昭和五十一年四月十日午前六時五分、父が死んだ。死因はS字結腸癌である。六十三歳だった。
その前年の十月二十九日の朝、ぼくは母から電話を受けた。ぼくはその頃名古屋にいて、大学卒業後も定職につかず、アルバイトをしながら何とか食っていた。金がなくなればバイトをし、金がたまればバイトをやめるといった生活を続けていた。
母の電話は、父が腹の痛みで階段からころげ落ち、入院したというものだった。ぼくは別に驚きもせず、ふんふんと聞いていた。母の初めのニュアンスから、ぼくは階段から落ちたという部分に重点を置いてしまったので、入院の原因が腹の痛みのほうだということが、なかなか飲み込めなかった。母が、癌かもしれないのよと言ったときも、まさかとは言ったものの、そう大して驚きはしなかった。母の言い方が、内緒話をするときのように、楽しそうに感じられたからだ。母もぼくも、そんなことはあり得ないと思っていたからだろう。
ぼくはすぐに大阪に帰った。幸いどこにもバイトに行っていなかったので、その点気が楽だった。
家に帰り着いたのは、正午過ぎだったが、誰もいなかった。店のシャッターは閉まっていたが(母は美容院をやっている)、勝手口が開いていたので、ぼくはてっきり誰かいるものと思っていた。少なくとも祖母はいるだろうと二階に上がってみたが、やはり留守だった。ぼくは何だか嫌な予感がした。
一時間ほどたって、母と兄が帰ってきた。路地を誰かが泣きながらやってきたので、誰だろうと勝手口を見たら、母が入ってきたのだ。それを見て、ぼくは、ああ、癌だったんやなとすぐにわかった。
「まさか自分の家で、こんなことになるなんて、何か芝居を見てるみたいやなあ」
兄がちょっと呆れた口調でそう言った。それはぼく自身にとっても、あまりにぴったりとした言葉だったので、逆に反発を覚えたほどだった。
祖母はさらに一時間後に帰ってきたが、近くの神社に父の快癒祈願に行ってきたということだった。祖母には父の病名は伏せておくということになった。
母は看護婦詰所に呼ばれて、婦長から最初にこう言われたそうである。
「奥さん、これから私が言うことを気をしっかりと持って聞いて下さいね」
それを聞いただけで、顔から血の気が引いて、その場に坐り込んでしまいたかったと母は後で語った。
翌日、午後一時から手術が行われた。五時間かかると聞かされていたが、終ったのは三時過ぎだった。スピーカーで名前を呼ばれたとき、ぼくはあわてた。手術の終るころに母と替わる予定でいたから、何の心づもりもしていなかったのだ。
看護婦詰所に顔を出すと、奥から草色の手術服に手術帽という五十がらみの医者が現れた。そして、すでに手遅れで患部を摘出できなかったこと、腸閉塞の部分をはさんで消化物が通るようにバイパスを作ったことなどを簡単に説明した。聞きながら、ぼくは足が地につかなくなるのを覚えた。大勢の人間の前にいきなり立たされた感じだった。それに、耳に膜がかかったように、医者の声が遠くに聞えるのだ。
医者の説明が終って、ぼくは何か言わなければいけないとあせった。何をどう言ったらよいのか、言葉が頭の中でこんがらがっていた。
「あとどれくらいですか」
思わずそう訊いてしまった。自分でもはっとしたが、どこか他人がしゃべっているような、あるいは劇中で科白をしゃべっているような感じがした。医者は、ん? という顔をしたが、すぐに同じ調子で、半年から一年であることを告げた。
礼を言って看護婦詰所を出て、ぼくは家に電話をした。母が出た。ぼくは医者の説明を伝えた後、「あと半年から一年の命やて。先生がそう言いはったわ」と言った。一呼吸沈黙があってから、「わかりました。すぐ行きます」と母が答えた。
母と入替わって、ぼくは家に帰り、夕食をすませた。八時過ぎに母から電話があり、父が手術室から戻ってくるということだった。病院に行ってみると、父はまだ戻っていなかった。病室は六人部屋で、父のベッドは左側の真ん中だった。九時に病室の蛍光灯が消され、枕許の明かりだけになった。
ほどなく父が戻ってきた。男の看護人二人が移動寝台から、父を抱えてベッドに移し、看護婦が点滴びんをスタンドにつり下げた。父は簡単服のようなぺらぺらの服一枚で、その下は素っ裸だった。しきりに体を震わせていた。麻酔から完全に覚めきっていないのか、うわごとのように、寒い、寒いを連発した。毛布と蒲団をかけると、母は服の下に手を入れて父の体をさすり始めた。ぼくがためらっていると、「早く、さすりなさい」と母が叱った。恐る恐る手を入れて、肌に触れた。父の体は冷え切っていた。素早く手を動かすと、腹部に巻かれた包帯に当たった。父が唸った。ぼくはびっくりして手を引っ込め、それからまた手を入れると、今度はゆっくりと動かした。
夏に帰ったとき、父がうれしそうに、「検査の結果、ポリープやったんや、癌と違って、ほっとしたわ」と言った。ぼくはその時初めて、父がしばしば胃の検査を受けていることを知った。父は、ぼくが知っているものと思っている言い方をしたが、ぼくには初耳だった。あるいは、春にちょっと帰ったとき、聞いたことがあったかもしれないが、全く忘れていた。
「ほんと、それはよかったやん」とぼくはほとんど気にとめず、軽く答えただけだった。
後で聞いたことだが、父は春ごろから体の不調を訴え、近くの私立大学付属病院で検査を受けていたのだ。血の混じった赤黒い便が出るため、胃と腸が疑われた。腸の検査はシロで、次の胃の検査でポリープが見つかった。父は原因が見つかったことで、すっかり安心してしまったらしい。あとは、貧血のための造血剤を飲むだけだった。
実際には、その間にも癌は進行していたのだが、腸癌というのは早期発見が難しいらしい。腸の回りから進行していけば、造影剤を注入してレントゲンをとっても、初期のうちは狭窄部分がないので、見つからないのだ。
