1
電話の声の主はLだった。擦過音の混じった不明瞭な声で、いつものようにそっけない命令口調である。
「肉の棒が入り用なの。暇だったら来てちょうだい」
「はい、すぐに行きます」受話器を置くと同時に、彼は大急ぎで仕度をし、部屋を出た。
水銀灯の列に照らし出された国道に出ると、タクシーが来た。Kは乗込んで、Lの居所を告げた。しかし走り出してから、はたして運転手に聞えたのだろうかと不安になったが、運転手の確かなハンドルの切り方を見ていると、気おくれがする。
そのうち、徐々に見慣れた建築物が現れたと思ったら、すでにLのマンションの前だった。Kはタクシーを降りていつもするようにマンションを見上げ、どこまであるかわからないその上層部が闇の中に溶け込んでいるのに、深い溜息をついた。
ブザーを押すと、中から「開いてるわよ」というLの声が響いてきた。
「入ったら、鍵をかけてちょうだい」Lの声がベッドルームの方から聞えてくる。
Kはまぶしさに目をしばたたかせながら、開け放たれたベッドルームのドアの前に立ち、中をのぞいた。何も着ていないLが、ベッドの横の壁に向って倒立をしていたのだ。Kを見るとLは微笑もうとしたが、逆さになっているためうまくいかず、変な具合に唇がゆがんだだけだった。Kは、「新しい精神統一ですか」と冗談を言った。
「違うのよ。胃下垂だからこうして元に戻しているのよ」
左右のかかとを壁から、交互に離したりつけたりしながら、
「この間に、お風呂に入っておいてちょうだい」
Kは、言われた通り風呂に入る。バスタオルで水滴を吸取って、素っ裸のまま寝室へ行きかけたが、思い直してブリーフをはいた。全裸というのは、どうも不安定で、Kにはなじめないのだ。
Lは絨毯の上に腹ばいになっており、その前にはボトルやグラスが並んでいる。
「そんなもの脱ぎなさい」入ってきたKを見て、Lは鋭い語調で命令した。Kはあわててブリーフを脱ぐと、居間の方へ放り投げ、Kの指示に従って、彼女の右横に同じように腹ばいになった。
「きょうは誰と性交するんですか」Lの作った褐色の洋酒を眺めながら、Kがたずねる。
「例によって名前は言えないけど、宗教的人間よ」
Kの頭にいくつかの名前が浮んだが、口には出さない。
「あなたは?」
きかれて、Kは少し考えるように間を置いてから、
「友達です」と嘘をつく。
「あなたはいつも友達なのね。ほかに相手がいないの」
「でも、毎日相手を変えていますから」
「そう、それならいいけど」
Kはほっと胸をなでおろした。本当を言うと、いつも Lを相手にしているのだ。
Lによれば、Kというのは「肉の棒を頂点とする付属物がわたしの感覚器官を刺激して、大脳に複雑多様なパルスを送ってくれる存在で、それがわたしのあなたに求める唯一の、そして最高のもの」なのだが、逆に、Kにとって、Lというのが、どういう存在であるのか、彼にははっきりとはわからない。
適度にアルコールがまわってきたところで、二人はベッドに上がり、本来の作業にとりかかった。Lは足の裏を合わせて、座禅の形をとり、Kも彼女と向い合うようにして、同じ姿勢をとるが、準備はすでに完了している。
「さあ、あなたの肉の棒をちょうだい」しばらくの瞑想のあと、Lは勢いよく仰向けになり、Kを促す。Kは脚を広げたLの体に重なっていき、肉の棒を肉の穴に入れる。そしていつものように目隠しをする。Lの残像が消えないうちにと、Kは摩擦運動を速めようとするが、Lの「もっとゆっくり」という声の一撃で鎮静させられてしまう。
「あなたは友達、わたしは宗教的人間よ、いいわね」
Kは返事をする代りに、首を縦に振り、暗黒の視界の中で、消えていくLの姿を放棄して、自由にLの体を伸ばしたり、縮めたりして構築し始める。時々、聞取れないLの独言がその作業を邪魔するが……。
スプリングがLの尻の下降によるエネルギーを貯え、次の瞬間にはそれを放出して、二人を持上げる。Lの指がKの下腹部に触れ、往復運動の結果、その指を二人の皮膚ではさみ込む形になるが、Lは素早くそれを引抜き、その時の刺激がKの脳のフィードバックを促進させる。スプリングの振動数がますます大きくなり、それに比例して、Kの胴を締めつけているLの両脚の力が増大していく。
