ゾーン              津木林 洋  連休前のせいか、ビデオレンタルショップは客が多かった。俊一は人の身体に触れないように注意深く移動しながら、棚に並んでいるDVDのタイトルを見ていった。観たいと思う映画がなかなか見つからない。  横目で、離れたところにいる麻里を見ると、次々と棚に手を伸ばしてはDVDを取って、胸に抱え込んでいる。  俊一は舌打ちをして、彼女に近づいていった。 「そんなに借りてどうすんの。五日間しか休みがないんだぜ」  見たところ、十枚以上抱えている。麻里はずり落ちそうになっている一枚を指で押し込んだ。 「金がないから家で映画三昧をしようって言ったのはそっちじゃないの。あたしじゃないわ」 「だからと言って、そんなに借りても観れないだろう」 「観れなきゃ観ないで返したらいいじゃない」  誰が金を払うと思っているんだと言おうとして、俊一は思いとどまった。ここで喧嘩をしてもつまらない。  結局俊一は一枚も選ばず、麻里の選んだDVDを両手で押さえて、レジに出した。店員が驚いた顔をする。一枚一枚バーコードが読まれていく間、どんな映画かタイトルを見たが、洋画と邦画が半々くらいだった。ホラーが多いようだ。  計十五枚分の料金を払い、四つに分けた通い袋を一つの紙袋に入れてもらって、それを受け取った。  周りを見ると、麻里がいない。俊ちゃんという声がして店内の奥に目をやると、棚の陰から彼女がおいでおいでをしている。まだ借りるのかとうんざりしながら俊一は近づいていった。 「俊ちゃん、ここのも借りる?」  麻里の指さした棚はアダルトコーナーである。 「バカ。そんなもの、必要ねえよ」 「ホント?」  麻里は含み笑いをしながら、棚の一枚を抜き取ると、タイトルを読み始めた。 「ガールズコレクション……ざーめん大好き、ぜーんぶごっくん……」  俊一はあわててDVDを引ったくった。棚に戻し、麻里の手を引っ張って出口に向かう。麻里の声が聞こえたと思うと、ありがとうございましたという店員の顔をまともに見ることができない。  明るい店内から夕暮れに染まった外に出て、俊一はほっと一息ついた。 「もう絶対お前とはレンタルショップには行かない」 「あ、俊ちゃん、怒った」 「怒ってなんかねえよ」 「いいわよ、怒ってても。その方がカワイイもん」  言いながら麻里は体を寄せてきて、俊一の腰に腕を回した。薄手のセーターを通して麻里の弾力のある体を感じる。ちぇっと呟きながら、俊一は空いている右手を麻里の背中に回した。そして脇の下から胸のふくらみに手を伸ばし、軽く揉んだ。 「いやあん」麻里は俊一の手をつかみ、小さく上半身をよじったが、体を離すことはしない。  俊一の手がふくらみを追いかけてさらに揉もうとした時、麻里の携帯電話が鳴った。彼女は体をよじりながら、肩から斜めがけにしたポシェットを開けた。携帯電話を取り出し、液晶画面を開く。 「家からだわ」  そう言うと、麻里は俊一の腰に回していた手を外し、彼に背を向けるようにして電話に出た。話し口を手のひらで隠すようにしている。 「……どうしたん……え?……お父ちゃんが……いつ?……それで……ふーん……分かった、帰るわ……うん、今から」  麻里は電話を切ると、放心したように手の中の機械を見つめている。 「家から何て」 「うん?……ああ、お父ちゃんが階段から落ちて、近所の医者に診てもらったら、癌じゃないかって」 「え?」 「それで明日緊急の手術をするんだって。あたし、帰らなくっちゃ」  俊一はDVDの入った紙袋を持ち上げ、「これは?」と言ってみた。 「ごめん。連休中に帰って来れたら一緒に観よ」  そう言うと、地下鉄の駅の方向に駆けだしていく。俊一はその後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。  アパートの部屋に戻って、ベッドの上に紙袋を放り投げた。プラスチックの擦れ合う音がした。 「どうすんだよ、こんなに借りて」俊一は体を折り曲げて吠えるように叫んだ。  今すぐ返却に行ったら金を返してくれるかもと、ふと思ったが、彼女に逃げられたと思われるかもということに気づくと、とてもそんなことは出来なかった。  コンビニで買ってきた弁当とパンで夕食をすませると、取りあえず一つ観てやろうかと紙袋の中から通い袋を取り出した。  中身を見ていく。ホラーはもともと性に合わなくて、しかも一人で観るものではないと思っているから外し、アメリカのラブコメディをプレイヤーにセットした。ベッドの接している壁際に蒲団を集め、枕を背中のクッション代わりにして脚を投げ出す。隣には麻里用の枕を置いて、イメージの中で二人で観ている雰囲気を味わおうとした。しかしベッドシーンになっても馬鹿ばかしいと思うだけで、少しも興奮しない。  俊一は観るのをやめ、携帯電話を手に取った。麻里の言った、階段から落ちて癌になったという言葉がどうにも引っ掛かっていたのだ。そんなことってあるのかという思いと、ありえそうにないから本当だという思いの間で揺れていた。ひょっとしたら連休を一緒に過ごすのが嫌なので、ひと芝居打ったのではという気持ちがどこかにある。  電話ではなく、メールで「お父さんの具合、どう。階段から落ちてガンなんかになるの?」