おれさま、ボーイ     津木林 洋


 睡眠不足もいいとこ。きょうは九時から八時まで働かなきゃならないのに、よくやってくれるよ、一階の中年ご夫婦は。何の話かって? なあに、ただの夫婦げんかさ、夜中の二時の。くそったれ。
 おれはきのう零時過ぎに、この薄汚ない、狭い、小便のにおいのする、やかましい、半分壊れかけた、畳はぼこぼこの、水道の栓の締まりの悪い、湿気でなま温かくなった空気のよどんだ、その他もろもろのアパートに、酔っ払って戻ってきた。いつものスナックで飲んだあと西山たちが(おれのたちのよくない同僚で、おれはある結婚式場にボーイとして勤めている。きょうは四月に入っての最初の大安吉日の日曜日なのだ)ピンクサロンにいこうぜと誘うのを、馬鹿ばかしいと振り切って帰ってきた。ただでできる冴子ちゃんがいるのに、なんで年増女をさわりにいかなきゃならないの、というのが表向きの理由で、本当は金がもったいないからだ。いや、もったいないなんて、なまぬるい。ずばりいって、おれは金をためることに決めたのだ。つまりは守銭奴指向。一カ月前に冴子と別れたとき、おれははっきりとそう決心したのだ。冴子は何だかんだとごたくを並べたが、結局はおれの稼ぎなんか、たかが知れているということなんだな。わたしはもっと一流会社のエリートか、でなけりゃ青年実業家がいいということなんだな。わかった、わかったよ。そういうことじゃ仕方がない。では、さようなら。とまあ、そういうわけで、おれにはもう冴子なんかいなかったのだが、西山たちには、まだおれが冴子とつきあっていると思わせているのだ。見栄だって? そう、そのとおり。おれのささやかな処世術というわけだ。
 ところで、夫婦げんかの話だが、おれが気持よく眠っていると、窓ガラスの割れる派手な音がして、同時に、鍋か何かが地面を転げ回る音が聞えてきた。そして女の悲鳴。おれはふとんを頭からかぶって、もう一度、眠りにつこうとしたが、男の怒鳴り声や、女の逃げる足音がそうはさせてくれない。しまいに、ふざけたことには、窓の下の路地まで出て来て、おっぱじめるもんだから、たまらない。それでもおれはふとんの中に潜り込んでいたが、それも限度にきて、飛び起きると窓を開けて怒鳴ってやった。「いま何時だと思っていやがるんだ。けんかなら昼間やれ、昼間。この中年の豚野郎」ところが、やっこさんたち、けんかに深入りしていて、おれの声なんか耳に入らないらしい。おっさんがおばはんの首を後から左腕で締め上げ、右手で頭にげんこつを食らわしている。おっさんはデカパン一丁で、おばはんはスリップ姿だ。おれは窓のレールのところに腰を降ろし、さびだらけの手すりに両手をかけて、下を覗き込んだ。両隣も同じような恰好で見物している。向いの家の窓にも明かりがついた。見物人が増えて張り切ったのかどうか、おばはんはおっさんの腕にかみついて、それを振りほどき逃げようとしたが、イテテと腕を振ったおっさんはとっさに無傷のほうの手で、おばはんのスリップのすそをつかんだ。引っ張り合いになり、おっさんが力を入れるとスリップは右肩のひもがちぎれ、胸から裂けた。その拍子におばはんは倒れ、おっさんはその上に馬乗りになる。むき出しの脚が宙をけり上げ、おっさんが顔に張りてを食らわしても、おばはんは暴れるのをやめない。いいぞ、いいぞ、ついでにブラジャーもパンティも取っちまえ。おれはその期待で見ていたが、おっさんはそこまでやる気はなさそうで、おばはんの首根っこを押えて、どうだ、参ったかとか何とか言っている。おばはんは悲鳴ともうなりともつかぬ声で何か言っているが、よく聞こえない。そうするうちに、自転車に乗ってのんびりとやってきた定年間近かの警官が、まあまあと二人の間に割って入った。
 向かいのばあさんの話によると、二人がけんかするのはおばはんの浮気のせいだそうだが、そのとばっちりを食うのはこっちなんだから、たまったもんじゃない。そんなに嫌なら別れりゃいいとおれは思うのだが、そこは夫婦の機微というやつで(とばあさんは言ったもんだ)簡単にはいかないらしい。スナックか何かの店を持つために、おばはんはキャバレーのホステスをやっており、おっさんもだから女房を働かせているのだが、おれが思うに、金がたまったころには、おばはんはその金を持って若い男ととんずらするだろうよ。でなきゃ、夜中に叩き起こされた意味がないぜ、全く。
 というわけで、おれは睡眠不足のままで、ご出勤だ。時間ぎりぎりにボーイの更衣室に飛び込むと、狭い部屋は野郎どもでいっぱいで、朝だというのにもう汗臭いにおいがこもっている。アルバイトの学生どもを押しのけて、おれは自分のロッカーに突進し、三十秒で白いワイシャツに白い上着、黒いズボンに着替え、黒の蝶ネクタイを締めながら、一階下のフロント横のタイムレコーダーまで走っていった。以前は事務室の前にあって、そこでカードを差込んでからゆっくりと着替えをしたものだが、そうすると、着替えるのに三十分もかかるやつが出てきて、課長を怒らしてしまったものだから、ついに現在のように、着替えてからでないと、タイムレコーダーを押せないようにしてしまったのだ。
 八時五十九分。かろうじて間に合う。おれの後からも次々と男どもがやってきて、九時までの一分間に、ざっと二十人はすべり込んだんじゃないかと思う。西山もそのなかのひとりだった。おれは奴から、きのうの話を聞きながら、組合せ表を見にいった。組合せ表というのはその日行われる披露宴などのスケジュールが書かれてあって、それぞれの欄に担当のボーイ長とボーイの名前が記入してあるのだ。だからそれを見れば、自分は何時何分にはどの部屋にいって、どういうことをすればよいのか一目でわかる仕組になっている。
 きょうのおれの担当はすべて結婚披露宴だった。十時から夜の八時まで、全部で四組。ぶっ通しだ。黒服(ボーイ長のことだ)はと見ていくと、十二時半から二時半の担当が、太金になっている。おれはうんざりした。太金とは相性が合わず、やつはおれを嫌っているのだ。理由はおれが冴子を取ったから。冴子は一年ほど前、ウェイトレスの学生アルバイトとしてやってきたのだ。おれと何となく話が合って、それからなるようになってしまったのだが、まさか太金が冴子に目をつけていたとは思いもよらなかった。そのことを聞いたのは、冴子がおれと別れると同時にここをやめたとき、黒服の清水さんからだった。なるほどとおれは思った。いろいろと思い当たることがあったからだ。冴子が来るまえから、おれと太金とは馬が合わなかったから、てっきりそれがちょっとひどくなったものとばかり思っていたのだが、そうではなかった。しかしおれば今ではもう冴子とは何の関係もないのだから、アタックするならどうぞと言ってやってもいいのだが、そんなことをして奴を喜ばすことはない。奴はおれがふられたと思うだろうし(いや、本当にふられたのか、ふったのか)、それがまた奴を喜ばすだろうから。おれは黒服たちの控え室に行った。課長にそれとなく頼んで、太金担当の披露宴だけべつの奴と代えてもらおうと思ったのだ。
 課長はいたが、生憎なことに太金もいて、清水さんらと白い新聞を見ながら、わいわいやっていた。
 課長は事務机のところで、ジンさんと何やら話している。ジンさんというのは、ボーイの中の古株で、三十歳をいくつか越えている。だから本当はジイさんと呼ぶべきところなんだが、どういうわけか、少々なまってジンさんと呼ばれている。黒服になる試験に何回か落ちて、今ではもう諦めているらしい。アメリカへ行くために英語を習っているという噂だった。
「島、何か用か」課長がおれに言った。おれが返事をためらっていると、「おまえもあれか」と課長は太金のほうをあごで示した。いや、べつにとおれは口ごもったが、課長はそれを肯定と取ったらしく、「さっさとすませろよ」と言い、清水さんに声をかけた。白い新聞を見ていた清水さんは、顔をあげて課長を見、それからおれを見た。「おや、島ちゃん、競馬やるの? もうやめたんじゃなかったの?」こうなりゃ仕方がない。千円だけでも買うとするか。一カ月前まではおれも常連だったのだ。土曜と日曜には合わせて、一万円くらい投資していた。しかし当たり前の話だが、もうかるはずはなく、一年間で三十万くらいは損をしていたと思う。金をためようと決心したとき、おれはその馬鹿さ加減に気がついて地団駄を踏み、三日間歯ぎしりしたほどだ。
 おれは太金にちょっとあいさつをし、運だめし、運だめしと言って、清水さんから新聞を受取った。五レースから見ていったが、おもしろそうなのはなく、十レースがいくぶんましという感じだった。レース展開を予想しこれを頭になどと考え始めたが、千円しか買わないことに気づいて、自分でもおかしくなった。3−5、千円。おれは清水さんに千円を渡した。大穴狙いもいいとこだな、と清水さんは言い、太金も馬鹿にした笑いを浮べたが、気にしない、気にしない。
 結局、太金担当の披露宴を代えてもらうことは言い出せずに、おれは控え室を出た。ジンさんも一緒だった。さっきの課長との話では、退職金とか四月いっぱいとか何だかやめる話のようだった。
「ジンさん、やめるのか」おれはきいてみた。
「ああ」
「四月いっぱいで?」
「いや、きょうで」
「きょう?」おれはびっくりした。
「ああ。きょうでここともおさらばだ。全くせいせいしたよ」
「それで、これから一体どうするの? やっぱりアメリカへ」
 ジンさんはおれを見、ちょっと得意そうに「まあな」と言った。アメリカか。おれの頭の中を、ニューヨークの摩天楼が通り過ぎた。
