金色に輝く魚                 津木林 洋  日本から来たダイバーたち五人をガイドして、ゴールデンコーナーからテーブルサンゴの広がる斜面に戻ってきたときだった。水深は二十メートルくらい。サンゴの下の穴の中にダルマオコゼを見つけて、一人ひとりに見せていると、誰かが私の肩を叩いた。振返ると、彼は沖を指さしている。見ると、かなり大きな白っぽいものがこちらに近づいてくるところだった。一瞬クジラかと思ったが、形からすぐにサメだと気がついた。今まで見たこともない色のサメ。色素の抜けた全身が白というよりは金色に光っていた。形から見てたぶんホホジロザメだろう。ホホジロザメは最も凶暴な種類のサメなので、私は急いでダイバーたちをサンゴに張り付かせた。  金色のサメは反転して胴体を見せ、そのまま遠ざかっていくように見えたが、もう一度反転すると、再びこちらに突進してきた。ダイバーたちがあわて出した。私はハンドサインでその場にじっとしているように指示して、カメラを持っていたダイバーにフラッシュをたけと指を開いて見せた。しかし彼はテーブルサンゴの間に入り込んで出てこようとはしない。私は彼からカメラを取り、フラッシュの設定を最大光量にしてサメに向かってシャッターを押した。フラッシュをたくとサメは驚いて逃げるとどこかで読んだ記憶があったからだ。しかしサメはどんどん近づいてくる。私はもう一度シャッターを押した。それでもだめだった。やばい。そう思ったとき、サメは一転して身を翻した。距離にして七、八メートルだったろうか。サメはそのまま沖に向かい、青色の中に消えていった。  私はダイバーたちをそのままじっとさせて、しばらく様子を見た。下手に動いて再びサメを呼び寄せてはまずいという気持だった。ダイバーたちの空気の残圧を確認すると、誰もが七十以上残していたのであわてて浮上することもない。沖に目を凝らして白っぽいものが見えないか注意を払い、それからゆっくりとサンゴに沿って浅場に向かっていった。  アンカリングしたボートにダイバーたちを全員上げたときは、さすがにほっとした。彼らは興奮していて、口々にサメのことを話した。カメラを持っていたダイバーがあのサメはいったい何なのか訊いてきたので、たぶん突然変異で色素がなくなったホホジロザメだと思うと答えると、ホホジロザメだってという言葉が飛交った。その様子を不審に思ったのかボートクルーのジェイが「何を騒いでいるんだ」と訊いてきた。白子という英単語が分からなかったので、色の抜けた真っ白のホホジロザメが出たと説明した。 「白子の?(albino) 嘘をつけ。そんなものこの辺りで見たことないぞ」 「それが出たんだ。写真に撮ったから見せてやるよ」  カメラを持っていたダイバーに頼んでその日のうちにフィルムをプリントショップに持ち込んだが、出来上った写真を見てがっかりきた。確かに白っぽいものは映っているが、ピンボケのためそれがサメであるとは、ましてやホホジロとはとても言いかねる映像だった。あのときフラッシュで脅かすことばかりに気がいって距離を合わせることに失敗したからだった。ジェイは笑って「今度はオートフォーカスのカメラを持って入るんだな」と私の肩をたたいて見せた。  私は写真には落胆したが、自分が見たものには自信があった。だからスタッフの反対を押し切ってその写真をスキャナーで取り込み、うちのダイビングセンターが開いているインターネットのホームページに、今週のトピックスとして掲載した。オーナーのロイが、ホホジロかどうかわからないんだから説明にはその名前を入れるなと言ってきたので、私はメジロザメの一種かオキゴンドウのようなクジラではないかとだけ書き込んだ。確かにホホジロザメが現れたとなったら、訪れるダイバーが減るかもしれないのだ。  そのトピックスに関して島の他のダイビングセンターからは何の反応もなかった。他のガイド仲間にも訊いてみたが、誰も見ていないし、今まで見たことがないという答えばかりだった。それ以後何回かゴールデンコーナーに潜ったが、白い影さえ目にしなかった。私はいささかがっかりしたが、一週間後、レナード・マクミランという人物から電子メールが届いた。アドレスから見てアメリカ本土に住んでいるようだった。彼はサメ専門のカメラマンで、五年も前から白子のホホジロザメを追い続けているということだった。ホームページに載った写真はホホジロザメに間違いない、すぐにそちらに行くからサメを見たポイントに案内してくれと書いていた。私は自分の見たものが確かに存在することを知って、飛び上がるほどうれしかった。ジェイはレナードというカメラマンを知らなかったが、ロイは、アメリカンジオグラフィックで彼の写真を見たことがあると言った。私は歓迎する旨の電子メールを送った。  二日後、私は空港にレナードを迎えに行った。電子メールで知らされた飛行機が到着して、ロビーで名前の書いたボードを持って立っていると、乗客の最後の方からすごいデブの男が出て来た。カメラのハードケースを肩から下げ、でかいトランクを両手で押している。まさかあいつではないだろうなと思ったが、彼は私のボードを見つけると真っ直ぐこちらにやって来た。顔中汗が吹き出ていて、あごひげの先から滴り落ちそうだった。  身長は私と大して変わらなかったが、体重はゆうに百キロは超えていただろう。この体で水中カメラマンであるというのが、信じられなかった。水中カメラマンというのはシャッターチャンスをつかまえるためにできるだけ水中に留まっていなければならず、体が大きいと必然的に空気の消費量が多くて長く潜ることができないから不利なはずなのだ。 「ようこそいらっしゃいました」と私は右手を差し出した。しかしレナードはそれを無視して、いきなり「お前、日本人なのか」と訊いてきた。 「はい」 「どうして日本人なんかを迎えによこしたんだ」  何を言うんだこいつと思った。勢い込んでホホジロザメのことを話そうと思っていた私は気勢をそがれ、「他のスタッフはいそがしいものですから」と答えるしかなかった。 「俺は日本人が嫌いなんだ」 「そうですか」  ますます私はうんざりした。 「日本人はサメを食うだろう。なんて奴等だ。他にうまいものはいくらでもあるのに、どうしてまずいサメなんぞ食うのか俺にはさっぱりわからんよ」 「サメなんか食べませんよ」 「嘘をつくな。俺はテレビで見たぞ。日本の漁師がサメのひれだけ切り取って、残りを海に捨てているのを」 「ああ、フカヒレのことですか。それは中国料理ですよ」 「それじゃあ日本人は食わないのか」 「……食べますけど」 「やっぱり食うじゃないか」 「うちのスタッフもおいしいと言って食べますよ」  言ってからしまったと思ったが、案の定レナードは険しい顔付きになった。 「お前のところは全部日本人か中国人なのか」 「いいえ。私以外はアメリカ人です」 「なんて奴等だ。アメリカ人で、しかもダイバーのくせにサメを食うなんて最低だ」  私はこれ以上相手をしたらまずいと思い、レナードのでかいトランクを押して歩き出した。