贋マリア伝            津木林 洋  友というのは、ある意味でその時限りのものと私は思っている。私は一度結婚に失敗しているが、別れた夫も友の範疇に入れるならば、ますますその思いは強くなる。  マリアは私の数少ない交友録の中でも、その時限りの最たるものだが、その印象は慧星に似ている。それも放物線を描いて、虚空に消えていってしまう彗星に。  私がマリアこと結城利枝子に会ったのは、離婚して半年とたたない頃だった。私はすでに三十歳になっており、女ひとりでこれからどういうふうに生きていこうかと、先の長い人生を思うと、暗澹たる気分に襲われたものだった。  大阪の天満橋近くに、小さな商事会社の経理の仕事を見つけた私は、住処を求めて探し回ったあげく、千林に手頃な文化住宅を見つけた。建ってからかなりの年数を経たと思われるほど古ぼけていたが、交通の便がいいのと、近くに安くて豊富な品物を売っている市場があったのと、それになにより、敷金が本当かなと思うほど安かったから、その場で借りることにした。五軒棟続きの一番東側の一階だった。六畳と四畳半の部屋に、トイレとままごとみたいな台所がついていた。  私は早速東区のマンションから、荷物を運び込んだ。荷物といっても、洋服ダンスに鏡台、それにスーツケースぐらいだった。夫は離婚が決まる前に東京に転勤になっており、マンションにある荷物は、私のものだけだった。ただダブルベッドだけが、共有したものとして残っていたが、それを運んでくるつもりはなかった。部屋がせまいということもあったが、何よりも、結婚生活を殊更思い出させるものを、持込みたくなかったからだ。私は引っ越しをしたその日に、商店街に出て、ピンクのかわいらしいシングルベッドを買い求めた。  私は文化住宅というものが、これほど隣の物音が聞えるものとは思ってもみなかった。アパートと変わりなかった。夜は特によく聞え、一週間ほど睡眠不足が続いた。  そんなことにもようやく慣れた、ある日曜日の朝、ドアを激しく叩く音で私は目を覚ました。ナイトガウンを着て玄関に出た。 「だれ?」 「あたしよ、あたし」  聞き覚えのない声だった。 「だれですか」 「あたしよ、マリアよ。早くここを開けてちょうだい」  マリアという名前に心当たりはなかったが、私は鍵をはずし、ノブをしっかりと握って、小さく開けた。しかし次の瞬間、ドアが引っ張られ、私はノブを握ったまま、体半分外に飛び出してしまった。もう少しで、目の前にいた若い女性とぶつかりそうになった。 「あんた、だれ?」と彼女は言った。 「あなたこそ、だれなの?」と私はちょっと憤然となってそう言い返した。 「あたしはマリアよ。ユミコいてへんの? ユミコー」  彼女は私の肩越しに顔を突っ込んで、叫んだ。私は呆気に取られて、彼女の顔をまじまじと見た。左目の回りが青黒いあざになっていて、私は少し驚いた。 「わたしはここに住んでいるのよ。ユミコなんていう人はいません」 「うそやん」そう言うと、彼女は体を引いて、左右に首を動かした。 「やっぱりここや。間違いあらへん」  私はそのとき、あることに思い到った。 「ひょっとしたら、そのユミコさんていう人は、前にここに住んではった人と違いますか」 「前に住んでた?」 「そうよ。わたしはね、二週間ほど前にここに移ってきたのよ」 「ユミコが引っ越したって言うの」 「それしか考えられへんでしょ。あなた、この前ここに、そのユミコっていう人を訪ねてきたのは、いつ?」 「二カ月くらい前かな」 「ほらね」 「うわー、どないしょ」彼女は口を尖らせて、困ったような顔をした。 「ユミコ、どこに引っ越したか知りはりませんか」 「どうして、わたしが知ってるの」私は驚いて答えた。 「そりゃそうやね。友達であるわたしが知らんのに、赤の他人のそっちが知ってたら、おかしいもんね」  ひとりで納得している様子が何だかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。 「通知かなんか、なかったの」 「そんなんあったら、こんなとこにけえへんよ」  なるほどと私は思った。 「もう少し待ったら、葉書か何か来るのと違う?」 「来てもあかんねん。あたし、ただいま現在住所不定の身の上やから」 「お尋ね者みたいやね」 「お姉さん、うまいこと言うやん。ほんとにあたし、お尋ね者やねん。そやからユミコのとこへ逃げてきてんけど」  お姉さんと言われたことなど一度もなかったので、奇妙な感じがした。 「お姉さん、大家さんとこの電話番号わかります?」 「わかるわよ」  奥に引っ込んで、電話番号をメモ用紙に写し、その紙切れを渡した。 「朝っぱらからお邪魔して、すいませんでした」  彼女は深々とお辞儀をして、ドアを閉めた。私は鍵をかけて、もう一度ベッドに戻ったが、頭がさえてしまってなかなか眠れなかった。ジーンズ姿にサンダルばきの彼女のことを思い浮かべ、目の回りのあざは誰かに殴られた痕かしらと思ったりした。  そのうち、うとうとしかけたが、再び、ドアを叩く音で起こされた。今度は間隔を置いた遠慮がちな叩きかただった。ナイトガウンを着てドアを開けると、また彼女だった。 「たびたびすいません」 「お友達の移転先わかったの?」 「いいえ」  彼女は足元を見たり、隣のドアに目をやったりした。 「何か用」 「お姉さん」彼女は私の目を見つめた。「しばらくあたしをここで休ませてもらえませんか。何しろこの目やから」 「その目、どうしたの」 「男社会の象徴がこの目にきてますねん」 「殴られたの?」 「はよ言うたら、そうですわ」  私はどうしたものか、ちょっと考えた。 「殴られたいうても、ヤーさんとかそんなんと違いますよ。安心して」  私が迷っていると、「お願い」と彼女は手を合わせた。私は苦笑して、「ちょっとだけなら」とドアを大きく開けた。 「助かったあ」彼女は猫を思わせる素早さで入ってきた。私はもうベッドに戻る気にはなれなかった。ガウン姿のままコーヒーをいれることにした。 「トイレ借りてもいい?」 「いいわよ」  彼女は奥のトイレにいき、戻ってくるとき六畳間をひとわたり見回した。そして私がフィルター式のコーヒーをいれている卓袱台の前に坐った。 「きれいにしてはるんやねえ」と彼女が言った。 「こんなものじゃないの」 「あたしの部屋なんか、いつもめちゃくちゃ」 「あら、住所不定じゃなかったの」 「あ、そうそう、あたし、きょうから宿なしになったんやわ。すっかり忘れてた」  私はカップにコーヒーをいれながら、彼女のほうを見た。おそらく、かなりうさん臭い目をしていたのだろう、彼女はあわてて手を振ると、「何も嘘や冗談と違いますよ。みんな本当のことなんやから」と早口で言った。そして宿なしになった理由をかいつまんで説明した。それによると、彼女はある小さな金融会社の社長の二号をやっていたのだが(会社に就職しているみたいに気軽に言うものだから、私はびっくりした)、昨夜男を引っ張り込んでいるところを社長に踏み込まれ、大立回りのあげく、マンションを飛び出してきたというのだ。オールナイト喫茶で時間をつぶし、朝になってユミコを頼ってここに来たのだった。男とはその晩ディスコで知合ったばかりで、頼るもなにもあったものじゃないという。  話を聞いても、すぐには信じられなかったが、目の回りのあざやバッグもなにも持っていないところを見ると、まんざら嘘ではなさそうな気がしてきた。 「それでこれからどうするの。社長さんのとこへ戻るの」 「まさかあ。誰があんなとこに帰りますかいな」 「だったら、どうするの」 「まあ、何とかなりますやろ。こんなこと、しょっちゅうやし、あたし、無一物には慣れてますねん」 「無一物って、荷物は取りにいかないの」 「あほらしい」と彼女はコーヒーをひとくち飲んだ。「大見得きって、部屋のキーをたたきつけてきたのに、今さら荷物取りに来ましたなんて帰れると思う? それにきれいさっぱり捨てたほうが、すっきりして気分がええやん」 「お金は?」 「ポケットに二千円とちょっとあるだけ」 「いいえそうじゃなくて、貯金通帳なんかもあったんでしょう?」 「なし」 「お金は全くなかったの?」 「財布に二、三万はあったと思うけど、バッグに入っていたから。バッグを持ってこなかったのが、唯一の失敗やね」 「よくやるわね」私は溜息をもらした。 「なに言うてんのん」と彼女は手を振った。「お姉さん、もっとどーんと構えなきゃあかんよ。金は天下の回りもの、男のほうから回ってくるんよ」  彼女はコーヒーを飲み終えると、目のあざは冷やしたほうがはよ治るやろかときき、そうだと思うけどと答えると、早速私からタオルを借り、水で濡らして目に当てた。そのうち眠くなってきたと横になったから、彼女を起してベッドにつれていった。すぐに眠ってしまい、私はずり落ちたタオルを取って、毛布をかけた。  彼女は昼近くになっても、目を覚まさなかった。私はどうしたものか考えてから、とりあえず二人分の昼食をつくることにした。一合半のごはんを炊き、冷蔵庫をのぞいてオムレツをつくった。  キャベツを刻んでいると、彼女が起きてきた。 「ああ、よう寝たわ、十日分くらい、いっぺんに眠ったみたいな感じやわあ」と大きく伸びをした。私が昼食をすすめると、いやあ悪いわあ、休ませてもろたうえに昼ごはんやなんてと言いながら、卓被台の前にしっかりと坐り、おなかペコペコですねんと舌を出した。  昼ごはんを食べている間、彼女は自分のことを話した。彼女は結城利枝子という名前で、マリアというのは水商売で使っていた源氏名だった。歳は二十一。半年前に金融会社のおっさんにしつこく口説かれて、二号を承知したけど、ケチでやきもちやきで、そのくせ自分は男の中の男という面をしていて、「それが腹が立つから、浮気したってん」と利枝子は言った。 「もう二号なんてこりごりや。もともとあたしには向いてへんかったんよ」 「それで、これからどうするつもり」 「また水商売に戻るわ。あたしみたいに金なし、学なし、コネなし、親なしのなしずくしやったら、体を張って生きていく以外方法がないもんね」 「親もいないの」 「五つのときに死に別れ、中学出るまで施設で育ち、というのがあたしのセールスポイントなんよ」 「ほんとはどうなの」 「あたし、嘘なんかついてへんよ」  利枝子は口をとがらせた。ごめん、ごめんと謝りながら、私は改めて彼女の顔を見た。どこまで本当かよくわからなかった。ユミコという友達のほかには頼れる人間がいないというので、むげに追い出すわけにもいかず、とりあえず目の回りのあざが治るまでということで、利枝子を泊めることにした。あざが治れば、どこかのクラブにでもいって支度金をもらって、その金ですぐにアパートでも借りるからと利枝子は言った。そんなにうまくいくのかしらと私が言うと、あたしはプロよ、プロのいうことを信じなさいときた。化粧っ気のない顔にジーンズという子供っぽい姿とプロという言葉がうまく重ならなくて、私はひとりで笑ってしまった。  利枝子の目のあざは、三日ほどできれいに消えた。その間、私は念のため現金全部と預金通帳をバッグに入れて会社に行った。昼ごはんは冷蔵庫のなかにあるもので何かつくって食べなさいと言っておいたが、料理をした形跡がなく、外で食べているらしかった。晩ごはんは私が帰りに市場に寄って買ってきたものを、手早く料理して一緒に食べた。利枝子は特に私の料理の早さに感心しているようだった。いつでも結婚できますやんと彼女は言った。私はそのまま受け流そうかと思ったが、少し迷ってから、離婚したのよと答えた。 「うわー、そうでしたん」と利枝子は大袈裟に驚いてみせた。「全然そんなふうには見えへんかったわあ」 「ありがと」 「そやけど、羨ましいわあ。あたし、離婚した女にあこがれてますねん。結婚しっぱなしやったら、おばはんになってしまうでしょ。かと言うて、未婚の女はうわついてて、様になれへんし、離婚した女が一番よろしいわ。お姉さんがそうやなんて、うれしいなあ。道理で落ち着いてはると思うたわ」  皮肉られているのかと思ったが、そうでもなさそうだった。 「でも、離婚するには結婚しなきゃならないでしょ」 「そうなんよ。それが一番の問題やね」  私のなかにも、離婚にあこがれる気持があったのだろうかと自分に問うてみる。そんなものはなかったはずだ。かといって結婚生活を何とかして維持しようという積極的な気持もなかったような気がする。子供ができていたらと母が言ったが、そんな簡単なことだろうか。夫には仕事があり、妻には子供がいる。それだけで結婚生活が続くとして、私には耐えられるだろうか。よくわからない。とにかく私は結婚には不向きの人間だと考えるのが、一番自然のような気がする。  水曜日の夜、銭湯から帰って、ブラシで髪をすいていると、利枝子が頭にバスタオルを巻きながら、鏡の中の私を覗き込んだ。 「お姉さん、あした仕事を見つけてくるから、ワンピースかなにか貸してもらえません」 「本当にさがすつもり?」私はブラシを持ったまま、向き直った。 「当たり前ですよお。いつまでも居候してたら悪いもん。働かざるもの食うべからずって言うもんね」 「別に無理してさがすことはないんよ。水商売やったら、余計に慎重にさがしたほうが、ええんと違う?」 「ううん。パーっと決めて、いややったらパーっとやめたらしまいやから」  私のサイズは十一号で、利枝子も私と同じくらいだった。私はもう袖を通すことのなくなった淡いピンクのジョーゼットのワンピースを引っ張り出して、利枝子に着せてみた。