「それで、アメリカでなにするの? ボーイをするのかい?」
「まさかあ」ジンさんは笑った。「カレッジに入るんだよ、カレッジ」
「カレッジ? カレッジって、あの……大学のこと?」
「ああ、そうさ」
 ふーん。おれはうなった。ジンさんとカレッジがどうもうまくおれの中で結びつかない。黒服の試験に落ちる人間がそう簡単に大学に入れるのか、それもアメリカの大学に。おれがその疑問をちらっともらすと、ジンさんは金さえ出せば入れるんだよと言った。アメリカにはコミュニティカレッジというのがたくさんあり、高校卒業の資格と年間五、六十万出せば入学できるというのだ。もっとも留学生は一年間英語を習う課程に入らなければならないが。
「それで、ジンさんはいくら持っていくの」
「三百万」
 おれはまたうなった。おれの現在の貯金の目標額が百万なのだ。一カ月前に、金をためるコツを書いた本を本屋で片っ端から立読みしてわかったことは、手持ちの金が最低百万なければ、何もできないということだった。つまり金が金を生むためには、どうしても百万いる。そのとき即座におれは百万を目標にした。ジンさんはその目標の三倍も持っているのだ。それだけ持っていて、どうしてアメリカくんだりまで行くのかわからない。おれに三百万もあれば、絶対一年で二倍にしてやるのだが。二年で四倍、三年で八倍、そううまくいかなくても、二千万くらいはできるはずだ。
 ジンさんと別れて、クラウンホールへ行くと、「島、どこにいたんだ」黒服の岡村さんに怒鳴られた。おれが手綱を持って馬に乗っている恰好をすると、岡村さんは苦笑して、「きょうはそんなことやってるひまはないんだよ。しっかり頼むぜ、おい」岡村さんも競馬をやっているから強いことが言えない。「オーケー」おれは小さく敬礼の真似をして、仕事にかかった。
 クラウンホールはうちで一番でかい会場で、天井の高さも二階くらいある。そこからきんきらきんのとれまたでかいシャンデリアが縦に三つ並んでいて、パンフレットや宣伝の写真に使われているのがここだ。詰込めば三百人くらい入るが、きょうは二百人だった。丸テーブルが二十いる。バイトのボーイが危なっかしい手つきで直径一・五メートルほどの丸い天板を転がしていた。はめ込み式になっている脚の部分は鉄製で、かなりの重さだ。「朝っぱらから土方仕事だもんな」そう言いながら新谷がひとりで脚を運んでいる。馬鹿力にかけては奴にかなう者はいない。おれも土方作業に加わって、椅子を運んだ。通称ねこと呼ばれる運搬具で、重ね合わせた椅子を十五段ぐらい運ぶには、年季がいる。二十段になるとちょっとした曲芸だ。
「おーい、島」岡村さんがおれをつかまえる。
「佐々木を見なかったか」
「そう言えば、あいついませんね」
「あの馬鹿、遅番と勘違いしてやがるのとちがうか。このくそ忙しいときに」
 岡村さんは腹を立てているが、おれは毎度のことだと思っているので、どうということもない。だいたい一発目のクラウンホールに佐々木を持ってくるのが間違いのもとだ。ということは人割りをした課長がわかっていないということか。
 配置表を手にした黒服の指図に従って、テーブルを並べていく。正面の金屏風の前には高さ二十センチばかりの仮設舞台を持ってきて、その上に新郎新婦、仲人の坐る特別席をつくる。テーブルクロスをかけ、オードブルの皿を置いていき、そのまわりにナイフ、フォーク、スプーン、バターナイフなど合計十本。洋食のフルコースなのだ。そして、ゴブレットやタンブラーなど、グラス類が六個。皿の上に帽子型に組んだナプキンをのせ、テーブルの真中に、花とキャンドルを置く。今回はその他に、グランドピアノの回りに、折りたたみ椅子を三十ばかり並べた。新郎が大学時代にジャズバンドのクラブに入っていたとかで、後輩たちが演奏しに来るらしい。黒服がひとつひとつチェックし、配置表を見ながらナプキンのところに名札を立てていく。それから言い忘れたがウエディングケーキ。特大の二メートルもあるやつ。もっとも中身はがらんどうだから、二人でらくらくと運べる。外側は砂糖を固めて作ってあって、新郎新婦がナイフを入れる部分だけが本物のケーキっていうわけだ。
 時間がきて、客たちがホールに入ってきた。きみはきょうから妻という名のぼくの恋人……てな結婚式専用の歌謡曲が小さく流れている。おれたちボーイは客の椅子を引くために、ホールに散らばっていった。和室係からこっちに応援にきたパートのおばはん連中も、空色の制服を着て、客の応対をしている。パートといっても、十年以上もやっているおばはんもいて、おれなんかよりよほど手慣れている。
 客が全員席につき、ホールが暗くなり、新郎新婦、仲人夫婦の登場となるわけだが、この四人が特別席に坐った時点で、おれたちボーイはホール専用の控え室に引っ込んだ。控え室には佐々木がいて、煙草を吸っていた。
「おまえ、いつ来たんだ。岡村さんが怒っていたぜ」とおれは言った。
「つい、さっき」
「またこれか」おれは右手でオートバイのアクセルをふかす真似をした。
「それとこれ」佐々木は小指を立てた。
「朝帰りか」
「ああ、直接こっち」
 おれは時々、佐々木は女をひっかけるためにオートバイを乗り回しているのじゃないかと思うことがあるが、佐々木に言わせると、ちゃんちゃらおかしいらしい。おれはオートバイが好きで乗っているんで、女なんてひっかけようとしなくたって、向こうから寄ってくるさ。
 オートバイは七百五十ccで、改造してあるらしい。らしいと言ったのは、おれが見てもどこがどう改造してあるのかわからないからで、もし一目で改造車とわかったら、おまわりにつかまるという。佐々木は改造費も入れて百五十万かかったと言った。最初これを聞いた時、つまらんことに金をつぎ込む馬鹿な奴だと思ったが、今は違う。百五十万もためたのは大したことだ。だからその大したことをさせたオートバイというのも、そう、つまらんことじゃないだろうと思うのだ。おれは今、百万以上ためたやつはみな尊敬することにしている。
 控え室のドアが開いて、岡村さんが顔を覗かせ、みんなに向って言う。「あいさん、いろに。覚えておけよ」あいさん、いろに。つまり、挨拶が三人で、色直しが二回。佐々木はおれの影に隠れていたが、岡村さんはすぐに見つけた。「佐々木はまた重役出勤か。そんなことしていたらボーナスなくなるぞ」「もう諦めてますから」「ほう、これはまた諦めいいことで」岡村さんは苦笑しながら顔を引込める。ボーナスといっても夏と暮にそれぞれ一カ月分なので、諦めるなんていえるわけだ。全く一カ月分なんてボーナスとは言えないよ、寸志だよ、寸志。だが袋にはでっかい字で、「賞与」と印刷されている。手っ取り早く金をかせぐには、えらいさんに交渉して、せめて一年で四カ月分くらいのボーナスを出してもらえばいいのだが、なかなかそうはうまくいかない。第一、組合がない。おれがここに入る前に、組合を作ろうという動きがあったそうだが、つぶされてしまったという。活動したのが十人に満たないというんだから、お話にもなにもならない。まあ、こんなところにボーイのままで定年までいようなんて考えているやつは一人もいないだろうし(定年なんてあったのかな)、かと言って、黒服から課長になれるのはほんの一握りだ。あとはジンさんみたいに、途中で消えていくわけだ。うちで五十歳以上の年寄りは、経理のおっさんか支配人、それに料理長くらいのものだろう。
「島ちゃん、シャンパン」厨房の流しのところで煙草を吸っていると、米川のおばはんが声をかけた。金をためるには、煙草もやめたほうがいいのはわかっているのだが、今まで禁煙を五回実行しただけ。最長記録は二日。
 おれは吸殻を空缶に放り込んで、クラウンホールに戻った。挨拶が終りかけていて、他の連中はすでにシャンパンを手に持っていた。おれはあわてて、壁際の台の上にあるシャンパンを取りにいったが、別にあわてることはなかった。挨拶が終りそうで終らないからだ。金魚のふんみたいにだらだらと続いている。このだらだらが曲者なのだ。シャンパンは最後の挨拶が終った瞬間に、一斉にポーンと、音をさせて栓を抜くということになっている。だからおれたちは、挨拶が終りそうになったら、針金で固定したふたを取って、いつでも派手な音を出せるように待機するのだが、シャンパンは冷蔵庫から出して大分時間がたっており、しかもホールが熱気でむんむんしているせいで、中の炭酸ガスが栓を押し出そうとする。それを手で押えつつ、待つものだから、挨拶が終りそうで終らないというのは腹が立つ。たいていのボーイ連中は、いつまでやっているんだ、はやく終れ、この馬鹿、手が持たねえと腹の中で毒づいているはずだ。
 挨拶が終る前に、栓を飛ばすというへマもなく、シャンパンを注ぎ終り、乾杯。その次にウエディングケーキにナイフを入れるというやつ。このとき司会者が、「二人で行う初めての仕事です」とほぼ百パーセント確実に言うのは、どういうわけだ。「結婚式の司会の仕方」という本には、全部そんなふうに書いてあるのか。大体近頃のカップルは、婚前交渉なんか当たり前なんだから、ケーキにナイフが初めての仕事であるわけがない。とまあ、そんなふうに言ってしまえば身もふたもないが、かと言って、奇抜な司会をするというのも問題が多いだろうな。「二人で行う二回目の仕事です」なんて言ったら何だ、何だ二回目とはどういう意味だと真剣に考えるやつがでてくるだろうしね。お仕着せの披露宴にはお仕着せの司会が、やはり一番安心できるというわけか。葬式と結婚式は型通りが最高。なんだかコピーみたいだな。
