われらが歌う時                   津木林 洋     1  晴れた日に海を見るのが好きだ。人のいない海なら、なおのこと。はるか沖のほうに陽炎が立って、水平線と空との境がぼんやりと溶け合っているあたりを眺めていると、自分というものが消え去って、海の中の小さな生物、あるいは一粒の砂になったような気がしてくる。 「人が海を見てほっとするのは、遺伝子のせいです。海から生れた生命が連綿として、遺伝子の中に海をなつかしむ記憶を持ち続けているからですよ」  そう言った人も今は死んで、海の中に還っている。彼の望んだように、彼の体を造っていた分子や原子が海の中のあらゆる生物に取込まれるのかも知れない。  私の遺伝子の中にも海の記憶があるとするならば、それは娘の中にも流れていることになるだろう。娘が子供を持ったとして、その子供にも記憶が手渡されていく。そのまた子供にも……。そんなふうに考えていくと、私の体の中を時間という風が一瞬にして通り過ぎていってしまうような奇妙な感覚に陥ることがある。  私は頭を振って髪をなびかせ、両手の指で髪の毛を押えながら、うなじをつかむ。目を開けると、先程と変わりのない海が広がっている。小さな波が寄せては返すを繰返すばかりだ。     2  私が亜希子の父親と離婚したのは、三十四歳になったばかりの冬のことだった。そのときの私としては、とにかく春がくる前に片をつけたいという気持でいっぱいだった。桜や菜の花が咲くというのに、離婚問題を抱えたままそんな季節の中を過ごさなければならないのは、どうしても我慢できなかった。  離婚の原因は相手が愛人をつくって、その愛人と結婚したいと言出したからだった。まさか自分の相手にそんなことが起こるなんて夢にも思っていなかったが、そう切り出された瞬間、離婚するしかないと私は思った。裁判所に持ち込んだのは、娘のことをはっきりとさせておきたかったからで、十一年間の結婚生活にしてはいささか少ない慰謝料と毎月の養育料を支払うということで、私は調停離婚に応じた。  私は相手の愛人の顔を一度も見たことがないし、どんな人間か話を聞く気もなかった。世間によくある陳腐な問題に自分が巻き込まれていると考えると、なんだかおかしくもあったし、下手な芝居を見ているようで、妙に現実感がなかったことも事実だった。  裁判所の前で別れるとき、私は二度とあなたに会わないと相手に言い、娘に会いたいときは連絡してもらえば一人で会いにいかすと答えた。しかし相手からは月々きちんと銀行口座に養育料が振り込まれる以外は電話一本すらかかってこず、娘もそういう私や相手の姿勢をうすうす感じているのか、父親に会いたいとは一度も言わなかった。     3  娘と二人では広すぎるマンションから、家賃が半分以下の2DKのアパートに移った。相手は離婚が決まる前にマンションを出ていて、ベッドや本棚、机などを置いていったが、私は相手に関するものはすべて捨て、娘のものと最低必要なものだけをアパートに運び込んだ。  マンションの家賃が切れる月末までに引っ越しをしようと、しゃかりきになったせいか、アパートに落着いたとたん、気が抜けたようになってしまった。仕事を探さなければいけないと思いながら、四カ月が過ぎてしまった。  両親は私が結婚してまもなくあいついで他界し、一人っ子である私には頼れる兄弟もいなかったし、遠い親戚には頼る気もなかった。かといって、結婚前に三年ばかり事務員をやっただけの私には、男並の経済力を獲得する技術も経験もなかった。いや、それは言い訳かもしれない。結婚というボートから放り出された私は、ただ、海の中を一人で泳ぎ出すのが恐かっただけなのかもしれない。とにかく私は慰謝料を食いつぶしながら、娘を小学校に送り出し、帰ってくるのを待つという生活を続けた。  桜が散って光が輝きを増し始めたある日、私は半ば習慣のように新聞の求人欄を眺めていたが、そのすぐ上にある小さなコラムに目がいった。「主婦代行業が小さなブームになるか」という見出しで、これからはシングル世帯が増えてくるので潜在需要はあるということらしかった。  面白そうと私は思った。主婦をやっていた人間が主婦代行業をする。これほど今までの経験と技術を生かせる仕事はないわと半ば冗談半分に考え、私は小さく笑った。  しかしそのときはそれっきりで、コラムの記事など忘れていたのだが、一週間ほどたって無料で配られてくるミニコミ誌に、伝言板という欄を見つけたとき、ふいに思い出した。そのミニコミ誌は創刊してすぐらしく、伝言板の欄にはあまり「伝言」が載っていなかった。そのせいか、どんなことでも無料で載せますという言葉が添えてあった。  ここに、主婦業を代行いたしますという「伝言」を載せようかしらと思いついた。誰も見ていないと思うけど、ひょっとして誰かが見ていて、頼んでくるかもしれないと微かな期待めいたものがあった。だめでもともとだからと、自分を励ましたが、自宅の電話番号と名前を載せるとなると、やはりためらいがあった。いたずら電話などが掛かってこないかしらという不安があった。  二、三日迷ったあげく、葉書を出すことにした。どういう文面にしようかとチラシの裏に鉛筆で書いたり消したりして、結構楽しんだ。 「忙しいあなたに代わって、炊事、掃除、洗濯、その他主婦のする仕事を引受けます。委細面談。連絡をお待ちしています」  その後に電話番号と名前を書き込んだ。葉書をポストに入れるとき、胸がどきどきしたが、そんな気持になったのは久し振りのことだった。  五日たって、雑誌社から電話が掛かってきたときは、本当にびっくりした。事前に連絡があるとは夢にも思わず、すぐにでも雑誌に載るものとばかり思い込んでいたから。相手は女性で、電話番号が本物かどうか確かめるのと、本当に文面通りのことをする意志があるのかの念を押すためだった。最後に、文面に関する交渉については、雑誌社はいっさいの責任を負わないということを強調して、女性は電話を切った。  軽い気持で始めたのに、急に重いものを背負わされたような気持になって、受話器を置きながら小さくため息をついた。しかしすぐに、あんな小さい雑誌の、あんな小さい欄なんか誰も見てないわと思うと、別に大したことじゃないという気になった。そして、今度こそ本気で仕事を探さなければと思った。  娘には、「伝言板」のことは何も言わなかった。雑誌に載っても、見せるつもりはなかった。  それから一週間たって、郵便受けの中に、例のミニコミ誌が入っているのを見つけた。急いで手に取って、「伝言板」のページを開けてみた。誤植もなく、小さな活字できっちり二行の伝言だった。他に十ばかり伝言が並んでいたが、不用品のミシンを譲りますとか、中国語の個人教授をしてくださる方いませんかなどといったものだった。  その日は、娘が学校から帰ってくるまで、二回の電話があったが、一つは証券投資の勧誘で、もう一つは間違い電話だった。そのたびに私はどきりとして、少し呼吸を整えてから、受話器を取ったのだった。     4  伝言に対する電話が初めて掛かってきたのは、三日後のことだった。二日間まったく反応がなかったので、電話のベルにようやく平静でいられるようになった矢先のことだった。 「もしもし田崎さんのお宅ですか」と聞き覚えのない男の低い声が耳に響いた。 「はい、田崎ですが」と私は少し緊張して答えた。 「わたくし、青木と申しますが」と男は丁寧な口調で言った。「伝言板の記事を見たんですが、本当にやってもらえるんですか」 「ええ、もちろんです」  私は反射的にそう答えたが、そのときの私の気持をうまく表現するのは難しい。尻込みしたい気持が半分と、やったと思う気持が半分といったところだろうか。 「それで、大体どのくらいになるのでしょうか」 「え?」 「一カ月、いくら払えばいいんですか」 「ああ」私はいくらにしようかといそがしく考えを巡らせたが、よくわからなかった。 「大体、相場でお願いします」と私が答えると、相手の男は小さく笑ったようだった。 「相場と言われても、困ったなあ。今までこんなことを頼んだこともないし。……まあ、いいか。委細面談でしたね」 「ええ」 「それじゃあ、どこかで会いましょうか」  なんだか、私のほうが客になったみたいだった。互いに住所を教え合うと、そんなに離れていないことがわかった。結局、国道に面した小さなホテルのティールームで会うことになった。相手がその場所がどうかと言い、ホテルであるのがちょっと気にかかったが、変に拒否するのもどうかという気がして、同意したのだった。  約束の時間までは二時間ほどあったので、私は洗濯をし、脱水し終った洗い物を小さなベランダに干しながら、主婦代行業の報酬のことを考えていた。電話でそのことを言われるまで、まったく考えていなかったうかつさに、自分でもあきれ、笑ってしまった。  いくつかの金額を思い浮かべたが、その金額にいたる根拠も何もないので、どれかに決定することなど到底できなかった。  約束の時間が近づいて、何を着ていこうかと迷ったが、ジーンズにトレーナーという普段の恰好で行くことにした。化粧もファンデーションだけで、口紅もつけなかった。  時間にだけは遅れないようにとアパートを出て、ホテルに着いたのは、約束の二十分前だった。今まで外からしか見ていなかったが、小さなホテルの割には中は豪華な感じで、私はジーンズ姿で着たことをちょっと後悔した。  ティールームには毛足の長い絨毯が敷き詰められており、ガラス製のテーブルがゆったりと配置されてあった。客は十人ほどいたが、一人でいる客はだれも人待ち顔ではなかった。私はほっとして窓際の席に腰をおろし、やってきたウェイターにコーヒーを注文した。  その席からは、ホテルに入ってくる人の姿がよく見えた。私はコーヒーカップを両手に肱をテーブルに立て、少しずつ飲みながら、男の人が入ってくるたびに、あの人かなと緊張した。誰かをこんなふうに待つというのは何年ぶりかなと私はその緊張を楽しんでいた。  約束の時間までに何人かの男の人が入ってきたが、誰もティールームのほうにはやって来なかった。私はそわそわし始めた。だまされたのではないかとそのとき初めて気づいたのだ。いたずらにしては手が込んでいると思いながらも、私は約束の時間を十五分過ぎてもまだ席を立たないでいた。もうあと五分過ぎたら帰ろうと思っていたとき、サングラスをかけた男が入ってきた。男はフロントに近寄りもしないで、真っすぐティールームのほうに歩いてきた。髪の毛をポマードでべったりと撫でつけ、派手なチェックのジャケットを着ていた。  私は、まさかあの人ではないだろうと思いながら、視線を合わさないように窓の外に目をやった。視界のはしにチェックの柄が映り、それがだんだん近づいてきた。私のそばに立ったことがわかると、私はゆっくりと首を回して、上目使いに男を見た。 「田崎さん?」男は小首を傾げるような仕種を見せながら、尋ねた。私はよっぽど、違いますと言おうかと思ったが、観念して、「そうです」と答えた。 「ああ、よかった」男は大げさな口調で言い、私の向かいに腰を降ろした。「車の調子が悪くて、みてもらってたらこんなに遅くなってしまって。どうもすいません」  ポマードの強い匂いが鼻をついた。私は煙草の煙を追い払うように、匂いに向かってさりげなく息を吹きかけてから、「いいえ、いいんですよ」と答えた。  男はサングラスを外した。丸くてかわいらしい目だったが、目尻にしわが目立ち、外す前は四十ぐらいかなと思っていたのが十歳ほど老けて見えた。こめかみの辺りに染みが浮き出ており、服装と顔のバランスが急に崩れた。  ウェイターが来て男に注文を聞くと、男は人差指を立てて、「アメリカン」と答えた。中指と薬指に大きな指輪をはめている。動作がどこか芝居じみていて、私は唇に力を入れて笑いをこらえた。  男はジャケットの内ポケットから名刺入れを取出すと、「こういう者です」と私に手渡した。「コスモ・エンタープライズ代表取締役 青木哲雄」と横書きの文字が刷ってあった。私は名刺など持っていなかったから、そのことを断ると、「名前はもうわかってますから、構いませんよ」と笑った。 「どういうお仕事をされてるんですか」と私は訊いた。 「どう言ったらいいのかなあ。……まあ、ブティックとスナックみたいなことをやっております」 「二つも?」 「ええ。ここに店の名前が入ってます」と青木は私の持っている名刺の裏を指で差した。返してみると、「モモ」と「ピンクパンサー」という小さな文字が印刷されており、電話番号も入っていた。 「昼はブティック、夜はスナックという具合に、まあ」 「そうですか」私が感心して答えると、青木は照れたように笑いを浮かべた。  ウェイターがコーヒーを持ってくる。青木はミルクを入れると、スプーンをつまむように持ってかきまぜ、小指を立てながらカップを持上げた。 「ところで」と青木はコーヒーを一口飲み終ると言った。「月々の支払いのほうは決まりましたか」 「いいえ、まだ」私は引受ける気はなかったので、いい加減に答えるつもりだった。 「それじゃあ、そのことを決める前にどういうことをしてもらえるのか、それをはっきりとさせておきましょうか」  青木はあくまでビジネスを進めようとする。「伝言板」のことは冗談ですと言ってしまえば事は簡単だったが、青木の態度を見ていると、とてもそんなことは言出せそうになかった。 「掃除はどの程度まで? 掃除機をざっとかける程度なのか、それとも雑巾がけまで」 「それは汚れている程度によります。汚れているようでしたら、雑巾がけでもなんでも」 「明快ですね」  何だか相手に乗せられている感じだった。私が嫌がっているのを見抜いているのではないかという気がした。 「私がやってもらいたいことはですね」と青木は身を乗出してきた。「炊事は結構ですから、掃除と洗濯だけお願いしたいんですが」  私が返事をためらっていると、「やっぱり掃除と洗濯だけじゃ、だめですか」と青木はがっかりした表情を見せた。私は、どうせ相手と顔を合わせてする仕事じゃないし、いやになったら、やめればいいわと考え直し、「掃除と洗濯だけでも結構です」と答えた。 「そいつはよかった」青木は大きくうなずいた。「それで金額の件ですが、一日三時間かかるとして、一時間千円、日曜と祝日以外は毎日来てもらうとして、七万五千円というのはどうです」 「三時間もかからないと思いますけど」 「いいんですか、そんなことを言って」と青木は笑った。 「そうですね。自分の住んでるところを基準にしてはいけませんね」私もつられて笑った。  コーヒーを飲み終わったところで、「それじゃあ、ちょっと私の家を見てもらいましょうか」と青木が言った。 「今からですか」私は驚いた声を出した。 「いけませんか」 「そろそろ娘が帰ってくるものですから」私は腕時計を見ながら言った。 「娘さん、おいくつですか」 「十歳です」 「学校が終るには、まだ時間があるんじゃないですか」  青木も自分の腕時計を見た。 「でも……」と私が返事を渋っていると、急に青木が笑い出した。 「なんか勘違いされてるみたいですね。私はただ仕事をしてもらう場所を見てもらおうと思っただけなんですが」  私は恥ずかしさで顔が熱くなった。 「でも、考えてみたら、勘違いするのも無理ありませんね。きょう初めて会った男から、家に行きましょうって言われたらね」 「すいません」 「いや、いいんですよ。そういう勘違いは大いにしてもらったほうが、面白いですもんね」  青木は立上がると、サングラスをかけた。「都合のいい日に電話してください。午前中はたいてい自宅におりますから。車で案内します」 「今から行きます」と私も立上がった。 「いいんですか。これが男の罠かもしれませんよ」そう言って青木が笑った。 「構いません」 「明快ですね」  青木は先に行き、レジのところで伝票にサインをした。自分の分を払いますと私が言っても、取合わなかった。  青木は車で来ており、後について駐車場に向かった。車は外国製の大きなスポーツカーで、そのことにも驚いたが、バンパーの端がひどくへこんでおり、ドアにもこすった痕が何か所もあるのにはびっくりした。私はいやな予感がしたが、青木に促されるまま助手席に坐った。  青木は駐車場から出るまではゆっくりとした速度で運転したが、出口を出て右に目をやると急発進し、左にハンドルを切った。体が座席に押しつけられ、次にドアのほうに傾いた。前方には国道に入る信号があり、黄色だった。青木は速度を上げたが、交差点に入る前に赤に変わった。それでも車は突込んでいき、タイヤを鳴らして左に曲がった。私は思わず目をつむった。体が激しく揺れ、タイヤの地面をこする音がもう一度聞えた。  ふっと速度が緩み、体が軽くなって、ようやく私は目を開けた。車は信号待ちで止まるところだった。 「ちょっとスピードを出し過ぎたかなあ」と青木はのんびりとした口調で言った。 「びっくりしたわあ」私は体から力を抜き、大きく息を吐いた。 「車に乗るとね、ついついスピードを出してしまうんですよ。いい歳になっても、この癖だけは直りませんね」 「スピード狂ですか」 「自分ではそんなつもりはないんですけどね」  車は一方通行の道に入り、大きな公園の周囲を回って、レンガ色のマンションの地下駐車場に入っていった。出入口にはチェーンが張ってあり、青木がダッシュボードの中のライターみたいなものを窓から出すと、両側のポールが下がってチェーンが地面に着いた。珍しくて、私は窓を降ろしてその様子を見た。  車を一郭に止めると、青木は「着きましたよ」と言って、外に出た。私も車を降りる。地下駐車場はがらんとしていて、高そうな大型車や外国車がちらほら見えた。私は青木の後についていき、鉄の扉の中に入った。そこはエレベーターホールになっており、どこかのホテルのように大理石の壁材が張ってあって、どこもかしこも光っていた。エレベーターに乗ると、「九階です」と言いながら、青木はボタンを押した。  私はそのときになって、急に胸がどきどきしてきた。本当にうまくだまされているような気になってきた。青木の横顔を見ても、ふつうの表情をしているのでわからない。私は黙っていることに耐えられなくなって、「高そうなマンションですね」と言ってみた。 「馬鹿みたいに高いですよ」青木はあきれたような口調で言った。その表情がごく素直に見えたので、私は少し安心した。  九階で降りると、薄緑色のカーペットを敷きつめた廊下があり、青木の部屋は右側の一番奥だった。青木の後から重そうなドアの中に入った。半円形の広い三和土に木の床がつながっており、微かに香のような匂いがした。 「スリッパを履きますか」と青木が言った。青木の足許を見ると、靴下のままだったので、「いいえ」と答えて私は靴を脱いだ。  天井まで届く作り付けの靴箱があり、反対側の壁には、赤と黒の抽象画が飾られていた。正面には飾りガラスの窓のついた木製ドアがあり、青木は「さあ、どうぞ」と言って、ドアを開けた。  そこを入ると、二十畳ほどの居間になっており、ここも廊下から続いて木の床だった。そして真っ先に目に飛込んできたのは、大きな窓だった。いや窓というより、ベランダと部屋とを仕切るガラスの壁といったほうがいい。そこから午後の光が一面に射込んでいた。 「わあ、すてきですね」と私は思わず口に出し、ガラスの壁に近づいた。ベランダの手すりの向こうに、公園の緑が広がっており、瓢箪形をした池とテニスコートとグラウンドが見えた。青木が私の横にきて、一緒に外を見た。サングラスはすでに外していた。 「ここでいいのは、眺めだけですよ。外からは見えないから、夏なんか裸でいてても平気ですからね」  私はさりげなく青木から離れるようにして振返り、室内を見回した。ペルシャ風の丸い絨毯に、低いテーブル。馬鹿でかいクッションを組み合わせたようなソファー。玄関に続く右手の壁のそばに、背の高い観葉植物が三つ並んでいる。壁を遮っているのはそれだけなので、すごく広く見える。模様のついた黒っぽい壁紙が張ってあって、はじめはその模様が何であるのかわからなかった。  ちょっと離れてみて、それが写真を大きく引き伸ばしたものだということがわかった。粒子が荒くて、模様のように見えたのだった。目を細めて見ると、どういう写真かよくわかった。二人の裸の人間が肩を組んでいる後ろ姿で、石畳の道を歩いているように見える。裸の人間は最初女の人かなと思ったが、どうも男性のようだった。 「わかりますか」と青木が笑いを含んだ声で言った。 「ええ」 「これはね、ドイツのマールブルクというところで撮ったんです」  そう言いながら、青木は壁に近づき、裸の男の一人を指さした。 「これは私です」 「嘘でしょう?」青木が笑っていたから、私はてっきり冗談だとばかり思っていた。 「嘘じゃありませんよ。朝早く、人のいないのを見計らって、すばやく撮ったんです。非常に寒かったのを覚えています。確か秋の終りだったのかなあ」 「……仕事、ですか」私は恐る恐る訊いてみた。 「いいえ、いいえ」青木はとんでもないというように首を振った。「これは二人の記念のために撮ったんです。二人でヨーロッパに行ったとき、面白い写真を撮ろうということになって、わざわざプロのカメラマンまで雇って……」  私はもう一度目を細めて、壁を見た。青木が指さした人間は当然として、もう一人もどうみても男だった。肩とか背中に筋肉がついていた。 「隣の人は男の人ですね」と私は確かめてみた。 「ええ、私の元恋人」 「もと、恋人?」 「そうです。半年前までここで一緒に暮らしてたんです。それが相手にいい男ができて、バイバイということになって……」  私は急に落着きをなくし始めた。青木の顔をまともに見ることができなくて、玄関に通じるドアに目をやったり、ダイニングキッチンに視線を向けたりした。 「どうかしましたか」と青木がさもおかしそうな口調で訊いてきた。「同性愛だと知って、気味悪くなりました?」 「そんなことはありませんけど……」 「最初から気がついていると思いましたけど」 「すいません」 「何もあやまることはありませんよ。ところで、ホモの人間にお会いになるのは、今回が初めて?」 「ええ、実物にお会いするのは初めてです」  青木は声を出さずに、大笑いした。 「あなたは正直で、面白い人ですね。ぜひともあなたのような方にこの部屋の面倒をみてもらいたいですね」  私はすぐにでもこの部屋を出ていきたいような居心地の悪さを感じながら、一方ではもう少しこの相手と話していたいという奇妙な気持に捉えられた。 「あなたが嫌がる気持はわかりますが、別にいいじゃないですか。あなたがここに仕事に来るときは、私はここにはいないんだから」  なるほど、その通りだと私は思った。相手がどんな人間であろうと、顔を合わす必要はないんだし、それに時給千円というのは割がいい仕事だと現実的な考えが頭に浮かんだ。私は他の部屋も見せてもらうことにし、それは承諾の代わりになった。青木はダイニングキッチン、寝室、仕事部屋、バス、トイレとすべての場所を案内した。寝室にはキングサイズのダブルベッドがあり、仕事部屋には、書類や雑誌、それに女性の下着らしいもので埋まった丸い机があった。新しいマンションなので、どこもきれいだった。「あまり掃除をする必要もありませんね」と私が言うと、「ひょっとして見せる羽目になるかもしれないと、掃除をしましたからね」と青木は冗談めいた口調で答えた。  一通り見終って、私は青木の勧めで、ソファーに腰を降ろした。深く坐るとひっくり返りそうだったので、縁に腰かけた。青木が紅茶にするか、コーヒーにするか訊いてきたので、紅茶を頼み、しばらくすると、ポットとカップを盆に乗せて青木がキッチンからやってきた。  なれた手つきで紅茶を注ぐのを私は見ていた。いい香りがふわっと広がった。青木はミルクティにし、私は何も入れずに飲んだ。「このいれ方なら、まあまあ合格かな」と青木は一口飲んでから言った。 「お仕事はブティックとスナックのお店をやってらっしゃるということでしたけど、ブティックは男物ですか、それとも女物?」  一息ついたところで、私はそう尋ねてみた。 「さっきのショーツ、目に入りました?」 「ええ」 「実は、女性の下着専門のお店なんです」 「ああ、それで……」 「それも普通のものじゃなくて、趣味の下着」 「趣味の? ああ……」私はすぐに気がついて、顔が熱くなった。 「結構需要がありましてね。夫婦連れで来るお客さんも多いんですよ。それに通信販売がありまして、そっちのほうも順調に伸びてます」  何と答えたらいいのかわからなかったので黙っていると、「そう、そう。ひとつ差し上げますよ」と青木は立上がって、仕事部屋のほうへ行った。そして赤や黄色のひらひらしたものを手に戻ってきた。どれもスケスケのショーツで、フリルがついて前に穴のあいたものや掌くらいの大きさに紐がついたものなどどれも鮮やかな色だった。 「ご主人が喜ぶと思いますよ」と言いながら、青木は一つを手に取って、広げてみせた。 「私、主人はおりません」  何だか腹が立ってきて、私は強い声でそう言うと、立上がった。 「え、そうだったんですか」青木は驚いた声を上げ、広げていたショーツをあわてて丸めた。「いやあ、娘さんがいると言われたもんだから、てっきり……。どうも、すいません」  青木の狼狽ぶりを見ていると、腹を立てたのが相手に悪いような気になってきた。私は弁解するように、「離婚したんです」と言わずもがなのことを口走ってしまった。青木は私の言うことなど聞えていないみたいに、「失敗した、失敗した」とつぶやきながら、ショーツをまとめ、仕事部屋に走っていった。  結局次の日から仕事をすることになった。昼過ぎに来たときに合鍵をもらうということにして、私は青木のマンションを出た。青木は送っていくと言ったが、私は丁重に断り、三十分ほど歩いて、アパートに帰った。  娘と二人で夕食を食べているとき、「お母さん、明日から仕事するわよ」と私は言った。 「どうして」と亜希子は不思議そうな顔をした。 「仕事しなきゃ、食べていけないでしょ」 「パパからお金もらったんじゃないの?」 「それはもらったけど、大した額じゃないのよ」 「なんだ」亜希子は口を尖らせて、ハンバーグを箸でつついた。「あたし、ママがのんびりとしてるから、パパからたっぷりお金をもらったと思ってたわ」 「世の中、そんなに甘くはないのよ」 「嫌い、そんな言い方」 「お母さんも嫌いだけど、本当のことなのよ」  そう言うと、亜希子は黙ってしまい、うつむいたまま黙々と箸を動かした。 「ねえねえ、どんな仕事?」しばらくして亜希子は顔を上げた。 「主婦代行業」 「なあに、それ」 「忙しい人に代わって、お母さんがやっているような仕事をやってあげるのよ」 「なあんだ、つまんないの」     5  次の日の昼過ぎ、私はいつも買物などに使っている自転車に乗って、青木のマンションに行った。服装に気を使わなくていいので、その点は楽だった。  玄関を入ると、正面のカウンターの中に坐っていた初老の管理人に呼び止められた。「なんの御用ですか」と訊かれたので、事情を話すと、管理人は青木のところに電話をかけ、それから通してくれた。  九階の青木の部屋の前にいき、チャイムを押すと、ドアが開いて、青木が出てきた。ポマードべったりでサングラスというのはきのうと同じだったが、上着は渋い縦縞でネクタイもきのうより地味だった。 「明日からはもうつかまりませんよ。ああして一回顔を覚えられたら」そう言いながら青木は私を招き入れた。すぐに仕事に出なければならないらしく、私に、帰るとき留守番電話のスイッチを入れておくことと、仕事部屋の机の上だけは触らないようにとだけ言って合鍵を渡し、「後は適当にやってください」とあわただしく部屋を出ていった。  洗濯物をどうするかとか、電話がかかってきた場合どうするかなど、聞きたいことがいろいろあったのに、何も言出せず、私はひとり部屋に残された。私はしばらくの間クッションお化けのソファーに体を投出して、窓から射込む陽の光の暖かさを感じていた。  やがて私は反動をつけて起上がると、トレーナーの袖をまくり上げて、仕事を開始した。  まず寝室を見に行き、ベッドの上に脱ぎ散らかしてあるパジャマと床に落ちていた靴下を取って、洗面所の横にある洗濯機に放り込んだ。洗濯機は全自動で、乾燥機もついていた。中には下着とかタオルなどが入っているだけで、色落ちするようなものはなかったので、全部まとめて洗うことにした。  洗濯機を回している間、ダイニングテーブルに出しっぱなしになっている皿とコーヒーカップを流し台に運び、洗い桶に突込んであったフライパンと一緒に洗剤で洗った。  それがすむと、風呂場に入り、水が汚れていたので、栓を抜いて浴槽を洗い、ついでに壁の下のほうも黒い点々がついていたので、スポンジでこすった。  掃除機が見当らないので探し回り、仕事部屋の書棚の向こうにホースを突込んだまま置いてあるのを見つけて、ちょうどいいからその部屋から掃除を始めた。机の上にはきのうと同じように女性もののランジェリーがいっぱい置いてあった。その下に隠れるように雑誌があり、下着を退けて表紙を見ると、それはランジェリーのカタログだった。ちらっとめくって、スケスケの下着を身につけたモデルの写真が目に入ると、すぐに閉じた。人の秘密をのぞいたような気がして胸がどきどきしたが、仕事なんだからこんなものがあってもおかしくはないと思い直すと、何だか馬鹿ばかしくなって、一人で笑ってしまった。しかしすぐに、本当にそんな仕事をしているのかしらという気持も起こり、そう思うと同性愛ということまで怪しくなってきた。 「まあ、いいわ」と私は声に出して言ってみた。たとえどんな仕事をしていようと、同性愛であろうとなかろうと、私は仕事さえしてればいいんだわ。 「仕事、仕事」私は自分に声をかけて、掃除機のホースを引張った。  仕事部屋の掃除が終ったところで、洗濯機の音が止まったので、洗濯物を乾かすことにした。乾燥機に放り込めば簡単なのだが、あまりにいい天気なので外に干さなければもったいない気がして、ベランダに持って出た。  外から目隠しされた低い位置に物が干せるようになっていたが、物干し竿は埃で汚れていた。洗面所から雑巾を持ってきて竿を拭き、パジャマや下着を干した。男物の洗濯物を干すのは、離婚を言出されたとき以来だから、半年ぶりかそれ以上になる。あのころはまさか自分が他人の家で、知らない男の下着を干すことになるとは夢にも思っていなかった。私はちょっと感傷的になり、それを振払うように、バスタオルを思いきり振って竿にかけた。  