ガリバーたちの饗宴     津木林 洋


          1

 清史が健次と一緒にスタジオに着いたとき、隆正と保男はまだ来ていなかった。彼は舌打ちをした。彼等の遅刻はいつものことだったが、一週間後にコンサートを控えたきょうは、笑ってはいられない。仕方なく二人で、アンプとドラムを車から地下まで、三往復して運んだ。健次はドラムを組立てると、すぐにリズムを刻み始め、これを見て、清史は、あいつらもケンみたいに練習熱心だといいんだがと思った。
 管理人が録音室からガラス越しに見ている。清史は笑いかけ、チューニングが終ってから彼を客と見たてて、<ビヨンド・ザ・ホライズン>の独奏部分を勢いよく弾いたが、途中で間違えて、肩をそびやかした。管理人は腕組みをとくと、自分を指さし、それからスタジオの中を指さした。
「なに?」
 聞こえるはずがないのに、清史は思わず言った。管理人は録音室を出て、スタジオの重いドアを少し開けると、顔をのぞかせた。
「入ってもいいかな」
「そりゃ構わないけど、おっちゃんにロックがわかるの?」
「いや、わしにはわからんけど、なんか近頃えらく張切っとるようだから」
 言いながら管理人は入ってきた。
「そう、コンサート、だよ、コンサート。やっとまともな仕事が舞い込んだんだ」
「ほう、そいつはよかった。やっと認めてもらえたのか」
「そうさ。これからはじゃんじゃん仕事をやって、有名になって、テレビにでもどんどん出てやるさ」
 管理人はちょっと笑ってから、
「いいね、今の若い人は。好きなことをやって生きていけるから」
「好きこそもののなんとかでね。これで金がかせげりゃいうことないよ」
「そうそう、金のことだけどね」管理人は声をひそめた。「値上げの通知がいっただろ?」
「え? ああ、あれか。ふざけやがって、五割のアップだってよ。日曜なんか、おれたちが使わなくちゃ、一銭のもうけにもならないところなのに」
「いや、それが結構あるらしいよ」
「それはそうかも知れないけど、前途有望なおれたちに低料金で貸してくれても、悪くはないと思うけどな」
 清史は弦を叩きつけるように弾いた。アンプから音のかたまりが飛び出して壁に反射し、スタジオ内の空気を揺がした。管理人は顔をしかめ、しかし目は笑いながら
「うちの社長はだめだね。ロックよりも演歌だから」
 そのとき、保男が黒いギターケースを持って入ってきた。
「すいません、遅れちゃって」
「ほう、これはまたお早いお着きで」と管理人がひやかした。
「あ、きつい、きつい、カウンターパンチ」
 保男は頬を押さえる仕草をした。
「どうせ、また女遊びだろう」
 きつく言うつもりが、ついふざけた調子になって、清史は苦笑いした。
「遊びだなんて。おれはいつでも真剣ですよ。真剣に遊んでいる」
 管理人は声を出して笑い、「気をつけなよ、女は恐いから」と言って出ていった。保男は舌を出した。
「あーあ、ひどいめに会っちゃった」
 ケースを置くと、パイプ椅手に体を投げ出すようにして坐った。
「ねえ、キャップ、泣かれちゃったんですよ、きのう」
「むりやり、やるからだろ」
「違いますよ、ホテルに入るまではにこにこしてたんですよ。それが、いざとなったら泣き出しやがんの。おれ、あったまに来ちゃった」
「それで、そのまま帰ったのか」
「とんでもない。なんとかなだめすかして、やりましたよ。おかげでこっちは睡眠不足」
「ひでえ野郎だ」
 隆正がやって来たのは、それから三十分ぐらいしてからだった。
「悪い、悪い」
 隆正は顔を出すと、すぐに引っ込めた。<マイハンド・インユアハンズ>のAマイナーの部分を演奏していた三人は、ちらっと見るだけで、そのまま続けた。しかし次に、隆正が黒人と一緒に現われると、保男がやめ、清史が気付いて腕を止め、ドラムが中途半端なところでやんだ。スタジオの中が急に静かになる。
「なんだ、なんだ」
 保男がギターを床に置いて、近寄っていった。
「おれの友達、名前はフィニー」
「おまえにこんな友達がいたのか」
 隆正は笑って答えない。変な邪魔が入ったな、と清史は黒人を見てつぶやいた。
 隆正の要領を得ない説明によると、きのうの晩、飲みにいった帰りにこの黒人に映画館の場所をきかれ、それで案内し、一緒に見て、自分のアパートにつれていったというのだ。
「だって、こいつが映画館に泊まるっていうもんだから。そりゃオールナイトだからできないこともないけど、そんなことするより、おれのところに泊まれって、まあ、そういうぐあいに」
「こいつ、日本語ができるのか」と清史がきいた。
「できないでしょう」
「でしょうって、そうしたら、英語か。おまえ英語できるのか」
「そんなもの知らなくても、だいたいわかりますよ」
「それで何がわかった?」
「名前はフィニー」
「そのほかには」
「全然」
「それじゃ、どうやっておまえのアパートへつれていったんだ」
「レッツゴー、マイアパートっていって。あとは身振り、手振りで」
「お前は長生きするよ」
 フィニーという黒人は、珍らしそうに録音室を眺めたり、壁に寄せてあるピアノをなでたり、ドラムのスティックを取ると、小さくリズムを刻んだりしていた。
「おまえ、ひょっとしたらホモ気があるのと違うのか」
 保男が真顔できいた。
「ばか」
「それでどうしてここへつれて来たんだ」
 清史はちょっといらいらしてきた。こんなことで大丈夫なのかと思う。
「おれが練習に行くって、ギターを弾く真似をして説明したら、一緒に行くって言うものだから」
 へイ、フィニー、と清史は手招きした。フィニーは軽いステップを踏みながら近づいてくる。
「おれは清史、こいつは保男、こいつは健次」と清史は英語で紹介した。「隆正は知ってるだろ?」
 かっこいい、と保男が叫んだ。
「タカマサ?」フィニーは変な発音をして、隆正を見た。
「おれ、リュウって教えたんだ」隆正は首をすくめた。
「リュウっていうのはニツクネームだ」と清史は説明した。
「オー、アイシー」
 フィニーは目を見開いて、首を縦に振った。
「アイム……」
 聞き取れない。「え?」
 フィニーはもう一度言い、それからゆっくりと発音した。フィンリンソンと言っているのがわかった。
「フィンリンソンが本名か」隆正が納得したようなしないような顔でつぶやいた。
「フィニーというのは、あんたのニックネームなのか」と清史がきく。
「イエス」そして粘りつくような発音で、まくしたてた。
「何て言ったんです?」保男がきいた。
「そんなこと、おれにわかるか」 清史はどなるように答えた。
「どこから来たんだ?」健次がなめらかな英語できいた。
「カリフォルニア」
「おっ」と保男が言った。「ケン、おまえ、英語ができるのか」
「高校のときに、ESSに入っていたから」
 健次は照れ臭そうに答える。
 それから、彼等は簡単な英語を駆使して、フィニーが二十七才であること、きのう船で日本に着き、一週間ぐらい滞在すること、アフリカに行く途中であることなどを知った。
「アー・ユー・ニグロ?」
 ふと保男が英語を試すみたいな軽い気持で尋ねた。三人は笑っていたが、その瞬間、フィニーの顔は引きしまった。
「ノット・ニグロ。アイム・ブラック!」
 フィニーは親指を自分の胸に突き立てて、叫んだ。訳がわからない。清史はどうにでもなれという気持で、聞きかじりの文句を口にした。
「ブラック・イズ・ビューティフル」
 すると今度は、フィニーが呆気に取られた表情をし、清史たちと見つめあう恰好になった。
 突然、フィニーは笑い出した。おかしさが腹の底から湧き出てくるみたいに体を揺さぶり、清史の肩を大きな掌でつかむと、何か言葉を連発しながら笑いこけた。
「あやまれよ」と隆正が言った。「どう言うんだ」と保男は健次にきき、あやまった。
「ネバー・マインド……」
 まだ笑い声だった。
「変なやつ」と保男が言った。

 清史たちが練習を始めても、フィニーはスタジオを出ていこうとはしなかった。壁のそばの椅子に坐って、右足でリズムを取っている。気が散るから出ていってくれと言いたかったが、たかが黒人一人でおたおたするのはおかしいと清史は意地になっていた。感覚を慣らすための<フォ・ユア・ラヴ>はもう自分たちのものにしているので、割合うまくいった。ボーカルの部分はさすがにやりにくかったが、清史は発音に自信があったので、堂々と歌いまくった。
 だが次の<ビヨンド・ザ・ホライズン>は習得してまだ日が浅く、通して演奏したのは二、三回しかない。うまく合わないのは仕方がなかったが、きょうのは特にひどかった。清史は何とか我慢して弾いていたが、ドント・ギブ・ミーと歌うところで、呆れ返って、だめ、だめ、と手を振った。
「どうも、リズムののりが悪いなあ。リュウ、おまえ、走り過ぎじゃないの。それにヤスオ、おまえはフラットになってるなあ。もっときばってみろよ」
「そうかなあ」
 保男は首を傾けながら、小さく弦をはじいた。やっぱり、あいつを追い出したほうがいいかと清史はフィニーを見た。フィニーはウインクをしてみせた。
「あんた、ロックが好きなのか」と清史は声を掛けた。
「イエス……」と言って何かしゃべったが、わからない。え? という顔をすると、フィニーは椅子から立上がって、近づいてきた。そして「グッド・フィーリング」と言うと、体をゆすった。いい感じ、か。
「サンキュー」と清史は、Vサインを突き出した。フィニーは早口で何か言うと、笑いながら、またウインクをした。
 一時過ぎに、由美子が昼食を持って現われた。赤いバスケットを下げている。「めしだ、めしだ」と清史たちはギターストラップを肩からはずした。
「あら、新しいメンバー?」
 フィニーを見つけると、由美子は驚いた顔をした。フィニーはやあというように手を振った。
「リュウがつれてきたんだよ」と保男が答えた。
「へえ、リュウくんが……」
 清史が手短かに説明した。
「おもしろいわね」と由美子はフィニーに目をやった。
「先生、英語もできるんだろ?」と隆正が言う。
「簡単な会話ならなんとかなるわ」
 清史がフィニーを呼んだ。一緒に昼食を食べようと思ったのだ。フィニーは近づいてくると、右手を由美子に向け、清史に何か言った。
「何て言った?」と清史は由美子にきいた。由美子はおかしそうに笑っている。
「何て言ったんだよ」
「この魅力的な女性を紹介してほしいって」
「よく言うよ、こいつ」と保男がフィニーの脇腹を軽くこづいた。
「彼女は北沢由美子。おれたちのパトロンだ」
 そこまで言うと、清史は「えーと、それから」とつまった。
「中学校の数学の先生って、どう言ったらいいんだ」
「いいわ。自分で言うわ」
 由美子はきれいな発音で自己紹介した。さすが、と隆正がはやしたてた。フィニーが何か言い、由美子がうなずく。
「何て言ったんだ」清史がもどかしそうにきいた。
「彼も先生をしてたんだって。高校の、歴史の」
「へえ、同類か。それで、歴史の先生がどうしてアフリカなんかへ行くんだ」
「きくの?」
「いや、別に。どっちでもいいけど」
 由美子が質問すると、フィニーは天井を向いてちょっと考え込み、ぽつりと言った。由美子はきき返し、うなずくと、
「一種の冒険だって」
「冒険? 変なの」
「めしにしようよ」と保男が突拍子もない声を出した。
 由美子の持ってきたものは、握り飯とハンバーガーとフライドチキンだった。フィニーにも勧めると、「サンキュー」と言って見ていたが、やがておにぎりを黒い指でつまむと、不思議そうに眺め回した。由美子が説明する。彼はうなずいて、それを口に含み、半分に割った。そして中から出てきた赤いものについて説明を求めた。梅干の肉だ。由美子は説明に窮し、適当にごまかした。フィニーは納得のいかない顔で、口に放り込むと、瞬間に顔をしかめた。清史はあやうくハンバーガーを吹き出しそうになった。
 食事が終ったあと、清史たちが練習を始めようとしたとき、フィニーがピアノのことについて何か言った。清史はすぐに由美子を呼んだ。
「ピアノを弾いてもいいかってきいてるわよ」
「ピアノが弾けるのか」
 由美子がフィニーにきいた。
「ちょっとやってたんだって。あなたたちの演奏を聞いていて、急に弾きたくなったって言ってるわ」
「それを早く言えよ」と清史はうれしくなってアイニーの肩を叩いた。
「リュウ、頼む」
 隆正はOKのサインを指で示すと、ピアノに近づき、ポケットから針金の切れ端を取出した。そして、膝をついて鍵穴にそれを突込んだ。
 少しして、「やったぜ、ベイビー」という声とともに白と黒の鍵盤が見えた。清史たちはピアノをドラムとうまく釣り合う位置まで押した。
 フィニーは指を二、三度屈伸させてから、音を試すために、音階から短かいメロディを軽く弾いた。椅子に坐って見ていた五人は、やるうという顔で互いに見交した。フィニーがこっちを見て笑った。突然、由美子が拍子をし、清史たちもそれにつられて手を叩いた。
 フィニーが弾き始めた。音がはじけるようだ。ジャズだ。軽快なテンポに微妙に変化するハーモニー。
「<ナイト・アンド・デイ>だ」と健次が言った。
 フィニーの指が鍵盤に吸い寄せられるみたいに、行きかっている。上体が曲に乗って、揺れ動いている。保男も隆正も首を振って、足でリズムを取る。高く低く、あるいは細かく繊細に、そしてまた、ダイナミックに流れるピアノの音が、快く清史たちを包み込む。
 演奏が終った。健次が真っ先に手を叩き、うおうと保男がうなった。
「やるなあ」「すげえ、すげえ」
 清史たちはフィニーを取り囲むと、まるで彼が日本語を知ってるかのようにはしゃいだ。
「素晴しい演奏だったわ」由美子が英語で言った。
「サンキュー」
 フィニーは白い歯を見せて笑った。
 清史たちのアンコールで、彼はもう一曲弾き、清史はふと思いついて、ちょっと一緒にやってみないかと誘った。フィニーは軽く応じた。
「ビートルズをやろうか」と清史が提案すると、保男たちは歓声を上げた。バンドを結成した当時、自動車修理工場の倉庫を借りて、よく練習したやつだ。
「フィニーは?」
「オーケー」
 少し考えて、<ゲットバック>から始めた。最初のうちは呼吸が合わなかったが、そのうちピアノが溶け込んできて、一体となった。体が熱っぽくなる。