と送信した。すぐに返信が来るものと思っていたが、来たのは一時間も後、銭湯から帰ってからだった。 「お母さんが落ち込んで大変。階段から落ちたのは、腸がガンで詰まって痛かったから。明日、十時から手術です」  本当っぽいメールで俊一はほっとした。術後の看病をすることになったら、こっちに帰ってくることは難しいかもしれないなと、半ばDVDが無駄になることを覚悟した。  翌日寝ていると携帯電話が鳴った。手に取って時間を見る。七時五分。麻里に違いないと眠気も一気に覚めた。しかし開けてみると、全然知らない番号が出ている。俊一は電話を切って、再び蒲団に潜り込んだ。  少したって、また電話が鳴った。開けると、同じ番号だった。また間違えていやがる、俊一は舌打ちをして電話に出た。 「もしもし」と不機嫌な声を出す。 「河本か。俺だ、タカトウ」  名前を呼ばれて俊一はどきりとした。タカトウ? 何度か頭の中で名前を反芻して、ようやく俊一は思い出した。六年前に卒業した高校の同級生で、一年ほど前に合コンに誘われたのだ。それほど親しくしていたわけではない相手からの電話で、その時も今日と同じように戸惑ったのだった。 「何? こんな朝っぱらから」 「どうせお前、今日暇だろ。だったら、俺と付き合えよ」 「また合コン?」 「一緒にドライブして、その後飲み会」 「こんな朝っぱらから電話してくるというのは、誰かがドタキャンしたので人数合わせだろ」 「気にすんなよ。来るだろ?」  麻里が横にいたら当然断るのだが、少なくとも今日いないことは確かだ。 「なん対なに?」 「三対三」  俊一は待ち合わせの時間と場所を聞いて電話を切った。もうひと眠りしたいが、眠り込んでしまうと遅刻する恐れがある。かといって、すぐに起きる気にもならず、俊一は蒲団の中でぐずぐずしていた。このまま眠ってしまって間に合わなくなっても、どうせ人数合わせだしという気分の中にいた。  それでも八時を過ぎた頃にベッドから起き上がった。顔を洗ってから、昨夜の残りのパンを牛乳で流し込み、バナナを一本食べた。服装をどうしようかと一瞬考えたが、別に相手を見つける気もないので、ジーンズに薄手のジャケットを羽織って、部屋を出た。  待ち合わせの駅前で時間になっても現れないので、ポケットから携帯電話を取り出し、着信履歴から高藤に電話をかけようとした時、クラクションが鳴った。顔を上げると、ロータリーに古ぼけたライトバンが入ってきた。俊一は無視して、もう一度携帯電話の画面に目を落とした。 「河本!」  見ると、ライトバンの窓から高藤が顔を覗かせていた。一年前にはなかったヒゲを鼻の下と顎に生やしており、急に老けたように見えた。  俊一は近づいていくと、「まさか、これで行くんじゃないだろうな」と言いながら車体に目をやった。横に書かれていた文字が車体の色と同系色の塗料で消されている。 「その、まさかだよ」 「相手はこの車で行くって知ってんの」 「いいから乗れよ」  俊一は高藤の開けてくれたドアから助手席に乗り込んだ。足の蒸れたような臭いが鼻を突いた。何か変な物でも積んでいるんじゃないかと後部座席の奥の荷台に目をやったが、薄っぺらい蒲団が丸めてあるだけだ。俊一は滅多に車に乗らないので、これが車特有の臭いなのかもと思ったが、それにしてもくさい。 「この車、ちょっと臭うんじゃないのか」  俊一は鼻を動かした。 「そうか」  高藤は後ろの席に腕を伸ばすと、プラスチックの容器をつかんでシートにシュッと一吹きさせた。その時後ろからクラクションが鳴らされたので、高藤は容器を俊一に渡し、車を発車させた。  容器には車用消臭剤の文字が印刷されている。ちゃんと分かってるのか、俊一がにやっとした時、微かな甘い香りとくさい臭いが混じって鼻腔に来、胸くそが悪くなって彼はサイドガラスを三分の一ほど開けた。五月の乾いた風が車内の空気をかき混ぜていく。 「もう一人は?」 「今から迎えに行く」 「お前、以前はもう少しましな車に乗っていなかったか」 「昔は昔、今は今」  高藤はまっすぐ前を見ながら、淡々とした声を出す。こちらを見ないのは、それ以上質問をするなということだろうと俊一は口をつぐんだ。  車は国道から脇道に入り、狭い入り組んだ道を右に左に折れてから、古いアパートの前に停まった。高藤がクラクションを盛大に鳴らした。それに応えるようにどこかから犬の吠える声が聞こえてくる。  しばらくして高藤は再びクラクションを鳴らした。同じように犬の吠え声。しかし誰かが現れてくる様子はない。 「何やってるんだ」高藤はフロントガラスを通してアパートの二階辺りに目をやりながら、腰にぶら下げていた携帯電話を手に取った。画面を見ながら、ボタンを押す。 「ああ、俺だ。今、下。いい加減に降りて来いよ。間に合わないじゃないか」  怒鳴るようにそう言うと、乱暴に携帯電話を閉じた。  それでも男がアパートの玄関から出てくるまで十分ほどかかった。寝起きなのか、髪の毛があちこち立っている。細長い黒縁の眼鏡にボタンダウンのシャツ。その上に紺色のベストを着て、首から大きな一眼レフのカメラを下げている。俊一は男の姿を見て、小さく首を傾げた。  男は後部座席に乗り込み、「今日だったか」とのんびりとした声を出した。 