もう一言も口をきかないつもりだった。こんな奴だとわかっていたら、英語があまり話せないふりをするんだったと後悔した。  車に乗り込んでも私は黙っていた。空港を離れてフリーウェイに入ったところでレナードが「怒ったのか」と聞いてきた。 「いいえ」 「だったらどうしてしゃべらない」 「別に話すことがないですから」 「よし、それじゃあ俺が話すことを作ってやろう。例の写真のことだが、お前が撮ったんだろう」 「そうです」 「やっぱりそうか。電子メールを受け取ったとき、変な名前の野郎だと思ったんだ。それで俺の睨んだとおり、やつはホホジロだっただろう」 「そうですね」 「よし、これで話すことが山ほど出来たわけだ」  私はレナードの質問に答えて、ホホジロザメの大きさとかポイントの地形とか潮の流れ、透明度などを話した。 「奴に遭遇したとき、どんな感じがした」 「びっくりしましたね」 「それだけか」 「何しろガイドしている最中で、お客の安全を守るのに必死でしたから、よく覚えていないんですよ」 「すごくきれいだっただろう」 「そうですねえ……」 「青い海の中に金色に輝く魚が、まるで神のような神々しさで悠然と泳いでいく……」 「そうそう、確かに金色に見えましたね」 「そうだろう。あの姿を一度見たら忘れられないはずだ」 「五年間も追いかけていたら、何度も見ているんでしょうね」 「一度だけ」 「たった一度?」 「そう、五年前にクリスマス島で一度だけ」 「それ以来ずっと追いかけている?」 「あの時写真に撮ることができなかったので、誰も信じてくれないんだ。お前は信じるだろう」 「もちろん」 「とにかく写真に撮る。それがすべてだ。そうすると俺は世界的な水中カメラマンとして名を売ることができるんだ。お前がピンぼけ写真を撮ってくれたおかげでな、俺は二番目にならなくてすむわけだ」  そう言ってレナードは笑った。  うちのダイビングセンターに到着すると、ロイが中から出てきた。ロイはレナードの姿を見ると、私に向かって、この男がそうなのかというように眉を吊り上げて見せた。私が頷くと、やれやれといった表情を見せた。  レナードは私とはしなかった握手をロイと交わし、大統領選に関するジョークを言って一人で笑った。ロイもすかさずジョークを返し、今度は二人で大笑いをした。  センター内のソファーに腰を降ろし、まず例のピンぼけ写真をレナードに見せた。レナードは顔を近づけて隅から隅までじっくりと見て、うんうんと頷いて見せた。 「これは俺が追っている奴に間違いない」 「どうしてわかる」とロイが聞く。 「ほら、ここに傷があるだろう」  レナードはサメの腹と思われるあたりを指差した。ロイと私は頭をくっつけて覗き込んだが、よくわからない。レナードが近くにあったボールペンを取り、ここだ、ここだとその先で示してくれて、ようやくそれらしき陰がわかった。  それからどういうふうにダイビングをするか検討した。私にガイドの役が回ってくるのはいやだなと思っていたが、日本人ダイバーの客が引き続いて入っていることを理由にロイは私を外し、ガイドをジェイ、ボートクルーをハリスに充てた。私はほっとした。  早速レナードは例のポイントに潜りたいと言う。ロイはオーケーし、準備を整えておくからということで、取りあえず一度ホテルにチェックインすることになった。私が彼をホテルまで送ったのだが、これで御役御免になったとせいせいした。  ところが午後のガイドを終えてセンターに戻ってきたら、ジェイがもうあいつのお供はこりごりだと喚いていた。 「あのばか、まるで俺が助手みたいに思っていやがるんだ。何と二台もカメラを持たされたんだぜ。しかもゴールデンコーナーのところで一時間もじっとしているんだ。全然動かないんだぜ。ガイドの必要がどこにあるんだ」  ジェイが怒鳴った。 「一時間? 本当にあんなところで一時間もいたのか」私は驚いて訊き返した。一本のタンクでの限界に近かった。 「本当だとも。あの野郎、デブのくせに恐ろしく空気を使わない奴なんだ。信じられるか。俺はじっと見てたんだが、あいつはほとんど息を止めていやがるんだ。それに付き合う俺の身にもなってみろ。こっちも息を止めて時間を延ばさなきゃならないんだぞ」  その話を聞いて私はレナードというカメラマンを少しは見直した。結構プロ根性があるじゃないかと思ったのだ。とは言ってもこっちにガイドの役が回ってくるのはごめんだった。ジェイは私にレナードのガイド役を替わってもらいたがったが、日本人ダイバーの相手は誰がするんだと言って断った。ロイも承知しなかった。  ところが風向きが変わったのは翌日の午前のダイビングが終わったときだった。レナード自身が私にガイドを頼んできたのだ。 「ホホジロに会ったのはお前だろう。ということはお前には運があるわけだ。その運を俺にも分けてくれないか」  ロイは渋ったが、ホホジロザメが出たことを公表するようなことをほのめかされて承知した。後で、余計なものをホームページに載せるからだとロイに嫌味を言われたが。  ジェイはガイド役を降りることができて、口笛を吹いた。ジェイが言うには、レナードの言う運うんぬんは嘘で、本当は私が日本人だからだと言うのだ。ホホジロザメが寄ってきたのは日本人の臭いを嗅ぎ付けてきたからだとレナードが言ったという。サメを食っているから日本人の体にはその臭いが染み付いていて、奴は食べられた仲間の復讐にやって来たと冗談とも本気ともつかない口調でジェイに話したのだ。あいつなら言いそうなことだと私はたいして気にしなかったが。  午後から日本人ダイバーはジェイに任せて、ボートクルーのハリスと私とレナードの三人でボートに乗った。レナードは三台のカメラを持ち込んできた。そのうちの二台はオートフォーカスの水中専用の一眼レフで、日本製だった。全く同じ物で、どちらも一番強力なライトを二つも付けていた。もう一台は陸上用の一眼レフをハウジングに収めたもので、こちらはシングルライトだった。中を覗くと、これも日本製だった。 「日本製のカメラをご愛用とは思いませんでしたね」と私は皮肉を込めてレナードに言った。 「俺が日本と名の付くもので唯一好きなのは、カメラだけだ」  レナードは私の皮肉など全く通じていないのか平然とした顔で答えた。 「それじゃあ、日本の海にも潜ったことがないんですね」 「あるわけないじゃないか」 「もったいないですね。小笠原なんか結構サメが出るんですけどね。メジロザメの交尾しているところなんか写真に撮られたりしているんですよ」  しかしレナードは興味がないといった顔で、カメラの下に厚いバスタオルを敷いたり、その上に被せたりした。  ハーバーから外洋に出ても海は穏やかで、太陽の光がTシャツの背中を暖かく照らした。ダイビングには絶好のコンディションで、ガイドする相手がレナードではなく普通のダイバーだったら、どんなに楽しいかと思わずにはいられなかった。  ゴールデンコーナーは思ったより潮が流れていた。