父は倒れる日の二週間ほど前、東京で大学時代の友人とゴルフをしている。貧血で体調が悪かったにもかかわらず、約束だということで出掛けた。ゴルフをし、その晩は友人の所に泊まったが、次の日、父の顔色の悪さを心配して、もう一晩泊まっていくように友人が勧めるのを断って、大阪に帰ってきた。腹部の鈍痛と体のだるさに我慢できず、とにかく家に帰らなければと思ったらしい。ひかり号の席がなくて、三時間十分の間、扉の近くでしゃがみ込んでいたという。その時は、一日ほど寝ていただけで、痛みもなくなったので、別に医者には見せなかった。
今、手許に、父が七月に受けた市民健康診断の結果を知らせる葉書がある。血圧とか心拍数、血沈などの項目別に丸でしるしがつけられており、一番下に、「診断」という欄がある。そこには「要注意」という文字が赤い丸で囲まれており、備考欄に「強度の貧血」とこれも赤い字で書かれてある。だが父は何もしなかった。
激痛で倒れたとき、父を診察した開業医は、患部に触ってみて、すぐに癌を疑っている。
「これはひょっとしたら、癌かもしれませんな」と開業医は父の目の前で言ったそうである。手術のあと、父の病名は「慢性大腸炎による腸閉塞」ということになった。それを聞いて、父は、「やっぱり開業医はあかんな。簡単に癌やなんて言うて、人を脅かしよって。やっぱり大学病院で見てもらわんと」と言った。
ぼくと母が一日交替で付添うことになった。兄は会社勤めだし、弟は大学生で京都に下宿しているし、祖母は歳を取過ぎているしで、ぼくと母しかいなかった。父は、ぼくが就職していないため付添いのできることを、ひとつの幸運のように喜んだ。
「娘がいたとしても、嫁にやっていたら、こうはいかへんかったやろ。洋が就職せえへんかったのは、天の定めかもしれへんな」
ある朝、母が交替にきたとき、父が言った。ぼくは、一瞬、父が皮肉を言っているのではないかと思ったが、父がそういう言い方を決してしないことはよく知っている。単に喜びを表現したに過ぎないということは、すぐにわかったが、ぼくにはいささかこたえた。
夏に帰ったときも、ぼくと父は就職のことで言い争った。いや、言い争うというのは正確ではない。父が、説教になるのを極力我慢しながら、話合いをしようとするのに対して、ぼくがだんまり戦術を決め込んだからだ。頭を引っ込めて、風をやり過ごすのに似ていた。父の期待がぼくから弟に移ったことで、ぼくは肩の荷を下ろしていたし、自分で働いて生活してるんやから、大目に見てほしいわというのが、ぼくの最後の拠り所だった。
付添いといっても、大してすることはなかった。手術直後は、輸血やら何やらの点滴が夜中まで続いて、横になることもできなかったが、二、三日すると、朝九時ごろから夕方の五時ごろまでの間に、点滴を三、四回するぐらいになった。小便は直接チューブをつないで、ベッドの横にぶら下げたナイロン袋に出るようになっている。点滴をしている間、何もすることがないので、本でも読むしかない。
一週間ほどして、口から水かお茶を入れてもよいということになった。そして次は重湯、おかゆと、次第に固形物を食べ始めた。おかゆを食ベた翌朝だったろうか、父が突然、出る、出ると言出した。ぼくはてっきり小便だと思って(チューブはすでに取りはずしてあった〉、ベッドの下にある溲瓶を取上げたが、父は恐い顔で、違う、違うと首を振った。蒲団をはね上げ、腰を浮かし気味にした父の姿を見て、すぐに気がついたが、どうしたらよいのかわからない。
うろたえて、看護婦詰所に飛んでいった。看護婦が一人出てきて、ぼくは彼女と一緒に急ぎ足で病室に戻った。だが、遅かった。父は漏らしていて、寝間着の尻のあたりが五センチ四方くらい黒くなっていた。
看護婦は回りのカーテンを素早く閉めると、ベッドの下から、楕円形をしたちりとりみたいなものを取出して、ふたを取り、父の尻の下に差入れた。何回かおならの音が聞え、しばらくすると便の臭いが漂ってきた。
尻を拭いたり、便を捨てたりするのは、看護婦が全部やってくれた。新しい寝間着を出し、看護婦と二人で着替えさせた。シーツも敷蒲団も汚れていたので、それらも取替えた。すべてが終って、看護婦に礼を言うと、彼女はベッドの下を指さし、「下に容器が置いてありますから、すぐに使って下さいね、お父さんの様子に十分注意して。ゆうベ、お母さんには言っておきましたけど」と言った。きのうの晩、母と交替するとき、ぼくは何も聞いていなかった。何かひと言でも言っておいてくれればよかったのに、とぼくは母に対しても、父に対しても思ったが、父はどうやら、ぼくに腹を立てているらしかった。ぼくが素早く処理せずに、看護婦を呼んだことが気に入らないようだった。結果的に粗相をしたのも、そのためだが、ぼくは知らん顔をして、結局はコミュニケーションの不足なんやなとひとりで納得していた。かと言って、不足を補おうという気もなかった。たとえ癌だと言っても、今さらホームドラマの親子の真似事をするのも照れ臭いのである。
だから、ある日、父の従弟のKさんが見舞いにやってきたとき、父が、「今度は、腹を切るようなえらい大病をしてしもうたけど、息子と初めてゆっくり話合いができたことが、唯一の収穫でしたわ」と言ったのには、驚いてしまった。何とも居心地が悪かった。ぼくには、父と話合いをしたという気持はなかった。父に話を合わしているに過ぎなかった。何も、よその人にそんなことを言う必要はないのに、とぼくは腹を立てた。Kさんには父が癌であることを知らせてあったので、ちょっと複雑な表情を見せ、「それはよろしおましたな」とありきたりの返事をしただけだった。
父のベッドの斜め向かいの窓際のところに、Tさんのベッドがあった。Tさんは胃癌で、胃を全部摘出していた。四十過ぎの細面で、ろうそくのような白さに、異様な感じがした。一日中奥さんが付添っており、時たま奥さんの介添えでトイレに行く以外は、寝たきりの毎日だった。奥さんはひっつめ髪で、色が黒く、いつも疲れた顔をしていた。
夫を一日中看病しているという立場が似ているせいか、年齢が割合近いせいか、母と奥さんはすぐに知合いになった。奥さんから、病院内のこまごまとした事柄を教えてもらったらしい。奥さんの家が生活保護を受けているということも母から聞いた。
