シンノスケ                  津木林 洋  職業安定所の失業認定を受けて帰ってきた浩之は、玄関横に細く延びる前栽に男の姿を見つけてどきりとした。幽霊を信じる質ではなかったが、浩之は一瞬その男に父親の姿を見た。背恰好といい、カーキ色のズホンといい、よく似ている。  浩之はじっと男を見た。空き巣とは思えないし、こうして見ていたらそのうちこちらに気づくだろうと思っていた。  男はガラス戸に顔を近づけて、内側に掛かったカーテンの隙間から中を覗こうとしている。  浩之はひとつ咳払いをした。しかし男はこちらに気づかない。浩之は前栽に足を踏み入れた。 「おっさん、何してんねん」  男は驚く様子もなく顔をこちらに向けると、「ああ、シンノスケ。わしを早よ中に入れてくれ」と言った。男の顔は陽に焼けて黒く、皺がいくつも走っている。 「シンノスケ? おっさん、何言うてんねん」 「喉乾いてるから何か飲ませてくれ」 「おっさん、ここどこや思てんねん」  男はそれには答えず、「早よ開けてくれ」とガラス戸の隙間に指を突っ込もうとする。 「おっさん、おっさん」浩之は男の手首をつかむと、ガラス戸から引きはがした。 「おっさん、この顔よう見てみ。この顔がシンノスケか」  男は気弱な表情を浮かべると、「シンノスケ、何で怒ってんねん」と呟くように言った。 「ボケとんのか、お前は」  浩之はつかんだ手首を引っ張って、男を前栽から出した。玄関前からさらに道路に追い出すと、「さっさと帰れ」と怒鳴った。それでも男はじっとしていたので、拳を振り上げて追いかける振りをすると、男は両手で防ぐ恰好をしながら後ずさっていった。  男が角を曲がるのを見届けてから、浩之は玄関の前に戻り、錠を開けて中に入った。  まず冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲む。残りはもう五本しかない。雇用保険金が振り込まれるまでもたないので、もう飲まないでおこうかと思ったが、結局二本目も開けてしまった。  テレビを見ながらビールを飲んでいると、ブザーが鳴った。無視していると、何回も鳴り、終いには鳴りっぱなしになった。  舌打ちをしながら玄関に行くと、人の姿が磨りガラスに映っている。 「セールスマン、お断り」浩之は両手をメガホンのようにして怒鳴った。それでもブザーは鳴り止まない。  心当たりはないが、宅配の荷物でも来たのかと、浩之は三和土に降りてサンダルを履いた。錠を外し、引き戸を開ける。  立っていたのは、先程の男だった。曖昧な笑いを浮かべている。 「おっさん、何の用があるんじゃ」 「そないに怒らんでもええやないか」 「言うとくけど、シンノスケなんてここにはおれへんぞ」 「ミサコさんはどうしたんや」  浩之は男を道路まで押し出すと、「ええか。おっさんはボケてんねん。そやからおれをシンノスケと思てるけど、それは間違いや。おれはシンノスケと違う、ヒロユキ言うんや。おっさんは人違いしてるんや。わかったか」  男はじっとこちらを見ている。浩之はゆっくりと玄関に戻ると、「おっさん、帰れよ」と優しく言って、引き戸を閉めた。  しかし三和土から上がる前にブザーがまた鳴り始めた。浩之はかっとなった。引き戸を乱暴に開け、目の前の男を怒鳴りつけようとした時、「シンノスケ、わし疲れたわ」と男が言った。気勢がそがれ、浩之はつくづくという感じで男の顔を見た。確かに目尻が下がり、疲れたような表情をしている。その時、浩之はあることを思い付いた。 「おっさん、金持ってるか」  男はぼんやりとしている。 「金や、金。お・か・ね」  浩之は人差し指と親指で紙幣の形を示して見せた。 「これか」  男はズボンの尻ポケットから二つ折りの財布を取り出した。女物なのか赤い色をしている。 「お、持ってるやないか」  浩之が取ろうとすると、男は取らせまいとした。 「わかった、わかった。誰も取れへん。せやけど、ちょっと中身見せてくれや」  男はサイフを広げて浩之の方に向けた。一万円札の図柄がちらっと目に入った。 「お父ちゃん、よう来たな。そんなとこに立ってんと、さあさあ中に入って」  浩之は男の手首をつかんで玄関に引っ張り込んだ。「すまんなあ」と言いながら、男は家の奥に目をやっている。浩之は素早く錠を掛けると、男の背中を押した。  浩之が上がっても、男は靴が脱げないのか立ったままもたもたしている。そのうち上がり框に腰を降ろすと、靴紐を解いてゆっくりと上がってきた。靴はスニーカーで、相当にくたびれている。  男の足を見ると、裸足だった。黒ずんでいる。ぷんと蒸れた臭いも漂ってきた。 「おっさん、靴下……いや、お父ちゃん、靴下履いてへんのんか」 「えへへへ」  男はバツが悪そうに笑っている。  