チョコレート              津木林 洋 「生きとったんか」  哲二が兄の孝一に金の無心をしようと電話をした時、孝一の最初に言った言葉がこれだった。 「死んでへんよ」 「そうか。どうせ金やろ」  言葉に詰まったが、ここで電話を切ってしまうと、明日から食うに困る。消費者金融からの督促の電話もここのところ頻繁になっているし、アパートの家賃も二ヵ月滞納している。哲二はわざと溜息をつきながら、腰痛で倉庫係の仕事も出来なくなってと訴えた。実際、腰痛になって会社を休んだことは事実だったが、治っても仮病を装って診断書を出し続け、会社から事務でいいから出てこいという電話を無視したため、解雇されてしまったのだ。  孝一は全く取り合わない。金が欲しければ、まず三年前の借金を返してからにしろと言い、競輪に使う金など貸せんの一点張りだった。それでも弱々しい声で頼んでいると、電話の奥で兄の妻らしき声がした。  と思ったら、ふっと音が途絶え、保留音のメロディが聞こえてきた。  我慢してそのメロディを聞いていると、少し経って兄の声が戻ってきた。 「お前、本当に困ってんのか」 「困ってる」 「そしたら、お袋と一緒に住めへんか」 「えっ」 「お袋と一緒に住んでくれたら、借金は棒引きにしたるわ」  哲二が黙っていると、孝一が説明を始める。  母親が膝を痛めて歩行が困難になっていること、介護ヘルパーとことごとく喧嘩をし、なり手がいなくて困っていること、自分のところに呼び寄せようとしても、頑として応じないこと……。 「それやったら、俺かって無理や。分かるやろ」 「他人やったら無理かも知れんけど、何というても血の繋がったお前やったら何とかなるんちゃうか」 「血が繋がってるから余計あかんのや」哲二は思わず大きな声を出した。 「そうか、あかんか」  孝一があっさりと引き下がったので、哲二はあわてた。 「一緒に住むいうても、生活費は誰が出すんや。兄貴、出してくれるんか」 「お袋が出す」 「そんな金、ないやろ」 「それが、あるんや……」  死んだ父親の遺族年金と母親自身の厚生年金があって、結構優雅に暮らしているらしい。 「まあ、それやから、ヘルパーにも言いたい放題言えるんやけどな」  哲二の心が動いた。それだけの収入があると、貯金もいくらかはあるに違いない。そこから消費者金融の借金を返し、残りを頂戴してトンずらする手もある。  哲二は、取りあえず会うだけ会ってみて、それから決めることにした。  日曜日、待ち合わせの駅前で待っていると、ロータリーに黒塗りのベンツが入ってきた。まさかそれが兄の車だとは思わなかった哲二は、後続のRV車に目が行っていた。 「よっ」という声がして目を戻すと、ベンツの助手席の窓が開いていて、兄が顔を覗かせていた。  哲二は黙って助手席に乗り込んだ。兄は仕立てのよさそうなグレーのジャケットを着ている。  兄に会うのは三年振りだった。あの時、銀行振込ではなく、直接金を手渡されて、こんこんと説教されたのだった。 「車、買い換えたんやな」 「ああ」 「ベンツとはなあ」 「ベンツいうてもピンキリやからな。これは安もんや」  流れから、いくらしたのかと聞くのが普通だが、哲二はわざと黙っていた。すると、信号待ちをしたところで、「Cで六百万したんや」と孝一がハンドルを抱えるようにしてぽつりと言った。  途中で、孝一が母親の機嫌を取るためにチョコレートを買うと言い出した。それも一つのメーカーの特定の板チョコだけ。母親の好物であるらしい。覚えているやろと孝一は言ったが、哲二にはそんな記憶はなかった。 「年取ってからかな、好きになったのは」  自分に対する当てつけかと思ったが、哲二は何も言わなかった。  コンビニに寄って板チョコを買い、それから一時間ほどで、着いた。  車を近くの空き地に止め、そこから歩いた。兄は板チョコの入ったレジ袋を手にしている。 「お前、お袋に会うの、何年ぶりや」 「十年」 「そんなになんのんか」 「親父が死んだ時以来やから」  ふーん、兄が口をすぼめて頷いた。  見覚えのある近所の光景が目に入ってくると、哲二は急に胸に圧迫感を覚えた。動悸がしてくる。思わず足を止めた。  兄がうん? という顔で哲二を見る。 「俺、やっぱりやめるわ」 「ここまで来て、何言うてんねん」  兄が哲二の腕をつかんで、引っ張った。引きずられるように小さな門扉の前まで来ると、「俺が先に入って話をして、それから呼ぶからここで待っとけ」と兄は外から手を伸ばして掛け金を外した。  哲二は小さな前栽のある二階建ての家を眺めた。玄関ドアが新しくなっている以外は、昔のままだった。開いた門扉の根元を見ると、傷の付いたところが激しく錆びている。哲二は顔をしかめた。金属と金属の擦れる音が頭に響いてくる。  小学五年の時、後ろ手にさせられてここに手錠で繋がれたことがある。母親の金を盗んで最初は縄跳びの縄で縛り付けられたのだが、それを解いて逃げてしまい、母親がオモチャの手錠を買ってきたのだった。オモチャといっても本物そっくりで、外そうと思って力を入れても金属の硬さが細い手首に食い込むだけだった。  そのうち夜になり、雨も降ってきた。キーキーという音に始めのうちは何事かと様子を見にきた近所の人間たちも玄関を閉めてしまい、誰も姿を見せなくなった。  母親が傘を差しながら玄関から出てきた。 「どうや。懲りたやろ。もう二度と人の物は盗みませんと誓うたら手錠外したろ」  哲二は「もう、しません、もう、しません」と言いながら足をばたばたさせた。言葉よりも足を激しく動かしたことを拒否と取ったのか、 「何や、この子は。まだ懲りてへんのんか。分かった。それやったら一晩そうしとき」と母親は呆れた口調で言って、家の中に入ってしまった。  寒さで体が震えるのを唇を噛んで堪えながら、哲二は、自分はこの家の子供とちゃう、本当はもっと金持ちの家に生まれたんやと思うことで何とか耐えた。夜遅く手錠を外してくれたのは父親だった。  哲二は本当に逃げ出したくなった。  玄関ドアを鍵で開け、入る寸前、兄は顔を向けて、「逃げるなよ」と釘を刺した。  ドア越しに、おかあはーん、孝一ですという声が聞こえてくる。哲二は、かねかねかねと呟きながら、じっと立っていた。  しばらくしてドアが開き、兄が手招きした。その時、急に哲二は自分の服装を意識した。兄のジャケット姿に比べ、自分はよれよれのジャンパーにジーンズだった。