1
「おれが本当のことを書いたら、みんなは嘘だと言う。おれが嘘を書いたら、みんなは本当のことだと言う。だからおれは嘘しか書かない」
これは「これが最後」という変てこりんな題名の短篇集の巻頭にあるエピグラフだ。そんな短篇集は聞いたことがないと言われるかもしれないが、それは当然だ。何しろ二百部しか出版していないんだから。つまり、これは今年の一月に交通事故で死んだ友達Kの遺稿集なのだ。彼は十九歳から作品を書き始め、二十二歳で死ぬまで百篇余りの短篇を残している(そのうちの七十篇ほどはSFショート・ショートだが)。
その中から、すぐれていると思われるものを集めて、遺稿集を作った。彼の両親に頼まれて、ぼくともう一人の友人が編集に当ったのだ。題名は中に収めた同名の短篇から取った。かなり出来のいい作品だったし、冗談好きの彼の遺稿集にはぴったりではないかと、ぼくは思ったのだ。ちょっとふざけ過ぎじゃないかと友人は言ったが、両親にきくと、えらく喜んでくれた。
というわけで、ぼくは調子に乗って、エピグラフまで付けた。これは彼の創作ノートを見ていて発見した言葉だ。
2
ぼくはキャンバス地で作られた日光浴用の椅子に体を投げ出して、Kの本を読んでいた。七月の中頃に本は出来上がり、それを持って、ぼくはアルバイトに来たのだった。海水浴客を監視する仕事で、大学二年の夏休みから始めた。Kも去年まではぼくと一緒にアルバイトをしていた。というより、この仕事を見つけてきたのは彼で、一緒にやらないかと誘われたのである。
監視は二時間やって一時間休憩という交替制だった。休憩のとき、ぼくはたいてい寝るか本を読んで過ごす。
ページが急にかげって、ぼくは首をひねって後ろを見上げた。逆光のため顔は暗くてわからないが、女性が立っていた。
「こんにちは」とその女性が言った。
ぼくは目を細めながら、こんにちはと答えた。彼女は椅子の横に来て、ぼくの本をのぞき込んだ。つばの広い帽子を深くかぶり、薄い色のサングラスをしている。
「何を読んでるの」と彼女がきいた。
「小説」
「何ていう小説?」
「これが最後 」
「これが最後? 聞いたことがないわね」
ぼくはそのとき、やっとその女性のことを思い出した。きのうここで、彼女に旅館の場所をきかれ、その旅館が偶然ぼくの泊っている旅館のとなりだったので、案内したのだった。帽子とサングラスのせいで、わからなかったのだ。
「だれの作品?」
ぼくはKの名前を言った。
「知らないわ」そう言って、彼女は笑った。
「そりゃ、そうですよ」
ぼくは手短かに説明した。
「いいお話ね」と聞き終って彼女が言った。
皮肉ではなく、本当に感心しているようだったので、ぼくは何だかくすぐったかった。
「それで、その本おもしろい?」 と彼女がきいた。
「うーん、まあ、おもしろいですね。もちろんこの年齢の割には、という留保つきですけど……」
ぼくがそう答えると、彼女は微笑んで、小さくうなずいた。
「読みますか」とぼくは言ってみた。
「そうね……」
彼女はちょっとためらうような口振りだった。
「いろんな人に読んでもらったほうが、Kも喜ぶと思って」
「じゃあ、読ませていただくわ」
ぼくが本を手渡そうとすると、彼女は、泳いだあとでと言って、帽子を取った。そしてサングラスをはずし、帽子と一緒に砂の上に置いたが、風で帽子が裏返った。
「よかったら、ぼくが持っていましょうか」
「仕事の邪魔にならない?」
「いま休憩中だから、いいですよ」
彼女は帽子とサングラスをぼくに渡し、タオル地のジャケットを脱いだ。下はワンピースの水着で、あざやかなブルーだった。彼女はジャケットを肘掛けのところにかける感じでぼくに渡し、砂浜を小走りに走っていった。ほっそりとした体つきだった。海に入ったところで彼女は少しためらい、それから思い切ったように体を投げ出した。
3
翌日、彼女は本を返しにきた。ぼくは椅子にもたれて、うとうとしていたところだった。薄く陽がかげって、うたたねするにはちょうどよい日射しだった。