浩之は男を風呂場まで連れて行き、ここで足を洗うように言ったが、男は突っ立ったままだった。世話の焼けるやっちゃと呟きながら、浩之は男を湯船の蓋の上に坐らせ、水のシャワーを掛けた。 「冷たい」男が足を上げる。浩之はむっとなったが、ガスの火をつけ、湯を出した。 「これでええやろ。そやからさっさと足を洗えや」  男は緩慢な動作で足をこすり合わせたが、黒ずみは簡単に落ちない。仕方なく浩之は風呂場を洗うタワシを持ってきて、男の足をこすった。「痛い、痛い」と男が言うのも構わず、足首をつかんでタワシを動かした。  雑巾で男の足を拭いていると、男が「喉が渇いた」というので、台所へ連れて行った。コップに水道の水を注いで渡そうとすると、「お茶が欲しい」と言う。 「お茶なんかない」 「ミサコさん、いてへんのか」 「ミサコは今旅行中や」 「どこへ行ってんのや」 「……どっかの温泉や」 「わしも温泉行きたい」 「ああ、ああ、そのうち連れてったる」  そう言いながら、コップを押しつけると、「お茶がええ」と首を振る。 「お茶はない、言うてるやろ。いらんかったら、もうやれへんぞ」  浩之はコップの水を流しに捨てた。 「ああ、水でもええからくれ」 「そうやろう。最初からもっと素直にならなあかんで、お父ちゃん」  コップ一杯では足らず、男は二杯を飲み干した。  晩飯を食べに出るにはまだ時間が早いので、浩之は男を居間に連れて行き、「テレビでも見るか」と言って坐らせた。卓袱台の缶ビールは温くなっていたが、構わずに飲んでいると、男の視線がこちらに向いているのに気づいた。 「ビール、欲しいんか」 「えへへへ」 「さっき水飲んだばっかりやろ」  男は笑っている。  どうせ何倍も返してもらうのだからと浩之は台所に行って缶ビールとコップを持ってきた。  男の手にコップを持たせ、ビールを注いでやった。男は味を確かめるように一口飲んでから、残りを一気に飲み干した。 「お、いける口かいな」と再びビールを注ごうとすると、「わしはもうええから、残りはお前が飲め」と泡の残ったコップを差し出した。 「さよか」とコップを受け取ったが、それは使わずにいつものように直接飲んだ。  刑事物のドラマが終わって、横を見ると、男が赤い顔をして横になっている。微かに鼾もかいているようだ。一体どこのおっさんやと思いながら、浩之は男の寝顔を見た。無防備な年寄りの顔をしている。浩之は、男のポケットからサイフを抜き出して中身を取ってやろうかと考えた。そうしてさっさと追い出したほうが自分の好きに使えると思ったが、さすがに盗人の真似をする気にはなれなかった。  浩之は押入から毛布を出してきて男に掛けてやり、自分もクッションを枕に横になった。  いつの間にか眠ってしまい、肩を揺すられて目が覚めた。 「シンノスケ、シンノスケ」  男が顔を覗き込んでいる。 「どうした、おっさん」  浩之が上半身を起こすと、小便したいと男が言った。 「便所やったら、出たとこにある」  浩之は指を差したが、男はどこやと呟くだけで愚図愚図している。 「何や、便所も一人で行かれへんのんか」  浩之は男を便所に連れて行き、洋式便器の便座まで上げてやった。 「小便の仕方は知ってるやろな。それともしーこいこいせなあかんのか」  男がズボンのジッパーを下ろし始めたので、浩之は便所を出た。引き戸を閉めようと思ったが、とんでもないところに小便を掛けられたらかなわないと開けっ放しにしておいた。  男はなかなか小便をしなかった。後ろから見ていて、とうにちんぽを出し終わっているはずなのに出てこない。 「お父ちゃん、ほんまにしたいんか」  前を覗き込んでやろうかと思った時、水の撥ねる音が聞こえてきた。見ると、何とか便器の中に収まっているようだった。滴の垂れるような音が途切れ途切れに聞こえ、しばらく音がしないから終わったのかと思ったら、また続いた。  いい加減うんざりした頃、男はようやくもぞもぞと腰を動かした。ジッパーを上げると、男は便所スリッパのまま外に出ようとしたので、「おっさん、スリッパ!」と浩之は男の足下を指差した。男はスリッパをじっとみてから、のろのろとした動作でそれを脱いだ。  浩之はタンクのハンドルを降ろして水を流してから、男を洗面所に連れて行って手を洗わせた。横に掛かっているタオルは使わせず、使い古しのタオルを取り出して与えた。 「疲れた」  居間に戻ってくると、男はそう呟いて横になった。 「小便するのはひと仕事か」と浩之は声を掛けたが、男はすでに目を閉じていた。とりあえず晩飯を奢らせてから、このおっさんをどうしてやろうと浩之は考えた。さっさと追い出すか、それともまだ金が残っているようだったら、明日の飯も奢らせるか。