私のほうが少し太っていたが(というより、利枝子のほうがやせていたというべきだろう)、むしろ彼女にぴったりだった。私はこの服が似合っていた頃の自分を思い出した。まだ結婚するまえで、ぜい肉もついていなかった。私は利枝子に昔の自分を重ねてみたが、それから五、六年しかたっていないのに、はるかな昔のことのような気がした。  サンダルばきで行くわけにもいかないので、白のパンプスを出した。利枝子は履いてみて、ちょっときついと言ったが、一日くらいしんぼうしなさいと私は言った。手ぶらで歩くのも変なので、セカンドバッグも持たせた。  翌朝、私が出かけようとすると、利枝子が化粧道具を借りてもいいかときいてきた。利枝子の顔は目が大きくて整ってはいたが、まだ幼さが残っており、本当に水商売をしてきたのかしらと思わせるほどだった。私はいいわよと答え、ドライヤーを使って髪もセットするのよと言い足したりした。まさか彼女がその日のうちに仕事を決めてこようとは、思ってもみなかった。  夕方会社から帰ってくると、部屋に明かりがついており、利枝子のいるのがわかった。急いでドアを開けたが、三和土に私の白いパンプスと、見たことのない黒のエナメルのハイヒールが並んでいた。利枝子の友達が来ているのかと私は思った。 「お帰り」と卓袱台の向こうに坐っていた利枝子が声をかけた。私は彼女の顔を見て驚いた。まるで別人だった。幼さが消えて、色気のある大人がそこにいた。私は驚きを表に出さないように注意しながら、「すごくきれいになったじゃない」と言った。「えへへへ」と利枝子は頭に手をやった。卓袱台の上には大きなすし桶が置いてあり、仕事が決まったんだなと私は思った。 「誰か来てるの」奥の六畳間に目をやりながら、私は尋ねた。 「どうして」 「エナメルの靴があるでしょ」 「ああ、あれはあたしの」 「買ったの?」 「うん。きょう三十万もらって、それでいろいろ買うてしもた」  利枝子は立ち上がって、私を六畳間につれていった。ベッドの上に、見馴れない服が三着投げ出してあり、下にはH百貨店の大きな紙袋が二つ置いてあった。利枝子は黒地に白抜きのすずらん模様をあしらったワンピースを手に取って肩に当て、左右に体をねじった。 「どう、似合う?」 「似合うわよ」私は気のない返事をした。 「あたしね、肩のフリルのところがちょっと気になったんやけど、胸のカッティングやシルエットがひと目で気に入って買うてしもてん。おかしいやろか」 「いいんじゃない」 「それじゃあ、次」と言いながら、利枝子は今度はサテンの花柄のワンピースを体に当てようとしたが、すぐに放り出すと、「これ見て」と紙袋の中から、包装紙に包まれた品物を取り出した。そして紙を破って、箱を開けた。出てきたのはエナメルのクラッチバッグだった。 「靴と揃いにしてん。ちょっと高かったけど、ええやろ」 「他には一体何を買うてきたん」 「何って、とりあえずいるもんばっかり」 「ちょっと見せて」  利枝子は紙袋の中からひとつひとつ品物を取り出し、包装紙を破っては私に見せた。まずガードル、ブラジャー、ショーツ、スリップなどの下着類、化粧道具一式、イヤリング、ペンダント、ブレスレットなどのアクセサリー、赤いトレーナーにジーンズが二本、いちご模様のパジャマ、ストッキングが五足、財布にハンカチ……。 「きょう一日で、これだけ買ったの」 「ほんとはもっと買いたかったけど、お金がなくなってしもたから」 「三十万、全部使ったの」 「そう。十万くらい残そかなあと思ったけど、デパート回ってたら、つぎつぎと要るもんが目について、気がついたら一万円だけ。それでビールを買って、すしとお吸物を注文したら、二千円ちょっとしか残れへんかってん」 「あきれたわあ」  私は本当にあきれて、そのまま声に出した。 「お姉さん、そんなに心配せんといて」と利枝子は私の肩に両手を置いた。「これはいうならば、投資ですやん。これを元手にぎょうさんかせがせてもらうんやから、けちったら、ほんまにケチがつきますやろ」 「とらぬたぬきの皮算用と違うの」 「うわあ、きつう」  利枝子は笑いながら体をひねり、顔を横に向けたが、すぐに正面に向き直り、両手を合わせた。 「今度お金が入ったら必ず出るから、もうしばらくここに置いてちょうだい。お願い」  いるのはいいけど、食費くらい入れてちょうだいと言おうと思ったが、そんなことを言うと居坐りを認めるようなものなので、やめた。 「無一文の娘を放り出すわけにもいかないし、まあ、もう少しならいてもいいわよ」 「よかったあ。あたし、お姉さんに出ていけって言われへんかと心配で、心配で」  利枝子はいやみなく人の心の内側に入り込む術を心得ているようだった。それは孤児という境遇がそうさせたのか、水商売で身につけたものなのか、あるいは生れ持った才能なのか、私にはわからなかった。  利枝子は、お姉さんの服をお返ししますとジーンズとトレーナーに着替えたが、「それ気に入ったんやったら、あげるわよ」と私は言った。衣装ケースに入れっぱなしだったら、服もかわいそうだととっさに思ったからだった。 「うわあ、ほんと。うれしいわあ。あたし、この服、気に入ってますねん。体にぴったりでしょ。昔からあたしの服みたいな気がしてましてん。お姉さんのお下がりやわあ。あたし、お下がりもらうのん、生れて初めて」  利枝子は私のワンピースを新しく買ってきた服の横に並べて、うれしそうにそれらを眺めた。  私たちはビールで乾杯し、すしをつまんだ。利枝子の勤める店は北新地にあり、「フィンガーポスト」という名のクラブだった。利枝子の以前勤めていた店はミナミの宗右衛門町にあり、キタだったら前のパトロンにも見つかることはないというのが、彼女の考えだった。ミナミにいた頃顔見知りになったスカウトの男に電話して、手頃な店を四軒ばかり教えてもらったということだった。 「どの店のマネージャーもけちな奴ばっかりで、紹介もなしに来た人間に、支度金なんかやれるかいって言いよってん。あたし、しょうないから最後の店で、お涙ちょうだいの話をでっちあげて巻き上げたってん」 「どんな話をしたん」 「お父ちゃんが心臓の手術をするので金がいる、言うたってん。おまけにお母ちゃんはリュウマチで寝たきりで、妹も高校やめて働きに出た、言うてん」 「そんな話、すぐ見破られるのんと違う?」 「見破られてもええねん。向こうがあたしを欲しがってるのはわかってたから、きっかけを作ったってん。たとえ嘘とわかっても、そのほうがお金を出しやすいでしょ」 「そんなものかしら」 「だましたふりをして、だまされたふりをする。それでうまいこといく所なんよ」  その夜、私たちは利枝子の買ってきた四本のビールを全部あけた。利枝子はアルコールが入ると、ますます口が軽くなり、ミナミで勤めていた頃の同僚の女性たちの話をつぎつぎにして、飽くことがなかった。  翌日さっそく店に出たらしく、私が帰ってきたときには利枝子の姿はなかった。私は一人で食事をすませ、銭湯にいき、四畳半の部屋に利枝子のふとんを敷いて、その上に横になってテレビを見た。十二時近くになっても、利枝子は帰って来なかった。一日目だから早く帰って来るわと言っていたが、早くというのが何時を意味するのか聞いていなかった。一時まで起きていたが、利枝子は帰って来ず、仕方なく私は明かりを消して、ベッドにもぐり込んだ。なかなか寝つかれず、寝返りばかり打っていたが、そのうち眠ってしまった。  翌朝目が覚めて、すぐに隣の部屋を見た。利枝子はスリップ姿のまま眠っていた。掛けぶとんがお腹のあたりまでまくれており、私は肩まで掛け直してやった。化粧はクリームで落していたが、鼻の付け根や生え際のあたりに残っていた。足許にサテンのワンピースが脱ぎ捨ててあり、私は拾い上げてハンガーにかけた。クリームのびん、丸められたティッシュペーパー、ストッキング、それに、ガードルとエナメルのバッグが散らばっていたが、そういうものは放っておいた。  流し台で静かに顔と歯を洗い、通勤服に着替えた。いつもなら卓袱台を出して、テレビを見ながらトーストとコーヒーの朝食をとるのだが、きょうはそうもいかず、仕方なく流し台の上でフィルターコーヒーをいれ、トーストをかじった。  化粧は音がしないからよかったが、髪のセットで、ドライヤーを使う段になって、ためらった。ブラッシングだけですまそうかと思ったが、耳の上がぺたっと寝ているのが気になった。どうしようかと利枝子の寝顔を眺めているうちに、だんだん腹が立ってきた。大体私と一緒に起きないほうが悪いのだ。いくら夜の仕事だからといっても、居候に私が合わす必要などないと思った。私は髪を濡らし、思う存分ドライヤーを使った。しかし利枝子は寝返りも打たず、小さく口を開けたまま、軽い寝息を立てているだけだった。  夕方帰ってくると明かりがついており、中に入ると利枝子が煙草を吸いながら新聞を読んでいた。化粧が決まっていて、朝の寝顔とは雲泥の差だった。 「お帰りなさい」と利枝子が顔を上げて言った。 「どうしたの。もうくびになったの」と私は夕食の材料を入れたビニール袋を冷蔵庫の横に置きながら言った。 「うわあ、きつう。あたしがそんな簡単にくびになりますかいな。きょうは八時に出たら、よろしいねん。昨夜あたしがついたおっさんが、同伴出勤したるから付き合え、言いよってん。あたしは別にいきたくなかったけど、新入りがむげに断って生意気やと思われるのもしゃくやから、付き合いましてん。そのかわり二時間きっかり。同伴出勤したら二時間まで遅刻してもええから」 「それで、咋夜は何時に帰ってきたの」 「二時半ごろやったかな。国道のところまでタクシーで送ってもろてん」 「きょうは何時になるの」 「お姉さん、怒ってんの? ごめん。あたしは早く帰るつもりやってんけど、あのおっさんが悪いねん。水商売のつらいところなんよ。きょうは早く帰ってくるから、ね」 「私は何も怒ってないわよ。ただ寝た私を起こさないということと、朝うるさくしても文句を言わないということを守ってくれたら、何時に帰ってきても構わないわよ」 「やっぱり怒ってる」 「怒ってないわよ」  私はテレビをつけた。ニュースが終って、CMが始まるところだった。 「お姉さん、いま何時」 「六時半」私は腕時計を見ながら答えた。 「こりゃ、いかん」利枝子は煙草をコーラの空缶でもみ消し、新聞をたたんだ。「六時半に昨夜のおっさんの会社に電話することになってんねん」  彼女はバッグから財布を取り出し、あわてて出ていった。  しばらくして戻ってくると、「お姉さん、どうして電話をつけへんの。電話がなかったら不便やわあ」と言った。 「必要ないもの。それに前の人もつけてなかったみたいやし」 「ユミコはつけてる暇がなかったんよ、しょっちゅう引っ越しするから。お姉さんは当分ここに住むんでしょ。そしたら電話あったほうがええわ。ひとり暮しの女性は電話をつけるべしって、どこかに書いであったわ。電話があるだけで孤独感が和らげられるんやて」 「どこで読んだの、そんな話。電電公社のPRみたいね」 「お姉さん、ひとりで暮してて、寂しくない?」 「ひとり暮しを始めて日が浅いから、よくわからないわ」  そう私は答えたが、実際は離婚するまでの一年間くらいは、一緒に住んでいてもひとり暮しみたいなものだった。いやむしろ、ひとり暮しよりも孤独だったような気がする。 「私のことより、あなたはどうなの。ずっとひとりだったんでしょ」 「あたしなんか、もう免疫ができてるわ」  私は夕食を作るため台所に立った。「あなたも食べていく?」ときくと、「おっさんに晩ごはんをおごってもらうことになってんねん」という答えが返ってきた。利枝子は鏡台に向かって髪にブラシを入れてから、「もういくわ」とハイヒールをはいた。 「きょうは早く帰ってきますから。間違いなく」 「本当かしら」  その夜も利枝子はなかなか帰ってこなかった。  こんなふうにして、私と利枝子の共同生活が始まった。共同生活といっても、日曜日以外は大抵すれちがいだったし、たまに彼女が十二時前に帰ってくることがあっても酔っ払っていて、客や一緒に働く女たちの話を一方的にするだけだった。例えばこんな具合に。 「ほんまにあのおっさん、しつこいわ。あたしが横に坐るなり、太腿触ってきよんねん。ええ生地やなあ、なんて言いながら触っといて、しまりがええなあってくるんやからね。それで何と言うたと思う、ここで大分男を締め上げてきたんやろ、やて。よっぽど、ぴちぴちした男の腰やったら締めたいとは思うけどビール腹はごめんやわ、と言うたろと思うたけど、せっかくの指名客やもんね。そのおっさん、こんなビール腹やねん。穴を開けて栓をつけたら、泡ばっかりのビールが出てくるわ。太腿だけやったら、まだええけど、その次は腰に手回しよんねん。お、これは安産型やな、言うて。それから今度は背骨や。水商売の女はここが曲がっとんのが多い。ここが曲がっとったら、内臓が変に圧迫されて、病気になるもとや、そう言うて、背中をさすりよんねん。背中だけやのうて、背中全体やで。おのれの肥満はどやねん、心臓病でぽっくりいくぞと言うてやりたいくらいやわ。医者? 違う、違う。どこかの紙問屋の社長やて」  私は適当に相槌を打ちながら聞き流し、彼女に水を持っていったりした。  利枝子は、お金ができたらすぐにアパートを見つけるからと言ってはいたが、お金がたまるような気配は皆目なかった。給料が入ると、彼女は日曜日に私を引っ張ってデパートに連れ出し、ワンピースやブラウス、カーディガン、靴などをぱっと見ては、ぱっと買った。一応私に「どう、似合う?」