「決まってるだろ」高藤は車を急発進させた。おっとっと、という声がし、後ろを見ると、男がカメラを両手で抱えて横倒しになっている。 「大丈夫?」俊一が声をかけると、男は片手を振って何事もなかったように坐り直した。  高藤は怒っているのか口をきかない。俊一は仕方なく、信号待ちで停まった時、高藤の腕をつついて親指を後ろに向け、眉を上げて見せた。 「ああ……ムカイ」そう言うと高藤は後ろに首をひねった。「おい、ムカイ、こいつは河本。高校の時の同級生」  ムカイと呼ばれた男は首をすくめるような挨拶をすると、いきなりカメラを構えて俊一を撮った。フラッシュが光る。俊一は思わず目をつむったが、視界が白く飛んだ。向かっ腹が立ったが、言うべき言葉が見つからず、俊一はどすんと席に坐り直した。 「ほら」  後ろからカメラが差し出された。液晶画面には自分の間の抜けた顔が写っている。 「分かったから、もう消せよ」  へへへと笑いながらカメラを引っ込めると、ムカイは何やらボタンを操作した。その様子を横目で見ながら、こんなやつと一緒に行ったら俺も同類と思われるだろうなと、俊一はうんざりした気分になった。  待ち合わせの場所はハンバーガーショップの駐車場だった。約束の十一時を十分過ぎて乗り入れた。高藤は駐車中の車を左右に見ながら、ゆっくりとバンを進めて行く。 「どんな車」車の種類など分からないが、俊一は取りあえずそう聞いてみた。 「白のカローラって言ってたけどな」  並んでいる車には白が多いが、どれがカローラか見当がつかない。「まだ来てないな」と呟きながら、高藤は空いている場所に車を停めた。  俊一は外に出た。ゆっくりと深呼吸をする。高藤も出てきて、携帯電話を取り出した。周りに目をやりながら、ボタンを押す。 「……ああ、俺、高藤。今、どこ……え、何だって……そりゃないだろう。ドタキャンもドタキャン、大ドタキャンだぜ……二人でもいいじゃないか、来いよ……三人が嫌なら、こっちも二人にするからさ……そう言わずに、取りあえずここまで来てくれよ、頼むよ。でないと、俺、他の二人に顔向けできないじゃないか。……分かったよ、もういいよ。その代わり、この貸しはどっかで必ず返してくれよな」  高藤は電話を切ると、ぷっと唾を吐いた。俊一が高藤の顔を見ると、「腹痛だってさ」と高藤は笑って見せた。「ドタキャンでよくあるパターンだよな」  俊一はほっとしていた。元々自分は代理で来ただけなのだ。 「河本、どうする」 「俺は帰るよ」 「帰るのか。……どうせならいっちょナンパでもやりますか」  そう言うと、高藤は両手を挙げて大きく背伸びをした。こんな車で無理に決まってるでしょ、と言いたかったが、俊一は口をつぐんだ。 「今日は絶好のドライブ日和だったのにな、バカヤロウ」  俊一は高藤の視線につられて空を見上げた。確かに雲ひとつない青空が広がっており、風もなく穏やかだった。俊一はふと、今頃は麻里の父親の手術の最中だろうなと思った。 「なあ、河本。折角ここまで来たんだからさ、高速ぶっ飛ばしてスカッとしようぜ」  俊一はバンに目をやった。 「この車で大丈夫?」 「あのな、こう見えても中身はすごいんだよ。俺と一緒で」  高藤は右手の中指だけを立てて見せた。俊一はふんと鼻で笑った。 「よし、決まり。今日行く予定だった唐沢までぶっ飛ばす」  まあ、それもいいかもしれないと思いながら、俊一は車のドアを開けた。 「おい、ムカイ。今日の合コンは中止。今から高速に乗って唐沢の砲台跡まで行く」 「あ、そう」  カメラをいじっていたムカイは顔を上げずに答えた。 「なあ、ちょっと聞くけど、車の中、臭わないか」  俊一の言葉にムカイは顔を上げ、鼻をひくひくさせた。 「ちょっとは臭うけど、高藤の生活臭だもんな」 「生活臭?」 「分かった、分かった。ファブリーズすりゃいいんだろ」  高藤は助手席の収納ボックスから先程の消臭剤の容器を取り出すと、ドアを開けて外に出た。そして車の後ろに行って後部ドアを開け、丸めた蒲団に霧を吹きかけた。よく見ると、それは寝袋のようだった。それを裏返しにして同じことをし、さらに荷台や側面に消臭剤を吹きかけた。  高藤は戻ってくると、これでどうだというような顔をして消臭剤を俊一に渡し、エンジンをかけた。俊一はそれを収納ボックスに仕舞ってから、車をバックさせるために後ろに上半身をひねっている高藤に、「あれって寝袋?」と聞いてみた。  しかし高藤は答えず、駐車スペースから車を出すと、急発進で駐車場を抜けた。そしてクラクションを鳴らして、道路に出る。他の車の流れに乗ったところで、「旅館代を節約するために置いてあるだけ」とぽつりと答えた。ムカイが、ふふと笑った。  車の中で寝泊まりしているのかと思ったが、そのことを尋ねる気にもなれなかった。  高速道路は連休初日のせいなのか結構混んでいて、追越車線も車が流れず、走行車線と同じような流れになっていた。ぶっ飛ばすと言っていた高藤は走行車線から出ようとはしなかったが、車体の振動具合からみて、むしろこのくらいのスピードでよかったと俊一は思った。それに消臭剤が効いたのか窓から流れ込む風のおかげか、車内の臭いが気にならなくなってきて、俊一は脚を伸ばして疾走感に身を委ねた。 