金の切れ目が縁の切れ目という言葉が頭に浮かび、浩之はにやっと笑った。  テレビの上のデジタル時計を見るとまだ五時過ぎだった。浩之ももう一寝入りしようと思ったが眠れず、テレビをつけた。ニュースを見ながら、新聞の求人欄に目を通す。浩之は新聞配達や害虫駆除、リフォームの営業など仕事を点々とし、四年前から運送会社でトラックの運転をしていたが、そこが倒産したのだった。  四十歳を過ぎると求人ががくんと減ることにうんざりしながらも、浩之に焦る気持ちはない。雇用保険が切れてからゆっくりと探せばいいと考えている。老朽化した市営住宅の家賃が安いのが救いといえば救いだった。  六時になって浩之は男を起こした。 「お父ちゃん、飯食いに行こう」  男は眩しそうな目で浩之を見た。 「外に食べに行くんか」 「そうや」 「わし、ここで食べたい」 「ここには食うもんないんや」 「ミサコさんはどうしたんや。ミサコさんにご飯作ってもらえ」 「さっきも言うたやろ。ミサコはきょうはここにおれへんのや」 「どこ行ったんや」  浩之は男の両腕をがっちりとつかんだ。 「お父ちゃん、おれ、シンノスケや。たまにはおれの言うことも聞いてえな。おれは焼肉が食いたいねん。や・き・に・く。おれは今失業中やから、お父ちゃんの奢りで食いたいねん。わかったか」  男は腕を持ち上げられて困惑したような表情を浮かべている。 「どやねん。焼肉食べに行くか、それとも今すぐここから出ていくか」 「わかった。お前が焼肉食べたい言うんやったら、そうしょうか」 「お父ちゃんの奢りやで」 「わかった」  浩之が腕を離すと、男は二の腕を両手でさすった。  玄関で男がスニーカーを履こうとしたので、浩之はそれを押しとどめ、靴箱から使い古しのサンダルを取り出して与えた。  男の足は遅く、浩之は時々立ち止まって待たなければならなかった。  表通りに出て、今まで一回しか入ったことのない焼肉屋のドアを開けた。時間が早いせいか店内には、家族連れが一組いるだけだった。  浩之は奥の四人掛けのテーブル席に腰を降ろした。男も珍しそうに店内を見回しながら、向かいに坐った。  女店員から渡されたメニューを見ながら、浩之は、上ロース、骨付きカルビ、ハラミ、タンと矢継ぎ早に注文し、野菜も頼んだ。頭の中で、一万円以内に収まるように計算している。 「お父ちゃん、ビールどうする」 「わしなあ……」  男がなかなか返事をしないので、「どうせ飲みたなるわ」と大ジョッキとグラスの生ビールを注文した。  肉が来て、浩之は次々と網の上に乗せた。肉の焼ける匂いが食欲を刺激し、浩之は久し振りの焼肉を食べては、ビールを飲んだ。  見ると、男はあまり焼肉に箸をつけていなかった。焼けたピーマンとか玉葱を食べている。 「お父ちゃん、何で肉食えへんのや」 「わし、硬いの食われへんのや」 「入れ歯か」 「ああ」 「そりゃ、悪いことしたな」  浩之は女店員を呼んで、上ロースを追加した。まだ一万円は超えないと踏んでいる。  肉が来て、「この一皿は全部お父ちゃんが食べたらええんやで。これやったら柔らかいから食べられるやろ」と言いながら、浩之は一枚を網の上であぶった。それをタレにつけ、サンチュにくるんで手渡す。男はタレを口の端からこぼしながら頬張った。 「どや。食べられるやろ」  男は口をもぐもぐさせながら、頷いた。  その様子を眺めながら、浩之はどこかで見た光景だと感じていた。  子供の頃、焼き肉屋で父親から、同じようにサンチュで肉をくるんで手渡された記憶だった。何歳の頃だろうか。小学校に上がる前のような気がする。  今おれはその時の逆をやっていると思うと、浩之は苦笑した。母親も一緒だったに違いないと思ったが、母親の姿は記憶になかった。  浩之は自分の分を食べる合間に、ロースを焼いてやった。同じようにサンチュで巻いて渡し、焼けたカボチャも皮を外して男の皿に置いた。男はうまそうにビールを飲み、すぐに赤い顔になった。浩之も大ジョッキを追加した。  最後に、キムチのお茶漬けを食べ、男にもうまいからと言って食べさせた。  レジで店員が伝票を見ながらキーを打つのを眺めていて、浩之はどきどきした。計算に間違いはないと思うが、ひょっとして超えているかもという気持ちもある。自分の財布は持って来ていないのだ。 「お会計は、九千七百四十円になります」  その声に浩之はほっとした。 「お父ちゃん、九千七百四十円やて」 「わしが払うんか」 「奢ってくれる言うたやろ」 「言うたかな」  店員がにこやかな顔でこちらを見ている。浩之は男の尻ポケットに手を突っ込んで財布を取り出したい誘惑に駆られたが、我慢をした。 「お父ちゃんが奢ったる言うから、おれ、財布持って来てへんで」 「そやったかな」 「そうや。