この恰好で母親の前に立てば、何を言われるか分かったものではない。かといって、これよりましな服があるわけでもなかった。  哲二は孝一の後ろに隠れるようにして中に入った。傘立ての横に車椅子が畳まれて置かれている。目線を下げながら動かずにいると、孝一が横にずれる形で母の昌江と対面した。しかし、哲二の前にいるのは、自分の頭の中にいる母親像とは全く違った人間だった。顔こそ面影はあったが、黒々とした髪は真っ白になっており、体は半分くらいしかない。いくら歳を取って腰が曲がったからといって、あのごつかった体がこれほど縮むものなのかと哲二は不思議だった。  その瞬間、哲二の中で何かが百八十度ひっくり返った。これなら、びくつく必要などまるでないと腹が据わった。 「何や、お前か」  昌江は片手にレジ袋を持ち、もう一方の手で手摺りにつかまりながら怖い目で哲二を見た。 「こんな奴、息子でも何でもない。あたしの息子は孝一、お前だけや」  そう言うと、昌江は手摺りに体重をかけながら、ぎこちない動作で後ろを向いた。 「おかあはん、そんなこと言うたら、哲二の立つ瀬がないやろ」  しかし昌江は孝一の言葉など聞こえていないかのように、腰に手の甲を当てながら奥の部屋に入っていく。  体は縮んでも性根は変わっとらん、哲二は母親を嗤う余裕のあることに自分でも驚いた。 「どうする」孝一がしようがないという表情で尋ねる。 「ここまで来たんやから、俺が面倒見なしょうないやろ」 「おっ」孝一が驚いたように哲二を見た。  二人して家に上がり、寝室に行った。家の中は大幅に改装されていて、昔の面影はなかった。何より、母親の寝室が一階にあることが驚きだった。  昌江は畳敷きに置かれたベッドに横向きになっていた。 「おかあはん」と孝一が呼びかける。 「帰れ」昌江が壁の方を向いたまま応える。 「おかあはんがヘルパーを追い返すから、哲二に頼んだんや。嫌やったら、ヘルパーに来てもらうで」 「あたしゃ、一人でいける」 「その膝では買い物にも行かれへんやろ。美智子かて、そうしょっちゅう来られへんねんから。それとも、おれの家に来るか」  昌江は返事をしない。  二人は居間に戻り、ソファーに坐って、付けっぱなしになっているテレビを見た。  哲二は、たとえ母親が拒否してもここに居着いてやろうと決めていたが、そのことは口に出さない。孝一は何度も溜息をついた。  やがて孝一が「お袋、実は認知症や」とぽつりと言った。 「えっ」 「まだ初期やからそんなふうには見えへんけど、物忘れが激しいんや」 「よう、俺のこと覚えてたな」 「昔のことは覚えてる。最近のことは覚えてもすぐ忘れるんや」 「ふーん」  孝一は側にあった木箱をローテーブルに置いて蓋を開けた。葉書大の白い袋がいくつも乱雑に詰め込まれている。これは胃腸の薬、これはコレステロールを下げる薬、これは膝の痛みを和らげる薬と、孝一は一つ一つ取り上げて、テーブルに並べた。 「これが肝腎の物忘れの薬」孝一は最後の袋を置いた。「進行を抑えるだけやけど、飲むと飲まんでは大分違うらしい」  哲二はその袋を手に取った。毎朝食後一錠と書いてある。 「お前には、ここにある薬をきちんと飲ませて欲しいんや。あの歳になると、薬をきちんと飲むことも難しいんや」  物音がして、ガラス戸が開いた。昌江が半身を現して哲二を見た。眉根を寄せている。哲二は何でもない物を見る目つきで、見返した。 「孝一、この人に早よ帰ってもらい」と昌江が大声を出した。 「おかあはん、ええんか、ヘルパーで」 「この人よりましや」  哲二は心の中で舌打ちをした。 「哲二なあ、腰痛めてろくに仕事がでけへんのや。おかあはんが嫌てるのは分かるけど、もうそろそろ許したったらどうやのん」 「自業自得や」  昌江が居間に入ってきて、ソファーの端に腰を降ろした。  哲二はとっさにソファーから滑り降りると、床に正座して両手を突いた。 「今まで親不孝ばかりして申し訳ありませんでした。心を入れ替えますので、どうかここに置いてやって下さい」  額を床に付ける。 「ほら、哲二かってこうして謝ってんねんからおかあはんも意地張らんと」  孝一の声が心なしか上ずっている。 「こんなん、この子のいつもの手や」  額を床に付けたまま、哲二は苦笑した。そのままじっとしていると、「哲二、もうええから頭上げろ」と孝一が二の腕をつかんだ。哲二は頭を垂れたまま立ち上がって、再びソファーに腰を降ろした。 「おかあはん、ええやろ。哲二に一緒に住んでもらうで」 顔を上げてちらっと母親を見ると、昌江は憮然とした顔をしていた。 「まあ、おかあはん。これでも食べて」  孝一がテーブルに乗っていたレジ袋から板チョコを取り出して昌江に渡した。昌江は銀紙を破ると、三分の一くらいを一気に口に入れ、もぐもぐと動かした。 「哲二にいてもらう方が俺も安心できるし……」 「住むのはええけど、生活費はきちんと入れてもらうで」  昌江は口を動かしながら、不明瞭な発音で答えた。  哲二は兄に目をやった。 「そうは言うても、ヘルパー代わりをしてもらうんやから、それなりの報酬は支払わな」 「そんなもん、ここに住む家賃で消えてしまうわ」 「おかあはん」孝一が大きい声を出した。「哲二が実家に帰って家賃払うのはおかしいやろ。世話してもらうんやから食費ぐらい出したりいな」  昌江は憮然とした顔を崩さず、黙っている。孝一が念を押して、ようやく「しょうないな」と昌江は頷いた。  取りあえず同居することになった祝いをしようと孝一が言い出して、彼の奢りで寿司の出前を取った。台所の冷蔵庫には缶ビールがあったが、それは昌江だけが呑むのであって、哲二の分はない。  それで孝一がコンビニで缶ビールを三本買ってきた。孝一はコップ半分だけ呑み、後は哲二が呑んだ。  寿司だけではなくビールも久し振りだった。酒はもっぱら安くてすぐに酔える焼酎の水割りばかりだったから。  哲二の部屋は二階の仏間になった。かつての自分の部屋で、改装してあるが、柱や天井を見ると、母親にしばかれた記憶が蘇り、胸くそが悪くなった。兄はそんな哲二の胸の内を知ることもなく、蒲団のある押し入れを教え、再び一階に下りると、ガス風呂のリモートスイッチの温度設定の仕方や洗濯機の使い方を教えた。  孝一が帰る時、哲二はコンビニの場所を教えてもらうために一緒に出たが、玄関を出てすぐに、「お前、思い切ったことしたなあ」と兄が小声で言った。 