息子              津木林洋  大山武子はいつものように三十分前に会社に着いた。もう正社員ではないのだから、他のパートたちと同じように定刻ぎりぎりに来たらいいのだが、十数年来の習慣はそう簡単に変えられるものではなかった。  一週間前、社長に呼ばれて定年を通告された。ただし一旦退職した形にするが、仕事は今まで通り続けてもらいたいと社長は言った。武子はこの会社に定年があったことを初めて知った。社長は常々武子に、体の続く限りここで働いてくれよと言っていたので、定年などないと思っていたのだ。それがいきなり定年と言われて驚いたが、仕事は今まで通りということなので社長は別に嘘を言っていたわけではない。  武子が訳を尋ねると、社長は会社の現状から説明し始めた。 「大山さんも知っての通り、去年のO157騒動でやな、うちの主力商品である卵豆腐が七月から壊滅的な打撃を受けて、下半期は一千万からの赤字を出したんや。そこで何とか経費を削減せなあかんと頭を絞って……」  考え出したのが、高齢者雇用促進制度の利用だった。六十歳を越える人間を雇用する場合、給料の半額を補助しようという制度だった。そのためいきなり定年が持ち出されたのだった。六十歳の誕生日はとうに過ぎているのにと武子は定年と言われたとき不思議に思ったのだが、それで謎が解けた。 「大山さんは今まで通りの給料がもらえて、会社は半分助かるんやから、こんなうまい話ないやろ」  確かにウマイ話のように思えたが、どこか腑に落ちないところがある。 「何もかも今まで通りということですやろか」  社長はちょっと考える仕草をする。 「しかし、まあ、何と言うてもやな、大山さんはもう定年やからな、何もかも一緒というわけにはいかんわな」  武子は嫌な予感がしたが、ここで何か言うとそれが決定的になりそうだったので、黙って社長の次の言葉を待った。社長も武子の言葉を待っている。お互いが相手の言葉を待って、黙りこくる。  しびれを切らしたのは、社長の方だった。 「はっきり言うて、六十歳までは正社員、それを越えたら正社員でなくなるということや」 「と言いますと……」 「わからんのかいな、つまりパートになってもらうということや」 「今まで通りの給料と違いますのん」 「そりゃ大山さんが一日も休まず仕事をしてくれたら、同じだけの給料を出すがな」  そこでやっと社長は詳しいことを話し始めた。今までのように日給月給ではなく時間給になり、健康保険、厚生年金、雇用保険のそれぞれの掛け金は負担しない、有給休暇はなし。  武子は社長に気づかれないようにゆっくりと溜息をついた。何もかも痛かったが、特に会社の健康保険から外れることが武子をがっかりさせた。近頃医者に掛かることが多くて出費がかさんでいるのに、国民健康保険に移ったら、更に金が掛かることになる。 「年金はどうなりますのやろ」  一番気がかりなことを訊ねた。 「六十過ぎてるから、もらおうと思うたらもらえんのんちゃうか。それとも六十五まで待って、ぎょうさんもらうほうにするか。詳しいことはわしには分からんから、山口に訊いたらええ」  山口というのは経理を担当しているおばさんである。 「掛け金の方はもう払わんでもええんでしょうか」 「自分で払う方法もあるようやけど、詳しいことは山口に訊いてくれ。たださっきも言うたように会社が半額負担するのは、もう終わりということや」  聞けば聞くほど、今まで通りとは大違いであることが分かってくるが、かと言って社長の提案を拒否することができない。パートになるのはいやだと言っても、じゃあ定年ですからお辞め下さいと言われれば、困るのは武子なのだ。六十歳を過ぎて別の仕事を探すにしても、できる仕事は限られてくる。掃除のおばさんか賄いぐらいしかないのだ。新聞の求人欄でも年齢制限に引っかからない職種を探す方が難しい。武子の近所の知り合いも、六十過ぎてから社員食堂の賄いになったが、腰が痛いの脚が疲れるのと会えば必ず愚痴をこぼすのだ。  武子はしぶしぶ社長の提案を飲んだ。  家に帰って夫の鐘一に話すと、「退職金はどうなってるんや」と言ってきた。退職金のことなどこれっぽっちも考えたことがなかったので、武子は口ごもるしかなかった。  翌日、事務所に出向き、恐る恐る退職金のことを持ち出すと、社長は何だそんなことかという顔をした。 「大山さんはまだここでずっと働くんやろ。退職金は本当にここを辞めるときに渡すがな。心配しなさんな」 「でも家の人が、たとえ形だけというても退職したことには変わりがないんやから、退職金が出るんちゃうか、言いましてん」 「昨日も言うたように、今まで通りは今まで通りやねんから、退職金を出す言うのはおかしいやろ」  武子は曖昧に頷くしかなかった。  鐘一に社長の言ったことをそのまま伝えると、「お前、騙されてんのんとちゃうか」と言った。 「そんなこと言うんやったら、お父ちゃんが会社に行って社長と交渉してえな」  鐘一は言葉に詰まった。 「……まあ、社長が、辞めるときには退職金出す言うてんねんから、信用しょうか」 「何や、それやったら私と一緒やんか」  結局退職金のことはうやむやになってしまった。武子の中に割り切れない気持ちが残ったが、ただ六十歳を過ぎても働く場所があるということに、それも馴れた仕事があることに感謝した。  武子は紙に書かれた段取りに従って、まずカボチャから切ることにした。八百屋が降ろしていった野菜の中から、カボチャ六個入りの段ボール箱を二箱下げて調理場に運ぶ。無理をしたら腰を痛めることは分かっていても、つい無理をしてしまうのだ。若い頃から力仕事をしていて、腕力だけなら男に負けない自信はあった。他のパート達も武子の力に頼るところがあって、重い物を持つときは武子の出番と決まっていた。工場長も他の男達の手が塞がっているときなど、二人一組で四十キロもある煮豆の缶を運ぶ相手に指名した。  