一通り仕事がすんで時計を見ると、三時をかなり回っていたので、急いでアパートに帰ったが、亜希子はまだ帰っていなかった。ほっとして食卓椅子に腰を降ろしていると、ドアがゆっくりと開いて亜希子が顔をのぞかせた。 「お帰りなさい」と私が言うと、「ママ、いつ帰ったの」と亜希子が訊いてきた。 「たった今」 「なあんだ」  亜希子はがっかりとした表情を見せながら、入ってきた。そして靴を脱いで上がり、椅子に鞄を置くと、冷蔵庫から牛乳の紙パックを取出して飲んだ。 「あたし、さっきまで表で待ってたんだけどなあ」 「なあに、亜希ちゃん、もう帰ってたの」 「そうよ。でも向いのおばさんがコロを散歩に連出したから、一緒に公園まで行ってたの」 「やっぱり鍵がいるかしら」と私はつぶやくように言った。 「あたしはいらない」 「どうして」 「鍵なんか持ちたくないもん」 「でも、お母さんがもっと遅くなったらどうするの」 「ママが帰ってくるまで、外で遊んでるわ」 「それじゃ、お母さん、心配だわ」 「心配させたいもん」  私は言葉に詰まった。亜希子はテーブルの上にあった輪ゴムを指にかけて弾いている。 「さあ、買物に行ってこようっと」私はテーブルに手をついて立上がった。「亜希ちゃん、何か食べたいものある」  亜希子は笑顔になり、しばらく考えてから「焼きそば」と答えた。     6  次の日、私は昼ご飯を早めに食べ、きのうよりも一時間ほど早く青木のマンションに行った。管理人は私に気づくと、「ご苦労さん」と言って通してくれた。  チャイムを鳴らすと、青木が出てきたが、私の顔を見ると、「あれ、合鍵を渡してなかった?」と驚いた表情を見せた。中からはジャズか何かの音楽が聞えてくる。 「いいえ、もらいました」 「だったら、もっと遅く来てもらってもいいんですよ」 「ちょっと訊いておきたいことがありますから」 「どんなことですか」 「洗濯物をしまう場所とか、クリーニングの出し方とか」 「そんなこと、適当にやってもらえばいいんですけどねえ」  音楽のボリュームが小さくなった。私は奥に目をやり、「出直してきましょうか」と青木に言った。  青木はちょっと考える仕種を見せてから、「別にいいでしょう。どうぞ入ってください」とドアを大きく開けた。三和土には、黒いエナメルのハイヒールが横倒しになっている。私は自分の靴を揃えるついでに、ハイヒールも揃え直したが、女物にしてはかなり大きな靴だった。  青木は先に居間に入っていったが、すぐに「出前じゃなかったの?」というハスキーな声が聞えてきた。私は少しためらってから、半開きのドアを押して中に入った。  ソファーの背に尻を押しつけるような恰好で、赤いドレスの女が立っていた。目鼻立ちの大きい美人で、肩を大きく露出させている。 「いらっしゃい」と女が笑顔を見せながら言った。私は小さく頭を下げた。 「ねえ」と女はダイニングルームの方に顔を向けた。「マスターはいつから両刀使いになったの」 「勘違いするなよ」青木の声がキッチンから聞えた。「その人はここの掃除や洗濯をしにきてくれただけなんだから」 「だったら、お手伝いさん?」 「掃除と洗濯を頼んでるだけだ」 「いつから」 「きのうから」  へぇーと言いながら、女が近づいてきた。女は私の頭の先から足の先まで眺め回したが、いきなり私の耳許に口を寄せると、「あんた、マスターとなんかあんの」と訊いてきた。強い香水の匂いが私を包み、思わずむせ返りそうになった。 「別に何も」と私は強いて冷静な声を出した。「私は主婦代行の仕事をしにきただけですから」 「なによ、それ」  そのとき、チャイムが鳴った。「来た、来た」と言いながら、キッチンから青木が飛び出してきた。「ごちゃごちゃ言ってないで、早くテーブルについとけよ」と女に言って、玄関に出ていった。女は私に一瞥をくれてから、素足の踵をわざと上げるような歩き方で、ダイニングルームのほうへいった。 「田崎さん」と青木が呼んだ。「ちょっと運んでもらえますか」  はいと返事をしながら、私は玄関口にいった。三和土には出前の若い男がおり、下に置いた岡持から器を取出していた。ふかひれスープとか天津飯などの中華料理だった。私は青木の持ってきた盆で、それらの料理をダイニングルームに運んだ。  運び終って出ていこうとすると、急須と湯呑茶碗三つを持ってキッチンから出てきた青木が、「どうです、田崎さんも一緒に食べませんか」と言った。 「お昼はすませてきましたから」 「でも、スープぐらいなら入るでしょう」  私はためらったが、むげに断るのも悪い気がして、スープだけならということで承知した。私がお碗か何かを取りに行こうとすると、「これを使って下さい」と青木が自分のを私のほうに回し、キッチンに行った。散蓮華がないのか、大振りのスプーンと味噌汁を入れるお椀を持って、戻ってきた。女はすでに天津飯を食べており、私と青木のほうを見ては、にやにやと笑った。  私は椅子に腰を降ろし、スープをお椀に取って飲んだ。そんなにお腹はすいていなかったが、舌ざわりが柔らかく、おいしかった。 「昼間から中華料理なんて、よく食べると思うでしょう」  青木がラーメンを食べる手を休めて訊いてきた。私は笑って答えなかった。 「こいつが中華料理が好きでね」と青木は女のほうに割箸の先を向けた。「朝起抜けでも、食べられるっていうんだから、参りますよ」 「だって、中華料理は太らないんだもん」女が顔を上げて言い、私のほうを見た。「ほら、中国の女の人って、こんなに太った人いないでしょ」と女は両手を広げて、肥満体の恰好を示してみせた。 「中華料理だって、食い過ぎれば太るぜ」 「太らないの」  青木はラーメンを食べ、後はスープを少しと、小海老をちょっとつまんだだけで、女が残りを全部平らげた。私はポットの湯を急須に注ぎ、湯呑にお茶をいれて、それぞれの前に置いた。女は「ありがと」と言ってお茶を飲むと、テーブルの縁に手を置いて大きく伸びをした。 「おい、おい。人前であんまりみっともない恰好をするなよ」と青木が言った。 「だって、こうすれば楽なんだもん」 「食い過ぎだよ、それは」そう言うと、青木は私のほうに顔を向けた。「こう見えても、店では人気があるんですよ」 「店?」 「あれ、言ってなかったですか」 「確かスナックだとおっしゃってましたけど」 「いやあ、実はゲイバーなんですよ。この子はその中でも、ナンバーワン、かな」  女が急に笑い出した。喉をけいれんさせるような笑い方で、そういえば、喉仏が出ていた。 「気がつかなかった?」と女が訊いてきた。 「ええ」 「うれしい」女はウインクをし、テーブルに指を揃えると「ジュンです。よろしく」と小さく頭を下げた。  こちらこそと答えながら、私はジュンの胸を見た。どう見ても、女の胸だった。私の視線に気づいたのか、ジュンは両手で胸を持ち上げる仕種をしてみせた。 「その胸はホルモン注射と整形手術ですよ」と青木が説明してくれた。「下はまだ取ってませんけどね」 「キンだけは抜いてます。いずれ手術して、本物の女になるわよ」  ジュンは指をはさみに見立てて、何かを切る真似をした。私は何と答えたらよいのかわからず、二人にお茶のお代わりを尋ねた。 「あら、あたし変なこと言ったかしら」 「いいえ、そんなことありません」 「やさしいのね」  私は汚れた器を流しに運んで、洗った。「お手伝いさんていいわね。あたしも雇おうかしら」というジュンの声が聞えてきた。  青木とジュンはそれからほどなく、一緒に外に出ていった。クリーニングに出したいものがあれば電話をして呼べばいいと、青木はクリーニング屋の電話番号を教えてくれたが、後はそっちの好きなようにやってもらえばいいということだった。電話がなっても出なくていいし、気になるようだったら出てもらってもいいとも言った。     7  こうして私の主婦代行業は曲がりなりにも始まった。娘のために日曜日は休ませてもらうことにし、土曜日は小学校から帰ってきた娘と一緒に昼食を取ってから、娘に送られてアパートを出た。青木の店も休みがあるはずなのだが、それがいつだとは聞いていなかった。私が仕事に行くときは、大抵いなかったし、会ったとしてもすれ違いだった。  二週間ほどたったある日、私は管理人に呼び止められた。管理人は私に仕事の内容とか、忙しさとか、どのくらいもらっているのかなどということを訊いてきた。私は警戒しながらも、正直に答えた。 「実はお宅の仕事のことをある人に話したら、ぜひお願いしたいと言われましてね。よろしいですかね」と管理人は愛想よく笑いながら言った。 「どういう人ですか」 「ここに住んでる独身の女の人でしてね。とにかく忙しい人なんですわ」  女性と聞いて、私は半分逃げ腰になった。私が答えないでいると、「名刺か何かもらえないかね。とにかく頼まれたもんだから」と管理人が言った。 「名刺、持ってません」 「だったら、ここに名前と電話番号を書いてもらえんかね」  管理人はカウンターの上にメモ用紙とボールペンを出した。私は断ろうかと思ったが、ただ今一件しか引受けていないことは先程話してしまったから、忙しさを理由に断ることはできないし、相手が女性だから嫌だというのはわかってもらえそうもないし、むげに断って、管理人の感情を害してはこれから仕事がやりにくくなるだろうし、といろいろ考えて、とりあえず電話番号と名前を書いた。  管理人は「それじゃあ、これをその人に渡しておきますから、後はよろしく」とメモ用紙をひらひらさせた。  その夜、十時半過ぎに電話がかかってきた。間違い電話だろうと思って出ると、「田崎さんのお宅ですか」と女性の声が言った。 「そうですが」 「わたくし、市村と申しますが、管理人さんからお宅の仕事を伺って、ぜひお願いしようと思いまして」  まさかその日のうちにかかってこようとは思ってもみなかったから、私はうろたえてしまった。返事をためらっていると、「わたくし、グラフィックデザイナーをしているんですが、家事をする暇がなくて、いつもそのことでいらいらしてるんです。休みの日なんかに、たまにバアーッと片付けるんですが、すぐに元のもくあみになっちゃって。半分冗談で、女房が欲しいなんて言ってるんですよ。ほんとはお手伝いさんを雇えばいいんですけど、とてもそんなお金ありませんものね。何とかならないかなあって思っていたら、管理人のおじさんがパートのお手伝いさんがあるよって、あなたのことを教えてくれて。わたくし、それを聞いた瞬間、これだって思いましたね。これこそわたくしの探していたものだって」  市村の声がつんつんと私の耳に響いた。話が途切れたところで、「お話はよくわかりました」と私はゆっくりとした口調で言った。「夜も遅いことですし、電話ではなんですから、詳しいことはお会いしてということで」  いま何時かしらというつぶやきが聞こえ、「あら、もうこんな時間」と市村が言った。 「ごめんなさい。わたくし、いま仕事から帰ってきたばかりで、管理人さんからあなたのメモを渡されて、ついうれしくなってしまって。でも、まだお休みになってたわけではないでしょう?」 「ええ」 「よかった。それで、いつお会いすれば。わたくしのほうは、今度の日曜ならあいてますけど」 「それじゃあ、その日に伺います」 「ちょっと待ってね」  受話器を置く音がし、スリッパの音と何か金属製の物が落ちる音がした。しばらくして市村が戻ってきた。 「ごめんなさい。今度の日曜、昼から出かけるので、それまでに来て下さらない? 私のお部屋、五〇六ですから」 「わかりました」 「ああ、よかった。これで今夜は安心して休めるわ。ありがとう。お休みなさい」  受話器を置いて、私はふぅーと息を吐いた。一陣の風が通り過ぎたみたいだった。亜希子が部屋の襖を開けて、こちらを見ていた。 「誰から」と亜希子は怒ったような口調で訊いてきた。 「お母さんに仕事を頼みたいんだって」 「なんだ」亜希子は急につまらなさそうな顔をした。それを見て私は、父親からかかってきたと勘違いしたんだなと気がついた。 「お母さんの仕事も、これから忙しくなるわよ」と私は笑いながら、意識して明るい声を出した。  日曜日、私は十時少し過ぎにマンションに行った。五階に上がり、ドアの横の部屋番号をたどっていった。左側の中ほどに、「市村梨江」と刻んだプレートがあった。  インターホンのボタンを押す。しかししばらく待っても返事がなかった。私はもう一度続けて二回押した。 「どなた」かすれたような声が聞えてきた。 「田崎ですけど」 「田崎さん?」 「はい」 「……ああ、そうか。ちょっと待ってね」  ちょっとどころか大いに待たされたあげく、ようやくドアが開いた。 「ごめんなさい。きょうあなたが来るってこと、すっかり忘れちゃって。今の今まで寝てたのよ」  市村は肥満気味の体をナイトガウンで包んでおり、急いで顔を洗って化粧をしたのが口紅の歪みに現われていた。私よりもいくらか年上で、四十を過ぎているという感じだった。 「こちらこそ、朝早く押しかけまして、申し訳ありませんでした」 「いいのよ、いいのよ。そんなに私に気をつかわなくても。さあさ、上がって」  市村は上がり框にスリッパを揃えた。私は、おじゃましますと言いながら中に入った。青木の部屋とは造りが違うようで、居間に通じるドアにいくまでに右手に一部屋と左手に洗面所があった。  居間は青木のところと同じように木の床で、広さはだいぶ小さめだった。それでも十二、三畳くらいはあったが、真ん中に丸いカーペットを敷いた座卓があり、その回りに雑誌や本、テレビやラジカセ、それに河馬の形をしたクッションなどが置いてあって、足の位置を決めなければ通れないほどだった。座卓の上には魔法瓶のポットや菓子入れの容器やコーヒーカップがあり、半折りの新聞の上に湯呑茶碗が乗っていた。 「お恥ずかしいけど、いつもこんななのよ。あなたが来るんだったら、もうちょっと片づけておいたんだけど、でもいいわね。いまさら恰好をつけても仕方がないんだし、ありのままを最初に見てもらったほうが、私も気が楽だし」  私は河馬のクッションを取上げて、「かわいい」とつぶやいた。実際それは鼻が大きくて目の小さい、亜希子がみたら喜びそうなクッションだった。 「それはね、前の恋人がプレゼントしてくれたのよ。……いや、前の前だったかな。私に似てるんですって。ほんとに失礼しちゃうでしょ。だから私、お返しにかまきりのぬいぐるみを贈ったのよ。その人、かまきりそっくりの顔をしてたから。でも、わからなかったみたい。これ、おれを食い殺すっていうなぞか、なんて言うのよ」 「かまきりのぬいぐるみなんて、あるんですか」 「頼んで作らせたのよ」  市村は私にコーヒーを飲むかどうか聞いてから、キッチンに行き、二人分を盆に乗せて戻ってきた。そして座卓の周りにあるものを押しのけて、横坐りになった。私も腰を降ろした。 「ところで、あなたいまどの階で仕事をやってるの」 「九階の青木さんのところです」 「青木さんて知らないけど、何号室」 「九〇五です」 「そうなの。だったら、かなり大きい部屋でしょ」 「ええ」 「それで、いくらもらってるの」 「一日三千円です」 「たった、それだけ」 「でも、掃除と洗濯で三時間くらいですから」 「ふーん、そうすると時給千円なるわね。結構いいわね」  市村は考える仕種を見せた。私はこの人なら引受けてもいいという気持になっていた。あまりうるさく言わないみたいだし、同じマンションなので都合がいいということもあった。 「ねえ、毎日来てもらうんじゃなくてもいい?」 「ええ、それは構いませんけど」 「だったら、月、水、金と来てもらうというのはどうかしら」 「ええ、いいですよ」 「それで、あなたにお支払いするお金だけど」と市村は言った。「どのくらいお支払いすればいい」 「どのくらいと言われても、別に規定はないんですけど、だいたい青木さんの場合と同じくらいなら」 「私の部屋、散らかってるし、洗濯物も多いから、三時間ですむかどうかわからないけど、九〇五号より部屋が狭いから仮りに三時間として、週三回。九千円。月に直すと、三万六千円。……これじゃあ、ちょっと苦しいから、三万円。どうこれで。ね、これで手を打って」 「わかりました」私は笑いながら、うなずいた。 「助かったわ」市村は目を見開いて笑顔を見せ、私の腕を押えた。 「私ね、他の人に掃除や洗濯を任すほどの身分じゃないんだけど、ほんとにどうしようもないのよ。もう、お手上げの状態だから、SOSを出したの」  コーヒーを飲み終って、さっそく部屋の中を見せてもらった。2LDKで、玄関横の一部屋は完全に物置になっていた。蒲団や段ボール箱やガスストーブなどが積んであり、この部屋はきれいにしなくても結構よと市村は言ったが、私としてはそうはいかなかった。  もう一部屋は寝室で、セミダブルのベッドと洋服ダンスと鏡台があった。市村は洗濯物をしまう場所を教え、パジャマとシーツは必ず洗ってねと念を押した。  洗面所につながって風呂場があり、のぞくと回りの壁が相当汚れていた。私は市村に見えないように、小さなため息をついた。  クリーニング屋に出すものは、朝目につくところに置いておくから持っていってと、店の場所を教えてもらったが、よくわからないので、とりあえず電話番号だけメモした。 その他、洗剤などの必要なものは適当に買って、領収書を渡してもらえば、まとめて返すとか、片づけるのは構わないが、どこに何があるかわからないようにはしないで、とか、あなたもプロだからわかってるとは思うけど、関係のないところは触らないで、などと、いろいろな話の合間に市村はきっちりと言った。私は、やっぱり断ったほうがよかったかなと思ったが、どうしても駄目ならやめたらいいと気楽に考えることにした。  さっそく明日から仕事をすることになり、私は市村からスペアキーを預かった。  翌日、私は亜希子を学校に送り出すと、急いで自分のところの掃除と洗濯をすませ、マンションに向かった。  いつもの管理人の姿が見えたので、私は市村の部屋を任されたことを話し、紹介してもらったお礼を言った。管理人は、別に礼を言われるほどのことではないがねと恐縮した顔をし、それにしても、面白い仕事があるもんだとしきりに感心した。  五階の市村の部屋に行くと、彼女はすでに外出していて、中はがらんとしていた。とりあえずベッドのシーツを引きはがし、パジャマと一緒に洗面所横の洗濯機のそばまで持っていった。洗濯機の中には、下着やストッキング、トレーナーなどが無造作に突込んであり、私はそれらを全部取出して、まずシーツから洗った。  市村はあわてて出かけたらしく、キッチンのテーブルの上には飲みさしのコーヒーの残ったカップや生クリームの容器、新聞のチラシなどがあった。  流しの回りを片づけると、今度は居間に取りかかった。散らかっているものを、大体この辺りに置いておけばというところに整理し、座卓を寝室に持っていって、広々としたところで掃除機を引張り出した。ところが、スイッチを入れてみると、吸い込みが悪い。ゴミがたまっているのは間違いなく、勝手がわからないままボタンを押したりして中を開けると、ゴミがあふれ出てきた。掃除をするのに、まず掃除機の掃除をしなければならないという羽目になって、私は何だかおかしくなって、笑ってしまった。  昼過ぎになったので、市村の部屋の仕事は切上げて、マンションの外に出た。どこか食べるところを探して歩いていると、うどん屋があったのでそこで定食を食べ、いつも青木のところにいく時間までゆっくりとしてから、店を出た。マンションの近くまで戻ってきたとき、地下駐車場から大きなスポーツカーが出てくるのが見えた。バンパーのへこみ具合から、青木の車であることがすぐにわかった。私は思わず手を振ってしまった。車は私の横を通り過ぎてから急ブレーキの音とともに止まり、バックしてきた。  窓が開き、青木がサングラスをかけた顔をのぞかせた。 「きょうは自転車じゃないんですか」 「いいえ、自転車です」  青木はサングラスを外し、私の前後を見やった。私は市村の部屋の仕事を始めたいきさつを手短に話した。 「いやあ、そいつはよかったですね。そうですか。仕事が増えましたか。あなたのやってる仕事を必要とするのは、私ぐらいかなと思っていたら、結構他にもいるんですね。いやあ、面白い。管理人に言って、もっと他にも需要がないか、回覧板でも回させましょうか」  青木は冗談口調でそう言った。私は、お願いいたしますと馬鹿丁寧な口調で返し、頭を下げた。青木は笑い、「じゃあ、頼みます」と片手を上げて、車を発進させた。スピード狂は相変わらずで、タイヤをきしませながら、交差点を曲がっていった。  マンションのエレベーターの中で、私は、青木の喜びかたはお世辞でも何でもなかったという気がし、私が子供を抱えて離婚しているということを覚えているのではないかと思った。私がしゃべったのだから、覚えていてもおかしくはないのだが、今まで、そんなことは忘れているのではないかという気がしていたからだ。私はちょっとうれしくなった。  その夜、十時過ぎに市村から電話がかかってきた。私は緊張して、受話器を握り直した。 「もしもし。いやあ、私、感激したわ。どこもかしこもきれいになってて。まるで自分の部屋じゃないみたい。特に風呂場なんか、ぴかぴかで、気持よかったわあ。私の部屋も片づけて掃除をすれば、こんなに住みやすくなるなんて、新しい発見をしたみたい。ほんとに、ありがとう。おかげで、帰ってきたとき自分の部屋を見て、げんなりせずにすむわ。ほんとに、もう、あなたにみんなお任せ。これからもよろしくお願いしますわね」     8  市村の仕事を引受けてから数日たって、今度は、ミニコミ誌を見たという男から電話がかかってきた。声の調子やしゃべり方から、かなり若いという感じだった。 「火、木、土の午前中ならあいてますけど」と私は答えた。 「ここに炊事、掃除、洗濯、その他主婦のする仕事って、書いてありますけど、その他の仕事って一体何ですか」 「その他の仕事をお望みですか」 「いや、どんなことかなあって興味があったから」 「何をしてもらいたいかおっしゃっていただければ……」  男は黙ってしまった。 「お名前をお聞きするのを忘れましたが、失礼ですが、どちら様ですか」  いきなり電話が切れた。私は呆気に取られ、それから次第に腹が立ってきた。失礼しちゃうわとぶつぶつ文句を言いながら、晩ご飯の後片づけをしていると、テレビを見ていた亜希子が「どうしたの、ママ」と訊いてきた。 「世の中には、礼儀知らずがいるから困ったもんだわ」 「お仕事の電話でしょ」 「そうよ」 「だったら、仕方がないんじゃない?」 「あら、どうして」 「仕事じゃ仕方がないって、パパがよく言ってたもん」 「あら、そう」  亜希子の口から、「パパ」に関する話が出たのは離婚して以来初めてだったので、私は少なからず動揺した。しかし知らん顔をして、後片づけを続けた。  三十分ほどして、再び電話が鳴った。受話器を取ると、先程の男の声が聞えてきた。 「さっきはごめんなさい。ぼく、下山と言いますが、仕事をお願いします」  私はまだ腹立ちが治まっていなかったが、相手が謝ったのと、娘の手前、普通に応対することにした。 「それで、どういう仕事をすればいいんでしょう」 「掃除と洗濯だけでいいです」 「本当にそれだけですか」  男はちょっと笑ってから、「ええ」と答えた。 「火、木、土の午前中だけで、月三万円になりますけど、いいですか」 「わかりました」  あっさりと承諾されて、私のほうがあわてた。 「一日二、三時間しか仕事ができませんけど、それでも構いませんか」 「ええ、いいです」 「それじゃあ、詳しいことはお会いしてからということで、電話番号と住所を教えてもらえますか」  男の言う番号と住所をメモし、大体どの辺りにあるのかを訊いた。地下鉄の駅の近くのマンションということで、駅の周辺で聞いてもらえばすぐにわかると男は言った。土曜日があいているということなので、朝の十時に伺うことにして、電話を切った。  土曜日、自転車で十五分ほどかけて地下鉄の駅に着き、誰かにマンションの場所を訊こうと思ったが、急に気が変わった。いきなり訪ねていくのは、どうも危ないのではないかと突然ひらめいたのだ。男との電話でのやりとりを思い出すと、ますますそんな気がしてきた。男を呼び出して、どういう人間か見てからのほうが安全かもしれないと、私は近くにあった赤電話から男のところに電話をかけた。男は眠そうな声で電話に出、私が、地下鉄の出入口近くで赤い自転車に乗っていると言うと、すぐに行きますと答えた。  やってきたのはジャージーの上下を着た若い男で、ひょろっとしていて、やさしそうな顔をしており、見たところ高校生のように見える。 「電話を下さった方ですか」と私は思わず意外な気持をそのまま出す口振りになってしまった。 「ええ、そうです」 「失礼ですけど、お仕事は?」 「予備校生です」 「予備校生?」 「いけませんか」 「別にいけなくはありませんけど、ご両親のお家の仕事をさせてもらうわけですか」 「いいえ、ぼくの部屋です」 「月三万ですよ」 「だから、払いますよ。そのくらいのお金ならあります」  予備校生がマンションに住んで、私を雇う金がある、というところで大体私は想像がついた。  男の後についていくと、五分ほどで大きなマンションにつき、エレベーターで七階に上がった。建ったばかりのようで、どこもかしこも吹き付け塗料の臭いがした。  男の部屋は七一五号室で、「下山陽一」という名札がかかっていた。男の後に続いて中に入ると、汗くさい臭いが微かに鼻をついた。居間はかなり広く、ざっと見たところ3LDKらしかった。 「ここに一人で住んでるんですか」 「そうですよ。ぜいたくだと思うでしょう」  私は曖昧に笑い返した。 「思いませんか。ぼく自身ぜいたくだと思っているのになあ。でも、これは親父の投資なんですよ。社宅として買ったから税金で控除されるし、ぼくがここを出たら人に貸すか、売って値上がり分をもうければいいんだから」 「お父さん、会社か何か経営されてるの」 「建設会社、やってます」 「お金持ちなのね」 「まあ、そうです」  私は「見てもいい?」と断ってから、他の部屋を見て回った。八畳ほどの洋間に、ベッドや机や本棚、それに洋服ダンスが詰め込まれており、後の二部屋には段ボール箱がいくつか投げ込まれているだけだった。  下山が居間のオーディオ装置のスイッチを入れた。大きなスピーカーからディスクジョッキーのおしゃべりが聞え、続いてポップミュージックが流れてきた。下山は音楽を十分に聞こうとするように、厚手の布でできた安楽椅子を引張ってきて、体を投出した。私はその横に腕を組んで、休めの姿勢で立った。 「あんまり物を置いてないから、掃除するのは楽なんじゃないかな」と下山は上目使いで私を見た。 「自分でやらないの?」 「ぼくはこう見えても浪人ですからね。勉強の邪魔になることはやりません」 「仕事を引受けるのは構わないけど、まずあなたのご両親にお会いして、話を決めたいわね」 「どうして」 「お金を出すのは、あなたのご両親でしょ」 「ああ、お金の心配をしてるんですか。それなら」  下山は安楽椅子から反動をつけて立上がり、八畳の洋間にいくと、手に紙幣を持って戻ってきた。 「前金で払いますよ。はい、三万円」  私はそのやり方にむっとなったが、相手に邪気がないことはすぐにわかったし、仕事も確かに楽そうなので、差し出されたお金を受取った。 「はい、これで契約成立」下山はさばさばとした口調で言って、安楽椅子に腰を降ろした。「それじゃあ、早速始めてもらえますか」 「今から?」 「だめですか」  私は腕時計を見、「一時間ほどしかないから」と答えた。 「だったら、洗濯だけでもお願いします。一週間分もたまっちゃって、もうはくパンツがないから」  私は思わず笑ってしまった。洗濯ぐらいならと洗面所にいって洗濯機の蓋を開けると、下着や靴下があふれそうになっていた。一度にはできないので中の物を取出していると、「これもお願いします」と下山がパジャマを持ってきた。 「一応洗濯機は買ってあるのね」と私は皮肉のつもりで言った。 「それはおふくろが買ったんだ。洗濯をしに来るという名目で、様子を見るためにね」 「お母さんが来るんだったら、私なんか雇う必要はないでしょ」 「おふくろに来てほしくないから、あんたを雇ったんですよ」 「そのための三万円?」 「安いもんですよ」  洗い終った洗濯物をベランダに干していると、「田崎さん」と下山が後ろから声をかけてきた。いきなり名字を呼ばれて、私はどきっとした。 「何ですか」と私は首を回した。顎に片手を当てて、下山が笑いながら立っていた。 「田崎さんは何歳ですか。女性の年齢って、よくわからないからなあ」 「どうしてそんなこと訊くの」 「いやあ、おれ、四十か五十のおばさんが来るんじゃないかと思ってたから」 「私もおばさんですよ」 「まさか四十は過ぎてないでしょ」 「それはまだだけど」 「だったら三十五?」 「来年ね」 「そうか、三十四ですか。いやあ、若く見えますね」 「無理しなくてもいいわよ」 「ばれたか」そう言って、下山は変な声を出して笑った。 「あなた、きょうは予備校に行かなくていいの?」 「土曜日の授業は面白くないから、取ってないんだ」 「そんなこと言っていいの。受験勉強なんでしょ」 「面白くなければ、行ったってしようがないよ」 「だったら、ここで勉強しなきゃだめじゃないの」 「あーあ」と下山はうんざりとした顔をした。「そんな、おふくろが言うようなこと、言わないでよ」 「あら、ごめんなさい。私はただの主婦代行業でした」  洗濯物を干し終って、下山に、乾いたら取り入れるように言い、私は帰ることにした。私が玄関に立っても、合鍵をくれないので催促すると、下山は「ああ、そうか」と取りに戻り、鍵を渡してくれた。 「それじゃ、今度は火曜日に来るわね。勉強しなきゃ、だめよ」  私がそう言うと、下山は舌を出した。     9  下山の部屋の仕事を始めて一週間たった土曜日、いつものように錠を開けて中に入ると、ジョギングシューズの横に白のパンプスが脱いであった。私はてっきりガールフレンドが来ているものと思って、再び外に出ようとしたが、そのとき居間に通じるドアの開く音がした。 「どなた」女性の鋭い声が聞えてきた。私はドアのノブから手を離して振返った。髪をアップにし、象牙色のレースのワンピースを着た女性が奥から出てきた。 「どちらさまですか」  物腰は柔らかだったが、目は私を見据えていた。