ときくのだが、私の言うことなど全然聞いていなくて、「ちょっと大胆過ぎるんじゃ……」と言葉の終らないうちに、「これにするわ」と店員に服を渡しているといった具合なのだ。給料が入らなくても、時計やブレスレット、ネックレス、たまには高そうなカクテルドレスなどの客からのプレゼントがあって、利枝子の持ち物は増える一方だった。もうパトロンを作ったのときいてみたが、彼女はとんでもないと手を振った。「もう特定の男は作れへんことにしてん。今はどの客も平等に扱うねん。そのほうが競争みたいになって、おもしろいもん」 どうせ引っ越すからと、折畳めるファンシーケースを買ったが、それもたちまち一杯になり、あふれた服はハンガーで所かまわず吊下げられた。私の部屋は狭くなり、ブティックの倉庫みたいになったが、私はむしろそういう華やかな雑然さをおもしろがっていた。今までの自分の生活にはなかったことだし、利枝子との生活時間が違っているために、夜をひとりで過ごせるのが、彼女を強いて追い出そうという気にはなれなかった理由だろう。それに休日という自分の時間を持て余すときに、話相手がいるということは、たとえ話題がとんちんかんの方向にいくことがあっても、心休まることだった。  利枝子は電話がほしいと口癖のように言っていたが、私は「電話がほしければ、自分で部屋を借りて、そこに引けばいいでしょ」と取り合わなかった。そのうち彼女は何も言わなくなり、私も電話のことは忘れてしまった。ところが六月のうっとうしい雨降りの晩、傘をさしながら帰ってきた私は、ドアを開けようとして電話のベルが鳴っているのに気づいた。お隣、電気がついてるのに留守なのかしらと思いながら、ドアを開けた途端、ベルの音が急に大きくなった。やられたと私は思った。急いで部屋に上がり、受話器を取った。 「もしもし、お姉さん」よく響く声だった。「どう、びっくりしたでしょ。お姉さんを驚かそうと思って、ずうっと黙っててん。驚いた?」 「びっくりしたわ」私は気のない返事をした。 「お金のことやったら、心配せんといて、みんなあたしが出しといたから。それに電話代かって、あたしが持つわ。ただで居させてもろてんねんから、そのくらいしな、悪いわ」 「半分くらい持つわよ」 「気にせんといて。あたしが勝手にやったことなんやから。それに電話を使うのん、大抵あたしやから、お姉さんが半分も出したら損するで」  確かにその通りだった。私は誰にも電話番号を教えなかったので、かかってくる電話はすべて利枝子あてであるのは当然だとしても、こちらからかけるのも利枝子がほとんどだった。私には電話をかける相手がいなかった。実家には弟が結婚して入っており、すでに遠い場所だった。それに母も私が離婚すると言い出したときから、見放したみたいだった。まさか別れた夫に電話するわけにもいかないだろう。夫からは新しい住所と電話番号を教えてきて、一応手帳には控えてあったが、今まで電話をしたことはなかったし、これからもする気はなかった。  利枝子は電話がついてからというもの、昼ごはんはすべて出前ですませているらしく、帰ってきたらどんぶりや寿司桶が毎日のように表に出してあった。私は店屋物ばかりでは栄養がかたよるからと、簡単な野菜サラダの作り方を教えたりしたが、教えて二、三日は作っているようだったが、それが限度だった。かといって、食べるのが嫌いなわけではなく、日曜日や祝日の夜には、客からおいしい店を教えてもらったから行こうと私を連れ出したり、外に出ないときは、お姉さん、なんかおいしいもの作ってと私に甘えたりした。私もその気になって、本を見ながら手の込んだフランス料理を作ったものだった。 「電話がついて一番便利なのは、タクシーを呼べることやわ」と利枝子は言った。 「地下鉄のほうがはやいんと違う?」と私がきくと、「じろじろ見られるから、いややねん」と利枝子は誰かを視線で追う仕種を見せた。  彼女の気に入っているタクシーは、丸徳タクシーという個人タクシーだった。彼女が勤め始めたころ、乗車拒否に遭っていたとき、このタクシーが止まってくれたという。六十過ぎのおじいさんがやっていて、地下鉄で一駅離れた関目というところに家があった。利枝子は夕方真っ先にそこに電話をし、車が出払っていたら、別のところに掛け直すという日課らしかった。  私がたまたま早く帰ってきたときに、利枝子が丸徳タクシーに電話をしている場面に出会ったことがある。 「あ、おっちゃん。うちマリアや。お願いやから、すぐ来て」電話をきると、マニキュアをしながら新聞を読み始めた。どこを読んでいるのかと見てみると、株式欄だった。 「株やってんの?」私は驚いて尋ねた。 「違う、違う。あたしにはそんな金あれへんもん」利枝子はかぶりを振った。「お客に証券会社の部長さんがいてはるねん。それで話の種を仕入れとこうと思って」  利枝子は細かい数字の部分に目を近づけて、ああ、これやわ、とか、なるほど、なるほど、とひとり言を言っていたが、やがて顔を上げると「お姉さん、株買う気ない?」と尋ねてきた。 「どうして?」 「部長さんがね、この株は狙い目やって言うてたんよ」と新聞の一点を指さした。「何でも、新しい技術の開発に成功したんやて。アメリカの会社も技術提携に動いてるらしいわ」 「私もお金がないから、だめね」 「あたし、お金を貯めて、一発株で大儲けしたろかしら」  十分ほどして、ドアをノックする音が聞えてきた。はいと返事をすると、ドアが開き、カッターシャツ姿のおじいさんが入ってきた。 「マリアさん、いてはりますか」 「あ、おっちゃん。待ってたんよ」利枝子は煙草を人魚の灰皿でもみ消すと、バッグを取りに隣の間にいき、ついでに鏡台を見て自分の髪を直した。そしてこっちに戻ってきたが、「おっちゃん、行こか」と三和土におりかけた利枝子のストッキングに、私は伝線が走っているのを見つけた。そのことを指摘すると、「わあ、きのう下ろしたばっかりやのに」と言いながら、利枝子はあわてて六畳間に戻った。 「お姉さん、ペディキュア塗り直すから、その間おっちゃんに冷たいものでも飲んどいてもろて」と素足になった利枝子が言った。 「そんなん帰ってきてからにしたらどう。運転手さんが待ってはんねんから」 「いや、私はよろしいですよ。どうぞゆっくりやって下さい」と丸徳さんはのんびりとした口調で言った。 「そうやで。あたしが口開けの客になったら、その日の水揚げがええねんから。なあ、おっちゃん」 「口開け?」私は利枝子と丸徳さんの両方にきく感じで言った。丸徳さんは笑っている。 「そうや。おっちゃんの働く時間帯はあたしと一緒」利枝子は膝を立て、足の指をのぞきこむ姿勢で言った。 「本当ですのん」と私はきいてみた。 「長年やっとりますから」と丸徳さんは答えた。  私は冷蔵庫からジュースを取り出してコップに入れ、丸徳さんに差出した。丸徳さんは何度も頭を下げて、両手でコップを取ると、一息に飲み干した。  電話は利枝子にとっては確かに便利な道具だったが、私にとっては、ほとんど無用の長物だった。というより、睡眠を妨害するものでしかなかった。私が眠りにつきかけたころ、よく電話がかかってきた。相手はいつも私を利枝子と間違えるのだ。 「もう帰ってんのかいな。サンファンで待ってるからと、あれほど言うといたやろ」酔いの回った声が響く。「マリアはまだ帰ってませんよ」と言うと、相手は、えっと押し黙り、それから「あんただれや」ときいてくる。「姉です」と私が答えると、しばらく沈黙があって電話が切れる。  相手が若い男だと、「マリアちゃん、ちょっとだけ付きおうて。友達に、連れてくる言うて約束してしもてん」から始まって、「あ、そう。しっつれいしました」で終る。  また、ここの番号は電話帳には載せていないのに、どこで調べてくるのか、ときどき変な電話がかかってきた。受話器を取ると、「もしもし」とくぐもった声がし、私が勘違いして「マリアならまだ……」と言かけると、いきなり「ああ、ぼく、いきそう」と荒い息使いが聞えてきた。私はどきりとして、あわてて受話器を降ろす。しかし相手はしつこく何回でもかけてくる。こちらに男がいないのを見透かしているのだ。私は腹が立ってきて、男が何か言うのも構わずに、受話器をはずしたまま、ふとんにくるめて、ベッドに戻った。  私が電話番号をはじめて教えた相手は、島崎辰雄といって、私の勤める会社にちょくちょく顔を見せる建材会社の営業マンだった。私より二つばかり年下で、独身だった。辰雄は会社の経営状態を内緒で教えてほしいといって、私に近づいてきた。別に資金繰りに困っているわけでもなく、教えてもどうということはないので、決算の細かい数字を示して説明した。私は売掛金の心配でもしているのだろうと思っていたが、彼が、お礼に食事でもと言ったとき、ひょっとしたら私を誘う口実ではなかったのかと気がついた。  梅田でフランス料理を食べ、彼のなじみのスナックに行って、水割を飲んだ。少し酔いが回ったころ、私は冗談めかして、私を誘うのが目的だったんでしょうときいてみた。彼は驚いた顔をしたが、参った、参ったと頭をかきながら、やっぱりわかりましたかと答えた。 「初めて見たときから、誘いたいなあと思うてたんやけど、なんやしらん照れくそうて。本当にすいませんでした」  辰雄は深々と頭を下げた。私は戸惑いながら、いいのよと彼の腕を引っ張った。辰雄はそれに逆らうように、なかなか頭を上げなかった。不意に胸の奥がぞくっとし、私はそのことにうろたえた。どうかしてるわという思いと、いいんじゃない、男の一人や二人いたってという思いが、奇妙にからまり合った。  スナックを出てから、すぐにタクシーに乗り、辰雄は私を千林まで送ってくれた。ホテルに誘われたら、彼を傷つけずにどうやって断ろうかと考えていた私はほっとすると同時に、ちょっと拍子抜けした。  次の日曜日もデートだった。朝、私は利枝子の寝ているのも構わずに、洗濯機を回した。利枝子はナイトガウンを羽織って、縁側に出てきた。 「お姉さん、どないしたん。こんな朝っぱらから」  朝っぱらといっても、もう十時である。 「きょう昼から外出するから、今のうちにやってるのよ」 「どこいくの」 「ちょっとね」 「ごはんはどうなるの」 「昼はつくるけど、晩はちょっと無理ね」 「あたしもついていこうっと」 「だめ、だめ」  利枝子はふーんと言って、何か考えるような仕種をしていたが、すぐに「お姉さん、デート?」ときいてきた。私はしらを切ろうかと思ったが、別に隠すことでもないので「ええ」とうなずいた。 「ねえ、どんな人」利枝子は股の間にガウンの裾を押し込んで、縁先にしゃがみ込んだ。 「普通の人よ」私はふたを開けて、脱水の終った洗濯物をかごに移した。 「会社の人?」 「いいえ、取引先の人」 「独身?」 「たぶんね」 「年上?」 「私より二つ下かな」  利枝子はそれから、背は高いのか、太っているのか、どこに住んでるの、車は持ってるの、などと矢継早に質問してきた。私は適当に答えていたが、しまいには血液型や星座をきいてきたので、洗濯物を振って追い払った。  冷蔵庫に残っていた牛肉を使って野菜いためを作り、昼ごはんにした。 「こんなことを言うたら、怒られるかもしれないけれど、あたし、お姉さんにボーイフレンドができてうれしいわ。あたしがここに来てから、お姉さんが男の人とデートするの、見ことなかったでしょ。離婚してから、男嫌いになっ たんやろか、なんて思うてたんやけど、なんやしらん淋しいような気がしててん。セックスとかそんなんだけと違うて、話のできる男の人が自分の身の回りにいてるほうが、人生楽しいやん」  利枝子は箸を休めて言った。彼女が私のことをそんなふうに見ていたことに、私は驚いた。私は別に男嫌いになったわけではなく、ただ、自分で稼いで、生活するということに神経が集中していただけだった。自分の歩く足許だけを見つめて、周りを眺める余裕がなかったのだ。だが、利枝子の言うように、結婚に失敗したために、無意識のうちに男の人を遠ざけていることがあるかもしれなかった。  利枝子の選んでくれた花プリントのワンピースを着、彼女にドライヤーでブローしてもらった。ここらへんにアクセントが欲しいからと、利枝子は私の髪に自分の使っているコーサージをつけた。私は恥ずかしいから取ろうとしたが、少しは目立ったほうが相手の男の人が喜ぶもんなんよと彼女は譲らなかった。外に出たら取ればいいわと彼女の言うとおりにしたが、いざ出てみると、何だか悪いような気がして、そのままにしておいた。  辰雄は私に会うと、まっさきにコーサージに目をやり、「それ、似合いますね」と感心した。「こんなこと言うたらなんやけど、地味な感じより、少し派手目にしやはったほうが、合うんとちゃいますか」  私は利枝子の言った言葉がすばりと当たったので、思わず笑ってしまった。 「なんか変なこと、言いました?」辰雄が私の顔をのぞき込んだ。そうじゃないのよと首を振って、私は利枝子の言葉を伝えた。 「いやあ、そうなんですよ。その人、男心がようわかったはるわ」  辰雄は利枝子に興味を示し、いろいろときいてきた。私は二号の件は省いて、あとは正直に話した。「けったいな具合やけど、おもしろいなあ」と辰雄は笑った。「押しかけて来るほうも来るほうやけど、それを住まわせるほうも住まわせるほうやね」  利枝子のおかげで、改まってするデートのぎこちなさを感じなくてすんだ。最初の予定では映画を見るはずだったが、それは止めにして、お茶を飲んで話すことにした。辰雄の実家は高槻にあり、酒屋だった。兄が結婚して家を継いでおり、次男の彼は東区の二DKのマンションに住んでいた。