「あら、ごめんなさい。起しちゃって」
ぼくが目を覚ますと、彼女が笑いを含んだ声で言った。手にKの本を持っている。
「これ、どうもありがとう」
彼女は本を差出した。ぼくは本を受取りながら、
「別にいつでもいいんですよ」
「でも、全部読んでしまったから」
「おもしろかったですか」
「ええ、一気に読んじゃったわ」
「どれが一番おもしろかったですか」
「そうね」彼女は首をかしげて、考える仕種をした。
「やっぱり『これが最後』かしら」
「女性の心理をとらえていると思います?」
ぼくがそうきくと、彼女はおかしそうに笑った。
「これが最後」という短篇は、一組の男女の別れそうで別れられない姿を、ある意味では観念的に描いた作品である。男と女がどういう関係にあるのか全く示されず、ただ会話と行動の描写だけに終始する。女は別れの時がきたと思い、「これが最後よ」という言葉を男にぶつける。男は引下がる。しかし、しばらくたって男がやってくると、女は今度こそやり直せるのではないかと思い、男を受入れる。だがまたもや破局。「これが最後よ」しかしまた男は戻ってきて、やり直し。そういったことが何回か続き、最後に、これこそ決定的だと思われる別れの時がやってくる。女は言う。「これが最後よ」
「よかったら、これ、どうぞ。差上げますよ」
ぼくは本を差出した。彼女は驚いた表情を見せた。
「気に入ってもらった人に、片っ端から差上げてるんです」
「ただじゃ悪いから、いくらかお支払いするわ」
「いや、いいんですよ。Kの両親も供養のつもりで作ったから、誰からもお金はもらっていないんです」
「そう。それじゃあ遠慮なく」
彼女は本を受取り、ありがとうと言った。それから急に思い出したように、「この本、しばらく預ってて」と再びぼくに手渡し、白いジャケットを脱いだ。帽子とサングラスはしていなかった。
「わたし、泳がなくっちゃ」
ぼくはジャケットも預った。何だかきのうの続きのようで、おかしかった。
4
翌日、鉄パイプ製の見張り台に坐って監視をしていたとき、ぼくは彼女が一人の男と腕を組んで歩いているのを見つけた。水着の色から偶然見つけたのだ。ぼくは胸にぶら下げた双眼鏡で、二人を見てみたい気がしたが、結局やめた。
二人は見張り台のほうに近づいてき、ぼくは気づかない振りをして、海のほうに双眼鏡を向けた。
「こんにちは」
足許で女の声がした。ぼくはゆっくりと双眼鏡をおろし、下を見た。彼女と男がまぶしそうに目を細めて、こちらを見上げていた。
「やあ、こんにちは」
ぼくは初めて気づいたみたいに、明るい声で答えた。
「きょうはまだ誰も溺れていない?」と彼女が言った。
「ええ、まだ、今のところは」
「そう。今のところはね」彼女はそう言って小さく笑った。男は四十前という感じで、腹はいくぶん出ていたが、学生時代にスポーツをやっていたと思わせる体つきだった。
「じゃあ、しっかりね」彼女は片手を上げた。ぼくもそれに応えて、手を上げた。
二人は海の中に入っていった。遊泳水域を示した赤いブイのところまで一緒に泳いでいき、そこから男ひとりが沖へ進んでいった。彼女はブイにつかまりながら、男に向って手を振っていた。
5
翌日、ぼくが砂浜にバスタオルを敷いて寝転がっていると、彼女と男がやってきて、ぼくの横に同じようにバスタオルを敷いて腰を降ろした。ぼくは仕事中の仲間からカセットを借りて、ヘッドホーンでジャズを聞いていた。
彼女が笑いかけ、何か言った。ぼくはえ? という顔をし、それからヘッドホーンをはずした。
「何を聞いてるの?」と彼女がきいた。
「ジャズ」
「だれ?」
「ジョン・コーツ」
彼女は男の方に振向き、「知ってる?」ときいた。男は笑って、首を横に振った。
「わたしも知らないわ」
「ぼくもいま初めて聞いたところですよ」
「なあんだ」
彼女は男と顔を見交わしてから、「ちょっと聞かせてくれない?」と言った。
「いいですよ」
ぼくは上半身を起して、彼女にヘッドホーンを手渡した。彼女はそれを耳に当て、しばらくの間、小さく頭でリズムを取って、聞き入った。その間、一度だけ彼女の向うにいる男と目が合い、男は目礼した。ぼくも軽く頭を下げた。