そのことを告げても、レナードは私に二台のカメラを持つように言った。自分はオートフォーカスの一台を持ち、残りを私が持つのである。  アンカーを降ろしてからTシャツとショートパンツを脱いで、ウェットスーツに着替えた。レナードもシャツとパンツを脱いで、毛深い胸と太鼓腹を見せた。私は彼の左足に引き攣れたような傷痕のあるのを見つけた。ふくらはぎの根元のあたりだった。 「どうしたんですか、それ」と私は傷痕を指差した。 「ああ、これか。イタチザメにやられた痕さ」 「本当ですか」 「近づきすぎて、いきなりぱくりとやられたのさ。しかしすぐに餌ではないとわかったのか、それ以上襲っては来なかった」 「サメが恐くはないんですか」 「餌と間違われないように気をつけていれば平気なもんだ」  ふーんと私は唸った。いくら餌と間違われないようにしていても、相手は野生の動物で、大抵腹を空かしているのだ。腹が減っていれば、いつもは口にしないものでも食べてしまうのは人間も同じだろう。しかしレナードの言葉には経験の裏打ちがあるので、私には何も言えない。  ハリスがレナードのタンクを担ぐのを手伝い、先に海に入れてカメラを手渡した。私はBCジャケットに空気を入れずに入り、二台のカメラをハリスから受け取ると、息を吐いてすぐに潜降した。  透明度は三十メートルほどあり、ドロップオフの向こうの深い青に光が射していた。レナードはテーブルサンゴの上に浮かんで待っていた。私は潮の流れに逆らってこの前ホホジロザメに出会った場所まで進んでいった。その場所に来ると、カメラを持った手であの方向から現れたとジェスチャーで示した。レナードはその方向をじっと見てから、サンゴとサンゴの間に体を入れて坐り込んだ。私も潮の流れを避けて近くのサンゴの陰に身を潜めた。二台のカメラをサンゴにぶつけないようにするのに気を使う。  レナードは確かに空気をあまり吸っていなかった。レギュレーターから吐き出される泡が小さくて長く続き、時々泡の出る間隔が異常に長くなった。多分息を止めているのだろう。私も出来るだけ細く長く呼吸をして、エアの消費を抑えた。  始めのうちはホホジロザメが出るかと青い海を見詰めていたが、何も出ないので次第に飽きてきた。ガイドというのは自分の探し当てたポイントというのがあって、そういうところを案内してこそ楽しいのだ。こんなふうに一つの所にじっとしているのは、苦痛以外の何ものでもない。  時折、イソマグロやカマスの群れが通り過ぎて苦痛を和らげてくれたが、レナードは見向きもしなかった。ひたすらドロップオフの向こうを見続けていた。私はテーブルサンゴの下を泳ぎ回るスズメダイや砂地にちょこんと坐っているトラギスを眺めては気を紛らせた。  一時間近くになって、残圧が五十を切ってしまった。レナードは全く動く気配を見せない。こうなれば我慢比べだと私は意地になって息をこらえた。  残圧が二十になって、これはそろそろ浮上しないとやばいかなと思ったとき、レナードが動いた。親指を立てて、浮上のサインを送ってきた。私はほっとしてサンゴの間から浮き上がり、浅場に向かった。  ダイビングコンピュータは五メートルのところで10分の減圧停止を指示していた。その指示を何とか守ってボートのそばに浮上したとき、残圧は殆どゼロだった。たぶんレナードのコンピュータにも同様の指示が出ていたはずだが、彼は減圧停止をせずに浮上してしまった。上がってレナードのゲージを見ようとしたが、すでにタンクから外されていた。レナードのタンクに自分のケージを取り付けて残圧を見ると、ゼロを指していた。これでは減圧停止ができないのは当たり前だった。 「コンピュータの指示どおりできないんなら、ガイドするのはお断りですよ」  私は強い声で言った。 「俺がいつコンピュータの指示を守らなかった」  レナードはタオルで頭を拭く手を止めて、すっとぼけた。 「減圧停止のサインが出ていたでしょう」 「いいや、見なかったな」 「嘘を言わないで。あなたは午前中もここに潜ったんでしょう。私はここより浅い所を潜っているにもかかわらず減圧停止のサインが出たんですよ。あなたに出ないわけがないでしょう」 「俺のコンピュータはデブ用だから、お前のとは違うんじゃないの」  ダイブコンピュータにデブ用とかヤセ用の区別はない。 「だったらログを見せてもらいましょうか」  ダイブコンピュータには最大水深、潜水時間などのデータが記憶され、減圧潜水をした場合にはその記録も残るのである。 「わかった、わかった、俺の負けだ」 「今度からは浮上の合図は私が出しますからね。いいですね」 「オーケー」  あっさりと承諾したので意外に思ったが、それはソロダイビングをするつもりだったからだ。その晩ロイに頼んだらしいが、ロイはそれなら他のサービスをあたってくれと断ったと言う。一人で潜らせてもし事故にでも遭ったら、センターの責任になって莫大な損害賠償金を取られてしまうからだ。私はレナードがソロダイビングをしたいために他のサービスに替わってくれないかと期待したが、次の日も一緒だった。  ホホジロザメは全く姿を見せず、私はもうこの近辺にはいないんじゃないかとレナードに言ってみた。しかしレナードは絶対にいると言う。やつは言うならば海の狩人のようなもので、絶好の餌場を見つけると一ヵ月も二ヵ月もその場に留まって餌を食い尽くし、それから次の餌場を探して移動するという習性を持っているとレナードは答えた。  午後のダイビングに向かう途中、私はレナードに、ホワイトチップシャークの群れがいるケーブに行ってみないかと提案してみた。浮上の合図はこちらから出せるといっても、三十分で上がるわけにはいかない。やはり一時間近くは同じようにじっとしていなくてはならない。もう、うんざりだった。しかしレナードは私の提案を一笑に付した。  だがゴールデンコーナーに潜って三十分ほど経ったところで、レナードが浮上のサインを送ってきた。私は何か具合でも悪くなったのかとびっくりしたが、ボートに上がったところで、サメのケーブに行こうと言い出した。ハリスは驚いた顔をしたが、私は大賛成だった。  すぐにボートを移動し、ケーブに向かった。ハリスはレナードに、ホホジロザメはもう諦めたのかと尋ねた。余計なことを訊くなと私は胸の内で叫んだ。気が変わったらどうするんだ。  レナードは笑って、「俺が諦めるかって。冗談じゃない。俺は死ぬまで奴を追い続けるさ。ただこいつが」と私を指差した。「あんまり退屈そうにしているから息抜きにケーブのサメでも見てやろうかと思ってね」  理由はどうでもよかった。とにかく体を動かすことができるだけでよかった。  ケーブのポイントはゴールデンコーナーから二十分くらいのところで、水深も十五メートルくらいと浅めだった。タンクは先程使ったものをそのまま使用することにした。三十分くらいは持つだろう。  透明度は若干落ちる程度で、潮の流れは大してなかった。私はケーブに向かう途中、頼むからサメちゃん群れていておくれと祈った。