私が以前住んでいたマンションの近くで、そのことを話すと、「ああ、知ってる、知ってる。レンガ造りのやつでしょ」と辰雄はうなずいた。彼は私が離婚したことを知っており、私はいくらか気が楽になった。  それから私と辰雄は土曜日か日曜日にデートを重ねた。利枝子はそんな私を見て、「お姉さん、はつらつとしてるわ。五つばっかし若返ったみたい」とひやかしたが、私としては、以前と自分が変わったとは思えなかった。ただ、男の人と個人的な話をするということは、利枝子の言うように楽しいことだった。長い間私が忘れていた快感だった。もちろん辰雄が私の嫌いなタイプじゃないということが、そのことに拍車をかけていたけれども。私たちはコッポラの映画を見たり、シカゴのコンサートに行ったり、天王寺動物園をのぞいたりし、その間に食べ、飲み、話した。私が主導権を握ったときは大体過去の話になり、彼のときは未来の話になることが多かった。年が近いせいか過去の映画や音楽、出来事を話題にしても、ずれを感じることはなかった。辰雄の未来の話は、これからしたいことだった。三十五までに自分の会社をつくること、アメリカ旅行をすること、ドラムを習ってバンドをつくること、などなど。辰雄の話を聞いていると、出番の終った役者が袖から舞台を眺めているような心境になった。  辰雄は私の結婚、離婚には触れようとはしなかった。前のだんなはどういう人間だったんだときかれたら、私は素直に答えるつもりだったが、彼はまるで私が今まで独身だったかのように扱った。あるいはそのことのせいかもしれない、彼は私の体に触ろうともせず、私は彼が離婚した女に近づいたのはセックスのためじゃないぞと意識しているのではないだろうかと逆に気が重くなった。私は今まで四人の男と寝たが、最初の男こそ知合って寝るまでに六カ月かかったが、あとの三人はどれも一カ月以内に済んでいる。とくに前の夫のときは、二回目のデートでホテルに入り、一カ月後には婚約というあわただしさだった。  かと言って、私のほうから誘うことはとてもできないので、私はただ待つだけだった。  十一月の初め、辰雄が実家から借りてきた乗用車で六甲山に、ドライブに出かけた。色づき始めた木々を見ながら、裏六甲まで足を伸ばし、有馬の手前で引き返した。三宮に戻ってきたとき、私はちょっと一休みしていきましょうかと言ってみた。それまでの予定では大阪まで戻って、彼のマンションの近くの、以前私がよく行ったレストランで夕食をとり、彼の知っているスナックで飲むというのだった。車があるため、自然とそうなったのだが、そうなるとひょっとしたら彼のマンションに泊まることになるかもしれないと私は思った。どうも気乗りがしなかった。生活の臭いのするところで体を寄せ合うのにためらいがあった。いっそのこと、どこかのホテルで、と考えたのだ。  辰雄は喫茶店を探しているようだったので、私は腰が痛いから、横になりたいわと言った。実際少し痛かった。辰雄はすぐにその意味に気づいたらしく、「ぼくもだいぶくたびれましてん」と笑顔を向けた。  右側に普通のホテルが見えてきたとき、「あそこやったら休憩料金で休ましてくれへんやろか」と彼が冗談めかして言った。 「泊まりの料金を払って、休む分には文句は言われないはずよ」 「その通り。そんな簡単なことに何で気づけへんかったんやろ」  辰雄は次の信号のところで、Uターンした。  その夜、結局私たちはホテルに泊まった。辰雄はぎこちなく私を抱き、私は久し振りに他人の匂いをかいで眠った。  辰雄はそれから週に三日も私の会社に顔を出すようになり、ひどいときには朝と夕方の二回もやってきた。その度に私と話していくものだから、若い女の子たちは露骨にいやな顔をした。「土曜日にはたっぷり会えるんだから、会社に来るのは仕事のときだけにしたらどう」と私が言うと、「何言うてんのん。ぼくは仕事のときしか行ってないよ。どうしてそんなふうに言われるのかなあ」と辰雄は答えたが、次の週、彼は会社に来なかった。だがその次の週に入って、新しい仕事が始まったとかで、毎日のように姿を見せた。どこまで本当かわからなかったが、別の会社にまかす仕事を私の会社に強引にもってきたと彼は言った。  辰雄は私の手料理が食べたいと言い出し、私はその都度言葉を濁してごまかした。道具もそろえてあるし、材料も買っておくから、ただ来てくれて作ってくれるだけでいいと言うのだった。私はとにかくいやだった。一度でも彼のマンションに行けば、食事だけではなく、掃除も洗濯もといいうことになってしまうだろうことは容易に想像できたし、そういう夫婦の真似事になるのがいやだった。料理がへただということで押し通そうとしたが、あまり断り続けると、変に溝ができそうで、仕方なく私は自分の部屋でならということで妥協した。  梅田のホテルをチェックアウトぎりぎりに出て、喫茶店で遅い朝食をとり、映画を見ようと思ったが面白そうなものがなかったので、デパートにいくことにした。人いきれには少々うんざりしたが、きれいに並べられた商品を眺めるのは飽きなかった。私のお気に入りは、家具売場と食器売場だった。辰雄は電気製品と楽器売場がいいと言った。おもちゃ売場は二人とも気に入って、かなりの時間をそこで過ごした。  京阪電車に乗って千林で降り、商居街で夕食の買物をした。十二月半ばの冷え込んだ日だったので、私は簡単な鍋料理をつくることにした。最初利枝子には外で食べてもらおうと思っていたが、三人で食べるのも悪くないと思い直し、辰雄にきいてみると、「一度彼女に会うてみたかってん」と言った。家に電話をすると、利枝子がいて、いまから二人で帰ると言うと、「あたし、外にいくから、気にせんといて」と答えた。 「会いたいと言うてるから、一緒にごはん食べない?」 「ほんと、うわー、どんな人か、楽しみやわあ」  そこで私は受話器を手でおおい、声を細めて、部屋の中に干してある下着を片付けておいてほしいと頼んだ。そしてついでに部屋をきれいにしておいてと付け加えた。 「みなまで言わんと、まかせといて」と利枝子は言った。  私はできるだけゆっくりと歩いた。辰雄は千林に来るのは初めてだったので、私の遅さを気にすることもなく、両側の店に目をやりながら、私と並んで歩いた。鍋に入れる野菜に、白菜と春菊とえのきを買い、いつも魚や貝を買う店のおじさんが、きょうはほたてが安いよと言うので、それを買い、カニがおいしそうだったので、それももらった。あとは豆腐とうどん、それに寒いけれど、ビールを三本買い、それは辰雄が持った。  部屋はわりと片付いていた。洗濯物もロープも見当たらなかったので、私は安心した。利枝子は勤めに出るときよりも控えめな化粧をしており、むしろそのほうが素顔の若さが出ていた。辰雄はちょっと驚いたようだった。 「きれいな子でしょ」と私は言った。辰雄はうんと言って見つめていたが、利枝子が「どうぞよろしく」と首を傾げると、「噂はいつも聞いてますよ。風来坊なんやてねえ」と笑いながら言った。 「風来坊やなんて、ひどいわあ。それやったら、まるであたしがあほみたいやん。せめて流れ者ぐらい言うてほしいわ」 「流れ者ですか。かっこよろしいなあ」  私は卓袱台を出し、その上にガスコンロをのせた。一人用の土鍋はあったが、それで三人がつつくわけにはいかず、代わりにアルミの鍋を使った。出汁昆布を入れて、あとは材料を切って放り込むだけだから、料理の腕には関係ないのがよかった。私が用意している間、辰雄は裏の縁側のほうから、私の部屋へと見て回り、「やっぱり女の人らしい部屋やね」と利枝子に言う声が聞えたりした。私の選んだ女らしいものといえば、カーテンとベッドくらいで、あとのぬいぐるみとかドライフラワーとか、ぶら下がっている服などはすべて利枝子のものだった。  利枝子はカニは面倒くさいと言って、手を出さなかったが、辰雄は甲羅のところなども丹念にほじくって食べた。そのため私と利枝子が食べ終るころでも、辰雄はまだ半分も食べていないようだった。食事中の話はもっぱら住居のことになった。というのもこの文化住宅に風呂がないということから、利枝子がその不便さを言い、辰雄のマンションの風呂の話から、風呂をわかす音に移り、それから隣近所の騒音の問題へと広がっていった。辰雄が「マンションに移りはったらええのに」と利枝子に言うと、彼女は私に「お姉さん、お金ができたら、一緒に移ろうね」と甘えた声を出した。  辰雄が利枝子の勤めているクラブの名前を聞き、「今度うちの連中をつれていきますわ」と言うと、「それじゃ、パーティー券買ってくれる?」と利枝子はきき、辰雄の返事も待たずに、隣の部屋からバッグを持ってきた。輪ゴムで束ねた中から、一枚を引抜いて辰雄に渡した。一枚一万円のクリスマスパーティー券だった。 「そうや、お姉さんと一緒にきやはったらええんよ」 「私は遠慮するわ」 「そんなこと言わんと、いっぺん来てえな」 「男の人が楽しむのを邪魔したら悪いでしょ、ねえ」 「そんなことはないけど……。よし、五枚買おう」 「わあ、さすがエリートやわあ」  利枝子は素早くもう四枚を抜取って、辰雄に手渡すと、「充分サービスしますから、ぜひいらっしゃってね」とわざと色っぽく言って、ウインクして見せた。  辰雄を駅まで送っていく途中、私は「無理しなくてもよかったのに」と言ってみた。 「いや、会社の交際費で落すから、こっちのふところは痛まないんよ」 「会社の人と飲んでも、交際費になるの?」 「領収書さえあればね。営業の特権やもんな」  クリスマスが過ぎて、すぐの日曜日、私は久し振りに利枝子と一緒に過ごした。辰雄は年末で仕事が詰まっていてどうしても抜けられないと会社に電話があったのだ。利枝子にクリスマスパーティーはどうだったときいた。「彼、会社の人を何人くらいつれてきたの」 「さあ、ものすごう忙しかったから、よう覚えてへんわ。来てはったことは確かやけど」  仕事は二十九日で終り、辰雄から連絡があるだろうと待っていたが、それがなく、大晦日に私のほうから電話をした。こちらから電話をかけるのは初めてだった。きのうまで仕事で、今から実家の皆と伊勢に初詣に行くことになっている、と辰雄は言った。今度いつ会えると私が尋ねると、辰雄は少し間を置いてから、三日じゃどうと答えた。ひょっとしたら大晦日と正月を一緒に過ごせるかもしれないと思っていた私は、ちょっとがっかりしたが、そのほうが利枝子をひとりにしないですむから、よかったのかもしれないと思い直した。  六時過ぎの商店街にいって、半額になったおせち料理を買い、年越しそばもお屠蘇も餅も用意した。「いやあ、本格的やね」と利枝子も喜んだ。去年は離婚寸前の別居中で、正月の準備など全くせず、いつもと同じようにして過ごした。ひとりの生活の中に、正月のにおいを持込みたくなかったのだ。だが今年は少なくともふたりだから、ささやかでも正月らしい雰囲気を出したほうが楽しいと思った。  一日、二日と利枝子とテレビばかり見て、過ごした。その間、しょっちゅう電話がかかってきたが、すべて利枝子あてだった。客からの誘いの電話らしく、「正月は休むことにしてんの。ごめんなさい。五日に店が開くから、そのとき来てよ、ね」という文句が必ず入った。  三日の昼、梅田で辰雄に会い、正月用の特別料金が高過ぎると文句をつけながら、軽い食事をとり、コーヒーを飲んだ。一週間以上も会わなかったのは、初めてだったが、正月をどう過ごしたかとか、実家の雑煮の具合などを話すと、もう話すことがなくなってしまった。店が混んでいて落ち着かないせいもあって、辰雄が黙りがちになった。そのうちウェイトレスに席を替わるように言われて、店を出た。映画館に行っても行列ができていて、入るのをやめた。、ゲームセンターもいっぱいで、ピンボールの台だけが開いていた。辰雄はかなりやったことがあるらしく、ボールの動きやフリッパーというボールをはじく爪のようなものの動かし方、それに点数の入り方などを私に教えてくれた。  私はべつに興味はなかったが、辰雄に勧められてやってみた。フリッパーではじくタイミングがつかめないうちに、ボールがなくなってしまった。辰雄はじれったがって、もう「やってみる?」とは言わなくなった。  台を揺すったり、フリッパーを小刻みに動かしたりしてボールをはじくのに懸命の辰雄を見ていると、今までの疲れたような彼とは別人に見えた。私と一緒にいるのが嫌になったのかしらと思ったのは、そんなときだった。そしてそれは、夜、当然のようにして入ったホテルで抱かれたときも感じたのだった。  気のせいだろうと私は思っていたが、そうではなかった。今まで週に三回は私の会社に来ていたのが、一回になり、私との会話もほんの挨拶程度になったからだ。何があったのだろうと考えてみたが、わかるはずもなかった。そういえば三日の夜、ホテルに入るのをためらっていたわと気がついたが、後から考えて、勝手にこじつけたような気もした。思い当たるふしはいくらでもあって、年末に電話したとき、仕事で忙しいと言ったのは嘘かもしれないし、伊勢に初詣に行ったというのも、信じられない気がした。三日に会ったとき、初詣のことをきいたが、「大したことなかったよ」と言うだけで、詳しい話は聞けなかったのだ。  私が嫌になったのなら仕方がないわと思っていたが、何だか釈然としなかった。終ったのか終らないのかわからないまま、ずるずると過ごすよりも、思いきってはっきりさせて、心も体もすっぽりと切替えたかった。日曜日に家にいると、利枝子が「デートじゃないの」ときいてくるのも、うっとうしかった。  何度かためらったあげく、辰雄に電話してみた。