ある日、ぼくは奥さんとSさんの三人で世間話をしていた。もっともぼくは聞き役に回っていたのだが。Sさんというのは、父の向かいにすい臓の検査で入院している人で、見た目には普通の人と変わらなかった。「癌の疑いがありますねん」とSさんは言った。
「ほんまに、あんたも業が深いなあ」と奥さんが言った。
何のことかわからずに黙っていると、奥さんはぼくに「この人の息子さん、脳性麻痺なんやわ。いくつやった?」Sさんに訊いた。「十二」Sさんは笑って答えた。
「十二言うたら、手のかかる年頃やろ。奥さんも大変やわね。これでもし、あんたが癌やったら、どないなんの」
「先のこと考えてみても、しょうがおまへんわ」
「業やな、ほんまに業の深いことやで」
奥さんはしんみりとした口調になった。業かとぼくは思った。何か釈然としない気持だった。ぼくは、父が癌にかかったことを、業というふうに考えたことは一度もなかった。ただ、事実だけが目の前にあった。業という言葉で、落着いてしまうのがいやだったし、そういうふうに考えてしまう人間の性向に対して、腹を立てていたのかもしれない。
十二月の初めに、父は退院した。自分の体に自信がないのか、最初のうちは退院を渋っていたが、病院にいても家にいても、あとは食事をできるだけとって、体力をつけるだけだからと言われて、ようやく承知した。
退院した当初は、四十度近い熱がでて、父は不安から、病院に戻りたいとだだをこねたが、母はそれをなだめすかした。そのうち、薬のせいもあって、何とか体の状態は安定したが、それでも時々発熱したりした。
一番困ったのは、下痢と便秘が交互にやってくることだった。中間の状態がないのだ。これはおそらく、下痢になると下痢止めの薬を服用するため便秘になり、それで便秘の薬を服用すると下痢になるといったことの繰返しではなかったかと思う。母もそのことには気づいたらしく、二回目か三回目の便秘のときは、薬を用いずに、浣腸で治そうとした。はじめはトイレでごそごそやっていたが、やがて台所に出てきて、床に新聞紙を敷くと、その上に父が尻を出してしゃがみ、母が浣腸した。トイレでは寒いのだった。父は怒ったような顔をしていた。二本も使ったが、便秘は治らなかった。
それでも、父の体は徐々に回復しているように見えた。食事も病院にいるときよりも大分増え、晩は刺身と決まっていた。父が散歩を兼ねて、近くの市場まで行って、買い求めてくるのだった。そして豆乳も。それが朝の日課になった。帰り道はその日の体調によって、遠回りすることもあった。
クリスマスの近づいたある日、父はぼくをつれて、北浜にある三越まで、ゴルフバッグを買いに行った。父が電車に乗ってどこかへ行くというのは、退院以来初めてのことだった。
ゴルフは父が五十歳になってから始めた唯一の趣味だった。はやく体力が元のように回復して、コースに出たいというのが父の念願だったが、おそらく無理だろうと思っていた(事実、コースに出ることはおろか、クラブを振ることもできなかった)。
父は売場でいろいろと見て回り、結局一番派手なワインカラーのバッグを買い求めた。買ったバッグを、ぼくがかついだ。地下の食料品売場から通路に出ようとしたら、父が後ろから、「コーヒーでも飲んでいこか」と声をかけた。
「いや、ええわ」振返ってぼくが答えると、「そうか。そんならここでちょっと休んでいくわ」と父は近くにあったベンチに腰を降ろした。ああ、しんどいのかと思って、ぼくもベンチに坐ったが、かと言って、父をもっといたわらなければならないという気持ちにはなれなかった。変にいたわれば、癌と気づくかもしれないという気持の他に、癌にかかった父に対する漠然とした怒り、つまり、癌にかかったのは、父の責任ではないのかと言いたくなるような気持、それに、癌そのものへの怒り、そういった気持が入り混じって、いたわるという一本の感情にはまとまらないのだった。
何日か後に、神戸から帰ってきたときも、同じようなことがあった。
地下鉄の淀屋橋の駅で、ホームから改札口に上がる階段でのことだった。ちょうど帰宅時のラッシュと重なり、ぼくと父は人の流れに押されるようにして階段を上っていった。ことさらゆっくりと上ることもできず、足許に注意していると、「洋、ちょっと待て」という父の声がした。振返ると、踊り場のところに父がしゃがみ込んでおり、人々が回り込むようにして進んでいた。ぼくは壁際に寄って人波を避けながら、ゆっくりと降りていった。
「痛いの?」とぼくは尋ねた。父は膝頭に頭をのせて、じっとしていた。ぼくは突っ立ったまま、父を見下ろしていた。
人波が去ってしばらくしてから、ようやく父は立上がった。
「大丈夫?」とぼくは尋ねた。
「ああ」
「貧血やろ」
「ああ」
父は怒っていた。ぼくが父をいたわらないで、勝手に階段を上ってしまったことに対して怒っているのか、自分自身に対して怒っているのか、あるいはもっと別の何かに怒っているのか、そのへんのところはよくわからなかったが、怒るのも無理はないとぼくは思った。
父が、自分が癌であることを知っていたかどうかということは、よくわからない。知っていたかもしれないし、知らなかったかもしれない。ただ、ぼくの感じで言えば、最後まで気づかなかったのではないかと思う。 母もぼくも、父が疑いの言葉を口にするのを、聞いたことがなかったし(疑っていても口にしなかっただけかもしれないが)、癌なんてこれっぽっちも疑っていないという情景に何度か出食わしているからである。
父が二度目の入院をして、二週間ほどたったときのことだ。父のふたつ隣のベッドに、胃の全摘出手術を受ける患者が入ってきた。回診か何かのとき、父はそのことを耳にしたのだろう。母に内緒話をするように、小さな声でこう言った。
「あの人なあ、あれは絶対胃癌やで。医者は胃潰瘍で胃を全部取る、言うてるけど、胃潰瘍で全部取るわけないやろ。ほら、**さんかて(と父は昔の大阪市長の名前を上げた)ここで胃癌の手術をしたんやけど、胃潰瘍や言うて、胃を全部取ったそうや。そやから、あの人も胃癌に間違いないで」
