森に住む                    津木林 洋  午後八時半、きみは最後の配車手続を終えて、ほっと一息をつく。事務所には誰も残っていない。ロッカーの前にいき、上着だけ着替えると、事務所を出てシャッターを降ろす。横の車庫にはまだ一台のトラックも帰ってきてはいない。きみは車庫に止めておいた自転車に乗ると、家路につく。川沿いの堤防の上を走っていると、ときどき自分がどこに向かっているのかわからなくなることがある。暗い中、他に誰も通っていないせいもあるし、にぶく光りながら流れる川が時間の感覚を狂わせるせいもある。きみは、今日の仕事はつらかったと歌い出す。別に、本当につらかったわけでもないのに。誰の歌だったっけ。きみはそれを歌っていた歌手の名前を思い出すことができない。今の今までわかっていたはずなのに、どうしても出てこない。そんなことはどうでもいいじゃないかときみは思おうとするが、そう思えば思うほど、何ともしれないもどかしさを感じる。家に帰ってから美奈子に訊こうかときみは一瞬考えるが、いやいやと首を振る。彼女に訊いたってわかるはずはない。また昔のことを言ってと嫌な顔をされるだけだ。昔のこと、確かにそれは昔のことだ。  今日の仕事はつらかったと誰かが歌っている。きみはヘルメットを阿弥陀にして頭に風を入れながら、誰が歌っているのか見ようと首を曲げる。床には十人ばかりの人間が腰を降ろしているが、誰もがタオルでマスクをしているので、歌っているのが誰なのかわからない。タオルを鼻の上まで持上げて器用に煙草を吸っているのは、違うだろう。土方仕事はもう嫌だぜと誰かが言う。その通りと誰かが答える。きみも同感だと思いながら、ゆっくりと仰向けになる。汗でシャツが体にへばりついているのは不快だが、床のひんやりとした冷たさが気持がいい。顔を横に向けると、たった今築いた机や椅子やロッカーのバリケードの向こうに夕闇が迫っているのが見える。ここで何日篭城できるかときみは考える。せいぜい一週間か。投石、火炎瓶で抵抗しても、二週間。しかし誰が抵抗するのか。今日もインスタントラーメンじゃないだろうなと誰かが言う。土方仕事の後くらい、まともなものが食いてえよ。きみは急に空腹を覚える。出前を取ろうぜと別の声が言う。学部長の部屋に電話があったから、あれを使えば簡単だ。どう言って頼むんだ、もしもしこちら篭城中の全共闘だけど、レバニラいため十人前出前してちょうだいなんて言うのか。笑いが起こる。力のない笑い。笑えば余計に腹が減るとでもいうように。  後ろからヘッドライトの光が追ってきて、爆音とともにきみの横を通り過ぎる。ヘルメットを被り、背を丸めた黒い後ろ姿が、光を引き連れて見る間に遠ざかっていく。きみは思わずペダルをこぐ脚を速めて、追いかけようとするが、すぐに諦めて、また速度を元に戻す。腹が減っている。残業とわかっていても夜食が出なくなったのは、いつごろからだろうかときみは考える。アルバイトで入ったころは、七時を過ぎるとわかったら必ず夜食が出たものだが。うどんかラーメンか焼きそば。アルバイトは待遇をよくしなければ、いつでもやめてしまうからだったのだろうか。しかしその後正社員として雇われてからも、夜食は出たような気がする。  ほう、きみは大学中退してたのと履歴書を見ながら課長が言う。ええ、まあときみは口ごもる。どうして中退したの、こんないいところに入って。いろいろ事情がありましてときみは笑ってごまかそうとする。そりゃ、事情がなければ誰だって中退なんかしないよ。課長は笑いながら言うが、事情を言わなければ放さないぞと言っているようにきみには聞える。高校卒業で止めておけばよかったときみは後悔する。どうせ雇われるのなら、少しでも有利にしたほうが、と下らない考えをしたのが間違いのもとだ。きみは、この男にはっきりと言ってやろうかという気持を抱きながら、単位が取れなくて、留年もままならずと答える。それは確かに本当のことだったのだけれども。きみの扱いをどうしようかなと課長が言う。高卒扱いにするのか、大卒か。きみは思わず、高卒で結構ですと言いそうになって、口をつぐむ。そういう言い方は不遜に響くと気づいたからで、そんなふうに気づくことじたい、自分がずるくなっている証拠だときみは内心で笑いながら、黙っている。  確かに世渡りがうまくなったなときみはペダルをこぎながら思う。今は部長になっているあの男に、きみは結局何も言わないことで気に入られ、女房まで世話してもらったのだから。大学を去るとき、まさか普通の就職ができるなんて、いや、しようとするなんて思ってもみなかったのに。  まだ講師は来ない。きみは教室の後ろの隅で、頬杖をつきながら窓の外を見ている。芝生の中で五、六人の男女の学生がバレーボールをしている。何を見てるんだ。きみは声をかけられる。振り向くと、袴田が口許の片方だけを上げる笑い方をして窓の外に目をやる。バレーボールね、平和な光景だと袴田が言い、ところで就職のほうはどうすんのときみに訊く。卒業できそうにないから、また来年だときみは答える。それはまた弱気だなあ、就職さえ決めてしまえば後はどうとでもなるのに、何が残ってるの。きみは指を折りながら、落としている単位を数えていく。袴田は、それも落としてるの、そいつもかと相槌を打ちながら、しまいには、それでよく進級できたなあと感心する。仮進級だったからな。しかしそっちほどじゃないけどねと袴田は教室の前のほうでしゃべり合っている一人を指さして、あいつなんか五つも落としてても、就職さえ決まれば平気な顔をしてるぜと言う。教授に泣きついて、追試でもレポートでも何でもやってもらうのさ。きみはあいつを知っている。全共闘で一緒だったやつだ。闘争を離れた途端、お互いに避けるようにして今まで来ている。あいつはどこへ就職したんだときみは訊く。袴田は大手の商事会社の名前を上げる。ほうときみは感心する。学生運動なんか関係ないぜと袴田はきみの気持を先回りするかのように言う。きみはその無邪気な言い方に少しばかり傷つけられる。しかしきみは何気ないふうにうなずき、口許に笑みさえ浮かべてみせる。あいつから聞いたんだけどさと袴田が言う。会社の人事担当の人間は、むしろ学生運動をやっていたぐらいのほうが仕事に使えると考えるらしいんだ、だからお宅もさあ、学生運動をしてたことをばんばん出せばいいんだよ。きみはもうこの男と話したくない。こんな何も考えていないような男とは。きみは頬杖をつき、再び窓の外に目をやる。バレーボールはまだ続いている。