サメがいると言っても百パーセント確実にいるという保証はどこにもない。サメがいなければただの洞窟に過ぎない。  アーチ状の溶岩の中をくぐり、目的のケーブに辿りついて中をのぞいたとき、私はほっとした。一メートル半ほどのホワイトチップシャークが七、八匹いたからだ。  レナードはその様子をじっと見ていた。サメ専門のカメラマンならネムリブカなど山ほど見ているからカメラを構える気も起こらないんだろうなと思っていたが、しばらくするとレナードはすうっとサメに近寄り、腹ばいになったままバシバシとシャッターを押した。二つのフラッシュライトから強力な光が飛び出し、それに弾かれるように今までじっとしていたサメの群れが暴れ出した。体をくねらせて動き回り、そのうちの一匹がレナードの方に向かってきた。私は見ていてひやっとした。いくらネムリブカがおとなしいからといっても肉食であることには変わりがない。しかしレナードは逃げようとはしない。まるで石か何かになったかのようにじっとしている。  サメはレナードの鼻先五十センチほどのところまで来て、すっと方向転換をした。餌ではないことがわかって、興味がないといった様子だった。レナードはさらに近寄ってシャッターを押した。またサメが暴れる。レナードは石になる。そんなことを何回か繰り返すうちに、慣れてしまったのかライトを浴びてもサメが暴れなくなった。すると大胆にもレナードはサメのすぐ側まで近づいて、色々な角度で写真を撮りはじめた。サメの体がぶつかってきても平気なのだ。  ここでもしレナードが噛み付かれたら、どうしたらいいかなどと考えながら私はレナードの仕事振りを見ていたが、突然レナードが手を振って私を呼んだ。しかし呼ばれてもそう簡単に近づいていくわけにはいかない。私はサメの様子を窺いながら恐る恐る近づいていった。彼の横まで来ると、彼はカメラを交換してくれと手で示した。私は持っていたカメラを渡し、彼のを受け取って急いで後ろに下がった。  しかし二、三枚撮ったところで、レナードが大急ぎで戻ってきた。何事かと思っていると、彼はレギュレーターを口から吐き出し、私のオクトパス(予備のレギュレーター)をつかんで口にくわえた。パージボタンを押し、大きく空気を吸い込む。私のレギュレーターのエアの出も悪くなった。彼のゲージを見ると、ゼロになっていた。私の方は二〇。撮影で興奮して呼吸が早くなったのだろう。私たちはすぐにボートの方に戻った。  ボートの影を見つけて浮上を開始したのだが、途中でレナードは私のオクトパスをはずし、自分のレギュレーターをくわえた。水深が浅くなっているから、一回くらいなら呼吸が出来るのは確かだが、それにしてもおかしなことをするなと思ったが、どうもハリスに、エア切れを起こして私のオクトパスを使ったことを知られたくなかったようだ。ハリスの「どうだった」という質問に、「なかなかグッドなポイントだ」などと気楽な調子を装っていたから、私も彼がエア切れを起こしたことを話の種にできなくなった。  ハーバーから車でレナードをホテルまで送っていく途中、彼が今晩一緒に夕食を食べないかと誘ってきた。私が真意を図りかねていると、ホテルの食事も飽きてきたし、一度日本食でも試してみようかと思ってねと言ってきた。訊くと、今まで一度も日本食を食べたことがないと言う。「日本食はダイエットにも最適だと聞いているからな」と言ったのには、笑ってしまったが、存外本気だったのかもしれない。  始めは、仕事が残っているからと断るつもりだったが、レナードに日本食を食べさせるのも面白いかもしれないと思い直した。私は承諾し、七時に迎えに来ることにした。  寿司と鉄板焼きをメインにしている日本食レストランを予約して、レナードを連れていった。カウンターの前に坐り、顔なじみの板前にお任せで寿司を出してもらった。レナードは板前が寿司を握る様子を興味深そうに眺めている。素手で握っているのを見て、私に小声で「汚くはないのか」と訊いてきた。私は、ライスが最もおいしい温度は人体の温度なんだと説明してから、「汚いと思うんなら、食べなきゃいい」と突き放した。「まあ、そりゃそうだが」と呟きながら、レナードは納得しない顔付きになった。  私たちの前には割り箸が置かれていたが、さすがにそれがチョップスティックスであることは知っていた。しかしどうしてくっついているのかわからないようだった。最初から割っておけばいいんじゃないかと言う。くっついているのは未使用であることの印なんだと説明すると、自分で割り箸を割ってみて、なるほど合理的だと納得した。ただ箸の使い方を教えてみたが、当然のごとくうまく使えず、「俺には日本食は食えないなあ」と溜息をついた。「寿司はハンバーグと同じように素手で食べてもいいんだ」と言うと、「何だ、それを先に言え」と一転して顔をほころばせた。  最初に出てきたのは、こはだだった。 「これは何だ」とレナードが尋ねる。英語名が判らなかったので板前に教えてもらった。 「ふーん」  しかしレナードは手をつけようとはしない。私は箸を使わず素手で寿司を取り、醤油につけて口の中に入れた。レナードは私の様子をじっと見てから、こはだに鼻を近づけた。 「生の魚だとは聞いていたが、本当に生なんだな」 「食べなきゃ私がもらっていいですか」 「いや、ちょっと待て」  レナードは寿司をじっと見つめてから、手を伸ばし、私の真似をして醤油に少しだけ浸して口の中に入れた。しかし二、三回顎を動かしただけで、いきなり手を口に持っていった。さすがに吐き出しはしなかったが、ビールと一緒に飲み込んでしまった。 「何だ、これは。辛いというか、舌がしびれるというか。ひどい味だ」  私は板前に頼んで、レナードの分はワサビをほんの少しにしてもらった。そして次に出てきたのがマグロで、前のほど辛くはないからと言って食べさせた。今度は警戒しながら口を動かしていたが、しばらくして「うん、悪くない」と頷いた。私はいくらかほっとした。  それから色々なネタを試してみたが、タコだけは口にしなかった。一番気に入ったのはアナゴで、「あんな気持の悪いものが、こんなにうまいなんて不思議だ」と言いながら五皿続けて食べてしまった。  一通り食べ終えてから、レナードが小声で「サメはないのか」と訊いてきた。 「え?」 「ちょっとサメを食べてみたいんだ」 「サメを食べるやつは野蛮人じゃなかったんですか」 「サメ専門のカメラマンとしては、何事も経験しておいた方がいいかなと思って」 「まさかサメを食べたら、体から臭いがしてあのホホジロザメが寄ってくるなんて考えているんじゃないんでしょうね」  レナードは一瞬言葉に詰まった。 「俺がそんな非科学的なことを考えるわけがないじゃないか」  寿司を食べたのも、ひょっとしてそういう気持があったからではないかと思ったが、それを口にすると、うまい、うまいと言って食べたレナードの気分を害するかもしれないという気がした。 「サメの肉はまずいというのを知っているでしょう。