背中にナイフ            津木林洋  目的のナイフはショーケースの一番上にあり、黒いビロードを張った台に乗せられていた。敬二はガラスの上に両手をつき、目を近づけてナイフを見た。柄の部分は象牙でできているらしくクリーム色で、熊か何かの動物の図柄が薄く浮彫りされていた。鍔は偏平で、銀を焼いたような色をしており、それは並べて置かれている鞘と同じ色をしていた。刃には一点の曇りもなく、敬二は顔を動かして、自分の鼻や目が映るのを喜んだ。  店員がやってきた。敬二は上目使いに店員を見てから、再びナイフに目を向けた。 「よろしかったら、お手に取ってご覧になりますか」 「いや」  敬二はショーケースを離れた。彼はそのナイフを買うために、ここに来たのだが、まだ決断がつきかねていた。  何しろ給料の一カ月分が飛んでしまうのだから。彼は迷いながら、デパートのフロアを一周した。刃物売場に戻ってくると、今度は他のナイフを見た。刃の反りが悪いとか、柄の握りが小さいとかひとつひとつにけちをつけた。どれも気に入らないことは始めからわかっていた。彼は迷っていることを楽しんでいた。  敬二はゆっくりと体を移動させて、再び目的のナイフの前に立った。もう顔を近づけて見ることはしない。先ほどの店員がこちらを見たが、今度は寄ってこなかった。  敬二はひとつ大きく息を吸ってから、「ちょっと」と店員を呼んだ。同僚と話していた店員は少し間を置いてから、やってきた。 「これ、買うわ」と敬二はナイフを指さした。 「え?」  敬二はずっとナイフに目をやっている。 「一度、ご覧になりますか」 「そんなん、ええから、はよ包んでくれ」 「はい、かしこまりました」  店員はあわてた様子で、値札を確かめると、従業員専用通路のほうに駆けていった。  しばらくして、店員はニス塗りの木の箱を持って戻ってきた。ショーケースの上で箱を開け、ナイフと鞘を入れる。  箱の中は紫色のビロードで内張りがしてあり、ナイフと鞘が別々に収まるように、型があいていた。包んでいる途中で店員が「贈り物ですか」と訊き、敬二は首を振った。  包みの入った紙袋を受取りながら、敬二はポケットから二つ折の紙幣を取出して、渡した。店員は紙幣を受取ると、慎重に数えてから、「確かに。少々お待ち下さい」と言って、レジのほうへ行った。  釣銭を渡しに戻ってきた店員に、「油、ないか」と敬二が訊いた。 「油?」 「このナイフを手入れするための油や」 「それでしたら、日曜大工の売場にあると思いますが」  店員が右手を伸ばして、「まっすぐ行かれまして、ガラス製品のあるところを左に……」と説明している途中で、敬二はその場を離れた。  日曜大工売場はフロアの隅にあった。敬二は同じところを何度か行ったり来たりして、やっと見つけた。客がひとりいて、青いブレザーを着た中年男が合鍵を作っていた。他には店員がいなかった。敬二はざっと中を見て回ったが、刃物の手入れ用の油はどこにもなかった。  敬二は客の横に並んで、中年男が合鍵を作り終るのを待っていたが、なかなか終らないので「油、ないか」と声をかけた。 「もうすぐ終りますから、ちょっと待って下さいね」と中年男は下を向いたまま、愛想よく答えた。  終って客が去ってから、「はい、何でしょう」と中年男が敬二のほうを見た。 「油」 「どういった油でしょう」 「ナイフに塗るやつ」 「それでしたら機械油ですね」  中年男は中に入っていった。  敬二も横に回って、売場の中に入った。中年男は上のほうの棚から、ポリエチレンの油差しを取って、敬二に見せた。 「こんなものしかないのか」 「これで大抵のことは用がたせますよ」  こんな安っぽい油じゃだめだ、と敬二は思った。 「値段は高くなりますが、こういったスプレーのものもありますが」と中年男は赤い円筒形の缶を棚から降ろした。 「これでしたら、浸透性がありますから、例えば錆びて回らないネジなんかにかけると、動くようになります」  敬二はそれを買うことに決め、ポケットに突込んだ釣銭の中から金を払った。  デパートにもう用はなかった。彼はエスカレーターに乗って下に降り、途中の階から人が多く乗ってくると、階段を探して一階まで一気に駆け降りた。そして地下鉄に乗り、自分のアパートまで早足で帰ってきた。  彼の住んでいるアパートは建ってから三十年以上もたつ木造の建物で、二十室あるどの部屋も四畳半一間に小さな流しがついているだけだった。彼の部屋は一階の突当たりにあり、共同便所の向かいだった。玄関で靴を脱ぎ、それを持って床板のきしむ薄暗い廊下を歩いて、自分の部屋に入った。鍵をかける。  敬二はデパートの紙袋を小さな卓袱台の上に置くと、流しの前に立って、蛇口から直接水を飲んだ。顎に垂れた水を手でしごいてから、彼は卓袱台の前にあぐらをかいた。紙袋からまず円筒形の缶の入った袋を出して、畳の上に置き、それから四角の包みを取出して、重さを計るように二、三度ゆっくりと揺すった。そして卓袱台に置く。  彼はデパートの包装紙の模様をしばらく眺めてから、包装紙をとめているデパートのマーク入りのシールを爪で丹念にはがした。包装紙もなるべくしわの寄らないようにはがし、きちんと折りたたんだ。  塗りのはげたワインカラーの卓袱台には不釣合いなほどの真新しい木の箱がそこにあった。彼はそれを両手で胸元に引寄せ、親指でゆっくりと開けた。わずかに刃のそったナイフと、植物の蔓のような模様を彫りつけた鞘が紫色の中に収まっていた。彼は目を近づけて、ナイフと鞘を隅から隅まで眺めた。そして一通りすむと、ふうっと溜息をついた。  彼は少しためらってから、くぼみに指を入れてナイフを型からはずした。それを右手に持つ。持重りがして、その瞬間彼は背中がぞくっとするのを感じた。今まで何度もガラス越しに見ていたが、手にするのは初めてだった。象牙をはめ込んだ柄はひんやりと冷たかったが、掌の熱ですぐに暖かくなり、そうすると象牙の丸みが掌に溶け込むようにしっくりとなじんだ。  握りを確かめるかのように手の中で二、三度回してから、敬二は立上がった。柄を掌の対角線に収め、刃を上向きにして、下から上へ振り上げた。適度な重さのせいで、ナイフは掌に吸いつくような感じだった。柄の長さもぴったりで、彼はまるで自分の手の大きさに合わせて作られているように感じた。  彼は両手を広げ、腰を落して、身構えた。目の前に敵がいると想像して、ナイフを振降ろしたり、振上げたり、突いたりした。彼はその想像の敵とかなり長い間、架空の闘いをした。  真剣に闘ったので、しまいには額に軽く汗をかくほどだった。ナイフを握った掌もべっとりと濡れた。彼は押入れからタオルを取出して、柄の部分を丹念に拭いた。刃の部分には汗がついていないことを確かめたが、念のためティッシュペーパーで軽く拭いた。  敬二は刃を掌に当てて、そっと押してみた。肉が引っ込んだ。そのまま手前に引けば、痛みもなく簡単に切れそうだった。彼はナイフの切れ味を試してみたくて、周りを見回したが、適当なものが見当たらなかった。あまり固いものは刃がこぼれる心配があったし、紙のようなものでは切れ味を試す意味がなかった。冷蔵庫の扉を開けると、マーガリンと卵のパックが目についた。がらんとした庫内の奥に、しなびたりんごがあり、それを取出すと、ナイフを突刺した。そんなに力も入れていないのに、深々と刺さった。りんごのほうを引張ってナイフを抜くと、今度は三分の一くらい切取ってみた。素晴らしい切れ味だった。バターか何かを切っているような感じだった。敬二は残りのりんごを投上げると、落ちてくるのに狙いを定めてナイフを振降ろした。うまくいかず、りんごは畳の上に落ちた。三回繰返し、ようやくりんごを切ることに成功すると、敬二は満足して、タオルとティッシュペーパーでナイフを拭いた。  木の箱から鞘を取って、ナイフを収めた。最後に押込むときにちょっと抵抗があり、力を入れると、しゃっという音とともに鞘に収まった。それを卓袱台の真ん中に置き、彼はその周囲を回って、ナイフを眺めた。そうやって眺めながら、靴を持ってそのまま部屋の外に出た。鍵をかける。かかったのを確かめてから、彼は裸電球のともった廊下をゆっくりと歩き、玄関に行った。  昼は即席ラーメンと食パンだけですませたので、かなり腹が減っていたが、大食いするほどの金はなかった。敬二は馴染みのめし屋にいくと、おかずの並んでいる棚から、ひじきと鯖の塩焼の皿を取り、大盛りのめしを頼んだ。店のおやじが「味噌汁は」と訊いたが、彼は首を振った。  漫画雑誌を膝に置いてめしを食べていると、前の席に薄手のジャンパーを着た若い男が坐った。初めて見る顔だった。敬二と同じように漫画を膝に置いている。敬二はときどき上目使いで男を見ながら、漫画を眺め、めしを食べた。おれはナイフを持っているんだと敬二は心の中で男に向かって言った。前の男ばかりではなく、店の中にいる全員に向かって、同じことを繰返した。  そのとき彼は不意にナイフのことが気になりだした。こうしているうちにも、誰かが部屋に入り込んで、ナイフを盗んでいるかもしれないと思ったのだ。あんなところに出しっぱなしにしておくんじゃなかったと後悔しながら、敬二は急いでひじきとめしを口に詰込んだ。  金を払うと、敬二は走ってアパートに帰った。靴を玄関に脱いだまま、部屋に行った。鍵をはずし、扉を開ける。ナイフは出ていったときと同じく、卓袱台の真ん中にあった。それを見届けてから、彼は靴を取りに行った。  部屋に戻ると、彼はナイフを抜いてしばらく眺めてから、木の箱に収めた。そしてそれを押入れの奥に隠した。テレビを見ていても気になって、ときどき押入れの中に体を潜り込ませて、木の箱を開けたりした。  銭湯に行くときは、テレビをつけっぱなしにして、人がいるように見せかけた。  湯船につかっていると、急にうれしくなってきて、敬二は奇妙な叫び声を上げた。十人ほどいた客が彼のほうを見たが、彼が笑って見返すと、顔を背けた。  銭湯から帰ると、押入れから蒲団を引張り出して敷いた。蒲団を出し入れするのは日曜日だけだった。目覚し時計を合わせて、蒲団に潜り込み、蛍光灯のスイッチを引張る。  しばらく目を閉じていたが、急に目を開けると、敬二は明りをつけ、押入れから木の箱を取出した。ナイフを型からはずし、油の缶の入った紙袋を破って、刃にほんのわずかスプレーの油をつけた。タオルで拭こうと思ったが、傷がつきそうな気がして、ティッシュペーパーでゆっくりと油をのばしながら刃を撫でた。刃の表面に自分の目が映った。別人の目のように敬二には見えた。  翌朝、目覚し時計が鳴る前に目が覚めた。真っ先に押入れの中を見て、木の箱があることを確かめ、念のためふたを開けてナイフを見た。それからトーストと牛乳とバナナ二本の朝食をとり、部屋を出た。  彼の仕事は小規模の出版社の倉庫係だった。小、中学校の問題集や学習参考書を出版しており、各学校からの注文を書いた伝票を見ながら、その注文通りに本を揃えるのが彼の仕事だった。仕事場までは地下鉄で行く。  彼はこの通勤の時間がいやだった。周りの乗客は大抵背広にネクタイ、女ならきちっとしたスーツかすきのないワンピース姿で、敬二のようにトレーナーやジャンパー姿の人間はほとんど見なかった。敬二も一着だけスリーピースを持っていたが、それはよそいきようで、もしそんなものを着て会社に行けば笑われるのに決まっていた。それで彼は通勤にバイクを使おうかと真剣に考えたことがあったが、自転車に乗ったこともなかったし、それに原付の試験に通る自信などまるでなかったので、諦めたのだ。  彼は乗客に押されながら、押入れの中のナイフのことを考えていた。もしあのナイフをここで抜けば、周りの連中はおれから離れ、おれを遠巻きにするだろう。おれがナイフを振回すと、こいつらは先を争って逃げるだろう。そう思うと、敬二はひとりで含み笑いをした。  定刻ぎりぎりに会社に着き、タイムカードを押すと、ロッカールームに行った。もう誰もいなかった。彼はのろのろと作業着に着替えた。作業着はかなり汚れていたが、洗濯には出さなかった。篭に放り込んでおくと、会社のほうで洗っておいてくれるのだが、洗濯したてのより、長い間着ている作業着のほうが体になじんで動きやすいので、彼はなかなか洗濯には出そうとはしなかった。  倉庫に行くと、主任が問題集の詰まった段ボール箱に腰を降ろして、スポーツ新聞を読んでいた。選抜高校野球の記事が一面を飾っていた。 「おはようございまっす」と彼は声をかけた。 「おはよう」主任は新聞に目を落したまま答えた。  彼は伝票の入った箱を見た。先週よりもかなり増えていた。 「だいぶ増えとるやろ」 「そうですねえ」 「またまた忙しいシーズンや」  主任のほうを見ると、まだ膝の上に新聞を広げたまま、目を近づけて記事を見ていた。 「アルバイトはまだですか」 「四月に入ったら、来るやろ」  倉庫には主任と敬二の二人しかいなかった。忙しいのは新学期の始まる四月から六月、それに夏休み明けの九月、十月だった。その時期にはいつもアルバイトの男が五、六人入ってきた。敬二はアルバイトをする連中が嫌いだった。大半が大学生で、遊ぶ金を稼ぐために来る連中が多かったからだ。  敬二は早速仕事に取りかかった。一枚目の伝票を取り、担当者欄にサインをする。倉庫は三百坪ほどの広さで、入口のところに梱包機があり、そこからローラー式のコンベヤーが鉄道の引込み線みたいにY字形に伸びていた。伝票通りに問題集や参考書を揃えて、段ボール箱に詰めると、コンベヤーに乗せて押していくのである。それを主任が検品して間違いがないと、ガムテープでふたをして伝票を貼り、梱包すれば、一枚が仕上がるのだ。 「小学三年こくご、基礎問題集(上)、十五」  送り先の下の欄の一件目がこれだった。学年と教科、その他の違いで、本の種類は二百以上あった。それらが鉄骨で造られた二段の棚とパレットと呼ばれる一.五メートル四方の木製の台に積まれており、梁と梁に渡した紐に、本の名前を書いた紙がぶら下げられていた。  彼はすぐに目的のパレットへ進んでいった。入口には、どこにどういう種類の本があるのかというたたみ一畳大の地図があったが、そんなものは必要なかった。彼の頭の中には、倉庫の詳細な地図ができあがっていた。アルバイトに自慢できるのは、唯一このことだけだった。彼らがこの地図を乱すことも、敬二が彼らを嫌う理由のひとつだった。  昼までに伝票の半分以上を片づけた。 「きょうはえらい動きがええなあ」と主任が冷やかした。 「なんかええことあったんか」  敬二はえへへと笑うだけで、答えなかった。  昼めしはうどんの大盛りとライスだけですませ、パチンコにも行かなかった。主任が真顔で「どうしたんや」と訊いてきたが、「べつに」と答えただけだった。 「女でもできたんか」と主任が言うと、敬二は喉をひきつらせるような笑い方をした。  昼からの追加の伝票もそれほど多くなく、仕事は四時前に終ってしまった。敬二は早くアパートに帰って、ナイフを触りたかったが、早退するのも馬鹿ばかしいので、ローラーコンベヤーの上に段ボールを敷いて寝そべり、ラジオを聞いた。  四時半を過ぎると、彼は洗い場に行き、顔と手を洗って、服を着替えた。股引き姿の主任が「きょうもこれか」とパチンコのノブを回す手つきをしたが、「金がないから」とだけ答えて、敬二はロッカールームを出た。  五時ちょっと過ぎにタイムカードを押し、彼は地下鉄の駅に急いだ。地下通路を足早に歩いていると、前から来る男と肩がぶつかった。 「気いつけんかい」と男が言った。敬二は振返って男をにらんだ。薄い色のサングラスをかけたパンチパーマの男だった。 「なんや、文句あんのんか」行きかけていた男が戻ってきた。ポケットに両手を突込んで、雪駄を鳴らしている。敬二より十センチほど低かった。 「すんません」と敬二は小さな声で言った。そばを通る人々がこちらを見ているのがわかった。 「そうや。それでええんや。人間は正直やんとあかんで」  男はそう言うと、がに股で出口のほうに歩いていった。敬二は手を握り締めて、わざとゆっくり歩いた。自動改札口を通り、ホームに出たとき、彼はコンクリートの円柱に拳を叩きつけた。中指の関節がしびれた。痛みをこらえながら、あのナイフさえあればと敬二は思った。  ナイフを買ったデパートのある駅に地下鉄が停車したとき、敬二は反射的にそこで降りてしまった。ナイフを携帯するのに便利なホルダーみたいなものが売っていないかと思ったのだ。テレビの警察物で、刑事が拳銃を胸のところに収めるときに使うホルダーからの連想だった。  刃物売場にはきのうの店員がいた。しかし敬二のことを覚えているような素振りは全く見せなかった。敬二はホルダーのことを尋ねた。テレビドラマで刑事が使っているようなと、身振りで説明までしたが、店員は「ございません」と言った。さらに「そういうものは作られてないと思いますが」と付け加えた。  敬二は諦めて、再び地下鉄の駅に向かったが、途中で、作られてなければ、自分で作ればいいと気がついた。早速別の線に乗って、ハンドメイド専門店に行った。  四階の建物の三階に、レザークラフトのコーナーがあった。そこを見ているうちに、どうも簡単には作れそうもないような気になってきた。ベルトに差しておくだけでもいいのだから、それが落ちないような簡単なホルダーでいいんだと思い直し、二十センチ四方の柔らかい皮とカッターナイフと皮専用の接着剤を買った。  アパートに帰る前に、めし屋で夕食を食べ、部屋に戻ると、押入れを開けて木の箱を取出した。朝見たときと同じように、ナイフは完璧に蛍光灯の光を反射していた。その輝きを見ていると、敬二は胸の中に詰まっていたものがからっぽになったような気持になった。  卓袱台に皮を広げ、その上に鞘を乗せる。寸法に余裕があった。敬二はまずホルダーとベルトをつなぐための輪を作るため、漫画雑誌の背を定規代わりにして、カッターナイフで三センチばかり皮を切取った。意外に切れにくくて、四回ほどカッターを使わなければならなかった。  ズボンからベルトを引抜いて、皮の帯を巻く。接着剤を塗ってから、緩くならないように卓袱台に押しつけて締めながら、皮を重ねた。最初は指で押えつけたが、なかなか引っつかず指が疲れてきたので、テレビの平たい足の下に敷いた。  次ぎにホルダーの製作だった。鞘に皮を巻きつけて寸法を取る。鞘の尻のほうは落ちないように接着剤で引っつけるので、二センチほど余裕を見ておいた。ボールペンで印をつけ、開いてから、漫画雑誌の背で線を引いた。今度は線に沿って、フリーハンドでカッターナイフを動かす。そのほうが確実に皮が切れた。  接着剤を塗るときになって、敬二は押えつける方法のことを考えた。始めはテレビの下に敷けばいいと思っていたが、ひょっとしたら鞘がゆがむかもしれないし、何よりも巻きが緩くなる心配があった。緩くなると、走ったりしたときに鞘ごと抜け落ちる可能性がある。敬二はどうしようかと考えたあげく、紐で縛ることにした。  周りを見回しても、紐らしきものは見当たらなかった。押入れを見ても見つからず、買いにいこうかと思ったとき、みかんの段ボール箱の間に小包が落ちていた。それに紐がかかっている。手に取ると、一カ月ほど前母親から来たものだった。開けもせず放り込んで、そのまま忘れていたのだ。敬二はカッターで結び目のところを切り、ついでに包み紙を破った。ぺらぺらの紙の箱の中に、切干し大根が詰まっていた。