もっとうまくやれよと袴田はきみの肩を指で弾いてから、前のほうに歩いていく。おまえのところの初任給はいくらだった。お、おれより八千円も高いのか。それはないぜ。あいつの大きな声がきみの耳に響いてくる。  きみはペダルをこいでいる。もっとうまくやったあいつの後を、何年か遅れてついていっているときみは自嘲気味に考える。それも先ほど追い抜かれたオートバイに自転車で追いつこうとするようなものだ。何もしなかった数年間。  何だ、そんなものもできないの。きみはカウンターの中にいて、少し酔い気味の客に絡まれている。きみは薄笑いを浮かべながら、若い男の顔を見ている。隣に坐っている連れの女は、きみと男のやりとりを明らかに面白がっているようだ。スクリュードライバーを作ってよ、と男が言う。すいません、できません。酔払いを相手にするなと教えられた通り、きみは頭を下げてやり過ごそうとする。シェーカーはあるんだろ。ええ、あります。だったらおれが配合を教えるから、振ってみろよ。きみは曖昧に笑ったまま答えない。カクテルなんか注文する客は滅多にいないから、シェーカーを振る必要ないよとマスターに言われているから、きみは今までシェーカーに触ったこともない。どうしたの、あんたバーテンだろ、シェーカー振ってんだろ。見習いです。だからおれが練習させてやろうと言ってるんだよ。結構です。何だ、その言い方は、それが客に向かって言う言葉か。きみは、マスターが来てくれるか、他に客が入ってきてくれないかと扉に目をやる。おれの言うこと間違ってるかと男は隣の女に同意を求める。女はにやにや笑いながら、ううんと首を振る。そうだろ、間違ってないだろ。男はきみのほうに顔を向け、だからここにシェーカーを出してみろよとカウンターを指で叩く。きみは仕方なくカウンターの下からシェーカーを取り出す。ちゃんとあるじゃないか、こういうふうに最初からもっと素直になればいいんだよ。きみは男の言うとおりにしようと覚悟を決める。それじゃあ、まず振り方の練習からしようか。きみは男の口許を見ている。ぼさっとしてないで氷を入れろよ。きみはシェーカーに製氷機の氷をいくつか入れて、男の前に置く。おまえは言われたことしかできないのか、さっき振り方の練習だと言っただろ。きみはシェーカーを両手で持ち、マスターがやっていたのを思い出しながら振ってみる。だめ、だめ、何だよ、その振り方は、もっと肱を張って8の字に振らなくちゃ。きみは言われたとおりにやってみる。音がまずいなあ、もっとカシャカシャという気持のいい音が出せないの。きみは男の言葉を無視して、同じ動作を続ける。ときどき肱と手の振りのタイミングがずれて、シェーカーだけを一方的に振ってしまう。あんた、本当にバーテン見習いなの、やめたほうがいいんじゃないの。男が笑っている。きみはほっとしてシェーカーを振るのをやめる。誰がやめろと言った、おれはスクリュードライバーを注文してんだから、もっと練習しろ、ほら、ほら、氷を代えてやれよ。きみはシェーカーの氷を流しにあけ、別の氷を入れて再び振る。男がいろいろと口を挟むが、きみは黙々と振り続ける。四回目に氷を代えたとき、マスターが入ってくる。いらっしゃいませと男と女に言いながら、マスターはカウンターの端から中に入ってき、シェーカーを振っているきみに向かって、どうしたんだと小声で言う。きみは振るのをやめて、スクリュードライバーの注文なんですと言う。すごい汗だよ。マスターに指摘されて、きみは初めて自分が汗をかいていることに気づく。すいません、こいつ、まだ新米なもんですから。だめだよ、こんなやつ置いといたら、客が逃げちゃうよ。男が笑っている。まあまあ、そうおっしゃらずに、スクリュードライバーでしたね、早速お作りしますから。きみはマスターにシェーカーを渡し、カウンターから出る。どこへ行くんだ。マスターの声が聞えてくる。ちょっときょうは。きみは片手を上げ、ドアのほうに歩いていく。おいおい、困るよ。いいんじゃないの、放っておけばと男の声がする。あんまり恥ずかしいんで、逃げ出すんだろ。きみはノブに掛けた手をはずして握り拳に変え、カウンターのところに戻っていく。女が気づいてきみのほうに顔を向け、男もそれにつられて首を捻る。きみは二人に近づき、男の薄笑いが強ばった瞬間、男の顔面に拳を叩き込む。鼻に中指の第一関節がめり込むと同時に、手の甲に痛みが走る。女が悲鳴を上げる。男はカウンターの椅子から転がり落ち、きみは顔面に両手を当てて倒れている男をちらっと眺めてから、ドアのほうに歩いていく。女が何かしきりに叫んでいる。  きみは今でもたまに手の甲に痛みを感じることがある。急に冷え込んだ夜などに。きみはハンドルを握る右手に目をやる。右手をやられるときは、いつも夜だったときみは思う。  次はジグザグにいくぞと前のやつが言う。きみも後ろに同じことを伝える。ジグザグ、ジグザグという声が波のようにデモ隊に広がっていくのを感じると、きみは緊張感で背中を強ばらせる。清美が組んでいた腕を解き、タックルするような感じで前の男の腰に腕を回す。きみもそれを真似て、前の男の腰を腕で固め、ヘルメットの頭を相手の脇に突込んで肩をつける。男の体が熱い。後ろからきみの腰もタックルされる。そのままの姿勢で歩いていると、きみのつかまえている腰が急に斜めに走り出し、きみも引っ張られて走り始める。腰を持たれているせいで初めは背中が伸びるが、すぐにリズムが合ってくる。いっせいに靴の音が響く。動くおしくらまんじゅうだときみは思う。前が方向を変え、きみはもう要領がわかっているから、すぐにそれについていく。ジグザグ行進はやめなさい。拡声器からひび割れた声が聞えてき、その瞬間、きみの頭はかっと熱くなる。デモ隊の動きが速くなり、きみはそれに負けないように脚を動かし、前の男の腰をぐいぐいと押す。絶対に止まるなときみは胸の内で叫ぶ。しかし徐々に速度が落ちてきて、しまいには元の歩く速さに戻ってしまう。きみは少しの間それまでの姿勢を保っているが、後ろの男がきみの腰を放したのがわかると、きみも腕を解いて上半身を上げる。隣の清美はまだタックルをしている。彼女の肩を叩くと、怒ったような目できみを見てから、上半身を起こす。だらしがないわねと清美は伸び上がって前を見ながら言う。無理だよ。きみは右前方に現われた機動隊の列に目を向けながら応える。銀色の長い盾が機械の部品のように並んでいる。両側の盾に挟まれて、否応なく歩く速度が遅くなり、一番端にいるきみは機動隊員に、もっと中に入るよう体ごと盾で押される。きみは体を固くしながら、押されるままになっている。