 ナイフ入れ式が終ると、洋食のフルコースが始まる。オードブル、ポタージュスープ、伊勢エビのクリーム煮、アントレと続くのだが、厨房の中は、おのおのの宴会場から集まったボーイたちでごった返している。特に洋食は大変で、十組のうち半分がそうだから、コックも気が立っている。「クラウンホール、スープ、お願いしまあす」と大声で怒鳴らなければ、大抵の場合、無視されてしまう。クラウンホール担当のボーイはそれでもまだましだ。人数が多いから、コックもそれなりに気を使う。だが三十人ほどの小人数だと、コックもそのへんのもの適当に持っていけといった感じなのだ。それでやっていけるんだから、手に職のあるのは強いねえ。気に入らなければさっさとやめちまう。おれもボーイとしてここに入った頃、道を誤ったかなと思ったね。何しろ二十二、三のコックになりたての野郎でも、おれたちの三倍は稼ぐんだから。でもね、見習いとして入っても、三年は洗い場なんだから、世の中、うまくできているね。そうやすやすとは高い給料はもらえないって寸法だ。うちにも二人いるけれど、パートのおばはん連中に混って、朝から晩まで黙々と皿洗いをやってるよ。
 食べ終った皿を片付けて、ウォーマーであたためた皿を並べ、料理を盛り付ける。それだけの単純な作業なんだけど、みんながみんな一斉に食べてくれるって保証はどこにもないわけで、つまり遅いやつがいるわけだ。特に、じいさん、ばあさん。ターキーが出るというのに、まだスープを飲んでいるなんてのはざらだ。もちろん食べ終えるまで待ってなんかいられないから、次々に料理をテーブルに並べていく。しまいにはテーブルが皿で埋まる。それでも置かなければならないときは、三枚の皿が形作っているわずかな空間に、そっと乗せるわけである。こんなふうに次々に料理を出さなければならないのは(当たり前の話だが)時間が区切られているから。客が食べようが食べまいが、料理を全部出してしまって、時間がくればお引き取りを願って、次の組を迎えなければならない。時々、給仕をしているというより、えさを運搬しているって気分になるときがあるよ、ほんとに。
 途中で、二回、色直しがあった。新婦は白無垢の打掛けからきんらんどんす、ウェディングドレス、新郎は羽織袴、一回飛ばし、白のタキシードと早替りするのである。最後の色直しで新郎新婦が席をはずしているとき、三十人ほどの野郎どもがクラリネットやトランペット、それにエレキギターなどを持って入ってきた。アンプを運んでいるやつもいる。おれはピアノの後ろにあるコンセントから、テーブルタップを引張ってやった。
 タキシードとウェディングドレスの二人が入場してきたとき、そのバンドが演奏した。キャンドルサービスの間もずっとだった。二人が特別席に戻ると、司会者が、バンドに入って一緒に演奏するように言った。二人は照れながら、壇上から降りてきた。新郎はサックスで、新婦はピアノだった。リトル・ポニーという曲(黒服が教えてくれたのだが)を演奏し始めた。サックスソロになって、それまでバンド全体に当たっていた二本のスポットライトが新郎と新婦に絞られた。新郎が背中を丸めてサックスを吹き、ピアノがそれにこたえて鳴る。サックスは途中何回かつまづいたが、何とかソロを終えた。遠くから見てても、汗びっしょりなのがわかった。なるほどこういうふうにして、二人は知り合ったんだなとおれは思ったね。
 バンド演奏が終ってから、例によって両親への花束贈呈になったわけだが、このあたりになると、ボーイのすることといったら、テーブルの花を全部引っこぬいてきて、控え室で列席者全員に配るちょっとした花束をつくること。それに引き出物を倉庫から出してきて(同じ様なのが山ほどあって、これが結構面倒くさいのだ)、お客の足許に置いていくことぐらいだ。
 正午ちょっと前にお開きになった。ぴったりだ。岡村さんのときは、時間をオーバーすることが全くないからやりやすいが、十分、時によっては二十分もオーバーさせても平気な顔のボーイ長がいるから、世の中うまくいかない。お客に花束を渡す役目は、学生のバイトに任せて、おれや佐々木などのプロのボーイ、それにおばはん連中は、お客が全部出ていないのに、皿などを片付け始めた。何しろ片付けて、次の披露宴の準備を整えるのに三十分しかないのだ。片付けに十分、用意に二十分。用意は、次の披露宴担当のボーイがやるわけだ。客が全員出てしまうと、出入口の所についたてを立てて、猛然と片付けにかかった。ただし、おれは片付けると同時に食わなければならない。これはかなり熟練の要することなのである。一日の最終の披露宴なら、ゆっくり食べながら、あるいは堂々と腰を落着けて食べてから、片付けにかかってもいいのだが、何しろ今は時間がない。だからおれ以外の人間は食うことなんか考えずに片付けに専念しているわけだが、おれは違う。おれも一カ月前までは次に披露宴を控えているときに、残飯を食べようなんて思ってもみなかったのだが、金をためようと決心したとき、すぐに、めしはすべて残飯ですまそうと決めたのである。もちろん、ここは昼めしつきなのだが(遅番なら晩めしもある)、それだけでは到底栄養が足りない。それにめしもまずいので、ボーイ長やボーイのうちの何人かは、まかないで食わずに、外に食事にいく。おれも以前はそのくちだった。その金が馬鹿にならないと気づいたわけだ。
 残飯といっても、食べ残したやつではない。手をつけてないやつだ。それが結婚披露宴と他のレストランなどとちがうところだ。一番は花嫁のところ。口のついたのはスープとメロンくらい。あとは大抵そっくり残っている。花嫁ががつがつ食っている姿を見たことは、一度もない。CMふうに言うならば、幸せで胸がいっぱいで、何も食べられないっていうところか。その残ったやつをさぼっているなと思われないように食べていくのがコツなのである。おれの狙い目は、もっぱらサラダとターキー。温っためて出されたものは冷めたら食えないが、これだともともと冷たいまま出されるので、関係ないわけだ。他に伊勢エビもあるが、あれはナイフとフォークがなければ、簡単には食えない。初心者はメロンとかアイスクリームとか、日頃食えないものを狙うが、残飯食いのプロはそんなものは目じゃない。それにもう一つ、サラダを食べるのは、便秘予防という健康の面も考えているわけだ。まかないで出される食事は一汁一菜だから、腹をいっぱいにしようと思えば、自然とめしの量が増える。つまりは便秘になる。披露宴の挨拶が終りそうなのに、トイレを出られないあのつらさ。それを越えると、大抵居直ってしまったものだが。
 酒やワイン、ビールを桶にぶち込む。残飯は残飯で別の桶に放り込む。皿を集め、ワゴンに乗せ、ナイフ、フォーク類をばっかんに投げ入れ、テーブルクロスをひっぺがし、丸めてひとつにまとめる。その間におれは食うわけだが、大体、残飯集めと皿集めの五分間が勝負である。一カ月前にこれを始めたときは、他の連中から、変な目で見られ、「どうしたんだ」ときくものもいたが、腹がへって体がもたないということで押し通した。今では、みんなはおれの癖ぐらいにしか思っていない。
 片付けが終って、次の組のボーイたちが来たところでバトンタッチをし、おれは錦の間へ向った。腹の中には新郎新婦二人分のサラダとターキーが入っていた。サラダは披露宴ではほとんど無視された存在だから、食いっぱぐれることはない。
 錦の間のボーイ長は太金だった。配置表を手に、テーブルの並べかえを指示していた。「おや、島ちゃんもうちの組かい。こりゃ心強い助っ人が現われたねえ」
 いっぱつかまされた。おれは無視して、他の連中のやっているクロス張りを手伝おうとしたが、「島ちゃんにはひな壇をつくってもらおうか」と太金が後ろから声を掛けた。ひな壇とは、新郎新婦と仲人の坐る席のことである。クラウンホールでは仮舞台を持ってきて、一段高いところにひな壇をつくったが、錦の間では、他と同じ高さである。ここが本日のメーンの席ですよと明示するために、テーブルの回りに金色の布きれで、はかまをつける。虫ピンでひだを作っていったが、半周ほどしたところで太金に文句をつけられた。間伸びしているというのである。太金の指摘したところを見ると、なるほどひだの間隔が開きすぎている。急いでやったせいだ。一メートルほどはずして、開きすぎが目立たないように、左右のひだも適当に開けてやる。そのうちまた太金が他のところに文句をつけた。嫌がらせであるのはわかっていたが、おれは素知らぬ顔をして直した。太金は全部やり直させたいらしかったが、そうはいかない。おれは文句をつけられたら、何度でも直すつもりだった。どうせ時間がくれば、文句のつけようがないんだから。
 十二時半になって、客が入ってきた。椅子を引いて全員坐らせると、新郎新婦の入場も待たずに、ほとんどのボーイはまかないに昼めしを食べに走った。挨拶が二つだから、仲人の話もいれて、大体二十分。その間に食わなければならない。まかないは満員だった。十坪もない狭いところだから、二十人も入ればいっぱいだった。中には、めしとおかずを持って、隣の更衣室に行くやつもいる。ごめん、ごめんと言いながら、中に入っていくと「島ちゃん、ここあいてるわよ」という声がする。見ると、友子がはしを上げていた。彼女は本当かどうか知らないが、専門学校でデザインの勉強をしているということで、二年前から巫女のアルバイトをしている。