つんとくさい臭いがした。 「こんなもの送らんでもええ言うてんのに」敬二は怒ったようにひとりごとを言って、破った紙ごと押入れに戻そうとしたが、途中で気が変わって、ごみ箱代わりにしているビニール袋の中に突込んだ。  一メートルほどの紐を三つに切ってから、広げた皮の端に接着剤を塗った。皮を引張りながら鞘に巻きつけ、重なった部分を親指で押える。そうしておいて紐を二重に巻いて締めながら、歯を使って結んだ。三カ所で縛ってから、彼は鞘を引張っても簡単に抜けないことを確認した。次ぎに筒状になった皮の尻の部分に接着剤をつけて、二本の洗濯ばさみで挟んだ。  テレビを見ていても、その下から出ているベルトと皮の帯の端が気になって、彼はすぐに作ってしまおうかと何度か思ったが、接着剤の容器に、最低半日は置くことという注意書きがあったので、我慢した。  翌朝、テレビの下のベルトを取って、輪になった皮の帯をゆっくりと引抜いた。夕方まで置いておきたかったが、ベルトは一本しかなかったので、仕方がなかった。貼合わせた部分はうまく引っついているようだった。輪とホルダーをつなぐのは帰ってきてからやろうと思っていたが、それまで待てなくなった。ホルダーを見ると、こちらも引っついているようだったので、二カ所紐をはずし、輪の舌の部分に接着剤をつけて、再び紐で縛った。そしてティッシュペーパーを折って輪の中に詰めて、もう一度テレビの下に敷いた。これだけの作業をするのに、二十分ほどかかってしまい、敬二はあわててアパートを出た。地下鉄の中以外は走ったが、三十分遅刻してしまった。  主任は梱包機の下の扉を開けて、ビニールバンドを点検していたが、敬二が挨拶すると、中を見ながら「寝過ごしたんか」と言った。 「ええ、まあ」敬二は口ごもりながら答え、すぐに一枚目の伝票をつかんだ。  その日、敬二はきのうにもまして気分よく、仕事をした。しかし主任に気づかれないように、仕事のペースはいつも通りにし、口笛を吹くのもやめた。  仕事が終って、急いでアパートに帰り、テレビを傾けてホルダーを手に取った。ティッシュペーパーを抜いて、輪の部分が引っついていることを確認し、それから洗濯ばさみを取った。挟んだ跡がついている。ホルダーに巻いた紐は解かなかった。  彼はズボンを脱ぐと、背中のところまでベルトを抜き、ホルダーの輪の部分を通した。ホルダーを外側に垂らした場合、前屈みになった拍子に後ろから見える恐れがあったし、万が一接着剤がはがれてホルダーごと落す心配があったので、スボンの内側になるようにした。再びベルトをベルト通しに通すと、スボンをはき、ベルトの穴ひとつぶんだけ緩めて留めた。ホルダーが背骨に当たるとごつごつするので、右側にずらした。  押入れから木の箱を取出して、ナイフをはずす。少し前に屈みながら左手でホルダーを押え、右手でナイフを差込もうとしたとき、彼は刃の向きを考えずにホルダーを輪につけたことに気づいた。彼はゆっくりとナイフを鞘に差込み、軽い抵抗とともに最後まできっちりと収まったことにいくらかほっとした。  左手でホルダーを押えながら、今度は抜いてみる。刃が下向きになっていて、彼はひとりでうなずいた。  薄手のジャンパーを押入れから出して羽織り、窓ガラスに背中を映して、ナイフの柄の部分とホルダーで少し膨らんだところが見えないことを確かめた。それからジャンパーの裾を払って、ナイフを抜く練習をした。  敬二はめし屋にいくのも忘れて、ナイフを早く抜く練習を繰返した。  翌朝、出勤のとき、初めてホルダーをつけて外に出た。背中に硬く当たる感じがして、歩き方がぎこちなくなるのがわかった。ジャンパーを着ているため見えないのはわかっていたが、それでも人の視線が自分の背中に向いているような気がした。  満員の地下鉄の中では特に気を使った。自分の背中に他人の背中が当たらないように注意し、何回かの乗降の間に、ドア横の空間に入って背中を車体につけた。  会社のロッカールームにはすでに誰もおらず、敬二は安心して着替えた。ズボンをフックに吊下げるとき、ホルダーの重みで手前に偏って、ナイフの柄が丸見えになったので、反対側のフックに掛けかえて、見えないようにした。作業ズボンのベルトにホルダーをぶら下げようかと思ったが、足を大きく上げたり、腰を屈めたりする動作が多いので、さすがにやめた。その代わりにロッカーに鍵をかけた。いつもは財布だけ作業ズボンに入れて、鍵はかけないのだ。  仕事が終って着替えるときには、敬二は苦労した。周辺をうろついたり、便所へいったりして、主任や事務所の男たちやフォークリフトの運転手などが全員着替え終るのを待とうとしたが、もういいだろうとロッカールームに顔を出すと、誰かいた。三十分以上待って、ひとりのおっさんが着替えているだけのときに、背中をロッカーのほうに向けて、素早くズボンをはいた。これにこりて、翌日からは誰も来ないうちに一番先に着替えることにした。  始めの数日間は他人の目が気になって、背中にナイフがあることは敬二にとってむしろ負担だったが、他人というのはそれほど他の人間を注意して見ていないものだということに気づくと、急に楽になった。ホルダーの異物感にも慣れたということもあった。ぎこちなかった歩き方も自然になり、満員の地下鉄でも平気でホルダーのふくらみを押しつけたりした。誰もナイフが入っているとは思わないだろうし、たとえ気づかれてもそれがどうしたという気持だった。警官にさえ見つからなければいいんだと彼は思っていた。  階段などで乗客が詰まって、列がなかなか前に進まないとき、周りの人間に向かって、お前らみんな刺してやると口の中で呟くと、気持がすっとした。いちゃついている若いアベックを見ると、二人とも刺してやると念じた。ときには背中のナイフに手を触れながら、アベックを見ることもあった。  夜、ナイフの手入れをするときだけが敬二にとって、一番満ち足りたときだった。カメラ屋で買ってきたレンズを磨くシリコン布で、ナイフを拭いた。刃に小量の油をつけ、ティッシュペーパーで全体に薄く伸ばしてから、シリコン布で磨くのである。模様のある柄のくぼんだ部分も、耳かきに布を巻いて、ていねいに拭いた。  四月になって、五人のアルバイトが入ってきた。主任の紹介によると、四人は大学生で、一人は大学卒業後、イギリスに語学留学に一年行き、帰国したところだった。六月から新聞社に入ることが決まっていて、それまでのつなぎにアルバイトに来たのだった。主任はその留学帰りがえらく気に入ったらしく、彼が何か尋ねるとていねいに教えてやり、暇があると話しかけたりした。敬二はそいつが一番気に食わなかった。めし屋でばかていねいな言葉づかいをしたり、大学生と話しているときに、ひょいと英語が口をついたりするのが、敬二にはきざな野郎だと映った。敬二は、アルバイトとはあまり口をきかなかったが、留学帰りとは全くといっていいほど話さなかった。ただ問題集などの場所を訊かれたときは、「右の奥、二番目のパレット」などと最小限の言葉をしゃべった。  アルバイトが来て、服を着替えるのがむずかしくなった。朝は彼らもぎりぎりに来るため、敬二とかちあうし、夕方はアルバイトより早く切上げて、ロッカールームに行けないからだった。ナイフのことを職場の人間に知れてもいいとは、さすがに思わなかった。へたをしたら、首になる恐れもあった。敬二はいろいろ考えたあげく、健康食品のセールスマンをしていたとき、むりやり買わされた書類カバンを持っていくことにした。空のカバンを持って出勤し、タイムカードを押してから、便所へいってホルダーを抜取り、それをカバンに入れてロッカールームに行くのである。ナイフを持たずに会社に行こうとはこれっぽっちも考えなかった。  二日目に、タイムカードを押して事務所から出てきたとき、主任にカバンのことを見咎められた。 「どうしたんや、それ」  敬二は薄く笑った。 「経理学校へでも通いだしたんか」  そういう手もあったなと思いながら、「こんなもんでも持っとかな痴漢と間違えられるから」とチャックを開けて中が空であるのを見せた。 「間違えられたか」と言って、主任は大声で笑った。  土曜日になって、主任はアルバイト全員と敬二を飲みに誘った。主任がそんなことをするのは珍しかった。敬二はここに勤め始めて三年になるが、主任と一緒に飲みに行ったのは一回しかなかった。  アルバイト五人のうち三人は、用があるからと言って先に帰り、留学帰りと獣医の大学に通っている学生がついていくことになった。敬二はどうしようかと迷ったが、ただで酒が飲めるのと一食分食費が浮くことになるので、誘いに応じた。ただ、ナイフを持っていくことは、やはり無理な気がして、カバンの中に入れたまま、ロッカーにしまった。それは、ただ酒と食費に見合うだけの十分な犠牲のように思えた。  主任ら三人と一緒に地下鉄に乗りながら、敬二は落着かない気持になっていた。アルバイトの連中と一緒だということもあったが、他人が周りにいるときはいつも背中に感じていたホルダーの硬さがないということが大きかった。つっかい棒を外された感じだった。敬二は吊革に両手でぶら下がって、主任と留学帰りの話し声をちらちら聞きながら、暗い窓の外をみていた。  主任が連れていってくれたのは、彼の妹が最近始めた串カツ屋だった。繁華街の裏手にあり、十坪ほどの店だった。 「にいさん、よく来てくれたわねえ」とカウンターの中の女が言った。四十前後で、きびきびとした感じの女だった。カウンターの中にはもう一人愛想のいい中年女がいた。 「きょうは会社の連中を連れてきたんや」と主任が言うと、アルバイトの二人は軽く頭を下げた。敬二は内装を見る振りをして、知らん顔をした。主任が敬二たちを誘ったのは、一人では来にくかったのだということが、おいおいわかってきた。  敬二たちは主任の妹に、これは塩、これはソースというように教えられながら、串カツを食べ、ビールを飲んだ。主任は妹がすべて自分の力で店を構えたことをしきりに誉めた。十何年かかって働いた金を全部この店につぎこんだんやと、妹の行動力を持上げた。 「それに比べて、おれなんかあかんもんや」と主任は言った。 「女の妹がこれだけやるのに、男のおれがただの倉庫係やもんな」 「にいさん、何言うてんの。男は奥さんや子供を養わなあかんからやないの。あたしなんか、ずっと一人やから、でけるんよ」 「おおきに、おおきに」  主任はだいぶ酔いが回っているようだった。敬二はだんだん居心地が悪くなってきた。すぐにでも帰りたい気持だった。 「なあ、男はやっぱり学歴やぞ」と主任は留学帰りの肩を叩いた。 「おれなんか、中学しか出てへんから、今だにぺいぺいや。死ぬまでこうやろ。どこのどいつか知らんけど、日本はもう実力社会になったいうてるアホがおったけど、そんなん嘘っぱちや。おれがええ見本や」  留学帰りは返事のしようがなくて、ただうなずいていた。敬二は嫌な話になってきたと顔をしかめた。 「その点、あんたらはええなあ。大学出て、留学して、新聞記者に、獣医やろ。おれかって、若いときにもっと勉強して、大学行くべきやったなあ。この歳になったら、もう何にもでけへんわ」 「にいさん、せっかく飲みに来てくれてんから、もっと景気のええ話をしてえな」と主任の妹がカウンターの中からビールを注いだ。主任はコップを持上げて、半分ほど一気に飲んでから、敬二の肩に左腕を回した。 「おれはおまえに言うとくけどな、勉強せいよ。勉強して、高校でも大学でも行かなあかんぞ。中学だけやったら、おれみたいになるぞ。倉庫管理主任なんていうても、雑役と一緒や。一生倉庫係で終りたないやろ」  敬二はかっと頭が熱くなるのがわかった。酔いが急に回り、鼓動が激しくなった。カウンターのコップに目を落しながら、店中の人間が自分を見ていると感じていた。刺してやると敬二は思った。そう思うことで、かろうじて自分を支えていた。  串カツ屋を出たとき、主任はかなり酔っていて、足許がおぼつかなかった。敬二は用があるからと言って、主任をアルバイトの二人に押しつけて、先に帰った。二人の前にいると、自分がひどくみじめな、足の裏で踏みつぶされそうな小さな人間であるような気持になったからだった。人通りがまばらになった繁華街を小走りで抜けながら、背中にナイフさえあればと敬二は思っていた。ナイフの肌触りが無性に恋しかった。  その晩、敬二は銭湯にもいかずに蒲団をかぶって寝た。  次の日、十一時ごろ起きた敬二は会社にいって、カバンを取ってこようかと思った。ナイフの手入れという行為がないので、何か日常にぽっかりと穴が開いたような落着かない気持になった。  敬二がどうしようかと迷っているとき、ノックが聞えた。開けると大家がいて、彼に手紙を渡した。差出人を見るまでもなく、母親のきたない字が目に入った。母親は四国の田舎で、農家の手伝いをしながら暮らしている。父親は敬二が五歳のときに死に、その一年後に敬二のたったひとりの兄も病気で死んだ。  敬二は舌打ちをした。手紙の内容は読むまでもなくわかっていた。金の無心に違いなかった。敬二は読まずに捨てようかと思ったが、ひょっとして、遠い親戚の誰かが死んで遺産が手に入ったなどと書いてあるかもしれないと封を開けた。 「敬二どの、元気でくらしとると思うとうよ。便りはないが、便りがないのは無事なことと思うとうよ。おらあも変わらず元気でおる。益田家の畑はみなおらあがやったが、さすがに疲れたけんねや。近ごろとしじゃけん、つぎの日まで腰がいとうてなんぎするが、寝てたらなおるけん心配いらん。お前さんもいっしょうけんめい働かんといかんぞ。このまえ送った切干はもう食べたか。まだまだあるけん、いつでも送るぞ。益田家のご当主から、ぎょうさん大根もろうて、おらあひとりでは食べきれんけん、切干にしとうよ。まだまだあるけん心配せんよう。今年の冬はぞんがいきびしかったけん、切干のできもよいと思うとうよ。そっちはどうじゃった。かぜひかなかったか。体にはくれぐれも気をつけにゃあいかんぞ。最後に、両手をあわせて伏しておねがいもうしあげるんじゃが、お金をすこし送ってくれや。来月の末に益田家の下の娘さまが嫁にいきなさるけん、どうしてもお祝いをせねばならんのよ。このとおり伏しておたのみもうしあげます。母より」  敬二は最後のところにきて、うんざりした。 「早くくたばりゃいいのに」と声に出して言ってから、手紙を握りつぶして、ビニール袋に放り込んだ。  手紙のおかげで、いっそういらいらした気持になってきた。敬二はめし屋にいってから、会社に向かった。そうでもしなければ、手持ち無沙汰で、パチンコなんかに金を使ってしまいそうだった。地下鉄の中は平日の通勤時とは違って、みんなゆったりとした服装で、親子連れや若い男女がおしゃべりをしていた。敬二は隅の席でうつむいて坐りながら、横目で彼らをちらちら見た。  会社の正面にはシャッターが降りており、敬二は裏に回った。高さ二メートルほどの鉄柵の扉があり、鎖と南京錠で留められていた。敬二は周りを見回してから、柵の真ん中の鉄棒に足をかけてよじのぼった。柵をまたぐのはむずかしく、股間をしたたか打った。鉄棒にかけた足に反動をつけて、ようやくまたぎ、下に飛降りると、敬二は股間を押えて、二、三度両足で飛んだ。  会社の中には誰もいなかった。もし見つかっても、ここの従業員なのだから、別に犯罪にはならないだろうと思いながらも、敬二は周囲に注意を払いながら歩いていった。ロッカールームのところに来て、敬二はドアのノブに手をかけた。しかし鍵がかかっていた。敬二はノブを何度もがちゃがちゃさせたが、無駄だった。事務所のドアも試してみたが、やはり鍵がかかっていた。  敬二はアルミのドアを足で思い切りけった。思わぬ大きい音がして、敬二は体を硬くさせた。しかしその音に反応する声もなく、敬二はあわてて裏門に走った。  翌月曜日、背中にホルダーをつけて仕事から帰ると、敬二はいつもより時間をかけてナイフを磨いた。二日手入れしなかったために、心なしか刃が曇っているような気がして、特に念をいれて拭いた。わずかなカーブを描いて輝いている刃先を見ていると、何かを切裂きたい衝動が湧いてきて、敬二は周囲に顔を向けた。目につくものはなかった。冷蔵庫を開けても、何もなかった。仕方なく、ごみ箱代わりにしているビニール袋の端を何回も切裂いた。  四月に入っても涼しい日が続いていたが、中旬になって急に初夏を思わせるような気候に変わった。倉庫の中は換気が十分ではなく、すぐに蒸暑くなり、仕事をしていても汗が出るようになった。夏になれば仕事の量は減るが、それでも夏のことを思うと、今からうんざりした。  そんなある日、会社からの帰りに敬二は新しいシリコン布を買うために途中の駅で降りた。地下街を通って、地上に上がる階段のほうへ行こうとしたとき、一人の若い女に前を塞がれた。 「ちょっと話を聞いてもらえませんか」とその女は言った。髪の長い女で、女子大生のような感じだった。書類ばさみのボードを片手で抱えている。  敬二は戸惑い、持っていたカバンを盾のように胸の前で構えて、少し体を横にずらした。女も敬二に合わせて、横に動いた。 「ほんとにちょっとの間でいいんです」 「なんだ」 「あなたは今幸せですか」  敬二は一瞬返答に詰まった。 「そんなことおまえに関係ないやろ」  敬二は怒鳴ったが、女は微笑を崩さずに、かすかにうなずいた。 「あなたは神様を信じますか」 「あんた、キリスト教の人か」 「ええ」女は書類ばさみから、一枚のビラを抜取って敬二に手渡した。愛の力は奇蹟を行うと太いゴシック体で書かれており、右下には地図があった。 「そこで日曜日にミサをやっていますし、日曜学校も開いています。一度おいでください。きっと何かが得られます。あなたの人生にとって、何かが変わるはずです」  敬二は女の目、胸を見て、スカートから出ている足、靴と視線を降ろした。そして全体の服装に目をやった。どこにも貧しさといったものは感じられなかった。 「あんた、女子大生か」と敬二は訊いた。女は驚いたような顔をした。 「いいえ、勤めてますけど……」 「勤めて何年や」 「一年です」 「なんぼもうてる」 「え?」 「給料なんぼて訊いてんねん」  女はちょっとためらってから、金額を言った。 「おれ今の会社もう三年や。せやけど給料あんたより少ないで。不公平やと思えへんか」  女は戸惑いを見せながらも、微笑んでいる。 「あんた、大卒か」 「ええ」 「おれ中卒や。給料少ないの、そのせいやと思うか」 「私にはちょっと……」 「神さんのことなんか、どうでもええ。おれの給料少ないの何とかしてくれへんか。貧乏人は中学しかいかれへん、そやから給料少ない。いつまでたっても貧乏人や。これなんとかしてくれへんか」 「だから一度教会へ来てください。そういったことについて、みんなで話しましょう」  女はそう言うと、別の人に声をかける仕草をしながら、敬二から離れていった。 「金がないのに、幸せと言えるかあ」と敬二は女の後ろ姿に向かって怒鳴った。  何となく気分がむしゃくしゃとしていた。カメラ屋に行って、シリコン布を買い、ついでに高級カメラやビデオデッキを眺めたが、面白くない気分は残った。  シリコン布の入ったビニール袋を回しながら地下街に降り、駅に近づいたとき、先程の女がまだいて、通行人をつかまえて何やら話していた。敬二は柱の陰に身を隠して、女を見た。女を真横から見るかたちになった。敬二は背中に手を回し、ジャンパーの上からナイフの柄に触れた。