「何のこと」 「土下座やないか。まさかあんなことをするとは思えへんかったから、びっくりしたわ。あれは芝居か」 「本心や」 「そうか。それなら俺も安心や」  国道沿いのコンビニまで来たところで、哲二は兄に焼酎をねだった。兄はしようがないなあという顔をしながら、二千円を出してくれた。  兄と別れて家に戻ると、哲二は焼酎の大きなボトルからコップに半分ほど注いで水で割った。ソファーに坐ってローテーブルに足を投げ出し、焼酎を飲みながらテレビのお笑い番組を見た。ここにいる限り消費者金融から電話が掛かってくることもないし、昨日までの自分と比べて、至福の時のような気がする。母親は寝ているのか物音がしない。哲二は芸人のそんなに面白くないギャグにも大声を出して笑った。  いつの間にか眠ってしまい、風呂を沸かそうと台所に行ってリモートスイッチを見ると、すでに電源が入っている。風呂場に入って浴槽に手を突っ込むと、湯になっていた。なんや、結構一人でできるやないかと哲二は独りごちた。  風呂上がりに焼酎を一杯引っかけて、哲二は寝た。  翌朝、何かが落ちる音で目を覚ました。顔を上げてその方向を見ると、襖を開けたところで、昌江が盆を手に驚いた顔を見せていた。 「あんた、誰や」大きな声だが、少し震えている。 「俺やがな」  哲二は蒲団をはねのけて上半身を起こした。  昌江がじっとこちらを見る。哲二は両手を差し上げて大きく伸びをした。 「哲二か。なんでお前がこんなところにおるんや」 「昨日兄貴と来て、俺がおかあはんの面倒を見ることになったやんか。忘れたんか」  昌江が眉根を寄せて険しい顔をする。哲二は起き上がって服を着た。 「そんなら、これ片付けて、もういっぺん仏さんのお茶、持って上がって」  昌江の足許を見ると、小さな白い湯飲み茶碗が二つ転がっていた。畳に黒い染みが広がっている。  昌江は哲二に盆を手渡すと、体を左右に揺らしながら階段口に歩いていった。哲二は二つの湯飲みを拾い上げて盆に乗せ、その後に続いた。  昌江は立って階段を下りることができず、一段一段坐りながら降りていく。哲二はいらいらしてきて、狭い階段の端をすり抜けて降りていった。  台所には味噌汁の匂いが立ちこめていた。盆を食卓に置いて、ガスレンジにかかっている鍋の蓋を開けてみる。豆腐とワカメの具が見えるが、どう見ても二人分はない。  他に食い物がないかと哲二が冷蔵庫の中を覗いていると、「何してるんや」と声が飛んできた。居間とのガラス戸をつかんで体を支えながら、昌江がこちらを睨んでいた。 「朝飯、何かないかなと思って」 「あんた、まだ顔を洗てないやろ。朝起きたら顔を洗う。何遍言わせるんや。顔洗たら、先に仏さんのお茶や」  くそばばあと口の中で呟きながら、哲二は洗面所に行き、顔を洗った。壁にかかっているタオルは使いたくなかったので、洗面台の引き出しを探って畳んであるタオルを取り出した。それで拭うと、陽によく干していない湿っぽい臭いがした。  台所に戻ると、昌江がすでに仏壇用の茶器に茶をいれており、それを盆に乗せて哲二は再び二階に上がった。  仏壇に茶器を供え、母親に聞こえるように鈴を大きく鳴らした。写真立ての中の父親は細面の顔で、気の弱そうな笑顔を浮かべている。  哲二には父親と一緒に何かしたという記憶がほとんどなかった。寄り添えるようで寄り添えない影の薄い存在でしかなかった。  寝小便の治療と称して、下腹部に灸をすえられた時、両脚を押さえたのが父親だった。  哲二は小学二年になるまで寝小便をしていたが、母親がこうすれば治ると灸をした。哲二は灸がどういうものか分からず、最初は言う通りじっとしていたが、刺すような熱さを感じると、母親をはねのけて逃げた。  逃げ回る哲二を孝一が捕まえ、父親と三人がかりで哲二を押さえ込んだ。  母親が胸に尻を乗せ、孝一が面白がって哲二の手首をつかんだ。両手をバンザイするような形にして肩に両足をかける。哲二が足をばたつかせると、父親がその上に乗った。  灸は親指大で、始めはほんのりと暖かい程度だったが、そのうち熱くなってき、哲二は体をよじった。それを三人がかりで動かないようにする。熱さを通り越して耐え難い痛さになり、哲二は顔を左右に滅茶苦茶に振って、叫び声を上げた。顔中から汗が吹き出してくる。そのうち、気が遠くなって哲二は失神した。  寝小便が治るまで、哲二は何度も灸をすえられた。夜が怖くなって、寝られなかったこともあった。  治ったのは灸の効果なのか、それに対する恐怖のせいだったのか、今でも分からない。哲二の下腹部には、火傷の痕がいくつもあり、皮膚がひきつれている。  下に降りると、昌江はすでに味噌汁と塩鮭の朝食を食べていた。 「俺の分はないんか」 「自分の分は自分で作るんや」 「そうか」  冷蔵庫を開けると、塩鮭が残っていたのでそれを焼き、味噌汁はお椀半分ほど、冷凍のご飯を電子レンジで温めた。  朝食の後片付けは哲二がさせられた。それがすむと、昌江は二階の部屋と便所と風呂場の掃除を命じたが、「そんなにいっぺんに出来るか」と哲二は二階の自分の部屋だけ掃除機をかけた。掃除をしている途中で、母親に薬を飲ませなかったことに気づいたが、知ったことかと呟いただけだった。  昼食は買い置きのカップ麺だった。哲二が湯を注いだのだが、昌江が向こうで食べると居間に行ったので、彼は台所で食べた。  二時過ぎに昌江が買い物に行くように言ってきた。何を買うか、昌江が老眼鏡をかけて紙切れに書いている。哲二は母親がどこに金を置いているのか、そのことだけが気になった。  メモを渡されたので、哲二が「お金」と手を出すと、昌江は腹に巻いたベルトをずらせて背中から平たいポシェットを前に持ってきた。そこから五千円札を引き出す。 「レシート、ちゃんと貰うて来るんやで」 「分かってる」  子供の頃よく行った商店街はまだ潰れずにあった。その中に中規模のスーパーマーケットが出来ていた。そこでメモに書かれたものを買い、その他に自分の夕飯のためにカレイの煮付けやポテトサラダ、それに焼酎のつまみを買った。  レジ袋を下げ、門扉の掛け金を外していたら、「哲ちゃん?」と声をかけられた。  振り返ると、小道を挟んだ向かいの家の玄関のところで、七十歳くらいの女がこちらを見ていた。  哲二は少し頭を下げ、そのまま中に入ろうとしたが、突っかけの音を高くして彼女が近づいてきた。 