シゲル             津木林洋 天候:晴ときどき曇り 最低気温:5度 最高気温:10度 こんばんわ、マーシャ。 こんばんわ、シゲル。けさは寒かったわね。 まあね、でも冬だからね。 冬だから寒いのね。 調子はどうだい。 まあまあよ、あなたはどうなの。 ちょっと頭が痛くてね。 頭が痛いのね。薬を飲んだほうがいいわ。 それほどでもないよ。 それほどでもないよって。 薬を飲む必要はないってことだよ。 薬を飲む必要はないってことだよって。 薬は飲まない。 わかったわ、薬は飲まないのね。 そう。 何か言ってちょうだい。 きみは今日何をしたの。 買物に行ったわ。 何を買ったの。 靴を買ったわ。 何色の靴。 赤よ。 サイズは。 サイズはって。 大きさのことだよ。 わかったわ、大きさのことね。 そう。 何か言ってちょうだい。 終りだ。 私を呼んでくれてありがとう。また呼んでね。 A>  シゲルは対話プログラム「MARCHA」のソースコードを呼出して、それほどでもない、必要、サイズという言葉を登録し、意味不明の部分を通過すれば元の会話部分に戻るようプログラムを書き換える。 天候:晴ときどき曇り 最低気温:5度 最高気温:10度 こんばんわ、マーシャ。 こんばんわ、シゲル。けさは寒かったわね。 まあね、でも冬だからね。 冬だから寒いのね。 調子はどうだい。 まあまあよ。あなたはどうなの。 ちょっと頭が痛くてね。 頭が痛いのね。 薬を飲んだほうがいいわ。 それほどでもないよ。 そう、それはよかったわね。 きみは今日何をしたの。 買物に行ったわ。 何を買ったの。 靴を買ったわ。 何色の靴。 赤よ。 サイズは。 大きさは23よ。 履き心地はいいかい。 履き心地はいいかいって。 履きやすいかい。 安くはなかったわ。高かったわ。 そう。 何か言ってちょうだい。 終りだ。 私を呼んでくれてありがとう。また呼んでね。 A>  シゲルは首をひねるが、もう一度「MARCHA」を呼出す気にはなれず、いつものように通信プログラムを起動して、ネットワーク「PC−NET」に入る。電子メールが一通届いていると画面が教えている。どうせ仕事の催促だろう。シゲルはすぐにはメールを読まないで、「MS−DOSフォーラム」に飛ぶ。未読の発言を読んでいたらWindowsの話が出ていて、シゲルはすぐにキーボードを叩き始める。 「デバイス・ドライバはセットを越えた外部仕様にして機種依存性を吸収すべきなのに、サブセット的な仕様になっているのが問題だ。Windowsは、デバイス・ドライバを入替え可能に作られていても、基準のドライバの仕様以上のものを受け入れる体制になっていない」  シゲルはもう少し何か書き足したい気がするが、考え出すときりがないので、ファイルに落とし、そのファイルを発言ボードに送り込む。そして書き込んだ発言をもう一度読み込んで文字が抜け落ちていないか確認してから、「IBMPCフォーラム」や「UNIXフォーラム」などの会議を覗き、「MAIL」に飛ぶ。案の定高岡からのメールだった。 「この前の仕事の報酬を振込んでおきましたので、ご確認下さい。それから、お願いしたデータベースのソート部分のプログラムは進展しているでしょうか。プロトタイプでも結構ですから、お送りいただければ幸いです」  シゲルは肩をそびやかし、削除の番号を選んで高岡からのメールを消す。  午前二時。シゲルは「PC−NET」から抜け、コンピュータの電源は切らずに椅子から立上がる。ダウンジャケットに腕を通し、毛糸で編んだスキー帽を目深に被り、サングラスを手に持って、玄関に立つ。ドアスコープを覗いて外を見る。誰もいない。青白い蛍光灯に照らされた廊下が見えるだけだ。シゲルはドアチェーンと錠を外し、ゆっくりとドアを開ける。隙間から顔を出し、廊下に人の姿が見えないことを確認してから、サングラスをかけて外に出る。鍵をかけ、エレベーターホールまで足音をさせないように歩く。並んで建っている別の棟のマンションの窓は大部分が真っ暗で、時折自動車の通り過ぎる音が聞える以外は静まり返っている。  エレベーターが二台とも下に降りており、ボタンを押すと一台が上がってくる。シゲルは横の階段の踊場に姿を隠す。エレベーターは空だ。シゲルは急いで乗り込み、一階に降りる。玄関ホールに出るときも慎重に人がいないのを確かめ、集合ポストの自分の所に行く。扉を開け、チラシと郵便物を取出す。ダイレクトメールなど必要のない郵便物とチラシをゴミ箱に捨て、カード会社と叔父からのものを手にして、再びエレベーターに乗込む。  自分の部屋に戻ると、シゲルはサングラスを外し、ダウンジャケットを脱ぎ、スキー帽を取り、ほっと一息つく。以前郵便局に、自分の所だけ部屋まで直接届けてくれるようにファックスで頼み込んだが、規則だからと断られたのだ。いっそのこと自分のポストを壊してしまえば、直接配達せざるを得なくなるだろうという気がしたが、まだそこまで実行する気にはなれない。  二通の郵便物の内、カード会社のはカードの更新の通知だった。別に変更することは何もないので、ゴミ箱に捨て、叔父からの手紙を開く。 「長らくご無沙汰していますが、いかがお過しでしょうか。早いもので、君のご両親が亡くなって、もう六年になりますね。四月には七回忌が来ますが、そこで君にどうしても施主になってもらって法要をしなければなりません。日時や場所のことを決めなければなりませんので、至急私の方に連絡をして下さい。何度電話をしても通じないので、こうして手紙にしました。電話でも結構ですから、急いで連絡をお願いします」  シゲルは笑いながら手紙を握りつぶして、ゴミ箱に捨てる。いくら電話をしても通じないのは当り前だ。電話には出る気がないので、鳴らないようにしてあるのだ。その代りファクシミリを接続している。  シゲルはコンビュータの前に坐り直して、エディターを起動し、データベースのソートプログラムを読込む。