許可取ってあんのに、なにすんのよ。清美はきみの体を押し返しながら、脚を伸ばして機動隊員の脛にけりを入れる。こらあ、公務執行妨害だ。機動隊員が大声で叫び、ホイッスルが鳴る。盾の列が乱れ、一人の機動隊員がデモ隊に割り込んできて、清美の腕をつかもうとする。きみはとっさに隊員の腕を弾き飛ばし、盾を押し返す。ホイッスルが二度、三度と鳴る。何人かの機動隊員が清美をつかまえようとし、きみと周りにいた連中がそれを阻止する。罵声が飛び交い、大勢の機動隊員がなだれ込んでくる。きみは肩に盾をしたたかぶつけられ、その反動で隊員の腰を蹴ってしまう。引っ張り出せ。誰かが興奮して叫んでいる。きみは二人の機動隊員に両腕をつかまれ、デモの列の外に引きずり出されようとして、腰を落とす。しかし腕が抜けそうなほどの力で引っ張られ、歩道に投げ出される。体が解放されて軽く感じた瞬間、きみはヘルメットから頭に衝撃を受ける。続いて背中に。きみは目の前の機動隊員の頑丈そうな靴から視線を上げる。隊員の手に黒い棒が見え、それが再び落ちてくる。ヘルメットに衝撃。きみは思わず手で頭をかばい、今度はその手に打撃を受ける。腕から肩にかけて痺れが走り、それが目に来て涙がこぼれてくる。きみは歯を食いしばりながら立ち上がろうとするが、冷汗が出て、体が震えてくるのをどうしようもできない。  きみはハンドルから右手を離し、目の前にかざしてみる。小指が少しゆがんでいる。その理由を知っているのは、清美くらいのものだときみは思う。  どうしてと清美は言う。きみは答えられない。何とか言いなさいよ。きみは、そばを通る人々に清美の声が聞えやしないかと気にしながら、低い声で、運動なんかやってもと言う。なあに、もっと大きい声で言ってよ。清美はさらに大きい声を出す。きみはあわてて、もっと普通に話そうよと言い、おれたちが何かやって、本当に変えられるのかなあと軽い調子で言う。変わらないかもしれないけれど、でも、やってみる価値はあるんじゃない。そうかなあ。やらなければ、絶対に変わらないことは確かでしょ。そりゃそうだけど。地下街の人通りは徐々に増えてきている。きみは目についた喫茶店に清美を誘い、いちばん奥の窓際に腰を降ろす。清美はウェイトレスにコーヒーを注文した後、窓の外に目をやって小さな溜息をつく。ポニーテールというよりひっつめ髪という感じの無造作な髪型に、化粧気の全くない横顔を見せている。どうして化粧をしないのと思わず訊きそうになって、きみは口をつぐむ。そんなことを訊けば、大きな声で、なに言ってるのと非難されそうな気がする。清美がふっとこちらに顔を戻す。視線がまともに合い、何見てるの、私の顔に何かついてると清美が頬を撫でる。いや、何でもない。きみはばつが悪くて、笑いでごまかす。何よ、はっきり言いなさいよ。清美はわざと怒ったような言い方をする。言ってみようか、いや、やはりまずいと思いながら、きみは黙っている。顔が笑ってるわよ、変な人ね。そのとき、ウェイトレスが二人分のコーヒーを運んでくる。きみは、コーヒーに砂糖とフレッシュミルクを入れることに専念する。コーヒーを一口飲んで、清美はほっとした表情を見せる。その表情に向かって、化粧しないんだねときみは小声で言ってみる。何か言った? いや、全然化粧をしないから、どうしてなのかなあってね。何言ってるの。清美は窓の外に視線をはずす。きみは彼女の横顔に目をやりながら、その髪型って顔に自信がなければできないっていうよねと言う。あなた、私をからかってるの。清美はきっとした顔をきみに向ける。とんでもないときみは手を振る。褒めてるつもりなんだけどなあ。あなた、見込みがないわよ。清美はカップを口に持っていきながら、再び窓の外を見る。きみも同じように外に視線を向ける。喫茶店の向いにはブティックがあり、きれいなブラウスやスカートを着た幾人もの若い女性が服を選んでいる。きみは横目で、清美がその女性たちを見ているのを確かめる。清美はふっと溜息をつきながら、何か呟く。何言ってるの。清美は笑顔を見せながら、神、空にしろしめし、すべて世はこともなしって言ったのよ。何だい、それは。ブラウニングっていう人の詩。ふーん。清美はいかにもおかしそうに笑い、さっきの答えを教えましょうかと言う。さっきって? 私がなぜ化粧をしないかっていうこと。きみはカップをテーブルに戻し、少し身を乗り出す。たぶんねと清美は考えをまとめるかのようにゆっくりとした口調で言う。私、女であることを武器にしたくないと思っているのよ。きみは、わかるようでわからないと言う気持から、わずかに首を傾げる。男のあなたには、たぶんわかってもらえないと思うけど。どうして女であることを武器にしたらいけないの。誰もいけないなんて言ってないわ、私はしたくないって言ってるの。そうか、そうか。きみはあわてて相槌を打つ。それでどうして、きみはしたくないの。清美は、そうねと言いながら、カップを取り上げて口に運ぶ。きみもコーヒーを一口飲む。清美は再びカップを置くと、口許に笑いを浮かべながら、だったらあなたは男であることを武器にしようと思ったことがある? と訊く。え? きみは意表をつかれる。ないでしょ、男社会にいるあなたには、男であることを武器にしたって仕様がないものね。きみは何か言おうと思うが、今まで考えたこともなかったことなので、言葉が出てこない。例えば、世の中を渡っていくために、ボディビルで筋肉隆々の体をつくろうなんて考えたこともないでしょ。いやそんなことないよ、何回かボディビルをやろうと思ったことはあるよ。それは女の子にもてたいからでしょ、私が言ってるのは、俗な言い方をすれば出世のためにっていう意味。きみは再び言葉に詰まる。女性の場合は、女であることを前面に押し出すことが、世の中を渡る武器としてある程度通用するのよ、それが嫌なの。だったらときみはようやく糸口を見つける。男のために女である武器を使うのは、いいんじゃないの。清美はえっという表情をし、それからゆっくりと笑う。女である武器を使わなければならない男なんて、興味がないわ。なるほどときみは思いながら、どこかずれているような気がしてならない。  自動車専用道の橋が掛かっているところに来て、きみはいつものように河川敷に降りていく。反対側に降りたほうがトンネルがあって近いのだが、きみはあの暗くて狭いトンネルが好きになれない。橋の下まで来て、きみは自転車を止め、頭上を見上げる。夜空よりもさらに黒い橋桁から、車の通過する音が降ってくる。自分の頭の上を何かが通り過ぎる感覚、きみは今までに何回もそういう感覚に襲われたことを思い出す。  