段ボール箱を調理台に乗せ、武子は自分専用の包丁を包丁立てから取り出した。会社は各種和洋惣菜を作っているから、包丁はいくつも揃っていたが、切れる包丁、自分にあった包丁はほとんどなかった。だからパートたちは自分専用の包丁を買ってきて、置いているのである。武子が初めてこの会社に出勤してきて、包丁立ての包丁を使おうとしたとき、「それ、私の包丁やで。使わんといて」と先輩のパートに怒られたのだ。武子はびっくりした。仕事で使う道具は当然会社が用意していると思っていたから。武子はすぐに自分専用の包丁を買い、今使っているのは三代目に当たる。  定刻近くになって、次々と他のパートたちがやってきた。分葱、牛蒡と手分けして切っていく。 「大山さん、なんかええことあったん。鼻歌が出てたよ」  武子より十歳以上も若い長田恵子が包丁の手を休めて、武子に声を掛けた。自分では気がつかなかったので、武子は、えへへへと照れた。 「今晩、息子がやって来るねん。彼女連れて」 「へえ、息子さんいくつやった」 「二十二」 「そうしたら結婚相手?」 「はっきり言えへんかったけど、そうみたい」 「よかったやないの。息子さんも仕事続いてるんでしょ」 「ええ、まあ」  長田はここに十年いるから、武子の息子、誠治のこともよく知っている。  誠治は中学校の時はほとんど毎日のように会社に顔を出して、武子から小遣いをせびっていった。五百円、ときには千円とせびり、武子が出さないと、いつまでも会社の前をうろちょろした。そうすると母親が困ることをよく知っているのだった。どうしても千円がいるんやと誠治が言い張って、手許に金がなかったとき、武子は恥を忍んで工場長に借りたこともあった。 「大山さん、子供にそんな甘い顔ばっかりしてたら、ろくなことないで」と言いながら、工場長は千円札を武子に渡した。 「うちの子が悪いんやないんですわ。付き合ってる友達が悪いから、それに引きずられて」 「まあな、顔見たら気の弱そうな子やから、そうかもしれんけど、それやったら親がもっとしっかりして、そんな友達と切れるようにもっていかな」  親失格と言われているようで、武子は身を縮めた。もちろん武子も息子に対して黙っていたわけではなかった。一度、友達を選んだらどうやと説教じみたことをしたことがあった。 「俺が誰と付き合おうと俺の勝手や。お前なんかの指図は受けへんわ」  そう言うなり、誠治はアパートを飛び出していった。夜になっても帰ってこず、帰宅した鐘一に事情を話したが、「そのうち帰ってくるやろ」と暢気に構えるだけだった。「帰ってきたら説教してえな」と頼んでも、「あの年頃は悪いやつと付き合う方がおもろいんや。俺にも覚えがあるけど、真面目なやつとなんかおもろないもんや。大きなったら、自然と収まるからほっとけ、ほっとけ」  誠治は鐘一が四十過ぎてから初めて出来た子供で、しかも一人っ子だったから、甘い顔は見せても、親の厳しい顔は全く出さなかった。というより、出せなかったと言った方がよかった。  中学を卒業すると、誠治は誰でも入れると噂された私立の高校に進学した。誠治自身は働きたいと言っていたのを、鐘一が高校進学に拘った。「今時、高校ぐらいは出とかな世の中に出てから肩身の狭い思いをするぞ」と鐘一は言った。鐘一は中学校しか出ていなかった。  しかし誠治が高校に通ったのは一学期間だけだった。夏休みが過ぎて二週間ほど経った頃、高校から誠治が無断欠席を続けている旨の手紙が届いて、初めて誠治が高校に行っていないことが分かった。電話があれば、もっと早く連絡したんですが、と担任の先生は言った。  さすがの鐘一もこのときばかりは誠治を問い詰めた。 「お前、毎日学校へ行く振りをして、一体どこへ行ってたんや」 「別に。あっちこっちぶらぶらしてただけや」 「何で学校に行けへんのや」 「勉強分からん」 「分からんかったら、先生に聞いたらええやないか」 「どこを聞いてええか分からん」  鐘一はコンクリートを流し込む型枠を作る仕事をしていたが、現場監督に頼んで休みをもらい、誠治と一緒に高校に通った。誠治が嫌がるので学校の中までは入らなかったが、パチンコや喫茶店で時間をつぶして、夕方誠治と一緒に帰宅した。  十日目になって、誠治が「一人で行くから、もう来んといてくれ」と音を上げた。 「学校、無断で休めへんな」 「うん」  しかし一週間もしないうちに、一階の焼肉店に高校から呼び出し電話が掛かってきた。この前のことがあって、緊急用に焼肉店の電話番号を教えておいたのだ。  誠治が無断で学校を休んでいるという電話だった。鐘一は飯も食わずに誠治の帰りを待ったが、誠治は帰ってこなかった。鐘一は焼肉屋で、武子の止めるのも聞かずビールを十数本飲んで酔っぱらった。 「お前が甘やかすから、あんな人間になってしもたんや」と鐘一は今まで何回言ったかしれない言葉を口にした。 「あほらしい。甘やかしてんのはあんたやないの。誠治を怒ったことなんか一度もないくせに」  鐘一は言葉に詰まり、ビールを一口飲んだ。 「入学金の五十万がぱあや。こんなことなら、全部酒につぎ込んだ方がましやった」 「あんた、五十万が惜しいから誠治に高校に行かせたいんか」 「あほぬかせ。俺はなあ、現場監督にもなれんような人間になってもらいたないだけや。それがわからんのか、このどあほ……」  そう言いながら、鐘一はテーブルに突っ伏した。こぼれたビールの中で、鐘一は鼾をかいた。  結局誠治は高校を中退し酒屋の店員になったが、三ヶ月でそこを辞めると、次々と仕事を変わった。どれも一ヶ月と持たなかった。武子の会社にも来たことがある。武子が社長に頼み込んで、とりあえずアルバイトからということで誠治を雇ってもらったのだ。しかし一日目の午前中働いただけで、昼からはもう来なかった。冷蔵庫からバットに入った卵豆腐を出すとき、重ねたバットの一枚が滑って地面にばらまいてしまったのだ。 