頼むわ、お金払てえな」  浩之が男の目の前に片手を出して拝むようにすると、そやなと呟いて、ようやく男が尻ポケットから赤い財布を抜き出した。  店員に一万円札を渡すところを見ていて、まだ万札が残っているのに気づいた。  お釣りは浩之が受け取り、表に出た。  コンビニエンスストアの前で、「お父ちゃん、しばらくいてるんやったら買い物しょうか」と浩之は男の腕をつかんで、店の中に引っ張り込んだ。 「何買うねん」 「ま、いろいろと」  しかし浩之の買った物は、焼酎と氷、ペットボトルのお茶とカップ麺、それにピーナッツやさきイカなどの摘みだった。それらの代金も男に払わせた。  家に帰ると、浩之は早速焼酎をオンザロックで飲み始めた。男にも勧めたが、男は首を振り、その代わりとでも言うように「小便したい」と言った。小便させるのも奢らせたうちかと呟いて、浩之は男を便所に連れていった。  テレビの野球放送を見ていると、鼾が聞こえ、男がいつの間にか眠っていた。自分で毛布を掛けている。 「よう寝るおっさんやな。よっぽど疲れとんのか」  浩之も何杯目かの焼酎を飲んだ後眠ってしまい、喉の渇きで目を覚ました時は、午前零時近かった。  男はまだ眠っている。浩之は小便をしてから、台所でペットボトルのお茶を二口飲んだ。シャワーを浴びようかと思ったが、面倒くさくなり、居間に戻ると、テレビと部屋の明かりを消した。そしてズホンとトレーナーを脱いで隣の部屋の万年床に倒れ込んだ。  しかし目を閉じても眠気はなかなかやって来なかった。何であのおっさんがくそ親父に見えたんやろ、顔なんか全然似てへんのにと思っていると、不意に母親の葬式の場面が甦ってくる。 「どや、元気にしとったか」  十年振りに見る父親は痩せた体を大きめのダブルの礼服で包んでいた。頬の肉が落ち、貧相な顔になっていたが、口許に浮かんだ笑いは昔と同じだった。 「何の用や」 「何の用とは、ご挨拶やな。元女房の弔いに来たんやないか」  誰が一体こいつに知らせたのかと浩之は親戚の連中に腹を立てた。 「帰れ。お前なんかに弔いする資格はないわ」 「浩之、お前いつからそんなきつい人間になったんや」 「とっとと帰れ」 「線香の一本でも上げさせてもらおか」と父親は靴を脱ごうとする。 「帰れ言うてるやろ」  父親の胸をひと突きすると、バランスを崩して父親は尻餅をついた。 「何すんねん。危ないやないか」 「そっちが勝手に上がろうとするからや」 「それが実の父親に向かって言うセリフか」  浩之は鼻先で笑った。 「誰がお前みたいな奴、父親と思てるか」  浩之が高校に入ってすぐ、父親は愛人を作って出て行き、家に金が入ってこなくなった。母親がパートの仕事を掛け持ちして、何とか浩之を二年生まで行かせてくれたが、元々体が丈夫ではなかった上に無理をしたせいで、腎臓を悪くし、浩之が学校をやめて働くことになった。学校側は浩之が学業を続けられるよう生活保護などについて民生委員に相談してくれたりしたが、勉強よりも早く外で仕事がしたいという気持ちもあって、浩之は中退したのだった。  スーパーマーケットのパート店員として働き始めた浩之が、仕事から帰ってくると、玄関の錠が開いていた。パートに行っているはずやのにと思って中に入ると、玄関の三和土に黒の革靴が並んでいる。父親だと直感して浩之は急いで上がった。果たして背広を着た父親が母親と一緒に卓袱台の前に坐り、いくつもの寿司折りを広げて寿司を摘んでいた。 「お母ちゃん、パートはどうしたん」 「お父ちゃんが帰ってきたんよ。そやから休ませてもろた」 「よお、お仕事ご苦労さん」  父親が片手を上げた。笑っている。浩之は父親の背中を蹴り付けたい衝動に駆られたが、横で母親も笑っているのを目にすると、気持ちが萎えた。ひょっとしたら元に戻るかもしれない、一瞬そんな思いが掠めたが、浩之はすぐにそう思った自分に腹を立てた。 「何で帰ってきたんや」  浩之は怒りの感情が表に出ないように、ぶっきらぼうな声を出した。 「何でて、ここはおれの家やろ」 「勝手に出て行っといて今更おれの家はないやろ」 「浩之」と母親がきつい声を出した。「お父ちゃんに向かって何てこと言うの」 「お母ちゃん、口惜しないんか」  浩之はつい大きな声を出した。 「お父ちゃんも一時の気の迷いや言うて謝ってはるんやから、もうええやないの」  浩之が突っ立っていると、母親が「あんたもここに坐ってお寿司を食べなさい。お父ちゃんが買うてきてくれはったんやから」と隣の畳を叩いた。 「わざわざ亀寿司本店まで行って買うてきたんや。ネタが違うぞ」  子供の頃よく三人で食べに行った店の名前を持ち出す父親に浩之は反発を感じながら、母親の隣に腰を降ろした。 