「お兄ちゃんの方かと思ったら、哲ちゃんやないの。いつ家に戻って来たん?」 「昨日」 「お母さんの面倒見に帰って来たん?」 「ええ、まあ」 「それはええことやわ。お母さん、最近物忘れが出るようになって、ゴミ出しの日なんか私が毎週教えてあげてるんよ。それに回覧板もずっと止まったままの時もあるし」  哲二は早くこの女の前から去りたかった。自分の子供時代を知っている人間とは、出来れば没交渉でいたかったのだ。 「お母さん、ええ息子さん持って幸せやわ。これで安心やね」  見え透いた嘘を言いやがってと思いながら、哲二は神妙に聞いていた。女は「何かあったら、何でも言うてね」と言って、戻っていった。哲二は玄関ドアの鍵を開けて中に入ると、ほっと溜息をついた。  昌江はソファーに体をもたせかけながらテレビを見ていた。哲二がポケットから残りの金とレシートを取り出してテーブルの上に置くと、昌江は老眼鏡をかけて素早くレシートに目を通した。 「お釣りが少ないと思たら、余計なもん買うてるやないか」 「何か買えへんかったら、俺の晩飯がないやろ」 「これはあたしのお金や。あんたは自分のお金で、自分の分を買うたらええんや」 「それも昨日兄貴と一緒に話し合うたやろ。俺は腰が悪くて働かれへんのや。それでここに来たんやないか。自分で食べれるんやったら、誰がこんなところに来るか」 「腰が悪いようには見えんけどな」  昌江はソファーの横にある小タンスから家計簿と表紙に書かれたノートを取り出し、それを広げてレシートの数字を書き写していく。その手つきは、保険の外交員をしていた頃の姿を彷彿とさせる。  母親が客から預かった金を哲二が盗んだのは、一万円札をどうしても使ってみたかったからだった。二十枚以上あるから、一枚くらいなくなっても分からないだろうと思い、一枚だけ抜き取った。遊び仲間の同級生を何人か呼び集めて、駄菓子屋で大盤振る舞いをした。仲間のびっくりしたような目の輝きに、哲二は得も言われぬ快感を感じた。  母親が気づいて真っ先に疑ったのは、哲二だった。哲二は頑強に否定した。しかし、母親は、お前しかいないと追及の手を緩めない。 「なんで、俺やのん。お兄ちゃんかていてるやんか」 「お兄ちゃんがそんなことするわけがないやろ。お前に決まってる。さっさと白状しなさい」  母親は哲二の両腕をつかんで、前後に激しく揺さぶった。それでも哲二は口を割らなかった。食事を抜かれても、知らないと押し通した。母親は根負けして、それ以上追求しようとしなかった。  哲二が次に盗んだのは、一ヵ月後だった。今度は同級生を集めて模型店に行き、それぞれの好きなミニカーを買い与えた。  哲二の犯行がばれたのは、同級生の親が通報してきたからだった。母親は激怒して、竹製の蒲団たたきで哲二を打ち据えた。哲二は痛さを逃れるために、すぐにひれ伏して、ごめんなさいを連発したが、母親はその言葉の軽さが気に入らんと言って、打つ手を止めなかった。  それでも哲二の盗み癖は治らなかった。ばれたのは一万円札のような大きな金を取ったからで、小さい金ならばれないだろうと、百円や二百円を盗んだ。  しかしそれも重なると母親の気づくところとなり、門扉に手錠で繋がれることになった。  中学に入ると、哲二は万引きをするようになった。初めて捕まってスーパーマーケットの事務所に連れて行かれた時、その場に母親が呼び出された。  母親は哲二を見るなり、何も言わずに頭を殴った。椅子からずり落ちるほどの勢いで、思わず店長が止めたほどだった。  それ以後、身柄の引き取りには、父親がやってくるようになった。  夕食は昼と同じように二人別々に食べた。昌江は自分で作ったレンコン金平や青梗菜のお浸し、哲二は買ってきた総菜だった。昌江は当然のごとく後片付けを哲二に命じた。  昌江が風呂に入って寝てしまうと、哲二は昨晩と同じようにテレビを見ながら、焼酎を飲んだ。明日の金の心配をせずに酒を飲めるのがこれほど気持ちがいいとは思ってもみないことだった。  翌日から哲二は昌江の言うことを何でもはいはいと聞くことにした。掃除でも洗濯でもすべてを聞いておいて、適当に手を抜くのである。  掃除の合間にどこかに預金通帳があるはずだと探し回ったが、見つからなかった。母親が風呂に入っている間にポシェットの中も探したが、病院の診察券数枚と健康保険証、それに現金しかなかった。哲二は千円札一枚くらいなら抜いても分からないだろうと思ったが、万が一気づかれて追い出される騒動になるのが怖くて自重した。  買い物もメモに書いてあるもの以外は買わず、お茶漬けだけで我慢していると、何日かして昌江が「しょうがない」と言いながら、哲二の分も作ってくれるようになった。  次の日曜日に哲二は自分のアパートを引き払った。金がないので、孝一がベンツで衣類だけを運んだ。テレビや冷蔵庫などの家財はすべて古道具屋に引き取らせた。消費者金融には黙って引っ越した。これで踏み倒せたらもうけものと哲二は考えていた。  衣類を自分の部屋に運び込んで下に降りていくと、薬箱の中身を調べていた孝一が「ちゃんと薬を飲ましてへんやないか」と怒り出した。 「お前を同居させる一番の理由は、薬をきちんと飲ませることやぞ。何で飲ませへんのや」 「自分で飲んでるからそれでええと思たんやけど」 「物忘れがあるから、きちんと飲まれへんて言うたやろ。症状が進んで大変になるのはお前やぞ。もしお前がこの家で介護出来んようになったら、どこかの施設に入れざるを得ん。そうなったら、お前どうやって生活するつもりや」  ボケの切れ目が縁の切れ目という言葉が不意に浮かんでくる。その言葉の軽さよりも大変になることは分かっていても、哲二には実感が湧かない。  物忘れの薬だけは忘れずに飲ませることを哲二は約束した。  孝一が帰る間際、哲二は母親の金を管理しているのは兄かどうか尋ねた。 「そうや。それがどうかしたか」 「それ、兄貴が面倒臭かったら俺がやってもええけど……」  孝一は眉根を寄せて考える仕草を見せた。 「まあ、そのうちお前に任せるかもしれんけど、今のところはまだ俺がやるわ」 「それやったら」と哲二は右掌を上にして差し出した。「小遣いちょうだい」 「えっ」 「一万円。飯は食えるけど、それだけやったら何の楽しみもないし……」 「贅沢言うな」 「どうせお袋の金やろ。俺にかって遺産をもらう権利はあるんやから」  孝一は呆れた表情を見せたが、仕方がないとばかりに上着のポケットから財布を取り出すと、一万円札を抜いて哲二に手渡した。 