クランクハイト Krankheit(独)病気、不快、違和

               津木林 洋



  ドッペルゲンゲル

 ある晩、いつものバーで友人と飲んでいたとき、彼が声をひそめて、
「ドッペルゲンゲルって知ってるかい」
 と訊いてきた。
「ドッペルゲンゲル?」
「そう。日本語では影法師とか二重人格って訳すんだろうけど」
「ああ、ジギルとハイドっていう、あれかい」
「厳密に言えば、ちょっと違うんだけど、まあ、そんなところだ」
 ぼくは話の続きがあるものとばかり思っていたが、彼はそれきり黙ってしまった。
「それで、そのドッペルゲンゲルがどうかしたのか」
 ぼくは気になってそう尋ねてみた。
「まあね」
 しかし彼は話しにくそうに口ごもると、また黙ってしまった。ぼくはそれ以上話を促すのはやめて、黙ってウイスキーを飲んだ。
 しばらくして、彼は小さい声で話し始めた。
「実は、おれにドッペルゲンゲルがいるらしいんだ」
「………」
 もう酔ったのかなとぼくは思った。
「信用しないのも無理はないけど、本当の話なんだ」
「何か証拠でもあるのかい」
「そりゃおおありさ」
 覚えのないミスで課長に怒鳴られたことや、言ってもいない悪口で同僚から反発を食ったことなどを彼は話した。
「それが証拠と言えるかなあ」
 ぼくがとぼけた声を出すと、彼は憮然とした顔をした。
「それなら、部屋が散らかっているというのはどうだい。おれには全然覚えがないのに、だぜ」
「ほう」
 彼の整理魔ぶりは徹底していて、すべての物が所定の位置に収っていなければ気がすまないのだから、それが散らかっているというのはちょっと興味のあることだった。
「ほんとうかい?」
「ほんとうさ。今晩帰っても、おそらく散らかっているだろうな」
「だろうなって、けさはどうだったんだ」
「もちろん、きれいに片付けて出てきたさ」
 バーを出てから、ぼくは彼と一緒に彼のアパートへ行った。証拠とやらをこの目で確かめるために。
 彼の後ろから部屋に入って、ぼくは驚いた。確かにかなりの散らかり様だったから。新聞はテーブルの上に開きっぱなし。流し台には汚れた茶碗や皿が放り出してあり、服も畳の上に散らばっている。いつもの彼の部屋とは思えない。全く別人の部屋のようだ。
「どうだい、わかっただろう?」
「ほんとだな」
 その晩から一ヶ月ほどぼくは友人と会わなかった。
 ある晩、いつものバーで一人で飲んでいると、誰かが声をかけた。振返ると、友人がいて、見知らぬ若い女性を連れていた。二人はぼくの隣に腰をかけた。
「紹介しとくよ」と彼はぼくに言った。「彼女は**さん。ぼくの婚約者」
「こんやく?」
「そうなんだ」彼は照れ笑いを見せた。「この二、三週間の間にばたばたと決まっちゃってね」
 女性がぼくのほうを見て微笑み、小さく頭を下げた。彼がぼくを彼女に紹介し、それから、二人のなれそめなんかを話した。主にぼくが質問し、彼が答えるという形で。
 彼女が化粧室に立ったとき、ぼくは彼の脇腹を肘で突いてから、小声で言った。
「なかなかいい娘じゃないか。美人で上品だし、おまえにしては上出来だよ」
「うん」
 しかし彼はさっきまでの上機嫌とは裏腹に、気の抜けたような返事をした。
「どうしたんだ、変な声を出して」
「いや、べつに」
「何か変だぞ。結婚したくないのか」
「そんなことはないさ」彼は語気を強めた。
「だったら言うことなしじゃないか」
「それがねえ」彼はまたぼんやりと考え込むように言った。「ちょっと気になることがあって」
「なんだい、そりゃ」
 彼は言いにくそうにしていたが、やがて大きく溜息をつくと、
「どうも彼女ね、おれのドッペルゲンゲルにほれたらしいんだ」
「まさか」
「いや、どうもそうらしいんだな」
 何か証拠でもと訊こうとしたとき、婚約者が戻ってきた。友人はまた上機嫌の顔になった。