「ピアノ・ソロね」
ヘッドホーンをはずして、彼女が言った。
「全部そうみたいですね」
彼女は再びヘッドホーンを当て、しかし急にはずずと、
「あなた、泳げるんでしょう?」
ときいてきた。ぼくはちょっと驚いた。
「そりゃ、まあ、一応人を助ける程度には」
ぼくがそう答えると、彼女は一瞬わけがわからないという顔をし、それから急におかしそうに笑った。
「そういう意味じゃなくて」と彼女は笑い声で言った。
「今、泳いでも差しっかえないかっていう意味」
「ああ、なるほど」
「いいの?」
「ええ、あと三十分くらいありますから」
彼女は男のほうに顔を向け、「この人と泳いできたら」と言った。男はぼくを見た。
「この人ね」と彼女は今度はぼくに言った。
「大学でボート部だったのよ。それに高校のときは水泳。だから泳ぎは上手なのよ」
ぼくは男を見た。男は笑っている。
「あなたも水泳やってるの?」
「ええ、大学三年まではクラブで」
「だったら、競争してみたら?」
彼女は男の方を向き、「どう?」と言った。
「現役の人にはかなわないよ」と男は笑って答えた。低い声だった。
「だったら、いいじゃない。負けてもともとなんだから」
男は苦笑した。
「わたし、しばらくこのカセットを聞いているから、泳いできなさいよ」
そして彼女はぼくのほうを見た。「ね、泳いできたら」
ぼくは男を見、しばらく考えてから、「それじゃあ、ひと泳ぎしますか」と立上がった。ぼくがヨットパーカを脱ぐと、男も腰を上げ、ぼくたちは熱い砂を踏んで、ゆっくりと海のほうへ向っていった。
「赤いブイのところまで競争よ」という彼女の声が背後から聞こえてきた。もちろんぼくは競争する気などなかった。
陽に暖められ、脹れ上がった体が、海に入った途端、急に引き締まる。胸のあたりに水をかけ、ぼくは男のほうを見ないで海の中に体を投げ出した。大きく、ゆっくりとクロールで泳ぐ。波がぼくの体を持上げ、ぼくはそのゆったりとした間隔にクロールのピッチを合わせた。
見当をつけて顔を上げると、ブイはもうすぐだった。男はと思って見ると、ブイを越えて沖のほうへどんどん進んでいる。ぼくは小さく笑った。
ぼくもブイを過ぎて、泳いでいった。男の泳ぐところまで、泳ごうと思ったのである。少しピッチを上げる。しばらくして顔を上げると、男はまだ泳いでいた。海岸のほうを見ると、かなり遠くまで来たことがわかった。ぼくは再び泳ぎ出す。別に意地を張るつもりはなかったが、ここまで来て引返す気にはなれない。ぼくはピッチを上げ、かなり長い時間泳ぎ続けた。腕が疲れてき、海水を少し飲んだ。立泳ぎになって、あたりを見回すと、男が浜のほうへ泳いでいくのが見えた。ほっとして、ぼくも向きを変えた。
男はブイにつかまって、休んでいた。ぼくはその横をクロールで泳いでいった。
浜へ上がると、彼女が波打際のところまできて、心配そうに沖を見ていた。
「あの人、大丈夫?」と彼女がきいた。
ぼくは腰に手を当て、息を整えてから、「大丈夫でしょ」と答えた。
重い体を運んで、バスタオルの上に横たわると、快い虚脱感が全身を満たした。こんなに長時間泳いだのは久し振りだった。ぼくは目をつぶった。
しばらくたって、横に彼女と男のやってきた気配がした。目を開けると、彼女が、足を投げ出して坐った男の背後に膝で立ち、赤いバスタオルで男の髪を拭いていた。
「ほんとうに無茶をするんだから、わたしびっくりしたわ」
男の耳許で、彼女は囁くように言った。男は黙っていた。
「あんなに沖まで行くんですもの、わたし、もしかしたら途中で溺れるんじゃないかって気が気じゃなかったわ」
「もういい」
男はそう言って、頭に手をやり、彼女の手からバスタオルをもぎとった。そして顔を曲げた拍子に、ぼくと視線が合った。ぼくがそらそうとする前に、男は口許をゆがめて笑った。紫色の唇をしていた。ぼくも笑おうとしたが、顔がぎこちなくなって、うまくいかなかった。