「言うとくけど、絶対に競輪に使うなよ。もし競輪ですっても、もう金は出せへんからな」 「分かってる」  哲二にしても一万円ぽっきりで競輪をする気はなかった。取りあえず夜に呑む焼酎を確保することが先決だった。競輪はいずれ母親の金を管理するようになったら、堂々とすればいいという気持ちだった。ただ、博打気分を味わいたいため、哲二はパチンコ店に時々通うようになった。  哲二の仕事は、掃除、洗濯、買い物の他に、二週間に一回病院で薬をもらってくることだった。  哲二が来て一ヵ月後に認知症の定期診察の日が来て、物忘れ外来のある大学付属病院まで昌江を車椅子に乗せて三十分の距離を押していった。  順番が来て昌江を連れて診察室に入ると、四十半ばの主治医は哲二を見て、おやっという顔をした。 「いつもの息子さんとは違いますね」 「これも息子ですわ」  昌江が面倒臭そうに答える。 「後藤さん、二人も息子さんがいて、心強いですね」 「そんなことおますかいな。頼りない息子で」  主治医が困った顔をする。 「今度お袋の世話をすることになりました二番目の息子です」と哲二は頭を下げた。  診察は今日の日付や今いる病院の場所を聞いたり、野菜の名前を出来るだけ多く言わせたり、箱に入っている鍵や鋏などの品物を見せて、もう一度箱の中に隠し、何があったか答えさせるというものだった。  どの質問にも満足に答えられない。日付は主治医が「十月の……」と促しても分からず、病院の場所も、哲二に「どこやった」と聞く始末だった。野菜の名前は、葱、人参、じゃがいもで止まり、箱の中の物は二つしか思い出せなかった。  診察が終わると昌江だけが診察室を出て、哲二が主治医の話を聞いた。 「半年前に比べると、若干進行しているようですね。お兄様にも言いましたが、薬は必ず飲ませて下さい。それと出来るだけ話しかけてお母様が頭を使うようにして下さい」  哲二は神妙に頷いた。薬は兄から言われてから注意して飲ませているが、母親とは話らしい話はほとんどしていなかった。昌江はベッドに横になるかソファーに坐ってテレビを見るか台所に立って料理をするかのどれかだった。食事もテレビを見ながらだから、何か話す必要もない。  医者に言われたからといって、哲二は母親への接し方を変えようとはさらさら思わなかった。  定期診察から一週間ほど経ったある日、滅多に掛かってこない電話が鳴って、哲二が受話器を取ると、「後藤さんのお宅ですか」という女の声がした。 「はい」 「後藤哲二さんでいらっしゃいますか」 「……はい、そうですが」  すると、ちょっと間があってから、「後藤さん、困りますなあ」という男の声が響いてきた。哲二はあっと思った。聞き覚えのある消費者金融の担当者の声だった。 「引っ越しするんなら、ちゃんとこちらに届けてもらわな。えらい探しましたよ」 「……すんません。引っ越しでばたばたしてたもんですから」 「そら、そうでしょう。後藤さんはそんな借金を踏み倒すような人とちゃいますもんね」 「……はあ」 「それで、どうなります、返済の方は。期日はとうに過ぎてますけど」 「もうちょっと待ってもらえませんか」 「どのくらい」 「一週間」 「ふーん……ところで今住んではる所はお母さんのとこですか」  分かってて聞いてきよると思いながら、 「お袋の具合がちょっと悪いもんやから」 「私がそちらに伺って、直接お母さんとお話してもよろしいけど」 「一週間後には払う言うてるやろ」 「何や、その言い方は」男の口調ががらりと変わった。「行方くらましといて居直るんか。よーし分かった。一週間経ってもし支払がなかったら、そっちへ押しかけて、お袋さんの年金から何から全部いただくからな。分かったか」  哲二が黙っていると、電話が切れた。  どうしよう。財布の中を見てみると、三千円しか残っていない。取りあえず今回分の返済には、その十倍の金が要る。  哲二は買い物に行って落ちているレシートを拾ってみたが、三万円にするには二十枚くらい集めなければならない。母親のチェックの様子から見て、どうみても現実的ではなかった。  母親のポシェットの中を見ると、ちょうど三万円ある。しかしこれを盗むと、すぐにばれてしまう。毎月の金は、昌江の預金通帳とキャッシュカードを預かっている孝一が月末に残っている金を見て、十万になるように銀行から引き出してくる。  月末にはまだ十日以上あった。哲二は悶々として日を過ごし、一週間の期限の来る直前に、孝一に電話をした。 「兄貴、金貸してくれへんか」 「え、何でまた。小遣いやったらやってるやろ」 「何も言わずに三万貸してーな」 「競輪か。そんなもんに金貸せんぞ」  哲二はためらった挙げ句、消費者金融から督促の電話がかかってきたことを話した。 「なんぼ借りたんや」 「五十万」 「何や、それ。借金までして賭け事をする馬鹿がおるか」  孝一の大きな声に、哲二は受話器を耳から離した。 「こっちに引っ越したら大丈夫やと思てたんやけど……」 「踏み倒す気やったんか。お前、そんなつもりで金借りとるんか」 「いや、そんなことはないけど……」  孝一の溜息が聞こえてきた。 「それで、三万いうのは、分割払いの一回分か」 「そうや」 「何年かかるんや」 「二年かな」  孝一が再び溜息をついた。 「金借りとるんとちゃうかと思ってたら、案の定や。何でお前はそんなに金にルーズなんや。自分で返しもできん借金して、結局は俺やお袋が面倒みなあかんようになる。いい加減、大人になれ。自分の始末を自分でつけられへんのは子供のすることや」  説教はたくさんやとうんざりしながら、哲二は黙って聞いていた。そして孝一の言葉が途切れたところで、「三万円、明日が期限なんや。持ってきて」と言った。  一瞬間があって、「ばかやろう」と怒鳴られた。 「俺はお前のメッセンジャーと違うぞ。金が必要なら、お前が取りに来い」  翌日、哲二は地下鉄と電車を乗り継いで、孝一の会社まで行った。そこから孝一の運転でベンツに乗って、消費者金融の店舗まで行き、三万円を返した。残高は四十五万円余りだった。  毎月返済するといっても、結局孝一が出すことになるわけで、それなら一括返済したほうがましということになった。  哲二は借用書を書かされて、母親の遺産相続の時に清算することを約束させられた。  それから十日ほど経った頃だった。