「お、すげえ! フェラーリのF50じゃねえか」  高藤が右を見ながら素っ頓狂な声を出し、俊一の肩をばしばしと叩いた。正面を向いて運転しろよと胸の裡で毒づきながら、俊一はシートベルトを緩め、上半身を傾けて高藤の頭の向こうに目をやった。ガラス越しに真っ赤な車が見える。見たことのない奇妙な形で、スポーツカーのようだ。ウインドーが下がっていて、運転している男が見える。メッシュの茶髪にサングラスをしており、隣に女を乗せているようだ。黒い髪の毛が後ろに流れている。女もサングラスをしている。 「まさかこんなところで実物にお目に掛かるとはなあ」高藤の声がうっとりとなっている。 「一生に一度でいいから、あんな車に乗ってみてえ」  高藤がハンドルに体を近づけて、追越車線をゆっくりと遠ざかっていく赤い車に視線を送っている。後部デザインのアーチが鯨か何かの口を思わせる。車に興味のない俊一から見ても、恰好いいと思える形だった。 「いくらすんの」 「今でも六千万はするだろうな」 「ほう」  高藤は右後方に首をひねっていたかと思うと、ウインカーレバーを倒し、ゆっくりと右に車を出し始めた。 「何すんの」 「追いかける」  俊一はあきれて肩をそびやかした。  バンは追越車線に入ると、速度を上げた。振動がきつくなる。  赤い車は間に二台の車を挟んだ向こうに、ちらちらと見えている。  高藤が前方を見据えながら、F50がいかにすごい車であるかを一人で語り出した。生産台数三百四十九台、一九九五年当時の発売価格五千万円、最高時速三二五キロ、公道に舞い降りたF1カー……。 「三二五キロって、日本じゃ出せるところがないだろう」 「ポテンシャルだよ、ポテンシャル。お前、それに感動しないか」  しないねと言うのも馬鹿ばかしいので、俊一は黙っていた。 「ほら」後ろからカメラを持った手が伸びてきた。 「何?」 「美人だぜ」  俊一はカメラを手にとって、液晶画面を見た。先程のF50の運転席を捉えたものだった。男と女の横顔が前後にずれて写っている。画面が小さくて、ムカイがどこを見て美人と言ったのか分からない。 「俺にも見せろ」と高藤が言う。  俊一は液晶画面を高藤に向けた。高藤はちらっとそれに目をやると、「ズーム」と言う。  わけが分からずにいると、ムカイの手が伸びてきて俊一の手からカメラを奪い、何やらボタンを押して、直接高藤の顔の横にカメラを持っていった。  高藤は一瞥したが、「ふん」と鼻先で笑って終わりだった。  俊一はカメラをつかんで液晶画面を自分に向けた。女の顔だけが薄暗い画面一杯に拡大されている。サングラスを取れば確かに美人と思わせるだろう鼻の形と顎の輪郭をしていた。  カメラを放すと、「面白いものをみせてやろうか」とにやけながらムカイはボタンをいくつか操作し、再び俊一に液晶画面を見せた。画面には赤い色が斑に見えるばかりで何が何だか分からない。 「何だ、これ」  俊一が首をひねっていると、「ここを押してみろ」とムカイが一つのボタンを指さした。言われるままボタンを押すと、赤い部分が小さくなっていき、それが人間の顔に当たる部分になった。一瞬にして、銃か何かで顔を潰された写真だと理解した俊一は、思わず目を背けた。  ムカイが引きつるような笑い声を上げた。 「どんな美人も、そうなれば終わり」と高藤が呪文を唱えるような口調で言う。 「その写真、お前が撮ったのか」俊一はむかむかする気持ちを抑えながら、しかし怒りが伝わるように低い声で言った。 「撮れるわけないよな」と高藤が代わりに答える。「ネットだよ、ネット。ダウンロードしてカメラのメモリーに入れてやがるんだ」 「他のも見る?」とムカイがにやにやしながらカメラを差し出したが、俊一はそれを乱暴に押し返した。  追越車線が流れだし、前との車間が広がり始めた。高藤はアクセルを目一杯踏んでいるようだが、その差は縮まらない。そのうち車体がスピードに共振し出したのか、振動がひどくなってきて、さすがに俊一も恐くなってきた。 「いい加減に走行車線に戻れよ」  俊一がそう言っても、高藤は前方を見詰めたままで答えない。こんなバカと一緒に死にたくないよと思っていると、高藤がバックミラーに目をやって、ちっと舌打ちした。  後ろを振り返ると、かなり近くまで寄ってきた白い乗用車がヘッドライトを点滅させている。  高藤はウインカーレバーを倒して、左にゆっくりとハンドルを切った。  何か食べるためにサービスエリアに車を乗り入れた。駐車場は混んでいて空いているところを探してゆっくりと走らせていると、十人ほどの人だかりのしている一郭があった。その中に赤い車が見える。 「お、やつらもここで休憩か」  高藤が声を上げた。  バンを空いているスペースに停めると、高藤は建物に行こうとせず、F50に小走りに向かっていく。ムカイも首から下げたカメラを片手で押さえながらついていく。溜息をつきながら、俊一もゆっくりとした足取りで二人の後に続いた。  ワゴンのような四角張った車の目立つ中、車高が低くて流線型のF50は、まるで翼を外した飛行機のように見えた。その周りには親子連れや若い男女のカップルがいて、運転席を覗き込んだり、携帯電話のカメラで写真を撮ったりしていた。高藤とムカイは車体後部にいて、中腰になって何かを覗いている。  