  ゲバルト

 ねえ、ねえ、聞いてよ。あたし、すっごいもの見ちゃったのよ、ほんとに。今でも、ほら、こんなにドキドキしてるでしょ。胸がきゅんとなっちゃったわ。
 何を見たと思う? 内ゲバ。う、ち、ゲ、バ。ほんとよ。信じないのね。いいわ、だったら、もう話してやらないから。
 でも、話しちゃう。あたしね、いつものように会社を出たのよ。でも、約束の時間にはまだ間があるでしょ。だからウインドーショッピングも兼ねて遠回りしたのよ。喫茶店なんて無駄よ。それに女ひとりで入るところじゃないわ。お友達と? だめよ。みんな、デートだって知ってるんだから、付合ってくれないわよ。それで**通りをぶらぶらと、**の方へ歩いていったのよ。なぜって? わからないわ。運命のいたずらよ、運命の。
 そしたら、地下鉄の**駅のそばで、内ゲバにあっちゃったのよ。
 あたしね、はじめ、何が何だかわからなかったのよ。労務者みたいな人たちが横のほうから、ばらばらっと出てきて、あたしの前を行く男の人を取囲んだのよ。あたし、てっきり、暴力団かなんかのケンカだと思ったわ。だってこの前、あたしがいやだ、いやだって言うのに、実録なんとかというヤクザ映画に連れていったでしょ。だから、すぐに連想しちゃったのよ。
 それでね、あたし、恐いから、端のほうに寄ってじっとしていたの。あの人たち、ちょっと言い合いをしていたみたいだったわ。そのうち、取囲まれた男の人が逃げようとしたのよ、あたしのいるほうへ。でも、すぐに、一人が白い棒で、その人の太腿のあたりを殴りつけたわ。あれが鉄パイプね、きっと。その人、膝を抱えるようにしてうづくまったわ。それからは、もう、めちゃくちゃ、メッタ打ちよ。
 ううん、すぐそばじゃないわ。五メートルくらい離れていたかしら。いいえ、十メートルはあったわね。だめよ、すぐ目の前じゃ、あたし、手で顔をおおって、見ることができないもの。
 どのくらい殴っていたかしら。だいぶ長い間だったわ。そうね、ほんとは短かったかもしれないわね。でも長く感じたわ。白い鉄パイプのところどころが黒くなっているのよ、血で。あたしには、ツルハシかなにかで土を掘り起しているように見えたわ。おかしいかもしれないけど。
 終ると、あの人たち、自分たちの仕事を確かめるみたいに、じっと見下ろしていたわ。そして、ぱっと走り出したのよ。急に、フィルムの回転が速くなったみたいだったわ。あたしね、自分で言うのも変だけど、それまでわりと冷静だったのよ、ほんとに。いじわる。誰だって、あんな場面に出食わしたら、呆然となるわよ。そりゃ、呆然と冷静は違うけど、でも、恐怖を感じなかったのは確かだわ。
 それが、あの人たちがあたしのいるほうへ走り出したでしょ、鉄パイプやヘルメットを放り出して。あの音がいけなかったのよ。あたし、瞬間的に体が張りつめちゃって、動けなくなったの。足が言うことをきかないのよ。あんなこと、初めてだわ。あたし、ビルのシャッターのところまでさがって、身を隠そうと思ったんだけど、だめなのよ。しゃがむこともできないの。
 一番はやく走ってきた人が、あたしのほうに顔を向けたわ。ううん、目なんか合わないわ。サングラスをしてたんですもの。その瞬間、あたし、殺されるって思ったわ。大げさじゃないわよ。ほんとにそう思ったんだから。服には黒いしみがいっぱいついてるし……。
 あたしが殺されたら、あなた、悲しんでくれる? ひょっとしたら、せいせいしたなんて言って、すぐに他の女の人を見つけるかもしれないわね。冗談よ。
 それで、あの人たち、ばあって行っちゃったのよ、すごい勢いで。五人だったわ。あたし、そのまま突っ立っていたのよ。なんか、こう、嘘みたいに静かだったわ。ヘルメットや鉄パイプ、それにナッパ服って言うのかしら、血のついた服なんかが散らばっていて、そうそう、手袋もあったわ。子供がオモチャ箱をひっくり返したような感じ。
 それから、回りにいた人たちが集まり出したのよ、こわごわね。倒れている人を遠巻きにして。あたしも近寄ってみたの。こわいもの見たさね。その男の人、全然動かなかったわ。頭を抱えていたけど、後ろのほうはつぶれてたみたい。顔? そんなのわからないわ、すごい血だったもの。
 あたし、しばらく見てたけど、あなたのことを思い出して、飛んで来たのよ。

 電話? 何、それ。ああ、警察ね。しなかったわ。どうしてって、そんなこと思いつかなかったもの。目撃者って言ったって、あたし、何も見てないわよ。あの人たちの顔だって、サングラスで全然わからなかったもの。
 このご飯、柔らかすぎるわね。パンにすればよかった。
 そりゃ、警察が目撃者を探しているっていうんなら、あたしだって行くけど、でも、あんまり気が進まないな。
 明日の新聞に載るわね、きょうのこと。死ななくても載るでしょ? 死んだらそりゃ、大きく載るけど、なるべくなら死なないでほしいわ。なぜって、何となく気持が悪いもの。でも、だめね。あれだけひどく殴られたら、生きているなんてあり得ないわ。すごい血だったもの。地面が黒くなって、水たまりに顔を突っ込んだみたいだったわ。
 もう、やめましょ、こんな話。なんだか、ほんとに気持が悪くなってきたわ。