自分ではどうってことないと思っているのに、動悸がはやくなっているのがわかった。 「こんばんわ」と私はゆっくりと言った。 「ああ」と辰雄は答え、何か言葉を探しているのか、喉に詰まるような音をさせたが、それきり黙ってしまった。相手に黙り込まれると、私のほうも言葉が出てこなくなって、あせった。言うべき言葉をいろいろと用意していたのだが、すっかり忘れてしまい、頭の中が熱くなった。 「何だか、久し振りね」と私は言ってみた。 「ああ」 「どうしてる」 「どうって」 「元気にしてる?」 「まあ、元気だよ」 「仕事のほうは、どう」 「相変わらず、忙しいよ」  デートできないくらい、と言おうとして、やめた。ちょっと沈黙があり、辰雄が「何もないようだったら、切るよ」と言った。その瞬間、私は思いきって聞く気になった。 「ひとつだけ、質問していい?」 「なに?」  私はひと呼吸間を置いてから、「私のこと、嫌いになったの」ときいた。 「いや、そんなことないけど……。さっきも言うたように、仕事が忙しくて、日曜出勤ばっかりなんよ。新しい取引先が増えて、あっちこっち飛び回っているから。暇ができたら、また、こっちから電話するわ」 「そう、それじゃあ、またそのときに」  受話器を置いてから、無性に腹が立ってきた。はっきり言えばいいのにと思った。終った、終ったと声を出して言ってみると、いくらか気分がすっとした。  それから一週間ほどたって、二月にしては暖かい日が続いていた頃だった。その日は土曜日で、私はこたつに入って深夜テレビの古い映画を見ていた。題名は忘れたが、確かジャック・レモン主演のコメディだったと思う。二時近くになって、ハッピーエンドの結末に近づいたとき、利枝子が帰ってきた。かなり酔っていて、ろれつが回らなかった。私はテレビを見ながらこたつを片付け、押し入れから利枝子のふとんを引っ張り出して敷いた。利枝子は上がり框のところに伏せており、私は靴を脱がして、柔らかい体を引っ張り上げた。コートを脱がせるだけでひと苦労だったので、あとの服はそのままにして、ふとんの上に転がした。  利枝子の化粧をクレンジングクリームで落してやっていると、彼女が薄く目を開けて、「お姉さん、ごめん」と言った。酒臭い息がかかった。 「きょうはどうしたの。こんなに酔払うなんて珍しいやないの」  利枝子はそれに答えずに、「お姉さん、あした、デートと違うの」ときいてきた。 「デートなんかここ当分なしよ」 「島崎さんと何かあったの」  私は彼女の額を左右に分けるように、コットンで拭いてから、「振られたみたいなものよ」と答えた。振られたのかとつぶやきながら、利枝子は小さく頭を揺らした。 「お姉さん、結婚するつもりやったん?」 「どうして、そんなこときくの」 「ちょっと、きいてみただけ」  しかしすぐに「じつはねえ」と話し始めた。「島崎さん、このところ毎日のようにお店に来るんよ。今晩も来てね、あたしに付き合えって言うのよ。あたし、先約があるから言うて断って、それで他のお客さんに頼んで付き合ってもろてん。そやなかったら、とうに帰ってたんよ」 「島崎さん、いつごろからあなたのお店に来るようになったの」 「ほら、去年のクリスマスパーティーに来てもろたでしょ。それからちょこちょこ来るようになって、今年になってからほとんど毎晩。接待のときもあるけど、大抵はひとりね。最初はお姉さんの彼氏やからというんで、できるだけサービスしたんやけど、だんだんそれが逆にしんどなってきて。来るたんびに一緒に外に出よ言うけど、あたし、店の中だけにしとこって決めてたんよ。でも何回も断るとママがええ顔せえへんし、仕方なしに三回くらい外で呑んだかな。言うとくけど寝てへんよ。お姉さんの彼氏と違うかったら、たぶん寝てたけど。あれだけお金使うてもろたら、寝えへんわけにいけへんもん。そやけどあのお金全部、接待費で落ちるんやろか。そっちのほうが心配やわ……」  利枝子はなおも何事かつぶやいていたが、言葉にはならなかった。そのうち掛けぶとんの中に頭を突っ込むようにして寝入ってしまった。  そういうことだったのかと私は妙に納得した気持で、利枝子の寝顔を見ていた。辰雄の気持が私から利枝子に移るのは当然のように思えたし、ひょっとしたら辰雄は最初から利枝子が目的で私に近づいたのではないだろうかとあり得そうもないことまで考えた。私と会う前に利枝子を知っていたはずもないのに。馬鹿なことを考えてるわと思ったが、頭の片隅からなかなか消えようとはしなかった。  利枝子が辰雄のことを話したのは、その夜だけだった。客の話はそれからもよくしたが、そのなかに辰雄が入っているのかどうかはわからなかった。彼とは会社でときどき顔を合わせたが、ごく普通の挨拶をするだけで、利枝子のことをきこうという気にはなれなかった。  二月の終りに、辰雄の会社から来る人間が別の人に替わった。病気でもしたのかと思っていたが、そうではなかった。集金した金を二百万ほど着服したのが見つかって、くびになったという。実家が弁済したので、刑事事件にはならなくてすんだらしい。私はびっくりした。  そのことを利枝子に話すと、「道理でここ一週間ほど顔を見せはれへんと思うたわ」と答えた。 「それだけ?」 「それだけって?」 「着服したお金は、あなたにつぎ込んだのよ。何も感じないの」 「そりゃ、かわいそうやとは思うけど、あたしが会社のお金を盗んでちょうだいって頼んだわけやないもの。あたしの知らんことやん。どうしょうもないわ」 「彼のこと、好きやなかったの」 「あたしのタイプと違うわ。そりゃお店の中やったら、ホステスとお客の関係やから、いろんなことを言うけど、それは一種のゲームやから、本気にするほうが悪いのよ」 「そんなものかしら」 「当たり前やん」 「馬鹿を見たのは、男のほうっていうわけ?」 「人生勉強やと思うたら、安いもんでしょ」  私はその言い方に腹が立ったが、何も言わなかった。  それからしばらくして、夜中に無言の電話がかかってくることが多くなった。最初はいたずらだろうと思っていたが、ひんぱんにかかってくるので、ひょっとしたら辰雄ではないかと思った。それで何回目かに、私も声を出さずに受話器を耳に当てた。少したって、「マリアか」という声が聞えてきた。辰雄のようでもあり、そうでもないようだった。私は相手にもっとしゃべらせようと、なおも黙っていたが、相手はそれ以上しゃべろうとはしなかった。我慢できずに、「辰雄さんでしょ」と言うと、電話が切れた。利枝子もたまには早く帰ってくることがあったが、「まだ帰ってないことにしといて」と電話には絶対に出ようとはしなかった。  そういうことが一週間ぐらい続いたある晩、パジャマに着替えて流しで歯を磨いていると、ドアの外で利枝子と誰か男の人が話しているのが聞えてきた。耳をすまして、よく聞いてみると、男の人は「私はこれで」とか「勤務がありますので」などと言っている。利枝子は「そんなこと言わずにちょっとだけ、ね、ね」と甘えた声を出している。  そのうち、ドアが開いたので、のぞいてみると、利枝子と警官が入ってきた。私はあわてて奥の部屋に行って、ガウンを羽織った。  利枝子は上がり框に腰をおろした警官に座ぶとんをすすめ、ガスコンロにやかんをかけた。「紅茶でよろしい?」と利枝子がきくと、「私は何でも」と警官は答えた。ふすまの陰からちらと見たところ、若い警官のようだった。ふたりの前に出ていくきっかけがつかめずに、奥に引っ込んでいると、利枝子が「お姉さん、お姉さん」とやってきた。 「どうしたの、おまわりさんなんかつれてきて」と私はささやいた。 「きょう大変やったんよ」と利枝子は大きな声を出した。 「最終に乗って帰ってきたんやけど、改札口のところで島崎さんにつかまってしもてん。あたしをずっと待伏せしてたんよ。その前は店のところで待ってたんやけど、マネージャーに追っ払われて、方針変更したんやわ。この寒いのにご苦労さんなことやと思うわ」 「それで、どうなったの」 「おれと付き合えの一点張りなんよ。だからあたしも、お店に来てちょうだいの一点張りで押し通したんよ。そしたらあたしの腕をぎゅうっとつかんで、離せへんねん。その目見てたら、なんやしらん急にこわあなってきて、振りほどいて逃げたんよ。島崎さん、追いかけてきてね。男が本気で追いかけてきたら、女の足では逃げられへんもんやね。すぐにつかまってしもて、今度は両腕をがっちりつかまれたから、もがいてもびくともせえへんねん。殺されるかもしれへんと思うたから、あたし、ぎゃーぎゃーわめいたってん。そしたら力をゆるめたんで、そのすきに逃げて、信号を渡ったとこにある交番に飛び込んだんよ。そこにしばらくいて、それからあのおまわりさんに、ここまで送ってもろてん。そやから、お姉さんからもお礼言うといて」  すぐには信じられない気がした。利枝子がいかにも楽しそうに話したということもあるが、そういう男の、というより人間の気持が信じられなかったのかもしれない。しかしここに警官が来ているということは、事実に違いなく、そう思うと、今度はうんざりした気分になってきた。利枝子に話があるなら、この部屋に来て待てばいいものを、そんな、女に逃げられたヒモみたいな真似はしてほしくなかった。もちろん私と顔を合わすのが嫌なのだろうが、そんなことにこだわってほしくなかった。  湯がわいて、利枝子は紅茶をいれにいき、私も一緒に奥から出て、警官に「利枝子が大変お世話になりまして、ありがとうございました」と挨拶をした。童顔の二十そこそこの警官だった。「いいえ、仕事ですから」と警官は照れた。  利枝子が紅茶を差出すと、警官はゆっくりと口に運び、それから、私と利枝子のことを職業的質問という感じでいろいろきいてきた。私は利枝子のことを妹ということにしておこうかと思ったが、警官に嘘をつくのは気がひけて、姉代わりになっていると言った。警官は私たちの関係に興味を持ったが、利枝子は「以前働いてたとこの先輩ですねん」とこともなげに答えた。警官は携帯用の警報ブザーを貸出しているという話をしてから、敬礼をして出ていった。  次の日曜日に、久し振りに利枝子と外出したとき、この警官が自転車に乗っているのを見かけた。すると、利枝子がいきなり「吉田さーん」と手を振ったので、他にも知った人がいるのかしらと思ったが、警官が自転車を止め、笑いながら軽い敬礼をしたので、私はびっくりした。  それ以来無言電話はぴたりとやんだが、利枝子は毎晩地下鉄のある時刻でも、タクシーで帰ってくるようになった。地下鉄がない時刻なら、客に送ってもらうことが多いのは今まで通りだったが、利枝子の口振りからどうも特定の客に送ってもらっているようだった。私が寝ようとしているところに帰ってきたときなど、「きょうも梅沢さんに送ってもろてん」と酒臭い息で言った。日曜日には、利枝子はその梅沢という男のことを、小出しにしながら話した。そんなとき私はわざと興味のなさそうな、素っ気ない返事しかしない。すると彼女は相手の男がどんなに自分を大切に扱ってくれているかを、こと細かく説明してくれる。  それによると、梅沢というのは三十前の独身の医者で、父親が豊中でやっている産婦人科の病院を手伝っているのだった。医師会か何かの会合の帰りに、利枝子の店に初めて来て、最初に彼女を指名し、それからちょくちょく来ては彼女をかわいがってくれるらしかった。「背が高うて、足が長うて、金払いはええし、そのうえハンサムときてるんやから、店でも女の子に人気あるんよ」  そのうち利枝子は火曜日と土曜日は外泊するようになり、日曜日も一日中外に出ていることが多くなった。そして桜前線が大阪に近づいたある日、私が帰ると、利枝子はまだ営業用の化粧もしておらず、服装もコーデュロイのパンツにトレーナーだった。 「きょうはゆっくりなのね」と言うと、「お店、きのうでやめてん」と利枝子は答え、さらに早口で、「ここ出ていくわ」と言った。 「何かあったの」私は驚いて、きいた。 「ううん、別に」利枝子は素っ気なく答えてから、「どうせばれるんやから言うけど、実は、梅沢さんと一緒に住むことにしてん。前から一緒に住もうって言われててんけど、なかなかふんぎりがつけへんかってん。せやけど、島崎さんのことでは、お姉さんに迷惑かけたし、このへんで出ていくのが潮時やと思うねん」 「パトロンは二度とごめんと違うかったん」 「梅沢さんはパトロンと違うよ。ひょっとしたら結婚するかもしれへんねんから」  利枝子の口から、結婚という言葉が出てきて、またびっくりした。 「結婚に憧れてたとは、知らなかったわ」 「別に憧れてへんよ。ただ好きな人と一緒にいるためには結婚が一番便利なだけやわ」 「そう。それはよかったわね」 「お姉さん、怒ってんの」 「どうして私が怒らなきゃならないの」  しかし私は腹を立てていた。どうして腹が立つのか自分でもよくわからなかったが、利枝子のすること全部が気に入らなかった。利枝子はすでに自分の持ち物を運び出しており、押し入れの中の羽毛ふとんも鴨居に吊下げられた衣装もなかった。利枝子の買ったファンシーケースは残っていたが、中はからっぽだった。一緒に住むマンションで洋服ダンスを買うからいらないと利枝子は言った。「私もいらないから、持っていって」と言うと、「じゃあ、大型ゴミのときに出しといて」ときた。  利枝子は電話で丸徳タクシーを呼び、しばらくしてノックとともにおっちゃんが顔を見せると、バッグと化粧ケースを下げて三和土に下りた。 「それじゃあ、長い間お世話になりました」利枝子はぴょこんと頭を下げた。 