「初枝、ビールないんか」 「ビールなんかありませんよ。浩之はまだ飲めないんだから」 「仕事してたらもう一人前の大人や。ビールぐらい飲んでもバチ当たらんわ。初枝、買うて来い」 「おれ、買うて来るわ」と浩之は立ち上がった。父親と二人きりになりたくなかった。 「そうか。買うて来るか。お前もやっぱり飲みたいんやろ。よっしゃ、よっしゃ」  父親は背広の内ポケットから財布を取り出すと、一万円札を浩之に渡した。新札だった。  酒屋で冷えた瓶ビールを六本買ってきて、お釣りを渡そうとすると、「取っとけ、小遣いや」と父親が手を振った。 「おれは働いてるから、いらん」と返そうとすると、「浩之、素直に貰うときなさい。あんたも大人なんやから、お父ちゃんの気持ちも分かってあげな」と母親がたしなめた。  こっちの気持ちを踏みにじったのはこの親父やないかと浩之は怒鳴りたかったが我慢して、金をポケットに突っ込んだ。  その夜、隣の部屋から聞こえてくる睦言に我慢できなくなって、浩之は家を飛び出し、深夜喫茶で一晩過ごした。  父親がいたのは一週間足らずで、またふいといなくなった。  そんなことが何回か続いた後、一方的に離婚届が送られてきて、母親はそれにハンコを押した。これで父親の顔を見なくてすむと、浩之は清々した。    父親は尻をはたきながら立ち上がり、靴を履き直した。 「まあ、おれがええ父親やったとは思えへんけど、実の父親であることは変われへんやろ」  声の調子が低くなった。 「帰れ」  そう怒鳴ると、父親は礼服の内ポケットからのし袋を取り出した。 「これ香典や。初枝の霊前に供えさせてもらおか」 父親がもう一度上がろうとする様子を見せたので、浩之はそれを押しとどめた。 「そんなもん、誰が受け取るか。とっとと帰れ」  その時、開け放たれた玄関から町会長が入ってきた。 「何を揉めてまんねん」 「何も揉めてません。こいつが勝手に上がろうとするから……」 「こいつて、あんたの父親やろ」 「こんなやつ、父親と思てませんから」 「あんたがそう言うのも分からんではないけど、きょうはお母さんのお弔いやろ。縁ある人になるべくぎょうさん集まってもらうほうが、お母さんも喜びはりまっせ」  父親に知らせたのはこいつかと浩之は町会長を睨みつけた。横で父親が頷いている。 「とにかく喪主は私ですから、この人には帰ってもらいます」  町会長が苦笑している。  父親がのし袋を町会長に手渡した。町会長は裏を見ると、「ほう、十万でっか」と声を上げた。「羽振りがよろしいな。さすが一国一城の主」  浩之がぽかんとしていると、「あんたのお父さん、工務店やったはりまんねんで」と町会長が言う。父親がまた頷いた。 「名刺、渡しはれへんかったん?」と町会長が父親に言うと、父親は内ポケットから財布を取り出して一枚抜き、浩之の前に差し出した。浩之はしばらくそれを見詰めてから、受け取った。 「有限会社松田工務店 代表取締役松田昌平」とある。浩之は信じられなかった。飲んだくれでぐうたらな大工が工務店の社長? 「もうこの辺で仲直りしたらどうでっか。お父さんもこうして来てはることやし」  自慢しに来やがったと浩之は奥歯を噛んだ。  町会長が父親を促して二人で上がろうとした。 「帰れ」  浩之は両手で二人の体を押した。二人は浩之の剣幕に驚いた表情をした。 「おれは絶対お前を許せへんぞ。何が仲直りや。お前は」と浩之は町会長を指さしてから、その指を父親に向けた。「こいつがおれとお袋にどんなことをしたかお前は何にも知らんから、そんな能天気なことが言えるんじゃ。お袋が死んだんはこいつのせいや。こいつがお袋を見捨てよったから、お袋は体を壊すまで働かなあかんかったんや。こいつがお袋を殺しよったんや」  声が震えた。浩之は名刺を破ると、父親に投げつけた。父親は一瞬それをよける仕種を見せた。 「出て行け」  それでも二人がじっとしているのを見ると、浩之は柄の付いた靴べらを取って振り回した。町会長が両腕を交差させながら玄関を出、父親も後に続いた。  引き戸を閉めると、浩之はもたれかかって大きく息をついた。「それは私が預かりましょか」と言う町会長の声が聞こえてくる。  あいつが死んだのはあれから三年後のことだったかと浩之は閉じた目の暗闇の中で考える。 「山岸さんのお宅ですか」と聞き慣れない女性の声が受話器から聞こえてくる。 「はい」 「私、坂田総合病院で看護婦長をしております柳瀬という者ですが」 「はあ?」 「実はお父様が大腸癌でこちらに入院されてまして、昨夜から容態が悪くなっております。それで身内の方に……」 「父親なんかおりません」 「え? 松田昌平さんのご子息じゃあ……」 「そうですが、とうの昔に親子の縁を切っておりますから」  相手が黙り込んだ。 