濃いめの化粧でも、目尻のしわは隠せず、ああ、これがお母さんねと私は思った。 「私、主婦代行業をしております、田崎という者です。お宅の息子さんにこの部屋の掃除と洗濯を頼まれまして、こうしてお伺いしております」  ここで名刺を出せば、もっと説得力があっただろうが、あいにく作っていなかったので、頭を下げるだけにした。 「いま何ておっしゃった。しゅふ、だいこう……」 「ですから、この部屋の掃除と洗濯に。簡単に言えば、パートのお手伝いです」 「そんな仕事、聞いたことがありませんわね」 「でも、あるんです」  母親は私の頭の先からつま先まで目をやってから、「玄関では何ですから、まあ、どうぞお上がりになって」と招き入れる仕種を見せた。おじゃましますと言いながら、私は靴を脱いだ。  居間には下山はおらず、「陽一、こっちに来なさい」と母親が大きい声を出した。それでも下山は出てこないので、母親がもう一度、「陽一」と甲高い声で言うと、洋間から本を手に、下山が出てきた。 「おれ、勉強してるんだから、邪魔しないでよ」 「いいから、ここに坐りなさい」  母親はテーブルの椅子を叩いた。下山はしぶしぶといった顔をしながら、椅子に腰を降ろした。どうぞ、お掛けになってと言う母親の言葉で、私も坐った。 「それでは、詳しい話をお聞きしましょうか」と母親が言った。「田崎さんとおっしゃいましたわね。あなた、息子とどういう関係なんですか。正直におっしゃって下さい」  私は唖然とした。まさかそんなふうに見られるとは思ってもみなかった。一瞬頭の中が混乱し、すぐに言葉が出てこなかった。 「ですから、先程申しましたように、息子さんに頼まれて、掃除と洗濯をしております」  言いながら実に馬鹿ばかしいことをしゃべっている気がした。 「嘘おっしゃい」 「嘘だと思われるんなら、息子さんにお聞きになったらいかがです」 「だったら、どうしてわたくしが出ていったときに、逃げようとしたんです」 「靴を見て、お客さんがお見えになってるとわかったものですから、もう少し後から来ようと……」  確かにまずかったと思いながら、そう答えた。母親はちょっと考える様子を見せてから、「どうなの、陽一。正直に答えなさい」と下山のほうを向いた。 「この人の言うとおりだよ」と下山は面倒くさそうに答えた。 「あなたが雇ったの」 「ああ」 「どうして。そんなことはお母さんがやってあげるでしょ」 「この前は来なかっただろう」 「あのときは、お茶の会があったから」 「それが困るんだよ。おれねえ、浪人なんだよ。受験勉強以外、必要でないことはやらないの。もし来年も大学に落っこちたら、どうするの。そんなことにならないように、一切の雑用をこの人にお願いしたんじゃないか。合格するんなら、安いもんだよ」 「あなたがそう言うんなら、お母さんは反対しませんけどね。でも来てもらうんなら、もっと年を召した方のほうがいいんじゃなくて。そのほうがあなたも気にならなくて」 「何言ってるの。来てもらうのは、おれが予備校に行っている間なんだぜ」 「失礼ですけど、あなた、おいくつ」と母親が私のほうを見た。 「三十四です」 「ご結婚は?」 「小学生になる娘がおります」  離婚していると答えるのはまずい気がして、とっさにごまかした。 「ああ、それなら間違いはございませんわね」母親はそこでようやく笑顔を見せた。  私は母親の尋問から解放され、仕事に取りかかった。玄関横の空き部屋に掃除機をかけていると、いつのまにか母親がドアのところに立っていた。私が掃除機のスイッチを切ると、「続けて、続けて」と掌をひらひらとさせた。再びスイッチを入れると、近づいてきて、私の手に紙切れを握らせようとした。片手でホースを持ったまま紙切れを見ると、そこに電話番号が書かれていた。 「何かあったら、ここに電話下さいね」と母親は掃除機の音にかき消されるか消されないかの声で言った。私が、はあと答えてぼんやりしていると、「何かって、女性のことよ」と今度ははっきりとした声で言った。「あの子が女の子なんかと付合ってるのがわかったら、電話をしてほしいのよ。おわかり?」 「わかりました」と答えて、私は紙切れをジーンズのポケットにしまった。  その夜、下山から電話がかかってきた。 「驚いたでしょ。あなたが帰ってからでも、まだぼくと何かあるんじゃないかと疑ってたけどね。まあ、悪気のない人だから、許してやってください」  私は母親から渡された電話番号のメモのことを話そうかどうか迷ったが、結局話した。 「おふくろ、そんなことを言ったんですか。あの人なら、やりそうなことだけど。ぼくはいいですよ。どんなことでも電話してもらっても」 「私は余計なものは見ない主義だから」 「さすがプロに徹してますね」     10  結局、仕事の依頼は下山で最後だった。月々送られてくる養育料と併せて、何とか生活することはできるようになった。私はこの仕事を楽しんでいた。人に使われることもなく、気が乗らないときや体がだるいときなど、適当に手を抜けるので、その点楽だった。  梅雨の中休みで珍しく朝から晴れたある日、私は久し振りに気持よく青木と市村のマンションに向かった。雨の日は洗濯物も乾かないし、掃除をしていてもすっきりとしないので、うんざりするのだが、こうしてたまに晴れると、何だか体がうずうずしてくる。  マンションに着くと、管理人に挨拶をして、市村の部屋の階に上がる。通いなれた部屋なので、いちいち表札など見ないで、まっすぐ市村の部屋の前に立ち、錠を開ける。しかしその日は扉を開けようとして、ドアチェーンに阻まれた。まさかチェーンがしてあるとは思ってもみなかったので、勢いよく開けてしまい、チェーンが張って大きな音がした。こんなことは初めてだった。  私はあわててドアを閉め、思わず表札に目をやった。錠が開くのだから、市村の部屋に間違いはなかった。夏風邪でもひいたのかなと思いながら、私はインターホンのボタンを押した。 「どなた」しばらくして市村の声が聞えてきた。 「田崎です」 「ああ、そうね。きょうは月曜だったわね」 「風邪ですか」 「そうじゃないけど、ちょっとね。……きょうはいいから、あさって来てちょうだい」 「わかりました」  私が行きかけると、「田崎さん、やっぱり来て」という声がインターホンから響いてきた。ドアの前に戻ると、チェーンのはずれる音がして、内側に開き、薄手のナイトガウンを着た市村が顔を見せた。髪の毛がぼさぼさで、寝起きの腫れぼったい顔をしている。化粧もしていないので私は驚いたが、「お早ようございます」と何気ないふうに挨拶をして、中に入った。市村はさっさと奥に入ったが、むっとする何かが発酵したような臭いが鼻をついた。  居間はいつもの倍ほど散らかっていた。スカートやブラウス、ストッキングが脱ぎ捨ててあり、そんなことは初めてだった。 「ごめんなさい。私きょうはここで寝てるから、後はお願いね」寝室から市村の声が聞えてきた。  私はまずベランダに面したカーテンを開け放し、ガラス戸を全開した。陽の光と朝の空気が一度に入ってきた。次に散らかっている衣服をひとまとめにし、それから座卓の上のコップやウイスキーのびんやポテトチップスの袋などを流しに片づけた。  一通りすんだところで、私は畳んだ衣類を持って、寝室の扉を叩いた。 「なあに」 「こちらの服は、どうしましょう」 「そっちに置いといて」  市村が寝室に入ってもらいたくないのはわかったが、洗濯物を干すときにはそこに入らなければならない。掃除をしている間に洗濯が終り、私は洗濯物を篭に入れて、再び寝室の扉の前に立った。 「洗濯物を干したいんですが、いいですか」 「そっちから回れない?」 「ちょっと無理だと思いますが」  エアコンの室外機があって、通れないのだ。 「じゃあ、いいわ」  寝室はカーテンが閉めきってあって、薄暗かった。市村は頭から毛布をかぶって、ベッドに寝ていた。 「久し振りにいい天気ですよ」と言って、私はカーテンを開けた。  洗濯物を干していると、「私、おかしいでしょ」と市村が声をかけてきた。手を止めて後ろを見ると、市村が毛布から顔だけ出していた。 「そうですか」と私はのんびりとした口調で答えた。 「そうは思わない?」 「仕事がお休みなのは、珍しいですけど」 「あなた、見たでしょ」 「え? 何を」 「居間にあった手紙よ」 「そんなもの、なかったですけど」 「ちぎった紙切れがあったでしょ」 「ああ、あれですか」 「読まなかった?」 「ゴミだとばかり思って、捨ててしまいましたけど、拾ってきましょうか」 「いいのよ、あんなもの」  話が途切れたので、再び洗濯物を干し始めたが、「私、振られちゃったのよ」と市村がまた話しかけてきた。 「あの手紙はね、別れの手紙」  何と答えたらよいのかわからなかったので、私は黙っていた。 「他に好きな女ができたら、はっきりそう言えばいいのに、あなたは仕事をばりばりやっているから、ついていけないだって。男らしくないわよね。それに、こうも書いてあったわ。これからは男と女としてではなく、よき友達としてだって、笑わせないで。私はね、よき友達なんかいらないわ、男が欲しいのよ、それも男の中の男が。別れるときにぐじゃぐじゃ言う男なんか最低。自分が傷つくのを、何とか避けようとしているだけじゃないの。そんなの卑怯だわ。もう、きらい、きらい、きらい」  最後のほうは叫ぶように言って、市村は毛布を頭からかぶった。泣いているのか、肩のふくらみの辺りが震えていた。私は呆気に取られて、しばらく様子を見ていたが、そのうち震えもおさまって、静かになったので、残りの洗濯物を干した。干し終えると、私はガラス戸とカーテンを閉めて再び室内を暗くしてから、寝室を出た。  浴槽を洗っていると、「シャワーを浴びたいわ」と市村がやってきた。さっぱりとした表情をしている。私は壁面の掃除は後からすることにして、ざっと洗剤を流し、市村と入れ替わりに風呂場を出た。  寝室に掃除機をかけていると、市村の呼ぶ声が聞えてきた。アコーディオンカーテンのそばまでいって返事をすると、「悪いけど、バスローブを持ってきて下さらない?」と中から市村が言った。  寝室にあるワードローブの中からピンク色のバスローブを出して、洗面所に入った。洗濯機の上にナイトガウンがかけてあり、その上にバスローブを重ねた。バスタオルが出ていなかったので、横のロッカーから出して、洗濯機の端に置いた。  しばらくして、市村が髪の毛の水気をバスタオルで取りながら、居間に戻ってきた。 「ああ、気持がよかった」と言いながら、市村は座卓に腰を降ろした。バスローブの前が割れ、組んだ脚の太腿まであらわになった。肥満気味の体の割には意外とほっそりとした脚で、白くて若々しい感じがした。 「田崎さん、コーヒー一緒に飲まない?」バスタオルをターバンのように頭に巻き終った市村が、声をかけてきた。 「いれましょうか」 「じゃあ、お願い」  生クリームの小さなパックを添えて、いれたてのコーヒーを居間に持っていった。市村は大判の雑誌を読んでおり、私がコーヒーカップを座卓の上に置くと、「ありがと」と言って生クリームを入れて、一口飲んだ。 「砂糖抜きだってこと、覚えておいてくれたのね」と市村はうれしそうな顔をした。私が床に坐ろうとすると、「ここに坐ったら」と座卓を軽く叩いた。私は市村と背中を合わせるような形で、腰を降ろした。 「ねえ、変なこと訊くようだけど」と市村が声をかけてきた。「田崎さんて、お一人?」  コーヒーカップを持ったまま首をひねって市村を見ると、彼女はこっちを見ずに雑誌に目を落としたままだった。少し間を置いてから、「ええ」と私は答えた。 「恋人はいるの?」 「いいえ」 「別れた経験は?」  当たり障りのない受け答えをしようと思えばできたが、そうするとしまいには嘘をつかなければならなくなるような気がして、私は、離婚したことと娘が一人いることだけを簡単に話した。 「そうだったの。変なことを訊いてごめんなさい」  そう言うと市村は黙ってしまい、雑誌のページを繰る音だけが聞えてきた。  しばらくして雑誌を閉じる音がし、「あーあ、私も子供が欲しい」と市村は芝居の科白みたいに感情を込めた言い方をした。 「私ね、来月で四十一よ。妊娠するとしたら、今がリミットなのよね。昔は子供なんか全然欲しくはなかったんだけど、心境の変化って、恐ろしいわね。近ごろ何とかして子供を作ってやろうと思ってるんだけど、どうもそれが男にはわかるらしいのね。私は何も子供を作って、男を自分に縛りつけようなんて思ってないのに、相手はそう感じるらしく、すぐ別の女を作って逃げちゃうのよ。逃げるのはいいけど、子供だけちょうだいと言いたいけど、男も一緒だとなおいいなあ。最近、年のせいか、老後のことをよく考えるのよね。そのとき、自分の回りにはだあれもいないのよ。だあれもいない部屋の真ん中に、自分だけが一人ぽつんと坐っているのが見えてくるの。ぎゃっと叫びたくなるわよ、ほんとに。男でも子供でもそばにいてくれたら、ずいぶん違うんだろうけど、男ならいついなくなるかわからないけど、子供ならその点大丈夫だから、子供がいいわあ」  後ろをちらっと見ると、市村は向こうを向いたままだったので、私も背中合わせのままでいた。 「子供もいつかは離れていくんじゃ、ありませんか」と私はさりげなく言ってみた。 「そりゃ、いつかは離れていくけど、血のつながった人間がどこかにいるってことは変わらないでしょ」 「それはそうですけど」 「まあ、結局のところ」と市村は急に晴れ晴れとした口調になった。「生物としての女の最後のあがきね。ここを過ぎれば、何でもなくなってしまうんでしょうけど」 「……あがきですか」 「そう。最後のあがきに、今年はいっちょう、妊娠を狙ってみようか」  そう言って、市村は勢いよく立上がった。そして私の前に来ると、「ありがと。あなたに話して、何だかすっきりしたわ」とバスタオルを巻いた頭を傾げて、微笑んだ。  コーヒーカップを流しに下げて洗ってから、私は再び風呂場の掃除をした。それが終ったころ電話が鳴り、市村が出た。どうやら仕事先からの電話らしかった。何回か押し問答があって、市村は手荒く電話を切ると、寝室に入っていった。ワードローブの扉やタンスの引出しを開ける音が聞えてきた。 「お出かけですか」と私は居間から声をかけた。 「そうなのよ。フリーといっても、なかなか自由がきかないから、嫌になっちゃう」 「食事はどうされます。何なら、私が何か作りましょうか」  腕時計を見ると、もうすぐ正午になるところだった。 「そうね。悪いけど、お言葉に甘えて何か作ってもらおうかしら。田崎さんも一緒に食べてね」  用意ができて居間に呼びにいくと、市村は読みかけの新聞を手にダイニングルームにやってきた。ブラウスの大きなリボンの形をしたボウが彼女を若々しく見せていた。 「これ、冷蔵庫の中にあったもので作ったの?」と市村が驚いた声を出した。 「ええ」 「さすがプロね。私なんか、とってもできないわ。どうしてあなたのような人と離婚しようなんて気になったのかしらね。男の気持って、よくわからないわ」  私が笑っていると、市村は口に手を当てて、「ひとこと余計なことを言ってしまうから、だめなのね。人から嫌われるし、男に逃げられる」と歌うような調子で言った。  私の作った食事を、市村はおいしいわねと何度も言いながら食べた。 「お昼からは、上でまた仕事?」半分ほど食べ終ったところで、市村が訊いてきた。 「ええ」 「そこの奥さん、何をしている人なの。あなたを雇うくらいだから、仕事をしてるんでしょう。まさか専業主婦じゃあ……」 「いいえ、青木さんはお一人です。男ひとりで……」 「あら、一人なの。確か九〇五号だったでしょ。あんな広いところに、一人で住んでるの。奥さん、亡くされたの?」 「さあ、詳しいことは存じませんけど」  市村は「そうなの」とつぶやきながら、食事に戻ったが、すぐに「青木さんて、いくつなの」と訊いてきた。 「五十ちょっとだと思いますけど」 「どんな人」 「どんなと言われても……」 「何をしている人」 「確か、ブティックとスナックを経営されてるとか伺いましたけど」 「でしょうね。普通のサラリーマンじゃ、とてもあんなところに住めないものね」  私は早く青木の話題から離れてくれないかと、そればかり考えていた。 「ねえ、その青木さんのやっているブティックとスナックの場所、あなたご存じ?」 「さあ、どこにあるのか……」 「店の名前もご存じないの」 「確か、名刺をもらいましたけど、そこに書いてあったかどうか……」  知らないとばかり答えていると、変に勘ぐられそうなので、私は正直に答えた。 「ねえ、一度一緒に行ってみない?」 「どこへ」 「だから、青木さんのお店によ」 「私、とてもそんなところには……」 「お金のことなら、大丈夫よ。私がおごるから。ねえ、行きましょうよ。どんなお店かちょっとのぞくだけでもいいのよ」  結局、アパートにある名刺を見て、店の名前が書いてあったら、電話をするということにして、その話は終った。     11  名刺の裏に店名が印刷されていることはわかっていたが、どんな名前だったか忘れていた。帰って名刺を見て、思い出したのだが、放っておけば、そのうち忘れるかもしれないと私はすぐには市村に電話をしなかった。しかし次の日の夜、早速電話がかかってきた。 「名刺、あった?」市村は酔っているのか妙に甘えた口調だった。 「ええ、ありました」 「それで、店の名前は書いてなかったの?」 「書いてありました。住所はないですけど、電話番号なら」 「なんだ。私、連絡がないから、てっきり書いてなかったとばかり……」 「今晩、電話をしようと思っていたところなんです」 「わかったわ。じゃあ、メモするから教えて」  私は店の名前と電話番号を教えた。市村は聞いたことを復唱し終ると、「ところで、田崎さん」と声の調子を変えてきた。 「あなた、あんまり乗り気じゃないみたいだけど、何かあるの。私が青木さんのお店に行ったら、あなたにとって都合が悪いのかしら。都合が悪いのなら、悪いって、はっきり言ってちょうだい。私、別に何とも思わないから」  私と青木の間に何か関係があると、市村が勘ぐっていることにそのとき私は気がついたが、そう思われても仕方のないような受け答えをしていたと内心おかしかった。こうなれば仕方がないと、私は本当のことを話した。 「そうすると、青木さんもゲイの人?」 「ゲイかどうか知りませんけど、自分でホモだっておっしゃってました」 「同性愛なの。わあ、がっかり。せっかくお近づきになろうかなって、思ってたのに。でも、ゲイバーって面白そうね。私、一度も行ったことがないのよ。あなた、行ったことがある?」 「いいえ」 「だったら、一度行ってみましょうよ。私、何だかものすごくゲイバーに行きたくなってきたわ。今の傷ついた心を癒してくれるのは、そこしかないって気になってきたわ。ねえ、青木さんにそれとなく私たちが行くってことを話しておいてよ。そうしたら、少しは安くなるかもしれないじゃない。あなたがオーナーを知っているんだから、私も安心して行けるし。こんなチャンス滅多にないわ。ねえ、行きましょうよ」  市村がすっかりその気になっているので、私は困ってしまった。 「行くとしたら、夜になるでしょう。娘をひとりきりでおいておくわけには……」 「娘さん、いくつだった?」 「十歳です」 「それなら、もう留守番くらいできるんじゃない?」 「そう言われても……」  そのとき、隣の部屋の襖が開いて、亜希子が顔をのぞかせた。 「あたし、夜でも一人で留守番しても平気よ。ママ、行ってきたら」  私はあわてて受話器を手で押えて、首を振った。 「今の、娘さん? 聞えたわよ。しっかりしてるじゃない。あなたがいなくても、大丈夫よ。ねえ、行きましょう」 「そうですねえ……」 「たまには、息抜きも必要よ。あんまり子供の方ばっかり向いていると、子供も息苦しくなるんじゃない? なんて、私が知ったかぶりして言うのも変だけど。それから、お金のほうは心配しないで。私がおごるから。あなたは青木さんに話しておいてくれるだけでいいわ」 「わかりました。それじゃ、お言葉に甘えて、ご一緒に息抜きを」  結局今度の土曜日に行くことになった。私が受話器を置くと、亜希子が部屋から出てきた。 「誰から電話」 「お母さんが仕事に行ってるところの女の人から」 「どこかへ行くの」 「今度の土曜日に、その人と遊びにいくのよ」 「その女の人には、子供はいないの?」 「その人はね、結婚しないで、一人で働いてるのよ。忙しい仕事でね、だから家の中の掃除や洗濯がなかなかできなくて、お母さんが代わりにやってるのよ」 「ふーん」  亜希子が感慨深そうな表情をしたので、私は笑ってしまった。 「ねえ、ママ」 「なあに」 「ホモって、誰のこと」 「亜希ちゃん、あなた、立聞きしてたの」私は思わず大きい声を出した。 「ママの声が大きいから、自然に聞えたのよ」と亜希子は口を尖らせた。  私はどう答えようかと迷ったあげく、「ホモって、どういうことか知ってるの」と訊いてみた。 「同性愛のことでしょ」 「同性愛って?」 「それは……」と亜希子は口の中で何かぶつぶつと言った。 「なあに、はっきり言って」 「だからあ」と亜希子は大きな声を出した。「パパとママが結婚したみたいじゃなくて、男の人どうしが結婚するんでしょ」 「別に結婚なんかしなくてもいいけど」と私は少しほっとしながら答えた。「男の人が別の男の人を非常に好きになったり、女の人が他の女の人を好きになったり、そういうのを同性愛というのよ。もっとも、女の人の場合は、ホモとはいわないけど」 「それじゃあ、何だか友達みたい」 「友達よりも、もっと好きになるのよ。……亜希ちゃん、好きな男の子、いる?」 「いない」 「いないの?」  亜希子は恥ずかしそうな笑いを浮かべながら、そっぽを向いた。 「いるんでしょう?」と私が訊くと、ぴょこんとうなずいた。 「好きな女の子は、いる?」 「それはいるわ。みっちゃんでしょ、ひろべえでしょ、それに山中さんでしょ……」と亜希子は指を折った。 「それで、男の子を好きになる気持と、女の子を好きになる気持は、どう? 同じ、それとも違う?」  亜希子は少し考えてから、「違うみたい」と答えた。 「同性愛の人はね、その気持が逆になるのよ。亜希ちゃんが好きな男の子に対して感じる気持を、ホモの男の人は、女の人じゃなくて別の男の人に感じるわけ。どう、わかった?」 「わかったような気もするけど、でも、何だか変なの」 「ちっとも変じゃないわよ。人が人を好きになる気持は誰も持っているんだし、そういう気持を持てるということは、本当に素晴らしいことだとは思わない?」 「そりゃ、思うけど……」 「亜希ちゃんがそう思ってくれたら、お母さんはとてもうれしいわ」  亜希子は釈然としない顔つきをしながらも、必死で考えているという様子を見せていた。それをほほえましく眺めていると、「ママはホモの人を知ってるの?」といきなり訊いてきた。 「どうしてそんなことを訊くの」 「だって、さっき電話で、ホモのことを話してたじゃない」  私は少し考えてから、「正直に言うとね、確かにホモの人を知ってるのよ。お母さんが仕事に行っている、もう一つのところの男の人がそうなのよ」 「その人、どんな人」 「普通の男の人よ」 「ほんと?」 「本当よ」 「何だ、つまんないの。テレビに出てくるような、女の人みたいなしゃべり方をしないの?」 「何言ってるの」と答えながら、私はジュンというゲイボーイのことを思い出していた。     12  市村はゲイバーに行くことを青木に話しておいてと言ったが、どのように話したらいいのかわからなかった。いろいろ考えているうちに、金曜日になってしまった。お店に電話をするか、明日の朝もっと早く来るしかないなと考えながら私はいつもの仕事をこなしていったが、テーブルの上の新聞を片づけているときに、裏が白い折込み広告を見て、メモを残して置けばいいという考えがひらめいた。それならば、お店に伺いますという大して意味のない言葉でも、気にせずに伝えることができる気がした。  私はさっそく青木の仕事部屋からマジックインキを見つけてきて、「あした(土曜日)の夜、仕事先の市村さんという方と一緒に、ピンクパンサーに遊びにいきますので、よろしくお願いします。田崎」と折込みの裏に書いた。市村が落込んでいることを書こうかどうか迷ったが、やめにした。  折込みをテーブルの真ん中に置き、ピンで止めるような感じでマジックインキを立て、私は再び仕事に戻った。  翌日、青木の部屋に行ったとき、ひょっとしたら彼がまだいて、何か言ってくれるかなと思ったが、もう出かけたあとだった。ちょっとがっかりして、キッチンへいくと、いつもとは違って、流し台にコーヒーカップやトレイが片づけられており、テーブルの上にも新聞がなかった。その代わりにきのう私が置いた折込みがあり、私の書いた文字の下に、青木の字があった。 「大歓迎! 大いに遊んでいってください」  ちょっと右上がりの角張った字だった。私は折込みを手に持って、目の高さに上げ、もう一度読んだ。  青木の部屋から帰ると、夕食を早めにすませた。後片づけをしていると、「ママ、いつ出かけるの」と亜希子が訊いてきた。 「六時半ごろよ」 「じゃあ、あたしが後片づけをしてあげるから、ママは出かける用意をして」  亜希子はそう言って、私の手から汚れた皿を取上げた。急いでやれば間に合わないこともなかったが、素直に娘の言うことを聞くことにした。  三十分ほどかけて念入りに化粧をし、服を着てから、仕上げに口紅を引いた。こんなに時間をかけて化粧をするのは、ずいぶん久し振りのことだった。 「ママ、きれい」と亜希子が私の姿を見て言った。私はくるりと一回転してみせた。  箱から出しておいたパンプスを履くと、「なるべく早く帰ってきますからね」と言って、私はドアを閉めた。 「ピンクパンサー」は細長いビルの地下にあった。地下までの階段に赤いカーペットが敷かれており、金色の金具で角が留められていた。「なんだか高そうね」と言いながら、市村が先に降りた。  地下には二つの店があって、奥のほうが「ピンクパンサー」だった。黒塗の頑丈そうな扉で、上のほうに金色の店名のプレートがかかっていた。扉を押して中に入ると、にぎやかな音楽が体を包み込んだ。 「あーら、いらっしゃい」と近くにいたホステスが私たちのほうに寄ってきた。えらの張った顔で声も低かったが、襟ぐりの開いたドレスからこぼれそうな胸をしていた。 「あら、珍しい。女性お二人だけ?」 「そうよ。いけない?」と市村が答えた。 「とーんでもございません。だあい歓迎ですわよ」  ホステスは大げさな身振りで私たちの肩を抱くようにして、中へ案内してくれた。店内はそれほど大きくはなく、カウンターにボックス席が六つばかりと小さなステージがあるだけで、そこでは今、羽飾りと金ぴかの衣装をつけた三人の踊り子が音楽に合わせて脚を上げていた。まだ時間が早いせいか、二つのボックス席に十人ばかりの男の客がいるだけだった。席の間を行くと、客たちは珍しそうに私たちを見た。  私たちが空いた席に腰を降ろすと、別のホステスがおしぼりを持ってやってきて、横に坐った。彫りの深い顔で、チャイナドレスからきれいな脚がのぞいている。彼女がおしぼりを広げて私たちに渡してくれた。 「何になさいます。よろしかったら、セットがございますけど」とえらの張ったホステスが勧めてくれたので、市村がそれに決めた。 「ありがとう」とわざと男の声を出して、えらの張ったホステスは立上がり、カウンターのほうへ歩いていった。 「あなた、きれいだわねえ」と市村がチャイナドレスのホステスに言った。 「どうもありがとう。あたし、ギンコです。どうぞお見知りおきを」ハスキーだが、高い声をしている。ギンコは自分の膝の上に三つ指をついて、頭を下げた。 「それでギンコさん、あなた、本当に男なの?」と市村が訊いた。 「それは秘密」とギンコは唇に人差指を当てたが、「でも、教えちゃう」といきなり市村の手を取ると、私の体の前越しに引張って、自分の胸に当てた。 「どう」 「本物みたいね」と市村が言う。 「じゃあ、ここは?」とギンコは市村の手を下腹部に持っていった。 「あら、ないわ」と叫んで、市村はあわてて手を引っ込めた。ギンコはおかしそうに笑った。 「ちょんぎったんでしょう」と私はつい言ってしまった。 「まあ、ちょんぎるだなんて、きれいな顔をしてすごいことおっしゃるのね」とギンコは私の腕を軽くつねって、ウインクをしてみせた。  私はどぎまぎして、「ジュンという人がちょんぎるって、聞いたものだから」とあわてて言った。 「あれ、ジュンを知ってるの?」 「ええ、前にお会いしたことがあります」 「ここで?」 「いいえ」  そのとき、「お待たせ」と言って、えらの張ったホステスがビールとナッツのおつまみを持って戻ってきた。それぞれのコップにビールを注いで、「初めての出会いに」と乾杯をした。  一口飲み終って、えらの張ったホステスが「トトです。よろしく」と自己紹介をすると、「トトじゃなくて、トドでしょ」とギンコが顎を突出して、トドの鳴き真似をした。 「言ったわねえ。そんなことを言ってると、チンポコをつけちゃうぞ」  トトは手を伸ばして、ギンコの股に指を入れようとした。ギンコは悲鳴を上げて体をよじり、「それだけはお止めになって」と服の上から両手で下腹部を押えた。市村も私も声を出して笑ってしまった。  男の客たちの間から歓声が起こり、同時に店内が暗くなった。ステージにスポットライトが当たり、その中に黒いフリルのついたロングドレスを着た踊り子が現われた。黒の大きな帽子をかぶり、手には昔の貴婦人がさしたようなひらひらした傘を持っている。 「あれがジュンよ」とギンコが私の耳許でささやいた。濃い化粧をしているので気がつかなかったが、よく見ると眼や顎の線はジュンであることを示していた。  ピアノの伴奏が流れ、ジュンは傘を持った手で小さなマイクを握って、何かを歌い始めた。客席がにぎやかなので初めは何を歌っているのかわからなかったが、そのうちシャンソンをフランス語で歌っているのがわかった。次第に客席が静かになり、ささやくように歌うところもはっきりと聞えてきた。  一曲歌い終って盛大な拍手を浴び、二曲目に入ったが、途中でジュンはロングドレスの肩紐を外し始めた。客席から口笛と奇声が飛んだ。ジュンは歌い振りを全く変えずに、体を揺すりながらドレスを脱ぎ、ブラジャーとショーツとガーターベルトの姿になった。 