 ねえ、シャワーを浴びてきなさいよ。あなたがすんだら、あたしが行くから。そんな気のない返事をしないで。
 それにしても、あの人たち、今頃どうしているかしら。どこかで、やっぱり、寝てるんでしょうね。でも眠れるのかしら。何だかとっても恐い気がするわ。何がって、よくわからないけど。


  ジグソー

「おい、おい」と言いながら、帽子を被った男が入ってきた。
「Xが自殺したって、知ってるか?」
 部屋には一組の男女がいて、ジグソーパズルをしていた。
「ああ、知ってるよ」と髭面の男が、厚手の紙片をいじくりながら答えた。
「あれ、誰から聞いたんだ」
「あたし」真赤なルージュの女が顔を上げて笑った。
「相変らず地獄耳だな」と言って、帽子はパズルを囲むようにして坐った。
「失恋だってね。まさかあいつに恋ができるなんて思ってもみなかったから、びっくりしたなあ」
「あれえ」ルージュが意外そうな声を出す。
「あたしが聞いたのは、借金のせいだって話よ」
「どうしてやつが借金なんかするんだ」
「何も知らないのね。ほら、洗剤なんか売るねずみ講があるでしょ。あれの主任になるために、サラ金からお金を借りて、それが返せなくなったらしいわよ」
「ほんとかあ。ちっとも知らなかったなあ」
「あんたみたいな貧乏学生には声をかけなかったのね」
「ちえっ」
「あった、あった」髭がビスケットのような紙片をボードに押しつける。「次はこいつだな」と波形に入り組んだ部分を指さして、「お前らも探せよ」と二人に言う。
「どれ、どれ、ここか」三人は山になった紙片を指で崩していく。
「あいつの借金のことだけど」髭は指をとめて独り言のように言う。「どうもおれには信じられないな。一週間前に会ったときは、結構羽振りがよくて、一晩、あいつの奢りで飲んだくらいだからな」
「え、あのケチが」
「きっと見えを張っていたのよ」
「おれには張らなかったぜ」
「あんたには張る必要がないからよ」
「そりゃ、どういう意味だい」
 ルージュは笑って答えない。
 そのとき、左手に三つも指輪をした女が入ってきた。
「ねえ、ねえ、Xが自殺したって知ってる?」
「そんな話、古い、古い」と帽子が答える。
「なんだ、知ってるの。つまんない」
 指輪はパズルを覗き込みながら、ルージュの横に坐る。
「ねえ、ねえ、だったら、彼の自殺の原因が就職ノイローゼだってことは知ってる?」
「失恋ノイローゼだろう?」
「借金ノイローゼよ」
「何よ、それ」
 帽子とルージュが指輪に説明する。
「あたしの聞いた話ではね、彼、今あんたが言ったねずみ講をやっているのがバレて、内定していた就職先を棒に振ったんだって。それで悩んでいたらしいわ」
「全くややこしいな」髭が紙片を指で探しながら呟く。
「同じようなのがいっぱいあって、どれにするか迷ってしまうな」
 そのとき、眼鏡をかけた男が「ちくしょう、ちくしょう」と言いながら入ってきた。「Xの野郎、自殺しやがったんだってよう。みんな、もう知ってるか」
「だいぶ遅れたやつが来たぜ」と帽子が指輪に囁く。眼鏡はふらふらした足取りで部屋に上がると、ルージュと指輪の間に割って入った。
「酒くさい」ルージュが顔をしかめる。
「くさくて悪かったな。これが飲まずにおられるか。おれはあいつのおかげで五十万フイにしてしまったんだぞ。五十万。あの詐欺師のおかげで。あの野郎、主任になったら一年で十倍にはなるとか何とかうまいこと言いやがって、おれから金を預っておきながら、本部には送っていなかったんだよお。あいつが死んだって聞いたんで、おれはあわてて本部に電話してみたんだ。そうしたら、全く聞いておりませんなんてぬかすじゃないか。聞いておりませんだぜ。そんな話ってあるかよ」
「どうしてそんなに簡単にお金を渡したのよ」
「通帳だよ、通帳。あいつに銀行の通帳を見せられて、おれはころっと信用したんだ」
「通帳?」
「ああ、六百万ほどあったからな。その数字を見た途端、かあっとなってしまって、つい金を渡しちまったんだよな。ところがやつには預金なんか一円もないんだ。やつの家に行ったら、おれみたいなやつが五人も押しかけていたんだぜ」
「よくある手だな」髭が顔を上げて言う。「通帳に細工して金を持っているように見せかけて、相手に信用させるってやつは。おれだったら現金を見るまでは信用しないね」
「ああ、くそー」眼鏡はポケットから二つ折りにした紙を取出す。「この預り証も今となっては、ただの紙きれだよ。ちくしょう」
 眼鏡はその紙きれを細かくちぎった。
「それは残しておいたほうがいいぜ。お前がXに金を預けた証拠はそれだけだろう。何かの役に立つかもしれないぞ。やつに遺産か何かあったときなんか、金が返ってくる可能性もあるからな」
 髭がそういうと、眼鏡はあわてて、散らばった紙片を両手でかき集め始める。「みんな動くな、息を吐くな」
「こういうのを見ていると、貧乏も悪くはないと思うね」と帽子が言う。
 そのとき、栗色の髪をした女が入ってきた。
「たいへん、たいへん。Xが死んだのよ、自殺、自殺。それも心中未遂よ。心中だなんて、ほんとにあたし、びっくりしちゃったわ」