あの女の胸にナイフを突きつけたら、どんな顔をするか。  三十分ほど様子を窺っていたが、女に街頭活動をやめる気配はなかった。腹が減ってきて、敬二はどこかで晩めしを食べることにした。再び戻ってきたとき、まだ女がいれば徹底的にあとをつけてやろうと彼は思った。  地下街を階段とは反対の方向に歩き、適当な食べ物屋を探した。どの店も高そうだった。彼はゆっくりと探して歩いた。こうしているうちに女がどこかへ行っても、それはそれで構わないという気持だった。一種の賭けのつもりだった。  間口の小さい中華料理屋を見つけ、そこに入ってラーメンの大盛りにライスを頼んだ。急いで食べたらすぐに腹がいっぱいになるので、一口ひとくち胃に収めるようにして食べた。スープも残らず飲んでしまうと、汗が出てきて、それが引くまでカウンターの椅子に腰を降ろしていた。勘定を払って表に出、両側のブティックやメンズショップをのぞきながら駅に向かった。  改札口の近くに女はいた。紺色のスカートに白いブラウス姿で、首を振るたびに長い髪の先が背中で揺れた。敬二は女から柱四本ほど離れて、見ていた。通行人がときどきちらっと見るので、敬二は腕時計を眺めたりして人待ち顔を装った。  女はなかなか活動を終えようとはしなかった。敬二はいい加減うんざりして、少し離れたところにある本屋に行って雑誌を立読みしたり、電機会社のディスプレーをのぞいたりして時間をつぶした。  一時間ほどたって、ようやく女は改札口の周辺から離れて、敬二の身を隠している柱のほうへ歩いてきた。敬二は柱の円周に沿って体を移動しながら、女をやり過ごし、そのあとをつけた。女は地下鉄に乗るものだとばかり思っていたが、そうではなかった。女は私鉄電車の乗り場に降りていった。敬二はあわてて階段を降りて、切符の自動販売機でとりあえず一区間だけ買ったが、その間に女の姿を見失ってしまった。  私鉄のホームは三つに分れていて、そのひとつには電車が入っていた。始発駅なので、発車にはまだ間があった。敬二はまず電車の入っていないホームを歩いていって、女を探した。長い髪と白のブラウスと紺のスカートという組合せを探した。  電車の入っていないホームには女は見当たらなかった。そこで電車の止まっているホームに向かいかけたとき、発車のベルが鳴った。敬二はあわてて走っていき、電車の最後部に飛乗った。ドアが閉まり、電車が動き出してから、敬二は前方に向かって歩き始めた。両側の席はすべて塞がっており、十数人ほどが立っていた。敬二はまず立っている人間を気をつけて見てから、つぎに坐っている人間に注意を向けた。  四両目の車両で、女を見つけた。中ほどのところで、席に坐っており、バッグと書類ばさみを膝の上に置いて、目を閉じていた。敬二は女と同じ側のドアのところに体をもたせかけて、女に目をやった。  電車は急行で、最初の停車駅で乗ってくる人間のほうが多かったので、車内はいくらか混んできた。いくら乗客が多くなっても、敬二からは女の横顔が見えた。三つ目の停車駅に近づいたとき、女が顔を上げて窓の外を見たので、敬二は緊張した。電車がホームに入ると、女は立上がって、向こう側のドアに行った。敬二もドアのほうに向いた。  ドアが開き、ホームに押出される。女がまだ降りてこないので、敬二は人の流れに抗して、じっとしていた。女が出てくる。五メートルくらい離れて、ついていった。  自動改札口に近づいたところで、乗越し料金を払わなければならないことに気づいた。ビニール袋をカバンを持った手に持ちかえる。自動精算機があったが、そこでもたもたしていると、女を見失う恐れがあったので、敬二は駅員のところへいった。首をひねって女の姿を捉えながら、ポケットから小銭入れを出して、駅員に硬貨を渡した。駅員はゆっくりとした動作でおつりを数えた。敬二はいらいらしながら待ち、駅員が渡してくれるのをひったくって、女の行った方向へ走った。  駅前は商店街になっており、人の流れが両側と真ん中の道の三つに分かれていた。敬二は素早く首を回して、右のほうに行く人々の中に見覚えのある後ろ姿を見つけた。三十メートルほど先だった。敬二は早足で歩いて、その差を縮め、五メートルくらいまで近づいてあの女であることを確認してから、十メートルくらいまで差を広げた。  商店街は大半の店がすでにシャッターを降ろしており、そこを抜けると大きな車道に出た。そこのところでまた人の流れが車道沿いを行くものと信号待ちをするものとに分かれた。女は数人の人々と一緒に信号のところで立止まった。信号待ちに加わりたくなかったので、敬二は女の後ろ姿を横目で見ながら、左にゆっくりと歩いていった。  少し行くと、自動車の止まり具合で信号が青になったのがわかったので、敬二は向きを変えて、再び女のあとを追った。車道を渡ると、急に辺りが暗くなった。青白い街灯がぽつりぽつりとともる道に入って、二辻目で、そちらの方向に集合住宅でもあるのか、女の前後を歩いていた人々が角を曲がってしまった。敬二は急に動悸が速くなるのを感じた。どうすると思いながら、そのままの間隔を保ったまましばらく歩いた。シリコン布を入れたビニール袋がズボンに擦れて、シャッシャッという音がした。敬二は袋が擦れないように腕を少し離したが、そのとき袋が揺れて不規則な音がした。初めからシリコン布をカバンの中にしまっておけばよかったと後悔しながら、このままでは女が警戒すると敬二は思った。  敬二は歩くピッチを上げた。袋の音も大きく小刻みになった。少し遅れて女の足も速くなり、敬二がさらに速く歩くと、女は歩きながら後ろを振返った。敬二は構わずに女に近づいていき、もう少しで並びかけたとき、女が急に歩調を緩めた。敬二は女を無視してその横を通り過ぎ、どんどん歩いていった。  まっすぐ行くと、高架の高速道路が横切っており、その下は遊歩道になっていた。敬二は遊歩道に入って、高速道路を支えている太いコンクリートの柱の陰に隠れた。柱に背中をもたせかけて、大きく深呼吸をした。ビニール袋からシリコン布を取出して、カバンにしまう。袋は捨てた。  敬二は柱に背中をつけながら、遊歩道の出入口に目をやった。車止めの鉄柱が四本立っている。そこまでの道は遊歩道に沿って植えてある垣根のために見えない。女が現れるかどうか、敬二は賭けていた。しかし女が現れて、どうするのか敬二は決めていなかった。敬二はジャンパーの下に手を入れて、直接ナイフの柄を握って、女が現れるのを待った。  ひどく長い時間が経過したと思われた後、女が鉄柱のところに姿を見せた。耳の裏で鼓動が聞え、喉の奥が締めつけられるような感じがした。どうする。女が近づいてきた。また後ろから追いかける形になるのはまずい、そう思った瞬間敬二は女の前に飛出していた。  女は立止まった。一本の棒のようになって、敬二を見つめた。敬二は口許に薄笑いを浮かべながら、女に近づいた。女は瞬きもせずに敬二をじっと見、脇に抱えていたバッグと書類ばさみを徐々に胸の前に持ってきた。  手を伸ばせば届くくらいまで近づいたとき、女が急に敬二の横をすり抜けて、走り出した。虚を突かれて敬二は手を出すこともできなかったが、女の足はもつれていて、数メートルほど行ったところでよろめき、膝をついた。バッグと書類ばさみが地面に投出された。走っていって、女の肩をつかむ。女は悲鳴を上げると、激しく肩を揺すって、敬二の手を振払い、立上がろうとした。敬二は女の手首をつかんでから、左脇に抱えていた自分のカバンを支柱めがけて放り、女の腹を殴って足を払った。女はあっけなく倒れ、敬二は女の両手首を持って、遊歩道を引きずっていった。重かった。女の頭が反り返り、白眼をむいていた。敬二は女の頭が地面にぶつからないように手首を引上げながら、後向きに歩いた。  コンクリートの支柱と垣根の間に女を引きずり込み、敬二はその隙間に女を閉込める形で遊歩道側に立った。女は手首のところで頭を挟みながら、横倒しになっていた。片方のパンプスが脱げており、足の裏が見えていた。その瞬間敬二は勃起するのを感じた。額から汗が流れているのに気づき、敬二は手の甲で拭った。 「靴を脱げ」と敬二は言ったが、声が震えているのがわかった。女はじっとしている。  敬二は背中からナイフを抜くと、女の顔の横に膝をつき、女の手首を頭からはがした。女は目を閉じ、小刻みに震えていた。 「目を開けろ」と敬二は言った。しかし女は目を閉じたままだ。手首を放すと、また頭にこびりつき、敬二はもう一度手首をはがした。白いブラウスを通して、ブラジャーがうっすらと見え、呼吸につれて上下に動いた。胸元にはブラウスの細いボウが結ばれており、敬二はそこにナイフを入れようとしたが、手が震えるためになかなかうまくいかない。胸を滑らそうとナイフの背を当てたとき、女が短い悲鳴とともに体を丸めた。刃が肘に当たりそうになり、敬二はあわててナイフを引っ込めた。  女の体が痙攣したように波打ち始めた。低いうめき声を上げ、泣いている。敬二は手首を放した。ナイフを背中のホルダーにしまい、泣いている女をしばらく見つめた。  女が体を起こさないのを確認してから、敬二はコンクリートの支柱に沿って歩き、落ちていた自分のカバンを拾い上げた。少し離れたところに女のバッグと書類ばさみが落ちているのが目に入り、敬二はそのほうへ歩いていった。  バッグを拾って、口を開けた。中に財布があり、三万円入っていた。敬二は紙幣を抜取り、ズボンのポケットに押込むと、財布を元に戻し、バッグの口を閉めて、地面に放った。  そのまま行こうとして、敬二は向きを変え、女のところに戻った。女はまだ頭を手首で挟んで、丸くなっていた。敬二は再びナイフを取出すと、女の手の甲を刃でぺたぺたと叩いた。自分でも余裕が出てきたことがわかった。女はびくっとし、さらに体を丸くした。 「これ、なんかわかるか。ナイフや。ひと思いに殺そうと思えばできるんやけど、きょうは止めとくわ。ナイフ見せた駄賃に、金もろたけど、警察に言うたらあかんで。もし言うたら、今度こそ殺すぞ」  それだけ言うと、敬二は女からゆっくりと離れ、遊歩道を出ると、走った。途中でジョギングをしている中年男とすれ違った。敬二は声を出して笑った。  私鉄電車で始発駅まで戻り、地下鉄の駅に行こうとしたが、このまままっすぐにアパートに帰る気にはなれず、敬二は階段を上がって、地上に出た。興奮がまだ体中に残っていた。  アーケードのある通りは人影もまばらで、足を取られた酔払いと肩を貸して支える男や水商売ふうの女、高校生くらいと思われる若いアベックなどがときおり通った。 「兄ちゃん、ええ子おりまっせ」路上の看板の影から出てきた六十がらみのばあさんに声をかけられた。無視して行こうとすると、ばあさんは一緒についてきて、「女が欲しいんやろ。前見たらわかるで」と言った。敬二は思わず立止まって、スボンの前を見た。膨らんでいると思えば、そのように見えないこともなかった。 「どや、図星やろ」ばあさんは引きつるような笑いかたをした。敬二はナイフでばあさんの口を引裂いてやりたい衝動を覚えた。 「たった、これだけや」ばあさんは人差指を立てた。敬二は道路に唾を吐いて、その場を離れた。  裏通りに派手なネオンサインがいくつも輝いている一角があり、そこだけは結構人通りがあった。蝶ネクタイに鉢巻をしたボーイや赤いはっぴを着た客引きに呼止められながら、敬二は店の看板を見て歩き、「ファッションマッサージ ラブリーキャット」という店の前で立止まった。かなり前のことだが、仕事場で主任の読捨てたスポーツ新聞の一つのページに、この店のことが書かれてあったのだ。女子大生ばかりを集めて、本番以外のサービスなら何でもOKというふれ込みだった。客引きはおらず、ポーチ型の入口のまわりを、点滅する小さな電球が二重に取囲んでいるだけだった。そこを入ると、木製のドアがあり、敬二はひとつ大きく息を吸ってから、ドアを開けた。軽快な音楽が流れてきた。  正面に一メートル足らずのカウンターがあり、そこに白いワイシャツ姿に蝶ネクタイを締めた男がいた。 「いらっしゃいませ」男はカウンターに両手をつきながら、深々と頭を下げた。敬二が近づくと、男は「どのコースになさいますか」とカウンターに貼りつけてある料金表を手で示した。四つのコースがあり、敬二はその中で最も高いWスペシャル・エクストラを指さした。二万円だった。女から奪った紙幣のうち、二枚を男に渡すと、男は横の小さなドアから出てきて、敬二を分厚いカーテンのかかっている部屋に案内した。相手を選ぶのである。中は薄暗く、トイレほどの大きさで、正面に小さな窓があった。敬二はその窓に目を近づけた。ソファに若い女が六人坐っていて、雑誌を読んだり、ヘッドホンをつけた頭でリズムを取ったりしていた。どの女も胸に、「ようこ」とか「ひろみ」などとひらがなで書かれた大きな名札をつけていた。服装はばらばらだった。敬二はその中で、ぽっちゃりとした顔の、胸の大きい女が気に入った。  カーテンの外に出ると、男が待っており、「どの子にします?」と訊いてきた。 「はるこ」 「わかりました」  敬二は今度は五つほどドアの並んだ廊下に連れていかれ、手前から二つ目のドアの中に入れられた。中は驚くほど狭く、黄色いカバーのかかった作りつけのベッドがあるだけだった。ベッドの片側は一面鏡張りだった。ロッカーみたいな扉があり、開けるとシャワールームになっていた。扉を閉じ、ベッドに腰を降ろす。天井から流れる音楽に混じって、隣から女の笑い声が聞えてきた。  ドアがノックされ、女が入ってきた。手にはプラスチックの篭を持っている。 「こんばんわあ」と明るい声で言い、女は篭から目盛りのついた円形のものを取出した。敬二がじっと見ていると、「これ見たことない? タイマーよ」と女はつまみを回して、鏡の前に置いた。チッチッチという音がタイマーから聞えた。 「タイマー?」 「そう。これが鳴ったら、そこでおしまい」  敬二がなおも物珍しそうにタイマーをのぞき込んでいると、「早くしないと、時間切れになるわよ」と言って、女は服を脱ぎ始めた。それでも敬二はベッドに坐って、女がブラジャーとパンティだけの姿になるのを見ていた。 「どうしたの。脱ぎなさいよ」女は持っていたスリップを敬二のほうに投げかけた。下半分をブラジャーで覆われた乳房が上下に揺れた。敬二は脇に抱えていたカバンをベッドに置き、靴を脱いで女のサンダルと同じように隅に置いた。そしてジャンパーを脱ぎ、ベルトの止め金をはずした。ズボンを足から抜こうとして、ナイフの重みのために勢いよく床に落してしまった。 「何、それ」女はズボンの中にホルダーを見つけた。 「ああ、これ」敬二は脱いだズボンを持上げて、ホルダーからナイフを抜いてみせた。女の表情が変わった。 「それ、本物?」と女が小声で言った。 「ああ」敬二は女の目の前に、刃を上向きにして突出した。女は恐る恐る手を出し、人差指で刃にちょんちょんと触れた。敬二はベッドの足許にあったティッシュペーパーの箱を取って、その底をナイフで切裂いた。 「わあ、本物」女は、底がきれいに裂けたティッシュペーパーの箱を敬二の手から取って、裂け目に親指を突込んで広げてみせた。 「あなた、もしかして、やくざ?」 「そう見えるか」 「うーん」女は腕を組む仕草をして、敬二を見た。「今どきのやくざなら、ナイフよりもピストルだから……違うでしょ?」 「なるほど、ピストルか」敬二は思わず笑った。 「やくざ?」 「いいや」 「じゃあ、どうしてナイフなんか持ってるの」 「持ってたら、あかんか」 「あかんことはないけど、誰かを刺すつもり?」 「さあ」 「ちょっと見せて」女はナイフに手を伸ばした。敬二はあわてて引っ込めた。 「いいじゃないの、あたしにちょっと持たせて」  敬二はためらった。 「じゃあ、あんたが服を脱ぐ間、あたしが持っててあげる。それならいいでしょ」  敬二はしぶしぶナイフを女に渡した。女はナイフの重さを計るように手を動かしながら、「意外と重いのねえ」と言った。敬二は素早く上半身の服を脱ぎ、パンツ一枚になった。 「それも脱がなきゃだめよ」と女がナイフでパンツを指した。勃起しているため恥ずかしかったが、敬二はパンツを降ろした。 「わあ、かわいい」と女は指で敬二のペニスをはじいた。 「これ、切取っちゃおうかしら」とペニスにナイフを近づけたので、敬二はあわてて女の手からナイフを取戻し、ホルダーにしまった。女はおかしそうに笑った。  女も下着を脱ぎ、一緒にシャワールームに入った。部屋と同じくシャワールームも狭く、シャワーを使おうとすると、自然に体と体がくっついた。女が壁にかかっていたシャワーの先をはずして、輪をつくった掌でしごくようにしてペニスを洗ってくれた。お返しに、敬二も女の股ぐらにシャワーをかけ、人差指と中指を滑らせて洗った。その指を腹から胸に上げていき、乳房を揉み、乳首をつまんだ。女は体をくねらせた。  棚の上にあったバスタオルを取って、女が先に出た。後から出ると、女はバスタオルを胸から巻いて、ベッドに坐っていた。敬二はマットの上で体を拭き、腰にバスタオルを巻いた。 「はい、これ」と女はストローを突刺した紙パック入りジュースを敬二に手渡した。敬二が戸惑っていると、「これはここのサービスよ。料金の内。さっきあそこに入れて持ってきたのよ」とプラスチックの篭を目で示した。  敬二は女の横に腰を降ろして、一息に飲み干した。ジュースはまだ冷たくて、湯で火照った体に気持がよかった。 「おまえ、ほんとに大学生か」と敬二は訊いた。 「気になる?」女はいたずらっぽく笑った。 「いや、ただちょっと新聞で読んだもんやから……」  弁解するように敬二は小声で言った。 「誰でもおんなじこと訊くんよねえ」と言いながら、女はハンガーにかけてあるグレーのブルゾンのポケットから、定期入れのようなものを取出した。それを敬二の目の前に持ってくる。敬二が手に取ろうとすると、「だめだめ」と引っ込め、再び差出した。目を近づけると、透明シート越しに女の写真が見え、学生証という字と大学の名前が見えた。女の名前と住所は透明シートに塗った黒いマジックインクで見えなかった。 「どう、信用した?」学生証を引っ込めながら、女が言った。偽物かもしれないと思ったが、敬二は素直にうなずいた。 「ばかねえ」女が急に笑い出した。「こんな紙切れ、信用したらだめよ。いくらでも偽物が作れるんだから」  敬二はつられて一緒に笑った。女が急に身近になったような気がした。 「でも、あたしは正真正銘の女子大生よ」と言って、女は舌を出した。敬二はもう一度笑った。  学生証をブルゾンのポケットにしまうと、女はタイマーをのぞき込み、「いけない。早くしないと、時間がなくなっちゃうわ」とバスタオルをはずした。二つの乳房が敬二の目の前で揺れた。 「横になって」と女が言った。敬二はバスタオルをはずして床に落し、ベッドに横たわった。 「元気ねえ」と女はペニスの裏を指で触った。敬二は鏡に映った自分の顔を見、視線を少し足許に向けて、鏡の中の女を見た。女はプラスチックの篭から、シャンプーの容器のようなものを取出して、掌に受け、それをペニスに塗りつけた。オイルか何かだった。ペニスをしごき、五本の指で先端を包み込むように刺激した。指はさらに睾丸をつかみ、汗とオイルに濡れた肛門まで押えた。  敬二は腕を伸ばして、女の尻を触った。太腿の間に指を入れると、女は一瞬押しつけるようにしてから、尻を引き、敬二の脚の間に回った。そして今度は舌を使い始めた。