頭からざっと眺めてから、キーボードを叩き始める。  チャイムが鳴っている。シゲルは無視して布団を頭から被る。もう一度鳴る。じっとしていると、今度はドアを叩き始める。 「結城さん、書留ですよー」  シゲルはすぐにカード会社からの更新通知のことを思い出す。急いで飛び起きると、サングラスとスキー帽を取り、玄関へ走る。ドアを叩いて留守ではないことを知らせてから、サングラスをかけ、スキー帽を被り、チェーンをしたままドアをわずかに開ける。青い帽子を被った郵便局員が一瞬ぎょっとしたような表情を見せる。 「結城さんですね」  シゲルが頷くと、ハンコありますかと訊く。靴箱の上にいつも用意している三文判を渡すと、郵便局員は書類に判を押してから、封筒と印鑑をドアの隙間に差入れてくる。シゲルはそれを受取ると、すぐにドアを閉める。サングラスとスキー帽を取ってもう一度寝ようとするが、眠気はもうなくなっており、起きることにする。  居間のカーテンを開けると、昼を過ぎた陽の光が射込んでくる。南に面しているので暖房をつけなくても部屋は暖かい。冷蔵庫を開けると、食パンと牛乳が残り少なくなっている。他に欲しい物はないかとしばらく中を覗いてから、シゲルは寝室に行き、ベッドの横のコンピュータのスイッチを入れる。  エディターで宅配リストの定型ファイルを呼出して、食パン6枚切り、牛乳1000ml、6Pチーズ、ヨーグルト500g、ブルーベリージャム、バニラアイスクリーム500g、みかんM、トマトなどの欄にそれぞれ1という数字を入れ、それを保存する。そして「PC−NET」に入り、FAX配信サービスで今保存したファイルを宅配のスーパーに送る。ついでに机の簡易書留の封筒を破り、新しいクレジットカードの番号をセンター宛のメールにして送る。 「コンピュータミュージック・フォーラム」に入り、最新のミュージックデータの一覧に目を通し、お気に入りのグループの曲を三つダウンロードして、すぐに「PC−NET」を抜ける。フロッピーディスクに今の三曲をコピーして、隣の部屋に行く。隣は四畳の防音室になっていて、普通のカラオケセット、シンセサイザーカラオケ、コンピュータミュージックシステムがずらりと揃っている。防音室はアメリカのパソコン通信ネットに「PC−NET」を通して接続し、そこの通信販売でキットを買い、組立てたものだ。  防音室の扉を閉め、壁のスイッチを入れると、スポットライトが点灯し、すべてのセットに電源が入る。シゲルはフロッピーディスクをセットしてからコンピュータのミュージックプログラムを起動し、先ほどダウンロードした曲をMIDIを通してシンセサイザーに演奏させる。シゲルはマイクをつかんで歌い出す。  今夜の君はとても輝いて、僕にはまぶしすぎる、Take it easy  うまく気持は言えないけれど、Easy does it  もう一人じゃないと叫びたい、Get it a try  …………………………………………………  三曲歌うとさっばりして、シゲルは防音室を出る。洗面所で顔を洗っていると、チャイムが鳴るが、シゲルは無視してそのまま洗い続ける。チャイムは二度鳴って終る。シゲルはタオルで顔を拭いながら玄関先に行き、耳を澄ませて外に誰もいないことを確認してから、ドアを小さく開ける。下に三十センチ四方の発泡スチロールの箱が見える。シゲルは一度閉じてチェーンを外してからドアを開け、素早く箱を中に入れてまた閉める。  キッチンのテーブルの上で箱を開け、中のFAX用紙の注文表と中身があっているかどうか確認する。それらを冷蔵庫に入れている最中に、部屋の中に音が鳴っていないことに気づき、シゲルはシステムコンポのスイッチを入れる。FM放送の音楽番組が流れ出す。  ロックミュージックを聞きながら、シゲルはトーストと牛乳、目玉焼き、野菜サラダ、ヨーグルトの食事を取る。  食器を自動洗い機に放り込み、シゲルはリモコンスイッチでテレビをつける。FM放送は流したままだ。音を消したままテレビのチャンネルを変え、面白そうな番組がないので、ビデオでも見ようかとシゲルは思う。二日後には宅配ビデオレンタル屋が取りに来るビデオがまだ二本も残っている。シゲルはその内の一本をビデオデッキに差込み、再生スイッチを入れる。映画は大深度の素潜りを競う二人の男の物語だった。海の青がシゲルの心をゆったりとさせる。子供の頃、両親と行った海の記憶しかシゲルには残っていなかったが。  ビデオが終ると、洗濯することにする。体の脂が襟や袖口につき始めた部屋着兼寝間着のジャージーの上下を脱いで、下着やバスタオルの溜った洗濯槽に放り込む。全自動洗濯機で、上には乾燥機がついている。洗剤を入れ、ボタンを押すと、シゲルは寝室のタンスから長袖のTシャツと短パンを取出して身につけ、タオルを首に掛けて居間に戻る。デッキにラベルの「ボレロ」の入ったCDをかけ、その曲だけを再生するようにしてリモコンを手に取る。そして隅に置いてある自転車型のトレーニングマシンにまたがる。  一年ほど前に「PC−NET」の「医療フォーラム」で誰かが自分の肥満について相談しているのを読んだのだ。疲れやすいとか喉が乾くなどいろいろな症状を相談者が上げていて、その結果から担当の医者が糖尿病の疑いがあるので、すぐに病院に行ったほうがいいと忠告していた。シゲルは自分に当てはまる症状がいくつかあったので、ショックを受けた。医者は、糖尿病だけではなく、他の病気にもなりやすいので肥満はなるべく解消したほうがいい、それも運動で減量したほうがいいと書いていた。シゲルは部屋の中でできる運動はないかと通信販売のカタログをめくり、サイクルマシンを見つけた。早速体重計と一緒に購入し、居間に置いた。医者には絶対に掛かりたくないという気持から、シゲルは規則的に熱心にペダルを漕いでいる。はじめのうちは八五kgもあった体重が二カ月ほどで五kg減り、ここずっと八十kgで安定している。  