「あなたは……あなたは……」
誰かの名前を言っているようだが、L独特の擦過音がさらに強調されていて、聞取れない。
「そうよ……その通り……」
Lの息がKの胸にあたり、新しい促進パルスとなってフィードバック系に加わる。促進と抑制のパルスが肉の棒と脳の間を循環し、次第に非定常状態へと近づいていく。
突然、均衡が破れて発振が起り、太腿からふくらはぎにかけて、不規則な筋肉の収縮が走り抜けていく。
Kは知らない間に乳房の谷間に頬を押しつけており、しばらくの間、その接触感さえなかった。さらにLの両腕がKの後頭部を圧迫しており、Kはその圧力を自分の脳の内部で起っているものとばかり、感じていた。
2
二人は薄暗い横道に入って、すぐ右にある真暗なコンクリートの管の中に入っていった。人間一人がやっと通れる高さで、Sは窮屈そうに背をかがめた。Kは手を伸ばしてその丸まった背中に触れながら、すり足でついていく。
突然、頭上から金色の光が降ってきて、Kは思わず目をつぶった。
「さあ、入りましょう」とSの声がする。
バーの中は暗く、カウンターだけがライトで浮出ている。奥の方には、人の群れがいくつかうごめきあっているのがかろうじて見え、話し声が部屋にこもって、蜂のうなりのように聞える。
Sは注文したオンザロックがくると、一息に飲み干し、立て続けに四杯も流し込んだ。その間Kは一杯だけ。
「あなた、人類は何が原因で滅びると思う?」
Sがしゃべり始める。突然何を言出すのだろうと思いながらも、Kは思案気な顔をして、
「さあ、核戦争か天変地異ってところかな」
「残念。正解は人口爆発。そしてそれに伴う食糧危機」
「バクハツにキキ?」
きょうはいつもと内容が違うとKは思う。
「そうよ」とSは説明し始める。今世紀末頃には、世界人口が七十億を突破すること。食糧増産がそれに追いつかないこと。文化程度が高くなるにつれて、効率の悪い肉の消費量が増えること。人口抑制が簡単に行えないこと。
「それで、結局はとうしたらいいんだ」
「……それがね、ひとつだけあるのよ、解決策が」
人口抑制に加えて、男女の生み分けを実施するということ。医学的には可能とSは言う。男と女の出生率比を三対一ぐらいにする。男がいくらいても女が少なければ、出生率は急速に低下するから、人口は激減するだろう……。
「そこで問題になるのが、現在の結婚形態なのよ。一夫一婦制を守ろうとすれば、結婚できない男がでてくるし」
「ということは三夫一婦制?」
Kは冗談のつもりで言う。Sは目で笑いながら、
「あるいは、あくまで一夫一婦制を守ろうというのなら、残る二人の男は同性愛にならざるを得ないわね」
「そうすると」とKは余裕を持って「人類を救うためには同性愛を一般化する必要があるというわけだね」
その時、いつの間に寄ってきたのか、カウンターの女が、「あら、あんたたち、ホモなの?」と丸い目を向けた。その直截な言葉はKの心臓に突発的な脈動を与える。すべてがあからさまになったような恥ずかしさで、とっさに否定の言葉が出てこない。
「あたし、レズ、よろしく。といっても、お互いすれ違いだから、領域侵犯の恐れはないんだけど」
Sは片目をつぶって、グラスを少し持上げる。
「同志に乾杯」
彼女も手に持ったグラスをSのと軽く合わせる。
「しかしレズビアンとホモセクシャルとでは、人類への貢献度からして違うのよ」とSはカウンターの彼女に向かって解説し始める。彼女は頬杖をつき、長いまつ毛をしきリに動かして聞き入る。しかしKはそんな話には一向に興味が持てず、むしろ、背後から聞えてくる蜂のうなりに注意がいく。それは意味が聞き取れないだけに、妙にKを刺激する。
太腿をなでる感触で、Kは現実に引戻された。Sの手があり、あわてて脚をひく。
「Lとの関係はまだ続いているの?」
グラスを軽く揺らしながらSがたずねる。途端、胃の中に入ったウィスキーが逆流しそうになり、Kは力をこめて唾を飲込む。どうしてSは知っているのだ。