バイトの一人が交替を告げにきて、ぼくはヨットパーカを手に立上がった。
6
翌日、ぼくは監視のときも休憩のときも、砂浜を注意深く眺めて二人を探したが、見つからなかった。
夜、巡回で砂浜を歩いていたとき、砂が切れて短い草に変るあたりに、ひとつの人影を見つけた。手に持ったサーチライトの光を投げかけると、その腰を降ろしていた人影がこっちを向いた。白い光の中で、のっペりとした顔に見え、髪の形から女だということがわかった。旅館の浴衣を着ていた。顔はすぐに海のほうに向き直り、ぼくは光の中に女の姿を捉えながら、ゆっくりと近づいていった。
女のそばまで来て、声をかけようとしたとき、ぼくは女が彼女であることに気づいた。
「あれ」ぼくは思わず変な声を出した。その声に彼女はぼくのほうを見上げたが、まぶしいのでまた顔をそらしてしまった。
「こんばんは」とぼくは言った。ライトを砂浜に向ける。彼女は今度はじっとぼくを見、「ああ……」と呟くように言った。そして横坐りになった下駄ばきの足を引きつけて、立上がった。
「夜も監視をするの?」と彼女がきいた。
「ええ、一日交替ですけど」
「そう。大変ね」
ぽんという音が聞こえ、ぼくたちは音のしたほうを見た。百メートルばかり向うの波打際で、数人の人たちが花火を打上げているのだった。そばにある石油ランプの光の中で、彼らは楽しそうに動いていた。
またぽんという音がし、同時に光の矢が空に飛んだ。かなり高くまで上がって、それはパチパチという音と共に破裂し、無数の小さな光の矢になった。あたりの海面が白く照らし出され、その中に光の矢はゆっくりと落ちていった。
「きれいね」と彼女が言った。しかしその言葉には少しもきれいという感じはなかった。
「そうですね」とぼくは答えた。
ぼくたちは黙り込み、自然と次の花火を待つような恰好になった。しかし花火はなかなか上がらず、ぼくは居心地の悪さを感じた。
「だんなさんは?」とぼくはきいてみた。
「え?」彼女はぼくの顔を見た。
「きのうまで一緒だったでしょう?」
彼女は微笑し、再び顔を波打際の人々のほうへ向けた。花火はまだ上がらなかった。
「あの人はだんなさんじゃないのよ」と彼女が向うを向いたまま言った。
「ああ、なるほど」ぼくは何気なしにそう答え、答えてから、何だか間が抜けていると感じた。彼女は鼻先で小さく笑い、「そうね、なるほどという関係なのよね」と自嘲気味に言った。ぼくはちょっと驚いた。
花火が上がり、空が明るくなった。今度のは赤い色がついている。人々の騒ぐ声がここまで聞えてきた。
「監視の仕事はもうおしまい?」と彼女がきいた。
「いいえ、まだ」
「一緒についていってもいい?」
ぼくは一瞬返答に詰った。
「そりゃ、構いませんけど……」
ぼくたちは並んで砂浜を歩き始めた。背後で、またぽんという音がした。
「ねえ、Kさんて、どういう人だったの?」
しばらくして、不意に彼女が言った。
「どういうって……まあ、普通の男でしたよ」
「皮肉っぽい人だったでしょう?」
「そう、確かにそういうところはありましたね。でも、どうして……」
「巻頭の言葉よ」
「ああ、あれ」
ぼくは簡単に説明した。
「それに、ちょっぴり残酷なところもあった人ね、きっと」
「残酷?」
「ええ」
「そうですか」
「特にあの小説なんかはね」
「……『これが最後』、ですか」
「ええ」
ぼくは少し考えてから、わからないと呟いた。
「気にしないでね」と彼女は笑いながら言った。
砂浜が岩場に変るところまでやってきて、そこで巡回の仕事は終りだった。そのことを告げると、「わたし、邪魔をしなかったかしら」と彼女が言った。
「監視といっても、形ばかりですからね」
「昼間も?」
「いや」とぼくは苦笑した。「昼間は真剣です。ご心配なく」
彼女は笑った。
「今までに人を助けたことある?」
「ええ、三人ばかり」
「どうだった?」
「どうって?」
「どんな気持がした?」
「そりゃうれしいですよ。生返ってくれればね」
「じゃあ、死んだ人もいたのね」
「ええ、子供でしたけど」