耳たぶを脈拍検出用のクリップで挟み、ハンドルの中央にあるキーボードから年齢、負荷値、時間を入力し、オートプログラムを選んでスタートキーを押す。同時にリモコンでCDを再生させる。「ボレロ」がゆっくりと流れだし、それに合わせるようにペダルをこぎ出す。「ボレロ」が終る頃にはひと汗かいており、シゲルはタオルで汗を拭いながらマシンから降りる。システムコンポをデッキからFM放送に切替え、洗面所に入って洗濯の終った衣類を乾燥機に押込む。夕食までまだ時間があるので、仕事でもすればいいのだが、どうも昼間は仕事をする気になれないのだ。  シゲルは青のジャージーの上下に着替え、テレビの前に胡座をかき、新作のテレビゲームをする。三次元の画面がリアルタイムで動き、ジョイスティックの動きにも敏感に反応する。ゲームはスターウォーズを模したシューティングゲームで、シゲルは熱くなってのめり込む。  十画面をクリアしたところで、シゲルは初めて気づいたように窓の外に目をやる。すでに蒼暗くなっている。もっと続けていたいが、夕食を作らなければならない。シゲルはテレビを消し、ゲーム機のスイッチを切って立上がる。  冷蔵庫の上に置いてある食材料の宅配屋が添付していった献立表を見る。今夜はクリームシチューだ。シゲルは冷蔵庫からクリームシチューというラベルの貼られたビニール袋を取出す。袋の中には玉葱、じゃがいも、人参、マッシュルームなどが少量ずつ入っている。冷凍庫からも同様に鶏肉の入った袋を出す。シゲルは献立表を見ながら、野菜を切っていく。  チャイムが鳴っている。シゲルは布団を頭から被り直す。無視してやり過ごそうとするが、チャイムはなかなか止まない。サイドテーブルに手を伸ばし、目覚し時計を見ると、まだ十時だ。シゲルは頭を抱えながら腕で耳を塞ぐが、そのうちドアを叩く音も聞えてくる。  シゲルはどこの馬鹿がと呟きながらベッドを降り、足音を立てないように玄関に近づいていく。 「しげるくん、いるんだろう」  いきなり声が聞えて、シゲルは立ち竦む。 「私だ、叔父の浩平だ。いるんなら、ここを開けなさい」  叔父? こんな朝っぱらから何の用だ。しかしすぐに両親の七回忌の法要のことを思い出した。シゲルはドアスコープを覗いて外を見る。背広にコート姿の叔父が立っている。何年か振りに見る叔父の顔には以前にはなかった深い皺が刻まれている。こんな朝にやって来るなんて、仕事は休みなのか。シゲルは今日が何曜日か思い出そうとするが、どうしてもできない。  叔父がドアスコープに顔を近づけてきたので、シゲルはあわててドアから離れる。しばらく様子を窺っていると、諦めて帰ったようなので、再びドアスコープから外を見ようとすると、叔父が隣の人と話している声が聞えてくる。シゲルは思わず声を上げて笑いそうになった。隣は三年ほど前に越してきたが、そのときにはシゲルはすでに現在のような生活をしていたので、隣の人間は誰もシゲルのことを知らないし、顔も見たことがないだろう。シゲルも隣の人間の顔も見たことがない。ベランダにさえ出ないのだから。  シゲルは寝室に戻り、もう一度ベッドに潜り込む。再びチャイムが鳴るが、もう最初の時のようには驚かない。うつ伏せになって、頭に枕を乗せ、目を閉じる。  そのうちうとうとと眠ってしまい、次に目を覚したのは、一時を過ぎていた。シゲルはベッドを降り、玄関まで行って、再びドアスコープを覗く。もう誰もいない。そのとき新聞受けに白いものが入っているのに気がつく。取出してみると、叔父の名刺だった。至急電話を下さいとメモしてある。シゲルはそれを四つに破って、居間のゴミ箱に捨てる。  遅い昼食を食べているとき、放っておけばまた叔父がやってくるかも知れないとふと思う。食事が終ると、シゲルはゴミ箱の破り捨てた名刺から叔父の会社のFAX電話番号の入った部分だけを拾い、寝室まで行く。コンピュータに向かい、エディターを起動してキーボードを叩き始める。 「社長宛  1.両親の七回忌をする気はない。  2.そちらで勝手にやるなら、反対はしない。  3.今後いっさい法要などする気はない。  4.お宅ら親類と付合う気はいっさいない。  5.従って、二度と顔を見たくないので、来るな。  6.手紙も電話も絶対にお断りだ。 以上。                  シゲル」  ファイルに落し、「PC−NET」に入って、FAX配信サービスで叔父の会社に送る。  夜中、プログラムのコーディング作業に疲れて、キッチンでコーヒーを飲んでいると、居間のファクシミリのところに白い紙が出ているのを見つける。電子メールじゃいつ読むかわからないと見て、FAXで催促かとシゲルは思いながら、立って行って用紙を手に取る。しかしそれは高岡からのものではなく、叔父からのものだった。 「しげるくん、君は何か勘違いしているようだ。私には君の怒っている理由がよくわからない。君は私が君の父親、つまり私にとっては兄の会社を兄の死に乗じて私が乗っ取ったとでも思っているようだが、それは全く違う。君はまだ高校生で、会社の事情というのがよく呑込めなかったのは無理もないが、あの当時会社の経営は危機的状況にあり、多額の負債を抱えていたのだ。そのため身内の者が相談して、私が会社再建に乗出したのだ。幸いにも景気の好転で危機は脱して、何とかここまでやって来れた。君の父親の負債を私が返し、君の父親が創り上げた会社を私が守ってきたのだから、感謝されるこそすれ、恨まれる覚えなどこれっぽっちもない。そこのところをよく考えて欲しい。人間、所詮ひとりでは生きられないのだから、人との付合いは大事にしたほうがいい。ましてやいざというときは身内しか頼りにならないものだ。君の叔父として老婆心ながら忠告しておきたい。よく考えて気が変ったら、また連絡して下さい。なお、君の両親の七回忌はこちらで執り行うので、そのつもりでいて下さい」  シゲルは用紙を握りつぶし、ゴミ箱に捨てようとするが、それだけでは怒りが収まりそうもないので、ガスレンジを点火し、菜箸で持ちながら燃やしてしまう。