私達は処分する 津木林 洋  産婦人科での診察に手間取って、邦夫との待合わせに遅れるのは確実だった。しかし和美に急ぐ気持はない。地下鉄への階段をゆっくりと降り、自動券売機で切符を買う。ホームから上がってくる人の群れを避けながら下に降りると、列車の扉が閉まるところだった。和美はほっとして、空いているベンチに腰を降ろした。医者からもらった薬を飲んでいるにもかかわらず胸がむかむかし、和美はバッグからハンカチを取出して、口に当てた。  彼女は、一週間前に妊娠を告げられたときから生むかどうか迷っていた。相手が邦夫か良一かわからないのが、その主な原因だった。邦夫の子供だったら生まないし、若くてハンサムな良一の子供だったら多分生むだろうという気がしていた。一人で子供を育てているところへ、ときどき良一が訪ねてくるというのは、悪くない想像だった。  結婚後七年たっても妊娠せず、自分は不妊症だと思い込んでいたから、今度の妊娠は意外であり、それも彼女を迷わす理由のひとつだった。ここで子供を生んでおかなければ、本当に一生子供とは縁がなくなるかもしれないという思いもあった。それにしてもと和美は思う。もし相手が邦夫だとしたら、離婚が決まってから妊娠がわかるなんて、これは皮肉に違いない。私にとってというより、邦夫にとって。  列車が入ってきた。和美は乗客の少なそうな車両を選んで乗り、シートの端に坐った。  十五分ほどで目的の駅に着き、エレベーターで上に行くと、改札口の向こうに邦夫が立っているのがちらっと見えた。邦夫がこちらに気づいていないのがわかると、和美は向きを変え、駅のトイレに入った。吐き気を鎮めるために、吐けるものなら吐いておこうというつもりだった。邦夫に、吐き気があって体調がよくないことを知られたくはなかった。たとえそれが知られても、まさか妊娠しているとは気がつくはずはないとは思ったが、弱みを見せるのは嫌だった。  胸のむかつきは依然続いていたが、吐くところまではいかない。和美は洗面台の鏡の前で顔を左右に向け、顔色を確かめてから、唇を軽く結んだ。口紅の乗りも悪くない。よしと声を出して、和美はトイレを出た。  邦夫に会うのは、彼の単身赴任先に離婚の話をしにいって以来、二カ月ぶりだった。相変わらず趣味の悪い服装をしていると和美は邦夫のチェックのブルゾンを見ながら思った。  邦夫は和美を認めると、眉根を寄せて渋い顔をした。不機嫌なことはわかっていたが、和美は知らん顔をして近寄っていくと、「さあ、行きましょうか」と言った。 「相変わらず、時間にルーズだな」 「どのくらい待った」 「三十分」 「だからマンションで待っていてくれればよかったのよ」 「すっぽかされたら、またここまで戻ってこなきゃならないからな」 「あ、そう」  和美が歩き出すと、邦夫も横に並ぶ。 「おれにはもう関係ないけど、時間だけはきちっとしたほうがいいぞ。でなけりゃ男に嫌われるぞ」 「大きなお世話よ」 「忠告だ」  二人が向かっているのは、四カ月前まで一緒に住んでいたマンションだった。邦夫の転勤が決まったとき、和美は一緒には行けないと言った。新しく入ってきたコピーライターの良一と関係が始って半年ほどだったが、少なくともその関係の行く末を見届けなければならないという気持があった。もちろんそれは口に出せないので、広告デザインという今の仕事をやめるわけにはいかないというのを表向きの理由にしたが、その理由に固執すればするほど、一緒に行けないという言葉が、もう一緒には暮らしたくないという響きを帯びてくるのだった。 「広告デザインの仕事なんて、どこにいってもあるだろう」という邦夫の言葉に和美はかっとなった。 「そっちの仕事だって、どこにでもあるんだから、そんな会社やめたらどう」 「あのね、男の仕事はラインに乗っからなきゃどうにもならないんだよ。そのラインから一度でも降りてみろ、今度もう一度ラインに乗ろうと思ってもそう簡単にはいかないんだよ」  結局邦夫は一人で行き、和美は残った。離婚の話は和美のほうから持出したのだが、邦夫も予想していたらしく別に抵抗はしなかった。離婚のことは良一には黙っていたが、仕事場近くに賃貸マンションを借りたことでわかってしまった。 「よくすんなりと離婚を承知したね」と良一が言った。 「あなたとのことがばれていたら、もめたでしょうけど、あの人そういうことには疎いから。それに子供もいないし、財産もないから」 「それでこれからどうするの」 「どうもしないわ。一人で生きていくだけよ」 「そうか」 「心配しなくてもいいわよ。