 まかないのおばはんから、どんぶりめしと、肉じゃがのじゃがいもなしを玉子でとじたやつをもらって、友子のところへいくと、朱色と白の衣裳を押えて、席をあけてくれた。どんぶりと皿をテーブルに置き、みそ汁を取ってきてから腰を降ろした。
「島ちゃん、西脇さんと別れたんでしょ」いきなり言われた。西脇というのは、冴子の苗字である。
「誰がそんなデマ、飛ばしてんの」
「あたし、この前、**で偶然西脇さんに会ったのよ。そのとき彼女から聞いたわ」
 おれは知らん振りをして、みそ汁をどんぶりめしにぶち込んで、口の中に流し込んだ。
「振られたんでしょ」
 おれは玉ねぎと肉と卵のかたまりを、はしでふたつにちぎって口に入れ、みそ汁とめしも詰め込んで、ろくろくかみもせずに腹の中に入れ、茶をひとくち飲んでから、ひとつ大きく息を吐いた。
「彼女とはね、お互いフィフティフィフティで別れたんだから、あんまり変なこと言わないでくれよな」
「振られたのが変なこと?」
「だからフィフティフィフティだって言ってるだろ」
「つまり、円満に別れたって言いたいわけね」
「わかってたらきくなよ」
「ほんとかしら」
 友子は、プラスチックの湯呑を持ちながら、横目でおれをみた。
「めしが終ったら、さっさと他のやっと代れよな。ボーイは巫女さんと違って忙しいんだから」
 友子はおれの言葉を無視して、視線を上に向けていた。
「今度の休み、いつ?」と友子がきいてきた。
「水曜じゃなかったかな。それがどうかしたのか」
「西脇さんと別れたんなら、どうせ暇でしょ。あたしと付き合いなさいよ」
「あ、悪いけど、おれ、ここんとこちょっと忙しいんだ。また今度ね」
 おれは間髪を入れずに答えた。別に彼女が悪いっていうわけじゃない。頭も悪くないし顔もまあまあだ。ちょっと男にしつこいというのが難点だけど。それはまあ男のほうも悪いってこともある。ただ、今のおれは、世の中に酒と女はかたきなり、っていう心境なのだ。もちろん、このあとに、どうぞお金にめぐりあいたいと続くわけだ。きのうの晩、西山たちと飲んだのは、あいつらのおごりだったからだ。ただ酒は遠慮なくいただく。
「もう別の女の子、つかまえたの?」
「まあね」
 嘘をついたのは、彼女に対するいたわりだと思ってくれ。友子は、手が早いのねとあきれながら、席を立って出ていった。おれはその後ろ姿を見ながら、惜しい気がしないでもなかった。デート費用を全額もってくれたら付き合ってもいいけど、それは虫がよすぎるだろうし、いや、ひょっとしたら、オッケーが出るかも、なんて助平根性を起していたのだ。それに、ここ一カ月、女体(と言うと、すごくいやらしい感じがするなあ)に全く触れていないので、たまるものがたまっていたから。だが、一時の欲望でそれまでの努力を水泡に帰するのは愚か者のすることであるという言葉を思い出した。「あなたも金持になれる」という本に書いてあったやつだ。友子はこれまでの努力を水泡に帰す女だと思うことにして、残りのめしを食った。
 錦の間に戻ると、まだ一回目の挨拶の途中だった。しばらく聞いていたが、あまりにも馬鹿ばかしいので、ついたての後ろへ行った。仲間が五人、シャンパンやビール、スープ皿などのったテーブルに尻のはしをかけて、所在なさそうにしている。クラウンホール以外はボーイ専用の控え室というのはないので、ついたてを立てて、その代りをしているわけだ。だが、私語禁止、煙草厳禁で、ただ立っているしかない。おれは食後の一服がしたくて、すぐ横のドアを出て、通路を隔てた厨房の出入口に向った。出入口の右横はクラウンホールのボーイ控え室になっていて、おれが流しに腰をかけて煙草をすっていると、控え室から西山が出てきて、おれを呼んだ。
「見てこい、見てこい。特上だ」
 花嫁のことである。どれどれとおれは吸殻を捨てて、蝶ネクタイを直し、ちょっと前を失礼と言いながら控え室を通って、クラウンホールに入った。ビール腹のおっさんが、手刀を切るような恰好をしながら、熱弁をふるっていた。黒服の清水さんと目が合った。お前、何しにきたという顔をしたので、指でひな壇をさすと、清水さんはちょっと笑ってから、口の形でバカと言った。おれは気にせず、さりげなくひな壇に近づいていって、花嫁を見た。じっくりと観察した。そして、西山の言葉が当たっているという結論に達した。西山の目ははずれていることのほうが多いが、今回は当たりだった。花嫁のあの厚化粧の顔から素顔も美人かどうか見わけるのは、何十回となくだまされた人間でないと難しい。花嫁がグーの場合、花婿はノーグーというのがほとんどだ。逆もまた真なり。悪い方でバランスがとれているというのはしょっちゅうだが。今回もアンバランスだった。おれは、もったいない、もったいないと心の中で叫ばずにはいられない。時間を過ごしすぎたと気がついて、おれはあわてて錦の間に戻ったが、遅かった。シャンパンによる乾杯はすでに終っていて、ケーキにナイフが始まろうとしているのだ。
 太金が怒りをうちに秘めた顔で近づいてきて「どこへ行ってたんだ」と鋭く、しかし小さな声で言った。
「ちょっとトイレに」
 太金を相手に嘘をつくのはしゃくにさわったが、この際仕方がない。
「おまえ、何年ボーイやってんだ。クソにいくなら、時間を見ていけ」
「以後気をつけます」
「よし」
 これで済んだと思ったのが、大間違いだった。七十五人分のスープ皿をひとりで配らされ、おまけに、スープの給仕を四回もやらされた。重いし、熱いしで、しまいには左手がしびれて、客の体にぶちまけないかと冷や冷やしたよ。
 魚料理の皿を配り始めたとき、寺田がバイトの女の子をつかまえて、ぶつくさ文句を言っていた。聞いてみると、女の子が肉料理の皿を持ってきたのだ。寺田というのは、どの職場にも一人や二人は必ずいると思うが、すぐに頭に血がのぼり、怒鳴りつけるという性質を有した人間だ。もちろん怒鳴りつけるのは自分より下の人間、つまりバイトの学生とか女の子、新入りのボーイなどに限られている。特に今つかまっている女の子は、かわいくて、しかも恋人と一緒にバイトに来ているから、余計にいじめられているに違いない。女の子は持ってきた皿をテーブルに置いていこうとしたが、寺田に「返してこい」と怒鳴られて、あわてて両手で抱えた。どうせ次に必要なのだからそのまま置いてもいいのだが、それを言うと、冷えた皿に料理をサーブしろと誰が教えたとくるだろう。おれは女の子の後から部屋を出て、彼女に追いつくと、皿を半分持ってやった。
「だいぶやられたね」
「あたし、ぜんぜん気にしてません」
「えらい」
 ウォーマーの前に腰をおろして、持ってきた皿をしまいながら、おれは魚と肉の皿の違いを教えてやった。魚のほうは肉よりちょっと深くて、ふちの模様が大きいのである。女の子は素直に、はいと言ってうなずき、おれはその目を見ていると、正直言ってムラムラときてしまった。恋人に嫉妬したくらいである。
「彼氏はどこにいてるの」とおれはきいた。
「確か今は、牡丹の間だったと思いますけど」
「二人とも学生でしょ?」
「ええ」
「どうしてバイトなんかしてるの」
「夏休みに二人でハワイに行こうと思って」
 おれはうーんとうなってしまった。いい身分だなと思ったが、もちろんそんなことは口には出さない。
「それで目標金額はどのくらい」
「とりあえず三十万くらいあればいいなあと思うんですけど」
 四、五、六、七の四カ月、二人で三十万。充分じゃないか。おれは途端に腹が立ってきて、寺田、もっとやれと心の中で叫んだ。
「それで、彼氏とはどこまでいってるの」
 おれはせめてもという感じで、意地悪なつもりの質問をしたが、「卒業したら結婚する予定なんです」と軽くいなされてしまった。勝手にしやがれだ。それにしても大学生というのは、つくづくいいご身分だと思うね。生活費はまるまる親がかりで、バイトした金でハワイなんだから。おれなんか、北海道にも行ったことがないもんね。いや、ここ何年も三日以上の旅行なんかしたことがない。今は、百万たまるまで、日帰りの旅行も絶対にしないと決めているからね。おれも親に金があったら絶対に大学に行ってたね。国公立は無理だとしても、私立ならどんな馬鹿でも入れるところはあるからな。まあ、その前に高校に行かなきゃならないけど。高校中退したのはやっぱりまずかったな。あのまま辛抱しときゃ、ひょっとしたら大学に行けたかも。いや、やっぱり無理か。金がなかったもんね、金が。ここに入るときだって、高卒以上というのを、嘘をつくのはいやだから、高校中退と履歴書に書いたら、はねられたけど、一年バイトをして、次の年、高卒と同等に扱うということで、むりやり認めさせたのだ。大体、ボーイに学歴を問うこと自体、おかしいんだよ。要は仕事ができりゃいいんだ。実力だよ。
 肉料理を出し終って、ほっと一息つき、トイレに行ったが、その帰り、ラウンジのところで支配人の娘に呼び止められた。コーヒーを二つ持ってきてというのだ。娘といっても三十五、六で、いつもフラメンコダンサーみたいな衣裳を着ている。それに化粧もダンサーふうなのだ。一度結婚に失敗していて、彼女の相手をすると金がもらえるというもっぱらの噂だった。もっとも、実際に相手をしたやつがいるかどうかおれは知らない。
 おれは喫茶のカウンターまでいって、中にいた吉村にコーヒーを頼んだ。
「あれ、おまえ、いつからこっちに来たんだ」と吉村が言った。
「勘違いすんなよ。カルメンに頼まれたの」