「しんじゅう?」指輪とルージュが同時に言う。栗色は息を弾ませながら、帽子と髭の間に坐る。
「そんな話、誰から聞いたの」と指輪が訊く。
「誰からって、もうみんな知ってるわよ」
「それで、相手は誰?」とルージュが訊く。
「それがね、驚いちゃだめよ。何と、**なのよ」
「まさかあ」指輪とルージュは顔を見合わせて笑う。二人の間にいた眼鏡は後ろにある机の上で、ちぎれた預り証をテープで張り合わせている。
「あの子が心中するなんて、考えられないわ」
「未遂よ」栗色が不満そうに言う。
「未遂でも何でも、一緒に男と死のうなんて考えるわけないじゃないの」
「一緒に死のうとしたんじゃなくて、その一歩手前まで行ったらしいのよ」
「一歩手前? それ、どういうこと?」
「つまりね、Xが崖から飛び込む前に泊った旅館に一緒にあの子が泊ったのよ。宿帳にあの子の名前があったっていう話よ」
「ほんと、それ?」
「ほんとよ」
「へえ」指輪とルージュが半ば感心したような声を出す。
「心中なんかじゃなくて、失恋じゃないのか」
 と帽子が口を出す。
「どうして失恋なの。二人は心中をしに行ったのよ」と栗色が怒って言う。
「そして女の方だけ気が変ったのかい?」
「気が変ったんじゃなくて、Xが生きるように言ったのよ、きっと」
「電話で聞いてみたら」と髭が言う。
「そうよ、そうよ、その手があるわ」栗色が電話をかけるために、外に出ていく。彼女と入れ替るようにして、縮れ毛の男が入ってきた。
「聞いたか、聞いたか。Xが自殺したんだってね。たいしたもんだ、たまげたもんだ」
「今頃、もう遅いぜ」と帽子が言う。
「おや、みんなもう知ってるの? さすがは情報化社会」
 縮れ毛は髭に声をかけ、横に坐った。
「しかしねえ」と縮れ毛がしゃべり出す。「まさかあいつが、ケイジジョウ的な悩みで自殺するなんて思ってもみなかったな。会えば女の話と女の話と女の話しかしなかったのにな。それが突然、人生とは、なんて書き残して死んじまうんだから、人間なんてわからないもんだね。それにしても、近頃はやらない理由だよ、人生なんて。まあ、希少価値といえば希少価値だけど。その意味では脱帽って感じだな。成績を苦にしてとか、上司に叱られてなんかより、ほんの少し上等ってところか。いやはや全く参ったね。でもずっと昔、そんな言葉を残して投身自殺した高校生がいたよね。人生は不可解なりというのも不可解なり、なんちゃって」
「ちょっと待てよ」帽子が縮れ毛のおしゃべりをさえぎる。「一体、何の話をしてるんだ」
「だから、Xの自殺の話だよ」
「そりゃ、わかってるよ。おれがききたいのは、ケイジジョウ的悩みで、うんぬんというところだ」
「あれ、知らないの? きょうのお昼、両親宛の遺書が郵便で届いたんだぜ。その内容が、つまりケイジジョウ的悩みを綿々とつづったやつで……」
「おまえ、見たのか」
「おれじゃないけど、おれの友達が両親から連絡を受けて、読ませてもらったんだってさ」
 そのとき、栗色が浮かない顔をして戻ってきた。
「どうだった?」とルージュが訊く。
「だめ、だめ」と栗色が首を振る。「間違いだって。彼女は全然知らないって言ってるわ。自分の名前を使われて、迷惑してるんだって」
「ほんとかしら」
「彼女ね、Xと付合っていたことがあったんですって。だから名前を使われたんじゃないかって。彼女が言うにはね、Xはまじめで内にこもるタイプだから、女性のことで思い悩んでいたんじゃないかって言ってたわ」
「やっぱり失恋だな」と帽子が納得した顔で呟く。
「ふざけるな」机の前に坐っていた眼鏡が振返って大声を出した。「まじめで内にこもるタイプ? 笑わせるな。まじめな野郎が五十万も、だまし取るのかよ」
「その五十万も、きっと女性のことで入用だったのよ」と指輪が答えると、縮れ毛が吹き出した。
「あいつが女のことで五十万も使うわけないだろう。まあ、いるとしたら手切金だろうけど、五十万は多過ぎるな。せいぜい十万。あるいはヤクザの女に手を出して、脅し取られたとか」
「でも、あの人、やさしかったわよ」とルージュが言う。
「やさしいのは何か魂胆があるからさ。魂胆を持たない相手にはやさしくなんかしないさ。で、どこまでいったんだ」
「何のこと?」とルージュはとぼける。
「就職失敗で自殺したんだから、内にこもるタイプであることは確かね」と指輪が言う。
「違う、違う」と帽子が言う。「あいつがね、人の金を使って遊ぶときのはしゃぎっぷりを見たことないから、そんなことが言えるんで、そりやもう派手なもんだったぜ。まあ、そううつ病なら話もわかるが」
「いや、おれが思うに、やつはやっぱり人生の空しさを感じて自殺したんだと思うなあ」
 と縮れ毛が笑いを押し殺しながら言う。
「ふと我に返って来し方行く末を思うと、無性に空しくなって……」
 ひとりひとりがてんでにしゃべり始める。そのとき、「できたあ」と髭が叫んだ。みんなはしゃべるのをやめ、髭の前のボードを見た。ジグソーパズルが完成していた。