だから寿司のネタにはならないんです」 「寿司じゃなくてもいいんだ」  私はサメのひれを使ったスープは中国料理だから、ここにはないと説明した。レナードは早速中華料理店に行こうと言う。満腹だからもういいと断ると、レナードは「これっぽっちでもうお腹いっぱいなのか」と呆れた。  私はレナードの勢いに押されて、店を出てから携帯電話で中華料理店に掛けた。フカヒレスープがあるかどうかを確認し予約を入れた。  中華料理店では、フカヒレスープしか頼まなかった。出されてきて私は早速レンゲで食べ始めた。しかしレナードはじっとスープを見詰めるだけで食べようとはしない。寿司のときと同じだった。私は半透明のフカヒレを持ち上げて、「ほら、これがサメのひれですよ」とレナードに見せた。だがレナードはうん、うんと生返事をするだけで私の言うことなど聞いていない。私が食べ終わっても見ているだけで食べようとはしなかった。 「食べないんなら、もう出ますよ」  そう言うと、ようやくレンゲを手にしてフカヒレをすくったが、鼻で匂いを嗅ぎ口に入れようとしてやめた。 「だめだ。俺にはとても食えそうもない」  それなら私がと手を伸ばして鉢を取ろうとすると、レナードは私の手を叩いた。 「しょっちゅうサメを見ているくせによく食えるな。これはな」とレナードはレンゲでフカヒレを持ち上げて見せた。「サメのここなんだぞ」  レナードは頭の上で手の平をひらひらさせた。 「わかってますよ。でもそんなことを言えば、アナゴだってマグロだって同じことじゃないですか」  その言い方がレナードを怒らせてしまったようだった。 「どこが同じなんだ。数が違うだろう、数が。アナゴやマグロはわんさかいても、サメはどの種類も数が少ないんだ。言うならば陸上のチータとかトラのようなもんだ。お前、チータを食う気になるか」  何となくおかしな理屈だと思ったが、私は首を振った。 「そうだろう。お前たち日本人はクジラとかサメとか数の減っている動物を食べるが、もう少し敬意を払ったらどうだ。やつらは人間が登場するより何億年も前から海の中で生き続けているんだ。俺の追い続けているホホジロザメなんかは獲物を捕まえるために究極まで進化した姿なんだぜ。体が軟骨で出来ているから急な方向転換も可能だし、わずかな臭いやごく微量の筋電流を感じたりできるし、獲物を求めて死ぬまで泳ぎ続けるんだ。止まれば呼吸ができなくなって死ぬんだ。わかるか。やつらは精妙に作り上げられた自然の芸術作品だ。それを食うことなんか出来るか」  余計なことを言えば、また怒らせそうなので私は黙っていた。 「お前たち日本人だけじゃない。世界中の人間はサメは人を食うただ恐いだけの動物だと思っているが、サメにもプランクトンしか食べないものからアザラシやイルカなどを食べるものまで様々な種類がいるんだ。たまには人間も食われるが、それはただ餌と間違えられただけで、人間を狙ったわけじゃないんだ。考えてみてみろ、うまい餌がいっぱいあるのにわざわざまずい人間を狙うわけがないじゃないか。何億年もかかって築き上げてきた食習慣をたかが四、五百万年の人類が変えられると思っているのか」 「ここで私に向かってそんなことを言っても無駄ですよ。CNNかどこかで声を大にして言わなきゃ」  レナードはにやりと笑った。 「お前の言う通り。CNNに出なきゃだめだ。そのためにはあの金色のホホジロをどうしてもフィルムに収めなきゃならないんだ。そうすると、俺は一躍有名になってCNNであろうとなんであろうといろんなマスメディアから取材が殺到するから、その時サメのために一大演説をぶってやるんだ」  私はブラボーと言って手を叩いた。  結局レナードはフカヒレスープを食べずに店を出た。腹が減っていると言うので、ハンバーガーショップに連れていった。私はもちろん食べなかったが、レナードはまるで何も食べていなかったようにチーズバーガー三個とポテトチップスの大盛りを平らげた。  翌日、レナードからの申し入れで私は日本からの客をガイドする仕事に戻った。ただし午前中の一本目のポイントをゴールデンコーナーにしてくれという注文だった。彼は私たちについてくると言う。どうもまだ日本人ダイバーたちが目撃したことに拘っているようだった。一度同じ状況で潜りたいと言う。私は一ヵ所で留まらないで普通のガイドをするから、それでよければということでオーケーした。  ポイントに着いて潜る前に、きょうはカメラを持ちませんよと言うと、レナードは自分で二台持って入るからと両手に持ったカメラを振って見せた。  晴れてはいたが、風が強く波があった。しかし海の中に入ると、潮もあまり流れておらず穏やかだった。私は日本人ダイバー五人とレナードを連れてサンゴの斜面を降りていった。そしてホホジロザメを目撃した地点にやってきたとき、レナードがここにいるからと止まってしまった。私はだめだと首を振ってついてくるようにサインを出したが、レナードはさっさとサンゴの間に体を入れてしまった。私は諦めて五人だけを連れてゴールデンコーナーのドロップオフに向かった。  瓦が積み重なったような珍しいサンゴやカスミチョウチョウウオの群れなどを見せて、二十分ほどで戻ってきたのだが、いるはずのレナードの姿が見えなかった。エアがなくなるはずはないし、ひょっとしてホホジロが現れて追いかけたのかとしばらく様子を見たが、そのうち一人の残圧が少なくなってきたので、ボートまで戻ることにした。  すでに浮上していてくれればいいと思いながらボートに上がったが、レナードはいなかった。ハリスがレナードの浮上していないことに気づいて、私にどうしたと訊いてきた。私が事情を説明すると、あのバカ、勝手なことしやがってと怒鳴った。しかし私もハリスもいずれ浮上してくるだろうと高を括っていた。波があるのでとても海面に浮き上がってくるエアを見つけることなどできない。上がってくるのを待つしかなかった。  三十分たって、さすがにあわて始めた。いくらエアが持つといっても一時間を超えるとは思えなかった。ボートまで戻って来れずにどこかで浮上していることも考えられたので、アンカーを上げて周辺を捜すことにした。しかしレナードの姿はどこにも見当たらなかった。私はハリスと相談して、まずダイビングセンターに携帯電話をかけ、ロイに成り行きを説明した。 「ちくしょう、なんてこった。わかった、すぐに水上警察に連絡するから、警察が来るまでその場を動くな。それから、予備のタンクがあったら、もう一度潜って捜して来い。いいか、最善の手を尽くせよ」  私は日本人の客に訳を話してから、予備のタンクを背負って海に入った。レナードがいたサンゴの辺りを中心に周辺を捜し回った。誰もいない海の中を泳ぎ回りながら、テーブルサンゴの陰からひょいとレナードが顔を見せるんじゃないかという気がしきりとした。  四十分ほどたってスクリューの音が聞こえたので、私は浮上した。警察のボートが二隻来ていた。そのうちの一艘のボートに上がり、情況を説明すると、すぐに三人の潜水隊員が海に飛び込んだ。