「気にすんな。初めての時は誰だってよくやるんや」と工場長はやさしく言ったが、武子がガミガミと説教じみたことを言った。それで来なくなった。会社始まって以来の最短記録やと社長に笑いながら言われたときは、武子の顔から火が出た。  誠治は定職に就かず、小遣いがなくなるとアルバイトをし、それも嫌なときは武子にせびった。中学の時と同じように会社の前をうろちょろすることもあった。しかしそのときと同じように五百円で済むということはなかった。最低でも千円、ひどいときには一万円寄越せと手を出した。さすがに武子はそこまで甘い顔はできなかった。そんなことをしたら、自分と鐘一の生活まで危うくなってくる。他のパートたちが様子を窺っているのを背中で感じながらも、武子は大きな声で誠治とやり合った。  時には誠治が仲間を連れてくることもあった。 「おばさん、俺、誠治にお金貸してますねん」とこめかみに剃り込みを入れた一人が猫撫で声を出した。猿芝居と分かっていても武子は追い返すことができない。 「なんぼ借りてんの」と誠治に訊いた。誠治はにやにやしながら仲間の顔をちらっと見て、両手の指を広げる。 「十万!?」  武子は無視して会社の中に戻ろうとしたが、誠治が腕をつかんだ。 「全部払うてくれとは言うてへん。一万でええんや、たった一万で」  誠治は両手を合わせた。上目遣いで武子を見る。 「せやないと、あいつらにひどい目に遭わされるんや」 「一万円なんてお金持ってへん」 「それならあるだけでええわ」  武子は更衣室に行き、ロッカーの中の財布から六千円を抜き出して、誠治に与えた。 「サンキュー」と言って誠治は仲間と行こうとするので、武子は誠治の腕を取った。 「お母ちゃんの目の前で、この人らに六千円返し」 「分かったわ。返すがな」  誠治はポケットに突っ込んだ紙幣を剃り込みの男に差し出した。剃り込みの男は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに「毎度あり」と言って、それを受け取った。  誠治は武子の手から腕を抜いて仲間と一緒に行こうとしたが、武子は腕を離さなかった。 「あんたらな、もうこの子に構わんといて。お金さえ取ったら、もう充分やろ」  仲間たちはにやにや笑いながら、遠ざかっていく。 「誠治、お母ちゃんの乳、充分吸うとけよ」と剃り込みの男が呼び掛けた。仲間たちがどっと笑う。 「もうええから、離せよ」  誠治は強引に腕を抜くと、仲間の方へ走っていった。 「あんたらの芝居、お母ちゃん、とうに分かってたんやで」大声を出しながら、涙が出てきた。武子は会社に戻るなり、便所に駆け込んで顔を洗った。  誠治が万引きで警察に捕まったのは、それから一週間ほど経った頃だった。必ず両親揃って来るようにと言われたので、鐘一が帰って来るのを待って警察に引き取りに行った。鐘一は「何で俺も一緒に行かなあかんのや」とぶつくさ言ったが、「誠治が一晩留置場に入れられてもええのん」と武子が脅かすと、渋々ついてきた。  誠治は警察の取調室にいた。椅子に坐って、小さくなっている。武子と鐘一が警官に連れられて中に入っても、誠治は顔を上げなかった。 「ご両親が来てくれはったぞ」と警官が言うと、誠治はちらっと横目で武子たちの方を見たが、すぐにまた俯いてしまう。 「お前、何取ったんや」鐘一が大声を出した。誠治は答えない。 「靴ですよ、靴」警官がとりなすように言った。 「お前は一体何を考えとんじゃ」鐘一は誠治の頭をつかんで揺すった。「誰がよそ様の物をとってもええと教えた、誰が教えた、そんなこと」  誠治はされるがままになっている。 「ええ、言うてみ。言えんのか」鐘一は苛立って、誠治の頭を突き飛ばした。誠治は椅子から転げ落ちて床に倒れたが、落ちたときの姿勢のまま動かなかった。 「お父さん、暴力はあかん。警察の中で暴力はあかん」  警官がのんびりした口調で止めに入った。  武子と鐘一はひたすら頭を下げて、誠治を引き取った。誠治はほとんど口を利かなかった。しかし警察の建物を出た途端、「長かったなあ」と誠治は大きく伸びをした。そして階段を駆け下りると、「さっきの借りはいつか返したるわ」と鐘一に向かって言い、黄色の信号の道を走って渡った。アパートとは反対の方角だった。 「どこへ行くんや」と鐘一が怒鳴っても、誠治は振り返りもしなかった。  その晩誠治は帰ってこなかった。無断で外泊することは日常茶飯事だったので、二人とも気にしていなかったが、それが五日、六日と続くとさすがに心配になってきた。しかし捜す当てがなかった。誠治の付き合っている人間の名前も連絡先も全く知らなかった。  警察に失踪届を出そうかと迷っているうちに一ヶ月が過ぎ、ある日武子の会社に警察から電話が掛かってきた。地元の警察ではなくて、遠いところの警察だった。ひったくりの現行犯で、誠治を捕まえているというのだった。万引きの時とは違って、警官の口調の厳しさに武子は心臓を素手で掴まれたような震えを感じた。すぐに参りますと言って電話を切り、工場長に早退を申し出た。警察から電話があったことはすでに知れていて、「どうした、何かあったんか」と工場長は言った。 「ええ、ちょっと誠治が……」 「交通事故か」 「ええ、まあ」  アパートに帰る途中で、公衆電話から鐘一の会社に電話をした。しかし鐘一は現場に出ていて連絡が付かないと言う。伝言を頼むわけにもいかず、武子はなるべく早く帰るように伝えてもらい電話を切った。  着替えて警察に向かう途中、いろいろな考えが武子の頭をよぎった。警察がこの前のように両親揃って来るようにと言えへんかったのは何でやろと思い、すぐにきょう誠治を引き渡す気がないんやと気づいた。そうすると、誠治は刑務所に送られるのやろか。鐘一に拝み倒されて、産みたくもない子を産んだのが間違いの元やったと武子は後悔した。