近づいていくと、高藤が顔を上げた。目を見開いている。 「おい、見てみろ」と高藤が興奮した口調でテールライトの横を指さした。「エンジンだよ、エンジン。すげえよ」  後部は細かい網目状になっていて、覗くと、パイプや太いコイル、ガソリンタンクのような部品が透けて見えていた。しかし、どこがすごいのか俊一には全く分からない。ただの機械だろうと思ったが、それを口にして高藤の興奮に水を差すこともないと黙っていた。 「ほら、あれがかの有名なV型12気筒DOHC5バルブエンジンだぜ。しかも3.1リッターを4.7まで大きくしてあるんだから、たまんねえよ」  高藤はメッシュに指を押しつけて、甲高い声を出した。もう少しで裏返りそうだ。  ムカイは横でカメラの画面を覗き込み、フラッシュを焚いてメッシュの中を撮っている。 「こらぁ」  突然、高藤が大声を出した。彼の視線の先を見ると、小学生くらいの男の子がボンネットの端を馬の背中でも撫でるみたいに触っていた。 「そんなとこを触るな!」  男の子はびっくりして固まっている。 「見るだけ、見るだけ。触っちゃいかん」  男の子は手を引っ込め、その手をつかむようにして父親と思しき男が子供を引き寄せ、F50から離れていった。 「人の物を勝手に触ったらいかんだろ。この、馬鹿親子めが」  そう言いながら、高藤は赤い車体に鼻を近づけ、思い切り息を吸い込んでいる。周りの人たちがこちらをちらちらと見ている。俊一は居心地が悪くて、「俺、めし食ってくるわ」と高藤に告げると、その場を離れた。  食堂に向かう途中で、男女のカップルとすれ違った。男はサングラス姿に茶髪のメッシュで、俊一と同じような年齢に見えた。レザーなのか黒い細身のパンツがテカっている。女は丸いサングラスを頭の上に上げており、目、鼻、口がバランスよく中心に集まっていて、驚くほどの小顔だった。すぐに俊一はF50の二人だと気がついた。  女は屈めば下着が見えそうなくらいのミニスカートで、素足にピンクのミュールを履いている。黒いレースを重ね合わせたようなミニスカートに包まれた尻は小振りで、そこから細くて真っ直ぐな脚が伸びていた。麻里があんな脚ならと思うと、脚を絡め合った場面が浮かんできて、俊一は思わず勃起しそうになった。  俊一は踵を返すと、二人の後を追った。  F50の周りは依然人だかりがしていて、高藤は運転席を覗き込んでおり、ムカイは人を押しのけながらカメラを構えていた。  二人は車に近づくと、周りの人間たちに全く注意を払うことなく左右に分かれた。男は、中腰で中を覗き込んでいる高藤をやんわりと制するように体を入れると、ドアロックの穴に鍵を差し込んだ。  男がドアを開けようとすると、高藤が男の手首をつかんだ。 「なあ、悪いけどいっぺんだけ、この車運転させてくれないかなあ」  男は手首をつかまれたまま、サングラスの顔をじっと高藤に向けている。 「俺、一生に一度でいいからこの車に乗ってみたかったんだよな。この駐車場を一周するだけでいいから、運転させてくれないか」  女が助手席側に立って、車の屋根越しに笑いながらこちらを見ていた。男は顔を上げて女を見ると、首を振り、ドアを開ける勢いで高藤の手を外した。運転席に乗り込み、ドアを閉めようとすると、高藤が手を伸ばした。男はドアを閉める勢いを緩めず、もう少しで高藤の手を挟み込むところだった。  高藤はあわてて引っ込めた右手を左手でつかんだ。  F50に手を潰されたら本望じゃないのと思いながら、俊一はにやにやしてその様子を見ていた。  女も車に乗り込み、すぐにエンジンが掛かった。腹の底を直接打つような太い音が響いた。大きな空吹かしが起こり、周りにいる人たちは一斉に身を引いた。  F50が動き出す。高藤は離れていく車体の後部に掌を当てて滑らせた。車はサービスエリアを出るまではゆっくりとした動きだったが、本線に入ると急加速して、あっという間に視界から消えた。 「くそ」高藤の呟きが聞こえてきた。  食堂で昼食を摂っている時も高藤は口数が少なかった。豚骨ラーメンを黙々と食べている。ムカイがジャンボフランクフルトを囓りながらF50の写った液晶画面を見せても、ふんふんと相手するだけだった。 「あんたにはこっちの方がいいかも」  ムカイがカメラのボタンを押して画面を俊一に向けた。ミニスカートから伸びた脚が低いアングルから撮られている。チャーハンをスプーンで口に運んでいた俊一は、思わず手を止めた。スカートの感じからF50の女に間違いない。 「お前はこんなものも撮るのか」 「これはあんたへのサービス。車よりも女に興味があると睨んだもんで」  見られていたと思うと腹が立ったが、今更否定しても仕方がない。俊一はズームボタンの位置を思い出して押してみた。脚の根元は暗く翳っており、下着が見えそうで見えない。 「フラッシュを焚けばバレるし、角度的にはこれが限界かな」  他には女の全身を前と後ろから撮ったものや、小さなミュールに載っている足や顔のアップがあった。男の写真はたった一枚だけだった。 「親が大金持ちっていうのは、いいよな」  ムカイが男の写った画面を指で軽くはじいた。 「親の金とは限らんよ。自分で稼いだのかも」と俊一は答えた。 「まーさかあ」 「一秒で何十億と稼げる時代だからな」  俊一はマウスを指でクリックする真似をした。