 フィニーとの共演のあと、コンサートの練習をしたが、終ったのは六時過ぎだった。管理人が姿を見せなければ、一晩中でも練習していたかったが、契約が五時までなので仕方がない。
 アンプやドラムを駐車場の車まで運ぶと、清史たちはフィニーの回りに集った。
「これからどうする?」と隆正が言った。
「どうするって、どういうことだ?」清史がきき返した。
「たとえば……こいつをつれて『ガリバー』へ飲みに行くとか」
「バカ」
 できれば清史もそうしたかったが、今は金がない。コンサートの練習のために、仕事はライブハウス『無常』のステージだけで、生活のためのアルバイトはみんなやめている。由美子が出してくれないかなと思って、清史は彼女に目をやったが、由美子は赤いバスケットを胸にかかえて、すましているだけだ。
「なんか悪いみたいだなあ。せっかく日本へ来たっていうのに」と保男が言った。
「心配しなくてもいいわよ」突然、由美子が口を開いた。「あした、わたしが東京を案内することになってるの」
「あしたって、学校は?」と隆正がきく。
「休みに決まってるじゃないの。十一月三日よ。ブンカの日」
「ああ、そうか。忘れてた」
「どうしておれたちみたいな若者の文化をになう人間に、金が回ってこないのか。これは問題だなあ」
 保男が芝居がかった声で言った。
「若者の文化って柄か」
 清史が保男の頭をこづく。由美子もフィニーも声を出して笑った。

         2

「ねえ、キャップ。大丈夫ですかね」
『無常』の控え室で待機しているとき、保男が言った。
「なにが?」
「先生とあの黒人ですよ」
「だから、なんだよ」
「わかってるくせに」保男は隆正を見た。「なあ、リュウ」
 隆正は女の子が保男に持ってきたウイスキーボンボンを口に入れながら、にやにや笑っている。
「あいつのあそこ、すげえでっかいんですよ」と保男が清史の顔をのぞき込んだ。
「おまえ、見たことがあるのか」
「いや、おれじゃないけど、リュウがきのう見たって」
「きのうね」と隆正が言った。「あいつを銭湯につれていったんですよ。あんまりくさかったもんだから。そこでばっちり。おれ、がっくりきちゃった」
「大きいだけがすべてじゃないさ。それに……」
 清史は口をつぐんだ。由美子のやつがそんなことをするかと言おうとして、急に気になり出したのだ。
 清史が由美子と知合ったのは大学のときだから、もうかれこれ五年になる。大学を卒業したら終りにするつもりの付き合いが、いつの間にか今まで続いている。半年以上も会わなかったりしたことがあったが、しかしそういうときに限って、清史のほうに問題が起り、彼は由美子を呼出して、しゃべりまくった。営業で入ったKプロダクションをやめたときもそうだったし、バンドを結成しようと思ったときもそうだった。よく会うようになったのは、バンドの仕事がうまくいかず、解散しようとしていたとき、由美子が金を貸してくれた四月以来だ。
「おれには関係ないさ」と言って、清史は煙草に火をつけた。
「そんなこと言って、いいんですか」
 隆正が意味ありげな顔で言う。
「あいつはあいつ、おれはおれ。なあケン」
「さあ」と健次は笑った。
「なんだ、おまえまで」
 出番がきて、ドラムを運び、彼等は薄暗いステージに立った。煙草の煙と汗くさい熱気が体を包む。チューニングをし、アンプの音量調節。健次が軽くドラムを叩く。それぞれが勝手に音節を弾いて、自分のギターの音を確かめる。清史はこの時が一番好きなのだ。
 ライトが当る。前の方に陣取った五、六人の女の子が「ヤスオー」と一斉に叫んだ。
「なんだい」保男が手を上げる。どっとみんなが笑った。
 夏にビアガーデンで演奏したときは、拍手も声援もなくて、清史たちはみじめな思いをしたものだった。客たちはゴーゴーガールを見るだけで、演奏など聞いておらず、要するにゴーゴーガールの踊れる音楽が景気よく流れていたらそれでいいのだ。健次や保男は馬鹿ばかしいからやめようと言ったが、隆正だけは、ただで生ビールが飲めるので喜んでいた。その仕事がすんでから、清史はプロダクション時代のつてをたよって走り回り、この『無常』での仕事を取ってきたのだ。
「ワン、ツー、ワン、ツー、スリー、フォー」
 彼等は<グルーミースカイ>をやり始める。

 一回目のステージが終り、四人が控え室でコーラを飲み、差入れのせんべいをつまんでいる時、『無常』のマネージャーが顔をのぞかせた。
「内藤くん、ちょっと」
 マネージャーは掌をひらひらさせて、健次を呼んだ。コーラのびんを口にしていた健次は、えっという顔をし、急にむせた。コーラが口の端からこぼれ、それを手の甲で拭うと、彼は三人をちらっと見やった。
「お呼びですよ、女の子から」
 保男が笑い声で言った。
「みよちゃんには内緒」
 隆正が付け加えた。健次はその言葉に苦笑いしながら立上がり、出ていった。
「ケンはどうも変ですよ」
 保男が声を落して言った。
「どう変なんだ」
 清史はとうに気づいていたが、わざととぼけた振りをした。
「だって、ここ一週間ほど沈んでいるみたいだし、ドラムだって、なんか前みたいに、ぱっと乗ってこない感じだし、……そりゃうまいことはうまいんだけど、何となくもうひとつねえ」
 保男はそこで隆正の方を見た。「おまえもそう思わないか」
 隆正はせんべいを口に含んだくぐもり声で、「思う、思う」と首を縦に振った。
「馬鹿野郎、何がもうひとつだ。それはおれがおまえらに言いたいセリフだよ。さっきの演奏にしたって、第四小節のAマイナーからAセブンに移るとき、サイドが遅れるし」と清史は隆正を指さした。「ヤスオ、おまえは目立ちたがって、変な音を入れるしな」
「あーあ、やぶへび、やぶへび」保男は舌を出した。
「ちょっとトイレに行ってくる」
 そう言って清史は立上がった。
「あ、おれも」と隆正も立上がりかけたが、「おまえはあと」と清史はわざと強い調子で言って、ひとりで外に出た。薄暗い廊下の突当りにトイレがあり、その途中を、事務所のドア越しの明かりがぼんやりと照らしている。清史は足音をさせないように歩き、ドアの所で立止まった。中から健次の小さな声が聞こえ、知らない男の声が、それにかぶさった。
 おれは立ち聞きするんじゃないぞ、と清史は胸の内で叫び、しかしやはり足音をたてないようにトイレにいった。あまり出ない小便をして戻るとき、清史は再びドアのそばに立った。
「……だからリーダーにはぼくがちゃんと話をつけるから、きみは心配しなくていいんだよ。きみはただ、移りますって言えばいいんだ。こんなチャンスは滅多にないよ」
 健次の引っこ抜きの話だと清史にはぴんときた。この声の男はどこかのスカウト野郎だ。清史はムカッとなった。この大事な時に、引き抜きの話なんか持ってきやがって。今度の日曜には初めてのコンサートがあるんだぞ。よりによって健次に目をつけやがって。清史はノブを乱暴に回すと、体当りするような感じでドアを開けた。
 ソファーに向い合って坐っていた健次とスカウトの男が同時に清史の方を見た。健次ははっと顔をこわばらせ、すぐにうつむいた。スカウトの男は赤い派手な、ネクタイをして、髪をてかてかに光らせ、薄く色のついた眼鏡をしていた。清史を見て、一瞬けわしい顔をした。
 清史は何か言おうとしたが、熱くなった頭の中で様々な言葉がぶつかり合うだけで、口からうまく出てこない。
「これはちょうどよかった。あなたに今、話にいこうと思っていたところなんですよ。まさにグッドタイミングだなあ」
 スカウトは大袈裟に手を上げて見せた。清史はその言葉を無視し、二人のところに歩み寄っていくと、「行こう」と健次に声をかけた。健次はうつむいたまま、小さくうなずき、腰を上げかけたが、それをスカウトが右手で制した。
「ちょっと待ってよ。ぼくの話も聞いてよ。ねえ、リーダーも一緒に坐って、三人で納得のいくまで話そうよ」
「話なんかないですよ。ケンの引っこ抜きの話だったら、絶対にお断りだ」
「弱ったなあ。そんなふうに言われると、ぼくの立つ瀬がないなあ」
 スカウトは苦笑しながら、後頭部を指でかいた。
「でもね、これは内藤くんにとって、絶好の機会だと思うんですよ。何しろ、ゼッドのドラムですからね」
 スカウトはそこで反応を見るみたいに言葉を切って、清史をじっと見た。ゼッドというのは独特の強烈なサウンドで、いま売出し中のロックグループである。そこのドラムスが血小板減少性紫斑病とかいう病気にかかって長期療養をしなければならなくなったという話は、清史もすでに知っていた。
 清史は胸にパンチを食らった気がした。そのパンチのため言葉が詰って出てこないのだ。確かにゼッドに入れば、ケンは有名になるだろう。そしてそれはおれたちが夢にまで見てきたことなのだ。しかしそんなに簡単なことなのか。ゼッドに引っこ抜かれる、有名になる。そんなに単純なのか。ちがう!……いや、おれはケンにしっとしている?……ばかやろう!
 清史は腹が立ってきた。ゼッドと聞いて言葉に詰った自分にも、こんな話を持ってきた、きざなスカウト野郎にも、そしてその話に乗りかけている健次にも……。
「いくらゼッドだってお断りだ。おれたちはずっと四人でやっていく。今まで一緒にやってきたし、これからも一緒だ。ゼッドなんかくそくらえ」
 いくらタンカを切っても気持がすっとしないことに、清史はまた腹を立てた。スカウトは余裕を持った笑いを見せながら、
「そりゃ、あなたの言うことはよくわかりますよ。今まで一緒に苦労してきたという意味ではね。しかし、いくらリーダーでも、内藤くんが移りたいって言ったら、とめようがないでしょう。ゼッドに入れば、今までの苦労が報われるんだから」
「おまえ、移るって言ったのか」
 清史は健次の肩に手を置いて言った。健次は首を横に振った。
「だから、そこは話し合いなんですよ。あなたのグループにはそりゃ痛手かも知れませんけど、その埋合せはきちんとやりますよ。金銭的にも、仕事の面でも、それに内藤くんの代りは、ぼくが責任を持って見つけてきます。それは絶対保証しますから」
 スカウトは真面目な顔になり、熱っぽい口調で話した。
 だったら、その代りをゼッドのドラムスにすえたらいいじゃないか、とよほど清史は言いたかったが、そういう言い方はあまりにも見えすいた楊げ足取りなので、さすがに口にしなかった。つまり、ゼッドのドラムスには健次しかいないと判断して、引っこ抜きの話を持ってきているのであって、その代りという人間は明らかに健次よりへたっぴいなのだ。へたっぴいをスカウトするなどということは、スカウトの意味がなくなってしまう。
「要するに、おれたちのグループはへたっぴいで我慢をしろということですかね」
 せめてもという感じで、清史は皮肉を言った。スカウトは、えっという顔をし、それから、声を立てずに大笑いした。
「行こう」
 清史は健次を促した。健次はためらうように、ちらっとスカウトを見てから、腰を上げた。スカウトは「まいった、まいった」とつぶやいて、後頭部をかいていた。
 二人がドアの所まできたとき、後ろからスカウトの声が飛んできた。
「内藤くんの奥さんが妊娠していることは知っているんでしょうね」
 ノブに手をかけていた清史は、ハッとして、思わず振向きかけたが、首がわずかに動いたところで、かろうじて踏みとどまった。そして、改めてゆっくりと首を回した。スカウトが皮肉な笑いを口許に浮べて、こちらを見ている。
「ええ、知ってますよ」
 わざと静かな調子で言ってから、清史は健次を引張るようにして廊下に出た。
 控え室に戻る途中で、「妊娠って、本当か」と清史は小声できいた。健次は小さくうなずいた。
 なんてこった、と清史は胸の内で叫んだ。よりによって、こんな時に妊娠するなんて。
「で、何ヶ月だ」
「三ヶ月」
 どうしておれに真っ先に知らせなかったんだと言いたかったが、やめた。
「それで、どうするつもりなんだ」
「………」
「そうだよな。こういうことは女の方が決めることなんだよな。……みよちゃんは生むって言ってるのか」
「できれば生みたいって」
 くそ、と清史は舌打ちをした。これで健次は引っと抜かれ、バンドは解散。せっかくうまくいきかけたのに、あえなく沈没か。
 しかしそう簡単に諦めるわけにはいかなかった。とにかくあしたみよ子に会ってみようと清史は考えた。
「よし、あした、おまえのところに行く。みよちゃんは仕事か」
 みよ子は喫茶店のキャッシャーをしているのだ。
「いいえ、ここ三日ほど、気分が悪いって休んでるんです」
「つわりか」と清史はつぶやいた。「それじゃあ、昼間いってもいいな」
「ええ」
 控え室に戻ると、保男と隆正が意味ありげな笑いを浮べて、二人を迎えた。
「なんだ、なんだ」と清史が言うと、「聞きましたよ」と保男が言い、健次の方を見た。
「なにを?」と清史はとぼけてみせたが、今度は隆正が、そんなことはおかまいなしといった調子で、
「ゼッドのドラムなんて、いいなあ」
「おまえ、立ち聞きしたのか」
「だって、トイレに行く途中で、自然に聞こえちゃったんですよ」
 余計なことを聞きやがってと思ったが、もうどうしようもなかった。
「すげえなあ。ゼッドだなんて。このう、うまいことやりやがって」
 保男が健次の脇腹を肘でつついた。健次は苦笑いともつかぬ複雑な表情を見せた。
「ほんとに、あのへンチクリンな病気、さまさまだなあ」と隆正も素直に喜んでいる。
 清史はまた腹が立ってきた。
「馬鹿野郎、まだケンがゼッドへ移ると決ったわけじゃないんだよ。ただそういう話があるっていうだけのことだ」
「あれ、それどういうことですか。むこうからスカウトに来たんでしょ」
 保男が揶揄するように言う。そして隆正と小声で何やら話してから、
「キャップは馬鹿野郎とか何とか言って、追い返したんでしょ」
「当り前だ」
「ああ、オーボー」保男と隆正は声を合わせて言い、うまく合ったことで、笑い声を立てた。
「横暴、大いに結構。おれは少なくとも、このバンドのリーダーだからな」
「おれ、心配になってきたな」と保男が言う。
「どうしてだ」
「おれがスカウトされそうになっても、キャップが親指でひねりつぶすんじゃないかと思って」
「おまえは大丈夫。そんな心配しなくてもいいよ」
「あれ、それどういう意味。なんか侮辱されてるみたいだな」保男は隆正の方に向き、「な、いまのは侮辱だよな」
 隆正は「さあ」と言ってとぼける。健次はそんなやりとりを、小さく笑いながら見ている。