「何だ、何だ。何かあるのか」
「まあな」
 吉村はコーヒーをいれてから、おれが持っていくと言ってエプロンをはずした。そのとき、バイトのウェイターがコーヒーふたつと紅茶ひとつをオーダーしたので、吉村は舌打ちをしながら、コーヒーの入ったカップをふたつカウンターに出した。おれは、おあいにくさまと言ってコーヒーとフレッシュ、シュガーポットをトレ盆に乗せ、持っていった。
 娘の相手はセールスマンのようでメモ用紙に数字を書き込んでは、何か説明していた。おれはソーサーを持ってゆっくりとテーブルに置き、シュガーポットを中間に置いてふたを開け、二人にフレッシュがいるかどうかきいた。娘はノーで、セールスマンはイエスだった。おれはその間、メモ用紙とか、テーブルに置いてあるパンフレットを観察し、金のセールスだということを知った。株よりも金のほうがもうかるようになったのかとおれは思った。去年の夏ごろ、おれが喫茶部に回っていたとき、彼女がカウンターの電話で、証券会社にかけているのを何回か見たことがある。「日立はいくら?」「それじゃ、五万、なりゆきで買いね」などと言うのである。おれは帰ってから新聞で調べてみて、日立が七百三十円もしていることを知った。五万株で三千六百五十万。信用取引としても一千万ちょっとの金がいる。おれはそのころ、まだ金をためようなんて思ってもみなかったから、ただ単純に、あるところにはあるんだなあなんて感心しただけだった。だが今は違う。今は何となく、ムカムカするのである。おれもあれくらいの株の売買ができるようになるぞと奮起する気持と、とてもじゃないがあそこまでいけそうもないやと絶望感に打ちひしがれる気持とが複雑にからみ合うわけだ。
 娘の住んでいるところも、おれをムカムカさせるのである。今年の一月に、おれたちボーイの数人が引越しを手伝ったのだが、そのマンションの豪華さといったらなかった。二階建てになっていて、上下合わせて六十坪くらいはあっただろうか。一階には三十畳ほどの広間があり、吹抜けになっていて、シャンデリアがぶら下がっていた。窓は二重になっていて、サンルームまであった。窓から下に森が見え、視界を遮るものがなかった。軽く一億は越えるだろう。おれたちボーイが運んだ物は本とか調理器具とかの小物ばかりで、家具はすでに入っていた。ヨーロッパのアンティック家具だろうな、きっと。これだけ金があるんなら、運送屋に頼めばいいものをと思ったが、どうやら娘はおれたちに自慢したかったらしい。おれたちは来たときとは打って変って、黙りこくってマンションを出たが、会社のマイクロバスに乗り込むとき、地下の駐車場から、しぶい銀色のメタリック塗装のジャガーが出てきて、バスの前にとまった。中から娘が出てきて、運転手に何かを渡すと、また車に乗って、走り去っていった。家も車も新品にしやがったと誰かが言った。おれたちはその晩、娘からもらった寸志で飲みにいったが、酔い心地は最低だった。全員悪酔いでぶっ倒れたのだ。
 それが今度は金の売買だ。大金持は金の売買で大もうけ、そうでないやつは金を買ってインフレ対策。その差は大きいよ。金が金を生む。あるいは金はさびしがり屋(これは「チャンスをつかめ」という本に書いてあった言葉で、金はさびしがり屋だから、仲間の大勢いる所に集まりたがるという意味)。まずは百万円。ちりも積もれば山となる。千里の道も一歩から。ローマは一日にしてならず。
 花束贈呈で部屋が暗くなり、ひな壇の新郎新婦と反対側に並んだ両親たちに、スポットライトが当たる。新郎新婦が花束を持って近づいていく。会場には、かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた、という例の歌が流れている。新郎は新婦の両親に、新婦は新郎の両親にそれぞれ花束を渡すわけだが、このとき大抵母親と花嫁は泣いている。花嫁の父親も泣くことがあるが、ぐっとこらえているほうが見ている分には面白い。花婿の父親はなぜかウンウンと首を振っているのが多い。おれはいつもの光景を見ながら、心はすでに残飯のほうに向っていたのだが、突然、おねえちゃん行かないでという声がしたかと思うと、坊主頭の中学生くらいの男の子がスポットライトの中に入ってきて、花嫁の胸に抱きついた。ウェディングドレスの花嫁も弟を抱いて一緒に泣いた。会場が静まり返った。おれは弟が泣くという場面に出食わしたのは初めてだった。いささか、くすぐったい光景だった。弟が泣きやみ、しゃくり上げるだけになると、花嫁は弟の頭をなでた。会場から拍手が湧き起った。花束贈呈が終って、スポットライト係の長さんが戻ってきたが、長さんはぼろぼろ涙を流していて、ハンカチでしきりに赤い目を押えていた。長さんはジンさんより年上で、涙もろいことにかけては右に出る者がいない。もう七年もボーイをやっているのに、まだもらい泣きするのだから、感心してしまう。いや、年をとったから余計そうなったのか。
「涙で目がくもって、やりにくかったよお」と泣き笑いの表情で長さんが言った。長さんもジンさんと同じく、何回も黒服の試験に落ちている。もうあきらめているらしいが、ジンさんのようにボーイをやめないのは、結婚式が好きなのかもしれない。
 今回のおれの残飯の狙い目は、メロンとアイスクリームだった。三時も近いことだし、おやつというわけだ。ただ、次の披露宴が和食なので、他のものも食べといたほうがいいかなという気もするのだ。和食というのは種類の割には量が少ないので、当然残飯も少ない。したがって、腹のたしになるものが皆目ないということもあるのだ。だが昼飯を食って一時間半じゃ、いくらおれでも食えない。残飯をポリバケツに片っ端からぶち込んで、それを厨房の中の従業員専用エレベーターの近くまで運び、さらにふた回りもあるポリバケツにぶちあけるのだが、そのとき階段のほうから、誰かの怒鳴り声が聞えてきた。(ここはあるビルの六、七、八階を借りており、鉄扉の向こうに非常階段があるのだ)行ってみると、洋食のコックがきたない恰好のおっさんに何か言っているところだった。相手はどうやら浮浪者のようだった。ふくれあがった紙袋を下げ、破れたチューリップハットを被っていた。
「どうしたん」とおれは聞いた。コックはおれのほうに振り向くと、ちょっと笑ってから「このやろうが、残飯あさりに来やがったんだよ。怒鳴ってやったら、どうせ捨てるんだから、おれに食わせろってくるんだから、まいったよ」
 コックは浮浪者のほうに向き直ると、「あのなあ、これは捨てるんじゃなくて養豚業者に売るんだぜ。だからね、豚に食わしても人には食わさないの。わかったか」
 階段の踊り場にはふたをしたポリバケツが三つ置いてあった。いつもはこんなところに置かないのだが、今日みたいに披露宴の多い日は量が多いので、臨時に置くのである。コックの言う、養豚業者に売るというのはうそで、金を払ってもっていってもらうというのが正しい。
 浮浪者はうつむいてじっとしていたが、コックの「さっさと帰らんかい」という声で、階段を降り始めた。コックは浮浪者が下の踊り場に着くのを見届けてから「今度見つけたら警察に突き出すぞ」と怒鳴って、中に入っていった。おれも一緒に入ろうとしたが、ふと思いついて、まだ下にいた浮浪者に声をかけた。
「おっさん、ちょっとそこで待っとけよ」おっさんはおれを見上げたが、別にうなずきも何もしなかった。かまわず、おれは中に入ると、錦の間に突進して、かろうじて残っていたアントレの皿を、ワゴンの上に乗っていた三十枚ほどの皿の上に乗せ、それを両手で抱えて、厨房に戻った。太金が「残飯を食うなら、ここで食え」と怒鳴ったが、気にしない気にしない。抱えた皿を洗い場に置き、一番上の皿だけ持って、階段のところに戻ったが、下には誰もいなかった。おれは下の階まで降りてみたが、やはり誰もいなかった。階段を上りながら、おれはアントレを手でつまんで食べた。
 錦の間を片付けて、芙蓉の間に急行したが、驚いたことに、準備はすべて終っていた。ウェディングケーキなし、キャンドルサービスなし。料理も、刺身、天ぷら、煮物、つきだし、酢のもの、それぞれ一点か二点ずつ。鯛もなければ、シャンパンもない。しかも、人数が三十人くらいである。早く終って当たり前という感じだ。日高のおばはんと新谷と佐々木が、ついたての後ろで所在なさそうにしていた。佐々木は禁煙を無視して煙草を吸っている。
「今回は遊びですね」とおれは言った。
「たまには息抜きさせてもらわなきゃ。わたしなんか、連続クラウンホールやからね」
 おばはんが大きく伸びをしながら言った。おばはんは勤続十三年のベテランである。
「おばちゃんなんか息抜きせんでも、クラウンホールを通しでできるんと違うの」と新谷が茶化した。
「よく言うね。わたしをいくつやと思ってるの。あんたのお母さんとおんなじ年代やよ。あんたこそ、大きい図体して、若いのに、こんな楽な仕事しとったらあかんやないの」
「柄ばっかりで、足腰が弱いんです」
 新谷がすまして言ったから、おばはんは吹き出した。
「おばちゃんの子供、いくつになるの。確か娘さんがいてたでしょ」とおれはきいてみた。
「十九。それがね、もう結婚したのよ。それも、相手は長男でね」
「そしたら姑と同居?」
「そうなのよ。その他に小姑もニ人いるし、おばあさんが健在でね。わたしはね、何もよりによって、そんな苦労するところに嫁入りしなくても、他にいくらでも縁談はあるって反対したんやけどね。しかもまだ十九歳でしょ。成人式もすんでないのに。そんなに早く結婚なんかしなくてもいいのにね。もうちょっと親らしいこと、してやりたかったわ。ほんとに娘なんて育てても損やわ。嫁にやったらそれで終りやものね」