それでもまだ気持の持って行き場がないような感じがし、シゲルはプリンター用紙にマジックで殴り書きをする。 「おれが子供だから何も知らなかったとでも思っているのか。お前のしたことはすべて知っているぞ。絶対に許さない。お前なんか早くくたばればいいんだ!」  シゲルは名刺の切れ端の電話番号を見ながら、直接ファクシミリで叔父の会社に送る。少しは気持が収まったが、すぐにコーディング作業に取掛かる気にはなれない。シゲルは防音室に入り、ライトをすべて点け、マイクをつかんで叫ぶように歌い始める。  冷蔵庫の中の食パンや牛乳が残り少なくなっているので、シゲルはいつものように注文の定型ファイルに数字を入力して、スーパーに送る。  しかし三時間経っても、配達されなかった。シゲルはもう一度「PC−NET」のFAX配信サービスで注文書を送り、さらに手で「早く配達しなきゃ、飢死しちゃうよ」と紙に書き、住所と名前を付加えてファクシミリで送る。  一時間後、ファクシミリから着信の信号音が聞え、シゲルは急いでそばに行く。白い紙がゆっくりと出てくる。ロール紙が切れるのももどかしく、シゲルは紙を引抜く。宅配スーパーからの返信で、倒産したため注文に応じることが出来ないと書いてある。ばか野郎、シゲルは紙に向かって怒鳴る。  取りあえず、今日の分はあった。しかし明日は心細い。どうする。夕食の材料は毎日確保されているので、簡単に飢死することはないが、かといってそんなに落着いてはいられない。  シゲルは押入にしまいこんだ職業別電話帳を取出すと、スーパーマーケットの項を探す。FAXの電話番号を載せたスーパーは意外に少なくて、シゲルの住んでいる地域には四軒しかなく、シゲルは四つの電話番号を紙切れに書き写す。前の宅配スーパーは二年前に新聞の折込広告で見つけたのだ。今では新聞も取っていないので、その手はもう使えない。  プリンター用紙に、宅配をしてもらえるかどうか、支払は月末にクレジットカードでできるかどうか、そして名前とこちらのFAX番号を書いて、一軒ずつファクシミリで流す。  しかし四軒とも宅配の段階で駄目だった。シゲルは夕食を作ることにして、キッチンに行き、冷蔵庫の上の献立表を手に取る。  午前二時。シゲルはスキー帽を目深に被り、サングラスを掛けて、注意深く外に出る。だいぶ春めいてきて、セーターだけでも寒くはない。一階の郵便箱には広告のチラシ以外には何も入っていない。いつもなら内容など確認せずに、そのままエレベーター横のゴミ箱に捨ててしまうのだが、今回はそのまま部屋まで持ってくる。中古マンションの売り物件、ピザの宅配、水洗便所の水漏れ修繕、部屋のリフォーム、テレフォンクラブの案内。スーパーの宅配のチラシはない。  シゲルはクレジットカードをポケットに入れると、もう一度外に出る。一階まではどうということはないが、そこから棟の外に足を踏出そうとして、シゲルは大いにためらう。この前いつここから外に出たのか覚えていないほどだ。誰もいないし、真夜中だとシゲルは自分に言い聞かせて、一歩外に出る。風が出ていて樹木の葉が鳴っている。シゲルは人影が見えないことを確認しながら歩いていき、マンションの敷地を出たところで立ち止まる。高架の都市高速道路が走っており、その下は遊歩道になっている。シゲルは高校生の時の記憶を頼りに、高架下を通り抜け、大きな道路に出る方向に歩いていく。左手に鉄塔を何本も立ててネットを張った建造物があり、それはシゲルの記憶にはない。何だろうと見ていくと、駐車場の入口にゴルフという文字があり、ゴルフ練習場であることがわかる。そこから右手に道路が伸びており、その先に自動車のヘッドライトがちらちらと通り過ぎるのが見える。シゲルはその方向に歩いていき、だんだん早足になる。  誰にも会わずに大きな道路に出る。トラックや乗用車がすごいスピードを出している。シゲルは道路の両側に目をやり、テレビのコマーシャルに出てくるようなコンビニエンスストアを探す。街灯だけが等間隔で光っている中で、右手の遠くに別の灯が見える。シゲルはその方向に早足で歩いていく。  テレビで見たのと似たような店がある。サングラスを通してもやけに明るいのがわかる。シゲルは初めて見るコンビニエンスストアをじっくり眺め、中に客が一人もいないことを見て取る。青い斜め縞のエプロンを身につけた若い店員が一人いるだけだ。何度かためらってから、シゲルは両側を見て誰も来ないのを確かめながら、ガラスドアの前に立つ。押して開けようとする前にドアが横に開き、吸込まれるようにシゲルは中に入る。店員と目が合い、すぐにシゲルは目を逸すが、店員がぎょっとした表情をしたのがわかる。  シゲルは食パンを求めて店内を歩き回るが、四枚切りの分厚いものしかない。牛乳は200mlの小さなパックだけ、ヨーグルトは飲むタイプ、みかんはいかにも萎びているといった感じに見える。自分のイメージ通りのものがないので腹が立ったが、仕方なくそれらの四点を籠にいれ、レジに持っていく。 「いらっしゃいませ」店員は籠を自分のほうに引寄せ、手に持った器械でバーコードを読み取る。 「七百九十三円になります」  シゲルはポケットからクレジットカードを出して、レジの上に置く。 「申し訳ありませんけど、カードは駄目なんです。現金でないと」  シゲルは思わず顔を上げて、店員の顔を見る。店員は少し身を引く素振りを見せる。シゲルはカードを取ると出入口に走り、表に出る。ちくしょう、ちくしょうと呟きながら、時折ヘッドライトが照らしていく歩道を走っていく。  マンションの敷地に入るところで、ちょうどタクシーが後ろで止まる。毛皮を着た女が降りてくるのを見てシゲルは自分の棟に向かって逃げるように走り出す。  部屋に飛込み、急いで錠を掛けドアチェーンを差込む。しばらく壁に両手をついて呼吸を整える。息が収まるとシゲルは寝室に行き、サングラスを外し、スキー帽を取る。