ムカイは、はははと力なく笑った。  食事が終わっても、高藤のテンションは下がったままだった。駐車場に向かって歩きながら、「どうする。滅多に見れないF50にお目にかかれたことだし、もう帰りますか」と俊一は高藤の背中に声を掛けた。高藤は振り返ると、何を言いやがるというような目をした。 「俺、どう見える」 「ボロいバンなんか運転したくねえって顔してるぜ」  高藤はふんと鼻を鳴らしたが、口元は笑っていた。 「百キロまでなら俺のバンも負けない」 「よく言うよ」 「だったら見せてやろうか」  バンに乗り込むと、高藤は急発進させた。通行人があわててよける。そのままの勢いで本線に入ると、すぐに追越車線に移り、百キロを超える速度を出した。アクセルを目一杯踏んでいる。振動がひどく、俊一は足を突っ張り、座席を両手でつかんだ。高藤を挑発したことを一瞬後悔したが、テンションが下がったままよりはるかにいいと思う。どうせならとことん行ってみろ、後方に飛ぶように流れていく中央分離帯を目にしていると、ふっとそんな言葉が浮かんでくる。  しかし、速度は次第に落ちていった。前の車も走行車線を走る車も同じように遅くなっている。車間距離も徐々に詰まっていく。  何事かと思って前方をよく見ると、遠くにちかちかしている電飾の光が垣間見えた。 「事故か」と高藤が呟いた。ムカイが座席の間に顔を突っ込んでくる。  俊一はその時、事故を起こしたのがあのF50なら面白いと思い、高藤の横顔に目をやった。その表情からは何も窺えないが、絶対こいつも同じように思っているはずだと確信した。  バンはいったん停まり、それから動いたり停まったりを繰り返した。事故は走行車線で起こっており、そこを走っていた車が何とか追越車線に入ろうとしている。高藤は車間距離が空かないようにできるだけ詰め、それでも入ってこようとする車には派手にクラクションを鳴らした。  車線を狭めるための赤いコーンが並んでおり、交通警官が旗を振っていた。その内側にパトカー、先の方には、事故という大きな電飾看板を載せた黄色い車両と赤い消防車が停まっていた。そこを過ぎると、ガードレールに斜めに突っ込む形で黒く焼け焦げた乗用車が見えてきた。一目でF50ではないことが分かる。乗用車の周りの地面は消火剤で白くなっている。開け放した窓からきなくさい臭いが入ってきた。  後ろでカメラのシャッターを切る音が激しくなった。顔を向けると、ムカイが窓からカメラを突き出している。連写しているようだ。 「スピード落とせ」とムカイが叫んだ。  事故車両が真横に来た時、バンはほとんど停まるくらいまで減速した。速度を上げていく前の車との車間距離があっという間に開いていく。  救急車も近くにいて、黒こげの運転席を三人の男たちが覗き込んでいる。誰かが死んでいるのか車体が斜めになっているのでよく分からない。そのうち一人がこちらに気づき、近寄ってきた。手に持ったバインダーを振って、「停まっちゃいかん」と大声を出した。  ムカイはその交通警官にもカメラを向け、シャッターを押した。警官が厳しい顔でさらに近寄ってくる。  早く出せよと俊一が高藤に言おうとしたら、ようやくバンが動き出した。  見る見るうちに速度を上げ、メーターを見ると百キロを軽く超えている。分解するのではないかと思われるほど振動が激しく、体を固くした俊一はこの日初めて恐怖を感じた。ここでハンドルを取られたら、一瞬にしてさっきの車のようになってしまう。 「落とせよ、スピード」  俊一は低い声で、抑えつけるように言った。 「うん?」  高藤がちらっと俊一を見た。ひと呼吸ほど置いてからバンは百キロくらいまで速度を落とした。 「これ、焼死体だろ」  ムカイが後ろからカメラを突き出してきた。手に取って見ると、望遠で撮ったらしく、警官の制服の間が画面一杯に写っている。焼けた窓枠から覗いているのは黒こげの頭のようで、ズームボタンを押してもその印象は変わらない。 「おそらくそうだろう」 「いやー、やったあ」  ムカイが奇声を上げた。 「俺にも見せろ」と高藤が言い、俊一がカメラを向けると、「おお、コレクションがまた一つ増えたな」と笑った。  しばらく走って唐沢のインターチェンジを降り、砲台跡への山道を登っていった。すれ違う車があまりないせいか、カーブの続く道を速度を落とさずに曲がっていく。  中腹にある二十台ほどが収容できる駐車場には、ワゴン車が一台だけ停まっていた。 「やっぱりここは穴場だな」と高藤が言う。 「砲台跡の他に何があんの」 「何もない」 「え、よくこんな所を目的地にしたなあ」  俊一が呆れた声を出すと、 「少し離れた美又というところに絶品のスイーツを出すホテルがあるらしい」 「それが目的か」 「相手のご希望よ。まあ、ここも見晴らしのいい展望台があるから悪くはないけどな」  バンを降りて俊一は大きく背伸びをした。思った以上に腰や脚が強ばっているのが分かった。高藤が標識を見て歩き出し、俊一もムカイもその後に続いて煉瓦道に足を踏み入れた。左右から木立が斜めに伸び、木洩れ日がちらちらしている。  しばらく行くと苔むした階段があり、そこを上りきると下に半円形の砲台跡が見えた。小さくした古代ローマのコロッセウムを思わせる。