「そうしたら、うまいこといってないの?」
「それが、うまくいってるのよ。向こうのご両親にもかわいがってもらってね」
「なんだ。それだったら言うことないじゃないか」
「そりゃそうだけど。でも親の気持としては、なるべく楽な結婚をしてもらいたいものなんよ」
「赤ん坊なんかは、まだ?」
「それが、八月に生まれるのよ。この歳でおばあちゃんになるなんて、思ってもみなかったけど」
「ますます結構じゃないの」
 日高のおばはんは照れ笑いを浮かべている。
「女はいいねえ。結婚して子供を生みゃ、それで帳尻が合うんだから」
 新谷が素っ頓狂な声を出した。
「何言ってんの。そんなに簡単なものじゃないよ」おばはんがぴしゃりと言った。
 扉が開いて、黒服の山岸さんが姿を見せた。「さあ、椅子をひいて」山岸さんの後から客たちが入ってきた。おれたち四人は会場に散った。客たちの年齢構成が、いつもの披露宴とかなり違っていた。いつもなら、二十代の新郎新婦の友人から、五十、六十の両親、たまには七十、八十代の年寄りまで、巾広いのだが、今回は四十、五十代の人間ばかりだった。禿頭のおっさんの司会で始まったのだが、新郎新婦の入場というところで、いつものように会場が暗くなった。結婚行進曲も流れ出す。スポットライトの当たった扉が開かれ、黒服がまず現われる。そこまでは一緒だった。ところがこのあとが違う。新郎新婦の二人だけで、仲人がいないのだ。それに新郎新婦といっても、二人とも四十は越しており、男にいたっては、五十前後と思われる。男は羽織はかま、女は白塗りなしのちょっと濃い目の化粧に角隠し、どんすの着物という恰好である。
 三人の行列はテーブルの間を進んでいったが、途中で新郎側のテーブルから何か声がかかり、新郎はそれに手を振って答えた。二人が席につくと、いきなりビールで乾杯ということになり、おれたちはあわててビールの栓を抜いた。挨拶なしというのは初めてだった。
 再婚同士だな、とおれは断定した。どちらかが初婚ならば、とくに女のほうが初婚なら、もっと盛大に、型通りの披露宴をするのが普通である(とおれは思うのである)。白無垢の打掛け、あるいはきんらんどんすの着物を着て、顔には白粉、紅のおちょぼ口。ウェディングケーキにナイフを入れ、シャンパンで乾杯し、キャンドルサービスをして、両親に花束贈呈。というのが初めて結婚する女性が憧れている披露宴なのである(とおれは思うのである)。従って、たとえ男のほうが一度、あるいは何度経験していても、女の夢はかなえさせてやらんといかんなと考えて、盛大になるわけである。
 和食の給仕はいつも簡単だが、今回は特にそうで、吸物と茶碗蒸しを出せば、後はすることがないのである。佐々木は、トイレに行くと言って出ていったきり、帰って来なかった。新谷が、「おれ、さがしに行ってこようか」と言ったが、おれは「ほっておけ」と言ってとめた。
「山岸さんに見つかったら、うるさいぜ」
「なあに、山岸さんだってとっくに諦めているさ。それにあいつだって、時間になれば帰ってくるよ」
「佐々木はいいなあ。やりたい放題やって、大目に見られるんだから」
「そんなこと言うんだったら、おまえもやったらどうだい。誰もとめやしないぜ」
「いや、けっこう、けっこう。おれはまだ、これにはなりたくないからね」
 と新谷は手で首を切る真似をした。
「食えなくなるか」
「そう。世の中、不況だからね。今、クビになったら、おれみたいに学歴なし、手に職なしじゃ、ロクな所に就職できないからね。それにしても、佐々木はクビになるのが恐くないのかね。やっこさんの実家は金持か何かなのか」
「女に食わしてもらえるんだろ」
「お、それ最高。おれの理想だな。女から小使いをもらって、一日中、パチンコとか競馬なんかしてたら、言うことないね。のんべんだらりと行こうじゃないか」
「女に食わしてもらうには、まず女にもてなきゃお話にならない」
「それなんだよね、問題は。体のほうは自信があるんだけどね、夜なんかバッチリよ。でもはっきり言って、顔がイマイチだからね。女は面食いか金食いだから、やっぱりだめか」
「諦めたほうがいいんじゃないの」
「ヒモがだめなら、酒屋の婿養子というのはどうだ。これならヒモより身分が安定しているし、酒は飲み放題だし。そりゃあ仕事はしなければならないけれど、いってみれば力仕事だから、おれにはぴったりだし。ビールの二ケースや三ケースなんて軽いものよ。ほんとにどこかにいないかねえ、酒屋の娘。ブスでもデブでも何でもけっこう。おれは喜んでいくもんね」
 一カク千金を狙わないこと。これは「頭で儲ける」という本に出ていた言葉だ。新谷のいう酒屋の婿養子というのも一種の一カク千金だから、そんなものを狙ってる限り新谷は、金持になれないのは間違いない。儲ける種は足許にころがっている。これも同じ本の中の言葉だがおれの場合はこれだ。具体的に言うと、黒服の試験。今年の十月で、おれがここに入って五年になる。高卒は入社して五年、大卒は三年で、黒服の試験が受けられるのだ。結婚式から披露宴、それから一般のパーティーまですべてが問題になるのだ。コップの名前やテーブルクロスのしき方から、披露宴の進行手順、果ては客をもてなす心構えまで試験に出るという話だ。それを一回でパスするのは少なくて、大抵、二、三回は受けるらしい。おれはそんな呑気なことはしてられない。一回でパスしなければ、みすみす昇給のチャンスを逃してしまうことになる。もうそろそろ受験勉強をしなければならない。
 客たちがカラオケで歌っているとき、扉があいて、課長が顔を見せた。おれはちょっと驚いた。「佐々木はいるか」と課長が言った。
「今、トイレに行ってますけど」おれは嘘をついた。黒服の山岸さんが課長に気がついて、やってきた。
「何かご用ですか」
「いや、大したことじゃないんだが、佐々木が帰ってきたら、あいつのオートバイを移動するように言っといてくれんか。駐車するのに邪魔になるって、管理事務所のほうから電話があったから」
「はい、承知しました。帰ってきましたら、早速、移動させにやらせますから」
 課長が帰ってしまうと、山岸さんはおれのほうを笑いながら見て、「トイレにしては、ちょっと長過ぎるのと違うか、島」
「便秘と違いますか」
「何をとぼけとるんじゃ。さっさと行って、佐々木を探して、すぐにオートバイを移動させてこい」
 おれは会場を飛び出して、一階下の更衣室にいった。コックが三人いて、煙草を吸っていたが、佐々木はいなかった。おれは今度はエレベーターで二階までいき、佐々木のよくいく喫茶店に入った。一番奥のボックスの隅にもたれて、佐々木はスポーツ新聞を読んでいた。
「どうした。山岸さんが何か言ったか」と佐々木が言った
「いや、課長が来てね、オートバイを移動させろって」
「オートバイ?」
「そうだよ。おまえ、一体どこにとめたんだ」
「正面入口」
「どうりで、文句を言われるはずだ」
「どうしてだ。おれ、いつもとめてるぜ」
「何でもいいから、さっさと移動させに行こうぜ」
 佐々木がキーを取りに上がっている間、おれは一階まで降りて、正面出入口に出てみた。プラタナスのそばに確かにオートバイはあったが、それには黒いダブルの略礼服を着た、あんちゃん風の男がまたがっていた。横に同じ恰好をした男が立って、計器類を覗き込んでいた。他にはオートバイは見当たらなかった。おれは近づいていこうかどうしようか迷いながら、じっと立っていた。
 後ろから、あっという声がして、振り返ると同時に、佐々木が横を小走りに抜けていった。おれも後から追う。
「それを移動させますんで、ちょっとごめんなさい」
 佐々木は右手を仁義を切るような恰好にして、またがっている男の尻に近づけた。
「これ、あんたの?」とまたがっている男が尋ねた。
「ええ、そうです」
「ちょっと、これ、乗せてくれない?」
 またがっている男の目の回りが赤い。横の男も充血した目をしている。
「だめです」
「おれ、二輪の免許なら持っているんだぜ。今は持ってないけど、家に帰ればあるんだよ。無免許じゃないからいいだろ」
「ご遠慮申し上げます」
「おまえ、ここの結婚式場のボーイだろ?」と横の男が言った。
「そうですけど」
「おれたちはな、そこの客なんだよ。客がこうして頼んでるんだから、素直に乗せたらどうだ」
「だめだと言ったらだめだよ。ちょっとそこをどいて下さい」佐々木はまたがっている男の腰のあたりを手で押した。
「わかった、わかった。降りりゃいいんだろ」
 男はわざとしているように、ゆっくりとした動作でオートバイから降りた。佐々木は向こう側に回ってキーを差込み、ハンドルのロックをはずそうとしたが、そのとき、横にいた男が、「何だ、こんなもの」と片足を上げて、ガソリンタンクのあたりを力まかせにけりつけた。佐々木は思わず飛びのき、同時に、車体がゆっくりと傾き、金属のこすれる音とともに倒れた。
「ざまあ見ろ」
 佐々木は一瞬の間、呆然と倒れたオートバイを見ていたが、すぐに、行きかけた男たちに声をかけた。
「ちょっと待ってくれや」
 オートバイを倒した男が、首だけ振返った。
「これ、起こしてくれないか」
「自分のバイクだろ。自分で起こせよ」
 佐々木は走っていって、男の右肩をつかんだ。やばいとおれは思った。上に知らせるべきか、佐々木をとめるべきか迷った。