「そのマンションはどこにあるの」 「教えてもええけど、島崎さんのことがあるから、内証にしとくわ。その代わり、こっちからまた電話するわ」  バイバイとバッグを持った手を振って、利枝子は出ていった。あまりにもあっさりとした別れ方だったので、何だか二、三日旅行にでも出かけたくらいの感じしかしなかった。だが、部屋の中は確実に利枝子が出ていったことを示していた。ばらの刺繍の入ったクッションやコアラのぬいぐるみもなかったし、鏡台の上に並んでいた化粧品の大半は消えていた。それに部屋の周りを色どっていたさまざまな服もない。さっぱりとして、いやに広く感じられた。これが本来の自分の部屋なのよと私は思い、夜、もう寝入りばなを利枝子に起こされることもないと喜んだ。しかしマリアはどうしたという電話が急に増えて、「あの子は出ていって、ここにはいません。どこに行ったか知りません」と答える自分が怒りっぽくなっていることに気づき、それを電話の相手のせいにした。  利枝子が出ていって、一週間ほどたったころ、部屋の前で島崎辰雄を見かけたことがある。後ろ姿だけだったが、おそらく間違いないと思う。六時過ぎに帰ってきたとき、台所の小さな窓ガラスを、背伸びをしてのぞいている男がいた。カーキ色の作業着に、ジーンズ姿だった。私は見た瞬間、辰雄だと直感した。 「辰雄さん」と思わず私は声をかけた。すると男はこちらも見ないで、窓から離れた。急ぎ足で近づくと、男も同じように早足で遠ざかり、私が小走りになると、男は駆け出した。曲がり角を回ったところで、追いかけるのをやめた。上下に揺れている男の背中を見つめながら、「マリアはもうここにはいないのよお」と叫んだ。通りかかったおばさんが驚いたような顔をして私を見たが、構わず「結婚してどこかに行ってしまったのよお」と続けた。  その夜、私は料理の本を見ながら、舌ビラメと生クリームをたっぷり使ったフランス料理を作り、白ワインをグラスに注いだ。ひとりで乾杯しながら、ボトルを全部あけ、珍しく酔ってしまった。後片付けをする気にもなれず、食器もフライパンも鍋もまな板もすべて流しに放り込んでベッドに潜り込んだ。  利枝子は電話をかけると言ったが、ずっとかかってこず、ゴールデンウィークの始まる少し前にやっとかかってきた。夜の十一時ごろだった。 「お姉さん」と利枝子はささやくように言った。いつもの声の調子とは違っていた。 「どうしたの。うまくいってないの」 「ううん、うまくいってる」 「彼はどうしたの。そこにいるの」 「あの人、きょうは麻雀で遅くなんのよ」 「それで何か用なの」 「別に用はないけど、久し振りにお姉さんの声が聞きたくなって」 「何言ってんの」  利枝子は小さく笑い、それから急に改まった口調で「お姉さん」と言った。 「なあに」 「別れた前のだんなさんと結婚するとき、やっぱりその人を愛してた?」  私は言葉に詰まった。その人と初めて出会ったときの情景が一瞬頭の中を通り過ぎた。 「昔のことは、忘れちゃったわ」 「あたし、人を愛することを初めて知ったわ。今まで好きやと思うたことは何回でもあったけど、そんなんみんな愛と違うかってんや。愛て、こんなに素晴らしいもんやってんね」 「生きてて、よかった?」 「うん、ほんま」 「病気やね」 「え? なに? お姉さんも人を愛したことがあるんやったら、あたしの気持、わかるはずやわ」  私はむっとなった。 「結婚は決まったの?」 「それがまだやねん。お母さんが難しい人らしいて、話すタイミングを見計らってんねんて」 「そう。それは大変ね」 「結婚が決まったら知らせるから、絶対出席してや」 「ありがと」  しかし、結婚の通知は六月に入っても来ず、電話もかかってこなかった。  利枝子が戻ってきたのは、梅雨が終って、テレビや新聞がこの夏一番の暑さという文句を使い出したころだった。商店街を通って買物をすませ、文化住宅に帰ってくると、台所の窓が開いており、テレビの音も聞えてきた。鍵がかかっておらず、私はすぐに利枝子だと気がついた。  中に入ると、はたして利枝子がホットパンツにTシャツという恰好で寝そべって、テレビを見ていた。 「お帰りなさい」と利枝子は首をひねって、笑顔を見せた。 「勝手に上がり込んだりしちゃ、だめじゃないの」私も笑いながら言い、「ここの鍵、返していってよ」と付け加えた。 「それがだめになってしもてん」 「鍵、なくしたの?」 「鍵がなかったら、ここに入られへんやんか。鍵やったらそこにあるわ」  利枝子は上半身を起し、テレビの上を指さした。確かにそこには二本の鍵のついたキーホルダーがのっていた。 「それじゃあ、ここの鍵を返してもらうわね」とキーホルダーを手にとると、「そやからあかんて言うてるやろ」と利枝子は立ち上がって、私の手からキーホルダーを奪い返した。私はその剣幕に驚いた。 「お姉さん、あたしが何でここにいると思う」 「遊びに来たんでしょ」 「お姉さん、とうに気がついてるくせに、とぼけんでもええやん」 「なんのこと?」そう答えながら、私は利枝子だと気づいたときから、彼女が男と別れてきたとうすうす感じていたことに思い到った。 「気がついてへんのやったら言うけど、あたし、マンションを飛び出して来たんよ。というより追い出されたんよ」  利枝子の話によると、梅沢の母親に同棲しているのを見つかって、ひと騒動起ったが、肝腎の梅沢が母親の言うなりでお話にならず、「あたしを取るか、母親を取るかってきいたら、そんなん比べるほうがおかしい言うて、笑うんやから、あたし、呆れてしもて、いっぺんに熱が冷めてもうたわ」と自嘲気味に言った。  帰ってきてから、しばらくは外にも出ずに、利枝子は部屋にこもりっきりだった。もちろん昼間は私が会社に出かけているから、彼女が何をしているかわからなかったが、帰ってきて彼女の化粧っ気のない、起きたばかりのような顔を見ると、きょうも部屋から出なかったなとわかるのだった。利枝子は口では「あんな男知らんわ」と言っていたが、それでも梅沢からの連絡を待っているらしく、一度間違い電話がかかってきたとき、彼女がすぐに受話器を取ったし、英会話テープのセールスの電話のときなど、私が取ったのだが、相手が誰かわかるまで、彼女が聞き耳を立てているのがわかった。  しかし一週間もすると、もとの利枝子に戻り、丸徳タクシーで三回も往復して、ふとんや衣類その他ここから持っていったものを全部持って帰ってきた。貯金は二十万くらいあるらしく、八月分の生活費として五万を私にくれた。九月になったら仕事を探すから、それまで遊ばしてなと言って、彼女はプール通いを始めた。得意顔で日焼けのあとを見せてくれたが、白い部分がほんの少しなので驚いてしまった。「ビキニを着て、女がひとりでいると、必ず男が声をかけてくるから面白いわ」利枝子はプールで知合った男とときどき呑みに行ったりするらしく、私の作った晩ごはんをすっぽかして、夜遅く帰ってくることがあった。しかし同じ男と二回付き合ったことはないと利枝子は言い、誰からも電話がかかってこないところをみると、それは本当らしかった。  盆休みになって、利枝子が秋の服を見にいこうと言うので、一緒にデパートに行った。前の日、彼女は気持が悪いと言って寝ていたので、気分転換の意味もあったのだ。  婦人服のフロアを見て回ったが、珍しく利枝子は何も買わず、地下街の喫茶店で休もうということになって、階段を下り始めた。私が先に下りていったが、利枝子はなかなか下りてこず、もう一度上がっていくと、彼女は両足を揃えて、一段一段飛び降りるように下りていた。 「何してんの」と私はきいた。 「お腹にショック与えてんねん」 「お腹痛いの?」 「こうやったら流産せえへんかなあと思ってんねんけど、やっぱり無理かなあ」 「流産?」思わず声が上ずってしまった。「あなた、妊娠してるの」 「そうや。もう二カ月なんやて」 「それで誰の子なの」 「あいつに決まってるやん」 「それ確かなの」 「お姉さん、ひどいわあ。あいつと一緒に住んでた間は、あたし、貞操を守ってたんやから」 「ごめん。それでそのこと梅沢さんは知ってるの」 「知ってるわけないやん。あたしもちょっと前に知ったばっかりやもん」 「どうするつもり」 「何が」 「赤ちゃんよ」 「そんなん決まってるやん。堕ろすしかないやん」 「妊娠したの、初めてなんでしょ」 「そうやん。それであたし、腹立ってんねん。これで子宮の処女はなくなってしもたし、あと残ってんのは、膝の裏と脇の下と鼻の穴とお尻の穴だけになってしもたわ」  言葉とは裏腹に利枝子は笑いながら言った。私は周りを見回して、しいっと唇に人差し指を当てた。  利枝子はせめて中絶費用だけでも、梅沢からふんだくらなければ気がおさまらないと言ったが、彼の母親を相手にしたくはないらしかった。  翌日、利枝子は梅沢の家に電話をした。私もそばで聞いていた。最初出てきたのは彼だったが、二言、三言の挨拶のあと利枝子がいきなり「妊娠してしもてん。どないしたらええやろ」と切り出した。「四日前に診てもろたら、二カ月なんやて」向こうから聞えてくる声が急に大きくなったが、不明瞭で何を言っているのかわからなかった。 「あたしは生むつもりやよ」言ってから利枝子は私のほうを向いて、ウインクをしてみせた。向こうが何か言い、それに対して「生むか生めへんかは、あたしが決めることやわ。そっちには関係ないのと違う?」と利枝子は声を荒らげた。相手の声がしなくなり、しばらくして細い声が聞えてきた。利枝子は送話口を手でおおい、「やっぱり出てきよった」とささやいた。  細い声が続き、利枝子が口を挟もうとしても、なかなかできなかった。途切れたところで、やっと彼女は「お腹の子供は俊樹さんの子供に間違いありません」と言い返した。それでまた細い声が始まり、利枝子はいらいらして、相手の声にかぶせるように「何と言われても、あんたの息子の子供に間違いないんやから」と言い、同じような調子の声が再び聞え始めると、「あたしはあんたの孫を生みますわ。さいなら」と電話を切ってしまった。 「あのおばはん、あたしが子供なんか生むわけないと高をくくってるんや」と利枝子はいまいましそうに言った。 「それで生むことにしたの?」 「生むわけないやん。ただの脅しや。せやけど、あのおばはん、お金を出しそうもないな」  晩ごはんを食べているとき、利枝子が何か思いついたように「誰か第三者を立てればええんやわ」と言った。私は嫌な予感がしたが、はたして彼女は「お姉さん、ひと肌脱いで」ときた。 「いやよ。なんで私があなたの恋愛の後始末までしなきゃあかんの」 「そんなこと言わんと、頼むわ。あたしの身内いうたら、お姉さんしかいてへんもん」 「勝手に身内呼ばわりせんといて」  しかし私は半分くらい引受ける気持に傾いていた。梅沢と彼の家を見てみたいと思ったからだ。利枝子は、やっぱりあかんかなあとつぶやいたが、すぐに「もしかお金が取れたら、四分六で分けるというのはどう」と言ってきた。 「よし、乗った」私は即座に答えた。  次の日私は梅沢の家に電話をした。出てきたのはお手伝いらしく、私が梅沢を呼んでほしい旨告げると、しばらくお待ち下さいという返事のあと、「若先生」という声が聞えてきた。その言い方がなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。そばで聞いていた利枝子が怪訝な顔をしたが、何でもないと私は首を振った。 「もしもし」と低い声が聞えてきた。 「梅沢俊樹さんですか」 「そうですが」 「わたくし、マリアの姉で、結城美保と申しますが、妹の妊娠のことで、お話があるのですが」  梅沢は黙り込んでしまった。私も黙って相手の出方を窺った。利枝子が私のブラウスの袖を引っ張ったが、相手をすると梅沢にこっちの真剣でない気配が伝わるような気がしたので、わざと知らん顔をした。 「それで一体どういう話なんですか」 「電話じゃなんですから、直接お会いしてお話したいのですが」 「電話じゃあきませんか」 「大事な話なので、直接会ってお話したほうがいいと思いますけど……」 「ちょっと待って下さい」  梅沢は電話から離れた。私は送話口を手で押え、利枝子に電話が終るまでちょっかいを出さないように言った。 「もしもし、お電話代わりました。わたくし、俊樹の母でございます。どういうご用件でございましょうか」  出てきたなと私は思った。 「私の妹がお宅の息子さんの子供を身龍っていることは、ご存じですね」 「あなたの妹さんと申しますと、お名前は何とおっしゃるのでしょう」 「結城利枝子です。北新地でホステスをやっていたとき、お宅の息子さんに気に入られて、一緒に住むようになったんです。同棲してたのはご存じでしょう」 「ええ、ええ、知っておりますとも、そんなみっともない真似はおやめなさいとわたくしがやめさせたんですの」 「そのときにどうも身寵ったようですね」 「息子はそんなはずはないと申しておりますが。きちんと避妊をしていたようですよ」 「ちょっと待って下さい」  私は送話口を手で押さえ、利枝子に梅沢が避妊をしていたかどうか尋ねた。相手がいやに落ち着いた物言いをするので、急に不安になったからだ。利枝子は「とんでもない」と目を見開いた。「コンドームもつけるのを嫌がって、いつつも抜き身やったんよ」  そのとき私はふと思いついて利枝子に、医師会のお偉方の名刺があれば持ってくるように言った。利枝子は隣の部屋に飛んでいき、バッグの中をひっかき回して、一枚の名刺を持ってきた。副会長のものだった。 「もしもし、お待たせしました」と私はその名刺を手にしてしゃべり始めた。