母は、おかしいような悲しいような変な気持になったそうである。
また、こんなこともあった。退院して、体力もいくらか戻ったころ、親戚の者が四人ほど見舞いに来た。その人たちには、父が癌であることは伏せてあった。父はセーターとシャツのすそをまくり上げて腹を見せると、ちょっと得意そうに、「ほら、ここですわ」と手術痕を指でなぞった。へその横からまっすぐ下に、二十センチばかりの傷痕があった。
「わたしね、今まで、腸閉塞なんていう病気があるとは、全然知りませんでしたわ。初めね、開業医にみてもうたら癌や言われましてね、心配してましてんけど、大学病院で検査したら、腸閉塞ということになってひと安心ですわ」
父には癌であることを隠していたが、それほど厳密に実行していたわけではない。Hワクチンを打つときにも、母は、これさえ打てばきっとよくなりますと、癌であることをほのめかしたような言い方をしたし、「ガンは必ずなおる」というHワクチンの研究所の発行したペーパーバックが、父の開けるかもしれない引出しの中などにしまわれたりしていた。
一番ひどかったのは、癌になりやすい体質をつくる食品と、なりにくい体質をつくる食品の一覧表が、水屋の開きの裏側に貼ってあったことだ。父も時々開けたりしているので、ぼくはどうしてあんな所に貼っているのか理解に苦しんだ。母に言わせれば、おそらく一般的な注意書きの形をとっているつもりだろう。あるいは、もっとうがった見方をすれば、そういう癌という文字の入った紙をわざわざ見えるところに貼っておいて、父を安心させる。つまり、父はこう考える。もし自分が癌だったら、こんな紙は貼らないだろう、ということは自分は癌ではない。
退院して一カ月くらいは父の体調もよかったが(というより、手術前がひどかったので、症状を取除けば、よくなったと錯覚したのに過ぎないのだが)、それ以後は、一向に快方に向かわない体に、いらいらのしっぱなしだった。だが、そんなときでも、ひょっとしたら自分は癌かもしれないとは思わなかったらしい。
ただ、一度だけ、どきっとしたことがある。それは再入院して、すぐのときだった。昼過ぎに、五分刈り頭の主治医がやってきて、いろいろ話しかけ、患部を手で触ってみたりしてから、病室を出ていった。
そのとき、上半身を起していた父がぽつんと言った。
「ガンや」
ぼくは一瞬に緊張し、どう答えるべきか迷った。仕方がないので、聞えないふりをして、雑誌に目を落していた。
「洋、何してんねん、ガンや」
父が再び言った。ぼくはなおも聞えないふりをしていた。
すると父が怒ったような声を出した。
「そこにあるやないか」
ぼくは頭を上げ、父の視線の方向を見た。ヒーターの上にガウンがあった。あ、ガウンか。ぼくはあわててガウンをつかむと、立上がって、父の肩にかけた。
母がある研究所のHワクチンのことを知ったのは、店のお客さんの話からだった。父が胃腸の検査を受けた私立大学付属病院近くの薬局の奥さんで、その人の姑が乳癌であと三カ月の命と宣告されてから、Hワクチンを打って助かったというのだった。
その奥さんは姑のことがあったせいかどうかわからないが、かなりの医者不信で、癌のことは医者にかてようわかってへんのやから、信用したらあきませんよ、と母に言ったそうである。
母は早速、Hワクチンを打つことに決めた。患者の血清がいるというので、父を最初に診断した開業医に相談して作ってもらった。その開業医は、Hワクチンは眉唾だから、よしたほうがよろしいですよと忠告してくれたが、身近に治った例を聞いているので、母は聞かなかった。母が本当に治ると思っていたかどうかわからない。ただ、できるだけのことはしたいと思っていたことは確かだし、できるだけのことはしたと自分を納得させたかったこともあるのだろう。
兄が勤めを休んで、東京まで血清を持って行くことになった。兄が出かけて三十分ほどたってから、父が一つの封筒を見つけた。中には、薬局の奥さんの紹介状と案内図が入っていた。父は途端に怒り出した。母を呼びつけると、「これ、忘れていったら、薬をもらわれへんのと違うか。それに行先もわからへんやろ。ほんまにお前のすることは、いつもこうや。どこか抜けてるんや」と怒鳴った。母はしまったという顔をして黙っている。父は自分の怒鳴り声によってますます激昂するタイプで、なかなか怒るのをやめなかった。お前のすることはきっちりとしてなくて、いい加減だと、同じことを繰返した。母も最初のうちは、すいません、と謝っていたが、あまりにしつこく続く叱責に、「わたしも一所懸命にやっているのに、そんな言い方なさることはないでしょう。わざとしたわけでもないのに」と涙を見せて、言返した。父はちょっとひるんだが、それでも叱責をやめない。母はとうとう両手で顔を覆って泣き出してしまった。
一階から上がってきた祖母が、二人の間に割って入った。そして父から事情を聞くと、すぐに、「そりゃ、雅之、あんたが悪い。桂子さんは一所懸命やってるんや。店もやらなあかんし、あんたの看病もせなあかん。そやのに、そんなもん忘れたぐらいで怒鳴るなんて、あかんで。謝りなはれ」と言った。父は謝りこそしなかったが、口の中でぶつぶつ言うだけで、怒鳴るのをやめた。
「徹が東京で迷子になっても、わしは知らんからな」
捨てぜりふみたいに父がそう言うと、母は指先で涙を拭いながら、「今から、徹を追いかけます」と言った。
「なに言うてんねん、今から行って、間に合うわけないやろ」
「行ってみなければ、わかりません」
「桂子さん、今から行っても無理や。徹も子供と違うねんから、何とかしますやろ」と祖母も言った。
「だめでも、ちょっと行ってきます。そうしないとわたしの気持がすみませんから」
それまでぼくは黙って成り行きを見ていたが、思わず口をはさんでしまった。
「お母さん、今からじゃ、もう遅いて。それに兄貴かて、行先がわかれへんかったら電話してきよるて」
それでも母は、素早く身仕度を整えると、封筒を持って家を出た。
母はなかなか帰ってこなかった。間に合わなかったのは明らかなのだから、どこかで時間をつぶしているとしか思えなかった。