私にはあの子一人で充分やったんやと、武子は離婚で手放したもう一人の息子のことを思いやった。  武子は二十五歳の時、見合い結婚で岡山から京都に嫁いだが、結婚生活は四年と持たなかった。味噌造りの商家で、姑に使用人同様にこき使われ、子供が産まれても嫁の立場が上がることはなかった。万事飲み込みの遅い武子は「牛みたいな人や」と小姑にも馬鹿にされ、いたたまれなくなって出奔した。実家の姉は、「どうして公彦も一緒に連れて出なかったんや」と何度も武子を責めたが、その当時乳飲み子を抱えて生活していく自信などまるっきり無かったのだ。仲人の顔を潰したという思いから岡山へ帰る気はなく、武子は大阪で職を探した。うどん屋の店員、美容院の見習い、病院の付添婦など様々な仕事を転々とし、飯場の賄いに入っていたときに鐘一と知り合ったのだ。  公彦の噂は姉を通じて時々入ってきたが、武子は自分に関係のないこととして耳に栓をした。自分には母親の資格がないと決めつけていた。公彦に新しい母親が出来たと聞かされたときも、武子は平静だった。  鐘一と結婚しても、武子は子供を作ることを頑なに拒否した。しかし鐘一が四十歳を過ぎ、自分も四十歳に近づいてくると、産むとしたらこの時しかないと思うようになった。自分には公彦という息子がいるが、鐘一には誰もいないと思うと、何だか可哀想になり、武子は鐘一の懇願に折れて誠治を産んだ。  鐘一は武子に公彦という息子がいることを知らない。もし知っていたら、畳に頭をつけて「頼むから産んでくれ」などとは決して言わなかっただろう。「前の時は産んで、何で俺の時は産めへんのや」と怒鳴り散らしたかも知れない。  警察に着いて受付で名前を言うと、すぐに刑事が現れた。 「ご主人は一緒じゃないの?」 「連絡が取れなかったものですから」 「まあ、いいわ。お母さんにね、息子さんを説得してもらいたいんですわ」 「説得?」 「お宅の息子さん、仲間の名前を言わんのですわ。私らの手間を省くためにお母さんから白状するように言ってもらえませんか」  刑事は武子を取調室に連れていった。途中部屋の中の全員が自分を見ているようで、武子は顔を上げることができなかった。  久しぶりに見る誠治は痩せていて、そのせいか眼が異様に大きく見えた。子供から一足飛びに大人になったような感じだった。 「何しに来たんや」誠治がぼそっと言った。 「何しに言うて、そりゃあんたが心配やから……」 「帰れ、帰れ言うとんじゃ」と誠治は怒鳴り、椅子に腰を下ろしたまま足で武子を蹴ろうとした。 「何じゃ、その態度は」刑事が誠治に負けないくらいの大声を出した。  一緒に死のう、不意にそんな考えが頭に浮かんだ。  武子は誠治に近づき、首に軽く両手を回した。 「白状せえ。刑事さんに迷惑かけんと」 「何すんねん」誠治が武子の手首をつかんだ。その途端武子は両手に思い切り力を加えた。  誠治は口を歪め、足をばたつかせた。そのまま横向きに、武子と一緒に倒れ込んだ。それでも武子は手を離さない。  二人の刑事が飛んできた。 「お母はん、手を離さんか」怒鳴りながら武子の手首をつかみ、手と首の間に指先を差し入れる。誠治の顔は真っ赤で白眼を剥いている。  二人がかりで武子の指先を引き剥がした。誠治の首から手が離れると、武子は荒い息をしながら床にへたり込んだ。  二人の刑事は誠治の頬を叩いている。 「完全に落ちとるわ」 「活を入れるか」  そう言っているうちに目を覚ましたらしく、「よかった、よかった」と一人の刑事が言った。 「署内で母親が息子を絞め殺したとなったら、笑い事ではすまんからな」 「それにしてもこのお母はん、馬鹿力やな」  武子は刑事に両脇から抱えられて、立ち上がった。もう一人がズボンのポケットからハンカチを出して、武子の右頬を拭いてくれた。 「ほっぺた、切れてるで」  ハンカチを見ると、血が付いていた。  誠治は二人の刑事に引っ張られて立ち上がると、再び椅子に坐らされた。そして武子の方を見ないで、机に突っ伏した。  武子は別の部屋で刑事から色々なことを聞かれた。鐘一の職業から始まって、生活環境、誠治の生い立ち、性格、交友関係など。武子は正直に自分の離婚のことから、誠治を産むに至った動機まで刑事に話した。  刑事の説明によると、余罪追及のために何日間か勾留して、家庭裁判所の審判によって、保護処分か刑事処分かが決定されるということだった。保護処分でも最悪の場合、少年院送りになると刑事が言った。  武子は刑事に何度も頭を下げて、軽い処分にしてくれるように頼んだ。刑事は苦笑いをした。  ぐったりと疲れてアパートに帰ると、鐘一の靴はあったが姿が見えなかった。もしやと思って一階の焼き肉屋を覗くと、鐘一がビール瓶に囲まれて焼き肉をつついていた。 「はよ帰ってこい、言うから帰ってきたのに、飯の用意も出来てへんやないか。おまけにもぬけの殻やし」  武子は鐘一を表に連れ出して、誠治のことを伝えた。 「そうか、わかった。俺に任せとけ」  武子は鐘一が心配する様子も見せないことにびっくりした。酔うてんのかいなと思った。  鐘一は店の中に戻ると電話を借りた。しかし受話器を取り上げたまま、ダイヤルを回そうとはしない。 「所長に掛けるのはまずいな」と独り言を言ってから、武子に「おい、上着のポケットから俺の手帳もってこい」と怒鳴った。  武子が二階に上がって手帳を持ってくると、鐘一は、「確か書いてたはずや」とそれをめくり、「あった、あった」と一つのページを指で押さえた。再び受話器を取り上げて、ダイヤルを回す。 「ああ、先生でっか。私、大山ですけど、篠山土木の。こんな遅うまで仕事でっか。ご苦労さんですなあ。実は息子がちょっと問題を起こしまして……」  武子につつかれて鐘一は声を小さくした。店内にまる聞こえなのだ。  事務所で会う約束を取り付けて、鐘一は電話を切った。 