「いいのよ、隠さなくったって」Sが微笑む。
「でも、そんな無駄なことばかりしてちゃだめよ。いい加減に足を洗わなくちゃ」
Kは黙ってうなずき、話題の転換をはかる。
カウンターの女がオンザロックをかえにきたが、見るとさっきまでの女とは違っていた。いつ替ったのだろう。
「わたし、Mっていうの。どうぞよろしく」
Kの怪訝そうな顔を見て、その女が自己紹介をする。どこかで見たことのある顔だと思った瞬間、記憶の糸がするするとほどけ、しかしもう一歩のところで、何かにひっかかってしまう。
「どこかで会ったことがありますね」とKは思わずたずねる。
「ええ、わたしも」
3
「それで、記憶はよみがえりましたの?」
Mが、からませたKの腕に体を預け、微笑みかけた、
「いいえ、それがうまくいかなくて」あの夜以来、Kは過去の痕跡物をたどってMを思い出そうとしたが、失敗に終っていた。
「あなたはどうでした?」
「だめ、だめ、わたしには過去を探す手掛りが、ひとつも手許にないんですもの」
「過去はうつせみ……」Kがうろ覚えの文句をつぶやく。
「七日のいのち」Mが即座に答える。
二人は顔を見合わせ、しばらくしてからふっとMが笑う。それにつられるようにKも微笑み、ごく自然にMの腰に腕を回して、柔らかい体を引寄せる。
レストランは壁が全面ガラス張りで、照明が抑えられてあるため、まるで屋外のような感じを与えた。それに最上階にあるため、すべての高層ビルが下に見え、はるか向うには海がぼんやりと光っている。
「Sさんて、面白い方ね」
食後のコーヒーカップを置くと、Mが明るい声で言う。
「面白いというより、変っていると言うべきでしょうね」
「そういう言い方はおかしいですわ、Sさんのおっしゃることは、大変説得力があって納得できますもの」
思わぬMの反駁にKはつまづき、言葉が出てこない。
「そうですね。やっぱりおかしいですね。どうも偏見から物を言い過ぎたようです」
「偏見というより、自己愛の座標系が違うせいですわ。座標系が異なれば、円が四角に見えたり、四角が円に見えたりするのも、当然じゃありません? 人はそれぞれ独自の座標系を持っていますし、それが一致する場合、愛と呼ばれるんじゃないのかしら?」
KはMの言葉から、Mが婉曲に自分に愛を告白しているのではないだろうかと考える。
「つまり相性が合った場合ということですか」
「というより、もう少し厳密ですわ。わたしが以前読んだ小説に、コンピューターに恋をした女性の話がありましたが、あれなどヒロインが特異な座標系を持っていて、コンピューターしか対応できない結果でしょう。コンピューターは元々独自の座標系など持っていませんから、どんな座標系に対しても一致できるわけですわ。つまり、誰でもコンピューターに恋をする可能性があるわけ」
「なるほどね。それでその話はどうなりました?」
「もちろん悲劇に終りましたわ。彼女はコンピューターと交わろうとしましたが、失敗したんですもの」
「失恋ですね」
「そういうことになるかしら」Mは並びのよい歯を見せて笑う。
「Sさんとベッドを共にされたこと、おありになって?」
急に核心に触れてくる。Kは不意を突かれて、
「とんでもない」と力をこめて否定する。そして次の適当な言葉を頭の中で考えている時、Kは二人の客が入ってくるのを認め、何気なくその顔に目をやり、あわてて目を窓側にそらせた。そして微かに首を回して、もう一度見る。確かにLだ、隣は見知らぬ女性、二人は腕を組んでいる。
「お友達?」いつのまにか、Mも同じ方向を見ている。
「いいえ、別に、ただ服装が……」さりげなくごまかしながら、KはL達が早く席につくのを待つ。
「面白いファッションね」
確かにLの同伴の女性は、狩猟スタイルというべきもので、こげ茶色のブーツがあやしく光っている。しかしKにとっては、そんなことはどうでもよく、L達がメニューを見ているすきに、もう出ましょうか、とMにきく。そうねとMも簡単に同意し、二人はレジに向う。途中で、KはLの方をちらと見るが、そのとき偶然Lと目が合い、あるいは合ったように思い、息を詰める。だが何も起らない。
