勢力が衰えて、台風が熱帯低気圧になったという天気予報を聞いて、隆男は迷うのをやめ、出発することに決めた。それに、雨は降っているかいないかわからないくらい微かだった。
料金を払って会員証を受取ると、彼は玄関を出た。自転車は、せり出したひさしの下の、きのう置いた位置にきちんとあり、少し離れて、二台の自転車が並んでいた。きのう来た時は一台もなかったから、後から誰か来たことになる。誰だかわかれば話でもしたんだが、と彼は思った。やつらはまだ出発しないのだろうか、それとも、きょうは休むつもりなのだろうか。荷物を荷台にくくりつけてから、ちょっと待ってみようか、と思ったが、思うだけで、すぐにユースホステルを離れた。八時四十五分だった。
細かい雨が、むき出しの腕と太腿を濡らしたが、それはむしろ気持がよかった。だが、能取湖を回った頃、雨が激しくなってきて、隆男は仕方なく合羽を着た。函館の釣具居で買ったもので、着るのは二回目だった。ユースホステルでやり過ごした方がよかったかも知れない、という気がしたが、低気圧が通り過ぎれば、やむのがわかっているので、それほど後悔はなかった。十五分ほど走ると、汗が吹き出てきて、合羽の裏を濡らした。肌にくっつくと、それは粘着性を帯びていて、なかなか離れなかった。ペダルをこぐのが倍も疲れる。
常呂の手前で、雨がさらに激しくなり、テンガロンハットのひさしから、水が流れおち始めた。道は未舗装で、タイヤが泥に食い込み、時々ハンドルを取られて、隆男は片足をついた。今、低気圧の中心が上空を通っているんだ、と彼は思った。走るのをやめて、手で押していると、地蔵をかこった小屋があり、そこで休んで、台風くずれの通過するのを待った。
少しして、合羽を着、かさをさした老人が通りかかり、隆男に声を掛けた。隆男は、灰色の雨滴で煙った膜を通して、その老人を見た。老人は何か言ったが、雨の音で聞えない。隆男は、少し首をかしげて、もう一度言うのを待ったが、老人は何ごともなかったように、そのまま行ってしまった。しばらくして、彼は、老人が、地蔵小屋の中で休んではいけないという意味のことを言ったのではないか、と思った。彼は自転車を押して、その小屋を出た。
雨は急に小降りになり、合羽を脱ごうかどうかと迷っているうちに、やんでしまった。彼は、その変化に驚きながら、合羽を脱いでリュックサックの中に押込んだ。汗に濡れた皮膚が、ひんやりとする。風にちぎられた雲が光りながらオホーツクの方に流れていき、そのあとに群青の空が広がっていった。その見る間に広がる速さを見ていると、青空の競走という言葉が浮んだ。日が射し始め、湿ったポロシャツの背中に当った。隆男は体が軽くなるのを感じた。
サロマ湖は洞爺湖や摩周湖のように、回りを山に囲まれていないせいで、海のように見えた。潮の香りもして、隆男は海岸線を走らせているような気持だった。水面が重く見えるのは、降った雨のせいだ、と思った。道の下に、時々、漁師かなにかの家が見えたが、人の姿はなかった。
ユースホステルの住所録を見ると、もうそろそろサロマユースホステルが現れるはずだった。一泊六百円で、希望すれば魚釣りもできると書いてある。隆男は標識に注意しながら、自転車を走らせた。一時過ぎだった。早過ぎる気がしたが、このユースホステルを過ぎると、あとは稚内まで一軒もなかった。
木の小さな標識が盛上がった丘のふもとにあり、矢印が上に通じる道を指していた。彼は漠然と湖岸沿いのホステルを想像していたので、意外な感じを受けた。上までの道はかなり急で、地面にのぞいている角のある岩に、時々タイヤがすべった。両側の樹木が道の上に覆いかぶさり、光をさえぎっていた。
ジグザグ道を上りつめると、最近建てられたらしいコンクリート製の白い建物があった。人の気配がなく、隆男はすぐに入るのをためらった。