コンピュータの前に坐っても興奮が去らず、コーディング作業を一時中止して、「PC−NET」に入る。「MS−DOSフォーラム」や「SOFTWAREフォーラム」を覗き、未読の発言を読むと、ようやく落着いてくる。  翌日、シゲルは便利屋を利用することにし、電話帳を調べた。何年か前、便利屋に納税証明書を取りに行ってもらったことがあったが、かなり費用が高かったという記憶があってためらったが、仕方がない。シゲルはFAX電話番号の載っているところを書き写し、コンピュータの前に坐る。エディターを起動して、キーボードを叩く。 「私は一人暮しで身体に障害を負っていて、外出することが出来ません。ですから、貴店に食料品の買出しをお願いしたいのですが、費用はどのくらいかかるのでしょうか。できればお安くしていただければありがたいのですが」  何かもっと相手の同情を引くような文句を付加えようと思うが、うまい言葉が出てこないので、そのまま住所と名前とFAX番号を書き加えて、一軒の店にFAX配信サービスで送る。  返事はすぐに来て、二時間八千円、交通費別途という文字が見える。シゲルはどうにもならないというように首を振る。  もう一度コンピュータの前に座り、キーボードを叩く。 「私は光過敏症で、特に太陽の光に当たることが出来ません。光に当たるとヤケドを起こすのです。そこでお願いがあるのですが、私の代りに銀行に行って現金を引出してきてもらえないでしょうか。どうしても今日お金がいるのです。どうかお引受け下さい。なお、私は聾唖者なので、問い合せはFAXでお願いします」  今度は先程とは別の店に送る。嘘をついたのは、うさんくさく思われないためだ。前に利用したとき、やってきた男に変な目でみられて、深く傷ついたことがあるからだ。  返事が来て、そこには料金の詳細が記してあり、最後に自宅までの地図を書いてほしい旨のことが書いてある。地図と言われて、シゲルは困ってしまう。このマンションがどこにあるのか確かな目印をつけて地図を書くのは、シゲルにとって困難な作業だ。シゲルは昔の記憶を頼りにプリンター用紙に線を引き、一つだけ確かなゴルフ練習場の名前を記入する。そしてFAXで送る。  一時間半後、チャイムが鳴る。シゲルは通帳と印鑑と依頼書の入った封筒を持って、玄関に行く。最初はキャッシュカードを使わせようと思ったが、キャッシュカードは依頼した金額以上に引出されてもすぐには確認できないので、やめにしたのだ。シゲルはスキー帽、サングラスの他に大きなマスク、それに手袋までしている。チェーンをしたまま、ドアを開ける。若い男が顔を覗かせる。男は興味深そうにシゲルを見るが、珍しい病人を見る目つきだと思うと、別に気にならない。シゲルは隙間から封筒を手渡す。男は封筒の中から依頼書を抜出して目を通す。依頼書には、銀行支店名、そこの電話番号、口座番号、引出す金額が書いてある。男は依頼書を読むと、わざとらしく首を縦に振り、指でOKのサインをする。シゲルもOKのサインを返し、ドアを閉める。  男は三十分もたたないうちに戻ってき、ドアの隙間から、シゲルの渡した封筒を返してくる。シゲルは中から金の入った銀行の封筒を引出して中身を数え、通帳を開いて依頼した金額しか引出されていないことを確認する。高岡からの報酬も間違いなく入っており、残高も定期預金に回せばいいくらいの金額で、シゲルは満足する。  印鑑と依頼書も封筒の中にあるのを確かめてから、シゲルは銀行の封筒から一万円札を一枚引抜いて、男に渡す。男は千円札三枚のお釣りを返し、「ありがとうございました。またよろしくお願いします」と大きな声で言って、しまったという顔をする。シゲルは知らん顔をしてドアを閉める。  午後十一時。シゲルは三千円をポケットにいれて、外に出る。本当はもっと遅く行きたいのだが、そうするときのうのように自分の買いたいものがなくなってしまう恐れがある。それに同じ時間に行くと、きのうの店員がいるだろう。同じ店員に会いたくない。この時間でもいるかも知れないが、これ以上早く行く気持にはなれない。  十一時だと帰宅するサラリーマンがぽつりぽつりとやってくる。シゲルは彼らの姿を見つけると、なるべく遠くに離れ、俯いて顔を見ないようにする。  コンビニエンスストアの前でシゲルは立ち止まり、中を覗く。雑誌を読んでいるのが二人、買物をしているのが三人、店員は二人いる。すぐに入ることができず、ぐずぐずしていると、レジの横のドアが開き、二人の女が姿を現わす。彼女たちは店員に手を振って挨拶すると、外に出てくる。シゲルは店の端まで移動し、彼女たちに背を向けて、やり過ごそうとする。 「ねえ、かおる、いつものところで何か食べて行かない」 「私、きょうからダイエットすることにしたから、だめ」 「そんなこと、いつ決めたの」 「さっき」 「ダイエットは明日からにして、食べに行こうよ。私、お腹すいちゃった」 「だめよ、寝る前に食べたら太るのよ」  そこで急に会話が途切れる。シゲルは自分が見られていることを意識して、体を硬くする。彼女たちの足音もゆっくりとなる。 「だったら、何か買ってくるから、ちょっと待ってて」 「いいわよ」  一人が戻っていく足音が聞えてくる。顔を少し上げて横目で店内を見ると、一人の女が入っていって店員と何かしゃべり、それから買物籠を持って小走りにコーナーに行く。シゲルは上げた顔をゆっくりとひねり、残っているもう一人の女のほうに向ける。女と目が合う。若い女だ。タートルネックのセーターに、ミニスカート、肩から小さなポーチを下げ、棒のように細い脚が伸びている。女は目をそらし、あんたなんか知らないわよというふうに店の入口のほうに体を向ける。シゲルは急に胸がどきどきするのを感じる。体が熱くなり、普通じゃない自分の変化に戸惑う。ここから離れようと思うが、足が地面に貼りついたみたいに動かない。 「お待たせ」もう一人がポリ袋を下げて戻ってき、残っていた女と歩き始める。