肛門から睾丸へ、しわの間に舌先を埋めるようにしてペニスにいき、何回かなめてから口にくわえ込んだ。唇と舌で十分刺激してから、女は体の向きを変えて、尻を敬二の顔のほうに持ってきた。敬二は女の腿を手で割って、薄い陰毛で縁取られた割れ目に急いで舌をはわせた。女がすっと尻を持上げ、再び降ろした。舌を使うと、女はまた尻を上げ、敬二は今度はできるだけ柔らかくなめた。女の体がときおり痙攣し、その度に歯がペニスに当たった。  敬二は強姦しそこなった女のことを思い出していた。あの女もこれと同じものを持っているのだ。あのとき無理にでも裸にして、ペニスをねじ込んでやれば……。そう思うと、急に絶頂がきた。敬二は太腿をつかんだまま、白いブラウスの女を強姦している自分の姿をだぶらせながら、女の口の中に射精した。  終って、女は鞍から降りるみたいに敬二の体から離れ、ベッドの横に立った。そして萎えたペニスにウエットティッシュをあてがうと、口を押えて、シャワールームに入っていった。敬二は低い天井を見つめて、しばらくじっとしていた。スピーカーから流れるテンポのある音楽に混じって、シャワーの音が聞えていた。  突然、足許でジリジリという音がし、敬二は上半身を起した。タイマーが鳴っているのだった。どうしたらよいのかわからないので、敬二はとりあえずペニスをウエットティッシュで拭いた。  シャワールームから女が裸のまま出てきて、床に落ちているバスタオルを拾い上げた。体を拭きながら、ベッドに近づき、タイマーを止めると、「シャワー、どうする」と訊いた。敬二が考えていると、「早くしないと、延長取られるわよ」と言った。  敬二はウエットティッシュで拭いただけで、服を着た。 「それ、邪魔にならない?」敬二がズボンをはいていると、女がナイフを指さして尋ねた。 「別に」 「でも、背中を曲げたりしたときなんか、痛いでしょ」 「曲げへんかったら、ええんや」 「そりゃそうだけど……」突然女が笑い出した。それも息が止まるような笑い方だった。 「何がおかしいんや」ベルトを締める手を止めて、敬二は訊いた。女はなかなか笑いが収まらず、しばらく喉をひくひくさせた。 「だって」と女はバスタオルを巻きつけた胸に手を当てながら言った。「前にも後ろにも変な物をぶらぶらさせているんだもの」  女の言う意味に気づくと、敬二はゆっくりと笑った。同時にペニスが再び勃起してくるのを感じた。  女も手早く服を着替え、それがすむと、ブルゾンのポケットから紙切れを取出して、敬二に手渡した。名刺だった。普通の大きさよりもひと回り小さく、角が丸くなっていた。店の名前と「はるこ」という字と電話番号だけが印刷されていた。 「また来てね。今度はもっとサービスするわよ」と言って、女はウインクしてみせた。敬二は何も書かれていない裏まで目をやってから、名刺をカバンの中にしまった。女は店の外まで出てきて、敬二に向かって、小さく手を振った。敬二は横目でその様子を見てから、背を向けて歩き始めた。  地下鉄の車内には赤い顔をしたサラリーマンや水商売帰りの女などがいて、席はだいたい塞がっていた。敬二は隙間を見つけると、そこに割込み、向いに坐っている人間を上目使いで見ながら、口に手を持っていった。そして口の周りをこすり、指先を鼻の穴に当てた。女の粘液の臭いが残っていた。  アパートに帰り、敬二は買ってきたシリコン布で、いつもより念を入れて、ナイフを拭いた。女のブラウスのボウを切損なったことが甦えってきて、敬二はナイフに対して申し訳ないような気持になった。ナイフの力を十分に発揮できる場面に出会いながら、それができなかったことに腹を立てたのだった。  翌日、出勤した敬二は、昼休みの時間に、事務所の応接室に置いてある新聞を取ってきて、きのうのことが記事になっていないか調べた。片隅の小さな記事を特に気をつけて読んだ。新聞は三紙あって、すべて目を通した。しかしどこにもきのうのことは載っていなかった。敬二はひとまず安心した。女が警察に行かなかったという保証はどこにもなかったが、その可能性は大いにあると思えたからだった。それでも敬二は地下鉄があの女と出会った駅に停車したときなどは、乗ってくる女たちに注意したし、どんなことがあってもその駅で降りようとはしなかった。  女から奪った金はまだ一万円残っていた。敬二はその紙幣だけ別に、唯一持っている革靴の中に入れておいた。出勤するときや帰ってきたときにドアの端にある靴を見て、あそこにあると思っていたが、そのうちに早く処分したほうがいいような気になってきた。もう一度ファッションマッサージの店に行くには、あの駅で降りなければならないし、あのあたりをうろつかなければならない。そう考えたとき、敬二は母親が金の無心をしていたことを思い出した。女から奪った金を送金するのは素晴らしいアイデアのような気がし、敬二は早速実行した。一週間ほどたって、母親から手紙が届いたが、敬二は封を切りもしないで、ビニール袋に捨てた。  四月の下旬になって、アルバイトの顔ぶれが何人か替わった。学生が減って、アルバイトを専門にしている男たちが入ってきた。  ある朝出勤して、トイレでナイフのホルダーを抜き、カバンに入れて出てきたとき、敬二はピンクのトレーナーを着た若い女とぶつかりそうになった。 「おはようございます」と女は明るい声で言って、頭をちょっと下げた。初めて見る顔だった。 「おはようっす」と敬二は答え、女がトイレに入るのをちらっと見てから、ロッカールームに行った。主任が女子大生のアルバイトが入ったことを教えてくれた。事務所の横の作業場では、パートの中年女たちが単票の問題用紙の仕分けをしていたが、そこに三人の女子大生が入ってきたのだ。  女子大生たちが入ってきてから、アルバイトの連中は昼休みに倉庫に戻らずに、休憩室に行くようになった。敬二は主任と二人で倉庫の床に段ボールを敷いて、寝転がっていたが、三日ほどたって、新聞を見にいくという口実を作って、休憩室に行った。  休憩室の正面にはテレビが置いてあり、それに向き合うように細長いテーブルが四列並んでいた。その間にパイプ椅子が雑然と置かれている。椅子に坐って、弁当を食べている者も何人かいた。壁際にはホットコーヒーの自動販売機があり、女子大生たちはテーブルの端を囲むように腰を降ろして、コーヒーを飲んでいた。テレビを時折見ながら、おしゃべりをしている。そこだけがにぎやかだった。留学帰りともうひとりの学生と新しく入ってきたアルバイト専門が自動販売機からコーヒーを取り、その紙コップを持って、女子大生たちに近づいていった。たちまちにぎやかな輪が広がった。  出口近くの椅子の上に事務所の新聞が置いてあり、敬二はそれを手に取って、腰を降ろした。拾い読みをしながら、ときどき女子大生たちに視線を滑らせた。  昼休みが終って仕事を開始したとき、胸の大きい女子大生が追加の伝票を持ってきた。 「ここですか。ずいぶん広いですね」と女子大生は倉庫の中を見回した。 「これでもまだ狭いぐらいやで」と主任が答えた。 「何種類くらいの本がありますのん」 「さあ、二百くらいと違うか。なあ」主任は敬二に声をかけた。 「たぶんそのくらいやと思うけど……」箱の中の伝票を見ていた敬二は顔を上げずに答えた。 「二百もあったら、探すの大変でしょうね」と女子大生は主任と敬二の両方に言った。 「最初は難しいけど、要するに慣れや。慣れたら何でもないで」と主任は言った。「とは言うものの、みんな覚えているのはこいつだけやけど」 「いやあ、全部覚えてはるんですか」と女子大生が敬二に言った。 「まあ、それが仕事やから」 「どや、ちょっと見せたってみ」  敬二は答えないで、伝票の枚数を数える振りをした。 「すいません」とアルバイトが声をかけてきた。「小学五年理科の楽しいドリルはどこでしたあ」 「右四列目の奥から二番目のパレット」  アルバイトに指示して向き直ると、女子大生が感心したような顔で見ていたので、敬二は照れ笑いをした。 「一枚目の伝票、ちょっと見せてみ」と主任が言った。敬二は手に持っていた伝票の束の一番上を主任に渡した。 「保健体育に国語に社会か」そう言って、主任は伝票を女子大生に見せた。「これバイトにやらせたら、十分はかかるけどな」  主任は伝票を敬二に返しながら、「これだけでもやって見せたれや」と言った。敬二はしぶしぶといった表情を見せて、空の段ボール箱を手に倉庫の奥に進んでいった。目的のパレットに向かうにつれ、脚が速くなった。主任に乗せられていると思っても、嫌な気持はしなかった。  五分とかからずに集め終え、敬二は段ボール箱をローラーコンベアーに乗せて押していった。女子大生のまわりには留学帰りと学生がいて、何やら話していた。 「お、えらい早いやないか」と主任が冷やかした。そばにいた三人が敬二のほうを見た。 「まあ一応検品しとこか」と主任は箱を開け、中にあった伝票と本を調べた。 「合格」主任は箱を叩き、ガムテープで封をした。そして伝票を貼る前に、それを留学帰りたちに見せた。 「それだけで三分や」と主任が言った。 「さすがプロですね」と学生が応えた。 「コンピュータ並やないですか」と留学帰りが言った。 「あんたらやったら、どのくらいかかるの」と女子大生が二人に訊いた。 「どのくらい言われても、なあ」と留学帰りが学生に言った。 「問題はこの保健体育なんですよね。たまにしか出ないからなかなか場所が覚えられないんだよね」  二人のやりとりを敬二は笑って聞いていた。 その日は給料日で、敬二は服を着替えてから事務所で給料袋を受取った。カバンには入れずに、ジャンパーの内ポケットに入れた。  地下鉄の駅に向かっていると、後ろから誰かが横に並んできた。昼間伝票を持ってきた胸の大きい女子大生だった。敬二は動揺したが、彼女ひとりで他の女子大生が一緒ではないとわかると、少し落着いた。 「ちょっと訊いてもいいですか」と彼女は言った。 「うん?」 「本当に倉庫の中の本を全部覚えてはるのん」  彼女の無邪気な言い方に、敬二はむっとするよりも笑ってしまった。 「覚えてるよ」 「なんかコツでもあるんですか。ほら、テレビなんかでよくやっている記憶術みたいな」 「三年やってたら、誰でもおぼえるのんと違うかな」 「やっぱり繰返しやろか」  女子大生は自分に言い聞かせるような言い方をした。 「わたし、記憶するのが苦手やから、なんかコツがあったら教えてもらおうと思たんやけど、やっぱりそんなんありませんね」  敬二は横目で彼女の胸から腰のあたりを見た。小柄な割に十分発達しており、体全体が弾むような感じだった。敬二は二週間ほど前に行ったファッションマッサージの女子大生を思い出した。垂れ下がるほどの乳房の感触と股間の匂いを思い出した。敬二は途端に勃起し、そのことを隣の彼女に気づかれはしないかとひやひやした。 「他の友達はどうしたんや。一緒と違うのんか」照れ隠しもあって、敬二は自分のほうから話しかけた。 「あの子ら、用事があるとか言うて、さっさと帰ってしもたんです」 「何でまたこんなところへ、アルバイトに来たんや」 「頼まれたんです。友達のひとりがあの会社のえらいさんの知合いで、それでやってみいひんか言われて」 「もっともうかる仕事あると思うけどな」 「それでも面白いですよ。いろんなおばちゃんがいてるし、話聞いてたら、社会勉強になって」  地下通路に降りる階段のところで、彼女が立止まった。 「ねえ、喉渇いてません?」 「え?」 「わたし、何だか急にコーヒーが飲みたくなって」  敬二はそこでようやく気がついて、「そんなら、どこかに入ろか」と言った。 「知ってるお店があるねんけど、そこでよろしい? ここへバイトに来るようになって見つけましてん。友達とこの前入ってんけど、結構おいしいコーヒーを飲ませてくれますよ」  彼女の案内で、小さな通りを入ったところにある丸太小屋風の喫茶店に入った。女と二人で喫茶店に入るのは初めてだったので、敬二は落着かない気持だった。コーヒーを注文して、それが来るまでの間胸の大きい女はどうしてこの店を見つけたかということを話したが、敬二はほとんど聞いていなかった。コーヒーが来て、彼女はしきりに、おいしいでしょと同意を求めた。コーヒーの味など全くわからなかったが、敬二はふんふんとうなずいてみせた。  女はそれから一緒にバイトにきている友達のことや大学のことを話したが、興味がなかったので適当に相槌を打つだけだった。そうしながら、さりげなく女の胸を見た。ぴったりとしたセーターのせいで、胸の形が露わだった。  女の話が途切れて、敬二は目のやり場に困った。かといって、こちらから話すことは何もなかった。 「そのカバン、いつも大事そうに持ってはるけど、何が入ってますのん」と女が横の座席に置いたカバンに目をやった。 「ああ、これ」敬二は小さく笑った。 「仕事で使ってはるのん」 「いいや」  敬二は痴漢に間違われないためにという話をした。女は声を出して笑い、「それで、わざわざ買いはったん?」と訊いてきた。 「いいや」敬二は健康食品のセールスマンをしていたときに、買わされたことを話した。 「セールスマンしてはったん?」と女は敬二の話に興味を示した。 「どんな健康食品やったん」と訊かれて、敬二はクコ茶とか黒酢、小麦胚芽油、植物繊維素など覚えている限りの名前を言った。 「セールスマンて、なかなかドアを開けてもらえないでしょ」 「そうや、そこが一番苦労したなあ」  敬二は、ドアを開けてもらうために、百円硬貨を利用する方法を話した。インターホンを押して相手が出てきたときに、玄関前に百円硬貨が落ちてましたよと言うと、大抵の主婦はドアを開けてくれたのである。これは先輩のセールスマンが教えてくれた方法だったが、女には、教えてもらったとは言わなかった。  女はしきりに感心し、セールスの仕事のことをいろいろ訊いてきた。敬二は六カ月しかセールスの仕事をしなかったので、ほかに話すほどのことはなく、そのことを言うと、「それで今の仕事に?」と訊いてきた。敬二は首を振った。セールスマンの次は、日雇いの土方仕事だった。というのも、セールスマンは完全歩合制だったので、契約が取れなければ給料がなかった。敬二はほとんど契約が取れず、自分が持出すほうが多くて、アパートの家賃も払えない始末で、ついにはアパートを追出され、公園で寝起きした。食うためには、日銭が必要で、日雇いしかなかったのだ。  そのほかに、卵の厚焼きを作る工場で働いたり、板金工をやったり、ウェイター、仕出し屋のアルバイト、大工の見習い、チラシ貼りなど、仕事を転々とした。今の倉庫係という仕事が最も長続きしている。  女に仕事遍歴の話をすると、ひどく面白がり、敬二はそのことが意外だったが、女を面白がらせているとわかると、より熱心に話をした。他人に自分のことを、こんなに話したのは初めてだった。  女のコーヒー代も一緒に払って、喫茶店を出た。地下鉄の駅に降り、改札口を入ったところで、帰る方向が反対なので二人は別れた。 「ごちそうさま」と言って、女は小さく手を振った。敬二はちょっとうなずいてから、背を向けた。  ホームに降りると、ちょうど電車が入っており、急いで乗った。向かい側のホームを見ると、白いセーターを着た女が降りてきたところだった。  電車が動き出す。始めのうちはアパートに帰ることしか頭になかったが、盛り場のある駅に近づくにつれ、気が変わった。この前のファッションマッサージに行ってやろうと思ったのだ。あの駅で降りるのはまだ危ない気がして、敬二はひとつ手前の駅で降りた。国道沿いに歩くのはやめて、裏通りを行った。  二十分ほど歩くと、アーケードのある繁華街に出た。勤め帰りのサラリーマンや若い男女が大勢歩いていた。この前とはだいぶ感じが違っていた。敬二は記憶を頼りに歩いていき、やっと風俗営業の店が並んでいる通りに出た。ここはまだ人通りが少なかった。呼込みの男たちも積極的に声をかけてくるわけでもなく、煙草を吸ったり、同僚と話をしたりしていた。 「ラブリーキャット」は営業中の札を出しており、豆電球のポーチも点滅していた。敬二は空のカバンを開け、名刺入れのポケットから一枚だけある名刺を取出した。それを持って、中に入った。前と同じ男が迎えてくれた。 「この子いてるか?」と敬二は名刺を見せた。男は名刺を受取ると、「はるこちゃんねえ」とため息をついた。少し笑っている。 「申し訳ありませんが、この子はもういないんですよ」 「やめたのか」 「ええ」 「いつ」 「一週間ほど前ですか。急に来なくなって」  敬二は少しの間黙った。考えがうまくまとまらなかった。 「電話番号か何かわかるか」 「はるこちゃんの?」  敬二はうなずいた。 「それはうちのほうでは。うちでは名前も住所も電話番号も一切訊かないことになってまして。給料も日払いがほとんどですしね」  どうしようかと敬二は思った。男がカウンターから出てきて、「はるこちゃんだけじゃなく、他にもいい子が大勢いますから、どうぞ」と奥に入るように促した。敬二が渋っていると、「ここまでおいでになったんですから、見るだけでも、ね」と敬二の肘をつかんだ。  敬二は男に引張られるように奥に行き、分厚いカーテンの中に入った。小窓から部屋をのぞく。三人しかいなかった。右端の女の感じがショートカットの髪型のせいかアルバイトの女子大生に似ており、敬二はその女を指名した。男にコースを訊かれて、敬二は前と同じWスペシャル・エクストラにした。そしてジャンパーの内ポケットから給料袋を少しだけ引張りだして、一万円札を二枚引抜き、男に渡した。  しかしその女は前の女と違って、愛想がなく、ほとんど義務感でやっているという印象だった。かといって、素人っぽいというわけでもなく、変に手馴れたところがあった。それにズボンを脱ぐときなど、ナイフの柄とホルダーが目に入っているはずなのに、全く関心を示さなかった。お互いの性器をなめ合うときでも、女は反射的に体をぴくんとさせるだけで、興奮していないのは明らかだった。射精も口の中では受けずに、寸前に唇を離すと、ティッシュペーパーを何枚か当てがった。  最初と同じように別々にシャワーを浴び、服を着た。部屋を出る前に、女は型通り名刺を渡したが、敬二は店の外に出ると、それを破り捨てた。  あんな女に二万円も出すんじゃなかったと敬二は後悔した。スペシャルだけでよかったのに、男の口車に乗せられてと思うと、気分がむしゃくしゃした。ここへ来るときは危なくないか気になったが、今ではもうどうでもよくなって、敬二は堂々と地下鉄の駅のほうに歩いていった。途中で晩ごはんを食べていないことに気がついて、ちょうど目についた餃子の店に入った。そこで餃子を五人前食べ、ビールを三本飲んだ。  少しいい気持になって、地下鉄に乗った。まだ勤め帰りの人間がいて、席は全部ふさがっていた。敬二はナイフを振回して、席に坐っている人間を立たせ、そこに横になりたかった。そんなことを考えながら、敬二は吊革に両手でつかまって、前の席の男にニンニク臭い息を吐きかけた。  敬二の降りる駅の三つ手前で、斜め右の席にいた女が立上がり、ちらっと敬二のほうを見てから、電車を降りた。OLのようだった。敬二はその女のいやそうな目を頭の中で反芻していたが、ドアが閉まる寸前、飛降りた。  急いで階段を上る。チェックの上着を着た女は、自動改札口を出るところだった。敬二は足許に目を落して、他の乗客の後について改札口を出た。出てすぐのところには出口はなく、構内の両側に分かれていた。