  プラネタリウム

 まず第一の問題はだな、おれがこの子と本当に結婚したいと思っているかどうか、ということだ。いやいや、それよりももっと肝腎なのは、そもそもおれが結婚ということを望んでいるかどうかということだ。確かに、おれは会社の連中には、もう結婚はこりごりだと言ってはいるが、それは言ってみれば、前の女房とやったような結婚はいやだと言っているに過ぎないのじゃないか。あつものに懲りてなますを吹くたぐい。いや、ちょっと違うか。現に、女房がいたらなあと思うことが時々あるからな。俊彦のやつがめしも食わずに寝ていたりしたときなんか。ちょっと待て。そうしたら、おれは子供のために女房がほしいと思ったりするのか。しかし考えてみたら、女房がいたらと思うのは、大抵、俊彦がらみだものな。一人だったら、ほとんど思わないですむだろうな。
 ――いや、例外がひとつだけあった。セックス。離婚するとき、そのことは全く考えなかった。金があれば何とでもなると高をくくっていたふしがあるね。今から思えば汗顔のいたりだけど。正直言って、おれの生活があれほど女に無縁だとは思わなかった。知っている女の子と言えば、会社の女の子かスナックの女の子だけだものな。まさか会社の女の子とは付合うわけにはいかないし、全く、三十六歳の離婚したての独身の会社人間というのは、始末に困る。ナイスミドルを標榜するにはまだ若僧だし、それでいて気持だけは若者のつもりなんだから。女の子の一人や二人と思ってみても、肝腎の女の子のいる場所へは、行きたくても行けないんだから、おれも歳を感じたね。ほんとにこの子に出会うまでの一年間は……。
「ねえ、見て、見て」隣で同じように回転する椅子にもたれて上を見ている女の子が、男の肘を叩いた。彼女の視線から、ドームの右隅に目をやると、ガス状に拡がった星雲が徐々に大きくなりながら、ゆっくりと天頂付近に上ってくるところだった。「きれい」女の子は細い透き通るような声を出した。男は天頂から、女の子の横顔に視線を戻した。
 やっぱり、まだ子供なんだよな。とても結婚なんか考える歳じゃないんだけどね、ふつうなら。こんな中年男と関わりあったばっかりに。しかし、おれはほんとにこの子と結婚する気があるのか。一般的な結婚うんぬんはこの際もうどうでもいい。肝腎なのは、おれがこの子をずっと手許に置いておきたいと思っているかどうかだ。――何を言っているんだ、馬鹿ばかしい。そんなことは当り前じゃないか。問題は結婚という形で一緒にいたいかどうか、だ。しかし……正直言って、どうもおれにはためらいがあるね。本当を言えば、今の状態がずっと続いてくれればいいんだが、それはちょっと虫が良過ぎるだろうな。ちょっとどころか、かなりと言うべきか。大体、この子との結婚生活なんて、全くイメージが浮かばないから困る。前の女房のときは、ああしてこうして、まあ、こんなぐあいだろうなんて、イメージが湧いたものだけど。もし、この子と結婚するとして、式はおそらく、来年の四月だろうな、卒業してすぐのほうがいいだろうから。そのとき、俊彦は十一だ。おれは三十九。おれがこだわっているのは、どうもこのあたりなんだな。息子と女房の歳が七つしか離れていないというのは、何と言ってもまずいね。これが息子が二十歳くらいなら、まあ何と言っても大人なんだから、わかってくれるというか、見て見ぬ振りをしていてくれるだろうが、俊彦はまだ十一で、これから青春の多感な時期に入っていくところだからな。影響がないと言えば嘘になるだろうな。いや、いや、俊彦のことばかりじゃないぞ。結婚するとなったら……。
 突然目の前が明るくなり、場内から小さな歓声が起った。ドームの中心から広がった光の輪はやがて消え去り、再び恒星の点在する宇宙が現われた。――こうして赤色巨星のうち太陽よりも質量の大きい恒星は爆発して超新星となり、恒星のなかで作られた原子が宇宙へ飛び散っていくのです。そしてそれがまた新たな星の材料になるのです。この地球上の元素も、水素といくらかのヘリウムを除いて、すべて数十億年前に星の錬金術によって作られたものなのです。その錬金術師の星のいくつかは……。