スタンドを降ろし、倒れないように位置を決めてから、玄関を入っていった。廊下を隔てて、すぐ食堂になっているらしく、並んだテーブルや椅子が見えた。正面は、全面がガラス戸になっていて、小さなベランダがある。その向うには、サロマ湖が見え、それは入ってきた時から、隆男をとらえていた。下から見ていた時とは違って、サロマ湖は光っていた。光の反射する角度の違いだろうか、と彼は思った。遠くを砂洲が取り囲み、真中あたりで途切れていた。手前に、帆舟らしいものが、三そう浮んでいた。
「こんにちは」
かなり大きな声を出したつもりだった。
右横のドアが開き、中から男の人が出てきた。二十五、六歳だった。そのあとから、女の人も現れた。妻らしかった。意表をつかれて、隆男は視線を男の人に合わせた。
「今晩、泊めてもらいたいんですが」
男はすぐには答えず、隆男を吟味するように見た。そのとき、彼は、自分がかなり異様な恰好をしていることに気づいた。雨と汗でしみだらけのテンガロンハット、青いポロシャツ、薄汚れたショートパンツ。怪しむのも無理はないな、と彼は心の中で苦笑した。
「予約はしてありますか」
「いいえ」
それから、隆男は、自転車旅行で予定が立てられないことを簡単に説明した。どこのユースホステルでも、満員でなければ、今まで断わられたことはなかった。それにたとえ満員でも、六時頃まで待っていれば、必ず一つくらいキャンセルがあって泊れるのだ。二人は顔を見合わせて、早口でやりとりした。その様子を見て、彼はあらためて、若いペアレントだな、と思った。今までで一番若かった。
「時間も早いようですし、もっと先まで行かれたら……」
女の人が言った。泊めるのを渋っているというふうではなかった。隆男は半ば自動的に時計を見た。一時半だった。そのとき、彼は、もうここに泊らないことに決めていた。この二人はこれから先、ホステルのないことを知らないのだろうか、と思ったが、口には出さなかった。テントのあることが彼を支えていた。
「もっと先まで行ってみます」
彼はおじぎをして出た。
「気をつけて」
暇な時間、釣りをしてもいいな、まるで泊る所を決めたように、そんなことを思った。二人の後ろに見え隠れしていたサロマ湖をもう見られないことだけが、惜しかった。あの二人は夏の間ここに来て、あの湖を見ながらホステラーの世話をするのだろう、彼はちょっとそういう生活を想像し、悪くはない、とつぶやいた。
丘を降りると、光が急に強くなった。隆男は立て札を見、登り道に目をやった。この上に白いホステルがあり、若いペアレントのいることが、まだ信じられない気持だった。
走り出してから、彼は何度か、戻ろうと思った。一度は止って、後ろを向いた。だが、戻らなかった。同じ所を二度走るのは、旅行の純粋さをこわすような気がした。
紋別に着いたのは、もう六時近かった。紋別という名前は、流氷の来る町ということで知っていたが、こうして通っていると、その言葉からくる華やかなイメージはなく、静かな町だった。
彼は、きょうはどこに泊まろうかと考えていた。旅館を探すのがこの場合常識だと考えたが、何か他人に忠告しているような感じだった。それでも彼は、旅館を捜して、左右に目を走らせた。時々、人がこちらを見るのにかち合い、彼には通り過ぎていく者として自分の姿が写っているだろう、と思った。
街並が途切れると、右手にオホーツク海が広がった。水平線に薄燈色の残照があり、彼は日の暮れているのを強く意識した。さざ波が縞模様を描き、時折、灰色の波頭が現れては消えた。砂浜には黒いこんぶが規則正しく並べられてあり、手拭いをかぶった人が、その上にかがみ込んで、手に取っていた。あの砂浜でテントを張ってもいい、と隆男は思った。砂浜にペグが食込むかどうか疑問だったが、やってやれないことはない、と思った。
しばらくして、道は海岸線を離れ、牧草地に入っていった。アスファルトの舗装は街を出る頃に終っており、砂利道が続いていた。一体、どこに泊るつもりなんだ、と自転車を走らせている自分に向って言った。タイヤが砂利に取られて速度は出ないし、本当に暗くなってからでは、テントを張ることさえ困難になるのはわかっていた。