学部長から電話があったらしいぜとあいつがきみの耳許でささやく。いつ。ついさっき。それで。決まってるじゃないの、最後通告だよ、最後通告。いよいよ来たかときみはいくらか緊張するが、それにしても長かったという気持を押さえることができない。それでいつときみは訊く。たぶん明日だろう、まさか今晩夜襲をかけてくるなんてことはしないだろう。夜襲という言葉に、きみはふふと鼻で笑う。君島さんは最後まで抵抗するつもりらしいけど、おれはごめんだよとあいつが言う。角棒と投石だけじゃ勝ち目がないからなあ。きみはその言葉に反発を覚えるが、異を唱えることができない。じゃあおまえは残るかと訊かれれば、残ると答えそうな気がするから。きみはソファーから立上がり、講師控室を出る。窓の外は闇で、いつもならちらほらと見える隣の建物の明りも今は全く見えない。機動隊導入の情報でいち早く避難したのかときみは思う。蛍光灯が二列並んで、いやに明るい廊下を歩いていき、きみは階段を降りる。一階の正面入口は机や椅子のバリケードで固めてあるが、そのそばに三人の男たちが坐って話をしている。きみが近づいていくと、三人が話すのをやめ、いっせいにきみのほうに顔を向ける。タオルを顎の下にやり、素顔を見せられると、きみは一瞬戸惑い、片手をちょっと上げてからその場を通り過ぎる。事務室の裏から表に出るつもりでいたきみは、学部長室から出てきた君島と顔を合わせてしまう。君島はヘルメットも被っておらず、不精髭の伸びた顔には疲労の色が浮かんでいる。きみは会釈をし、ちょっとためらってから君島のそばを通ろうとするが、彼に呼び止められる。はあと口ごもってきみが立ち止まると、聞いたかと君島が言う。口許に笑いを浮かべている表情に、きみはわけもなく緊張する。機動隊導入の件ですか。君島は微笑を崩さずに、うなずく。さっき聞きました。それでどう思う。いよいよ来たかと思いましたけど。君島はえっという顔をし、それから声を立てずにゆっくりと笑い始める。きみは少し緊張を緩め、君島と一緒に笑おうとするが、うまくいかない。君島は笑いの波が治まると、全員を玄関ロビーに集めてくれるようにきみに頼む。どういう用件か訊いたほうがいいだろうかと思っているうちに、君島は学部長室に戻ってしまう。きみはあまり気が進まないが、言われたとおりにしなければならない。廊下を引き返し、三人のいる玄関ロビーの横を通って、二階には上がらずにまず一階に行く。主任教授の部屋、第一教室、第二教室、階段教室。明りのついた部屋の扉を次々と開けていく。備え付けのテレビを見たり、漫画を読んだり、寝袋に潜り込んで寝ているやつらに、声をかける。表情が硬くなるか、そうでないかで、機動隊導入の件を知っているかどうかがわかる。二階の講師控室には、まだあいつがいる。きみが君島の言葉を伝えると、君島さんがどうするか、お手並み拝見といきますかとソファーから反動をつけて立上がる。三階から上には誰もいないことがわかっているので、二階がすむと、きみは下に降りていく。全員集まったところで、君島さんを呼びにいかなくてはときみは思うが、玄関ロビーに行くと、君島はすでにいて、バリケードの机に肱を乗せて体を預けている。やはりヘルメットは被っていない。君島さんは戦う気はないなと、きみは直感する。その瞬間きみは体から余計な力が抜けていくのを感じる。全員集まったかと君島が口を開く。ヘルメットを被った頭がそれぞれ動いて、音声が一瞬うなりのように聞える。君島はみんなに腰を降ろすように言い、二十人ほどの男たちが床に尻をつけると、少し間を置いてから話し始める。すでに知っている者もいると思うが、明日の朝機動隊が導入される。おうという声が何人かの男たちから聞えてくる。そこでどうしたほうがいいのか全員の意見を聞きたい。導入の決定は誰がしたんですかと一人が訊く。学部長だ。それで学部長はわれわれの要求を飲んだんですか。団交はだめだが、代表者と個別に話し合う機会は持つということだ。それじゃ、意味がないじゃないですかとあいつが片手を口に当てて怒鳴る。君島はあいつのほうに顔を向けると、その通りとうなずく。ひょっとしたら君島さんはやる気かもしれないと、きみはいくらか緊張しながら思う。本当にやるとなったら、どうするか。きみは意見を求められないようにヘルメットを深く被り、背中を丸める。そんなことならわれわれの今回のこの占拠は何だったんですかと誰かの叫ぶ声が聞えてくる。大学当局に対する意思表示であったことだけは確かだと君島が答える。われわれは占拠という武器を持って、話合いに臨めるというわけだ。話合いでことがすむような相手じゃないよなあ、間延びした声が聞え、それに同調するような声が続く。じゃあ、どうしたらいいと思うと君島が言う。途端にざわめきが静まり、声になりかけた声が押し殺されるのがわかる。話は簡単だよなあとあいつが周りの者に話しかけるように言う。ここに残るか、ここを出るか。小さな笑いが起こり、君島も口許を緩める。委員長の意見はどうなんですか、それをさきに聞かせてくださいよと一人が言う。君島は唇をすぼめ、眉根を寄せて上を向く。少し間があって、ここで戦うのは簡単だと君島は話し始める。頭を警棒で殴られたり、腕をねじられたり、腹を足蹴りにされたりするのを我慢すれば、後は調書を取られるだけで終りだ。しかしわれわれが戦う相手は機動隊じゃない。あくまで大学当局であり、大学の管理体制そのものなのだ。だからここで今われわれのパワーを浪費するのは得策じゃない。機動隊と戦うのはヒロイックだが、われわれはヒーローになるために、今ここにいるわけではない。かっこいいとあいつが声をかける。君島は苦笑して、片手を軽く上げる。したがって、おれの意見としては、ここを出るということだ。君島が話し終っても、しんとしている。これで決まりだなとあいつが言う。委員長の意見に逆らうものなんて、ここにはいないもんな。その言葉でざわめきが戻り、君島が誰か意見はないかと訊いても、誰も聞いていない。それじゃ、ただちにここを退去するという君島の言葉で、全員が立ち上がる。きみはいくらかほっとしたような、それでいて何か煮えきらないもやもやとしたものを感じながら、二階の講師控室に向かう。破れかけた紙袋に寝袋と汚れた下着と洗面道具を詰め込み、十日間寝起きした部屋を改めて見回す。たった十日なのに遥かな時間が経過したような感傷的な気分になり、きみはそれを振り払うように控室の扉を閉める。一階に降りて玄関ロビーの前を通りかかると、あいつともう一人が壁に赤いペンキで何か書いている。