4
つぎにLの呼出しがあった時、Kは断わろうかと思った。頭の中には、Mのことがあったからだ。しかし、Lの言い方は、例によってそんな余裕を与えない断定的なものだったので、Kは「すぐに行きます」という言葉を反射的に口に出してしまった。
Lの部屋へつくと、Kは口許を引締めてブザーを押した。いつもより緊張している。
五、六秒してドアが開き、こんばんは、と言おうとしたが、その言葉は見知らぬ男の出現で、のどの奥にはりついてしまう。
「Lさんは?」Kがたずねると、見知らぬ男は不審そうな目で、
「Lなら中にいますが、あなたは?」
「ぼくはKですが……」
「ああ、あなたがKさんですか、どうも失礼しました。噂はいつもLから聞いています。さあ、どうぞ」
Kは状況が飲み込めないまま、中に入った。キッチンの方で物音がしている。Lらしい。見知らぬ男はKにテーブルの椅子を勧め、Kがそこに坐ると、「Kさんがお見えになったよ」とキッチンに声をかけた。「わかってるわ」Lの声が返ってくる。テーブルの上には、白いろうそくを立てた銀製の燭台が二つあり、その間に、果実類を盛った鉢、そしてフルコースのセットがKの前に一組、向う側に二組、王冠形をしたナプキンを取りかこんでいる。
これから晩さんが始まるのだろうか。三組あるということは、ぼくの分を始めから予定に入れていたことになる。何のため? いや、それよりも、この目の前にいる男は一体、何者?
「おまたせ」Lがキッチンから姿を見せた。
Lは男と並んで、Kの方を向いた。
「あなたに紹介しておくわ。こちら、婚約者のO」
それから、少し首をひねって、Oという男を見、
「こちらが、いつも話していたK」
Oが照れたような笑いを浮べながら、Kに手を差出したが、Kは坐ったまま、その手をぼんやりと眺めていた。途中で気づいて、あわてて立上がり握手をした。
「それで、結婚はいつですか」
「それはわからないわ」
「というと、Oさんの仕事の関係か何かで……」
Oが説明しようとするのを遮って、Lが、
「いいえ、そうじゃないの。わたしたちは今、婚約中という関係にあるだけ。結婚は別の問題なの」
「つまり、いつでも結婚できるという可能性の中に、ぼくたちがいるわけで、その意味で、ぼくたちは結婚から真の自由を奪い取ることができたわけです」
Kは、混乱していた。
「しかし、結婚する意志の表明が婚約じゃないんですか」
「いえ、そうではありません。結婚する可能性の表明が婚約なのです」
「しかし……」言いかけてKは口をつぐむ。彼は「御婚約おめでとう」と言って、おとなしく引下がる。
ろうそくに火をつけてから、部屋の照明が消され、食事が始った。オードブルが出て、ポタージュスープ、舌平目のムニエル、トルネード、野菜サラダ……。その間、Lは、Oと見合いをしたこと、その場で婚約を決めたこと、翌日、Oが婚約指輪を買ってくれたこと(確かに、Lの指には、プラチナ台のダイヤらしきものが光っている)、三日後、婚約披露パーティを開いたことなどを話した。もちろんKは招待されなかった。そのことをほのめかすと、
「それは、そうよ。あなたとわたしは、いわば非公式な関係、だから公式の場にはふさわしくないでしょ」
Lが落着いた声で答える。
この時、KはMを思い浮べる。確かにLとは非公式な関係だったかも知れない。しかし、Mとは……。
デザートのバニラアイスクリームとメロンを食べ、コーヒーを飲み終ってから、Kは椅子から立上がった。
「どうもごちそうさま。ぼくはこれで帰ります」
「帰るって、どういうこと?」
Lが煙草を吸う手を止めて、意外そうに言う。
「……だって夜もおそいし、邪魔をしたらなんだから」
「何、言ってんの。あなたを呼んだのはわたしなのよ。まだ用もすんでないのに」
「用って、電話の?」
「もちろん、そうよ」
あれはぼくを呼ぶための方便ではなかったのか。Oは煙草をふかし、微笑みながら、KとLのやりとりを聞いている。KはちらとOに目をやる。
「ああ、この人はいいの。心配する必要はないわ。この人は純潔者なのよ」
「純潔者?」
「そうよ。……あなた、説明してあげて」