「あの子もちょんぎったのかしら」と市村が言うと、「キン抜きしてるから、ガムテープで押えたらわからないのよ」とギンコが教えてくれた。確かにジュンの下腹部はないといっていいほど目立たなかった。  ジュンは歌いながらストッキングを脱ぎ、ブラジャーを外すと、帽子を取って胸に当てた。そして三曲目には傘を後ろに投げ捨て、マイクを持った手で帽子を押えながら、後向きになってショーツを下げていった。少し筋肉質の尻がスポットライトを浴びて白く光る。  ジュンはショーツを足から抜くと、帽子で股の間を隠しながら前に向き直り、歌い終るとぱっと帽子を差し上げた。瞬間はっとしたが、すぐにライトが消え、ジュンの姿は残像だけになった。  店内が再び明るくなった。 「ところで、マスターはどこなの」と市村がギンコに訊いた。 「この時間じゃ、まだよ。もう少ししたら、顔を見せると思うけど」 「いっぺんマスターに会いたいわあ」 「結構いい男よ。でも女に興味がないのが玉にキズ」 「あなたがたには興味を示すんでしょ」 「何言ってるの。あたしはれっきとした、オンナですよ。オンナには興味を示さないの」  市村は、わけがわからないという顔をしている。 「つまりね。あたしはオンナだから男が好き。マスターはホモだから、男が好き。そこがホモとゲイの違いなの。わかった?」 「大して違いはなさそうだけど……」  青木が現われたのは、八時過ぎだった。黒のタキシード姿で、見違えるほどだった。ギンコが「マスター、こっちよ」と手を上げて呼ぶと、青木は回りの客たちに挨拶しながら、やってきた。私は思わず立上がって、「お邪魔してます」と頭を下げた。 「そんな堅苦しいことは抜き、抜き。ここではお客さんなんだから、もっと楽にいきましょうよ」  青木は笑いながら言い、「十分サービスしてるか」とトトの肩に手をやった。 「ほら、この通り」とトトは市村の体にしなだれかかった。市村は「いやー」と嬌声を上げたが、別に避けようともせず、笑顔を見せた。 「マスター、お客さんとお知合い?」とギンコが訊いた。 「まあね」と青木は答えて、向いの席に腰を降ろした。 「何だ、だからこの人、ジュンのことを知ってたのね」 「そういうこと」青木はわざとらしくうなずくと、背筋を伸ばして他の席に目をやり、ジュンちゃんと手を上げた。  ジュンは先程のショーのときに着ていた衣装のままだった。トトが立上がってジュンの代わりに行き、ジュンは、いらっしゃいませと言って、トトの席に坐った。 「こちらのお客さん、覚えてないか」と青木は私のほうを手で示しながらジュンに訊いた。  ジュンは首を傾げるようにして、しばらく私を見てから、「ああ、パートのお手伝いさん」と答えた。 「なあに、そのパートのお手伝いさんて」とギンコが訊いてきた。私が簡単に説明すると、「あら、マスター、いいわね。楽しちゃって。あたしも雇いたい」とギンコは心底羨ましそうな声を出した。 「ほんとにいいわよ」と市村が口を挟んだ。「仕事から帰ってきて、きれいに片づけられた部屋を見ると、ほっとするわよ。ギンコさんも仕事を頼んだら」 「本当に、お願いしようかしら」とギンコが言うと、「じゃあ、あたしも」とジュンが私の膝に手を伸ばしてきた。  私はあわてて、「もう手一杯ですから」と手を振り、青木と市村の他に予備校生の部屋の仕事もしていることを説明した。 「予備校生があなたを雇ってるの? まあ、ぜいたく」  ギンコは口を尖らせて、おどけた表情をしてみせた。 「お父さんが建設会社をやっているとかで、お金持ちだそうです」 「あたし、お金持ち大好き」 「お仕事が手一杯だったら、マスターのところの仕事を一日置きにして、あたしのところに来て下さらない?」とジュンが言った。 「おいおい、勝手に決めるなよ、そんなこと」 「一日置きで十分じゃない?」 「おれはきれい好きなんだ」 「マスター、怪しい」とギンコが青木の胸を人差指で突いた。「この人を手放したくないんでしょう」 「わかるか」 「わかるわよ。マスター、ホモのくせに女の人を好きになったんでしょう」ギンコがそう言うと、青木は両手を上げ、声を立てずに大笑いをした。私はどぎまぎした。 「ところで、市村さんは私と同じマンションの五階にお住まいとか。隣組みたいなもんですよ。これからもよろしく」  青木が握手を求め、市村があらというような顔をしてそれに応えた。 「それで、きょうは田崎さんが市村さんを誘って、ここに来られたんですか」 「いいえ、私が無理に引張ってきたのよ」と市村が言った。「男に振られた憂さをぱあーと晴らそうと思って」 「まあ、お姉さん、男に振られたの。どこのどいつよ、そんなことをするやつは」とギンコが言う。 「ほんとよねえ、こんなにかわいくて頼りがいのある女性を振るなんて……」  ジュンが言いかけると、「頼りがいがあるって、私が太ってるという意味?」と市村が笑いながら口を挟んだ。 「とんでもない……でもないか。でも、あたし、太ってる女の人って、好きよ」  そう言うと、ジュンは市村の首に腕を巻きつけて、頬に接吻をした。市村はきゃーと言いながらも、自分もジュンの腰に腕を回して抱き寄せていた。 「ほんとにどういう男なの」とジュンが訊く。 「どうって言われても」と市村が返答に詰まると、「背はどのくらい」と訊いてきた。 「一七〇をちょっと切るぐらいかな」 「やだあ、低いじゃない。だめよ、そんな男。男は地下鉄に乗るとき、頭をちょっと屈めるくらいでなくっちゃ」 「それじゃあ、一八〇センチは軽く越えてしまうじゃない」  とギンコが言う。 「例えばの話よ」 「でも、ハンサムなのよねえ」と市村が思い出したように言う。 「で、どんな感じ」 「細面で、鼻筋が通っていて、一見ハーフみたいなのよ。自分では、四分の一アメリカ人の血が混じってるって言ってたけど」 「わあ、あたし好み」とギンコがはしゃいだ声を出す。 「ハンサムなのはいいけど、お金は持ってるの?」 「全然。みんな私が出してたの」 「それはだめね」とジュンが首を振り、「お姉さん、別れて正解だったのよ」と市村の膝に手を置いた。  それからジュンとギンコは市村にふさわしいのはこういう男だと、背の高さから体重、年齢、仕事、それに乗っている車や身につけている服、小物にいたるまで、ああでもないこうでもないと一つひとつ決めていった。     13  梅雨が明けてすぐの土曜日、私は軽い足どりで下山のマンションに向かった。からっとした天気に洗濯物がすぐに乾くようになると、仕事をするのが楽しくなるのだ。  その日、下山の部屋のドアを開けると、いつもは見ない靴があるので、彼が部屋にいることがわかった。土曜日はいたりいなかったりするので、別におかしくはない。 「こんにちは」と奥に声をかけ、「予備校に行かなくちゃだめじゃないの」と言いながら、私は部屋に上がった。  しかし居間には下山の姿はなかった。そういえば、彼がいるときにはいつも鳴っている音楽が聞えない。オーディオのスイッチも切れたままだ。  気温が上がっているのにガラス戸が閉め切られたままだったので、それを開け、ベランダから風を入れた。下山の勉強部屋兼寝室になっている洋間のドアは閉まっていたので、それ以外の部屋の扉をすべて開け、窓も開けて風を通した。  これだけバタバタやっても出てこないところを見ると、下山はいないのかもしれないとそのとき初めて気がついた。違う靴を履いていくことも十分考えられるし、むしろそのほうが自然なような気がした。私は幾分ほっとして、洋室のドアを開けた。  机の前には下山の姿はなかったが、椅子にジーンズとシャツがかけられており、ベッドの毛布が丸く盛り上がっていた。頭が見えず、私は一瞬女の子でも引張り込んでいるんじゃないかと思った。 「下山くん」と私はドアのところから小さく声をかけてみた。しかし丸い盛り上がりはぴくりともしない。  私はベッドに近づき、「どうしたの」と肩と思しきあたりをちょっと揺すってみた。手に当たる感触は確かに人の体だったので、私は安心した。 「具合でも悪いの?」  返事がないので、私は毛布の端を少しめくってみた。汗くさい体臭がする。両腕で頭を抱えた恰好で向こう向きになっており、私はのぞき込んで下山であることを確かめた。目を閉じている。 「熱でもあるの?」私はベッドの頭板をつかみながら手を伸ばして、下山の額に触れようとしたが、そのときいきなり手首をつかまれて引張られた。ひょろっとした男の力とは思えない強さだった。私は下山の体の上に引張り込まれ、勢い余って下山の横に並ぶような形でベッドに倒れ込んだ。あっという間の出来事で、何がなんだかわからない。  下山は切羽詰まった表情を見せており、別人のようだった。言葉が出てこず、体を堅くしていると、下山は毛布から出てきた。ブリーフ一枚の姿だった。 「何するの」ようやく口から出て、体を起しかけた。しかし下山は覆いかぶさってきて、再び私をベッドに倒した。臭い息がかかり、下山は私に口づけをしようとする。私は顔を左右に振り、拳で下山の背中を叩いた。下山は首筋に唇をはわせながら、手を肩から肘へとすべらせていき、両手首をつかんだ。  私は両手首を押え込まれた体勢のまま、体をねじったが、そのとき天井の照明器具の鎖が揺れているのが目に入った。どうして揺れているのだろう。そう思った途端、こういう事態になるのは前からわかっていたような気がした。  私は抵抗する気をなくし、体から力を抜いた。下山はそれでも私の手首を押えていたが、私が抵抗しないとわかると、一方の手を胸に持ってきて、Tシャツの上からブラジャー越しに乳房をつかんだ。痛くて、あっと声が出た。それを感じていると取ったのか、下山はさらに力を入れてきた。私は彼の手を押え、「痛いわ」と静かに言った。  下山は力を緩め、掌で押すようにし、もう一方の手を下半身に持っていった。不精髭が首筋に当たって痛い。下山の左手は始めのうちは膝から太腿を触っていたが、いきなり下腹部を押えてきた。私は思わず脚に力を入れて膝を閉じた。スラックスでよかったわと思ったが、何だか馬鹿ばかしいことを思ってるわと自分でもおかしくなった。  下山は私が膝を閉じても、何とかして股の間に指を入れようとし、それがだめだとわかるとTシャツの裾を引張り出して手を差入れ、ブラジャーを押し上げた。乳房を直接触られると、体がびくんとした。私は妙に優しい気持になり、下山の頭を両手でなでた。  下山はTシャツとブラジャーを首のあたりまで押し上げると、露になった片方の乳房に武者ぶりついてきた。私はその勢いを鎮めるように、下山の後頭部から裸の背中にかけて、ゆっくりとなでた。  そのうち下山が乳房に顔をつけたまま、動かなくなった。私はそれでも背中をなでていたが、下山が本当にじっとしているので、手を動かすのを止めた。下山の呼吸の動きが体越しに伝わってくる。  しばらくして、下山は急に立上がった。私は反射的に自分の乳房を押えた。下山は私に背中を向けながら椅子にかかっているジーンズを取って、脚を入れた。  どうしたのという言葉が頭に浮かんだが、それを口にしてはいけないという思いがあった。私は上半身を起こし、ベッドに腰をかける恰好になって、ブラジャーの位置とTシャツを直した。 「きょうはもう帰って下さい」と下山が向こう向きのまま言った。  何か言ったほうがいいのだろうかと思いながら、適当な言葉が思いつかず、私は黙って洋間を出た。居間のテーブルの上に置いてあったバッグをつかんで玄関に行きかけると、「ごめんなさい」という下山の声が聞えてきた。 「いいのよ。気にしないで」私はとっさに大きな声でそう答えた。  下山の部屋を出て、エレベーターに乗ったあたりで、私は急に動悸を感じ始めた。触られた片方の乳房が熱を持って、動悸に合わせて膨らむような感じがした。私は乳房に手をやりながら、どうせならもう片方も触ってくれたらバランスが取れたのにと考えて、自分でもおかしくなって笑ってしまった。  外は相変わらずいい天気だった。気持よく仕事ができると思いながらここにやってきたときに比べて、今もそれほど気分が沈んでいないことを発見して、私は安心した。  下山から何か電話がかかってくるのではないかと思っていたが、何もなく、火曜日の朝私はどうしようかと迷いながらも、下山のマンションに向かった。彼が部屋にいたらどういうふうな態度を取ろうかと考えながらドアの前に立ったが、錠を開けるときには、何事もなかったように振舞おうと決めた。  それでも私は静かに玄関に入り、中の様子を窺った。物音がしない。この前のことがあるのでと用心深くなっている自分がおかしくて、「こんにちわ」と大声で言い、わざと足音をさせて居間に入っていった。  いつものようにテーブルにバッグを置こうとして、一枚の紙切れがあるのが目に入った。ノートをちぎったものらしく、私はその紙切れを手に取った。 「この前は本当にすみませんでした。電話であやまろうと思ったのですが、どうしてもできなくて、こうして手紙にしました。あのときのぼくは変だったのです、と書いてしまえば話は簡単なんですけど、でもそんなに単純ではないんです。実はぼくには男としての機能がないんです。はっきり言ってしまえば、不能なんです。インポテンツ。おれはインポテンツだあ。まさか自分が不能だとは、今の今まで知らなかったのです。ポルノを見て勃起もしたし、自分で出したりしてたから。ところが運命の金曜日、つまりこの前の晩のことです。予備校で知合った美人ちゃんと何しようとして、見事に失敗してしまったのです。裸になるまでは完璧に立っていたのですが、いざというときになって役に立たなくなってしまったのです。いろいろやってみたのですが、あせればあせるほど縮んじゃって、彼女も慣れていないせいか途方に暮れるばかりで、そうなるともういけません。裸でベッドに並んで、天井を見ているだけでは白けるばかりです。あたし、帰ると言って、彼女は夜中に部屋を出ていってしまうし、ぼくはどうしてなんだと息子をのろいながら、朝まで一睡もしなかったのです。そこへ田崎さんの声がして、だめだったのは相手が悪かったせいで、相手をかえたらうまくいくかも知れないと、不意に思いついて、ああいうことに及んだ次第です。でも、やっぱり立ちませんでした。もちろん田崎さんが好きだからで、他の人ならあんなことはしていません。本当に申しわけありませんでした。お許しください。正直に告白して、ほっとしました。でも、田崎さんはもう来ないかもしれないし、そうなったら、この手紙は読まれないし、そのときは電話であやまるしかないなあ」  私は半信半疑で読み終えた。不能を告白している割には軽い感じで作り話のように思えたが、この前の下山の真剣な表情を思い出すと、本当かもしれないという気がした。「田崎さんが好き」という下りでは、思わず笑ってしまったけれども。  どうしたものかしらと考えて、私は返事を書くことにした。仕事を終えてから、テーブルの前に腰を降ろし、新聞の折込みの裏を広げた。洋室の机の上にあったボールペンを握って、しばらく考えてから、私は書き始めた。 「謝ってくれて、ありがとう。あのときはいきなりで、びっくりしましたけど、下山くんにもああなる事情があったということで、安心しました。私は別に怒ってはいませんから。男としての機能がないと心配されているようですが、初めての時には、そういったことがよく起こるのではありませんか。慣れていないだけで、そう心配することはないと思います。考えるほど大層なことではないのですから、もっと自信を持って行なえば、この次はきっとうまくいくでしょう。美人ちゃんによろしく」  二日後、下山の部屋に行ったとき、再び手紙が置いてあった。 「やっぱり来てくれたんですね。契約を破棄されるんじゃないかと心配していたんですが、大丈夫だとわかって、ほっとしています。不能の件、田崎さんは初めてで慣れていないせいだと言われましたが、ぼくもそうではないかと思います。ただ、もう一度彼女を誘う自信がありません。今度失敗したら、笑い者になってしまいます。そこでお願いですが、ぼくに個人教授をしてもらえませんか。経験豊富な田崎さんにリードしてもらって、ぼくは男の機能を回復したいと思います。どうかよろしくお願い申し上げます。と、ズーズーしくこんなことを書いてもだめかなあ。だめだろうな。やっぱりだめか」  何か下山のお芝居にうまく乗せられているような気がしたが、不思議に嫌な感じはしなかった。私は仕事をしながら、どういうふうに答えたら一番いいかと考えた。 「個人教授の件、私ごときものを指名していただいて光栄ですが、残念ながら私ではお役に立てないと思います。どうしても個人教授が必要だとお考えなら、私に心当たりがありますので、よろしかったら紹介いたします」  私は青木のことを頭に置きながら、返事を書いた。もし下山が本当に個人教授を望んでいるのなら、青木に相談すれば何とかなるのではないかと考えたのだ。  土曜日、今度はどういう手紙かしらと半ば期待しながら、下山の部屋に行ったが、ドアを開けた途端、音楽が聞えてきて、本人がいることがわかった。急に胸がどきどきし始めた。女物の靴がないのを確認してから、私は「おはようございます」と奥に聞えるように言って、部屋に上がった。  下山は布製の安楽椅子に体を投出して、目を閉じていた。腹の上に読みかけの雑誌が伏せてあり、読んでいる途中で眠ってしまったというふうに見える。  私は近づいて、雑誌に目をやった。表紙の中で金髪の美女が乳房を見せて微笑んでいる。私ははっとして、体を引いた。 「個人教授を紹介してください」突然下山が言った。 「なんだ、起きてたの」 「近ごろよく眠れないんです。だから昼間、ついうとうとしてしまって」と言いながら、下山はまだ目を閉じている。 「あんまり思いつめちゃだめよ。気にしないでいたら、そのうち直っちゃって、笑い話になるわよ」 「女の人はいいよなあ」と下山は上半身を起こして、私を見た。「立たないってことが、どれだけ恐いことか女の人にはわからないでしょ。そりゃもう絶望なんだから」  下山は笑っているような、いないような、曖昧な表情をしていた。 「本当に全然だめなの?」 「だめだから、こうして個人教授をお願いしてるんじゃないですか。ほら、これを見ても」と下山は雑誌を持って、中を広げて見せた。「全然立たないんだ。前まではよかったんだけど」  下山の見せてくれたグラビアには、脚を広げ尻を突出したモデルが写っていた。 「ほんとなの?」 「なんなら、見せましょうか」 「いいわよ」とあわてて手を振ると、下山は声を出して笑った。 「個人教授よりも、お医者さんに相談したほうがいいんじゃない?」 「そんな恰好の悪いこと、できませんよ。医者に行くのは、最後の最後ですよ」  そう言って、下山は雑誌を足許に投げ捨てた。私は、軽い気持で書いた個人教授に下山がこだわっているので、気が重くなった。 「個人教授のこと、心当たりを当たってみるわ」 「よろしくお願いします」  下山は立上がって、最敬礼をした。 「これでちょっとは希望が出てきたから、今から予備校に行ってきます」  下山は急いで支度をすると、部屋を飛び出していった。  青木に電話をするのは、何事かと思われそうで気が引けたから、置手紙にすることにした。チラシの裏ではあまりにも軽過ぎる気がしたので、アパートから便箋を三枚ほど持って出て、仕事の終った後ダイニングルームのテーブルの上で手紙を書いた。 「突然こんな手紙を差し上げて、ご迷惑とは思いますが、実は相談したいことがあるのです。私は他に予備校生の部屋の仕事を引受けていますが、その予備校生が、本人の申し立てによりますと、不能に陥っていて、夜もよく眠れないそうなんです。ガールフレンドと初めてのとき、失敗してしまって、それ以来立たなくなってしまったらしく、私が、初めてのときは緊張して失敗することがよくあるからと慰めると、どこでどう間違ったのか私に個人教授をして欲しいと言うのです。つまり私に男としての機能を回復させて欲しいというわけです。私は返答に詰まって、つい心当たりがあるから聞いてみるわと言ってしまったのです。  もうおわかりと思いますが、青木さんに、個人教授をしてくださる方の心当たりがないか、心当たりがあれば、ぜひ紹介していただきたいのです。このままだと、勉強が手につかなくて受験に失敗してしまうかもしれず、彼を助けるのも主婦代行業の仕事のひとつかもしれないという気がして、こうしてお願いしているわけです。頼めるのは青木さんしかおりませんので、どうかよろしくお願いします」  私は何度も読み返し、ひょっとしたら青木は怒るかもしれないと思ったが、むしろ笑ってほいほいと引受けてくれそうな気がした。  日曜日にも青木から何か言ってくるのではないかと思ったが、電話はかかってこず、翌日青木の部屋に行くと、テーブルの上に便箋が並べて置かれており、一枚には青木の字が書かれていた。青木は私が持ってきた便箋の残りを使っていた。 「ご依頼の件、よくわかりました。心当たりを当たった結果、ギンコが適任ではないかと思います。あの子なら、男の気持も十分わかっていますし、若い男に人気がありますから。ただ、その予備校生がゲイということで尻込みするのなら、また他に心当たりを当たってみますが。ギンコでいいのか、一度予備校生に聞いてもらえますか」  私は手紙を読んで、まさかと思ったが、よく考えてみると、青木に頼んだらこうなるのは自然なように思われた。私はギンコの顔や体、話し方などを思い浮かべ、青木の言うように彼女がまさに適任のような気がしてきた。ただ、下山はギンコに会ったことがないから、ゲイと聞いただけで拒否反応を示すかもしれない。むしろ何も教えずに会わせたほうがいいかもしれないと思ったが、後から気づいたときに下山がどういう反応をするかわからないので、やはり話しておくべきだと考え直した。もっとも、その反応を見てみたいという気持は確かにあったが。  翌日下山の部屋に行ったとき、私はまた手紙を書いた。 「心当たりを当たったところ、ある人から個人教授をしてもいいという人を紹介してもらいました。若くて、非常にきれいな人です。ただし、彼女は女性であって、女性ではありません。つまり、手術で性転換をして女になり、ゲイバーに勤めている人なんです。驚きましたか。私も驚きました。しかし考えてみると、紹介した人も言ってましたが、個人教授にはぴったりではないかという気もします。どうでしょう。もちろん断ることもできます。どちらか返事して下さい。これは冗談ではありませんから。念のため」  その日の夜、下山から電話がかかってきた。食後の後片づけをしていたため、亜希子が受話器を取って「下山という人から」と教えてくれたのだが、私は一瞬どきりとした。下山からなじられるのではないかと受話器を取るのをためらった。 「もしもし、お電話替わりました」 「いやあ、田崎さんにあんな知合いがいたなんて、知らなかったなあ」  下山の明るい声が耳に飛込んできて、私はほっとした。 「仕事先の人に頼んだら、紹介してくれたのよ」 「でも、性転換したといっても、もともとは男なんでしょう。大丈夫かなあ」 「あなたが嫌ならいいのよ。断っても」 「……いや、別に嫌というわけではないんですよ。むしろ本物の女性でないほうが、リラックスできるかもしれないなんて思うんだけど。ただ、自分自身に自信がないんです。大丈夫かなというのは、そういう意味です」 「何もそんなに深刻に考えずに、会うだけ会ってみたら。それで断っても、気を悪くするような人じゃないと思いますけど」 「田崎さん、知ってるんですか」 「ええ、一度お店に行ったことがあるから」 「どんな人です」 「はっとするほどきれいな人で、どこから見ても女性よ」 「やさしいですか」 「私が会ったのは、商売用の彼女だから何とも言えないけど、いい感じだったのは確かね」 「そうですか」  下山はそう言って、黙り込んでしまった。私も黙って、彼が何か言うのを待った。 「わかりました。一度会ってみます」しばらくして下山が言った。 「それがいいと思うわ。どういうふうに会ってもらうか相談してみるから、話が決まったらまた電話するわ」  受話器を置くと、亜希子がテレビの音を大きくしながら、「誰から電話」と訊いてきた。 「お母さんが仕事に行ってるところからよ」 「予備校に行ってる人でしょ」 「そうよ」  私が後片づけの続きを始めようとしたら、「ママ、その人にお見合いでもさせるの?」と亜希子が訊いてきた。 「どうして」 「だって、女の人を会わせるんでしょう?」 「そうよ」 「だったら、お見合いじゃない」 「そうね。お見合いみたいなものね」 「その人、学生結婚をするの?」 「え?」 「相手の人を気に入ったら、結婚するんでしょう」 「それはどうかしら。お母さんにはわからないけど」 「じゃあ、同棲するのね」 「同棲って、どういうことかわかってるの」 「好きな人と一緒に住むことでしょう?」  話が変な方向に行って、私は返答に詰まった。 「……そうね。そういうことだわ。亜希ちゃん、どこでそんな言葉習ったの」 「バイオレット」 「何、それ」 「ま、ん、が」 「漫画にそんなことが出てくるの」話をそらせたと亜希子は思わなかっただろうかと意識しながら、私は驚いた声を上げた。 「当たり前よ。出ないとおもしろくないもん」と亜希子は自慢するように答えた。     14  翌日、私は市村の部屋を早く切り上げて、青木の部屋に行った。いないかもしれないと思いながらチャイムを押すと、Tシャツにショートパンツ姿の青木が現われた。 「おや、きょうはやけに早いですね」と青木が言った。 「相談したいことがありますから」 「例の予備校生のことですか」 「ええ」  青木が夏用のスリッパを出そうとしたので、それを断って裸足で上がった。 「何と言ってました、ギンコのこと」 「一度会ってみたいと」 「それは本当のことを言って?」 「ええ」 「ふーん、そいつは面白い」青木は一人で納得して、うなずいた。  居間は二面の窓が開け放たれていて、風がよく通っていた。ソファーの前のガラステーブルの上に、青いガラス鉢が乗っており、私はのぞき込んでみた。ソーメンだった。 「向こうは暑いから、ここで食べようと思って」と青木は照れながら弁解した。「よかったら、一緒にどうです。お昼はまだでしょう?」 「ええ、まだですけど」 「そりゃ助かった。作りすぎて困ってたんですよ」  青木がキッチンに向かおうとしたので、「私がやります」と押しとどめて、私はキッチンに行った。流しの洗い場には確かに、ざるにソーメンが山盛りになっていた。出汁は瓶に入ったインスタントで、私は冷蔵庫から葱と土生姜を出して、二人分の薬味を作った。  自分の分のソーメンと出汁と薬味を盆に乗せて持っていくと、ソファーに仰向けになっていた青木が起上がった。 「いやあ、悪いですね」 「主婦代行ですもの」私がそう言うと、青木は声を出さずに笑った。  柔らかいソファーの端に腰を降ろして、低いテーブルの上のソーメンを食べるというのは、何とも不安定なもので、私は食べながらおかしくなって、ふふっと笑ってしまった。 「何かおかしいですか」と青木が言った。 「何だか場違いなところで食べてるような気がして……」  青木は周囲を見回し、ソーメンに目をやると、「いや、確かに変ですね。畳かなんかの上で食べるほうが気分が出るでしょうね」と妙に納得した顔をした。その顔がおかしくて、私はまた笑ってしまった。 「まあ、しょうがないか」と言って、青木はソーメンを一口食べた。「ところで予備校生のことだけど、どういうふうにします」 「そのことを相談しようと思って……」 「何か希望を言ってましたか」 「いいえ」 「ギンコを一人で、彼の部屋まで行かせてもいいんだけど、いきなり二人だけというのもどうかと思いますしね。私が付いていってもいいけど、かえって警戒されるかな」 「私が付いていきます」 「そのほうがいいか」  青木は残りのソーメンを全部食べ終ると、「いいことを思いついた」と言った。「私がギンコを連れて、あなたが予備校生を連れて、どこかで食事をしてから、二人だけにするというのはどうです」 「お見合いみたいにですか」 「そうですよ。お互い父親役と母親役になって」  そのときの食事の光景を想像すると、何だかおかしかったが、一緒に食事をするということには私も賛成だった。 「そのほうがいいみたいですね」 「私はいいけど、あなたの母親役は不満でしょう」 「母親代行ですから、別に……」 「それも仕事ですか」  そう言って、青木は笑った。 「ところで」と私は気になっていたことを口にした。「授業料はどのくらいお支払いしたら……」 「授業料?」 「ええ、個人教授の……」 「ああ、そのことですか」と青木はうなずいた。「それにしても授業料とは、うまいこと言いますね。いや、まさに授業料ですね。うん、そう。それ以外に言いようがない」  青木はしきりに感心した。 「それで、どのくらい……」 「いや、いりません」 「ギンコさんがそれでいいと言ってるんですか」 「ギンコには、青少年を正しく導くボランティアだと言っておきます」青木が真面目な顔をして言うので、どこまで本気かと思っていると、次第に笑顔になっていき、最後には笑い出した。  レストランは縦長の雑居ビルの地下にあり、約束の時間よりも十五分ほど早かったが、二人で下に降りていった。  店内は煉瓦を壁面にした落着いた造りになっており、応対に出てきた黒服のウェイターに青木の名前を告げると、奥に案内してくれた。ひとつひとつのテーブルが柱によって枡席のように区切られており、隣の席が気にならないようになっていた。ほぼ満員で、食器の触れ合う音や話し声が店内に流れる音楽とうまく調和していた。  青木とギンコはまだ来ておらず、ウェイターは椅子を引いて私たちを坐らせると、予約と書かれたプレートを持っていった。 「なかなかいい雰囲気ね」と私は周りを見回して言った。 「でも、高そうですよ」と下山は小さな声で応えた。  しばらくして、青木とギンコがウェイターに連れられてやってきた。青木は細いストライプの入った白のスーツ姿で、ギンコはジョーゼットか何かの薄手のワンピース姿だった。薄緑の地にいくつもの蝶のプリントが散っている。化粧はごく自然な感じで、この前会ったときの印象とはだいぶ違っていて、私は驚いた。 「いやあ、お待たせして」と言いながら、青木は私の向かいに坐ろうとしたが、すぐに「ギンコがこっちのほうがいいな」と坐りかけていたギンコと席を入れ替わった。 「向かい合わせに坐ったら、それこそ本当の見合いになっちゃうからな」  青木がそう言うと、ギンコと下山が小さく笑った。 