手に荷物を下げた数人の男たちが二人を見守り、口々に何か言っている。きみは少し離れて、二人の書いているものを見る。二人は大きな字で、マスプロ教育反対と書く。最後っ屁だなと誰かが言うと、小さな笑いが広がる。きみも笑いながら、すっかり自分から力が抜けているのを感じる。あいつがペンキの缶を床に置くのを合図のようにして、男たちは事務室に向かう。その裏から外に出ると、夜の冷気が体を包み込む。ぽつんぽつんと点灯した明りの中を、一人あるいは二人と大学の正門に向かって歩いている姿が、影絵のように見えている。  きみは橋の下を抜け、再び堤防に上がる。もう家は近い。こうして帰るところがあるということに、きみはふっと何だか別の人間の人生を演じているような不思議な気持になる。  テーブルの上には、冷えきったマーボ豆腐と鳥胡麻和えが並んでいる。鳥胡麻は食えるが、豆腐はだめだろうなと思いながら、きみは皿に目をやり、それから小型の白黒テレビに視線を戻す。水着を着た女が微笑んでいる番組ももうすぐ終ろうとしている。これが終れば銭湯に行こうかときみは考え、いやいや帰ってくるまで待とうと思い直す。番組のエンディングテーマ曲が流れ始めると、きみはスイッチを切り、立上がる。そのとき鉄の階段を上がってくるハイヒールの靴音が聞えてくる。きみは腕時計を見る。午前零時過ぎ。靴音はドアの前で止まり、鍵をかちゃかちゃさせる音がする。きみは急いでいって、錠を開けようとするが、その前にドアが開く。清美はいくらか疲れた顔で、ただいまと言い、ドアを閉める。酒くさい臭いが漂ってくる。酒、飲んでるのかときみは訊く。そうよ、いけない。別にいけなかないけど。きみはテーブルのところに戻りかけるが、思いついて、靴を脱いでいる清美の背中に話しかける。今ちょうど銭湯に行こうと思っていたところなんだけど、どう、一緒に行かないか。清美は靴を脱ぐと、一つ大きく深呼吸をしてから、ちょっとまだ苦しいから、もう少し休んでから行くわと言う。今行かなきゃ閉まっちゃうよ。それには答えずに、清美はテーブルのところに行くと、椅子に腰を降ろす。行きたければ、先に行ってきたら。きみは腕時計に目をやり、清美の向いに坐る。お腹、すいてないか。これ、マーボ豆腐? 清美は顎を突き出して二つの皿を見る。そう。これは。そっちは鳥胡麻。あんたが作ったの。それは出来合いだけど、マーボ豆腐はおれ。清美は鼻先から徐々に広がるような笑い方をし、それから溜息をつく。どうしてこんなことをするの。居候の身だから、たまには何かしなきゃ。それで私が遅く帰ってきたから、がっかりっていうわけ。別にそんなことはないけど。もうやめてよと清美が押し殺した声で言う。こんなことをするくらいなら、働きなさいよ、仕事を探してきたらどうなの。きみは黙る。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。何とか言いなさいよ、都合が悪くなればいつもだんまりを決め込むんだから。きみは顔を上げて、清美の目を見る。清美は瞬きをやめて見返してくる。瞳が潤んでいるのは泣いているせいかときみは一瞬思うが、酔っているせいだと思い直す。アイラインが流れてるよときみは言う。え? 何て言ったの。アイラインが流れていると言ったんだよときみは自分の目尻に指を持っていく。清美は目尻を人差指で触り、その指先を見ると、鏡台のところへ行き、中腰になりながらティッシュペーパーで目尻を拭く。ほんとに変わったなあときみは言う。何が変わったのよ。清美はティッシュペーパーをごみ箱に捨てて、戻ってくる。昔はそっちはノーメイクだったのにね。清美はおかしそうに笑う。若いときは素顔のほうがきれいから化粧をしなかっただけよ。おれの言ってるのは、そういう意味じゃないんだけどね。どういう意味よ。きみはちょっと考えてから、いや、やめとくよと答える。何よ、いやな人ね、居候だからって遠慮しないで、はっきりと言いなさいよ。きみはふた呼吸ほど間を置いてから、話し始める。ずっと昔、知り合ったばかりのころ、おれがどうして化粧をしないのって訊いたことがあったんだよね、そのときそっちは確か、女であることを武器にしたくないから化粧をしないって言ったんだよな、女であることを武器に世の中を渡りたくないってね、おれはその言葉に感動したんだけどね。清美は首を振って長い髪を後ろにやる。あのころは本当にそう思ってたんだけど、でも若さが言わせた言葉よね。今じゃ化粧をし、プロポーションに気をつける歳になったわけか。もうやめてよと清美が大きな声で言う。人は変わるものなのよ、変わってどうしていけないのよ。誰もいけないなんて言ってないよ。あんたは何よ、そんな偉そうなことを言うんだったら、仕事をして稼いでみなさいよ、いつまでもそんな昔のことばかり引きずってるから何もできないんじゃないの。きみは立上がる。何よ、怒ったの。いや、風呂に行ってくる。きみは流し台の下を開けて、洗面器を取り出し、掛けてあったタオルを放り込む。ドアの前でサンダルを履きながら、行かないのかと声をかける。行くわよという投げ出すような声が聞え、清美の立上がる音がする。  左手にきみの住んでいる団地が見えてくる。きみは自転車を降り、ブレーキを掛けたり緩めたりしながら、階段の縁に沿って自転車を降ろしていく。下に降りると、再び自転車に乗り、少し行ったところで団地の中に入る。何人かの勤め帰りの男たちがゆっくりとした足どりで歩いている。きみは三棟目の建物の自転車置場に自転車を止め、エレベーターには乗らずに横の階段を上がっていく。  ホテルのコーヒーラウンジは大きなガラス張りの窓に面していて、そこから春の柔らかな光が射込んでいる。きみは向いに坐っている自分よりも八歳年下の女を見ている。やや丸顔で、笑うと口許にえくぼができる。私はこれで退散するけど、二人とも硬くならずに気楽に話しなさいよと課長は言って、席を立つ。きみは腰を浮かせて頭を下げようとするが、課長はそのままというように手で制して、レジの方へ行く。女はくすっと笑って、課長を目で見送る。課長の姿が見えなくなると、女はコーヒーを一口飲んで、初めて会って気楽に話すなんて無理ですよねえと笑顔を見せる。もちろん、そうですときみは答え、いくらかほっとした気持を味わう。わたし、お見合いするの、初めてなんです、だから変なことをついしゃべっちゃうかもしれませんけど、そのときはごめんなさいと女は膝に両手を置いて、軽く頭を下げる恰好をする。いや、ぼくも初めてですからときみは言って、笑いかける。