昼になっても、母は戻らなかった。昼ごはんは店屋物で、すませた。二階で寝ている父も、ときどき下に降りてきて、「桂子はまだか」と言って、店をのぞいたりした。
母が戻ってきたのは、二時過ぎだった。新大阪まで行ったが、兄の姿はなく、仕方なく帰ってきて、あんまに行っていたと言った。さっぱりとした顔をしていた。
「桂子、遅かったなあ。心配したで。もうこのまま帰ってけえへんのと違うかと思たりしてなあ。ほんまに、お前がいてへんかったらあかんわ。よう帰ってきたなあ」
そう言って、父は気弱な笑いを浮かべながら、母を迎えた。言い方がちょっと大袈裟すぎる気がしたが、それよりもそういうことを言わせる父の精神的弱りを感じて、ぼくは驚いた。病気になる前だったら、おそらく怒鳴り飛ばしていただろう。
兄は迷子にもならず、無事に血清を研究所に持っていくと、その夜、大阪に帰ってきた。案内図も紹介状も必要なかった。行く前に案内図をちらっと見た記憶を頼りに、国電のK駅まで行くと、そこからタクシーに乗ったらすぐだったということだった。タクシーの運転手に研究所の名前を言うと、「ああ、ガンの病院ね」と即座に答えたそうである。研究所には癌患者やその家族が大勢詰めかけていたが、癌のことを隠すという雰囲気は全くなかった。というより癌は必ず治ると信じているのではないかと思われるほど、明るい顔にあふれていたという。
「隣のおっちゃんにいろいろ話しかけられてんけど、その人が事もなげに『私は胃癌です』と言うんで、びっくりしたわ。ほんまに、そこにいてたら、癌も普通の病気と変われへんみたいな気持になったわ」と兄は語ったが、それでもHワクチンには懐疑的だったし、ぼくも同様だった。結局は、末期癌患者の、文字どおり藁に過ぎないんじゃないかという気持だった。
一週間ほどして、兄が再び東京へ行き、ワクチンをもらってきた。小さなアンプルが二十本入ったケースが二箱、計四十本あった。これで四カ月分だった。添付の説明書を読むと、三日おきに注射すること、始めの二、三本を打ったときには、発熱、嘔吐、下痢、極度の疲労感等の症状があらわれることがありますが、それは薬が効いている証拠ですから、心配せずに続けて注射すること、ただし、あまりにひどいときは、一時中止することなどの注意事項が書かれてあった。
母は早速、その日から注射を打つことにした。注射器のセットはすでに買い求めていた。ぼくは、母が最初の一本を打つところを見ていたが、父の右腕をとって、アルコールで消毒し、それから、あまりにも無造作に注射をしたので驚いてしまった。ぼく自身、注射を打たれるのは嫌いだし、ましてや、他の人に注射することなど考えただけでも手が震えてしまうが、やはり人間、必死になったら何でもできるもんやなあと、変な感心の仕方をした。しかし、母にとっては、別に必死でも何でもなく、すでに経験済みのことだったのである。
結婚間もないころ、父が肋膜炎にかかったことは知っていたが、そのとき母が注射を打ったというのは知らなかった。
「あのころ、わたしはまだ何も知らない娘だったから、お医者さんの絶対安静という言葉を、その言葉通り真に受けてね、お父さんを寝かしつけたまま、身動きもさせなかったのよ。半年ほどして、ようやく歩いてもよくなったとき、お父さんの歩いたあとに、白い粉が点々とついてるの。何かと思ってよく見たら、体からはがれ落ちたあかだったのよ」
二、三本注射をしても、父には注意書きにあるような症状はあらわれなかった。ぼくはいささかほっとしたが、母は薬が効いていないのではないかと不安がっていた。しかしそれほどがっかりもせず、「必ず治りますからね」と言っては、規則正しく注射をしていた。だが結局ワクチンは効かなかった。父の死んだとき、まだ十本ほど残っていた。
「お父さんがほとんど痛がらずにすんだのは、きっとワクチンのせいだったのよね」
と言って、母は自分自身を慰めた。それだけの効果はあったのである。
十二月の寒さの緩んだある日、祖母が石切神社に出かけた。祖母が石切さんに父の快癒祈願に参るのは、おそらく三十数年ぶりのことだろう。父が肋膜炎を患ったとき、参ったかどうかは聞いていないが、中国戦線で腸チフスにかかって重態だという知らせを受けとったときは、お参りをしている。知らせが来る前に、父が夢枕に立ったという話だ。
父は昭和十二年に東京の私立大学を卒業後、その大学が閥を作っている某財閥系列の会社に入った。その翌年に赤紙が来て、入営し、すぐに中支に送られている。十七年に除隊になり、会社に戻ったが、今度はその会社のシンガポール支店に転勤になった。転勤になって二カ月ほど後に、再び召集令状が来たが、会社が事情を説明して、召集猶予ということになる。
シンガポールではかなり優雅な生活を送っていたらしく、召使いが何人もいたという。社宅のすぐ近くに海があって、その沖で泳いでいると、召使いのひとりが浜で大声を出している。しきりに手招きをして、どうも戻ってこいと言っているようなのだ。どうしてだと思って見ていると、召使いの身振りから、フカが出たということがわかった。そこで父は六尺ふんどしを解いて、股からなびかせながら、急いで泳いで帰ったという(ふんどしをなびかせて大きく見せると、フカは襲ってこないと父は言ったが、ほんとかどうか)。
そのほか、召使いと相撲をとった話とか、銀の食器を安く手に入れた話とか、シンガポール時代のことはよくしゃべったが、中国戦線のことは、ほとんど話さなかった。ぼくが聞いた話といえば、左脇腹から尻にかけて貫通銃創を負ったこと、中国軍に包囲されて死にかけたこと、闇夜の行進で、着剣をやめさせたこと、それに、初年兵訓練のとき、大学卒だというので、よくいじめられたことぐらいである。