女は右に行く。敬二はその後ろ姿をしばらく見送ってから、左のほうへ走っていった。酔いが急に回ってきたが、構わず走り続け、三号出口と四号出口に分かれているところで、女の姿を求めて振返った。しかしチェックの上着を着た女はすでに階段を上ったのか、姿が見えなかった。敬二は一瞬迷ってから、三号出口の階段を二段ずつ上った。  出口は国道に面しており、ヘッドライトをつけた自動車が行き交っていた。敬二は国道沿いに走って、離れたところの出口に向かった。国道に交わる道のところでは、わずかに立止まって女の姿を探したが、見当たらなかった。一号出口を通り過ぎ、しばらく行っても、女の姿はなかった。  敬二は舌打ちをして、国道の向こうにある二号出口を見た。どうしようかと思ったが、ちょうど信号が赤になって、ヘッドライトの流れが止まったので、向こう側に走って渡った。出口のほうに走りながら、さっきと同じように女の姿を見つけようとしたが、だめだった。  二号出口のすぐ横は一方通行の道で、坂になっていた。途中で曲がっているため、そこから先は見えない。敬二はその道を上っていった。それまでのように走ることはできず、意識的にけりを強くすることで速く歩いた。今まで見つからなかったのだから、あの女はこの道にしかいないという確信めいたものがあった。  曲がっているところを上りきると、道は平坦になり、五十メートルほど先に人の影が見えた。街灯がついていたが、かなり暗かった。スカートから出ている足のせいで、女であることはわかったが、街灯の照らす範囲に入ったとき、女の上着の色が目に入った。白っぽい色で、チェックではなかった。  敬二は立止まって、引返そうと一旦向きを変えたが、すぐに気が変わった。別にあの女でも構わないんだ。そう思うと、急に動悸がしてきた。  再び向きを変え、敬二は女の後をつけ始めた。道の両側は学校か何かなのか真っ暗な建物がたっており、コンクリートの塀が続いていた。道の先のほうにはにぎやかなところがあるのか明りがいくつもついている。敬二は後ろを振返った。誰もいない。  ここしかないと敬二は走り出した。途中で右手を背中に回して、ナイフを抜いた。ゴム底の靴にもかかわらず、鈍い足音が塀に反射して響いた。その音のせいか、二十メートルくらいまで近づいたとき、女が歩くのをやめて振返った。敬二はあわてて右手を後ろにやってナイフを隠した。  ジョギングをしているような感じで、走っていく。女との差が次第に詰まり、女は道を開けるように塀際に寄った。長い髪をした細身の女だった。敬二は息苦しさを感じながら女に近づいていき、女がさらに寄って、すれ違った瞬間、急に立止まった。女は背中を塀につけ、肩から下げたバッグの紐をつかんでいる。  敬二は女に笑いかけてから、左脇に抱えていたカバンを盾のようにして素早く女の胸に押しつけた。そのとき女がいきなり悲鳴を上げた。どこにそんなエネルギーがあるのかと思えるほど、大きな声だった。敬二は焦った。頭の中が熱くなり、あわててナイフを女の目の前に突出した。女はナイフを見ると、さらに大きな声を出し、首を振って、両手でナイフを払いのけようとした。敬二はとっさにナイフを引いたが、女の肘のあたりをこすった。それでも女は腕を振った。  不意にヘッドライトの明りが当たった。反射的に目を向けると、自動車がこっちにやってくるのが見えた。 「このやろう」と叫んで、敬二は女の腹を膝でけり上げた。女は喉に詰まるような低い声を出して、体を折曲げようとし、敬二はカバンを押しつけて支えた。悲鳴も抵抗もしなくなった。  自動車が通り過ぎ、敬二は押しつけていた力を抜いた。女は腹に両手を当てたまま、塀に背中をこするようにしてしゃがみ込んだ。敬二はバッグを取ろうとしたが、肩紐が女の肘にかかって取れない。カバンを脇に挟んだまま、バッグを引張り、肩紐をナイフで切った。  バッグを手にすると、敬二は何かしらほっとした。同時に女に対して、憎しみが湧いてきた。敬二は女の頭をけり、横倒しになったところで、女の顔を踏みつけた。 「手間を取らしやがって」敬二は吐き捨てるように言ってから、ナイフをホルダーにしまい、紐の切れたバッグを持って、来た道を走った。  坂を降りたところで、敬二は地下鉄の出入口の陰に隠れて、バッグの中を開けた。ハンカチとかコンパクトとか色々な物が詰まっており、その中でまず財布を探した。柔らかな手触りの皮でできた臙脂の財布があった。それを取出して、指で広げる。中は札入れが二つに分かれていて、それぞれ紙幣が数枚ずつ入っていた。  地下鉄の階段を上ってくる靴音がしたので、敬二は財布をジャンパーのポケットに入れ、バッグを閉じた。乗客が五、六人出てきて、そのうちの一人が坂のほうに曲がってきた。敬二はバッグを背中に回して、じっとしていた。会社帰りらしいその男は敬二のほうにちらっと目をやってから、坂を上っていった。  男の背中をしばらく見送ってから、敬二は陰から出た。あの男が女を見つけると、騒ぎが始まるような気がして、敬二は焦った。とりあえずバッグを処分しなければならない。  信号を渡ったところに、二十四時間営業の牛丼屋があった。そのオレンジ色の看板の奥に、大きなゴミ容器が置いてあるのが目に入った。敬二は信号が青に変わったところで、走って国道を渡り、回りに人がいないことを確かめながら、ゴミ容器に近づいた。青いポリ容器のふたをずらして開ける。そのとき急に捨てるのが惜しくなった。せっかくナイフまで使ったのだから、もう少し自分のものにしておきたいという気になったのだ。かといって、このまま持運ぶには目立ち過ぎる。敬二はポリ容器から離れ、建物と建物の暗がりに入って、バッグの中身をカバンに移した。バッグを逆さにして、小物も全部移し替えた。そうやって、空のバッグを牛丼屋のポリ容器に放り込んだ。  大きな仕事をひとつ成し終えたような気持になって、敬二は地下鉄の階段を降りていった。酔いもすっかり醒めていた。自動改札口に近づき、ズボンの尻ポケットから定期券を取出そうとして、右胸のあたりに赤黒い血がついているのに気づいた。細長い跡で、上のほうがこすれている。敬二はとっさにカバンを胸に当て、詰所にいる駅員を見た。駅員はこっちを見ずに、下を向いていた。他に乗客はいない。敬二はカバンを胸に当てたまま、改札口を通り、便所へいった。誰もいない。一番手前に入り、扉を閉めた。そこでジャンパーを脱ぎ、ベルトからホルダーを抜いて、カバンに入れた。ジャンパーは裏返しにして、手に持った。  電車はすいていた。敬二は空いているシートの真ん中に腰を降ろし、疲れた顔の乗客たちに目をやった。自然に笑いがこみ上げてくる。われながらうまくやったと敬二は思った。あの暗がりでは、女はおれの顔をはっきりとは見ていないだろうし、出入口のところですれ違った男にしても、俺が犯人じゃないかと後で気がついても、顔を思い出せないだろう。ただ、自分の降りる駅と三つしか離れていないということだけが、唯一の気がかりだった。  アパートに帰ると、敬二は流しで、まずジャンパーの血のついた部分だけ洗った。まるごと洗うと、あした着ていくものがなかった。ナイフを持歩かないつもりなら、他にあったが、そんなことは考えられなかった。  水だけではきれいに落ちず、せっけんをつけてもみ洗いをした。かすかに跡が残る程度になって、ふたたび水洗いし、ハンガーにかけた。  それから卓袱台を蒲団の横に引張ってきて、その上にカバンと女の財布を置いた。あぐらをかいて、まず財布の中身を全部出した。一万円札が三枚と千円札が七枚。ファッションマッサージの下らない女に払った分を差引いても、一万七千円のもうけだった。  カバンの中身も全部あける。ナイフとホルダーは畳の上において、その他のものを卓袱台に並べた。ハンカチ、ティッシュ、定期券、コンパクト、口紅、ブラシ、チューインガム、手鏡、ボールペン。他に使い捨ての歯ブラシみたいな細長い紙袋があり、破って中を取出した。一見棒つきキャンデーのようだったが、中空の棒を抜取ると、中から紐が出てきた。始めは何かわからなかったが、しばらくいじっていてタンポンであることに気づいた。テレビのコマーシャルで、こんな物があったことを思い出したのだった。ファッションマッサージの女の部分が頭に思い浮かび、そこにタンポンを次々にねじ込んでいるところを想像して、敬二は興奮した。不意に恐喝のとき女を塀に押しつけた感触が甦り、今度はその女の陰毛に覆われた部分を想像した。そこに挿入されるはずだったタンポンを眺めていると、ますます興奮してきて、敬二はズボンのジッパーを降ろして勃起したペニスを取出した。そしてハンカチの匂いをかぎ、ブラシの匂いをかぎ、女を犯している場面を思い浮かべながら、自慰をして、女の持っていたティッシュに射精した。  終って、敬二は定期券を手に取った。端のほうに女の名前と年齢が書かれてあった。敬二よりもふたつ歳上だった。女の名前を知ることによって、女の存在が急に自分に近しいものとして感じられた。  敬二は女から奪ったすべてのものを、タンポンや破った袋までも紙袋に入れて、押入れのナイフの木箱の上にしまい込んだ。それがすむと、今度はナイフの手入れだった。合板のめくれたタンスからシリコンクロスを取出してきて、まずホルダーから拭いた。柄の部分は唾をつけて磨いた。滑り止めのために彫られている図柄のへこんだところが黒くなっており、敬二はクロスの上から爪を立てて、汚れを取った。外側を拭いてしまうと、敬二は検分するようにホルダーを回し、ゆっくりとナイフを抜いた。刃に目を近づけてみる。女のバッグの肩紐を切ったときについた曇りが真ん中あたりにあり、切先には三ミリほどの別の曇りがあった。その中に小さな黒い点々が見える。敬二は鼻を近づけ、舌先でなめてみた。気のせいか微かに血の臭いがした。敬二は女を襲った場面を思い出してみたが、女を傷つけたときの感触はまるで残っていなかった。女が抵抗したときだから、腕のどこかのはずだが、記憶になかった。初めて人を傷つけた感触が手に残っていないのは残念だった。できればもっと意識して、手にしっかりと感触を残しておきたかった。  記念すべき血の跡を消すのは惜しかったが、敬二はスプレーの油を吹きつけてシリコンクロスで磨いた。曇りは完全に消え去り、刃は元の輝きに戻った。  翌朝、さすがに地下鉄に乗るのがためらわれた。たとえ車内で女に出会ったとしても、自分が女の顔を覚えていないのと同じく女のほうも自分の顔を覚えていないという気がしたが、意外と服装は記憶に残っているような感じがした。それでズボンはジーンズに替えたが、上だけはまだ生乾きのジャンパーをそのまま着た。ナイフを持たないで外に出ることだけは、どうしてもできなかった。  車内では、あまり開かない側の扉のそばに立って、暗い外を眺めた。自分の降りる駅に着いて車内から出たとき、敬二はほっとした。  ロッカールームで着替えて倉庫のほうへ行こうとしたとき、女子大生たちが遅れて入ってくるのに出会った。 「おはようございます」ときのう帰りが一緒だった女が言った。他の二人もつられるように挨拶した。敬二は口の中でぼそぼそ言いながら、足早に三人の横を通り過ぎた。  昼休みになって、敬二は食事のあと事務所横にある休憩室にいった。女子大生たちと留学帰りたちがしゃべり合っていたが、敬二は彼らを無視するように背を向けて椅子に坐り、事務所から持ってきた朝刊を広げた。  真っ先に社会面を見る。一番大きい記事は住宅密集地での火事のもので、その横は殺人事件だった。敬二は紙面の下のほうに目をやった。中年男性の飛降り自殺の記事の隣に、「ひったくりにあい、OL切られる」という二段組の見出しがあった。急に胸がどきどきしはじめた。記事を読むと、被害者の名前は定期券の名前と一緒だった。通行人が不審な男を目撃しているという一節もあった。敬二を驚かせたのは、牛丼屋のごみ箱から、被害者の空っぽのバッグが見つかっているというところだった。心臓がきゅっと縮こまるような感じがした。牛丼屋の横にいた場面を思い起こすと、急にぞっとし、わめきたくなった。  敬二は他の新聞も広げてみた。どれも同じくらいの扱いだった。敬二が思っていたより、遥かに大きな扱いだった。どこか自分がしたこととは思えなかった。自分ではほんの些細なことでしかないつもりだったのに。 「何か面白い記事でもあります?」  不意に横から声がした。きのうの女がコーヒーの紙コップを手にして、紙面をのぞき込んでいた。敬二はどぎまぎして、ページをめくった。 「別に」敬二はスポーツ欄を開くと、プロ野球の試合の記事を読む振りをした。 「野球はどこのファンですか」 「どこのファンでもないけど……」 「そのほうがいらいらせえへんだけ、いいわね」  早くあっちへ行けと敬二は念じながら、紙面から目を離さないでいると、女は留学帰りたちのところへ戻っていった。急に女たちの笑い声が起り、敬二は身を硬くした。女たちが何をしゃべっているのか聞こうとしたが、鳥のさえずりのように早口なのでよくわからない。しばらく耳を澄ましていて、自分のことが話題ではないらしいとわかって、敬二は紙面を社会面に戻した。そして背後にいる留学帰りたちに変に思われないように注意しながら、新聞を取替えて、同じ記事を何度も読んだ。昼休みが終る前に新聞を事務所に返しにいったが、一紙だけ返さずに作業着の下に隠して、ロッカールームにいき、誰もいないのを見計らって、自分のロッカーのカバンの中にしまい込んだ。  その日、アパートに帰ると、敬二は持帰った新聞を繰返し読んだ。めし屋から帰ってきて読み、テレビを見終ったら読み、銭湯から戻っては読み、という具合に。しまいには記事を暗記してしまうほどだった。寝る前にもう一度読み、その新聞を押入れの中の、女から奪った品物の入った紙袋に入れた。  土曜日の昼休みのとき、めし屋から帰ってくると、休憩室のほうから二人の女子大生が近づいてきた。背の高い女と、胸の大きい女だった。敬二は身構えた。 「きょう、わたしたち、アルバイトの男の子なんかと一緒に、ディスコに行くんですけど、よかったら一緒に行きません?」と胸の大きい女が言った。 「おれ、踊れないから」 「踊れなくても大丈夫よ。リズムに乗って、体を動かすだけでいいんだから。気持いいですよお」と背の高い女が笑顔を見せた。 「ねえ、一緒に行きましょう」胸の大きい女が敬二の目をのぞき込んだ。敬二はうなずいた。 「決まり」と背の高い女が言った。  敬二は金の心配をしたが、財布の中には、この前女から奪った金が入っていた。もともとなかったものだと思えば、少しは気が楽だった。  仕事が終って、ロッカールームで着替えをしているとき、敬二はナイフをどうしようかと迷った。背中に差していくのは無理だとして、ナイフを入れたカバンを持って行くべきかどうかが問題だった。カバンを持って女子大生たちと一緒に行くのは、いかにも恰好が悪い気がしたし、遊んでいるうちにカバンをどこかに置忘れたらという心配があった。さんざん迷ったあげく、持っていくことにした。  ロッカールームを出ると、門のところに女子大生たちがおり、留学帰りと工学部の学生も一緒だった。男はその二人だけで、他にはいなかった。人数を合わすために自分を誘ったのではないかという気がして、敬二はちょっと気分を害した。 「それじゃ、行きましょう」と背の高い女が言い、みんなは地下鉄の駅に向かった。留学帰りや学生は女子大生たちと話しており、敬二だけが少し離れて歩いていると、胸の大きい女が話しかけてきた。 「ディスコに行きはんの、初めて?」 「ああ」 「体を目いっぱい動かしたら、頭が空っぽになって、ストレス解消になりますよ」そう言って、女は笑った。敬二もつられて笑った。  地下鉄は込んでいて、敬二たちは並んで吊革につかまった。敬二のとなりが胸の大きい女で、彼女は留学帰りと電車が駅に止まったときに映画の話をしていた。敬二は二人の話を聞いていたが、外国の監督や俳優の名前が飛出して、彼にはついていけない話題だった。敬二が映画を観るのはほとんどテレビであって、ここ何年も映画館に行ったことがなかった。  都心の駅で降りて、地上に出る。敬二は一番後からついていった。女子大生たちが案内したのは、スナックやゲームセンターの入った雑居ビルの地下で、ガラスドアの中に入ると、耳を圧する音が響いてきた。敬二は気後れがした。自分だけが場違いなところに来てしまったような気がした。脇に抱えたカバンの底を握り、ナイフの硬さを指で感じながら、他の五人の後に続いた。  フロントで金を払い、女子大生たちはポシェットやバッグを預けたが、敬二はカバンを預けなかった。胸の大きい女が、預けたらと言ってくれたが、敬二は首を振った。  場内には銀色のパイプが張りめぐらしてあり、壁も天井もアクリル板でできているせいか踊っている人間の姿が暗く映っていた。奥のほうには蛍光灯で白く輝いているボックスがあり、そこに男が一人いて、マイクに向かってしゃべっていた。その都度スピーカーから男の声が流れてきた。敬二は踊らずに、カバンを抱えたまま、場内の様子を見ていた。大きな鏡の前で踊っている男女やスピーカーから流れる男の声に合わせて、いっせいに同じ動きを始める男女を、ただ椅子に坐って眺めていた。  背の高い女が、「カバンを持っていてあげるから踊りなさいよ」と声を張上げ、身振り手振りで示しても、敬二は首を横に振った。  留学帰りや工学部の学生は器用に体を動かしていた。女子大生たちは彼らを相手に笑ったり、顔をしかめたりしながら踊っていた。敬二は他の客の様子から、手に持ったチケットが飲物と交換できることを知り、カウンターに行ってコーラと換えた。そしてストローでコーラをちびちび飲みながら、時間を潰した。  一時間ほどでディスコを出、今度は飲みにいくことになった。女子大生たちは敬二を誘いたくないような様子だったが、敬二は一緒に行くことにした。このまま帰ったのでは、みんなに馬鹿にされたような嫌な気分になりそうだった。  留学帰りの案内で、歩いて十分くらいのところにあるカフェバーに行った。店内は黒っぽい色で統一され、軽快なリズムを刻む音楽が流れていた。客の多くは学生のようで、たいてい男女のグループだった。  カウンターの右奥にちょうど六人掛けの丸テーブルが空いていた。そこに腰を降ろす。テーブルの下が荷物を置く棚になっていたが、敬二はカバンをそこに入れず、自分の膝の上に乗せた。  ウイスキーのボトルを一本取り、メニューを見ながら、それぞれが料理を注文した。敬二もメニューを見たが、英語と片仮名で書かれてあるだけで訳がわからず、隣に坐った胸の大きい女子大生と同じものにした。  斜視気味の女子大生がみんなの分の水割りを作り、何に乾杯しようかなどと言っているうちに、乾杯せずにすんでしまった。斜視気味の女子大生がグラスを合わせてきたが、敬二は何となく照れくさくて、グラスを引っ込めてしまった。  背の高い女子大生が「彼女に聞いたんやけど、今までいろんな仕事をしてきやはったんやねえ」と敬二に声をかけてきた。敬二と彼女の間にいた胸の大きい女が「そうやねん」と背の高い女の肩を叩いた。 「健康食品のセールスマンに大工にウェイターに……確か板金工やったかなあ」指を折っていたが、言葉に詰まったので、胸の大きい女は敬二のほうに顔を向けた。敬二は思い出しながら、ぽつりぽつりと仕事の名前を言った。全部で十五もあり、みんなは一様に驚いてみせた。  