Oは煙草を灰皿に押しつけると、ひとつ空咳をする。Kはゆっくりとまた腰を降ろす。
「純潔者といっても、別に大げさなものではなく、ただ結婚するまでLの体に触れないというだけのことです。これは、婚約という関係を明確にするために設けた条件なんです。婚前交渉というのは、おうおうにして婚約を曖昧にしてしまいますからね。婚約を結婚の尻尾から切離すためには、これくらいのことをしなければなりません。もちろんLもぼくの体には触れない。しかし、Lはぼくに対しては純潔者なのですが、他人に対してはそうではありませんので、あなたを、いや、あなたの部分を必要とします」
Oを居間に残して、二人は寝室へ入ったが、Kは一向にその気になれなかった。Kがぐずぐずしていると、
「あなたが、ほかの誰とつき合おうと、わたしは構わないけど、わたしとここにいる時は、ちゃんと義務を果してちょうだい」とLがきびしく言う。MのことだとKは気づき、あの時やはりLは気がついていたのだと思う。
「はい、わかっています」
だが、Kの一部分は、なかなか機能状態に達しない。
「どうしたの、だめなの?」Lは声を荒らげて、Kをにらみつけるが、それはますますKを萎縮させる。いくら妄想をかきたてようとしても、くすぶるばかりで燃え上がらない。しかしLが「きょうの相手は誰?」といった途端、 Kの頭にMの姿が焦点を結び、やすやすと肉が棒になる。
5
Mはずっと黙りこくったままだった。きょう、KはMとアイを確かめ合おうと決心して臨んだのだったが、気負い過ぎて妙にかたくなっていた。二人は形式的に腕を組合わせたまま、光と人間と音の飽和した繁華街から次第にはずれていき、気がつくと暗い公園にいた。水銀灯が無機的な光を投げかけており、ベンチとそこに坐っているアベックが舞台のように浮上がって見える。
二人がひとつの水銀灯の領域に入った時、ベンチのアベックが立上がり、背後の闇に消えた。その直前、男の方が横目で二人を見て、目で笑った。いや、Kにはそう見えた。それをKは一種の配慮と解釈し、空いたベンチにMを誘う。Mは坐っても、Kの方を見ず、前方の黒い木立に視線を向けている。
何かを話題にして糸口を見つけなければ、とKはあせるが、頭の回線が混線していて、適当な情報を引出せない。黙っていると沈黙が圧迫を加えてくる。それに耐え切れず、Kはきっかけも展開も無視していきなり
「ぼくはあなたを愛しています、だから……」
とMの手を握ろうとした。すると突然、Mが笑い出し、Kは反射的に手を引込める。笑い声は黒い空に舞上がり、公園全体に降りていく。
「何がおかしいんですか」Kは低いかすれ声でたずねる。
「愛しているというのが、そんなにおかしいですか」
今度は声高に問詰める。Mは首を振る。
「あなたには、Lという人がいるんでしょう?」
「え?」頭に空洞ができる。
「どうして、それを……」
「たとえば、わたしとLが友達であるとか、私立探偵を使って調べるとか、そのほか可能性はそれこそ無限にあるでしょう。でも今は、そんなこと問題じゃないのよ。問題は事実かどうかだけでしょう」
Mはあくまで冷静で、詰問する様子はまるでない。
「それは、つまり……事実です」そして勢い込めて、「ですけど、ぼくの必要としていたのは、Lではなくて Lの部分なんです。Lも、ぼくの部分を必要としていたのです」
「つまり、Lを愛していなかったとおっしゃりたいのね」
「そう、そうなんです」
「ということは、あなたの愛しているのは、わたしの部分ではなくて、わたしなのね」
その通りです、と答えてから、KはMの言葉に引っかかりを感じて、
「もちろん、部分を含めたあなたを愛しています」
Mは黙ってうなずき、それは次の行動に移ってもよいという合図のように、Kには思えた。あるいは、公園の闇がKを駆立てたのかも知れない。KはMを抱締めようとして肩に腕を回し、体重を移動させた。しかしその時、Mが勢いよく立上がり、Kは支えを失って、危くベンチに倒れそうになる。アイの拒否? Mの後姿をしばらく目で追ってから、ようやくKは立上がる。