「ヒロユキさんですよね?」 「……そうですが」 「お父様がうわごとで、ヒロユキ、ヒロユキとそちらのお名前を呼ばれていますので……」  浩之は思わずかっとなった。 「そいつが野垂れ死にしようが何しようがおれには一切関係がない。もう二度と電話を掛けてくるな」 「とりあえずこちらの住所と電話番号をお知らせしておきます」  女性がそう言い、浩之は病院名と電話番号を聞き流した。ここからそう遠くはないことだけは分かった。  それから三日後、民生委員の岡田という男性から電話があった。父親の遺体を引き取りに来て欲しいと言う。引き取る気はないと答えると、「そうですか」と溜息混じりの声が聞こえてきた。 「民生委員て、父親は生活に困ってたんですか」 「生活保護を受けられてましたよ。知らなかったのですか」 「いつから」 「私が担当したのは一年半前からですか」 「父親は確か結婚してたはずですが」 「何か大分前に離婚したって聞いてますが」 「工務店の方は?」 「コウムテン?」 「いや、何でもないです」  受話器を置いてから、会社を潰しよったかと浩之は呟いた。あるいは元からなくて、葬式に来たのはただの見栄? しかしあいつにニセ名刺を作る知恵なんかあるはずない。  浩之は頭を振り、死んだ人間のことなんか考えても仕方がないと思い、死によった、死によったと呟いた。  浩之はいつの間にか眠ってしまい、頭の中で何か声が響いていると思ったら、急に耳に聞こえてきた。 「シンノスケ、シンノスケ」  男が声を張り上げている。浩之は頭を上げ、居間を見た。暗闇の中に更に黒い影が動いている。  浩之は立っていって、居間の明かりをつけた。男が下腹を押さえながら、「シンノスケ、便所や」と情けない声を出した。 「便所やったら、そこ出たところにある。何回も行ったやろ」  浩之は部屋の外を指差したが、男は「出る、出る」と言うだけで、動こうとはしない。 「情けないなあ。年取ったら、みんなこうかいな」  浩之が男の腕をつかんで連れていこうとした時、ぷんとくさい臭いがした。 「おっさん、屁こいたんか」  しかし臭いはますます強くなる。ふと男の足許を見ると、畳の色よりも濃い黄土色の液体が流れていた。 「わっ」  浩之は思わず飛び退いた。 「おっさん、大便やないか」頭の中が熱くなった。動かしたら汚い、しかし動かさなかったらもっと汚くなる。どうしようと思いながら、浩之は男の腕を再びつかんで、居間から連れ出した。黄土色の筋が畳についている。  最初は便所だと思ったが、もう出しているので無駄だと風呂場に引っ張っていった。マットを足で払い、ドアを開ける。男を洗い場に立たせると、「おっさん、服を脱げ」と怒鳴った。男は「出る、出る」と言いながら尻を押さえている。 「あほ、もう出てるやんか。さっさと服を脱げ」浩之は更に大声を出した。それでも男が脱ぐ様子を見せないので、浩之は手を伸ばしてズボンのベルトを外し、ジッパーを下ろしてやった。  ようやく男がズボンを脱いだ。便の臭いがむっとした。浩之は黄土色の跡を踏まないように急いで外に出ると換気扇をつけた。戻ってくると、男がズホンを持ってこちらに差し出している。 「あほ、そっちに放れ」浩之は洗い場の隅を指差した。男がためらっているので、「早よ、放らんか」と怒鳴った。男が反動をつけてズボンを投げたが、近くに落ちてくたっとなった。あの中に財布があると気がついたが、そんなことはどうでもよくなった。  浩之はガスの火をつけてシャワーを出し、洗い場の便を流した。男はステテコを穿いており、黄土色がべったりと張り付いている。浩之は男の下半身にシャワーを掛けた。男が「う」という声を出した。 「おっさん、全部脱いで裸になれ」  男がステテコとブリーフを一緒に下ろそうとする手許に向かって、浩之はシャワーを掛けた。下着が膨らみ、黄土色の水が流れ出す。肌に張り付くため脱ぎにくいのか男の動作はのろのろとしている。その間もシャワーを掛け続けた。  男が足を使ってステテコとブリーフを脱いだ。肉の落ちた尻に鶏ガラのような脚がつながっていた。水に垂れた陰毛の中に陰茎が隠れている。 「上も脱げ」と浩之は怒鳴った。男は薄手のジャンパーを脱いで浩之に差し出した。浩之は空いている手でそれを受け取ると、鼻を近づけた。しかし便の臭いが籠もっているため、大丈夫かどうか分からない。まあ、汚れたんは下だけやろと浩之はジャンパーを洗濯機の上に放った。  男はジャンパーの下に直にベージュ色の下着を着ていた。脱ぎ着が楽なようにポロシャツみたいなボタンが付いている。しかしその四つのボタンがなかなか外せない。  いらいらしてきて、浩之はシャワーを止めると、ボタンを外してやった。ついでに濡れた下着の裾を持ち上げてやる。