背の高い女が「健康食品て、何売ってはったん」と訊いてきたので、胸の大きい女に話したのと同様のことをしゃべった。 「一番身入りがよかったのは、何でした」と工学部の学生が質問した。身入りがいいと思ったことは、今まで一度もなかった。いつでも、もっともらってもいいはずだと思いながら、仕事を転々としてきたのだ。それでも敬二はしばらく考えて、「大工の見習いかな」と答えた。 「セールスの才能があったら、たぶん健康食品のセールスマンが一番もうかったと思うけど」 「今の仕事は長いんですか」と背の高い女が訊いた。 「三年ぐらいかな」 「倉庫中の本の場所を覚えるには、やっぱり、そのくらいかかるやろね」と工学部の学生が答えた。  注文した料理が来た。敬二の前に置かれた皿には、見慣れない葉が添えられたサラダに親指大のフライが五つ六つ、それにチーズが何枚かついていた。敬二はクリームソースのかかったフライを食べてみた。歯ごたえがあって、味はよかったが、中身が何なのかわからなかった。 「ねえねえ、ちょっとテストしてみていい?」と背の高い女が敬二に言った。 「え?」フライを口に入れたまま、敬二は女を見た。 「本当に覚えてはるかどうか、テストしたらだめ?」 「ええよ」 「そしたら」と背の高い女は前の皿をテーブルの中央に押しやって、空いたところにコップの水を使って、倉庫の簡単な図を書いた。 「ねえ、何か覚えてない」と背の高い女は留学帰りに尋ねた。 「それじゃあ」と留学帰りは言った。「中学二年英語の復習コース問題集やけど、どこにあるかわかります?」  敬二は腕を伸ばして、水の跡で描かれた倉庫の一点を人差指で押えた。 「当たってる?」背の高い女が訊くと、留学帰りはうなずいた。 「ねえねえ、もっと言って」 「そしたら小学四年の楽しい理科は?」  敬二は迷うことなく、一点を指さした。 「当たり」と留学帰りが答えると、背の高い女は工学部の学生に声をかけた。学生は、中学三年の合格シリーズの数学を上げた。それも敬二には簡単なことだった。  背の高い女が「もっと他にないの」と言うので、留学帰りも工学部の学生も思い出しながら、次々に敬二の記憶を試すために質問をしてきた。敬二はその都度水の跡で書かれた倉庫の中を指で示し、図が小さいためにうまく場所を特定できないときは、「右側のローラーの奥の二段棚の上」などと口で説明した。  質問が一段落したのを見計らって、敬二は膝に置いたカバンを持って、トイレに立った。  トイレから帰ってくると、女子大生たちが急にしゃべるのをやめた。敬二はカバンを膝の上に置いて腰を降ろすと、残っていた水割りを一気に飲んだ。 「もう一杯作りましょうか」と斜視気味の女が言ったので、敬二は黙ってグラスを差出した。  斜視気味の女が水割りを作っているとき、「あなた、ひょっとしたら失業するかもしれないわよ」と背の高い女が身を乗出すようにして敬二に言った。 「やめなさいよ」と敬二との間にいた胸の大きい女が、背の高い女の肩を押えた。 「どうして。別に構わないやないの。この人、職を替えるの慣れたはるんやから」 「何のことや」敬二は二人の女に言った。 「何もわたしが言うてんのんと違うわよ。彼が言うてんのよ」と背の高い女は工学部の学生のほうに顔を向けた。学生は少し笑いながら、口を開いた。 「別にぼくは今の会社がそうすると言うてんのと違いますけど、まあ、一般的な時代の流れとして、倉庫の管理はコンピューターがするようになると話してたんです」 「コンピューター?」 「そう。コンピューターに伝票を入力すると、コンピューターがベルトコンベアーなんかを動かして、自動的に要求された品物を集めてくるというシステムです。大きなところでは、このシステムが動いていますからね」  敬二は倉庫の中をロボットが動いているような光景を想像したが、どうもぴんとこなかった。 「せやけど、あの会社がコンピューターを入れるとは思われへんわ」と胸の大きい女が言った。 「それはどうかな。もうかるんやったら入れるし、もうかれへんのやったら入れへんし、会社はその点を考えるだけやろ」と留学帰りが口を挟んだ。 「失業することになったら、こんどはどんな仕事につきます?」  背の高い女の質問に、敬二は答えなかった。何となく気分がむしゃくしゃしたからだった。敬二が黙ってしまうと、少し座が白けたようになった。 「ねえねえ、そのカバンになんか大事なものでも入ってるの」と背の高い女が高い声で言った。敬二は首を振った。 「うそ。何かあるんでしょう。ほんとに空っぽだったら、トイレにまで持っていけへんわよ、ねえ。それにディスコでもフロントに預けへんかったくらいやもん」  背の高い女は胸の大きい女のほうを見た。 「いいかげんにやめなさいよ」と胸の大きい女が小声で言った。 「何言うてんの。あんたかって、さっき、きっと大事なものが入っているて、言うてたでしょ」 「そんなこと、もうええやん」 「あんたも気になるんやろ。わたしも気になる。ほんとに空やったら、ちょっと開けて見せてもらえません?」  敬二はカバンを両手で押え、あかんと口の中でつぶやきながら首を振った。 「そう言わずに、ちょっとだけ見せて」  背の高い女はテーブルの下から手を伸ばして、敬二の膝の上のカバンにさわろうとした。敬二はとっさに膝を突上げて、テーブルとの間に女の手を挟んだ。大きい音がして、テーブルが少し持上がった。 「痛いやんか」指をもう一方の手でさすりながら、背の高い女が叫んだ。 「それがどうした」と敬二は低い声で言った。 「あなたが悪いんよ」と胸の大きい女が背の高い女に言い、敬二のほうに顔を向けると「この子、すぐ酔っちゃうから、気にしないでね」と言った。 「わたし、まだ酔ってなんかいないよ。どうせそのカバンの中には、いやらしい雑誌かなんかが入っているんでしょ」  敬二は頭の中が熱くなるのを感じた。背の高い女をにらみつけると、女は目をそらして水割りを一口飲んだ。 「そんなに見たけりゃ、見せてやろうか」敬二はカバンをテーブルの上に出した。留学帰りが薄笑いを浮かべながら、こちらを見ていた。頭の中がさらに熱くなった。  敬二はカバンのジッパーを開けると、左手を入れて、皮のホルダーをつかんだ。掌の汗のせいなのか、粘りつくような感触だった。そのままゆっくりと引出す。象牙の柄とホルダーの尻が握り拳の両側から出ていた。 「何よ、それ」と背の高い女が言った。敬二は答えずに、右手で柄を握って、ナイフを抜いた。背後の電球の光が刃に当たって、敬二の目を射った。敬二は右手をわずかに動かして、電球の光をはずしたり、映したりした。完璧に磨き上げられていることに敬二は満足し、同時に頭の中がすっきりした。重苦しい感じはどこにもなかった。  敬二を含めて全員がしばらく黙ってナイフを見つめていた。 「どうして、そんなものを持ってるの」と斜視気味の女が口を開いた。敬二は答えずに、彼女のほうに刃先を向けた。女は体を少し後ろに引いた。敬二はそのままナイフを女たちのほうにゆっくりと回していった。背の高い女は口許に笑いを浮かべながら、頭を後方にそらした。隣の胸の大きい女の顔に近づけると、女は顔をしかめて立上がり、トイレの方に歩いていった。  工学部の学生に向けると、「いいナイフですね」と真面目な顔で言った。留学帰りも真面目な顔になっており、ナイフを向けると、値踏みするようにナイフを横から見た。 「それ、刃渡りどのくらいあります」と学生が訊いた。 「見たら、わかるやろ」 「その長さやったら、銃刀法違反になるのと違いますか。確か十何センチ以上は違反やったと思うけど」 「おまわりに見つかれへんかったら、ええんやろ」 「それはそうですけど」  敬二は持っていたホルダーをカバンの横に置き、目の前にあった紙のコースターを手にした。 「切れ味も抜群なんや」そう言って、コースターをふたつに切裂いた。軽い抵抗とともにナイフは一定の速さで動き、敬二は自分の力をナイフが無駄なく生かしていることに一体感さえ覚えるほどだった。 「ちょっと、見せてもらえますか」と学生が手を出した。敬二はとっさに刃先をその手に向けた。学生はあわてて手を引っ込めた。 「わかったから、もう、それ、しまってよ」と背の高い女が言った。敬二はナイフを手にしたまま、カバンを女の前に押しやった。 「いやらしい雑誌があるかどうか調べてくれや」  背の高い女はカバンの口を少しだけ開けて、「ないわ」と言った。 「もっと奥まで調べろ」と敬二は女の顔に向けて、ナイフをひらひらさせた。女は敬二の目を見つめながら、カバンの奥に手を入れた。 「これでいいでしょ」 「そうや」  胸の大きい女が戻ってきたが、席には坐らず、背の高い女の耳許に口を近づけ、「帰りましょうよ」と小声で言った。 「そうやね」と背の高い女は答え、斜視気味の女も敬二のほうをちらっと見てから、「帰ろ、帰ろ」と囁いた。女たちが伝票を見ながら、バッグを開けてごそごそやりだし、留学帰りや学生もズホンのポケットから財布を取出したとき、「ちょっと待て」と敬二は大きな声を出した。女も男も手を止めて敬二を見た。 「みんな、目の前のコースターをこっちへよこせ」敬二はナイフで指図した。彼らは互いに顔を見合わせていたが、斜視気味の女がグラスをのけて、自分のコースターを背の高い女の前にやると、それにつられるように留学帰りも学生もコースターを敬二の前に滑らせた。  敬二は集まったコースターの一枚を手に取ると、素早く切裂いた。 「二枚目」と言って、敬二は次のを取り、再び切裂いた。 「わたし、帰る」と胸の大きい女が紙幣を何枚かテーブルに置いて、離れていった。 「待ってよ」と斜視気味の女も紙幣を置いて、立上がった。胸の大きい女も留学帰りも学生も同様に席を立った。 「あと、お願いね」と胸の大きい女が離れたところから、声をかけた。敬二は口許に笑いを浮かべながら、残りのコースターをすべて切裂いた。  斜め前方のテーブルから、若い男女がこちらを見ているのが目に入った。そのほうに顔を向けると、彼らはあわてて視線をはずした。  敬二は彼らに見せつけるように刃先を返して眺めてから、ゆっくりとホルダーに収めた。カバンに入れようとして気が変わり、敬二はホルダーを手にしたまま、トイレに行った。そこでズボンのベルトをはずし、ホルダーを通して、再び着けた。背骨の少し横に硬く当たる感じがあり、それは背筋をしゃんとさせた。  留学帰りたちが置いていった金はかなりあり、敬二は残りのわずかな額を払うだけですんだ。  気分がよかった。  地下鉄の中で若い女に笑いかけ、気味わるがられても、高揚した気分は変わらなかった。女を犯すことなど、いつでもできそうだった。  翌日、昼ごろに目を覚ました敬二は、蒲団の中でうつ伏せになって、ナイフの手入れをした。テレビの横に小さな段ボール箱があり、そこに油のスプレーとシリコン布とティッシュペーパーの箱が入っていた。それを手を伸ばして、枕許に引寄せてから、敷蒲団の端の下に隠してあるホルダーを取ってナイフを抜き、磨いた。  ノックの音が聞え、敬二が返事をすると、「手紙ですよ」という大家の声が聞えた。ぐずぐずしていると、扉の下から差入れる音がした。敬二は蒲団を抜け出し、よつんばいになって手紙を取りにいった。母親からだった。敬二は手紙を口にくわえ、よつんばいのまま蒲団に戻った。金の無心だとはわかっていたが、捨てずに封を開けた。 「敬二どの、元気でくらしとると思うとうよ。おらあも達者で働いとるけん、心配せんこと。さて、このまえ書いて送った見合いの話じゃが、お前さんはどう思うちょるのか返事をくだされや。写真は気にいらんじゃったか。おらあはなかなかよい娘ごじゃと思うとうが、一度会うてみる気はないかのう。益田家のご当主にも、いつまでも返事を待ってもろうとるわけにもいかんけん、いやならいやと知らせてくだされや。いろいろと物入りなのはわかっとうが、こちらに帰ってきて、娘ごに会うてくれたら、ご当主の顔もたって、おらあとしてもありがたいんじゃが。とにかく一度便りをくだされや。待っております。母より」  見合いの話など聞いていないと思ったが、すぐに、そういえばこの前来た手紙を封も切らずに捨てたのだと思い出した。敬二は惜しい気がした。相手の写真だけでも、見ておけばよかったとちょっと後悔した。どうせ黒い顔のいも娘だという気はしても。  敬二は返事を出す気は毛頭なく、母からの手紙をすぐにビニール袋に捨てた。捨ててから、金の無心の文句がなかったことに気づいて、読み落したのかと思い、もう一度袋から取出して読んでみたが、やはりなかった。珍しいこともあるもんだと敬二はひとりごちた。  次の日、出勤するときも気分はよかった。会社に着いて、トイレで背中のナイフをカバンにしまい直すときも、鼻歌まじりだった。留学帰りと工学部の学生はどういう顔でおれを見るかと思いながら、敬二はロッカールームにいったが、二人はまだ来ていなかった。他のアルバイトの連中に朝の挨拶をしてから、服を着替えようとしたとき、主任が入ってきた。 「おお、来たか。ちょうどよかった。部長がお呼びや」 「部長が? また何ですか」 「おれは知らん。ただおまえを呼んでこいと言われただけや」  敬二は主任の後について、ロッカールームを出た。事務所の前で倉庫に向かう主任と分かれ、敬二はドアを開けて中に入った。奥の机のところで、部長が立上がって、こっちや、こっちやと手招きをした。  敬二はちょっと頭を下げてから、部長のところに近づいていった。部長はプレハブの壁で仕切られた応接室に彼を案内した。 「仕事の方はどんな具合や」部長はソファに深く腰を降ろすと、気安い調子で言った。敬二は尻を端に乗せただけの姿勢で、体を堅くしていた。 「まあ、なんとか」 「主任とはどうや。うまいこといってるか」 「……それは、いってますが」警戒しながら、敬二は答えた。 「それなら給料はどうや。不満はないか」 「いや、別に。……そりゃ、多いにこしたことはありませんが」  部長は声を立てずに、口だけ開けて笑った。 「誰だって、多いほうがいいもんなあ」  敬二も部長に合わせて、笑顔を作った。 「ところで、立入ったことを聞くようやけど、会社に来るとき、ナイフを持ってきてるんやてなあ」部長は気安い調子を崩さずに言った。敬二は両手を握り、緩みかけていた体を再び堅くした。 「なかなか立派なナイフやそうやな」 「……ナイフなんか、持ってません」  部長はおやっというような顔をして、ソファにもたれていた背中を起した。 「いつも持ってくるカバンの中に入れてるんやろ」  あいつらだと思うと、急に頭に血が上ってきた。敬二は部長の組合わされた両手を見つめた。 「何でナイフなんか持ってくるんや」 「ナイフなんか、持ってません」 「嘘をつくな」部長は大きな声を出した。「ちゃんとわかっとんのや」  持ってないもんは、持ってないと敬二は口の中で呟いた。 「ぶつぶつ言わんと、はっきり言わんか」 「持ってないもんは、持ってません」 「まだそんなこと、言うてんのか。それやったら、カバンの中を見せてもらおうやないか」  腰を浮かしかけた部長よりも早く、敬二は立上がった。部長はちょっと驚いた顔をして腰を上げたが、敬二はその姿を横目でみながら、素早く応接室を出た。二、三人の女事務員が敬二のほうを見ていた。敬二は事務員の視線を無視して、事務所を出た。「ちょっと待て」という部長の声が聞えてきた。  敬二は急ぎ足でロッカールームに行った。部屋には誰もいない。敬二はポケットから鍵を取出すと、自分のロッカーを開け、棚のカバンを取った。手にホルダーの感触がある。敬二はロッカーの中を見た。汚れた作業着にタオルと着替え用のアンダーシャツ、古いスニーカーがあるだけだった。敬二はロッカーを閉め、鍵はかけずに出ようとしたが、そのとき部長が入ってきた。 「どこへ行くんや」  敬二は答えずに、ロッカーの鍵を部長に渡した。そしてドアを開けようとしたが、部長に腕をつかまれてしまった。 「勝手なことすんな」  敬二は部長の手を振りほどき、「やめや」と言った。 「ん?」 「やめたらええんやろ」 「それ、どういう意味や」  敬二はドアを開け、外に出た。門のほうに歩いてから振返り、ロッカールームの前でこっちを見ている部長に「さいなら」と声をかけた。  敬二は門を出て、倉庫に向かった。留学帰りと工学部の学生にひとこと挨拶しなければ気がすまなかった。  入口の梱包機に腰を降ろして、主任がスポーツ新聞を読んでいた。敬二が近づくと、主任は新聞を降ろして、顔を上げた。 「どないしたんや」主任は敬二の体を上から下に見て、言った。敬二は軽く頭を下げてから、ローラーコンベヤーに沿って、中に入っていった。 「着替えへんのんか」と後ろから主任の声が聞えてきた。  敬二はアルバイトの連中に目をやったが、留学帰りと工学部の学生の姿は見当たらなかった。 「何かあったんか」後ろから来た主任が声をかけた。敬二はそれには答えずに、留学帰りと工学部の学生のことを訊いた。 「きょうは休みみたいやな」主任は倉庫を見回しながら、答えた。女子大生のことを尋ねると、「そういえば、あの子らの姿も見かけへんかったな」と主任は言った。  敬二は、それじゃと口の中で言い、主任の横を通って出口に向かった。主任が後からついてくる。  倉庫を出て、地下鉄の駅のほうに足を向けた。 「きょうは休むんか」と主任が大きな声で言った。敬二は首を後ろにひねり、片手をちょっと上げただけで、そのまま駅に向かった。  何をする当てもなかった。どうしようかと考えているうちに、自分の降りる駅に着いてしまい、敬二は改札口を出て、アパートに戻った。休みでもない日にアパートにいるのは、屋内が妙に静まりかえっているだけに落着かなかった。敬二は敷きっぱなしの蒲団に体を横たえ、目を閉じた。仕事を辞めたときにいつも感じる中途半端な解放感が、なかなか彼を眠らせなかった。敬二は部長とのやりとりを思い出し、一昨日の留学帰りたちとのことを思い浮かべた。やつらに自分の気持を思い知らせたいと思ったが、具体的にどうすればいいのかわからなかった。  会社にきょうまでの給料や離職票をもらうこと、失業保険の手続きのことなどを考えているうちに、眠ってしまい、次に起きたのは昼過ぎだった。  いつも行くめし屋に行ったが、昼飯を食べに入ったのは初めてだった。客も少なく、店員に見られているようで落着かなかった。店員の目を避けるように、置いてある新聞を手に取った。求人欄にちょっと目がいったが、失業保険が切れるころに考えればいいと思っているので、すぐに飛ばし、社会面を見た。連続放火事件の記事があり、漫画の下にはひったくりの見出しがあった。バイクを使って、女のハンドバッグや自転車の前のかごに入れてあるバッグを、追越しざま取っていくという手口だった。うまい手があるもんだと敬二は感心した。バイクに乗れたら、真似をしたいと思うほどだった。  アパートに帰って、敬二は壁にもたれながら、しばらくテレビを見たが、どのチャンネルに合わせても面白い番組はなかった。見るのをやめ、蒲団に寝転がって、ナイフの手入れをした。いざとなったら、こいつを売るかとふと考え、あわててそれを否定した。  横になっているとまた眠くなってき、次に目を覚ましたときは、もう夕方だった。昼と同じめし屋に行くのは気が進まなかったが、そこが一番安いので出かけた。昼と違って客が多かったので、店員を気にすることもなかった。  勘定を払うとき、確実に金が減っていくということを意識した。