中でも中国軍に包囲された話は詳しくて、何かの作戦で父の属する隊に、ある村を占領する命令が下ったのだ。後から援軍を送るということで三十名ぐらいが村に向かった。占領は何なく成功したが、送られてくるはずの援軍がなかなかやって来ない。それに気づいた中国軍は村を包囲して、銃撃を浴びせてきた。ただし、決して村に攻め入ってこようとはしない。こちらに応戦させ、弾を切らしておいてから、攻めてくるつもりなのである。このままではじり貧なので、夜になって伝令を走らせた。次の日の夜、いよいよ弾がなくなり、朝になったら中国軍が総攻撃してくるということで、各自一人ひとりに手榴弾が渡された。自爆用である。その晩、父の頭には、相馬燈のように過去の出来事が流れていったという。
死を覚悟して夜が明けたが、信じられないことには、中国軍の姿は影も形もなかった。そのうち援軍がやってきたが、中国軍はいちはやくその情報をつかんで、撤退したのだ。援軍がこなかったのは、作戦が急に変更になって、援軍のことを忘れていたらしい。「全く軍隊ちゅうとこは、人間の命なぞ屁とも思っとらん」と父は憤慨した。
父の定年退職後の仕事は、貸ビルの経営だった。三宮に祖父の残してくれた土地が二つあって、一つのほうに地下一階、地上四階の小さなビルを建てていた。入居しているのはスナックばかりで、ひとつの階に一店舗、計五店だった。駅の山手側にある飲み屋街で、そういう店しか入らなかった。
もう一つの土地は四十坪ほどで、父のビルの近くにあったが、そこは戦後すぐに不法占拠され、四、五軒の店が営業していた。八年ほど前に、父は明渡し請求の裁判を起し、まだ係争中だった。父の提訴は不法占拠されて十九年目のことで、もう少しで所有権が生れて、明渡し請求ができないところだった。そういう事情もあって、裁判所は和解を勧め、いろいろと調停をしたが、父はどうしても納得しなかった。父に言わせれば、十九年間もただで居坐った挙句( 被告側はなにがしかの金を家賃として裁判所に供託していたが、もちろん父は受取ってはいない)、金を出さなければ立退かないというのは、盗人に追銭だという理屈だった。金をこちらに払って、立退くのが当然であるところを、何もいらない、立退くだけでいいといっているのだ。これが最大の譲歩だと父は息巻いたらしい。それで裁判が長びいた。
母は、早く決着をつけて、新しいビルを建てようと心に決めたらしかった。父が死ぬまでに、そのビルを見せようと思ったのだ。
弁護士に調停に応じる用意があることを告げ、すぐに和解が成立した。ぼくが和解金八百万円を持っていったが、相手側が全員そろわないことがあって、二回も金を持って三宮をうろうろした。税理士に言わせると、和解金八百万は安いということだった。税理士は父に何度も、早く和解に応じたほうがいい、和解金を払うと考えないで、その金で土地を買うと考えればいいと言ったそうだが、父は頑として受けつけなかったという。
父が懇意にしている不動産屋に、母はぼくをつれて相談にいき、建築設計土と建築会社を紹介してもらった。前のビルを建てたときは、地下の階に水が浸み出すなどのトラブルが続いて、父は今度建てるときは別の会社に頼むと言っていたのだ(そのトラブルが父の命を縮めたと母はよく言ったものだ)。
父の従弟のKさんに銀行を紹介してもらい、そこから金を借りるため、他の銀行に預けてあった金を移し、集められる金はみんな集めて預金した。奈良の桜井にあった土地も売払って、預金した。桜井の土地は、いずれ家を新築して引越すために、父が買っておいたものだった。
十一月半ばに地鎮祭をやり、その様子を写真にとって、父に見せた。父は喜んで、建築設計図と写真を交互に見ながら、完成したビルの姿を写真に当てはめたりした。
しかし一カ月ほど後に、基礎工事の写真を見せたときには、もうほとんど関心を示さなかった。そのときはすでに再入院していたが、前の入院のときとは違って、テレビも新聞も見ようとはしなかった。社会的な事柄に対する関心はまるでなくなっていた。
父が退職する前に、会社のどのあたりまで昇進していたか、ぼくは全く知らない。保険関係の仕事をしていたことは知っていたが、ポストについては聞いたことがなかった。出世コースからはずれていたらしいことは、薄々わかっていたし、父も母も、だからポストのことは口にしないのだろうと思っていた。父が出世コースからはずれた理由については、ぼくは性格からくるのだろうと勝手に解釈していた。完璧主義で几帳面過ぎる性格。そういうのはやはり、重役とかの会社の幹部にはふさわしくないんじゃないか、もっと鷹揚に構えているほうが、人が慕ってくるし、出世もできる。ざっとそんなふうに思っていた。それ以外にこれといった理由は思いつかなかった。
ところがそうではなかった。ある土曜日の晩、兄が病院に泊まってくれたとき、ぼくは母と蒲団を並べて寝た。明かりを消して、しばらくして、母が「洋、もう寝た?」と声をかけてきた。いいやと答えると、母は父のことを話し始めた。結婚後すぐに肋膜炎にかかったこと、なかなか子供ができなくて、兄が生れたときは、父が宝物でも扱うようにしたこと、父には興奮してくると、どもる癖があったが、若いときはもっとひどくて、学生時代に一所懸命に矯正したこと。東京の古い親戚が学生であった父を家に泊めた翌朝、父が大声で何かの発声練習をしているのを聞いて、驚いたことがあったという。
そんな話のあとで、母が不意に「お父さんが出世しなかったのはね、お父さんが世話して会社に入れた人が、会社の金を使い込んで、くびになったからなのよ。そういう人間を世話したというだけで、出世コースからはずれてしまったのよ。人を見る目がないってわけね。だからわたしはお父さんが出世できない分、自分で働こうと思って、三十を過ぎてから美容師になったのよ。でないと、洋たちを大学にやることもできないと思って」
あまりにも出来過ぎた話だったので、にわかには信用しかねたが、父の葬式のとき、弔問にきたかつての同僚の人が、似たようなことを話しているのを聞いて、何となくほっとしたことを覚えている。
暮になっても、母はなかなか正月の用意をしようとはしなかった。美容室の仕事が忙しくなるので、いつもなら早目に準備を始めるのに、今度ばかりは、そんな気になれないらしかった。いっそのこと、デパートでおせち料理を買ってしまおうかとも言った。しかし、いつもと同じようにしなければ、お父さんが変に思うんと違うかとぼくが言うと、ようやく腰を上げた。