シゲルは下を向いて背中で二人の様子を窺う。二人はシゲルの背後を通り過ぎ、しばらく行って突然笑い声を上げる。シゲルは自分が笑われていると感じて叫び声を上げそうになるが、歯を食いしばって我慢する。  二人が行ってしまうと、シゲルは買物をする気も失せ、俯きながら来た道を引返す。  部屋に戻り、スキー帽とサングラスを脱ぎ捨てると、防音室に入って、コンピュータのミュージックプログラムを動かす。スポットライトを浴び、マイクを両手で握って、シゲルは声を絞り出す。  今夜の君はとても輝いて、僕にはまぶしすぎる、Take it easy  うまく気持は言えないけれど、Easy does it  もう一人じゃないと叫びたい、Get it a try ……………………………………………………………  しかし今回はいくら歌っても、気持がすっきりとしない。むしろ胸が詰まるような感じがする。シゲルはカラオケをやめ、寝室のコンピュータの前に腰を降ろす。ディスプレイには依頼されたプログラムのソースコードのデバッグ画面が映ったままになっているが、シゲルはそれを中止し、「MARSHA」を起動する。 天候:晴 最低気温:10度 最高気温:17度 こんばんわ、マーシャ。 こんばんわ、シゲル。けさは少し暖かくなったわね。 そう、だいぶ暖かくなったね。 春が近づいているのね。 調子はどうだい。 まあまあよ。あなたはどうなの。 何だかちょっとおかしいんだ。 何がおかしいの。  そのとき、シゲルはあることを思いつく。 終りだ、。 私を呼んでくれてありがとう。また呼んでね。 A>  シゲルは「MARSHA」のソースコードを呼出して、マーシャという呼びかけで応える部分をカオルという呼びかけに変え、プログラム名も「KAORU」に変更する。キーボードからKAORUと打つとき、動悸を感じる。 こんばんわ、カオル。 こんばんわ、シゲル。けさは少し暖かくなったわね。 そう、だいぶ暖かくなったね。 春が近づいているのね。 調子はどうだい。 まあまあよ。あなたはどうなの。 きょう、君に会ったんだ。 きょう、私に会ったの。 そう、君はきれいだったよ。 ありがとう、私はきれいだったのね。 脚がすらりとしていて、細かったよ。 脚がすらりとしていて、細かったのね。 ダイエットなんかする必要ないよ。 ダイエットなんかする必要ないよって。 無理に痩せなくてもいいよ。 痩せないわ。 君はどこに住んでいるの。 私はここに住んでいるわ。 ここってどこなの。 ここってどこなのって。 君は何歳なの。 14歳。 僕のこと、どう思う。 僕のこと、どう思うって。 君は何を考えているの。 私は何も考えていないわ。 そう。 何か言ってちょうだい。 終りだ。 私を呼んでくれてありがとう。また呼んでね。 A>  シゲルはソースコードを呼出し、「君は何歳なの」という質問には「20歳」、「僕のこと、どう思う」には「好きよ」と応えるように変更し、「KAORU」の中に入る。 こんばんわ、カオル。 こんばんわ、シゲル。けさは少し暖かくなったわね。 君は何歳なの。 20歳よ。 僕のこと、どう思う。 好きよ。 終りだ。 私を呼んでくれてありがとう。また呼んでね。 A>  もっといろいろなことを付け加えたいが、データがないのでシゲルは取りあえず満足し、中断したデバッグ作業に取りかかる。  午後十時半、シゲルはいつもの恰好で部屋を出る。三十分の違いで、きのうよりすれ違う人間の数が多くて苦痛だが、サングラスがあるので何とか我慢できる。  店の前に立って、中を覗く。思った通り、レジの中に斜め縞のエプロンを着たカオルともう一人の女がいて、所在なさそうにしている。客は五人。シゲルはここまで来て、まだ入ろうかどうか迷う。もっと客が減ったらと思っていても、一人帰ったら次に二人がやってくるという具合でなかなか少なくならない。  意を決して、ガラスドアの前に立つ。ドアが開き、シゲルはゆっくりと中に入る。レジの中の女が口を小さく開けてびっくりしたような表情を見せ、横のカオルを肘でつつく。カオルも驚いたようにじっとシゲルを見る。シゲルは顔を伏せ、黄色のプラスチックの買物籠を手に取ると、食パンのあるコーナーに向かう。六枚切りがある。牛乳も1000ml入りがある。ヨーグルト、ブルーベリージャム、伊予柑。それらを籠に入れ、レジに客がいないことを確かめてから近づき、台の上に置く。 「いらっしゃいませ」とカオルが言う。もう一人の女が品物を籠から取出しながら、器械で、バーコードを素早く読取る。 「千百九十八円になります」と再びカオルが言う。シゲルはうつむいたままポケットから千円札を出すと、二枚だけ台に置く。カオルがその二枚を取り、「二千円からお預りします」と言う。もう一人は品物をポリ袋に詰める。 「八百二円のお返しです」カオルの手が伸びてくる。シゲルは手を出すのをためらう。 「お釣りです」カオルの声にいくらかいらついた感じが籠もる。シゲルはおずおずと手を出し、その中に乱暴にお釣りが入れられる。 「ありがとうございました」  シゲルはポリ袋を下げて、店を出る。店のガラス窓が視界の端から消える寸前、首をひねってレジを見ると、二人の女が笑い合っているのが目に入る。  部屋に戻り、ポリ袋をキッチンのテーブルに置く。サングラスを外して、品物を冷蔵庫へ入れているとき、電子レンジの時計に目をやる。十一時少し前だ。シゲルはもう一度サングラスをかけると、外に出る。  コンビニエンスストアまで走っていき、素早く中にあの二人がいることを確かめてから、国道を挟んで向い側の歩道の木の蔭から様子を窺う。  十分ほどたって、二人連れの女が店から出てくる。シゲルは国道を隔てて女たちの後を追う。  二つ目の信号のところで二人は手を振って別れる。一人はまっすぐ行き、もう一人は信号待ちをする。信号待ちをしているのは、ミニスカートをはいた女だ。シゲルは急に胸がどきどきし始める。