わあ、よかった、女ははしゃぐように言い、両手を胸の前で組み合わせる。その大げさな身振りにきみは思わず苦笑を誘われるが、すぐに自分の心が軽くなっていることに気づく。  きみは五〇六号のドアの前に立ち、チャイムのボタンを押す。ドアが開き、美奈子が顔を見せる。お帰りなさい。きみは少しせりだしてきた美奈子のお腹に目をやりながら、そんなに急いで出てこなくてもいいよと言う。躓いて倒れたりでもしたら、大変だろう。美奈子は笑いながら、わたし、そんなにドジじゃないわよと答える。そうか、そうか。きみは靴を脱いで、玄関横の自分の部屋に行き、トレーナーの上下に着替える。居間のテーブルの上には二人分の晩ご飯の用意ができている。きみは椅子に腰を降ろしながら、先に食べてたらよかったのにと言う。食べようと思ったんだけど、もう帰ってくるかなと先に伸ばしてたら、こんな時間になっちゃったのよ、でも、ちっとも退屈じゃなかったわ、この子と話をしてたら。そう言って、美奈子はお腹をさする。きみは眉を持ち上げて驚きの表情を作りながら、ビールと言う。  ディスコの中は、きみが思っていたほどうるさくはない。十数年前に一度行ったきりの印象から、鼓膜を圧するような音を想像していたきみは、拍子抜けをする。もちろん天井のスピーカーからはテンポのいい音楽が流れているのだが、話ができないほどの音量ではない。きみと美奈子は空いているボックス席に腰を降ろし、ボーイにチケットを渡す。もっとやかましいかと思っていたときみは言う。静かなのはいや? 美奈子が訊く。いやいや、これくらいがちょうどいいよ。お店にもいろいろあって、ここがちょうどいいかなと思って、ここにしたの。昔は、ディスコなんて言わずにゴーゴークラブって言ってたんだけどね、確かもっとがんがん音が鳴っていて、踊りも動きが派手だったような気がするけど。美奈子がくすっと笑いながら、何か言う。え? 美奈子は顔を近づけてきて、ステップって言ってと小声で言う。ステップ? 美奈子はフロアの踊っている男女に目をやって、踊りのことよと答える。ああと呟きながら、きみは急に、自分が場違いなところに来てしまったような気持を感じ始める。あんまり派手に動くのは、恰好悪いのよ、特にこういう店では。きみはなるほどというようにうなずきながら、一方ではそんなことはどうでもいいじゃないかという気もしている。ゴーゴークラブって、わたし、知らないけど、行かれたことあるのと美奈子が訊く。十年以上前に一度だけ。それって、ここみたいな感じなの。そうだなあ、きみはフロアから天井の照明に目をやりながら、音楽が鳴って踊っているのは一緒だけど、どういうのかもっとむんむんとしていたような気がするなあと答える。わかる、わかる、美奈子は大きくうなずいて、はっきり言ってファッショナブルじゃなかったんだと言う。  きみはテレビの角度を変え、クッションを枕に横になる。美奈子は食後の後片付けをしている。面白そうな番組がなく、きみは手許のリモコンで次々にチャンネルを変えていく。そのうち一つの局が映画をやっているようなので、それを見始めるが、すぐに映画ではないことに気づく。どうもドキュメンタリーらしい。きみは新聞の番組欄を見て、それがアメリカのテレビ局の制作したドキュメンタリーであることを知る。森に住む人々という題名で、番組紹介欄には、アメリカ社会に溶け込めないベトナム戦争の帰還兵千人余りが、ワシントン州の広大な森の中に、お互いに顔を合わせることもなくばらばらに住んでいる実態を描いたものと書かれてある。きみはベトナム戦争が終ったのがいつか思い出そうとするが、できなくて、美奈子に訊く。さあ、わたし、知らないわ。きみは書棚のところに行き、年鑑を見る。一九七五年。きみはテレビの前に戻り、十年以上経っても、社会から孤立して生きる人間の姿を見る。そのとき、マクガバンはこれからもここで暮らしていくようですというナレーターの声が聞える。マクガバン? 変わった名前だが、どこかで聞いたことがある。きみは一瞬にして思い出す。  午後七時、きみが映画館に向かっていると、背の高い白人が通りの両側に目をやりながら、こちらにやって来る。深緑色のジャンパーに、同じ色のズボンを着て、大きい編み上げ靴を履いており、肩から使い古したショルダーバッグを下げている。それに頬全体に茶色の髯を生やしている。歩道には人通りが少なく、きみは白人を意識しながら、彼の横を足早に通り過ぎようとする。そのとき白人がきみの前に立ちふさがって、英語を浴びせかけてくる。え? きみは思わず訊き返し、英語が話せないことを言おうとするが、言葉が出てこない。白人は早口にしゃべり、きみが何の反応も見せないとわかると、ムービー・シアター、ムービー・シアターと繰り返す。さすがにきみは彼が映画館を捜していることがわかったので、何という名前か尋ねると、どこでもいいと言う。どこでもいいというのはどういう意味かよくわからないが、たぶん母国の映画を見たいのだろうときみは推測し、彼に一緒についてくるように言う。途中で電話ボックスを見かけると、彼は走っていって中に入り、電話を掛けるが、話し中なのか何もしゃべらずに受話器を置いて出てくる。五分ほど歩いて、きみが行こうとしていた映画館の前まで来ると、オーケーと彼に尋ねる。彼は手を前に突き出した大げさな身振りで、オーケー、オーケーとうなずく。髯のせいで歳を取っているように見えるが、実際はだいぶ若いのじゃないかときみは思う。あなたは何歳かときみは突然尋ねる。彼は怪訝な顔をし、何か言う。それが質問に対する答えではないことはわかるので、きみはどうして歳を尋ねる気になったかという理由を説明したいと思うが、どう言っていいかわからない。とっさにきみは、自分の頬から顎にかけて指で触り、あなたは若いのではないかと言ってみる。彼は人差指と親指で髯をしごき、それから急に笑い出す。おまえの言っていることはわかったというように人差指を振り、わたしは二十一歳だと言う。二十一歳? きみは思わず日本語で言ってしまう。彼がえっという顔をするので、きみは、私は十八歳だと言う。本当かと彼は驚いた表情を見せる。本当だときみが言うと、彼は早口で何か言う。どうもきみのことを少年のように見えると言っているようだ。きみは、あなたは私より二十歳も年上に見えると言ってやりたいが、言葉がわからず、笑ってうなずきながら切符売場の窓口に向かう。きみが切符を買うと、彼は恐縮した表情をして両手を振る。勘違いをしているなときみはおかしくなり、私もこの映画を見たいのだと彼に言う。