 結婚すると決めたら、まず真っ先にこの子の両親のところへ行かなければならないな。考えてみれば、それがおれにとってもっとも苦痛だな。手塩にかけて育てた娘を、三十八の年の食った男がさらっていくんだから、おれが親なら、絶対に認めない。なぐり倒してやるね。確か、この子の父親は四十二だ。おれと四つしか違わない。言うならば同世代だ。おれが向こうの前に手をついたら、向こうは思うだろうね、こっちと同じ歳じゃないかって。一体おれはどう言えばいいんだ。ありきたりに、きっと幸せにしますとか何とか言うのか。ああ、とてもだめだ。そんなことを言うぐらいだったら、まだ駆落ちのほうがましだ。しかし駆落ちもできないとなると、ここはまあ、黙って言葉少なに対応したほうがいいだろうな。大体、こっちも一端の社会人なんだから、それに子供もいることだし……。いや、まてよ。俊彦のことを忘れていた。向こうはきっときくだろうな、お子さんはおいくつですかとか何とか。この子がみんな話しているのに、知らない振りをして。そこをつかれたら、おれが一番弱ることを知っているから。確かにおれは弱るだろうね。しかし弱ったって何だって、俊彦をおっぽり出すわけにはいかないんだから、ここはおれとのコミで認めてもらうしかない。この子の言うように、物わかりのいい両親ならいいんだが。いや、いくら物わかりがよくても、この結婚には反対するだろうな。反対する理由は山ほどあるのに、賛成できるところなど、探してもないんだから。どうも気が重いな。まあ仮りに、両親を説得できたとしてだ、会社の連中はどう思うだろうね。特に専務。前からおれに再婚を勧めて、いろいろ話を持ってきてくれてたからな。その度に、おれは、結婚はもうこりましたからと断ってきたから、気を悪くするだろうな。顔では、きみもなかなか隅には置けんなあなんて笑いながら、腹の底ではこの野郎なんて思うかな。まさか、こんなことで、おれの出世が妨げられることもあるまいと思うが……。会社の連中には、この子を二十歳ということにしておこう。そのほうが何かと都合がいいだろう。十八と二十じゃ受ける感じが違うだろうからな。十八だったら、何か手ごめにしたというふうに見られないとも限らないから。ちょっと考え過ぎか。
「何、考えてるの」耳許で女の子が囁いた。
「いや、別に何も」
「そう。だったらいいの」
 この子と結婚するとして、俊彦にはどういうふうに教えたらいいのか。まさか、この子と引合わせて、きょうからおまえのお母さんだよ、なんてことは言えないしね。だから結婚が決まったら、式を挙げるまでの間に、おれの家に遊びに来させて、ごく自然に慣れさせなくては……。
「いつ会ってくれる」再び女の子が囁いた。
「次のデート?」
「そうじゃなくて、あたしの両親に……」
「ああ、そのことか」
「あたしはなるべく、早いほうがいいと思うんだけど」
「この次の日曜は、仕事でつぶれるかもしれないし……」
「だったら土曜日は?」
「きみのお父さんはいいのか」
「休ませちゃう」
「別にそんなに急がなくてもいいと思うんだがなあ。卒業してからゆっくり考えてもいいんだし……」
「だめ。あたし、就職する気も進学する気もないんだから、このままどっちも決めないでいくなんて、親が承知しないわ」
 ――そこで宇宙のはじまりから今日までを、一年に縮めてカレンダーを作りますと、地球が誕生するのは、大体九月中旬ごろになります。生命の誕生は随分早くて九月下旬にはもう起っています。生命はそれからゆっくりと進化し、三葉虫のような原始動物が栄えるのが、十二月十八日。魚の登場が十九日。爬虫類は二十三日。哺乳類は二十六日。そして最初の人間が登場するのは十二月三十一日午後十時三十分。人間の一生は大体十分の一秒程度になり……。
 この子は本当におれとの結婚を望んでいるんだろうか。ただおれが初めての男だから、それでひかれているだけで、恋に恋する年頃。いや、ちょっと違うな。ただ他に男を知らないだけで、もっと若い、この子にふさわしい男が現れたら、きっとそっちに行くだろうな。そのほうが自然だし……。ということは、今は不自然? おれは少女に恋する年頃で、おれには自然か。いや、これも違うな。もっと年増の、おれにふさわしい女が現われたら、そっちに行くだろうか。しかしこの子に会う前の一年間を考えてみろ。そんな女は一向に現れず、いや、おれはそういう女を避けてきたふしがあるね。だから……。