もう一艘は周辺の捜索を始めた。  私たちは一旦ハーバーに戻り、待機していたロイに日本人客を任せて、もう一度現場に戻った。  昼過ぎになって、周辺を捜していた警察のボートから連絡が入った。レナードが見つかったのだ。いなくなった地点から南に一キロほど先の海岸に打ち上げられていたということだった。右腕がサメか何かに食いちぎられており、意識不明の重体だった。  私はロイと一緒にレナードが収容された病院に行った。彼は集中治療室に入っており、面会は出来なかった。主治医の話によると、右腕の肘から下を失っており、失血のため血圧が低くて危険な状態だった。ロイは動揺して、私に何度もレナードを一人にしたときの情況を尋ねた。私が説明すると、「そうだ。ガイドしようとしても奴が勝手に一人で残ることを選んだのだ」と大きく頷いた。  ダイビングセンターに帰って、ロイがレナードの書いた潜水同意書を引っ張り出してきた。万が一のときの連絡先は妻になっており、ロイは早速電話を掛けた。すぐに相手が出たが、どうも様子が変だった。始めは間違い電話かと思ったが、そうでもなさそうだった。 「とにかく一度こちらに来て下さいよ」とロイは怒鳴った。 「………」 「そりゃわかりますけども、連絡先にあなたの名前が書かれてあるんですから、彼はあなたを信頼しているということでしょう。だったら来て下さいよ」 「………」 「わかりました。それでしたら、別の人の連絡先を教えてもらえませんか。両親とか兄とか」 「………」  一方的に切られたらしく、ロイは黙って受話器を置いた。私が物尋ねたそうな顔をすると、「別れた女房だってさ」とロイは吐き捨てるように言った。 「レナードが生きようが死のうが私には一切関係がないってさ。冷たい女だ。あいつ、どうして前の女房の名前なんか書いたんだろうな」 「まさか自分が事故に遭うなんて思っても見なかったんでしょう」 「たぶんそんなところだろう」  電話が鳴ってロイが出た。 「ああ、確かにうちの客ですよ」 「………」 「ばかやろう。警察がどういう発表をしているか知らないが、サメにやられたという証拠はどこにもないんだぞ。勝手な憶測はやめろ。もし一言でもそんなことを書いたら、お前のところを訴えてやる」 「………」 「話を聞きたかったら直接ここまで来い。わかったか」  ロイは受話器を叩き付けた。 「いいか、オサム。マスメディアからの取材には一切応じるな。すべて俺が引き受けるからな」 「わかった」  翌日の新聞には水中カメラマンが意識不明の重体で岸に打ち上げられたという記事が載り、サメかスクリューに右腕をやられていたと書かれてあった。ただ見出しにはサメという文字が出なかったので、ロイは安心して、告訴はしなかった。  レナードの意識が戻ったのは一週間後のことだった。病院から連絡があって、私とロイが駆けつけた。主治医が私たちの顔を見るなり、「カメラ、カメラと言うんだが、一体何のことかわからないんだ」と言った。私とロイは早速病院が用意した緑衣と帽子を被って、集中治療室に入った。  レナードは小山のような腹を上にしてベッドに横たわっていた。鼻には管を通され、左腕に点滴を受けていた。右腕は肘から下がなく、包帯が肩の辺りまで巻かれていた。主治医が声を掛けると、レナードは目を開けた。 「はーい」と言って私は彼の顔を覗き込んだ。レナードは目を細めて私を見たかと思うと、「カメラだ、俺のカメラをどうした」とかすれた声で言った。 「カメラはないですよ」 「ない? どういうことだ」 「見つからなかったんですよ」 「俺が持っていたはずだ」 「残念ながら、あなたが見つかったとき、すでにカメラは二台ともなかったんです」  レナードは唸って目を閉じた。 「あのカメラにはあいつが写っているんだ。ばっちりと捉えたんだ。間違いなくシャッターを押した。何枚も何枚も。あのカメラを見つけてくれ。あのカメラさえあれば、右腕が無くなったくらい何でもない」  患者が興奮してきたからと主治医が面会を打ち切った。  集中治療室から出るとき、ロイが「あいつというのはホホジロのことか」と小声で訊いてきた。 「たぶんそうでしょう」 「おお、やばい、やばい。カメラが見つからなくてよかった。もし見つかっていたら、今ごろ大騒動だ」  私はロイには内緒でカメラを捜すために、レナードが打ち上げられた場所の近辺を何回か一人で潜った。ボートで行くとばれるので車でタンクを運び、岸辺から海に入ったのだ。しかしカメラは見つからなかった。ドロップオフの向こうは百メートル以上の深さになっており、多分そのどこかに落ちているのだろう。  レナードの見舞いに行くと、話はいつもカメラのことになった。私はあいつが現れたときの情況を訊いたが、彼の記憶は曖昧で金色に輝く体とシャッターを押した指の感覚だけがはっきりと残っているようだった。 「俺は奴と目が合ったのだ。五メートル、いやもっと近い。奴は慈愛のこもった目で俺を見たのだ」 「口は開けていましたか」 「いや、開けていなかった」  ホホジロザメのようなメジロザメ系統のサメは、獲物を攻撃するときシャッターのように瞼が降りて自分の目を守るという。それが白く見えるためメジロザメという名前が付いた。獲物に食いつく寸前では視覚で相手を確認しないで、臭いとか筋電流を頼りにするらしい。口を大きく開けると、前方の視界がなくなるので見ることは必要ないのだ。 「それで追いかけたんですか」 「当たり前だろう、こんなチャンスは二度とないんだぞ。追いかけずにいられるか。はっきりとは覚えていないが、絶対に追いかけたはずだ」 「それですよ、それでやられたんですよ」 「多分そうだろう」  サメは追いかけると、しばらく様子を窺ってから急転回して反撃してくるのだ。 「まるで『白鯨』のエイハブ船長みたいになりましたね」 「どういうことだ」 「読んだことないですか」 「ダイジェスト版なら読んだことがある」 「だったらわかるでしょう。エイハブ船長は白鯨に足を食いちぎられて、その復讐に燃え、白鯨を死ぬまで追い続けるというストーリー」 「俺がそのエイハブ船長になるというのか。足の代わりに腕を食いちぎられて」 「似てるじゃないですか」 「死ぬまで追い続けるというのは当たっているかもしれないが、復讐に燃えるというのは違うな。俺には復讐しようという気などさらさらないよ」 「憎くはないですか」 「とんでもない。むしろ俺は嬉しいんだよ。俺の体の一部があいつの体の一部になっていると考えると、何だか一段と身近になったような、まるで血を分けた兄弟になったような気がするんだよな」  どこまで本気で言っているのか判らなかったが、あながち強がりを言っているとも思えなかった。 「銛の代わりにカメラを持ったエイハブ船長ですね」  言ってから、しまったと思った。右手を失えば、カメラも持てないのだ。しかしレナードは気にしていないのか気づかないのか、けらけらと笑って「そう、その通りだ。俺はカメラを持ったエイハブ船長さ」と答えた。  