アパートに帰ると、敬二は押入れを開け、ナイフの木箱の上にあった紙袋を引張り出した。女から奪ったものの中に、金目のものがなかったか確かめるためだった。  紙袋の中を蒲団の上に開けた。時計があったような気がしたが、なかった。コンパクトも手鏡も金になりそうにはなかった。定期券はまだ二カ月ほど有効だったが、まさか払い戻しはできない。タンポンを手にすると、少し勃起し、女のハンカチを鼻に当てた。まだ匂いは残っていた。敬二は股間に手をやったが、馬鹿らしくなってタンポンもハンカチも放り出した。ひったくりをしようと、そのとき決めた。  敬二はズボンのベルトにホルダーを通し、素肌の上にトレーナーを着、走りやすいようにバスケットシューズをはいた。金は少ししか持たなかった。  どこでやろうかと考えて、真っ先に思いついたのは、最初に女を襲った場所だった。あそこだったら辺りに人家はなく、隠れるところもあって好都合な気がした。それにここからかなり離れている。  地下鉄で都心に出、そこから私鉄の急行に乗換えて、三つ目の駅で降りた。駅に見覚えがあった。通勤帰りの人間に混じって、この前と同じ商店街を通り、広い国道を渡った。まだ時間が早くて、通勤帰りが多く、とてもひったくりはできそうもなかった。敬二は高架の高速道路を目指して歩いていき、高架下に入ると、コンクリートの柱の陰に隠れた。この前とは違う場所らしく、見覚えがあるようでなかった。  金を持っていそうなのは、背広を着込んだ中年過ぎの男たちだったが、彼らの鞄をひったくっても無駄で、肝腎の財布は内ポケットにあるのはわかっていた。その財布を狙うとなると、ひったくりではなく強盗になってしまう。それに男が相手だと、反撃されるのが恐かった。  ときおり、通勤帰りが途絶えたあとで、OLが一人で高架下に入ってきたが、敬二はただ見送るだけだった。チャンスだと思っても、足が動かなかった。後からすぐに人が来そうな気がしたし、なによりも、やるかどうか短い時間で決心するのは困難だった。成功したら、ファッションマッサージに行くぞと自分に声をかけ、金が多ければ半分おふくろに送ってやってもいいとさえ思った。  敬二はコンクリートの柱と遊歩道に沿った垣根の隙間からみていたが、不意に視界の端の垣根が赤く光った。見ると、パトカーの赤いランプだった。敬二はその場にしゃがみ込んだ。赤い光はゆっくりと垣根を移動していった。光が通り過ぎてからも、敬二はじっとしていた。汗が背中を流れるのがわかった。  しばらくして敬二は立上がり、パトカーの去った方向を見てから高架下を出て、駅に戻った。  急行電車に揺られながら、このまま帰るのかと敬二は自分に言っていた。ここで何かしなければ、ずるずると負けてしまいそうな気がした。敬二は背中に手を回し、トレーナーの上からナイフに触れた。  停車駅のアナウンスがあった。ここで降りなければ、次は終点だった。電車の速度が緩くなり、ホームに入っていった。  敬二は線路の見えるドアのそばに立っていたが、背中のほうのドアが開き、乗客が出てしまうと、体を翻して、その後を追った。乗客の数はそんなに多くなかった。敬二は前をいく乗客ひとりひとりに目をやった。女か年寄りが狙いだった。  自動改札口で人が詰まって立止まったとき、別の階段からも乗客たちが降りてきた。敬二はその中の一人の女に目をつけた。背が高くて、ちょっと高慢そうな顔をしており、服装やバッグも値段が張りそうだった。敬二は自動改札口を通ると、十メートルほどの間隔をおいて、女の後をつけはじめた。女が一人きりにもならず、暗い道も通らなかったら、運が悪かったと諦めるつもりだった。  女は五人の乗客たちと一緒に線路沿いの道を行き、小さな川に突当たると、左に曲がった。川沿いは一戸建ての住宅街だった。少し行くと橋がかかっており、女はそこを渡っていった。そのとき三人の人間が素通りした。敬二は少し距離をおいて、ついていった。渡ったところで、女だけが川沿いの道のほうへ曲がった。  川に沿って街灯がついており、反対側には住宅の明りがあった。どうすると敬二は自分に言った。やるんなら、今しかない。しかし敬二は女の歩調に合わせて、歩いているだけだった。  しばらく行くと、前方の右手が暗く見えてきた。どうも公園のようだった。水銀灯がぽつんとともっており、かなり高い木が空よりも黒く見えた。鼓動が速くなるのがわかった。  女が公園の陰に入った。敬二は早足になり、次第に速度を上げて、しまいには走り出した。公園の向こうには、再び住宅の明りが見えている。立止まれと敬二は心の中で叫んだ。しかし女は同じ歩調で歩いている。敬二は足が宙をけっているようなもどかしさを感じた。  追いつく直前、女が振返った。ぼんやりとした顔をしている。敬二は肘を少し曲げて、女の肩にかかっているバッグの紐をつかんだ。紐が肩からはずれる。敬二はそのまま行こうとしたが、紐が切れた。女がバッグを両手で腹に抱え込んでいた。  敬二は肩から女にぶつかって、女を公園の柵に押しつけた。女が悲鳴を上げた。敬二は自分の背中に手を回し、トレーナーの裾をめくって、ナイフを抜いた。 「バッグ、寄こせ」敬二はナイフを女の目の前に持ってきた。女は目を閉じて顔を背け、悲鳴を上げ続けた。バッグを取ろうとすると、口が開いて中身が落ちた。財布だけ拾おうと、左手で探っていたら、冷たい霧みたいなものが顔にかかって、目にしみた。思わず顔を上げると、女が手に持った何かをこちらに向けており、今度はまともに霧を浴びた。目が痛み、涙が溢れてき、ナイフを持ったまま両手でこすった。  女の逃げていく靴音がした。敬二は両目を押えながら、女の逃げた方向とは逆のほうへ歩いていった。途中で気がついて、ナイフを背中のホルダーに収めた。瞼を大きく開けることができず、ときどき薄目を開けて前を見た。眼球がやけどをしたような感じだった。  敬二は最初駅に向かおうとしたが、橋を渡ったところで考え直した。駅に行けば、危ないような気がしたからだった。それで川に沿って歩いていって、電車のガードのところで曲がらずに下を抜け、橋があったので、そこを渡った。出来るだけさっきの現場から離れることと、少しでも自分のアパートに近づくことが必要だった。金を持っていれば、タクシーを拾うという手もあったのにと敬二は女の金を奪えなかったことに腹を立てた。  涙がとめどなく流れ、目を開けていられなかった。瞼が熱く腫れ上がっている感じで、まつ毛を通して足許を見るのが精いっぱいだった。あまり人とすれちがわなかったが、それでも変に思われないように、斜め下に顔を向けて歩いた。  三十分ほどのろのろと歩いていって、マンションらしき建物の立っている敷地にきたとき、パトカーのサイレンが聞えてきた。敬二は立止まって、耳を澄ました。サイレンはかなり遠くのほうだったが、聞いていると次第にこっちに近づいてくるように感じた。敬二は木の生えた敷地の境に沿って歩いていき、入口を見つけて中に入った。痛む目を無理に開けて、様子をうかがった。何棟かの建物があり、一階部分には部屋がなく、柱がむき出しだった。棟と棟の間には、自動車が見えた。敬二はそのほうへ歩いていった。駐車場になっているらしく、自動車が何台も並んでいた。敬二は自動車のボンネットに手を触れながら、端へ端へと歩いていった。敷地の突当たりになるのか、道に自動車が並列駐車しているところにぶつかった。敬二は奥の車の間に入り、大型乗用車の下に潜り込んだが、背中のホルダーが当たることに気づいて外に出た。ベルトをはずし、ホルダーが横腹にくるように直してから、もう一度潜った。ガソリンの臭いがする。肩のあたりにアスファルトのくぼみが当たり、体をずらせて、位置を変えた。  しばらくそうやっていたが、地面につけていた体が冷えてくるのと、わずかながら風が通るのとで、とても眠れそうもなかった。横向きになって体を丸めれば、少しは暖かくなるに違いなかったが、車の下ではそれもできなかった。寒さに我慢できなくなって、敬二は車の下から出た。しかし再び歩き続ける気力はなかった。薄目を開けて隣の車を見ると、シートがかけてあったので、敬二はそれを取外した。隣は小型だったので、元の大型のところまでシートを引きずってきて、それを持ったまま下に潜り込んだ。シートで体を包むのは骨が折れたが、肩や腰を浮かしたりしてうまくいくと、体を動かした熱気のせいもあって、急に暖かくなった。後は目の痛みだけだった。目を閉じていると、瞼の裏が脈を打っているのがわかった。  眠れないままに、敬二はきょう一日のことを思い返していた。部長にナイフを見せても、どうということはなかったという気がしたし、やめたのは早まったかと後悔の気持もあった。しばらくは金に困ることはないのだから、あせってひったくりをやることもなかったと思ったが、女のことを考えると、無性に腹が立った。女の顔でも腕でも傷つけてやれば、今の自分とちょうどつりあいが取れると思った。敬二は股間をズボンの上から握り締めた。そうやると、目の痛みも少しはごまかせるような気がした。  いつの間にか眠ってしまったらしい。車のエンジンをかける音で、目を覚ました。目やにか何かがこびりついていて、瞼が開けにくかった。指で触ると、腫れぼったくなっているのがわかった。薄目を開ける。目の前に、黒いパイプのようなものが見えた。すぐには自分がどこにいるのか思い出せなかった。シートのごわごわした感触が背中にあり、敬二はようやく昨夜のことを思い出した。  顔を横に向けると、いくらか明るくなっており、朝であるのがわかった。エンジンのかかっている音に続いて、ブレーキの音がし、それからアクセルをふかす音とともに車が遠ざかっていった。敬二は今度は反対側に顔を向けた。一メートルほど先に黒い塊が見えた。車の付属物かと思ってよく見ると、犬だった。四肢を投出して、寝そべっていた。敬二は口笛を吹く要領で、かすれた短い音を出したが、犬は全く動かなかった。  敬二は体を横にすべらせてシートから抜け、腰を浮かすようにしながら、車の下から出た。まだ空は蒼く、日の出前のようだった。仰向けの姿勢を続けていたので、体の節々が痛んだ。敬二は両手を握って、大きく伸びをしてから、車の前に回って、犬をのぞき込んだ。しばらく見ていたが、呼吸をしている様子がなかった。敬二は片足を入れて、犬をけってみた。しかし犬は何の反応も示さなかった。 「くそ、起きやがれ」敬二はしつこく足でけったが、その都度物としてわずかに動くだけだった。  敬二は周囲を見回してから、駆け足でその場を離れた。駐車場を抜けると、ブロックで作られたごみ捨て場があった。そのそばに水道の蛇口が見え、敬二は近寄っていって、顔を洗い、水を飲んだ。拭くものがなかったので、着ているトレーナーで顔を拭いた。  マンションの敷地を出ると、敬二は通勤風の男の後についていった。大きな道路に出、男がバスの停留所で待つと、敬二も行き先を確かめてから横に立った。バスはすぐに来た。客は一人しかおらず、敬二は一番後ろに坐って、目を閉じた。眠れそうで、眠れなかった。  終点で降りて、そこから地下鉄でアパートに帰った。帰りつくと、万年床に倒れ込み、眠った。途中、喉の渇きで目を覚まし、水を腹いっぱい飲むと、また眠った。  敬二は三日の間、食事と風呂のため外に出る以外はアパートにこもっていた。蒲団の上に寝そべって、眠ったりテレビを見たりして一日を過ごした。  瞼の腫れが引くと、敬二は会社に電話をした。未払い分の給料と離職票のことを尋ねると、給料は月末、離職票はいつでも取りにこいという返事だった。失業保険ははやく手続きしたほうがいいのはわかっていたが、二度も会社に顔を出すのがいやで、月末に一緒にもらうことにした。定期券のことは、返せともなんとも言わなかったので、敬二は得をした気分になった。  アパートにいてもすることがないので、敬二は都心に出ることにした。定期券が使える間に、存分に乗っておこうという気持もあった。腹が減っていたので、デパートの食料品売場に行って、試食に出されている食べ物を片っ端からつまんでいった。失業しているとき、よくやる手だった。一口寿司、おかき、チーズサンドビーフ、白菜の漬物、ヨーグルト、枝豆……。それから玩具売場に行った。平日の昼間なので、学校へ行っている子供の姿がほとんど見当たらず、売場はすいていた。敬二はテレビゲームをやった。どういう内容のゲームかわからなかったが、バーを操作しているうちに逃げ回るゲームだと気がついた。何人もいる青い色の追っ手から逃げるのだが、何度やっても黄色い主人公は追詰められた。面白くないので次のゲームに移り、それにあきたら次というぐあいに順番に試していき、結局一番単純なカーレースで時間をつぶした。  サラリーマンやOLの姿が目につくようになって、夕方になったことを知った。敬二はゲームをやめて、地下の食料品売場に行きかけたが、ちょっと思いついて、刃物の売場に寄ってみた。見たことのある女店員が所在なさそうにしていたが、敬二が近寄っていくと、いらっしゃいませと愛想よく頭を下げた。敬二は自分の買ったナイフの置いてあったショーケースを見た。そこには背中のナイフと同じものはなく、はるかに安っぽい代物が陳列してあった。敬二は気分がよかった。女店員が近づいてきて声をかけたとき、背中のナイフを抜いて見せてやったら、この女は驚くだろうなと敬二は思った。そうすれば、この女もおれのことを思い出すだろう。しかし敬二は女店員に笑いかけただけで、その場を離れた。  食料品売場は昼間よりもかなり込んでいた。敬二は前よりも売子を気にせずに、試食の食べ物をつまんでいった。一度に三つもつまむと、さすがに売子は変な顔をしたが、敬二は遠慮なく食べた。ひと通り回り終っても、まだ少し腹が減っていたので、安売りをしていた散らし寿司を一折り買った。敬二の前にOLがいて、その女は散らし寿司のほかににぎり寿司も買った。入替わるとき、女の顔を見たが、一見混血のような彫りの深い顔立ちをしていた。敬二は一瞬後をつけてみたい誘惑に駆られたが、やめて地下鉄の駅に向かった。  もう少しというところで電車に乗り損なって、ベンチに腰を降ろしていたら、目の前をさっきの女が通り過ぎた。片手にバッグを持ち、もう一方の手には、ポリエチレンの大きな袋を下げている。敬二はベンチを立って、女の後ろについた。女は最後尾近くまで歩いていき、白線を示すタイルのところに立った。敬二は壁にもたれて、女の後ろ姿を眺めた。尻が形よく盛上がっていた。  電車がやってきて、敬二は女のすぐ後ろから車内に乗込んだ。席が一つ分だけあいており、女はそこに腰を降ろした。敬二は二、三人離れたところの吊革につかまった。女はバッグの上に袋を置き、それを両手で抱えるようにしてから、目を閉じた。意外と胸が大きいことに敬二は気づいた。  女が顔を上げたのは、敬二の降りる駅の二つ手前だった。敬二は女の後に続いて、電車を降りた。ちょうど階段のあるところで、他の乗客に混じって、女より五、六段遅れて上っていった。自動改札口を出る。  敬二は女の後をつけてどうしようという気もなかったが、地上に上がる階段のところで、チャンスがあれば、ひったくりをしてもいいと思った。しかし女は地下鉄の出入口を出ると、百メートルも行かないうちに、道路沿いのマンションに入ってしまった。敬二はガラスドアの向こうに女を見送ってから、マンションを見上げた。かなり大きいマンションだった。一人じゃないなと呟いてから、敬二は向きを変え、駅に戻った。  アパートに帰って、敬二は散らし寿司を食べた。お茶をいれるのが邪魔くさくて、水を飲んだ。食べながら、女のことを考えた。今ごろ男と一緒に、おれが食っているのと同じものを食っているんだろうなと思うと、その女が目つぶしをくらわした女と同類のような気がしてきた。ひったくりなどというまどろっこしいことは考えずに、いっそのことナイフで尻のあたりを切ってやればよかったと敬二は思った。  翌日は土曜日で、敬二は昼からまた都心に出た。きのうと同じデパートへ行くのは恰好が悪いので、別のデパートに入って、食料品売場の試食品をあさった。一回りして、玩具売場へ行ったが、制服を着た中学生や半ズボン姿の小学生がテレビゲームを占領しており、敬二は諦めて、デパートを出て、地下街を歩いた。金を持っていそうな高校生か中学生がいたら、ナイフを使ってカツアゲをしてもいいと思ったが、適当な相手と場所がなかった。  夜、めし屋で晩ごはんを食べながら、新聞を読んでいたとき、通勤中のOLが地下鉄の車内でスカートを切られるという記事が目に入った。二段ほどの扱いだった。敬二がいつも乗っていた線とは別の線だった。カミソリの刃のようなものでという言葉があったので、やはり手でもって切ったのだろうかと敬二は思った。おれだったら、カバンにカッターナイフを取付けてと考えて、敬二は緊張した。夕べの女のことが頭にあった。  翌日、敬二は一番細いカッターナイフの替え刃を買ってきて、カバンの底に取付けた。止金のあるところが書類入れになっており、その角をカッターナイフの刃先が五ミリ程度出るくらいに穴を開け、替え刃を接着剤で固めた。ナイフのホルダーを作ったときに使った接着剤が余っていたのだ。  敬二はカバンを離して、刃先の出ている部分を見た。三角形の黒い先がわずかに見えるだけで、他の人間には全く気づかれないだろうと安心した。  夜、接着剤が乾いたのを確かめてから、カバンを持って卓袱台に傷をつけた。ニス塗りの下の白い木の色まで見えた。少し刃先を出し過ぎたかと思ったが、相手が服だとこれでも切れないような気がした。敬二は部屋を見回して、適当な布地を探した。窓に日に焼けたカーテンが掛かっており、敬二は近づいていって、カバンの角を押しつけた。布地が動くため手応えがなく、木の窓枠までカーテンを開けてから、カバンを当てつつ下に降ろした。見ると、布地が五センチほど切れていた。敬二は右手でカバンを持ち、女の尻の高さに当たるあたりを切る練習をした。満員電車から降りるとき、前の乗客を押すような感じでやってみた。うまく切れるときもあったし、カバンの角がゆがんで切れないときもあった。何回か練習して、左手を添えてカバンをしっかり押えておくと、かなりうまくいくことを見つけた。  翌朝、敬二は早く目を覚ました。顔を洗い、念入りに髭を剃った。通勤していたときよりも、もっと目立たない恰好をしたほうがいいような気がして、一枚だけある厚手のブレザーにネクタイを締めた。ナイフの収まったホルダーはちゃんと背中にある。敬二は牛乳だけ飲んで、アパートを出た。  通勤や通学の人の列に加わるのは一週間ぶりだった。何だか新鮮な気持だった。駅の自動改札口を通るとき、前の人間にカッターナイフの刃先が当たらないように注意した。コンクリートの柱に大きな鏡がはめ込まれており、敬二はその前で立止まった。ネクタイを締めた自分が別人のように見える。カバンの角を鏡に映し、刃先がほとんどわからないのを見て、敬二は鏡の中の自分に笑いかけた。  敬二はあの女が乗ったあたりの車両に乗り、二つ目の駅で降りた。降りるとき素早く目を配って、女の姿を探したが、見つからなかった。女の勤めている会社が都心にあるならば、通勤してくるにはまだ早過ぎる時間だった。敬二はベンチに腰を降ろした。反対方向に向かう乗客はまばらだったが、電車がきて彼らも乗ってしまうと、ホームは急にがらんとなった。  しばらくたって、次の電車の案内が表示板に出ると、それを待っていたかのように人々が階段から降りてきた。