「別に改めて紹介することもないと思うけど、一応彼とは初対面だし、形だけでもやっておきますか」と青木が訊いたので、私はうなずいた。 「それじゃあ、まず私ですが、田崎さんにハウスキーパーをしてもらってる青木というものです。そして彼女がギンコで、私の店で働いてもらってます」 「青木さんのお店?」と下山が驚いた声を出した。 「そうですよ」  下山が私の方を見たので、「そういうことなのよ」と微笑んでみせた。 「ギンコです。よろしく」とギンコがテーブルの縁に指先をつけて、首を少し曲げる仕種を見せた。 「あ、下山です。こちらこそよろしく」 「それじゃあ、お近づきの印に」とギンコは右手を差し出した。下山もあわててテーブルの下から右手を出して、握手をした。 「細いなあ」と下山は握った手を見ながら言った。 「ありがと」ギンコはゆっくりと右手を抜いた。「あたし、身も心も女性ですから、ご心配なく。……なんて言うと、余計に心配しちゃうかもね」  ギンコが笑い、下山も笑いで肩を揺らした。  青木が葡萄酒を選び、食事が始まった。前菜にエスカルゴが出てきて、「気持ち悪い」と言いながらも、ギンコは道具をうまく使って、全部食べてしまった。下山はひとつ食べただけで、残った皿をギンコのと交換した。「あら、いいの」と言いながら、ギンコはそれも食べてしまった。 「身も心も女性ですなんて言った尻から、そんなに食べていいのか」と青木が揶揄した。 「あたしの場合、痩せの大食いなの」とギンコは澄ました顔をしている。  前菜の次はオクラの入ったコンソメで、それがすむと、舌平目と海老の皿が出てきた。ギンコはおいしい、おいしいと言いながら食べ、ときおり下山のほうを見た。下山も食べながらギンコに目をやり、目が合うとおかしそうに笑った。 「ねえ」とギンコが下山に声をかけた。「下の方のお名前は何とおっしゃるの」 「陽一です」 「それじゃあ、陽さんて呼んでもいいかしら」 「いいですよ」 「じゃあ、陽さん」とギンコが呼びかけた。 「何ですか」と下山が真面目な顔で答えた。ギンコはぷっと吹出した。 「ギンコ、それはないだろう」と青木が笑いを含んだ声でたしなめると、ごめんなさいとギンコは素直に謝った。 「それで、陽さんは来年どこの大学を目差してるの」 「入れるなら、どこでもいいんです」 「なんの学部かも決めてないの」 「文科系なら、どこでも」 「だめよ、それは」とギンコは握っているフォークを下山に向け、大袈裟に首を振ってみせた。「どこの大学の何学部かちゃんと目標を持ったほうがパワーが出るわよ。恋愛と一緒。特定の彼を持ったほうが、女ってきれいになろうと努力するんだから」  何か微妙にずれている気がしたが、説得力はあった。 「でももう二浪してるから」と下山が小さい声で答えた。 「二浪しているからこそ、パワーを一点に絞らなくちゃ」 「はい……」 「おい、おい、ギンコ」と青木が声をかけた。「役目が違うんじゃないの。そんなふうに言ったら、萎縮するんじゃないの」 「とんでもない。あたしは奮い立たせてるのよ」とギンコは立たせてのところを強調した。 「そうか。それならいい」  青木が神妙な顔でうなずいたので、私は吹出してしまった。 「おねえさん、変なところで笑わないで」とギンコがいたずらっぽい目をした。 「ごめんなさい」私は舌を出して、目を伏せた。 「それで、結論は?」と青木がギンコに訊く。 「結論はね」とギンコは言う。「男なら、やれ」 「何をするんですか」と下山が訊いた。 「何でもいいのよ。とにかく何かをするの。今夜はね、あたしとするの。何をするんですかなんて訊いたら、ぶっ飛ばすわよ」  下山が首をすくめるようにして笑った。 「どうも人選を誤ったかな」と青木が言った。 「誤ってない。あたしが適任」  そう言って、ギンコは残りの海老をフォークで突き刺して、口に入れた。  最後のコーヒーを飲み終って、私は支払い方法をどうやって切り出そうかと思っていたが、言出す前に青木はカードを見せて、さっさとサインをしてしまった。  お見合いの後のように、下山とギンコを二人だけでネオンの光る繁華街のほうに送り出した。ギンコはさっさと下山の腕を取って歩き始める。 「大丈夫かなあ」と青木が言った。 「私はうまくいくと思いますけど」 「だめだったら、また次の手を考えますか」  そう言うと青木は私を見て、「ね」と相槌を求めてきた。 「そうですね」と私が答えると、青木はおかしくてたまらないというふうに喉を震わせた。私も何だかひどくおかしくなって、青木の腕をつかみながら声を出して笑った。  翌日、私は亜希子にねだられてデパートに買物に行ったが、夕方帰ってきた途端、電話が鳴り、受話器を取上げた。 「もしもし、田崎ですが」  しかし相手は何も言わない。 「もしもし」と今度は強い声を出すと、「ああ、下山です」というゆっくりとした声が返ってきた。 「あら、どうしたの。何かあったの」 「きのうはどうもありがとうございました。おかげでやる気が出てきました」 「それじゃあ、うまくいったのね」言いながら、自分でもおかしな言い方だと思わず笑ってしまいそうになった。 「ええ。自信がつきました」  下山の声は晴れ晴れとしていた。 「その自信で、勉強にも力を入れることね」 「わかってます」  そのとき、受話器の向こうで女性の声がした。 「ちょっと替わりますから」と下山が言い、受話器が何かにぶつかる音がした。 「もしもし、お姉さん。あたしです。ギンコです」 「あら、ギンコさん、まだ一緒にいたの」 「そうでーす。一日中ずーっと一緒。陽ちゃんが立たないなんて、嘘ばっかり。夕べからガンガンガンよ」 「それはギンコさんがよかったからよ」 「お姉さんて、口がうまいわねえ。でも、うれしい。ありがと」 「一緒にいるのはいいけど、なるべく勉強の邪魔はしないようにしてね」 「わかってまーす」  受話器を置くと、ふうーと溜息が出た。本当によかったのかどうかわからない気がちらっとした。  夏休みになったら、下山の部屋の仕事も休みになるのかと思っていたら、そうではなかった。予備校にも夏休みはあったが、夏期集中講座などという別建ての講義があって、本当の休みは一週間ほどしかないらしかった。その休みにも下山は実家には帰らずに、山にこもって勉強しますという置手紙を残してマンションからいなくなってしまった。  下山の母親から、彼の行き先を尋ねる電話がかかってきたとき、私は置手紙のことを話すしかなかった。 「あの子、このごろ何だか様子がおかしいのですよ。前はよくこちらにも帰ってきたのに、近ごろはさっぱり顔を見せないし、私がたまに日曜なんかに行っても、マンションにはいないんですよ」  私はどきりとしたが、変わらない声で「今年は本当に必死なんじゃありません? 図書館にもよく行くと聞いてますけど」と答えた。 「それならいいんですけど、私、何だか心配で。あの子、誰かとお付合いしているということはございませんでしょうね」 「さあ、私は何も気づきませんけど」 「そうですか。それじゃあ、何かありましたら、連絡して下さいね。よろしくお願いします」  電話の後で、ひょっとしたら下山はギンコのところにいるかも知れないと思って、ギンコの自宅の電話番号を留守番電話の伝言の形で青木に訊いたら、ギンコは二、三日前から店を休んでいると置手紙で教えてくれた。早速ギンコの自宅に電話をしたが、呼出音が鳴るだけだった。下山はギンコとどこかへ出かけているなとそのとき思ったが、果してその通りだった。  何日かたって、もう帰っているころだろうと仕事に行ったら、テーブルの上に泡盛と名前の入った徳利が乗っており、おみやげですというメモが挟んであった。夜、土産のお礼の電話をかけたとき、問いただすと、下山はギンコと沖縄に行っていたと白状した。母親から電話があったことを伝えると、「やばい」と答えたが、むしろ楽しんでいるような感じだった。 「お母さんに知れても、私はもう面倒見ないわよ」 「そのときはそのとき。何とでもなりますよ」     15  二学期が始まって、亜希子の様子がちょっとおかしいことに気がついた。話しかけてもぼんやりしていたり、少女漫画の雑誌も放り出したままになっている。特に気になったのは、夕食の後すぐに自分の部屋に引きこもってしまうことだった。今までなら後片づけを手伝いながら何かと私に話しかけようとしたり、好きなテレビ番組があると、「宿題やったの?」ときいてもなかなかテーブルを離れようとしなかったのに。  私はしばらく知らん顔をしていたが、元に戻るような気配がなかったので、ある日夕食を取っているときに、「亜希ちゃん、このごろ元気ないみたいだけど、何かあったの」とさりげなく訊いてみた。 「ううん、別に」 「そう、それならいいけど」  それ以上追求する気はなかった。じっと待っていれば、そのうち何か言ってくるだろうと思ったのだ。私は娘を観察している素振りなどこれっぽっちも見せないで、今まで通り亜希子と接した。  九月も終りに近づいたある日、私が洗い終った食器を拭いていると、一旦自分の部屋に入った亜希子が出てきて、私のそばに立った。 「ねえ、ママ」と亜希子が言った。 「なあに」私は拭く手を止めて、娘を見た。亜希子は強く結んでいた唇を開くと、一つ息を吸ってから、「どうしてパパと別れたの」と訊いてきた。  ああそのことだったのという思いと、ついにきたという思いが胸の裡で交錯した。亜希子には、お父さんとお母さんが互いに嫌いになって別れたと言ってあったのだ。それ以上亜希子が訊かないのは、本当の原因をうすうす勘づいているからだと思っていたし、たぶんそれは正しかっただろう。  私は食器を拭くのをやめて、亜希子とテーブルを挟んで向かい合って坐った。 「お母さんはね、亜希ちゃんがもっと大きくなったら本当のことを話そうと思っていたんだけど、亜希ちゃんはもう十分大人よね」  亜希子は大きくうなずいた。 「だから、もって回った言い方はやめてズバリ言うけど、お父さんに好きな女の人ができたのよ」  そうかと、亜希子は口の中でつぶやいた。 「わかるでしょ」 「愛人ができたのね」 「そうね。愛人ね。お父さんはその人と暮らしたいって言ったから、別れたのよ」 「嫌だって言えばよかったのに」 「そのほうがよかった?」 「うーん」亜希子は唇を尖らせて考え込む仕種を見せてから、「わかんない」と答えた。 「お母さんもどっちがよかったのか、今でもわからないのよ。でもどちらかに決めなきゃいけないから、別れるほうを選んだの」 「ママもパパが嫌いになったの?」 「別に嫌いになったわけではないのよ。でもお父さんにお母さんより好きな人が現れたら、もうそのことを祝福する以外には手がないのよ」 「パパが好きだったら、取合いっこをすればよかったのに」 「そうね。その手もあったわね」 「でも、ママには無理ね。ママはそんな人じゃないもん」 「どういう意味」 「ママはね……勇気館の虹に出てくる白鳥アンナみたいな人だもん」 「なあに、それ」 「あたしの大好きな漫画の主人公よ。みんなから風の妖精って言われてて、誰とでもすぐに親しくなるけれども、さらっとしているの。だから周りの男の子がいらいらするんだけど」 「面白そうね」 「ママの若いときって、こんなふうじゃなかったのかなあって、ときどき思いながら読んでるの」 「さあ、どうかしら。昔のことは忘れちゃった」 「いやだあ、そんな年寄りみたいな言い方」  そう言って亜希子は笑い、私も一緒になって笑った。笑い終ると、亜希子が「今まで黙ってたんだけど」と言い始めた。「今度の土曜日、父親参観日なの。パパとママは離婚したけど、あたしにとってパパは父親なんだから、参観日に来たっておかしくはないんじゃないかなあって思ってたんだけど、でも、やっぱり変ね。先生がびっくりしちゃうもんね」 「お母さんが出ちゃだめ?」 「先生はなんにも言ってないけど、やっぱりだめなんじゃない。でも、いいのよ。来ないお父さんだって、いっぱいいるから」  去年はどうだったのだろうと思い返してみて、私はゆっくりと思い出した。前の日午前一時過ぎに帰ってきて、もっと寝かせてくれと言う「お父さん」を引張り起し、ネクタイから靴下まで選んで、急いで送り出したのだった。あれから一年ほどしかたっていなかったが、はるか昔のような気がした。 「父親参観日ね。そんなものがあるなんて、ころっと忘れていたわ。離婚するのを早まったかな」  私がそう言うと、「あ、そんなこと言っちゃって。ママ、ずるーい」と亜希子は口を尖らせた。  土曜日、私は仕事を早めにすませてアパートに帰り、昼食の用意をすっかり整えて、亜希子の帰りを待った。しかし亜希子はなかなか帰ってこなかった。いつもなら十二時半までには帰ってくるのに、一時半を過ぎても姿を見せなかった。青木の部屋に仕事に行かなければならないし、とりあえず先にすませてしまおうと一口食べたとき、ドアがそっと開き、亜希子が顔をのぞかせた。 「お帰りなさい。遅かったわね」 「ママ、まだいたの」  亜希子は後向きになって、ランドセルを床の上に置いた。 「そりゃ、いるわよ。お母さんが先に出たら、亜希ちゃん、お家から締出されちゃうでしょ」 「そうね」  亜希子はランドセルを自分の部屋に置いてくると、洗面所でのろのろと手を洗い、食卓についた。私は亜希子にご飯をよそいながら、「きょうはどうだった」と訊いてみた。 「別に」 「お父さん、大勢来てた?」 「半分くらいかな」 「そうなの。半分なの」 「ううん、もっと多かったみたい。三分の二くらいかな」 「ごめんね」 「どうして謝るの。あたし、ちっとも気にしてなんかいないんだもん」 「でも、何となく謝りたいの」 「そう」  先に食事をすませ出かけようとしたとき、「ねえ、ママ」と亜希子が声をかけてきた。 「なあに」  振返ると、亜希子は目をそらし、ちょっと言いにくそうに「ナプキンある?」と訊いた。 「紙ナプキンなら、そこの流しの引出しにあるけど、何に使うの」 「そのナプキンじゃなくて……もっと別の」 「え?」  私は一瞬考えたが、すぐに気がついた。 「亜希ちゃん、あなた始まったの?」  亜希子はゆっくりとうなずいた。私は履きかけていた靴を脱いで、亜希子のそばに行った。亜希子は箸を握ったまま、テーブルの上を見つめていた。私はテーブルの縁をつかんでしゃがみ込み、亜希子の顔をしたからのぞき込んだ。 「それで帰ってくるのが遅くなったの?」  亜希子はまたうなずいた。 「お腹痛くなかった?」 「ちょっとだけ」 「びっくりした?」  亜希子は首を振った。 「下着につかなかった?」 「つかない」 「そうか」私は立上がって、亜希子の肩を後ろからつかんだ。「亜希ちゃんもいよいよ大人の仲間入りね。よかった」 「あたし、大人なんかになりたくない」  亜希子はそう言うと、肩を揺すって私の手をはずし、椅子ごと私を押しのけるようにして、自分の部屋に行ってしまった。私はしばらくの間呆然としてしまった。  私は青木のマンションに電話をして、留守番電話に、娘の具合が悪いのできょうは休ませてもらいますという伝言を入れた。  どうしたものかしらと考えても、何も思いつかなかった。私は椅子に腰を降ろし、テーブルに肘をついて両掌に顎を乗せていたが、取りあえずという感じで自分の部屋に行き、鏡台の引出しからナプキンを取出した。そして亜希子の部屋の前に行くと、引戸の外から「お母さんのナプキンじゃ、少し大きいかも知れないわね」と声をかけた。  耳を澄ましたが、中から返事はなかった。 「亜希ちゃん、入ってもいい?」と訊いてみたが、やはり返事はない。放っておこうかとも思ったが、そうする自信もなく、また私自身不安でもあった。 「入るわよ」と言って、ゆっくりと戸を開けた。亜希子はベッドの上にいた。膝を曲げ、向こうむきに横たわっている。私は声をかけられず、黙ってベッドの足許のあたりに腰を降ろした。  かなり長い間そうやって私は亜希子が何か言うのを待っていたが、そのうち亜希子が寝息を立てているのに気がついた。私はそっと立上がり、体を伸ばして亜希子の顔をのぞき込んだ。口を半ば開けて、幼い寝顔を見せている。目尻のところに涙の跡があった。私は亜希子の体にタオルケットをかけてから、机の上にナプキンを置き、部屋を出た。  まだ仕事にいこうと思えばいける時間だったが、目を覚ましたとき私がいなければ心細がるだろうとやはり行かないことにし、私も自分の部屋で横になった。開け放した窓から見える青空を眺めていると、自分が初潮を迎えたときの微かな記憶が甦ってきた。あのときは確か小学校六年生で、私も最初に母に話したのだった。一人娘だったせいか、その晩、両親は赤飯を炊いて祝ってくれたのだが、私はちっともうれしくなくて、ぶすっとしていたことを覚えている。やっかいな荷物を押しつけられたような気持だったのだろう。それからいろいろなことがあり、そして今、私の娘も初潮を迎えている。ただし、祝うのは母親一人だが。  私もうとうとしてしまい、目を覚ましたときは、だいぶ日も傾いていた。いつもより早いが買物に出かけることにし、その前に亜希子の部屋の様子を外からうかがったが、亜希子はまだ目を覚ましていないようだった。  ちょっとしたご馳走を作るつもりで買物をし、赤飯も少しだけ買っておいた。薬局が目についたので、小さ目のナプキンも買った。  アパートに帰ると、亜希子はテレビを見ているところだった。 「何だ、ママ、お仕事じゃなかったの?」と亜希子はさっぱりとした寝起きの顔で言った。 「きょうはお休み。たまには手の込んだ晩ご飯でも作ろうと思って」 「あたしのことなら、心配しなくていいわよ」 「別に心配なんかしてないけど……でも、ちょっぴり心配」 「ママ、大丈夫だって」  亜希子は私に向かって、指でVサインをしてみせた。  亜希子はそれでもときおり沈んだ様子を見せて、私を心配させたが、私はできるだけ知らん顔をして、いつも通りの態度でいた。  青木の部屋の仕事を休んで何日かたったある日、私はマンションの玄関で青木にばったりと出会った。 「やあ、やあ」と青木はサングラスをはずしながら言った。 「きょうは車じゃないんですか」と私は訊いた。 「あれは今、車検に出しているから、きょうはタクシーなんですよ」 「そのほうが安全ですよね」  そう言って私が笑うと、青木は照れた顔を見せて、「こう見えても私は安全運転をしているつもりですけどねえ」と自信なさそうに答えた。 「それがこわいんです」 「まいった、まいった」と青木は笑った。「それはそうと予備校生の彼、元気にしてますか」 「元気にしているみたいですよ。土曜日にも会わないから、毎日予備校に行ってるんじゃないですか」 「それなら、結構」 「ギンコさんは何か言ってます」 「いや、別に何も聞いてないけど、うまくいってるんじゃないかな。仕事のノリもいいから」 「それなら、万事オッケーですね」 「まあ、そうでしょう」  青木は「また店のほうにも遊びにきて下さいよ」と言って、行きかけたが、「そうそう」と戻ってきた。 「娘さんの具合はどうですか。もうよくなりましたか」 「ああ、そうです。この前は勝手に休みまして申し訳ありませんでした」 「いやあ、そんなことはいいんですが、どうなんです、娘さんは」  私はちょっとためらってから、父親参観日と初潮のことを話した。 「そうだったんですか。これは、これは」  青木は困惑した表情を見せた。 「女の子は急に変わるから、むずかしいですわ」  私がそう言うと、青木は急に笑い出した。怪訝な顔をすると、青木は「いや、すいません」と片手を出して、笑いを押え込んだ。 「その話をジュンやギンコが聞いたら、泣いて喜ぶだろうと思ったら、急におかしくなりまして」 「え? どうしてですか」 「いやあ、あの子らはときどき自分たちの初潮の話を客にすることがあるんですよ。それに虫の好かない客が相手だと、あたし、きょうアンネなの、なんて言って、わざとぶすっとしたり。でも、みんな想像ですからね。本物の話を聞いたら、なんて言うか」 「そんなことを?」 「ね、おもしろいでしょう」青木はまた少し笑ってから、じゃあと片手を上げて、玄関を出ていった。  それから一週間ほどたって、青木の部屋に仕事に行ったとき、テーブルの上に書置きと「S海浜水族館」と印刷された入場券が置いてあった。 「その入場券はお客からもらったものです。娘さんやその友達を連れて一緒に行かれたらどうですか。いらなければ、誰か他の人にあげて下さい」  入場券は三枚あった。  その日、夕食のとき、「ねえ、今度の日曜日、水族館に行ってみようか」と亜希子に言ってみた。 「急になあに」と亜希子はテレビから目を離した。 「ほら、最近ラッコが入ったっていう水族館があるでしょ。そこへラッコを見にいくのはどう」 「そこへ行くの? 知ってる、知ってる。テレビで宣伝してたわ」 「誰かお友達を一人誘って行かない?」 「友達?」 「そう。券が三枚あるのよ」 「もう、買ってあるの?」 「人からもらったのよ」 「誰から」 「ちょっと知ってる人から」 「ああ、ママ、怪しい。ねえ、ねえ、誰なの。男の人?」  亜希子は私の腕を取って、揺さぶった。 「そう、男の人」私がそう言うと、亜希子の表情が急に硬くなった。私はあわてて「実は仕事先の人からもらったのよ」と付け加えた。 「なあんだ」亜希子はほっとした顔をした。 「ねえ、誰かお友達いない?」 「そうねえ、誰にしようかな」亜希子は丸い瞳を動かして考えていたが、急に「いいこと思いついた」と甲高い声を上げた。 「どんないいこと思いついたの」 「ねえ、ママ、券をもらったの、男の人でしょ。その人、前言ってたホモの人?」 「そうよ」 「いくつぐらいの人?」 「五十ぐらいかな。でも、どうしてそんなことを訊くの」 「ねえ、その人と一緒に行ったらいけない? 券をもらった人と一緒に行っても、ちっともおかしくないでしょ」  私はすぐには言葉が出てこなかった。 「亜希ちゃん、あなた何考えてるの。その人がホモじゃなかったら、そんなこと言出さなかったでしょ」 「そんなこと、ないわ。あたし、ママがどんな男の人のところで働いているか、興味があるもん」 「別にお母さんはその人と一緒に仕事をしているわけではないのよ」 「そんなこと、わかってるわ。でも、たまには会うんでしょ」 「たまにはね」 「それに、その人、ママを雇うぐらいだから、一人なんでしょ。だったら、日曜日なんか、一緒に行きましょって誘ったら喜ぶんじゃないかなあ。ママの給料を上げてくれたりなんかして」  亜希子は小さく舌先を出した。 「うまいこと言うわねえ」 「ねえ、いいでしょう?」 「わかったわ。一度、訊いてみるわね」 「今訊いて」 「今は留守で、だめよ」 「留守番電話じゃないの?」 「どうしてそんなこと知ってるの」 「だって、ママ、いつもやってるもん」  私はバッグから手帳を持ってきて、電話番号のページを開き、受話器を取上げた。ダイヤルを回している途中で、亜希子がそばに来て、「あたしが訊いたらだめ?」とささやいた。 「いいわよ」  私は、ピーというメッセージを促す音が聞えると同時に、受話器を亜希子に手渡した。亜希子は受話器を耳に当て、「言ってもいいの?」と訊いた。私がうなずくと、亜希子は一呼吸置いてから、「おじさん、水族館の券、ありがとうございました。今度の日曜日、ママと一緒に行くつもりですが、おじさんも一緒に行きませんか。返事ください」  そこで受話器を置こうとしたので、「名前、名前」と私はあわてて言った。亜希子はふたたび受話器を耳に当てて、「あたし、田崎亜希子です。ママは田崎冴子です」と早口で言って、切った。  次の日、青木の部屋に行くと、まだ青木がいた。出かけるばかりの服装をして、ソファーのところで新聞を読んでいる。 「きょうはゆっくりなんですね」と私が言うと、青木は広げていた新聞を畳んで、にやっと笑った。 「留守番電話の伝言、聞きましたよ」 「ああ、あれですか」私は何となく恥ずかしくて、小さな声で答えた。 「あれは田崎さんのアイデアですか」 「いいえ、すべて娘が言出したことで。最初は友達、誰にしようかななんて言ってたんですが、急に、券をもらったおじさんと一緒に行ったらだめ? なんて言出して。たぶん、私が働いているところの男の人に興味があるんですわ」 「そうでしょうね。……娘さん、いくつでした」 「十一です」 「それなら、もう何でも知っているんじゃないですか」 「私もびっくりするくらい」 「こわいなあ」  青木は小さく畳んだ新聞で額を叩きながら、声を出さずに笑った。 「水族館なんて退屈でしょうから、無理に付合っていただかなくても……。どうぞ気になさらないで」 「いや、面白そうだから、行きますよ。確かラッコが入ったって聞きましたからね」 「ラッコに興味があるんですか」 「いや、ラッコに限らず、海の動物が好きなんですよ。ゆったりと波間に漂いながら、好きなときに餌を取って食べる生活なんか、優雅じゃないですか」 「でも、生存競争が大変じゃないですか」 「おや、田崎さんはリアリストですねえ」青木はまじまじと私の顔を見た。 「それはたぶん私が母親だからじゃないですか」 「え?」  青木は一瞬怪訝な顔をし、それから大きな声で笑い出した。「なるほど、なるほど」と言っては笑い、「こりゃいい」と唸っては、また笑った。  青木は、日曜日の十一時に車で迎えに行くから、私のアパートまでの地図を書いておいてくれるように言い残して、出ていった。仕事がすんだ後で、私は何枚もメモ用紙を無駄にして、ようやく地図を書き上げた。  その晩、青木が一緒に行くことを承知したと亜希子に告げると、「あたしが電話してよかったでしょ」と亜希子は得意そうな顔をした。     16  日曜日の朝、放っておけば昼近くまで寝ているのに、亜希子は九時前には起き出してきた。「もっと寝ててもいいのよ」と私が言っても、「起きる」と歯を磨き始めた。  二人きりになってから、デパート以外にどこかへ出かけたことはなかったし、ましてや他の誰かと一緒というのは、初めてのことだった。亜希子が興奮するのは無理もなかったし、私も落着かなかった。    十時半には出かける用意が整い、私と亜希子はテーブルの椅子に腰を降ろして、ぼんやりとテレビを見ていた。亜希子が時計を見て、「あたし、外で待ってようか」と言ったが、「亜希ちゃん、その人の顔、知らないでしょ」と答えると、「あ、そうか」と舌を出した。 「亜希ちゃん、いいこと。その人にあまり変なこと訊いちゃだめよ。お母さんが恥をかくんだから」 「変なことって、なあに」亜希子は澄ました顔をした。 「だから、子供らしくないことよ」 「ママの言いたいことは、わかってる。心配しないで、うまくやるから」  十一時ちょっと過ぎに、ドアを叩く音がした。亜希子が「来た、来た」とうれしそうな表情をした。  ドアを開けると、青木がメモ用紙を手に立っていた。白いセーターのVネックのところにサングラスをかけている。 「結構、正確ですね、この地図」と私の顔を見るなり、感心した声を出した。  私は挨拶をしてから、亜希子を呼んだ。亜希子は私のそばに来ると、「こんにちわ」と頭を下げた。 「こんにちわ」と青木もゆっくりと答えてから、ちょっと腰を屈め、「小学校五年生だって。お母さんに似て美人だね。ボーイフレンド、いっぱいいるんじゃないの」  亜希子ははにかみながら、「おじさん、口がうまーい」と応えた。 「おじさんはそれが商売だからね」青木は笑い、「それじゃあ、早速行きましょうか」と私に声をかけた。  青木がドアを離れようとしたので、私はあわてて「亜希ちゃん、お礼は?」と娘を促した。 「おじさん、今回はいろいろとありがとうございました」  亜希子が礼を言うと、青木は「いや、まいった、まいった」と後頭部を手で押えて、ドアを離れた。 「面白いおじさんね」と亜希子がささやいたので、私はシッと唇に人差指を当てた。  青木の車はアパートの前まで入って来れず、少し離れた広い道に止めてあった。ちょっと遅れて車のところに行き、青木がドアを開けているのを見て、「かっこいい」と亜希子がはしゃいだ声を出した。 「これ、本当におじさんの車?」亜希子は運転席に乗込んだ青木に窓から声をかけた。 「そうだよ」 「どこの車」 「アメリカ」 「ふーん、高いんでしょ?」 「でも、おんぼろだからね」  亜希子は車体に目をやり、「そう言えば、傷がいっぱいついてるし、だいぶ汚いわ」と言った。 「亜希ちゃん、車のことはもういいから、さっさと乗りなさい」私がきつい声を出すと、亜希子は小さく舌をのぞかせた。  私たちが乗込むと、「ここへ来るまでに洗おうと思ってたんですが、ついつい時間がなくて」とサングラスをかけた青木が振向いて言い訳をした。 「そんなこと、構いませんわ。車なんて、走ればいいんですから」 「そういうふうに言われたら、なんだか本当にボロ車のような気になってきました」 「そうよ、ママ。その言い方は変よ」 「そうかしら」  言いながら自分でもおかしくなって笑ってしまい、亜希子も青木もつられて笑った。  道路はわりと空いていたが、青木は車を都市高速道路に乗入れた。私は嫌な予感がしたが、青木はそれほどスピードを出さなかった。だから小さい乗用車にも抜かれていく。 「おじさん、この車、もっとスピードが出ないの?」亜希子が前の座席に両腕を乗せて、青木に話しかける。 「そりゃ出るけど、きょうは安全運転。でないと、お母さんに叱られるからね」 「何だ、つまんないの。外国の車って、ばんばん走ってるんじゃないの?」 「亜希ちゃん、余計なこと言わないの」 「ははん、亜希ちゃんはスピード狂か」 「速いほうが面白いもん」 「そうか。それならちょっとだけこの車がボロ車でないところを見せようかな」 「青木さん、娘の言うことなんか気になさらないで」 「ちょっとだけですから、ご心配なく」  そのとき、白いクーペが右側を追い抜いていった。 「それじゃあ、あいつを今度は追越しますからね」  青木がそう言ったかと思うと、強烈なエンジン音と共に座席に体が押しつけられた。同時に左に傾き、車は追越し車線に入った。今までの倍ほどの速度で、中央分離帯の柵が流れていく。 「わあ、はやい」亜希子は窓ガラスに顔を押しつけるようにして、感嘆の声を上げた。私も窓の外に目をやっていたが、両脚に自然と力が入っていることに気づいて、足の位置を変えた。  三角形の屋根を持った水族館は思っていたよりも大きくて、観光バスのための駐車場まで用意されていた。ラッコの人気か、切符を買う人の列ができていた。海が近くにあるせいか、潮のにおいがする。  