「妹は、結婚するつもりやったから、全然避妊はしなかったと言っておりますが」 「息子が嘘をついているとでもおっしゃるのですか」 「いいえ。ただ事実を申上げているだけです」 「息子の話によりますと、妹さんは随分気の多いお方らしいですから、別の男の方のお子さんと違いますか」 「それも事実とは違います」 「とにかくわたくし共とは一切関係がございませんので、これで失礼させていただきます」  私はだんだん腹が立ってきた。 「妹のお腹の子がお宅の息子さんの子供かどうかは、生れてきてから調べてもらえば、はっきりしますから、その時点で認知してもらうなり、婚約不履行で訴えるなり、いろいろ手段を取りたいと思います。とりあえずは医師会副会長のNさんに相談したいと思います」 「Nさんをご存じですか」 「ええ」  少しの間、沈黙があった。 「わかりました」と母親が言った。「こちらでもう一度調べ直しまして、もしおっしゃったようなことが事実だとわかりましたら、こちらからお電話いたしますので、電話番号をお教えいただけますか」  番号を教えて、受話器を置いた。利枝子に事の次第を話すと、「さすがお姉さん、年の功やわ」と感心した。  三日後電話があり、日曜日に梅沢の家に出向くことになった。何を着ていこうかと迷ったが、和服を着ていくことにした。暑いけれども、そのほうが気持が引締まると思ったからだ。押し入れの下の衣装ケースから畳紙を引っ張り出して、母から譲り受けた藤色の紋紗の着物を着た。もらった当初は地味過ぎて着る気もなかったが、今では年齢にふさわしい落ち着きを与えてくれそうな気がする。利枝子が羨ましがって自分も着物を着たいと言ったが、肝腎の和服がないので、シルクのアフタヌーンドレスにした。  タクシーで梅沢の家に着いたときには、約束の時間よりも十分ほど遅れていた。利枝子が場所を知っているからと言うのでまかせていたら、同じ所を言ったり来たりするばかりでわからなくなってしまい、運転手が通りがかりの人に尋ねたのだ。  梅沢の家は五階建ての大きなビルで、四階と五階が住居になっているらしかった。「梅沢産婦人科」と書かれた自動ドアを入ると、中はしんとしていて人のいる気配はなかった。受付の窓にはカーテンが引いてあって、その上に、「御用の方はインターホンをお使い下さい」という表示があった。利枝子が「こっちにエレベーターがあるわ」と言ったが、すぐにそれに乗る気にはならず、試しにインターホンを押してみた。病院の受付用だからだめかなと思ったが、すぐに「どちらさまですか」という若い女性の声が聞えてきた。「結城利枝子のことで参った者ですが」と言うと、「え?……はい、しばらくお待ち下さい」とあわてた口調になり、受話器か何かを置く音に続いて「奥さま、来ました。来ましたよお」と遠くに向かって呼ぶ声が小さく聞こえてきた。  しばらくして聞き覚えのある声が響いてきた。「お待ちしておりました。階段横のエレベーターをお使いになって、四階にお越し下さい」  利枝子と一緒にエレベーターに乗り、四階で降りると、正面に上部が円形になった飾りドアがあった。ブザーもインターホンもないので、ノック用の金具を使った。「開いていますから、どうぞ」という声が聞え、ノブに手をかけようとしたとき、利枝子が私の袖をつかんで「あたしが入っても仕様がないから、ここで待ってよか」とささやいた。 「ここまで来て何言うてんの」と私は叱りつけ、一言もしゃべらなくてもいいから、黙って横に坐っているように言った。  ドアを開けると、ジーンズにTシャツという恰好の上に小さなエプロンをつけた若い女が立っており、私たちを見てぴょこんと頭を下げた。草履を脱いでスリッパに履きかえ、その女性の案内で応接間に入った。廊下にも絨毯が敷いてあり、応接間のは特に毛足が長かった。  ソファーに腰を下ろしてしばらくすると、白髪まじりの六十年輩の婦人が背の高い男をつれて入ってきた。婦人は細面できつそうな目をしており、小豆色の絽の着物に紗の袋帯を締めていた。男は眉が太く、目も鼻も大きかったが、全体にバランスが取れており、利枝子を見ると、歯を見せて笑った。隣の利枝子に目をやると、彼女は素知らぬ顔をしていたが、口許には笑いの名残りがあった。  婦人は男と並んで向かいのソファーに坐り、後から入ってきたエプロン姿の若い女に「アイスティをお出しして」と言った。「どうぞお構いなく」私は意識してゆっくりと言い、感情がこもらないように注意した。  アイスティが来るまで、相手も私たちのほうも一言も口をきかなかった。切り出し方がわからないのではなく、相手のほうが先に切り出すべきだと思っていたからだ。先に口をきいたほうが負けだというような気持だった。  お手伝いがアイスティを運んでき、婦人は「どうぞ」と私たちに言ってから、グラスを取った。私も利枝子もグラスに手を伸ばした。私は一口飲んだだけで置いたが、利枝子は一息に飲み干してしまった。 「それでは、お話を伺いましょうか」と婦人が口を開いた。 「まずはっきりさせておきますが」と私は切り出した。「妹のお腹の子供の父親が、そちらの息子さんだということはお認めになるわけですね」 「この子に糺しましたところ、避任をしたかどうか覚えがないと申しますものですから、疑われても致し方ございません」 「覚えがないのは当たり前や。全然避妊なんかしてへんのやから」と利枝子が横を向いて言い放った。「あなたは黙ってなさい」と私はたしなめた。 「疑われても仕様がないということは、認めるということですか」 「そういうことではございません。息子の子供かもしれないと言っているのです」 「どうしてもお認めにならないんですか」 「そう簡単には認めるわけにはまいりません」 「そうですか。それでは仕方ありません。別の人に相談してみます」  そう言って私は立ち上がろうとしたが、「ちょっとお待ち下さい」と婦人が制した。「先程から伺っておりますと、そちらの方を妹とお呼びになっておいでですが、お宅さまはそちらのお姉さまですか」 「……ええ、そうですが」 「それはおかしいですね。わたくしどもで調べましたところ、そちらの方はひとりっ子だと聞いておりますが」  私は顔が熱くなるのを感じた。動揺を悟られないように私はこちらを見ている婦人の目をじっと見返したが、その表情には別段優越感のようなものは表れてはいなかった。 「そちらの方のお名前は何とおっしゃいました?」  利枝子は私の顔を見、少しためらってから、「結城利枝子」と小声で言った。 「それもおかしいですね。前田鈴子というのが本当の名前ではないんですか」  私は利枝子を見た。 「何言うてんの。あたしの名前は結城利枝子やで。変ないちゃもんつけんといて」 「わたくしどもはね、興信所にお願いして調べてもらったんですよ。あなたの写真を持って、岡山の孤児院に行ってもらってね。俊樹、あそこにある封筒を持ってきなさい」  梅沢は立ち上がって、右奥にある書棚に行き、角型の大きい封筒を持ってきた。 「お姉さん、帰ろ」と利枝子が立ち上がったが、私は手首をつかんで再び坐らせた。  婦人は封筒を私に手渡した。表書きには何も書かれておらず、中には薄っぺらい紙が二枚と一枚の写真が入っているだけだった。写真には梅沢が利枝子の肩を抱いて写っていた。報告書は全部手書きで、本名、前田鈴子と確かに書いてあった。他に本籍地や福祉施設に入る前の住所、福祉施設の名前と住所等が記入してあった。施設に入る経過を書いた部分を読むと、五歳のときに両親を交通事故で失い、十四歳で叔母の家に引取られるまでの九年間を施設で過ごしたとある。新聞記事のコピーが貼ってあり、「行楽暗転、両親即死。子供は奇跡的に助かる」という見出しが見えた。 「これ、本当なの?」と利枝子にきいた。 「ほんとやったら、どうや言うの」 「どうして偽名なんか使ってるの」 「結城利枝子いう名前が気に入っているからやん」  婦人がおかしそうに笑った。 「何がおかしいの」利枝子は婦人に突っかかった。「偽名を使ったらあかんという法律でもあるっていうの。あたしはね、なんぼ調べられても、やましいところはこれっぽっちもないからね。それともうひとつ。お腹の子供は正真正銘あんたの息子の子供に間違いないからね。いくらぐちゃぐちゃ言うても、真実はひとつなんやから。あんたの息子の結婚式には、子供を連れて、あれがお父ちゃんよ言うて乗り込んだるわ」  梅沢はそれまで薄笑いを浮かべていたが、利枝子の啖呵を聞くと、すっと笑いが消えた。利枝子を見ていた婦人が私のほうへ顔を向け、どうしますというような目をした。 「彼女の言うようにしなければ、仕方がないみたいですね。それにいざとなったら認知の裁判を起すといった手も残ってるし……」  私は「それではこれで」と立ち上がり、利枝子も腰を上げた。婦人も立ち上がり、「わたしたちにどうしろとおっしゃるつもり。お金が欲しいの?」と強い口調で言った。 「お金を出すのは、認めたってことですね」 「手切金の用意はあります」 「いくら」と利枝子が口をはさんだ。何を言うのと私は思ったが、遅かった。 「いくら欲しいの」婦人が口許に笑いを浮かべた。 「二百万」利枝子は右手の人さし指と中指を立てた。 「五十万なら」 「そんなら百万でええわ」 「七十万までなら、なんとか出します」 「七十万?……よっしゃ、それで手打つわ」 「俊樹、お金と例の紙を持ってきなさい」と婦人が言い、梅沢はオーケーと答えて、部屋を出ていった。私たちは再びソファーに腰を下ろした。  梅沢は銀行名の入った封筒と薄っぺらな紙切れを手にして戻ってきた。婦人は封筒をテーブルの上に置き、「このお金をお渡しする前に、ひとつだけ条件があります」と紙切れを封筒の横に広げた。「この念書にサインをしてもらいたいのですが」  手に取って見ると、内容証明などに使う薄い和紙に和文タイプで「念書」と頭に打ってあり、身寵った子供は梅沢とは無関係であること、今後一切迷惑はかけないことが明記されていた。  利枝子はそれを読むと、「かんたん、かんたん」と梅沢から万年筆をもらって、「結城利枝子」と書いた。婦人が「本名も」と言い、利枝子はちょっとためらってから「本名前田鈴子」と並べて書入れた。 「念のため、ここに拇印を」と婦人が言い、利枝子は梅沢の用意した朱肉に右手の親指をつけて、名前の下に押した。  お金は最初利枝子が数え始めたが、途中で数がわからなくなったのか、私に任せた。ちょうどあることを確認してから、封筒ごと利枝子に返し、彼女はそれをバッグにしまうと、「終った、終った」と勢いよく立ち上がった。  梅沢が「下まで送っていくわ」と言って、ついてきた。エレベーターに乗ったところで「うまいことやったなあ」と笑いながら言った。 「どういう意味」と利枝子が突っかかる言い方をした。 「最初から生むつもりなんかあれへんのやろ」 「さあね、生むか生まないかは、あたしが決めることやからね」 「どうせ堕ろすんやろ。どうや、ここでおれがやったろか。安うしとくで」 「やめとくわ。手術ミスいう口実で殺されたら、元も子もあれへんもん」 「おまえも冗談きついなあ」 「血のつながった子供が、自分の知らないところで生れて育つというのはどんな気持?」  梅沢はふんと鼻で笑った。  病院を出てから、私は「自分の子供を自分で殺すなんてよく言えたものね」とエレベーターでの怒りを持越して、利枝子に言った。 「びびってんのよ。あんなふうに言うのも、その裏返し」 「そうかしら」 「あたしが随ろすかどうか知りたがったのも、そう」 「それでどうするつもり」 「そんなん決まってるやん。堕ろすしかあれへん」  しかし、利枝子はなかなか病院に行こうとはしなかった。私は気が気でなかったが、何も言わなかった。  それから六日たった土曜日の午後のことだった。私と利枝子は暑さのせいで外に出ていく気にもならず、昼寝をしていたが、小さく開けておいたドアをノックする音で目を覚ました。私は利枝子の真似をしてタンクトップにホットパンツという姿だったので出るのをためらったが、顔だけ出して応対することにした。  ドアの外には上着を手に持ったワイシャツ姿の中年男が立っていた。この暑いのに、ネクタイまで締めていた。 「何でしょうか」 「こちらに前田鈴子という者がご厄介になっとりませんでしょうか」  言いながら男は手に持った小さなタオルで額を拭った。 「どちらさまですか」 「わしは鈴子のおじで、小川基一と申す者ですが」 「ちょっとお待ち下さい」  私は引っ込んで、まだうつらうつらしている利枝子の肩を揺すった。 「おじさんがお見えになったわよ」  利枝子は薄く目を開けると、「だれ」と言った。 「小川基一とかいう、あなたのおじさんよ」 「知らないわ、そんな人。帰ってもろて」 「知らないの?」  利枝子は答える代わりに、私に背中を向けた。どうなってるのと思いながら私は玄関に戻り、顔だけ出して、「彼女、知らないと言ってますけど」と男に言った。 「そうですか、知らないと言っとりますか」  男は声を落して言ったが、突然大きな声で「すずこお」と私の頭越しに叫んだ。「去年の春、しげ子が死んだんじゃ。わしは今じゃあ、もうひとりぼっちじゃ。なあ、頼むから戻ってきてくれ。おまえの言うことなら、何でもきくけえのう」  私はびっくりして、誰か見ていないかと左右を見回してから、「ちょっとお待ち下さい」と男に言って、ドアを締めた。念のため、鍵もかけた。  利枝子はまだ背を向けて寝ていた。私は彼女の耳許に口を近づけ、「知ってる人でしょ。どうして会わないの」とささやいた。ドアを叩く音が聞え、「鈴子、ここを開けてわしの話を聞いてくれ」という男の声がした。