 二回目のステージに立って、<マイハンド・インユアハンズ>を演奏しているとき、保男が清史の耳許で、「キャップ」と声を出した。演奏中に余計な声を出しやがって、と保男を見ると、彼はあごで右の方の客席を示している。清史は目を細め、保男の示す方向を見た。自分達にスポットライトが当っているため、客席は暗く、よく見えないが、誰かがこちらに向って手を振っている。じっと見ていると、さらに勢いよく振り、しばらくして由美子であることがわかった。
 なんだ、あいつ、と清史は思った。由美子が彼等の演奏を『無常』に聞きにきたのは、彼等が最初にここに出演したとき以来なのだ。なんでまた、と思ったとき、清史はははんと気がついた。フィニーをつれてきたのだ。間違いない。そう思って見ると、はたしてフィニーが由美子の横にぴったりと寄添っている。色が黒くて、いるのかいないのかわからないが、白い掌を高くかかげている。
 清史は照明係に合図を送って、赤い光に変えてもらった。こうすると、客席がよく見えるのだ。フィニーは由美子に寄添うだけでなく、肩に腕を回し、時々、彼女の耳許に口を近づけて、何か言っている。由美子はその都度、微笑んだり、首を振って笑ったりしている。清史にはそれが頬に口づけをしているように見えて仕方がなかった。
 由美子のやつ、酔っているのか。それにしても、あの黒人、慣れなれしい野郎だ。
 ソロパートがきて、清史は弦を叩きつけるように弾いた。何もかも無性に腹が立ってきた。しかし、右手だけに神経を集中したばかりに、ほとんど間違えたことのないところで、左手の押えを失敗し、一瞬、それまでの音の流れとは別の高い音が鳴ってしまった。はっとしたが、もう遅い。清史は打弦を抑制して、ごまかそうとしたが、そうすると音量がまるで違ってしまい、余計に失敗が目立ってしまった。
 ソロパートが終って、保男の方をちらっと見ると、彼は今にも吹出しそうな顔をしている。清史はますます面自くなかった。
 だから、というわけでもなかったが、演奏が終ってから、清史はあることを思いついた。フィニーを自分達の仲間に加えようというのだ。そうすれば由美子とあいつが、いちゃついているところを見ることもないし、おれだって馬鹿な間違いをしないですむ。
 清史は他の三人に相談もしないで、いきなりマイクに向ってしゃべり始めた。
「それじゃあ、ここで、ビートルズナンバーをイッパツやってみたいと思うんだけど、どうだろう……いいかな」
 いい、いい、やれ、やれ、という声と共に拍手が起った。保男たち三人を見回すと、呆気にとられた顔をしていた。保男がそばに来て、「どうしたんです。ヤードバーズはやらないんですか」と不満そうに言った。
「いいから、いいから、おれにまかしとけ」
 そう答えて、清史はまたマイクに向った。
「その前に、ここで一人の、ゲストを紹介しよう。われらのために、アメリカからわざわざ来てくれた、ピアノの名手(とそこで彼は右手をさっと由美子たちの方へ伸ばした)フィニー!」
 客達は清史の示した方向に顔を向けた。客席がざわめく。由美子がフィニーに何か言い、それにうなずいてから、フィニーが立上がった。あたりをうろついていたスポットライトが彼をとらえた。
「へイ、フィニー」
 清史は掌で輸を描くようにして、彼を呼んだ。フィニーは、何だかわからないというような顔をしている。清史は指で鍵盤をたたく真似をし、それから、ステージを指さした。由美子が下から何か言い、フィニーは腰をかがめて、それを聞いた。ようやく彼はわかったらしく、笑いながら通路に出てきた。スポットライトが彼を追う。
「拍手……」と清史はマイクの前で手を叩いた。それにつられるように、若者たちも一斉に拍手をした。隆正と健次は早速、壁際につけてあるピアノを移動させ始めた。保男は、なかなかうまいことを考えましたねというような笑顔で清史を見ている。
 スポットライトと共にフィニーがステージに立ち、清史はもう一度、「拍手」と手を叩いた。前よりも大きい歓声が起った。
「ビートルズ、オーケー?」と清史が言うと、「オーケー」とフィニーは答え、ウインクした。誰かが口笛をならす。
「それでは、まずゲットバックから」
 きのうの練習が思わぬところで役に立った。最初からほとんど息が合い、清史は、コンサートでも一緒にやれるんじゃないか、と思ったほどだった。

 フィニーとの共演が終って、清史たちが控え室に引込むと、すぐに由美子が顔をのぞかせた。
「はい、これ差入れ」
 ドーナツと紙パック入りのジュースだった。
「わあ、すげえ」保男が奇声を上げた。隆正が「さすが」と言いながら受取り、すぐにつまみ始めた。
「それじゃあ、わたし、帰るわ」と由美子が言った。
「最後まで聞いていかないのか」
 もう一回、出番があるのだ。
「ううん、きょうは疲れちゃったから帰るわ。悪いけど」
「フィニーは?」
「彼は最後までいて、リュウくんと一緒に帰るって」
「そうか」清史は少しほっとした。
「がんばってね」と他の三人に声をかけて、由美子はドアを開けた。清史も立上がって、一緒に部屋を出た。
「キャップ、先生にお礼を言っといてよ」と保男のひやかし気味の声が聞こえてきた。
「おもしろいわね、保男くん」
「あいつはいつもああだからね。……ところできょうはどうだった?」
「何だかお上りさんになったみたいな気分だったわ。皇居へ行ったり、東京タワーに上ったり」
「みんなが見ただろう」
「そう、そう、じろじろ見られたわ。六本木でね、腕を組んで歩いていたら、変な男がわざわざ前に回ってきて、わたしたちを見るのよ。わたし、頭にきて、にらみつけてやったけど、全然こたえないの。変に笑っているだけ。ほんとにいやらしいわ。黒人と歩いているのが、そんなに珍しいのかしら」
 それは、そいつが変な想像をしたからだよと言おうとして、清史はやめた。何だか自分のことを言われているような気になったからである。
 従業員出入口のドアを開けて、外に出たとき、清史は、みよ子の妊娠のことを思い出した。ひょっとしたら金がいるかも知れない。そう思うと、今のうちに由美子に言っておいたほうがいいという気になった。
「急な話で悪いけど、十万円ばかり都合してくれないかなあ。今度のコンサートでいろいろといるんだ」
 由美子は口をとがらせて、困った顔をしたが、目は笑っている。
「また、アンプ?」
「うん、まあね」
 ちょっぴり良心がとがめたが、この際仕方がない。
「いいわ、何とかするわ」
「恩に着るよ」
「それで急ぐの」
「いや、いる時はこっちから電話するよ」
「そう」
「じゃあ」
 由美子の後姿を、清史は悪いことをしたような気分で見送った。

           3

 次の日、清史は昼近くまで寝ていた。目が覚めてからも、きょうみよ子にどう話したらいいかと考えると、なかなかふとんから出る気になれなかった。きのう寝る前にもいろいろと考えてみたが、結局は、今回はみよ子に諦めてもらうしかないというところに落着くのだ。そうでなければ、スカウト野郎の思うつぼになってしまう。
 よし、決めた、と掛声をかけて、清史はふとんから出、服を着換えた。近くの食堂で昼食をすませ、さあ、健次のアパートへ行こうと思ったが、どうにも気が重い。清史は喫茶店に入って、もう一度考えてみることにした。
 みよ子がどうしても生みたいと言ったら、そのときはどうする? みよ子に実家があれば、しばらくの間、そこで面倒を見てもらうのが一番いいんだが、彼女は一人だし、健次の両親にもそんな余裕はないだろう。いっそのことおれたちで面倒を見るか。いや、だめだな。保男やリュウが金を出すはずがないし、だいいち、あいつらはあっさりとこう言うだろう、ケンがゼッドに移ったら、一番いいんだよ。
 清史はいらいらしてきて、近くの棚から漫画雑誌を五冊ばかり持ってきて、テーブルの上に積み、片っ端から読み飛ばしていった。くそ、面白くもないとつぶやきながら、それでも全部読んだ。読み終って、カウンターのところへ行き、ピンク電話の受話器を取った。健次とみよ子がアパートにいるかどうか、確かめてみるのだ。
 管理人が出、それからしばらくして、健次の声が聞こえてきた。
「今から行くけど、みよちゃんはいるか」
「ええ」
「気分はどうなんだ」
「何か、いいみたいです」
「それで、おれが行くって言ってあるのか」
「いいえ、それはまだ」
「そうか。……あ、それからな、そっちへ行くまえに聞いておくけど、みよちゃんが生みたいって言ってるのは、おまえがゼッドに移ることを前提にしているわけか。それともそれには関係なく……」
「おれ、まだゼッドのことは何も話してないんです」
「え、本当か」
 それは好都合だと思ったが、しかしそのことを伏せて、みよ子と話合うのは卑怯だという気もする。
「もう一つ聞いておくけど、おまえは一体どう考えているんだ。そこのところをはっきりと聞いておかないと、みよちゃんに会っても話しようがないからな」
「………」
「どうなんだ。何でもいいから言ってみろよ」
「おれ……よくわからないんです。初めてみよ子から妊娠のことを聞いたとき、子供なんてとても無理だと思ったんだけど、みよ子は生みたいって言うし、ゼッドの話も舞込んできて、正直言って、迷ってるんです。でも、おれ、ゼッドには移りたくないし……」
「よしわかった。それじゃあ、今から行く」
 そう言って、受話器を置いてみたものの、みよ子にどういう風に話をしたらよいのか、清史にはわからなかった。なるようになれ、だ、そうつぶやいて、彼は喫茶店を出た。