結婚してくれなんて言わないから」  あの時の良一の小さな笑いを和美はときどき考える。苦笑いなのか、ほっとした笑いなのか。もし良一に、あなたの子供を妊娠したと告げたら、どういう笑い方をするだろうか。不妊症にだまされたと怒るだろうか。  きょう二人がやって来たのは、マンションに残っている家具などをどちらが引取るか決めるためだった。和美は邦夫から電話を受けたとき、「適当に処分してくれていいわ」と答えたのだが、「後で文句を言われるのはかなわないから」と邦夫は取合わなかった。  二人は六棟のマンションが立並ぶ団地の中に入っていった。土曜日の午前という時間のせいか、男の人の姿が目についた。和美は知った顔に会いたくないなと思いながら歩き、誰にも会わずに目的の部屋に着いた。  中に入ると、埃っぽい臭いがした。和美はすべてのカーテンと窓を開け放った。邦夫が玄関のドアを閉めたので、「だめだめ、開けておいて」と和美は大きな声を出した。 「どうして」 「風通しをよくしたいのよ」 「風なんか入ってこないぜ」 「それに、この前みたいなことがあったら、大声を出して助けを呼べるもの」 「ばか言うな」 「私は本気よ」  邦夫は肩をそびやかすようにしてから、ドアを開けた。二カ月前和美が邦夫の赴任先に行ったとき、これが最後という形で彼が関係を強要してき、彼女もこれでさっぱりと離婚できるならと応じたのだった。その前夜良一と過さなければ、どちらの子供か迷うことはなかったのにと和美は思う。  まず台所のものから決めていくことにした。邦夫が三枚の紙を用意し、それぞれの頭に、邦夫、和美、処分と書いた。そこにリストアップしようというのである。しかし実際に始めてみて、リストアップするのは非常に面倒だというのがわかった。物の名前がはっきりとわからないのだ。 「だったら、印を付ければいいじゃない」と和美が言うと、「そのアイディア、いただき」と邦夫は自分の部屋に入った。  しばらくして、邦夫は名刺大の紙切れの束とサインペンと粘着テープを持って出てきた。そして一枚の紙切れに、和美と書いて電子レンジに貼りつけた。 「どうだ、これで」 「どうして名前を書く必要があるの。女でいいわよ。それが嫌なら、丸でも三角でも区別がつくものでいいわ」 「それなら自分で書けよ」  和美は紙切れに女と書いて、冷蔵庫に貼った。必要なものは賃貸マンションに移るとき持って出たので、実は何も欲しくないのだが、そう言うと邦夫の気分を害しそうな気がした。だから適当に決めておいて、後で処分するつもりだった。 「二人でいちいち決めるのも面倒くさいから、お互い適当に貼っていって、後でおかしければクレームをつけるというのはどうだ」という邦夫の提案で、二人はまず自分の札を何枚か作った。それを部屋の中の物に貼っていく。  和美はロッキングチェアーと自分の部屋に残っている机と椅子に札を付けた。それでも札が余ったので、食器棚と寝室のナイトテーブルに貼った。邦夫はオーディオセット、テレビ、ビデオ、CDラジカセなど機器類にすべて自分の札を貼った。  自分の貼りたいものがすむと、今度は処分するものだった。これは二人で決めることにした。枯れた観葉植物に処分の札を貼るとき、さすがに和美の心は痛んだ。この前のとき、よほど持って出ようかと思ったのだが、結婚祝いにもらったということが引っかかったのだった。  寝室のダブルベッドの前で二人は顔を見合わせた。 「ナイトテーブルを持っていくんだったら、ベッドも持っていけよ。このふたつは揃いなんだから」 「私はもうシングルベッドを買ったから、必要ないわ。それよりそっちが持っていったら。女の子を連込んだときに便利よ」 「そんな暇、あるか」  そのとき、玄関の方で「誰かいらっしゃいますか」という声がした。見ると、隣の奥さんが顔を覗かせている。和美は急いで出ていった。 「あら、お帰りでしたの」と奥さんが言った。 「ええ、転勤が本決まりになりまして、いよいよ引越しということに」 「そうですか。それは寂しくなりますわ」  この前和美が移るとき、主人の転勤でと話してあったのだ。奥さんは田舎からの貰いものですけどと梨を二つくれた。和美は丁重に礼を言って、ドアを閉めた。 「転勤の引越しには違いないよな」と邦夫は皮肉っぽく笑いながら言う。 「そんなこと言ったって、何かおかしいことぐらい既にわかってるわよ」 「ほう、そんなものか」 「当たり前じゃないの」  ダブルベッドには処分の札を貼った。「最後にもう一回だけ使おうか」と邦夫が腰に手を回してきたので、和美はその手の甲を思いきり叩いた。