Mが不意に立止った。視線の先には、ホテルDという赤いネオンが明滅しており、それに気づくとKは動揺した。Mの立止った理由がわからないのだ。そばを通るのを嫌ったためなのか、あるいは、その存在を暗に知らせるためなのか。
「休んでいきましょうか」Kが冗談のつもりで言うと、
「そうしましょう」とMが軽く答え、Kを驚かす。一体、何が変ったのだろう。KはMの表情から変化を読取ろうとするが、Mは何気ない顔で見返すだけで、そこには、何の変化もないのか、無限の変化が秘められているのか、まるでわからない。
青い照明のついた小さな入口を入っていくと、能面の顔をした女がどこからともなく現れて、二人を案内した。部屋に入ってから、Kはどういう手順を踏もうかと思案したが、その答えが出る前に、Mはさっさと服を脱ぎ、バスルームに消えていく。シャワーの音が聞えてくる。一緒に入っていくのもひとつの手段だと決断して、Kが服を脱ぎかけた時、Mが全裸で出てくる。Kはおろしかけていたジッパーを無意識のうちに引上げ、それに気づくと、またあわてておろす。Kの部分は、Mの全裸によって急に萎えてしまう。
Kがシャワーを浴びて出てきたとき、Mは裸のまま乳房の下で両手を組合わせて、ベッドに沈み込んでいた。Kはブリーフをはいてそばにいったが、Mは目を開けない。アイシテイルという言葉を、呪文のようにつぶやきながら、KはやっとMの体に手を伸ばし、乳房に触れる。すると、Mが目を開け、
「あら、もうシャワーおすみになったの?」と微笑み、 Kにはそれが皮肉に聞える。
「ええ、すみました」と答えてから、Kは接触を一時中断して、灯りを消しにいく。
やがて暗いことが幸いし、Kは現実にとらわれずに、MをLに置きかえることに成功した。その途端、今までせき止められていたパルスが部分に殺到し、瞬間的に自立する。アイが確かめられたとKはほとんど叫びそうになる。からみ合った姿勢のまま、片手でブリーフを取ると、体をずらせて進入しようとするが、汗のために滑ってうまくいかない、それにMの体が、いつのまにか固くなっている。Kは何が何だかわからないまま、強引に体をこじいれ、肉の穴に挿入しようとするが、はじかれてしまう。頭が熱くなり、ずきずきと脈を打つ。いくらあせっても、ゴム膜のようなものが存在して棒を拒否する。Kは何回か同じことを繰返し、その繰返しの中で、急激に抑制機能が失われて、外部に放出してしまう。
6
Kは迷いの上を行きつ戻りつした挙げ句、バーの入口に入っていた。ここ数日間、Mに会う勇気がなかったのだが、どのくらい時間を置けば、あの失敗が時効になるのか見当がつかなかったせいもある。一部不安もあるが、もう大丈夫とKは自信を回復していた。
時間が早いせいか、バーには客がひとりもおらず、猛禽の目をした女が、カウンターの中でルージュを引いていた。
「Mさん、まだですか」Kは、近づいてたずねた。
「M? 来てないわよ。もう来ないんじゃないかしら」
「それ、どういうことです?」
「ここのところ、ずっと顔を見せないから」
「辞めたんですか」
「さあ、知らないわ」
Kの頭に閃くものがある。
「Mさんの居所、教えてもらえませんか」
すると女は、ようやく塗るのをやめて、Kを見る。
「あら、あなた、Mの何? 恋人?」
ええという言葉が出かかったが、Kはそれを飲み込んだ。
「教えてあげましょうか」意味ありげな笑いが、濡れたように光る唇の回りに浮んでいる。
「そのかわり、あなたを食わしてちょうだい」
Kは女が近づくのを感じて、出口へ走った。後から、笑い声が追いかけてくる。その中に「マンションQよ」という声をKは聞いた。
「Mさんなら、三日前に引越しましたよ」
管理人が事もなげに言った。予感はしていたものの、体から急に力が抜けていくのを感じる。
「行先はわかりませんか」
「さあ、そこまではねえ」
KはMの異変を自分のせいだと解釈するが、確証はない。