買い物に行くためにメモを受け取って、金をもらおうとしたが、昌江はポシェットから紙幣を全部引き出し、何度も数えている。 「どうしたんや」  昌江はそれには答えず、小タンスから家計簿を取り出してめくっていく。 「やっぱりや。金が無うなってる」  昌江が広げられた家計簿の一点を指差す。 「なんぼ足らんのや」 「一万五千円」  哲二は家計簿を手に取った。確かにテーブルに出された紙幣の合計よりも家計簿の数字の方が大きい。  その時、哲二は記入された最後の日付が一週間前になっていることに気づいた。 「おかあはん、一週間分抜けてるで。そりゃ足らんはずや」 「うそや」昌江は家計簿を哲二の手から引ったくると、かけていた老眼鏡に手を添えてじっとそれを見た。 「今日は何日や」  哲二が今日の日付を答えると、 「そんなことはない。あたしゃ毎日付けてた。お前が盗ったんやろ」 「………」 「お前が家計簿を書き換えて、一万五千円盗ったんやろ」  あまりの馬鹿馬鹿しさに哲二は怒る気も起きなかった。 「よう見てみいな。そこに書いてある数字、俺の字と違うやろ。おかあはんの字やで」 「いやお前が盗ったんや。こんな年になっても、盗み癖だけは直っとらんのや」  哲二はかっとなった。殴って黙らそうとしたが、すんでのところで踏み止まった。  哲二は小タンスの領収書ばかりの入った引き出しを引き抜いて、テーブルの上に置いた。そして上の方から、これもまだ付けてない、これもまだと最近の日付のレシートを取り出した。そして一週間分のレシートを並べて電卓で合計すると、15421と出た。 「ほら、ちょうど足らん分や」  哲二は電卓の液晶画面を母親に見せた。しかし昌江は「そんなことはない」と取り合わない。「お前が誤魔化してあたしのお金を盗った」と言って聞かない。  哲二は馬鹿らしくなって、メモだけ持って買い物に出た。兄からもらった小遣いが残っているので、取りあえずそこから立て替えておくつもりだった。  スーパーでメモを見ながら買い物をしていると、だんだん腹が立ってきた。どうせ盗みの疑いをかけられるくらいなら、本当に盗んでやったらよかったと思う。  レジ袋を下げて家に戻ると、居間には母親の姿はなかった。ほっとして台所で品物を冷蔵庫に入れていると、電話が鳴った。  出ると、孝一からだった。 「お袋から電話があって、お前がお金を盗んだと言うてるけど、ほんまか」  哲二はうんざりした。 「嘘に決まってるやろ。お袋が家計簿を付け忘れただけや」 「そうか。……取りあえず仕事切り上げて今からそっちに行くわ」  昌江は、盗人にご飯を作ってやる必要はないと自分の分しか作らず、食べ終わるとさっさと寝室に引っ込んだ。哲二は仕方なく即席ラーメンを作って食べた。  孝一がやって来たのは午後七時過ぎだった。  哲二は家計簿と領収書を示して説明する。孝一はふんふんと聞いて、「被害妄想やな」と呟いた。「このままやったら、また同じことが起こるかもしれんから、そろそろお前がお金を管理するか」  哲二は内心にやりとしたが、表情には出さない。 「ええよ」  しかし昌江に代わって家計簿を付けるように言われて、哲二は抵抗した。 「そんな面倒臭いこと、俺には出来へん」 「……それやったら、領収書だけでもええわ。ちゃんと残しておけ」 「それよりも、通帳とカードを渡してくれや。全部俺がやるわ」  孝一が哲二をじっと見た。 「まあ、ゆくゆくはそうしてもええけど、今のところはまだ俺が預かっとくわ。お前がきちんと金を管理できるか、一年くらい見てみてから、考えるわ」  一年か。はるか先に思えて哲二はうんざりしたが、借金をすべて返済してもらった手前、強くは言えなかった。  孝一は寝室へ金のことを話しに行ったが、しばらくして戻ってくると、家計簿と領収書の束を持ってまた昌江のところへ行った。  一時間ほどたって、ようやく孝一が戻ってきた。家計簿と領収書の他に、数枚の紙幣と数多くの硬貨をテーブルに置いた。その金を哲二に渡す。哲二は、それを小銭しか残っていない自分の財布に入れた。一万円札が数枚入っているだけで、何だか豊かになった気分になった。  昌江の作る料理の味付けがおかしくなったのは、それからすぐのことだった。 「おかあはん、これ辛すぎるやないか」  哲二は肉ジャガの入った小鉢を向かいに坐っている母親の前に突き出した。 「そんなことはないやろ」  昌江は自分の分の肉ジャガを口に運んだ。 「ほんまや。辛いわ」 「味見せえへんかったんか」 「いつも作ってんのに、そんなことするかいな」  昌江は、おかしい、おかしいと言いながら、二つの小鉢を流しに運んだ。  翌日には、カボチャの煮物が同じように辛くて食べられなかった。  哲二は次の日から昌江が料理しているところをそれとなく観察してみた。それで分かったのは、塩と砂糖を間違えていることだった。塩は小さな容器、砂糖は大きな容器で、色も違うのに間違えている。  哲二が指摘すると、一旦は直るのだが、すぐに間違える。容器に「しお」と「さとう」と書いても駄目だった。そのうち、作るものがカレーライスばかりになってしまった。  仕方がないので、母親に料理をさせるのは諦めて、スーパーで出来合いの惣菜を買ってくることにしたが、結構高くつく。パチンコの資金にも支障が出るようになって、哲二は自分で作ることにした。  哲二は若い頃料理人を目指したことがある。住み込みで中華料理屋に勤めたが、来る日も来る日も皿洗いと野菜の下ごしらえばかりで、うんざりして辞めてしまった。  今まで独りだったので、外食がほとんどだったが、競輪で負けて次の給料日まで何とか過ごさなければならない時には、自炊をしたこともある。いかに安い材料でうまいごちそうを作るかに凝って、そんな時には料理人の道を断念したことにちょっと後悔したりした。ただ、次の給料日が来ると、自炊する気も起こらなくなって、包丁に錆が浮いた。  哲二が母親に「俺が作るわ」と宣言すると、「あんたに何が作れんのん」と昌江が嗤った。  そう言われると、意地になった。哲二はテレビの料理番組を見て、その中で宣伝していたレシピの載っている本を買ってきた。その日見たレシピはどこにも載っておらず哲二はがっかりしたが、母親の食べたことがないようなものを、と思いながら見ていって、エビのスパゲティを作ることにした。  スーパーでレシピ通りの材料を買ってきて、時間をかけて何とかそれだけを作った。