「そう」
ぼくが引返そうとすると、彼女は「わたし、もう少しここにいるわ」と言って、浴衣のすそを気にしながら、砂浜に腰を降ろした。ぼくはライトを置いていこうかどうか迷い、結局手に持ったまま、彼女と別れた。
花火を打上げている人々のところまで戻ってきたとき、ぼくはいやな予感に襲われて、立止った。後ろを振返り、まさかと思った。そんなはずはないさ。しかしぼくは体の向きを変え、ライトで前方を照らしながら、急ぎ足で砂浜を戻った。
白い光の中に岩場が映り、ぼくはあたりの砂浜に光を走らせた。しかし彼女の姿はどこにもなかった。ぼくは動悸を感じた。
さらに岩場に近づき、砂の乱れ具合から、先程ぼくと彼女がいたと思われる場所にきたとき、光の中に、脱ぎ捨てられた浴衣と女物の下駄を見つけた。ぼくは反射的に、海にライトを向けた。光の当ったところだけ、小さな白い波頭が現われた。
ぼくはライトを左右に振りながら、海面に光をはわせた。かなり沖を照らしたとき、光の中を白い色が通り過ぎ、ぼくは光を戻して再び白い色を捉えた。
彼女の背中だった。右肩のかげから赤い色がちらちらし、ブイを抱え込んでいるのがわかった。ぼくはとっさにどう判断してよいか迷い、光の中に彼女の姿を捉えながら、波打際まで走っていった。そして大きく声をかけようとして、思わず口をつぐんだ。泣いている、ぼくはそう感じたのだ。
ぼくはしばらくの間、彼女の背中を見つめ、それからあわてて光を彼女からはずした。浴衣と下駄のあるところまで戻り、ぼくはそのそばに腰を降ろした。彼女の姿は、かすかに白く見えていた。
どのくらいそうしていただろう。やがてぼくは立上がり、その場を離れた。ぼくがいては、彼女は海から上がりにくいだろうと思ったからだ。少し行って、ぼくは戻り、着ていたヨットパーカを脱いだ。そしてそれを浴衣の横に置いた。タオル地なので、体を拭くにはちょうどいいだろうとぼくは考えたのだ。
7
翌日、ぼくは九時頃起きた。朝食をすませ、玄関から仕事に行こうとすると、フロントにいたおかみさんがぼくを呼び止めた。
おかみさんは手にぼくのヨットパーカを持っており、そばまでやってくると、
「けさ早く女の人が見えてね。これをお渡しするようにって」
ぼくはパーカを受取った。いくらか湿り気があった。
「それから、いろいろありがとうってお伝えするように頼まれましたよ」
「ありがとう、ですか」
「ええ」
ぼくはパーカを手に持ったまま、隣の旅館へ寄ってみた。しかし彼女は朝早く発ったということだった。
それから二週間たって、ぼくのアルバイトは終った。玄関で、バッグを横に置き、靴をはいているところへ、旅館組合の男が走り込んできた。
「上がった、上がった」と男は奥に向って叫び、もどかしそうに靴を脱いだ。それからやっと気づいたようにぼくを見、「にいちゃん、上がったよ、この前の女だ」と言った。
ぼくはすぐにわかった。五日前に若い女性が行方不明になり、ぼくたちバイト学生や組合の男たち、それに警察官らが舟に乗って探し回ったのだった。
ぼくはバッグを下げて、ゆっくりと玄関を出た。背後で、男の警察へ電話している声が聞えていた。
ぼくは海へ向う道とバス停へ向う道に分れたところまできて、少し迷った末、海へ向った。上がった死体の顔を確認しておこうと思ったのだ。しかし松林を過ぎて、砂浜に輪になった五、六人の男たちの姿を見、彼らの足許に死体らしきものが横たわっているのを見たとき、ぼくは向きを変えた。
なかなか来ないバスを待ちながら、ぼくは自分がひどく無力な存在のように感じていた。それは一時間余りも人工呼吸をしたあげく、結局子供は生返らないとわかったときの気持に似ていた。
バスが来て、ぼくはベンチから立上がった。むき出しのすねを風が通り過ぎ、ぼくはその意外な冷たさに少し驚いた。それは七月にここに降り立ったときの、湿っぽく、まとわりつくような風とは、はっきりと違っていた。
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