「うちの会社の顧問弁護士の先生や」と鐘一は胸を張った。「労災なんかで裁判沙汰になったとき、お願いするんや」  武子は、弁護士を知っているというそれだけのことで、すっかり鐘一を見直した。 「それはそうと、お前ほっぺたの傷どないしたんや」  武子は思わず頬に手を当てた。 「ちょっと会社で転んで……」 「そうか。気いつけなあかんで」と鐘一は言い、「先生に頼んだからもう安心や。さあ、飲み直し、飲み直し」とテーブルに戻った。だが武子は鐘一の言葉に逆に不安になった。  顧問弁護士は少年事犯には詳しくないということで、別の弁護士を紹介してくれた。しかしその弁護士は風采の上がらない年寄りで、武子の不安はいやが上にも高まった。  誠治は少年鑑別所に入れられて家庭裁判所の審判の日程もなかなか決まらなかった。そんなとき武子は岡山の姉から公彦が結婚するという話を聞いた。もうそんな年齢になったんかと武子は軽いショックを受けた。赤ん坊の時に別れたきりなので、公彦がどういう男に育っているのか皆目分からなかった。容貌も想像がつかない。しかし公彦は母親似だといつも言われていたし、周りから言われてそんな気がしていたことを武子は覚えていた。もちろん赤ん坊の時の顔など当てにならないことは百も承知だった。どういう顔になってるんやろ、武子は二十数年前に別れて以来、初めてそんなことを考えた。考えているうちに、結婚祝いに何か贈りたいという気持ちがもたげてきた。京都の家に送っても差出人の名前を見ただけで廃棄されるのは目に見えていた。とすると、手渡ししかない。そこまで考えて、武子はようやく自分が公彦に会いたがっていることに気づいた。誠治のせいで自分が気弱になっているのを認めないわけにはいかなかった。  武子は一週間思い悩んだあげく、取りあえず贈り物を何にするか決めることにした。もし適当な品物がなければ、きっぱりと諦めることにした。  日曜日、武子は百貨店に出向き、色々な売場を見て回ったが、これと思うような品物が見当たらなかった。どれを見ても誰かがすでに贈っているように思えるのだった。諦めて帰ろうとしたとき、実演販売の声が聞こえてきた。武子はふらふらとその声の方向に歩いていった。  人だかりがしていて、人の間から覗くと、スライサーを売っているのだった。キャベツの千切りから大根の桂剥き、牛蒡のささがきと刃を取り替えるだけで様々な切り方が出来るのだ。しかもネジを調節して自由に厚さを変えられる。それに下ろし金と手回しみじん切り器をセットにして売っていた。武子はこれだと思った。これなら誰も贈ろうとは思わないし、しかも新婚家庭にはこの上なく便利に違いないと思った。  武子は一セット買い求め、持って帰って鐘一に見つからないように押入の奥に隠した。  次の日鐘一が現場に出かけてしまうと、武子は会社に電話をして休みをもらい、京都まで出かけた。  二十数年ぶりに見る街はすっかり変わっていた。にぎやかだった商店街がさびれて、しもた屋が目についた。元の婚家は昔ながらの構えだったが、全体に埃をかぶっているような感じだった。武子は風呂敷包みを抱えながら店先を通って、横目で中を覗いた。奥に人影が見えたが、男だと分かるだけで誰だか分からない。ひょっとしたら元亭主かも知れない、そう思うと武子は急にどきどきしてきた。  店の斜め向かいに昔はなかった喫茶店があり、そこに武子は入った。窓際の席に腰を下ろし、店先を窺った。公彦が店の手伝いをしているのなら、得意先への配達などで必ず外に出てくると武子は考えたのだが、二時間待ってもそれらしい姿は見えなかった。公彦がどういう仕事をしているか武子は今まで聞いたことがなかった。というより店の跡を継ぐはずだから店の手伝いをしていると思いこんでいたのだ。  武子は喫茶店の電話を借りて岡山の姉に掛け、公彦の仕事を尋ねた。 「確か公務員じゃったはず。それがどうかしたん」  相手をしていると長くなりそうだったので、早々に電話を切った。  公務員なら今頃家にいるはずがない。夕方帰ってくるときに手渡すしかなかった。一旦大阪に帰ってまた出直すという気にもなれず、武子は駅前のパチンコ店で時間を潰すことにした。  五時近くになってようやく玉が出だしたのを打ち切って、武子は商店街に急いだ。しかしにぎやかなところなら人待ち顔でじっとしていてもおかしくはなかったが、さびれたところでは人目につきそうで落ち着かなかった。ウインドウショッピングを装うにしても、見るべきウインドウがなかった。武子は届け物をする家を探している風を装って商店街をゆっくりと歩いた。公彦はあっちからやって来るのかこっちからやって来るのかと考えていたとき、武子は不意に肝腎なことに気がついた。公彦が現れたとき、果たしてその男が公彦だと分かるのかということだった。高ぶっていた気持ちが急に萎えた。ここに来たら簡単に会えると思っていた自分を笑いたくなった。二十数年という歳月がいかに長いかを思い知らされた気持ちだった。  武子は諦めて帰りかけた。その時向こうから紺の背広を着た男がやって来るのが目に入った。背が高くて眼鏡を掛けている。武子はどきりとした。近づくにつれ年恰好は公彦に近いと分かる。この男かも知れない。武子は男に怪しまれないように容貌を盗み見ながら、男の後ろ姿を目で追った。しかし男は味噌屋の前を素通りしてしまった。  武子は帰ることにして駅に向かった。そして商店街の終わる四つ辻を右に曲がったとき、早足でやってきた男とぶつかりそうになった。武子は手に持った包みを落としそうになり、男が支えてくれた。 「すんません」  そう言って男の顔を見て、武子は先程よりももっとどきりとした。公彦だ、そう直感した。顎が張っているのは父親似だと武子は思った。目元に赤ん坊の時の面影が残っている。  男はちょっと会釈してから、武子の横をすり抜けていく。武子は十メートルほど離れて後を付けた。