有頭エビの頭をトマトソースで煮て、つぶし、それをうま味にして、生クリームで仕上げてある。  席に着いた昌江は、「これは何や」と言った。 「スパゲティやないか」 「スパゲティやったら、ナポリタンがええ」 「まあ、食べてみいな」  フォークがうまく使えないので、哲二は箸を取ってやった。昌江は箸を使ってスパゲティを口に入れる。 「どうや。うまいやろ」  昌江は口をもぐもぐさせている。 「結構いけるやろ」  昌江は口に入れていたものを飲み込むと、 「これ、本に載ってたんか」 「そうや。おかあはんが食べたことのないもんいっぱい載ってるで」 「そうかあ」  昌江はまたひとくち口に入れる。 「どうや、味は。うまけりゃうまいと言うてもええんやで」 「まあまあやな」  素直やないと向かっ腹が立ったが、母親が残すことなく全部食べたので溜飲が下がった。  その日木枯らし一番が吹いた。  昼からパチンコに行った哲二は、切りのいいところで止めようと思っていたが、当たりが続いて止められなくなった。  結局止めたのは六時過ぎで、久し振りの大勝ちだった。出玉を換金用の景品と交換して半端な玉をチョコレートに換えた。いつもは酒のつまみにするのだが、ひょっと棚を見て、母親の好きな板チョコが目に入ったから、それにしたのだ。  今から晩飯を作るのは無理だから、出前で寿司でも取ろうかと考えながら、家に帰ると、玄関のドアに鍵がかかっていなかった。  不審に思いながら中に入ると、居間からテレビの音声が聞こえてくる。いるやないかと思い、何で鍵が開いているんやと思ったところで、空き巣? という言葉が浮かんだ。  急いで居間に行くと、テレビを見ているはずの昌江がいなかった。哲二は便所、風呂場、と見ていき、まさか二階かと、上に行ったが、そこにも昌江はいなかった。  降りてきて三和土を見ると、外出の時に昌江が履いていく運動靴がなかった。靴箱を見たが、そこにもない。  母親が哲二の介添えなしに外出したことは今まで一度もない。兄貴が来て連れ出したのかと考えたが、仕事をしている兄貴が自分に何も言わずにそんなことをするはずがない。  ということは、母親一人で外出したことになる。徘徊かと哲二は呟いた。膝の悪い昌江が徘徊するとは思ってもみなかったので、虚を突かれた感じだった。  どうする。哲二は居間のソファーに体を投げ出すように坐った。木枯らしの吹いている外へ探しに出るのは億劫だった。そのうち帰ってきよるやろと思いながら、哲二はつけっぱなしになっているテレビのバラエティ番組を見た。  その番組が終わって、寿司の出前でも取ろうかとメニューを見ていたら、電話が鳴った。  相手は警官だった。母親を保護しているから引き取りに来て欲しいという電話だった。道端に坐り込んでいたのをパトロール中の警官が見つけ、派出所まで連れて来たのだった。  派出所の場所を尋ねると、結構遠くだった。哲二は礼を言い、すぐに引き取りに行くことを告げて電話を切った。  どこへいくつもりやったんやと母親に腹を立てながら、哲二は冷たい風の吹く中を急いで歩いた。  警官に教えられた通り、私鉄の駅から国道沿いに歩き、目印のファミリーレストランの角を曲がったところに派出所があった。  外から見ると、椅子に坐った母親に二人の警官が話しかけている。哲二が引き戸に手をかけると、昌江がこちらを見て笑った。  中に入ると、「息子さんですか」と年配の警官が声をかけてきた。 「はい」 「ご苦労様です」  哲二は昌江に「何で外に出たんや」と強い調子で言った。 「旦那さんの墓参りに行こうとされたみたいですよ」  取りなすように警官が言った。父親の死んだのは夏で、別に今日が月命日でもないので、そんなことは嘘に決まっていたが、哲二は「そうですか」と納得したように応えた。  警官にタクシーを呼んでもらい、乗り込んだ。車中で、「どこへいこうとしてたんや」と尋ねても、昌江はぐったりと目を閉じたまま答えない。  家の近くで止めてもらい、哲二は千円札を出して、お釣りはチップとして運転手に渡した。  降りたところから家まで二十メートルほどあったが、その距離を行くのに昌江は何度も立ち止まった。「ようその足であんなところまで行ったなあ」と哲二は呆れた声を出した。  居間のソファーに母親を坐らせると、哲二は電話で、特上にぎり二人前と吸い物を頼んだ。  寿司が来て、哲二は桶をテーブルに置いた。 「今日はパチンコで勝ったから、奮発して特上や。どんどん食べてや」  哲二は小皿を取ってきてそこに醤油を入れて昌江に手渡した。昌江は寿司桶に箸を伸ばすとマグロのにぎりを摘んだ。  哲二が全部食べる間に、昌江は三貫食べただけだった。もっと食べるように言っても、後は吸い物だけを飲み、疲れたから寝るわと立ち上がろうとした。  哲二は母親の手を押さえて、 「そんなら甘いもんはどうや。おかあはんの好きな板チョコ、あるんやで」  そう言って、レジ袋に入っていた板チョコを取り出して、母親の目の前においた。  母親はじっと板チョコを見た。 「買うてきてくれたんか」 「パチンコで取ってきたんや」 「あんた、パチンコするんか」 「今日は大勝ちしたんや」  食べるかと聞くと頷いたので、哲二は包装を取って半分に割り、銀紙を剥いて母親に手渡した。母親は一口かじっては口をもぐもぐさせ、飲み込む前にまたかじった。指に溶けたチョコレートがべっとりとついた。  全部食べ終わった母親の口の周りが茶色になっている。哲二は指先と口の周りを濡らしたタオルで拭いてやった。  お茶を飲ませて歯磨き代わりにし、母親をベッドに寝かせた。  哲二は残った寿司を食べ、焼酎の湯割りで晩酌をした。  翌朝、いつもより遅くに目を覚まし、下に降りていくと、居間にも台所にも母親の姿がなかった。寝室を覗くと蒲団が盛り上がっており、昨日はよっぽど疲れたんかと思いながら、哲二は味噌汁と目玉焼きの朝食を作った。昌江の役割になっている仏壇のお水換えも済ませてから、母親を起こしに行った。 「飯やで」と蒲団を揺すっても起きない。何度か揺すってから、哲二は蒲団をめくった。  エアコン暖房の効いた暖かい空気の中、むっと酸っぱい臭いが鼻を衝く。昌江は向こう向きになっており、顔の辺りのシーツが濡れたような染みになっている。その中の茶色い点々としたものは、よく見るとご飯粒だった。 「おかあはん」  哲二は昌江の体を上に向かせた。口の周りにもご飯粒かこびりつき、唇の色がなかった。  