  バスストップ

 女の子は二十歳になっていたが、少し頭が弱くて、右手が軽く麻痺していた。麻痺の原因は頭にあるのかもしれないという医者の診断で、彼女は週一回、病院に通っていた。
 ある日、病院からの帰り途、道路の真ん中に、やせて骨と皮になった子猫がよろよろと歩いているのを見つけた。彼女は急ぎ足で追いつくと、両手でその猫を路地に追い込んだ。一方通行の道だが、結構車が通るのである。子猫は三メートルばかり入ったところで、ちょこんと坐った。女の子は、もっと奥へ行きなさいというように片手を振ってから、路地を離れた。少し行って振返ると、子猫がまた道路に出ていた。女の子は再び急ぎ足で戻ると、子猫を路地の中に追いやった。そして体を隠して、顔だけ覗かせていると、子猫はまた道路に出てこようとするのである。
 女の子は子猫を抱き上げると、路地を入っていき、開いていた美容院の勝手口から中に声をかけた。出てきたのはピンクのユニフォームを着た若い女性だった。
「この猫、ここの家の猫ですか」と女の子は尋ねた。
「うちじゃ、猫は飼ってませんけど」
「それじゃあ、この猫はどこの猫なんでしょう」
「さあ、どこって言われても」若い女性は困った顔をし、「先生」と家の中に向って言った。四十過ぎぐらいの少し太った女性が出てきた。頭にロッドをいくつも巻いている。若い女性が先生に説明した。
「えらくやせてるのね」と先生は女の子の抱いている子猫のあごのあたりを人さし指で触った。「シャム猫の血が混っているみたいだけど、このあたりでシャム猫を飼っている家はないわね。どこか遠くから迷い込んできたんじゃないの」
 女の子は黙り込んだ。子猫は女の子の腕の中で力なくもがいている。
「この猫、ここで飼ってくれませんか」と不意に女の子は言った。
「うちで?」先生は驚いた顔をした。
「あたしの家にはもう四匹もいるんです。あたしもお母ちゃんも猫は大好きなんだけど、やっぱりこの猫をつれて帰ったら、お母ちゃんが何て言うか。それにあたし、バスにも乗らなければならないし、前に運転手さんに叱られたことがあるんです。うちのミーコを抱いて乗ったら」
「うちでは生き物は、飼わないことにしてるのよ、悪いけど」
「お母ちゃんは猫が大好きで、とっても可愛いがるんです。今いる猫も四匹ともあたしが拾ってきたんだけど、そりゃ大事にするんです。一匹はもう七年もいるの。でもやっぱり五匹になったら、お母ちゃんは怒るかもしれないし、何しろお母ちゃんは働いているもんだから」
「うちだって、飼えばそりゃ可愛いがりますよ。でも生き物は死ぬからねえ」
「ほんとにあたしが持って帰ったらいいんだけど、あたし、ここからずっとバスに乗って帰らなければならないし、運転手さんが乗せてくれなかったら、あたし、どうしていいかわからないし、家に持って帰ったら、大事にするんだけど」
「いいわ、わかったわ」先生は女の子のおしゃべりを断ち切るように言った。「うちで飼いますよ。こうなったのも何かの縁だから。それにお客さんに心当りを尋ねてもいいしね」