 健次の部屋のドアをノックすると、出てきたのは、みよ子だった。
「あ、キャップさん」そう言うと、みよ子はすぐに顔を引込めた。
「健ちゃん、キャップさんよ」
「うん、上がってもらえよ」
 ケンはおれの来ることを話していないらしいなと清史は思った。
「さあ、どうぞ。散らかしてますけど」
 再び顔を見せたみよ子は、そう言って、ドアを大きく開けた。
 部屋は六畳と四畳半の二間で、四畳半の一部が板の間になっていて、そこに小さな流しのあるのが、竹のすだれ越しに見える。みよ子の言葉とは裏腹に、部屋の中はきれいに整頓されていて、清史は自分の部屋との違いを思うと、少しうらやましくなる。
「みよちゃん、妊娠したんだって」
 面と向って言うのは、いかにもわざとらしい気がして、みよ子がお茶をいれるために台所に立ったとき、彼女の背中に向って言った。
「ええ、三ヶ月なんですけど……」
 みよ子の当惑したような声が返ってくる。
「それで、どうすることにしたの?」
 清史はできるだけ軽い調子できいた。健次が心配そうな顔をしている。
「それが、健ちゃんがあまり嬉しそうな顔をしないものだから……」
 みよ子は素直に答えた。清史の、中絶するかどうかのニュアンスを含んだ言い方を、別に気にするふうでもない。これはいけそうだと清史は思う。
 お茶を運んできたみよ子は、卓袱台の上に湯呑みを三つ置くと、きちんと正坐して、健次と顔を見合わせた。
「子供ができるとなると、大変だなあ」
 言ってから、清史は、そのいやらしい言い方に自分でも嫌になった。思い切って、中絶しろと言ったらどうだ、と自分に腹を立てる。
「あたしが働けなくなったら、健ちゃん、ドラムばっかり叩いていられないし……」
「申し訳ない」清史は頭を下げた。
「あ、ごめんなさい。あたし、そういうつもりで言ったんじゃないんです」
「いや、それはわかってるけど、なにしろ本当のことだから」
「本当にごめんなさい」
 健次を見ると、彼は湯呑みを両手に持って、少しうつむき加減にしている。さっきから何も言わないのは、おれがここへ来た目的を知っているせいだろうな、と清史は思う。しかし彼はそのことをどう切出したらよいのか、まだわからないのだ。
「でも、あたし、生みたいんです。健ちゃんは、あたしが生むって言ったら、絶対反対しない人だから、いいんですけど、でも無理して生んで、健ちゃんのやりたいことができなくなったら、それも困るし……」
「子供ができたら、ここ追い出されるの?」
 清史は話を変え、またこんな自分に嫌気がさす。
「ええ」と言って、みよ子は部屋を見回した。
 清史は急に、何もかも話したくなった。ゼッドのことも、健次の気持も、おれたちグループのことも、そして自分が中絶を勧めにきたことも。もって回った言い方はもうたくさんだと彼は思う。
「実はね……」と言って、彼は健次に目をやった。「健次に、ゼッドのドラムスにならないかっていう話がきてるんだ」
「キャップ」と健次が言った。
「……ゼッドって、あの<燃える嵐>の……」
 みよ子は驚いて清史をじっと見、彼がうなずくと、健次のほうに向いた。
「健ちゃん、それ、ほんと?」
「ああ」
 健次がばつの悪そうな顔で答える。みよ子は見開いていた目を笑うように細めて、
「健ちゃん、ずるいわ。あたしに何も言ってくれないなんて」
「でも、まだ決ったわけじゃないから……」
「決っても決らなくても、そういう話はちゃんとするものよ。あたしたち、夫婦なんだから」
 みよ子は子供にさとすように言う。清史は思わず笑ってしまった。
「だから、経済的にはそう心配はいらないんだけど……」と清史は話し始める。健次がスカウトに返事を延ばしているのは、おれたちのグループから離れたくない気持と、子供を育てるためにはゼッドに行かなければいけないという気持の間で迷っているためだということ。もし健次が抜けたら、代りを探すのは困難だということ。
「せっかくチャンスが巡ってきたのだから、せめてもう一年、時間が欲しい」と清史は言った。「はっきり言って、きょうはみよちゃんに諦めてもらいたいと言いに来たんだ」
 みよ子は、ぴんと伸ばした両手を膝の上に置き、卓袱台の一点を見つめている。清史はあわてて付け加えた。
「でも、何だかんだと言っても、結局はみよちゃんが決めることなんだから、気にしないでくれよな、ほんとに」
 しかし、みよ子は堅い表情を崩さない。
「そう深刻になられると、弱っちゃうなあ」
 清史は保男が言うような口調で言ったが、自分でも間が抜けてると思う。
 しばらく沈黙が続いてから、みよ子が顔を上げた。
「ほんとに、一年待ったら大丈夫ですか」清史の目を見つめて言った。清史は一瞬答えに詰ったが、ここでは胸を叩く以外にない。
「うん、必ず食えるようにする。そりゃゼッドのようにはいかないかも知れないが、大丈夫だ」
 と思う、と言いたいのを清史は何とかこらえた。みよ子はじっと清史の目を見つめていたが、やがて、ふっと笑うような表情を見せた。
「あたし、赤ちゃん、諦めます」
「みよ子、おまえ……」と健次が顔を上げる。
「いいの、いいの。あたしも妊娠ってわかったときから、何かだめなような予感がしてたのよ。それに、健ちゃんに喜んでもらえなかったら、生まれてくる赤ん坊もかわいそうだもの」
 自分の思い通りになったにもかかわらず、清史は喜べなかった。本当に大丈夫なのかなと思う。もし一年たっても食えなかったら……。そんなこと、あるものか。いつもの自信はどうした、と清史は自分に言ってみる。
 しかし気持は沈んだままだ。こんな時、手にギターさえあれば、吹飛ばせるんだが……。
「あした、お医者さんのところに行ってきます」とみよ子が言った。
「別に、そんなに急がなくても……」
「おろすと決めたら、早いほうがいいんです。ぐずぐずしてたら、気が変っちゃうから」
 みよ子は清史が驚くほど、あっさりとした口調で言う。清史は少しほっとした。
 費用は清史が出すことにした。みよ子と健次は自分達のことだからと反対したが、清史は、いや、おれが頼んだことだからと納得させた。「ほんとに大丈夫ですか」と健次は心配したが、「五万や十万の金なら、いつでも都合つくさ」と清史は笑って答えた。
 健次のアパートを出たのは四時過ぎだった。清史は由美子に、手術費用の金を借りるつもりでいるのだ。きのうのきょうでは、いかにも早過ぎる気がしたが、みよ子があした医者に行くとすれば、遅くともあしたの朝、できればきょう中に金を渡しておきたい。
 由美子は五時半には帰っているだろうと、パチンコで時間をつぶしてから、由美子の家に電話をした。出てきたのは、由美子の母親だった。
「あの、由美子さん、いらっしゃいますか」
「由美子はまだ帰っておりませんが、どちらさまでしょうか」
「三田村という者ですが」
「三田村さん?……ああ、清史さんね。いつも由美子がお世話になっております」
「いいえ、こちらこそ、お世話になりっぱなしで……」と清史はあわてて口ごもる。
 由美子の家には、今までに何回か行ったことはあるが、なるべく母親と顔を合わさないようにしているから、彼女から「清史さん」などと言われると、まごついてしまう。
「由美子から聞きましたけど、今度の日曜にコンサートをおやりになるんですって」
「ええ、テレビ局から話がありまして」
「あら、そうしたらテレビに出るの?」
「いや、出るかどうかわかりませんけど、一応、テレビ局主催ということになっています」
「そう、いよいよ売り出しね」
 まるで新製品が出るみたいな言い方である。
「変なこと、お聞きしますけど、清史さんのロックって、難しい音楽ですの?」
「え?」
「由美子にね、わたしも行こうかしらって言ったら、お母さんにはわからないから、やめたほうがいいっていわれました。でもビートルズもロックですものね」
 清史は、彼女の口から「ビートルズ」という言葉が出てきて、あれと思った。
「……ビートルズ、お好きですか」
「大好きですよ。特に、あれ、何て言うのかしら……曲名は忘れちゃったけど、ほら、六十四歳になっても、愛を忘れずに、という歌があったでしょう?」
「フェン・アイム・シックスティフォですか?」
「あ、それ、それ。それにミッシェルなんかも素適な曲よね。ビートルズの前はプレスリーもよく聞きました。わたしが今の由美子ぐらいのとき、ロックンロールがはやって、主人とよく聞きに行きましたのよ」
 そう言えば、前に由美子から、そんな話を聞いたことがある。
「今度のコンサートには、ビートルズナンバーもいくつかやる予定ですから、由美子さんと一緒にいらして下さい」
「あら、ほんと? それなら是非行きますわ。由美子がだめだと言っても、内緒で行きますから」
 そう言って彼女は笑った。清史はこんなふうに彼女と話すのは初めてだったが、なかなか話せる人じゃないかと思った。今まで避けてきたのは、悪かったような気がした。
「ごめんなさい。余計なおしゃべりをしてしまって。由美子に何かご用だったんでしょう」
「ええ、ちょっと……」
「伝言でよければ、しておきますよ。それとも帰ってきたら、こちらから電話をさせましょうか」
「いいえ、別に大した用じゃないんです。またのちほどこちらから電話をします」
 受話器を置いてから、清史はふーっと溜息をついた。女友達の母親と話をするというのは、何と言っても、気疲れのすることには違いない。
 清史はいったんアパートへ帰り、近くで夕食をすませてから、八時頃再び電話をした。今度は由美子が出てきた。
「夕方、電話くれたんですって」
「うん、五時半ごろだったかな。お母さんが出てきて、ちょこっと話をしたよ」
「ああ、それで母ったら、今度のコンサートには絶対に行く、なんて言ってるのね」
「ビートルズ大好きだろうだから、いいんじゃないの。こっちも二、三曲やる予定だから」
「そんなこと言ったの。そりゃ、ビートルズが好きだってことは知っているけど、お目当ては別なのよ」
「ベつ?」
「そうよ。わからない?」
「ぜんぜん」
「お目当てはね」と言って、由美子は声を落した。「あなたよ」
「おれ? そりゃ一体どういう意味だい?」
「未来の婿殿はいかなる人物でありましょうや」と由美子は芝居っ気を出して言う。
「えっ?」
「冗談よ。でも、母にそういう気があることは確かね」
「ほんとかなあ」
 そう言いながら、清史は、なるほど、なるほどと納得していた。別にいやな気はしない。むしろ愉快な感じがする。
「それはそうと、何か用事なの?」
「うーん、ちょっと言いにくいんだけど、実は、きのう言ってたお金が急に入用になったんだ」
「また、えらく早いのね」
「そうなんだ。悪いけど、都合つかないかなあ」
「いいわよ、あした渡すわ」
「今晩はだめ?」
「今晩? それは無理よ。十万なんてお金、銀行に行かなきゃないもの」
「だったら、五万でもいいんだ。とにかく今晩いるんだ」
 手持ちの三万と合わせて、八万なら何とかなるだろうと清史は思った。
「どうして今晩いるの? アンプを買うんじゃないの?」
「アンプ?」
「そうよ。きのう言ってたでしょ」
「ああ……」
 清史はすっかり忘れていた。
「アンプじゃないのね」由美子の声がいやに鋭く聞こえる。清史は何と答えるべきか、いろいろ考えたが、適当な嘘が浮んでこない。ええいという感じで、彼は本当のことを言うことにした。もっとも名前は伏せてだが。
「実を言うと、おれの友達のかみさんが妊娠してね、おろしたいって言うんだ。ところがそいつは文無しで、手術の費用なんて逆さに振っても出ないって有り様で、結局、おれのところに頼みに来たって訳なんだ。誤解のないように念を押すけど、友達のことだよ」
 由美子は受話器の向うで沈黙したまま、答えない。清史は少し不安になって、
「アンプだなんて言ったのは、悪かったよ。でもこんなこと、ちょっと言いにくいからなあ」
 しかし由美子は黙ったままだ。清史も相手の答えを待って、黙り込む。
 やがて由美子が静かな口調で言った。
「それ、ひょっとしたら、みよ子さんのことじゃない?」
 清史はびっくりした。そしてあまりにもずばりだったので、彼は否定することなど考えもしないで、思わず、「あれ、どうして知ってるの?」と言ってしまった。
「やっぱりね」由美子はつぶやくように言う。「きのうね、フィニーと一緒に彼女の働いている喫茶店へ行ったのよ。そうしたら彼女、休んでいて、そこで働いている女の子が、彼女、妊娠らしいって教えてくれたのよ」
「ふーん、そうか。それにしてもよくわかったなあ」
「何となく、ピンと来たのよ」
 それなら、かえって話しやすいや、と清史は気軽な調子で、
「実は、みよちゃんがあした病院に行くっていうもんだから、きょう中に金を渡そうと思って……」
「わたし、みよ子さんに会ってみるわ」
 清史の言うことなど聞いていない感じで、由美子が言った。
 え? 清史は脳天に一撃を食らった気がした。
「どうして会うの?」答えはわかっていたが、万が一という期待で、彼は尋ねた。
「何、言ってるの。もちろん思いとどまらせるためじゃないの。あなたもあなたよ。どうして止めないの。二人は別に赤ちゃんを生んだらいけないっていう関係じゃなし……」
「でも同棲だから……」清史は小声で言ってみる。
「同棲だからどうだって言うの。むしろいいことじゃない。赤ちゃんが出きたから、正式に結婚するということになるでしょ」
 由美子の剣幕に持されて、清史は何も言うことが出来ない。
「何も、あなたと言い争っても仕方がないのよね。だから、わたし、健次くんのアパートに行くわ。つれていってくれるでしょう?」
「今から?」
「そうよ。だって、みよ子さん、あした病院へ行くんでしょ」
「何も今晩でなくても、あしたでもいいじゃないか」
「変な人ねえ。お金なら今晩で、説得ならあしただなんて。あなたがいやだったら、わたし、保男くんに電話をして、健次くんのアパートの場所を聞くわよ」
 保男なんかに知られたら、余計にまずくなるので、清史はしぶしぶ承知した。待合せの場所を決めて、受話器を置く。その受話器を再び取上げて、彼は健次のところに電話をしようとしたが、やめた。今から由美子と一緒に行くから適当に話を合わせてくれるように頼んでおこうと思ったのだが、そんな小細工をすることに嫌気がさした。

 駅の改札口で待っていると、ピンクのカーディガンを着た由美子が出てきた。二人は並んで歩き始める。
「ここから歩いて遠いの?」
「歩いて十分くらいかな」
 由美子はそれから、「みよ子さんの妊娠、いつわかったの?」「どうしておろすなんて言ってるの?」「今の演奏活動じゃ、赤ん坊ができたら食べていけないの?」「でももう大丈夫じゃないの? 今度のコンサートで実力が認められたら、もっと仕事がくるんでしょう?」「もしだめだっても、赤ちゃんの一人くらい育てられるはずよね?」などと矢継早やに質問するが、清史はそれに、「ちょっと前」「わからない」「今はだめだね」「さあ」などと答えるだけで会話にならない。自然、由美子も黙りがちになり、そのうち、案内しようとする清史の足が速くなって、二人の間が離れてしまう。暗い四つ角を曲ったところで、由美子が「ちょっと待って」と走ってくる。
「何だか、わたしが行くのが気にいらないみたいね」
 ずばり言い当てられて、清史の頭はかっと熱くなる。
「そんなことないさ」とかろうじて答えたが、いっそのこと、このまま由美子をまいてしまおうか、などと思ってみる。
 健次のアパートに着いたとき、清史は、今度こそ本当のことを言ってしまおうと思ったが、結局できないまま、健次の部屋の扉を叩くことになった。「はーい」と言って、みよ子が出てきた。
「あら、キャップさん。それに先生も。どうしたんですか、今頃」
「ちょっと上がってもいいかしら」と由美子が中を覗き込むようにして言う。
「ええ、どうぞ」
 中に上がると、健次が訝しげな顔で二人を迎えた。清史と由美子は、みよ子の出してくれたクッションみたいな座ぶとんに坐った。みよ子が「お茶でも」と言って、流しに行こうとするのを、「お茶なんかいいから、みよ子さんも坐って」と由美子がとめた。健次が清史に何か聞きたそうな顔をし、清史は、つまりこういう訳なんだというように小さくうなずいた。
「みよ子さん、妊娠したってほんとう?」
 由美子が明るい声できく。みよ子はちょっと戸惑った表情を見せながら、うなずく。
「それじゃあ、中絶するっていうのも本当なのね」
 みよ子は、今度ははっきりと首を縦に振る。
「どうして。赤ちゃん、嫌いなの?」
「いいえ、そんな……」
 言ってからみよ子は苦しそうな顔をして、清史を見、それからうつむいてしまった。
「今のぼくらには、子供は無理なんです」
 健次が横から強い口調で言った。
「それは食べていけないっていう意味?」
 由美子は穏やかに尋ねる。
「とにかく無理なんです」
 おれのことは一切言わないつもりだなと思うと、清史は黙っていられなくなる。こういうことは苦手なんだな、おれ、と自分に言ってから、「もういい、もういい、おれが言うよ」と清史は右手を上げた。由美子も健次も清史の方を見る。
「実は、おれが頼んだんだ、中絶のこと」
 そして、清史は洗いざらいしゃべった。途中で健次が何か言おうとするのを遮って、一気に話した。由美子は聞き終ってからも、しばらく黙っていたが、やがて、
「そんなことだろうと思ったわ」と静かに言う。納得したのかなと清史は思ったが、そうではなかった。
「みよ子さん」と由美子はうつむいているみよ子に声をかけた。「あなた、子供を絶対におろしちゃだめよ。こんな男共の言うことを聞いちゃだめ」
 清史はむっとしたが、言われても仕方がないので、黙っていた。由美子は、なおも顔を上げないみよ子のそばへ行くと、彼女の肩を横から抱くようにして、「赤ちゃん、初めてなんでしょ」と耳許でささやく。みよ子はあごを胸に埋めるくらい深くうなずく。
「赤ちゃん、欲しいのよね」
 みよ子はまたうなずく。
「だったら、体に気をつけて、栄養のあるものを一杯食べて、丈夫な赤ちゃんを生まなきゃね。健次くんはね、まだピンとこないのよ。だから頼りないことを言ってるけど、でもそのうち……」
 みよ子が肩を震わせて泣き始めた。由美子が背中をさすると、みよ子は崩れるようにして、由美子の膝の上に顔を埋めた。由美子は彼女の髪をなでながら、顔を上げて清史を見た。清史は思わず視線をそらしてしまう。
「これでも、あなた、中絶を勧める気?」
 清史は答えない。言いたいことが山ほどありそうで、しかし何をどう言ったらいいのかわからない。
「ほんとにわたし、がっかりしたわ。あなたがそんなに自分中心の考え方をするなんて。なんのためにここまでやってきたのかわからないわ」
 体が熱くなり、頭の中にはいろいろな思いが渦巻くが、言葉が出てこない。清史は由美子をにらみつけ、由美子もにらみ返す。しかし由美子の勢いに負けて、彼は目をみよ子に向けた。みよ子はまだ泣いている。
「健次くんも健次くんよ。どうしてあなたまで、こんな人と一緒になって、みよ子さんを苦しめるの。もし中絶して、みよ子さんが一生子供を生めない体になったら、どうするの」
 健次はもううつむいてしまっている。清史は、「こんな人」と言われて、頭にかっと血が上り、思わず立上がってしまった。心臓の鼓動が耳の奥で聞こえる。
「どうしたの?」
「おれ、帰るよ」清史は言葉が震えそうになるのを押えて言った。
「逃げるのね」
「何とでも言えよ」
 清史は急いで靴をはくと、部屋を飛出した。
 彼は走った。マラソンランナーのように正確な足取りで。夜の冷気が熱くなった体から熱を奪っていく。その快さにひかれるように、彼は夜の道を走り続けた。そして、水銀灯がひとつだけついている小さな公園を見つけると、その中に入って、ベンチに腰を降ろした。両膝に肘を置いて、息を整える。呼吸がおさまってくると、由美子の言葉がよみがえり、清史は、もうひとっ走りと腰を上げた。そのとき、野球のバットが落ちているのを見つけた。子供用だ。彼はそれを拾い上げて、二、三回素振りをした。軽いので手応えがない。清史はふと思いついて、それをギターに見たてて、腰に当てた。弦をはじく真似をする。頭の中で音が鳴った。彼は<ビヨンド・ザ・ホライズン>の独奏部分をひいてみた。練習ではどうしてもうまくいかないところも、難なくこなしてしまう。彼はおもしろくなって、それから知っている曲を次々に演奏していった。みよ子の赤ん坊のことも、由美子の言葉も次第に遠去かっていき、エレキギターの音だけが頭の中で鳴り続けた。