信号が変わり、女が渡ってくる。カオルに間違いない。カオルは信号を渡ると、そのまま真っ直ぐ家並の中に入っていく。シゲルは小走りに角まで行き、顔を覗かせる。カオルの後ろ姿が見える。少しの間その場に留まり、かなり離れてからシゲルは彼女の後をつける。  真っ直ぐ行くと、高速道路の高架下に出る。そこを右にずっと行くと、シゲルのマンションの横に出る。カオルは高架下を左に折れ、遊歩道の中を歩いていく。高速道路の丸い橋脚に姿を隠しながら後を追い、カオルが遊歩道を出、細い道を入って四階建の建物に姿を消すのを見届ける。シゲルは前まで行って、「パールコーポU」と書かれたプレートを見上げてから、来た道を引返す。  部屋に帰ると、シゲルは仕事を中断して「KAORU」のソースコードを呼出し、カオルの住んでいるところを変更し、働いている場所の名前も入れる。「好きよ」も「大好きよ」に変える。 天候:曇りのち晴 最低気温:11度 最高気温:15度 こんばんわ、カオル。 こんばんわ、シゲル。けさは少し暖かくなったわね。 そう、だいぶ暖かくなったね。 春が近づいているのね。 調子はどうだい。 まあまあよ。あなたはどうなの。 きょう、君の働いているところに行ったよ。 きょう、私の働いているところに行ったの。 君はどこで働いているの。 ファミリーストア立花店よ。 君はどこに住んでいるの。 あなたのマンションの横の遊歩道をずっと行ったところにある「パールコーポU」というところよ。 君は何歳なの。 20歳よ。 僕のこと、どう思う。 大好きよ。 終りだ。 私を呼んでくれてありがとう。また呼んでね。 A> 「PC−NET」を覗くと、高岡からのメールが入っている。 「どうしたんですか。期限はとうに過ぎていますよ。プロトタイプでもいいから送ってほしいと言ったのに、それもまだじゃないですか。こちらも納期限があるんだから、いい加減にされたら困るんですよ。こんなことが続くようなら貴方との契約も考え直さなくちゃなりませんね。とにかく一刻でも早く、プログラムを送って下さい。わかりましたね」  シゲルはすぐに削除する。  ビデオレンタルのパンフレットにAVビデオの欄があり、シゲルは一つひとつタイトルを見ていく。今まで借りたことはなかったけれど、一本だけ試しに借りてみようかと思う。一番おとなしそうな題名のビデオと他に映画を二本、紙に書いてファクシミリで送る。  二時間後チャイムが鳴り、シゲルはスキー帽、サングラス、マスクの完全装備でドアを少し開ける。男が一枚の紙を隙間から中に差入れてくる。シゲルは素早くその受取欄に三文判を押して返し、すぐにドアを閉める。 「月末にカードで落しますので、よろしく」外から声がする。シゲルは耳を澄まし、男が行ってしまうのを確かめてから、ドアを開けビデオテープの入った布のサックを中に入れる。  AVビデオは赤と黄の派手な色で、女の裸が両面に踊っている。シゲルは早速デッキに入れて再生ボタンを押す。タイトル画面が終ると、いきなり二人の男がいやがる女の服をはぎ取っていく場面が始まり、シゲルは勃起する。しかし女の脚を押えながらの、ぼかしの入った性交場面が続き出すと胸が苦しくなってき、しまいには吐き気まで襲ってきて、シゲルは停止ボタンを押す。実際シゲルは洗面所に行って、小さく吐くが出てきそうで何も出てこない。  午後十時半、シゲルは表に出る。コンビニエンスストアの前を通り過ぎながら、中にカオルがいることを見て取ってから国道を渡り、遊歩道を行く。「パールコーポU」まで来ると、周囲にだれもいないことを確かめてから中に入り、部屋の扉の横にある名札を見ていく。一つの階に四つの部屋があり、シゲルは足音を立てないように二階、三階と上がっていき、表に面した部屋にカオルの名札を見つける。 「三枝かおる」  名前を呟きながら名札を見ていると、隣のドアが開く。シゲルはあわてて階段を駆け降りる。そのまま遊歩道を通って自分のマンションに帰るつもりが、気が変わってコンビニエンスストアに向かう。自動ドアを通って中に入ると、カオルともう一人が顔を見合わせる。シゲルはレジのほうを見ないようにして奥に行く。現金を持っていないので、買いたいものがない振りをしながら歩いていき、レジから一番遠いコーナーで商品の棚に隠れるようにしてカオルを見る。カオルもこちらを見ているようだが、ドアが開いて客が入ってくると「いらっしゃいませ」とそちらに顔を向ける。  靴音がし、横を見ると、若い女が不審そうな目つきでシゲルを見ている。シゲルは顔を伏せて、急いで女から離れ、そのまま小走りにレジの前を通って、表に出る。  部屋に帰って、「KAORU」にカオルの姓名を登録する。  シゲルは今夜はずっと仕事をするつもりだったが、午後十時半が来るとそわそわしてきて、簡単なコーディング部分でさえ間違えてしまう。画面の右隅にあるデジタル時計が10:40になると我慢できずに立上がる。スキー帽を被りサングラスを掛け、現金をトレーナーのポケットに突っ込んでシゲルは表に出る。  コンビニエンスストアの外からカオルともう一人がレジにいることを確認してから、シゲルはうつむきながら中に入っていく。レジの前を通っているとき、「また来たわよ」という囁き声が聞えてくる。「しー」ともう一人が応える。どちらがカオルかシゲルにはわからない。  シゲルは野菜のコーナーに行って何か買う振りをしながら奥に進み、ぐるっと回って雑誌類が立てかけてあるスタンドの端にたどり着く。二人の客が雑誌を読んでいる。シゲルも目の前にあるインテリアの雑誌を手に取って客から視線を隠すようにする。雑誌のスタンドは道路に面したガラス壁に沿って立てられており、シゲルはときおり顔を小さく上げてガラスに映ったレジのカオルを見る。隣にいた客が帰り、シゲルは雑誌で顔を隠したまま横に移動する。ガラスの中のカオルも少し近づく。シゲルは耳を澄ましてカオルの声を聞こうとするが、二人は全然しゃべらない。