入口から薄暗い館内に入ると、そこは天井の高いホールになっており、ひやっとした空気に包まれた。真正面の奥に映画のスクリーンを思わせる巨大なガラスの壁があり、大小の魚が泳いでいるのが、遠目に見えた。 「わあ、すごい」亜希子が言い、「ママ、早く」と私の手を引張った。後ろを振返ると、青木はカウンターのところで何かパンフレットをもらっていた。  水槽の前には大勢の人間が群がっているため、なかなかガラスのところには近づけない。ここでいいじゃないと言っても、亜希子は承知しない。前の人間の間に割り込んでいき、ようやく手摺のある一番前までたどりついた。  水槽の中は海底を模して作られており、かなりの奥行きがあった。それにどこかで波を起こしているらしく、上のほうの水が揺れていた。中には、ゆったりと泳ぐ銀色の大きな魚から、群れをなしてすばやく方向転換をする小さな魚まで、様々な種類が勝手気ままに泳いでいた。それぞれ他の魚には全く無関心で、時折ぶつかりそうになるとすっと身をかわすのが面白かった。名前のわかるのはエイくらいで、そのほかは見当もつかなかった。 「こんなところにいたんですか」と青木が後ろから割り込んできた。手にはパンフレットを持っている。 「青木さんは魚にはお詳しいの?」と私は尋ねてみた。 「見るのは好きですが、詳しいというわけでは」と青木は答え、「それにしても、結構いるもんですねえ」と感心したように水槽の中に目をやった。  亜希子は私の代わりに青木に、魚の名前を尋ねた。青木はその都度、右や左に「すいませんね」と言いながら歩いていってはパネルを探し、イトマキエイとかツバメウオなどと亜希子に教えた。  何か食べようということで食堂に行ったが、満員だった。私たちは隣のハンバーガーショップでそれぞれ好みのハンバーガーとフライドポテトとコーラを買って、屋外の小さなテーブルの周りに腰を降ろした。子供たちの騒ぐ声やパイプ椅子にぶつかる音、スピーカーから流れる催し物の案内の声などが響きあっていた。 「あたし、こんなふうにハンバーガー食べるの初めて」と亜希子がはしゃいだ声を出した。 「そうだった?」 「そうよ。パパと一緒だったら、いっつもレストランだったもん」 「そうだったわね」  パパという言葉が出てきて、私は一瞬ひやっとしたが、知らん顔をしてゆっくりと答えた。青木はそんなやりとりをにこにこ笑いながら聞いていた。 「おじさん」と亜希子が呼びかけた。コーラを飲んでいた青木はうん? という顔をした。 「おじさんは一人で住んでるの?」 「そうだよ」 「どうして結婚しないの」 「亜希ちゃん、余計なこと訊くもんじゃありません」私はあわてて言った。 「いいですよ」と青木は笑みを崩さずに私を制した。「亜希ちゃんはママがどんな人のところで働いているか気になるんだよね」  亜希子はうなずいた。 「おじさんはね、別にずっと一人でいたわけじゃないんだよ」と青木は話し始めた。「ただ亜希ちゃんのパパとママのような結婚はしていなかったけど、好きな人と暮らしたことは何回かあったんだよ。それでたまたま今一人でいるということなんだな」 「好きな人って、男の人?」 「よくわかるねえ」  私ははらはらして聞いていたが、青木が別に嫌な顔もしないので、少しほっとした。 「どうして男の人が好きなの」 「これは難しい質問だなあ」青木は苦笑しながら、テーブルの上のフライドポテトをつまんで口に入れた。 「亜希ちゃん、もういいからハンバーガーを食べちゃいなさい」  私がそう言うと、亜希子は肩をすくめるような仕種を見せて、残りのハンバーガーを口に押し込んでコーラを飲んだ。周りのテーブルには私たちと同じような親子のカップルが、同じようにハンバーガーを食べていた。ほとんどは父親と思しき男の人が妻と子供を連れていた。あの人たちから見れば、私たちも親子三人連れに見えるのに違いないわと思うと、何だか急におかしくなってしまった。 「ママ、なぜ笑ってるの」と亜希子が訊いた。 「ううん、なんでもないわ」私はあわてて口許を引締めた。 「亜希ちゃんね」と青木がテーブルに身を乗出して、亜希子のほうに顔を向けた。「魚の中にはね、雄と雌が途中で入替わるものがいるんだよ。雄として生れてきたものがある時期から雌になり、雌がある時期から雄になるような魚がね」 「ほんと?」 「ほんとだよ。それに名前は忘れたけど、最初すべて雌として生れて、途中でそのうちのいくつかが雄になるような魚もいるんだよ」 「うそー」 「おじさんは嘘はつかない」 「さっきの水槽に中にいた?」 「いや、あんな大きな魚じゃなくて、もっと小さい魚だったと思うよ」 「おじさんが男の人が好きなのは、もとは女の人だったから?」 「お、亜希ちゃんは鋭いねえ。たぶんそれは当たってるんじゃないかな」 「女の人を好きになったことはあるの?」 「あるよ」 「一緒に暮らしたことは?」 「ちょっとだけならね」 「ふーん」  亜希子はストローでコーラの残りを音を立てて吸った。  昼食を終えた親子連れが考えることはみんな同じらしく、ラッコ館の前にはずらっと行列ができていた。私は見ただけでうんざりして、「見るのやめようか」と亜希子に言った。「どうしてえ」と亜希子は不服そうな表情をした。 「そうですよ。ここまで来てラッコを見なかったら、ラッコに申し訳ないですよ」  青木が大真面目で言うので、並ぶことにした。  ラッコは二匹いたが、両方ともテレビでよく見るように仰向けに泳ぎながら貝を割ったりせずに、プールの縁で眠っているだけだった。大きな濡れネズミという感じで、空も見えない狭いところに押し込められて、ふてくされているようにも見えた。それでも係員がそばに行ってプールの縁を叩くと、一匹がプールに入り、海の動物の片鱗を見せた。餌を与えるかと待っていたが、いつまでたっても泳ぐだけなので、外に出た。  水族館の中は、世界の淡水魚とかエビ、カニの仲間などとテーマ別に建物が別れており、青木の持っていたパンフレットに従いながら、見て歩いた。  本館の地下から一階に上がるのはスロープになっていて、その壁には地球の生命の歴史が、代表的な生物を年代的に絵にすることによって示されている。地下の照明の暗いところでは、海の中のプランクトンなどの微生物が描かれ、スロープを上がるにつれて変な形の巻き貝とかわらじのような動物になり、照明が当たり始めたところで魚に脚が生えて陸に上がった。青木は亜希子に「これはアンモナイト。こっちが三葉虫」などと教え、「これなあに」と亜希子に訊かれ答えられないと、「その他いろいろ」と応じた。 「その他いろいろばっかりね」と亜希子は笑った。  途中の踊り場を曲がると、急に絵が多くなって、恐竜の全盛時代になった。青木がまたいきいきと「これはステゴノドン。これはプロントザウルス。上にいるのが翼竜の一種で、ランフォリンクス」とやりだす。 「ほんとにこんな怪獣がいたの?」と亜希子が訊く。 「ずっと大昔には、こんなのがうろうろしてたんだよ」 「どうして今はいないの」 「それはね」と青木は壁画の一部を指さした。「このあたりで、恐竜が全部死んでしまったからなんだよ」  青木の指さした先には、一頭の恐竜も描かれていなかった。 「どうして死んでしまったの」 「さあ、どうしてなんだろうね。はっきりとしたことはよくわかってないんだよ」 「ふーん」  人類が登場するのは壁画も終り近くなったところで、残りは二十センチにも満たなかった。生命の歴史に押しつぶされるように、縦に細長く原始人の姿を描いたところで、壁画は終っていた。 「この絵は面白いですね。ほら、この人類は何か叫んでいますよ」  確かに原始人は口を大きく開けていた。 「人間の部分はたったこれだけ?」と亜希子が言った。 「これでもまだ大きく描いてあるんだよ。本当なら一センチ以下だろうね」 「それならこれだけね」と亜希子は壁画の端に人差指を当てて、目を近づけ、そこから壁画を見通そうとした。踊り場で折れ曲がった壁画は地下に下り、ここからはもう見えない。その壁画に沿って、親子連れが次々に上がってきた。  水族館の裏はすぐに海で、屋上からは湾曲に伸びる砂浜が一望できた。大勢の親子連れが砂浜に出ており、私たちも裏の出口から出てみた。葦簾が丸めてあったり、西瓜の皮が捨ててあったりして、まだ夏の名残を感じさせる浜辺で、陽射しも強かった。  亜希子は波打ち際まで行って、小さな波が寄せてくると、はしゃぎながら後退した。そのうち他の子供がやっているように靴を脱いで、海の中に入った。 「靴を濡らしたらだめよ」と声を投げかけると、亜希子はわかってるというように両手を振った。 「子供って、ほんとに海が好きですわ」と私は娘に目をやりながら、横の青木に話しかけた。 「私も海は好きですよ」 「そうですね。子供だけじゃなくて私たちだって海を見たらほっとしますものね」 「人が海を見てほっとするのは、遺伝子のせいだと言う人がいますね。さっきの壁画じゃないけど、海から生れた生命が連綿として、遺伝子の中に海をなつかしむ記憶を持ち続けているからだとね」 「ほんとですか」私は青木の顔を見た。 「真実のほどはわかりませんが、でも人間の血液の塩分の濃度は海の濃度と同じだというのは本当らしいですよ」 「人間の体の中に海があるんですね」  風がわずかにあって、沖合いでは細波に光が反射してきらきらと揺れていた。亜希子は横にいる男の子の立てる水しぶきがかかるので、蟹のように移動している。  私は潮のにおいを胸深く吸い込んで、ゆっくりと吐いた。 「女の人と暮らしておられたのは本当ですか」と私は訊いてみた。 「え?」 「お昼を食べてたときにおっしゃってたでしょう。私、聞いてびっくりしました」 「ああ、ずっと昔のことですよ。もう三十年近くになるかな。一年ほど暮らして、離婚したんですよ」 「結婚されたんですか」 「ええ。若気の至りでね」 「それからはずっと……」 「そうです。ずっと男一筋。まあ、結婚して自分が何者かわかったんですね」  亜希子が脛くらいまでの波をけりながら向こうに行こうとしたので、「遠くにいっちゃだめよ」と声をかけた。 「それでお子さんは? できなかったんですか」 「幸いにして、と言うべきでしょうね」 「離婚した奥さんとは、その後もお会いになりました?」 「いいえ、全然。向こうは私のことを男だとは思っていないから、会う気もなかったでしょう」 「余計なことを訊いてしまって、ごめんなさい」 「いや、いいですよ。何を訊かれたって平気ですから」  亜希子が、もう上がると言出したので、私はタオルで足を拭いてやって、靴を履かせた。  帰りの高速道路では、青木はもうスピードを出そうとはしなかった。亜希子も疲れて眠ってしまった。  アパートの近くまで送ってもらって車から出るとき、礼を言った後で、「あまりスピードを出さないようにして下さい」と私は言った。「勤め先を失いたくありませんから」  青木は口許に笑いを浮かべながら、「せいぜい気をつけましょう」と答えた。 17  十月に入ったある日のこと、市村梨江の部屋に仕事に行ったが、ドアチェーンに入るのを妨げられた。また、男に振られたのかなと思いながらチャイムを押すと、しばらくして「田崎さんね。今すぐ開けるわ」という市村の声がインターホンから聞えてきた。声の調子は悪くなかった。  ドアチェーンを外す音がし、ドアが内側に開いた。市村は今ベッドから起きてきたばかりというように、化粧っ気のない顔で、ピンクのナイトガウンを羽織っていた。ファンデーションもつけていないせいか、いやに青白い顔をしている。 「おはようございます」と言った後で、「どこか悪いんですか。顔色がよくないみたいですけど」と訊いてみた。 「へへへ、わかる?」と市村は頬に掌を当てた。 「そりゃ、わかりますよ。まさか二日酔いでは……」 「はずれ。実はつわりなの」 「つわりって、妊娠したんですか」私は思わず甲高い声を出してしまった。 「そうなのよ。きのう、あんまり気持が悪いもんだから、お医者さんにいったのよ。そしたら、いきなり妊娠ですねなんて言われて、私もうびっくりしちゃって」  しゃべりながら、市村はうれしそうな顔をした。 「そうですか」私はちょっと呆気に取られた。「それはおめでとうございます」 「そうなのよ。おめでたいことなのよ。今までの人生で、最大のヒットね。逆転さよならホームランをかっとばした感じ」  居間に入り、私が仕事を始めようとすると、「ねえ、ねえ、ちょっと坐って」と市村は私をテーブルの椅子に坐らせた。 「子供をつくるのはあなたのほうが先輩なんだから、いろいろ教えてほしいのよ」 「先輩だなんて。十年も前のことですから、ほとんど覚えてないですよ」 「何でもいいのよ」 「まあ、体を冷やしたり、重いものを持ったりしないで、流産に気をつけることくらいかしら。でも、こんなことお医者さんがおっしゃったでしょう」 「ええ」 「一番いいのは、あんまり気にせずに栄養をとって自然にしていることですよ」  市村はまだ朝食を取っていないと言ったので、仕事を始める前に、私は彼女のための朝食を作った。市村は食欲がないと言いながらも、全部食べたが、食べ終ると、気持が悪いと言出した。私は彼女を寝室に連れていき、ベッドに寝かせた。 「我慢できなかったら、吐いたらいいですよ。そのときは洗面器を持ってきますから」 「それほどでもないから、何とか我慢するわ。おなかの子供のためにも、栄養をつけなくちゃならないものね」  市村はそう言って微笑み、毛布の下で下腹を手でさするような動きを見せた。 「あなたのときは、つわりはどうだった」と市村が訊く。 「最初はひどかったけど、次第に軽くなったわ」 「そうね。これも生みの苦しみなのよね。どんなに苦しくても、私は耐えるわよ。耐えてみせます」  市村の大げさな言い方にもう少しで笑ってしまうところだったが、私が亜希子を身ごもったときは、それほどの決意もなく、ごく当たり前という感じだったので、彼女の態度に少しく心を動かされたのも事実だった。  午後からは青木の部屋の仕事だったが、市村が気になって私は「何か軽い食事でも作っておきましょうか」と訊いてみた。むこう向きに横になっていた市村は顔をこちらに向けると、「ありがと。でもまだおなかがいっぱいだから、いいわ」と答えた。 「それじゃあ、きょうはこれで」と行こうとすると、「ああ」と呼び止められた。 「何ですか」 「悪いけど、買物に行ってきて下さらない?」 「いいですよ」  私はメモ用紙とボールペンを持ってきて、市村の言う物を書いた。 「ほんとにあなたがいてくれて、助かるわ。赤ちゃんが生れるまで、いいえ、生れてからもずっとお願いするわね」 「私でよければ、いつでもどうぞ」  二日後、市村の部屋に行ったとき、彼女はいて、一週間仕事を休むつもりだと言った。前よりも顔色がよくなっていて、パジャマを脱いでスパッツとトレーナーを着ていた。「朝食は?」と訊くと、ちゃんと食べたという返事が返ってきた。  私が掃除をしていると、「早く切り上げて、一緒に昼ごはん食べない?」と市村が言ってきた。「一人で食べるのって、味気ないのよねえ」  私は仕事を急いですませて、昼食の材料を買いに外に出た。市村は何か出前でも取りましょうと言ったが、それではもったいないし、栄養的にも心配だからと私が料理をすることにしたのだ。  近くのスーパーマーケットで買物をしていると、後ろから肩を叩かれた。振返ると、青木が黄色いかごを持って、笑いかけていた。 「こんなところまで、買物に来るんですか」と青木が言った。 「いや、これはちょっと……」と私は口ごもり、まあ、いいわと市村が妊娠したことも含めて事情を話した。 「そうですか」と青木は大きくうなずいた。「それじゃあ、彼女、新しい恋人ができたんですね」 「どうも、そうらしいですね」 「それは、また、めでたい」  青木も昼食がまだだったので、私は一緒に食べませんかと誘ってみた。 「いいんですか。いやあ、女性の手料理を食べるのは二十何年振りですね」  私は昼食の材料、青木は自分の夜食の材料をそれぞれ買って、マンションに戻った。  青木は市村の部屋の前でポリエチレンの袋を下げて待ち、私が中に入った。市村は台所で湯を沸かしたり、ステンレス製のボールを引張り出したりしていた。スーパーマーケットで青木さんに会ってと、彼を誘ったことを話すと、市村は「あら、たいへん」と寝室に飛んでいった。 「また今度ということにしましょうか」と鏡台の前に坐っている市村に声をかけた。 「いいの、いいの。すぐに上がってもらって。二人よりも三人のほうがにぎやかで楽しいもの」  私は台所に入って、昼食作りに取りかかった。ボンゴレにシーチキンサラダとポタージュスープをつけることにした。居間では、青木が姓名判断の話をしている。市村が、男の子だったら、とか、女の子だったら、などと言いながら、名前を上げ、それに対して青木が画数が悪いとか、姓との相性がいいなどと答えていた。  用意ができたので、市村を呼んで一緒に居間の座卓まで運んでもらった。 「こりゃまた、はやくて、うまい」と言いながら、青木は胡座になって食べ、市村も「あっさりしてるわ」と全部平らげた。  食後のコーヒーをいれようとしたとき、市村は「いらないわ」と片手を振った。 「コーヒーくらい構わないんじゃない?」と私が言うと、「コーヒーとお酒はやめることにしたの」と市村はおなかに手を当てた。 「ああ、赤ちゃんのためにやめることにしたわけですか」  青木がそのとき初めて気がついた。 「そうなのよ。おなかの中の子供に悪いことは、すべて中止」 「いつまで」 「来年の七月二日まで」 「それは予定日?」と私は訊いた。 「そうよ。それまではじっと我慢の子。もう少したったら、胎教も始めなくっちゃ」 「胎教ねえ」青木が感心したような、少しあきれたような声を出した。 「それはそうと」と市村が私と青木を交互に見た。「誰も父親のことを訊かないのね。それは遠慮してるわけ?」 「別に遠慮しているわけじゃないけど……」と私は答えて、青木を見た。 「それじゃあ訊きますけど」と青木が上半身を乗出すようにして正座に坐り直した。「一体父親は誰ですか。どういう人ですか」  市村は微笑みながら小さくうなずいた。 「父親のことはね、……一切口にしないことにしたの」 「なんだ」 「秘密ってわけ?」と私は尋ねた。 「秘密というより、相手の男に妊娠したことを知られたくないからよ」 「でも、おなかが大きくなれば、いずれはばれるんじゃないの?」 「そのころには、私、仕事を休んでいるから大丈夫よ。それに相手の男もまさか自分が父親だなんて思いもよらないでしょうから」 「でも、生れたら相手の人に認知してもらうんでしょ?」 「とんでもない。この子は私ひとりの子なんだもの、それで十分。父親なんかいらないわ」 「子供が大きくなって、父親のことを訊いてきたらどうするの」 「あなたは神様から授かった子供ですって、教えておくのよ」 「まるで処女懐胎ですね」と青木がゆったりと笑った。 「そうよ、その通り。どうせ男なんて、これが自分の子供だなんていう確信は絶対に持てないんだから」 「そういうものかしら」私は青木を見た。 「私にはわかりませんよ。子供を持ったことがないから。それに妊娠する可能性のある相手とは全く無縁ですから、切実感もないですねえ」  青木がのんびりとした口調で言い、私と市村は顔を見合わせて笑った。 18  下山陽一がマンションに帰ってこなくなったのは、それから二週間ほどたったころだった。ずいぶんきれいにしているわと思ったが、洗濯機に汚れものはないし、二日前と部屋の様子が全く変わっていないので、もしやという気がし、それが二回、三回と続くと、下山が帰っていないことは明白になった。  どうしようかと思っているところへ、ある晩下山の母親から電話がかかってきた。 「陽一がどこにいるか、教えてくださいな」と母親はいきなり私に言った。 「陽一くんがどうかしましたか」と私は何気ない言い方を装った。 「あなた、陽一をどうしようというんです」急に声の調子が高くなった。「陽一を返してください」 「ちょっと待って下さい。一体何があったんですか」私は相手をなだめるようにゆっくりと言った。 「陽一がいなくなったんですよ。予備校から送ってきた成績表と出席表を見たら、あまりひどかったものだから、家に呼んできびしく言ったら、なんと言ったと思います。大学なんか行く気はないと、こうなんですよ。それでどうするつもりか訊いたら、お店を出したいんですって。それも水商売の。そのためにとりあえず二千万出してくれなんて言いますのよ。さすがにうちの人も怒って、大学に行く気がないのなら、さっさと戻ってこいと怒鳴ったら、ぱあーと飛出していってそれっきり。マンションのほうにいくら電話をしても出ないし、心配になって見にいったら、部屋には帰っている様子がないし。それであなたなら、息子がどこにいるかご存じではないかと、こうしてお電話を差し上げた次第なんですが」  声の調子が強くなったかと思うと、急に弱々しくなったり、涙声になった。私はよほどギンコのことを話そうかと思ったが、思いとどまった。 「そうなんですか。それは大変ですね」言いながら私はギンコのところに電話をしなければと考えていた。「でも、滅多に息子さんにお会いしないので、どういう友達がいるのか、ましてやどこにいるのか、私にはちょっとわかりませんが」 「やはり、わかりませんですか」母親の溜息が聞えてきた。 「申し訳ありませんが」 「どうしたらいいでしょうね。こうなったら興信所に頼んで捜してもらうしかないんでしょうか」 「いや、それはまだ早いんじゃないですか」私はあわてて言った。「陽一くんも一時的にかっとなっているだけで、気持が落着いたら、元に戻るんじゃないですか。それまで連絡を待ったほうがいいと思いますけど」 「そうであれば、うれしいんですけど」 「きっとそうですよ」 「あなたにお話しして、だいぶ気持が楽になりました。おっしゃるとおり、もう少し待つことにします。何かわかりましたら、きっと連絡してくださいね。お願いします」 「はい、承知しました」  受話器を置いて、私はほっと一息ついた。と同時に腹が立ってきて、ギンコのところに電話をした。ギンコは勤めに出ていても、下山はいるはずだと思ったからだ。しかし受話器からは呼出音が流れるだけだった。  翌日は下山の部屋に仕事に行く日だったが、どうせ行ってもすることがないのはわかっていたので、やめにして、昼前にギンコのところに電話をした。呼出音が何回も続いたので、まだ寝ているのかなと思ったが、その瞬間受話器の持ち上げられる音がした。 「もしもし」眠そうな、かすれた低い声が聞えてきた。一瞬ギンコか下山かわからなかった。 「もしもし、ギンコさん?」 「そうよ。あんた、だれ」 「私、田崎冴子です。陽一さんのマンションの掃除なんかをしている」 「ああ、田崎のお姉さん。なあに、こんな朝っぱらから」 「そちらに陽一さんはいる?」 「陽一さん? ええっとねえ……」そこで受話器の口が塞がれたのか、音が聞えなくなった。  少したって、「陽一さんはここにはいませんけど」というギンコの声が聞えてきた。 「そんなことないでしょう。そこに彼がいるのはちゃんとわかっているのよ。お願いだから、彼に出るように言って」  再び受話器の口が塞がれ、次に向こうの物音が聞えてきたときに、「もうばれてるみたいだから、出たら」というギンコが誰かに言っている声が伝わってきた。  受話器を持ち替える気配に続いて、「はい、替わりました」という下山の声が聞えてきた。 「やっぱりそこにいたのね」と私は言った。「どうして大学に行くのをやめることにしたの」 「おふくろから電話がありましたか」 「きのう、かかってきて、あなたの居場所を教えてほしいって言われたのよ。あんまりかわいそうだったから、ギンコさんのことを話そうかって思ったけど、話がややこしくなるといけないから黙ってたのよ。何でもいいから、とりあえず家に電話をしなさい」 「わかりました」 「それで話は戻るけど、どうして大学に行かないの」 「行かなきゃだめですか」 「別にだめじゃないけど、ギンコさんを紹介したのは、あなたが勉強が手につかないと言ったからなのよ。大学をやめるんじゃ、約束が違うわ」 「いいじゃないですか、そんな約束」 「大学やめて、水商売のお店をやりたいんですって。それはギンコさんのアイデアなの?」 「彼女に聞いたんだけど、水商売って結構もうかるんですよね。大学に行くより、そっちに行ったほうが面白そうだから」 「その資金を親に出させるというのは、虫がよすぎるとは思わない?」 「大学に行っても金がいるんだから、その分を回してもらうだけですよ。それに大学に行けば、金はパーになるけど、水商売は投資ですからね、損はしないと思うんだけど、その辺が親にはわからないんですよね」 「まあ、あなたが好きでやることなんだから、私は何も言うことがないけど、マンションのほうはどうなるの。あなたが使わなければ、無駄だから仕事をやめてもいいのよ」 「いや、続けてください。今のところはここにいますけど、親と話がついたら、また戻りますから」 「あなたがそう言うんなら、仕事を続けるけど、本当にご両親と話し合わなきゃだめよ」 「わかってますよ」  下山から十月分の振込があったので、十一月も仕事に通ったが、荷物でも取りに帰っているのか、ときおり流し台にコップなどがのっているだけで、洗濯物もなく、掃除もほとんどする必要がなかった。暇つぶしに通っているようなものだった。  そんなある晩、下山の母親から電話がかかってきた。声の調子から、どうも普通ではないなと思っていたら、いきなり「あの子をだめにしたのは、やっぱりあなただったのね」と金切り声で叫ばれてしまった。私は受話器を耳許から何センチか離した。 「息子さんから何か連絡がありましたか」 「何ですか、その白々しい言い方は。ええ、ええ、陽一は連絡どころか、直接家にやってきましたよ、いかがわしい女を連れてね。女と言えるかどうか私にはわかりませんがね」  ギンコを連れていったと聞いて、私は驚いた。感心したという気分もいくらかあった。 「それで、陽一くんは何と言ってました」 「あの子の言うことなんか、どうでもいいんです。どうせ、あの女にうまくそそのかされたに決まってます。そんなことより、あの女を陽一にくっつけたのは、あなたなんでしょ。どうしてくれるんです。陽一がおかしくなったのも、あなたのせいよ。それも普通の女ならまだしも、あんな、あんな、……」 「ゲイボーイじゃ、いけませんか」 「うちの息子はゲイボーイと同棲してますなんて、言えると思って。世間の物笑いですよ」 「でも、彼女は女らしくて、優しい人ですよ」 「ああ、いやだ、いやだ。息子もあなたも頭がどうかしてるわ。まともな人間のすることじゃありませんよ」  さすがに私はむっとなった。 「人間と人間の結びつきに、ゲイボーイであろうと、ホモであろうと、そんなのは何の関係もありません。そうじゃありませんか。相手を大事に思う心さえあれば、それは立派な人間関係です。人からとやかく言われる筋合いはありませんよ」 「そんなこと、世間じゃ通用しませんよ」 「通用しようがしまいが、そんなこと二人にとってはどうでもいいことですよ」 「まあ、とにかく、あの子には、女と別れるまで家の敷居を跨がないように言いましたから。それまではこっちから縁を切りますから。昔風に言ったら、勘当ですわね。マンションも引払いますから、お宅様の仕事ももう終りですわ。長い間ご苦労さま。それだけお伝えしておきます」  そこで電話が切れた。何かもっと言いたいことが胸の裡に溜っていたが、うまく言葉になりそうもなかった。私は受話器を握り締めたまま、しばらくの間言葉を探していた。  マンションを引払ったのは事実で、翌日行ってみると、表札は白いプラスチック板になり、錠前も替えてあるのか合鍵もきかなかった。  それから何日かたって、下山から電話がかかってきた。 「マンションの仕事をパーにしてしまって、申し訳ありませんでした。まさかおふくろが勝手に引払うとは、思ってもみなかったものですから。代わりの仕事が必要なら、ギンコに頼んでみますけど」 「私のほうは別に構わないわ。それより、あなたのほうはどうなの。仕送りはもうないんでしょ」 「ええ。兵糧攻めにするつもりらしいけど、へっちゃらですよ。どこかで働きますし、ギンコもむしろその方がよかったって言ってますし」 「私も応援するわ」 「頼りにしてます」そう言って、下山は笑った。 19  市村の妊娠は順調にいっているように見えたが、十二月に入って急におかしくなった。  下山の仕事をやめてから、一日置きに午前中はアパートにいるようになったが、その日も午後からの仕事に出かけようとしていたときだった。電話が鳴り、出ると、聞き覚えのない男の声が「田崎さんのお宅ですか」と言った。私は緊張したが、「そうです」と答えると、男は早口で、市村梨江さんの勤めている会社の者ですが、実は市村さんが入院されまして、どうしても田崎さんに来て欲しいと頼まれたんですが、と言った。 「入院って、どうかしたんですか」 「はっきりとはわからないんですが、どうも流産らしくて」 「そうですか。すぐに行きます」  私は病院の場所を聞くと、タクシーで駆けつけた。  総合病院らしく広いロビーがあり、私は受付で市村の病室を尋ね、階段を上がっていった。  二階の一番奥の部屋の入口に、「市村」という名札がかかっていた。ノックをすると、「はあい」という若い女性の声が聞えてきた。中に入ると、ベッドのそばにいた眼鏡をかけた女性が立上がって、軽くお辞儀をした。私は会釈を返しながら、ベッドに横になっている市村に目をやった。点滴を受けている。市村は青白い顔をして目を閉じていたが、そばに行くと、ゆっくりと目を開け、私を認めると、弱々しく笑ってみせた。 「どうしたの」と私は明るい声で言ってみた。 「だめよ」市村は首を振った。  私は眼鏡の女性に、「どうなんですか」と尋ねた。眼鏡の女性はちょっとためらってから、「流産しかかって、今は薬で抑えているんですが」と小さな声で答えた。  私は市村に頼まれて、彼女のマンションに着替えの下着とかパジャマ、洗面用具、それにいくつかの化粧品などを取りに行った。  眼鏡の女性は市村の会社の同僚で、彼女に代わって、私が市村のそばについた。心細いから夜も一緒にいてという市村の頼みで、病室に泊まることにした。晩ご飯を作りに帰ったとき、亜希子に事情を説明し、思いついて青木のところに電話をした。例によって留守番電話で、私はありのまま話して仕事を休んだことを伝え、ひょっとしたら二、三日休むかもしれないと付け加えた。  