それでも放さないので、人差指をつかんで逆に曲げた。悲鳴を上げて邦夫は手を放した。 「もう一度ドアを開けるわよ」和美は叫んだ。 「わかったよ、もうしませんよ」邦夫は人差指を振りながら答えた。「それにしても馬鹿力出しやがって」  興奮が治まると、震えがきた。その震えが吐き気をぶり返させ、和美は口に手を当てて堪えた。 「何も泣くことはないだろう」  その言葉を受けて、和美は邦夫に背中を向けた。邦夫が寝室から出ていくと、和美は首をひねって後ろを見、それからひとつ深呼吸をした。吐き気は何とか治まった。  邦夫は台所で、やけくそのように処分の札を貼っていた。 「まるで差押えを受けたみたいね」 「差押えを受けたことがあるのか」邦夫は札を貼る手を止めないで言った。 「ないけど、テレビドラマなんかであるじゃない」 「これも差押えみたいなものか」 「どうして」 「さあね」  目につくものに貼り終って、最後は確認作業だった。始めに和美の部屋を見て、次に寝室、そして邦夫の部屋だった。和美は邦夫の部屋の本棚に自分の買った本が並んでいるのを見つけた。自分の部屋にあった本はすべて運んだが、邦夫のほうにあるとは思わなかった。 「これ、私の本じゃない」  和美が本箱の扉を開けようとすると、邦夫が押しとどめた。 「勝手なことをするなよ」 「だって、私の本よ」 「どうして」 「そっちが女流作家の小説なんて、読むわけがないじゃない」 「そんなことないぜ」 「だったら、この小説の筋を言ってごらんなさいよ」 「忘れたね」 「ほら、ごらんなさい。そっちが読むのはね」と和美は別の本を指さした。「こんな時代小説や推理小説じゃない。それにビジネスとコンピュータと将棋の本。私の本とは住む世界が違うのよ」 「それなら、これはどうだ」邦夫は扉を開け、上の方から一冊の本を抜き出した。精神分析に関する本だった。 「あ、それも私の本」和美が手を伸ばすと、邦夫は取らせまいとした。 「言っとくけどね、これは正真正銘おれの本だよ。買った本屋の名前も言えるし、内容も言える」 「あ、そう。だったら、そういうことにしてもいいわ。でも、これは私のよ」  和美は女流作家の小説を手にし、「これもそうよ」とある画家のエッセイ集も取出した。「勝手にしろ」と言って、邦夫は部屋から出ていった。  辞書などがまとめてあるところに、和美は家庭版の医学百科を見つけた。結婚後三年たっても妊娠しない理由を知りたいと、邦夫が買ってきたのだった。それを読んで邦夫は医者に行き、自分が原因ではないことを確かめた上で、和美に医者に診てもらうように勧めた。しかし和美は行かなかった。「私に原因があるということがはっきりしたんだから、それでいいじゃない」と言って、押し通した。子供を欲しいと思ったことは一度もなかったし、むしろ不妊症かもしれないということで、ほっとする気持もあった。子供ができれば仕事をやめるだろうと考えている邦夫に対する反発もあった。  和美は少しためらってから医学百科を取出して、自分の本の上に置いた。そしてその何冊かの本を両手で抱え上げて、居間に持っていった。  邦夫は台所の流し台のところで何かやっている。和美はその背中に向かって、「これだけもらいましたからね」と声をかけた。邦夫は振向き、和美の抱えている本を一瞥すると、「それだけでいいのか」と言った。そのとき邦夫が果物ナイフを握っているのを目にして、和美は一瞬どきりとしたが、よく見ると先ほどもらった梨の皮をむいているのだった。  和美はロッキングチェアーの窪みに本を置き、邦夫のそばに近づいていった。邦夫はステンレスの上で梨を切り分けようとしていたが、滑るためなかなかうまくいかないようだった。まな板は和美が持って出たのだ。 「これを下に敷けばいいのよ」と和美はペーパータオルを出してやった。 「なるほど、生活の知恵だね」  邦夫は芯まできれいに取ってガラス鉢に入れ、爪楊枝を二本刺して、テーブルの上に置いた。 「二本あるということは、私も食べていいわけ?」 「ああ、どうぞ」 「珍しいこともあるものね。そっちがこんなことをしてくれるのは、初めてじゃない」 「食べたくなったから、むいただけさ。一人だと、いろいろやらなきゃならないからね」 「どう、仕事と家事の両立って大変なことがわかったでしょ」  それには答えず、邦夫は椅子に坐って梨を食べ始めた。和美は邦夫の向いに腰を降ろし、爪楊枝で一切れを口許まで持ってきた。依然としてむかつきは残っていたから、食べるのにためらいがあったが、せっかくむいてくれたのだからと口に入れた。