私がカメラを捜して何回か潜ったことを伝えても、レナードは全く諦めなかった。 「あいつが俺を殺さなかったというのは、俺に自分の存在を世界に知らしめてほしいためなんだ。だからカメラはきっとどこかにある。退院したら必ず見つけてやる」  私には自分のガイドした客を事故に遭わせたという負目があった。だからガイドの予約の入っていないときなど時間の許す限り見舞いに行き、彼の頼みでホテルに置きっぱなしになっている荷物を病室に運んだり、ホテルのチェックアウトをしたり、彼の入っていた傷害保険の代理店に連絡を取ったりした。ロイはレナードから損害賠償の裁判を起こされることを心配していたが、レナードにはそんな気はまったくなさそうだった。もちろん自分が悪かったとも言わないし、私が悪かったとも言わなかった。ホホジロザメにやられたことは、シャークフォトグラファーとしてはある程度覚悟していたことで、戦場カメラマンが地雷で脚を吹っ飛ばされるようなものだとレナードは言った。 「どうしてシャークフォトグラファーになったんですか」と私は訊いてみた。 「どうして? はっは」レナードはそんなこともわからないのかという顔をした。 「美しいからだよ。限りなく美しくて強靭で繊細で」そこで言葉を切り、レナードはウインクして見せた。「それからもう一つ、シャーク専門のカメラマンは数が少ないからさ」  レナードの病室から出て帰りかけたとき、一人の男に呼止められた。彼はレナードのカウンセリングを受持っているカウンセラーで、私と話をしたいと言った。レナードから聞いているのか、私がダイビングのガイドをしていることを知っていた。私はレナードがカウンセリングを受けているのは初耳だったので驚いたが、承諾して彼の部屋に行った。 「レナードは一言もカウンセリングを受けているなんて言いませんでしたよ」  私がそう言うと、カウンセラーは少し笑ってから「大抵の人は自分がカウンセリングを受けていることを他人には言いません」 「彼は自分からカウンセリングを受けたいと……?」 「最初は不眠です。それで主治医がカウンセリングを受けることを勧めたのです」 「それで私にどういうお話が……」 「私はダイビングに関しては全くの素人なので、あなたに詳しいことをお聞きしたいと思って」 「そういうことでしたら、喜んで」 「彼は自分のことを水中カメラマンだと言っていますが、それは本当でしょうか」 「本当です。彼はまさしくプロの水中カメラマンです」 「右手を失って、再び水中カメラマンに戻れるとお考えですか」  難しい質問だった。私はその質問に答える代りに、水中で写真を撮るということがどういうことかを説明した。陸上と違って太陽光に頼ることができないため、大抵の場合ライトが必要なこと。そのため重くなり、潮の流れが強いときなど持っているだけで大変なこと。被写体が泳いでいる魚などでは構図を決めるまで辛抱強く動かなければならないこと、など。それにスクーバダイビングそれ自体の説明。 「カメラを保持してシャッターボタンを押すには、片手では無理じゃないかと思います。特に彼の撮影対象であるサメは動きが速いですから、余計に難しいと言えますね」 「相手がサメでなかったら可能でしょうか」 「動かないもの、例えば水中風景のようなものならできないことはないと思いますが」 「なるほど」  カウンセラーは考え込む仕草を見せた。 「レナードに水中カメラマンを諦めるように言うんですか」  カウンセラーは笑って「そんなことは言いません。それは彼自身が決めることですから。ただ様々な状況を知っておくと、的確なアドバイスができますからね」  握手をして立上がったとき、カウンセラーが「今までと同じように接してあげて下さい」と言った。「事故に遭われた方、特に彼のような身体欠損を受けた方は時として死の誘惑に駆られることがありますから。そういう例を私は何度も見ています。そういった山を何回か乗越えて現在の自分に馴染んでいくんです」 「わかりました」 「それからきょう私に会ったことは彼には内緒に。信頼関係を損ってはいけませんから」  次の日私はレナードに頼まれて、彼がここで撮った唯一のフィルムを現像に出した。そして上がってきたポジフィルムをセンターにあったライトボックスに乗せてルーペを使って覗いてみた。始めの方の、ホワイトチップシャークが遠くに群れで写っているのはフラッシュに慣れさせるために撮ったものだ。そのうちだんだん被写体が大きくなり、最後の方には口を開けたサメの歯の並びや透き通るような眼のアップが収められていた。センターにいたロイとジェイもルーペを覗いて、「なかなかのもんだ」と感心した。ただジェイは、これが最後の仕事になるのかと呟いたけれども。  私はレナードも多分見たがるだろうとライトボックスとルーペを病室に持ち込んだ。レナードは「気がきくじゃないか」と言いながら左手でルーペを持ってフィルムを覗き込み、頷いたり舌打ちをしたりした。私は黙ってその様子を見ていた。よく撮れてますねと言いたかったが、そんなことを言うと当たり前だと笑われそうだったし、カメラマンとしての腕前を誉めれば誉めるほど、現在の彼を傷つける結果になりはしないかと恐れたのだ。 「見るか」とレナードがルーペを差し出した。 「センターでもう見ました」 「どうだ、俺の腕前は」 「グッドですね」 「それだけか」 「グレートと言っておきましょう」  そう言うと、レナードは声を上げずに笑った。そして笑い終わると、バッグから鋏と白い手袋を出してくれと言った。その通りにすると、俺の選んだカットを切り取ってくれと頼んできた。私は手袋をはめ、レナードの指定した番号のカットを慎重に切り取った。三十六コマのうち、たった三カットだけで、後はいらないと言う。まだいいのがありましたよと言うと、欲しかったらやるよと答えたので、私は喜んで頂戴した。  それから私はレナードの選んだ三枚のカットについてのデータを彼に代わって紙切れに書き、小さなビニール袋にそれぞれフィルムと一緒に入れた。それらをニューヨークにあるフィルムライブラリーに送るのである。その会社にフィルムを登録しておいて誰かがその写真を使用すると、著作権料が入るという仕組みになっている。私はレナードの使い古した手帳からフィルムライブラリーの住所を写し取り、今日中に郵送しておくからと言って病室を出た。  ライトボッスとルーペをセンターに戻しに行き、ついでにそこでセンターのロゴ入りの封筒で発送することにした。折れないように段ボール紙でフィルムを挟んで中に入れた。宛名を書き、レナードの名前を書くとき、これがフィルムライブラリーがレナードから受け取る最後の作品になると思うと複雑な気持になった。  事故から一ヵ月たって、レナードは退院した。真っ先にダイビングセンターにやってきて、すぐにボートを出してくれと怒鳴った。午後からのガイドをジェイに代わってもらって私がハリスと一緒にボートに乗った。目的は一つ、なくしたカメラを捜すことだった。