男は何度も頷きながら、頭からシャツを脱いだ。あばら骨の浮き出た薄い胸だった。浩之はシャツを受け取ると、今度は臭いも嗅がずにジャンパーの上に放った。  男の頸に紐が掛かっていた。先には透明の定期入れのようなものがぶら下がっている。 「おっさん、それ何や」  男は顎を引いて自分の胸を見ている。 「それ貸してみ」  浩之が取ろうとすると、男は紐を握って「あかん」と体をよじった。 「わかった、わかった。誰も取れへん。見るだけや」  男がじっとしたので、浩之は透明の定期入れを取って、見てみた。一枚の紙がラミネート加工で挟まれていた。 「私は大島徳二です」というワープロの文字が見え、その後に住所と電話番号が記されていた。連絡先の名前が小泉育江となっている。 「トクジいうんか」と声を掛けると、「シンノスケ、寒い」と男が震えた声を出した。  浩之はシャワーを出すと、男の胸に掛けた。 「熱い。熱い」男が体を折り曲げた。浩之は咄嗟にシャワーの方向を変えた。 「すまん、すまん」  点けてすぐは溜まっていた熱い湯が出てくるのだ。  その時、「出る、出る」と男が尻を突き出した。 「まだ、出るんか」  男の尻の間から水様便が飛び出し、太腿を伝って流れ落ちた。 「ええ加減にせえよう」と怒鳴りながら、浩之は男の体と洗い場にシャワーを浴びせかけた。 「すまんのう」男が合掌しながら呟いた。「シンノスケ、すまんのう。シンノスケ、すまんのう」 「今さら言うても遅いわ」  こんなボケおやじ、さっさと追い出せばよかったと歯ぎしりする思いで男の体にシャワーを掛け続けていると、不意に涙が溢れてきた。自分でも訳が分からなかった。片手で目を拭って止めようとしたが、涙は次から次へと湧いてきた。 「すまんのう、すまんのう」男は体を震わせながら呟いた。  涙の発作が治まると、浩之は男に「もう出えへんか」と何度も念を押してから、後始末に取り掛かった。 ゴミ袋を取ってきて、男に黄色く染まったブリーフとステテコの固まりを入れさせ、ズボンも財布を抜いて放り込んだ。その口を縛ってさらにもう一枚のゴミ袋に入れて、玄関の外に出した。そして、昼間足を拭いた雑巾にボディソープを付けて男に自分の体を洗わせ、脚の下の方は浩之が洗ってやった。  男が風呂場まで来る時に付けた黄土色の跡を、トイレットペーパーを山ほど引き出して拭ったが、居間の畳の跡は染み込んでいるので簡単には取れない。仕方なく軽く絞った雑巾で叩いてから、トイレットペーパーを重ねて踏んだ。  男の体を古いバスタオルで拭き、シャツとジャンパーを着せ、下には自分のトランクスを穿かせた。  男を居間に連れ戻して毛布を掛けた時には、本当にほっとして、大きな溜息が出た。  そのまま寝てしまおうと浩之は思ったが、シャツに臭いが染み込んでいるような気がして、風呂場に戻った。  風呂場にはまだ臭いが籠もっており、シャワーを出して、タイルの洗い場を隅から隅まで洗い流し、排水口にも湯を注ぎ込んだ。それから体を洗い、新しいシャツとトランクスに着替えて、万年床に戻った。  居間の明かりを消そうとした時、「シンノスケ、迷惑を掛けたのう」という声がした。男が顔を捻ってこちらを見ている。 「無理矢理焼肉を食わせたこっちが悪いんや。気にせんでええ」 「すまんかったのう」そう言うと男は向こうを向いた。浩之は押入から綿の出た座布団を出してくると、それを二つに折って男の頭の下に入れた。「おおきに、おおきに」と男が首を動かした。  万年床に横になりながら、浩之は、なぜさっき泣いてしまったのかと考えていた。しかし答えはすぐに浮かんでくる。おっさんの姿に父親を見たから……。浩之は直ちにその考えを否定し、下らないことを考えずに眠ってしまおうと目を閉じた。その時意識の底からゆっくりとひとつの思いが浮かび上がってきた。父親は葬式の時、ひょっとしたら謝りに来たのではないか。十万という香典も必死で貯めた金ではなかったのか。でなければわざわざ別れた元妻の葬式に来るはずがないのではないか。浩之は葬式の時の父親の様子を思い浮かべ、どこかにそういうことを思わせる言葉などがなかったかと考えてみたが、そんな記憶はどこにもなかった。今更どうしようもない、浩之はそう呟いて眠ろうとしたが、なかなか寝付くことが出来なかった。  翌朝、浩之は箪笥の奥から穿かなくなったズボンを取り出して、男に穿かせた。胴回りがぶかぶかだったので、新聞紙を束ねる紐を通して縛った。ポケットにはまだ湿っている財布を突っ込んだ。  朝食は食パンと牛乳だったが、味噌汁が飲みたいと男が言うので、浩之はインスタントのものを作ってやった。そこに男は食パンを浸して食べる。冷蔵庫に残っていたトマトを切ってやると、ソースがほしいと言うので、賞味期限の切れたウスターソースを渡した。