しかし私の看護は一日で終ってしまった。点滴のかいなく、次の日市村は流産してしまったから。市村は覚悟ができていたのか、それほど落胆の色を見せなかったが、口数が極端に少なくなってしまったのには、私も困ってしまった。慰めるきっかけさえつかめないのだった。  その日のうちに退院し、市村をマンションに送っていくと、私は長居せずにすぐにアパートに帰った。  石油ストーブをつけ、テレビを見るともなくぼんやりと眺めていると、亜希子が帰ってきた。鍵をカチャカチャさせているので、「開いてるわよ」と声をかけた。 「あれ、ママ、病院じゃなかったの」と入ってくるなり、亜希子が言った。 「もう行かなくてもいいのよ」 「生れたの?」 「だめだったの」 「ふーん、流産したの」大人びた口調で亜希子が言ったので、私は苦笑した。 「でも、また作ればいいんでしょ」 「それがね、そう簡単には作れないのよ。その人、もう四十を越えているし」 「四十過ぎたら、赤ちゃんは生めないの?」 「そんなことはないけど、難しいのは確かね」 「その人、子供はいるの?」 「ううん。今度が初めての妊娠だったのよ」 「そうか。それじゃあ、がっかりよね」 「本当にそうね。お母さんもがっかりしちゃったわ」  翌日は市村のマンションの仕事に当たっていたが、出かけるのは気が重かった。  仕事に出かけたかなと思いながらチャイムを鳴らすと、腫れぼったい目をして市村が姿を見せた。パジャマの上に厚手のガウンを羽織っただけで、前が開いている。 「お早ようございます」と元気よく言って、私は中に入った。  居間の座卓の上には、スパゲティの半分残った鉄皿が乗っており、ビール瓶とコップがあった。 「ごめんなさい。何か食べたほうがいいと思って、取ったんだけど、全部食べられなくて」市村が小さな声で申し訳なさそうに言った。アルコールはやめたほうがいいのではと言いそうになって、思いとどまった。 「今はどうです。おなかがすいてます?」と私は訊いた。 「ううん。でも、お昼は一緒に食べましょう、ね」 「ええ、私が作ります」 「うれしい。お願いね」  市村が寝室に戻ると、私はベランダのガラス戸を開け放った。十二月にしてはいくぶん暖かい日だったので、気持がよかった。  昼にはチャーハンと中華風サラダを作った。市村は、胡麻の香りが効いておいしいとサラダをお替わりした。 「そういえば」と市村がおかしそうに言った。「つわりで苦しんでたときも、こうして昼ご飯を作ってもらったわね。ほんの二カ月ほど前のことなのに、ずいぶん昔のような気がするわ」 「次の予定はないんですか」と私は話を変えた。 「予定って、妊娠のこと?」 「ええ」  市村は首を上下にゆっくりと振って、声にならない笑いを見せた。 「私ね、もう作らないことにしたの」と市村は言葉をひとつずつ区切るような言い方をした。「今度流産したのは、何だか神様が、おまえには子供を育てる資格がないと言ってるような気がしたのよ。それに、今までは子供が欲しくて仕方がなかったけれど、今度のことですっかりその気がなくなってしまったのよ。憑き物が落ちたみたいに。よく考えたら、私みたいな家事オンチの女に子供を育てられるわけないものねえ」 「そんなことはないと思いますけど」 「そりゃ、あなたはいいわよ。家のことを、何でもてきぱきと片付けてしまうんですもの。母親にぴったりよ。男にとって、子供のことでも何でも安心して任せておけるタイプね」  褒められているのか貶されているのかよくわからず、私は曖昧に笑った。 「でも夫には逃げられましたわ」と私は言った。 「逃げられたの?」市村は驚いた顔をした。 「愛人を作ってね」 「それは相手が悪いのよ。逃げられたっていうのとは違うんじゃない?」 「でも似たようなものでしょ」 「うーん」  市村は天井を見上げ、それからお茶を一口飲んだ。 「私が男だったら、絶対あなたのような人と結婚すると思うけど、世の中には安心タイプをきらう男もいるものねえ。きっとそういう男だったのね」 「さあ、どうでしょうか」と私は笑った。  昼食後、食器やフライパンなどを片付けて、部屋を出ようとしたとき、市村が玄関まで見送りにきた。そして、昼ご飯を作ってくれた礼を言ったあとで、「今度また青木さんのお店に行きましょうよ」と内緒ごとのように耳許でささやいた。私は、市村が元の体調を取り戻したら一緒に行くことにし、それまではアルコールを飲まないことを約束させた。  二人で青木の店に行ったのは、それから十日ほどたった土曜日のことだった。市村の顔色はすっかり元に戻り、体も太めになったようだった。  店には、ギンコもジュンもそれにトトというえらの張ったゲイボーイもいて、きゃあきゃあ言いながら私たちを迎えてくれた。  ギンコが、「その節はいろいろとご迷惑をおかけいたしまして」とテーブルに三指を付くような恰好をして、頭を下げた。 「陽一くんはどうしてる」と私は訊いた。 「喫茶店のウェイターのアルバイトをしてるわ。夜はスナックになる店で、バーテンダーの見習いもやってるみたい」 「じゃあ、実家とは本当に縁が切れたのね」 「何の連絡もないみたいだから、きっとそうでしょう」 「ずいぶん思い切ったものね」 「でも、陽ちゃん、働くのが楽しいみたいで、毎日生き生きとしてるわよ」 「そう。それならいいけど」  そのとき、「何をごちゃごちゃ言ってるの。何だかそこの二人、怪しい」と端にいたトトが口を挟んだ。 「お姉さんはね」とギンコが私の肩に手を置いた。「あたしと陽ちゃんの縁結びの神なのよ。いろいろとご報告しなければならないことがあるのよ」 「何を報告することがあるの。あんたの彼が、金持ちの御曹司から、ただの男に成り下がってしまったって言ってるの?」 「何と言われたって、あたしはちっとも気にしないわよ。愛があれば、それで十分。オール、ユー、ニーディズ、ラブ」 「何がオール、ユー、ニーディズ、ラブよ」とトトは呆れた顔をした。「金のない男はインポと同じって言ってたのは、どこの誰なの」 「人間は変わるものよ。特に女は相手の男によって、華麗に変身するのよ」 「だめだ、こりゃ」とトトは男の声で言って、額に手を当てた。 「いいじゃないの」とジュンが割って入った。「ギンコもこれで落着いたことだし、あんたも誰かいい人を見つけなさいよ」 「あたしはギンコやジュンみたいに美形でもないし、声もよくないし、何にも取柄がないものねえ」 「そんなことないって」市村がトトのむき出しの腕を握った。「あなたはグラマーだし、きれいな髪をしてるし、きっといい人が見つかるわよ」 「ありがと。そう言ってくれるのはお姉さんだけだわ。うれしい」  トトは市村の膝の上に泣き崩れる恰好をした。  九時過ぎに青木がやってきた。ラメが入っているのか光る生地のタキシードに、赤い蝶ネクタイをしている。私たちの席にやってくると、「体のほうはもういいんですか」と青木は市村に声をかけた。 「おかげさまで、もうすっかりよくなりました。憑き物がきれいに落ちちゃったから、この通りぴんぴんしてます」  市村は酔いが回ったのか、舌足らずな言い方をした。 「もうそれ以上飲んだらだめですよ」と青木が真面目な顔で言った。 「あら、お姉さん、病み上がり?」とトトが訊いた。 「そうよ。私は病み上がり」 「どこが悪かったの」  しかし市村は笑って答えない。青木も黙っている。トトが私のほうを見たので、「病気じゃなくて、流産だったのよ」と小さな声で答えた。 「そうだったの。羨ましいわあ」とトトは甲高い声を上げた。「あたしもいちどでいいから、流産がしてみたい」 「何を馬鹿なことを言ってんの」とジュンが言い、大笑いになった。  ギンコやトトが相手の男のことを尋ねても、市村は答えなかったが、男か女かどっちだったという質問には、男の子と答えた。その他に、つわりはどんな感じだったとか、子供の動きは感じたのかとか、流産するときの様子などを、ギンコたちは次々に訊いていった。私ははらはらしながら見守っていたが、市村は別にいやな顔も見せず、それらの質問に答えていった。  二回目のジュンのステージが終って、そろそろ帰ろうかと市村と言合っていると、簾みたいなの衣装をつけたままのジュンが戻ってきた。 「あら、もうお帰り?」とジュンは席を立った私たちに言った。「ええ」と答えると、「よかったら、あたしたちの忘年会兼新年会に出てみない? 面白いわよ」と言った。 「忘年会兼新年会?」と私は訊いた。 「そうよ。大晦日の晩から元旦にかけてやるから、兼なのよ」 「私、出る」と市村が即座に言った。 「お姉さんも来て、ね」 「私には、子供がいるから」 「いいじゃない? 一緒に連れてきたら。ねえ、いいでしょ?」ジュンはそばにやって来た青木に訊いた。 「田崎さんさえよければ、構わないですよ」  私は今まで大晦日をどう過ごそうかなどと考えたことがなかったので、迷ってしまった。結婚してからはずっと相手の実家で過ごすことが習慣になっていたし、去年の暮も離婚問題が持ち上がっていたにも関わらず、娘の手前同じようにしたのだった。今年は亜希子と二人きりなんだわと私は初めて気がついたような思いにとらわれた。 「娘が行くと言ったら、行きます」と私は返事をした。 「どうせ私のマンションでやりますから、当日ふらっと来てもらってもいいんですよ」と青木が言った。 「あたしたち、ひとりもんにとっては、大晦日から元旦にかけてが嫌なのよねえ」とジュンがトトのほうに顔を向けた。 「そうなのよ」とトトが大袈裟にうなずいた。「みんなが、やれ、ふるさとだ、なんだと言って、家族の絆を確認するために集まるでしょ。それが嫌なのよねえ。それにお店もみんな閉まっちゃうし」 「ギンコは二人だからよかったね」とジュンが冷やかした。 「そんなことありませんよお」とギンコは舌を出した。     20  青木の店から帰って、何日かたったある晩、テレビを見ながら食事をしていると、年末の番組の予告が流れた。 「今年の暮は、亜希ちゃんと二人きりね」と私は言ってみた。 「そうね」亜希子は気のない返事をする。 「さびしくない?」 「別に」 「あのね。青木さんが年越しのパーティをやろうって言ってるんだけど、亜希ちゃん、行かない?」 「青木さんて、あのサングラスをかけたおじさんのこと?」 「そうよ」 「三人だけで?」 「ううん。いろんな人を集めて開くのよ」 「どんな人」 「うーん、……とにかく面白い人たちがいっぱい来るのよ」  亜希子は箸を持ったまま、どうしようかなと呟いていたが、おかしそうに私の顔を見ると、「ママが行きたそうな顔をしてるから、ついていってあげる」と言った。 「それはそれは、どうもありがと」と私は答えた。  大晦日、アップルパイを作って亜希子に持たせ、青木のマンションに行った。 「青木のおじさんて、お金持ちなの?」エレベーターに乗込むと、亜希子が訊いてきた。 「たぶんそうでしょ」 「ふーん」そして少し間を置いてから、「ママ、あのおじさんと結婚したら?」と亜希子が言った。 「お金持ちだから?」 「そう」 「亜希ちゃんがそんな子だとは、お母さん知らなかったわ」 「うそよお。ママったら、すぐ本気にしちゃうんだから」  九階で降りて、青木の部屋まで行く間、亜希子は珍しそうに他の部屋のドアや天井を見回した。  チャイムを鳴らすと、出てきたのはジュンだった。彼女の背後からテンポのいい音楽が流れてき、何人かの笑い声が聞えてきた。 「あら、お姉さん、ようこそ」とジュンは笑顔を見せ、亜希子に目をやると、「娘さん? まあ、お姉さんに似てかわいいわねえ」と語尾を伸ばす言い方をした。ジュンは胸の大きく開いたドレスを着ている。  亜希子は驚いたのか私の陰に隠れようとする。 「亜希ちゃん、ご挨拶は」  亜希子はアップルパイの箱を傾けないように頭を下げると、「こんばんわ」と小さな声で答えた。 「これでギンコと彼氏が来たら、全員揃うんだけど」とジュンは言い、「さあ、どうぞ」と私たちを招き入れた。  三和土には赤や白のハイヒールが何足もあり、それらのいくつかを並べ直してから、靴を脱いだ。 「今の女の人、変な声ね」と亜希子がそっと私に言った。 「ああいうのをハスキーボイスっていうのよ」私は知らん顔をして答えた。  居間にはジュンやトトの他に四人の先客がおり、そのうちの一人は青木の店のゲイボーイだった。もう三人は化粧などから普通の若い女性で、どうも青木の店の常連らしかった。彼女たちはトトと一緒に、ソファーのテーブルでトランプをやっていた。笑い声は彼女たちだった。  私と亜希子が入っていくと、彼女たちは顔を上げて私たち二人を見、口許に笑いを浮かべると、ちょっと頭を下げた。トトが片手を上げ、私もそれに応えて手を上げた。 「ねえ、ママ」と亜希子が私の手を引張った。 「なあに」 「あれ、見て」  亜希子は、裸の男二人の後ろ姿の壁紙を指さした。 「なかなか恰好いいでしょ」と私が言うと、亜希子は不満そうな顔をした。 「ちょっとは恰好いいけど、何だか変な感じ」  亜希子は壁紙からソファーに坐っているトトたちに目をやり、それから私を見上げた。 「お姉さん、何か食べたかったら、キッチンにあるわよ」  とテレビの歌番組を見ていたジュンが教えてくれた。  キッチンに行こうとすると、市村が手に小皿を持って出てきた。 「あら、遅かったのね」と市村が言い、亜希子に目をやると、「あなたが亜希ちゃんね。私ね、あなたのお母さんにいつもお世話になってるおばさんよ。どうぞよろしくね」  亜希子ははにかみながら、ぴょこんとお辞儀をした。 「あなたのお母さん、有能な人よ。有能ってわかる?」 「ママは勇気館の白鳥アンナだもん」 「なあに、それ」 「漫画の主人公なんですよ」と私が答えた。 「そうか。亜希ちゃんは漫画が好きなんだ」 「うん」 「それじゃあ、これ上げちゃう」  市村は手に持っていた小皿を差し出した。焼立てのピザの一切れが乗っている。亜希子はアップルパイの箱を私に渡して、小皿を受取った。 「いいんですか」 「あっちにいくらでもあるのよ」と市村はキッチンを指さした。 「青木さんは?」と尋ねると、今度は黙ってキッチンの奥を人差指で示した。  ダイニングテーブルの上におせち料理がところ狭しと並んでいる。青木は流しの上でピザを切っていた。 「やあ、いらっしゃい」と青木は包丁を動かす手を止めて、私たちのほうを向いた。 「こんばんわ」と亜希子が明るい声で言った。ほっとした表情をしている。 「久しぶりだね、亜希ちゃん。どう、またおじさんと水族館へ行こうか」 「うん」 「これ、どうぞ。娘と二人で作ったんですが、お口に合うかどうか」と私はアップルパイの箱を差出した。 「お、これは、これは」と言って受取ると、青木はすぐに包装を解いた。「アップルパイですか。こんなの食べるのは何年ぶりかな。早速切って出しましょう」 「お手伝いしましょうか」 「いやあ、きょうは田崎さんはお客さんなんだから……しかし、手伝ってもらったほうが早いかな」  私は亜希子に居間のほうに行っておくように言ってから、引出しからエプロンを取出した。あと作るものは、オイルサーデンやサラミソーセージを使った酒の肴とサンドイッチだった。私が作っている間、青木は氷を出して、ウイスキーの水割の用意をした。  居間のほうが騒がしくなって、ギンコと陽一のやってきたことがわかった。青木は用意した水割のセットを持っていき、私もピザと酒の肴を盆に乗せて、居間に行った。  ギンコと陽一はみんなに冷やかされていた。両肩の露出したドレスを着たギンコは、そんなことないわよと言いながら、陽一の腕につかまるような恰好をする。陽一は照れ笑いを浮かべながら、ギンコの腰に手を回している。 「あ、お姉さん」とギンコが腕を抜いて私のところにやってきた。陽一も後から近づいてくる。 「今年はいろいろとお世話になりました。来年もよろしくお願いします」とギンコが柔らかく頭を下げた。 「こちらこそ」 「ご無沙汰してます」と陽一が言った。 「元気そうね。前よりも引締まって、だいぶ大人になった感じね」 「ええ、これでも世間の荒波にもまれてますから」  そのときジュンと一緒にテレビを見ていた亜希子がやってきて、私の手を引張った。 「娘さんですか」と陽一が尋ねた。 「ええ」  私は亜希子に、「ほら、前にこの人のところに仕事に行ってたでしょ。予備校生の……」と陽一のことを説明した。 「ああ、お見合いした人でしょ」と亜希子が言った。 「よく知ってるね」と陽一。 「相手はこの女の人?」  亜希子がギンコを指さすと、「そうよ。どうぞよろしく」とギンコが背を屈めて顔を近づけた。 「どうしてお見合いなんかしたの。恋愛すればいいのに」 「あら、言うわねえ」ギンコはそう言うと、口に手を当てて笑った。  亜希子がキッチンまで私を引張っていった。「何か欲しいの」と訊いても答えずに、居間のほうを窺う素振りを見せてから、「ねえ、ママ」と亜希子は小さい声で言った。 「あそこの女の人、何だか変よ」 「どの人」 「私と一緒にテレビを見てた人」 「どう変なの」 「私に話しかけるときは、高い声なのに、ときどき男みたいな低い声で、だめだなあとか、好みじゃないとかテレビを見て言ってるの」 「それが変なの?」 「ママはおかしいとは思わない?」 「別に思わないわよ。声の低い女の人だっているんだから」 「何だか男の人みたい。それにトランプをしている顔の大きな女の人だって、男の人みたいだもん」 「そう? でも構わないんじゃない、男の人でも」 「あれ、ママ、おかしい」 「どうしておかしいの」 「だって」亜希子は口を尖らせて、不服そうな顔をする。 「男になるのも、女になるのも、その人の自由になれたら素晴らしいとは思わない?」 「でも、そんなこと無理だもん」 「そうかしら」  そのとき青木が顔をのぞかせて、「年越そばが来たから、食べましょうか」と声をかけてきた。  そばを食べ終ると、誰かが「さあ、ショータイムよ」と言った。部屋の灯が消され、いつ用意したのかスポットライトがオーディオセットとその前の空間を照らし出した。  最初にライトの中に出てきたのは、ジュンだった。黒い衣装に着替えている。 「今年はバルバラのつもり」と手に持ったマイクを通して言ってから、ジュンは長い髪をかきあげる仕種を見せた。誰かが指笛を吹き、木の床を足で踏み鳴らした。ジュンはそれを手で制するようにしてから、カセットテープをデッキに入れ、スイッチを押した。ピアノの伴奏が流れ、突然ジュンは歌い始める。高く低く歌いながら、ジュンはゆっくりと動き、それをライトが追う。後ろを見ると、青木がライトを動かしていた。  フランス語で何曲か歌ってから、「原語がおわかりにならない方のために、サービスで日本語の歌をひとつ」と言ってジュンはテープを取り替える。そして再び歌い出す。  闇をさまよう者たちが、一つの火の周りに集まってきて、疲れた体を休め、朝が来ると、また散り散りになっていく。  そんな意味の歌で、最後に、われらが歌う時、目覚めの朝が来ると繰返して、ジュンは体を折り、その瞬間ライトが消えた。誰かがひどくゆっくりと手を叩き、私たちはやっと気づいたようにいっせいに拍手をした。  ライトがつくと、「来年は誰をやるの」とギンコの声がした。「来年のことを言えば、鬼が笑うわよ」とジュンが切り返して、みんなを笑わせた。  次に出てきたのは、みんなからミッチーと呼ばれているゲイボーイだった。ミッチーもテープを用意しており、それをかけると、マイクを両手で握ってポーズを取った。流れてきたのはアイドル歌手の曲で、ミッチーはその振り真似をするのだった。これは三人の若い女性に大受けで、亜希子もきゃあきゃあ言って喜んでいた。  ミッチーの芸が終らないうちに、陽一が「おれにもやらせて」と前に出てきた。そしてミッチーとテープを見ながら何やら話してから、そのテープをかけ、曲の頭出しを何回かやって、歌い始めた。ミッチーとは違って、声も歌手の真似だった。「うまいわよ」と若い女性の一人が言い、陽一が終ると、今度はその女性が歌真似をした。女の子たちは次々にマイクを持ち、しまいにはちょっとしたカラオケ大会になってしまった。  ショータイムが終ると、青木の提案でみんなで写真を撮ることになった。青木と下山と亜希子を除く全員が化粧直しや髪型を整えるのに時間がかかり、それがすむと今度はどういうふうに並ぶかで、背の高いあなたは後ろがいいとか、私は前で横になるわとかひとしきり騒ぎ、一枚撮り終ったのは、零時前だった。  テレビを見ながら零時になるのを待ち、なった瞬間青木と下山が用意しておいたシャンペンの栓を音を立てて飛ばした。そして急いで全員のグラスに注ぎ、「明けましておめでとうございます」と乾杯をした。亜希子も大人と同じ量を飲み干し、「ママ、これおいしいね」と言って青木からお代わりをもらった。  もうお開きかしらと思っていたら、ダンスタイムということで部屋が間接照明になり、ディスコミュージックががんがん鳴り出した。私と亜希子も一緒になって踊ったが、途中でさすがに疲れてきてソファーで休んでいると、亜希子が「眠たくなった」と目をこすりながらやってきた。 「それじゃあ、ここで横になりなさい」とソファーに寝かせていると、市村が来て「私の部屋で休んだら」と鍵を渡してくれた。  私は青木に挨拶をして、亜希子を連れて市村の部屋に行った。部屋の中は冷えきっていたので、急いでエアコンの暖房を入れ、こたつの中に亜希子を寝かせて毛布をかけてやった。一緒にこたつに脚を突込んでいると眠たくなってきて、私もいつのまにか寝てしまった。  誰かに肩を叩かれて目を覚ますと、市村がそばにいた。 「みんなで初日の出を拝みに行くんだけど、一緒に行かない?」 「初日の出? どこへ行くの」私はぼんやりとした頭のまま、上半身を起した。 「ここの屋上よ」 「もうそんな時間?」 「そうよ」  私はこたつの向こう側に目をやって、「亜希子」と呼びかけた。しかし亜希子は気持よさそうに寝入っている。 「亜希ちゃんは寝かせておいたほうがいいわ」  私はコンパクトを取出して化粧を直してから、そのままの恰好で外に出ようとしたが、市村に言われてコートを羽織った。  エレベーターで最上階まで行き、階段を上がった。鉄の扉があり、そこを開けると風が差込んできて、私はコートの前を手で合わせながら、屋上に出た。外は思ったほど寒くはなかった。青木やジュンたちが既にいて、私たちのほうを見ると、手招きをした。 「眠れましたか」私が近づくと、青木が声をかけてきた。 「こたつに入ってたら、いつのまにか眠ってしまって。青木さんたちはどうしたんですか」 「私らは夜には強いですからね。寝なくったって平気ですよ」 「そういえば女の子たちは見えませんね」 「部屋で寝てますよ」  東の空が白々と明けてきて、私たちは手すり越しに遠くの山並に目を向けた。都会とは思えないほど空気が澄んでおり、風の手すりを切る音だけが耳に聞えていた。頭上には雲が散らばっていたが、山の上空は晴れていた。  太陽の上端がわずかにのぞき、光が目を射った。私は二、三度まばたきをし、それでも目をそらさずに見ていた。  しばらくして下山が突然口笛を吹き始めた。出だしは何の曲かわからなかったが、そのうちアメリカの国歌であることに気がついた。どうしてと思ったが、聞いていると何となく合っているような気がしてきた。他のみんなもそう思っているのか、何も言わずに黙って聞いていた。  口笛は風のせいか強くなったり弱くなったりしながら、澄んだ空に吸い込まれていった。 20  その年の冬は雪が多かった。一月はむしろ暖かかったのだが、二月に入ると寒波がきて、大雪が降った。雪の凍りついた道路を自転車で走るのは危なくて、私はしばしば手で押しながら仕事をするマンションに向かった。  そんなある日、市村のところに行くと、玄関先に畳んだ段ボール箱が数枚立てかけてあり、引越しセンターのマークが入っていた。 「いいところに来てくれたわ」と奥から市村が出てきた。ジーンズにトレーナーという姿で、そんな彼女を見るのは初めてだった。 「これは?」と私は段ボール箱を指さした。 「そうなのよ。今度引越しすることにしたのよ。急に決って、もう大変なの」 「引越しですか」 「会社も変わるのよ」 「そうですか」 「ごめんなさいね。こんなことになっちゃって。でも私にとっては大変いいことなのよ」  私は中に上がり、エプロンをつけて市村の手伝いを始めた。引越しといっても、すべては業者任せで、ただ大事なものとか下着の類など人に任せたくないものを箱に詰込むことだけだった。詰込む品物にまつわる話を聞きながら作業をしても、一時間足らずで終ってしまい、私は次に部屋の掃除に取りかかろうとしたが、市村が、どうせ引越しのときに汚れるし、後は業者がきれいにしてくれるからと止めた。その代わり昼ごはんを作ってと言ったので、洗濯が終ってから、簡単な食事を作り、冷蔵庫の奥に残っていた缶ビールを開けて、乾杯した。「長い間ご苦労さま」と市村が言った。 「どちらへ引越しをされるんですか」と私が訊くと、市村はかなり離れた都会の名前を上げた。 「会社もそこにあるんですか」 「そうなのよ」  どうしてまた、と言いそうになって、私は口をつぐみ、ビールを少し飲んだ。 「理由を訊かないのね」 「訊いたほうがいいのなら、訊きますけど」 「あなたらしいわ」市村はそう言って笑い、「実はある男のためなのよ」と笑い声のまま言った。 「ああ、そういうことですか」 「勘違いしないでよ。前の男じゃないわよ。あんな男、とうの昔にボツ。今度の彼は本物よ。彼が会社を作って独立するって言うから、私も仲間に入れてもらったの。仲間というより共同経営者ね」 「それじゃあ、お金も出したんですか」 「そりゃそうよ。おかげで貯金はすっからかん。きれいなもんよ。……あ、あなた、私がだまされてると思ってるんでしょう? 色恋につられてお金を巻上げられたんじゃないかって」 「いえ、別にそんなこと。……でも、そうなんですか」 「そんなこと、あるわけがない、って言いたいところだけど、私にもよくわからないのよ。会社が動き出してしばらくすればわかると思うけど。でも、いいのよ、別にだまされていたって。今のところは、私、彼に夢中なんだし、共同経営なんていう新しい仕事にわくわくしてるんだから。どうせ、死ぬまでお金を貯込んだところで、誰に残すわけでもなし、たとえだまされたとしても、一時の夢を買ったと思えば大したことじゃないわ」 「いいんですか、本当に」 「いいの、いいの。どんなことがあったって、自分ひとりくらい何とかなるもの。それより、向こうへ行って困るのは、あなたのような人がいないことよ。あなたに来てもらったら、一番いいんだけど、無理よねえ」 「それは、ちょっと」 「いいわ。向こうで何とかあなたみたいな人を捜すわ。でないと、私の部屋、めちゃくちゃになっちゃうもの」  青木のところに行くために外に出たとき、「引越しのとき、お手伝いに来ましょうか」と私は言ってみた。 「ありがとう。でも、業者がみんなやってくれるから」 「それでは、これで」 「いつかまた青木さんの店に飲みに行きましょうね」 「そうですね」  私が行きかけると、市村が呼止めた。 「二月分も全額払い込んでおくけど、わざわざ精算なんかしなくていいわよ」  私は笑いながら、頭を下げた。  仕事が青木の部屋だけになってしまい、何とかしなければと思いながらも、私はぐずぐずとしていた。もう少し暖かくなれば、またミニコミ誌に広告でも出してと、暢気に考えていた。  三月に入っても寒い日が続き、今年の桜の開花はかなり遅れるだろうと予想されたころ、不意に春らしい天気になった。体も心も急に軽くなり、私は久し振りにすべての窓を開け放って、青木の部屋の掃除をした。  昔はやった歌を口ずさみながら風呂場の壁をこすっているとき、書斎から電話の音が聞えてきた。私は急いで手足を拭き、走っていった。 「もしもし」 「あ、奥さんですか」ぶっきらぼうな男の声だった。 「え?」 「青木さんのお宅ですね」 「ええ、そうですが」 「奥さんですね」 「いいえ、違いますけど」 「奥さん、いらっしゃいますか」 「失礼ですけど、どちらさまでしょうか」 「あ、私、※※警察署交通課の大森という者ですが、青木さんが交通事故で病院に運ばれまして、至急奥さんに来ていただきたいのですが」  男の声が一瞬遠くなった。 「もしもし、聞えますか」男の声が大きく響いた。 「はい、聞えます」 「奥さんと代わってもらえますか」 「青木さんはおひとりで、奥さんはおられません」 「独身ですか」 「ええ」 「えーと、それじゃあ、お宅は?」 「私は主婦代行をしている者です」 「しゅふだいこう?」 「パートタイムの家政婦です」 「ああ、お手伝いさんですか」 「ええ」 「そうですか。……それじゃあ、ご両親とか弟さんとか、どなたか身内の方はおられませんか」 「青木さんは一人でお住まいですから、身内と言われても」 「どなたかに連絡つきませんか」 「身内の方については、何も聞いていませんので、連絡がつくかどうか」 「とにかくどなたかに連絡をして下さい。青木さんが収容されました病院は……」と警官は病院名を言い、道順を教えてくれた。私はメモ用紙とボールペンを手許に置いてから、もう一度行き先を尋ねた。警官はメモを読むような調子で同じ言葉を繰返してから、「それじゃあ、くれぐれもよろしくお願いします」と言って、電話を切った。  私は受話器を置いてから、青木の容体を訊かなかったことに気づいた。警官が身内への連絡にこだわっているということは、事態が急を要しているのに違いなかった。  今まで書斎の机の中には手を触れたこともなかったが、この際仕方がなかった。上から順番に引出しを開けていき、住所録か何かないかと探したが、こまごまとした文房具や英語で書かれた書類のファイルなどがあるだけで、手紙の類もなかった。年賀状ならやりとりしていたかも知れないと机の中だけではなく、本棚も探してみたが、見当らなかった。  どうしようと思っているうちに時間が過ぎていくので、とりあえず病院に行くことにして、着替えの下着とかパジャマをバッグに詰込んだ。出かけるとき、ひょっとしたらギンコなら青木の身内について何か知っているのではないかと電話してみたが、誰も出なかった。  病院は家が建込んだ中にあったが、その割には大きい敷地を持った総合病院のようだった。ガラスドアの広い玄関は閉まっており、「御用の方はこちらへお廻り下さい」という看板の矢印に従って、横のほうに回った。「夜間受付」という札のかかっている小窓を叩くと、初老の警備員が出てきた。