            4

 清史は次の日、部屋に閉じこもって、オリジナル曲を立て続けに作った。きのうの晩、帰ってからも、公園での高揚した気分が残っていて眠られず、夜中の三時頃まで、ヘッドホーンを使ってエレキギターを弾いたのだった。健次のスカウトのことやみよ子の妊娠のことはどう考えたかと言うと、もうそんなことはどうでもよくなったのだ。バンドが解散になるならなったでいい。今度のコンサートでパッと花火でも上げて、また始めからやり直せばいい、と気楽に考えることにしたのである。ギターさえあれば、どんな風にしても食っていける、と自分でも少々きざっぽいとは思いながらも、それが実感だった。
 ただ、ひとつだけ残念に思っているのは、由美子とあんなふうにおかしくなってしまったことだった。確かに後から考えてみると、由美子がああ言うのも無理のないことだったが、もう少しおれの気持もわかってくれてもよさそうなものだと清史は思うのだ。だから由美子に電話をして、きのうの一件をあっさりと謝ってしまおうという気持はあっても、一方では、何もあいつに謝る必要はない。だいたい言い過ぎたのはあいつなんだから、と居直る気分もある。エゴイストと決めつけられたことが、清史にはこたえていた。
 次の日は練習日に当っていた。清史は車を運転して、いつものように駅前で健次をひろった。清史は健次の方から何か言ってくるだろうと思って、しばらく黙っていたが、健次は何か考えごとをするようにぼんやりとしているので、しびれを切らして、赤信号で止ったとき、清史の方から口を開いた。
「それで結局、生むことにしたのか」
 一昨日のことなどなかったように、あっさりときく。
「ええ」
「だろうな。あんな風に騒ぎたてる人がいたら、おちおち子供もおろせやしないからなあ」
 健次が小さく笑った。
「おとといは悪かったよ、ほんとに。おれって、カーッときたら、一つのものしか見えなくなっちまうから、だめなんだな。みよちゃんには本当に申し訳ないって思ってるよ。おまえからも、おれが謝ってたって言っといてくれよな」
「いや、だめなのはぼくの方なんです」
 健次はいやに思いつめた口調で言う。清史は、健次にこういうことを言わせる由美子にちょっと腹を立てた。
「いいの、いいの、そんなこと。それよりもこれからのことを考えようぜ。おまえは父親になって、ますますいい仕事をする。おれも一から出直して、がんばる。そういうわけだ」
「すいません」
「何もあやまることはないさ。おれはもう悟りを開いてるんだから、何が起ろうとへっちゃらだ。でも、今度のコンサートがすむまでは、一緒にいてくれよな」
「そりゃ、もちろん」
 青信号になる前に、清史は座席の後ろのドラムの入った黒いケースの間から紙袋を取って、健次に渡した。きのう作った曲の譜面が入っているのだ。
「これは?」と譜面を取出した健次が言った。
「きのうちょっとひらめいて、作ったんだ。最後ぐらいましなオリジナルでばしっと決めたいからな」
 健次はさっきまでの元気のなさが嘘みたいに、熱心に譜面を目で追う。
 保男と隆正は例によってまだスタジオに姿を見せていなかった。しかし清史はすでに悟りを開いているから、全く腹が立たないのである。二人はアンプとドラムを運んで、早速、きのう清史の作った曲を検討し始めた。
 少したって、隆正がフィニーをつれて入ってきた。
「おまえ、まだこいつと一緒にいるのか」
 隆正は顔をしかめて、額に手を当てる。
「キャップ、大きな声を出さないでよ」
「何だ、二日酔か」
「二晩、こいっと飲みっぱなし」
 隆正のギターケースを下げたフィニーは、日本語がわかるみたいに、笑って二人のやりとりを聞いている。
「おれ、とても練習できそうもないから、管理人のおっちゃんのところで、しばらく休んでいてもいいでしょ。見たところ、保男も来てないようだし……」
 清史はむかっとして、思わず怒鳴りつけようとしたが、やめた。悟り、悟り、と口の中でつぶやく。
「好きなだけ、休んでこい。しかし、あしたまでにおれの作った曲、マスターしなかったら、ぶっとばすからな」
 悟っていても、このくらいは言うのである。隆正はちょっぴり目を輝かせて、
「あれ、オリジナル作ったんですか。そりゃまた久し振りな。どんなのか見たいけど、今はだめ、今は休むほうがさき」
 最後は独り言みたいに言って、隆正は頭を押えながら出ていく。残されたフィニーは戸惑った表情で、ギターケースを持上げてみせた。「そのへんに置いとけよ」と日本語で言って、清史は部屋の隅を指さした。
 再び、健次とオリジナル曲を検討しようとしたが、所在なさそうにしているフィニーが、何とも目ざわりなのである。いっそのこと、三人で演奏しながら直そうかと清史は思った。健次にきくと、彼もその方がいいと言う。
「フィニー」と清史は手招きをした。壁にもたれていたフィニーが、にこにこしながらやってくる。
「おれの作った曲、一緒にやってみないか」
 健次に通訳させると、フィニーは驚いた顔をして、早口で何か言う。わからないけれど、清史はふんふんとうなずいて、譜面のコピーを渡した。フィニーは頭でリズムを取りながら、曲を追っていく。
「オーケー?」ときくと、フィニーは右手の親指を立てて、「イエス……」と言った。
 清史は管理人室へ行った。針金でピアノの鍵を開ける特技を持っているのは隆正だけなのだ。
 隆正は眼の上に折りたたんだタオルをのせ、古ぼけたソファーの上に横になっていた。管理人はイヤホンを使って、テレビを見ている。
「おっちゃん、悪いなあ」と清史が声をかけると、管理人は驚いて振返り、清史を認めると、耳からイヤホンをはずした。
「そんなことは構わないが」と管理人は言い、フィニーのことを尋ねた。清史は、今度のコンサートでキーボードをやってもらう予定だとでたらめを言い、詳しい話は避けた。
 隆正の眼の上の濡れタオルをめくると、彼はまぶしそうに片目だけ開けた。清史が手で鍵を開ける真似をして見せると、隆正は「あ、だめ、だめ」と言って目をつむり、清史の手からタオルを取ろうとした。清史がはなさないでいると、「この頭じゃ無理ですよ」と情けない声を出し、それから急に目を開けると、管理人の方に顔を向けて、「おっちゃん、ピアノの鍵ある?」とあっさりと言う。あ、馬鹿と思ったが、もう遅い。
「ピアノがいるのか」
「悪いけど、鍵をキャップに渡してやって」
「いや、金がないから、きょうはいいや」と清史はあわてて言った。管理人は机のひき出しから、鍵を取出し、「まあ、出世払いってことで、きょうはいいよ」と清史に手渡した。清史たちが無断でピアノを使っているのを管理人が見て見ない振りをしていることは、清史も気づいていた。おっちゃんの期待に応えられそうもないな、そう思うと、清史はちょっと寂しい気がした。
 譜面にはキーボードのスコアが書いてなかったので、フィニーと清史は相談しながら、ごく大雑把に一曲だけ書いて、早速、演奏してみた。<ランダム通り>と名付けた曲で、清史の一番気に入っているやつだ。メロディラインは沈んだ感じで、全体として重いのは彼の好みである。演奏していって、うまくないと思ったところはすぐに直していく。特に、フィニーは度々演奏をストップさせて、その止めた部分の前からやり直して、譜面に書込みをする。そうやって、二、三回演奏するうちに、曲が大体まとまってくる。
 昼前になって、ようやく保男が姿を見せた。ところが彼はギターを持ってきていないのだ。
「ギター、どうした?」
「実は、女の子に取られたんです」
 ばつが悪そうに保男は答える。清史はあきれて、怒る気にもなれない。土曜日の夜に寝た女の子につきまとわれたためだという。
「それは無理矢理やった子か」
「ええ」
 喫茶店ですきを見て、逃げ出したまではよかったが、ギターを置き忘れてしまい、戻ってみると、その女の子が胸に抱えて保男の現われるのを待っていたというのだ。それで保男は見つからないように、また店を出たのだ。
 清史は聞いていて、だんだん腹が立ってきて、「今すぐ行って、取り戻してこい」と怒鳴りつけてしまった。
「キャップも一緒に来てよ」
「馬鹿野郎!」
 保男はあわてて飛出していく。ほんとにどいつもこいつも勝手ばっかりしやがって。清史は、解散だ、解散だと心の中で叫んで、少しばかりうっぷんを晴らした。
 保男が帰ってきたら、昼めしにしようと思っていたが、彼はなかなか帰って来ず、一時間ばかりして、小さくドアが開いたと思ったら、保男が顔をのぞかせた。
「ギター、取返してきたか」
「ええ、まあ」
 しかし、中に入ってきた保男は何も持っていなかった。
「おまえ、ギターは?」
 それには答えず、保男はドアの外に向って強く手招きをする。「入ってこいよ」
 恐る恐るという感じで入ってきたのは、まだ高校生じゃないかと思われるほど子供っぽい顔の女の子だった。黒いギターケースを抱えたまま、ぴょこんとお辞儀をする。つられて頭を下げた清史はじっとその女の子を見てから、フィニーのそばを離れ、保男たちのところへ行った。
「ほら、これでわかっただろう。だからギター返せよ」
 そう言って、女の子からギターケースを受取った保男を、清史は隅の方へ引張っていった。
「おまえ、あの子まだ高校生じゃないのか」
「今年卒業したって言ってましたよ」
「ほんとか」
「本人が言ってるから、確かでしょ」
 保男はすましたものである。清史は、グループの品位を落すようなことはするなよと言おうとしてやめた。もうすぐ解散なのだ。
 女の子は珍らしそうにフィニーを見、彼が片手を上げて、指を前後に交差させるように振ると、にっこり笑って同じように指を振る。フィニーはその女の子を由美子と同じような人間だと思っているらしかった。
 隆正を起して、清史たちは隣のビルの食堂へ行った。女の子は清史たちの後について、スタジオから出てきたが、そのままどこかへ行ってしまった。帰ったんだなと清史は思ったが、そうではなかった。食事から帰ってみると、スタジオのドアのそばにぽつんと立っていたから。
「まだいたのか。もういい加減に帰れよ」
 保男が不機嫌そうに言う。女の子は頬をふくらまして、うつむき、小石か何かをける真似をする。清史はちょっと保男をいじめたくなって、
「まあいいじゃないか。この子もおれたちのお客さんには違いないし、将来LPレコードを買ってくれるかも知れないんだから、大事にしなきゃ」
「そんな。おれ、気が散っちゃうよ」
 保男の言葉は無視して、清史は鍵を回してドアを開け、女の子を真っ先に入れた。
「あたし、邪魔しないように、ここに坐ってまあす」
 そう言って、女の子は壁際のパイプ椅子に腰を降ろした。
「きみ、何て名前?」と清史がきく。
「わたなべちかこ」
「高校生?」
「ううん、今、洋裁学校へ行ってるの」
「あのね」と清史は後ろでギターを取出している保男を指さした。「あんなやつと付き合っちゃだめだよ。あいつに泣かされた女の子はどまんといるんだから」
「はーい」女の子は聞分けのいい生徒みたいに元気よく答えて、後ろの保男に笑いかけた。
「そりゃないよ、キャップ」と保男が情けない声を出した。
 ようやく二日酔のさめた隆正が、保男に「あの女の子、一体誰なんだい?」ときく。保男は「ただのファンだよ」ととぼけるが、隆正は納得せず、清史に同じことをきく。
「キャップ、だめですよ、言っちゃ」
 しかし清史は全部しゃべってしまった。
「あれ、まあ」と言って隆正は保男を見、それから、壁際に坐っている女の子に目をやった。そして急に笑い出した。
「ばか、笑うな」と保男が言うが、隆正は笑うのをやめない。
 清史はオリジナル曲の譜面を保男と隆正に渡すまえに、健次のゼッド入りのことを話し、今度のコンサートで一応グループを解散すると告げた。
「別に解散しなくても、ドラムスくらいおれがつれてきますよ」
 保男が不満そうに言う。
「ケンよりうまいやつが、おれたちみたいなグループにくると思うのか。そんなやつは、とっくにもっと売れてるグループに入ってるさ」
「そりゃそうかも知れないけれど、へたなやつでも一年くらい一緒にやったら何とかなるんじゃない?」
 おれは健次以外のドラムと一緒にやるつもりは今のところないんだ。そう言おうとして、清史は口をつぐんだ。健次がつらそうな顔をしていたからだ。
「まあ、その話はコンサートが終ってから、ゆっくりとしたらいい。とにかくきょうは、おれの作った曲をばっちりと練習するぞ」
 譜面を受取った隆正と保男は、譜面を目で追い、時々、「やるう」とか「なるほど、なるほど」と声を出す。
 練習を始めようとしたとき、清史はあることを思いついて、隆正に「フィニーはいつまで日本にいるんだ」と尋ねた。管理人に言った通り、フィニーにキーボードをさせようと思ったのだ。隆正は「さあ」と首を傾けるばかりなので、今度は健次に「いつまで日本にいるのかきいてみてくれ」と言った。健次が英語で尋ねる。
「今度の月曜日の午前五時の船に乗るって」
「横浜か」
 健次がまた尋ね、「東京港だって」と言う。こいつはちょうどいいや。清史はうれしくなった。
「ちょっとみんな聞いてくれ」と彼は改まった口調になった。「おれは今度のコンサートに、フィニーをキーボードとして入れようと思うんだけど、どう、だろう」
「それは無理ですよ。そんなに急に」と保男が言った。
「この前はうまくいったじゃないか」清史は『無常』でのことをさして言う。
「それはフィニーがビートルズナンバーを知っていたから」と今度は隆正が言う。
「だったら、ビートルズとおれの曲だけでもフィニーを入れるというのはどうだ」
「それなら別に構わないけど、でも初めてのコンサートに他の人間が入るっていうのも、どうかなあ」
「最初で、しかも最後のコンサートなんだ。おれはばあっとやりたいんだ」
 その言葉で決まってしまった。フィニーに、いいかどうかきくと、「喜んで」と答えたから、清史はますますうれしくなった。

 清史はオリジナル曲を四曲つくったのだが、保男はそのうち<この世をバラ色の眼鏡で眺めてみても>という長いタイトルの曲をベストワンに選んだ。女の子にふられ、雨に降られ、びしょびしょになった靴をひきずって地下街に逃げ込んだ男の様子をユーモラスに歌った曲だ。
 清史の一番気に入っている<ランダム通り>は「最もいただけない曲」だった。清史はおもしろくないから、隆正と健次にも評価を求めた。ベストワンは二人とも保男と同じで、<ランダム通り>は隆正が三位、健次が二位だった。清史はそれでもおもしろくなくて、フィニーにもきいた。フィニーは譜面を見て、しばらく考えてから、保男が第二位に推した<グッバイ・リバー>が一番いいと答え、<ランダム通り>もいいと言った。
「フィニーはだめですよ、日本語がわからないんだから。バラ色の眼鏡は歌詞がおもしろいんですよ」と保男が言う。
 それならと清史は、パイプ椅子に坐っている女の子を呼んだ。女の子は一瞬びっくりした顔をし、それから急に、にこにこ顔になってやってくる。
「今までやった曲の中で、どれが一番よかった?」
 女の子は天井に目をやって、ちょっと考えてから、
「どれもみんなよかったわ」と答えた。
「それじゃだめだ。どれがベストかってきいてるんだ」
 横から保男が口を出す。女の子は口をとがらせてふくれっ面をして見せるが、すぐに、
「バックスキンの靴がびしょ濡れで、おもりを引きずっているよう、という曲が一番おもしろかったみたい」
「ほら、おれの言った通りでしょ」と保男が勝ち誇ったように言う。清史はおもしろくなかったが、ベストワンが<バラ色の眼鏡>であることだけは認めざるを得なかった。
 そのことは次の日の『無常』でのステージでも実証された。清史たちが四曲を通して演奏してから、アンコールを求めると、<この世をバラ色の……>が一番多かった。清史を喜ばせたのは、<ランダム通り>も結構アンコールがあったことだった。
 清史は演奏しながら客席を見回し、由美子が来ていないかと探したが、いなかった。その代り、この前のスカウトが一番前の端っこの席におり、清史と目が合うと、やあというように手を上げた。おまえなんかに用はないんだよ、と清史は胸の中で毒づいて、弦に指を叩きつけた。