前方を圧する夕闇の中を、隆男は、それに逆うようにペダルを踏んだ。頑固というわけではなかった。自分の意志とは無関係な流れに身を任せている、と彼は感じていた。これと同じような気持を、美幌からヒッチハイクで阿寒へ帰る途中にも感じたことがあった。
あの時、彼は、阿寒のユースホステルに自転車を預けて、バスで摩周湖から屈斜路湖、美幌峠を経て美幌へ行ったのだが、帰りはバスではなく、ヒッチハイクで帰ることにした。途中までは小型トラックに乗せてもらったが、それからは一台も車が通らず、彼は歩いた。そのうち、トラックに乗っていたときから降り始めていた雨が本降りになり、隆男は国道沿いの小さな納屋のような所に避難した。後ろには人家があったが、人影はなかった。灰色の空は、とどまることなく暮れていき、ここで夜を明かさなければならないかも知れない、と思った。納屋の中には、おがくずが一メートルぐらい積まれてあり、あの中にもぐり込めば夜の寒さもしのげるはずだ、と本気で考えた。あの時も今と同じような気持だった。うまい具合に、釧路に向う貨物トラックが通りかかり、彼はそれに乗せてもらって、阿寒に戻った。ユースホステルに着いたのは八時過ぎで、隆男の泊る部屋はもうなかった。荷物を受取ると、阿寒湖のキャンプ地まで行き、そこでテントを張ったのだった。
ハンドルが曲らないように注意しながら、後ろを振り返った。ほぼ真直な道があり、誰もいない。ふと、このまま一晩中走ってみようか、と思った。思いがけぬ新鮮な考えだった。どうして今まで気づかなかったのだろう。だが、考えてみると、それは現実的ではなかった。一番の障害は体力が続かないことだ。
サイロのある家の前を通った時、隆男は、そのそばにテントを張るのに十分な空地のあるのを見てとった。あそこを借りればいい。しかし、まだ彼は自転車を走らせていた。牧草地に入ってテントを張れば、という気持はあったが、実際に柵を越えて自分がそうするとは思えなかった。引き返そう、彼はようやく決心した。
「すいません」
隆男は自転車を玄関近くに止め、開け放たれた戸の外から声を掛けた。老婆が出てきた。
「あの、この前でテントを張らしてもらえませんか」
老婆は右の耳を押し出す仕草をした。
「この前でテントを張っていいですか」
彼は少し大きな声を出した。老婆は隆男をじっと見、それから外に目を向けると、
「ええよ」
と答えた。隆男は話が通じたことにほっとしながら、自転車のところに戻り、荷台からテントをはずそうとした。
「あんた一人か」
上がり框から降りて、彼を見ていた老婆が声を掛けた。
「ええ」
「そんなら、家へ上がれや」
隆男はためらった。泊めてもらうために、無意識のうちに小細工を労したのではないかと気づいたからだった。どこかでテントを張ればよかったと後悔した。しかし、老婆はそんな彼のためらいに気づきもしないふうに、入るように首を振った。彼は荷を解くのをやめて、老婆の言葉に従った。老婆は、大勢いるのかと思っていたという意味のことを言った。
玄関を上がってすぐ横の、居間のような所に通された。板敷で天井が低かった。隆男の背より三十センチばかり高いだけだった。真中から裸電球がぶら下がっていて、黒ずんだ床を照らしていた。テレビの前に二人の男の子がおり、隆男が入っていくと、不思議そうな顔をして見上げ、老婆に何か尋ねた。老婆は腰を曲げて、それに答えた。お客さんという言葉が隆男の耳に聞えた。
十分ほどして、この家の主人らしい男の人が現れた。日に焼けた赤黒い顔をしている。隆男は柱にもたれかかって膝を抱えていたが、男の人を見ると腕を解き、正座した。そして黙って頭を下げた。何か言うべきだと思ったが、適当な言葉が浮んでこなかった。主人は怪訝な顔を見せながら頭を下げ、それに覆いかぶせるように老婆が早口で説明した。うん、うんと主人は軽くうなずいた。言い終ると老婆は奥へ入っていった。
「どこから来なさった」
卓袱台の前に坐って、少し間を置いてから主人が聞いた。