男はそれをたっぷりと掛け、うまそうに食べた。 「お父ちゃん、うまいか」と訊くと、男は口をもぐもぐさせながら、大きく頷いた。  九時過ぎになって、男の頸に掛かっている札から電話番号をメモし、電話をした。女の声が「小泉ですが」と言った。 「実は大島徳二いう人を預かってんねんけど」 「あ、それは私の父親です。昨夜から探してたんですが、無事でしょうか」 「ああ元気やで。きのうおれの家を自分の家と間違うて、どうしても帰ってくれへんから泊めたんや」 「どうもすみません。惚け症状がありまして、ときどき徘徊してしまうものですから。それでご迷惑をお掛けしませんでしたでしょうか」 「まあ大して迷惑は掛かってないけど」  それから彼女は浩之の住所と電話番号、それに道順を聞いてから「すぐに迎えに参ります」と言って電話を切った。  四十分ほど経って、ブザーが鳴った。出てみると、黒い帽子に薄い色のサングラス、スラックス姿の女が立っていた。自分と同年配に見えた。 「この度は父が大変ご迷惑をお掛け致しまして、申し訳ございません」  女が深々と頭を下げ「これはほんのお礼の印ですが」と手に持った紙袋を差し出した。浩之はそれを受け取った。 「それで父は?」 「中でテレビ見てはりまっせ」  女は玄関に入ると鼻をひくひくさせた。 「臭いますか」 「いいえ、いいえ」  女はあわててかぶりを振った。浩之は三和土から上がると、「どうぞ」と女に言った。 「あ、はい。失礼いたします」  女は後ろ向きになってぺたんこの靴を脱いだ。  居間では、男が卓袱台の下に脚を伸ばして、ニュース番組を見ていた。 「お父さん!」  男はゆっくりと顔を動かしてこちらを見た。 「ああ、育江か」 「育江か、じゃないでしょう。昨夜からみんなで探し回ってたのに」  女は踏み締められたトイレットペーパーをよけるようにして男に近づくと、その腕を取った。 「さあ、帰りましょう。みんな心配してるのよ」  男は女に引っ張られるまま素直に立ち上がった。女が男のズボンを見、太腿の辺りをつまんだ。 「あ、それはおれのズボン。昨夜あんたのお父さんが大を漏らしたから替えたんや」 「父が粗相をしたんですか」 「腹をこわしたみたいやな。そこが」と浩之は畳のトイレットペーパーを指差した。「その跡や。染み込んでしもうてなかなか取れへん」  女の顔が急に曇った。 「本当に申し訳ございません。何とお詫びしたらいいのか……。以前はこんな父ではなかったのですが、今では人様に迷惑ばかりかけて……」  女は深々とお辞儀をすると、男に向かって「お父さん、人の家に泊めてもらった上粗相までして恥ずかしくないの」と詰り始めた。男の顔が戸惑ったような悲しいような表情になった。 「まあまあ、おれは気にしてへんから、あんまり責めんとったって」  女はまだ何か言いたそうだったが、くるっと背を向けると肩に提げていたポシェットをごそごそやった。そして向き直ると、「今これだけしか持ち合わせておりませんので」と手に持った札を差し出した。「これで畳を替えることが出来るかどうか分かりませんが」 「いやあ、そんなんええて」  浩之は手を振ったが、女がどうしてもと言うので受け取った。二万円だった。 「お借りした服は洗濯をして後日持って参りますので」と女が言ったが、捨てようと思っていた服なのでその必要はないと断った。  玄関を出たところで、「お父さんの汚れた服はあの袋の中にあんねんけど」とゴミ袋を指差すと、女は「そちらで処分していただければ」と答えた。 「本当にありがとうございました。お陰で無事に父を連れ帰ることが出来ます」  女が礼を言い、男の肩に手を回した。 「あの……」と浩之は声を掛けた。男の財布の金が減っている理由を説明しておこうと思ったのだ。しかし女がこちらを向くと、もういいかという気になった。 「……お父さん、おれのことシンノスケ、シンノスケって言うんやけど、シンノスケって息子さん?」  とっさにそう尋ねた。 「そうです。私の兄です」 「どこに住んでんの」 「兄は三年前に亡くなりました」 「何や。そうなの。その人おれに似てたの?」 「いえ、兄はがっしりとしたタイプでしたから」 「ミサコいう人は?」 「兄嫁です」 「ああ、やっぱり」  女が男の背中を押して行きかけると、男が首だけ捻ってこちらを見た。 「シンノスケ、すまんかったのう」 「お父さん、この人はお兄さんと違うのよ。シンノスケ兄さんはずっと前に死んだんよ。分かる?」 「ああ、そうかあ」  二人は狭い道をゆっくりと歩いていき、国道に出る角のところで男が再び振り返った。 「もう来たらあかんぞお」  浩之は片手を口に添えて大声を出した。  女がこちらを見て頭を下げた。