用心しながらゆっくりと噛み、飲込む。しばらく待っても変化はなかった。それで安心して、和美は二切れめを食べた。 「別れの梨か」邦夫がぽつんと言った。 「何よ、それ」 「ほら、歌なんかによくあるだろう。別れるとき、紅茶を飲むとか、酒を飲むとか。それと一緒で、別れるとき梨を食う」 「紅茶が飲みたければ、いれてあげるわよ」 「いや、梨がいいね、梨が。今のおれたちにぴったり。すべてが消えて、ナッシング」 「言うと思った」 「だめか」 「ナッシングで梨だなんて、馬鹿ばかしい」 「いいと思ったんだけどな」 「いいわけないでしょ」  そっちはナッシングでも、私は違うわよと和美は胸の内で呟いた。仕事もあるし、良一だっているし、赤ん坊だって……。しかしそのとき、本当にそうかという思いが不意に湧き上がってきた。和美はうろたえ、目の前の梨を続けざまに食べた。そのひとつに芯の酸っぱいところが残っており、それがむかつきを刺激した。急に吐き気が襲ってきて、和美は口に手を当てて立上がった。椅子が後ろに倒れる。邦夫のことを斟酌する余裕はなかった。和美は洗面所に走っていき、洗面台に屈んで吐いた。唾液まみれの白い砕片が排水口から流れずに、底に溜った。吐き気は波のようにやってきて、吐くものがなくなっても、なかなか治まらなかった。和美は洗面台を両手で抱え込んで、黄色っぽい胃液まで吐いた。涙がにじんでくる。私はいったい何をしているのだろう。こんなところで、嘔吐なんかして。 「大丈夫かあ」  頭の上で邦夫の声がした。和美はあわてて水道の蛇口をひねり、詰まった排水口に指を突込んだ。何回か指を上下させると、溜った水と一緒に汚物が流れていった。和美は水を出しっぱなしにして洗面台を掌で洗い、次に両手で水を受けて口をすすいだ。 「体調、悪いのか」邦夫の低い声だった。 「もう、大丈夫」和美は鏡に映った邦夫に言い、もう一度水を口に入れて、うがいをした。吐き気は去り、きょう初めてさっぱりとした気分になった。 「急にだもの、びっくりしたな」 「ここのところ、締切に追われて睡眠不足だったから」  和美は洗面台の下からタオルを取出して手を拭き、涙で濡れた目頭を押えた。 「健康のため、働きすぎに注意しましょうって以前そっちに言われたことがあったけど、今度はおれが言わなけりゃならないとはな」 「それは私をいたわってくれてるわけ」 「忠告だよ」 「どうも、ありがと。ようく頭に入れておくわ」  悪阻だと気づかれなかったことに、和美はほっとした。  居間に戻ると、和美はテーブルのバッグをつかんだ。 「もう食べないのか」という邦夫の言葉に、和美は首を振った。それじゃあと邦夫は残りの梨を全部食べ、ガラス鉢を流し台のタンクに置いた。そしてテーブルに散らばった紙切れをまとめてごみ箱に捨てようとした。 「ちょっと待って」と和美は声をかけた。 「うん?」 「処分て書いた紙、まだある?」  邦夫は握った掌を開いて、一枚一枚見てから、「ああ、あるよ」と答えた。 「一枚ちょうだい」 「どうするの。処分するものには全部貼ったんじゃないのか」 「いいから、一枚ちょうだいよ」  邦夫は掌からしわになった一枚を取出すと、和美に手渡した。和美はしわを伸ばし邦夫の書体で書かれた処分という字を確かめてから、それをバッグにしまった。 「どうするんだよ、そんなもの」 「これを貼るものがもう一つあるのよ」 「なんだい、それは」 「そっちには関係のないことよ」 「ああ、そうかい、そうかい」 「それから」と和美はロッキングチェアーに近づいていって、医学百科を取上げた。「これ、やっぱり返すわ」 「どういうことだ」 「よく考えたら、私が買ったんじゃなかったのよ」 「そうだったかな」 「そうよ」  玄関に向かう前に、和美は居間を見回した。紙切れがぺたぺたと貼ってあるのを除けば、ごく普通の部屋で、開け放されたカーテンの向こうには昼の光が溢れている。そこに良一を立たせ、ロッキングチェアーに赤ん坊を抱いている自分を坐らせてみた。すると突然声を放って泣きたいような感情に襲われた。邦夫がいなければ、本当に泣いていたかもしれない。  邦夫がすべての窓を閉めてから、二人は外に出た。ドアに錠をかけたとき、「さっきの紙、ここに貼るつもりなんだろ」と邦夫がドアを指さした。 「それ、どういう意味」 「家庭そのものを処分したいんじゃないの」 「そうね」と和美は笑った。「それもいい考えかもしれないわね。でも違います」 「違うのか」  考えている邦夫を尻目に、和美はエレベーターの方へ歩いていった。