敬二はさりげなく一人ひとりに目をやった。しかし電車が入ってきても、女の姿は見えなかった。  電車が出ていってから、敬二は自分が考え違いをしているのではないかという気になった。女がこの前このあたりで降りたのは、自分の帰る方向に一番近いせいで、会社に行くときは、会社に一番早く行ける車両に乗るのではないかと思ったのだ。自分の経験からいっても、それが一番妥当のような気がした。  敬二はちょっと焦ってきた。二本の電車のうちの一本に女が乗ったのではないかと思ったが、それならそれでまた明日があると気楽に考えた。しかし敬二はこのままベンチに坐っている気にはなれず、立上がると、階段を上って改札口を出た。敬二は売店で新聞を買い、それを読むふりをしながら、公衆電話のそばで地下通路をやってくる人間に目を向けた。  女はなかなか姿を現さなかった。女の会社がもっと遠くにあり、女は早くに地下鉄に乗っている可能性もあった。敬二は立っていることに疲れて、出口に向かった。ここまできたら女のマンションの前で待伏せしてやろうと考えたのだ。  出入口の階段を降りてくる人間の顔を見ながら上っていったが、踊り場で目を落したとき、階段の上から射込んでいた朝の光がかげった。顔を上げると、女が降りてくるところだった。二、三段上ったところで女の顔が逆光からはずれた。あの女だった。敬二はいったん地上まで上ってから、再び階段を降りた。手に持っていた新聞を途中で捨てた。女はグレーのタイトスカートに、淡いピンクのブラウスを着ていた。  女は改札口を入ると、敬二が上ってきた階段とは別の階段を降りた。敬二は遅れてホームに降り、女のすぐ後ろに立った。乗客がたくさんいるので、別に不自然な感じではなかった。  電車が入ってきた。敬二はカバンの角を下に向けて、女の後から乗込んだ。化粧の匂いが鼻をかすめる。車内はさっきよりも込んでいて、人いきれで暑かった。敬二はネクタイをした首筋に汗を感じた。  都心の駅は五つ目だった。一つの駅に止まるたびに、乗ってくる人間のほうが多くて、女も敬二もドア近くからだんだん中に押しやられた。敬二はなるべく女の背後から離れないように、他の乗客を押しのけたりした。  都心の駅のアナウンスが流れ、右手で持ったカバンの上部を左手で押えたとき、敬二は女がひょっとしたら次で降りないのではないかと思った。この前は途中下車して、デパートで買物をしたのではないかという気がしたのだ。次の駅以外では、降りるときの人数が少なく押合いにはならないので、女に気づかれずにスカートを切ることは不可能に近かった。首筋に汗が急に吹出してきた。敬二はワイシャツの襟元に指を突込みながら、いっそのこと今やろうかと考えたが、スカートだけを切ることができるか自信がなかったので、思いとどまった。  電車がスピードを落し始めた。敬二は窓のほうに向いた女の様子を注意深く見つめた。ホームが見え始めると、坐っていた乗客が席を立った。女はその乗客に押されるように横を向いた。席に坐ろうとはしない。敬二はカバンを両手でつかんで、女のすぐ後ろについた。掌がべとついた。動悸がし、足が浮くような感じがする。  電車が止まる寸前、急にブレーキがかかり、乗客たちの体が斜めになった。敬二は女に倒れかかり、思わず背中に手を当てた。一瞬ひやっとしたが、女は向こうを向いたままだった。  ドアが開く。乗客たちが吐き出される。ドア近辺では押合いになる。そこが狙い目だった。敬二は必要以上に体で女を押した。下に向けていたカバンの角を上に向けた。後ろからも押され、ホルダーが背骨の横に当たった。それを意識しながら、ドアから出る直前、敬二はカバンの角を女の尻のあたりに押しつけ、素早く下に動かした。手応えは全くなかった。  車内から押出され、敬二は女との距離を取った。二人のサラリーマンの間から、女の尻を見た。右足の太腿から尻にかけて、十センチばかり切れており、歩くたびにスリップか何かの下着の白が見え隠れした。あの切れ目に手を突込んで、スカートを引裂きたい衝動に駆られ、気がつくと勃起していた。  前を行くサラリーマンがスカートの切れ目に気づいたような素振りを見せたので、敬二は階段を上がるのを遅くした。自動改札口を出たところで、女の周りに先ほどのサラリーマンと駅員がいて、何やら話をしていた。女はしきりに後ろを気にしている。横を乗客たちが女に視線を向けながら、通っていく。敬二は離れたところの柱の陰から、その様子を見ていた。駅員がサラリーマンと女をもう一度改札口の中に入れた。駅長室かどこかに案内するらしい。それを見てから、敬二は地下通路に続くビルに入り、階段を上がって、かなり奥まったところにあるトイレに入った。一番奥のドアが開いており、そこに入って鍵をかけると、敬二はズボンを降ろした。そして女のスカートの切れ目とちらちら見えた下着を思い浮かべながら、自慰をした。  夜、めし屋で夕刊をめくったとき、敬二は自分のやったスカート切りの記事を見つけた。この前見た記事よりも大きな扱いだった。女は太腿も切られており、三日間の傷だった。そのことが記事を大きくしているようだった。敬二は思わず笑みを浮かべ、回りに目を向けてから、表情を戻した。女を傷つけたことで、復讐を果たしたような爽快感があった。敬二は店員に見つからないように、夕刊のスカート切りの記事を含む紙面を、手で縦に破り取った。それを持帰って、声を出して読んだ。読んでいるうちに再び笑いがこみ上げてきて、敬二は大きな声で笑った。  次の日もスカート切りをしたかったが、我慢した。三日間部屋にじっとしていて、金曜日の朝、再び早く起きた。今度狙うのは誰でもよかった。電車に乗って、ピンときた女を相手にすればいいので、前よりも気は楽だった。ネクタイはやはり暑苦しいので締めず、ブレザーだけにした。この前の女の乗る電車は敬遠して、それよりも遅い電車に乗ることにした。といっても、前はどの電車に乗ったか正確には覚えていないので、大体の時刻から四台後の電車にした。ラッシュのピークを過ぎないように注意しながら。  この前乗込んだ車両は後ろだったので、今度は前にした。電車はまだかなり込んでいて、敬二はほっとした。カッターナイフの刃を下向きにしてカバンを抱えながら、周囲に目をやった。OLは何人もいたが、これと決めることはなかなかできなかった。都心の駅に近づくにつれ、敬二は早く決めてその女の後ろにつかなければとあせり始めた。  都心の駅の三つ手前に停車したとき、フリルのついたブラウスを着て、長い髪にリボンをつけた女子大生風の女が乗込んできた。敬二は即座にこの女と決めて、乗客に押されて中に入らないように足を踏んばって、女の近くにとどまった。女と敬二の間には二人の乗客がいた。駅に止まる度に、乗客の動きに逆らって、人を肩で押し、都心の駅の一つ手前では、女のすぐ後ろについた。女は柔らかい生地のプリーツスカートをはいており、敬二は女に気づかれないように手でそっと触ってみた。横の乗客に押されて、尻の肉まで触ったが、女は別に反応を示さなかった。  都心の駅に着く。ドアが開いて、乗客たちが吐き出される。車内の人間が動き、敬二は女の背中にぴったりとついて、ドアに向かった。ドア付近で人が押詰まったとき、敬二はカバンの角を女の尻に押しつけた。女があっという小さな声を上げた。敬二は息が詰まるような感じを覚えながらも、カバンを思い切って下にさげ、ドアの外に押出されると、女の横を回って急ぎ足で階段に向かった。階段のところで振返ると、女がホームにしゃがみ込んでいるのが見えた。ざまあ見やがれと敬二は胸の内で叫んだ。  アパートに帰る前に、敬二は電話帳で近くの新聞販売店の番号を調べ、きょうの夕刊から配達してくれるように頼んだ。昼になるのを待って、テレビのニュースを見たが、スカート切りの事件は報道されなかった。  夕刊の来るのが待遠しかった。四時ごろから敬二はアパートの玄関を出ては外をちょっと散歩したりして、新聞配達が来るのを待った。玄関にある郵便受けはどれも壊れているので、配達にきた人間がその辺に放っておくのではないかと心配したからでもあった。  五時過ぎに夕刊が来て、敬二はその場で開けずに部屋に戻った。鍵をかけたことを確認してから、卓袱台の上で社会面を開く。右上に「スカート切り魔」の大きな見出しがあり、敬二はどきっとした。記事を読もうとしても、目が活字の上を滑ってしまう。中ほどに切られたスカートの写真があり、それで見るとかなり長く切れていた。その写真の下あたりから読み始め、とびとびに読んで、最後にもう一度通して読んだ。女はやはり女子大生で、都心の駅で私鉄に乗換えて、大学に通っているのだった。一週間の傷と書かれてあった。敬二を驚かせたのは女の話で、切られる直前書類鞄を持った若い男が後ろにいたと証言していることだった。たいしてこちらを見なかったように思ったのに、どこで観察していたのかとそのときの状況を思い浮かべ、切った後女の横に回り込んだのが悪かったのかという気がした。もっと早く女のそばを離れるか、あるいは女に気づかれずに切るかのどちらかしかないと敬二は思った。  ハサミがないので、ホルダーからナイフを抜き、それで記事の部分を切取った。テレビの上に置いていたこの前の記事も、ナイフで切取り、卓袱台に並べた。大きさが五倍ほど違っていた。もっともっと続けたらどうなるか、そう思うだけで身震いがきた。  土曜日曜と、敬二は新聞記事を何回となく読んで過ごした。女に気づかれずに切るには、手で切ったほうがいいのだろうかとカッターナイフの替え刃を持って、カーテン相手に練習をした。しかし手を使うのはどうしても不自然な動きになるので、いやだった。カバンを使ったのでは、手加減がむずかしい。それなら、女の脚の間を狙えばいいと気づいて、敬二はほっとした。  月曜日はこの前からあまり日が経っていないので出かけないつもりだったが、女の脚の間を狙えるかどうかやってみたいという気持が強く、地下鉄の線を変えたら大丈夫ではないかと実行することにした。金曜日のときに女に服装まで見られたかもしれないので、ブレザーはやめてジャンパーを着た。  いつもより早くアパートを出て、辞めた会社近くの駅で地下鉄を乗換え、二駅目でもう一回乗換えて最も混雑している線に乗った。この線ならどの駅でも実行できそうだったが、定期券の効かないのが難点だった。  都心まで六つの駅があり、標的の女が見つかればどこででも実行するつもりでいたが、いざとなると降りる乗客の数が少ないような気がして、ためらわれた。車内が込過ぎて、狙う女のそばに近づきにくいことも災いした。都心の駅に着いて、敬二は特定の女を狙わずに、乗客の流れに任せ、たまたま前にきた襟足の白いOLのスカートを切った。体を女の後ろにぴったりとはつけずに、ちょっとずらし、カバンの角が脚の間に来るようにした。女は全く気づかなかった。ドアの外に出て、歩調を緩めながら女のスカートを見ると、ちょうど真ん中あたりに短いスリットが入ったように切れており、ベージュの色が見えた。しばらく行くと、後ろにいた中年男が女の肩を指で叩いて、スカートが切れているのを教えた。いやーんという悲鳴に近い声を上げて、女はその場にしゃがみ込んでしまった。敬二は女を横目で見下ろしながら、通り過ぎた。口許に笑いが浮かんだが、誰かに見られたら危険だと気づいて、すぐに唇を閉じた。ホームが別々のため、いったん精算して改札口を出、それから定期券でいつもの線に乗って、アパートに帰った。  その日の夕刊にスカート切りの記事が載ったが、扱いは前に比べてはるかに小さかった。強盗殺人事件が起ったせいもあったが、相手の女が無傷だったせいだと敬二は考えた。女に気づかせないという狙いは一応成功した形だったが、敬二は何か物足りなかった。女のスカートを切るだけなら、時間の無駄のように思えた。たとえ二、三日で消えるにしても、女の体に自分の行為の痕を残さなければ、やる意味がないという気がした。  次の日、二日続けてやるのは危険ではないかと思ったが、きのうのは記事の扱いからして、やったうちに入らないと敬二は考えた。それに、二日続けたほうが騒ぎが大きくなるだろう。  敬二は会社に出勤するような調子で、顔を洗い、歯を磨き、トーストと牛乳だけの朝食をすませ、服を着替えた。ジャンパーにするかブレザーにするか迷って、結局ブレザーにし、ズボンも替えて、ネクタイも締めた。ホルダーも背骨の少し右に収まっている。それを服の上から触ってから、部屋を出た。  きょうは定期券の使える線でやるつもりだった。きのうのように精算の金を出すのは馬鹿ばかしかった。それで、都心の駅を越えて先まで行き、そこで反対車線に乗換えて、都心まで戻ってきて実行するつもりだった。  地下鉄に乗る。敬二は吊革にぶら下がりながら、車内の様子をそれとなく観察した。ひょっとしたら、刑事が乗込んでいるかもしれないと思ったからだ。そのついでに、ピンとくる女が乗っているかどうかも観察したが、この電車では実行しないと決めているからか、標的になる女が何人も目についた。敬二はよほどあの女たちの一人の後ろについてやろうかと思ったが、始めに決めたとおりにすることにして、女たちの顔をじっと見た。顔を覚えておいて、次の機会に狙うためだった。  都心の駅で、女たちはみんな降りた。敬二は窓越しに女たちの姿を追ってから、空いた席に腰を降ろした。  都心を過ぎて六つ目の駅で降り、同じホームで反対車線の電車を待った。しばらくして電車の到着を知らせるアナウンスが聞え、何人かが階段から降りてきた。その中に標的がいた。肩まで伸ばした髪を内側にカールさせ、黒っぽいツーピースにパンプスをはいていた。背が高くて、大手企業の秘書という感じだった。敬二は女の後ろについた。電車が入ってくる。まだ満員ではなく、肩と肩が触れ合う程度だった。  次の駅が乗換駅でかなりの乗客が降りたが、それ以上の人間がどっと入ってきたので、車内はいっぺんに満員になった。押されて女の背中に張りつきそうになったので、敬二は体を斜めにした。カバンは右手に持って、下におろした。都心までもう乗換えの駅はなく、車内は込む一方だった。女と体をつけている肩から腕にかけての部分が熱くなってきて、額に汗がにじみ始めた。首筋もシャツのカラーに締められて息苦しい。早く解放されたいと敬二は思った。  都心の駅に着く。ドアが開く。敬二はぶら下げていたカバンを上げ、女の背中から離れないように動いていく。ドアのところで押合いになり、敬二はカッターの刃が当たらないようにカバンの上の角を女の腰に押しつけた。後ろのサラリーマンがアタッシュケースをちょうど背中のホルダーに当ててきて痛いので、敬二は腰を振ってずらした。  ドアを出る瞬間、敬二は女の右脚の太腿を狙って、カバンを押しつけながら素早く動かした。ひーという悲鳴が女の口から洩れ、ホームに降りてすぐ女は太腿に手を当てた。そして体をひねって、手を当てたところを見た。敬二は女の横を通り過ぎ、そ知らぬ顔をして他の乗客と一緒に階段に向かった。 「あの男よ」女の甲高い声が響いた。敬二は心臓が締めつけられるのを感じた。それでも前のサラリーマンの頭を見ながら、歩いていった。 「おい、待て」今度は太い男の声が聞えてきた。振返るなと敬二は自分に言聞かせたが、後ろの騒ぐ音でちょっとだけ首をひねった。そのとき二人の男が人をかきわけながら、ものすごい勢いでこっちにやってくるのが見えた。一瞬足がすくんだ。階段がすぐそばで、敬二は乗客の間に無理に体を割込ませるようにして、急いで上った。逃げたら自分がやったと教えるようなもんだと思っても、足のほうがじっとしていなかった。  自動改札口は乗客が詰まっていて、なかなか抜けなかった。敬二は階段に目を向けながら、前のサラリーマンの背中を押した。 「押すなよ」と前の男が振返って言った。敬二は頭に血が上り、「ぶっ殺すぞ」と怒鳴った。回りの乗客が少し体を離すようにして、敬二を見た。  階段の上り口に二人の男の姿が見えた。まっすぐ敬二のほうを見ている。その視線で、体が絞られるように敬二は感じた。  改札口の人間が動かない。男たちが人を押しのけて進んでくるのを見ると、体が震え、顔に汗が吹出した。駅員のいる改札口のほうを見たが、そちらもいっぱいだった。改札口の横はステンレスの柵になっていて、敬二はそれをじっと見てから、乗客をかきわけて柵の前に出た。そしてカバンを向こう側に放り投げると、柵に両手をかけ、体をわずかに持上げて片足を乗せた。 「こら、待たんか」という怒鳴り声が聞えてきた。革靴が滑るのをうまくバランスを取って、両足を乗せ、向こう側に飛降りたが、降りた拍子に右足首をくじいてしまった。地下通路をいく人間たちが、敬二を避けるように通り過ぎながら、目を向けた。  敬二はカバンを拾わずに、びっこを引きながら走り出した。ちらっと後ろを振返ると、先ほどの男たちが駅員のいる改札口を出るところだった。敬二は急に向きを変えて、ビルの地下通路に入った。少し行くと階段があり、そこを上って地上に出るつもりだったが、地下一階まで上ったところで気が変わって、両側に飲食店やブティックのある通路に入っていった。突当たりに二基のエレベーターがあり、それに乗ろうとちょっと待ってみたが、下に降りてきそうもなかったので、回り込んでさらに奥に行った。「関係者以外立入禁止」の札のかかった部屋の向こうに便所があった。中に入ると、蝶ネクタイをした喫茶店のマスター風の男と、サラリーマンが小便をしていた。  敬二は顔を下に向けながら、三つ並んでいるうちの、扉の開いていた一番奥の部屋に入った。扉を締め、掛金をかけた。そして壁にもたれて、大きく深呼吸をした。小便をしたい気がして、ズボンのファスナーを下ろし、ペニスを出したが、どうしても小便が出なかった。かなり長い間出しておいてから、しかたなくしまい込み、水洗の水を流した。  壁に背中をつけたまま、敬二はしゃがみ込んだ。隣で水を流す音が聞え、ベルトの金具の音がした。ドアが開いて、隣が出ていく。物音がしなくなり、敬二は自分の呼吸の音だけを聞いた。少したって、誰かが便所に入ってきた。敬二は緊張した。しかしそいつは隣に入った。隣の下痢気味の音を聞いて、敬二は思わず笑ってしまった。音が止まり、しばらくしてトイレットペーパーを引出す音、そして水の音。その音に混じって、複数の靴音が聞えてきた。  一番向こうの扉を叩いている。 「入ってるよ」という男の声がする。それでも扉は激しく叩かれる。敬二は壁に背中をつけながら、立上がった。一番向こうの扉の開く音がし、「なんだよ」という男の怒ったような声が聞えてくる。小声のやりとりがあり、「失礼しました」という別の男の声が聞えてきた。  次に隣の扉が叩かれる。敬二は体が震えてくるのを押えようと奥歯を食いしばった。隣は何も言わずに出ていった。 「ごめんなさい」という軽い調子の声が聞えた。  一瞬間を置いて、敬二の扉が叩かれた。敬二は両腕を抱え込んで、体に思いきり力を入れた。口の中が渇く。 「そこにいるんだろう」太い声が聞えた。  そのとき、敬二は背中のナイフのことを思い出した。ふっと体が楽になった。両腕を解くと、右手を背中に回し、ブレザーの裾を払ってナイフを抜いた。ナイフは重みがあり、手にぴたりと吸いついた。  再び扉が激しく叩かれる。敬二は胸の中に詰まったものを吐き出すように、大声で叫んだ。 「素直に出てきなさい」  敬二はナイフを両手で握り締め、扉に向かって突出した。