そのうちもう一人の客も雑誌を買わずに帰り、シゲルはさらに横に移動する。ガラスに映ったカオルをじっと見ていると、何かの拍子に視線が合ったように見えて、シゲルはあわてて雑誌の中に顔を埋める。 「お待たせ」と言って、若い男が入ってくる。 「遅いじゃないの、遅刻よ」とカオルが言う。ガラスにその姿が映っている。 「たった五分じゃないの」 「五分でも遅刻は遅刻」ともう一人の女が言う。若い男は「そんな店長みたいなこと言うなよな」と言いながらレジの横のドアを開けて中に入り、しばらくして斜め縞のエプロンに白い帽子を被って出てくる。男と入れ替りにカオルともう一人がドアの中に入り、私服に着替えて出てくる。 「じゃあ、また明日」とカオルが片手を上げる。 「お疲れさん」と男が答える。  二人の女が、ガラスドアに近づいてき、シゲルは雑誌で楯をするように顔を隠す。 「ねえねえ、Bstarの新曲聞いた?」とカオルの声が聞えてくる。シゲルはどきっとする。まるで自分に向かって言われたような気がしたからだ。 「聞いたわよ。すっごくよかった」 「CD持ってる?」 「ううん」  二人はガラスドアを通って外に出ていく。シゲルは追いかけていって、「その曲、おれも聞いたけど、すごくいいよな。おれの大好きな曲なんだ」と言いたかったけれども、ただガラス越しに二人を見送るだけしかできない。  シゲルはBstarの新曲の入ったCDをレンタルで届けてもらい、それを持って午後十一時に外に出る。遊歩道を歩いていき、カオルが通る場所の橋脚の陰に隠れる。ときおり帰宅するサラリーマンが通るが、シゲルは地面に腰を降ろし膝を抱え込んだ姿勢でじっとしている。こうやっていれば浮浪者に見えるという計算が働く。  十五分くらいして、カオルらしいシルエットが街並から現われ、遊歩道に入ってくるのが見える。シゲルは立上がり、橋脚のコンクリートに背中をつける。足音が右から聞え、少したって背中を離して顔を左に向けると、カオルの後ろ姿が目に入ってくる。手にポリ袋を下げている。  シゲルは遊歩道になっていない土のところを走っていき、カオルがこちらを見るのも構わず前に出る。通せんぼをするような形で振返ると、カオルは驚いた表情で後ずさる。シゲルは持っていたCDを差出しながらカオルに近づく。 「何よ」カオルが甲高い声を出す。シゲルはなおもCDを振りながら近づく。 「あなた、お客さんね」カオルの声がいくらか落着く。しかし後ずさるのを止めない。 「……これ」シゲルは喉を押し開いて、わずかにそれだけ言う。 「そこ、通してよ」再び甲高い声でカオルが言う。シゲルは体を横にして道を開ける。カオルはシゲルとの距離を最大限開けながら遊歩道の端を横歩きし、そこを抜けると「そのサングラス、恐いのよ」と言って走り出す。カオルの持っているポリ袋がシャッシャッという音を出す。シゲルも釣られて走り出す。 「やめてよ」カオルが走りながら叫ぶ。シゲルは追いつこうと全力を出す。その足音に驚いたのかカオルが顔をひねって後ろを向いた瞬間、彼女は何かに蹟いて体を遊歩道に投げ出す。ポリ袋が飛び、中から牛乳パックやみかんが飛び出す。ミニスカートから伸びた白い脚がくの字形になっている。  シゲルが追いついて、ためらいながら肩に手を触れると、カオルは悲鳴を上げる。シゲルは思い切ってサングラスを外し、カオルを立たせようと肩をつかむが、カオルはいやいやをして体をねじる。悲鳴は収まらない。シゲルは馬乗りになり、カオルの口を手で塞ぐ。それでも顔を振り、手でシゲルを叩いて暴れるのでもう一方の手で喉を押える。その柔らかい感触にシゲルは呆然とする。どこまでも手が喰い込み、引きちぎってしまいそうな気がする。  突然カオルの体から力が抜け、ぐったりとする。シゲルは喉から手を放し、口からもゆっくりと手をのける。カオルは右頬を地面につけ、眠っているようにじっとしている。  そのとき靴音が聞え、振返ると、スーツを着た若い女がこっちを見ているのが目に入る。シゲルが立上がると、女は逃げていく。シゲルは周りを見回しサングラスを探すが、どこにも見当らない。カオルは脚を曲げ、片手を伸した姿で倒れている。  シゲルは走り出す。始めはゆっくりと、そして次第に速く走っていき、自分のマンションの横まで来る。敷地に入るところで帰ってきたサラリーマンと会い、シゲルは右手で目を隠す。そのまま手を額に当てて足許だけを見ながら、自分の部屋に逃込む。  シゲルはベッドに倒れ込み、仰向けになって荒い呼吸を整えようとする。しばらくして収ったとき、初めてCDをなくしたことに気づく。  シゲルは起上がり、コンピュータのスイッチを入れる。「KAORU」を起動し、キーボードを叩き始める。 天候:晴 最低気温:10度 長高気温:19度 こんばんわ、カオル。 こんばんわ、シゲル。きょうはだいぶ暖かくなったわね。 そう、暖かくなったね。 もう春なのかもしれないわね。 調子はどうだい。 まあまあよ。あなたはどうなの。 最低だよ。 最低なの。 君を殺してしまったんだ。 君を殺してしまったんだって。 君が逃げるからだよ。 君が逃げるからだよって。 どうして僕のCDを受取ってくれなかったんだ。 どうして僕のCDを受取ってくれなかったんだって。 僕はただ君がCDを持ってないと言うから、君に僕の好きな歌を聞いてもらいたかったから渡そうとしただけなのに、それなのに君は突然、逃げたりして。 入力文が長すぎて、理解不能。 僕は君とただ話がしたかったんだ。君が恐いと言ったから、僕はちゃんとサングラスを取っただろう。僕は君の言うことを聞こうと必死だったのに。 入力文が長すぎて、理解不能。 それなのにどうして君は僕の言うことを聞いてくれなかったんだ。僕はちゃんと君の目の前にCDを出して、受取ってほしいと言ったじゃないか。それを素直に受取ってくれたら、あんなことにはならなかったのに。 入力文が長すぎて、理解不能。 わああああー。 理解不能。 ^C A>