」
「……一歳と……七カ月」
「何月生れ?」
「……十月」
「何日」
「……どうしてそんなこと、きくの」
「母親なら子供の生れた日ぐらい覚えているでしょう」
「………」
「何月何日?」
「十月二十六日」
「何時ごろ」
「……そんなの覚えてないわ」
「朝か晩かはわかるでしょう」
「朝よ」
「生れたときの体重は?」
「忘れたわ」
「血液型は?」
「忘れたわ」
 彼はひと呼吸入れ、それからゆっくりと言った。
「子供が生れたっていうのは、嘘じゃないの」
 夏子は目を見開き、その顔が不意に崩れた。
「嘘じゃない。絶対に嘘じゃない。わたしがこの手で抱いたんだから。髪の毛が薄くて、鼻がちっちゃいけど、かわいい赤ん坊で、わたしのオッパイをぎゅっと握ってくるのよ。こんなふうに」
 夏子は着物の袂が舌ヒラメの皿の上にかかるのも構わずに、赤ん坊を抱く真似をした。
「わかったから、もう、やめなさい。袂が汚れるよ」
 しかし夏子は両腕で作った空間を揺するのをやめなかった。
「どうしてこの子を取上げるの。わたし、なんにもしてないのに。わたしがなにをしたって言うの。悪いことなんかなんにもしてないのに。ねえ、一郎ちゃん」
 彼はそのときすべてがはっきりとわかったような気がした。
「変なこと、きくけど、離婚したの?」
 しかし夏子は彼の声など聞こえないみたいに、何ごとかつぶやきながら、空間をあやしていた。
「着物が台無しになるから、もう……」と言いかけて、彼は口をつぐんだ。夏子は泣いているのだった。彼は知らん顔をして、再びステーキを食べ始めた。そのうちつぶやく声が小さな悲鳴のようになり、ついに夏子は舌ビラメの上に突っ伏して、泣き始めた。周囲の客がこちらを見ており、ウェイターが三人集まって、何か話している。
 彼は立上がって、ウェイターのほうを見ずに、レジに行った。しかし誰もいなかったので戻ってきて、最初に案内してくれたウェイターに一万円を渡し、少しためらってから、もう一枚渡した。そのとき椅子か何かの倒れる音がし、そのほうを見ると、夏子が床にうつ伏せになっていた。
 彼はそれに背を向けると、出口に急いだ。「お客さま、ちょっと……」というウェイターの声が聞こえてきた。彼は振返らずに駆け足になり、エレベーターの前を通り過ぎて、階段に向かった。足を動かすのが、もどかしかった。
 卒業研究の発表の日、彼は久し振りに大学に顔を見せた。リハーサルがあるので、彼は研究室に顔を出した。大学院生が驚いた顔で彼を見た。
「今までどこにいたんだ。もう来ないかと思ったよ」と院生が言った。彼は一カ月ほど前に引越しをして、どこにも連絡をしていなかったのだ。引越しをするとき、アパートの大家が怪訝な顔をして、「留年でもされたんですか」ときいたが、彼は笑ってごまかした。
「まあ、いろいろあって……」と彼は苦笑した。
「女?」
「まあ」
「だろうと思った。二週間ほど前かな。ここに女の子がおまえを訪ねてきたんだよ」
「それで、何か騒ぎました?」
「いや、おとなしいもんだったよ。ただ、おとなし過ぎてね……」そこで院生は少し笑った。「部屋のソファに坐りこんだまま、動こうとしないんだよ。おれたちがいくら、連絡を取りますからって言っても、きこうとしないし、おまけに、一言も口をきかないんだから。参ったよ。全く」
 ああ、と彼はつぶやいた。
「夕方までその調子でね。だから部屋を閉めるわけにもいかず、後は守衛のおっちゃんに頼んだけどね」
 午後から発表が始まって、彼は教室に集まった人間の中に、夏子の姿が見えないことに安心していた。順番がきて、彼は登壇し、リハーサル通り説明し始めた。途中でスライド説明が入るため、教室が暗くなる。それがすんで、再び教室が明るくなり、彼が続きを話そうとしたとき、一番後ろの隅に、夏子が坐っているのを見つけた。表情のない顔で、じっと彼を見つめている。声が途端に上ずり始め、彼は自分でも何を話しているのかわからなくなった。口から勝手に言葉が出ていくようだった。発表が終って、質疑応答に入ったが、彼はほとんど答えられず、担当の教授が代りに答えた。
 壇から降りた彼は研究室にも寄らずに、そのまま走って大学を出た。校内を走っているときも、彼は振り返らなかった。いや、振り返れば、すぐ後ろに夏子の追いかけてくる姿が見えるようで、できなかったのだ。彼は方向も決めずに、三月の街を走り続けた。

 

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