果たして男は味噌屋の中に入っていった。  武子はおろおろした。次にどういう行動を取ったらいいのか分からなかった。今すぐ飛んでいってこの包みを渡そうか、それとも黙って店先に置いていこうか、電話をして公彦を呼び出そうか、堂々と名乗りを上げて店の中に乗り込もうか。様々な考えが頭の中を巡り、武子は混乱してしまった。そして結局どの行動も取らずに、風呂敷包みを持ったまま駅に向かった。明日また出直すと決めたのだ。  翌日、武子は会社を四時に早退して、京都に向かった。商店街に着いたのは五時過ぎで、武子はきのう公彦と出会ったところに立って、彼が現れるのを待った。もう人目など気にならなかった。  三十分ほど経って、公彦が姿を見せた。武子はどきどきした。 「きのうはすんませんでした」  公彦が側まで来たとき、武子は頭を下げた。公彦は怪訝な顔をしている。 「ちょっとお話がしたいんやけど、よろしいか」 「………」 「ここではなんやから、駅前まで戻りましょか」  武子は公彦の腕を押して、来た道を戻るように促した。公彦は素直に従った。  駅前の目についた喫茶店に入り、武子と公彦は奥の席に腰を下ろした。武子は風呂敷包みを隣の座席に置く。ウエイトレスがやって来て注文を聞いてきたので、武子は「コーヒーでよろしい?」と公彦に訊き、公彦が頷くのを見て二人分を頼んだ。  ウエイトレスが行ってしまうと、二人の間に硬い雰囲気が流れた。  武子はまじまじと息子の顔を眺めた。きのう父親似だと思ったのは間違いで、私に似ていると武子は思った。それに目許だけではなく、口許にも赤ん坊の時の面影が残っている。  公彦は武子から見つめられると、さりげなく視線を外した。  公彦の方から何か言ってくれたら、話しやすいのにと思いながら、武子は何から切り出そうかと迷っていた。何の話ですかと言ってくれないかと武子は公彦の言葉を待った。しかし公彦は黙ったままだった。  コーヒーが来て、取りあえずそれを飲むことにした。暖かい液体が胃の中に染み渡り、肩からふっと力が抜けた。 「あんた、私のこと覚えてる?」  言ってから、武子は自分の言葉に驚いた。そんなことを言う気はまるでなかったのに、言葉が勝手に出てきた感じだった。しかしそれに対する公彦の言葉は武子をもっと驚かせた。 「実のお母さん、じゃないですか」 「?!」 「さっき声を掛けられたとき、ひょっとしたらそうじゃないかという気がしたんですよ」 「………」 「どうなんですか。僕の実の母親でしょ」 「そう」 「ああ、やっぱり。子供の頃から実の母親は僕を産んですぐに死んだと聞かされてきたんですけど、それは嘘なんじゃないかという気がずっとしてましてね。それでさっきぴんと来たんですわ」 「ごめんな」  武子はテーブルに両手をついて頭を下げた。 「そんな、別に謝ることはないですよ」 「恨んでへん?」 「恨むも何も、物心がつく前のことやから、関係ないでしょう」  公彦は冷静な口調で答えた。武子はいささかがっかりした。テレビ番組でよくあるように、二十数年ぶりに会った親子が涙を流しながら抱き合うとまではいかなくても、もう少し感情的な場面があってもよさそうなものだという気がした。しかし自分が思うほど息子がこちらのことを思わないのも当たり前のことで、それは自分が赤ん坊を捨てて逃げた当然の報いだと武子は思った。そう思うと、憑き物が落ちたように武子はさっぱりした。 「ところで、結婚式はいつ」 「えっ?」 「ちょっと人から聞いたもんやから」 「五月二四日です」  今から二週間後だった。  武子は隣の座席に置いてあった風呂敷包みをテーブルの上に挙げ、「これ、私からの結婚祝い」と公彦の方に押し出した。 「いやあ、それ、家の方に送ってもらえませんか」 「どうして」 「家に持って帰って、お袋に誰から貰ろたて訊かれて、実の母親からて答えるわけにはいかないでしょう。かと言って、嘘をつくのもいややし……」 「そやけど、家の方に送ったら、捨てられてしまうわ」 「そうでしょうか」 「私があんたの母親やったら、そうするわ」 「……だったら、新居の方に送ってもらえますか」 「それがええわ。住所教えて」 「まだ決まってないので、決まったら連絡します」  武子も公彦も筆記用具を持っていなかったので、ウエイトレスに頼んで、紙とボールペンを借りた。  武子は住所と名前を書き、公彦に渡した。 「たけこって読むんですか」 「そう。それがあんたの実の母親の名前」 「ふーん」  武子はもっと色々話したいこと、特にどうして公彦を置いて出奔したかということを話したかったが、公彦が、じゃあ、これでと立ち上がったので、また今度があるわと武子も風呂敷包みを持って腰を上げた。  コーヒー代を払い、喫茶店の前で別れた。公彦は一度も振り返ることなく、大股で歩いて行く。武子は姿が見えなくなるまで立ち止まって見送った。  公彦から連絡が来るのを今か今かと武子は待ったが、二週間経っても、一ヶ月経っても来なかった。新居がなかなか決まれへんのやろかと思ったが、さすがに三ヶ月も経つと、連絡する気がないのだろうということに気づいた。  喫茶店での会話を何度も思い浮かべ、公彦が自分の出現を迷惑に思っていたのではないかと考えたが、思い当たる節はなかった。実の母親が風采のあがらないおばさんだったので、がっかりしたんやろかとも思った。もう一度会いたいと何度も思ったが、鑑別所に入っている誠治のことを考えると、それは裏切りではないかという気がした。自分が公彦のことを思うこと自体が、誠治を駄目にしているのではないかとさえ思った。それに鐘一に対しても後ろめたかった。  結局半年経っても、何の連絡もなく、スライサーは会社で使われ、みじん切り器は押入の奥で眠ることになった。  家庭裁判所の審判の日程が決まり、武子と鐘一も呼び出された。誠治は別人のように神妙になっていた。 