 土曜日の練習は、さすがに熱が入っていた。隆正も保男も久し振りに定刻にスタジオにやってきた。もっともきのう『無常』のステージが終ったあと、清史が釘を刺したこともあったからだが。
 コンサートは、清史たちのバンドと、大阪から来るバンドのジョイント形式で行なわれ、清史たちの持ち時間は一時間半である。清史はオリジナル曲を含めて、十二、三曲演奏する予定でいる。フィニーをキーボードとして入れるのは、ビートルズナンバーとオリジナル曲のうちの新しい四曲である。きょうは、<この世をバラ色の……>等四曲の仕上げと、フィニーのピアノとの合わせが主な練習だった。
 四時頃、由美子が少年をつれて、スタジオに入ってきた。少年はギターケースを下げている。
 清史はそのとき練習中だったが、由美子を見てどきりとした。しかしもちろん顔には出さず、小さく手を振った由美子にうなずいただけで、そのまま演奏を続けた。
 終って、保男にちょっとした注意を与えてから、清史は由美子たちのところへ行った。この前のことはみんな忘れたよというように、さり気なく近づいていったが、いざ由美子と対面すると、うまく言葉が出てこない。由美子も保男たちの方に笑いかけたりして、なかなか口を開かない。少年は珍らしそうに首を回して、スタジオの中を見ている。
「先生、きょうは差入れ、ないの?」と保男が声をかけた。
「ごめんなさい。きょうはないのよ。でも、あしたどっさり持ってくるから、いいでしょ」
「あしたよりもきょうのほうがよかったなあ。今までね、キャップにバッチリしごかれてたから、腹が減って、腹が減って」
 保男が冗談とも本気ともつかない口調で言う。
「バカヤロウ。この前、ろくに練習できなかったのは誰のせいなんだ」と清史もやり返して、ようやくいつもの感じが戻ってくる。
「それで、きょうは一体どうしたんだ?」と少年に目をやりながら由美子にきいた。
「この子がね」と由美子は少年の肩に手をやった。「プロの練習ってどんなのか見てみたいっていうから、つれてきたのよ」
 少年は緊張した面持ちで清史を見ている。清史はプロと言われて、ちょっと恥ずかしかった。それで食えない者はプロじゃないと思うし、ましてやあした解散するのだから。
「教え子?」
「ええ、頭はいい子なんだけど、ギターばっかりやっていて勉強しないでしょ。だからわたしも困ってるのよ。本人はエスカレーター式に大学に行ける高校に行くから気にしないって言ってるけど」
「そんなことはいいよ、先生」少年が非難と甘えの入り混った口調で言う。
「学校でバンド作ってるのか」と清史がきく。
「夏休みまでは作ってたけど、今はなし。みんな勉強のほうにいっちゃったから」
 保男たちも集ってきて、少年にいろいろと尋ねた。少年のバンドがツェッペリンをやっていたとわかると、保男は、おおっと驚いた。
「おれたち、ヤードバーズをやっているんだぜ」
「ほんとですか」少年は目を輝かす。
「せっかくギター持ってきたんだから、ひとつ、おれたちと一緒にやってみるか」
 清史は少年の目の輝きに、ついそう言ってしまう。
「ほんと? わあ、やった」と少年は指を鳴らす。
「ツェッペリンだったら、<ユー・シュック・ミー>は知ってるか」
「もちろん」
「よし決まった」
 少年は急いでケースを開けて、ギターを取出した。それを見て、清史は驚いた。フェンダーのストラトキャスターなのだ。安いやつでもニ十万円以上はする。清史はいささかがっかりした。中学生の持ち物にしては不釣合だということもあったが、こういう物を親に買ってもらうということが(そうに違いない)気に入らないのだ。
 清史が中学生の頃は、学校に無断でアルバイトに行き、そのためた金で、二万円のギターを買ったものだった。そのときの喜びを、今でも覚えているし、そのギターは、まだ彼の実家にある。
「フェンダーか」隆正が驚いた声を出す。
「おまえの家、金持なんだなあ」保男がネックに手を触れながら言う。少年は由美子と目を合わせて、意味ありげに笑っている。
「そうじゃないのよ」と由美子が口を聞いた。
「これはね、この子が自分でかせいだお金で買ったのよ」
「まさかあ」
 由美子の説明によると、この少年はいろいろなクイズ番組の中学生大会に片っ端から出場して、賞金や賞品をかせぎ、賞品は金に替えて、二十二万円ためたというのだ。
 少年はクイズの番組名を次々とあげていき、保男たちは「あ、それ知ってる」と歓声を上げた。時代が変ったのかなあと妙な感心の仕方をしながら、清史は少年を眺めた。
 少年はリードギターをやっているので、清史の代りに保男たちに加わって、<ユー・シュック・ミー>を演奏した。なかなか達者なものだった。中学生としてはテクニックは抜群のほうじゃないかなと清史は感心した。しかしコピーを忠実に追うのに精一杯で、迫力とか雰囲気をどう盛上げて、どう聞かすかという点になると(当り前の話だが)まだまだだった。保男がヴォーカルを受持ったが、ギターとのかけあいの部分がうまくいかなくて、幾分戸惑っているようだった。
 終って、真っ先にフィニーが大きな手でゆっくりと拍手をした。清史と由美子もすぐに手を叩いた。保男と隆正が「たいしたもんだよ」「フェンダー持ってるだけのことはあるな」と言い、少年に、ソロの部分はもっと力いっぱいピッキングしたほうがいいなどと、プロみたいな顔をして教えている。
 フィニーが、ナイスボーイとか何とか言って、隣の由美子に話しかけ、清史は横目でその様子を見てから、少年のところへいった。少年は額に汗を浮べており、清史が近づくと、ありがとうございましたと言って礼をした。
 清史は面映ゆいのを笑いでごまかしながら、「それじゃあ、今度はおれがやろう」
「キャップ、かっこいい」保男がひやかす。
 清史の演奏は少年のブルース調とは違って、よりロックの色彩が強い。それに聞かせどころというのを心得ていて、雰囲気を盛上げていくから、無理な感じがしないのである。保男たちとの息がうまく合っているせいもあるが。
「やっぱり、プロですね」と少年が演奏の終った清史のところにきて、興奮した声で言った。清史はうれしいというよりも、正直言ってホッとした。そして少年の質問に答えて、スライド奏法のちょっとしたテクニックとかローコードの使い方などを教え、基礎練習の重要性を強調した。
 由美子がそばに来て、ささやくように言う。
「あの子のあんな真剣な顔、初めて見たわ。あなたの言うことなら何でもききそうだから、勉強するように言ってよ」
「だめだよ。おれ自身、勉強なんかしなかったんだから、人に言えるわけないじゃないか」
 それから一時間ばかり練習して、清史たちはスタジオを出た。清史は車に健次と由美子をのせ、最初に健次をアパートの近くまで送った。そしていったん清史のアパートへ寄って、整理券を十枚ほど取ってきて、それを由美子に渡した。入場無料のコンサートなので、到着順に整理券を配って入場させるのだ。清史はあらかじめ、三十枚ばかりもらっている。
「整理券なんか、ほんとはいらないんだけどね」と車を発車させながら、清史は言った。
「いやに弱気じゃない」
「弱気も何も、それが現実だからね」
 車が国道に出てから、しばらくたって由美子がぽつりと言った。
「解散するってほんと?」
「誰にきいた?」
「みよ子さん」
「……ああ、ほんとだよ」
「健次くんが抜けるから?」
「まあね。保男やリュウには悪いけど、当分は一人でやっていくことにしたんだ」
「そう」
 信号待ちで止ったとき、清史は「あ、そうそう、借金のことだけど……」と由美子のほうを向いた。
「そんなもの、いつでもいいのよ」
「いや、そうはいかないさ。まずこの車を売れば半分くらいは返せると思うから、残りは月払いで頼みたいんだ」
「何もそんなに急がなくてもいいじゃないの」
「いや、一から出直すつもりでいるから、ここらできれいさっぱりとしておきたいんだ」
「そう。……それなら仕方がないわね」
「返すと言ってるのに、仕方がないはないだろう」
 由美子がゆっくりと微笑んだ。