彼は大きくうなずきながら、ちょっとばつが悪そうに窓口に向い、ポケットからしわくちゃの札を出す。彼と一緒に中に入るとき、もぎりの女性が驚いたように彼を見上げる。映画はニューヨークを舞台にしたコメディで、館内は八分程度の入りだ。予告編が始まっており、きみと彼は後ろの方に席を取る。彼は坐るとすぐに立って、外に出ていき、ポップコーンの袋を手に戻ってくる。きみにも食べろというように袋を差し出す。きみは二口ほど食べるが、噛む音が気になって、それ以上手を出さない。彼は一向に気にならないらしく、本編が始まっても食べるのをやめない。それに彼は何でもないと思われるような場面でも、いかにもおかしそうに声を出して笑う。他の観客が静まっているだけに、その声は大きく響く。きみは彼のことが気になって映画に没入できず、中途半端なまま見終える。明りがつき、他の観客が出口に向かい、きみも立ち上がるが、彼は席に腰を降ろしたまま動こうとはしない。きみは彼に、映画は終ったと言う。彼は不思議そうな顔をして何か答えるが、きみにはわからず、仕方なく出口を指さして、外にでなきゃと日本語で言う。それでも彼は首を振って席を立たないので、きみは放っておこうかと思うが、そのうちほとんどの観客が外に出て館内ががらんとしてくると、彼もようやく気づいて腰を上げる。彼が話しかけてくる言葉の中に、オールナイトという音が聞えるので、きみは彼がここで一晩過ごすつもりだったらしいことを知る。彼はロビーに出ると、入口のカウンターの中にいる女性に何か言う。女性は困惑した表情で首を振るが、彼がなおも何か言うと、横の事務所に引っ込んで中年男を連れて出てくる。男は英語が少しはできるらしく、彼の言うことを聞いてからゆっくりとした言葉で答える。彼は大きくうなずきながら、仕方がないというように肩をそびやかせる。一緒に外に出ようとして、彼は赤電話に気づき、ポケットから硬貨を取出して電話をする。しかし何も話さず、首を振って電話を切る。外に出ると、きみは彼に、今晩どこに泊まるのかと訊く。彼は早口で何か言うが、その表情から泊まるところを決めていないらしいことがわかる。お金は持っているのかときみは訊く。彼はポケットから丸められた札と硬貨を取出して、きみに見せる。とてもどこかに泊まれるような額ではない。これで全部かと訊くと、そうだと言う。きみは何となく責任を感じる。私のアパートに泊まるかときみは尋ねる。彼は意味がよくわからないらしく怪訝な顔をし、きみは、よかったらと言いたいが英語がわからないので、もう一度、私の部屋に泊まらないかと言う。彼は大きくうなずき、サンキュー、サンキューときみの手を握って振る。  ウィリアム・マクガバン。確か、ウィリーと呼んでくれと男が言ったことをきみは思い出す。ナレーターは確かフルネームを言ったはずだが。きみは食器を洗っている美奈子に、今テレビが人の名前を言っただろう、なんと言ったか覚えているかと訊く。美奈子は笑いながら、テレビの前にいるあなたに聞えなくて、どうしてわたしに聞えるのと答える。テレビ画面には、別の男の森の生活が映し出されている。狐か何かをライフル銃で打つところ、罠に掛かった兎を外すところ、そしてインタビュアーを相手に焚火の前で話すところ。自分と社会の間に見えない膜のようなものがあって、おれはどうしてもその膜を破ることができないんだと男は言う。やつらにはその膜が全然わからないらしいんだが、おれには感じるんだ。きみはもう一度前の男に戻らないかと思いながら見ているが、画面は今度は黒人の男に切り替わる。  電話をかけに外に出たウィリーが戻ってきて、Mデパートの場所を教えてくれと言う。きみは何とか教えようとするが、うまくいかなくて、一緒に行こうと言う。支度をして、外に出る。五月の光がまぶしくて、きみは目を細めて空を見上げる。ウィリーが何か言い、きみが訊き返すと、今度はゆっくりとした口調で言う。どうも人に会うらしい。ガールフレンド? ときみが訊くと、ウィリーは顔をしかめて、ノーと答える。地下鉄に十五分ほど乗り、降りた駅のすぐ上にMデパートがある。この建物がそうだとウィリーに言うと、彼は今度はきみより前を歩いて、正面出入口を探す。大きなレリーフのかかった正面に来ると、ウィリーはレリーフを指さして、ほっとした顔をする。デパートに出入りする人がちらちらとウィリーを見るので、きみは少し面映ゆい気持がする。ウィリーは腕時計を見ながら、通りの左右に目をやっている。そのとき一人の若い女が近づいてきて、ウィリーに何か話しかける。ウィリーの髯面が崩れて笑顔になる。女はそのままウィリーの腕を取って行こうとするが、彼が押しとどめ、二人できみのそばにやってくる。女は小柄で眼鏡をかけており、ジーンズ姿だ。彼女はきみに小さく頭を下げる。やっぱりガールフレンドじゃないかときみはウィリーに言いたいが、彼女がえらく真面目な顔をしているので、そんな軽口も出てこない。ウィリーが彼女に早口で何か言い、彼女の表情が少し緩む。彼がたいへんお世話になったそうで、どうもありがとうございましたと彼女は今度は丁寧に頭を下げる。いいえときみは口ごもる。ウィリーがまた何か言い、彼女が訊き返す。彼女は笑顔を見せて、彼が説明してくれと言っているので言いますけど、私は彼のガールフレンドではありませんと言う。彼は実はベトナム帰りの米兵で、これからスウェーデンへ向かうところなんです。脱走兵? きみは呆然とした面持で、彼女とウィリーを見る。ウィリーはきみにウインクをしてみせる。しかし、きみにはそこにいる白人が今までのウィリーと同じ人物とはとても思えない。急に遠くなってしまった感じだ。ウィリーはたどたどしい日本語で、どうもありがとうと言い、右手を差し出してくる。きみはためらいながら手を出し、握手をする。掌の皮が厚いときみは思う。  番組は前の男に一度も戻らずに終ってしまう。きみは本当にマクガバンという名前を聞いたのか、あやふやになってくる。たとえマクガバンだったとして、あの男がウィリーであるとは、きみには考えられない。そんなはずはないときみは否定しようとするが、そうすればするほど、もしそうだったとしたらという思いが頭をもたげてくる。きみは電話帳のありかを美奈子に尋ねる。押し入れの中よと答えてから、何を調べるのと美奈子が訊いてくる。いや、ちょっとと言って、きみは押し入れから電話帳を引っ張り出す。あの番組の放送局の電話番号を見つけると、そのまま電話帳を持って電話のそばに行く。どこにかけるのと美奈子が訊くが、きみは生返事をするだけで、番号を見ながらダイヤルを回す。