「少年院の実態を話して聞かせたから、誠治君も怖くなったんと違いますか」と付添人の弁護士は言った。  いかにも頼りなさそうな弁護士だったが、意外と力があったのか誠治は保護観察処分で済んだ。余罪のなかったことが軽い処分で済んだ理由だと弁護士は言った。 「誠治君、母親のあんたに首を絞められたのが余程ショックだったようですわ」  弁護士は武子が一人だけになったとき、耳元でそう言った。武子は恥ずかしくて消え入りたいくらいだった。 「まあ、なんにしてもよかった、よかった」そう言って弁護士は武子の肩に手を置いて、一笑した。  保護司の世話で、誠治は段ボール製造会社に勤め始めた。武子はいつ誠治が会社を辞めるかと心配しながら暮らしたが、何とか一年間続いたときは、さすがに武子もほっとした。しかし全面的に安心したわけではない。いつ元の誠治に戻っても動揺しないように心構えだけは持っているようにした。 「ねえ、若い子ってどんな料理が好きなんやろ」  水煮のぜんまいを刻みながら、武子は長田恵子に尋ねた。 「晩御飯作ってあげんの?」 「息子は何にも言えへんかったけど、晩御飯でも食べへんかったら間が持てへんような気がすんねん」 「そりゃ大山さん、晩御飯一緒に食べた方がいいって。そのほうが相手の人間がよく分かるから」  長田のアドバイスは、今時の若い子はスパゲティが好きだから、メインはスパゲティにしたらということだった。スパゲティカルボナーラがいいと言う。 「スパゲティカル……オ……?」 「カ・ル・ボ・ナ・ア・ラ」  武子は「メモしとこ」と近くにあった紙切れに鉛筆で長田の言葉を書き留め、作り方も聞いて、それも書いた。サラダを添えた方がいいと長田が言うので、武子は会社のポテトサラダを買って帰り、グリーンアスパラガスとブロッコリーを付けることにした。そして自分のおかずとしてひじき煮と金時豆も買って帰ることにした。  昼休み、ロッカーの前で着替えていると、他のパートが醤油の安売りのチラシが入っていたと教えてくれた。武子は自転車をとばしてニッショーストアに行き、醤油のペットボトルを確保し、パスタ、ベーコンなどの今晩の材料を買い、アパートに戻ってインスタントラーメンを作り、お茶漬けをかき込み、NHKの連続テレビ小説を途中まで見て、急いで会社に戻った。他のパートたちはすでに白衣に着替えており、武子はいかん、いかんと呟きながら部屋に入って、上着を脱ごうとした。そのとき急に心臓の鼓動が激しくなり、胸が締め付けられるような感じがした。顔から血の気が引いていき、武子は立っていられずにその場に横になった。こんなことは初めてだった。掛かりつけの医者は高血圧と肥満は指摘してくれたが、心臓のことは何も言わなかった。これで心臓がどうかなってたら、また金がいるなあ、武子は目を閉じてそんなことを考えていた。 「大山さん、どないしたん」  長田の声が聞こえてきた。武子が目を開けると、長田がドアのところでこちらを見ていた。 「何か知らんけど胸が痛いねん」 「気分悪いの?」 「うん」 「医者呼ぼか」 「そんなんええて。もうちょっとしたら治るから」 「とにかく社長呼んでくるわ」  余計なことせんといてと言おうと思ったら、もう長田はいなかった。  しばらくして「クマが倒れたて」という社長の声が聞こえてきた。武子は上半身を起こした。胸の痛みは収まり、血の気も戻ってきた。 「どうした、大山さん」社長が顔を覗かせた。 「ちょっと立ちくらみがして……」 「大丈夫か。医者に診てもらうか」 「いや、もうようなりましたから」  武子は白衣に着替えて、仕事場に戻った。いつ先ほどの痛みがもう一度襲ってくるかと気にしながら動いていたが、仕事に追われ出すとすぐに忘れてしまった。  息子が来るからと工場長に早退を申し出て、武子は五時に会社を出た。  アパートに帰ると、早速掃除を始めた。  昨夜遅く誠治から電話が掛かってきて、鐘一が泊まり込みで現場に出ていると分かると、彼女を連れて行くから会ってほしいと言ってきた。 「何でお父ちゃんがいてたらあかんの」 「誰もあかんなんて言うてへん。まず最初にお母はんに見てもうて、オッケーが出たらお父ちゃんに会わそう思てるだけや」 「オッケーが出たらて、あんた、それどういう意味や。結婚する気か」 「オッケーはオッケーや。深い意味なんかあれへん」 「ああ、そうか」 「それでどないやのん。会うてくれるんか」 「いつでも会いましょ」 「わかった。明日連れて行くわ、七時頃」 「あした?」  それには答えずに、電話が切れた。武子は部屋の中を見回し、掃除をせなあかんと思ったが、今から掃除機を動かすと両隣から文句を言われそうなのでやめたのだ。  武子はハンガーに掛けっぱなしになっている鐘一の作業服を押入の中に押し込み、掃除機を掛け、便所を掃除し、冷蔵庫を拭き、流し台の埃がこびりついているところも丁寧にこすり、それが済むと夕食の用意をした。と言ってもスパゲティだから息子たちが来てから湯がけばいいし、ポテトサラダもひじき煮も金時豆も、そのまま器に移すだけである。後はグリーンアスパラガスとブロッコリーを塩ゆでにして、ポテトサラダに添えたら出来上がりである。  準備がすむと、武子は鏡台の前に坐って化粧を始めた。会社へはファンデーションと口紅くらいしか塗っていかないが、今回は白粉をはたき、アイラインも入れてみた。誠治の彼女におばあさんに見られたくないという一心だった。七時ぎりぎりまで鏡を見つめ、やっと満足すると、鏡台の化粧品を急いで片付けて引き出しにしまい込んだ。  テレビをつけ、いつもは見ない七時のニュースを眺めた。落ち着かない。  七時半になっても姿を見せなかった。武子はドアを開けて外を窺い、彼らが来たらすぐにスパゲティが湯がけるように鍋に水を入れて火に掛けた。  ニュースが終わる頃チャイムが鳴った。どんな娘さんやろ、武子は胸をどきどきさせながら玄関に向かった。  