「大阪からです」
「ほう、大阪から自転車で」
「いいえ、青森まで自転車を送って、そこから」
今まで何回も繰り返された会話だった。
それから奥さんが入ってきて、夕食が始った。隆男だけ別に、膳に乗せて出された。おでんのようなものと、焼魚、みそ汁、そして漬物だった。自転車の荷物の中には、ライスといわしの缶詰があったが、明日の朝にでも食べよう、と彼は思った。
主人の質問に答えて、隆男は、学生であることや、主にユースホステルに泊ること、一日に百キロぐらい走ることなどを話した。どこが一番よかったかという質問には、少し考えてから、襟裳岬と答えた。しかし本当はそこではないという気持があった。かといって、それがどこなのか彼自身にもわからなかった。ここだと明確に指定できる旅行ではないという気がした。
「二階に床を用意しましたから」という奥さんの言葉で、隆男は腰を上げた。腕時計を見ると、九時前だった。
「それじゃ、休ませてもらいます」
居間を出、奥さんに教えられて、すぐそばの階段を上った。二階もやはり板敷で、下より暗い電球が太い梁から垂れていた。天井がなく、屋根裏がむき出しだった。隆男は服を脱いで、ふとんの上に置いであったタオル地の浴衣を着た。石けんの微かなにおいがした。明りを消すと、それまで気がつかなかった月の光が右手の大きな窓から射し込んで、板の間を照らした。
ふとんにもぐり込んでも、なかなか眠気は襲ってこなかった。網走から走ってきた疲れが全身を軽く火照らせ、そのため、頭の芯の方が冴えていた。屋根が高いな、と思った。寝返りをうつと、月の光がふとんの端に届いていた。前よりも近づいていた。
なぜ、おれはこんな所に寝ているのだろう、不意に思った。サロマ湖のユースホステルに泊ることもできたし、砂浜や牧草地で寝ることもできたはずだった。ここにいないこともあり得たわけだ。しかし、ここにいることは絶対に確かだ。彼にはそれが不思議だった。
翌朝、八時頃目を覚ました。窓の外はすでに明るく、寝過ぎたと思った。服を着、ふとんをたたんで下に降りると、居間には老婆一人しかいなかった。テレビを見ていた。
「おはようございます」
隆男が声を掛けると、老婆は笑顔を見せ、
「よう眠れたかな」と言った。
「ええ」
「そこに、ごはんがあるでな」
老婆はそばの新聞紙をかぶせた膳を目で示した。「すいません」と言って膳の前に坐ると、老婆は新聞紙を取り、ごはんとみそ汁をよそった。
朝飯がすむと、彼はこの家の住所と主人の名前をたずねた。老婆はテレビの上の郵便物を探って、一枚の葉書を見せた。筆記するものがなかったので、鉛筆を借り、新聞紙の切れ端に住所と名前を写した。
「あんたの名前と住所も書いてくれや」
老婆が古ぼけたノートを隆男の前に出した。戸惑いながら、隆男は空白の部分を老婆に示し、そこに住所と名前を書いた。
紙切れをポケットに入れると、隆男は簡単に礼を言い、出発する旨を告げた。老婆はうなずきながら、「気をつけてな」と言った。外は白く光っていた。きのう着いたのが夕方だったので、余計にそう感じるのかも知れなかった。
二人の男の子が、隆男の自転車を、大事な物でも扱うようにゆっくりとなでていた。そして隆男が出ていくと、びくっと手を引っ込め、直立の姿勢をとった。彼は微笑みながら近づき、自転車に乗った。
「ありがとう」
彼は自分を見詰めている子供達に言った。子供達は恥ずかしそうに顔を見合わせ、白い歯を見せて笑った。
自転車の方向を変えた時、玄関の所に老婆が立っていることに気づいた。子供達に礼を言ったのを見られたと思うと、照れ臭かった。そしてそれを隠すために、彼はゆっくりと頭を下げた。
牧草の緑の照返す中をしばらく走ってから、隆男は自転車を止め、振り返った。灰色のサイロが澄み切った空の中に突き出ていた。冬になればこのあたりは一体どうなるのだろう、と彼は思った。
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