 女の子は食事の用意をして、母親の帰りを待っていた。
 母親が帰ってきて、女の子は勢い込んで子猫の話をした。卓袱台の前に坐って聞いていた母親は、娘の話を遮った。
「どうしてお前は、その猫をうちまでつれて帰らなかったの。どうしてよそ様のところへ置いてきたの。その猫はお前が授かったも同然なのに、それを手放してしまうなんて。そんな罰当りなことをしていたら、治る病気も治りゃしない」
 母親に怒られて、女の子はびっくりした。
「でも、お母ちゃんがいつも、始末、始末って言ってるから」
「子猫の一匹や二匹、どうしたって言うの」
「でも、あたし、バスに乗らなきゃならないもの。バスには動物は持ち込めないって運転手さんが言ったんだもの」
「だったらタクシーがあるでしょ」
「タクシーはお金がかかるし、あたしお金持ってないもん」女の子は涙声になった。
 母親は黙って娘の顔を見た。
「もういいから、ごはんにしましょう」
 食事が終ってから、母親は静かに言った。
「明日でも美容院に行って、子猫を返してもらって来なさい。バスに乗れないんなら、タクシーで帰ってきてもいいから」
 母親は財布から千円札を一枚出して、娘に渡した。
 次の日、女の子は行こうと思ったが、つい行きそびれてしまった。帰ってきた母親は、「子猫は?」ときいたが、「明日行く」と女の子が答えると、それ以上何も言わなかった。
 次の日、女の子はぐずぐずしていて、昼過ぎに家を出た。
 美容院のところまで来て、店の中がひまなのを確かめてから、路地を入っていった。
「ごめんください」女の子は小声で言った。「はあい」という声がして、一昨日の若い従業員が出てきた。「あっ」と彼女が言い、すぐに「先生」と奥に向って叫んだ。
「なあに」先生は子猫を抱きかかえ、その頭を撫でながら出てきた。
「あら、あなたなの。どうしたの、今頃。ああ、この子の様子を見に来たのね。大丈夫よ、ほら、こんなに可愛がってるから」
 女の子は子猫を見た。一昨日とは見違えるほどきれいになっている。相変らずやせてはいたが、毛が逆立って、ふんわりとした感じになっていた。
「その猫、あたしに返して下さい」と女の子は言った。
「え? 何ですって」
「この前、家に帰って、お母ちゃんに叱られたんです。お前に授かったものを、よそ様に預けてきちゃいけないって」
「預けるって、これ、捨て猫でしょ」
「でも拾ったのは、あたしだから」
「あなたが飼ってくれって言ったのよ」
「でも、お母ちゃんに叱られたから」
「だめですよ、今さら言っても。たとえ二日でも飼えば情が移るし、わたしのところで可愛がるから、心配しないで。そう、お母さまに言いなさい」
「でも、その猫をつれて帰らなくちゃ、お母ちゃんに叱られるから」
「だから、お母さまに、子猫はここで可愛がってもらっているって、言えばいいじゃない」
「でも……」
「とにかく、この猫は返しません」
 先生はそう言うと、家の中へ引っ込んでしまった。若い従業員は黙って女の子を見ているだけだ。女の子はしばらくそこに立っていたが、やがて諦めて勝手口を出た。
 バス停に向って歩きながら、女の子は母親にどう言おうかとそればかり考えていた。バス停のベンチに坐っても、そのことを考えていたから、三台もバスが通り過ぎてしまった。三十分ばかりして、女の子は立上がると、再び美容院のところまで行った。路地には入らずに、ガラス張りの表から店の中を覗いた。客が一人いて、先生が客の髪にブラシを入れながら、何か話をしていた。子猫は従業員に抱かれている。
 女の子は帰ろうとそこを離れたが、少し行くとまた戻ってきた。ガラスの前で子猫の姿を求めてうろうろしていると、子猫を追ってドア近くまで来た従業員と顔が合ってしまった。彼女は驚いた顔で女の子を見た。女の子は笑いかけた。従業員はあわてた様子で先生のところまで行くと、肩を叩いた。先生も女の子のほうに顔を向けた。女の子は先生にも笑いかけた。先生は従業員に何か言うと、子猫を指さし、表に出せというように、何度もブラシを振った。従業員は駆けるようにドア近くまで来ると、隅のほうにいた子猫を抱き上げた。そしてドアを尻で開けると、「これ、いいから、持って帰って」と女の子に向って子猫を突き出した。
「いいんですか」と女の子は言った。
「いいの、いいの。先生はもとから生き物が嫌いなんだから」
 女の子は何度も礼を言って、子猫を受取った。
 バス停のベンチで子猫の頭を撫でながら、バスを待っていたが、前に運転手に叱られたことを思い出し、女の子は立上がった。ポケットには母親からもらった千円札がある。女の子はタクシーに乗ろうと思ったが、すぐに、どうやってタクシーに乗ったらいいのか知らないことに気づいた。
「歩こうか」女の子は子猫に言った。子猫は腕の中で窮屈そうに伸びをした。右手の力が弱いので子猫がずり落ちそうになるのを、左手でしっかりと支えながら、女の子はゆっくりと歩いていった。

 

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