 二時過ぎに清史たちはコンサート会場のKホールに着いた。ステージ用のアンプやスピーカーはテレビ局が用意してくれるので、清史はドラムとギター全部を車に積み、保男たちをタクシーに乗せて、一緒に来たのだ。ギターを取られたなどと言わせないために。
 ホールの正面入口には、「KTBサンデーコンサート」と書かれた看板が立てかけられており、その文字の横に、「出演 阿呂夢・ガリバー」の文字が見える。開演は六時半となっている。
 清史たちは看板を見るために、正面入口まで出てきた。
「おれたちの名前があとというのは気に入らないな」と保男が言う。健次はフィニーに看板について説明している。
「出演順に書いてあるんだろ」と隆正は別に気にするふうでもない。
「あーあ、この名前をせめて一回でもテレビの番組欄で見たかったなあ」保男がガリバーの文字の周囲を指でなぞりながら言う。
「それはひょっとしたら、実現するかも知れないな」と清史が言う。
「ほんとですか?」
「ああ、ビデオ撮りされるはずだからな」
「あれ、キャップ、そんなこと一言も言わなかったじゃないですか」
「ただし、放送するのは番組にどうしても空きができた場合というわけだ」
 それともう一つ、きみたちのバンドが売れたときだ、とプロデューサーは笑いながら言ったのだった。
「なあんだ、がっかりさせるなあ」
「それでも、おれたちの姿がビデオに残るんだから、張りきらなくっちゃ」と隆正が言った。
 ステージには大出力のアンプやスピーカーがいくつも運び込まれ、両脇と真中に配置されている。真中のアンプ群の右横に一段高くなった移動舞台があり、ドラムをセットするところになっている。電気ピアノも運び込まれ、アンプ群をドラムとはさみ込むような位置に置かれている。ピアノは阿呂夢のために用意されたものだが、清史たちも使うのである。その他照明やマイクのセッテイングをする人々が舞台の上を動き回り、配線のことで怒鳴り合ったりするのを、清史はひとりで、客席の真中あたりに立って見ていた。客がいないせいか、妙に寂しい感じがする。
 しばらくして、ステージの端からディレクターが清史を呼んだ。通路を通って舞台に上がると、ディレクターは清史を舞台の袖につれていき、阿呂夢のリーダーに紹介した。顔の下半分がひげだらけで二メートルもあろうかと思われるほど髪を長く伸ばした男である。清史はそのひげ男と握手をしたが、その風貌にちょっと圧倒された。ディレクターはリハーサルの時間について相談してから、舞台のほうに戻っていった。
「おたく、『無常』に出てはるんやて」とひげ男が気軽に話しかけてくる。清史は大阪弁に少し戸惑いを感じながら、
「『無常』知ってるの?」
「大阪でもちょいちょい噂聞きますよ。サイドバイサイドや、人丸てっぺいのバンドが『無常』から出たというのは有名な話やからね」
 清史は阿呂夢が関西ロックフェスティバルから出たバンドだということしか知らない。
「おたくのキーボード、黒人やね。さっき控え室に挨拶に行ってびっくりしたわ」
「まあね」
 それから二人はお互いのサウンドについて話し、清史はロックフェスティバルのことをきいた。関西ではその種の催しがけっこう盛んらしい。
「それにしても、おれたちのバンドが先に演奏するんで助かったわ。おたくに強烈なやつをイッパツやられたら、やりにくくて仕様がないもんね」
 それは清史の不安でもあった。しかしひげ男がそういうことを言うのは、逆に考えれば彼等にも自信がないわけで、清史は幾分安心した。
 リハーサルは出演順どおり、阿呂夢が先だった。「ちょっと見てくる」と清史が立上がると、保男たちも行くと言い、そろって客席に回り、思い思いの席に腰をかけた。テレビカメラも客席の真中と右前方に備えつけられている。
 阿呂夢のヴォーカルはあのひげ男だった。喉の奥から振り絞るような声を出す。清史の聞いたことのない曲で、オリジナルらしかった。ドラムの安定度や力強さは、健次の方が数段上だな。リードギターは早弾きに難点があるようだし、アタッチメントを多用している割には音がもうひとつ面白くない・。
 しかし清史はこのバンドが個性というか、確かに音楽的な主張を持っていることは認めざるを得なかった。そして、その個性のかなりの部分をあのひげ男が作り出していることは間違いなかった。ここにも一人頑張っているやつがいるな。そう思うと、清史は対抗意識とともに妙に親しみを感じるのだった。
 アンプのチューニングや照明のタイミング、カメラテスト、ヴォーカルとのバランスなどのリハーサルが終って、清史たちが控え室に戻ったとき、由美子がノックして入ってきた。大きな紙袋を下げている。差入れはちょっと早いんじゃないかと思ったが、そうではなかった。由美子は清史たちの衣裳として、デニムのベストを持ってきたのだ。胸に大きなGの文字の刺繍が入っている。
「さすが、先生、よく気がつくなあ」隆正が感心したように言った。
「ほんとはね、背中にガリバーって入れようと思ったんだけど、解散したら着れないでしょ。でもこれなら着れると思って」
 早速、清史たちはベストを着た。ジーンズにシャツスタイルという服装に由美子が合わせたのだった。フィニーのはLサイズだったが、胸幅が大きいので、少し窮屈なようだった。しかしどうせボタンは留めないので、腕の動きには影響はない。
「おふくろさんは?」と清史がきく。
「もちろん、一緒よ」由美子は微笑し、それから、ベストを着て恰好をつけている保男や隆正に、「それじゃあ、頑張ってね」と声をかけた。
「がんばりまあす」保男がはしゃいだ声を出す。由美子は笑いながらドアを開け、そして出る前に清史のほうを見た。清史は小さくうなずいた。
 阿呂夢の演奏が始まる。控え室にもギターの音が聞こえてき、観客の歓声がそれに混じった。フィニーと隆正が演奏を聞くために出ていき、少したって、隆正だけが戻ってきた。落着いて聞いていられないやと隆正は言う。保男も黙りがちで、テーブルのピーナッツをつまんでは、胸に抱えたギターでフィンガートレーニングをしている。健次は譜面を見て、頭と足でリズムを取りながら、時々手でドラムを叩く真似をする。清史はきょう演奏する曲の注意点をひとつずつ復習しておこうと思ったが、ここまできて今さら言うのも、保男たちを緊張させるばかりかも知れないとやめた。
 阿呂夢の演奏は聞かないつもりだったが、ただ待つだけではなかなか時間がたたないので、清史は客の入りがどうかを見ると自分に言いきかせて、客席のほうに回った。横の扉を開けると、客の笑い声が清史を包んだ。ひげ男が語りをやっているのである。客席は暗くてよく見えないが、ほとんど満席に近く、三千人はいるだろう。清史は溜息をついた。テレビの威力をまざまざと見せつけられた感じである。由美子がどこにいるか探してみたが、わからなかった。フィニーも見当らない。清史は阿呂夢の次の演奏が始まる前に客席を出、通路を通って、正面玄関から表に出た。そして夜の空に向って大きく手を伸ばして、深呼吸をした。快い緊張感が彼を満たしていた。
 阿呂夢の演奏の終る時間が近づいても、フィニーはなかなか姿を見せず、清史はいらいらしたが、出番ですよと言いにきた者とすれ違うようにして、控え室に戻ってきた。
「レッツゴー」と言って、清史はフィニーの肩を叩いた。
 フィニーは片目をつぶり、早口の英語で何か言った。
 ステージは暗く赤い光に満ちている。客席はそれ以上に暗い。ドラムは既に健次のものと入替っており、トイレに行った保男を待ってから、清史たちはギターを持ってステージに出る。客席はざわついており、阿呂夢の演奏の余韻がまだ残っているようである。プラグをアンプのジャックに差込む。ドラムの断続的な音がする。弦を弾き、ツマミを回し、また短いフレーズを弾く。チューニング。
 突然、ジャズのピアノ曲が流れ、暗い客席がオーッとどよめいた。清史は電気ピアノの方に顔を向け、よく見えないフィニーに笑顔を送る。フィニーの赤い光に染った掌が見えた。
「用意はいいか」と清史は声をかける。膝がこきざみに震えているのがわかる。
「いいぞ」「オーケー」という声が返ってくる。「ケン、いくぞ」
 健次がスティックを打ちながら、
「ワン、ツー、ワン、ツー、スリ、フォー」
 特大のスピーカーからギターの音が爆発し、その爆風は清史たちの体を締めつけ、客席めがけて吹きつけていく。同時にスポットライトが次々とついて、清史たちを白い光の中に照らし出す。清史は思わず目をつぶり、しかし指は正確に弦を押え、弦を弾く。体が自然と動き、頭も胴も脚も空っぽになって、その内側を音がはね回っているようだ。ベースが少々遅れ気味だが、構やしない。弾いて、弾いて、弾きまくれ。
 汗が噴き出して、額を流れ落ちる。ヴォーカルのところで、清史は声をマイクに叩きつけた。
 清史たちはハードな曲を立て続けに四つ演奏して、一息入れた。大音響に圧倒されていた客たちは呆然とし、そして次の瞬間目が覚めたように拍手と歓声が湧き起った。ハードで始めてハードで終るというのが、きょうの清史の考えだった。その間にオリジナルとビートルズナンバーを入れて釣り合いをとろうというのである。
 清史は拍手と歓声がおさまるのを待ってから、メンバー紹介に移った。清史のところだけスポットライトが当る。保男を紹介して、ライトが彼のところに移動したとき、「ヤスオー」という女の子たちの声が前の方で一斉に起った。保男は片手を上げてそれに答え、短いパートを弾く。白い横幕が前の方で開き、別のスポットライトがそれをとらえる。側方のテレビカメラもその方に角度を変える。「GO、GO、ヤスオ」という文字が見える。『無常』で宣伝した効果があったというわけだ。中央よりちょっと右の客席でも歓声が起り、同じような横幕が開いた。暗くて、しかも遠いから、何て書いてあるかわからない。
 隆正、健次と紹介していき、最後にフィニーを特別ゲストとして紹介した。客席がどっとわく。フィニーはブルースっぽいジャズのさわりの部分を弾き、客席は一瞬しんとなった。
 紹介が終ると、客席は少し明るくなり、さっき見えなかった横幕の字が見えた。「はばたけガリバー」と書かれてある。清史が目を細めてその横幕を見ていると、一人の少年が立上がって、手を大きく振った。清史も反射的に片手を上げたが、すぐにきのうの少年だとピンときた。すると由美子もその近くにと思って見ると、はたして横幕の右端に手を振っている女性がいる。隣にいるのは母親だろう。
 きょうで解散なのに、はばたけはないだろうと思いながらも、清史はうれしかった。それにたとえ解散しても、一人ひとりがはばたくことには変りがない。そう気づくと、清史は目の前が急に明るくなったような気がした。
「紹介が終ったところで、予定としてはオリジナル曲に行くんですが、その前に一言だけしゃべらせて下さい」と清史はマイクに向って話し始めた。声がホール内に反響する。語りはやらないはずだったので、保男が驚いている。
「実は、このコンサートはぼくたちガリバーにとって、初めてのコンサートなんです。そして最後のコンサートでもあるんです。なぜかというと、きょうでガリバーは解散するからです。つまり解散コンサートですね」
 そのとき、健次の「キャップ、それは違うよ」という声が重なったが、清史は構わず続けた。
「こんなところで解散なんてことを言うのも変なんですが、まあ聞いて下さい。実際、ぼくはいよいよきょうでお終いだなあ、なんて思っていたわけです。二年半、よくやってきたもんだとね、一種の感慨にふけっていたんです。ところがどうもそうじゃないらしい。きょうは終りじゃなくて、始まりなんじゃないのかなという気がしてきたわけです。つまり、二年半、ガリバーの中で培ったサウンドが一人ひとりに受け継がれ、そしてそれぞれがそのサウンドをもとに、独自の音を育てていく。まさに、そこの横幕にあるように(と清史は指さした)はばたけガリバーという通りです。ですから、これからも、一人ひとりのガリバーにどうか声援を送って下さい」
 由美子たちの席のあたりから拍手が起り、それは徐々に客席全体に広がっていった。口笛が鳴る。「カッコイイー」という声が聞こえる。保男も隆正も、言っちゃってくれましたねというように笑いながら、清史を見ている。
 拍手がおさまって、清史がオリジナル曲の紹介に行こうとしたとき、突然、健次の声がスピーカーを通して、聞こえてきた。「あの、ぼくからも一言いわせて下さい」
 驚いて振返ると、健次はヴォーカルマイクを引寄せており、清史を見て少し笑ってから、またしゃべり始めた。
「ガリバーは解散しません。今、リーダーの言ったことは、きのうまで本当でしたが、きょうはもう違うんです。もう一度言います。ガリバーは解散しません」
 ケン、お前、と清史は呼び掛けたが、客席がざわつき始めたため、健次には聞こえない。清史は余程、健次のところに行って、どういうつもりかききたかったが、もちろん、今はそんなことはできない。
 清史は客席に向き直ると、ひとつ咳払いをして、マイクに向った。
「えー、大変お騒がせして申し訳ありません。この世の中、先のことはどうなるのか、さっぱりわからないもので、今、ドラムスが言った通り、解散は取り止めになりました。どこがどうなったのか、実はぼくにもわからないんですが、とにかく、ガリバーは普通の男の子に戻らないことになりました」
 ざわついていた客席がどっと笑い、また拍手が起った。保男が近寄ってきて、「ケン、一体どうしたんでしょうね」と言う。
「そんなこと、おれにきいても、わかるわけないだろう。とにかく解散はなし。今まで通りやっていくんだよ」
「そうですね。解散しないってことは、今まで通りってことだから。でも何だかおれ、きつねにつままれたみたいだなあ」
 保男は首を傾げていたが、そのうち、「今まで通りか、こりゃいいや」と独り言を言って奇妙な声で笑った。
 オリジナル曲を演奏し始めて、ようやくこのままガリバーを続けていくという実感が湧いてきた。赤ん坊はどうするつもりなんだろうという思いが、ちらと頭をかすめたが、何とかなるさと清史は弦に指を叩きつけた。オリジナルのうちで<この世をバラ色の……>がやはり最も手応えがあった。ひょっとしたら、これはヒットするかも知れないな、などと清史は調子のいいことを考えた。
 ビートルズナンバーのところでは、清史は保男たちに無断で<フェン・アイム・シックスティフォー>を歌った。始めは清史のギターだけだったが、そのうちドラムが入ってきて、ベースもサイドも清史のヴォーカルに合わせて、控え目に鳴った。
 締めくくりのハードロックのところでも、清史は曲目をひとつ<ユー・シュック・ミー>に変更した。このときは保男たちもすぐに納得した。演奏中、「はばたけガリバー」の幕を持った少年達が立上がり、その横幕を揺らし始めると、客たちもつられるように、少年達の回りから立上がり始め、しまいにはホール全体の人間が立って、リズムに合わせて頭上で手を叩き出した。客席もステージも揺れ動いていた。汗みどろになりながら、清史は全身で声を出し、マイクにぶつけた。
 演奏が終って清史たちが舞台の袖に引込んでも、拍手と歓声は鳴り止まなかった。ディレクターの指示でもう一度ステージに出、メロディの美しい静かな曲である<グルーミースカイ>を演奏した。
 アンコールが終って、今度は本当に引込んだとき、清史たちは健次の周りに集った。
「ゼッドはどうなった?」と保男が尋ねる。
「ゼッドにはいかないよ」
「そんな、もったいないよ。こんなチャンスはもう二度とないぜ」と隆正が言う。
「ばかやろう、何が二度とないだ。チャンスなんてこれからいくらでも転がってくるんだよ。ゼッドなんてくそくらえだ」
「あ、やっぱりキャップが何かしたんでしょ」と保男が言う。
「余計なこと言わないで、さっさと控え室に戻れ」清史は自分のギターを保男に持たせた。
 保男と隆正とフィニーが通路に出ていってから、清史は健次に「赤ん坊はどうするつもりなんだ」と尋ねた。
 健次は小さく笑って、
「赤ん坊はおやじとおふくろが面倒見てくれることになったんです」
「いいのか、そんなこと」
 健次の両親は新潟で文具店をやっているが、まだ高校と中学に通う弟と妹がいるので、経済的には苦しいはずなのだ。
 詳しい話は後できくことにして、通路に出ると、「内藤くん、ちょっと」という声がした。振り返ると、あのスカウトが壁に右肩をつけてもたれかかる姿勢でこっちを見ていた。サングラスははずしており、それが胸のポケットに入っているのがわかった。口許に笑いを浮べている。
 健次が彼のほうへ行きかけ、清史も一緒についていこうとしたが、「ぼく一人で……」と健次が制した。仕方がないので、清史は少し離れて様子を見守ったが、そのとき誰かに肩を叩かれ、振返ると、阿呂夢のひげ男がいた。
「おたくらの演奏、よかったわ、ほんまに。さすがは『無常』に出るだけのことはあるなあ」
 清史は後ろの健次とスカウトの話合いに半分気を取られながら、「きみらもなかなかよかったよ」と気のない返事をした。
「いやあ、ぼくらはまだまだですわ。ちょっと泥くさいしね」とひげ男は熱心に話しかけてくる。清史が、いやその泥くささはある意味では武器なんだと言おうとしたとき、後ろから、「いまさら、そんなこと言われたら、おれはどうなるんだ」というスカウトの大きな声が聞こえてきた。清史ははっとして振り向き、話がもめるようだったら、いつでも行こうと思ったが、それきり大声は聞こえず、健次の後ろ姿とスカウトのうなずく様子が見えるだけだった。
「それはそうと、あのオリジナル、あんたが作ったんですか」とひげ男がきいてきた。
「まあね」
「いやあ、才能あるわ。うらやましいなあ。うちの、バンドにもひとつ曲を書いてもらいたいくらいや」
 どこまでがお世辞かわからないが、満更でもない気分である。
「ガリバーいう名前、忘れへんわ」と言ってひげ男が右手を差出した。
「あんたのそのひげも忘れないよ」と答えて、清史は握手をした。顔に似合わず、やさしい手をしていた。
 ひげ男が去るのを待っていたように、スカウトと健次が清史のところにやってきた。どんな話でも受けて立つぞと清史は身を堅くしたが、スカウトは「まいったなあ」とつぶやくように言ってから、小さく笑った。「内藤くんは諦めたよ。彼の決意が堅そうだからね。しかしまあ、舞台の上で突然反対のことを言われたら、誰だって驚くよねえ。おれは彼がゼッドに入るのが一番いいと思って、やってきたんだけど、きょうの演奏を聞いていたら、何とも言えなくなってしまってね。これじゃスカウト失格かも知れないけどね」
 こう簡単に矛をおさめられては、清史としても、何と答えたらよいのかわからない。まさか、ありがとうございますとも言えないだろう。清史が黙っていると、「それじゃあ、またいい音聞かせてよね」と言って、スカウトは去っていった。気に食わないやつだったけど、それほど悪いやつじゃないと清史は思い、何だか妙な気分だった。
 健次の話によると、ゼッドに移ることになるだろうと曖昧な返事をしていたが、きのう両親から赤ん坊のことは心配するなという手紙が届いて、心が決まり、きょうにでもスカウトに断わるつもりでいたのだが、できないままステージに出、そして清史の解散の話になったのだ。
「あのときは本当にびっくりしましたよ。まさか、キャップがステージで解散のことを言い出すとは思わなかったから」
「おれだってびっくりしたよ。一人ひとりのガリバーに声援を、なんてカッコいいことを言ったすぐ後で、解散しないなんて言い出すもんだから」
 控え室の前の通路には、十数人の女の子がたむろしていて、清史と健次が近づいていくと、ふたりを取囲んだ。そして「これ、ヤスオに渡して」「サイン、お願い」などと口々に言いながら、清史に、リボンを結んだ包みやらサイン帳を渡した。ものを言う暇もなく、清史と健次は手分けして手渡されたものを持ち、控え室のドアをノックした。鍵のはずれる音がして、隆正が顔を見せた。
 中に入ると、ソファーに坐っていた保男が、「また来ましたね」と清史に笑いかけた。テーブルには既に小さな包みが五つばかり並べられている。
「ほら、これ、みんなおまえにだよ」と清史は持っていた包みを保男に放り投げた。「あ、もったいない」と保男は床に落ちたやつも拾って同じようにテーブルに並べた。
「サイン、どうします」と健次が数冊のサイン帳を示しながら清史にきいた。「あ、それもおれ目当てだから、おれがやるよ」と保男が言い、すでにサインペンも用意している。
「あきれたもんだ」
 清史が、これも保男のもらった缶入りのジュースを飲んでいると、テレビ局の人間が入ってきて、ギャラの入った封筒をくれた。受取にサインをしてから、清史は四万円を差引いた金額を四等分して、保男たちに渡した。
 四万円をフィニーのギャラに当てるつもりなのだ。金曜日に打合せのためにテレビ局へ行ったとき、フィニーのギャラのことを持出したが、悪いけど、もう予算枠が決っていると体裁よく断わられていたのである。
 保男と隆正はぶつくさ不平を言ったが、プロの仕事には金を払うのが当り前だという清史の言葉で黙ってしまった。隆正は、一週間もおれに世話になったんだから、きっと受取らないと言ったが、フィニーは大喜びで受取った。「しっかりしてるよ、全く」と隆正は感心した。
 少ししてドアがノックされ、由美子だろうと清史は思ったが、そうではなかった。ドアを開けた隆正が、外にいる人間と何事か小声で話をし、誰だろうと思っていると、その人間が中に入ってきた。五十前後の、よく陽に焼けた顔の男の人で、そのすぐ後ろには同年輩の着物を着た女の人がいる。ふたりは戸惑っている様子で、ひどく場違いな人間に見えた。しかし清史は隆正の照れたような顔を見て、すぐにピンと来た。近寄っていって、「隆正くんのご両親ですね」と言うと、ふたりはお辞儀をし、父親が「息子がいつもお世話になっております」と小声で言った。
「おれはね、べつに挨拶なんていいって言ったんだけど、どうしてもってきかないもんだから」
 隆正が照れ臭さを隠すように、ぶっきらぼうに言う。父親が、昼過ぎに東京に着きましてと言って、東京のことを話す。両親は長野で農家をやっているのである。母親は、隆正が中学の頃からエレキギターに夢中で、勉強しないものだから、先々どうなることかと思っていたら、こんなに立派になってという話をする。「うちのバンドは心配いりません。仕事はどんどんきますし、そのうちテレビにも出ますよ。それに隆正くんはテクニックも十分ありまずから、たとえうちのバンドがだめになっても、プロとして十分に食っていけます」清史は両親を安心させるため、少しばかりほらを吹いた。隆正は苦笑いしていた。
 そのうち、由美子が母親とみよ子をつれて入ってきた。控え室が急ににぎやかになる。
「よかったじゃない、解散が中止になって」と由美子が言った。
「そう、だから借金返済計画も中止だな」清史が答えると、由美子は笑った。
「コンサートが始まる前から知ってたんだろう?」
「とんでもない。わたしもあの時初めて聞いて、みよ子さんにわけを聞いたくらいよ」
「それでみよちゃん、どう言ってた?」
「どうって?」
「気乗りがしないとか何とか」
「ううん、むしろ逆よ。彼女、こうなってよかったって喜んでたわ」
 みよ子は健次のそばにいて、何やら話をしている。清史は、何か大きな借りを受けたような気持で、みよ子を見た。
 由美子の母親がそばにきて、「清史さん、おめでとうございます」と言ってお辞儀をした。清史も「ありがとうございます」と言って、あわててお辞儀を返す。
「ビートルズ、よかったですわ」と母親が言った。
「母はね、あなたが母の好きな曲をやってくれたから、ご機嫌なのよ」
「ああ、あれ……」清史はあのとき、誰にもみんな喜んでもらいたいという気持で一杯だったのだ。
 由美子はそれから、横幕を振った少年たちの話をし、清史はその文字のことに触れた。
「解散するのに、はばたけガリバーはないと思ったけど、でも結果的にはよかったな、あれ」
「あの文句ね、実はわたしが教えたのよ。子供たちがどんな文句にしようかってきいてきたから」
「解散するってわかっていたのに?」
「ええ」
 保男がひとりソファーに坐って、ぼんやりとしている。
「どうした、いろおとこ」と言って清史は隣に腰をかけた。「やけに元気がないじゃないか」
「みんな、いいなあ」保男がつぶやくように言う。
「何がいいんだ」
「だってそうでしょ。リュウにはおやじさんやおふくろさんが来るし、ケンにはみよちゃんでしょ。キャップには先生がいるのに、おれには誰も」
「何だ、そんなことか。だったら、おまえも両親を呼んだらよかったのに」
「おれのおやじなんかだめですよ。てんでおれのことなんか、認めちゃいないんだから」
「あれ、あれ。おまえの口からそんなことを聞くとは思わなかったな」
「また、そんなふうに言う」
「こりゃ悪かった。しかし、おまえには大勢のファンがいるだろ。しかも女の子ばかりの。それで十分じゃないか」
「キャップ、おれ、からかってんの」
「とんでもない、おれは真面目だよ」
 清史はそれ以上からまれたらかなわないので、立上がり、さあ『ガリバー』へ行こうと思った。コンサートの前はバンドの解散式のつもりだったが、今は、前途を祝して飲みにいこうというのである。はじめは、保男たちメンバーとフィニーだけで行くつもりで、一人ひとりに声をかけたが、隆正や健次がみんなで行こうと言い出し、結局、控え室にいる全員をつれていくことになった。控え室を最後に出たのは保男だったが、彼は通路で待っていた女の子たちの一人につかまってしまい、清史たちは放っておいて、裏口へ向った。
「キャップ、待ってよ」という保男の声がした。清史が立止って振返ると、保男が一人の女の子の手を引っ張って、小走りにやってくるところだった。清史に追いつくと、「ねえ、この子一緒につれていっていいでしょ」と保男が言った。見ると、わたなべちかことかいう、この前、保男のギターを抱えてきた女の子だった。
「そりゃ、別にかまわないけど……」
 そのとき、三人の女の子がやってきて、「ちかこ、今夜はどうするの?」とそのうちの一人が言った。
「あたし、悪いけど、今夜はヤスオと一緒」
「わー、ずるーい、抜けがけなんて」
 清史はふと思いついて、「きみら、どこの高校?」と尋ねた。一番背の高い一人が、私立の女子高校の名前を言った。ちかこが、「あ、だめ」と小さく叫んだが、遅かった。
「やっぱり高校生か」と清史がつぶやく。
「どうしたの」「何か悪いこと言った?」と女の子たちはちかこに尋ねたが、ちかこは、「気にしない、気にしない」と言って笑った。
「高校生でもいいじゃないですか。どうせ一つや二つしか歳は違わないんだから」
 保男はまるで気にしていない様子である。
「ふたつ?」と清史は大きい声を出した。
「いや、ふたつかどうか知りませんよ。おれだって初めて聞いたんだから」保男があわてて言う。
 ほんとに近頃の若いやつらは(保男も含めて)どうなっているんだと清史は思う。きのうの少年のことも頭にある。もっとも清史はまだそんなことを思うほどの歳ではないのだが。
「勝手にしろ」と清史は言った。