ひょっとして、LならMの行くえを知っているかも知れない、とKは不意に思った。そんなことはあり得ないと否定してみても、たとえばMがLの所に乗込んで、ぼくのことについて話をつけに行ったとか、Lがぼくの相手がMであることをつきとめて、やはり話をつけに行ったとか……否定すればするほど、それは現実味を帯びてきて、ついにKは電話ボックスに入って、極秘の番号を回す。Lはそれを教えようとはしなかったが、KはLの部屋で調べておいたのだ。Lは怒るかも知れないが、非常の場合には仕方がないとKは自分に言聞かせた。
「もしもし」
「はい、Lでございますが……」
Lの声ではない。明瞭すぎる。
「あの……Lさんは……」
「Lはおりませんが、どちら様でしょう」
「ぼく、Kという者ですが……」
「あ、Kさんでいらっしゃいますか。いつもLがお世話になっております」
「はあ」
「わたくし、Lの母でございます。この度、どういうわけか、Lが駆落ちをいたしまして……」
「駆落ち?」
脳裡に、Oと並んだLの姿が浮び、ダイヤの指輪が光る。
「はい。わたくしたちにとりまして、余りに突然の出来事ですので、どうしたらよいのか皆目見当がつかず、こうしてLの部屋に泊り込んで、何か手がかりはないかと探しているのでございます」
「それで、相手は一体誰なんですか」
「それが皆目、見当がつかず……」
「そうすると、Oさんとの婚約は破棄になるわけですね」
「婚約? それはどういうことでございましょう。Lが婚約したのでしょうか」
「ご存じないのですか、二週間ほど前、Oという人とLさんが婚約されたのを」
「いいえ、初めて聞くことでございます。そのOという方はどういう方なのでしょうか」
結局、Kが先夜会ったOのことを、母親という人に説明しただけで、電話は切れた。
Kの足は自然とSの住居に向っていた。一緒に黄金の液体を飲むこと。Sの望むことなら、最大限かなえてやろうとKは思っていた。もう弱気になっていた。
ドアをノックする。しかし出てきたのは女性。一瞬KはMじゃないかと錯覚するが、照明の加減だった。Sの部屋であることを確かめてから、
「Sさんは?」とたずねる。まさかSが女性を夜の同伴者にするなんてことは考えられない。
「Sさん? さあ、あたし、知らないわ。おととい引越してきたばかりだから」
ということは、三日以上も前に、Sは引越したことになる。これはMの引越しと何かつながりがあるのだろうか。頭の中で、MとSがつながり、そして離れ、途中からLとOも加わって、M‐S、L‐O、M‐L、S‐O、L‐S、M‐O……。
ショーウインドからの光が、通行人達を照らしていた。Kの目は、二人連れを追って、落着きなく動いている。いた! Kはめざす男女の組を追って足早に近づいていく。だが、彼等はL‐Oでもなく、S‐Mでもない。男はKを横目でにらむと、女の腕をとらえなおして去っていく。Kは再び視線をさまよわせる。そして今度は向う側の通りに女の二人連れを見つける。車道に足を踏出した途端、急ブレーキでタクシーが止り、運転手の叱声を浴びながら、Kは急いで横断歩道へ迂回する。腕を組んだ女どうしの後姿を見て、確信する。LとMだ……。しかし間違いだった。
両側のビルが突然、岩の断崖に変容したように思う。車の騒音や人の声も消えて、無人の渓谷が月の光の中を蛇行している。肉体が消えて、自分が意識の雲になっていることに気づく。空間の観念がなく、非常に高空から眺めているかと思えば、蟻のようになって崖を見上げている。MもLもOもSもそこにいるような気がするが、確認する手段は何もない。肉体はないのに意識だけがあるのは奇妙な感じだ。しかし、どうして意識だけが存在しているのだろう。遠くの黒い空に、灰白色の雲状のものがあり、あの雲と交りたいと思う。その時、意識が窒息していくのを感じる。Kの雲は次第に拡散していき、原形が徐々に崩れていく。叫び声を上げようとするが、声が出ない。
後ろから人に押されて、初めて、Kは自分が人の流れの邪魔をしていることに気づいた。ビルはやはりビルだ。幾分肩を落し加減にしながら、Kは歩き出すが、うまく流れに乗れず、外側にはじかれそうになる。しかしその姿もすぐに群集の中に消えていく。
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