何回も捜しているから無駄だとは思っていたが、そんなことを言っても聞きそうもないので好きなようにさせることにした。  レナードが打ち上げられた海岸近くまで来て、ダイビングの準備をした。ウェットスーツに着替えているとき、レナードが、やった、やったと声を上げた。見ると、彼は腹の辺りのウェットスーツを左手でつかんで、「ダイエットしたぞ」と私に向かって叫んだ。確かに今まではちきれそうだったウェットスーツが腹部を中心にゆるゆるになっている。 「もう半年ほど入院したらどうだ。そうしたら俺みたいになるぜ」とハリスが腹をへこませながら声を掛けた。 「ごめんだね。そんな体になったらもてなくなっちまう」 「よく言うよ」  ハリスはうちのセンターで新しいウェットスーツを作ったらどうだなどと言いながら、レナードがタンクを背負うのを手伝った。右肘の切断面に物が当たると痛がるので、ハリスはかなり気を使っていた。  準備が出来て、私は大体の捜索コースをレナードに示してから海に入った。レナードは飛び込むと、BCジャケットにエアを一杯に入れて海面で仰向けになった。どうしたのかと近づくと、レナードは口からマウスピースを外し、「最高だ」と空に向かって言った。「何て気持がいいんだろう」  私は潜降の合図を送るのをやめて、レナードと同じようにエアを入れて仰向けになった。  しばらくしてレナードが行こうかと声を掛けてきた。私はダイビングが一ヵ月ぶりになるレナードのために、ゆっくりと潜るつもりだったが、レナードはジャケットの空気を抜くと、ヘッドファーストでいっきに潜降していった。私は海中で思わず笑ってしまった。  レナードは二手に分かれて捜そうとハンドサインを出したが、私は頑として受け付けなかった。私たちは並んで泳ぎながら残圧が殆どゼロになるまで捜したが、やはりカメラは見つからなかった。  ボートに上がって、「カメラは多分あのドロップオフの向こうに沈んでいると思う」と私は言ったが、レナードは「いや、そんなはずはない。絶対にここにある」と譲らなかった。それで予備のタンクでもう一度潜ろうと言う。仕方なく承諾し、一時間の水面休息を取ってから再び海に入った。  十五分ほど捜しても見つからず、もういい加減諦めないかなと思っていると、レナードは突然ドロップオフに向かい始めた。急いで付いていくと、彼はドロップオフから下に向かって潜り始めた。私はその時レナードは死ぬつもりなんじゃないかという恐れに囚われた。水深計の数字がどんどん大きくなっていく。底は全く見えない。  四十メートルを超えたところで、私はレナードの肩をつかんだ。水深計を見せると彼は頷き、おとなしく浮上に同意した。  さすがにレナードは気落ちしたようだった。ハリスが冗談を言っても言葉が返ってこなかった。  翌日の夕方、次の日のガイドプランを練っていると、レナードが姿を見せた。あごひげをきれいに剃り落とし、まるで別人のようだった。 「どうしたの、ひげは。十歳は若く見えますよ」 「気分転換、気分転換」そう言いながらレナードは照れたように笑った。 「ところでオサム、日本のカメラ会社を全部教えてくれ。ハウジングを作っている会社もすべて教えてくれ。どんな小さな会社ももれなくだ」 「どうしたんですか」 「左利き用の水中カメラを作ってもらうんだ」 「左利き用の?」 「そうだよ。シャッターボタンを左に付けるだけなんだから、簡単にできるだろう」  左利き用のカメラなんて聞いたことがなかった。左利きでもシャッターボタンを押すくらいなら右手でできるので、左利き用のものをわざわざ作ることはないのだろう。いくら日本のメーカーでも左利き用のカメラを作ってくれるわけはないだろう。しかしそのことを話してもレナードは全く気にしなかった。とにかく当たってみるの一点張りだった。私は手元にあった日本のダイビング雑誌をめくって、レナードの要望に応えられそうな会社の名前と住所と電話番号を片っ端から書き出した。それに水中カメラは作っていないが、普通のカメラを作っている会社をできるだけ思い出して、その名前を書いた。日本に行って、最初に訪ねた会社で訊けば、電話番号くらい教えてくれるだろう。  書き終えたリストを渡すと、今度は紹介状を書いてくれと言う。 「私の紹介状なんて何の力もありませんよ」 「いいんだ、いいんだ。とにかく日本語で俺のことを書いてくれればいいんだ。世界的に有名なグレートフォトグラファーとか何とか書いて、とにかく俺が水中カメラを必要としていることを訴えてくれればいいんだ」  私はレナードの要望に沿って、彼をアメリカンジオグラフィックにたびたび寄稿するほどの世界的に名高い水中カメラマンに仕立て上げ、シャークフォトグラファーとしては第一人者だと書いた。そして彼が幻の白子のホホジロザメを追っていること、そのサメに右腕を食いちぎられたが、執念は衰えず、どうしても左手だけで扱える水中カメラを必要としていること、そのあたりは正直に書いた。  レナードは手渡した紙に書かれた日本語を珍しそうに見ながら、何と書いたか訊いてきた。私が簡単に内容を説明すると、うんうんと頷いて握手を求めてきた。 「これを持って、日本に乗り込むよ」 「成功を祈ってます」  レナードがセンターから出て行くとき、私はその背中に声を掛けた。 「いい写真が撮れたら、電子メールで送って下さいね」 「いいとも」  振り返ってレナードは右腕を上げようとしてから、左手を上げた。そしてその手に目をやりながら、彼はセンターを出ていった。まるでこの手だけが頼りだと言うように。  それから一年ほど経ったころだった。私宛ての電子メールの中に、レナード・マクミランという名前を見つけた。マウスでクリックすると、まず最初に映像が現れた。それは二匹のメジロザメが絡み合いながら互いに噛み付いている写真だった。オスの突起物がメスの中に入っている、まさに交尾の瞬間だった。まさかこれをレナードがと思ったが、そのまさかだった。 「親愛なるオサムへ  どうだ、俺の撮った写真は。なかなかのもんだろう。グッドかグレートか、そっちで決めてくれ。  お前の書いてくれた紹介状は結構役に立ったぞ。左利き用のカメラは作ってくれなかったが、口で操作する延長シャッターを特別に作ってもらって、水中写真を再び撮れるようになったんだ。それでどこで練習しようかと考えて、お前の言っていた小笠原にした。もうここに半年ほど滞在している。俺は何だか日本が少しは好きになってきたな。日本食も結構いける。そのおかげで体重は退院したときのまま元に戻っていない。ただしフカヒレスープだけは未だに食えないけどな。  小笠原は海もグッドで、人もグッドだ。俺をもう一度水中カメラマンに戻してくれた日本の会社にも感謝している。  俺はこの延長シャッターを使いこなせるようになるまでここにいるつもりだから、日本に帰ってくるときがあったら、ぜひ寄ってくれ。小笠原の海を案内してやるよ。                レナード・マクミラン 追伸  もし奴を見つけたら、真っ先に知らせてくれ。俺はいの一番に飛んでいく」