 清史とフィニーは自分達の車で、他の九人はタクシーで『ガリバー』に向ったが、清史たちが着いてみると、まだ誰も来ていなかった。
「いらっしゃいませ」とカウンター内にいるママが言ったが、清史たちのほうを見て、ちょっと驚いた顔をした。水割りを作っていたバーテンもこっちを見た。ママと向い合うように坐っている二人連れらしい男の客も、フィニーに視線を向けた。客はこの二人だけだった。
「あら、ミタちゃんじゃないの。ずいぶん久し振りね」
 清史とフィニーがカウンターに腰を降ろすと、ママが近づいてきた。
「他の連中はどうしたの?」
「もうすぐ来るよ」
 ママがフィニーに目をやって、何かききたそうにしたから、清史はコンサートのことも含めて説明した。
「やっと元が取返せそうね」と笑いながらママが言った。
 清史たちのバンドの名前は、二年程前、たまった付けを帳消しにするという条件で、この店から取ったものだった。バンドが売れれば、宣伝になると、保男が冗談半分に持ちかけ、ママも面白がって、その話に乗ったのだ。しかし清史たちは売れず、ママは「この店がつぶれる前に、ヒット曲出してよ」などと言い出す始末だった。
 保男たちが遅れてやって来た。二人連れの客が入れ替るようにして出ていく。ママが「これからは貸切りみたいなものね」と言い、清史たちはボックス席の椅子を移動させて、カウンターの椅子と輪を作るようにした。その輪の中にボックス席のテーブルを置く。清史とフィニー 、それに健次とみよ子がカウンターのほうに坐った。ビールや水割り、それにジュースも交えて、乾杯ということになった。「何か言ってよ、キャップ」と保男が言ぃ、清史は「いい、いい」と断わったが、皆に促されて、仕方なく口を開いた。
「えー、何と言ったらいいのか。ぼくとしては、今夜、こういうことになるとは夢にも思ってなくて、予定としては、四人だけでしょぼくれた解散式をやるはずだったんですが、どこでどう間違ったのか、こういうことになってしまい、えー、とにかくこれからも頑張ります」
「何か、さえないなあ」と隆正がひやかした。
「早く有名になって、この店のこと、じゃんじゃん宣伝してよ」とカウンターの中から、ママが言った。清史がバンドの名前の由来を説明する。
「そうだったの。道理で、偶然の一致にしてはできすぎてると思ったわ」と由美子が言った。
「それじゃあ、ガリバーに乾杯」とママがグラスを上げた。みんなもそれぞれのグラスをかかげた。
 酒が入って、健次と話していた清史は、健次たちが正式に結婚、つまり籍を入れたことを知った。保男もこの話を聞いていて、「ついに結婚したの。あーあ、ケンもいよいよ生活の中に埋没していくわけか」と言った。
「おまえと違って、ケンは地に足がついているんだよ。それに子供も生まれることだし」
 清史が言うと、保男も隆正も驚いた顔をし、隆正が、「子供って、ほんと?」ときいた。健次とみよ子が同時にうなずいた。
「あーあ、こりゃますますだめだ」保男が茶化すように言い、「なあ」と隣のちかこに同意を求めた。「あたし、赤ちゃん大好き」とちかこはすました顔で言う。
「おれ、赤ん坊は嫌いだけど、つくる行為は大好き」
 保男が同じようにすまして言い、ちかこは「いやだあ」と保男の肩に顔を隠す。みんなが笑った。あきれ顔で見ていた隆正の両親も声を出して笑った。
 由美子がみよ子のそばに来て、何か小声で言い、それから清史のところに来て、「わたしの言った通りになったでしょ」と微笑んだ。「参りました」と笑い声で清史が答えた。
 ひとしきり、赤ん坊の名前についての話が出、それが尽きる頃、ママが、清史の作った曲を聞きたいと言い出した。隆正が近くに置いてある車までギターを取りに走り、カラオケ用のアンプをギターアンプにした。リードギターの一本だけである。
 健次がカウンターを手で叩いてリズムを取り、清史はギターを弾きながら歌った。<この世をバラ色……>だけですまそうと思ったが、意地もあって<ランダム通り>も歌った。ママがやけに感心し、「わたし、ミタちゃんを見直したわ」と言い、「その曲、ふたっともヒットするわよ、絶対」と付け加えた。「ママの太鼓判じゃねえ」と保男が言う。
「あら、言うわねえ」とママがにらんだ。

 それから清史たちは三時半頃まで『ガリバー』に居た。もっとも十二時を過ぎたところで、隆正の両親と由美子の母親は帰ったが。由美子は明日学校があるにもかかわらず、「最後まで付合うわ」と言って残り、ちかこも清史が家に帰そうとしたが、保男にしがみついて離れなかった。
 おれたちのバンドにもキーボードが必要だという話のとき、清史はフィニーに、「しばらく日本にいて、おれたちのキーボードをやってみないか」と誘ってみたが、フィニーは「それはうれしいが、子供たちが待っているので」と答えた。フィニーは、セネガルという国の英語教師募集の広告に応募し、アフリカに行く途中なのである。暇があればピアノも教え、子供たちとバンドを作って、陽気にやりたいと言う。
「ジャズか?」と健次がきく。「もちろん。しかしロックもいい」フィニーが白い歯を見せて笑う。
 清史たちは、フィニーのまだ見ぬ教え子たちのために乾杯し、未来のバンドのために乾杯した。「バンドにはガリバーという名前をつけろよ」「いや名前は子供たちにまかせる」
 みよ子とちかこは途中で眠ってしまい、ママが一枚しかない毛布をみよ子に掛け、ちかこにはコートを掛けた。
 清史たちは二人をママに任せて、まだ暗い外に出た。ドアの所でママがフィニーに、ウィスキーのボトルを渡し、「船に酔ったら、これを飲みなさい」と言った。由美子が通訳すると、フィニーは笑って、わざと体を揺らし、封を切っていないボトルを口に当て、ラッパ飲みの真似をした。
 清史の車は使わないで、二台のタクシーに分乗した。東京港に行く前に、隆正のアパートに寄って、フィニーのリュックサックを持ってくる。荷物はそれひとつだけだった。

 フィニーの乗る船は貨客船だった。船内灯がつき、クレーンが赤白色のライトのもとで、船積みを行っていた。港内は暗く、静まりかえっており、この貨客船の周辺だけが夜に取り残されているようだった。それでも水平線のあたりはすでに蒼く染り始めている。少し寒くて、清史たちは腕を組んで体を揺った。乗船手続きを終えたフィニーが、清史たちのところに戻ってき、由美子が船のことを尋ねた。船はイギリス船籍で、ケープタウンを回って、セネガルに寄り、ロンドンに向うという。フィニーが由美子を通して、この前のサンフランシスコ・東京間の船旅の話をする。最初はいろんな食事が出てきて楽しかったが、終りの頃は同じメニューになってあきてしまったという話や、運動不足になるから、朝、甲板の回りをジョギングしていたら、船員たちも次々に真似をし、しまいには船長に差止められたことなど。
 それから、アフリカから手紙をくれよなという話になって、清史が隆正に「おまえ、フィ二ーに住所教えたんだろ?」ときいた。
「おれ、何も教えないよ」
「ばか。せっかくアフリカくんだりまで行くんだから、住所ぐらい教えておけよ」
 清史は保男や健次に、紙と鉛筆を持っていないかと尋ねたが、持っていなくて、由美子がバッグから手帳を取出した。一頁を破り取って、手帳と一緒に清史に渡す。清史は手帳を下敷にして、自分の住所を書こうとしたが、気が変って、隆正に住所を尋ねた。
「おれの住所でいいの?」
「そりゃ、おまえのところに一週間もいたんだから、その方がいいだろう」
 清史は隆正の住所と名前を紙に書いて、フィニーに渡した。
「必ず、手紙をくれよ」
「もちろん」
「レコードを出したら、送るからな」
「子供たちに聞かせるよ」
 しばらくして、甲板から誰かの叫ぶ声が聞こえてきた。フィニーが振り仰いだ。そして英語で何か答えると、再び清史たちの方に振返って、「そろそろ出発だ」というようなことを口にした。
「航海の無事を祈っています」と由美子が型通りの英語で言った。
「サンキュー」とフィニーは答え、それから一人ひとりに握手を求めた。最後に隆正と念入りに握手をし、肩を軽くたたいて何か言った。
「先生、何て言ってんの」
 由美子はフィニーに尋ね、フィニーは今度は由美子に向って言った。
「またいつか、リュウと酒を飲みたいって」
「まいったなあ」隆正は頭に手を当てて、照れ笑いをした。
 タラップを上っていく途中で、フィニーが立止まり、胸のGの刺繍を指さして何か言った。由美子が、えっという顔をし、フィニーが大きな声で同じことを言った。
「自分もガリバーのメンバーだと言ってるわ」
「あんたはいつでも、おれたちのバンドのメンバーだ」
 清史は英語で叫んだ。意味が通じたのか、フィニーは笑って手を振った。
 タラップが引上げられ、エンジンの音が一層大きくなる。船体はゆっくりと岸壁を離れ、黒い水が渦を巻いて、その間に流れ込んできた。
 甲板からフィニーが手を振り、清史たちもそれに答える。フィニーのそばを通りかかった船員が、物珍らしそうに清史たちを見下ろし、フィニーと何か話をした。
 空はようやく明るみを増し始め、貨客船は白い航跡を見せて進んでいく。
「変なやつでしたね」と保男が言った。
「ああ」
 後部甲板に移動したフィニーが、手に何かを持って振り始めた。それがベストだとわかると、清史たちもすぐにベストを脱いで、振った。貨客船の人影はなかなか振ることをやめず、清史たちも腕を振り続けた。

 

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