説明板がなければ砲台跡とは分からない。  三人は階段を下りた。下も煉瓦が敷き詰められ、隙間からびっしりと短い草が生えている。 「青カンするにはちょうどいい所だと思ってるんじゃないの」  高藤が含み笑いをしながら、俊一に囁きかけた。俊一は聞こえない振りをした。それに構わず高藤は「ここには砲弾倉庫の跡もあって、女を連れ込んでヤルにはちょうどいい所なんだぜ」と続けた。  ふんと鼻先で笑ってから、俊一はムカイに近づいていった。ムカイはカメラを首からぶら下げたまま、周囲を見回している。 「どうした、写真撮らないのか」 「興味なし」  ムカイは詰まらなさそうな顔で答えた。  そこから展望台へは緩やかな坂道だった。先には茶色の屋根をした休憩所があり、親子四人連れが遅い昼食を摂っていた。俊一たちが近づいていくと、小学生らしい男の子二人が急に黙り込んだ。若い両親は人が来ることを予想していなかったのか、ちらちらとこちらに視線を送ってきた。  三人は休憩所の横を通り過ぎ、崖沿いに作られたフェンスまで行った。眼下に陽光に照らされた海が広がり、遠くには蒼い島影が見えた。漁船か何かが二隻、白い航跡を残しながら進んでいる。  高藤が奇声を上げた。ムカイは首を動かして海を見ているだけだ。 「こんな風景も興味なし?」  俊一が揶揄するように言っても、ムカイは知らん顔をして崖下に目を向けた。  親子連れはいつの間にかいなくなっており、三人は休憩所に入った。ちょうど三つのベンチが三角形の一辺に沿うような形で置かれており、日の当たっている一つに高藤が横になった。それを真似て二人もベンチに寝た。体のこわばりがまだ残っている。俊一は目を閉じて、体の力を抜いてみた。眠ってしまうのなら眠ってもいいかと思いながら、瞼の裏の闇を見ていた。  しばらくして「そろそろ帰るか」という高藤の声がして、俊一は起き上がった。  駐車場にはワゴン車の姿はすでになかった。バンに乗り込むと、山道を下っていく。来た時と同じようにかなりの速度を出している。一台も来ないと確信しているのか曲がり角も砂利を飛ばす勢いで曲がっていく。  そうして四番目のカーブにさしかかった時、視界の右に赤い色が飛び込んできた。その色が急速に膨らんでくる。  ぶつかると思った瞬間、バンが左に振れ、白いガードレールが迫ってきた。俊一は思わず足を突っ張って体を強ばらせた。金属の擦れ合う音がし、シートベルトをした上半身ががくんと前に倒れた。  クラクションが遠くで鳴っている。高藤がシートベルトを外し、外に出た。俊一は体を捻って斜め後ろを見た。窓越しにF50の特徴ある後部が見えた。運転席は見えない。俊一は一瞬、彼らが自分たちの後をつけてきたのではないかと思った。  シートベルトを外し、俊一も外に出た。高藤がバンの前に立って、ガードレールとの接触部分を見ている。ヘッドライトの横が擦れ、ガードレールが湾曲していた。  長く鳴らされていたクラクションが止んだかと思うと、今度は断続的になった。エンジンの空吹かしの音が響き、F50はクラクションの音と共に坂道を曲がっていった。 「やつらだな」高藤がぽつりと言う。 「砲台跡は意外と人気なんじゃないの」  俊一は軽口を言ったつもりだったが、そうならずに途中でねじくれてしまったように感じた。  二人はバンに戻った。高藤は車を一旦後退させてから、山道を降りていった。それまでとはまるで違って、ノロノロとした速度だった。  道幅が広くなり、勾配も緩やかなところに差し掛かった時、高藤が急にハンドルを切った。切り返しをして方向転換しようとしている。 「どうすんの」俊一が尋ねても高藤は答えない。 「いくら頼んでも運転なんかできないぜ」  それにも答えず、高藤はアクセルを踏んだ。体が座席に押しつけられる。  この上にはあの車しかいないと分かっていても、すごい速度でカーブを曲がる度に俊一は冷や冷やした。高藤は前方を険しい顔で見据えている。ちゃんと前が見えているのか、不安になったが、俊一は声を掛けることができなかった。  駐車場の、煉瓦道に一番近いところにF50が停めてあった。高藤はその横にバンを付けた。  降りて運転席を覗く。二人はおらず、赤い座席にはペットボトルとポテトチップスの袋があった。  高藤がドアハンドルを持って、ガチャガチャとやり出した。何度かやって反対側に回り、同じようにドアハンドルを引っ張った。開くわけねえだろうと思いながら、俊一はその様子を見ていた。 「どうする。探しに行くか」とムカイが言った。 「いや」と高藤が答えた。「ここで待ってる方が確実だ」 「やつら、どうせ、これをやってるんだぜ」  ムカイが握り拳を突き出した。人差し指と中指の間から親指が見えている。 「お前、写真に撮りたかったら行ってもいいぜ」  ムカイは木立に囲まれた煉瓦道に目をやっていたが、急に胸に下げたカメラを持ち上げると、その方にレンズを向け、シャッターを切る真似をした。  日が陰り、空気がひんやりとし出した。俊一はバンにもたれた。背中がほんのりと暖かい。目を閉じてその暖かさを感じていると、今自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった。  