呼出音が切れて、女性の声が聞えてくる。きみは、たった今放送の終った番組をもう一度見たいんですがと急き込んで言う。相手は、ただいま視聴者相談室におつなぎしますので、しばらくお待ち下さいとのんびりとした口調で答え、保留のメロディが流れてくる。それが途切れて、今度は男の声が聞えてくる。きみはもう一度同じことを言う。男は番組の名前を訊き、きみは美奈子に新聞を持ってこさせて、それに答える。男は言う。残念ながらその番組の再放送の予定はありませんので、もう一度というご希望には添いかねますが。あれはビデオでしょ、だったら私がそちらに行きますから、そのビデオを見せてもらえませんか。いや、それも著作権の問題がありまして、放送以外でお見せすると言う訳には。だったら一つだけ教えてもらえませんか、あの番組の中に出てくるマクガバンという男のファーストネームを。ご覧になっておられたんじゃないんですか。たまたま聞き逃したもので。だったら言ってないんじゃないですか。相手は明らかにうんざりした口調になっている。しかしきみは引き下がらない。確かに言ってました。相手の男は沈黙し、しばらくして、どなたかあの番組をビデオに録画した方に見せていただいたらいかがです、私どもではお宅さまのご希望には添いかねますので。どうしてもだめですか。申し訳ございません。きみは受話器を置く。何があったのと美奈子が心配そうにきみの顔をのぞき込む。何でもない。声が思わず大きくなる。  一人の男が教室に入ってきて、教壇の前に立つ。ざわついていた室内が徐々に静かになる。休講かと誰かが言う。休講ではありませんと男が言う。先生には許可を取って、十分だけ時間をもらいましたので、その間私の話を聞いて下さい。男は不精髭を伸ばし、くたびれたブレザーを着ている。きみは正面に坐り直して、男を見る。私は全学共闘会議の君島というものですと男が話し始めると、教室の中が再びざわめき出す。男は構わずに話を続ける。政府が大学のマスプロ教育化を計っていることは、みんなも承知していることと思います。知らなかった人は今知って下さい。この大学はその政策に真っ先に乗って、マスプロ教育を押し進めようとしています。そのほうが予算が増えるからです。しかし予算が増えるからといって、喜んではいられません。予算が増えても、大学の建物はそのまま、教える人間の数もそのまま、つまり狭い中に大勢の人間を押し込めようというのです。今まで一教室に四十人だったのが、六十人になる。当然一人当りの教育環境は悪化する。にもかかわらず授業料の値上げが待っている。これはおかしいとは思いませんか。そんなこと言われても、どうしようもないんじゃないですかと誰かが言う。いや、そんなことはないですよと男は落着いた口調で答える。マスプロ教育の弊害を最も受ける君たち一年生が立ち上がることが、最も必要なんですよ。ぼくらみたいに弊害を受けていない人間がいくら反対を叫んでも、あまり説得力がないですからね。それに君たち自身だけの問題ではなくて、これからこの大学に入ってくる高校生のためにも、反対したほうがいいと思うけど。きみの後ろに坐っている袴田が、どうして他人のために反対しなきゃならないのと隣の男に小声で話している。マスプロ教育がいやだったら、別の大学に行けばいいんだし。君島は長い髪の毛をかき上げてから、大学というところは上から押しつけられた制度をそのまま守っていく場所ではなくて、学生と教授が一体となって変えていくことのできる場所だということを、まず頭に入れておいてほしいと言う。それが大学の自治ということなんですよ。大学に自治がなければ、学問の自由もありえない。学問が時の権力者の意のままになる。実際産学共同などという危険な動きもあります。これに軍事産業が結びついたら、戦前への逆戻りといったことにもなりかねない。それを阻止できるのは、実際に大学で学んでいるわれわれ学生だけなんですよ。ちょっとオーバーじゃないのと袴田が言い、それに同調する声が起こる。袴田がきみの肩を叩き、いい加減にしてほしいよねと言う。きみは袴田を無視して、君島に目を向ける。君島は言う。われわれが日米安保条約に反対するのも、結局はそれが軍事同盟だからですよ。日本もアメリカの軍事体制に組み入れられ、いずれは軍事産業もその体制を支えるようになる。大学もその研究機関として、軍事体制に巻き込まれる恐れが十分にある。人間の幸福と福祉を追求するはずの学問が戦争に奉仕するとしたら、一体われわれは今まで何をやってきたか、全く意味がなくなってしまうと思いませんか。そんな話より、講義を聞きたいよおと袴田が言う。きみは我慢できずに後ろを振り返り、少しはあの人の言うことを考えてみたらどうなんだ、何も考えずに授業を受けるだけが能じゃないぞと怒鳴ってしまう。  きみはあの画面に映った男がウィリーなのかどうか、どうしても確かめなければならない気がしてくる。彼の十年が本当に森に住む十年だったのか。それとももっと別の、少なくとも森には住まない十年だったのか。きみは、会社の同僚であの番組を録画しそうな人間がいないか思い浮かべてみるが、そんなやつはいそうもない。見た人間もいないだろう。会社の同僚にいないとしたら、他に当たってみる人間はいない。きみはふっと、君島ならあるいはテレビを見て、録画までしているかも知れないと思う。あるいは清美なら。それとも袴田は見ただろうか。あいつは見ただろうか。きみの頭の中に、さまざまな人間の顔が甦ってくる。警官に頭を割られたやつは見ただろうか。ジグザグデモの先頭に立っていたやつは見ただろうか。催涙ガスで一週間目を開けられなかったやつは見ただろうか。きみはそのすべての人間に会って、きみの十年はどういう十年だったのかと訊きたい思いが募ってくる。  きみは独特の字体で書かれた大きな立看板の前を通って、大学の中に入っていく。ヘルメットを被り、タオルをあご紐替わりにした男がマイクを握って、何か怒鳴っている。肩から担いだ拡声器から、語尾を伸ばす声が流れている。彼の周りに三人の男たちがおり、彼らはタオルで顔半分を覆ったまま、通り過ぎる学生にビラを手渡している。きみも一枚もらう。米帝国主義打倒、安保粉砕の文字が踊っている。きみはビラを手にしたまま、大学の建物をぐるっと見回し、大きく息を吸ってゆっくりと吐く。学内にはまだ散り残った桜の木があり、春の光が霞んでいる。自由だときみは不意に思う。何をしても許される。高校生活よ、さらば。きみは背筋を伸ばし大股で歩き始める。きみの目指す建物は、いちばん奥にある。