いつもの年よりも量がいくらか少なくなったが、それでも毎年見慣れている品々が出来上がり、父の発熱もなくて、正月は無事にすんだ。
一月は父の体調がいちばん安定していた時期だった。二月に入って、父は不調を訴え始めた。それまでも、体の倦怠感を口にすることはあっても、しばらく体をさすったりしていると、楽になったようだったが、今度はそうはいかなかった。特に夜がひどかった。体がだるくて眠れないと父はこぼした。居てもたってもいられないほどのだるさだと言うのだ。ぼくらには、その感じは全くわからなかった。末期癌患者には、そういう症状があらわれるらしかった。
ぼくと母と、土曜日には兄も、そしてときには祖母も、父が眠ってしまうまで順番に、父の体をさすった。京都から帰ってきた弟が加わることもあった。
一旦眠った父が夜中に目を覚ますこともあった。いや、そういう日のほうが、はるかに多かったと思う。そんなときは交替で、朝まで体をさするのだ。朝になると、倦怠感がだいぶましになるらしく、昼ごろまでうつらうつらとした。朝の散歩どころではなくなっていた。
父の部屋には、つんと鼻にくる嫌な臭いがこもっていて、いつも、せーのという感じで入らなければならなかった。入ってしまえばすぐに慣れるのだが、出るときは、その臭いから解放されるということで、ほっとした。
ある晩、ぼくはこたつに入っている父をさすりながら、あまりにも眠くなったので、そのままこたつに足を突込んで眠ってしまった。さすってほしければ、父が起すだろうと思ったし、父も眠っているように見えた。
夜中に、父の声で目を覚ました。父は上半身を起していた。おやとぼくは思った。少しは楽になるので、夜はいつも横になっていたからだ。
「いったい、どないなってんのや」
父は独り言を言いながら、太股のあたりを両手で押えていた。
「お父さん、さすったろか」とぼくは言った。
「洋か。起してしもて、すまんなあ」
そのとき、ふすまが開いて、隣の部屋から母が入ってきた。
「お父さん、どうしたんですか。わたしがさすりましょうか」
「すまんなあ、お前まで起してしもて。一体、わしの体、どないなってしもてんやろ。治るやろか」
「治りますよ、きっと治ります」
「桂子、すまんなあ、洋やみんなにも迷惑かけて。ほんまにわしの体、どうかなってしもたわ」
不意に涙声になった。
「もう、みんなに迷惑かけへん。わし、今夜から酒を飲むわ」
父は立上がると、居間のほうへ、ゆらゆらとした足取りで歩いていった。母が父の腕を取って、「あなた、お願いだからやめて。そんなことをしたら、どうなるかわかりません」と引止めたが、父は「ほっといてくれ。わしはもうみんなに迷惑かけたないのや」と振りほどいた。そして、居間のサイドボードにあった客用のウイスキーを取出すと、ストレートグラスに一杯入れて、飲みほしてしまった。だが、しばらくして、父は気分が悪くなり、洗面所で吐いた。母は「もうお酒を飲むのはよしましょうね」と言って、父の背中をさすった。「すまん、すまん」と父は涙声で謝った。
それから一週間ほどして、父は再び入院した。発熱が続いたこと、衰弱し始めたことが、母にふんぎりをつけさせた。病院のほうでは、いつでもベッドを開けておくということだったので、連絡した翌日には許可がおりた。三月の初めだった。
父は入院してすぐに、輸血とぶどう糖液の点滴を受けた。それが効いて、いくらか父の体は回復した。それに、薬を使って眠らせているのかどうかわからなかったが、倦怠感を訴えて眠れないということもなくなった。
父の病室は前と同じ部屋だったが、以前いた人はTさんだけだった。前よりも一層頬がこけ、腕なんかも子供のように細くなっていた。ほとんど物が食べられず、点滴だけでもっているようなものだった。奥さんは相変わらず疲れた顔で、看病していた。二年目に入ったということだった。
炊事場でりんごをすりおろしていたとき、奥さんがやってきて、おかゆを作り始めた。父の具合などをぼくに訊いてから、「うちの人、弱りましたやろ。前はトイレにも歩いていけたのに、今はほんまに寝たきりやからね。こんなん作っても食べてくれへんのやけど」と独り言のように言った。
ぼくはTさんの姿に、父の何カ月後かの姿を見ていた。しかもTさんと違って、父の患部は腸だから、痛みを訴えるのではないかと恐れていた。ある作家が腸癌で死ぬ前に、その痛みはまさに「断腸」という言葉通りだと言ったのを、どこかで読んでいたからだった。
だが、痛みよりも衰弱のほうが意外に早くきて、半月ほどしたら歩けなくなった。再入院時の回復は一時的なものだったのである。トイレに行けないので、ベッドの下に腰掛式の簡易便器を置いておいて、大便のときは、それを引きずり出して使った。使ったあと、消臭剤のスプレーのひもを引張った。
痛みのほうは、ときどき下腹部のあたりを押さえて訴えたが、そのたびに、いよいよやってきたと思って、どきりとした。
四月に入って、父の体がむくみ始めた。医者は腎盂炎のせいだと父には説明したが、どうやら癌が腎臓に転移したらしかった。むくみはどんどんひどくなって、父の人相が変わってしまった。足も丸太のようになった。それで医者は利尿剤を使った。それが効いて、むくみは取れたが、父の体はむくむ前よりも、一層ひどくやせてしまった。
母と交替して、はじめてむくみの取れた父を見たとき、あ、これはだめだと思った。もう近いと思った。それほどひどい姿だった。
四月九日の晩、父が突然、アイスクリームを食べたいと言出した。数日前に母から、父がアイスクリームを食べたと聞いていたから、別に驚きもせず、ぼくは地下の売店まで行って、一番高いのを買い求めた。
スプーンですくって、父の口に入れると、
「うまいなあ」
父は心底うまそうな声を出した。そしてひとカップを全部平らげた。