その時、ジャケットのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。高藤とムカイがこちらを見る。取り出して開くと、麻里からのメールだった。ボタンを押してメールを開ける。 「連絡遅くなってごめん。手術は早く終わったんだけど、麻酔から覚めて寒い、寒いというお父ちゃんをさすって一生懸命暖めてました。どうやら手遅れだったようで、お母ちゃんが泣いています。もうしばらくこっちにいます」  メールを読んで、改めて麻里の父親の手術だったことを思い出した。しかし、そのことを聞いた昨日がはるか遠い昔のように感じられた。二度読んでも膜を隔てたような、その感覚は変わらなかった。  煉瓦道の方から女の笑い声が聞こえてくる。俊一は携帯電話を閉じ、ポケットに仕舞った。  木立の中から、男が女の腰に腕を回し、もつれ合うような足取りで現れた。女の白い脚がそこだけ別の生き物のように動いている。こちらに気づくと、女の笑い声が途切れ、二人は立ち止まった。男はサングラスをしているが、女は丸い大きなやつを髪の毛の中に上げている。その表情はのっぺりしていて、何の感情も見出せなかった。  そのまま数呼吸の間、誰も動かなかった。  最初に動いたのは男で、女の腰を引きつけると、ゆっくりとこちらに近づいてきた。 「なあ、この車、運転させてくれよ」と高藤が甘ったるい声を出した。男は女の腰を放し、バンとF50の間に入ってきた。高藤がその前に立ち塞がる。 「ただとは言わないからさ。一時間一万円、いや三十分一万でもいい。頼むよ」  高藤が両手を合わせて拝みこむ仕草を見せた。男はまるでそこに人などいないかのように体を寄せてきた。高藤がドアに近寄らせまいとし、男ともみ合いになった。男がズボンのポケットに手を入れる。高藤の背後から見ていた俊一はやばいと思ったが、男の取り出したのは車のキーだった。左肘で高藤の体を押しながら、キーを差し込んでロックを外し、ドアノブを勢いよく引っ張った。高藤の体はドアに押されて倒れそうになり、俊一がそれを両手で支えた。と同時にドアがバンの側面にぶつかる音がした。しかし男は構わずにドアを閉めると、助手席に体を倒して女を中に入れた。  高藤がF50のボンネットを両手で叩く。 「俺の車にドアをぶつけておいて、何の挨拶もなしか!」  フロントガラス越しに男が、バカと口を動かしているのが見えた。  エンジンが掛かり、タイヤを鳴らして急速に後退する。ムカイが轢かれそうになり、カメラを持ったまま反り返った。  F50は後退したまま前部を左に振ったが、そこで動きを止めてしまった。エンジンを吹かす音が何度もするが、小刻みに振動するだけで車体は動かない。  高藤が小走りに近づいていった。俊一もムカイも後に続く。  F50の後部を見ると、左後輪が排水溝か何かの溝にすっぽりとはまっていた。高藤が笑っている。  男がドアを開けて出てきた。 「おい」と高藤が呼びかけた。「お前、俺の車にドアをぶつけたこと、分かってんのか」  男は高藤を見ずに脱輪したタイヤに目をやると、溝に足を下ろして後部を持ち上げようとした。しかし車体はびくともしない。 「俺に運転させてくれるんなら、持ち上げてやってもいいぜ」  高藤の声に媚びる調子がある。男は答えず、溝から出るとポケットから携帯電話を取り出した。それを開き、素早くボタンを押した。 「あー、もしもし、タマキさん? おれ、シマノウチ。ちょっと脱輪しちゃってさ。ロードサービス呼んでくれない? ……うん、F50……もしもし、もしもし……」  男は携帯電話を少し上げて、小さく振った。そして首を傾げると、手の中の画面を見ながら前方に歩いていく。  助手席から女が出てきた。男に近づくと「どうしたの」と小声で言った。 「携帯が通じない」 「それじゃあ、私のでやってみて」  女が助手席の方に戻ってきた。俊一は女の姿を見るために体を右に動かした。  その時、視界の隅に高藤が男に走り寄っていくのが見えた。片手を振り上げ、振り下ろすのは一瞬だった。同時に男の体がくなっと崩れ落ちた。  俊一は動けなかった。耳の奥で動悸がし、顔がかっと熱くなった。前方に動いた女が悲鳴を上げた。その声で呪縛が解けたように俊一は走ってF50の車体を回り込んだ。  男が俯せに倒れている。茶髪の後頭部が血に染まり、赤黒い血溜まりが出来ていた。  高藤は荒い息をしたまま、突っ立っている。だらんと下げた手には褐色をした塊があった。  ムカイが近寄ってきて倒れている男を跨ぎ、後頭部にカメラを向けた。何度もシャッターを押す。カシャカシャというその音を俊一はうるさく感じた。  女の泣き声が聞こえてきた。見ると女がしゃがみ込んで顔を両手で覆っていた。太腿が露わになり、白いパンツも見えている。女が裸足なのを俊一は不思議な気持ちで見ていた。ピンク色をしたミュールは少し離れたところに丸いサングラスと共に転がっていた。 「うわあ、漏らしていやがる」  ムカイの声が興奮している。女の目の前で姿勢を低くし、ムカイはカメラを構えた。  女の裸足の周辺の土が徐々に黒くなっていく。俊一は下腹部に血が集まっていくのを感じた。脈動さえ感じられる。女の足下の黒い浸食が広がっていくにつれ、ズボンを押し上げる勃起は耐え難くなった。