「何しやがる」男は佐々木の腕をはじき飛ばした。
「おまえが倒したんだから、おまえが起こす義務があるんだよ」
「知るか」
 もう一人が近寄ってきた。「行こうぜ」「ああ」
 行きかける男の左腕をつかんで、「だったらあやまれよ」と佐々木は言った。
「しつこい野郎だな」男は佐々木の手を振りほどいた。佐々木は素早く男の襟元に指を突込むと、「こうやってあやまればすむことなんだよ」と怒鳴って、男の首を下に引張った。男の上半身が前に倒れ、佐々木が指を抜くと、男はのどが詰まったのか、しきりに咳をした。
 佐々木はその様子を見てから、オートバイのほうに戻ってきたが、そのとき男が、姿勢を低くして突込んできた。佐々木は気がついて振り返ったが、腰の辺りにまともにタックルを受け、二人とも歩道に倒れ込んでしまった。佐々木は目を閉じて、後頭部を手で押えている。おれは驚いて近寄ろうとしたが、その前に、失神しているはずの佐々木が起き上がりかけた男の顔面にけりを入れた。男はあお向けにひっくり返った。鼻血が出ている。もう一人の男が駆け寄ってきて、男を起こした。男は頭を振ると、鼻の下を指でこすった。白いシャツに赤い点々がついている。二人はたがいに二メートルぐらい離れて、佐々木に近づいてきた。「やめようぜ。な、けんかはやめようよ」おれは思わず中に入ってしまった。「うるせい」鼻血の男がすごい剣幕で怒鳴った。おれはすぐに引っ込んだ。佐々木は二人を相手にするらしく、プラタナスの木を背にして、近づいてくる男たちを交互に見た。
 こりゃやばい、おれは急いで上まで取って返し、ちょうどまかないから出てきた吉村を引張って、下にもどった。黒服をつれていくのはまずいし、もっと大勢を呼んで騒ぎになるのは、もっとまずい。二人でいって、もしけんかになっても、三対二でこっちが有利だ。とっさに計算が働いたのだ。
 ところが、正面玄関に出る前に佐々木が入ってきた。佐々木は、左の頬をハンカチで押えていた。「あいつらは?」おれがきいたが、佐々木は答えずに「ちょうどよかった。手伝ってくれ」と玄関のほうへ戻っていった。おれと吉村はその後を追って外へ出てみたが、けんか相手はどこにもいなかった。
「いつもなら、おれ一人で上がるんだけどね」と言いながら、佐々木は左手で倒れているオートバイのハンドルをつかんだ。頬が切れているのが見えた。三センチくらいで、端から血がたれていた。それに頬骨のあたりが青黒くふくらんでいる。おれと吉村は顔を見合わせたが、何も言わずにオートバイを起こすのを手伝った。佐々木が一人で乗っていくものとばかり思っていたが、そうではなく、「押してくれ」と言う。おれたちは荷台を押したが、どうも佐々木の右手はおかしかった。左手はハンドルをしっかりと握っているのだが、右手は掌底を当てているだけだ。
「右手、どうかしたのか」とおれはきいてみた。
「ひびが入っているみたいだな」佐々木は他人事みたいに言った。
「殴ったのか」
「きれいに腰が入ったからなあ」
「相手がかわいそう」と吉村が笑った。
 オートバイを駐車場の隅にとめて、おれたちは上にあがった。吉村にいま見たことを誰にもしゃべらないように念を押してから、おれは佐々木と更衣室に行った。佐々木は血のついた上着とズボンを着替え、顔を洗い、頬の傷にバンドエイドをはったが、頬骨のあざは隠しようがなかった。芙蓉の間に戻ると、案の定、新谷が気づいて、わけをきいてきた。佐々木が本当のことを言いそうだったので、おれはとっさに、オートバイが倒れてハンドルがぶつかったんだと嘘をついた。そのとき右手も痛めてねと、ついでに付け加えた。「早退のチャンスじゃないか。休め、休め」と新谷が言った。「何なら、おれが課長に言ってやろうか」佐々木は笑って手を振った。
 日高のおばはんも佐々木の頬を見とがめて、わけをきいた。新谷が説明すると、おばはんは「そんな顔やったらサーブでけへんやないの」と言い、ええ方法があるわと部屋を出ていった。しばらくして戻ってきたが、手に小さなバッグを持っていた。化粧品入れだった。おばはんはそれをテーブルに置くと、中から丸や四角のケースを取り出し、いやがる佐々木をむりやり立たせて、あざの目隠し作業をした。結構目立たなくなった。「たまには役に立つんだなあ」と新谷が言うと、おばはんは奴をにらみつけた。
 披露宴後の残飯狙いは刺身と天ぷらだったが、手のついてないのは全くなかった。ひな壇にさえないのだからあとは推してしるべしである。さめててもいいからと、茶碗むしをさがしたが、これも無駄だった。もうすぐ晩めしだというのに。おれは身の不運をなげいたが、いやな予感が的中した恰好だった。佐々木は左手だけで片付けをしており、おれが「早退したほうが、いいんじゃないの」と言うと、「きょうみたいな日に早退したんじゃ何を言われるかわからないからな」と笑って答えた。
 次はいよいよ本日の最終、再びクラウンホールに戻ってきた。黒服は尾長さん。次期課長候補の筆頭だ。今の課長よりも、よほど人間ができている(とおれは思っている)。滅多なことでは怒らないし、かといって甘いというわけでもない。一言いうだけで、自然に人に仕事をさせてしまうという人徳というか、まあそういった力を持った人だ。それにアルバイトできた女子大生と大恋愛で結ばれたというのは、有名な話だ。
 ボーイ連中には、ジンさんや西山がいて、寺田にいじめられていた女の子も恋人と一緒に入っていた。どうしてわかるかって? そりやわかるさ、何をするにもサクランボみたいにくっついているんだから。
 テーブルクロスを一緒に張っていた西山がピンクサロンにしつこく誘う。おれが断わると、競馬で当てたんだからいいじゃないかと言う。おれはびっくりした。「おれはなにもしらないぜ」「あれ、清水さんにきかなかったのか」「いいや、それでいくらだった」「五千円はついたみたいなこと言ってたなあ」というと……五万円! ついてる。刺身も天ぷらもくそくらえだ。「だからピンサロにいこうぜ。たまにはパーッと発散させなきゃ体に毒だぜ」「何のことだ」「彼女とは別れたんだろう」友子の奴がしゃべったのだ。「次のがいるから、ご心配なく」「強がりは似合わないぜ」
 客の入場が始まる。おれは椅子引きもそこそこに控え室に引込み、組合せ表を見て、清水さんのいる紫苑の間に急いだ。紫苑の間では、まだテーブルセッティングの真最中だった。いろいろ指図している清水さんをつかまえて馬券のことを尋ねると、「そうそう、おまえのこと探していたんだよ」とポケットから特券を一枚出して渡してくれた。配当は五千三百七十円だった。「このレースは大当たりでな。和食の三平なんか特券十枚取りやがった」三平というのは板前である。しかも二十歳そこそこだ。それが一レースで五十万以上も。大体職人はおれたちとは賭金が一桁ちがう。ようし、おれもこの五万をもとでにいっちょう、とついふらふらと考えてしまったが、すぐに自分の頭をたたいた。賭事はパンドラの箱であるという言葉がある。確か「新利殖術入門」という本に書いてあった。正確なところはわからないが、賭事をやっていたら、絶対に金はたまらないという意味に違いない。パンドラ、パンドラとつぶやいて、おれはもう一度頭をたたいた。
 まかないにいって晩めしを食べた。五万円のせいで、気分よくのどを通った。他の連中はくたびれた顔をしていたが、おれはまだまだ元気だった。目的を持った人間は決してへこたれない。これは金もうけの本ではなくて別の本で読んだ。名前は忘れたが。クラウンホールに戻ったが、まだ挨拶をやっていた。控え室には十人以上のボーイがテーブルに腰をおろしたり、煙草を吸ったりしていた。その中におれの知らない顔が二人いた。二人は連れのようで、隅のほうで何やら話をしていたが、学生アルバイトにしては老けているし、新入りはこの前まとめて入ったばかりだし、おれには見当がつかなかった。
 おれは二人のそばまでいって、「お宅ら、きょうが初めて?」と声をかけてみた。「ええ」「学生?」二人は笑った。「いいえ、ただのサラリーマンですよ」「それじゃ、休みの日だけバイト?」「ええ」話を聞いてみると二人とも住宅資金をつくるために、日曜日も働いているという。隔週で土曜日も休みだが、その日は休んでいるという。月二回だけの休み。以前は倉庫の出荷係をしていたが、体がえらいのでここに移ってきたらしい。「ここも結構えらいでしょ」と言うと、「まだましですよ」という答えだった。実を言うと、おれもこの一カ月間の四回の休みのうち、三回も仕事を探しに出かけたが、実際に働けたのは、印刷機の紙送りというその日払いの仕事だけだった。切手のセットを売り歩くというセールスマンみたいなやつがあったが、どうもねずみ講らしくて応募したら、いきなり、三十万出して主任にならないかときた。すぐに十倍にはなるという。うまい話には気をつけようという言葉どおり、おれはただちに椅子をけって外に飛び出した。うさんくさくなくて、もう少し実入りのいい仕事では、ゴルフ場でゴルファーのスイングを分解写真でとって、それを売りつけるというのがあったが、車があったほうがいいというのと、土曜日曜がかせぎどきだというので諦めた。土日に休めるわけがない。大体休みの日も一定してないのに、働けるわけがないとふてくされてしまったわけだが、この二人を見ていると、これじゃいかんという気になった。今度の水曜日仕事を探しに出かけることに決めた。