利枝子が眠った振りをしていたのはわかっていたので、私は乱暴に彼女の肩を揺すった。利枝子は不意に私の手を払いのけて起上がると、「あたしは結城利枝子や。前田鈴子のことなんか知らんわ」と私にくってかかった。「あんなおっさん、見たこともないから、はよ追っ払ってえな」 「そんなこと言うのやったら、あなたが追っ払ったらいいでしょ」と私も負けずに言い返した。  男はドアを叩きながら、「この五年間、ずっとおまえを捜しとったんじゃ。頼むけえ顔を見せてくれ」と叫んでいた。利枝子は男の声など聞えないみたいに、煙草を取り出して火をつけ、深々と吸込んだ。そっちがその気ならと私も男がいないみたいに、テレビをつけ、冷蔵庫から麦茶を出し、キャンディボックスからクッキーをつまんで食べた。  十五分ほどたって、急に静かになった。利枝子は煙草をはさんでいる指の動きを止めたが、すぐにそれを灰皿に押しつけると、再び横になった。私は様子を見にいこうかと迷いながらテレビを見ていたが、決心する前にまた、ドアを叩く音がし、男の聞きとりにくい声が聞えてきた。 「うるさいなあ、もう」と利枝子がこちらに向き直り、ゆっくりと起上がった。彼女は鏡台のそばにあったバッグをつかむと、ホットパンツ姿のままサンダルをはき、ドアを開けた。 「鈴子かあ。……やっぱり鈴子じゃ。どうしとったんじゃ。長いこと捜したぞ。こげえにぼっこう痩せて、ちゃんとめし食っとるのか。しげ子が生きとったら……」 「ここじゃったらいけんから、よそで話そうや」と利枝子が男の言葉を遮るように言った。  ドアが閉まり、男の何か話す声が遠ざかっていった。玄関におりて、ドアを開け、二人の去った方向に目をやると、利枝子の裸の足がせわしなく動く後ろから、男がときどき早足になってついていくのが見えた。  その夜、利枝子はなかなか帰ってこなかった。私の用意した晩ごはんも無駄になってしまった。  利枝子が帰ってきたのは午前零時を少し回ったころだった。かなり酔っていて、上がるなり横になってしまった。私は彼女の横に夏ぶとんを敷き、その上にいくように肩を揺すったが、彼女は目を閉じたまま、動かなかった。諦めて揺するのをやめると、「みず」と言った。私はコップに水を入れて持っていき、その縁を利枝子の頬に当てた。彼女は目を開けて「ごめん」と言い、両手をついて上半身を起した。  利枝子は水を一息で飲み干すと、「お姉さん、もう寝るの」ときいてきた。 「そうよ。いけない?」私はすでにパジャマに着替えていた。 「あたしもそっちで寝たらあかん?」 「いいわよ」  私は敷いたばかりのふとんをベッドの横まで引っ張っていった。  縁側のガラス戸を三十センチばかり開けて寝た。私は昼間訪ねてきた男のことを考えると、なかなか寝つかれなかった。いっそのこと利枝子にきいてみようかと思ったが、差出がましい気がしてやめた。 「お姉さん、寝た?」不意に利枝子が言った。 「いいえ」 「きょうはごめんな。変なおっさんが来たりして」 「あの人、本当におじさんなの」 「おばのだんなやった人。あたしとは血のつながりあらへんねん」 「あなたを連戻しにきたみたいやったけど……」 「誰があんなやつのところに戻るかいな」  利枝子の語気に押されて、私は何も言うことができなかった。しばらく沈黙があって、二階の水洗便所を使う音が聞えてきた。 「あたしの本当の処女をとったん、あのおっさんなんよ」と利枝子が話し始めた。私は眠っていないことを教えるために、彼女のほうに寝返りを打った。 「施設から引取られたときから、おっさんの目つきがおかしかってんけど、急に大きな子供を持ったため、珍しがられてると思っててん。それが高校に入った春おばちゃんが留守の夜にいきなり奪われて、それでもあたし、こうやって面倒見てもろてんねんからと我慢したんや。そんなことが六カ月も続いたやろか、ある日とうとうおばちゃんに見つかってしもて、蝿たたきでぎょうさん叩かれてん。そやけど追い出されへんかったわ。その代わりおばちゃんの頭がおかしなってしもて、おばちゃんが病院に連れていかれる日にあたしも家を出たんよ」  私はなんと相槌を打てばよいかわからず、黙っていた。聞かないほうがよかったという気がちらとした。 「眠ったん?」と利枝子がきいた。 「ううん」そのとき私はあることを思いつき、「ちょっときくけど、お腹の子供、どうする気?」と尋ねてみた。 「もちろん堕ろすつもりやよ」 「生む気はない?」 「ええ?」 「生んでね、私たち二人で育てるのよ。どう、これ」 「………」 「いいと思わない? 男なんか関係なしで、女二人だけで育てるっていうのは」 「ほんとに大丈夫かなあ」 「大丈夫よ。保育園に入れられるようになるまでは、私の稼ぐお金とあなたの貯金で何とかやっていけるわ。それから先は二人で働いたら、子供の一人くらいわけないわよ。そこらへんの夫婦だって似たようなことして、やってるんだから」 「やってみよか」 「やろう、やろう」  私は本気だったが、利枝子も私に引きずられたとはいえ、本気であることに違いはなかった。次の日からぴたリと煙草をやめたし、何よりも表情が明るくなった。  日曜日には二人でデパートに行って、ベビー服売場を見て歩いたり、姓名判断の本を買ってきて、子供の名前を考えたりした。私たちはさんざん考えた末、私の思いつきから、男の子だったら「桐人」、女の子だったら「真利亜」という名前にした。もちろんキリストとマリアから取ったのだ。  だが、日がたつにつれ、私には自分たちのやっていることがなんら実感のない、幻のことのように思えてきた。利枝子にはお腹で赤ん坊が育っている実感があるので、そんな気配は微塵も見せず、重い物を持たないように注意したり、体を冷やさないように、寝るときもタオルケットではなくふとんをかけた。しかし一カ月たって、私の心配は的中した。  十月の始めのひんやりとした風が吹いた夕方、会社から帰ってくると、滅多に顔を合わせない隣の主婦が出てきて、利枝子が救急車で運ばれたことを告げた。どこの病院か尋ねると、「K医大と違うやろか」と近くの大学病院の名を上げた。部屋に入ると、中は新聞や雑誌が散らばっており、卓袱台にはコーラの空缶やコップが乗っていた。私は急いで彼女の下着やパジャマやバスタオルなどを紙袋に詰込んで、病院に向かった。  利枝子は四人部屋に入っており、私が行ったときには眠っていた。看護婦に尋ねると、流産でもう少し遅かったら母体も危なかったと言われた。利枝子が眠っているのは鎮静剤を注射したせいで、流産とわかってひどく泣きわめいたらしい。私はベッドの横にあった箱に腰を降ろし、利枝子の顔を覗き込んだ。目の周りが黒くなっており、持ってきたタオルで軽く拭いてやったが、きれいに取れず、そのままにしておいた。利枝子は疲れて汚れた顔にもかかわらず、ひどく幼く見えた。彼女の手を取って顔を眺めていると、不意に涙が溢れてき、私は上を向いて、ひとつ大きく深呼吸をした。  一週間ほどで利枝子はすっかり元気になり、「さあ、また仕事するで」と私に言った。その前におばの墓参りをしてくると言って岡山に行き、それから二回か三回私が会社に行っている昼間、岡山に日帰りをしたらしかった。おじという男に会っているのかと思ったが、何もきかなかった。  十日ほどたった日曜日、利枝子は私に岡山に一緒に行ってくれへんかと言い、わけを尋ねると、今度墓を立てたから見てほしいと言うのだった。 「お墓? どうしてまたそんなこと思いついたの」 「おばちゃんの墓に参ったついでに、あたしの家の墓地も見てきてん。そしたら、両親の卒塔婆は腐ってるし、草ぼうぼうで、無縁墓地にするいう札が立ってたんよ。こりゃいかん思うて、役所に行って交渉して、草むしりして、墓石も注文したんよ。どうせ流産したから、子供を育てる金もいらへんようになったやろ。それを使うたんよ」  岡山駅からタクシーに乗り、町中のちっぽけな寺に行った。境内の半分はガレージになっており、本堂の柱には雨のしみが模様になっていた。住職は七十過ぎの老人で、私たちを見ると、「おふたりだけですけえのう」と驚いた顔をした。  住職と三人でタクシーに乗り、岡山市の東にある共同墓地に向かった。墓地は小高い山の中腹にあり、そこからは市内が見渡せた。私たちは墓と墓の間の細い道を歩き、せまい石の階段を上がって、ある一郭にたどりついた。そこだけ周囲と違って小さな真新しい砂利が敷いてあり、黒っぽい墓石が光っていた。「これは立派な墓じゃ」と住職がうなずいた。 「だいぶ高かったでしょう」と私が言うと、「すっからかん。もっと安いやつもあってんけど、これを見たとき一目で気に入って、墓屋のおっちゃんにまけてもろてん。墓石ねぎる人は初めてや言われたわ」と利枝子は答えた。住職もおかしそうに笑った。  墓には「前田家先祖代々之墓」とあり、横には両親の名前と同じ没年月日が刻んであった。そしてその横にはさらに「桐人」いう文字もあった。利枝子を見ると、彼女は笑っており、「水子供養のつもりなんよ」と舌を出した。  利枝子がいなくなったのは、それから三日後のことだった。勤めから帰ってみると。卓袱台が出してあり、その上に紙切れが乗っていた。 「姉さん、ごめんなさい。都合で東京に行くことになりました。挨拶をしていこうと思いましたが、時間がないのでこのまま行きます。二、三日したら変な男がやってくると思いますが、あたしのことは出ていったきり、連絡がないということで突っぱねて下さい。それで大丈夫です。住むところが決まったら、知らせます。本当に突然でごめんなさい。マリア」  私は最初利枝子が仕事か何かで東京に行ったものとばかり思い込んで、ここを出ていったとはなかなか飲み込めなかった。しばらくして、ひょっとしたら出ていったのかもしれないと気づいて、彼女のファンシーケースを開けてみると、全部はなくなっていなかったが、彼女のお気に入りの服が何点かなくなっており、下着も大半はなくなっていた。鏡台の中の化粧品も半分以上は消えていた。私は部屋の中を歩き回り、しまいにはベッドに横たわった。  二日後、確かに変な男がやってきた。会社から帰ってドアを開けようとしたら、突然建物の陰から男が出てきて、私の手首をつかんだ。三十前後の目の引っ込んだ男だった。 「マリアはどこにいてるねん」静かな言い方だった。 「知りません。おととい突然出ていったきり、何の連絡もないんです」 「どこいく言うてた」 「それも聞いてません」 「ほんまやろな」 「嘘はつきません」  男はようやく手を離した。 「あの子が何かしたんですか」 「あのがき、トルコで働く言うて、支度金五十万ふんだくって逃げよったんや」  私は部屋の中に入りたくても、入れなかった。男が一緒に入ってきそうな雰囲気だったからだ。男は体を引いて私の全身を目でなめ回し、「話は変わるけど、姉ちゃん、ええ体してるなあ。どや、トルコで働いてみる気はないか」と言った。 「結構です」 「今なんぼもうてんのん。せいぜい二十万やろ。トルコやったら、その五倍はかせげるで。どや、ぜいたくしてみたいと思えへんか」 「思いません」 「そんなにかとならんでも、ええやんか」と男は私の肩をもむようにした。  そのとき、向こうの道路を自転車で横切る警官が見えた。 「吉田さーん」と私は叫んだ。警官は自転車を止め、こちらを見た。私は右手を上げて、手招きをした。警官は自転車にまたがって、やってきた。 「どうかしましたか」と警官は私と男を交互に見やりながら尋ねた。 「この人がマリアの行方を教えてほしいって言うてはんねんけど」 「マリアさん、どうかしましたか。何か事件ですか」 「事件かどうかはこの人に聞いて下さい」 「いや別に。おれはマリアに仕事をすっぽかされたから、どうなってるのか様子を見にきただけで。それじゃこれで失礼しますわ。どうもおおきに」  男は片手を振りながら、ちょっと後ずさりし、それからくるっと向き直ると、大股で去っていった。 「いいんですか」と警官が言い、「ええ、いいんです」と笑いながら私は答えた。  利枝子からの便りは全然来ず、私は新聞やテレビで、ホステス殺しやトルコ嬢殺しの記事が出るたびに、利枝子ではないかと熱心に読んだり、見たりした。だが顔写真が載る場合以外は、利枝子じゃないと確信することは難しく、何度かの記事では利枝子かもしれないと思うこともあった。  しかし一年後、ブラジルから航空便が届き、利枝子が生きているのがわかった。 「お姉さん、お元気ですか。あたしも相変わらず元気でやっています。東京でクラブに勤めていたときに、世界人類救霊教会の牧師さんに会い、その人と一緒にブラジルのサンパウロに来ています。ブラジル各地を布教のために回るのです。あたしの乗ってる車は何と思いますか。リンカーンのコンチネンタルという馬鹿でっかい車です。もちろん古い型ですけど。日本車もありますけど高くて手が出ないんです。リッター二キロくらいしか走らず、金をばらまいて走っています。インフレがすごいですけど、まだまだガソリンが安いので、やっていけるんです。お便り下さい。待ってます。マリア」  私は早速返事を書いた。だけど利枝子の手紙に書かれてある住所が判読しにくくて、大体こういう文字だろうとアルファベットを当てはめて宛先を書き、投函したが、それに対する返事は来なかった。  半年後、私は小さなマンションに引っ越した。そのときも利枝子あてにアルファベットをいくつか変えて、転居通知を何通か送ったが、やはり返事は来なかった。ただブラジルはあまりにも遠過ぎて、心配する気も起らないのが、私には幸いというべきだった。