哲二は思わず母親の体から手を離した。死んでる、そう思った。  その時、昌江が目を開けた。 「孝一、土田先生呼んできて」  開きにくい口を動かして、昌江が掠れた声を出した。名前を間違うてると思いながら、「おかあはん、大丈夫か」と哲二は母親の額に掌を当てた。熱があるように感じる。 「いよいよ、お迎えかもしれん」 「分かった。すぐに土田先生に来てもらうから、待っときや」  哲二は家を飛び出した。途中で、電話をした方が早かったということに気づいたが、直接行った方が診察中でも引っ張ってこれるとそのまま走っていった。 土田医院には本日休診の札がかかっていた。木曜日かと思いながら、哲二はインターホンのボタンを押した。  返事がないので、もう一度ボタンを押し、鳴っているか不安だったので間を置かずまた押した。同時に扉を叩く。 「どちらさまですか」  インターホンから女の声がした。 「後藤です。お袋が死にそうなんです」  インターホンが切れた。  少したって、扉が開いた。土田が姿を見せる。 「何や、あんたか。どうしたんや」 「さっき起こしたら、口から食べた物を吐いてて、死にそうや言うんですわ」 「何か悪いもんでも食べたか」 「昨夜、寿司をちょっと食べただけですが」 「分かった。すぐに用意して行くから、あんたは帰ってお母さんを見ててあげなさい」  哲二は走って家に帰り、母親に、もうすぐ先生が来るからと告げた。昌江は目を閉じ、死んだように見えるが、胸は呼吸の動きを見せている。哲二は濡らしたタオルを持ってきて、昌江の口の周りを拭いた。  玄関でドアの開く音がし、哲二が出ていくと、土田が黒い鞄を提げて上がってくるところだった。哲二は土田を寝室に案内した。 「どうしました、後藤さん。気分が悪いですか」  土田は床に置いた鞄の中から聴診器を取り出した。 「先生、何や体がだるうて」 「分かった。今診察するから大丈夫やで」  土田は寝間着の襟元を広げると、肋骨の浮き出た胸に聴診器を当てた。  哲二はそっと寝室を出て、扉を閉めた。  台所の椅子に坐りながら、哲二は、母親が死ねばこれからどうなるのだろうかと考えていた。年金が入らなくなるのは当然として、この家におり続けることが出来るのだろうか。母親の貯金がどのくらいあるのか哲二は兄に聞いたことがない。もしあれば自分の取り分を受け取りながら、この家に住むというのは虫がよすぎるだろうか。  寝室の扉が開いて、土田が出てきた。 「お母さん、風邪やな。心配することないわ。注射一本打っといたから、これで熱も下がるやろ。帰って薬を用意しておくから、しばらくしたら取りに来て」」  哲二は礼を言って、土田を玄関まで見送った。  寝室に行くと、昌江は眠っていた。 「おかあはん、風邪やってなあ。よかったやないか」  そう呼びかけると、昌江は目を閉じたまま口を開いた。 「孝一、心配かけてすまんなあ」 「俺、哲二やで。兄貴とちゃうで」  昌江が目を開けた。じっとこちらを見る。 「孝一、何言うてんねや」 「俺、俺。哲二」  哲二は自分の顔を指差した。昌江は、うんうんと頷きながら再び目を閉じた。熱のせいでボケてしもたかと思いながら、哲二は寝室を出た。  土田医院に薬をもらいに行くと、土田は薬の飲ませ方を説明した後、「明日の朝まで熱が下がらなかったら、電話して。また往診に行くから」と白い袋を渡してくれた。  昌江は夕方までずっと眠っていた。  哲二はうどんかお粥、どちらにしようかと考えて、お粥にした。土鍋で米から炊いた。梅干しと塩昆布と漬け物も用意した。味噌汁も即席ではなく、出汁と味噌で作り、豆腐と葱を入れた。  テーブルに食器を用意していると、寝室の扉が開いて寝間着を着た昌江が姿を見せた。 「おかあはん、お粥出来てるから食べるか」  昌江はテーブルの上に目をやると、「すまんなあ。そんなことまでしてもろうて。おしっこ行ってきたら食べるわ」と言い、トイレの方に歩いていった。  哲二は茶碗に粥をよそい、味噌汁も椀に入れ、箸置きに箸を置いた。  トイレから戻ってきた母親を椅子に坐らせようとして、寝間着が湿っぽくなっていることに気づき、寝室に連れて行って新しいものに着替えさせた。その上から綿入れを着せ、台所の椅子に坐らせる。  母親が粥を食べている間に、ベッドのシーツを取り替えた。  母親はゆっくりではあるが茶碗一杯をぺろりと食べ、哲二はお代わりをよそった。 「孝一、あんた、このお粥、お米から作ったんか。うまいこと出来てんな」 「おかあはん、名前間違うてるで。俺は哲二。孝一は兄貴の名前や」 「哲二なんか知らん」  うん? 哲二は言葉に詰まった。 「……俺、弟の哲二。あんたの二人息子のうちの一人。分かるやろ」  母親は興味のなさそうな顔をこちらに向けてから、粥に箸を付けた。 「おかあはん、ボケた振りは止めてえな。俺は哲二やないか」 「知らん。あたしの息子は、孝一、あんただけや」  哲二は母親の持っていた茶碗を取り上げた。母親はきょとんとした表情を見せた。 「このお粥作ったんは俺や。弟の哲二や。兄貴と違う」 「そんなん分かってるやないか。料理なんかせえへんお前がうまいこと作ったなあって感心してんねや」 「俺は誰や」 「何言うてんねん、孝一」  哲二は綿入れをつかんで母親を立たせた。そのまま寝室に追い込んでいく。「味噌汁が飲みたい」という母親を強引にベッドの側に立たせた。 「おかあはん、もういっぺん聞くで。俺は誰や」  母親は怯えた顔をしている。 「答えんか。俺は誰や」 「……孝一、何を怒ってんのや」 「孝一と違う。俺は誰や」 「……味噌汁が飲みたい」  哲二は手を上げた。一瞬、昔殴られた時の母親の姿が頭をよぎった。握った拳を振り下ろす時、母親がぎゅっと目を閉じた。  拳に衝撃が走ると同時に、母親がベッド脇に吹っ飛んだ。  荒い息をしながら、哲二は床に横たわる母親を見下ろした。 「殴ったんは孝一や」  そう呟くと、哲二は寝室を出た。  居間のソファーに脱ぎ捨ててあったジャンパーを着て、三和土で靴を履くと、哲二は玄関のドアを開けた。ポケットの鍵を取り出して、上がり口に放り投げ、ドアを閉めた。  冷たい風が吹いている。  哲二はジャンパーの襟を立てて、ポケットに両手を入れ、体を丸めながら、家を離れた。右手にまだ母親の頬骨の固い感触が残っている。  取りあえずどこでもいい、居酒屋に入って焼酎の湯割りが飲みたかった。