私が事情を説明すると、裏の救急病棟に行ってくれと言って、体を乗出すようにして道順を教えてくれた。私は礼を言ってそのほうに歩き始めたが、次第に早足になり、しまいには走り出してしまった。  ちょうど救急車が出ていくところで、私はそれを見ながら足を緩めた。ひっそりとした表とは対照的に、救急病棟には照明がつき、看護婦の足早に歩く姿がちらちらと見えたりした。私は開け放されたドアから中に入り、受付に行った。窓口には誰もおらず、少し離れた机で事務員が書き物をしていた。声をかけると、事務員はゆっくりと顔を上げ、ちょっと会釈してからこっちにやってきた。私は警官から電話をもらってやってきたことを説明した。  事務員は手許の書類に目を通し、「ああ、青木さんの身内の方でいらっしゃいますか」と言った。 「いえ、身内の人に連絡しようとしたんですが、できなくて私が……」  事務員が戸惑った表情を見せたので、「青木さんのところで家政婦をしております」と付け加えた。 「そうですか」事務員はうなずき、「署に連絡しますので、そこでしばらくお待ちください」と私の後ろを手で示した。  事務員が電話のところに行きかけたので、私はあわてて「それで青木さんの容体はいかがなんでしょう」と尋ねた。 「お聞きじゃないんですか」事務員は驚いたように言い、表情を繕ってから「お気の毒ですが、お亡くなりになりました」と答えた。 「そうですか」平凡な言葉が思わず口をついて出た。何かもっと訊きたいことがありそうなのに、うまく言葉が出てこない。私はバッグを胸に抱えて、長椅子に腰を降ろした。  足許のリノリウムの床を見詰めていると、自分がこんなところにこうして坐っていることが信じられないような気持になってきた。長い夢を見ているのではないかと思ったほどだった。  靴音が聞えてきて顔を上げると、白いヘルメットをかぶった警官がこちらにやって来るところだった。私は立上がって、頭を下げた。 「いやあ、お待たせしました」警官はちょっと敬礼の仕種を見せて、私の前に立った。 「先ほど電話しました大森ですが、身内の方に連絡がつかなかったんですって」 「申し訳ありません」 「そうですか。それは困りましたなあ。こちらとしては身内の方に遺体を引取ってもらいたいんですが」 「私ではいけませんでしょうか」 「うーん、それはちょっとね。親御さんか誰かに来てもらえれば一番いいんですがねえ」 「年賀状でも来てないかと探したんですが、何もなくて」 「仕方がないですね。それじゃあ、こちらのほうで探してみましょう。免許証に本籍地がありますから、何とかなるでしょう」  警官は念のためにと、私の名前と住所と電話番号を手帳に控えて、受付の中に入っていった。電話を借りるつもりらしかった。私は受話器を取上げた警官に向かって、「ちょっとすいません」と声をかけた。ダイヤルを回そうとした手を止めて、警官が私のほうに顔を向けた。 「どういう事故だったんでしょう」と私は訊いた。 「自損事故ですよ。橋の欄干に激突したんです。目撃者の話によりますと、猫か何かを避けようとしてハンドルを切損ねたようですね。スピードもかなり出ていたらしいです」 「そうですか」  私は頭を下げて、受付を離れた。  帰りは地下鉄に乗った。ラッシュが始まりかけていて、勤めから帰る乗客が徐々に増えていた。ここには日常があるわと思うと、青木のいなくなったことが信じられない気がした。  自転車を取りに青木のマンションに戻ったが、風呂場の掃除をやりかけていたことを思い出し、九階に上がった。錠を開けるとき、ふと青木が戻っているのではないかという気になり、私はゆっくりとドアを押した。耳を澄ましたが、何の物音もしない。私は大きく溜息をつき、靴を脱ぐと裸足のままずんずん入っていった。  風呂場は出かけたときと同じ状態で、私は急いでスポンジやら洗剤を片付けようとしたが、思い直して掃除の続きを始めた。風呂場が終ると、書斎に行って出しっぱなしになっていた引出しの中身を元に戻し、他に私の触ったところをちょっと整理したりして、一番始めの雑然さが出るようにした。まあまあこんな感じだったというところで私は満足して、部屋を出た。  アパートにはすでに亜希子が帰っていて、待ちくたびれたようにスナック菓子を食べながらテレビを見ていた。私が入っていくと、亜希子は菓子袋を隠そうとして、パリパリと音をさせた。私は「ただいま」と言って菓子袋にちらっと目をやっただけで、自分の部屋に行って服を着替えた。  台所に戻ると、「何かあったの」と亜希子が訊いてきた。 「どうして」 「だって、怒らないんだもん」 「ああ、そのこと」  亜希子は手に持っていた菓子袋をテーブルの上に出した。 「きょうはお仕事忙しかったの?」  どう答えるべきか私は迷ったが、すぐに「青木さんが交通事故で亡くなったから、病院まで行ってたの」と答えた。 「あのおじさん、死んじゃったの」亜希子がびっくりしたような声を出した。 「そうよ」 「ふーん」  私は椅子に腰を降ろし、テーブルの上に頬杖をついて、テレビのアニメ漫画に目をやった。 「もう一度水族館に行きたかったのに。一緒に行こうって言ってたよね、ママ」 「そうね」  買物に行く気もなくて、冷蔵庫にあるものだけで簡単な夕食を作ってすませた。  後片づけをすませた後、亜希子と二人でぼんやりとテレビを見ていたが、不意に青木の店に電話をしなければと思い立った。手帳を見ながらダイヤルを回すとき、指先が小さく震えた。 「はあい、こちらピンクパンサーよ。どなたかしら」ジュンの声のようだった。 「私、田崎と申しますが」 「田崎さん? ああ、お姉さんじゃないの。どうしたの、何の用。わかった、マスターでしょ。マスターね、まだなのよ。もうすぐ来ると思うけど、よかったら伝言しましょうか。それともこちらから電話をさせましょうか」  ジュンの声が途切れても、私はすぐに話すことができなかった。 「もしもし、お姉さん、聞えてる?」 「ジュンさん」 「何だ、聞えてるじゃないの」 「私の言うことを落着いて聞いてね。いいこと?」 「どうしたの、お姉さん、いやに改まって」  私は一つ呼吸をしてから、「実はね」と切出した。「青木さんが亡くなったのよ。きょうの午後、交通事故で」 「え?」男の声になった。 「猫を避けようとして、橋の欄干にぶつかったらしいの」 「お姉さん、冗談はやめてよ」女の声に戻ったが、不安定でふらふらしていた。 「冗談じゃないのよ。午後二時頃、青木さんの部屋の掃除をしていたら、警察から連絡があって、青木さんの身内に知らせてほしいって。私、いろいろ調べたんだけど、身内の人がわからなくて、とりあえず病院に駆けつけたんだけど……」 「やめて、やめてえ」ジュンの声が大きく響き、私は受話器を耳から離した。 「あたしはそんな話信じないわよ。絶対に信じないわよ。マスターはもうすぐここにやって来るのよ。ラメのタキシードを着て、やって来るんだからあ」  向こうの受話器が何かにぶつかる音がし、何も聞えなくなった。少したって「ジュン、どうしたの」という声が微かに聞えてきた。 「もしもし、あんた誰。ジュンに何を言ったの」ギンコの怒ったような声だった。 「私です」 「私って、誰なのよ」 「田崎冴子です」 「何だ、お姉さんなの。どうしたのよ、ジュンが泣いちゃってるじゃないの」 「青木さんが亡くなったのよ」 「……まさか」  私は先ほどジュンに話したのと同じことをしゃべった。 「わあ、どうしよう。ねえ、お姉さん、どうしたらいい」  私は答えることができなくて、黙って受話器を握り締めていた。 「ギンコ、代わって」ジュンの声がした。 「お姉さん」ジュンは喉の奥を圧迫されたような掠れた声を出した。 「なあに」 「マスターの死んでるとこ見たの?」 「ううん、見なかったわ」 「だったら、マスターが死んだかどうかわからないじゃない」 「それはそうだけど……」 「人違いってこともあるでしょ」 「……ええ」 「お姉さん、病院の名前、教えて。あたし、そこに行ってくる」  私はバッグからメモを捜し出して読み上げたが、途中で「お店、どうしよう」というギンコの声が聞えてきた。 「お店なんか閉めるのよお」ジュンが怒鳴り、荒い息が聞えてきた。 「そんなに怒鳴らないでよう」ギンコの泣き出しそうな声がした。  ジュンに病院の名前と道順を教えてから、受話器を置いたが、私ももう一度行ったほうがいいのではないかという気がしきりとした。青木の最後の顔を見るべきではなかったのかと思ったからだった。  その夜、私はなかなか寝つくことができなかった。眠りかけてはっと目を覚ますと、改めてきょう一日のことが頭の中を巡った。  翌朝、亜希子を学校に送り出して洗濯をしていると電話がかかってきた。知らない男の声だった。 「田崎冴子さんでいらっしゃいますか」柔らかな物言いだった。 「そうですが」 「私、青木哲雄の兄で、青木修一と申しますが、弟が今までたいへんお世話になったそうで……」 「ああ、お兄さんでいらっしゃいますか。この度は大変なことで、さぞ驚かれたことと思います」 「ええ、きのうの夜警察から電話をもらったときは何事かと思いました」 「何とか身内の方にご連絡しようといろいろと調べてみたんですが、手がかりが全然なくて。年賀状のやりとりもされていなかったようですね」 「そうですか。いやいや」そこで青木の兄は太い声で笑った。「弟はそういうことにはいたって無頓着でして、今までさぞご苦労をかけたでしょうな」 「そんなことはございません」 「弟のことをもう少し詳しくお聞きしたいので、ご足労ですが、こちらに来てもらえませんでしょうか」 「青木さんのマンションですか」 「ええ。遺体をマンションの集会室に安置しましたので」  私は急いで洗濯物を干すと、自転車でマンションまで行った。玄関前にはすでに葬儀社の車が止まっており、腕に黒い腕章を巻いた男たちが木の桟のようなものを運んでいた。私は男たちの後について、一階の集会室に行った。  祭壇はまだ作り始めたばかりで、緞子に覆われた棺がむき出しになっていた。私は小さく手を合わせてから、周りに目をやったが、青木の兄らしき人の姿は見当らなかった。葬儀社の人ばかりだわと思っていると、後ろのほうに動かない人影があった。二人の女性が折畳みの椅子に腰を降ろして、前屈みになっていた。二人ともスプリングコートを羽織っているが、膝の辺りからイブニングドレス風の裾が見え、一方は赤、もう一方は白のハイヒールを履いていた。ジュンとギンコだった。  私が近づいていくと、ギンコが顔を上げた。 「あ、お姉さん」ギンコの目は腫れ上がっていた。ジュンもゆっくりと顔を上げた。アイラインが流れて隈を作っており、目が赤かった。 「夕べはどうしたの」と私は訊いてみた。 「マスターと一晩一緒でした。病院の、霊安室とかいうところで」とギンコが答えた。 「青木さんのお兄さんがお見えになったでしょう?」 「そのおっさんが来たのは、今朝ですよ。葬儀屋の連中と一緒に来て、マスターをひょいひょいと運び出して。あたしたちのことなんか全く無視」 「無視? どうして」 「ゲイだってこと、わかってたみたい」 「ゲイだったら、どうして無視するの」 「自分たちには無関係だって、思ってるんでしょ」 「あんなおっさんのことなんか、どうでもいいでしょ」とジュンが怒鳴った。祭壇を作っている男たちが動きを止めてこちらを見るのがわかった。 「マスターは死んでしまった、それがすべてよ」そう言うと、ジュンは両手で顔を覆った。ギンコが背中をさすると、ジュンは肱で跳ねのけようとしたが、それでもギンコは掌を動かすのを止めなかった。  青木の兄はたぶん上の部屋にいるのだろうと行きかけると、「お姉さん」とギンコが呼止めた。「マスターの死顔は見ないほうがいいわよ。かなりひどいから」  九階の青木の部屋の前で、私はいつもの癖で鍵を取出そうとして、気がついてノブを回してみた。鍵はかかっていなかった。チャイムを鳴らそうかどうか迷ってから、私はボタンを押した。  出てきたのはよく太った初老の男だった。顎の辺りが青木に似ていた。 「田崎冴子と申します」私は頭を下げた。眉根を寄せた男の顔が急に緩み、「そうですか。あなたが田崎さんですか。これは、これは」とドアを大きく開け、スリッパまで揃えてくれた。「お手伝いと聞いていたんで、てっきりばあさんだとばかり……」  私は微笑みだけで応えて、部屋に上がった。居間はきのうと全く変わらなかったのに、どこかそらぞらしい感じがした。  青木の兄に勧められて私はソファーに腰を降ろした。ガラステーブルに缶ビールが乗っており、青木の兄はそれを取上げると、「どうです。飲みますか」と訊いてきた。私が断わると、「弔いには酒がつきもんですからな」と一口飲み、私の前に腰を降ろした。「どうも普通のソファーじゃないから、坐りにくくて」と青木の兄は体を前にやったり、斜めにしたりして、しまいにはごく浅く腰をかけるだけにした。 「いやあ、お宅はなかなか優秀なお手伝いですな。台所とか風呂場とか見せてもらいましたが、どこもきれいに片付いている。感心しました。ただ、書斎だけは雑然としているが、あれは?」 「書斎のものにはなるべく触れないようにという青木さんの要望でしたから」 「なるほど」  それから青木の兄は、私が月にいくらもらっていたとか、どういう伝手でここに来たかとか、料理はしていたのかとか、いろいろと訊いてきた。私はその都度ありのままを話した。ミニコミ誌の話をしたときは、青木の兄は面白がり、「今風ですな」と感心したような声を出した。  質問が一段落して青木の兄は缶ビールを飲み干したが、空缶をテーブルに置くなり、「立入ったことを訊くようだが」と急に真面目な顔になった。「お宅は本当にお手伝いだけをしていたんですかな。うちの弟との間に何かあったということは……」  私は一瞬質問の意味をつかみかねて、呆然となった。 「それはどういう意味でしょう」 「いやあ、別に深い意味はないんですがね。ただ、本人が死んでることだし、内縁の妻ですなんて出てこられるとこっちも困るんでね」 「そういうことでしたら、ご心配なく。私はただのお手伝いですから」 「それを聞いて安心しました」  そのとき玄関のほうで物音がした。「なかなかいい部屋じゃない」という甲高い女の声がする。  ほどなくひょろっとした中年男が入ってきて、私の顔を見ると、戸惑った表情を見せた。その後ろから眼鏡をかけた女が入ってきた。若作りをしているが、先の男と同年輩のようだった。女は私にちらっと目をやっただけで、すぐに居間を見回し始めた。 「わあ、広いじゃない。いいわ、こういうの」  女はスリッパをぺたぺた鳴らして歩き回り、「何よ、これ。いやあね」と男二人の裸の壁紙に顔をしかめたりしてから、ベランダのガラス戸を開けて、外に出た。車の騒音が微かに上ってくる。私が彼女のほうを見ていると、「あれが妹で、あっちにいるのが弟ですわ」と青木の兄が手で示した。上半身をひねって男に小さく頭を下げると、男は両手を体の横に揃えて、きちんと礼をした。 「ねえ、兄さん」と女が青木の兄のそばにやってきた。 「何だ」青木の兄は首を後ろに向けた。 「このマンションは賃貸、それとも分譲なの」 「そんなこと、わしが知るか」そう答えると青木の兄は私のほうに向き直って、「どうですか。お宅ならご存じでしょう」 「たぶん賃貸だと思いますけど」 「何だ、賃貸しなの。それじゃあ、大したことないわね」  女は部屋をちらっと見回し、「ところでこの人、どなた」と青木の兄に訊いた。 「この人はな、哲雄が雇っていたお手伝いさんだ」 「本当にお手伝いさん? 隠し妻じゃないの」 「わしもそうじゃないかと思って聞いてみたんだが、どうも違うらしい」 「そりゃそうよね。あの人は女嫌いだったものね」  そう言うと、女はおかしそうに笑った。私は居心地が悪くなってきて、「これから仕事がありますから」と腰を上げかけた。 「まあまあ、そうおっしゃらずに」と青木の兄が手で制したので、私は再び腰を降ろした。 「お宅にはもう少しお聞きしたいことがありますからな」 「どういうことでしょう」 「例えば哲雄の仕事のこととか、取引銀行のことなど」 「仕事はブティックとスナックを経営されていたということですけど、銀行のことまでは存じません」 「ああ、これですな」青木の兄はポケットから名刺を取り出した。「ピンクパンサーにモモ。かなりもうかっていたんでしょうな」 「仕事のことは一切知らないんです。申し訳ありませんが」 「本当ですか」 「嘘をついても始まらないでしょう」私はむっとなって、いささか強い調子になった。 「まあ、そんなふうにおっしゃらずに、落着いていきましょうや。哲雄の身寄りといえば、われわれ兄弟三人だけなんでね。哲雄の遺したものを守っていく責任がありますからな」  私は一刻も早くこの場から逃れたかった。思いついてバッグからキーホルダーを取出し、この部屋の合鍵だけを抜いた。 「私が青木さんから預かったのはこれだけです」と私は鍵をテーブルの上に置いた。 「これは?」 「この部屋の鍵です。これさえお返しすれば、私はもう用がありませんので」  そう言うと、私は立上がった。「いや、まだまだ」と青木の兄は制したが、それを無視して私は玄関のほうへ歩いていった。壁にもたれていた男が背中を離して会釈をしかけたので、私も頭を下げた。男は口許を歪めるような笑い方をした。  玄関で靴を履いているとき、「何よ、あの女」という妹の声が聞えてきた。「いい、いい」と兄の声が応じていた。  一階の集会室にはもうジュンとギンコの姿はなかった。私は忙しそうにしている葬儀社の人に、葬儀の日取りを聞いてからアパートに帰った。  葬式は翌日の一時からだった。ちょうど土曜日で、学校から帰ってきた亜希子に昼ごはんを食べさせてから、黒いワンピースに着替えた。 「どこへ行くの」と亜希子が訊いてきた。 「青木さんのお葬式よ」 「あたしも一緒に行ったらだめ?」 「退屈なだけよ」 「あたしもお別れが言いたいもん」  黒い服がなかったので、紺色のスカートに同系色のブレザーを着せ、黒いリボンで髪を縛ってやった。  自転車の荷台に亜希子を乗せ、マンションに行ったが、玄関には花輪が四つほど並んでいるだけだった。集会室の前の受付で香典を渡し、中に入ると後ろのほうに黒い服を着たジュンやギンコやトトの姿が見えた。その周りには二十人ほどの人間がいて、ぼんやりと前の祭壇に目をやっていた。きのう会った兄弟たちは前のほうの椅子を円形に並べ変え、他の身内ら数人と声高にしゃべっていた。  私は青木の兄と目が合ったら挨拶しようと思っていたが、話に夢中のようだったので亜希子を連れて後ろに行った。 「亜希ちゃん、来てくれたのね」とジュンが亜希子の頭を撫でた。亜希子は大きくうなずいた。 「陽一くんはどうしたの。仕事?」と私はギンコに訊いた。当然ギンコは下山と一緒に来ているとばかり思っていた。 「彼なら実家に帰りました」とギンコは言う。 「どうして」私はびっくりした。 「お母さんが心臓発作で倒れたらしいのよ」 「いつの話」 「三日前」 「ほんとの話かしら」 「そんなことどっちでもいいの。いつまでも彼にくっついていたって、店が持てるわけじゃなし、この辺が潮時だもの。そうでしょ」 「あなた、そんなつもりで彼と付合ってたの」 「そりゃそうよ。世の中すべてお金ですもの」 「強がり言ってるのよ、この子は」とジュンが横から言った。 「強がりじゃないですよお」とギンコは舌を出した。  僧侶が来て読経をすませると、焼香が始まった。名前が呼ばれるのは身内だけで、私たちは一般の客として並んですませた。  出棺の後、霊柩車が走り去るのを見届けてから帰ろうとすると、ジュンが呼止めた。ギンコも一緒だ。 「お姉さん、よかったらあたしたちがこれからすることを手伝ってくださらない?」 「どういうこと」  私が訊返すと、ジュンとギンコは顔を見合わせて、意味ありげに笑った。 「実は、マスターのお骨をすり替えようっていうの」とギンコが答えた。 「え?」 「マスターから頼まれたのよ」とジュンが言った。「おれが死んだら骨は海に撒いてくれって」 「本当にそんなこと言ったの」 「言ったわよ。ただしだいぶ前の話だけど」 「冗談で言ったんじゃないの」 「あたしはそのとき頼まれたと思ってるの」  私は亜希子の顔を見た。面白そうというような表情で私を見返している。 「でも実際にすり替えるなんてことができるの」と私は訊いてみた。 「これ見て」ジュンは持っていた紙袋を持上げて、中を見せた。光沢のある布に覆われた四角いものが入っていた。 「これが骨壷」 「どうしたの、こんなもの」 「きのうね、葬儀屋さんに、ペットの骨を入れて供養したいので、ぜひ分けてちょうだいって頼んだのよ」  そう言うと、ジュンは紙袋ごと揺すってみせた。微かに音がした。 「ほんとに骨が入ってるの?」 「チョークよ、チョーク」ジュンとギンコは顔を見合わせて笑った。  どうしようかと考えていると、「お姉さんが一緒でないと、門前払いされそうだから」とジュンが言った。  私は承知して、先に亜希子をアパートまで送っていこうとすると、「亜希ちゃんがいたほうがやりやすいから」とジュンが止めた。  骨揚げが終って身内の人間が戻ってくるまでの間、私たちは喫茶店で時間をつぶした。ジュンは途中で、何かお供えを買ってくるわと言って出ていき、箱に入ったメロンを買ってきた。これを供えるときにすり替えればいいと言うのである。 「それはいいアイデアだけど、それならもっと安いものにすればいいのに」とギンコが言う。 「でもこれはマスターに供えるのよ」 「食べるのは、あの人たちでしょ」 「そりゃそうだけど」  二人のやりとりを聞いていて、私は思わず笑ってしまった。  そろそろいいんじゃないかということで、私たちは腰を上げた。九階のエレベーターを降りたところで、私と亜希子が前に立った。チャイムを押す前に、ほんとにいいのというつもりでジュンとギンコに目をやった。ジュンが緊張した面もちで、微かにうなずいた。  出てきたのは、葬儀のときに初めて見た若い男だった。 「田島冴子と申しますが、お参りをさせていただこうと思いまして」 「はあ。……ちょっと待って下さい」戸惑ったようにそう答えると、若い男は奥に引っ込んだ。代わりに出てきたのは、青木の兄だった。不機嫌そうな顔をしている。 「いま食事中なんだけどね」 「青木さんには生前ひとかたならぬお世話になったものですから、どうしてもお参りしなければ気がすみませんので。すぐにお暇いたしますから」 「後ろの人は?」 「この人たちも、ぜひお参りがしたいと」  よろしくお願いしますとジュンとギンコが同時に言った。 「何だ、おまえたちか」  青木の兄はしばらく考えていたが、私たちが頭を下げるのを止めないでいると、「断わるわけにもいかないな」と答えた。私たちは早速靴を脱いで上がった。  居間には、葬儀のとき見た身内が集まっており、テーブルを囲んで精進落ちの料理を食べているところだった。ソファーは隅に片付けられ、ダイニングルームのテーブルを引張り出してきているのだった。  骨壷はオーディオセットの横の簡単な祭壇の上に置かれていた。私たちは身内たちの視線を浴びながら、祭壇の前に進んでいった。  正座をして位牌に手を合わせてから、線香に火をつけようとしたとき、「臭いが篭るから、つけないで」と背後から女の声がした。まだ見られてると思うと、それ以上体を動かせなかった。ジュンもギンコも後ろでじっとしているらしく、供え物も出さない。一人亜希子だけが後ろを振返ったりしている。  そのうち背後で身内たちのおしゃべりが始まった。ジュンが膝で歩いて私の横に来る。紙袋は体の前にある。そこからメロンの箱と骨壷を出した。しかしメロンはお供えとして前に置いたが、後ろが気になるのかなかなか骨壷を取替えようとはしない。ジュンを見ると、ためらっている様子だ。私がやろうと偽の骨壷を自分の前に持ってきたとき、亜希子がひょいと祭壇の骨壷を下に降ろし、偽物を代わりに乗せた。私は一瞬緊張したが、背後では相変わらずおしゃべりが続いていた。  ジュンがさりげなく本物を紙袋に入れ、私たちは立上がった。食事をしている身内たちに会釈をしながら居間を出たが、そのとき私は、二度と来ることがないだろう部屋をひとわたり見回した。  エレベーターに乗込むまでは誰も口をきかなかった。 「やったあ」一階のボタンを押してドアが閉まった途端、ギンコが叫んだ。 「亜希ちゃん、度胸があるわねえ。将来大物になるわよ」  ジュンが亜希子の頭に掌を乗せた。 「だって、誰もやらないんだもん」 「まいった、まいった」ジュンが太い声を出した。  マンションを出たところで別れるつもりだったが、ジュンとギンコがどうしても一緒に海に行ってほしいと頼んできた。 「本当に海に撒くつもり?」 「遺言ですもの」  亜希子にどうすると尋ねると、面白そうと答えたので、行くことにした。  国道まで歩いてタクシーを拾ったのだが、運転手に行き先を訊かれて、ジュンは「とにかく海の見えるところまで行って」と答えた。「港でいいですか」と運転手が訊き、それでいいということになって、車は高速道路に入った。しかし渋滞で止まったとき、ギンコが文句を言い始めた。 「港って、大きな船が油を流したりして、汚れてるんじゃない? そんなところに撒くの?」  確かにその通りだということで、それじゃあどこにするかと言出したとき、亜希子が「S水族館は?」と言った。私が、去年青木と一緒に行ったことを説明すると、ジュンもギンコも「どうして、もっと早く言わないの」と一も二もなく賛成した。  S海浜水族館の前には、この前と同じように観光バスが何台も止まり、親子連れが列を作っていた。「後でここに入ろうか」とジュンが言うと、ギンコが一番喜んだ。  水族館の横の道を行くと、すぐに海辺に出られる。そこにもたくさんのアベックやら親子連れがいて、波打ち際に足をつけたり、貝を拾ったりしていた。海面から上がる水蒸気のせいか、春の海はぼんやりと霞んでいた。 「水はきれいだけど、ここじゃまずいわね」とジュンが言った。 「貝の代わりに拾われるかもしれないしね」とギンコが答える。  他の人たちの白っぽい服装に比べて、私たちの黒い服は異様に見えるせいか、側を通る人は誰もが私たちのほうをちらちらと見た。  右手遠方に突堤があり、とにかくそこまで歩こうということになった。「突堤の先端から撒いてもいいし」とジュンが言った。  じっとしていたらそうでもないが、歩き出すと汗が滲んできた。ジュンは骨壷の入った紙袋を両手で胸の前に持ち、一歩一歩踏みしめるように歩いている。砂の堅いところを選んで歩いても、靴の中に砂粒が入った。  ようやく突堤に着き、その上に上がって靴の中の砂を払った。突堤の向こうは砂浜ではなく、小さな漁港になっていた。 「いいこと思いついた」とジュンが叫んだ。「あそこで船に乗せてもらって沖に出るのよ。船の上からマスターの骨を撒くのよ」 「そんなこと、できるの?」ギンコが疑わしそうな顔をする。 「船に乗るの、賛成」と亜希子が手を叩いた。だめよと私は亜希子を制したが、ジュンは「亜希ちゃんの他に乗りたい人は?」と目の前に大勢の子供がいるように見回した。 「わかったわ。乗るわよ。でも船酔しないかなあ」  岸壁に降りてしばらく行くと、おじいさんが漁網を担いでやって来るのに出会った。 「ねえ、ねえ、ちょっとすいません」とジュンが声をかけた。おじいさんは、見慣れぬ動物でも見るような目付きでジュンの頭から足の先まで眺め、それから私たちに目をやった。 「おじいさんの船は、あれ。それともあっち」ジュンはそ知らぬ顔で続ける。 「わしの船はずうっと向こうだ」おじいさんは少し間を置いてから答える。 「そう、向こうにあるの。それじゃあ、ちょっとお願いだけど、私たちをその船に乗せてくれない」 「どうしてだ」 「海を見たいのよ」 「海なら見えてるではないか」 「ずっと沖の海を見たいのよ」 「観光か」 「まあ、そんなところね」 「それなら遊覧船に乗ればいいんだ」  ジュンは腕に下げたバッグからすばやく財布を取出すと、おじいさんの手に紙幣を握らせた。 「ね、これで一時間ばかり走ってよ」  おじいさんは手の中の紙幣を見ると、急に笑顔になって向きを変えた。 「いくら渡したの」とギンコが小さな声でジュンに尋ねた。ジュンは二本の指を出した。 「わあ、そんなに」ギンコは口笛を吹く真似をした。  おじいさんの船は岸壁の端にあり、細長い渡し板を踏んで中に乗込んだ。十メートルほどの大きさの船だった。魚の臭いが鼻を突き、バケツやロープが散乱していた。操舵室の前に道具入れか何かの横長の箱があり、ジュンがその上をハンカチで丁寧に拭いてから、腰を降ろした。両側が空いていたので、私とギンコも腰をかけた。亜希子一人が珍しそうに後ろへ行ったり、操舵室を覗き込んだりしていた。  おじいさんは渡し板を岸壁に上げると、繋いでいたロープを解いて中に乗込んできた。そして軽い足どりで後ろに行くと、操舵室に入った。エンジンがかかる。坐っている下から規則的な振動が伝わってきた。  船はゆっくりと後退していき、しばらくすると向きを変えた。エンジン音が変わり、今度は前進する。風が顔をなぶり、潮の香りが鼻や口や肺を満たした。ときおり水しぶきがかかる。  ジュンが、抱えていた紙袋の中から四角い箱を出し、包んでいた袋を取去った。木箱で、蓋を取ると、白い骨壷が入っていた。ジュンは骨壷を取出し、木箱を下に置いた。その拍子に紙袋と布袋が後ろに飛んでいき、操舵室からおじいさんが何か言った。  ジュンは骨壷を耳のそばで小さく振った。ギンコが「あたしも」と骨壷を受取って、同じように耳の横で振った。骨壷は私のところにも回ってきて、私も両手で持って耳のそばで振ってみた。かさかさと乾いた音がする。  骨壷をジュンに返すと、ジュンは船が上下に揺れるのも構わずに前のほうに立っていった。いつのまにか靴を脱いでいる。亜希子が後ろから回ってきて、空いたところに腰を降ろした。  ジュンは船の揺れに体を傾かせながらも、足を開いて踏んばっていた。私ははらはらしながら見ていた。そのとき微かな歌声が聞えてきた。風に飛ばされながらも、それは確かに歌声だった。ジュンが歌っているのだった。歌詞はわからないが、それはシャンソンに違いなかった。  不意に鼻の奥が熱くなり、涙があふれてきた。 「ママ」と亜希子が言った。私は涙を流しながら、亜希子の手をまさぐってしっかりと握った。  ジュンの歌声は揺れながらも、いつまでも続いていた。