 そろそろ挨拶が終りそうだというので、ホールに出てシャンパンの準備をしていると、課長の呼び出しがかかった。それも黒服の控え室ではなくて、事務室に来いというのだ。おれは尾長さんに断ってから、事務室に向った。事務室なんて、給料をもらうときにしか入ったことがない。
 おれはドアをノックして、ゆっくりと入っていった。四つの机はきれいに整頓されていて、誰もいなかった。応接間のほうから、何やら話している男の声が聞えてきた。「島か」課長の声だった。「はい」応接間には佐々木もいて、課長の横に立っていた。課長は部長と一緒にソファに腰をおろしており、向かいのソファには男四人が窮屈そうに坐っていた。四人とも略礼服だった。こっちを振向いた顔で、中の二人は佐々木のけんか相手だとわかった。一人は目の上をはらしており、もう一人は頭に包帯を巻いていた。ソファの向こうには、留袖を着た中年の女が椅子に坐っていた。けんか相手の親が怒鳴り込んできたのは明らかだった。
 課長の説明によると、けんか相手は白菊の間で披露宴のあった組の新郎のいとこということだった。おれは課長の求めに応じて、玄関で見たことを話しはじめたが、包帯野郎がオートバイをけり倒したところまでくると、「おれは倒してないぜ。軽くけっただけだ」と包帯野郎が反論した。そっちがその気ならというわけで、佐々木が野郎の襟首に指を突込んで引張ったことを、ネクタイをつかんで軽くやったように言うと、「違う、違う、こいつがここへ指を突込んで、むりやり下に引張りやがったんだ」と包帯野郎が自分の襟首に指を突込んだ。隣の父親が男をたしなめた。
「島くん、話はもうそれくらいでいい」と部長が口を開いた。「佐々木くんにもう一度きくが、どうしてお客さまをオートバイに乗せてあげなかったのだ」佐々木は全く答える素振りを見せない。「そりゃ無理ですよ。二人とも酒のにおいがぷんぷんしてましたから」とおれが代りに答えた。「ぷんぷんするほど飲んでないよ。ほんのちょっとだ。でたらめ言うな」とこぶ野郎が怒鳴った。「それで部長さん、どうしてもらえますかね。ここでらちがあかなけりゃ警察にいかなきゃ仕方がないですが」
 どこかの会社のえらいさんふうの父親が、ゆったりとした口調で言った。
「いや、いや、お客さまに暴力をふるったのは事実ですので、そういう意味で、非は全面的に私共のほうにあるわけです」と部長はテーブルに両手をついて、軽く頭を下げた。「それでは、こういうことではいかがでしょうか。私共がお宅さまがたに見舞金をお支払いする。それに問題を起こしたこのボーイはくびにするということで」
「ま、そこまでおっしゃるんなら、私共のほうも事を荒立てるつもりはありませんので」
「佐々木くん、やめてもらうよ。わかったね」部長が有無を言わさぬ口調で言った。
「退職金の折合いさえつけば」佐々木がはじめて口を開いた。それも何食わぬ顔で。部長はきっとした顔になり「そんな話はあとだ。とにかくやめてもらう」と言い放った。おれは腹が立ってきた。だいたい悪いのは向こうのほうなのだ。それを、警察にいかれたら困るもんだから、ペこペこしやがって。親だって、自分たちの馬鹿息子のほうが悪いことぐらい百も承知しているはずだ。でなけりゃ、見舞金くらいで承知するわけがない。そのへんのところは部長もわかっている顔つきだ。それなのに佐々木にみんな押しつけやがって。客をオートバイに乗せなかったのが悪いだって? 馬鹿野郎、オートバイは佐々木のものなんだ。奴が自分のものをどうしようと、奴の勝手じゃないか。そんな理屈もわからないで、よう部長づらしていられるな。佐々木も黙ってないで、何とか言えばいいのに。退職金うんぬんは結構きいたけど。
「さあ、二人とも、こちらに謝りなさい」と課長が言った。何だって。こぶと包帯野郎が笑った。
「島は関係ないでしょう」と佐々木が言った。
「だったら佐々木、おまえだけでも謝れ」
「おれはもうここをやめるんだから、あんたの言うことなんか聞く必要ないね」
「もう、いいから出ていけ」部長が怒鳴った。おれと佐々木は応接室を出たが、すぐに「近ごろの若いものは礼儀を知らんもので……」という部長の声が聞えてきた。佐々木が声を出して笑った。
「やめる必要なんかないぜ」事務室を出てから、おれは佐々木に言った。「向こうのほうが悪いんだから」
「そのへんは部長もわかってるさ。ただ、おれをやめさせる口実が欲しかったんだろう」
「口実?」
「ああ。今までにもいろいろ圧力があったからな」
「そんなのがあったのか」
「まあ、模範的ボーイとは言いがたかったからな」
「それでどうする。やめるのか」
「相手の出方次第だな」
「その右手が治るまで、やめないほうがいいぞ」
「………?」
「労災はまず無理だと思うけど、保険はきくからな」
「おもしろい発想をするやつだな」
「頭だよ、頭」
 佐々木は黒服に挨拶して、そのまま帰ると言う。オートバイは駐車場に置いておいて、後から友達に取りに来させるのだ。
「やめて、なんか当てがあるのか」
「いいや。でも何とかなるだろう。いざとなったら、女に食わしてもらうという手もあるし」
「奥の手か」
「でもないけど」
 じゃあなと言って佐々木は廊下を曲がっていった。
 クラウンホールに戻ると、伊勢エビのクリーム煮が出ているところだった。尾長さんがおれを見つけて、「何かあったのか」ときいてきたが、「別に大したことじゃありません」とおれは答えた。おれは気分がむしゃくしゃしていたので、自分のぶんを手早くサーブし終ると、もたもたしている新米のぶんもやってしまった。西山が「タフですねえ」と驚いたほどだった。
 最後のデミコーヒーを出し終えて、控え室で一息ついていると、西山が寄ってきて「ジンさんやめるって知ってるか」ときいてきた。「知ってるよ」「それじゃあ、アメリカへいくという話は」「もちろん」「それもアメリカの大学にいくんだぜ。おまえ、どう思う」「何が」「だから、その話が本当かどうか」「金さえ出せば入れるって言ってたぜ」「ほんとかな。黒服の試験にあれだけ落っこちた人間が、大学にいこうなんて思うかな。それもアメリカの大学に」「嘘だっていうのか」「何も嘘だなんていってないよ。嘘じゃないけど、ただの願望なんじゃないかな」「三百万ためたっていうぜ」「そう、それが第一あやしいんだよね。おれたちボーイの給料で三百万ためようと思ったら、並大抵の苦労じゃないぜ」「やればできる」おっと西山が言った。
 披露宴がすんで、客が出ていったあと、おれたちボーイは椅子に腰をおろして、休憩した。もちろんおれはひな壇の新婦の椅子に坐っていた。スープとアイスクリーム以外は手つかずだった。おれは赤ワインを一口飲んでから、伊勢エビにとりかかった。少なくとも十分はこうして食えるだろう。エビの次はアントレ、そしてターキー。その間にサラダを詰め込み、パンにはバターをたっぷりぬって食べる。晩めしを控え目にしておいたのがよかった。メロンをふたつ食い、アイスクリームもさがしてきて食べた。ついでに冷めたデミコーヒーも飲んだ。
 おかまの堀田が舞台にあがって、マイクに向かってしゃべりはじめた。上着を脱いで、サスペンダー姿になっている。「みなさん、聞いてちょうだい。きょうでジンさんともお別れなのよね。そこで、今からこの場を借りて、いっぱつ送別の宴をぶっぱなそうと思うんだけど、どうかしら。やってもいい?」
「いいぞ、いいぞ。やれ、やれ」とおれは叫んだ。西山も口にものを入れながら、何か言っている。尾長さんは笑って見ているだけだ。
「賛成していただいて、どうもありがと。それではまずいっぱつめ。アメリカ行きのジンさんを祝して、プレスリー」堀田の十八番だ。ジンさんは煙草を吸いながら苦笑いしている。舞台の上にはカラオケセットが置いてあり、そこから「ハートブレイクホテル」の曲が流れはじめる。こんな曲があったなんて初耳だった。堀田はマイクスタンドを両手で持ち、体をくねらせて歌い出す。恋人どうしのバイトふたりが、顔を見合わせて笑っている。おばはんがジンさんのそばにいき、何やら話をしている。プレスリーの次はシナトラの「誰かが誰かに恋してる」。それが終ると、ポール・アンカの「ダイアナ」だ。堀田はサスペンダーを肩からはずし、指にかけて引張った。
 課長が入ってきた。堀田はまだ気持よさそうに歌っている。課長はしばらくその様子を見ていたが、やがて両手をゆっくりと叩くと、「さあ、さあ。そこまで、そこまで」と舞台のほうへ歩いていった。堀田は投げキッスをして、舞台をおりた。おれは盛大に拍手をした。それにつられるように、ボーイやおばはん連中も手をたたいた。
 片付けるのは気が重かった。最終の披露宴のときはいつもだが、今夜は特にそうだった。気のせいか、他の連中もゆっくりと体を動かしているようだった。
 更衣室で、服を着替え終ったジンさんに、西山や新谷が自分の住所を教えていた。アメリカへ行く(はずの)ジンさんに、ポルノ雑誌を送ってくれるよう頼んでいるのだ。堀田は男のヌード雑誌を頼んでいる。
 電気を消して、おれが一番最後に更衣室を出た。下におりて、正面玄関を出ると、ジンさんが大通りをバス停のほうに歩いていくのが見えた。
「ジンさあん」とおれは呼びかけた。ジンさんは立止まって、振返った。
「アメリカ行けよ」とおれは怒鳴った。
「おう」とジンさんは答えた。
 おれはジンさんに背を向けて、地下鉄の駅へ急いだ。

 

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