それから一時間ほどたったころだろうか、消燈にはまだ間のある時刻だった。眠っているように見えた父が不意に目を開けると、
「聡が帰ってきたんと違うか。二階にいてるのは聡やろ」
と弟の名前を言った。ぼくはうろたえた。父が幻覚症状を見せたのは初めてだった。
「お父さん、ここは病院やで。家と違うで」
ぼくは周囲をはばかるように、小さな声で、しかし鋭く言った。父はぼくの言っている意味がわからないのか、ぼんやりとしていたが、すぐに、「ああ、そうか。ここは病院やったな」と言った。幻覚症状のときの顔や様子と、正気に戻ったときのそれとが全く変わらないので、ぼくは恐ろしくなった。
それからしばらくして、父がまた、「やっぱり聡や。帰ってきてるやないか。二階にいてるんやろ」と言った。
「お父さん、勘違いしたらあかんで。ここは家と違うで。病院、病院やで。わかるやろ」
ぼくは前よりも大きい声で言った。
「ああ、そうか。そうやったな」
父はそう答えると、再び目を閉じた。ぼくはそのときふっと、父が幻覚で弟のことを言うのは、ひょっとしたら弟に会いたがっているからではないかと思った。弟に会いたがるというのは、意識下で死期の近づいていることを感じとっているせいかもしれない。ということは、いよいよ危ないのかとぼくは考えた。
十時過ぎに母が交替にきたとき、ぼくは父の幻覚症状のことを話した。弟に会いたがっているのではないかというぼくの考えは話さずにおいた。母は別に驚きもせず、「麻薬のせいと違うのかしら」と答えた。
翌朝、六時前に、ぼくは祖母に起された。母から電話があって、父の容体がおかしくなったというのだった。ついにきたとぼくは思った。同時に体がふわふわ浮上がる感じがした。
兄も起きてきて、ぼくと祖母の三人で病院に向かった。よく晴れた、少しひんやりとした朝で、一日の動き出す気配が至るところに感じられた。タクシーの中で、ぼくは、自分たちだけが別の時間の中を動いているような不思議な感覚に捉えられた。
大部屋のドアを開けると、母の泣き声が聞えてきた。窓際のベッドまでいくと、母が目を閉じた父のそばで、枕に顔を押しつけて泣いていた。母の後ろに立っていた看護婦がぼくたちを見て、ベッドの足許のほうに出てきた。入替わるように祖母が母のそばにいくと、「雅之、雅之」と言うなり、父の腕を押さえて泣き始めた。ぼくは兄と一緒にベッドの足許のところに立って、母と祖母を見ていた。
「すみましたら、詰所のほうまでお知らせ下さい」
看護婦はそう言うと、病室を出ていった。
しばらくして、母の泣き声も間歇的になり、祖母もガーゼのハンカチで涙を押さえるだけになったので、「看護婦さん、呼んでくるわ」と言って、ぼくは病室を出た。看護婦詰所の入口で、「終りましたから」と声をかけると、奥から看護婦が出てきて、「すぐに行きます」と言って、また引っ込んだ。病室に戻りながら、終りましたというのは、一体何が終ったのだろうと考えていた。
看護婦が二人すぐにやってきた。二人は父のパジャマを脱がせると、手早くアルコールで父の体を拭き始めた。それがすむと、今度は耳や鼻、口、それに肛門と、体中の穴に脱脂綿を詰め始めた。目の中にも、閉じているまぶたを引張り上げて、薄くのばした綿を入れた。再びパジャマを着せる。
病室のドアががたついて、移動寝台が入ってきた。手伝おうと行きかけると、斜め向かいのカーテンの陰から、初老の男の人が出てきた。
「急なことで、大変でしたね。お父さんはそんなにお悪いようには見えなかったんですけどね。ほんとにびっくりしました。どうぞお力落しのございませんように」
急に声をかけられて、ぼくはどう答えてよいかわからなかった。
「どうもありがとうございます」とぼくはとりあえず答えた。しかし、ありがとうという言葉には引っかかるものがあった。お悔やみに対するお礼というよりも、父が死んでくれてありがとうというふうに聞えてしまうのだった。
移動寝台を押してきた男の人と一緒に、父の体をベッドから移した。はじめ足首をつかんだら、男の人が、こういうふうにシーツを持ってと教えてくれた。シーツをハンモックのようにして移すのである。なるほどとぼくは感心した。父の体は予想外に重くて、両端を持っただけでは動かない。兄が腰のあたりのシーツを手を伸ばして引張ったので、ようやく移動寝台に移った。
父の体をシーツでくるんで、寝台を押していった。エレベーターで一階に降り、救急病棟の出入口を出た。寝台車がとまっている。また父を移さなければいけないんだなと思ったが、そうではなかった。移動寝台の足が折れ曲がって、父をのせたまま車の中に収まるのである。ぼくはまた感心した。
家に着いて、母が先に蒲団を敷きに入っていった。ぼくはシャッターの降りた店先で待ちながら、隣近所を気にしていた。誰にも、こういうところ、つまり父の死体を運び込むところを見られたくないという気持があった。見られたら、必ず言葉をかけられるだろうし、そうなれば挨拶をしなければならない。それが嫌だった。それに父の死は家族だけの密やかなものという意識があった。だから形を整えるまでは誰にも見せたくないと思ったのだ。
母の合図で、寝台車の後ろを開け、シーツにくるまれた父の体を引張り出した。頭を男の人が持ち、腰は兄、ぼくは足を受持った。路地を入り、勝手口では父の体を斜めにした。二階に上がる階段が、いつもはそんなに感じないのに、重いものを持っていると、えらく急に感じられた。足許を確かめながら、ゆっくりと上っていった。階段から部屋への戸口が狭くて、父の体をかなり立てても、運んでいる人間が通れない。何回かやってみて、最後に男の人が力まかせに頭の部分を部屋に入れた。そのとき父の体から、骨か何かの折れる音が聞えてきた。ぼくは思わず、あかんと叫びそうになった。おやじが痛がる。一瞬そう思った。しかしすぐに、ああ、そうか、痛むことはもうないんやなと気がついた。そうすると初めて、頭の中に浮いていた「父の死」というものが、胸のあたりに降りてきた。
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