ドアを開けると、誠治と彼女が立っていた。武子は素早く彼女の頭の先から足の先まで目をやった。茶髪のロングヘアーに小麦色の顔、真っ赤な超ミニのワンピースから細い素足が出ている。  武子はがっかりした。もう少しましな彼女がいてへんかったんかと思ったが、そんな気持ちはこれっぽっちも表に出したら駄目だと自分に言い聞かせた。  誠治はブレザーにネクタイをしている。そんな息子の姿を見るのは初めてだった。 「こんばんわ」と彼女が頭を下げた。 「あ、こんばんわ」武子はまじまじと彼女を見つめた。  細い眉毛に、ラメ入りの光る瞼、耳朶にはピアスが三つ並んでいる。 「お母はん、どないしたん。入ってもええんやろ」  武子は「どうぞ、どうぞ」と二人を招き入れた。「お邪魔します」と言って彼女は誠治の後から入ってきた。 「なかなか綺麗にしてるやんか」誠治が部屋の中を見回しながら言う。 「いつもはこんなん違うで。もっとがたがたなんやから」と誠治は彼女に言った。もう余計なこと言うてと武子は誠治を睨みつけた。 「お母さん一日中働いてはんのやろ。そんなら無理やんか」と彼女が言い返した。お母さんとは自分のことかと武子はその言葉の響きにどきっとした。 「まあ、そういうことにしとこ。それはそうと、お母はん、化粧したな」  また余計なことをと武子は誠治を睨んだ。 「そういうあんたこそ何やそのブレザー姿は。お母ちゃん初めて見たで、そんな恰好」 「ああ、そうか。俺いっつもしてるけどな」 「ほんまでっか。この子いつでもこんな恰好してる?」  と武子は彼女に尋ねた。彼女は笑って答えない。  二人とも夕食はまだだと言ったので、武子は早速パスタを湯の中に放り込んだ。 「スパゲティ、好き?」 「よう食べに行きますねん」 「きょうはね、スパゲティカルボ……。カルボーニやったかな」武子は立ち上がって流し台の紙切れを取った。 「カルボナーラと違いますのん」と彼女が言った。 「そうそう、それそれ」  武子は仕事場の仲間に教えてもらったことを正直に話した。 「私、手伝いますわ」と彼女が腰を上げた。武子は彼女にエプロンを渡し、二人並んで流し台の前に立った。 「私、こっちするから、お母さん、ベーコンを炒めてくれはりますか」  彼女は茹で上がったスパゲティにバターと卵をすばやく搦め、武子の炒めたベーコンを混ぜ合わせて三つの皿に盛りつけた。手際が良かった。そのことを誉めると、「子供の頃から料理作ってましてん」と彼女は答えた。  スパゲティを食べる段になって、誠治はようやく彼女を紹介した。島内直子といい、同じ会社に事務員として働いている子で、誠治より一つ歳上だった。五人兄妹の真ん中で、母親が病気がちのため小さいときから下の妹たちのご飯を作ってきたと言う。  直子は出来合いのポテトサラダもひじき煮も金時豆もおいしい、おいしいと言って食べた。  誠治はビールを飲み、武子が直子にも勧めると、飲めないと言う。武子が飲めると分かると、逆に直子がビールを勧めてくれた。武子は直子にビールを注いでもらい、一口飲んだ。 「お母はん、いつものように一気にいかな」  誠治に言われて、武子は一息でコップのビールを飲み干した。胸を通ってビールが胃に染みていく。  直子が空いたコップに再びビールを注いだ。武子はまた一気に飲んだ。 「お母さん、強いわあ」と直子が再び注ごうとするのを武子は手で塞いだ。 「もうやめとくわ。酔っぱらって変なとこ見せたら、誠治に怒られるから」 「俺、別にかめへんで」 「いや、やめとこ」  夕食がすんで、「後片づけは、私がやりますわ」と言って直子が流し台の前に立った。武子も手伝おうと立ち上がった。その途端胸が何かに鷲掴みにされたように痛んだ。動悸が速くなり、顔から血の気が引いた。昼の時と全く同じだった。  武子は胸を押さえてその場に倒れ込んだ。 「お母はん」誠治が飛んできた。 「お母さん、大丈夫?」直子が覗き込んでいる。  目の前が暗くなり、このまま死ぬんやろかと武子はぼんやりと考えた。 「誠ちゃん、救急車呼ぼ」 「救急車? そんなん呼んでええんかなあ」 「一刻を争うねんから、ええに決まってるやんか」  直子が大きな声を出した。武子は左手を挙げてゆっくりと振った。救急車を呼ばなくてもいいというつもりだった。その手を直子が握り締めた。 「お母さん、しっかりして。すぐに救急車が来るから」  胸の痛みが収まり、動悸も徐々に元に戻りつつあった。 「すごい汗」直子がタオルで顔を拭いてくれた。  誠治が電話で救急車を依頼している声が聞こえてきたので、武子は目を開けて「救急車呼ばんでええよ」とはっきりとした声で直子に言った。 「誠ちゃん、お母さん気がついた」と直子が大きな声で言った。 「ほんまか」という誠治の声がし、「気がついたみたいやから、救急車いいですわ。またなんかあったら電話します」と言って電話を切る音がした。  直子はタオルを水で濡らして額に当ててくれた。ひやっとして気持ちが良かった。 「お母はん、どないしたん。びっくりしたで」  武子は額のタオルを押さえながら、上半身を起こした。 「心臓がちょっと悪いみたいや。今度お医者に診てもらうわ」 「そりゃ、そうしなあかんわ」  武子は心配そうにこっちを見ている直子と誠治に向き合った。あの誠治がこの子と結婚するんかいな、そう思うと不意に涙が溢れてきた。 「お母はん、どないしたん」  誠治が武子の顔を覗き込んだ。ぼやけた息子の顔が子供の顔になり、赤ん坊の顔になった。涙は次から次へと溢れてきた。 「お母さん」直子も涙声になっている。 「なんや、お前もどないしたんや」誠治が戸惑った声を出した。  武子は直子の胸に頭をつけて泣いた。 「誠ちゃん」 「何や、お前まで泣きそうな顔して」誠治がおろおろとした声で言う。 「お袋、死ぬんちゃうやろな」  武子の泣き声が静かに部屋に満ちた。